2025/06/16 Mon 昔々、深い森の中にある大きなお屋敷に、一人の美しい青年が住んでいました。 青年は沢山の金銀財宝を持ち、各地に別荘を持つほどの大金持ちでした。 ですが彼はいつも無表情で、人形のようになにを考えているか分からなかったので、人々は青年を不気味がり、近付こうとする者はいませんでした。 しかも青年には、なんとも奇妙で恐ろしい噂話まであったのです。 それは今まで何人もの奥さんをもらったのに、みんな行方不明になってしまったらしい、というものでした。 あるとき青年は近くの町に住む可愛らしい少年を、新しい妻に迎えたいと思いました。 そこで少年を屋敷に呼び、美味しい料理でもてなしました。別荘へも連れていき、そこで何日も楽しい時間を過ごしました。 青年は柔らかな笑顔で優しく少年に接しました。少年はいつしか青年に惹かれ、結婚してもいいと思うようになりました。 噂のことは気になりましたが、少年は生まれたときから家族もなく、一人で寂しく暮らしていたので、こんなに優しい人とならきっと毎日幸せだろう思ったのです。 青年はとても喜んで、すぐに少年と結婚式をあげました。 * 結婚式から少し経ったころ、青年は少年に言いました。 「明日から少し用事があって、しばらく旅に出ることになったんだ。だからお前に、この屋敷の鍵を預けておくよ」 少年はこんな広いお屋敷で、一人ぼっちで留守番をすることに不安を覚えました。 ここへ来てから、少年は青年と片時も離れることがなかったので、一緒にいられないのは嫌だなと思ったのです。彼がどのくらいで戻ってくるのかも分かりません。 そんな気持ちを察した青年は、少年のふわふわとした髪を撫でながら微笑みました。 「大丈夫。何日かしたらすぐに戻るよ。だからいい子で待っていて」 「うん……わかった」 少年は頷くと、青年からジャラジャラと沢山の鍵がついた束を受け取りました。 「俺がいない間、この鍵でどの部屋に入って遊んでも構わないよ。寂しかったら、誰か友達を呼んでもいい。ただし──」 青年はふっと無表情になると、暗く沈んだ瞳をしながら言いました。 「この小さな鍵だけは、絶対に使わないで」 「これは、どこの部屋の鍵?」 「廊下のいちばん奥にある部屋だよ」 少年は小首を傾げます。 「そこにはなにがあるの?」 「楽園」 「らくえん……?」 「いい? その部屋にだけは、なにがあっても入らないこと。約束できる?」 少年が戸惑いながらもこくりと頷くと、青年は優しく微笑みました。 * 翌日の朝、青年は出かけていきました。 少年は友達の美羽とエメリーを呼んで、絵を描いたりしながら楽しく過ごしましたが、二人が帰ってしまうとすぐにまた退屈になってしまいました。 やはり一人ぼっちでいるには、このお屋敷は広すぎます。少年は青年がいない寂しさを紛らわすため、預かった鍵を使ってひとつひとつ部屋の中を探検してみることにしました。 美しい宝石が並ぶ部屋、有名な画家の絵が飾ってある部屋、きらびやかな衣装部屋など、見たこともない豪華な品がそれぞれの部屋には沢山ありました。 それらの品々は少年を楽しませましたが、やがて全ての部屋を巡ってしまうと、また退屈になってしまいました。 すると、だんだんあの入ってはいけないと言われている部屋のことが気になって、仕方がなくなってきます。 (楽園ってなんだろう。きっとすごいものがあるんだろうな) ですが、青年はあの部屋に決して入るなと言いました。約束を破ることはできません。 だけどダメだと思えば思うほど、気になって夜も眠れませんでした。 青年はいつまで経っても帰ってきません。少年は、いよいよ我慢ができなくなりました。 (少しくらいなら……いいかな……?) ほんの少しだけ中を覗いたら、すぐに元通り鍵をかければ大丈夫。自分にそう言い聞かせ、少年は廊下の奥の禁じられた部屋の前に立ち、小さな鍵を使いました。 カチリという音がして、鍵が開きました。少年は胸をワクワクとさせながら扉を開けて、そっと足を踏み入れます。 「うっ、なにここ……変な臭いがする……」 部屋の中は真っ暗で、なにも見えません。辺りを漂う生臭さに、少年は思わず鼻を押さえながらもまた一步踏みだしました。 