2025/09/19 Fri 幽霊と対話 逆さまの男が、天井から上半身だけを生やしている。 パリン、と煎餅をかじっている姿を見て、黒鋼はふ、と息をつくとそれに背を向けた。 ネクタイを緩めながらソファにどっかりと腰を下ろして、テレビを見る。 やっぱりくだらないお笑い番組が放送されていた。 「ねぇ」 「…………」 「ねぇってば。あれだけ凄んどいて無視はないんじゃない?」 「…………誰だこの芸人。知らねぇな」 「ギンタローだよー。元AQBのさっちゃんの物真似の人」 「…………風呂でも入るか」 テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、テレビのスイッチを切った黒鋼に金髪男が「もー!」と癇癪めいた声を上げた。 「現実逃避しないでよー! オレだって出てきたくなかったの我慢して姿見せてるんだからー!」 金髪はにゅるんと天井から全身を現し、黒鋼の背後から上半身を乗り出すようにして顔を覗き込んできた。 思わず、少し仰け反る。彼はソファの背もたれに片手を乗せているだけで、ふわふわと浮かんでいた。 天井から上半身だけ生やすような芸を持っているのだから、浮かぶくらい朝飯前か。 目の前の出来事を受け入れられず混乱する自分と、冷静に有りのままを受け入れつつある自分が、黒鋼の中に同時に存在していた。 「待て、ちょっと待て。黙ってろ」 黒鋼が前屈みの姿勢になり、両手で頭を抱えると、男はふわっと移動してテーブルの上に着地し、ヤンキー座りをした。 下からねめつけるように、ほぼ真正面にいる男の姿を見やる。 柔らかそうな金髪は天然モノらしい。両目は青いが、なぜか左目だけうっすら濁っている。肌が異様に白いのは血が通っていないためだろうか。 白い長袖のシャツに少しダボついたジーンズは裾が僅かに解れている。そういう仕様なのか、それともたんに古くなって傷んでいるだけなのか。いや、そんなことはどうでもいい。 問題はもっと別のところにある。 「おまえは……幽霊か?」 今更のような気がしつつも、確認せずにはいられない。 男は最後の煎餅の欠片を噛み砕き、飲み込んでから大きく頷いた。 「そうだよー。オレお化け」 「……毎晩イタズラしてやがったのも、てめぇだな?」 「イタズラっていうかー。生活してただけだよー」 「生活だと?」 うん、と男は再び頷く。 「だってここ、オレの家だもん」 ケロリと言い放つその間抜けな面に、黒鋼は忘れかけていた怒りが沸々と再発してゆくのを感じて額に青筋を立てた。 男が行儀悪く腰を落ち着けているテーブルに、握った拳を打ち付ける。ドンという音に驚いた薄い肩がビクンと跳ねた。 「わっ、ビックリー」 「ふざけんな! 何がオレの家だもん、だ! てめぇはとっくに死んでんだろうが! 生きてる人間に迷惑かけてねぇで、とっとと成仏しやがれ!!」 「そんなこと言ったってー、できてればとっくにしてるよー。成仏の仕方がわかんないんだから、しょうがないじゃん!」 「はぁ!?」 そんなことがあるのだろうか。 でも考えてもみれば、こちとら死んだ経験がないのだからなんとも言えないのは確かだった。成仏をするためのマニュアルでもあれば話は別かもしれないが……。 黒鋼はまだ完全に飲み込みきれない状況に苛立ち、頭をガリガリと掻いた。 それからワイシャツの胸ポケットから煙草とライターを取り出し、箱から取り出した一本を咥える。火をつけようとしたところで、白い手がにゅっと伸びてきて咥えていたものを奪われる。 「ッ!」 「ダメー。オレ煙草は嫌い。部屋が臭くなるもん」 「……返せ」 「ダメだって。身体にも悪いよー」 なぜ幽霊に身体の心配をされなくてはいけないのか。 取り上げられた一本は諦め、もう一本取り出そうとしたところで、今度は箱ごと奪われる。 「いい加減にしろ! 俺がどうしようと勝手だろ!」 「あのね、死んでみて思ったけど、ほんと身体は大事にした方いいよー!」 「余計なお世話だ! だいたい誰のせいでストレス溜まりまくってると思ってる!?」 