2025/09/19 Fri 「だいたいこんなもんかなー」 翌朝金曜日、登校してすぐに化学室と隣接する準備室へ向かったファイは、机の下の床にパンパンに中身の詰まった旅行バッグを置いた。 その横には青い寝袋もグルグル巻きにして並べてある。 「よーし準備オッケー」 ふぅ、と息をついてデスクチェアを引き寄せると、だるさの残る下半身を刺激しないようにそっと腰掛ける。 そして改めて運び入れた足元の荷物に視線を落とすと、深く息をつく。 旅行バッグに入っているのは、着替えやちょっとした日用品の数々だ。寝袋はもちろん、ここで睡眠を取るためのアイテムで、大学の方へわざわざ足を運んで登山部から借り受けた。 学校に教育実習生がやってきて、今日でちょうど2週間。 早い者は今日が最終日だが、長い者はあと一週間残っている。 黒鋼は後者に当てはまるわけで、ファイは残りの日数をこの準備室で生活することに決めた。 彼は禁を破ったわけではないけれど。 むしろまるで忠犬のように言いつけを守り、ファイが「よし」と言うのを待っていた。許可した結果、昨夜は思い出すだけでむせ返りそうになるほど濃厚な一夜を過ごすことになった。 (思い出すと……頭パーンってなっちゃうかも……) だから他のことに気をやろうとしても、一度向けてしまった意識は接着剤でねっぱしたように脳裏から離れない。 恥ずかしい自分の声だとか、優しく労わる黒鋼の低い声だとか。 『はっ、あぁ……ッ、ん、ぃ、痛……ぁ、い、ぃ……中、いい……』 『まだ辛いか……?』 『んッ、ぅん、つら、けど……いい……なか、いっぱいで、熱、い……』 『動いても』 『いい、いいから……アッ、ゆっくり……優しく、して……』 気が遠くなるほどの時間をかけて慣らし、受け入れた恐ろしいまでの熱は、一度目とは比べ物にならいくらいファイの中に馴染んだ。 自分の意思で受け入れるのと無理やり奪われるのとでは、やはり感覚がまるで違うのか。 痛みや辛さも快楽の前にはただひれ伏すばかりで、黒鋼の努力もあってかファイは存分に痴態をふるった。 こちらの呼吸のペースに合わせて浅く腰をゆり動かすのに合わせて、ファイもまた犬のように腰を振ったのを覚えている。 そうして最後の最後で。 『 』 耳元で、何か囁かれたような気がする。 それは飛び上がって歓喜してしまいそうな言葉だった気がするのに、混濁した意識に呑み込まれていたファイには記憶がない。 ただ、信じられないほどの幸福の中で絶頂を迎えたことだけは、覚えている。 そこまで思い出して、ファイは火を噴きそうになる顔を両手で押さえた。心臓がうるさいくらい小刻みに跳ねて、息が苦しくて堪らない。 「もう……これじゃあまるで……」 恋をしているみたいだ。 黒鋼のことはもちろん好きだった。結局なにをされたとしても、ファイは彼を憎むことなんて出来ない。 向こうにどう思われていたとしても子供の頃の彼を可愛がっていたのは事実で、今でも大切な思い出だ。何より、当時のことを自分の中で否定するのは嫌だった。 昨夜のファイは明らかに彼を巡って嫉妬していたし、求められたことも嬉しかった。まるで選ばれたみたいな優越感もあった。 けれど昨日は……そう、きっと色々と疲れが溜っていて、ちょっとおかしくなっていただけなのだと。 (だって……どうせ仕返しの延長なんだし……) 黒鋼はそれを頑なに否定するが、彼に拒まれた記憶はあれど、好かれた記憶のないファイにしてみれば、一度根付いた思考をそう簡単に覆すことは難しい。 どうせあと一週間で実習が終わればいなくなる人間なのだし、それ以降は会う理由なんてなくなるのだし。 