2025/06/16 Mon 五年付き合った彼女と別れたのも、今と同じ時期だった。 満開に桜が咲いていた。公園で友人たちと朝から晩までしこたま酒を飲み、ベロベロになって家に帰ったら、テーブルの上に一枚の紙切れが置かれていた。 『さようなら、お世話になりました』 丸みを帯びた可愛らしい字。彼女の字だ。なんの冗談だろうと思った。酷く酔っていたし、まともに考えられる状態じゃなかった。 彼女の名を呼んだ。風呂場、トイレ、寝室、クローゼットの中。フラつく足で順々に見てまわり、彼女の私物が一つも見当たらないことに気がついた。 冷えていく頭でふと、ついさっきまで夜桜の下で飲んでいた友人たちに「今年中には結婚するつもりだ」と、大きな口を叩いたばかりだったことを思いだした。 マジか、と思った。頭を抱えてその場にしゃがみ込む。吐き気がした。飲みすぎだ。トイレに駆け込もうとして、間に合わなかった。廊下で吐いた。後片付けが面倒くさい。友人たちには、なんて言おう? 女に逃げられた男の頭の中は、ただそれだけでいっぱいだった。 * それからややしばらくして、男は住んでいたマンションを引っ越した。 家賃もそこそこのいい部屋だったし、仕事も順調なはずだった。けれどあのあと恋愛だけでなく仕事まで上手くいかなくなって、上司にこっぴどく叱られた翌日、辞めてしまった。 今は壁の薄い安アパートで、深夜のコンビニ店員をしながら細々と暮らしている。 隣人は若い男だった。多分まだ二十歳そこそこの学生だ。 彼とは引っ越した翌日に初めて会った。部屋の両隣と、すぐ下の階の住人に菓子折りを持って挨拶に行ったときのことだ。夏の始めだったのを覚えている。 春日井甲洋は男の左隣に住んでいた。扉をノックして出てきた彼を見たときの衝撃は、今も忘れられない。 汗ばんでいる白い肌。首筋と目元をほのかに赤らめて、焦茶の長い髪を頬に貼り付けていた。たったいま慌てて身につけたといわんばかりに襟がたわんだ、白いシャツ。ジーンズのウエストはファスナーだけが閉められ、ボタンは留められていなかった。なにより、涼しげな顔をしているくせに息が微かに上がっていた。 明らかにいいところを邪魔してしまったのが見て取れる。この真昼間に。そんな情事の気配を、ありありと滲ませていた。 「あ、ああ、どうも。昨日、隣に越してきたものですが」 男は声を上ずらせながら言った。青年は無表情だったが、不機嫌そうというわけではない。多分、普段からそれほど表情筋を動かすタイプではないのだろう。ただ物憂げに、いささか潤んだ瞳で男を見た。 男は「つまらないものですが」と言って、クッキーの詰め合わせを差し出した。手がいやに汗ばんでいて、動悸がする。包装紙が湿ってはいないかと不安になった。 「わざわざどうも。ありがとうございます」 青年が口を開く。涼やかな風に若葉がそっとささめくような、そんな静かな声だった。色のなかった表情が、ふわりと緩む。彼はわずかに瞳を細め、信じられないくらい綺麗に微笑んだ。 男は胸を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。この優しげで綺麗な、痩せた男が、今の今までその腕に女を抱いていたのだ。紅潮した頬に汗と髪を貼り付けて、けれどその微笑はどこか禁欲的でもある。 そのアンバランスな危うさに、男は不覚にも欲をそそられてしまったのだ。 * それからはずっと、春日井甲洋のことばかりを考えていた。 レジ打ちをしているときも、品出しをしているときも。