「オレのせいって言いたいのー?」 「当たり前だ!!」 幽霊の手から即座に煙草の箱を奪う。 今度は中身を口に咥えても文句は言われなかった。火をつけて思い切り吸い込むと、彼はむぅっと口を尖らせながらも、テーブル脇にあったガラス製の灰皿をずいっと近づけて寄越した。 「そりゃ悪かったよ。でも幽霊だってシャワーくらい浴びたいし、たまには何か食べたり飲んだりもしたくなるし、暇だからテレビとか雑誌とか、見たくなるんだよ」 「聞いたことねぇぞそんな幽霊。だいたいテレビはつけっぱ、雑誌も放りっぱ、冷蔵庫のドアも閉められねぇのか。ついでに聞くが、洗濯洗剤ぶちまけやがったのはどういう嫌がらせだ?」 ふ、っと金髪幽霊に向かって煙を吐き出すと、彼は嫌そうな顔をしてふわりと飛んで、黒鋼の隣に移動した。こちらに身体を向け、ソファに膝を抱えて座り込む。長身のようだが、ずいぶんと小さくまとまる奴だと思った。 「洗濯物が溜まってたから、洗ってあげようかなーって思って。そしたら手が滑って、どうしよーってなってるとこに君が帰ってくるもんだから」 「コソコソすんな。どうせこうやって出てくんなら、最初っから顔出しゃよかったじゃねぇか」 「おっかない顔して出て来いって脅すから、仕方なくじゃん……それに」 幽霊はさらに唇を尖らせると、ふいっと目を逸らした。 「……なんかヤだったんだもん」 怖い人乗っけてるし……という言葉はあまりに小さくて、黒鋼の耳にはハッキリと入ってこなかった。 ただ、逸らしていた視線をこちらに戻した彼の目は、黒鋼を捉えているというよりは、微妙に首の後ろ辺りを見ているような気がして、なんとなく嫌な気分になる。 黒鋼は半分ほどしか吸っていない煙草を、灰皿に押し付けると火を消した。取り返してまで吸ったはいいが、美味くはなかった。 「札と数珠は」 「んー?」 「破いたのもてめぇか。さっき数珠も壊しやがったろ」 「…………ねぇ、清算してない過去があるなら、ちゃんとしといた方がいいよ」 「あ……?」 「遊んでるタイプには見えないけどねー。殺めてるタイプには見えるけどー」 「おいこら、なにさりげなく失敬なこと言ってやがる」 幽霊は「あははー」と笑ってその場を離れた。窓辺にするりと飛んで行って、カーテンと窓を少しだけ開けている。換気しているらしい。 その様子を見ながら黒鋼は思う。 最終的な判断としては、この男は決して悪いやつではないらしいということ。 ズボラでお節介でそそっかしいところはあるようだが、確かにあの管理人のばあさんが言っていた通り、よく笑う好青年、なのかもしれない。 「……すぐそこの道路だってな」 そう言うと、彼はこちらに背中を向けたまま少しだけ俯いた。 不味い質問だったのかもしれないが、彼は死んでいるという事実をしっかり受け止めているようだし、そもそも死因を直接聞かれる気持ちというのは分かりかねる。 「そうみたいだねぇ……。ハッキリとは覚えてないんだ。最初は何が起こったのかさっぱり分かんなくて。気づいたらなんとなくふわふわ浮かんでて、あー、オレ死んだんだなーって」 「そんなもんかよ。死ぬときってのは」 「さぁねぇ。初めての経験だし、苦しんだ記憶がないってことは、事故で一瞬だったんじゃないかなー」 「……そうか」 やはり、聞くべきではなかったのかもしれない。 彼はあっけらかんとして言ってのけるが、だからって平気なはずがないことくらい、考えずとも分かるだろうに。軽率だった自分に溜息が漏れる。 そしてこれは、決して黒鋼にとって関係のない話ではなかった。 明日は我が身という言葉がある。いつ己が身に降りかかってもおかしくはない話だし、あるいは加害者側に回る可能性だってある。 もし自分が彼の立場だったなら、どう思うだろうか。 あのとき、自殺未遂をはかったあの女の切っ先が、こちらに向けられていたなら。もしかしたら今頃、同じように訳も分からず空に浮かんで彷徨っていたのは、自分だったかもしれない。 冗談じゃないと思う。