ただ、このまま一緒にいれば厄介なことになりそうだという危機感だけはあって、ファイは逃げるようにして化学準備室を寝床にすることに決めたのだった。 (まさかあの黒たんと、身体だけの関係を結ぶことになるなんてなぁ……) 身体だけ、という言葉に感じた胸の痛みに気づかない振りをするように、足元のバッグに手を伸ばす。中を漁って取り出したのは小型の電気ケトルとマグカップ、そして極力ゴミを出さないようにと適当に購入した顆粒タイプの紅茶缶だ。 職員朝礼まではまだ時間もあるし、温かいものでも飲んで気持ちを切り替えようと思った。 「あ、スプーン忘れちゃった」 どこかになかったろうかと、机の下に収まるキャビネットを上から順に開けていく。 一段目を開け、中身の荒れ様から目を背けると、そっと閉じる。二段目も、開けただけですぐに閉じた。どちらも書類やら筆記用具やら、あらゆる物が溢れていて何がなんだか分からない状態だった。 片付けないとなぁ、なんて少しゲンナリしながら三段目に手をかけ、引き出そうとしたがそこは鍵がかかっており、びくともしない。 「あちゃー、鍵どこにやっちゃったっけかなー……」 持ち歩けば失くしてしまうだろうと、どこかに仕舞ったような気がしないでもないのだが、どうも記憶が曖昧だった。 そうしているうちに面倒になってしまったファイは、まぁいいやと思い出す作業を放棄する。 別にスプーンに拘らずともここにはあらゆる実験器具があり、紅茶をかき混ぜるくらいなら撹拌棒を使えばそれで済む。 そのうちゆっくり片付けがてら探せばいいだろうと、とりあえず水を汲むべくケトルを手に隣の化学室へ向かった。 続々と登校する生徒達の声はこの場所からは酷く遠くて、カーテンが閉め切られたままの薄暗い教室にはリノリウムを叩くファイの靴音だけが鈍く響き渡る。 窓際に面した水汲みスペースで一気に蛇口を捻ると、ケトルのメモリいっぱいまで水を注ぎ、再び蛇口を捻った。 そのときだった。 ガン、という何かがぶつかるような音を聞いた気がして、ファイは咄嗟に顔を上げた。 身を強張らせながら辺りを見回し、人の姿がないことを確認する。 6人掛けの大机と椅子、黒板に教壇。恐る恐るそれらの下を覗きこんで、無人であることを確かめた。 準備室の方へもゆっくりと向かい、そこにも人気がないことを確認するとホッと息をつく。 「気のせい気のせい」 昨日のことがあったせいか、神経質になっているだけかもしれない。 そういえば、今朝はまだロッカーを開けていないことに気付く。 机の上にセットしたケトルのスイッチを入れてから、ファイは背後のロッカーに目を向けた。 あの中には元々たいした貴重品も入れていないし、白衣はもう予備が利かないので、昨日持ち帰って洗濯したものがバッグに入っている。だから今は開ける用事はないのだが。 ファイは少し緊張した面持ちでロッカーへとゆっくり足を進めた。取っ手に手をかけて、喉を鳴らすと一気に開く。 中には……これといって何もない。 またおかしなメモ書きがあったりしたらどうしようかと多少は不安だったが、あれ以上のことは何もないらしい。 本当に誰があんな悪質な真似をしたかは知らないが、何か文句があるなら堂々と姿を見せてくれた方がいっそスッキリするというものだ。 (それが出来ないから、こそこそ嫌がらせするんだろうけど) 見えない相手というのはなんとも不気味ではあるが、か弱い女性でもあるまいし、ビクビクしながら過ごすのは嫌だった。 これ以上ふざけた真似をしてナメてかかってくる相手がいるなら、容赦するつもりはない。そのくらいの気性の荒さは持ち合わせている。 それにこの場所は自分にとって小さな砦だし、一人きりになれる空間が他に思い当たらなかった。 