そのとき、ボチャンという水たまりを踏んだような濡れた音がしました。 「!」 少年がハッと息をのむと、窓の外で雷が鳴り響きました。酷い雨が降り出して、窓ガラスを激しく叩きはじめます。 少年は目を見開き、思わず鍵を床に落としてしまいました。 絶え間なく鳴り響く雷に、部屋の中が明るく照らされます。少年は目の前に広がる光景のあまりのおぞましさに、ガタガタと身体を震わせました。 そこに楽園なんてものは存在していませんでした。 あるのは床や壁一面に飛び散った赤黒い血と、かつて『ヒト』だったものの残骸です。 無残に転がる幾つものそれは、黒く焼け焦げたものや、いっそ原型すらとどめていないものまでありました。 そして、それらはみな一様に──。 「──ただいま」 そのとき、玄関の方から青年の声がしました。 少年は悲鳴を飲み込んで、大急ぎで鍵を拾い上げると元通り扉を閉めて、玄関ホールへ向かいました。 ホールには雨に濡れて青白い顔をした青年の姿があります。 「お、おかえり!」 数日ぶりに少年を見た青年は、嬉しそうにふわりと笑顔を浮かべました。 「ただいま。遅くなってごめん──どうかした? そんなに震えて、なにかあったの?」 「な、なにも、なにもないよ」 いつも通りにしなければと思うのに、青ざめた少年はうまく笑うことができません。声さえもひどく震えて、今にも崩折れてしまいそうでした。 青年の顔から、すぅっと笑顔が消えました。ガラス玉のような虚ろな瞳で、少年に手を差し出してきます。 「預けていた鍵を返して」 少年は肩をビクリと跳ねさせました。心臓がバクバクと激しく音を立てています。 けれど言われた通り、震える指で鍵の束を取り出し、青年に返しました。 「……入ったんだね。あの部屋に」 受け取った鍵を見下ろしながら、青年は悲しそうに言いました。 鍵にはべったりと血がこびりついていたのです。床に落としたときに、付着してしまったものでした。 少年はあまりの恐ろしさに酷く震えながら、もつれそうになる足で後退りをします。 一步、また一步と後ろへ下がるたび、青年もまた足を前に踏み出しました。 「こ、来ないで!」 「信じていたのに。どうして約束を破ったの?」 「嘘つき……! あんなの楽園なんかじゃない! あれは……地獄だよ!」 「あの部屋は楽園だよ」 「ッ!」 少年の背が、壁にぶつかりました。逃げ場を失った少年の頬に、青年の冷たい手がそっと這わされます。 「俺の大事な宝物が詰まった、楽園だ」 あんなに優しかった青年の笑顔が、今は死人のように冷たく見えます。 少年は混乱しながら、目にいっぱいの涙を浮かべて言いました。 「ねぇどうして……? あれはなに? どうしてみんな」 ──おれと同じ顔をしているの……? 青年が楽園と呼ぶ、血まみれの部屋。あそこに転がっていた無数の残骸は、どれも全て少年と同じ姿形をしていました。 自分自身が無残に死に絶えている光景。それはあまりにも奇妙で、異常で、信じがたいものでした。 「これは夢? だってあんなのおかしいよ。おれはここに、ちゃんといるのに……!」 青年は少年の頬を優しく擦りながら、目を細めて言いました。 「一人目のお前は、今日みたいな雷の夜に焼け死んだ。落雷に燃える森の中で」 「なに……? なにを言っているの?」 「二人目のお前は、野犬に食われて息絶えた。俺が少し目を離した隙に」 「ねぇ、なんの話をしているの!?」 「三人目のお前は崖から落ちた。青い空に溶けるみたいに、吸い込まれていった」 「やめて……もうやめて……!」 「四人目も五人目も、六人目も七人目も、みんなみんな……お前はいつだって、俺を置いていなくなる」 青年は目を見開いたまま、瞬きひとつしませんでした。その薄い唇が、三日月のように歪んだ笑みを浮かべています。 「何度でも生まれて、何度でも死んで、お前はまた俺の目の前に現れる。なにも知らない顔をして、俺からお前を奪いに来るんだ」 頬にかかっていた手が、少年の細い首にかかりました。 「どうせお前もいなくなる……だったらいっそ、俺がこの手で奪おうか」 「ぁぐッ、ぅ……ァ! や、め……ッ」 青年の両手が、少年の首を絞めました。