2025/06/16 Mon 昔々、しんしんと雪が降りしきる大晦日の夜の出来事です。 カゴいっぱいに入ったマッチを持つ少年が、道行く人々に呼びかけていました。 「マッチいりませんかー? マッチ買ってくださーい! マッチでーす!」 マッチ売りの少年、操は一生懸命大きな声で言いますが、誰一人として足を止めようとする人はいませんでした。 せめて彼が原作通り悲壮感溢れるみすぼらしい格好をしていれば、誰かしら気にかけてくれる人もいたかもしれません。ですが操はふわもこの白いコートを来て、ふわもこの耳あてをし、ふわもこのミトンまではめて、赤いマフラーをぐるぐる巻きにしています。 コートの中に着ているヒートテックにも、ブーツの中にも、これでもかというほどのホッカイロが仕込まれている有様でした。 育ての親の一騎と総士が、外で遊ぶなら風邪をひかないようにと、いつもこうして着込ませてくれるのです。 「マッチ売れないな……一騎と総士に肉まん買って帰ろうと思ったのに」 操ははぁっと白く染まる息を吐き出しました。 世の中の世知辛さを感じつつ、もう少し人通りが多い場所へ移動しようとしたそのとき。誰かが操の肩をポン、と叩きました。 振り向くと、そこには子豚のように肥えていて、頭がバーコードのようにハゲ散らかった、いかにもなモブおじさんが立っていました。 「き、君、可愛いね。2万でどうかな?」 おじさんが指を二本立て、ピースサインを向けてきます。操はびっくりして目を丸く見開きました。 「え? そんなに高く買ってくれるの?」 それだけの大金があったら、肉まんが幾つ買えるのでしょうか。ファ●チキだって買えてしまいます。 操が大喜びで「いいよ!」と言うと、おじさんは嬉しそうにブヒヒと笑って操の手を引き、歩きだそうとしました。が、そこで誰かが空いている方の手首をガッシリと掴んできました。 「ちょっと待って!」 「わっ! なに!?」 ぐいっと引っ張られ、操が驚いて声の主を見ると、そこには背の高い焦茶の髪をしたイケメンなお兄さんが、険しい表情を浮かべていました。 お兄さんは白いワイシャツに黒いパンツを穿いて、黒いエプロンをしています。どこかのお店の人でしょうか。 一度に二人も知らない人に声をかけられて、操は口をポカンと丸く開けました。 「そういう余計なフラグは立たせなくていい。エロ同人みたいな展開は勘弁して」 フラグ……エロ同人……なんのことでしょうか。操にはよく分かりませんが、お兄さんはそう言ってハゲたモブおじさんをきつく睨みつけました。するとおじさんは目を泳がせ、操の手を離すとそそくさとどこかへ行ってしまいました。 あ、おれの2万円が……と、操は悲しい気持ちになりながらしょぼんと俯きました。 「酷いことされたくなかったら、ああいうのについて行くのはやめな」 お兄さんはそんな操を見て、少し怒った顔をしながら言いました。 「酷いことってなに? どんなこと?」 「……もう遅いから、帰ったほうがいい。子供が出歩いていい時間じゃないよ」 お兄さんは怒った顔のまま吐き捨てて、背中を向けると帰っていきます。 操はなんだかちょっぴりカチンときました。 (あの人は好きじゃないな。おれはもう子供じゃないのに) ハゲさんは破格の値段でマッチを買ってくれようとしただけなのに、あのお兄さんが邪魔をしたせいで台無しです。これでは肉まんもファミ●キも買えません。 そうこうしているうちに、通りには全く人がいなくなっていました。年越しを控え、他所の家やお店の明かりだけが雪の町をほんのりと明るく照らしています。 操はちょっぴり寂しい気持ちになりました。 「帰ろっかな……」 一騎と総士に会いたくなりました。あのお兄さんに言われたことには腹が立ちましたが、確かに早く帰らないと二人が心配します。それに、年越しそばを食べそびれるのも嫌でした。 そのとき、強い風がびゅうと吹き抜けました。完全防備の操でしたが、剥き出しの頬や鼻は冷気にさらされて真っ赤になっています。 操は寒さをしのぐため、咄嗟に建物と建物の間の細い通路に入りこみました。 「寒いな……そうだ、マッチをすったらあったかくなるかも!」 ふと思いつき、操はその場にしゃがむと籠の中にあるマッチを一箱、取り出しました。 そして小箱の中からマッチを一本引き抜くと、箱の側面に擦り付けようとしました。が、そのとき。 「ちょっと待った!!」 どこからか、またあのお兄さんが血相を変えてやって来ました。 