なにをしていても上の空で、何度も計算をミスった。その度に自分の財布から補填しなければならない。初めのうちは口惜しさに腹がたったが、男はそれをあの青年への『お布施』だと思いこむことにした。病気である。 彼とはあのあと一言二言、当たり障りない会話をして、それきりだ。 稀に顔を合わせても、お互い軽い会釈を交わすだけで終わってしまう。同じアパートの、隣に住んでいるというだけの薄い縁に、それでも男は一人のめり込んでいく。 彼とどうにかなりたいとか、そういう生々しい考えには至らなかった。不思議でもなんでもない。男は異性しか愛したことがないし、男を抱いたことも、ましてや抱かれたこともないのだ。想像がつかない。そうやって、まだどこかで戸惑っていることをブレーキにしている。 だけど気づけばぼんやりと、思いを馳せていた。あの瑞々しい青年の色香に。 右隣の隣人へは、引っ越しの挨拶をしそこねていた。 あの足ですぐに訪ねたが、間の悪いことに不在だったのだ。扉の表札には子供のような拙い字で【くるす】と書かれていた。 だけど一度だけ、アパートの通路ですれ違ったことがある。男は夜勤明けで、隣人はちょうど部屋から出てきたところだった。 学生だとは思うが、ギリギリ高校生程度といった幼い顔つきをした少年だった。嗅げばミルクの香りがしそうな、そんなあどけなさがあった。 渡さないままのクッキーは、食器棚の上でほこりをかぶっている。春日井甲洋という青年に出会ってから、そのときすでに二ヶ月が経過していた。夏が終わりかけている。 * 『……あ』 未だ残暑がまとわりつく、ムシムシとした夜だった。 男は少しばかり体調を崩し、その夜は休みをとっていた。汗臭い布団で横になり、とろとろと眠ったり起きたりを繰り返していると、微かな声が聞こえた気がして瞼を開ける。 予感めいたものにギクリと身を強張らせ、息を殺した。 『ん、ぁ……はぁッ、ぁ……!』 薄い壁越しに、上ずった声が聞こえる。男は身体の不調も忘れ、起き上がると壁に身を寄せて耳を押し付けた。左隣。春日井甲洋の部屋だ。そこから、なまめかしい声が聞こえてくる。 こんなことは初めてだ。今まで一度も、こんないやらしい声が聞こえてきたことはなかった。 男は週に二日あるかないかの休みの夜、ほとんどこの部屋を開けている。大体は安い居酒屋の片隅でちびちびと飲み、帰宅するのは午前様だった。 けれど男は今日、幸か不幸かここにいる。本来の休みは明日だ。若いフリーターの男と交換してもらった。 『あッ、あ、ぁ! だめ、それ……ダメ、やぁ、ァ!』 ひときわ大きな声が上がった。男の皮膚がゾクリと粟立つ。薄い壁一枚を隔てた向こう側で、春日井甲洋が情事に耽っている。その事実に興奮して、頭に血がのぼっていく。 そして何より、この声は男性のものだ。女のようにすすり泣いてはいるが、確かに。 (彼、が……抱かれているのか?) 心臓が口から飛び出してきそうなほどに、激しく高鳴る。彼とはたった一度、会話をしただけだ。口数が少なく、印象深い内容など一つもない。だからこれが仮に彼の声だったとしても、男には判別がつかないのだ。 だけど、どちらにせよ。 男と寝るのだ。春日井甲洋という青年は。 なら、自分とだって──。 『ひゃっ……ぁ……あっ! ァ……こう、よう……甲洋……ッ!』 「ッ……!」 瞬間、男は息を飲む。そのひゅうという音がいやに大きく感じられ、思わず片手で口を押さえた。 甲洋、と。この甘えたように啼く声の主は、確かに呼んだ。追い打ちをかけるように、低く掠れた声が【くるす】と呼ぶ。 