2025/09/19 Fri (無理! 無理無理! あんなのズルイ!!) 学校から寮への短い距離を、ファイは冷たい風を切り裂くように大きな足音を立てながら急いでいた。陽は沈み、すっかり暗くなった夜道には、そんなファイの苛立ったような靴音が大きく響く。 なぜあんな真似をするのか、やっぱり昔のことに対する意趣返し以外に動機が思いつかない。 (この際ハッキリさせて、場合によっては摘まみ出すんだから!) 黒鋼の言っていた通り、おそらく先刻のことは誰にも見られていない、とは思う。それでも一歩間違えれば大変なことになっていたのだから、簡単に見過ごすことは出来ない。 昔のことを謝れと言うなら土下座でもなんでもしてやるつもりで、ファイは拳を握りしめた。 その時。 「こんばんわ……」 「ッ!?」 ファイは咄嗟に足を止め、息を飲んだ。 自分以外、誰もいないと思っていたはずの夜道に、唐突に黒い影がくっきりと浮かび上がったからだ。しかも、驚くほどすぐ目の前に。 まったく気配が感じられなかったのは、単に頭に血が上っていて注意力に欠けていたせいだろうか。 その影はゆっくりと近づき、頼りない街灯の下に姿を現した。 「こ、こん、ばんわ」 青いツナギを着た男は、にたりと引き攣ったような笑みを浮かべつつ、再びファイに挨拶を寄こした。 身長は低く、猫背のせいで小太りな体系が際立って見える。腹回りなどはまるで風船のようだ。街灯の薄暗さでそう見えるのかもしれなが、肌も白いというよりは青い。 口元が乾燥しているのか、白く粉をふいているようにも見え、無精髭がさらに清潔感を遠ざけている。 黒くうねる癖毛の隙間から、濁ったような瞳がこちらに向けられていた。 (ああ、この人……) たまに見かける用務員の一人だ。 女子生徒からはすごくぶる評判が悪く、彼女たちが「気持ち悪い」などと陰口を叩いているのを幾度か聞いたことがあった。 その度に人を見かけで判断してはいけないよと窘めていたファイだったが、こうして間近で見ると、確かにこれでは特に女性が嫌がるのも無理はない。 それでもファイはなんとか笑顔を作って挨拶を返そうとした。が、彼の右手に使いこまれた草刈り鎌が握られているのを見て、ドキリとする。 男はファイの視線が己の手の中にある凶器に向けられていることに気がつくと、それを少しだけ高く持ち上げて「……草」と言うと、またにたりと笑う。 よく見れば彼の軍手にも土や草のクズが付着している。 ファイはホッと息をついた。 「こんなに暗くまで、お疲れ様です」 「うん……あ、あり、がと……」 「じゃあ、オレはこれでー……」 「うん……き、気を、つけて……」 えらく擦れて籠った声は、男性にしては少し高めかもしれない。 話し方もたどたどしい感じで、よくどもるせいで聞きとりにくい印象を受ける。 あまり長く話し込みたい相手ではないなと、ファイはそそくさとその横を通り抜けて足早にその場を去った。 背中からいつまでも離れないねっとりとした視線が、ただただ不快だった。 * 「遅かったな」 玄関の扉を開けると、問題の人物がひょいっと顔を覗かせた。 まずは思いっきり叱りつけてやろうと思っていたのだが、さきほど遭遇した男の視線が未だに張り付いているようで気分が悪かったファイは、黒鋼の顔を見た途端に安堵が込み上げてきた。 「……なにかあったか?」 気遣わしげに問いかけてくる心地よい低音にほぅっと息を吐き出し、ファイは緩く首を振った。 「んー、まぁちょっとね……あ、そうだ! それどころじゃないよ! あのね黒たん! さっそくだけど、ちょっとお話があります!!」 「おう。まず入れ」 「入れってねぇ、ここオレの部屋なんだからねっ、て……ん?」 思い出したように鼻息を荒くしていたファイは、部屋の奥から香ばしいソースの香りが漂ってくることに気がついて、ウサギのように鼻をすんすんと鳴らした。 