2025/06/16 Mon とある夏の日、甲洋は操とショコラを連れて釣りに訪れていた。 はじめのうちは防波堤からのんびり投げ釣りを行っていたのだが、なかなか釣れないことに操が飽きはじめたので、場所を堤防に移すことにした。 「今度はここから投げるの?」 「投げるのは終わり。この堤防の向こう側で、今度は穴釣りをするよ」 「穴釣り?」 「初心者でも釣果を得やすいから、うまく行けばすぐに釣れると思う。絶対ではないけど」 「ふぅん?」 腰の高さ程度の堤防の向こう側は、テトラ地帯になっている。 穴釣りとは、折り重なるテトラや石畳の隙間を狙って、穴に住み着く根魚を狙う方法だ。 もとより操が飽きてしまうのは予想していたし、たまには普段しない手法で釣りをするのもいいだろうと、あらかじめ穴釣り用の道具も持ってきていた。 甲洋は堤防の天端をテーブル代わりに道具一式を並べると、ひとまず準備に取り掛かる。 「これが穴釣り用の竿。そして、この針と一体型になってるおもりがブラクリだよ」 「へぇ。こんな小さくて細い竿で、ほんとに釣れるの?」 「まぁ、お前の運と腕次第かな」 小型のベイトリールが取り付けられた竿は、せいぜい1メートル程度の短いものだ。 不思議そうに竿を見つめている操に笑いかけ、甲洋はブラクリの針に虫エサを模したワームを取り付ける。 ワームが放つ匂いが気になるのか、ショコラがヒョイッと堤防の上に乗り上げ、興味深そうに甲洋の手元に鼻を寄せて匂いを嗅いでいた。 「ほら、できた」 仕掛けを終えた竿を手に、甲洋は堤防へと足をかけてひょいと飛び越え、テトラ地帯に足を踏み入れる。 「おいで」 振り向いて手を差し出すと、操は素直にその手をとって堤防を乗り越えた。 「危ないから、足元に気をつけて」 「う、うん、平気」 四脚ブロックが不規則に連なるテトラ地帯は、非常に足場が悪い。 自分たちはいざとなれば空も飛べるし、ワープだってできるのだからそう心配することはないが、それでも甲洋はグラついている操の手を離すことなく、その足元に注意を払う。 「転ばないように注意して。ほら、そこの角に腰を下ろしな」 「はぁい」 甲洋はいい具合に突き出たブロックの角に操を座らせ、自分も適当なところで片膝をつく。 操に竿を渡すと、足元に幾つもある隙間のひとつを指さした。 「こういう隙間がそこらじゅうにあるだろ? 覗き込んでみて、底が見えないくらい深い穴を狙うんだ。ほら、ここにそっと落としてみな」 「わかった。そーっとだね」 「根がかりしないように気をつけて」 操は真剣な眼差しで、リールのクラッチを切りながらブラクリを静かに落としていく。 「仕掛けを上下に動かして、探りながら底の方に落としていって。根魚は穴の深い場所にいて、落下してくるものに反応する習性があるんだ。完全に底についたのが分かったら、巻き上げながら上下させたりして魚を誘う。反応がなければ諦めて他の穴に移ろう」 「んん、難しいな……あっ? あっ、なんか分かった! つんつんしてる感じがしたよ!」 「アタリを感じたら一気に引き上げる」 「よぉし今だ! ……あ、あれぇ?」 操がぐんっと立ち上がりながら勢いよく竿を引き上げるが、そこに魚の姿はない。糸の先端でワームだけが虚しく揺れている。 「まぁ、最初はこんなものかな」 「えぇー……難しいよこれ……」 「でも魚がいるのは分かっただろ? コツとタイミングさえ上手く掴めば、きっと釣れるようになるよ」 「むー……もっかいやる」 不満そうに顔を顰めながらもやる気を見せた操は、テトラに乗り上げたりしながら水深がありそうな穴を探しはじめた。 