2025/09/19 Fri ファイ、にゃんこにバイバイの巻 案の定、降りだした雨は夜になる頃にも止まずに、優しく降り続けていた。 どうせ朝にはいつだって同じ布団の中で目を覚ますけれど、それでも律儀に敷かれた二組の布団をぴったりとくっつけて、その境目で向かい合った二人はゆったりとした口付けを交わし合っていた。 シャツのボタンを一つ一つ外されていくのを感じながら、ファイは窓ガラスを緩く叩いている雨音に耳を傾ける。 (懐かしい……) あの日、初めてこの世界に来た日。もし雨が降らなかったら。 もし迷子にならずに、故郷への帰り道を探しあてることができていたら。 今こうしていることは決してなかった。ましてや人間になりたいなんて、どう引っくり返ろうが考えもしなかっただろう。 ただ長閑で平和なだけの世界で、何の刺激もないまま、退屈を持て余しながら今も猫として生きていたはずだ。 それはそれでとても幸せなことで、退屈ではあってもユゥイや仲間たちがいれば、寂しくはない。 なのに、今の暮らしとは対極であるその世界を考えると、ファイは酷く恐ろしくなった。 「なに考えてんだよ」 雨音に耳を澄ましながらぼんやりとしていたファイは、黒鋼の唇が離れていたことにも気がつかなかった。 問いかけと一緒にぎゅっと鼻を摘まれて、おかしな悲鳴を上げてしまった。 「うにゃー! いたいよーっ」 「余裕かこら、てめぇ」 「違うってー」 声を上げて笑いながら、その首に両腕を回して硬い黒髪にキスをした。 人間になってから嗅覚は弱くなったけれど、彼の匂いはこれから先もずっと変わらず大好きだと思う。 本当は、耳も尻尾もない状態でする『セックス』は、まだちょっとだけ慣れない。 なぜなら、感覚を逃がすことが出来ないから。感情の機微を表すためのそれらが消えて、全てがこの身体の中にグルグルと留まる。 何もかもが剥きだしになるような気がして、不安になるのだ。 それでも一人じゃないと感じられるのは、大きくて優しい、大好きな人が抱きしめてくれるからだった。だからなにも心配せずに、身を委ねることができた。 猫の国にはたくさんの猫がいた。ユゥイがいた。 今、ファイが生きると決めたこの世界には、まだ黒鋼しかない。 それでも多くの仲間が傍にいても得られなかった幸せが、ファイの手の中にある。 でも多分、それだけじゃダメなのだとファイは思い始めている。 +++ 「お、やってるな」 春休みが終わって、黒鋼は昼間の短期のバイトを辞めた。 学校へ行く支度を終えて洗面所から戻ってきた黒鋼が、テーブルに向って指先を震わせるファイの手元を覗きこんでくる。 「う、う、うん、ちょっと、話、かけ、ない、で」 ファイの右手には箸が形よく握られていて、テーブルの上には二枚の皿が並べられていた。 片方に豆が幾つも乗せられていて、その一つ一つを摘まんでは隣の皿に移すことで、箸の使い方を練習をしていたのだ。 今、震える二本の箸の先には豆がしっかりと摘ままれていて、ファイも黒鋼もその一瞬に息を飲んだ。 コロン 「お!」 「出来たー!」 最後の一つが音を立てて皿の上に乗った。 「3分! 3分で10個だよ黒たん! 昨日は5分だったー!」 ファイは万歳をする。黒鋼の大きな手が、金髪をぐしゃぐしゃと撫でた。 「たいしたもんだ」 「えへへー」 褒められると嬉しいけど恥ずかしくて、ファイは頬を少し桜色に染めてはにかんだ。 今、ファイは様々なことを勉強中だった。 日常生活や人間社会へ出る上でのルールは勿論、基本的な一般教養も身に付けたほうがいいだろう、ということになったのだ。 ファイはどちらかと言えば漢字と睨めっこをするよりも、数字を追いかける方が好きだった。あと、化学式というものを覚えるのが楽しい。 時々勉強を見に来てくれるユゥイは「ファイは理数系だね」と言って、嬉しそうに笑っていた。 そのうちあの怪しげな魔法の研究を手伝わせる気満々らしい。 「今日の夜ご飯は何がいいー?」 出かけようとする黒鋼をよたよたと歩いて玄関先まで送りながら、ファイは小首を傾げながら聞いた。 