今はまだ死んでなんていられない。 仕事だって放り投げることはしたくないし、親孝行もまだまともにしていない。しばらくは考えられないとしても、いつかは家庭だって持ちたいと思う。 でも、その道が一瞬にして理不尽に断たれてしまったら。 未練、という言葉が頭の中に浮かびあがる。 そして黒鋼はハッとした。 「なぁ、未練じゃねぇか?」 「え?」 「よくいうだろ。死んでも死にきれねぇってな。てめぇが成仏もできずにフラフラしてんのは、この世に未練があるからなんじゃねぇのか」 「なるほど未練かー……」 男はこちらを向くと、空中に浮かんだまま座っているような態勢で足を組んだ。 白い指先を顎に添えて、「うーむ」と考え込んでいる。 「なんかねぇのか」 「未練……未練……」 「行きてぇ場所があったとか、誰かに何か伝えてぇとか、食いてぇもんとか」 「…………恋」 「なんだ?」 黒鋼が僅かに身を乗り出すと、彼はどこか納得したように頷いた。 「オレ、ちゃんと恋愛したことない」 「……恋、か」 「うん。誰かを好きになったことはあるけど、ちゃんとした恋人っていた経験ないんだよね。片思いばっかりで……」 黒鋼は腕を組み、改めて男の姿を眺めた。 彼はどちらかといえば恵まれた容姿を持っていると思う。 少し痩せすぎのような気はするものの、やつれて不健康そうに見えるというほどではない。いわゆるモデル体型というやつだろう。 顔にしたって女性受けしそうな甘いマスクだし、それこそモデルやアイドルのような印象を受ける。 決して相手に不自由するタイプには見えないのだが。 黒鋼がじっと観察していると、男は流石に居心地が悪くなったのか、なぜか赤らんだ頬を両手で包み込み、目を逸らした。 「やだぁ……あんまり見られると恥ずかしい……」 「……なよっちいな」 「ふぇ?」 「それだ。てめぇが女にモテねぇ原因は」 男は片方が少し濁った両目を見開いて、パチパチと瞬きを繰り返した。 そして、ぷぅっと唇を尖らせる。こうして見ると童顔だなと、ぼんやり思う。 「別に女の子にモテなくったって困らないもーん」 「あ? じゃあ恋だのなんだのって話はどうなる」 「だからー、オレは男の人が好きなのー」 「…………ああ、そういうことか」 ならばまぁ、納得はいく。 いくら男の目から見ても容姿が優れていても、同性同士となると相手を見つけることはそう簡単ではない、のかもしれない。 けれどふと思う。普通に日常生活を送る中で自然と相手を見つけることは難しくとも、その手の場所へ足を運べば、どうにでもなりそうなものだ。これだけネットが普及している世の中でもある。 「オレさ、どうしてもノンケの人しか好きになれないんだよね。そういうホモの人って結構多いんだけど……」 「……なるほど」 「だから、未練があるとすればそれかなって。ごく自然に出会ったノンケの人と、燃えるような大恋愛がしてみたいなー!」 「……なかなか難しいだろうな」 生きているならいざ知らず。 何かしら自分にできることがあるなら手伝ってやらないこともないが、『恋』なんて時点でホモだろうがノンケだろうが関係なしに、難易度の高い未練である。 近所の寺にでも連れていけば、まだ成仏できていないノンケ幽霊と出会うチャンスに恵まれるだろうか。しかし、幽霊とはいえ相手にも性別を選ぶ権利はあるだろうし……。 一瞬、母の顔が浮かんだものの、相談できる内容ではない。強制的に成仏させることは可能かもしれないが。 「ねぇ、オレ思ったんだけどー」 「なんだよ」 「ごく自然な出会いなら、もうしてるんだよね」 「あ? どこで?」 「ここで」 「……いつ?」 「今」 ファイはにっこり笑って、黒鋼を指さした。 「君、ノンケ」 「……冗談だろ? しかもこれのどこが自然な出会いだ?」 「オレさー、実は初めて見たときから君のこと好みだなーって思ってたんだよねー! よく言われない? 君みたいなタイプってすっごくモテるよ」 それは、確かによく言われる。 