全身の毛が逆立つ。ゾワゾワとした感覚に、男は戦慄いた。甲洋とくるす。男の隣人と、隣人。 あの赤ん坊のような香りがしそうな少年を、あの美しい男が犯している。何度も何度も、甘ったるい声でその名を呼びながら、抱いている。 『やあ、ぁ! はっ、おっき、ぃ、んッ……こう、よ、あッ、あ、ァ……ッ!』 『ッ……、来主……平気?』 『ぅ、ん……へい、き……甲洋の、もっとちょうだい』 『──いいよ』 壁がこんなにも邪魔臭いと感じたのは初めてだった。彼は、彼らは、どんなふうに抱き合っているのだろう。春日井甲洋は、どうやってあの少年を愛しているのだろうか。 あえかな悲鳴と、ベッドが軋む音。男は張り詰めた神経で、卑猥な妄想を膨らませる。 『おく、奥まで……ッ、あぅ、ぁっ、ァ、あーッ!』 しなやかな若木を思わせる少年の肉体。上下する薄い胸と、頂にある赤い粒。紅潮する身体を長い両腕に閉じ込めて、春日井甲洋がその高ぶりで小さな丘の谷間を犯す。硬かったはずの蕾は桃の花のように綻んで、若い雄の猛りを食い締めている。 汗ばむ頬。しっとりと張り付く、焦茶の髪。少年がその頬に手を這わせ、濡れた息を弾ませながらキスを強請る。水音。二人分の重みと抽送に軋むベッド。重なる吐息。極致を目指して、ふたつの身体がしなり、もつれる。 男はいつしか自身も高ぶりを覚えていた。淫らな情事が奏でる音と、艶めいた嬌声を餌に。無意味な、けれどあまりにも生々しい想像に辛抱堪らず、取り出した男根を扱き上げる。息を殺し、決して悟られないように。こんなにも刺激的で気持ちのいい自慰は初めてだった。 『ひッ、ぁ…ッ、はぁ、……ッ、ぁ、ぁ、あ……ン……ッ!』 『来主……くるす……』 『も、イッ、く……ッ! いく、こうよ……ッ、あぁ、ひッ、ん!』 『ッ、俺も、イク』 『んっ、ぅん、きて、一緒に……甲洋、ッ、ァ、あ、好き、いっぱい、好き……ッ!』 『俺も、俺もだ──操』 ──みさお。 男はふと、手を止めた。 それは懐かしい名前だった。春に、桜が散るよりも早く男の元から去った女。たった一枚の紙切れだけを残して男を捨てた彼女と、同じ名前。 みさお、みさお、みさお──愛していたと思う。多分、きっと。だって、結婚する気でいたくらいの女だったのだから。 だけど、どうしてだろう。一度も考えたことがなかった。彼女がいなくなった理由を。 薄い壁の向こう側で、恋人たちは絶頂を迎えていた。【みさお】が子犬のような甲高い声で鳴く。春日井甲洋が、低く呻いた。忙しなく重なる呼吸がまるで獣じみていて、男はゆっくりと熱が引いていくのを感じた。至ることができなかったのは、自分ひとりだけ。 『大好き……甲洋……あいしてる』 『俺も、愛してる……操』 熱を吐き出せば、あとは冷めきっていくだけだ。けれど彼らは達してなお愛を囁きあっていた。 若い肉体の火は消えない。再び情を交わしはじめた二人の吐息を聞きながら、男はただ呆然と壁にもたれかかり、腕を投げだした。薄い隔たり。違う世界。同じ名前。虚しさに息がつまる。 幻想だ。全て。男は春日井甲洋に不思議な劣情を抱いていた。今は、凪いだ海で仄かな嫉妬と羨望が溺れている。 彼が愛する【みさお】は、少年の形をしていた。 甘い声が、優しい声が、何度も何度も愛の言葉を紡ぎ出す。 (いつからだったかな) 確かにこの腕の中にいたはずの【みさお】に、愛していると言わなくなったのは。 * 壁にもたれかかったまま朝を迎えた。 いつの間にか眠りに落ちていて、気がつけば安物のカーテンから白い光が射していた。 