さっきの穴で粘るのも手だが、飽きさせないためには好きにさせるのが一番だ。 「今度はここ! ここに決めた!」 「いいよ。やってごらん」 具合いのいいブロックの角にしゃがみこんだ操が、さっきと同じ要領で隙間に仕掛けを落としていく。 「ん、さっきより深い、かも」 「いそうだな、ここも」 「うん……んー……ぁ、深い……んっ、そんなに奥……? あ、ァ……深いよぉ」 「……ああ、うん」 「あぁ、あ! おれの穴! 穴がぁ……深くまでぇ……ん、奥……ダメ、すごい……」 「お前それわざとじゃないよな……?」 操の表情は真剣だが、その声は完全にいたしている際の喘ぎである。 青い空、白い雲、そして真昼の海。爽やかな要素しかないところで、微妙におかしな気分になるのでやめてほしい。 ちょっぴり頬を赤らめながら咳払いをした甲洋を他所に、操はこれだというアタリを感じたのか、勢いよく立ち上がりながら合わせを入れる。 「うわっ! 引っ張られる! なかなか上がらないよ!」 「いいぞ。リールを巻きながら、落ち着いて上げてみて」 「んんんー!」 小さな竿が、ぐんと大きくしなりを見せる。甲洋は操の背後に回り込むと、背中をすっぽり覆うようにして一緒に竿を掴んだ。魚が激しく抵抗しているのが、感覚として伝わってくる。 これはなかなかの大物かもしれない。 「いい? 次で上げるよ」 「んんっ、よいしょ!」 掛け声と同時に、針にかかった魚が勢いよく穴から飛び出してくる。水しぶきが太陽を弾いてキラキラと輝き、まんまるに見開かれた操の瞳もまた、眩しいほどに光り輝く。 「わあぁ! やったぁ釣れたー!」 初の釣果に操が歓声をあげる。 上がったのは緑がかった身体に黒いスジが入った魚だった。 糸を掴んで魚を目線の高さまで持ち上げた操が、大きな瞳を瞬かせる。 「これなに!? なんて魚!?」 「ベラだよ。いいサイズだな」 それは20センチ以上はありそうな立派なサイズのベラだった。時折ブルリと跳ねているベラは、上唇に綺麗に針がかかっている。 「これ食べられる?」 「食べられるよ。この大きさなら十分。ちょうど旬の魚だし、刺し身でもいける」 「やったー! 今夜はお刺身だ!」 「あ、こら、危ないから跳ねないで」 腕の中にすっぽり収まったままの操が、不安定な足場でぴょんぴょん跳ねる。転ばないようにと、甲洋は片腕をその腹に回して押さえつけた。 まぁ、はしゃぐ気持ちはよく分かる。今までも何度か一緒に釣りをしたが、操がまともに釣果を上げたのはこれが初めてのことだった。 「おめでとう来主。お前、なかなか素質があるかもよ」 「ほんと? えへへー!」 腕の中で甲洋を見上げた操は嬉しそうに歯を見せて笑った。興奮しているのか、その頬が少し赤らんでいるのが可愛くて、こちらまでつい頬が緩みっぱなしになるのをぐっと堪える。 「ねぇ、もっと釣ろうよ! 次は君がやってみて!」 「うん、いいよ」 堤防に行儀よく座っているショコラが、テトラ地帯でイチャつくリア充に優しく目を細めながら、ひとつ小さく「わうっ」と鳴いた。 * そのあとも穴釣りチャレンジは続き、カサゴやメバルも数匹釣った。 さらに岩場に潜んでいたガザミも捕まえ、それらはきっちり締めてクーラーボックスの中で眠りについている。 「いっぱい釣れたね」 堤防に並んで腰掛け、夕暮れ間近の海を眺めながら操が言った。 甲洋はそんな操に笑いかけながら、今夜のメニューについてあれこれ思考を巡らせる。 刺し身に塩焼き、ガザミはカニ汁。二人だけではきっと食べきれないから、その分は店で出すなり欲しい人がいればお裾分けしてもいい。 「釣りって楽しいんだ。