何度かその手の人間に言い寄られた経験はあるし、以前住んでいたアパートの風呂が壊れたとき、足を運んだ銭湯のサウナがハッテン場だったこともある。そうと知らずウッカリ入って、えらい目にあいかけた。(背負い投げで撃退してなんとか身を守った) しかし黒鋼にはその気が一切ない。恋愛対象も性的な対象も、完全に女性だけだった。 そもそも相手の性別以前に、当分は愛だの恋という言葉からは遠い場所にいたかった。ストーカー女によって植えつけられたトラウマは、そこそこ根が深い。 「ね、人助けだと思ってさー、ちょっとだけ相手してよ。好きになってくれなくていいから、オレの気が済むまで。ね?」 「…………ちょっと待て、考えさせろよ」 思わず片手を額に押し当てる。 非現実的なことが実際に現実として起こっている今、黒鋼の感覚は麻痺しかけていた。 このまま出会ったばかりでよく知りもしない相手(しかも幽霊)の話に乗ってしまっていいものか。いや、でもそれがこの迷える魂にとって最良ならば、乗りかかった船と思って協力するべきなのか。 そもそも未練だなんだと話を振ったのは自分の方だし、キッカケを作ってしまった責任が全くないわけではない、気がする。 いっそここから出ていくという選択肢もあるにはあるが、出来ればしばらく引っ越しはしたくない。ここへ越すときだって無理やり仕事をストップさせて、どうにか一日だけ休みをもぎ取ったのだ。しかも休み明けは地獄を見た。 自分の今後の生活を守るための行動が、ついでに人助けになるというのなら、致し方ないのか。 黒鋼は深い深い溜息をついた。 何をすればいいのかよく分からないが、とりあえず一言「わかった」と吐き捨てると、男は目をキラキラと輝かせた。 「やったー! ありがとー!!」 「その代り、条件があるぞ。それだけはキッチリ守ってもらう」 「うんうん! なんでも言って! あ、その前に」 男は空中からソファの上までやってくると、「よいしょー」と言って黒鋼の膝の上に向かい合うように乗り上げてきた。 生きている人間さながらにしっかりと感触もあって、膝で受け止める体重も伝わってくる。体温は冷たいとばかり思っていたが、意外に生温かった。 「こらてめぇ! 乗るな!」 「そうと決まれば、邪魔なものはやっつけちゃうねー」 「?」 ひゅん、と。 男の拳が、黒鋼の頬すれすれを掠めた。 一体なにをしたのかはわからないが、どうやら後方に向かって攻撃したらしい。 完了、と言って男が笑った瞬間、不思議なことに肩や身体が、嘘のように軽くなった。 「……? 何をした?」 呆然として問いかけると、男は「ふふ」っと楽しげな声を漏らす。 そして黒鋼の首に両腕をゆるりと回し、一瞬だけ唇同士が触れ合った。 「なッ!? て、てめぇ!」 咄嗟にひょろい身体を薙ぎ払おうとして、両手がスカっと宙を切る。 「!?」 なにが起こったのか分からなかった。男にキスをされたという衝撃的な事実が霞むほどの現象に、黒鋼は目を見開いた。 自分の思い違いでなければの話だが。今、遠ざけようとしたはずの両腕が目の前の身体を通り抜けなかったか? その重みも感じるし回された腕の感触もある。唇の感触も、柔らかいものだった、と思う。それなのに。 (どうなってんだ……?) 黒鋼はもう一度確かめるため、華奢な肩に触れようとした。だが結局、彼の中に一度すっぽりと埋もれるようにして、何の感触も得られないまま手の平が戻ってきた。 つまり、相手はこちらに好きに触れることができても、こちらからは触れられない。 どういう原理か知らないが、そういうことらしかった。 釈然としない表情で男の顔を見れば、彼は目を細めてふんわりと微笑んだ。やっぱり、左目だけ少し白く濁っている。 「よろしくね黒たん。しばらくの間は、オレが君を守ってあげる」 ずっとここにいたのなら、名前くらいは知っていても当然か。 ふざけた呼び方は気に食わないが、それより彼の放った言葉の方が気になって、黒鋼は口から飛び出しかけた不満を飲み込んだ。 ←戻る ・ 次へ→
