2025/09/19 Fri 白猫、発情の巻 黒鋼が夜のバイトへ行ってしまうと、また留守番だった。 もう慣れたとはいえやはり少し寂しくて、しかも今日はどうも身体が熱くてだるい。 そして妙に不安で、落ち付かなかった。 いつもは一人でいたってこんなことはないのに。風邪でも引いたのだろうか。 「でも……なんか違うようなー……」 ファイは考える。なんとなく、この感じには覚えがあるような気がしていた。それは風邪の症状と一致しない。なんだっけ……と考えようとするけれど、頭がぼんやりしてうまく働かなかった。 急に暖かくなったから、いまいち体温調節がうまくいかないのだろうか。 ファイは籠る内熱に耐えかねて、カーテンを開くと窓を開けた。昼間より少し冷たい風が頬を撫でるのが気持ちよくて、ふっと小さく息をつく。 「あ」 そのときだった。 「また……あの匂いだ……」 花のものとも、草木のものとも違う。 砂糖菓子を連想させるような甘い香りではないのに、なぜか言葉で表そうとすると甘ったるいイメージしか湧かない。 完全に猫だった頃と比べると、人間の鼻はファイには鈍く感じられて、すんすんと懸命に吸いこむけれど判断に困った。 そのときだ。遠くで、微かに声がした。 「……?」 ぎゃおーん……ぎゃおーん…… 「ぎゃおん?」 白い耳をピンと立てて、窓の縁に手をつくと身を乗り出した。そしてさらに耳を澄ませてみる。 それは本当に小さな声で、ずっとずっと遠くから聞こえていた。 だがファイにはそれで十分だった。 「!?」 とたんに真っ青になり、慌てて窓とカーテンを閉じると、わたわたと部屋の片隅に逃げ込んだ。 「や、や、やば……!! 忘れてたー!!」 身体を丸めるようにして抱きながら、ファイは震えた。 そうだ。あの独特の香り。独特の獣の声。 あれは、発情したメスのものだ……! だけどどうして? 人間の世界の猫といえども、猫であることに代わりはないのだから、そりゃあ発情くらいするだろう。 メス猫の放つフェロモンは、どんなに遠く離れていたとしても香ることはある。 だがファイははっきり言って枯れているも同然だったから、猫の国にいてその時期が来ても、いつしか全く反応しなくなっていたはずなのだ。 だが今のこの感覚には、確かに覚えがある。 これは、風邪などではない。 「……なんで……どうして急に……?」 ファイは発情していた。 そうと気づかずにメス猫のフェロモンを感知して、そうと知らないうちに、誘発されていたのだ。 ずっと燻るだけだったそれは、自覚してしまったことで静けさを失った。 身体の奥に火が灯ったような、ざわざわとした寒気にも似た震えが、尻尾の先から背筋を這いあがって来る。 心臓が耳のすぐ側にあるかのように大きな音を立てる。息苦しくて、口で呼吸しなければ追いつかない。 (どうしよう……どうしよう……) ずっと平気だったのに。しかもなぜほぼ人間である今の姿で、このようなことになるのだろう。 混乱して我を失いそうになる。こうなるのが嫌で、ずっと恐れていたのに。 「どうしよう……黒たん……」 呟いてからはたと気付いた。 どうして今、黒鋼に助けを求める必要があるのだろう。 彼にはどうしようもできないし、突然こんなことになってしまった原因だって、分かるはずがない。 こんなときには真っ先にユゥイの名前が浮かぶはずなのに、たった今この唇から漏れだしたのは黒鋼の名だった。 ファイは咄嗟に、先刻そうして見せたように黒いジャージの胸元を両手で掴むと、顔に引き寄せた。 そうだ。今、この暮らしの中で最も近い人間が黒鋼だからだ。 いつだって彼の香りはファイを安心させる。 同じ床で眠ってくれなくなってからも、この匂いに包まれていたからこそ、一人寝だって平気だった。 きっともうあの腕の中で眠ることはないけれど、それでもいつも傍にいるみたいで安心できた。 だから思い切りそれを吸い込んで、自分を落ち着かせようとした。 そうすればすぐに元に戻るだろうと。いつもみたいに眠たくなって、どうでもよくなるだろうと。 だがその瞬間、なぜかどうしようもなく胸が締めつけられて、泣きたくなった。 治まるどころか内側に蓄積される熱は膨らむばかりだ。 