2025/06/16 Mon 「ねぇ、明日はぼくんちで遊ばない?」 閉店後の楽園にて。 操はテーブルに両手をつくと身を乗り出して、伝票や出納帳が入った棚を整理する甲洋の背中に声をかけた。 「お母さんと一緒にアップルパイを焼くんだ。君も食べにおいでよ!」 明日は週に一度の定休日。二人は休みの日でも、いつだって当たり前のように一緒に過ごす。釣りに出かけたり、フリーマーケットを覗きに行ったり、部屋でのんびり過ごしたり。 だから明日も、当然そうなるのだとばかり思っていたのだが。 「せっかくだけど、明日は大事な用があるから。来主の家には行けないよ」 振り向いた甲洋は、残念そうに眉を下げると軽く肩をすくめて見せた。 てっきり二つ返事で了解されるものとばかり思っていた操は、顔をしかめて不満を漏らす。 「えー!? 用ってなに? アップルパイよりも大事なこと?」 「頼まれごとがあって、少しね」 「なにそれ! 休みの日はぼくと遊ぶ決まりなのに!」 唇を尖らせる操に、甲洋は苦笑して「そんな決まりないだろ」と言った。 それはそうだが、操の中にある明日の予定表には、当然のように甲洋の存在が組み込まれている。容子とアップルパイを作って、それを三人で食べる光景を想像しては、胸を躍らせていたのだが。 「それって明日じゃなきゃダメなの? 断っちゃえばいいじゃんか」 「ダメだ。先約を反故にすることはできないよ」 棚の整理を再開する甲洋に、操はぶすくれた顔で肩を怒らせた。 「ふーん、じゃあいいよ! だったら君の分のアップルパイも、ぼくがぜーんぶ食べちゃうからね! あとで欲しくなっても知らないよ!」 「そんなにいじけるなって。次の休みは空けておくから」 「別にいじけてなんかないもん!」 プイと顔を背けると、振り向いた甲洋がやれやれと短いため息をついた。 * その翌日。 操は容子と一緒にアップルパイ作りに勤しんだ。 生地は出来合いのパイシートを使わずに、たっぷりのバターを練り込ませてこねあげた。格子状にサックリと焼けた表面には、あんずのジャムをまんべんなく塗ってツヤツヤにする。 シナモンと香ばしい甘酸っぱさで部屋が満たされる頃には、ちょうど三時のおやつに丁度いい時間になっていた。 さっそく紅茶と一緒に舌つづみを打っていると、容子がふと 「せっかくだし、甲洋くんにも届けてあげたら?」 と言いだした。 操はフォークの先をくわえたまま、アップルパイの食べカスが散らばる皿を見つめてうつむいた。 昨日はつい腹を立ててしまったが、甲洋は責められるようなことなんかしていない。それなのに一方的に不満をぶつけ、あのまま一言も口を利かずに帰ってきてしまった。 (甲洋の用事、もう終わったかなぁ……?) フォークを皿に戻し、ふと窓の方へ目をやった。だいぶ日が傾いて、空に茜色がさしている。 昨日はへそを曲げるのに忙しくて、なんの用事があるのかまでは聞きそびれてしまった。だけどこの時間なら、もう事は済んでいるかもしれない。 (せっかくこんなに上手に作れたし、やっぱり持ってってあげようかな) そうしたら、甲洋はきっと喜ぶに違いない。彼はいつも操が作るスイーツを、「上手くできたね」と言って褒めてくれる。ついこないだ一騎の誕生日に作ったスイーツも、なぜか作った操以上に甲洋の方が得意気だった。 (持ってって、昨日のことを謝ろう) そうと決まれば、いてもたってもいられなくなってしまった。 「お母さん! ぼく今からこれ届けてくるよ!」 操はさっそくアップルパイを切り分けて、クラフト紙の小さなケーキボックスに詰め込んだ。 容子は「きっと喜ぶわよ」と嬉しそうに笑い、ケーキボックスに赤いリボンを可愛らしく結んでくれた。 * 手っ取り早く操がワープで向かったのは、店の厨房だった。 もし甲洋の用が済んでいないようなら、ひとまず冷蔵庫の中に箱を入れておく──つもりでいたのだが。 「来主?」 カウンターの向こうにある店のホールに、甲洋がいた。窓際の席についている彼は、眼鏡のレンズ越しにキョトンとしている。 「あ、甲洋! あのさ、昨日はごめ……って、その子は?」 さっそく謝ろうとした操だったが、甲洋と向かい合って座っている小さな女の子に気がついて、パチパチと瞬きをした。 白い襟がついた紺のワンピースを着て、肩まである黒髪を二つに結った可愛らしい女の子。操はその顔に見覚えがあった。 彼女は店の常連で、普段は母親と二人で訪れている。誰にでもよく懐くため、他の常連客からも可愛がられる存在だった。 そんな彼女は机に向かって熱心に鉛筆を走らせていたが、操に気づくと大きな目をまん丸に見開いた。 「あ、操ちゃん! どうしてそんなところにいるのー?」 無邪気な声が驚きに弾んでいる。まだ八歳かそこらの幼い少女は、まさか操がワープでここまでやって来たなんて知りもしない。 曖昧に頷きながら、操はキッチンから出て二人がいるテーブルに近づいた。 テーブルには消しカスが散らばり、広げられている算数ドリルには足し算や引き算の問題が並んでいる。 「なにしてるの?」 「甲洋お兄ちゃんにおべんきょ見てもらってるの! ずっと前から約束してたんだぁ!」 ねー、と同意を求められた甲洋が、やんわりと彼女に笑いかけている。 「ふぅん、そうなんだ……」 気のない返事で甲洋を見ると、彼は心の中で「どうかした?」と問いかけてきた。操はなんとなくそれを無視して、顔を背けると心を閉じる。 (頼まれごとってこれのこと? ぼくより他の子と約束してたんだ) 黙って唇を尖らせる操に、甲洋は肩をすくめて息を漏らした。そして席を立ち、空になったグラスを手に取ると「ジュースのおかわりを持ってくるよ」と言って、その場を離れる。 女の子が「はーい!」と元気に返事した。 「操ちゃん! ここ座っていいよ!」 女の子がすぐ隣の椅子の座面をポンポンと叩いている。 普段なら操も笑顔で応じるところだが、今日は少しばかり複雑だ。胸に雨雲がかかったようで、なんだか面白くない。 それでもおとなしく腰掛けると、彼女はクンクンと鼻を鳴らして操の膝の上にあるケーキボックスに顔を近づけた。 「それなぁに? あまくておいしそうなにおいがする!」 「あっ、こ、これはダメ!」 操はとっさに膝から箱を退け、テーブルの隅っこに置いてしまう。女の子が残念そうに唇を尖らせたが、すかさず「算数やってるの?」と話を逸らすと笑顔になった。 「うん! あのね、お兄ちゃんガッコの先生よりやさしいの! わたし算数キライだけど、お兄ちゃんといっしょだと楽しいよ!」 「いつからここは塾になったのさ……」 「操ちゃん? どしたのぉ?」 「うぅん、なんでもないよ!」 女の子は「そっか~」と言うと、操にぴったり身体をくっつけてきた。小さな両手を口許に添え、耳のそばでこしょこしょと話しはじめる。 「あのね、操ちゃんにだけおしえてあげる。お兄ちゃんにはナイショのこと」 「内緒のこと?」 甲洋の方へ視線をやると、彼は厨房に立ってこちらに背を向けている。 いくら声を潜めたところで、どうせ筒抜けなのにと思いながらも、黙って耳を傾けた。 「うん。わたしね、大きくなったら甲洋お兄ちゃんとケッコンするの。それでね、およめさんにしてもらうの」 「え!?」 操はとっさに声をあげ、ガタンと大きく椅子を揺らして立ち上がった。 「だ、ダメだよ! そんなのダメ! 結婚なんて、絶対ダメ!」 結婚、というものがどういうものであるかくらい、操だってある程度は学習済みだ。お互い一番に好きあっている同士が、ずっと一緒にいることを約束しあう。そしてそれは誰とでもしていいものじゃない、らしい。 だからもしこの子と甲洋が結婚してしまったら──。 (ぼく、もう甲洋のこと独り占めできないじゃん!) ついムキになって語気を荒げてしまった操に、女の子はポカンとしたあと徐々に表情を歪ませた。顔の中心にぎゅうっとシワを寄せ、目からは大粒の涙を溢れさせ、下唇を噛みしめながら身体をヒクヒクと震わせる。やがて大きな声で泣きだしてしまった。 「ぅ、うわぁぁん! みざおぢゃんのバカ! わあぁ~~~んッ!!」 「来主……」 呆然としているところに、二人分のオレンジジュースを持った甲洋が戻ってきた。一つは操のものだろう。彼は操に呆れた目を向け、テーブルにジュースを置くと女の子のそばに膝をついた。 彼女はすかさず甲洋にしがみつき、なおもわんわんと泣きわめく。 「おにいぢゃぁんっ! わあぁ~んっ!」 「よしよし、いい子だから。泣かないで」 涙と鼻水ですっかり肩を汚されながらも、甲洋は小さな身体を抱き返してポンポンと背中を叩いた。そして、改めて咎めるような視線を寄こす。 「ち、違うよ! ぼくなにも悪いことなんか……っ」 「みざおぢゃんがぁっ、みざおぢゃんが、イジワル言ったぁ!!」 「来主、ちゃんと謝りな」 「なんで!? ぼく意地悪なんかしてないもん!」 「うわあぁぁぁぁん!!」 悲鳴のような泣き声が、心にダイレクトに響いてくる。ぐちゃぐちゃとして言葉にならない痛みが伝わり、操は思わず胸を押さえた。 とっさのこととはいえ、傷つけてしまったことは事実だ。頭では分かっている。甲洋が言う通り、操が折れない限りこの最悪な状況は終わらない。 「……ごめん」 絞りだした謝罪の言葉は、けれど泣きわめく女の子の耳には届かなかった。 追いつめられた末の苦し紛れに、操はテーブルに置いていたケーキボックスを手に取ると、女の子に差しだした。 「ッ、これ……!」 鮮やかな赤いリボンに、彼女はピタリと泣くのをやめる。 「……あげる」 「いいの……?」 