2025/09/19 Fri 狭い部屋の中に、ささやかな星の光が射していた。 あれは秋の頃だったろうか。 窓から流れ込んでくる風が冷たくて、だけど満点の星空があまりにも綺麗で。 まだ幼いボクらはずっと身を寄せ合って、膝を抱えながら空を見上げていた。 この夜がいつまでも続けばいいのにと願いながら。 「ユゥイ」 兄はボクの肩を抱き寄せて、濡れた頬に指先で触れた。 秋風にカーテンが揺れる。ボクらを取り巻く世界はこんなにも冷たいのに、兄の手はとても温かかった。 いつも守ってくれた。兄だけがボクの世界だった。それでよかった。 「お別れじゃないよ。また会える。だってオレたちは家族だもの」 「……でも……さみしい……いっしょがいい……」 ボクはずっと堪えていた嗚咽をついに漏らしてしまった。 ヒィヒィと声を上げて泣きながら、兄に縋りついた。ずっと一緒だったのに。これからもずっとそうだと思っていたのに。 寂しい。寂しい。だけど兄は笑ってボクを抱きしめた。温かい。 「寂しいのは大好きだからだよ。オレだって寂しいけど、ユゥイのことが大好きだから我慢する。ユゥイも、ずっと忘れないでいて」 ボクが涙でぐしゃぐしゃになっている顔を上げると、兄は手の平でしきりにボクの頬を拭った。 泣かないでと繰り返しながら笑う彼の頬に、涙はなかった。 代わりに、大きな痣があった。頬にも、目元にも、顔だけじゃない。兄の身体中には沢山の痣や傷があって、それは全てボクを守るためのものだった。 そう、ボクのせい。 ボクはずっと兄と一緒にいたいと思っていた。 兄がいなければ何もできない。兄がいなければ不安で、怖くて、一人ではどうしたらいいか分からない。 だけどこの時、ボクは初めて兄から離れなければと強く感じた。 本当はずっと分かっていた。ボクがいるから兄は傷つく。ボクが弱いから、兄は強くならなければいけなかった。 ボクが受けなければいけない傷を、全て背負い込むために。 「だいじょうぶ。離れてても、ずっとユゥイのことを守ってあげる」 そうだ、と言って、兄はボクから離れると暗い部屋の中でもぞもぞと動いた。何かを手探りで見つけ出して、それをそっとボクに差し出す。 「これ、あげる」 それは兄がずっと大切にしていた、大きな黒い犬のぬいぐるみだった。 寝る時もいつも側に置いて、片時も離すことがなかったそのぬいぐるみは、もう随分と古くてボロボロだった。 尖っていた耳は片方がすっかりひしゃげて、目も鼻も尻尾も取れかかっている。 彼はこれを『黒わん』と呼んで可愛がっていた。 「でも……これは……」 兄の宝物だ。今まではずっと、ボクにすら触らせてくれなかった。 いいの、と兄はやんわりと笑って首を振った。 「これを持ってて、寂しいときはぎゅってして。ね」 ボクは兄からぬいぐるみを受け取ると、彼が言う通りぎゅうっと強く抱きしめた。兄の匂いがした。 ぬいぐるみに顔を埋めて、また泣き出してしまったボクを、兄が抱きしめる。 大好きだから寂しい。大好きだからお別れする。 強くならなければいけなかった兄と同じように、ボクは大人にならなければいけない。 だってボクがこんな風に弱くて泣き虫だから、兄は泣くことも、一緒に行きたいという一言すらも、言うことができなかったのだから。 *** 自宅から徒歩十数分の駅から電車に乗って、揺られることおよそ30分。 職場ビルがある市街地の北側に位置する区域は、真昼間から人通りもまばらで、どこか色褪せた埃臭い街並みが広がっていた。 背の低いビル群はどれも見るからに老朽化が進み、申し訳程度にあるコンビニだけがやけに真新しい。 駅を出てすぐの広い通りは銀杏並木になっていた。黄金に色づいた葉が秋風にささめき、燦々と降り注ぐ陽の光を浴びてさらに輝いている。その光景だけが鮮やかで、あとはこれといって何もない、古臭い街という印象しか持てなかった。 黒鋼は、もう何年も着古した黒のダウンジャケットに両手を突っ込み、色鮮やかな銀杏並木へは向かわずに駅裏の商店街へと足を向けた。 古めかしい店構えの割には看板がやけに真新しい青果店、シャッターの降りた豆腐屋、香ばしい揚げ物の香りを漂わせる精肉店、薄汚れた居酒屋。 一車線程度の狭い道幅の商店街は、行き交う人の年齢層も比較的高いようだった。 腰の曲がった老夫婦が仲睦まじくシルバーカーを引いて買い物をする姿や、旦那の愚痴を肴に立ち話に夢中になる中年の奥様方が豪快な笑い声を上げている。 どこか懐かしような、昭和臭い通りを真っ直ぐ進んでいくと、ふと前方の道端に看板が立てられているのが見えた。 ダークブラウンのカフェ看板には、白いチョークで『猫の目』と書かれている。 「ここか……」 足を止めた黒鋼は、重い息を漏らした。 休みの日にわざわざこんな場所まで足を運ばなくてはならないなんて。仕事の都合とはいえ、どうにも解せない。 狭い脇道に渋々入り込んだ黒鋼は、一応はジャケットから両手を引き抜き、姿勢を正した。古臭い民家に挟まれるようにして姿を現したのは、どこかレトロな外装の喫茶店だ。格子状の白い木製ドアの前にもカフェ看板が立てられている。 黒鋼は看板脇に置かれている、小さな子供用のウッドチェアに目を向ける。そこには、黒いオオカミのような編みぐるみが、造花の花束を持って行儀よく座っていた。 *** 「いらっしゃい」 内心躊躇いながら扉を開けた黒鋼を、カウンター越しに出迎えたのは黒のギャルソン服に身を包んだ、華奢な優男だった。 長い金髪を緩く一纏めにした彼は、素でいても怒っているように見られる黒鋼の面構えに一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに「ああ」と頷いて笑った。 「堀鐔の記者さん?」 「……邪魔するぞ」 「どうぞ。お好きな席へ」 黒鋼は仏頂面のまま足を踏み入れると、男の向いのカウンター席に腰かけた。 チラリと横目で見た店内には、片隅に若い女性が一人いるだけだ。緩くウェーブのかかった長い黒髪の女は、黒鋼の視線に気づくと開いていた本を閉じ、顔を上げてにっこりと笑う。まだ少女といっていいあどけなさから、黒鋼はすぐに目を逸らした。 「コーヒー? 紅茶?」 「水でいい」 「そうおっしゃらず」 「……紅茶」 正直なんでもよかったが、とりあえずメニュー表の紅茶の欄から、一番上のダージリンを指先で幾度か突くと、男はニッコリ笑って「少々お待ちください」と言った。 待っている間、落ち着かない気分で微かにジャズが流れる店内をじっくりと見回す。 清潔感溢れる白壁に、椅子やテーブル、床までもがどこか使い古されたようなアンティーク調のもので統一されている。 古い壁掛けの時計や、ドライフラワーのリース、窓辺に並ぶ小さな観葉植物など。