視界が霞むのはファイの瞳が潤んでいるせいなのか、それとも頭の中が煮えたぎって、高熱を発したようになっているからなのか。 こうなってようやくユゥイに助けを求めることも考えた。テーブルの上の携帯電話に手を伸ばそうとするけれど、身体が思うように動かない。 熱くて熱くて、ファイは荒い呼吸を繰り返しながら、無意識に両膝を擦り合わせる。 そして身体の中心に違和感を覚えた。 「ぃ、た……ッ」 痛くて、苦しい。 わけもわからずそこに手を伸ばして、そして息を飲んだ。 「……ッ!?」 服の上からでも分かる。性器が硬くなっていた。 人間の身体の仕組みなど知りもしないファイは、震えながらさらに身体を丸めた。 だがそれは、普段は気にならないはずの服や内腿の摩擦にすら反応して、ビリビリとした感覚をもたらす。 「く、ろ……」 ああ、やっぱりこの口から洩れる名は彼のものだ。 胸が痛くて、うまく呼吸が出来ない。 黒鋼の匂いが染みついた部屋で、黒鋼の匂いが染みついた服を着て。 あれだけ気になっていた甘い香りが、今は遥かに遠い。ファイの中は黒鋼だけで埋まりきっていた。 もう何も考えられない……。 ぷっつりと糸が切れるような音を聞いた。そしてどろりと、思考が溶ける。 「くろ、たん、ぁ……、黒たん……好き、好きだよ……大好き……ッ」 そうだ。この香りが好きだ。あの人が好きだ。好きで好きで、こんなにも狂いそうなほど。 今、どうしようもなく触れたくて、そして触れてほしくて仕方が無い。 こんな『好き』は知らない。切なくて苦しくて涙が出る、こんなにも辛い『好き』は。だけど。 (本当に?) 僅かに残る思考の欠片。自らへの問いかけ。 (本当に、知らないのかな……?) 頭の中がドロドロに溶けて、流れ出してしまうような気がした。 微かに残っている生理的な恐怖も、全身を支配する甘い痺れの前に意味はなかった。 そっとウエストから両手を忍ばせて、硬く、そして熱くなっている性器に触れる。 「あっ! あっ、ぃ……ッ」 触れただけで身体がビクビクと跳ねた。 熱が一層増して、もどかしさに足をばたつかせる。下に纏っているものが邪魔で、一瞬腰を浮かせると膝の辺りまで下げた。 「ぁ、や……これ、なに……」 明かりの下に姿を現した性器は、真っ赤に腫れあがっていた。先端が濡れて光っている。 怖かった。それなのに手が止まらない。両手で握ったまま、何かに突き動かされるようにゆるゆると擦る。 まるでこの身体が自分のものではないような感覚だった。 見えない糸に操られているような、それでも今のファイに唯一はっきりと理解できることは、これはとても『悪いこと』だ、ということだった。 しかしそう思えば思うほど止まらなくて、擦る度に強烈な電流が全身を駆け巡った。 毛の逆立った尻尾が、無意識に乱暴な音を立てて畳みの床を叩く。 「ふぁ、あッ、だ、め……きちゃ……ッ、なにか、あっ、黒、た……ッ」 自分のものとは思えない、甘ったるい声が遠くに聞こえる。 言いようのない鋭く大きな感覚が押し寄せて、ファイは背を反らすと目を見開いた。 「ッ――!!」 一際大きく、白い尾が床を叩いた。そして次の瞬間、ピンと伸びて硬直する。 身体が、ずっと高い場所へ放り投げられたかと思ったら、一瞬で地面に叩き落とされたような感覚。 同時に性器から、爆ぜるように何かが飛び出した。 瞬間的にどうすることもできず、ファイはただ声もなく身体を丸め、激しい痙攣を繰り返した。 「はっ……はぁ……ッ、ぁ、ぁ……」 忙しない呼吸を繰り返しながら、全身が弛緩していく。身体が、いまだに甘く痺れていた。 だがそんな余韻に浸る間もなく飛び上がった。 「!?」 両手の平と、内腿が白いもので汚れている。 飛沫を上げたかのようなそれは、ジャージの腹の辺りにまで飛び散っていて、一瞬にして青褪めた。 「ッ……」 ぬるついたそれは、指の隙間に糸まで引いていた。 これまでとはまた違った意味で、身体が震える。 幸い畳みは汚れてはいなかったものの、頭の中を整理しきれないでいるファイにとって、それはさしたる救いにもなりはしなかった。 ←戻る ・ 次へ→