すると彼は靴をはきながら苦笑する。 「玉子焼きだろ?」 「うん!」 「砂糖は入れるなよ」 「はぁい!」 ファイは最近、少しずつ料理の勉強もしている。 目玉焼きとスクランブルエッグと厚焼き玉子をマスターしたため、ここのところ食事といえば、もっぱら玉子料理だった。 現段階ではどうせレパートリーは少ないくせに、それでも晩のおかずを聞いてくるファイがツボにハマって仕方ないらしい黒鋼は、無表情ではあるが上機嫌でファイに手を伸ばす。 項に温もりが触れて、引き寄せられるまでもなくファイは彼の肩に手をついて、目を閉じた。 いってらっしゃいのキスをしたら、今度は玄関から出ていく黒鋼を追うようにして、窓辺に寄って外を覗く。 階段を下りて歩道に出た黒鋼がこちらを見上げて、少しだけ口元を綻ばせながら手を上げる瞬間が好きだった。 ファイはそのまま、彼の背中が見えなくなってもずっと外の景色を眺めていた。 +++ 一晩中静かに降り続けていた雨は止み、澄んだ青空がどこまでも広がっていた。 緑の少ない、大きな家やコンクリートの建物が目立つ景色。電柱は電線で繋がれて、小鳥たちは木の枝ではなく、その太い線の上に並んで羽を休めている。人の嗅覚でも車の破棄ガスは嫌なもので、騒音もまた同じだった。 広すぎる世界は、決して美しいものばかりではなかった。 ファイは、汚いものも恐ろしいことも残酷なことも、辛いことも苦しいことも、もっとたくさんのことを知ろうと思った。 それと同じくらい、楽しいことも嬉しいことも、もっともっと知りたい。黒鋼の傍で。 多分、幸せなだけではダメなのだと、ファイは思う。 一緒に生きていくことを選んでくれた、たった一人の人を幸せに出来るのも、自分だけのはずだから。 頼ったり守られたりするだけではなく、いつか黒鋼にも頼ってもらえるような、そんな強い自分になれたらいい。 まだまだ出来ないことや、知らないことの方が多い未熟者ではあるけれど、きっとこれからもっとたくさんのことを覚えて、たくさんの人に出会って、そこからまた世界が広がっていくのだと思う。 そんな広すぎる世界でファイは黒鋼を、そして黒鋼はファイを選んでくれた。 本当ならお互いの存在を知ることすらなかったはずのふたりには、0を100に変えるだけの力が、きっとあるから。 (あ、ボス猫だ) ふと見れば、窓のすぐ下の塀の上を灰色のボス猫が優雅に歩いていた。 猫にはタイムスケジュールがあるらしいので、ファイは声をかけたい気持ちをぐっと堪えた。 けれどボス猫は、足を止めてファイのいる窓を見上げた。 「なーご」 彼は野太い声で鳴いた。 愚か者の化け猫と罵られているのか、それとも食べ物を寄こせとでも言っているのか。 いずれにしろ、彼の言葉はもうファイには届かない。 あの白く尖った耳を失ったときから、不思議と猫の言葉が理解できなくなってしまった。 ボス猫はただファイをじっと見つめて、それからすっと目を細めると、もう一度だけ太い声を上げる。 まぁ頑張れよ、なんて言ってくれていたら嬉しいな、なんて思う。 実際のところはさっぱり分からないけれど、それでもファイは「うん!」と強く頷いた。 そう、今日も勉強。明日も勉強。黒鋼が帰ってきたら塩と砂糖を間違えないように、分厚い玉子焼きを焼く。今日は絶対に失敗しない。 覚えること、練習することがたくさんある。前のようにテレビを見たり、散歩をしたり、昼寝をするだけの生活とはお別れしたのだ。 ファイは今、短い時の中を懸命に生きている。 今日一日だけでも、びっしりとスケジュールが詰まっているのだから。 「だからそんなに見つめられても、オレには遊んでる暇がないの」 何もない小さな世界で、退屈を持てあましていた白猫に。 暗くて冷たい雨の中、ゴミ箱の下で震えていた白猫に。 恋を知って、切なさを知って、永遠を手放した白猫に。 「バイバイ、にゃんこ」 少し寂しい気もしたけれど、ファイは去っていくボス猫に笑顔で小さく手を振った。 終わり ←戻る ・ 次へ→
案の定、降りだした雨は夜になる頃にも止まずに、優しく降り続けていた。