いかにも女性受けしそうな装飾の横には、小人や動物の編みぐるみが必ずといっていいほど寄り添っていた。 店の奥にはテラスへの入り口もあり、その脇に雑貨品が並ぶスペースがある。僅かに身体を傾けて覗いただけでも、ぬいぐるみなどのインテリア雑貨は勿論、キャスケットやバッグなどのファッション小物も所狭しと並べられているのが分かる。 正直、げんなりした。 「可愛いでしょう? 全部ハンドメイドなんですよ」 金髪の青年が、黒鋼に紅茶を差し出しながら目を細めて笑った。立ち上る湯気と共に、マスカットフレーバーが鼻先を掠める。 「悪いが……プライベートじゃぜってぇ来ねぇよ」 カップに口をつけ、口の中に紅茶を含ませたあと、黒鋼は率直に述べた。何を飲んでいるのかも、いっそよく分からない。 男は肩を竦めて笑い、「でしょうね」と言った。 渋い表情のままの黒鋼は、男を見上げるとふっと息をつき、本題に入る。 「で? あんたの言う通り来てはみたが……俺はただ茶をしばきに来たのか?」 ここはいわゆる雑貨カフェというものだ。ドリンクやフード、スイーツを出す以外にも、手作りの雑貨品を売っている。 ただ一息つくだけなら、黒鋼はこんな小洒落た喫茶店など絶対に選ばない。中年の親父が道楽でやっているような、雑然とした店で充分だ。美味いカレーが一瞬で出てきさえすれば文句はない。 それがなぜわざわざこんな店に、しかも休日に足を運ぶことになったのか。 事は数日前。雑誌記者である黒鋼が初めて、目の前の店主にコンタクトを取ったことがキッカケだった。 彼は取材の了承を得るために連絡をした黒鋼にこう言った。 『まずはプライベートで、お一人でいらしてください。それから決めます』と。 黒鋼が堀鐔出版に入社してそろそろ二年。グルメ雑誌担当の部署に配属され、記者としてはまだ駆け出しといっていい。 気難しい店主はどこにでもいる。事前連絡で拒否されることは少なくないが、手始めにプライベートで来いという申し出は今回が初めての経験だった。 「驚かれました?」 男は柔和な笑みを決して崩さない。客を相手にしているのだから当たり前ともいえるが、どこか冷えた印象を受けるのは顔の造りが整いすぎているせいだ。 いかにも体育会系で厳つい黒鋼が居心地悪さを感じて仕方ないのは、この人形のような美貌を持つ男の雰囲気にも馴染めないから、かもしれない。 「まぁな。俺はそう場数を踏んでる方でもねぇしな」 「貫禄たっぷりですけどね。駆け出し記者というよりは、叩き上げ刑事って感じかな」 「褒め言葉と取っとくぜ」 「……今日お呼びしたのは」 男は、一瞬だけ笑顔の仮面を崩し、切なげな表情で店の奥の方を向いた。 つられて視線をやれば、そこはテラスだ。男が一人、背を向けてテーブルに腰かけている。陽光を浴びて、金色の髪が光を放っていた。 「双子、だったな。あれが片割れか?」 「ええ。取材をお受けするかどうかを決めるのは、ボクだけの判断ではできません」 「なるほど」 気難しいのはこの男ではなく、あのテラスにいる方の男というわけだ。 事前の下調べでこの店が双子による共同経営ということは知っていた。弟がカフェを、兄が雑貨を。おそらくカウンターにいる方が弟のユゥイだ。 兄の名は、ファイ、だったか。 「気に入られりゃいいわけだ」 「端的に言うと、そうですね」 まだ何かもの言いたげなユゥイを残し、黒鋼は椅子から立ち上がるとテラスへと足を向けた。 先客の少女がふと顔を上げたが、目もくれずに一歩一歩、入り口へ近づく。一体どんな堅物なのだろうかと想像を巡らせながら。 すると、近づくにつれて柔らかな声が聞こえることに気が付いた。 それは鼻歌だった。 どこかで聞いたことがあるようなその曲は、テラスで背を向けている男が発する声だった。勝手に抱いていた鼻持ちならない印象と、その歌声があまりにもかけ離れていて、少し戸惑う。 多少調子はずれだが、この曲は確か。 「星に願いを、か?」 金髪の男は、ファイは、黒鋼がすぐ側まで近づいていたことに全く気付いていないようだった。 彼はかぎ針を使って、黒く細い毛糸を編み込んでいた手を止め、青い目を丸くしながら顔を上げる。優しげな声でメロディを紡いでいたはずの唇も、ポカンと開かれていた。 なんて間の抜けた顔をする男だろうと思った。弟よりも幾らか髪が短いせいか、印象が幼い。長い睫毛に縁どられた碧眼は目尻が少し垂れていて、どこか小動物めいた愛嬌がある。同じ顔の作りでも、随分と違う印象を受けることに驚いた。 弟がキッチリとギャルソン服を身に着けていたのとは対照的に、彼は白い七分袖のシャツに黒のパンツ姿というラフな装いだった。 「聞いてねぇか? 俺は堀鐔出版の」 「黒わん……?」 「あ?」 黒鋼が名乗るのを遮って、彼は毛糸を絡ませたままの指先をこちらに向けた。そして、どこか茫然としたような声でもう一度「黒わん」と言った。 「黒わんじゃねぇ。俺は」 「黒わんだぁ」 何も言えなくなってしまった黒鋼に向かって、彼はふにゃりと、綿飴のような笑顔を浮かべて見せた。 *** そこは小さな箱庭のようなテラスだった。 きめ細かな芝生に覆われた空間は、秋薔薇の生垣で切り取られたようになっていて、シマトネリコの木々が青々とした実をつけている。 決して広々としているわけではないが、澄んだ秋空の下で食べるランチというのはなかなかよさそうだ。愛らしい雑貨に囲まれた店内よりは、だいぶ居心地がいいかもしれない。 そんなテラスには白いパラソルが立てられた木製テーブルと、ガーデンチェアのセットが三つ。その一席で、黒鋼はなぜか初対面であるはずの男に懐かれていた。 「黒わん黒わん、今ね、オレね、黒わん作ってたよー」 ファイはせっせと雑貨作りに精を出していたようだが、今はもう目の前の黒鋼に夢中で、手にしていた毛糸やかぎ針をはじめとする諸々のアイテムが、テーブルの上に投げ出されている。 わざわざ椅子ごと移動して、べったりとくっついてきた彼は黒鋼の腕にぎゅうぎゅうとしがみついていた。 一体これはどういう現象なのか。黒鋼はただ困惑するばかりで、何をどう切り出せばいいか分からないでいた。 「あのね、オレね、毎日いっぱい黒わん作ってるのー。黒わんのお友達もたくさんいるよー」 「…………そうか」 「でもね、帽子とか、鞄とか、髪につけるのも作るよー。可愛いお花もつけると、サクラちゃんが褒めてくれるんだー。黒わんわんもお花好きー?」 「どうだろうな……」 「オレねー、サクラちゃんと『しんゆー』なんだー。でも知世ちゃんもだいしんゆーなんだよー」 そう言って、ファイは店の中にいる黒髪の少女に手を振った。彼女は顔を上げると優しく微笑み、同じように手を振り返している。 あのずっと本を読んでいた先客の女は知世という名前なのか。