知らなかったな」 操がしみじみ言ったので、甲洋も「そうだな」と同意する。 昔からよく釣りはしていたが、今日は今までで一番楽しかったかもしれない。 趣味だったからという理由を除いて、甲洋が一人で釣りに出かけていたのは、あの家に居場所がないと感じていたからだ。隣にはいつもショコラだけが寄り添っていて、話し相手はいなかった。 だからあんなに騒がしく釣りをしたのは、これが初めてのことだった。 甲洋は隣に座る操を見た。彼は夕焼けが迫りつつある空を見上げている。ショコラは堤防から下りて、おとなしく地面に寝そべっていた。 いま甲洋の隣にいるのは操で、彼はどこへ行くにもひょこひょことヒヨコのようについてくる。今日だって、別に一緒に行こうと誘ったわけではない。操が勝手について来て、甲洋もそうなるだろうと思っていたから、わざわざ誘う必要がなかったのだ。 (なんだか不思議だな) 当たり前のように特定の誰かが傍にいることが。まるで息をするみたいに、気づけば彼は甲洋の隣にいる。自分もまた、今ではそれが当たり前になっていた。 操の髪が潮風にふわふわと揺れている。踊る毛先が少年らしく丸みを帯びた頬をくすぐり、ゆっくりと夕焼け色に染まろうとしていた。 ふいに触れたいという欲求が込み上げて、甲洋は操の身体を引き寄せようとした。けれどその肩に手が触れる前に、操の方から甲洋に身体を傾けてくる。 こつんと肩に頭が乗って、頬に柔らかな癖毛があたった。 「はしゃぎすぎて疲れた?」 「ん。楽しいのは、少し疲れるね。だけど気持ちいい」 「わかるよ」 「あとね、こうして波の音を聞いてると……ちょっぴり眠くなる」 「ああ、わかる」 さっきまで楽しげに弾んでいた声が、今はゆるゆると蕩けたようになっている。 甲洋は亜麻色の髪にゆるく頬ずりをしながら微笑んで、その肩を優しく抱いた。 「いいよ。眠っても」 無防備に身を預けて寄こされるのが嬉しい。こちらから触れようとする前に触れてくる体温が。こんなふうに抱いても許されることが。 操は完全に気を抜いていて、それでも「寝ないよぅ」と言って小さく笑った。ぴったりと寄せ合う身体から伝わる振動を、愛しく思う。 (できたんだ。俺にも) こんなふうに傍にいられる相手が。傍にいてくれる誰かが。 操は甲洋のものだ。そして自分もまた、彼だけのものだと確信をもって言える。いつからだろう。操が甲洋をこんなにも傲慢にさせた。 だけど彼は甲洋のためだけに存在しているわけではない。甲洋だってそうだ。守りたいものは他にもあって、自分たちは例えどちらかがいなくなったとしても生きていくし、戦い続ける。 だからこそ嬉しいのかもしれないと、甲洋は思う。こうして何気ない時間のなかで寄り添っていられることを。求めているし、求められているということを、強く意識することができるから。 空がゆっくりとオレンジ色に染まるように、甲洋の胸にもじわじわと純粋な感動がこみ上げた。 (なぁ、甲洋) 一匹の犬だけを連れて、たった一人で釣りをしていた少年に、甲洋は心の中で静かに語りかける。あの頃の自分に言ってやりたかった。その飢えは、いつか必ず満たされるのだと。 (大丈夫。できるよ、お前にも) 一緒に釣りをして、一緒に帰って、一緒に魚を食べて。当たり前のように同じベッドで眠ったら、朝一番におはようを言える相手が。笑い合う相手が。 子供っぽくてワガママで、手を焼かされることもあるけれど。 (俺はいま、幸せだ) 甲洋は操の肩を抱く手に力を込める。 あともう少しだけ休んだら、ふたりで一緒に家に帰ろう。 釣った魚を両手に抱えて、優しい記憶がたくさん詰まった、あの場所に。 ←戻る ・ Wavebox👏