少年はあまりの苦しさに、ズルズルと壁を伝って床に崩れ落ちていきます。 青年は少年の首を絞めたまま、冷たい汗が滲む額にキスをしました。 「愛してる。今度は俺も一緒にいくよ──楽園に」 薄れていく意識の中で少年が最期に見たのは、壊れた青年の幸せそうな微笑みでした。 *** 「……ふぁ!?」 昼下がりの喫茶楽園にて、テーブルに突っ伏して眠りこけていた操は、ビクンと身体を跳ねさせながら目を覚ました。 勢いよく起き上がり、咄嗟に辺りを見回す。誰もいない。強張っていた肩から力を抜くと、大きく息を吐き出した。 「はぁー、夢かぁ……やな夢だったな……」 初めのうちは甲洋と結婚して幸せに暮らしていたはずなのに、最後にはあんな恐ろしい結末を迎えるなんて。 「どうしてあんな夢なんか見たんだろう?」 操は無意識に首筋に触れながら首を傾げた。そこには冷えた感触が残っているような気がしたけれど、まぁいいやと思いなして「うーん」と大きく伸びをした。 「──来主」 そのとき、すぐ真横で声がした。 「うわぁ!?」 そこには甲洋が立っていた。誰もいないところに突然ワープで現れるものだから、操は驚いて椅子から落ちかけてしまう。 「ビックリした! 急に出てこないでよぉ!」 甲洋は暗く沈んだ表情で操を見下ろしている。どこか虚ろでうら悲しいその瞳に既視感を覚えて、背筋にひやりとしたものが駆け抜けた。 「ね、ねぇ? どうかしたの?」 少しビクビクしながら問えば、彼は暗い表情のまま言った。 「……引き出し、開けた?」 「えぇ?」 操がコトリと首を傾げる。 「なんのこと?」 「この鍵」 甲洋はテーブルの中央に小さな鍵をそっと置く。血がついていたらどうしようかと思ったが、それはなんの変哲もない古ぼけた鍵でしかなかった。 ホッと息をつきながら、操は甲洋を見上げる。 「甲洋の机の引き出しの鍵でしょ。うん、開けたよ」 「……前から言ってあったよね。あの引き出しは触るなって」 「なんでバレたの? おれが開けたこと」 「これ見よがしに鍵が出しっぱなしになってれば、嫌でも気づくよ」 甲洋の部屋の机には、ひとつだけ鍵がかかった場所がある。彼は普段から操が部屋のどこを触ろうがこれといって咎めはしないが、そこだけは決して触るなと常々言っていた。 が、たまたま彼が不在のときにこの鍵を見つけて、どうしても好奇心に勝てずに開けてしまったのだ。 「だぁって気になったんだもん」 唇を尖らせる操に、甲洋は目を閉じて片手で額を押さえながら溜息を漏らす。それからチラリと操を見ると、どこかバツが悪そうに小声で言った。 「……見た?」 「えー?」 「中身」 開けたのだから、そりゃあ見た。操はケロリとした表情で「うん」と頷いた。 「肌色がいっぱいの本。君たちがエロ本と呼んでいるものが、沢山あったよ」 「ああぁ……」 甲洋が呻きとも溜息ともつかない声をあげる。 「あれは違う。違わないけど、俺のじゃない」 「剣司? どうしていま剣司のことを思い浮かべたの?」 勝手に心を覗かれた甲洋は、なぜか黙り込んでしまった。 いつにも増して多くを語ろうとしない様子に焦れて、操は彼の心をさらに覗いてみることにした。彼自身もその方が手っ取り早いと思ったのか、黙って好きにさせる構えだ。そして見えてきたものと皆城総士の知識を重ねて、なるほどなぁと納得した。 「古きよき日本の文化……あれは河原や裏山に捨て置かれていたものなんだね」 「……あるんだよ。年頃の男子中学生には、色々と黒歴史が」 あのエロ本は、剣司を筆頭にした少年たちが河原や空き地に捨てられているものを拾ってきたものなのだ。それをごく一部の友人間で回し読みしたあと処分に困り、最終的にはいつも甲洋に押し付けていた。 甲洋少年は口では拒みながらも、なんだかんだでちゃっかり受け取っていたのである。 「甲洋も見たかったんだね。エロ本」 「……否定はしない。俺も年頃だったから」 「ふぅん」 のほほんと返事をしながら、ふと操は思った。 (ひょっとして、だからあんな夢を見たのかな?) 操はこの鍵を使ったことをすっかり忘れていたけれど、心のどこかでは勝手に引き出しを開けたことを後ろめたく感じていたのかもしれない。 そしてこの鍵は、確かに『楽園』の鍵だった。