蒸し暑さを残す室内は空気が淀んでいた。男は窓を開けるよりも先に、玄関に向かうと靴を引っ掛け、扉を開けた。 一気に射し込んだ朝日が眩しい。目がくらんで、少し痛い。一步踏み出すより先に、声がした。 「じゃあね甲洋、また後で」 「迎えに行くから。二度寝なんかしてたら、ほっといて先に学校行くよ」 「し、しないよぅ。いじわるー」 春日井甲洋と【くるすみさお】だ。男はドキリとして扉を閉じかけたが、身体が上手く動かなかった。 「来主」 「なに?」 「今日は鎖骨が見えない服を着て」 「え? うん、わかったー!」 眼の前を、少年が横切ろうとする。ドアを開けたまま玄関に立ち尽くす男に気づいて、彼は一瞬歩調を緩めると、丸い目をしながらペコリと軽く会釈をした。ああ、やっぱり、乳臭そうなガキだと思う。 ボーダー柄のシャツから覗く鎖骨には、赤く鬱血した跡がある。それだけが、まるで異質なものに感じられた。 朝日に目を眇める男の視界から少年が消えた。すぐ右隣の部屋のドアが開閉すると、しんと辺りが静まり返る。 男はようやく外へと一步を踏み出した。左隣へ視線をやれば、恋人の背を見送った春日井甲洋が自室のドアノブに手をかけたところだった。 長い髪を緩く一つに結っている。項が白い。性懲りもなく、胸が一瞬ざわついた。 彼は男の視線に気づき、ゆるりとこちらに顔を向けた。その瞳に映る自分は、どんな顔をしていただろう。平静を装っていられただろうか。 薄い唇が緩く笑みを象る。春日井甲洋が、ふわりと笑った。 細められた瞳の透明感。見透かされているような気がして不安になる。男が抱いた劣情も、盗み聞いた秘事も、女に逃げられ、仕事を辞め、寂れたアパートの一室で腐りながらただ生きていることも。 後ろめたさに指先が冷える。薄い氷の上を歩かされているようだ。怖い。ただただ、怖いと思う。 小さな会釈をして、春日井甲洋は開いた扉の先へ姿を消した。 彼が見えなくなって、男は初めて呼吸を止めていたことに気がついた。吸い込んだ息は少しほこりっぽい。軽く咽てから、音を立てて喉を鳴らした。 毒のような男だ。したたかで、甘い毒のような。それは男の中に新しく根付いた幻想に過ぎないのかもしれない。あとに残ったのは、ただの劣等感だった。 * 季節が巡り、春になると、男の両隣の住人は揃ってアパートを出て行った。彼らがどこへ行ったのかは分からない。 ただ、あれから毎年春になると思いだす。 彼は今もどこかで、その腕に【みさお】を抱いているのだろう。 愛していると、何度も何度も囁きながら。 ←戻る ・ Wavebox👏
満開に桜が咲いていた。公園で友人たちと朝から晩までしこたま酒を飲み、ベロベロになって家に帰ったら、テーブルの上に一枚の紙切れが置かれていた。
『さようなら、お世話になりました』
丸みを帯びた可愛らしい字。彼女の字だ。なんの冗談だろうと思った。酷く酔っていたし、まともに考えられる状態じゃなかった。
彼女の名を呼んだ。風呂場、トイレ、寝室、クローゼットの中。フラつく足で順々に見てまわり、彼女の私物が一つも見当たらないことに気がついた。
冷えていく頭でふと、ついさっきまで夜桜の下で飲んでいた友人たちに「今年中には結婚するつもりだ」と、大きな口を叩いたばかりだったことを思いだした。
マジか、と思った。頭を抱えてその場にしゃがみ込む。吐き気がした。飲みすぎだ。トイレに駆け込もうとして、間に合わなかった。廊下で吐いた。後片付けが面倒くさい。友人たちには、なんて言おう?