はじめのうちは防波堤からのんびり投げ釣りを行っていたのだが、なかなか釣れないことに操が飽きはじめたので、場所を堤防に移すことにした。
「今度はここから投げるの?」
「投げるのは終わり。この堤防の向こう側で、今度は穴釣りをするよ」
「穴釣り?」
「初心者でも釣果を得やすいから、うまく行けばすぐに釣れると思う。絶対ではないけど」
「ふぅん?」
腰の高さ程度の堤防の向こう側は、テトラ地帯になっている。
穴釣りとは、折り重なるテトラや石畳の隙間を狙って、穴に住み着く根魚を狙う方法だ。
もとより操が飽きてしまうのは予想していたし、たまには普段しない手法で釣りをするのもいいだろうと、あらかじめ穴釣り用の道具も持ってきていた。
甲洋は堤防の天端をテーブル代わりに道具一式を並べると、ひとまず準備に取り掛かる。
「これが穴釣り用の竿。そして、この針と一体型になってるおもりがブラクリだよ」
「へぇ。こんな小さくて細い竿で、ほんとに釣れるの?」
「まぁ、お前の運と腕次第かな」
小型のベイトリールが取り付けられた竿は、せいぜい1メートル程度の短いものだ。
不思議そうに竿を見つめている操に笑いかけ、甲洋はブラクリの針に虫エサを模したワームを取り付ける。
ワームが放つ匂いが気になるのか、ショコラがヒョイッと堤防の上に乗り上げ、興味深そうに甲洋の手元に鼻を寄せて匂いを嗅いでいた。
「ほら、できた」
仕掛けを終えた竿を手に、甲洋は堤防へと足をかけてひょいと飛び越え、テトラ地帯に足を踏み入れる。
「おいで」
振り向いて手を差し出すと、操は素直にその手をとって堤防を乗り越えた。
「危ないから、足元に気をつけて」
「う、うん、平気」
四脚ブロックが不規則に連なるテトラ地帯は、非常に足場が悪い。
自分たちはいざとなれば空も飛べるし、ワープだってできるのだからそう心配することはないが、それでも甲洋はグラついている操の手を離すことなく、その足元に注意を払う。
「転ばないように注意して。ほら、そこの角に腰を下ろしな」
「はぁい」
甲洋はいい具合に突き出たブロックの角に操を座らせ、自分も適当なところで片膝をつく。
操に竿を渡すと、足元に幾つもある隙間のひとつを指さした。
「こういう隙間がそこらじゅうにあるだろ? 覗き込んでみて、底が見えないくらい深い穴を狙うんだ。ほら、ここにそっと落としてみな」
「わかった。そーっとだね」
「根がかりしないように気をつけて」
操は真剣な眼差しで、リールのクラッチを切りながらブラクリを静かに落としていく。
「仕掛けを上下に動かして、探りながら底の方に落としていって。根魚は穴の深い場所にいて、落下してくるものに反応する習性があるんだ。完全に底についたのが分かったら、巻き上げながら上下させたりして魚を誘う。反応がなければ諦めて他の穴に移ろう」
「んん、難しいな……あっ? あっ、なんか分かった! つんつんしてる感じがしたよ!」
「アタリを感じたら一気に引き上げる」
「よぉし今だ! ……あ、あれぇ?」
操がぐんっと立ち上がりながら勢いよく竿を引き上げるが、そこに魚の姿はない。糸の先端でワームだけが虚しく揺れている。
「まぁ、最初はこんなものかな」
「えぇー……難しいよこれ……」
「でも魚がいるのは分かっただろ? コツとタイミングさえ上手く掴めば、きっと釣れるようになるよ」
「むー……もっかいやる」
不満そうに顔を顰めながらもやる気を見せた操は、テトラに乗り上げたりしながら水深がありそうな穴を探しはじめた。
さっきの穴で粘るのも手だが、飽きさせないためには好きにさせるのが一番だ。