黒鋼にしてみれば物凄くどうでもいい情報だが、ファイは一生懸命お喋りに夢中になっている。 黒わんの存在がよほど嬉しいのか、さっきから顔を赤くして興奮している様子だった。ぴったりと密着させている身体が、どんどん熱を持ってくるのが分かる。 これでは仕事の話どころの騒ぎではない。何が悲しくて野郎に密着されて、くだらない話を聞かされなくてはいけないのだろう。 だが、なぜか振り払う気になれない。乱暴に扱ってはいけないような気がする。それは黒鋼が記者で、相手が取材を申し込みたいカフェの人間である事実とは、まるで違った次元にあるような気がした。 姿形ばかりは立派な大人だが、彼は……。 「ファイ、お会計できる?」 黒鋼が戸惑いながらも答えを導き出したのと同じとき、ユゥイがテラスに姿を現した。 そしてファイの側でしゃがみ込み、その膝の上に手を置いた。 「こないだ教えた通りにできるかな? 知世ちゃんがお帰りだよ」 「知世ちゃんもう帰っちゃう?」 「そう。ボクはこのお兄さんとお話があるから、ファイにお願いするね」 「わかったー。オカイケーがんばるー!」 「いい子だね。ありがとう」 ファイは黒鋼から離れ、椅子から立ち上がると駆け出した。店内では伝票を持った知世がこちらに会釈している。 品のいいワンピースをまとった、見るからに育ちのよさそうな少女だと、改めて思った。 「気に入られましたね」 二人が楽しそうに会話をしながら会計スペースに向かう背中を見つめたあと、ユゥイが黒鋼の向いに腰かけた。 彼は小さく鼻から息を漏らす黒鋼の正面に、ポケットから取り出した黒いぬいぐるみをちょこんと置いた。 「これは……?」 「黒わんです。ファイが特にお気に入りで、毎日作ってるんですよ」 手の平サイズのそれは、尖った耳と大きな尻尾をしたオオカミのような犬の編みぐるみだった。 赤いマフラーをして、吊り上がった目がなんとも憎たらしい。 思わず手に取って「似てねぇだろ」と吐き捨てると、ユゥイはどこか悲しそうに苦笑する。 「あの子は……兄は、子供です」 「……みてぇだな」 「驚かれたでしょう。ごめんなさい」 「……いや」 ユゥイは黒鋼がテーブルに戻した黒わんを手に取り、指先でその頭を撫でながら一度ゆっくりと瞬きをした。 「この店のことは、ネットの口コミサイトを見て知ったとおっしゃいましたね」 「そうだ」 「凄いですね。それほど目立った内容でもなかったでしょうに」 「……まぁ、確かにな」 今はその情報の多くをインターネットを通じて仕入れることも少なくはない。 黒鋼がこの店に訪れることになったのも、ネットの口コミを元に幾つかの店がピックアップされて、編集会議にかけられたことがキッカケだった。 今回の企画内容が『隠れ家グルメ』だということもあり、数多ある情報の中でレビュー数こそ少ないものの、評価は上々な幾つかにこの店も入っていたというわけだ。 彼の言う通り、ここの情報はどちらかといえばあまり目立たず、埋もれていたといってもいい。 「お店を取り上げてもらうことは、ボク個人としては嬉しいです。だけど、それによってファイが嫌な思いをしないかばかりが気になって」 「だからまずは記者の人となりを見ようとしたわけか?」 「そうなりますね。お手を煩わせてしまってすみません」 でも、とユゥイはその表情に翳りを覗かせる。 「前にも一度あったんです。別の記者さんがいらしたことが」 「うちのか?」 「いえ……違います。男の人と女の人で、最初は普通のお客さんだとばかり思っていたんですが、どうやら違ったみたいで」 まだカフェをオープンして間もない頃だったと、ユゥイは言った。 ただの客だと思い持て成したら、実は女の方が記者で、男の方がカメラマンだったらしい。彼らはユゥイが注文された品をテーブルに運んだところで、初めて名刺と共に存在を明かした。いわゆる飛び込みというやつだ。 咄嗟のことに戸惑ったが、半ば押し切られる形で取材を了承することになったという。 二人は席を立ち、店内を物色しはじめた。そして、ファイと接触した。 「あの日も彼はここで雑貨作りをしていました」 まだ常連と呼べるような客すらついていなかった頃。ファイは急に近づいてきた二人の男女に驚き、すかさずユゥイの背後に隠れてぐずり出した。その仕草や言動を見て、彼らはすぐに気が付いた。 ファイの見た目とは異なる内面の幼さ、未熟さに。 そして面白がった。精神遅滞の若者が健気に雑貨を作る店。これは売れると言って、大きく特集しようなどと騒ぎだした。 ただのカフェや雑貨屋ならまだしも、オーナーである双子は見目も麗しく、駅裏の片隅で寄り添う姿はさぞかし読者の興味と同情を誘うだろうと。 興奮する彼らはしきりにファイに向かってシャッターを切り、矢継ぎ早にデリカシーのない質問を浴びせかけた。ユゥイはそれについて詳しく話そうとはしなかったが、大体の予想はつく。 「可哀想に……ファイは酷く泣きじゃくって……」 ユゥイはどこか諦めたような面持ちでそっと睫毛を伏せた。手の中の黒わんをぎゅっと握りしめる指先が震えている。 結局その記者たちはユゥイが強引に追い出し、取材の話はそのまま流れた。だが、その心には傷跡が残ってしまった。 「全部ボクの責任なんです……彼が小さな子供のままでいるのは、ボクの」 「……?」 「ああ、いえ……」 ユゥイは押し黙り、緩く首を左右に振ってから「なんでもありません」と言った。 「ユゥイー! オレちゃんとオカイケーできたよー!」 そこに、知世を送り出したらしいファイが、嬉しそうにテラスに戻って来た。 ユゥイはにっこり笑って立ち上がると、飛び込んできたファイを抱き留めてその頭を撫でた。 「ありがとう、助かったよ」 「お話終わった? もう黒わんと遊んでもいい?」 「いいよ」 「いいよってなんだ、いいよって……」 「わーい!」 すぐに駆け寄って来たファイが、背後から身を屈めて思い切り抱き付いてくる。 「黒わーん。おっきくてあったかいねー。何して遊ぶー?」 「あのな、俺は黒わんじゃねぇんだよ」 「黒わんが来てくれて、オレ嬉しいよー」 「……そりゃよかったな」 見た目が大人でも中身が幼い子供とあらば無下にもできず、黒鋼はただ渋い表情で溜息をつくことしかできなかった。 なぜあんな目つきの悪いぬいぐるみと一緒にされなくてはいけないのだろう。まさかとは思うが、この男の目には黒い犬の着ぐるみを着た大男でも映っているんだろうか。 すりすりと頬ずりをされていると、なんだか本当に犬にでもなってしまったような、腑抜けた気分になる。 ふんわりと立ち上る、ミルクに砂糖を溶かしたような甘い香りが、なおのこと彼を幼く印象付けていた。 顔を顰めつつも身動きが取れないでいる黒鋼に、申し訳なさそうに苦笑しながらユゥイが肩を竦める。 「少し遅いですけど、そろそろお昼にしましょうか。