「うん……ひどいこと言って、ごめん……」 女の子は甲洋から離れると、ケーキボックスを受け取った。テーブルに置いてリボンをほどき、蓋を開けると目をキラキラとさせる。 「わあぁ、アップルパイだぁ~! おいしそう!」 「……それ、食べていいよ」 「ほんとに? ありがとう操ちゃん!」 泣いていたのが嘘のように、女の子の顔にはすっかり笑顔が戻っていた。 「皿とフォークを用意してくるよ」 甲洋がホッとした様子で息をつき、女の子の頭を軽く撫でるとキッチンに向かっていく。その何気ない仕草にすら、操の胸はささくれ立った。いつもだったら、あんなふうに頭を撫でられるのは自分の役目なのに。 (分かってるくせに。甲洋のために持ってきたアップルパイだってこと) 操はうつむいたまま、その背中を横目で睨みつけることしかできなかった。 * 女の子がアップルパイを食べ終えるころ、彼女の母親が迎えに来た。 甲洋とそう歳の変わらない、若い母親だ。彼女は以前から娘の算数嫌いについて、彼に相談していたらしい。お兄ちゃんと一緒なら勉強する、なんて言って聞かないものだから、彼に一日だけ先生の役を頼み込んだそうだ。 いつの間にそんな話になっていたのか、いつも店に出ているはずの自分がまるで把握していなかったことにも、操は少なからず不満を覚えた。 娘が我儘を言ってごめんなさい、なんて申し訳なさそうに甲洋を見る母親の頬が、心なしか赤くなっていたことも含めて。 そのときふと、前に剣司が言っていたことを思いだした。女性客の視線を集める甲洋を見て、剣司はどこかひやかすように「ああいうのを色男って言うんだぞ」と教えてくれた。女性にモテモテな優男、という意味らしい。確かに甲洋のことに違いないと、操は思った。 女の子は母親に手を引かれ、「お兄ちゃん、また先生してね!」と言って満足そうに帰っていった。 二人きりになってからも、操の不機嫌は収まらなかった。 消しカスなどが散らばるテーブルを掃除している背中を、カウンターに寄りかかって睨みつける。 「あの子と約束してたんだ。ぼくんちには来なかったくせに」 不満もあらわに嫌味を言うと、手を止めた甲洋が「しょうがないだろ」と言って振り向いた。 彼の言う通りだ。しょうがなかった。先に約束していたのはあちらの方で、甲洋が責められる謂れはない。だからちゃんと謝ろうと思って来たはずなのに、今の操は何もかもが面白くなくてイライラしていた。 「でもぼくは君に来てほしかった! アップルパイだって、君に食べてほしかったのに!」 「俺だって食べたかったよ。来主のアップルパイ」 「でもあの子が食べちゃった! だってぜんぜん泣き止んでくれないんだもん……だから仕方なく……っ」 「来主がムキになって否定するからだ。あんな小さな子を泣かせて──」 そこまで言って、甲洋は言葉を切ると短く「あぁ」と嘆声を漏らした。 「お前もそう変わらないんだっけ」 操は思わず下唇を噛みしめた。甲洋にとって、こうして駄々をこねる操とあの女の子は、たいして違いがないのだろう。なんなら操の方が、よっぽど我儘で聞き分けがない。 だけど自分でもよく分からないのだ。感情を上手く処理できない。だってあの子が、あんなことを言うから。 ──わたしね、大きくなったら甲洋お兄ちゃんとケッコンするの。 あの言葉が、どうしようもなく心を曇らせている。 嫌だった。甲洋が、甲洋のことを一番に好きだと思っている女の子と、二人だけで過ごしていたこと。アップルパイだって、甲洋のために持ってきたのに。せっかく上手にできたのに。褒めてほしかったのに。 自分より先に、他の誰かと約束なんかしてほしくなかったのに──。 「どうせぼくはワガママな子供だよ! 甲洋はぼくよりも、あの子と一緒にいるほうがいいんだ!」 「誰もそんなこと言ってないだろ」 「もういい! 君なんか、あの子と結婚でもなんでもすればいいじゃん!」 「来主!」 甲洋が手を伸ばしかけるのが見えたが、操は逃げるようにそこからワープで逃げだした。 * 次の日から、操は甲洋を徹底的に避けるようになった。 目が合えばぷいっと顔を背けて、話しかけられても返事もしない。心に厚く壁を作って、内からも外からもとことんシャットアウトした。 (甲洋なんかもう知らない! ずっとあの子の先生してればいいんだ!) もうスイーツなんか作ってやらないし、休みの日だって一緒に遊んでやるもんか。操はすっかり意固地になってしまった。 やがて甲洋も諦めたのか、必要以上に構ってくることはなくなった。どうせ長くは続かないとでも思っているのか。あるいはさすがの彼も、今回ばかりは腹に据えかねているのかもしれない。 いずれにしろ、互いの空気はどんどんギクシャクしていく一方だった。 そんな状態が一週間ほど続いた、ある夜のこと。 定休日を翌日に控え、操はバックヤードで帰り支度をしていた。三人分のロッカーは真ん中が操のもので、ネームプレートに『来主』と書かれている。 そこに脱いだエプロンを適当に突っ込んだところで、一騎が入ってきた。 「来主、ちょっといいか?」 「あ、うん」 頷きながらも、甲洋のことだろうなと察した操は表情を固くする。一応は店の空気を悪くしている自覚があるだけに、間に挟まれている一騎に対しても後ろめたさを感じてしまう。 「緊張するなって。少し話そう」 「わかった」 狭いバックヤードには小さな簡易テーブルが置いてあり、休憩スペースになっている。幾つか木製のスツールも置いてあり、一騎はそこに操を座らせると自分も隣に腰掛けた。 「甲洋のことだけど」 「……うん」 「あいつ、あれでかなり参ってるぞ」 「参ってる? 怒ってるの間違いじゃなく?」 操は一切の情報を遮っているため、彼が今どんな気持ちでいるかは分からない。けれど一方的に責めたうえに無視までしているのだから、不快に思わないわけがなかった。 分かっていてやっているのだから、自分でも最低だと思う。萎れたようにうつむく操に、一騎がやんわりと首を振った。 「怒ってはいないさ。ただ、かなりボーッとしてるみたいだ。来主の前では平気そうにしてるけど、さっきも熱々のコーヒーを膝にぶちまけてたし」 「えっ?」 一騎がつい、といった様子で苦笑している。 操がバックヤードに引っ込んだあと、甲洋はカウンター席で仕事終わりのコーヒーを飲もうとしていた。しかしカップを口につける前に傾けてしまい、膝にダバダバとこぼしてしまった。しかも一騎が声をかけるまで、ずっとぼんやりしたままカップを傾け続けていたというのだ。 膝からホカホカの湯気を立ち上らせた彼は、思いだしたようにたった一言「あつ……」とだけ呟いて、二階に引っ込んでしまったという。 「そんな甲洋、見たことない……」 俺も初めて見たよと言いながら、一騎が息を漏らしている。 「なにがあったかまでは分からないけど、ちゃんと二人で話して仲直りしな」 「……うん」 彼がそこまでダメージを受けていたなんて、思ってもみなかった。まだどこか信じられない気持ちでいる操の頭を、一騎の白い手がポンポンとあやすように優しく叩く。 「お前だけだよ。今のあいつをあんなふうにしちゃうのは」 「そうかな……」 「だいぶ凄いことだと思うぞ」 そう言って、一騎は眉をハの字にしながら笑みを浮かべた。 * 一騎は先に帰っていった。 操は先日あの女の子と甲洋が向かい合って座っていたテーブルに近づくと、椅子を引いて腰掛ける。 店内はカウンター側だけに明かりが灯されており、ホール側は薄暗い。ふと見上げれば、窓の外にはぽっかりと丸い月が浮いていた。 「……来主?」 そのままぼんやりと月を見上げていると、二階から甲洋が戻ってきた。ジーンズを履き替え、改めてコーヒーを飲みに来たらしい。 彼は操が居残っていることに意外そうな顔をしたが、それ以上はなにも言わずに厨房でコーヒーを淹れはじめた。 「……膝、だいじょうぶ?」 気まずい沈黙が流れるなか、操の方から口を開いた。すると手を止めた甲洋が、ため息まじりに「一騎か」と呟いた。 「うん。一騎、困ってた。ちゃんと話しろって言われたから、君を待ってた」 コーヒーを諦めた甲洋が、厨房から出て近づいてくる。テーブルに軽く片手を置くと、彼は操が口を開くより先に「ごめん」と言って頭をさげた。 「どうして君が謝るの?」 「来主に嫌な思いをさせた。こじれる前に、もっとうまくフォローするべきだったと思ってる」 「ちょ、ちょっと待ってよ。嫌な思いをさせたのはぼくの方でしょ? なにも悪いことしてないのに、君が謝るのはおかしいよ!」 操はとっさにテーブルに両手をつくと立ち上がった。 悪いのは自分だ。一方的に不満をぶつけ、彼を無視して不快にさせた。だから今度こそ謝って、ちゃんと仲直りしたかったのに。それなのに、どうしてなにも悪くないはずの彼が頭を下げるんだろう。これでは操も立つ瀬がない。 「おかしくないさ。俺にも後ろめたいことがあるからね」 「後ろめたいこと……?」 「……来主に妬かれて、気分がよかった」 あの女の子には悪いけど──と付け加えた甲洋に、操は意味がわからず首をかしげる。 すると彼はバツが悪そうに肩をすくめ、どこか自嘲的な笑みを浮かべた。 「ヤキモチを焼かれて嬉しかったってこと。俺は焼く方の気持ちしか知らなかったから。その感情がどれほどつらいかも、よく知っているはずなのに……こんなに気持ちがいいなんて思わなかった」 あの子を泣かせてしまったとき、あんなふうに咎めておいて。その実、彼は心地よさを感じていたのだ。幼い少女を相手に独占欲をむき出しにした操に、愉悦すら覚えていた。 だから彼女が帰ったあとも、厳しい言葉をかけるだけでなんのケアもしなかった。