「なにこれ……すごく美味しい匂いがする……」 「焼きそば」 「え? 作ったの?」 「手の込んだもんは作れねぇからな」 「すっごーい! 見せて見せてー!!」 バタバタと子供のように部屋の中へ入って行くと、二つの皿にこんもりと焼きそばが盛られていた。 たっぷりとソースが絡められた麺に野菜や肉もしっかり入っていて、白い湯気がソースと青のりの香りを乗せてもくもくと踊っている。 ちゃんと自分の分まで用意してくれたのかと思うと、胸がジーンとした。 (あのちっちゃかった黒たんが、お料理も一人で出来るようになって……) 黒鋼の家は長いこと父親が単身赴任で家を開けていたため、彼がよく母を手伝っていたことは知っていた。 あの家の息子さんはお母さん思いで偉いわね、という近所の評判を聞くと、我が事のように嬉しかったものだ。 だがもっぱら料理は母親がしていて、傍でちょこちょこと手伝っているところしか見たことがない。 あの頃の自分が黒鋼の手料理を食べることになるなんて知ったら、きっと血管が切れるまで興奮して気絶するに違いない。 「冷めねぇうちに食えよ。腹減ったろ?」 「うん! オレ手洗ってくるー!」 わぁいと万歳をして、ファイは上着と鞄を投げ出して洗面所へ向かった。 ルンルンと浮かれながらうがいと手洗いを済ませ、クッションの敷かれた床にべたんと座る。 黒鋼はファイを待っていてくれたようで「いただきまーす!」と言って手を合わせるのを見てから自分も箸を手に取った。 山もりの麺の中に箸を入れ、摘まんで持ち上げると、白い湯気がさらに熱気を帯びて立ち上る。ぱぁ、と目を輝かせながらふぅふぅと冷まして口に運ぶと、それは期待を裏切らない美味さだった。 「すーっごく美味し…………ん?」 (あれ……? なんでオレ、こんなほのぼのしてるんだろう……?) ここに来て今更のように、ファイは自分が憤慨していたことを思い出した。 うっかり感動と嬉しさに忘れていたが、本来こんなことをしている場合ではない。 これは不味いと、ファイは箸をテーブルにバンっと音を立てて戻した。 「あ、あのねー! 言っとくけどオレ怒ってるからね!」 「あ?」 「ノンキに食べてる場合じゃないんだからー!」 「口に合わなかったか?」 「さっきのことだけど、え? あ、そんなことないよー! 合う合うー! この焼きそばは絶品だよー!」 「そりゃよかった。しっかり食えよ」 「あ、はい」 うまく自分のペースに持っていけずに、萎んだ風船のように素直に頷いてしまった。 なぜならそれはとても単純な理由からで、黒鋼が嬉しそうに笑うから。決して満面の笑みを浮かべているわけではなく、あの口角だけを持ち上げるささやかなものなのだが、そこから彼の優しさが伝わって来るような気がした。 それに、なんだか。 (落ち着かないんだよなぁ……) 今朝見せた意地の悪そうな笑顔は腹が立つが、今のこれは昨夜見たものと同じだった。 目付きは悪いのに、なにか愛しいものでも見るように瞳を細められると、どうも胸の辺りがムズムズしてきて仕方ない。 昔は滅多に笑いかけてなんてくれなかったし、子供の頃はどちらかと言えば嫌われていたはずだ。彼の嫌がることを、あえて中毒患者のように止められないでいた本人なのだから、よく分かっている。 (とりあえず……今はいっか) 焼きそばが美味いのだって、いけない。 全ては食事を済ませてからにしようと、ファイは冷めかけているそれに慌てて箸をつけた。 * 流石に黒鋼と同じだけの量は、元々小食のファイにはキツかった。 無理をするなと途中で止められたが、残すのは嫌で完食した。結果、食後は全く動く気になれずテーブルに突っ伏していた。 「お腹の中で麺が膨らんでるー」 人間、腹八分目が一番だ。 