ついさっきヴィエノワが焼き上がったばかりなんです。ファイもそれでいい?」 「うんいいよー! あのね、エビのやつと、ハムのやつとー」 「はいはい、ちゃんと全部用意してくるよ」 そう言って中に戻って行こうとするユゥイを、黒鋼は一瞬迷ってから「おい」と呼び止めた。 彼はすぐに振り返り、小さく首を傾げて見せる。 「……ひとついいか」 「なんでしょう?」 「最初から取材の申し出を断らなかったのはなぜだ?」 それは素朴な疑問だった。 記者に対して最悪な印象しか持っていないはずの彼なら、最初の時点で素気無く断っていてもおかしくない。自身が身を置く業界をあまり悪くは言いたくないが、実際のところ彼らを傷つけた例の記者たちのような人間が少なくないことは否定できなかった。 ユゥイは腰に手を当てると、「そうですね」と少し考える素振りを見せてから、微笑んだ。 「単純に、堀鐔出版さんのグルメ情報誌が好きなんです。ここをオープンするときも色々とお店を食べて回ったんですけど、参考にさせてもらいました。だから記者さんがどんな人なのか、興味もあったというか」 「そうか」 自分が関わる雑誌を褒められるのは悪い気がしない。それだけ読者に信用と好感を抱かれているということだからだ。 西へ東へと駆けずりまわり、苦労して記事を書いている努力が報われるような気がする。 「ちょっとでも嫌な感じだったら、すぐに塩を撒いて蹴り出してやろうと思っていたんですが」 だが、どうやら決め手は違ったらしい。 「ボクも思ったんです。黒わんに似てるなーって、ね」 ユゥイはほんの少しだけ、意地の悪そうな笑顔を浮かべて見せると店の中へ戻って行った。 「……だから俺は黒わんじゃねぇって何度言えば」 「黒わん!」 「あ!?」 黒鋼に抱き付きながら退屈そうに話を聞いていたファイが、素早い動作で膝に乗って来る。横座りの形だ。上背はあるが華奢なせいか、いやに軽い。 「な、なんだてめぇいい加減に」 「お膝のってもいいー?」 「もう乗ってんじゃねぇか!」 「ひゃー! ブランコみたいー!」 「落ちるだろ暴れんな!!」 黒鋼の首に捕まって思いっきり足をブラブラとさせるファイの腰を、慌てて抱き込んでやると彼はさらにはしゃいだ声を上げて笑った。 その笑顔を見ていると、なぜかすっかり毒気を抜かれたような気にさせられて、黒鋼はただ彼の好きにさせてやることしか、できなくなってしまった。 *** 「黒わんやだよ……帰っちゃ嫌……」 帰り際、ファイは黒鋼の胸に縋りついて泣いていた。 肩を震わせ、ひくひくとしゃくり上げる姿はまさに幼子そのものだ。 「ここにいて……ずっとここにいて……」 「ファイ、困らせちゃダメだよ。記者さんはちゃんとおうちがあるんだよ」 「じゃあ……じゃあ、オレも一緒に行く……」 ファイの言葉を聞いて、一瞬だけユゥイの表情が悲しげに歪んだ気がした。 それでもすぐに両肩を掴んで引き剥がそうとするが、ファイは頑として譲らない。黒鋼のダウンジャケットを強く握って、いっそう身を寄せてきた。 黒鋼は、参ったなと思った。それはユゥイも同じだったようで、目を見合わせて同時に溜息を漏らす。 その間も、ファイはずっと泣き続けていた。こんなにも泣かせてしまうくらいなら、いっそもう少しここにいてもいいかと考えるが、根本的な解決にはならない。まずはどうにかして、黒鋼が『黒わん』ではないことを理解させる必要がありそうだ。 「あのな、何度も言うが、俺はおまえの黒わんじゃ」 「黒わん……オレのこと嫌い? オレが悪い子だから、黒わん怒ってどっか行っちゃう……?」 「…………」 「すみません……」 「いいけどよ……」 とにかく困った。小さな子供の相手なんてしたことがない。だからどうやって扱えばいいのか分からなかった。 胸に縋りついたまま見上げてくる瞳があまりにも無垢で、赤くなった頬に大粒の涙が幾つも流れてゆくのを見ていると、心が痛んで仕方がない。 黒鋼はどうすればいいのか分からないながらも、彼の目元に指先で触れて、その涙を拭った。 「怒ってねぇよ」 「ほんと……? 嫌いじゃない……?」 「嫌いじゃねぇし、怒ってねぇし、おまえは何も悪いことなんかしてねぇだろ?」 「でも……黒わん帰っちゃう……」 拭っても拭っても止まらない涙に、こうなったら意地でも泣き止ませなければ帰れないという気持ちになった。 「また来る」 「……いつ? 明日?」 「明日は急だな……とにかく、時間作ってまたすぐに来る」 ぽんぽんと頭の天辺を軽く叩いてやると、ファイは真っ赤な鼻をすんと鳴らしながら渋々黒鋼から離れた。何かを堪えるように唇を噛み締めたあと、ポケットから黒わんの編みぐるみを取り出し、そっと差し出してくる。 「あげる……」 「いいのか?」 「ん……あのね、この黒わん、まだ途中なの。マフラーがないの」 「ああ、本当だな」 黒鋼はファイから黒わんを受け取ると、生意気そうなその顔をじっと眺めた。 さっきユゥイに見せられたものは、首に赤いマフラーを巻いていた。だが、これにはそれがない。 「黒わん、マフラーがないと風邪ひいちゃう。だから、オレちゃんと作るから……」 「ああ」 だから早く来いと、そういうことか。 黒鋼は思わず笑ってしまった。彼は子供なりに知恵を絞っている。早く会いに来てほしくて、ささやかな脅しをかけているのだ。 なんとも言えないいじらしさを感じて、黒鋼はもう一度ファイの頭に手を伸ばすとそっと撫でた。 「すぐに来る。こいつが風邪ひいちまわねぇようにな」 「……うん!」 ファイはまだ瞳にいっぱい涙を溜めこんではいたけれど、元気に笑って頷いた。ようやく見ることができたその笑顔に心の底から安堵する。 そしてその瞬間、黒鋼の胸に不思議な思いが浮かび上がった。 「本当にすみません。こんなに懐いてしまうなんて」 「いや、別に悪い気はしねぇよ。飯も美味かった。また邪魔するぜ」 「ええ、是非」 「それと取材の件なんだが、ひとまず保留ってことでいいか」 「え?」 驚いていたのは黒鋼も同じだった。 今の今まで、あくまで仕事に繋げるためという思いしかなかったのだから。 それがなぜか、ファイと次の『約束』を交わした瞬間、不思議とそんな気が失せてしまった。 黒鋼は視線を巡らせると店内をざっと見回した。今は客の姿が一人もないが、時間帯によっては顔なじみの常連がのんびりと過ごすであろう、憩いの空間。 テラスではファイが鼻歌を口ずさみながら雑貨を作って、『しんゆー』とやらがそんなファイの作ったものを見て笑顔になる。 想像を巡らせるだけで穏やかな気持ちになって、ここに仕事では訪れたくないという気持ちにさせられた。 「本当にいいもんってのは、誰にも教えたくねぇよな」 その記者らしからぬ言葉にユゥイは小さく吹き出し、礼を言いながら頭を下げた。 ←戻る ・ 次へ→