ぐちゃぐちゃとした慣れない感情を処理できず、操が苛立っているのを知りながら。無視なんてガキ臭い真似を放っておいたのも、そのためだ。 自分のために心を掻き乱す操が可愛くて、喜びの方が勝っていたから。 「だからごめん」 再び頭をさげた甲洋に、操は唖然としてしまった。ずっと腹を立てていた自分が、まるでバカみたいに思えてくる。悔しさまでこみ上げて、操はじわりと涙を浮かべた。 「ぼくのこと、面白がって見てたってこと……?」 「そう思われても仕方ない。言い訳はしないよ」 「そんな、そんなのズルいよ……ぼく、ずっと苦しかったのに……!」 「本当に悪かった。だけど、そろそろ機嫌を直して欲しい。いつまでも来主に口を利いてもらえないのは、正直かなり堪えるよ」 「そんなの君の勝手じゃん! バカ! 甲洋のバカ!」 拳で乱暴に涙を拭っていると、その手をやんわり掴まれた。代わりに長い指先で、そっと涙を拭われる。 「じゃあ、どうすれば機嫌を直してくれる?」 問われて、唇を噛みしめた。甲洋はうつむきがちで、自分より背の低い操に向かって上目遣いを向けている。唇は笑みをかたどってはいるけれど、眉は弱ったように下げられていた。 本当にズルいと、操は思う。まるで手のひらで転がすような真似をしたくせに、熱々のコーヒーをすべてこぼしてしまうくらいには、無視されて参っているのもまた事実だなんて。 「……なんでもしてくれるの?」 逆に上目遣いで問いかけると、甲洋は笑顔のまま頷いた。 「じゃあ……あの子には絶対しないこと、ぼくにして。今すぐ、ここで」 ただで起きるのは癪だった。少しくらい彼を困らせてやらないことには、操の気が収まらない。 「ここで?」 「してくれないなら、もう知らない」 自分たちにとって、ここは大勢の客をもてなす仕事場だ。たとえ二人きりであったとしても、甲洋が店で操に手を出してきたことは一度もない。 だからどうせできっこないに決まってる。そうたかをくくっていたら、彼は意外にもあっさり「わかった」と言って頷いた。 「えっ?」 自分から仕掛けたくせに驚いていると、手を引かれて抱き寄せられた。片腕がしっかりと腰にまわり、あごに添えられた手によって上向かされる。そして奪うように口づけられた。 「んぅ……っ!?」 戸惑う唇の隙間から、甲洋の舌が潜り込んでくる。表面を何度も擦り合わせるように舐められたと思えば、裏側をくすぐられて背筋が震えた。 いささか強引ともいえる口づけは、幾度も角度を変えながら呼吸する間も与えてくれない。あごに添えられていた手がうなじに回り、しっかりと固定されて顔を背けることもできなかった。 「んんッ、ぁ……、ふぁ……!」 ちゅうっと音を立てて舌先を吸われると、芯を抜き取られたように震えた身体から力が抜けた。 甲洋の肩に縋らせていた両手を、とっさに首に回してしがみつく。するとその途端、小刻みに震えていた膝の裏を強い力にさらわれた。 「ッ、ぁ……!?」 一瞬ふわっと身体が浮いたかと思うと、テーブルの上に座らされた。目線がわずかに甲洋を見下ろす位置まで高くなり、下からすくい上げるようにしてまた唇を奪われる。 操は彼の首に両腕を回したまま、今度は自らも舌を差しだした。まるで競うように絡め合い、夢中になって互いを貪る。 (ほんとに、ここでするんだ……) 痺れたようにぼぅっとする頭で、操はあの女の子のことを思いだしていた。 テーブルを消しカスでいっぱいにして、嫌いなはずの勉強を楽しいと言っていたあの子の心は、甲洋への好きでいっぱいに溢れていた。 彼女が大好きな優しい甲洋お兄ちゃんは、店でこんな悪いことをするようなやつなのに。彼と今からすることを想像しただけで、ゾクゾクとした背徳感に下腹が熱くなる。 「はぁっ、ん……ねぇ、脱がせて……」 息を弾ませながら言った操に、甲洋が「いいよ」と言って微笑んだ。 彼は畏まったようにひざまづき、操の靴を片方ずつ脱がせると、律儀に靴下まで脱がしていく。 その手つきをドキドキしながら見守っていると、次はズボンのホックを外された。下着ごと脱がせようとするのを、自らも腰を浮かせて軽く補助する。丁寧に片足ずつ引き抜かれ、床に下着とズボンがパサリと落ちた。 「……キスして」 さらに命じると、甲洋は操の右足首を持ち上げて、土踏まずにも手を添えながら甲の部分にキスをした。 そのまま皮膚に唇を這わせ、何度も音を立ててキスをしながら、徐々に上へと移動していく。膝小僧までたどり着くと、太ももの内側にまでキスをして、じわじわと舌を這わせていった。 「んっ……んぅ、ぁ、……は、ん……」 くすぐったさの中にある甘ったるい性感に、操の爪先がぎゅっと丸まる。 左ももをゆるゆると撫でさするだけだった甲洋の右手が、ゆるく兆している陰茎にそっと触れた。 「あぅ……っ、アッ、そこ……っ、やっ、ぁ……!」 右ももの付け根ギリギリのところを吸ったり舐めたりされながら、大きな手でしごかれる。弾力を帯びていく陰茎から、溢れた先走りがくちゅくちゅと卑猥な音を響かせた。 「もっと、ぁ……ッ、もっと、ここで……最後まで、して……」 甲洋の身体がぐんと伸び上がってきたのと同時に、上半身をテーブルに押し倒される。彼は操の片足を肩に引っ掛けるようにしながら持ち上げて、なおも内ももにキスをしながらふっと笑った。 「仰せのままに」 月明かりに照らされて、欲情した甲洋の瞳が潤んでいる。自分も同じような目をしているのかなと、どこか遠くでそう思いながら覆いかぶさる甲洋を抱き返した。 「んっ、ぁ、……はぁ、ぁ……っ」 操の首筋に顔を埋めた甲洋が、ちゅ、ちゅ、と音をたてて薄い皮膚を愛撫する。片手は操の陰茎をしごき、もう片方の手は重ね着したトレーナーの中をまさぐって、乳首の片方をこねくり回す。 「やぁ、あっ……ッ、ぁん、だめ……甲洋、だめぇ……っ」 「どうして? なにがダメなの? 来主」 「あっ、くぅ、ん……っ、ゃ……」 耳元で囁かれた声にすら身を震わせて、操は首を左右に振った。 「だってぇ、ぁ……っ、きもちくて……イッちゃう、からぁ……」 「いいよ、イッても」 「やだ、いや……だってぼく、甲洋のでイキたいんだもん……!」 ごくりと、甲洋が喉を鳴らす音がした。 M字に立てた両足の中心では、奥まった場所が疼いている。穿たれる快感を知っている孔は、すでに女のように濡れていた。甲洋との行為を重ねていくうち、変化する操の肉体がそうあることを望んだからだ。 「おねがい……はやく……」 とろんとした眼差しで急かす操に、甲洋は奥歯を噛みしめると心の中で「待って」と言った。彼にもあまり余裕がない。操の陰茎に触れていた指を奥へすべらせ、濡れた孔を探りはじめる。 「あっ、ぅ、ん……っ」 その刺激にキュッと窄まる孔を、長い指がじわじわとこじ開けていく。ゆっくりと慎重に抜き差ししながら、徐々に指を増やしていった。 「あぅ、アッ、ぁッ……いや、ぁ、はや……く、ねぇ、はやくぅ……!」 「ッ、わかったから」 甲洋の息も切羽詰まったように弾んでいた。彼は濡れた孔から指を引き抜き、自身の前をくつろげた。下着からいきり勃つ肉棒を取りだして、切っ先をヒクつく孔に押し当てる。少し圧をかけられただけで、そこはよだれを垂らしながら肉の先端を飲み込んだ。 「ひあぁっ、あ……ッ、くぅ、ん……、ぁ、すご、おっき、ぃ……ッ!」 操の両膝を割り開き、甲洋が奥まで塊を押し込んでくる。操はテーブルを爪で引っ掻き、背が浮くほど胸を反らしてその衝撃を受け止めた。 後孔にすべておさまりきると、痺れるような多幸感で満たされる。脈打つ甲洋を締めつけて、操は内ももでしっかりと彼の腰を挟み込んだ。 「ッ、くる、す」 操の身体の脇にそれぞれ手を置いた甲洋が、はぁ、と大きな息をつく。互いの肉が馴染むのにそう時間はかからず、彼は操と目を合わせると阿吽の呼吸で腰を揺らしはじめた。 「ふぁ……ッ、アッ、ぁ、こう、よ……ッ!」 最初は探るようにゆっくりと、硬くしこった男根がズルズルと引き抜かれ、また奥まで押し込まれる感覚に、操は大きく身震いをした。全身の皮膚が粟立ち、いっそヒリヒリするくらい感じてしまう。 甲洋がトレーナーをたくし上げ、ツンと尖った胸の片方に吸いついた。弱い場所を同時に責められ、操は彼の頭部を抱きしめながら嫌々と首を振る。 「やあぁっ、ん……ッ、アッ、それっ、それダメっ……、ぁ、好き、好きなの……っ、あんッ、ぁ、あぁ……っ!」 徐々に大きくなっていく動きに合わせて、テーブルが軋んだ音を立てる。 肉と肉がぶつかり合う音と、結合部から響く鈍い水音。圧倒的な質量が容赦なく操の弱いところを突き、濡れた肉路を力強く擦り上げていく。 「来主……来主……っ」 名前を呼ばれるだけでも、心ごとドロドロに溶けてしまいそうだった。操はいっそう甲洋にしがみつき、クロスした両足できつく彼の腰を締めつける。気持ちよすぎて、頭がどうにかなりそうだった。 「はぁっ、あん、ぁ……っ、こう、よ……ねぇ、好きって、言って……」 操を強く抱きしめて、甲洋が熱っぽい唇を耳の穴に押しつける。吐息混じりに「好きだよ」と囁かれ、尾骨から這い上がる痺れが甘く脳を蕩かした。 「くぅっ、ん……ぁっ、もっと、もっと言って……ぼくのこと、いっぱいいっぱい、好きって言ってぇ……!」 激しく揺さぶられながら、何度もねだってその背を掻き抱く。甲洋が繰返し「好きだ」と言って名前を呼ぶたびに、パチン、パチンと瞼の裏に星が散る。 「来主、来主」 「ふぁっ、ぁんッ、あっ、……ッ、とけ、ちゃう……とけちゃうよぉ……っ」 「好きだ、好き……来主のこと、誰よりも」 「うれ、し……はぁッ、ぁ……、ぼくもっ、ぼくもぉ……っ!」 