どんなに美味いものでも、吐き気がするほどたんまり食うのは絶対によくない。それを痛いほど体感しつつ、度を超えた満腹感に意識が重たくなってくる。 睡魔が後から後から襲ってきて、ファイは勢いよく顔を上げると自分で自分の頬をパチンと叩いた。 「シャキッとしないと」 風呂だってまだ入ってないし、やりたいこともあるし、何より肝心な黒鋼との話が済んでいない。 彼は食後の後片付けもしっかり終わらせ、今は風呂に入っている。 正直な話、腹が膨らみすぎて先ほどまでの勢いはないものの、ファイは黒鋼が戻るのをじりじりと待つことにした。 それからさほど時間をかけず、黒鋼が風呂からあがって来る気配を感じた。洗面所の扉が開く音がして、ファイは眉間にきゅっと皺を寄せると振り返る。 丁度ジャージの下だけを履いて上半身を露出した黒鋼が、首にかけたタオルで頬を拭いながらのっそりと姿を現した。 「!」 それが視界に飛び込んできた瞬間、ドキリとして息を飲む。目を見開き、身を強張らせたまま、視線が彼の露出した素肌に釘付けになった。 石のように固まってしまったファイを見て、黒鋼が不思議そうに眉を顰めている。 「なんだ?」 乾ききっていない黒髪から、時折ぽたりと雫が落ちて、美しく隆起する肩や腕のライン、そして胸板を伝っていく。ほどよく焼け、そしてよく鍛え上げられているなだらかな筋肉が、太く恵まれた骨組みの上に嫌みなほど精妙なバランスで引き伸ばされていた。 テレビなんかでたまに見かけるような、ボディビルダーのやけにテラテラして隆々としすぎた身体とは、また違うのだ。 (なんだろう……なんていうのかな……。そう、綺麗なんだ) それは同性である相手に言うには語弊があるかもしれない。だがそこにはまさに完成された『男』の肉体があった。 鋭く研ぎ澄まされた、野生の獣のような。 (この期に及んでさ……つくづく……) 「おい?」 「……ライオンとか虎の子供って」 「あ?」 「子供の頃はちょっと大きい猫って感じでさ……このまんま大きくならなければ、家でも飼えるかもーとか、思っちゃうよねー……」 「……なんだ急に」 「でっかくなったライオンなんて飼えっこないって話!!」 「はぁ?」 ファイの中で、膨らみきった何かが音を立てて爆発した。 「昨日の今日で、オレはもう限界だよ黒たん!」 「なにがだよ」 「なにもかもだよ! バカみたいにでっかくなっちゃって! 羨ましいくらい鍛えちゃってさ! どうやったらアレがコレになるのかな! 可愛くないったらありゃしないんだよ!」 「……そうは言われてもな」 「しかもだよ!!」 ファイは床から勢いよく立ち上がると、黒鋼に向かってビシっと指をさした。 「今朝のアレと! 夕方のアレ!! いくら子供の頃の仕返しって言ったって、やりすぎだよ!!」 「仕返し?」 「なにも今更になってやり返すことないじゃない!」 そこまで一気に吐き出した途端、ちょっと噎せた。黒鋼は困惑の表情で頭をガリガリと掻いている。 「ケホッ、と、とにかく、なんなら土下座でもなんでもするし、特に学校でああいうことは、もう」 「何が悪いんだか、さっぱりわからねぇな」 「はー!? 悪いに決まってるでしょ!」 「旦那が嫁を好き勝手して何が悪い?」 「あのね、夫婦だろうがなんだろうが、一方的に……んぇ?」 「他の女に手ぇ出すよりよっぽどいいじゃねぇか」 「ちょ、ちょっと待った。言ってる意味がよく分からないんだけど」 黒鋼は心底呆れた様子で溜息を吐き、腕を組んだ。なぜこちらが寝言を言っているような空気になっているのかも分からないし、そもそも旦那とか嫁とか、この男は何を言っているのだろうか。 昔は黒鋼がまるで女の子のように小さかったから「未来のお嫁さん」なんて言ってからかってはいた。