操は驚き、手からマッチを落としてしまいました。 「な、なぁに? また邪魔しに来たのぉ?」 しゃがんだままキッと睨みあげると、お兄さんはまたあの怒った顔で溜息をつきました。 「こんな真冬の狭い路地で、しかもゴミが置いてあるすぐ側でマッチを擦るなんて。しかも手にミトンをはめたままじゃ、なおさら危ないだろ。火だるまにでもなりたいのか?」 「え? ゴミ?」 操は自分のすぐ斜め後ろに目を向けました。確かにそこには幾つかのゴミ袋が山になって置かれています。操の目には、暗くてよく見えていませんでした。 このお兄さんが来てくれなかったら、操はうっかり放火魔になっていたかもしれません。それどころか、ミトンに引火してこんがり丸焼けになっていた可能性もあります。 操は急に怖くなり、目にじわりと涙を浮かべました。 「焼かれるのは……嫌だな……」 「俺だって嫌だ。この年の瀬に店を燃やされたんじゃ、たまったもんじゃないしね」 「店?」 「ここは俺の店のすぐ横だよ」 操が身を寄せた場所は、ちょうどお兄さんが経営している喫茶店脇の通路でした。 実はお兄さん、店の中からずっと操のことを見ていたのです。なにやら白くてもこもことした可愛い生き物が、夜道でマッチを売ろうとしている姿が気がかりで、仕事の合間に様子を窺っていたのでした。 お兄さんは操の正面にしゃがみ込むと、困った顔をして言いました。 「平気で変な奴について行こうとするし、自分ごと店に火をつけようとするし、お前は一体なにがしたくてここにいるんだ? しかもこんな時間にさ」 「別に火事を起こそうなんて思ったわけじゃない。寒いから、マッチであたたまろうと思っただけ」 「寒いなら家に帰るなり、店に入ればいいだろ」 「それはそうなんだけど……」 操はしょんぼりと俯き、足元にあるマッチが入った籠を見つめました。 操はマッチを売ったお金で、大好きな一騎と総士にお土産を買って帰りたかったのです。それにお金がなければ、お店にだって入れません。 「……お金に困ってるの?」 「うん……」 お兄さんが、また溜息をつきました。 「幾ら?」 「え?」 「俺が買うから。そのマッチ幾ら?」 操はぱぁっと顔色を明るくして、元気よく答えました。 「一箱五千円だよ!」 「高い!!」 お兄さんが驚きの声をあげました。 「そんな法外な値段で誰が買うのさ!?」 「さっきのおじさんは2万円で買ってくれるって言ったよ!」 「あれはマッチじゃなくて、お前を買おうとしてたんだ!」 「え? おれって2万円で売れるの?」 「ああもう……なんなんだこいつは……」 お兄さんは頭を抱え、ほとほと困り果てた様子を見せました。 「あのね、お前がどこの温室で育ったのかは知らないけど、世の中にはお前が思う以上に怖いことが沢山あるんだよ。お金を稼ぐのだって、そう簡単なことじゃない」 「怖いこと……?」 そういえば、お兄さんはさっきも「酷いことをされたくなければ」なんてことを言っていました。それは火で焼かれるよりも、もっと恐ろしいことなのでしょうか。 例えば犬と同じ檻に閉じ込められるとか、死ぬまで一騎カレーが食べられなくなるとか……思いつく限りの怖いことを想像して、操は震えながら目にいっぱいの涙を浮かべました。 「わかった……もうハゲたおじさんにはついて行かない……」 「毛量は関係ない。男はみんなオオカミだよ」 「総士も前に同じこと言ってた気がする」 「それって家の人? なんだ、ちゃんと教育されてるんじゃないか」 お兄さんはそこで初めて笑顔を見せました。 その柔らかくて優しい笑顔に、操は胸がドキリと高鳴るのを感じました。そのままドキドキと大きな音を立てて、一向に静まる様子がありません。なんだかおかしな気持ちです。 「分かったなら早く帰りな。もうすぐ年が明けてしまうよ」 そう言って立ち上がったお兄さんが、操にそっと手を差し出します。操はその大きな手の平に、ミトンで丸まった指先をちょこんと乗せました。きゅっと握られ、軽く引っ張られるのに合わせて立ち上がると、お兄さんを見上げて問いかけました。 「ねぇ、君は?」 「なに?」 「君もやっぱりオオカミなの?」 お兄さんは目をぱちくりとさせてから、少し困ったように眉を下げて笑いました。 「オオカミだよ、俺も」 「じゃあ、ついて行ったら酷いことする?」 「ついて来たいの?」 「そ、れは……よく分かんない、けど」 どうしてでしょうか。