君のことが一番大好き──そう言いたかったはずなのに、下肢へと伸ばされた甲洋の手が陰茎に触れたせいで、まともに言葉にすることができなかった。 彼は片腕にしっかりと操を抱いて、ズンズンと奥を穿ちながら腫れぼったくなっている性器をしごいた。もっとずっとこうしていたいのに、その大きすぎる快感は操を一気に絶頂へと追い込んでいく。 「やあぁっ、いく、だめ、だめぇ、もうイくぅッ……っ、あ、あぁ──ッ!」 ビクンッ、と激しく身体が跳ねた。甲洋の手の中で放逐された白濁が、下腹やテーブルにまで撒き散らされる。濡れた内壁がぎゅうっと収縮し、さざ波のように痙攣していた。 その刺激に腰を震わせ、甲洋が低い呻きをあげた。引き抜く間もなく、彼もまた操の中にすべてを吐きだす。 「ぁ、ぁー……っ、ぁ……、ふ……」 「はぁ……っ、ぅ……くる、す……っ」 ヒクヒクと余韻に震えて呆けたようになっている操の頬に、甲洋の右手が優しく触れる。操はその手に自分の手を重ね、甘えるように頬ずりをした。 「機嫌、なおった?」 唇同士を軽く触れ合わせたあと、甲洋が顔を覗き込んできた。機嫌なんかとっくになおっていたけれど、操はふと思いついて首を横に振る。もう一度、今度は額にキスを落とした甲洋が、「じゃあ次は?」と聞いていた。 「あのね」 「うん」 「ぼくと結婚して」 「結婚?」 操はこくりと頷いた。 「ぼくのこと、あの子より先に甲洋のお嫁さんにして」 「そこまで張り合う?」 「だってそうすれば、君のことずっと独り占めできるでしょ?」 すると甲洋は、珍しく頬を赤らめて目を丸くした。それからコホンと小さく咳払いをする。 「甲洋?」 「……準備をするから、ちょっと待ってて」 「あっ、ん……!」 ナカから性器が引き抜かれ、操はぶるりと身を震わせた。ほぅっと息をついていると、甲洋がテーブルの隅にあるナプキンに手をのばす。それをくしゃくしゃと丸めて柔らかくしてから、操の前と後ろをサッと清めた。 さらに自分のモノも軽く清めて、手早く身なりを整える。 「なにするの?」 不思議に思いながら起き上がると、甲洋は操のトレーナーの裾を引き下げて前を隠してくれた。そしてスタスタと店の片隅へと歩いていく。 なんだかよく分からないが、準備とやらには手間がかかるらしい。操はテーブルに腰掛けたまま、足をブラブラとさせて待つことにした。 甲洋が向かったのは、店の隅に置かれた丸い木製のテーブルだった。白いレース編みのテーブルクロスが敷かれており、その上には造花が刺さった花瓶がある。ピンク色をした、薔薇の造花の花束だ。 彼は花瓶から引き抜いた花束と、テーブルクロスを持って戻ってきた。それを操の頭にふわりと被せ、花束を両手に持たせる。 「これなに?」 「ブーケとベールの代わりだよ。来主は花嫁になりたいんだろ?」 「うん、なりたい!」 なにが起こるのかとワクワクしている操に、甲洋はまた小さく咳払いをした。こころなしか、さっきよりもどこか畏まった様子だ。 「指輪はないけど、それはいつかね」 甲洋は造花の花束を持つ操の両手を、自分の両手で包み込んだ。真剣な眼差しを向けられると、急に場の空気が厳かになった気がして、操も自然と背筋を伸ばす。 始まりの合図をするように、甲洋がすぅっと深呼吸をした。 「新婦、来主操。あなたは春日井甲洋を夫とし、病めるときも、健やかなるときも、命ある限り互いを支え、愛しあうことを誓いますか?」 「なにそれ? なにかの呪文?」 「来主……」 甲洋が大きなため息をつく。 「そこはちゃんと誓わなきゃ。俺たち結婚するんだろ?」 「うん、する! じゃあ誓うよ! 誓います!」 「よし」 「甲洋は? えっと、病めるときも、健やかなるときも……なんだっけ?」 いまいち締まりのない花嫁に、新郎はふっと苦笑する。それでもまっすぐに目と目を合わせて、「誓うよ、俺も」と言った。 「ねぇ次は? どうするの?」 「誓いのキスだよ」 甲洋は操の手を離し、レースの裾を軽く摘むと持ち上げた。裾が頭のてっぺんに来るように被せられると、薄く遮られていた甲洋の顔がよく見える。 有り合わせのウェディングベールと、ピンクの薔薇の造花のブーケ。甲洋は少し潤んだ瞳を細め、嬉しそうに笑みを浮かべて息を漏らした。 「本当に花嫁みたいだ。綺麗だよ、来主」 「えへへ。なんかよく分かんないけど、嬉しいよ」 肩をすくめて照れ笑いした操に、甲洋も照れたように肩をすくめた。互いに頬が赤くなっているのが、月明かりの中でよく分かる。 「じゃあ、するよ」 こくりとうなずくと、甲洋が操の両肩にそれぞれ手をやった。少し緊張した様子で顔を近づけてくるので、操も胸をドキドキさせながら目を閉じる。 さっきまで舌を絡め合う激しいキスをしていたのに、今更な気がしておかしな気分だ。 けれど柔らかく重ねられた口づけは、今までにない特別な意味を持っている。病めるときも、健やかなるときも。これはお互い一番に好きあっている同士が、ずっと一緒にいることを約束しあうためのキスだから。 「これで終わり?」 キスのあと近い距離で見つめ合ったまま、少しだけ首をかしげた操に彼は満足そうに頷いた。 「これで今日から、ぼくは甲洋のお嫁さんだね」 「そうだね」 甲洋の頬はほのかに赤いままだった。操の頬も熱いまま。こんなに幸せな気持ちになるのだから、あの女の子が憧れるのもよく分かる。だから自分があのときどれだけ彼女を傷つけたのかも、痛いほど理解できてしまった。そして甲洋にも。 「甲洋、ぼくもごめんね。ひどいこと言って、無視したりして」 「いいよ、来主は謝らなくても」 「それじゃダメだよ。あ、そうだ! ぼくもお詫びに、君のお願いなんでも聞くよ!」 操が身を乗りだすと、甲洋が目線だけ天井にやって「うーん」となにかを考え込んだ。それから「あ」と声をあげ、視線を戻す。 「来主のアップルパイが食べたいな」 「アップルパイ? そんなことでいいの?」 「あのとき食べそこねたからさ。俺だって悔しかったんだ」 「へぇ~、君って意外と食いしん坊だね」 「そういうことじゃなくってさ……」 参った様子で苦笑いを浮かべる甲洋に、操は声をあげて笑ってしまった。本当はちゃんと分かってる。彼は普段、まったく食べ物に執着しない。そもそも食べなくたって生きられるのだが、ヒトだった頃からそうなのだろう。 だけど、操が作ったスイーツだけは特別なのだ。 「いいよ! じゃあ、とびきり甘いのを作ってあげるね!」 造花の花束を持ったまま、甲洋のうなじに手を添えると引き寄せた。チュッと軽やかにキスすると、彼は目を丸くしたあと笑顔を見せる。そして純白のレースごと、操の身体を抱きしめた。 「楽しみにしてるよ」 甘いささやきに頷いて、操もまたしっかりと甲洋を抱き返す。 窓から射し込む月の祝福に、いつまでも優しく包まれながら。胸をいっぱいに満たす幸福が、どこにも逃げていかないように。 ←戻る ・ Wavebox👏
閉店後の楽園にて。
操はテーブルに両手をつくと身を乗り出して、伝票や出納帳が入った棚を整理する甲洋の背中に声をかけた。
「お母さんと一緒にアップルパイを焼くんだ。君も食べにおいでよ!」
明日は週に一度の定休日。二人は休みの日でも、いつだって当たり前のように一緒に過ごす。釣りに出かけたり、フリーマーケットを覗きに行ったり、部屋でのんびり過ごしたり。
だから明日も、当然そうなるのだとばかり思っていたのだが。
「せっかくだけど、明日は大事な用があるから。来主の家には行けないよ」
振り向いた甲洋は、残念そうに眉を下げると軽く肩をすくめて見せた。
てっきり二つ返事で了解されるものとばかり思っていた操は、顔をしかめて不満を漏らす。
「えー!? 用ってなに? アップルパイよりも大事なこと?」
「頼まれごとがあって、少しね」
「なにそれ! 休みの日はぼくと遊ぶ決まりなのに!」
唇を尖らせる操に、甲洋は苦笑して「そんな決まりないだろ」と言った。
それはそうだが、操の中にある明日の予定表には、当然のように甲洋の存在が組み込まれている。容子とアップルパイを作って、それを三人で食べる光景を想像しては、胸を躍らせていたのだが。
「それって明日じゃなきゃダメなの? 断っちゃえばいいじゃんか」
「ダメだ。先約を反故にすることはできないよ」
棚の整理を再開する甲洋に、操はぶすくれた顔で肩を怒らせた。
「ふーん、じゃあいいよ! だったら君の分のアップルパイも、ぼくがぜーんぶ食べちゃうからね! あとで欲しくなっても知らないよ!」
「そんなにいじけるなって。次の休みは空けておくから」
「別にいじけてなんかないもん!」
プイと顔を背けると、振り向いた甲洋がやれやれと短いため息をついた。
*
その翌日。
操は容子と一緒にアップルパイ作りに勤しんだ。
生地は出来合いのパイシートを使わずに、たっぷりのバターを練り込ませてこねあげた。格子状にサックリと焼けた表面には、あんずのジャムをまんべんなく塗ってツヤツヤにする。
シナモンと香ばしい甘酸っぱさで部屋が満たされる頃には、ちょうど三時のおやつに丁度いい時間になっていた。
さっそく紅茶と一緒に舌つづみを打っていると、容子がふと
「せっかくだし、甲洋くんにも届けてあげたら?」
と言いだした。
操はフォークの先をくわえたまま、アップルパイの食べカスが散らばる皿を見つめてうつむいた。
昨日はつい腹を立ててしまったが、甲洋は責められるようなことなんかしていない。それなのに一方的に不満をぶつけ、あのまま一言も口を利かずに帰ってきてしまった。
(甲洋の用事、もう終わったかなぁ……?)