逆さまの男が、天井から上半身だけを生やしている。
パリン、と煎餅をかじっている姿を見て、黒鋼はふ、と息をつくとそれに背を向けた。
ネクタイを緩めながらソファにどっかりと腰を下ろして、テレビを見る。
やっぱりくだらないお笑い番組が放送されていた。
「ねぇ」
「…………」
「ねぇってば。あれだけ凄んどいて無視はないんじゃない?」
「…………誰だこの芸人。知らねぇな」
「ギンタローだよー。元AQBのさっちゃんの物真似の人」
「…………風呂でも入るか」
テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、テレビのスイッチを切った黒鋼に金髪男が「もー!」と癇癪めいた声を上げた。
「現実逃避しないでよー! オレだって出てきたくなかったの我慢して姿見せてるんだからー!」
金髪はにゅるんと天井から全身を現し、黒鋼の背後から上半身を乗り出すようにして顔を覗き込んできた。
思わず、少し仰け反る。彼はソファの背もたれに片手を乗せているだけで、ふわふわと浮かんでいた。
天井から上半身だけ生やすような芸を持っているのだから、浮かぶくらい朝飯前か。
目の前の出来事を受け入れられず混乱する自分と、冷静に有りのままを受け入れつつある自分が、黒鋼の中に同時に存在していた。
「待て、ちょっと待て。黙ってろ」
黒鋼が前屈みの姿勢になり、両手で頭を抱えると、男はふわっと移動してテーブルの上に着地し、ヤンキー座りをした。
下からねめつけるように、ほぼ真正面にいる男の姿を見やる。
柔らかそうな金髪は天然モノらしい。両目は青いが、なぜか左目だけうっすら濁っている。肌が異様に白いのは血が通っていないためだろうか。
白い長袖のシャツに少しダボついたジーンズは裾が僅かに解れている。そういう仕様なのか、それともたんに古くなって傷んでいるだけなのか。いや、そんなことはどうでもいい。
問題はもっと別のところにある。
「おまえは……幽霊か?」
今更のような気がしつつも、確認せずにはいられない。
男は最後の煎餅の欠片を噛み砕き、飲み込んでから大きく頷いた。
「そうだよー。オレお化け」
「……毎晩イタズラしてやがったのも、てめぇだな?」
「イタズラっていうかー。生活してただけだよー」
「生活だと?」
うん、と男は再び頷く。
「だってここ、オレの家だもん」
ケロリと言い放つその間抜けな面に、黒鋼は忘れかけていた怒りが沸々と再発してゆくのを感じて額に青筋を立てた。
男が行儀悪く腰を落ち着けているテーブルに、握った拳を打ち付ける。ドンという音に驚いた薄い肩がビクンと跳ねた。
「わっ、ビックリー」
「ふざけんな! 何がオレの家だもん、だ! てめぇはとっくに死んでんだろうが! 生きてる人間に迷惑かけてねぇで、とっとと成仏しやがれ!!」
「そんなこと言ったってー、できてればとっくにしてるよー。成仏の仕方がわかんないんだから、しょうがないじゃん!」
「はぁ!?」
そんなことがあるのだろうか。
でも考えてもみれば、こちとら死んだ経験がないのだからなんとも言えないのは確かだった。成仏をするためのマニュアルでもあれば話は別かもしれないが……。
黒鋼はまだ完全に飲み込みきれない状況に苛立ち、頭をガリガリと掻いた。
それからワイシャツの胸ポケットから煙草とライターを取り出し、箱から取り出した一本を咥える。火をつけようとしたところで、白い手がにゅっと伸びてきて咥えていたものを奪われる。
「ッ!」
「ダメー。オレ煙草は嫌い。部屋が臭くなるもん」
「……返せ」
「ダメだって。身体にも悪いよー」
なぜ幽霊に身体の心配をされなくてはいけないのか。
取り上げられた一本は諦め、もう一本取り出そうとしたところで、今度は箱ごと奪われる。
「いい加減にしろ! 俺がどうしようと勝手だろ!」
「あのね、死んでみて思ったけど、ほんと身体は大事にした方いいよー!」
「余計なお世話だ! だいたい誰のせいでストレス溜まりまくってると思ってる!?」
「オレのせいって言いたいのー?」