母親まで便乗してファイの冗談に加担するものだから、それも楽しくてつい癖になってしまったのだが。 「本気で忘れてんのか?」 「忘れてはいないよ……でもほら、黒たんもう可愛くないしー……オレ、貰うなら美人で華奢で、でも胸はおっきめの髪の長い美脚なお嫁さんがいいなー、なんて」 「贅沢な夢語ってんじゃねぇぞ。思い出せ。俺と約束しただろう」 ファイは腕を組み、首を傾げて「うーん」と考え込んだ。 そうしている間に黒鋼はソファへ移動し、タオルで髪をガシガシと拭きはじめる。 (約束……約束……なんのこと……?) 過去の楽しかった記憶を呼び起こすと、顔を真っ赤にして怒っている黒鋼の顔ばかりが甦る。大きな目に溜った涙とか、不満そうに膨らむ赤い頬とか、女の子みたいに高く怒鳴る声とか。 うっかり口元が緩みそうになりつつも、ファイはふと彼とその母が引っ越す前夜のことを思い出した。 あの時は、最後にビックリさせてやろうと思って隣の庭に侵入し、木によじ登って屋根に飛び移った。窓から顔を出し、最後の最後まで黒鋼をからかって、それから最後に……。 『次に会った時』 『え、うん?』 『もし俺がてめぇよりデカくなってたら』 『うんうん』 『てめぇが俺の嫁になれ』 「……あ」 思い出した……。 黒鋼は顔を上げると「やっと思い出したかアホ」と言って鼻で笑う。ファイはわざとらしく顔を逸らし、唇を尖らせて吹けない口笛を吹く真似をした。 「いやー? 黒るーにボールぶつけられて窓から転がり落ちたことしか覚えてないなー? あの時に記憶飛んじゃったのかもなー? おっきいタンコブできたしなー? お尻にも蒙古斑みたいな青痣できたしなー?」 「そいつは悪かったな。だが約束は約束だ」 「約束って言うけど、オレあの時オッケーしてないからね? そもそもオッケーする前にボールがガーンて当たって」 「やっぱり覚えてんじゃねぇか」 「…………」 できれば思い出したくなかったような気がしないでもない。 だが、これでハッキリしたような気もする。まさか本気で旦那だ嫁だとほざいているわけではないだろうし、要するに彼の一連の行動は、それをネタにした過去の制裁なのだということが。 「あー、もう! わかったよ! 昔のことはここで謝る。色々と嫌なことしたり言ったりしてごめんね。これでいい?」 ファイはツンとそっぽを向きながら、溜息混じりのおざなりな謝罪をした。 人に頭を下げる態度でないことはもちろん分かっている。だがどんな形であれ、これで決着がつくなら何だっていい気がした。 勝手な言い分かもしれないが、ここまで根に持たれていたことにショックを受けてもいる。 そりゃあ、彼にとってはトラウマレベルで嫌な思い出かもしれない。けれど、ファイにとっては黒鋼との記憶は宝物だった。 知らない土地に来て、慣れない環境の中、彼はもっとも身近に感じられる初めての友達だったから。 誠意のないファイの謝罪を、黒鋼は特に腹を立てるでもなく静かに聞いていた。 それからすぐ「なるほど」とぽつりと零す。 「……なにが?」 「仕返し、か。確かに今なら屁でもねぇな」 「え」 「やってみるか?」 「へ?」 「ただ、俺ももうガキじゃねぇからな。大人になってからの仕返しとなると、性質が悪いぜ?」 またあの意地の悪そうな笑い方だ。鋭い瞳がすっと細められる様子は、まるで獲物を狙う肉食獣のようで、ファイは足元が竦むのを感じた。 ←戻る ・ 次へ→
学校から寮への短い距離を、ファイは冷たい風を切り裂くように大きな足音を立てながら急いでいた。陽は沈み、すっかり暗くなった夜道には、そんなファイの苛立ったような靴音が大きく響く。
なぜあんな真似をするのか、やっぱり昔のことに対する意趣返し以外に動機が思いつかない。
(この際ハッキリさせて、場合によっては摘まみ出すんだから!)