女に逃げられた男の頭の中は、ただそれだけでいっぱいだった。
*
それからややしばらくして、男は住んでいたマンションを引っ越した。
家賃もそこそこのいい部屋だったし、仕事も順調なはずだった。けれどあのあと恋愛だけでなく仕事まで上手くいかなくなって、上司にこっぴどく叱られた翌日、辞めてしまった。
今は壁の薄い安アパートで、深夜のコンビニ店員をしながら細々と暮らしている。
隣人は若い男だった。多分まだ二十歳そこそこの学生だ。
彼とは引っ越した翌日に初めて会った。部屋の両隣と、すぐ下の階の住人に菓子折りを持って挨拶に行ったときのことだ。夏の始めだったのを覚えている。
春日井甲洋は男の左隣に住んでいた。扉をノックして出てきた彼を見たときの衝撃は、今も忘れられない。
汗ばんでいる白い肌。首筋と目元をほのかに赤らめて、焦茶の長い髪を頬に貼り付けていた。たったいま慌てて身につけたといわんばかりに襟がたわんだ、白いシャツ。ジーンズのウエストはファスナーだけが閉められ、ボタンは留められていなかった。なにより、涼しげな顔をしているくせに息が微かに上がっていた。
明らかにいいところを邪魔してしまったのが見て取れる。この真昼間に。そんな情事の気配を、ありありと滲ませていた。
「あ、ああ、どうも。昨日、隣に越してきたものですが」
男は声を上ずらせながら言った。青年は無表情だったが、不機嫌そうというわけではない。多分、普段からそれほど表情筋を動かすタイプではないのだろう。ただ物憂げに、いささか潤んだ瞳で男を見た。
男は「つまらないものですが」と言って、クッキーの詰め合わせを差し出した。手がいやに汗ばんでいて、動悸がする。包装紙が湿ってはいないかと不安になった。
「わざわざどうも。ありがとうございます」
青年が口を開く。涼やかな風に若葉がそっとささめくような、そんな静かな声だった。色のなかった表情が、ふわりと緩む。彼はわずかに瞳を細め、信じられないくらい綺麗に微笑んだ。
男は胸を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。この優しげで綺麗な、痩せた男が、今の今までその腕に女を抱いていたのだ。紅潮した頬に汗と髪を貼り付けて、けれどその微笑はどこか禁欲的でもある。
そのアンバランスな危うさに、男は不覚にも欲をそそられてしまったのだ。
*
それからはずっと、春日井甲洋のことばかりを考えていた。
レジ打ちをしているときも、品出しをしているときも。なにをしていても上の空で、何度も計算をミスった。その度に自分の財布から補填しなければならない。初めのうちは口惜しさに腹がたったが、男はそれをあの青年への『お布施』だと思いこむことにした。病気である。
彼とはあのあと一言二言、当たり障りない会話をして、それきりだ。
稀に顔を合わせても、お互い軽い会釈を交わすだけで終わってしまう。同じアパートの、隣に住んでいるというだけの薄い縁に、それでも男は一人のめり込んでいく。
彼とどうにかなりたいとか、そういう生々しい考えには至らなかった。不思議でもなんでもない。男は異性しか愛したことがないし、男を抱いたことも、ましてや抱かれたこともないのだ。想像がつかない。そうやって、まだどこかで戸惑っていることをブレーキにしている。
だけど気づけばぼんやりと、思いを馳せていた。あの瑞々しい青年の色香に。
右隣の隣人へは、引っ越しの挨拶をしそこねていた。
あの足ですぐに訪ねたが、間の悪いことに不在だったのだ。扉の表札には子供のような拙い字で【くるす】と書かれていた。
だけど一度だけ、アパートの通路ですれ違ったことがある。男は夜勤明けで、隣人はちょうど部屋から出てきたところだった。
学生だとは思うが、ギリギリ高校生程度といった幼い顔つきをした少年だった。嗅げばミルクの香りがしそうな、そんなあどけなさがあった。
渡さないままのクッキーは、食器棚の上でほこりをかぶっている。春日井甲洋という青年に出会ってから、そのときすでに二ヶ月が経過していた。夏が終わりかけている。
*
『……あ』
未だ残暑がまとわりつく、ムシムシとした夜だった。
男は少しばかり体調を崩し、その夜は休みをとっていた。汗臭い布団で横になり、とろとろと眠ったり起きたりを繰り返していると、微かな声が聞こえた気がして瞼を開ける。
予感めいたものにギクリと身を強張らせ、息を殺した。
『ん、ぁ……はぁッ、ぁ……!』
薄い壁越しに、上ずった声が聞こえる。男は身体の不調も忘れ、起き上がると壁に身を寄せて耳を押し付けた。左隣。春日井甲洋の部屋だ。そこから、なまめかしい声が聞こえてくる。
こんなことは初めてだ。今まで一度も、こんないやらしい声が聞こえてきたことはなかった。
男は週に二日あるかないかの休みの夜、ほとんどこの部屋を開けている。大体は安い居酒屋の片隅でちびちびと飲み、帰宅するのは午前様だった。
けれど男は今日、幸か不幸かここにいる。本来の休みは明日だ。若いフリーターの男と交換してもらった。
『あッ、あ、ぁ! だめ、それ……ダメ、やぁ、ァ!』
ひときわ大きな声が上がった。男の皮膚がゾクリと粟立つ。薄い壁一枚を隔てた向こう側で、春日井甲洋が情事に耽っている。その事実に興奮して、頭に血がのぼっていく。
そして何より、この声は男性のものだ。女のようにすすり泣いてはいるが、確かに。
(彼、が……抱かれているのか?)