しかもここなら多少は朝ものんびり寝ていられるな、という物臭らしい思惑もある。 親元を離れている生徒も多いため食堂は朝から開いているし、シャワーだって運動部で使用しているものをいつでも借りることができる。 様々な条件があまりにも魅力的だった。 「……わっ! もうこんな時間?」 ロッカーの扉を閉じつつ、ふと目をやった先にあった時計を見て、ファイは額を押さえると「あーぁ」という声を漏らした。 紅茶を飲むくらいの時間はあったはずだが、妙なラップ音のせいで配分が狂ってしまった。 ちょうど湯も沸いたが、仕方なくバッグから白衣を取りだすと袖を通し、慌てて準備室を飛び出した。 ファイの足音が消え去り、しんと静まり返った無人の準備室。 完全には閉じられていなかったロッカーがキィ、と音を立てて開かれる。 その扉の内側に設置されている鏡に、くっきりと白い手形が張り付いていたことに、中身ばかりを気にしていたファイが気付くことはなかった。 『 い つ も み て る よ 』 * その夜。 ほぼ無人の校舎は恐ろしいまでに静まりかえっていた。 暗く長い廊下にはファイの足音だけが木霊し、一階にいる警備員が貸してくれた懐中電灯の明かりが丸く足元を照らしている。 「わー、結構不気味ー」 そんなこと言いつつも、夜の学校は少しワクワクする。 懐中電灯を貸してくれた警備員は古株で、すっかり顔馴染みの人間だった。 適当な理由をつけて学校に泊まり込む旨を伝えた時、どうせだからとファイはこの三階の南校舎だけ見回りを買って出た。 見回りといっても全ての教室は鍵がかかっているし、それを確認しながら一つ一つ小窓から内部を照らして見るだけの簡単な作業だった。 「よーし終了ー」 化学室はこの階の東側、一番端にある。そこからスタートして、ちょうど西側の突き当たりでファイは足を止めた。あとは準備室に戻って明日の支度をしてしまおうと、元来た廊下を引き返す。 夕食は別に食べても食べなくてもいいし、やることを全て終えて一息ついたら、シャワーを浴びに行こう。 そんなことをぼんやりと考えながら、廊下の中腹で歩みを止める。 「……?」 (まただ……こんな時に……) このフロアに誰もいないということは、今の今まで見回りをしていた自分が一番よく知っていた。 それなのに、何者かの視線が痛いほど背後から皮膚に突き刺さるような気がした。 咄嗟に振り向きかけて、やめた。 (髪の長い女の霊とかが這いずってたら……どうしようかな……) ちょっと見てみたい気もするにはするが、まずはとにかく早く戻ろうと再び歩きはじめる。 カツ、カツ、カツ。 (カツ、カツ、カツ、カツ) カツ、カツ。 (カツ、カツ、カツ) 「…………」 再び足を止めたファイは、ゾクリとして息を飲んだ。 (足音が、多い……) そう、ファイの足音にかぶせるようにして、一つ多く音が鳴ることに気がついてしまった。 気のせいにするためには、まずは安全な場所で息をつくことが必要だった。渦中の中にあっては嫌なリアリティしか生まれない。 真冬のような寒さを背筋に覚えつつ、ファイは小走りで東側の突き当りの準備室を目指す。 するとやっぱり、謎の足音も同じ速度でついて来る。 (これ、本気でヤバイかも……!) 背中から追い上げられる恐怖に足が縺れそうになるのを感じながら、息をするのも忘れて廊下を走り抜け、そして準備室の引き戸に手をかけた。 その瞬間、何者かによってその手首を掴まれたファイは声なき悲鳴を上げた。ガン、と懐中電灯が床に落ちる。 「――ッ!?」 「おい! 俺だ!」 「……ぇ、く、黒様……?」 落ちてしまった懐中電灯は双方の膝下程度までしか照らさず、相手の顔がはっきりと見えるわけではない。 