少年だった彼らの、夢と希望と青春が沢山つまった、桃色の楽園とでも呼べばいいのか。死体とエロ本では、だいぶ規模が異なるけれど。 「ごめんね甲洋」 「なに?」 「勝手に楽園の扉を開けちゃったこと。ちゃんとごめんなさいするから、もう怒らないで」 「ら、楽園……? 引き出しのことを言ってるの?」 「うん、そう」 「まぁある意味では楽園か……いいよもう。怒ってない」 「よかったぁ」 心底ホッとして笑う操だったが、どこか物言いたげな甲洋はいまいち落ち着かない様子だった。コホンと咳払いをして、操の向かいの椅子に腰をおろす。 「言っておくけど」 「なぁに」 「俺にはもう必要ないから」 「なにが?」 「……エロ本」 「知ってるよ。甲洋はおれの裸のほうが興奮するんでしょ?」 「薄っぺらくて、エロさなんて欠片もないのにね」 最後の台詞からは甲洋の開き直りが感じられる。 操は彼がエロ本を見て興奮したからといって、別にどうとも思わない。特定の相手に対する愛欲と、娯楽としての欲求はまた別物だ。操に後者は理解できないが、理屈としては分かっているつもりだった。 けれどわざわざ言葉にしてまで伝えてくるということは、甲洋にとってそれだけ重要な意味があるということだろう。操はそれを嬉しいと感じた。 「おれも同じ。性的に興奮するのは、裸の甲洋とくっついてるときだけだよ」 「……そう」 嬉しいくせにそっぽを向いた甲洋に、操はふにゃりと笑ってみせる。そしてテーブルの上にある『楽園』の鍵を、指の先で軽く弾いた。 ←戻る ・ Wavebox👏
青年は沢山の金銀財宝を持ち、各地に別荘を持つほどの大金持ちでした。
ですが彼はいつも無表情で、人形のようになにを考えているか分からなかったので、人々は青年を不気味がり、近付こうとする者はいませんでした。
しかも青年には、なんとも奇妙で恐ろしい噂話まであったのです。
それは今まで何人もの奥さんをもらったのに、みんな行方不明になってしまったらしい、というものでした。
あるとき青年は近くの町に住む可愛らしい少年を、新しい妻に迎えたいと思いました。
そこで少年を屋敷に呼び、美味しい料理でもてなしました。別荘へも連れていき、そこで何日も楽しい時間を過ごしました。
青年は柔らかな笑顔で優しく少年に接しました。少年はいつしか青年に惹かれ、結婚してもいいと思うようになりました。
噂のことは気になりましたが、少年は生まれたときから家族もなく、一人で寂しく暮らしていたので、こんなに優しい人とならきっと毎日幸せだろう思ったのです。
青年はとても喜んで、すぐに少年と結婚式をあげました。
*
結婚式から少し経ったころ、青年は少年に言いました。
「明日から少し用事があって、しばらく旅に出ることになったんだ。だからお前に、この屋敷の鍵を預けておくよ」
少年はこんな広いお屋敷で、一人ぼっちで留守番をすることに不安を覚えました。
ここへ来てから、少年は青年と片時も離れることがなかったので、一緒にいられないのは嫌だなと思ったのです。彼がどのくらいで戻ってくるのかも分かりません。
そんな気持ちを察した青年は、少年のふわふわとした髪を撫でながら微笑みました。
「大丈夫。何日かしたらすぐに戻るよ。だからいい子で待っていて」
「うん……わかった」
少年は頷くと、青年からジャラジャラと沢山の鍵がついた束を受け取りました。
「俺がいない間、この鍵でどの部屋に入って遊んでも構わないよ。寂しかったら、誰か友達を呼んでもいい。ただし──」
青年はふっと無表情になると、暗く沈んだ瞳をしながら言いました。
「この小さな鍵だけは、絶対に使わないで」
「これは、どこの部屋の鍵?」
「廊下のいちばん奥にある部屋だよ」
少年は小首を傾げます。
「そこにはなにがあるの?」
「楽園」
「らくえん……?」
「いい? その部屋にだけは、なにがあっても入らないこと。約束できる?」
少年が戸惑いながらもこくりと頷くと、青年は優しく微笑みました。
*
翌日の朝、青年は出かけていきました。
少年は友達の美羽とエメリーを呼んで、絵を描いたりしながら楽しく過ごしましたが、二人が帰ってしまうとすぐにまた退屈になってしまいました。