「当たり前だ!!」
幽霊の手から即座に煙草の箱を奪う。
今度は中身を口に咥えても文句は言われなかった。火をつけて思い切り吸い込むと、彼はむぅっと口を尖らせながらも、テーブル脇にあったガラス製の灰皿をずいっと近づけて寄越した。
「そりゃ悪かったよ。でも幽霊だってシャワーくらい浴びたいし、たまには何か食べたり飲んだりもしたくなるし、暇だからテレビとか雑誌とか、見たくなるんだよ」
「聞いたことねぇぞそんな幽霊。だいたいテレビはつけっぱ、雑誌も放りっぱ、冷蔵庫のドアも閉められねぇのか。ついでに聞くが、洗濯洗剤ぶちまけやがったのはどういう嫌がらせだ?」
ふ、っと金髪幽霊に向かって煙を吐き出すと、彼は嫌そうな顔をしてふわりと飛んで、黒鋼の隣に移動した。こちらに身体を向け、ソファに膝を抱えて座り込む。長身のようだが、ずいぶんと小さくまとまる奴だと思った。
「洗濯物が溜まってたから、洗ってあげようかなーって思って。そしたら手が滑って、どうしよーってなってるとこに君が帰ってくるもんだから」
「コソコソすんな。どうせこうやって出てくんなら、最初っから顔出しゃよかったじゃねぇか」
「おっかない顔して出て来いって脅すから、仕方なくじゃん……それに」
幽霊はさらに唇を尖らせると、ふいっと目を逸らした。
「……なんかヤだったんだもん」
怖い人乗っけてるし……という言葉はあまりに小さくて、黒鋼の耳にはハッキリと入ってこなかった。
ただ、逸らしていた視線をこちらに戻した彼の目は、黒鋼を捉えているというよりは、微妙に首の後ろ辺りを見ているような気がして、なんとなく嫌な気分になる。
黒鋼は半分ほどしか吸っていない煙草を、灰皿に押し付けると火を消した。取り返してまで吸ったはいいが、美味くはなかった。
「札と数珠は」
「んー?」
「破いたのもてめぇか。さっき数珠も壊しやがったろ」
「…………ねぇ、清算してない過去があるなら、ちゃんとしといた方がいいよ」
「あ……?」
「遊んでるタイプには見えないけどねー。殺めてるタイプには見えるけどー」
「おいこら、なにさりげなく失敬なこと言ってやがる」
幽霊は「あははー」と笑ってその場を離れた。窓辺にするりと飛んで行って、カーテンと窓を少しだけ開けている。換気しているらしい。
その様子を見ながら黒鋼は思う。
最終的な判断としては、この男は決して悪いやつではないらしいということ。
ズボラでお節介でそそっかしいところはあるようだが、確かにあの管理人のばあさんが言っていた通り、よく笑う好青年、なのかもしれない。
「……すぐそこの道路だってな」
そう言うと、彼はこちらに背中を向けたまま少しだけ俯いた。
不味い質問だったのかもしれないが、彼は死んでいるという事実をしっかり受け止めているようだし、そもそも死因を直接聞かれる気持ちというのは分かりかねる。
「そうみたいだねぇ……。ハッキリとは覚えてないんだ。最初は何が起こったのかさっぱり分かんなくて。気づいたらなんとなくふわふわ浮かんでて、あー、オレ死んだんだなーって」
「そんなもんかよ。死ぬときってのは」
「さぁねぇ。初めての経験だし、苦しんだ記憶がないってことは、事故で一瞬だったんじゃないかなー」
「……そうか」
やはり、聞くべきではなかったのかもしれない。
彼はあっけらかんとして言ってのけるが、だからって平気なはずがないことくらい、考えずとも分かるだろうに。軽率だった自分に溜息が漏れる。
そしてこれは、決して黒鋼にとって関係のない話ではなかった。
明日は我が身という言葉がある。いつ己が身に降りかかってもおかしくはない話だし、あるいは加害者側に回る可能性だってある。
もし自分が彼の立場だったなら、どう思うだろうか。
あのとき、自殺未遂をはかったあの女の切っ先が、こちらに向けられていたなら。もしかしたら今頃、同じように訳も分からず空に浮かんで彷徨っていたのは、自分だったかもしれない。
冗談じゃないと思う。今はまだ死んでなんていられない。