だが、この二週間ほどですっかり耳に馴染んだ低音を、聞き間違えるはずはなかった。 「なんだ、血相変えて」 「ぅ……」 込み上げる安堵に反して、ファイは相手の腕を振り払うと「バカ!」と大声で怒鳴りつけた。 * 「落ち着いたか?」 椅子に腰かけ、ケトルで沸かした湯で淹れた紅茶で一息ついたファイに、黒鋼の呆れた視線が突き刺さった。彼は薬品棚に背中を預け、腕を組んでこちらを見下ろしている。 ちなみに黒鋼の分は未使用のビーカーを使おうと思ったが、謹んでお断りされた。 「落ち着くも何も! 後を付け回すようなことしといてよく言うよ!」 「あ? 付け回すって……何のことだ?」 「知らばっくれちゃって……はぁ、夢に出てきそう……」 「…………」 顔を顰める黒鋼を無視して、ファイは「それより」と先を続けた。 「なんで黒様がここに?」 「いつまで経っても戻らねぇから、迎えに来た」 「……わざわざ?」 「わざわざ」 過保護すぎやしないかと思いつつ、そういえば黒鋼には部屋を出る旨を告げずにいたことを思い出す。 だが、彼は机の足元の荷物と寝袋にとっくに気がついていたようで、ジロリと睨まれる。 「……別に、君のせいじゃないよ」 「だったら」 「オレの問題っていうか……なんていうか……」 自分が自分じゃなくなるような気がして、なんて説明で理解してくれるとは思えなかった。 黒鋼は平気な顔をしてファイのことを『俺のオンナだ』などと言い切ったが、言われる方の身としては、それはとてつもなく恐ろしいことだった。 そう言われても仕方がないくらい身体だって作りかえられて、刺激ばかり覚え込まされて、心が置き去りのまま迷子になっている。 こんな風になってまで、ファイは自分が当たり前のように培ってきた男性としての秩序を手放す気にはなれないのだ。 相手が『本気』なら、まだ余地はあったかもしれないが。 「黒たんもさ……もうやめなよ。男の人が好きだって言うなら別に止めはしないけど……オレで遊ぶのは、いい加減にしてほしいなって」 「俺はゲイじゃねぇぞ」 「そうなの……?」 「誰でもいいってわけでもねぇ」 「……ならなおさら、オレを相手にする意味がわからないな。頭固いって言われるかもだけど、やっぱりセックスは好きな人とした方がいい」 諭すように言いながら、どうしてか傷ついている自分がいた。決して間違ったことは言っていないはずだし、距離を置こうという選択が誤っているとも思えない。 (なのにさ……なんだよ、この嫌な気持ち……) ぶつかり合っていた視線を、先に外したのは黒鋼だった。どこか苛立ったように舌打ちをして、目線だけそっぽを向く。 ファイにはその苛立ちの理由がいまひとつ理解できない。彼は、一体何に拘っているのか。 「俺がおまえを選んでも、おまえが俺を選ばない。そういうことだな」 「黒たんが俺を選ぶ……? どうして? だって君はずっとオレのこと」 「昨日言った」 嫌いだったでしょ、と続くはずだった言葉は、低い声によって即座に遮られた。目を見開くばかりのファイに、黒鋼はなおも言った。 「昨日、言ったぞ。俺は、確かに」 言った、かもしれない。 けれど肝心のその言葉を、ファイは覚えていないのだ。最後の瞬間、確かに聞いたはずなのに。 咄嗟になんと返すべきか迷っていると、黒鋼はその沈黙を自分なりに解釈したらしい。 「わかった。もういい」 「黒たんあのね、オレ」 「部屋には戻れ。俺が出ていく」 待って、と手を伸ばすより先に、黒鋼は足早に準備室を出て行ってしまった。廊下を歩く足音はほとんどせずに、すぐに階段を下りる音が響いては遠のいていく。 ――ふと。 黒鋼はこの準備室脇の東階段を使ってここへ来たのではないかと、そんな考えが頭を過る。 ならば彼はファイがここに慌てて駆け込もうとした時、すでにこの部屋の前にいたのではないか? (じゃあ、後ろから追いかけて来てたのは、彼ではない……?) 一瞬ヒヤリとしたが、なんだかもう全てどうでもいい気がした。今は何も考えたくない。なにもかもが面倒だ。 (なんでオレが悪いことしたみたいな感じになってるんだろ……) ファイは床を蹴って椅子ごと回転し、机の上に突っ伏した。 ←戻る ・ 次へ→