操は頬を赤らめながらまごついてしまいました。お兄さんの顔を見ることができず、俯けた目が泳いでしまいます。 お兄さんが「そうだな」と言って、ふっと笑いました。 「少しくらいは、酷いこともするかもね」 「……どんなこと?」 「それは言えない」 お兄さんは答えてくれませんでしたが、操には彼が酷いことをするような人間にはどうしても思えません。不思議なことに、操の中にはこのお兄さんについて行ってしまいたいという気持ちが芽生えはじめていました。 一度は好きじゃないとまで思ったのに、どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。 操はお兄さんの手をきゅっと握って、もじもじと肩を揺らしました。 そのとき、街中に染み入るような鐘の音が響き渡りました。 「年が明けた。そろそろ店じまいをしようかな」 お兄さんが空を見上げながら言いました。吐く息が真っ白に染まっています。 操と違って、お兄さんは上になにも羽織ってはいません。髪や肩に雪が積もりはじめていて、とても寒そうに見えました。 操がずっと手を握って離さないため、お兄さんはお店に戻ることができないでいるのです。 だからもうお別れをしなくてはいけません。寂しいなと、操は思いました。 「そういえば、こないだバイトの子が一人やめちゃったんだっけ」 「え?」 操がその手を離そうとしたとき、お兄さんがこちらを見て言いました。 「よければおいで。手伝ってくれたら、少しはお駄賃をあげられる」 「いいの?」 お兄さんが笑うので、操は嬉しくなりました。 「おれ、店じまい手伝う! だから君についてくよ!」 操の中に迷いはありませんでした。もう少しこのお兄さんと一緒にいられるのなら、少しくらい酷いことをされたって構いません。 どんなことをされたって、きっとこの人なら大丈夫だと思えるからです。 優しいオオカミに手を引かれ、マッチ売りの少年は暖かなお店の中へと姿を消しました。 そのあとふたりがどうなったかは分かりませんが、街の片隅にある小さな喫茶店は、それから毎日のようにお客さんが途絶えることなく、大繁盛したそうです。 ←戻る ・ Wavebox👏
カゴいっぱいに入ったマッチを持つ少年が、道行く人々に呼びかけていました。
「マッチいりませんかー? マッチ買ってくださーい! マッチでーす!」
マッチ売りの少年、操は一生懸命大きな声で言いますが、誰一人として足を止めようとする人はいませんでした。
せめて彼が原作通り悲壮感溢れるみすぼらしい格好をしていれば、誰かしら気にかけてくれる人もいたかもしれません。ですが操はふわもこの白いコートを来て、ふわもこの耳あてをし、ふわもこのミトンまではめて、赤いマフラーをぐるぐる巻きにしています。
コートの中に着ているヒートテックにも、ブーツの中にも、これでもかというほどのホッカイロが仕込まれている有様でした。
育ての親の一騎と総士が、外で遊ぶなら風邪をひかないようにと、いつもこうして着込ませてくれるのです。
「マッチ売れないな……一騎と総士に肉まん買って帰ろうと思ったのに」
操ははぁっと白く染まる息を吐き出しました。
世の中の世知辛さを感じつつ、もう少し人通りが多い場所へ移動しようとしたそのとき。誰かが操の肩をポン、と叩きました。
振り向くと、そこには子豚のように肥えていて、頭がバーコードのようにハゲ散らかった、いかにもなモブおじさんが立っていました。
「き、君、可愛いね。2万でどうかな?」
おじさんが指を二本立て、ピースサインを向けてきます。操はびっくりして目を丸く見開きました。
「え? そんなに高く買ってくれるの?」
それだけの大金があったら、肉まんが幾つ買えるのでしょうか。ファ●チキだって買えてしまいます。
操が大喜びで「いいよ!」と言うと、おじさんは嬉しそうにブヒヒと笑って操の手を引き、歩きだそうとしました。が、そこで誰かが空いている方の手首をガッシリと掴んできました。
「ちょっと待って!」
「わっ! なに!?」
ぐいっと引っ張られ、操が驚いて声の主を見ると、そこには背の高い焦茶の髪をしたイケメンなお兄さんが、険しい表情を浮かべていました。
お兄さんは白いワイシャツに黒いパンツを穿いて、黒いエプロンをしています。どこかのお店の人でしょうか。
一度に二人も知らない人に声をかけられて、操は口をポカンと丸く開けました。