「今度はここ! ここに決めた!」
「いいよ。やってごらん」
具合いのいいブロックの角にしゃがみこんだ操が、さっきと同じ要領で隙間に仕掛けを落としていく。
「ん、さっきより深い、かも」
「いそうだな、ここも」
「うん……んー……ぁ、深い……んっ、そんなに奥……? あ、ァ……深いよぉ」
「……ああ、うん」
「あぁ、あ! おれの穴! 穴がぁ……深くまでぇ……ん、奥……ダメ、すごい……」
「お前それわざとじゃないよな……?」
操の表情は真剣だが、その声は完全にいたしている際の喘ぎである。
青い空、白い雲、そして真昼の海。爽やかな要素しかないところで、微妙におかしな気分になるのでやめてほしい。
ちょっぴり頬を赤らめながら咳払いをした甲洋を他所に、操はこれだというアタリを感じたのか、勢いよく立ち上がりながら合わせを入れる。
「うわっ! 引っ張られる! なかなか上がらないよ!」
「いいぞ。リールを巻きながら、落ち着いて上げてみて」
「んんんー!」
小さな竿が、ぐんと大きくしなりを見せる。甲洋は操の背後に回り込むと、背中をすっぽり覆うようにして一緒に竿を掴んだ。魚が激しく抵抗しているのが、感覚として伝わってくる。
これはなかなかの大物かもしれない。
「いい? 次で上げるよ」
「んんっ、よいしょ!」
掛け声と同時に、針にかかった魚が勢いよく穴から飛び出してくる。水しぶきが太陽を弾いてキラキラと輝き、まんまるに見開かれた操の瞳もまた、眩しいほどに光り輝く。
「わあぁ! やったぁ釣れたー!」
初の釣果に操が歓声をあげる。
上がったのは緑がかった身体に黒いスジが入った魚だった。
糸を掴んで魚を目線の高さまで持ち上げた操が、大きな瞳を瞬かせる。
「これなに!? なんて魚!?」
「ベラだよ。いいサイズだな」
それは20センチ以上はありそうな立派なサイズのベラだった。時折ブルリと跳ねているベラは、上唇に綺麗に針がかかっている。
「これ食べられる?」
「食べられるよ。この大きさなら十分。ちょうど旬の魚だし、刺し身でもいける」
「やったー! 今夜はお刺身だ!」
「あ、こら、危ないから跳ねないで」
腕の中にすっぽり収まったままの操が、不安定な足場でぴょんぴょん跳ねる。転ばないようにと、甲洋は片腕をその腹に回して押さえつけた。
まぁ、はしゃぐ気持ちはよく分かる。今までも何度か一緒に釣りをしたが、操がまともに釣果を上げたのはこれが初めてのことだった。
「おめでとう来主。お前、なかなか素質があるかもよ」
「ほんと? えへへー!」
腕の中で甲洋を見上げた操は嬉しそうに歯を見せて笑った。興奮しているのか、その頬が少し赤らんでいるのが可愛くて、こちらまでつい頬が緩みっぱなしになるのをぐっと堪える。
「ねぇ、もっと釣ろうよ! 次は君がやってみて!」
「うん、いいよ」
堤防に行儀よく座っているショコラが、テトラ地帯でイチャつくリア充に優しく目を細めながら、ひとつ小さく「わうっ」と鳴いた。
*
そのあとも穴釣りチャレンジは続き、カサゴやメバルも数匹釣った。
さらに岩場に潜んでいたガザミも捕まえ、それらはきっちり締めてクーラーボックスの中で眠りについている。
「いっぱい釣れたね」
堤防に並んで腰掛け、夕暮れ間近の海を眺めながら操が言った。
甲洋はそんな操に笑いかけながら、今夜のメニューについてあれこれ思考を巡らせる。
刺し身に塩焼き、ガザミはカニ汁。二人だけではきっと食べきれないから、その分は店で出すなり欲しい人がいればお裾分けしてもいい。
「釣りって楽しいんだ。知らなかったな」