翌朝金曜日、登校してすぐに化学室と隣接する準備室へ向かったファイは、机の下の床にパンパンに中身の詰まった旅行バッグを置いた。
その横には青い寝袋もグルグル巻きにして並べてある。
「よーし準備オッケー」
ふぅ、と息をついてデスクチェアを引き寄せると、だるさの残る下半身を刺激しないようにそっと腰掛ける。
そして改めて運び入れた足元の荷物に視線を落とすと、深く息をつく。
旅行バッグに入っているのは、着替えやちょっとした日用品の数々だ。寝袋はもちろん、ここで睡眠を取るためのアイテムで、大学の方へわざわざ足を運んで登山部から借り受けた。
学校に教育実習生がやってきて、今日でちょうど2週間。
早い者は今日が最終日だが、長い者はあと一週間残っている。
黒鋼は後者に当てはまるわけで、ファイは残りの日数をこの準備室で生活することに決めた。
彼は禁を破ったわけではないけれど。
むしろまるで忠犬のように言いつけを守り、ファイが「よし」と言うのを待っていた。許可した結果、昨夜は思い出すだけでむせ返りそうになるほど濃厚な一夜を過ごすことになった。
(思い出すと……頭パーンってなっちゃうかも……)
だから他のことに気をやろうとしても、一度向けてしまった意識は接着剤でねっぱしたように脳裏から離れない。
恥ずかしい自分の声だとか、優しく労わる黒鋼の低い声だとか。
『はっ、あぁ……ッ、ん、ぃ、痛……ぁ、い、ぃ……中、いい……』
『まだ辛いか……?』
『んッ、ぅん、つら、けど……いい……なか、いっぱいで、熱、い……』
『動いても』
『いい、いいから……アッ、ゆっくり……優しく、して……』
気が遠くなるほどの時間をかけて慣らし、受け入れた恐ろしいまでの熱は、一度目とは比べ物にならいくらいファイの中に馴染んだ。
自分の意思で受け入れるのと無理やり奪われるのとでは、やはり感覚がまるで違うのか。
痛みや辛さも快楽の前にはただひれ伏すばかりで、黒鋼の努力もあってかファイは存分に痴態をふるった。
こちらの呼吸のペースに合わせて浅く腰をゆり動かすのに合わせて、ファイもまた犬のように腰を振ったのを覚えている。
そうして最後の最後で。
『 』
耳元で、何か囁かれたような気がする。
それは飛び上がって歓喜してしまいそうな言葉だった気がするのに、混濁した意識に呑み込まれていたファイには記憶がない。
ただ、信じられないほどの幸福の中で絶頂を迎えたことだけは、覚えている。
そこまで思い出して、ファイは火を噴きそうになる顔を両手で押さえた。心臓がうるさいくらい小刻みに跳ねて、息が苦しくて堪らない。
「もう……これじゃあまるで……」
恋をしているみたいだ。
黒鋼のことはもちろん好きだった。結局なにをされたとしても、ファイは彼を憎むことなんて出来ない。
向こうにどう思われていたとしても子供の頃の彼を可愛がっていたのは事実で、今でも大切な思い出だ。何より、当時のことを自分の中で否定するのは嫌だった。
昨夜のファイは明らかに彼を巡って嫉妬していたし、求められたことも嬉しかった。まるで選ばれたみたいな優越感もあった。
けれど昨日は……そう、きっと色々と疲れが溜っていて、ちょっとおかしくなっていただけなのだと。