心臓が口から飛び出してきそうなほどに、激しく高鳴る。彼とはたった一度、会話をしただけだ。口数が少なく、印象深い内容など一つもない。だからこれが仮に彼の声だったとしても、男には判別がつかないのだ。
だけど、どちらにせよ。
男と寝るのだ。春日井甲洋という青年は。
なら、自分とだって──。
『ひゃっ……ぁ……あっ! ァ……こう、よう……甲洋……ッ!』
「ッ……!」
瞬間、男は息を飲む。そのひゅうという音がいやに大きく感じられ、思わず片手で口を押さえた。
甲洋、と。この甘えたように啼く声の主は、確かに呼んだ。追い打ちをかけるように、低く掠れた声が【くるす】と呼ぶ。
全身の毛が逆立つ。ゾワゾワとした感覚に、男は戦慄いた。甲洋とくるす。男の隣人と、隣人。
あの赤ん坊のような香りがしそうな少年を、あの美しい男が犯している。何度も何度も、甘ったるい声でその名を呼びながら、抱いている。
『やあ、ぁ! はっ、おっき、ぃ、んッ……こう、よ、あッ、あ、ァ……ッ!』
『ッ……、来主……平気?』
『ぅ、ん……へい、き……甲洋の、もっとちょうだい』
『──いいよ』
壁がこんなにも邪魔臭いと感じたのは初めてだった。彼は、彼らは、どんなふうに抱き合っているのだろう。春日井甲洋は、どうやってあの少年を愛しているのだろうか。
あえかな悲鳴と、ベッドが軋む音。男は張り詰めた神経で、卑猥な妄想を膨らませる。
『おく、奥まで……ッ、あぅ、ぁっ、ァ、あーッ!』
しなやかな若木を思わせる少年の肉体。上下する薄い胸と、頂にある赤い粒。紅潮する身体を長い両腕に閉じ込めて、春日井甲洋がその高ぶりで小さな丘の谷間を犯す。硬かったはずの蕾は桃の花のように綻んで、若い雄の猛りを食い締めている。
汗ばむ頬。しっとりと張り付く、焦茶の髪。少年がその頬に手を這わせ、濡れた息を弾ませながらキスを強請る。水音。二人分の重みと抽送に軋むベッド。重なる吐息。極致を目指して、ふたつの身体がしなり、もつれる。
男はいつしか自身も高ぶりを覚えていた。淫らな情事が奏でる音と、艶めいた嬌声を餌に。無意味な、けれどあまりにも生々しい想像に辛抱堪らず、取り出した男根を扱き上げる。息を殺し、決して悟られないように。こんなにも刺激的で気持ちのいい自慰は初めてだった。
『ひッ、ぁ…ッ、はぁ、……ッ、ぁ、ぁ、あ……ン……ッ!』
『来主……くるす……』
『も、イッ、く……ッ! いく、こうよ……ッ、あぁ、ひッ、ん!』
『ッ、俺も、イク』
『んっ、ぅん、きて、一緒に……甲洋、ッ、ァ、あ、好き、いっぱい、好き……ッ!』
『俺も、俺もだ──操』
──みさお。
男はふと、手を止めた。
それは懐かしい名前だった。春に、桜が散るよりも早く男の元から去った女。たった一枚の紙切れだけを残して男を捨てた彼女と、同じ名前。
みさお、みさお、みさお──愛していたと思う。多分、きっと。だって、結婚する気でいたくらいの女だったのだから。
だけど、どうしてだろう。一度も考えたことがなかった。彼女がいなくなった理由を。
薄い壁の向こう側で、恋人たちは絶頂を迎えていた。【みさお】が子犬のような甲高い声で鳴く。春日井甲洋が、低く呻いた。忙しなく重なる呼吸がまるで獣じみていて、男はゆっくりと熱が引いていくのを感じた。至ることができなかったのは、自分ひとりだけ。
『大好き……甲洋……あいしてる』
『俺も、愛してる……操』