操がしみじみ言ったので、甲洋も「そうだな」と同意する。
昔からよく釣りはしていたが、今日は今までで一番楽しかったかもしれない。
趣味だったからという理由を除いて、甲洋が一人で釣りに出かけていたのは、あの家に居場所がないと感じていたからだ。隣にはいつもショコラだけが寄り添っていて、話し相手はいなかった。
だからあんなに騒がしく釣りをしたのは、これが初めてのことだった。
甲洋は隣に座る操を見た。彼は夕焼けが迫りつつある空を見上げている。ショコラは堤防から下りて、おとなしく地面に寝そべっていた。
いま甲洋の隣にいるのは操で、彼はどこへ行くにもひょこひょことヒヨコのようについてくる。今日だって、別に一緒に行こうと誘ったわけではない。操が勝手について来て、甲洋もそうなるだろうと思っていたから、わざわざ誘う必要がなかったのだ。
(なんだか不思議だな)
当たり前のように特定の誰かが傍にいることが。まるで息をするみたいに、気づけば彼は甲洋の隣にいる。自分もまた、今ではそれが当たり前になっていた。
操の髪が潮風にふわふわと揺れている。踊る毛先が少年らしく丸みを帯びた頬をくすぐり、ゆっくりと夕焼け色に染まろうとしていた。
ふいに触れたいという欲求が込み上げて、甲洋は操の身体を引き寄せようとした。けれどその肩に手が触れる前に、操の方から甲洋に身体を傾けてくる。
こつんと肩に頭が乗って、頬に柔らかな癖毛があたった。
「はしゃぎすぎて疲れた?」
「ん。楽しいのは、少し疲れるね。だけど気持ちいい」
「わかるよ」
「あとね、こうして波の音を聞いてると……ちょっぴり眠くなる」
「ああ、わかる」
さっきまで楽しげに弾んでいた声が、今はゆるゆると蕩けたようになっている。
甲洋は亜麻色の髪にゆるく頬ずりをしながら微笑んで、その肩を優しく抱いた。
「いいよ。眠っても」
無防備に身を預けて寄こされるのが嬉しい。こちらから触れようとする前に触れてくる体温が。こんなふうに抱いても許されることが。
操は完全に気を抜いていて、それでも「寝ないよぅ」と言って小さく笑った。ぴったりと寄せ合う身体から伝わる振動を、愛しく思う。
(できたんだ。俺にも)
こんなふうに傍にいられる相手が。傍にいてくれる誰かが。
操は甲洋のものだ。そして自分もまた、彼だけのものだと確信をもって言える。いつからだろう。操が甲洋をこんなにも傲慢にさせた。
だけど彼は甲洋のためだけに存在しているわけではない。甲洋だってそうだ。守りたいものは他にもあって、自分たちは例えどちらかがいなくなったとしても生きていくし、戦い続ける。
だからこそ嬉しいのかもしれないと、甲洋は思う。こうして何気ない時間のなかで寄り添っていられることを。求めているし、求められているということを、強く意識することができるから。
空がゆっくりとオレンジ色に染まるように、甲洋の胸にもじわじわと純粋な感動がこみ上げた。
(なぁ、甲洋)
一匹の犬だけを連れて、たった一人で釣りをしていた少年に、甲洋は心の中で静かに語りかける。あの頃の自分に言ってやりたかった。その飢えは、いつか必ず満たされるのだと。
(大丈夫。できるよ、お前にも)
一緒に釣りをして、一緒に帰って、一緒に魚を食べて。当たり前のように同じベッドで眠ったら、朝一番におはようを言える相手が。笑い合う相手が。
子供っぽくてワガママで、手を焼かされることもあるけれど。
(俺はいま、幸せだ)
甲洋は操の肩を抱く手に力を込める。
あともう少しだけ休んだら、ふたりで一緒に家に帰ろう。
釣った魚を両手に抱えて、優しい記憶がたくさん詰まった、あの場所に。
←戻る ・ Wavebox👏