どうせ朝にはいつだって同じ布団の中で目を覚ますけれど、それでも律儀に敷かれた二組の布団をぴったりとくっつけて、その境目で向かい合った二人はゆったりとした口付けを交わし合っていた。
シャツのボタンを一つ一つ外されていくのを感じながら、ファイは窓ガラスを緩く叩いている雨音に耳を傾ける。
(懐かしい……)
あの日、初めてこの世界に来た日。もし雨が降らなかったら。
もし迷子にならずに、故郷への帰り道を探しあてることができていたら。
今こうしていることは決してなかった。ましてや人間になりたいなんて、どう引っくり返ろうが考えもしなかっただろう。
ただ長閑で平和なだけの世界で、何の刺激もないまま、退屈を持て余しながら今も猫として生きていたはずだ。
それはそれでとても幸せなことで、退屈ではあってもユゥイや仲間たちがいれば、寂しくはない。
なのに、今の暮らしとは対極であるその世界を考えると、ファイは酷く恐ろしくなった。
「なに考えてんだよ」
雨音に耳を澄ましながらぼんやりとしていたファイは、黒鋼の唇が離れていたことにも気がつかなかった。
問いかけと一緒にぎゅっと鼻を摘まれて、おかしな悲鳴を上げてしまった。
「うにゃー! いたいよーっ」
「余裕かこら、てめぇ」
「違うってー」
声を上げて笑いながら、その首に両腕を回して硬い黒髪にキスをした。
人間になってから嗅覚は弱くなったけれど、彼の匂いはこれから先もずっと変わらず大好きだと思う。
本当は、耳も尻尾もない状態でする『セックス』は、まだちょっとだけ慣れない。
なぜなら、感覚を逃がすことが出来ないから。感情の機微を表すためのそれらが消えて、全てがこの身体の中にグルグルと留まる。
何もかもが剥きだしになるような気がして、不安になるのだ。
それでも一人じゃないと感じられるのは、大きくて優しい、大好きな人が抱きしめてくれるからだった。だからなにも心配せずに、身を委ねることができた。
猫の国にはたくさんの猫がいた。ユゥイがいた。
今、ファイが生きると決めたこの世界には、まだ黒鋼しかない。
それでも多くの仲間が傍にいても得られなかった幸せが、ファイの手の中にある。
でも多分、それだけじゃダメなのだとファイは思い始めている。
+++
「お、やってるな」
春休みが終わって、黒鋼は昼間の短期のバイトを辞めた。
学校へ行く支度を終えて洗面所から戻ってきた黒鋼が、テーブルに向って指先を震わせるファイの手元を覗きこんでくる。
「う、う、うん、ちょっと、話、かけ、ない、で」
ファイの右手には箸が形よく握られていて、テーブルの上には二枚の皿が並べられていた。
片方に豆が幾つも乗せられていて、その一つ一つを摘まんでは隣の皿に移すことで、箸の使い方を練習をしていたのだ。
今、震える二本の箸の先には豆がしっかりと摘ままれていて、ファイも黒鋼もその一瞬に息を飲んだ。
コロン
「お!」
「出来たー!」
最後の一つが音を立てて皿の上に乗った。
「3分! 3分で10個だよ黒たん! 昨日は5分だったー!」
ファイは万歳をする。黒鋼の大きな手が、金髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「たいしたもんだ」
「えへへー」
褒められると嬉しいけど恥ずかしくて、ファイは頬を少し桜色に染めてはにかんだ。
今、ファイは様々なことを勉強中だった。
日常生活や人間社会へ出る上でのルールは勿論、基本的な一般教養も身に付けたほうがいいだろう、ということになったのだ。
ファイはどちらかと言えば漢字と睨めっこをするよりも、数字を追いかける方が好きだった。あと、化学式というものを覚えるのが楽しい。
時々勉強を見に来てくれるユゥイは「ファイは理数系だね」と言って、嬉しそうに笑っていた。
そのうちあの怪しげな魔法の研究を手伝わせる気満々らしい。
「今日の夜ご飯は何がいいー?」
出かけようとする黒鋼をよたよたと歩いて玄関先まで送りながら、ファイは小首を傾げながら聞いた。
すると彼は靴をはきながら苦笑する。