黒鋼が夜のバイトへ行ってしまうと、また留守番だった。
もう慣れたとはいえやはり少し寂しくて、しかも今日はどうも身体が熱くてだるい。
そして妙に不安で、落ち付かなかった。
いつもは一人でいたってこんなことはないのに。風邪でも引いたのだろうか。
「でも……なんか違うようなー……」
ファイは考える。なんとなく、この感じには覚えがあるような気がしていた。それは風邪の症状と一致しない。なんだっけ……と考えようとするけれど、頭がぼんやりしてうまく働かなかった。
急に暖かくなったから、いまいち体温調節がうまくいかないのだろうか。
ファイは籠る内熱に耐えかねて、カーテンを開くと窓を開けた。昼間より少し冷たい風が頬を撫でるのが気持ちよくて、ふっと小さく息をつく。
「あ」
そのときだった。
「また……あの匂いだ……」
花のものとも、草木のものとも違う。
砂糖菓子を連想させるような甘い香りではないのに、なぜか言葉で表そうとすると甘ったるいイメージしか湧かない。
完全に猫だった頃と比べると、人間の鼻はファイには鈍く感じられて、すんすんと懸命に吸いこむけれど判断に困った。
そのときだ。遠くで、微かに声がした。
「……?」
ぎゃおーん……ぎゃおーん……
「ぎゃおん?」
白い耳をピンと立てて、窓の縁に手をつくと身を乗り出した。そしてさらに耳を澄ませてみる。
それは本当に小さな声で、ずっとずっと遠くから聞こえていた。
だがファイにはそれで十分だった。
「!?」
とたんに真っ青になり、慌てて窓とカーテンを閉じると、わたわたと部屋の片隅に逃げ込んだ。
「や、や、やば……!! 忘れてたー!!」
身体を丸めるようにして抱きながら、ファイは震えた。
そうだ。あの独特の香り。独特の獣の声。
あれは、発情したメスのものだ……!
だけどどうして?
人間の世界の猫といえども、猫であることに代わりはないのだから、そりゃあ発情くらいするだろう。
メス猫の放つフェロモンは、どんなに遠く離れていたとしても香ることはある。
だがファイははっきり言って枯れているも同然だったから、猫の国にいてその時期が来ても、いつしか全く反応しなくなっていたはずなのだ。
だが今のこの感覚には、確かに覚えがある。
これは、風邪などではない。
「……なんで……どうして急に……?」
ファイは発情していた。
そうと気づかずにメス猫のフェロモンを感知して、そうと知らないうちに、誘発されていたのだ。
ずっと燻るだけだったそれは、自覚してしまったことで静けさを失った。
身体の奥に火が灯ったような、ざわざわとした寒気にも似た震えが、尻尾の先から背筋を這いあがって来る。
心臓が耳のすぐ側にあるかのように大きな音を立てる。息苦しくて、口で呼吸しなければ追いつかない。
(どうしよう……どうしよう……)
ずっと平気だったのに。しかもなぜほぼ人間である今の姿で、このようなことになるのだろう。
混乱して我を失いそうになる。こうなるのが嫌で、ずっと恐れていたのに。
「どうしよう……黒たん……」
呟いてからはたと気付いた。
どうして今、黒鋼に助けを求める必要があるのだろう。
彼にはどうしようもできないし、突然こんなことになってしまった原因だって、分かるはずがない。
こんなときには真っ先にユゥイの名前が浮かぶはずなのに、たった今この唇から漏れだしたのは黒鋼の名だった。
ファイは咄嗟に、先刻そうして見せたように黒いジャージの胸元を両手で掴むと、顔に引き寄せた。
そうだ。今、この暮らしの中で最も近い人間が黒鋼だからだ。
いつだって彼の香りはファイを安心させる。
同じ床で眠ってくれなくなってからも、この匂いに包まれていたからこそ、一人寝だって平気だった。
きっともうあの腕の中で眠ることはないけれど、それでもいつも傍にいるみたいで安心できた。
だから思い切りそれを吸い込んで、自分を落ち着かせようとした。
そうすればすぐに元に戻るだろうと。いつもみたいに眠たくなって、どうでもよくなるだろうと。
だがその瞬間、なぜかどうしようもなく胸が締めつけられて、泣きたくなった。
治まるどころか内側に蓄積される熱は膨らむばかりだ。