あれは秋の頃だったろうか。
窓から流れ込んでくる風が冷たくて、だけど満点の星空があまりにも綺麗で。
まだ幼いボクらはずっと身を寄せ合って、膝を抱えながら空を見上げていた。
この夜がいつまでも続けばいいのにと願いながら。
「ユゥイ」
兄はボクの肩を抱き寄せて、濡れた頬に指先で触れた。
秋風にカーテンが揺れる。ボクらを取り巻く世界はこんなにも冷たいのに、兄の手はとても温かかった。
いつも守ってくれた。兄だけがボクの世界だった。それでよかった。
「お別れじゃないよ。また会える。だってオレたちは家族だもの」
「……でも……さみしい……いっしょがいい……」
ボクはずっと堪えていた嗚咽をついに漏らしてしまった。
ヒィヒィと声を上げて泣きながら、兄に縋りついた。ずっと一緒だったのに。これからもずっとそうだと思っていたのに。
寂しい。寂しい。だけど兄は笑ってボクを抱きしめた。温かい。
「寂しいのは大好きだからだよ。オレだって寂しいけど、ユゥイのことが大好きだから我慢する。ユゥイも、ずっと忘れないでいて」
ボクが涙でぐしゃぐしゃになっている顔を上げると、兄は手の平でしきりにボクの頬を拭った。
泣かないでと繰り返しながら笑う彼の頬に、涙はなかった。
代わりに、大きな痣があった。頬にも、目元にも、顔だけじゃない。兄の身体中には沢山の痣や傷があって、それは全てボクを守るためのものだった。
そう、ボクのせい。
ボクはずっと兄と一緒にいたいと思っていた。
兄がいなければ何もできない。兄がいなければ不安で、怖くて、一人ではどうしたらいいか分からない。
だけどこの時、ボクは初めて兄から離れなければと強く感じた。
本当はずっと分かっていた。ボクがいるから兄は傷つく。ボクが弱いから、兄は強くならなければいけなかった。
ボクが受けなければいけない傷を、全て背負い込むために。
「だいじょうぶ。離れてても、ずっとユゥイのことを守ってあげる」
そうだ、と言って、兄はボクから離れると暗い部屋の中でもぞもぞと動いた。何かを手探りで見つけ出して、それをそっとボクに差し出す。
「これ、あげる」
それは兄がずっと大切にしていた、大きな黒い犬のぬいぐるみだった。
寝る時もいつも側に置いて、片時も離すことがなかったそのぬいぐるみは、もう随分と古くてボロボロだった。
尖っていた耳は片方がすっかりひしゃげて、目も鼻も尻尾も取れかかっている。
彼はこれを『黒わん』と呼んで可愛がっていた。
「でも……これは……」
兄の宝物だ。今まではずっと、ボクにすら触らせてくれなかった。
いいの、と兄はやんわりと笑って首を振った。
「これを持ってて、寂しいときはぎゅってして。ね」
ボクは兄からぬいぐるみを受け取ると、彼が言う通りぎゅうっと強く抱きしめた。兄の匂いがした。
ぬいぐるみに顔を埋めて、また泣き出してしまったボクを、兄が抱きしめる。
大好きだから寂しい。大好きだからお別れする。
強くならなければいけなかった兄と同じように、ボクは大人にならなければいけない。
だってボクがこんな風に弱くて泣き虫だから、兄は泣くことも、一緒に行きたいという一言すらも、言うことができなかったのだから。
***
自宅から徒歩十数分の駅から電車に乗って、揺られることおよそ30分。
職場ビルがある市街地の北側に位置する区域は、真昼間から人通りもまばらで、どこか色褪せた埃臭い街並みが広がっていた。
背の低いビル群はどれも見るからに老朽化が進み、申し訳程度にあるコンビニだけがやけに真新しい。
駅を出てすぐの広い通りは銀杏並木になっていた。黄金に色づいた葉が秋風にささめき、燦々と降り注ぐ陽の光を浴びてさらに輝いている。その光景だけが鮮やかで、あとはこれといって何もない、古臭い街という印象しか持てなかった。
黒鋼は、もう何年も着古した黒のダウンジャケットに両手を突っ込み、色鮮やかな銀杏並木へは向かわずに駅裏の商店街へと足を向けた。
古めかしい店構えの割には看板がやけに真新しい青果店、シャッターの降りた豆腐屋、香ばしい揚げ物の香りを漂わせる精肉店、薄汚れた居酒屋。
一車線程度の狭い道幅の商店街は、行き交う人の年齢層も比較的高いようだった。
腰の曲がった老夫婦が仲睦まじくシルバーカーを引いて買い物をする姿や、旦那の愚痴を肴に立ち話に夢中になる中年の奥様方が豪快な笑い声を上げている。
どこか懐かしような、昭和臭い通りを真っ直ぐ進んでいくと、ふと前方の道端に看板が立てられているのが見えた。
ダークブラウンのカフェ看板には、白いチョークで『猫の目』と書かれている。
「ここか……」
足を止めた黒鋼は、重い息を漏らした。
休みの日にわざわざこんな場所まで足を運ばなくてはならないなんて。仕事の都合とはいえ、どうにも解せない。
狭い脇道に渋々入り込んだ黒鋼は、一応はジャケットから両手を引き抜き、姿勢を正した。古臭い民家に挟まれるようにして姿を現したのは、どこかレトロな外装の喫茶店だ。格子状の白い木製ドアの前にもカフェ看板が立てられている。
黒鋼は看板脇に置かれている、小さな子供用のウッドチェアに目を向ける。そこには、黒いオオカミのような編みぐるみが、造花の花束を持って行儀よく座っていた。
***
「いらっしゃい」
内心躊躇いながら扉を開けた黒鋼を、カウンター越しに出迎えたのは黒のギャルソン服に身を包んだ、華奢な優男だった。
長い金髪を緩く一纏めにした彼は、素でいても怒っているように見られる黒鋼の面構えに一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに「ああ」と頷いて笑った。
「堀鐔の記者さん?」
「……邪魔するぞ」
「どうぞ。お好きな席へ」
黒鋼は仏頂面のまま足を踏み入れると、男の向いのカウンター席に腰かけた。
チラリと横目で見た店内には、片隅に若い女性が一人いるだけだ。緩くウェーブのかかった長い黒髪の女は、黒鋼の視線に気づくと開いていた本を閉じ、顔を上げてにっこりと笑う。まだ少女といっていいあどけなさから、黒鋼はすぐに目を逸らした。
「コーヒー? 紅茶?」
「水でいい」
「そうおっしゃらず」
「……紅茶」
正直なんでもよかったが、とりあえずメニュー表の紅茶の欄から、一番上のダージリンを指先で幾度か突くと、男はニッコリ笑って「少々お待ちください」と言った。
待っている間、落ち着かない気分で微かにジャズが流れる店内をじっくりと見回す。
清潔感溢れる白壁に、椅子やテーブル、床までもがどこか使い古されたようなアンティーク調のもので統一されている。
古い壁掛けの時計や、ドライフラワーのリース、窓辺に並ぶ小さな観葉植物など。いかにも女性受けしそうな装飾の横には、小人や動物の編みぐるみが必ずといっていいほど寄り添っていた。