フォークを皿に戻し、ふと窓の方へ目をやった。だいぶ日が傾いて、空に茜色がさしている。
昨日はへそを曲げるのに忙しくて、なんの用事があるのかまでは聞きそびれてしまった。だけどこの時間なら、もう事は済んでいるかもしれない。
(せっかくこんなに上手に作れたし、やっぱり持ってってあげようかな)
そうしたら、甲洋はきっと喜ぶに違いない。彼はいつも操が作るスイーツを、「上手くできたね」と言って褒めてくれる。ついこないだ一騎の誕生日に作ったスイーツも、なぜか作った操以上に甲洋の方が得意気だった。
(持ってって、昨日のことを謝ろう)
そうと決まれば、いてもたってもいられなくなってしまった。
「お母さん! ぼく今からこれ届けてくるよ!」
操はさっそくアップルパイを切り分けて、クラフト紙の小さなケーキボックスに詰め込んだ。
容子は「きっと喜ぶわよ」と嬉しそうに笑い、ケーキボックスに赤いリボンを可愛らしく結んでくれた。
*
手っ取り早く操がワープで向かったのは、店の厨房だった。
もし甲洋の用が済んでいないようなら、ひとまず冷蔵庫の中に箱を入れておく──つもりでいたのだが。
「来主?」
カウンターの向こうにある店のホールに、甲洋がいた。窓際の席についている彼は、眼鏡のレンズ越しにキョトンとしている。
「あ、甲洋! あのさ、昨日はごめ……って、その子は?」
さっそく謝ろうとした操だったが、甲洋と向かい合って座っている小さな女の子に気がついて、パチパチと瞬きをした。
白い襟がついた紺のワンピースを着て、肩まである黒髪を二つに結った可愛らしい女の子。操はその顔に見覚えがあった。
彼女は店の常連で、普段は母親と二人で訪れている。誰にでもよく懐くため、他の常連客からも可愛がられる存在だった。
そんな彼女は机に向かって熱心に鉛筆を走らせていたが、操に気づくと大きな目をまん丸に見開いた。
「あ、操ちゃん! どうしてそんなところにいるのー?」
無邪気な声が驚きに弾んでいる。まだ八歳かそこらの幼い少女は、まさか操がワープでここまでやって来たなんて知りもしない。
曖昧に頷きながら、操はキッチンから出て二人がいるテーブルに近づいた。
テーブルには消しカスが散らばり、広げられている算数ドリルには足し算や引き算の問題が並んでいる。
「なにしてるの?」
「甲洋お兄ちゃんにおべんきょ見てもらってるの! ずっと前から約束してたんだぁ!」
ねー、と同意を求められた甲洋が、やんわりと彼女に笑いかけている。
「ふぅん、そうなんだ……」
気のない返事で甲洋を見ると、彼は心の中で「どうかした?」と問いかけてきた。操はなんとなくそれを無視して、顔を背けると心を閉じる。
(頼まれごとってこれのこと? ぼくより他の子と約束してたんだ)
黙って唇を尖らせる操に、甲洋は肩をすくめて息を漏らした。そして席を立ち、空になったグラスを手に取ると「ジュースのおかわりを持ってくるよ」と言って、その場を離れる。
女の子が「はーい!」と元気に返事した。
「操ちゃん! ここ座っていいよ!」
女の子がすぐ隣の椅子の座面をポンポンと叩いている。
普段なら操も笑顔で応じるところだが、今日は少しばかり複雑だ。胸に雨雲がかかったようで、なんだか面白くない。
それでもおとなしく腰掛けると、彼女はクンクンと鼻を鳴らして操の膝の上にあるケーキボックスに顔を近づけた。
「それなぁに? あまくておいしそうなにおいがする!」
「あっ、こ、これはダメ!」
操はとっさに膝から箱を退け、テーブルの隅っこに置いてしまう。女の子が残念そうに唇を尖らせたが、すかさず「算数やってるの?」と話を逸らすと笑顔になった。
「うん! あのね、お兄ちゃんガッコの先生よりやさしいの! わたし算数キライだけど、お兄ちゃんといっしょだと楽しいよ!」
「いつからここは塾になったのさ……」
「操ちゃん? どしたのぉ?」
「うぅん、なんでもないよ!」
女の子は「そっか~」と言うと、操にぴったり身体をくっつけてきた。小さな両手を口許に添え、耳のそばでこしょこしょと話しはじめる。
「あのね、操ちゃんにだけおしえてあげる。お兄ちゃんにはナイショのこと」
「内緒のこと?」
甲洋の方へ視線をやると、彼は厨房に立ってこちらに背を向けている。
いくら声を潜めたところで、どうせ筒抜けなのにと思いながらも、黙って耳を傾けた。
「うん。わたしね、大きくなったら甲洋お兄ちゃんとケッコンするの。それでね、およめさんにしてもらうの」
「え!?」
操はとっさに声をあげ、ガタンと大きく椅子を揺らして立ち上がった。
「だ、ダメだよ! そんなのダメ! 結婚なんて、絶対ダメ!」
結婚、というものがどういうものであるかくらい、操だってある程度は学習済みだ。お互い一番に好きあっている同士が、ずっと一緒にいることを約束しあう。そしてそれは誰とでもしていいものじゃない、らしい。
だからもしこの子と甲洋が結婚してしまったら──。
(ぼく、もう甲洋のこと独り占めできないじゃん!)