やはり一人ぼっちでいるには、このお屋敷は広すぎます。少年は青年がいない寂しさを紛らわすため、預かった鍵を使ってひとつひとつ部屋の中を探検してみることにしました。
美しい宝石が並ぶ部屋、有名な画家の絵が飾ってある部屋、きらびやかな衣装部屋など、見たこともない豪華な品がそれぞれの部屋には沢山ありました。
それらの品々は少年を楽しませましたが、やがて全ての部屋を巡ってしまうと、また退屈になってしまいました。
すると、だんだんあの入ってはいけないと言われている部屋のことが気になって、仕方がなくなってきます。
(楽園ってなんだろう。きっとすごいものがあるんだろうな)
ですが、青年はあの部屋に決して入るなと言いました。約束を破ることはできません。
だけどダメだと思えば思うほど、気になって夜も眠れませんでした。
青年はいつまで経っても帰ってきません。少年は、いよいよ我慢ができなくなりました。
(少しくらいなら……いいかな……?)
ほんの少しだけ中を覗いたら、すぐに元通り鍵をかければ大丈夫。自分にそう言い聞かせ、少年は廊下の奥の禁じられた部屋の前に立ち、小さな鍵を使いました。
カチリという音がして、鍵が開きました。少年は胸をワクワクとさせながら扉を開けて、そっと足を踏み入れます。
「うっ、なにここ……変な臭いがする……」
部屋の中は真っ暗で、なにも見えません。辺りを漂う生臭さに、少年は思わず鼻を押さえながらもまた一步踏みだしました。
そのとき、ボチャンという水たまりを踏んだような濡れた音がしました。
「!」
少年がハッと息をのむと、窓の外で雷が鳴り響きました。酷い雨が降り出して、窓ガラスを激しく叩きはじめます。
少年は目を見開き、思わず鍵を床に落としてしまいました。
絶え間なく鳴り響く雷に、部屋の中が明るく照らされます。少年は目の前に広がる光景のあまりのおぞましさに、ガタガタと身体を震わせました。
そこに楽園なんてものは存在していませんでした。
あるのは床や壁一面に飛び散った赤黒い血と、かつて『ヒト』だったものの残骸です。
無残に転がる幾つものそれは、黒く焼け焦げたものや、いっそ原型すらとどめていないものまでありました。
そして、それらはみな一様に──。
「──ただいま」
そのとき、玄関の方から青年の声がしました。
少年は悲鳴を飲み込んで、大急ぎで鍵を拾い上げると元通り扉を閉めて、玄関ホールへ向かいました。
ホールには雨に濡れて青白い顔をした青年の姿があります。
「お、おかえり!」
数日ぶりに少年を見た青年は、嬉しそうにふわりと笑顔を浮かべました。
「ただいま。遅くなってごめん──どうかした? そんなに震えて、なにかあったの?」
「な、なにも、なにもないよ」
いつも通りにしなければと思うのに、青ざめた少年はうまく笑うことができません。声さえもひどく震えて、今にも崩折れてしまいそうでした。
青年の顔から、すぅっと笑顔が消えました。ガラス玉のような虚ろな瞳で、少年に手を差し出してきます。
「預けていた鍵を返して」
少年は肩をビクリと跳ねさせました。心臓がバクバクと激しく音を立てています。
けれど言われた通り、震える指で鍵の束を取り出し、青年に返しました。
「……入ったんだね。あの部屋に」
受け取った鍵を見下ろしながら、青年は悲しそうに言いました。
鍵にはべったりと血がこびりついていたのです。床に落としたときに、付着してしまったものでした。
少年はあまりの恐ろしさに酷く震えながら、もつれそうになる足で後退りをします。
一步、また一步と後ろへ下がるたび、青年もまた足を前に踏み出しました。
「こ、来ないで!」
「信じていたのに。どうして約束を破ったの?」
「嘘つき……! あんなの楽園なんかじゃない! あれは……地獄だよ!」
「あの部屋は楽園だよ」
「ッ!」
少年の背が、壁にぶつかりました。逃げ場を失った少年の頬に、青年の冷たい手がそっと這わされます。
「俺の大事な宝物が詰まった、楽園だ」
あんなに優しかった青年の笑顔が、今は死人のように冷たく見えます。
少年は混乱しながら、目にいっぱいの涙を浮かべて言いました。
「ねぇどうして……? あれはなに? どうしてみんな」
──おれと同じ顔をしているの……?