店の奥にはテラスへの入り口もあり、その脇に雑貨品が並ぶスペースがある。僅かに身体を傾けて覗いただけでも、ぬいぐるみなどのインテリア雑貨は勿論、キャスケットやバッグなどのファッション小物も所狭しと並べられているのが分かる。
正直、げんなりした。
「可愛いでしょう? 全部ハンドメイドなんですよ」
金髪の青年が、黒鋼に紅茶を差し出しながら目を細めて笑った。立ち上る湯気と共に、マスカットフレーバーが鼻先を掠める。
「悪いが……プライベートじゃぜってぇ来ねぇよ」
カップに口をつけ、口の中に紅茶を含ませたあと、黒鋼は率直に述べた。何を飲んでいるのかも、いっそよく分からない。
男は肩を竦めて笑い、「でしょうね」と言った。
渋い表情のままの黒鋼は、男を見上げるとふっと息をつき、本題に入る。
「で? あんたの言う通り来てはみたが……俺はただ茶をしばきに来たのか?」
ここはいわゆる雑貨カフェというものだ。ドリンクやフード、スイーツを出す以外にも、手作りの雑貨品を売っている。
ただ一息つくだけなら、黒鋼はこんな小洒落た喫茶店など絶対に選ばない。中年の親父が道楽でやっているような、雑然とした店で充分だ。美味いカレーが一瞬で出てきさえすれば文句はない。
それがなぜわざわざこんな店に、しかも休日に足を運ぶことになったのか。
事は数日前。雑誌記者である黒鋼が初めて、目の前の店主にコンタクトを取ったことがキッカケだった。
彼は取材の了承を得るために連絡をした黒鋼にこう言った。
『まずはプライベートで、お一人でいらしてください。それから決めます』と。
黒鋼が堀鐔出版に入社してそろそろ二年。グルメ雑誌担当の部署に配属され、記者としてはまだ駆け出しといっていい。
気難しい店主はどこにでもいる。事前連絡で拒否されることは少なくないが、手始めにプライベートで来いという申し出は今回が初めての経験だった。
「驚かれました?」
男は柔和な笑みを決して崩さない。客を相手にしているのだから当たり前ともいえるが、どこか冷えた印象を受けるのは顔の造りが整いすぎているせいだ。
いかにも体育会系で厳つい黒鋼が居心地悪さを感じて仕方ないのは、この人形のような美貌を持つ男の雰囲気にも馴染めないから、かもしれない。
「まぁな。俺はそう場数を踏んでる方でもねぇしな」
「貫禄たっぷりですけどね。駆け出し記者というよりは、叩き上げ刑事って感じかな」
「褒め言葉と取っとくぜ」
「……今日お呼びしたのは」
男は、一瞬だけ笑顔の仮面を崩し、切なげな表情で店の奥の方を向いた。
つられて視線をやれば、そこはテラスだ。男が一人、背を向けてテーブルに腰かけている。陽光を浴びて、金色の髪が光を放っていた。
「双子、だったな。あれが片割れか?」
「ええ。取材をお受けするかどうかを決めるのは、ボクだけの判断ではできません」
「なるほど」
気難しいのはこの男ではなく、あのテラスにいる方の男というわけだ。
事前の下調べでこの店が双子による共同経営ということは知っていた。弟がカフェを、兄が雑貨を。おそらくカウンターにいる方が弟のユゥイだ。
兄の名は、ファイ、だったか。
「気に入られりゃいいわけだ」
「端的に言うと、そうですね」
まだ何かもの言いたげなユゥイを残し、黒鋼は椅子から立ち上がるとテラスへと足を向けた。
先客の少女がふと顔を上げたが、目もくれずに一歩一歩、入り口へ近づく。一体どんな堅物なのだろうかと想像を巡らせながら。
すると、近づくにつれて柔らかな声が聞こえることに気が付いた。
それは鼻歌だった。
どこかで聞いたことがあるようなその曲は、テラスで背を向けている男が発する声だった。勝手に抱いていた鼻持ちならない印象と、その歌声があまりにもかけ離れていて、少し戸惑う。
多少調子はずれだが、この曲は確か。
「星に願いを、か?」
金髪の男は、ファイは、黒鋼がすぐ側まで近づいていたことに全く気付いていないようだった。
彼はかぎ針を使って、黒く細い毛糸を編み込んでいた手を止め、青い目を丸くしながら顔を上げる。優しげな声でメロディを紡いでいたはずの唇も、ポカンと開かれていた。
なんて間の抜けた顔をする男だろうと思った。弟よりも幾らか髪が短いせいか、印象が幼い。長い睫毛に縁どられた碧眼は目尻が少し垂れていて、どこか小動物めいた愛嬌がある。同じ顔の作りでも、随分と違う印象を受けることに驚いた。
弟がキッチリとギャルソン服を身に着けていたのとは対照的に、彼は白い七分袖のシャツに黒のパンツ姿というラフな装いだった。
「聞いてねぇか? 俺は堀鐔出版の」
「黒わん……?」
「あ?」
黒鋼が名乗るのを遮って、彼は毛糸を絡ませたままの指先をこちらに向けた。そして、どこか茫然としたような声でもう一度「黒わん」と言った。
「黒わんじゃねぇ。俺は」
「黒わんだぁ」
何も言えなくなってしまった黒鋼に向かって、彼はふにゃりと、綿飴のような笑顔を浮かべて見せた。
***
そこは小さな箱庭のようなテラスだった。
きめ細かな芝生に覆われた空間は、秋薔薇の生垣で切り取られたようになっていて、シマトネリコの木々が青々とした実をつけている。
決して広々としているわけではないが、澄んだ秋空の下で食べるランチというのはなかなかよさそうだ。愛らしい雑貨に囲まれた店内よりは、だいぶ居心地がいいかもしれない。
そんなテラスには白いパラソルが立てられた木製テーブルと、ガーデンチェアのセットが三つ。その一席で、黒鋼はなぜか初対面であるはずの男に懐かれていた。
「黒わん黒わん、今ね、オレね、黒わん作ってたよー」
ファイはせっせと雑貨作りに精を出していたようだが、今はもう目の前の黒鋼に夢中で、手にしていた毛糸やかぎ針をはじめとする諸々のアイテムが、テーブルの上に投げ出されている。
わざわざ椅子ごと移動して、べったりとくっついてきた彼は黒鋼の腕にぎゅうぎゅうとしがみついていた。
一体これはどういう現象なのか。黒鋼はただ困惑するばかりで、何をどう切り出せばいいか分からないでいた。
「あのね、オレね、毎日いっぱい黒わん作ってるのー。黒わんのお友達もたくさんいるよー」
「…………そうか」
「でもね、帽子とか、鞄とか、髪につけるのも作るよー。可愛いお花もつけると、サクラちゃんが褒めてくれるんだー。黒わんわんもお花好きー?」
「どうだろうな……」
「オレねー、サクラちゃんと『しんゆー』なんだー。でも知世ちゃんもだいしんゆーなんだよー」
そう言って、ファイは店の中にいる黒髪の少女に手を振った。彼女は顔を上げると優しく微笑み、同じように手を振り返している。
あのずっと本を読んでいた先客の女は知世という名前なのか。黒鋼にしてみれば物凄くどうでもいい情報だが、ファイは一生懸命お喋りに夢中になっている。