「そういう余計なフラグは立たせなくていい。エロ同人みたいな展開は勘弁して」
フラグ……エロ同人……なんのことでしょうか。操にはよく分かりませんが、お兄さんはそう言ってハゲたモブおじさんをきつく睨みつけました。するとおじさんは目を泳がせ、操の手を離すとそそくさとどこかへ行ってしまいました。
あ、おれの2万円が……と、操は悲しい気持ちになりながらしょぼんと俯きました。
「酷いことされたくなかったら、ああいうのについて行くのはやめな」
お兄さんはそんな操を見て、少し怒った顔をしながら言いました。
「酷いことってなに? どんなこと?」
「……もう遅いから、帰ったほうがいい。子供が出歩いていい時間じゃないよ」
お兄さんは怒った顔のまま吐き捨てて、背中を向けると帰っていきます。
操はなんだかちょっぴりカチンときました。
(あの人は好きじゃないな。おれはもう子供じゃないのに)
ハゲさんは破格の値段でマッチを買ってくれようとしただけなのに、あのお兄さんが邪魔をしたせいで台無しです。これでは肉まんもファミ●キも買えません。
そうこうしているうちに、通りには全く人がいなくなっていました。年越しを控え、他所の家やお店の明かりだけが雪の町をほんのりと明るく照らしています。
操はちょっぴり寂しい気持ちになりました。
「帰ろっかな……」
一騎と総士に会いたくなりました。あのお兄さんに言われたことには腹が立ちましたが、確かに早く帰らないと二人が心配します。それに、年越しそばを食べそびれるのも嫌でした。
そのとき、強い風がびゅうと吹き抜けました。完全防備の操でしたが、剥き出しの頬や鼻は冷気にさらされて真っ赤になっています。
操は寒さをしのぐため、咄嗟に建物と建物の間の細い通路に入りこみました。
「寒いな……そうだ、マッチをすったらあったかくなるかも!」
ふと思いつき、操はその場にしゃがむと籠の中にあるマッチを一箱、取り出しました。
そして小箱の中からマッチを一本引き抜くと、箱の側面に擦り付けようとしました。が、そのとき。
「ちょっと待った!!」
どこからか、またあのお兄さんが血相を変えてやって来ました。
操は驚き、手からマッチを落としてしまいました。
「な、なぁに? また邪魔しに来たのぉ?」
しゃがんだままキッと睨みあげると、お兄さんはまたあの怒った顔で溜息をつきました。
「こんな真冬の狭い路地で、しかもゴミが置いてあるすぐ側でマッチを擦るなんて。しかも手にミトンをはめたままじゃ、なおさら危ないだろ。火だるまにでもなりたいのか?」
「え? ゴミ?」
操は自分のすぐ斜め後ろに目を向けました。確かにそこには幾つかのゴミ袋が山になって置かれています。操の目には、暗くてよく見えていませんでした。
このお兄さんが来てくれなかったら、操はうっかり放火魔になっていたかもしれません。それどころか、ミトンに引火してこんがり丸焼けになっていた可能性もあります。
操は急に怖くなり、目にじわりと涙を浮かべました。
「焼かれるのは……嫌だな……」
「俺だって嫌だ。この年の瀬に店を燃やされたんじゃ、たまったもんじゃないしね」
「店?」
「ここは俺の店のすぐ横だよ」
操が身を寄せた場所は、ちょうどお兄さんが経営している喫茶店脇の通路でした。
実はお兄さん、店の中からずっと操のことを見ていたのです。なにやら白くてもこもことした可愛い生き物が、夜道でマッチを売ろうとしている姿が気がかりで、仕事の合間に様子を窺っていたのでした。
お兄さんは操の正面にしゃがみ込むと、困った顔をして言いました。
「平気で変な奴について行こうとするし、自分ごと店に火をつけようとするし、お前は一体なにがしたくてここにいるんだ? しかもこんな時間にさ」
「別に火事を起こそうなんて思ったわけじゃない。寒いから、マッチであたたまろうと思っただけ」
「寒いなら家に帰るなり、店に入ればいいだろ」
「それはそうなんだけど……」
操はしょんぼりと俯き、足元にあるマッチが入った籠を見つめました。
操はマッチを売ったお金で、大好きな一騎と総士にお土産を買って帰りたかったのです。それにお金がなければ、お店にだって入れません。
「……お金に困ってるの?」
「うん……」
お兄さんが、また溜息をつきました。
「幾ら?」
「え?」
「俺が買うから。そのマッチ幾ら?」
操はぱぁっと顔色を明るくして、元気よく答えました。
「一箱五千円だよ!」
「高い!!」