(だって……どうせ仕返しの延長なんだし……)
黒鋼はそれを頑なに否定するが、彼に拒まれた記憶はあれど、好かれた記憶のないファイにしてみれば、一度根付いた思考をそう簡単に覆すことは難しい。
どうせあと一週間で実習が終わればいなくなる人間なのだし、それ以降は会う理由なんてなくなるのだし。
ただ、このまま一緒にいれば厄介なことになりそうだという危機感だけはあって、ファイは逃げるようにして化学準備室を寝床にすることに決めたのだった。
(まさかあの黒たんと、身体だけの関係を結ぶことになるなんてなぁ……)
身体だけ、という言葉に感じた胸の痛みに気づかない振りをするように、足元のバッグに手を伸ばす。中を漁って取り出したのは小型の電気ケトルとマグカップ、そして極力ゴミを出さないようにと適当に購入した顆粒タイプの紅茶缶だ。
職員朝礼まではまだ時間もあるし、温かいものでも飲んで気持ちを切り替えようと思った。
「あ、スプーン忘れちゃった」
どこかになかったろうかと、机の下に収まるキャビネットを上から順に開けていく。
一段目を開け、中身の荒れ様から目を背けると、そっと閉じる。二段目も、開けただけですぐに閉じた。どちらも書類やら筆記用具やら、あらゆる物が溢れていて何がなんだか分からない状態だった。
片付けないとなぁ、なんて少しゲンナリしながら三段目に手をかけ、引き出そうとしたがそこは鍵がかかっており、びくともしない。
「あちゃー、鍵どこにやっちゃったっけかなー……」
持ち歩けば失くしてしまうだろうと、どこかに仕舞ったような気がしないでもないのだが、どうも記憶が曖昧だった。
そうしているうちに面倒になってしまったファイは、まぁいいやと思い出す作業を放棄する。
別にスプーンに拘らずともここにはあらゆる実験器具があり、紅茶をかき混ぜるくらいなら撹拌棒を使えばそれで済む。
そのうちゆっくり片付けがてら探せばいいだろうと、とりあえず水を汲むべくケトルを手に隣の化学室へ向かった。
続々と登校する生徒達の声はこの場所からは酷く遠くて、カーテンが閉め切られたままの薄暗い教室にはリノリウムを叩くファイの靴音だけが鈍く響き渡る。
窓際に面した水汲みスペースで一気に蛇口を捻ると、ケトルのメモリいっぱいまで水を注ぎ、再び蛇口を捻った。
そのときだった。
ガン、という何かがぶつかるような音を聞いた気がして、ファイは咄嗟に顔を上げた。
身を強張らせながら辺りを見回し、人の姿がないことを確認する。
6人掛けの大机と椅子、黒板に教壇。恐る恐るそれらの下を覗きこんで、無人であることを確かめた。
準備室の方へもゆっくりと向かい、そこにも人気がないことを確認するとホッと息をつく。
「気のせい気のせい」
昨日のことがあったせいか、神経質になっているだけかもしれない。
そういえば、今朝はまだロッカーを開けていないことに気付く。
机の上にセットしたケトルのスイッチを入れてから、ファイは背後のロッカーに目を向けた。
あの中には元々たいした貴重品も入れていないし、白衣はもう予備が利かないので、昨日持ち帰って洗濯したものがバッグに入っている。だから今は開ける用事はないのだが。
ファイは少し緊張した面持ちでロッカーへとゆっくり足を進めた。取っ手に手をかけて、喉を鳴らすと一気に開く。
中には……これといって何もない。
またおかしなメモ書きがあったりしたらどうしようかと多少は不安だったが、あれ以上のことは何もないらしい。
本当に誰があんな悪質な真似をしたかは知らないが、何か文句があるなら堂々と姿を見せてくれた方がいっそスッキリするというものだ。