黒わんの存在がよほど嬉しいのか、さっきから顔を赤くして興奮している様子だった。ぴったりと密着させている身体が、どんどん熱を持ってくるのが分かる。
これでは仕事の話どころの騒ぎではない。何が悲しくて野郎に密着されて、くだらない話を聞かされなくてはいけないのだろう。
だが、なぜか振り払う気になれない。乱暴に扱ってはいけないような気がする。それは黒鋼が記者で、相手が取材を申し込みたいカフェの人間である事実とは、まるで違った次元にあるような気がした。
姿形ばかりは立派な大人だが、彼は……。
「ファイ、お会計できる?」
黒鋼が戸惑いながらも答えを導き出したのと同じとき、ユゥイがテラスに姿を現した。
そしてファイの側でしゃがみ込み、その膝の上に手を置いた。
「こないだ教えた通りにできるかな? 知世ちゃんがお帰りだよ」
「知世ちゃんもう帰っちゃう?」
「そう。ボクはこのお兄さんとお話があるから、ファイにお願いするね」
「わかったー。オカイケーがんばるー!」
「いい子だね。ありがとう」
ファイは黒鋼から離れ、椅子から立ち上がると駆け出した。店内では伝票を持った知世がこちらに会釈している。
品のいいワンピースをまとった、見るからに育ちのよさそうな少女だと、改めて思った。
「気に入られましたね」
二人が楽しそうに会話をしながら会計スペースに向かう背中を見つめたあと、ユゥイが黒鋼の向いに腰かけた。
彼は小さく鼻から息を漏らす黒鋼の正面に、ポケットから取り出した黒いぬいぐるみをちょこんと置いた。
「これは……?」
「黒わんです。ファイが特にお気に入りで、毎日作ってるんですよ」
手の平サイズのそれは、尖った耳と大きな尻尾をしたオオカミのような犬の編みぐるみだった。
赤いマフラーをして、吊り上がった目がなんとも憎たらしい。
思わず手に取って「似てねぇだろ」と吐き捨てると、ユゥイはどこか悲しそうに苦笑する。
「あの子は……兄は、子供です」
「……みてぇだな」
「驚かれたでしょう。ごめんなさい」
「……いや」
ユゥイは黒鋼がテーブルに戻した黒わんを手に取り、指先でその頭を撫でながら一度ゆっくりと瞬きをした。
「この店のことは、ネットの口コミサイトを見て知ったとおっしゃいましたね」
「そうだ」
「凄いですね。それほど目立った内容でもなかったでしょうに」
「……まぁ、確かにな」
今はその情報の多くをインターネットを通じて仕入れることも少なくはない。
黒鋼がこの店に訪れることになったのも、ネットの口コミを元に幾つかの店がピックアップされて、編集会議にかけられたことがキッカケだった。
今回の企画内容が『隠れ家グルメ』だということもあり、数多ある情報の中でレビュー数こそ少ないものの、評価は上々な幾つかにこの店も入っていたというわけだ。
彼の言う通り、ここの情報はどちらかといえばあまり目立たず、埋もれていたといってもいい。
「お店を取り上げてもらうことは、ボク個人としては嬉しいです。だけど、それによってファイが嫌な思いをしないかばかりが気になって」
「だからまずは記者の人となりを見ようとしたわけか?」
「そうなりますね。お手を煩わせてしまってすみません」
でも、とユゥイはその表情に翳りを覗かせる。
「前にも一度あったんです。別の記者さんがいらしたことが」
「うちのか?」
「いえ……違います。男の人と女の人で、最初は普通のお客さんだとばかり思っていたんですが、どうやら違ったみたいで」
まだカフェをオープンして間もない頃だったと、ユゥイは言った。
ただの客だと思い持て成したら、実は女の方が記者で、男の方がカメラマンだったらしい。彼らはユゥイが注文された品をテーブルに運んだところで、初めて名刺と共に存在を明かした。いわゆる飛び込みというやつだ。
咄嗟のことに戸惑ったが、半ば押し切られる形で取材を了承することになったという。
二人は席を立ち、店内を物色しはじめた。そして、ファイと接触した。
「あの日も彼はここで雑貨作りをしていました」
まだ常連と呼べるような客すらついていなかった頃。ファイは急に近づいてきた二人の男女に驚き、すかさずユゥイの背後に隠れてぐずり出した。その仕草や言動を見て、彼らはすぐに気が付いた。
ファイの見た目とは異なる内面の幼さ、未熟さに。
そして面白がった。精神遅滞の若者が健気に雑貨を作る店。これは売れると言って、大きく特集しようなどと騒ぎだした。
ただのカフェや雑貨屋ならまだしも、オーナーである双子は見目も麗しく、駅裏の片隅で寄り添う姿はさぞかし読者の興味と同情を誘うだろうと。
興奮する彼らはしきりにファイに向かってシャッターを切り、矢継ぎ早にデリカシーのない質問を浴びせかけた。ユゥイはそれについて詳しく話そうとはしなかったが、大体の予想はつく。
「可哀想に……ファイは酷く泣きじゃくって……」
ユゥイはどこか諦めたような面持ちでそっと睫毛を伏せた。手の中の黒わんをぎゅっと握りしめる指先が震えている。
結局その記者たちはユゥイが強引に追い出し、取材の話はそのまま流れた。だが、その心には傷跡が残ってしまった。
「全部ボクの責任なんです……彼が小さな子供のままでいるのは、ボクの」
「……?」
「ああ、いえ……」
ユゥイは押し黙り、緩く首を左右に振ってから「なんでもありません」と言った。
「ユゥイー! オレちゃんとオカイケーできたよー!」
そこに、知世を送り出したらしいファイが、嬉しそうにテラスに戻って来た。
ユゥイはにっこり笑って立ち上がると、飛び込んできたファイを抱き留めてその頭を撫でた。
「ありがとう、助かったよ」
「お話終わった? もう黒わんと遊んでもいい?」
「いいよ」
「いいよってなんだ、いいよって……」
「わーい!」
すぐに駆け寄って来たファイが、背後から身を屈めて思い切り抱き付いてくる。
「黒わーん。おっきくてあったかいねー。何して遊ぶー?」
「あのな、俺は黒わんじゃねぇんだよ」
「黒わんが来てくれて、オレ嬉しいよー」
「……そりゃよかったな」
見た目が大人でも中身が幼い子供とあらば無下にもできず、黒鋼はただ渋い表情で溜息をつくことしかできなかった。
なぜあんな目つきの悪いぬいぐるみと一緒にされなくてはいけないのだろう。まさかとは思うが、この男の目には黒い犬の着ぐるみを着た大男でも映っているんだろうか。
すりすりと頬ずりをされていると、なんだか本当に犬にでもなってしまったような、腑抜けた気分になる。
ふんわりと立ち上る、ミルクに砂糖を溶かしたような甘い香りが、なおのこと彼を幼く印象付けていた。
顔を顰めつつも身動きが取れないでいる黒鋼に、申し訳なさそうに苦笑しながらユゥイが肩を竦める。
「少し遅いですけど、そろそろお昼にしましょうか。ついさっきヴィエノワが焼き上がったばかりなんです。ファイもそれでいい?」