視界が霞むのはファイの瞳が潤んでいるせいなのか、それとも頭の中が煮えたぎって、高熱を発したようになっているからなのか。
こうなってようやくユゥイに助けを求めることも考えた。テーブルの上の携帯電話に手を伸ばそうとするけれど、身体が思うように動かない。
熱くて熱くて、ファイは荒い呼吸を繰り返しながら、無意識に両膝を擦り合わせる。
そして身体の中心に違和感を覚えた。
「ぃ、た……ッ」
痛くて、苦しい。
わけもわからずそこに手を伸ばして、そして息を飲んだ。
「……ッ!?」
服の上からでも分かる。性器が硬くなっていた。
人間の身体の仕組みなど知りもしないファイは、震えながらさらに身体を丸めた。
だがそれは、普段は気にならないはずの服や内腿の摩擦にすら反応して、ビリビリとした感覚をもたらす。
「く、ろ……」
ああ、やっぱりこの口から洩れる名は彼のものだ。
胸が痛くて、うまく呼吸が出来ない。
黒鋼の匂いが染みついた部屋で、黒鋼の匂いが染みついた服を着て。
あれだけ気になっていた甘い香りが、今は遥かに遠い。ファイの中は黒鋼だけで埋まりきっていた。
もう何も考えられない……。
ぷっつりと糸が切れるような音を聞いた。そしてどろりと、思考が溶ける。
「くろ、たん、ぁ……、黒たん……好き、好きだよ……大好き……ッ」
そうだ。この香りが好きだ。あの人が好きだ。好きで好きで、こんなにも狂いそうなほど。
今、どうしようもなく触れたくて、そして触れてほしくて仕方が無い。
こんな『好き』は知らない。切なくて苦しくて涙が出る、こんなにも辛い『好き』は。だけど。
(本当に?)
僅かに残る思考の欠片。自らへの問いかけ。
(本当に、知らないのかな……?)
頭の中がドロドロに溶けて、流れ出してしまうような気がした。
微かに残っている生理的な恐怖も、全身を支配する甘い痺れの前に意味はなかった。
そっとウエストから両手を忍ばせて、硬く、そして熱くなっている性器に触れる。
「あっ! あっ、ぃ……ッ」
触れただけで身体がビクビクと跳ねた。
熱が一層増して、もどかしさに足をばたつかせる。下に纏っているものが邪魔で、一瞬腰を浮かせると膝の辺りまで下げた。
「ぁ、や……これ、なに……」
明かりの下に姿を現した性器は、真っ赤に腫れあがっていた。先端が濡れて光っている。
怖かった。それなのに手が止まらない。両手で握ったまま、何かに突き動かされるようにゆるゆると擦る。
まるでこの身体が自分のものではないような感覚だった。
見えない糸に操られているような、それでも今のファイに唯一はっきりと理解できることは、これはとても『悪いこと』だ、ということだった。
しかしそう思えば思うほど止まらなくて、擦る度に強烈な電流が全身を駆け巡った。
毛の逆立った尻尾が、無意識に乱暴な音を立てて畳みの床を叩く。
「ふぁ、あッ、だ、め……きちゃ……ッ、なにか、あっ、黒、た……ッ」
自分のものとは思えない、甘ったるい声が遠くに聞こえる。
言いようのない鋭く大きな感覚が押し寄せて、ファイは背を反らすと目を見開いた。
「ッ――!!」
一際大きく、白い尾が床を叩いた。そして次の瞬間、ピンと伸びて硬直する。
身体が、ずっと高い場所へ放り投げられたかと思ったら、一瞬で地面に叩き落とされたような感覚。
同時に性器から、爆ぜるように何かが飛び出した。
瞬間的にどうすることもできず、ファイはただ声もなく身体を丸め、激しい痙攣を繰り返した。
「はっ……はぁ……ッ、ぁ、ぁ……」
忙しない呼吸を繰り返しながら、全身が弛緩していく。身体が、いまだに甘く痺れていた。
だがそんな余韻に浸る間もなく飛び上がった。
「!?」
両手の平と、内腿が白いもので汚れている。
飛沫を上げたかのようなそれは、ジャージの腹の辺りにまで飛び散っていて、一瞬にして青褪めた。
「ッ……」
ぬるついたそれは、指の隙間に糸まで引いていた。
これまでとはまた違った意味で、身体が震える。
幸い畳みは汚れてはいなかったものの、頭の中を整理しきれないでいるファイにとって、それはさしたる救いにもなりはしなかった。
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