(それが出来ないから、こそこそ嫌がらせするんだろうけど)
見えない相手というのはなんとも不気味ではあるが、か弱い女性でもあるまいし、ビクビクしながら過ごすのは嫌だった。
これ以上ふざけた真似をしてナメてかかってくる相手がいるなら、容赦するつもりはない。そのくらいの気性の荒さは持ち合わせている。
それにこの場所は自分にとって小さな砦だし、一人きりになれる空間が他に思い当たらなかった。
しかもここなら多少は朝ものんびり寝ていられるな、という物臭らしい思惑もある。
親元を離れている生徒も多いため食堂は朝から開いているし、シャワーだって運動部で使用しているものをいつでも借りることができる。
様々な条件があまりにも魅力的だった。
「……わっ! もうこんな時間?」
ロッカーの扉を閉じつつ、ふと目をやった先にあった時計を見て、ファイは額を押さえると「あーぁ」という声を漏らした。
紅茶を飲むくらいの時間はあったはずだが、妙なラップ音のせいで配分が狂ってしまった。
ちょうど湯も沸いたが、仕方なくバッグから白衣を取りだすと袖を通し、慌てて準備室を飛び出した。
ファイの足音が消え去り、しんと静まり返った無人の準備室。
完全には閉じられていなかったロッカーがキィ、と音を立てて開かれる。
その扉の内側に設置されている鏡に、くっきりと白い手形が張り付いていたことに、中身ばかりを気にしていたファイが気付くことはなかった。
『 い つ も み て る よ 』
*
その夜。
ほぼ無人の校舎は恐ろしいまでに静まりかえっていた。
暗く長い廊下にはファイの足音だけが木霊し、一階にいる警備員が貸してくれた懐中電灯の明かりが丸く足元を照らしている。
「わー、結構不気味ー」
そんなこと言いつつも、夜の学校は少しワクワクする。
懐中電灯を貸してくれた警備員は古株で、すっかり顔馴染みの人間だった。
適当な理由をつけて学校に泊まり込む旨を伝えた時、どうせだからとファイはこの三階の南校舎だけ見回りを買って出た。
見回りといっても全ての教室は鍵がかかっているし、それを確認しながら一つ一つ小窓から内部を照らして見るだけの簡単な作業だった。
「よーし終了ー」
化学室はこの階の東側、一番端にある。そこからスタートして、ちょうど西側の突き当たりでファイは足を止めた。あとは準備室に戻って明日の支度をしてしまおうと、元来た廊下を引き返す。
夕食は別に食べても食べなくてもいいし、やることを全て終えて一息ついたら、シャワーを浴びに行こう。
そんなことをぼんやりと考えながら、廊下の中腹で歩みを止める。
「……?」
(まただ……こんな時に……)
このフロアに誰もいないということは、今の今まで見回りをしていた自分が一番よく知っていた。
それなのに、何者かの視線が痛いほど背後から皮膚に突き刺さるような気がした。
咄嗟に振り向きかけて、やめた。
(髪の長い女の霊とかが這いずってたら……どうしようかな……)
ちょっと見てみたい気もするにはするが、まずはとにかく早く戻ろうと再び歩きはじめる。
カツ、カツ、カツ。
(カツ、カツ、カツ、カツ)
カツ、カツ。
(カツ、カツ、カツ)
「…………」
再び足を止めたファイは、ゾクリとして息を飲んだ。
(足音が、多い……)
そう、ファイの足音にかぶせるようにして、一つ多く音が鳴ることに気がついてしまった。
気のせいにするためには、まずは安全な場所で息をつくことが必要だった。渦中の中にあっては嫌なリアリティしか生まれない。
真冬のような寒さを背筋に覚えつつ、ファイは小走りで東側の突き当りの準備室を目指す。
するとやっぱり、謎の足音も同じ速度でついて来る。
(これ、本気でヤバイかも……!)