仕事だって放り投げることはしたくないし、親孝行もまだまともにしていない。しばらくは考えられないとしても、いつかは家庭だって持ちたいと思う。
でも、その道が一瞬にして理不尽に断たれてしまったら。
未練、という言葉が頭の中に浮かびあがる。
そして黒鋼はハッとした。
「なぁ、未練じゃねぇか?」
「え?」
「よくいうだろ。死んでも死にきれねぇってな。てめぇが成仏もできずにフラフラしてんのは、この世に未練があるからなんじゃねぇのか」
「なるほど未練かー……」
男はこちらを向くと、空中に浮かんだまま座っているような態勢で足を組んだ。
白い指先を顎に添えて、「うーむ」と考え込んでいる。
「なんかねぇのか」
「未練……未練……」
「行きてぇ場所があったとか、誰かに何か伝えてぇとか、食いてぇもんとか」
「…………恋」
「なんだ?」
黒鋼が僅かに身を乗り出すと、彼はどこか納得したように頷いた。
「オレ、ちゃんと恋愛したことない」
「……恋、か」
「うん。誰かを好きになったことはあるけど、ちゃんとした恋人っていた経験ないんだよね。片思いばっかりで……」
黒鋼は腕を組み、改めて男の姿を眺めた。
彼はどちらかといえば恵まれた容姿を持っていると思う。
少し痩せすぎのような気はするものの、やつれて不健康そうに見えるというほどではない。いわゆるモデル体型というやつだろう。
顔にしたって女性受けしそうな甘いマスクだし、それこそモデルやアイドルのような印象を受ける。
決して相手に不自由するタイプには見えないのだが。
黒鋼がじっと観察していると、男は流石に居心地が悪くなったのか、なぜか赤らんだ頬を両手で包み込み、目を逸らした。
「やだぁ……あんまり見られると恥ずかしい……」
「……なよっちいな」
「ふぇ?」
「それだ。てめぇが女にモテねぇ原因は」
男は片方が少し濁った両目を見開いて、パチパチと瞬きを繰り返した。
そして、ぷぅっと唇を尖らせる。こうして見ると童顔だなと、ぼんやり思う。
「別に女の子にモテなくったって困らないもーん」
「あ? じゃあ恋だのなんだのって話はどうなる」
「だからー、オレは男の人が好きなのー」
「…………ああ、そういうことか」
ならばまぁ、納得はいく。
いくら男の目から見ても容姿が優れていても、同性同士となると相手を見つけることはそう簡単ではない、のかもしれない。
けれどふと思う。普通に日常生活を送る中で自然と相手を見つけることは難しくとも、その手の場所へ足を運べば、どうにでもなりそうなものだ。これだけネットが普及している世の中でもある。
「オレさ、どうしてもノンケの人しか好きになれないんだよね。そういうホモの人って結構多いんだけど……」
「……なるほど」
「だから、未練があるとすればそれかなって。ごく自然に出会ったノンケの人と、燃えるような大恋愛がしてみたいなー!」
「……なかなか難しいだろうな」
生きているならいざ知らず。
何かしら自分にできることがあるなら手伝ってやらないこともないが、『恋』なんて時点でホモだろうがノンケだろうが関係なしに、難易度の高い未練である。
近所の寺にでも連れていけば、まだ成仏できていないノンケ幽霊と出会うチャンスに恵まれるだろうか。しかし、幽霊とはいえ相手にも性別を選ぶ権利はあるだろうし……。
一瞬、母の顔が浮かんだものの、相談できる内容ではない。強制的に成仏させることは可能かもしれないが。
「ねぇ、オレ思ったんだけどー」
「なんだよ」
「ごく自然な出会いなら、もうしてるんだよね」
「あ? どこで?」
「ここで」
「……いつ?」
「今」
ファイはにっこり笑って、黒鋼を指さした。
「君、ノンケ」
「……冗談だろ? しかもこれのどこが自然な出会いだ?」
「オレさー、実は初めて見たときから君のこと好みだなーって思ってたんだよねー! よく言われない? 君みたいなタイプってすっごくモテるよ」
それは、確かによく言われる。