ついムキになって語気を荒げてしまった操に、女の子はポカンとしたあと徐々に表情を歪ませた。顔の中心にぎゅうっとシワを寄せ、目からは大粒の涙を溢れさせ、下唇を噛みしめながら身体をヒクヒクと震わせる。やがて大きな声で泣きだしてしまった。
「ぅ、うわぁぁん! みざおぢゃんのバカ! わあぁ~~~んッ!!」
「来主……」
呆然としているところに、二人分のオレンジジュースを持った甲洋が戻ってきた。一つは操のものだろう。彼は操に呆れた目を向け、テーブルにジュースを置くと女の子のそばに膝をついた。
彼女はすかさず甲洋にしがみつき、なおもわんわんと泣きわめく。
「おにいぢゃぁんっ! わあぁ~んっ!」
「よしよし、いい子だから。泣かないで」
涙と鼻水ですっかり肩を汚されながらも、甲洋は小さな身体を抱き返してポンポンと背中を叩いた。そして、改めて咎めるような視線を寄こす。
「ち、違うよ! ぼくなにも悪いことなんか……っ」
「みざおぢゃんがぁっ、みざおぢゃんが、イジワル言ったぁ!!」
「来主、ちゃんと謝りな」
「なんで!? ぼく意地悪なんかしてないもん!」
「うわあぁぁぁぁん!!」
悲鳴のような泣き声が、心にダイレクトに響いてくる。ぐちゃぐちゃとして言葉にならない痛みが伝わり、操は思わず胸を押さえた。
とっさのこととはいえ、傷つけてしまったことは事実だ。頭では分かっている。甲洋が言う通り、操が折れない限りこの最悪な状況は終わらない。
「……ごめん」
絞りだした謝罪の言葉は、けれど泣きわめく女の子の耳には届かなかった。
追いつめられた末の苦し紛れに、操はテーブルに置いていたケーキボックスを手に取ると、女の子に差しだした。
「ッ、これ……!」
鮮やかな赤いリボンに、彼女はピタリと泣くのをやめる。
「……あげる」
「いいの……?」
「うん……ひどいこと言って、ごめん……」
女の子は甲洋から離れると、ケーキボックスを受け取った。テーブルに置いてリボンをほどき、蓋を開けると目をキラキラとさせる。
「わあぁ、アップルパイだぁ~! おいしそう!」
「……それ、食べていいよ」
「ほんとに? ありがとう操ちゃん!」
泣いていたのが嘘のように、女の子の顔にはすっかり笑顔が戻っていた。
「皿とフォークを用意してくるよ」
甲洋がホッとした様子で息をつき、女の子の頭を軽く撫でるとキッチンに向かっていく。その何気ない仕草にすら、操の胸はささくれ立った。いつもだったら、あんなふうに頭を撫でられるのは自分の役目なのに。
(分かってるくせに。甲洋のために持ってきたアップルパイだってこと)
操はうつむいたまま、その背中を横目で睨みつけることしかできなかった。
*
女の子がアップルパイを食べ終えるころ、彼女の母親が迎えに来た。
甲洋とそう歳の変わらない、若い母親だ。彼女は以前から娘の算数嫌いについて、彼に相談していたらしい。お兄ちゃんと一緒なら勉強する、なんて言って聞かないものだから、彼に一日だけ先生の役を頼み込んだそうだ。
いつの間にそんな話になっていたのか、いつも店に出ているはずの自分がまるで把握していなかったことにも、操は少なからず不満を覚えた。
娘が我儘を言ってごめんなさい、なんて申し訳なさそうに甲洋を見る母親の頬が、心なしか赤くなっていたことも含めて。
そのときふと、前に剣司が言っていたことを思いだした。女性客の視線を集める甲洋を見て、剣司はどこかひやかすように「ああいうのを色男って言うんだぞ」と教えてくれた。女性にモテモテな優男、という意味らしい。確かに甲洋のことに違いないと、操は思った。
女の子は母親に手を引かれ、「お兄ちゃん、また先生してね!」と言って満足そうに帰っていった。
二人きりになってからも、操の不機嫌は収まらなかった。
消しカスなどが散らばるテーブルを掃除している背中を、カウンターに寄りかかって睨みつける。
「あの子と約束してたんだ。ぼくんちには来なかったくせに」
不満もあらわに嫌味を言うと、手を止めた甲洋が「しょうがないだろ」と言って振り向いた。
彼の言う通りだ。しょうがなかった。先に約束していたのはあちらの方で、甲洋が責められる謂れはない。だからちゃんと謝ろうと思って来たはずなのに、今の操は何もかもが面白くなくてイライラしていた。
「でもぼくは君に来てほしかった! アップルパイだって、君に食べてほしかったのに!」
「俺だって食べたかったよ。来主のアップルパイ」
「でもあの子が食べちゃった! だってぜんぜん泣き止んでくれないんだもん……だから仕方なく……っ」
「来主がムキになって否定するからだ。あんな小さな子を泣かせて──」
そこまで言って、甲洋は言葉を切ると短く「あぁ」と嘆声を漏らした。
「お前もそう変わらないんだっけ」
操は思わず下唇を噛みしめた。甲洋にとって、こうして駄々をこねる操とあの女の子は、たいして違いがないのだろう。なんなら操の方が、よっぽど我儘で聞き分けがない。
だけど自分でもよく分からないのだ。感情を上手く処理できない。だってあの子が、あんなことを言うから。
──わたしね、大きくなったら甲洋お兄ちゃんとケッコンするの。
あの言葉が、どうしようもなく心を曇らせている。
嫌だった。甲洋が、甲洋のことを一番に好きだと思っている女の子と、二人だけで過ごしていたこと。アップルパイだって、甲洋のために持ってきたのに。せっかく上手にできたのに。褒めてほしかったのに。
自分より先に、他の誰かと約束なんかしてほしくなかったのに──。
「どうせぼくはワガママな子供だよ! 甲洋はぼくよりも、あの子と一緒にいるほうがいいんだ!」
「誰もそんなこと言ってないだろ」
「もういい! 君なんか、あの子と結婚でもなんでもすればいいじゃん!」
「来主!」
甲洋が手を伸ばしかけるのが見えたが、操は逃げるようにそこからワープで逃げだした。
*
次の日から、操は甲洋を徹底的に避けるようになった。
目が合えばぷいっと顔を背けて、話しかけられても返事もしない。心に厚く壁を作って、内からも外からもとことんシャットアウトした。
(甲洋なんかもう知らない! ずっとあの子の先生してればいいんだ!)
もうスイーツなんか作ってやらないし、休みの日だって一緒に遊んでやるもんか。操はすっかり意固地になってしまった。
やがて甲洋も諦めたのか、必要以上に構ってくることはなくなった。どうせ長くは続かないとでも思っているのか。あるいはさすがの彼も、今回ばかりは腹に据えかねているのかもしれない。
いずれにしろ、互いの空気はどんどんギクシャクしていく一方だった。
そんな状態が一週間ほど続いた、ある夜のこと。
定休日を翌日に控え、操はバックヤードで帰り支度をしていた。三人分のロッカーは真ん中が操のもので、ネームプレートに『来主』と書かれている。
そこに脱いだエプロンを適当に突っ込んだところで、一騎が入ってきた。
「来主、ちょっといいか?」
「あ、うん」
頷きながらも、甲洋のことだろうなと察した操は表情を固くする。一応は店の空気を悪くしている自覚があるだけに、間に挟まれている一騎に対しても後ろめたさを感じてしまう。
「緊張するなって。少し話そう」
「わかった」
狭いバックヤードには小さな簡易テーブルが置いてあり、休憩スペースになっている。幾つか木製のスツールも置いてあり、一騎はそこに操を座らせると自分も隣に腰掛けた。
「甲洋のことだけど」
「……うん」
「あいつ、あれでかなり参ってるぞ」
「参ってる? 怒ってるの間違いじゃなく?」
操は一切の情報を遮っているため、彼が今どんな気持ちでいるかは分からない。けれど一方的に責めたうえに無視までしているのだから、不快に思わないわけがなかった。
分かっていてやっているのだから、自分でも最低だと思う。萎れたようにうつむく操に、一騎がやんわりと首を振った。
「怒ってはいないさ。ただ、かなりボーッとしてるみたいだ。来主の前では平気そうにしてるけど、さっきも熱々のコーヒーを膝にぶちまけてたし」
「えっ?」
一騎がつい、といった様子で苦笑している。
操がバックヤードに引っ込んだあと、甲洋はカウンター席で仕事終わりのコーヒーを飲もうとしていた。しかしカップを口につける前に傾けてしまい、膝にダバダバとこぼしてしまった。しかも一騎が声をかけるまで、ずっとぼんやりしたままカップを傾け続けていたというのだ。
膝からホカホカの湯気を立ち上らせた彼は、思いだしたようにたった一言「あつ……」とだけ呟いて、二階に引っ込んでしまったという。
「そんな甲洋、見たことない……」
俺も初めて見たよと言いながら、一騎が息を漏らしている。
「なにがあったかまでは分からないけど、ちゃんと二人で話して仲直りしな」
「……うん」
彼がそこまでダメージを受けていたなんて、思ってもみなかった。まだどこか信じられない気持ちでいる操の頭を、一騎の白い手がポンポンとあやすように優しく叩く。
「お前だけだよ。今のあいつをあんなふうにしちゃうのは」
「そうかな……」
「だいぶ凄いことだと思うぞ」
そう言って、一騎は眉をハの字にしながら笑みを浮かべた。
*
一騎は先に帰っていった。
操は先日あの女の子と甲洋が向かい合って座っていたテーブルに近づくと、椅子を引いて腰掛ける。
店内はカウンター側だけに明かりが灯されており、ホール側は薄暗い。ふと見上げれば、窓の外にはぽっかりと丸い月が浮いていた。