黒鋼の言っていた通り、おそらく先刻のことは誰にも見られていない、とは思う。それでも一歩間違えれば大変なことになっていたのだから、簡単に見過ごすことは出来ない。
昔のことを謝れと言うなら土下座でもなんでもしてやるつもりで、ファイは拳を握りしめた。
その時。
「こんばんわ……」
「ッ!?」
ファイは咄嗟に足を止め、息を飲んだ。
自分以外、誰もいないと思っていたはずの夜道に、唐突に黒い影がくっきりと浮かび上がったからだ。しかも、驚くほどすぐ目の前に。
まったく気配が感じられなかったのは、単に頭に血が上っていて注意力に欠けていたせいだろうか。
その影はゆっくりと近づき、頼りない街灯の下に姿を現した。
「こ、こん、ばんわ」
青いツナギを着た男は、にたりと引き攣ったような笑みを浮かべつつ、再びファイに挨拶を寄こした。
身長は低く、猫背のせいで小太りな体系が際立って見える。腹回りなどはまるで風船のようだ。街灯の薄暗さでそう見えるのかもしれなが、肌も白いというよりは青い。
口元が乾燥しているのか、白く粉をふいているようにも見え、無精髭がさらに清潔感を遠ざけている。
黒くうねる癖毛の隙間から、濁ったような瞳がこちらに向けられていた。
(ああ、この人……)
たまに見かける用務員の一人だ。
女子生徒からはすごくぶる評判が悪く、彼女たちが「気持ち悪い」などと陰口を叩いているのを幾度か聞いたことがあった。
その度に人を見かけで判断してはいけないよと窘めていたファイだったが、こうして間近で見ると、確かにこれでは特に女性が嫌がるのも無理はない。
それでもファイはなんとか笑顔を作って挨拶を返そうとした。が、彼の右手に使いこまれた草刈り鎌が握られているのを見て、ドキリとする。
男はファイの視線が己の手の中にある凶器に向けられていることに気がつくと、それを少しだけ高く持ち上げて「……草」と言うと、またにたりと笑う。
よく見れば彼の軍手にも土や草のクズが付着している。
ファイはホッと息をついた。
「こんなに暗くまで、お疲れ様です」
「うん……あ、あり、がと……」
「じゃあ、オレはこれでー……」
「うん……き、気を、つけて……」
えらく擦れて籠った声は、男性にしては少し高めかもしれない。
話し方もたどたどしい感じで、よくどもるせいで聞きとりにくい印象を受ける。
あまり長く話し込みたい相手ではないなと、ファイはそそくさとその横を通り抜けて足早にその場を去った。
背中からいつまでも離れないねっとりとした視線が、ただただ不快だった。
*
「遅かったな」
玄関の扉を開けると、問題の人物がひょいっと顔を覗かせた。
まずは思いっきり叱りつけてやろうと思っていたのだが、さきほど遭遇した男の視線が未だに張り付いているようで気分が悪かったファイは、黒鋼の顔を見た途端に安堵が込み上げてきた。
「……なにかあったか?」
気遣わしげに問いかけてくる心地よい低音にほぅっと息を吐き出し、ファイは緩く首を振った。
「んー、まぁちょっとね……あ、そうだ! それどころじゃないよ! あのね黒たん! さっそくだけど、ちょっとお話があります!!」
「おう。まず入れ」
「入れってねぇ、ここオレの部屋なんだからねっ、て……ん?」
思い出したように鼻息を荒くしていたファイは、部屋の奥から香ばしいソースの香りが漂ってくることに気がついて、ウサギのように鼻をすんすんと鳴らした。
「なにこれ……すごく美味しい匂いがする……」
「焼きそば」
「え? 作ったの?」
「手の込んだもんは作れねぇからな」
「すっごーい! 見せて見せてー!!」
バタバタと子供のように部屋の中へ入って行くと、二つの皿にこんもりと焼きそばが盛られていた。
たっぷりとソースが絡められた麺に野菜や肉もしっかり入っていて、白い湯気がソースと青のりの香りを乗せてもくもくと踊っている。