青年が楽園と呼ぶ、血まみれの部屋。あそこに転がっていた無数の残骸は、どれも全て少年と同じ姿形をしていました。
自分自身が無残に死に絶えている光景。それはあまりにも奇妙で、異常で、信じがたいものでした。
「これは夢? だってあんなのおかしいよ。おれはここに、ちゃんといるのに……!」
青年は少年の頬を優しく擦りながら、目を細めて言いました。
「一人目のお前は、今日みたいな雷の夜に焼け死んだ。落雷に燃える森の中で」
「なに……? なにを言っているの?」
「二人目のお前は、野犬に食われて息絶えた。俺が少し目を離した隙に」
「ねぇ、なんの話をしているの!?」
「三人目のお前は崖から落ちた。青い空に溶けるみたいに、吸い込まれていった」
「やめて……もうやめて……!」
「四人目も五人目も、六人目も七人目も、みんなみんな……お前はいつだって、俺を置いていなくなる」
青年は目を見開いたまま、瞬きひとつしませんでした。その薄い唇が、三日月のように歪んだ笑みを浮かべています。
「何度でも生まれて、何度でも死んで、お前はまた俺の目の前に現れる。なにも知らない顔をして、俺からお前を奪いに来るんだ」
頬にかかっていた手が、少年の細い首にかかりました。
「どうせお前もいなくなる……だったらいっそ、俺がこの手で奪おうか」
「ぁぐッ、ぅ……ァ! や、め……ッ」
青年の両手が、少年の首を絞めました。少年はあまりの苦しさに、ズルズルと壁を伝って床に崩れ落ちていきます。
青年は少年の首を絞めたまま、冷たい汗が滲む額にキスをしました。
「愛してる。今度は俺も一緒にいくよ──楽園に」
薄れていく意識の中で少年が最期に見たのは、壊れた青年の幸せそうな微笑みでした。
***
「……ふぁ!?」
昼下がりの喫茶楽園にて、テーブルに突っ伏して眠りこけていた操は、ビクンと身体を跳ねさせながら目を覚ました。
勢いよく起き上がり、咄嗟に辺りを見回す。誰もいない。強張っていた肩から力を抜くと、大きく息を吐き出した。
「はぁー、夢かぁ……やな夢だったな……」
初めのうちは甲洋と結婚して幸せに暮らしていたはずなのに、最後にはあんな恐ろしい結末を迎えるなんて。
「どうしてあんな夢なんか見たんだろう?」
操は無意識に首筋に触れながら首を傾げた。そこには冷えた感触が残っているような気がしたけれど、まぁいいやと思いなして「うーん」と大きく伸びをした。
「──来主」
そのとき、すぐ真横で声がした。
「うわぁ!?」
そこには甲洋が立っていた。誰もいないところに突然ワープで現れるものだから、操は驚いて椅子から落ちかけてしまう。
「ビックリした! 急に出てこないでよぉ!」
甲洋は暗く沈んだ表情で操を見下ろしている。どこか虚ろでうら悲しいその瞳に既視感を覚えて、背筋にひやりとしたものが駆け抜けた。
「ね、ねぇ? どうかしたの?」
少しビクビクしながら問えば、彼は暗い表情のまま言った。
「……引き出し、開けた?」
「えぇ?」
操がコトリと首を傾げる。
「なんのこと?」
「この鍵」
甲洋はテーブルの中央に小さな鍵をそっと置く。血がついていたらどうしようかと思ったが、それはなんの変哲もない古ぼけた鍵でしかなかった。
ホッと息をつきながら、操は甲洋を見上げる。
「甲洋の机の引き出しの鍵でしょ。うん、開けたよ」
「……前から言ってあったよね。あの引き出しは触るなって」
「なんでバレたの? おれが開けたこと」
「これ見よがしに鍵が出しっぱなしになってれば、嫌でも気づくよ」
甲洋の部屋の机には、ひとつだけ鍵がかかった場所がある。彼は普段から操が部屋のどこを触ろうがこれといって咎めはしないが、そこだけは決して触るなと常々言っていた。