「玉子焼きだろ?」
「うん!」
「砂糖は入れるなよ」
「はぁい!」
ファイは最近、少しずつ料理の勉強もしている。
目玉焼きとスクランブルエッグと厚焼き玉子をマスターしたため、ここのところ食事といえば、もっぱら玉子料理だった。
現段階ではどうせレパートリーは少ないくせに、それでも晩のおかずを聞いてくるファイがツボにハマって仕方ないらしい黒鋼は、無表情ではあるが上機嫌でファイに手を伸ばす。
項に温もりが触れて、引き寄せられるまでもなくファイは彼の肩に手をついて、目を閉じた。
いってらっしゃいのキスをしたら、今度は玄関から出ていく黒鋼を追うようにして、窓辺に寄って外を覗く。
階段を下りて歩道に出た黒鋼がこちらを見上げて、少しだけ口元を綻ばせながら手を上げる瞬間が好きだった。
ファイはそのまま、彼の背中が見えなくなってもずっと外の景色を眺めていた。
+++
一晩中静かに降り続けていた雨は止み、澄んだ青空がどこまでも広がっていた。
緑の少ない、大きな家やコンクリートの建物が目立つ景色。電柱は電線で繋がれて、小鳥たちは木の枝ではなく、その太い線の上に並んで羽を休めている。人の嗅覚でも車の破棄ガスは嫌なもので、騒音もまた同じだった。
広すぎる世界は、決して美しいものばかりではなかった。
ファイは、汚いものも恐ろしいことも残酷なことも、辛いことも苦しいことも、もっとたくさんのことを知ろうと思った。
それと同じくらい、楽しいことも嬉しいことも、もっともっと知りたい。黒鋼の傍で。
多分、幸せなだけではダメなのだと、ファイは思う。
一緒に生きていくことを選んでくれた、たった一人の人を幸せに出来るのも、自分だけのはずだから。
頼ったり守られたりするだけではなく、いつか黒鋼にも頼ってもらえるような、そんな強い自分になれたらいい。
まだまだ出来ないことや、知らないことの方が多い未熟者ではあるけれど、きっとこれからもっとたくさんのことを覚えて、たくさんの人に出会って、そこからまた世界が広がっていくのだと思う。
そんな広すぎる世界でファイは黒鋼を、そして黒鋼はファイを選んでくれた。
本当ならお互いの存在を知ることすらなかったはずのふたりには、0を100に変えるだけの力が、きっとあるから。
(あ、ボス猫だ)
ふと見れば、窓のすぐ下の塀の上を灰色のボス猫が優雅に歩いていた。
猫にはタイムスケジュールがあるらしいので、ファイは声をかけたい気持ちをぐっと堪えた。
けれどボス猫は、足を止めてファイのいる窓を見上げた。
「なーご」
彼は野太い声で鳴いた。
愚か者の化け猫と罵られているのか、それとも食べ物を寄こせとでも言っているのか。
いずれにしろ、彼の言葉はもうファイには届かない。
あの白く尖った耳を失ったときから、不思議と猫の言葉が理解できなくなってしまった。
ボス猫はただファイをじっと見つめて、それからすっと目を細めると、もう一度だけ太い声を上げる。
まぁ頑張れよ、なんて言ってくれていたら嬉しいな、なんて思う。
実際のところはさっぱり分からないけれど、それでもファイは「うん!」と強く頷いた。
そう、今日も勉強。明日も勉強。黒鋼が帰ってきたら塩と砂糖を間違えないように、分厚い玉子焼きを焼く。今日は絶対に失敗しない。
覚えること、練習することがたくさんある。前のようにテレビを見たり、散歩をしたり、昼寝をするだけの生活とはお別れしたのだ。
ファイは今、短い時の中を懸命に生きている。
今日一日だけでも、びっしりとスケジュールが詰まっているのだから。
「だからそんなに見つめられても、オレには遊んでる暇がないの」
何もない小さな世界で、退屈を持てあましていた白猫に。
暗くて冷たい雨の中、ゴミ箱の下で震えていた白猫に。
恋を知って、切なさを知って、永遠を手放した白猫に。
「バイバイ、にゃんこ」
少し寂しい気もしたけれど、ファイは去っていくボス猫に笑顔で小さく手を振った。
終わり
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