ちゃんと自分の分まで用意してくれたのかと思うと、胸がジーンとした。
(あのちっちゃかった黒たんが、お料理も一人で出来るようになって……)
黒鋼の家は長いこと父親が単身赴任で家を開けていたため、彼がよく母を手伝っていたことは知っていた。
あの家の息子さんはお母さん思いで偉いわね、という近所の評判を聞くと、我が事のように嬉しかったものだ。
だがもっぱら料理は母親がしていて、傍でちょこちょこと手伝っているところしか見たことがない。
あの頃の自分が黒鋼の手料理を食べることになるなんて知ったら、きっと血管が切れるまで興奮して気絶するに違いない。
「冷めねぇうちに食えよ。腹減ったろ?」
「うん! オレ手洗ってくるー!」
わぁいと万歳をして、ファイは上着と鞄を投げ出して洗面所へ向かった。
ルンルンと浮かれながらうがいと手洗いを済ませ、クッションの敷かれた床にべたんと座る。
黒鋼はファイを待っていてくれたようで「いただきまーす!」と言って手を合わせるのを見てから自分も箸を手に取った。
山もりの麺の中に箸を入れ、摘まんで持ち上げると、白い湯気がさらに熱気を帯びて立ち上る。ぱぁ、と目を輝かせながらふぅふぅと冷まして口に運ぶと、それは期待を裏切らない美味さだった。
「すーっごく美味し…………ん?」
(あれ……? なんでオレ、こんなほのぼのしてるんだろう……?)
ここに来て今更のように、ファイは自分が憤慨していたことを思い出した。
うっかり感動と嬉しさに忘れていたが、本来こんなことをしている場合ではない。
これは不味いと、ファイは箸をテーブルにバンっと音を立てて戻した。
「あ、あのねー! 言っとくけどオレ怒ってるからね!」
「あ?」
「ノンキに食べてる場合じゃないんだからー!」
「口に合わなかったか?」
「さっきのことだけど、え? あ、そんなことないよー! 合う合うー! この焼きそばは絶品だよー!」
「そりゃよかった。しっかり食えよ」
「あ、はい」
うまく自分のペースに持っていけずに、萎んだ風船のように素直に頷いてしまった。
なぜならそれはとても単純な理由からで、黒鋼が嬉しそうに笑うから。決して満面の笑みを浮かべているわけではなく、あの口角だけを持ち上げるささやかなものなのだが、そこから彼の優しさが伝わって来るような気がした。
それに、なんだか。
(落ち着かないんだよなぁ……)
今朝見せた意地の悪そうな笑顔は腹が立つが、今のこれは昨夜見たものと同じだった。
目付きは悪いのに、なにか愛しいものでも見るように瞳を細められると、どうも胸の辺りがムズムズしてきて仕方ない。
昔は滅多に笑いかけてなんてくれなかったし、子供の頃はどちらかと言えば嫌われていたはずだ。彼の嫌がることを、あえて中毒患者のように止められないでいた本人なのだから、よく分かっている。
(とりあえず……今はいっか)
焼きそばが美味いのだって、いけない。
全ては食事を済ませてからにしようと、ファイは冷めかけているそれに慌てて箸をつけた。
*
流石に黒鋼と同じだけの量は、元々小食のファイにはキツかった。
無理をするなと途中で止められたが、残すのは嫌で完食した。結果、食後は全く動く気になれずテーブルに突っ伏していた。
「お腹の中で麺が膨らんでるー」
人間、腹八分目が一番だ。
どんなに美味いものでも、吐き気がするほどたんまり食うのは絶対によくない。それを痛いほど体感しつつ、度を超えた満腹感に意識が重たくなってくる。
睡魔が後から後から襲ってきて、ファイは勢いよく顔を上げると自分で自分の頬をパチンと叩いた。
「シャキッとしないと」
風呂だってまだ入ってないし、やりたいこともあるし、何より肝心な黒鋼との話が済んでいない。
彼は食後の後片付けもしっかり終わらせ、今は風呂に入っている。