「……来主?」
そのままぼんやりと月を見上げていると、二階から甲洋が戻ってきた。ジーンズを履き替え、改めてコーヒーを飲みに来たらしい。
彼は操が居残っていることに意外そうな顔をしたが、それ以上はなにも言わずに厨房でコーヒーを淹れはじめた。
「……膝、だいじょうぶ?」
気まずい沈黙が流れるなか、操の方から口を開いた。すると手を止めた甲洋が、ため息まじりに「一騎か」と呟いた。
「うん。一騎、困ってた。ちゃんと話しろって言われたから、君を待ってた」
コーヒーを諦めた甲洋が、厨房から出て近づいてくる。テーブルに軽く片手を置くと、彼は操が口を開くより先に「ごめん」と言って頭をさげた。
「どうして君が謝るの?」
「来主に嫌な思いをさせた。こじれる前に、もっとうまくフォローするべきだったと思ってる」
「ちょ、ちょっと待ってよ。嫌な思いをさせたのはぼくの方でしょ? なにも悪いことしてないのに、君が謝るのはおかしいよ!」
操はとっさにテーブルに両手をつくと立ち上がった。
悪いのは自分だ。一方的に不満をぶつけ、彼を無視して不快にさせた。だから今度こそ謝って、ちゃんと仲直りしたかったのに。それなのに、どうしてなにも悪くないはずの彼が頭を下げるんだろう。これでは操も立つ瀬がない。
「おかしくないさ。俺にも後ろめたいことがあるからね」
「後ろめたいこと……?」
「……来主に妬かれて、気分がよかった」
あの女の子には悪いけど──と付け加えた甲洋に、操は意味がわからず首をかしげる。
すると彼はバツが悪そうに肩をすくめ、どこか自嘲的な笑みを浮かべた。
「ヤキモチを焼かれて嬉しかったってこと。俺は焼く方の気持ちしか知らなかったから。その感情がどれほどつらいかも、よく知っているはずなのに……こんなに気持ちがいいなんて思わなかった」
あの子を泣かせてしまったとき、あんなふうに咎めておいて。その実、彼は心地よさを感じていたのだ。幼い少女を相手に独占欲をむき出しにした操に、愉悦すら覚えていた。
だから彼女が帰ったあとも、厳しい言葉をかけるだけでなんのケアもしなかった。ぐちゃぐちゃとした慣れない感情を処理できず、操が苛立っているのを知りながら。無視なんてガキ臭い真似を放っておいたのも、そのためだ。
自分のために心を掻き乱す操が可愛くて、喜びの方が勝っていたから。
「だからごめん」
再び頭をさげた甲洋に、操は唖然としてしまった。ずっと腹を立てていた自分が、まるでバカみたいに思えてくる。悔しさまでこみ上げて、操はじわりと涙を浮かべた。
「ぼくのこと、面白がって見てたってこと……?」
「そう思われても仕方ない。言い訳はしないよ」
「そんな、そんなのズルいよ……ぼく、ずっと苦しかったのに……!」
「本当に悪かった。だけど、そろそろ機嫌を直して欲しい。いつまでも来主に口を利いてもらえないのは、正直かなり堪えるよ」
「そんなの君の勝手じゃん! バカ! 甲洋のバカ!」
拳で乱暴に涙を拭っていると、その手をやんわり掴まれた。代わりに長い指先で、そっと涙を拭われる。
「じゃあ、どうすれば機嫌を直してくれる?」
問われて、唇を噛みしめた。甲洋はうつむきがちで、自分より背の低い操に向かって上目遣いを向けている。唇は笑みをかたどってはいるけれど、眉は弱ったように下げられていた。
本当にズルいと、操は思う。まるで手のひらで転がすような真似をしたくせに、熱々のコーヒーをすべてこぼしてしまうくらいには、無視されて参っているのもまた事実だなんて。
「……なんでもしてくれるの?」
逆に上目遣いで問いかけると、甲洋は笑顔のまま頷いた。
「じゃあ……あの子には絶対しないこと、ぼくにして。今すぐ、ここで」
ただで起きるのは癪だった。少しくらい彼を困らせてやらないことには、操の気が収まらない。
「ここで?」
「してくれないなら、もう知らない」
自分たちにとって、ここは大勢の客をもてなす仕事場だ。たとえ二人きりであったとしても、甲洋が店で操に手を出してきたことは一度もない。
だからどうせできっこないに決まってる。そうたかをくくっていたら、彼は意外にもあっさり「わかった」と言って頷いた。
「えっ?」
自分から仕掛けたくせに驚いていると、手を引かれて抱き寄せられた。片腕がしっかりと腰にまわり、あごに添えられた手によって上向かされる。そして奪うように口づけられた。
「んぅ……っ!?」
戸惑う唇の隙間から、甲洋の舌が潜り込んでくる。表面を何度も擦り合わせるように舐められたと思えば、裏側をくすぐられて背筋が震えた。
いささか強引ともいえる口づけは、幾度も角度を変えながら呼吸する間も与えてくれない。あごに添えられていた手がうなじに回り、しっかりと固定されて顔を背けることもできなかった。
「んんッ、ぁ……、ふぁ……!」
ちゅうっと音を立てて舌先を吸われると、芯を抜き取られたように震えた身体から力が抜けた。
甲洋の肩に縋らせていた両手を、とっさに首に回してしがみつく。するとその途端、小刻みに震えていた膝の裏を強い力にさらわれた。
「ッ、ぁ……!?」
一瞬ふわっと身体が浮いたかと思うと、テーブルの上に座らされた。目線がわずかに甲洋を見下ろす位置まで高くなり、下からすくい上げるようにしてまた唇を奪われる。
操は彼の首に両腕を回したまま、今度は自らも舌を差しだした。まるで競うように絡め合い、夢中になって互いを貪る。
(ほんとに、ここでするんだ……)
痺れたようにぼぅっとする頭で、操はあの女の子のことを思いだしていた。
テーブルを消しカスでいっぱいにして、嫌いなはずの勉強を楽しいと言っていたあの子の心は、甲洋への好きでいっぱいに溢れていた。
彼女が大好きな優しい甲洋お兄ちゃんは、店でこんな悪いことをするようなやつなのに。彼と今からすることを想像しただけで、ゾクゾクとした背徳感に下腹が熱くなる。
「はぁっ、ん……ねぇ、脱がせて……」
息を弾ませながら言った操に、甲洋が「いいよ」と言って微笑んだ。
彼は畏まったようにひざまづき、操の靴を片方ずつ脱がせると、律儀に靴下まで脱がしていく。
その手つきをドキドキしながら見守っていると、次はズボンのホックを外された。下着ごと脱がせようとするのを、自らも腰を浮かせて軽く補助する。丁寧に片足ずつ引き抜かれ、床に下着とズボンがパサリと落ちた。
「……キスして」
さらに命じると、甲洋は操の右足首を持ち上げて、土踏まずにも手を添えながら甲の部分にキスをした。
そのまま皮膚に唇を這わせ、何度も音を立ててキスをしながら、徐々に上へと移動していく。膝小僧までたどり着くと、太ももの内側にまでキスをして、じわじわと舌を這わせていった。
「んっ……んぅ、ぁ、……は、ん……」
くすぐったさの中にある甘ったるい性感に、操の爪先がぎゅっと丸まる。
左ももをゆるゆると撫でさするだけだった甲洋の右手が、ゆるく兆している陰茎にそっと触れた。
「あぅ……っ、アッ、そこ……っ、やっ、ぁ……!」
右ももの付け根ギリギリのところを吸ったり舐めたりされながら、大きな手でしごかれる。弾力を帯びていく陰茎から、溢れた先走りがくちゅくちゅと卑猥な音を響かせた。
「もっと、ぁ……ッ、もっと、ここで……最後まで、して……」
甲洋の身体がぐんと伸び上がってきたのと同時に、上半身をテーブルに押し倒される。彼は操の片足を肩に引っ掛けるようにしながら持ち上げて、なおも内ももにキスをしながらふっと笑った。
「仰せのままに」
月明かりに照らされて、欲情した甲洋の瞳が潤んでいる。自分も同じような目をしているのかなと、どこか遠くでそう思いながら覆いかぶさる甲洋を抱き返した。
「んっ、ぁ、……はぁ、ぁ……っ」
操の首筋に顔を埋めた甲洋が、ちゅ、ちゅ、と音をたてて薄い皮膚を愛撫する。片手は操の陰茎をしごき、もう片方の手は重ね着したトレーナーの中をまさぐって、乳首の片方をこねくり回す。
「やぁ、あっ……ッ、ぁん、だめ……甲洋、だめぇ……っ」
「どうして? なにがダメなの? 来主」
「あっ、くぅ、ん……っ、ゃ……」
耳元で囁かれた声にすら身を震わせて、操は首を左右に振った。
「だってぇ、ぁ……っ、きもちくて……イッちゃう、からぁ……」
「いいよ、イッても」
「やだ、いや……だってぼく、甲洋のでイキたいんだもん……!」
ごくりと、甲洋が喉を鳴らす音がした。
M字に立てた両足の中心では、奥まった場所が疼いている。穿たれる快感を知っている孔は、すでに女のように濡れていた。甲洋との行為を重ねていくうち、変化する操の肉体がそうあることを望んだからだ。
「おねがい……はやく……」
とろんとした眼差しで急かす操に、甲洋は奥歯を噛みしめると心の中で「待って」と言った。彼にもあまり余裕がない。操の陰茎に触れていた指を奥へすべらせ、濡れた孔を探りはじめる。
「あっ、ぅ、ん……っ」
その刺激にキュッと窄まる孔を、長い指がじわじわとこじ開けていく。ゆっくりと慎重に抜き差ししながら、徐々に指を増やしていった。
「あぅ、アッ、ぁッ……いや、ぁ、はや……く、ねぇ、はやくぅ……!」
「ッ、わかったから」
甲洋の息も切羽詰まったように弾んでいた。彼は濡れた孔から指を引き抜き、自身の前をくつろげた。下着からいきり勃つ肉棒を取りだして、切っ先をヒクつく孔に押し当てる。少し圧をかけられただけで、そこはよだれを垂らしながら肉の先端を飲み込んだ。