背中から追い上げられる恐怖に足が縺れそうになるのを感じながら、息をするのも忘れて廊下を走り抜け、そして準備室の引き戸に手をかけた。
その瞬間、何者かによってその手首を掴まれたファイは声なき悲鳴を上げた。ガン、と懐中電灯が床に落ちる。
「――ッ!?」
「おい! 俺だ!」
「……ぇ、く、黒様……?」
落ちてしまった懐中電灯は双方の膝下程度までしか照らさず、相手の顔がはっきりと見えるわけではない。
だが、この二週間ほどですっかり耳に馴染んだ低音を、聞き間違えるはずはなかった。
「なんだ、血相変えて」
「ぅ……」
込み上げる安堵に反して、ファイは相手の腕を振り払うと「バカ!」と大声で怒鳴りつけた。
*
「落ち着いたか?」
椅子に腰かけ、ケトルで沸かした湯で淹れた紅茶で一息ついたファイに、黒鋼の呆れた視線が突き刺さった。彼は薬品棚に背中を預け、腕を組んでこちらを見下ろしている。
ちなみに黒鋼の分は未使用のビーカーを使おうと思ったが、謹んでお断りされた。
「落ち着くも何も! 後を付け回すようなことしといてよく言うよ!」
「あ? 付け回すって……何のことだ?」
「知らばっくれちゃって……はぁ、夢に出てきそう……」
「…………」
顔を顰める黒鋼を無視して、ファイは「それより」と先を続けた。
「なんで黒様がここに?」
「いつまで経っても戻らねぇから、迎えに来た」
「……わざわざ?」
「わざわざ」
過保護すぎやしないかと思いつつ、そういえば黒鋼には部屋を出る旨を告げずにいたことを思い出す。
だが、彼は机の足元の荷物と寝袋にとっくに気がついていたようで、ジロリと睨まれる。
「……別に、君のせいじゃないよ」
「だったら」
「オレの問題っていうか……なんていうか……」
自分が自分じゃなくなるような気がして、なんて説明で理解してくれるとは思えなかった。
黒鋼は平気な顔をしてファイのことを『俺のオンナだ』などと言い切ったが、言われる方の身としては、それはとてつもなく恐ろしいことだった。
そう言われても仕方がないくらい身体だって作りかえられて、刺激ばかり覚え込まされて、心が置き去りのまま迷子になっている。
こんな風になってまで、ファイは自分が当たり前のように培ってきた男性としての秩序を手放す気にはなれないのだ。
相手が『本気』なら、まだ余地はあったかもしれないが。
「黒たんもさ……もうやめなよ。男の人が好きだって言うなら別に止めはしないけど……オレで遊ぶのは、いい加減にしてほしいなって」
「俺はゲイじゃねぇぞ」
「そうなの……?」
「誰でもいいってわけでもねぇ」
「……ならなおさら、オレを相手にする意味がわからないな。頭固いって言われるかもだけど、やっぱりセックスは好きな人とした方がいい」
諭すように言いながら、どうしてか傷ついている自分がいた。決して間違ったことは言っていないはずだし、距離を置こうという選択が誤っているとも思えない。
(なのにさ……なんだよ、この嫌な気持ち……)
ぶつかり合っていた視線を、先に外したのは黒鋼だった。どこか苛立ったように舌打ちをして、目線だけそっぽを向く。
ファイにはその苛立ちの理由がいまひとつ理解できない。彼は、一体何に拘っているのか。
「俺がおまえを選んでも、おまえが俺を選ばない。そういうことだな」
「黒たんが俺を選ぶ……? どうして? だって君はずっとオレのこと」
「昨日言った」
嫌いだったでしょ、と続くはずだった言葉は、低い声によって即座に遮られた。目を見開くばかりのファイに、黒鋼はなおも言った。
「昨日、言ったぞ。俺は、確かに」
言った、かもしれない。
けれど肝心のその言葉を、ファイは覚えていないのだ。最後の瞬間、確かに聞いたはずなのに。
咄嗟になんと返すべきか迷っていると、黒鋼はその沈黙を自分なりに解釈したらしい。
「わかった。もういい」
「黒たんあのね、オレ」
「部屋には戻れ。俺が出ていく」
待って、と手を伸ばすより先に、黒鋼は足早に準備室を出て行ってしまった。廊下を歩く足音はほとんどせずに、すぐに階段を下りる音が響いては遠のいていく。
――ふと。
黒鋼はこの準備室脇の東階段を使ってここへ来たのではないかと、そんな考えが頭を過る。
ならば彼はファイがここに慌てて駆け込もうとした時、すでにこの部屋の前にいたのではないか?
(じゃあ、後ろから追いかけて来てたのは、彼ではない……?)
一瞬ヒヤリとしたが、なんだかもう全てどうでもいい気がした。今は何も考えたくない。なにもかもが面倒だ。
(なんでオレが悪いことしたみたいな感じになってるんだろ……)
ファイは床を蹴って椅子ごと回転し、机の上に突っ伏した。
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