お兄さんが驚きの声をあげました。
「そんな法外な値段で誰が買うのさ!?」
「さっきのおじさんは2万円で買ってくれるって言ったよ!」
「あれはマッチじゃなくて、お前を買おうとしてたんだ!」
「え? おれって2万円で売れるの?」
「ああもう……なんなんだこいつは……」
お兄さんは頭を抱え、ほとほと困り果てた様子を見せました。
「あのね、お前がどこの温室で育ったのかは知らないけど、世の中にはお前が思う以上に怖いことが沢山あるんだよ。お金を稼ぐのだって、そう簡単なことじゃない」
「怖いこと……?」
そういえば、お兄さんはさっきも「酷いことをされたくなければ」なんてことを言っていました。それは火で焼かれるよりも、もっと恐ろしいことなのでしょうか。
例えば犬と同じ檻に閉じ込められるとか、死ぬまで一騎カレーが食べられなくなるとか……思いつく限りの怖いことを想像して、操は震えながら目にいっぱいの涙を浮かべました。
「わかった……もうハゲたおじさんにはついて行かない……」
「毛量は関係ない。男はみんなオオカミだよ」
「総士も前に同じこと言ってた気がする」
「それって家の人? なんだ、ちゃんと教育されてるんじゃないか」
お兄さんはそこで初めて笑顔を見せました。
その柔らかくて優しい笑顔に、操は胸がドキリと高鳴るのを感じました。そのままドキドキと大きな音を立てて、一向に静まる様子がありません。なんだかおかしな気持ちです。
「分かったなら早く帰りな。もうすぐ年が明けてしまうよ」
そう言って立ち上がったお兄さんが、操にそっと手を差し出します。操はその大きな手の平に、ミトンで丸まった指先をちょこんと乗せました。きゅっと握られ、軽く引っ張られるのに合わせて立ち上がると、お兄さんを見上げて問いかけました。
「ねぇ、君は?」
「なに?」
「君もやっぱりオオカミなの?」
お兄さんは目をぱちくりとさせてから、少し困ったように眉を下げて笑いました。
「オオカミだよ、俺も」
「じゃあ、ついて行ったら酷いことする?」
「ついて来たいの?」
「そ、れは……よく分かんない、けど」
どうしてでしょうか。操は頬を赤らめながらまごついてしまいました。お兄さんの顔を見ることができず、俯けた目が泳いでしまいます。
お兄さんが「そうだな」と言って、ふっと笑いました。
「少しくらいは、酷いこともするかもね」
「……どんなこと?」
「それは言えない」
お兄さんは答えてくれませんでしたが、操には彼が酷いことをするような人間にはどうしても思えません。不思議なことに、操の中にはこのお兄さんについて行ってしまいたいという気持ちが芽生えはじめていました。
一度は好きじゃないとまで思ったのに、どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。
操はお兄さんの手をきゅっと握って、もじもじと肩を揺らしました。
そのとき、街中に染み入るような鐘の音が響き渡りました。
「年が明けた。そろそろ店じまいをしようかな」
お兄さんが空を見上げながら言いました。吐く息が真っ白に染まっています。
操と違って、お兄さんは上になにも羽織ってはいません。髪や肩に雪が積もりはじめていて、とても寒そうに見えました。
操がずっと手を握って離さないため、お兄さんはお店に戻ることができないでいるのです。
だからもうお別れをしなくてはいけません。寂しいなと、操は思いました。
「そういえば、こないだバイトの子が一人やめちゃったんだっけ」
「え?」
操がその手を離そうとしたとき、お兄さんがこちらを見て言いました。
「よければおいで。手伝ってくれたら、少しはお駄賃をあげられる」
「いいの?」
お兄さんが笑うので、操は嬉しくなりました。
「おれ、店じまい手伝う! だから君についてくよ!」
操の中に迷いはありませんでした。もう少しこのお兄さんと一緒にいられるのなら、少しくらい酷いことをされたって構いません。
どんなことをされたって、きっとこの人なら大丈夫だと思えるからです。
優しいオオカミに手を引かれ、マッチ売りの少年は暖かなお店の中へと姿を消しました。
そのあとふたりがどうなったかは分かりませんが、街の片隅にある小さな喫茶店は、それから毎日のようにお客さんが途絶えることなく、大繁盛したそうです。
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