「うんいいよー! あのね、エビのやつと、ハムのやつとー」
「はいはい、ちゃんと全部用意してくるよ」
そう言って中に戻って行こうとするユゥイを、黒鋼は一瞬迷ってから「おい」と呼び止めた。
彼はすぐに振り返り、小さく首を傾げて見せる。
「……ひとついいか」
「なんでしょう?」
「最初から取材の申し出を断らなかったのはなぜだ?」
それは素朴な疑問だった。
記者に対して最悪な印象しか持っていないはずの彼なら、最初の時点で素気無く断っていてもおかしくない。自身が身を置く業界をあまり悪くは言いたくないが、実際のところ彼らを傷つけた例の記者たちのような人間が少なくないことは否定できなかった。
ユゥイは腰に手を当てると、「そうですね」と少し考える素振りを見せてから、微笑んだ。
「単純に、堀鐔出版さんのグルメ情報誌が好きなんです。ここをオープンするときも色々とお店を食べて回ったんですけど、参考にさせてもらいました。だから記者さんがどんな人なのか、興味もあったというか」
「そうか」
自分が関わる雑誌を褒められるのは悪い気がしない。それだけ読者に信用と好感を抱かれているということだからだ。
西へ東へと駆けずりまわり、苦労して記事を書いている努力が報われるような気がする。
「ちょっとでも嫌な感じだったら、すぐに塩を撒いて蹴り出してやろうと思っていたんですが」
だが、どうやら決め手は違ったらしい。
「ボクも思ったんです。黒わんに似てるなーって、ね」
ユゥイはほんの少しだけ、意地の悪そうな笑顔を浮かべて見せると店の中へ戻って行った。
「……だから俺は黒わんじゃねぇって何度言えば」
「黒わん!」
「あ!?」
黒鋼に抱き付きながら退屈そうに話を聞いていたファイが、素早い動作で膝に乗って来る。横座りの形だ。上背はあるが華奢なせいか、いやに軽い。
「な、なんだてめぇいい加減に」
「お膝のってもいいー?」
「もう乗ってんじゃねぇか!」
「ひゃー! ブランコみたいー!」
「落ちるだろ暴れんな!!」
黒鋼の首に捕まって思いっきり足をブラブラとさせるファイの腰を、慌てて抱き込んでやると彼はさらにはしゃいだ声を上げて笑った。
その笑顔を見ていると、なぜかすっかり毒気を抜かれたような気にさせられて、黒鋼はただ彼の好きにさせてやることしか、できなくなってしまった。
***
「黒わんやだよ……帰っちゃ嫌……」
帰り際、ファイは黒鋼の胸に縋りついて泣いていた。
肩を震わせ、ひくひくとしゃくり上げる姿はまさに幼子そのものだ。
「ここにいて……ずっとここにいて……」
「ファイ、困らせちゃダメだよ。記者さんはちゃんとおうちがあるんだよ」
「じゃあ……じゃあ、オレも一緒に行く……」
ファイの言葉を聞いて、一瞬だけユゥイの表情が悲しげに歪んだ気がした。
それでもすぐに両肩を掴んで引き剥がそうとするが、ファイは頑として譲らない。黒鋼のダウンジャケットを強く握って、いっそう身を寄せてきた。
黒鋼は、参ったなと思った。それはユゥイも同じだったようで、目を見合わせて同時に溜息を漏らす。
その間も、ファイはずっと泣き続けていた。こんなにも泣かせてしまうくらいなら、いっそもう少しここにいてもいいかと考えるが、根本的な解決にはならない。まずはどうにかして、黒鋼が『黒わん』ではないことを理解させる必要がありそうだ。
「あのな、何度も言うが、俺はおまえの黒わんじゃ」
「黒わん……オレのこと嫌い? オレが悪い子だから、黒わん怒ってどっか行っちゃう……?」
「…………」
「すみません……」
「いいけどよ……」
とにかく困った。小さな子供の相手なんてしたことがない。だからどうやって扱えばいいのか分からなかった。
胸に縋りついたまま見上げてくる瞳があまりにも無垢で、赤くなった頬に大粒の涙が幾つも流れてゆくのを見ていると、心が痛んで仕方がない。
黒鋼はどうすればいいのか分からないながらも、彼の目元に指先で触れて、その涙を拭った。
「怒ってねぇよ」
「ほんと……? 嫌いじゃない……?」
「嫌いじゃねぇし、怒ってねぇし、おまえは何も悪いことなんかしてねぇだろ?」
「でも……黒わん帰っちゃう……」
拭っても拭っても止まらない涙に、こうなったら意地でも泣き止ませなければ帰れないという気持ちになった。
「また来る」
「……いつ? 明日?」
「明日は急だな……とにかく、時間作ってまたすぐに来る」
ぽんぽんと頭の天辺を軽く叩いてやると、ファイは真っ赤な鼻をすんと鳴らしながら渋々黒鋼から離れた。何かを堪えるように唇を噛み締めたあと、ポケットから黒わんの編みぐるみを取り出し、そっと差し出してくる。
「あげる……」
「いいのか?」
「ん……あのね、この黒わん、まだ途中なの。マフラーがないの」
「ああ、本当だな」
黒鋼はファイから黒わんを受け取ると、生意気そうなその顔をじっと眺めた。
さっきユゥイに見せられたものは、首に赤いマフラーを巻いていた。だが、これにはそれがない。
「黒わん、マフラーがないと風邪ひいちゃう。だから、オレちゃんと作るから……」
「ああ」
だから早く来いと、そういうことか。
黒鋼は思わず笑ってしまった。彼は子供なりに知恵を絞っている。早く会いに来てほしくて、ささやかな脅しをかけているのだ。
なんとも言えないいじらしさを感じて、黒鋼はもう一度ファイの頭に手を伸ばすとそっと撫でた。
「すぐに来る。こいつが風邪ひいちまわねぇようにな」
「……うん!」
ファイはまだ瞳にいっぱい涙を溜めこんではいたけれど、元気に笑って頷いた。ようやく見ることができたその笑顔に心の底から安堵する。
そしてその瞬間、黒鋼の胸に不思議な思いが浮かび上がった。
「本当にすみません。こんなに懐いてしまうなんて」
「いや、別に悪い気はしねぇよ。飯も美味かった。また邪魔するぜ」
「ええ、是非」
「それと取材の件なんだが、ひとまず保留ってことでいいか」
「え?」
驚いていたのは黒鋼も同じだった。
今の今まで、あくまで仕事に繋げるためという思いしかなかったのだから。
それがなぜか、ファイと次の『約束』を交わした瞬間、不思議とそんな気が失せてしまった。
黒鋼は視線を巡らせると店内をざっと見回した。今は客の姿が一人もないが、時間帯によっては顔なじみの常連がのんびりと過ごすであろう、憩いの空間。
テラスではファイが鼻歌を口ずさみながら雑貨を作って、『しんゆー』とやらがそんなファイの作ったものを見て笑顔になる。
想像を巡らせるだけで穏やかな気持ちになって、ここに仕事では訪れたくないという気持ちにさせられた。
「本当にいいもんってのは、誰にも教えたくねぇよな」
その記者らしからぬ言葉にユゥイは小さく吹き出し、礼を言いながら頭を下げた。
←戻る ・ 次へ→