「ひあぁっ、あ……ッ、くぅ、ん……、ぁ、すご、おっき、ぃ……ッ!」
操の両膝を割り開き、甲洋が奥まで塊を押し込んでくる。操はテーブルを爪で引っ掻き、背が浮くほど胸を反らしてその衝撃を受け止めた。
後孔にすべておさまりきると、痺れるような多幸感で満たされる。脈打つ甲洋を締めつけて、操は内ももでしっかりと彼の腰を挟み込んだ。
「ッ、くる、す」
操の身体の脇にそれぞれ手を置いた甲洋が、はぁ、と大きな息をつく。互いの肉が馴染むのにそう時間はかからず、彼は操と目を合わせると阿吽の呼吸で腰を揺らしはじめた。
「ふぁ……ッ、アッ、ぁ、こう、よ……ッ!」
最初は探るようにゆっくりと、硬くしこった男根がズルズルと引き抜かれ、また奥まで押し込まれる感覚に、操は大きく身震いをした。全身の皮膚が粟立ち、いっそヒリヒリするくらい感じてしまう。
甲洋がトレーナーをたくし上げ、ツンと尖った胸の片方に吸いついた。弱い場所を同時に責められ、操は彼の頭部を抱きしめながら嫌々と首を振る。
「やあぁっ、ん……ッ、アッ、それっ、それダメっ……、ぁ、好き、好きなの……っ、あんッ、ぁ、あぁ……っ!」
徐々に大きくなっていく動きに合わせて、テーブルが軋んだ音を立てる。
肉と肉がぶつかり合う音と、結合部から響く鈍い水音。圧倒的な質量が容赦なく操の弱いところを突き、濡れた肉路を力強く擦り上げていく。
「来主……来主……っ」
名前を呼ばれるだけでも、心ごとドロドロに溶けてしまいそうだった。操はいっそう甲洋にしがみつき、クロスした両足できつく彼の腰を締めつける。気持ちよすぎて、頭がどうにかなりそうだった。
「はぁっ、あん、ぁ……っ、こう、よ……ねぇ、好きって、言って……」
操を強く抱きしめて、甲洋が熱っぽい唇を耳の穴に押しつける。吐息混じりに「好きだよ」と囁かれ、尾骨から這い上がる痺れが甘く脳を蕩かした。
「くぅっ、ん……ぁっ、もっと、もっと言って……ぼくのこと、いっぱいいっぱい、好きって言ってぇ……!」
激しく揺さぶられながら、何度もねだってその背を掻き抱く。甲洋が繰返し「好きだ」と言って名前を呼ぶたびに、パチン、パチンと瞼の裏に星が散る。
「来主、来主」
「ふぁっ、ぁんッ、あっ、……ッ、とけ、ちゃう……とけちゃうよぉ……っ」
「好きだ、好き……来主のこと、誰よりも」
「うれ、し……はぁッ、ぁ……、ぼくもっ、ぼくもぉ……っ!」
君のことが一番大好き──そう言いたかったはずなのに、下肢へと伸ばされた甲洋の手が陰茎に触れたせいで、まともに言葉にすることができなかった。
彼は片腕にしっかりと操を抱いて、ズンズンと奥を穿ちながら腫れぼったくなっている性器をしごいた。もっとずっとこうしていたいのに、その大きすぎる快感は操を一気に絶頂へと追い込んでいく。
「やあぁっ、いく、だめ、だめぇ、もうイくぅッ……っ、あ、あぁ──ッ!」
ビクンッ、と激しく身体が跳ねた。甲洋の手の中で放逐された白濁が、下腹やテーブルにまで撒き散らされる。濡れた内壁がぎゅうっと収縮し、さざ波のように痙攣していた。
その刺激に腰を震わせ、甲洋が低い呻きをあげた。引き抜く間もなく、彼もまた操の中にすべてを吐きだす。
「ぁ、ぁー……っ、ぁ……、ふ……」
「はぁ……っ、ぅ……くる、す……っ」
ヒクヒクと余韻に震えて呆けたようになっている操の頬に、甲洋の右手が優しく触れる。操はその手に自分の手を重ね、甘えるように頬ずりをした。
「機嫌、なおった?」
唇同士を軽く触れ合わせたあと、甲洋が顔を覗き込んできた。機嫌なんかとっくになおっていたけれど、操はふと思いついて首を横に振る。もう一度、今度は額にキスを落とした甲洋が、「じゃあ次は?」と聞いていた。
「あのね」
「うん」
「ぼくと結婚して」
「結婚?」
操はこくりと頷いた。
「ぼくのこと、あの子より先に甲洋のお嫁さんにして」
「そこまで張り合う?」
「だってそうすれば、君のことずっと独り占めできるでしょ?」
すると甲洋は、珍しく頬を赤らめて目を丸くした。それからコホンと小さく咳払いをする。
「甲洋?」
「……準備をするから、ちょっと待ってて」
「あっ、ん……!」
ナカから性器が引き抜かれ、操はぶるりと身を震わせた。ほぅっと息をついていると、甲洋がテーブルの隅にあるナプキンに手をのばす。それをくしゃくしゃと丸めて柔らかくしてから、操の前と後ろをサッと清めた。
さらに自分のモノも軽く清めて、手早く身なりを整える。
「なにするの?」
不思議に思いながら起き上がると、甲洋は操のトレーナーの裾を引き下げて前を隠してくれた。そしてスタスタと店の片隅へと歩いていく。
なんだかよく分からないが、準備とやらには手間がかかるらしい。操はテーブルに腰掛けたまま、足をブラブラとさせて待つことにした。
甲洋が向かったのは、店の隅に置かれた丸い木製のテーブルだった。白いレース編みのテーブルクロスが敷かれており、その上には造花が刺さった花瓶がある。ピンク色をした、薔薇の造花の花束だ。
彼は花瓶から引き抜いた花束と、テーブルクロスを持って戻ってきた。それを操の頭にふわりと被せ、花束を両手に持たせる。
「これなに?」
「ブーケとベールの代わりだよ。来主は花嫁になりたいんだろ?」
「うん、なりたい!」
なにが起こるのかとワクワクしている操に、甲洋はまた小さく咳払いをした。こころなしか、さっきよりもどこか畏まった様子だ。
「指輪はないけど、それはいつかね」
甲洋は造花の花束を持つ操の両手を、自分の両手で包み込んだ。真剣な眼差しを向けられると、急に場の空気が厳かになった気がして、操も自然と背筋を伸ばす。
始まりの合図をするように、甲洋がすぅっと深呼吸をした。
「新婦、来主操。あなたは春日井甲洋を夫とし、病めるときも、健やかなるときも、命ある限り互いを支え、愛しあうことを誓いますか?」
「なにそれ? なにかの呪文?」
「来主……」
甲洋が大きなため息をつく。
「そこはちゃんと誓わなきゃ。俺たち結婚するんだろ?」
「うん、する! じゃあ誓うよ! 誓います!」
「よし」
「甲洋は? えっと、病めるときも、健やかなるときも……なんだっけ?」
いまいち締まりのない花嫁に、新郎はふっと苦笑する。それでもまっすぐに目と目を合わせて、「誓うよ、俺も」と言った。
「ねぇ次は? どうするの?」
「誓いのキスだよ」
甲洋は操の手を離し、レースの裾を軽く摘むと持ち上げた。裾が頭のてっぺんに来るように被せられると、薄く遮られていた甲洋の顔がよく見える。
有り合わせのウェディングベールと、ピンクの薔薇の造花のブーケ。甲洋は少し潤んだ瞳を細め、嬉しそうに笑みを浮かべて息を漏らした。
「本当に花嫁みたいだ。綺麗だよ、来主」
「えへへ。なんかよく分かんないけど、嬉しいよ」
肩をすくめて照れ笑いした操に、甲洋も照れたように肩をすくめた。互いに頬が赤くなっているのが、月明かりの中でよく分かる。
「じゃあ、するよ」
こくりとうなずくと、甲洋が操の両肩にそれぞれ手をやった。少し緊張した様子で顔を近づけてくるので、操も胸をドキドキさせながら目を閉じる。
さっきまで舌を絡め合う激しいキスをしていたのに、今更な気がしておかしな気分だ。
けれど柔らかく重ねられた口づけは、今までにない特別な意味を持っている。病めるときも、健やかなるときも。これはお互い一番に好きあっている同士が、ずっと一緒にいることを約束しあうためのキスだから。
「これで終わり?」
キスのあと近い距離で見つめ合ったまま、少しだけ首をかしげた操に彼は満足そうに頷いた。
「これで今日から、ぼくは甲洋のお嫁さんだね」
「そうだね」
甲洋の頬はほのかに赤いままだった。操の頬も熱いまま。こんなに幸せな気持ちになるのだから、あの女の子が憧れるのもよく分かる。だから自分があのときどれだけ彼女を傷つけたのかも、痛いほど理解できてしまった。そして甲洋にも。
「甲洋、ぼくもごめんね。ひどいこと言って、無視したりして」
「いいよ、来主は謝らなくても」
「それじゃダメだよ。あ、そうだ! ぼくもお詫びに、君のお願いなんでも聞くよ!」
操が身を乗りだすと、甲洋が目線だけ天井にやって「うーん」となにかを考え込んだ。それから「あ」と声をあげ、視線を戻す。
「来主のアップルパイが食べたいな」
「アップルパイ? そんなことでいいの?」
「あのとき食べそこねたからさ。俺だって悔しかったんだ」
「へぇ~、君って意外と食いしん坊だね」
「そういうことじゃなくってさ……」
参った様子で苦笑いを浮かべる甲洋に、操は声をあげて笑ってしまった。本当はちゃんと分かってる。彼は普段、まったく食べ物に執着しない。そもそも食べなくたって生きられるのだが、ヒトだった頃からそうなのだろう。
だけど、操が作ったスイーツだけは特別なのだ。
「いいよ! じゃあ、とびきり甘いのを作ってあげるね!」
造花の花束を持ったまま、甲洋のうなじに手を添えると引き寄せた。チュッと軽やかにキスすると、彼は目を丸くしたあと笑顔を見せる。そして純白のレースごと、操の身体を抱きしめた。
「楽しみにしてるよ」
甘いささやきに頷いて、操もまたしっかりと甲洋を抱き返す。
窓から射し込む月の祝福に、いつまでも優しく包まれながら。胸をいっぱいに満たす幸福が、どこにも逃げていかないように。
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