が、たまたま彼が不在のときにこの鍵を見つけて、どうしても好奇心に勝てずに開けてしまったのだ。
「だぁって気になったんだもん」
唇を尖らせる操に、甲洋は目を閉じて片手で額を押さえながら溜息を漏らす。それからチラリと操を見ると、どこかバツが悪そうに小声で言った。
「……見た?」
「えー?」
「中身」
開けたのだから、そりゃあ見た。操はケロリとした表情で「うん」と頷いた。
「肌色がいっぱいの本。君たちがエロ本と呼んでいるものが、沢山あったよ」
「ああぁ……」
甲洋が呻きとも溜息ともつかない声をあげる。
「あれは違う。違わないけど、俺のじゃない」
「剣司? どうしていま剣司のことを思い浮かべたの?」
勝手に心を覗かれた甲洋は、なぜか黙り込んでしまった。
いつにも増して多くを語ろうとしない様子に焦れて、操は彼の心をさらに覗いてみることにした。彼自身もその方が手っ取り早いと思ったのか、黙って好きにさせる構えだ。そして見えてきたものと皆城総士の知識を重ねて、なるほどなぁと納得した。
「古きよき日本の文化……あれは河原や裏山に捨て置かれていたものなんだね」
「……あるんだよ。年頃の男子中学生には、色々と黒歴史が」
あのエロ本は、剣司を筆頭にした少年たちが河原や空き地に捨てられているものを拾ってきたものなのだ。それをごく一部の友人間で回し読みしたあと処分に困り、最終的にはいつも甲洋に押し付けていた。
甲洋少年は口では拒みながらも、なんだかんだでちゃっかり受け取っていたのである。
「甲洋も見たかったんだね。エロ本」
「……否定はしない。俺も年頃だったから」
「ふぅん」
のほほんと返事をしながら、ふと操は思った。
(ひょっとして、だからあんな夢を見たのかな?)
操はこの鍵を使ったことをすっかり忘れていたけれど、心のどこかでは勝手に引き出しを開けたことを後ろめたく感じていたのかもしれない。
そしてこの鍵は、確かに『楽園』の鍵だった。少年だった彼らの、夢と希望と青春が沢山つまった、桃色の楽園とでも呼べばいいのか。死体とエロ本では、だいぶ規模が異なるけれど。
「ごめんね甲洋」
「なに?」
「勝手に楽園の扉を開けちゃったこと。ちゃんとごめんなさいするから、もう怒らないで」
「ら、楽園……? 引き出しのことを言ってるの?」
「うん、そう」
「まぁある意味では楽園か……いいよもう。怒ってない」
「よかったぁ」
心底ホッとして笑う操だったが、どこか物言いたげな甲洋はいまいち落ち着かない様子だった。コホンと咳払いをして、操の向かいの椅子に腰をおろす。
「言っておくけど」
「なぁに」
「俺にはもう必要ないから」
「なにが?」
「……エロ本」
「知ってるよ。甲洋はおれの裸のほうが興奮するんでしょ?」
「薄っぺらくて、エロさなんて欠片もないのにね」
最後の台詞からは甲洋の開き直りが感じられる。
操は彼がエロ本を見て興奮したからといって、別にどうとも思わない。特定の相手に対する愛欲と、娯楽としての欲求はまた別物だ。操に後者は理解できないが、理屈としては分かっているつもりだった。
けれどわざわざ言葉にしてまで伝えてくるということは、甲洋にとってそれだけ重要な意味があるということだろう。操はそれを嬉しいと感じた。
「おれも同じ。性的に興奮するのは、裸の甲洋とくっついてるときだけだよ」
「……そう」
嬉しいくせにそっぽを向いた甲洋に、操はふにゃりと笑ってみせる。そしてテーブルの上にある『楽園』の鍵を、指の先で軽く弾いた。
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