正直な話、腹が膨らみすぎて先ほどまでの勢いはないものの、ファイは黒鋼が戻るのをじりじりと待つことにした。
それからさほど時間をかけず、黒鋼が風呂からあがって来る気配を感じた。洗面所の扉が開く音がして、ファイは眉間にきゅっと皺を寄せると振り返る。
丁度ジャージの下だけを履いて上半身を露出した黒鋼が、首にかけたタオルで頬を拭いながらのっそりと姿を現した。
「!」
それが視界に飛び込んできた瞬間、ドキリとして息を飲む。目を見開き、身を強張らせたまま、視線が彼の露出した素肌に釘付けになった。
石のように固まってしまったファイを見て、黒鋼が不思議そうに眉を顰めている。
「なんだ?」
乾ききっていない黒髪から、時折ぽたりと雫が落ちて、美しく隆起する肩や腕のライン、そして胸板を伝っていく。ほどよく焼け、そしてよく鍛え上げられているなだらかな筋肉が、太く恵まれた骨組みの上に嫌みなほど精妙なバランスで引き伸ばされていた。
テレビなんかでたまに見かけるような、ボディビルダーのやけにテラテラして隆々としすぎた身体とは、また違うのだ。
(なんだろう……なんていうのかな……。そう、綺麗なんだ)
それは同性である相手に言うには語弊があるかもしれない。だがそこにはまさに完成された『男』の肉体があった。
鋭く研ぎ澄まされた、野生の獣のような。
(この期に及んでさ……つくづく……)
「おい?」
「……ライオンとか虎の子供って」
「あ?」
「子供の頃はちょっと大きい猫って感じでさ……このまんま大きくならなければ、家でも飼えるかもーとか、思っちゃうよねー……」
「……なんだ急に」
「でっかくなったライオンなんて飼えっこないって話!!」
「はぁ?」
ファイの中で、膨らみきった何かが音を立てて爆発した。
「昨日の今日で、オレはもう限界だよ黒たん!」
「なにがだよ」
「なにもかもだよ! バカみたいにでっかくなっちゃって! 羨ましいくらい鍛えちゃってさ! どうやったらアレがコレになるのかな! 可愛くないったらありゃしないんだよ!」
「……そうは言われてもな」
「しかもだよ!!」
ファイは床から勢いよく立ち上がると、黒鋼に向かってビシっと指をさした。
「今朝のアレと! 夕方のアレ!! いくら子供の頃の仕返しって言ったって、やりすぎだよ!!」
「仕返し?」
「なにも今更になってやり返すことないじゃない!」
そこまで一気に吐き出した途端、ちょっと噎せた。黒鋼は困惑の表情で頭をガリガリと掻いている。
「ケホッ、と、とにかく、なんなら土下座でもなんでもするし、特に学校でああいうことは、もう」
「何が悪いんだか、さっぱりわからねぇな」
「はー!? 悪いに決まってるでしょ!」
「旦那が嫁を好き勝手して何が悪い?」
「あのね、夫婦だろうがなんだろうが、一方的に……んぇ?」
「他の女に手ぇ出すよりよっぽどいいじゃねぇか」
「ちょ、ちょっと待った。言ってる意味がよく分からないんだけど」
黒鋼は心底呆れた様子で溜息を吐き、腕を組んだ。なぜこちらが寝言を言っているような空気になっているのかも分からないし、そもそも旦那とか嫁とか、この男は何を言っているのだろうか。
昔は黒鋼がまるで女の子のように小さかったから「未来のお嫁さん」なんて言ってからかってはいた。母親まで便乗してファイの冗談に加担するものだから、それも楽しくてつい癖になってしまったのだが。
「本気で忘れてんのか?」
「忘れてはいないよ……でもほら、黒たんもう可愛くないしー……オレ、貰うなら美人で華奢で、でも胸はおっきめの髪の長い美脚なお嫁さんがいいなー、なんて」
「贅沢な夢語ってんじゃねぇぞ。思い出せ。俺と約束しただろう」
ファイは腕を組み、首を傾げて「うーん」と考え込んだ。
そうしている間に黒鋼はソファへ移動し、タオルで髪をガシガシと拭きはじめる。
(約束……約束……なんのこと……?)