熱を吐き出せば、あとは冷めきっていくだけだ。けれど彼らは達してなお愛を囁きあっていた。
若い肉体の火は消えない。再び情を交わしはじめた二人の吐息を聞きながら、男はただ呆然と壁にもたれかかり、腕を投げだした。薄い隔たり。違う世界。同じ名前。虚しさに息がつまる。
幻想だ。全て。男は春日井甲洋に不思議な劣情を抱いていた。今は、凪いだ海で仄かな嫉妬と羨望が溺れている。
彼が愛する【みさお】は、少年の形をしていた。
甘い声が、優しい声が、何度も何度も愛の言葉を紡ぎ出す。
(いつからだったかな)
確かにこの腕の中にいたはずの【みさお】に、愛していると言わなくなったのは。
*
壁にもたれかかったまま朝を迎えた。
いつの間にか眠りに落ちていて、気がつけば安物のカーテンから白い光が射していた。
蒸し暑さを残す室内は空気が淀んでいた。男は窓を開けるよりも先に、玄関に向かうと靴を引っ掛け、扉を開けた。
一気に射し込んだ朝日が眩しい。目がくらんで、少し痛い。一步踏み出すより先に、声がした。
「じゃあね甲洋、また後で」
「迎えに行くから。二度寝なんかしてたら、ほっといて先に学校行くよ」
「し、しないよぅ。いじわるー」
春日井甲洋と【くるすみさお】だ。男はドキリとして扉を閉じかけたが、身体が上手く動かなかった。
「来主」
「なに?」
「今日は鎖骨が見えない服を着て」
「え? うん、わかったー!」
眼の前を、少年が横切ろうとする。ドアを開けたまま玄関に立ち尽くす男に気づいて、彼は一瞬歩調を緩めると、丸い目をしながらペコリと軽く会釈をした。ああ、やっぱり、乳臭そうなガキだと思う。
ボーダー柄のシャツから覗く鎖骨には、赤く鬱血した跡がある。それだけが、まるで異質なものに感じられた。
朝日に目を眇める男の視界から少年が消えた。すぐ右隣の部屋のドアが開閉すると、しんと辺りが静まり返る。
男はようやく外へと一步を踏み出した。左隣へ視線をやれば、恋人の背を見送った春日井甲洋が自室のドアノブに手をかけたところだった。
長い髪を緩く一つに結っている。項が白い。性懲りもなく、胸が一瞬ざわついた。
彼は男の視線に気づき、ゆるりとこちらに顔を向けた。その瞳に映る自分は、どんな顔をしていただろう。平静を装っていられただろうか。
薄い唇が緩く笑みを象る。春日井甲洋が、ふわりと笑った。
細められた瞳の透明感。見透かされているような気がして不安になる。男が抱いた劣情も、盗み聞いた秘事も、女に逃げられ、仕事を辞め、寂れたアパートの一室で腐りながらただ生きていることも。
後ろめたさに指先が冷える。薄い氷の上を歩かされているようだ。怖い。ただただ、怖いと思う。
小さな会釈をして、春日井甲洋は開いた扉の先へ姿を消した。
彼が見えなくなって、男は初めて呼吸を止めていたことに気がついた。吸い込んだ息は少しほこりっぽい。軽く咽てから、音を立てて喉を鳴らした。
毒のような男だ。したたかで、甘い毒のような。それは男の中に新しく根付いた幻想に過ぎないのかもしれない。あとに残ったのは、ただの劣等感だった。
*
季節が巡り、春になると、男の両隣の住人は揃ってアパートを出て行った。彼らがどこへ行ったのかは分からない。
ただ、あれから毎年春になると思いだす。
彼は今もどこかで、その腕に【みさお】を抱いているのだろう。
愛していると、何度も何度も囁きながら。
←戻る ・ Wavebox👏