何度かその手の人間に言い寄られた経験はあるし、以前住んでいたアパートの風呂が壊れたとき、足を運んだ銭湯のサウナがハッテン場だったこともある。そうと知らずウッカリ入って、えらい目にあいかけた。(背負い投げで撃退してなんとか身を守った)
しかし黒鋼にはその気が一切ない。恋愛対象も性的な対象も、完全に女性だけだった。
そもそも相手の性別以前に、当分は愛だの恋という言葉からは遠い場所にいたかった。ストーカー女によって植えつけられたトラウマは、そこそこ根が深い。
「ね、人助けだと思ってさー、ちょっとだけ相手してよ。好きになってくれなくていいから、オレの気が済むまで。ね?」
「…………ちょっと待て、考えさせろよ」
思わず片手を額に押し当てる。
非現実的なことが実際に現実として起こっている今、黒鋼の感覚は麻痺しかけていた。
このまま出会ったばかりでよく知りもしない相手(しかも幽霊)の話に乗ってしまっていいものか。いや、でもそれがこの迷える魂にとって最良ならば、乗りかかった船と思って協力するべきなのか。
そもそも未練だなんだと話を振ったのは自分の方だし、キッカケを作ってしまった責任が全くないわけではない、気がする。
いっそここから出ていくという選択肢もあるにはあるが、出来ればしばらく引っ越しはしたくない。ここへ越すときだって無理やり仕事をストップさせて、どうにか一日だけ休みをもぎ取ったのだ。しかも休み明けは地獄を見た。
自分の今後の生活を守るための行動が、ついでに人助けになるというのなら、致し方ないのか。
黒鋼は深い深い溜息をついた。
何をすればいいのかよく分からないが、とりあえず一言「わかった」と吐き捨てると、男は目をキラキラと輝かせた。
「やったー! ありがとー!!」
「その代り、条件があるぞ。それだけはキッチリ守ってもらう」
「うんうん! なんでも言って! あ、その前に」
男は空中からソファの上までやってくると、「よいしょー」と言って黒鋼の膝の上に向かい合うように乗り上げてきた。
生きている人間さながらにしっかりと感触もあって、膝で受け止める体重も伝わってくる。体温は冷たいとばかり思っていたが、意外に生温かった。
「こらてめぇ! 乗るな!」
「そうと決まれば、邪魔なものはやっつけちゃうねー」
「?」
ひゅん、と。
男の拳が、黒鋼の頬すれすれを掠めた。
一体なにをしたのかはわからないが、どうやら後方に向かって攻撃したらしい。
完了、と言って男が笑った瞬間、不思議なことに肩や身体が、嘘のように軽くなった。
「……? 何をした?」
呆然として問いかけると、男は「ふふ」っと楽しげな声を漏らす。
そして黒鋼の首に両腕をゆるりと回し、一瞬だけ唇同士が触れ合った。
「なッ!? て、てめぇ!」
咄嗟にひょろい身体を薙ぎ払おうとして、両手がスカっと宙を切る。
「!?」
なにが起こったのか分からなかった。男にキスをされたという衝撃的な事実が霞むほどの現象に、黒鋼は目を見開いた。
自分の思い違いでなければの話だが。今、遠ざけようとしたはずの両腕が目の前の身体を通り抜けなかったか?
その重みも感じるし回された腕の感触もある。唇の感触も、柔らかいものだった、と思う。それなのに。
(どうなってんだ……?)
黒鋼はもう一度確かめるため、華奢な肩に触れようとした。だが結局、彼の中に一度すっぽりと埋もれるようにして、何の感触も得られないまま手の平が戻ってきた。
つまり、相手はこちらに好きに触れることができても、こちらからは触れられない。
どういう原理か知らないが、そういうことらしかった。
釈然としない表情で男の顔を見れば、彼は目を細めてふんわりと微笑んだ。やっぱり、左目だけ少し白く濁っている。
「よろしくね黒たん。しばらくの間は、オレが君を守ってあげる」
ずっとここにいたのなら、名前くらいは知っていても当然か。
ふざけた呼び方は気に食わないが、それより彼の放った言葉の方が気になって、黒鋼は口から飛び出しかけた不満を飲み込んだ。
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