過去の楽しかった記憶を呼び起こすと、顔を真っ赤にして怒っている黒鋼の顔ばかりが甦る。大きな目に溜った涙とか、不満そうに膨らむ赤い頬とか、女の子みたいに高く怒鳴る声とか。
うっかり口元が緩みそうになりつつも、ファイはふと彼とその母が引っ越す前夜のことを思い出した。
あの時は、最後にビックリさせてやろうと思って隣の庭に侵入し、木によじ登って屋根に飛び移った。窓から顔を出し、最後の最後まで黒鋼をからかって、それから最後に……。
『次に会った時』
『え、うん?』
『もし俺がてめぇよりデカくなってたら』
『うんうん』
『てめぇが俺の嫁になれ』
「……あ」
思い出した……。
黒鋼は顔を上げると「やっと思い出したかアホ」と言って鼻で笑う。ファイはわざとらしく顔を逸らし、唇を尖らせて吹けない口笛を吹く真似をした。
「いやー? 黒るーにボールぶつけられて窓から転がり落ちたことしか覚えてないなー? あの時に記憶飛んじゃったのかもなー? おっきいタンコブできたしなー? お尻にも蒙古斑みたいな青痣できたしなー?」
「そいつは悪かったな。だが約束は約束だ」
「約束って言うけど、オレあの時オッケーしてないからね? そもそもオッケーする前にボールがガーンて当たって」
「やっぱり覚えてんじゃねぇか」
「…………」
できれば思い出したくなかったような気がしないでもない。
だが、これでハッキリしたような気もする。まさか本気で旦那だ嫁だとほざいているわけではないだろうし、要するに彼の一連の行動は、それをネタにした過去の制裁なのだということが。
「あー、もう! わかったよ! 昔のことはここで謝る。色々と嫌なことしたり言ったりしてごめんね。これでいい?」
ファイはツンとそっぽを向きながら、溜息混じりのおざなりな謝罪をした。
人に頭を下げる態度でないことはもちろん分かっている。だがどんな形であれ、これで決着がつくなら何だっていい気がした。
勝手な言い分かもしれないが、ここまで根に持たれていたことにショックを受けてもいる。
そりゃあ、彼にとってはトラウマレベルで嫌な思い出かもしれない。けれど、ファイにとっては黒鋼との記憶は宝物だった。
知らない土地に来て、慣れない環境の中、彼はもっとも身近に感じられる初めての友達だったから。
誠意のないファイの謝罪を、黒鋼は特に腹を立てるでもなく静かに聞いていた。
それからすぐ「なるほど」とぽつりと零す。
「……なにが?」
「仕返し、か。確かに今なら屁でもねぇな」
「え」
「やってみるか?」
「へ?」
「ただ、俺ももうガキじゃねぇからな。大人になってからの仕返しとなると、性質が悪いぜ?」
またあの意地の悪そうな笑い方だ。鋭い瞳がすっと細められる様子は、まるで獲物を狙う肉食獣のようで、ファイは足元が竦むのを感じた。
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