2025/06/16 Mon 事の発端は日野美羽の家に遊びに行ったことだった。 とつぜん訪ねてきた操を玄関先で出迎えたのは美羽の祖母である千鶴で、彼女は申し訳なさそうに「美羽ちゃん、風邪をひいて寝てるのよ」と言った。 風邪。ウイルスによる上気道感染症。咳、咽頭痛、くしゃみ、鼻水、鼻閉、頭痛、発熱、嗄声などが症状として現れる。借り物の知識だが、操も一応は知っていた。 「ひどいの?」 「うぅん。もうほとんどよくはなっているのよ。だけどごめんなさいね。ちゃんと元気になったら、また遊べるようになるから」 「わかった! じゃあおれ、今日は帰るね」 すると廊下の奥から「美羽、だいじょうぶだよ」という、少し掠れた声が聞こえてきた。 「ダメよ。治りかけがいちばん肝心なんだから」 「ずぅっとねてばっかり! 美羽もうあきちゃった! ねぇ、ちょっとだけ。おはなししてもいいでしょ?」 「……言いだすと聞かない子なのよね」 心配そうに眉をひそめる千鶴は、きょとんとした顔で突っ立っている操を少し複雑そうな表情で見つめた。 * 「で、影響を受けて帰ってきたわけ」 ディナータイムの混雑を前に帰ってきた操に、いつものボックス席でショコラに餌をやっていた甲洋が溜息をついた。 ショコラが傍にいる間は彼に近づくことはできないので、操はお気に入りの中央席について両手で頬杖をつくとにっこり笑う。 「うん! だからおれ、風邪ひいてみたいなって!」 「意味がわからない。そもそも、フェストゥムって風邪ひくの?」 「そんなのおれだって分かんないよ。千鶴もまだ分からないって。だけど念のためマスクをくれたよ」 マスク初体験の操はそれが嬉しくて、いまだにそれを装着している。ただ、話すときに声がこもってしまうため、今は顎の下までズラしていた。 「ねーねー、いいでしょ? 風邪ひいてみてもいいでしょ?」 「ひこうと思ってひけるもんじゃないよ」 冷やかにぴしゃりと言いきられてしまい、思わずムッとする。リスのように頬を膨らませた操を見て、甲洋は呆れた様子で二度目の溜息を漏らした。 「なんだってそんな変な気を起こすかな……」 「だってぇ……風邪をひくと、いっぱい甘やかしてもらえるんでしょ? 美羽が教えてくれたよ。千鶴と真矢に、アーンしてリンゴやお粥を食べさせてもらって、たくさん優しくしてもらったってさ!」 美羽は操にそのときの記憶を見せてくれた。リンゴは食べやすいように摩り下ろされていたし、お粥はふうふうと冷まして食べさせてもらっていた。 その光景がとても温かくて幸せそうだったから、つい羨ましくなってしまったのだ。 甲洋は何も言わない。相手にするのも馬鹿らしいとばかりに、ただ足元で食事しているショコラを見つめているだけだった。 業を煮やした操は伸ばした両手の平でテーブルの上をバンバンと叩いた。 「ねぇってばー! おれもあんなふうにされてみたいー!」 「ガウッ!」 いよいよ足までバタつかせはじめた操に、ショコラがドスのきいた声で吠えたてる。 「うひゃあっ!? な、なに!?」 「うるさいって」 「だ、だからって急に吠えないでよ! 甲洋の意地悪!」 「今のは俺がけしかけたんじゃないだろ」 甲洋は三度目の溜息を漏らしたあと席を立つと、中央席までやって来て縮こまっている操を見下ろした。何を考えているか読みにくい表情はいつものことだが、今日は普段と様子が違う気がする。 なにが、というわけではないのだが、そこはかとない違和感を覚えた。 (あれ……甲洋、もしかして怒ってる?) 操にはまだ人間の複雑な心の機微を完全に理解することは難しい。甲洋はもはや存在だけなら人ではないが、人であった頃の記憶や感覚を十分すぎるほど有している。だからその思考を読み取ったとしても、完全に理解することは困難な場合が多かった。 しかも彼はいま、心に厚い壁を張り巡らせている。触れたくても触れられなくて、まるで取りつく島がない状態だ。 「ね、ねぇ甲洋……?」 「わかった」 「へ?」 「風邪をひきたいんだろ? 実際は無理でも、気分くらいなら味わわせてあげる」 「え、ちょっ、ちょっと! な、なになに~!?」 甲洋の腕が伸びてきて、まるで猫の子を扱うように首根っこを掴まれる。そのまま強く引き上げられ、ズルズルと二階の居住スペースまで連れて行かれた。 * 甲洋の部屋に連れてこられた操は、いつも寝間着にしているシャツとハーフパンツに着替えさせられると、ベッドに半ば強制的に押し込まれた。 「熱はないだろうけど、とりあえず測るよ」 どこからか取りだしてきた体温計を、口の中に突っ込まれる。その間に甲洋はいったん部屋を出て、水を張った洗面器とタオルを持って戻ってきた。 それを机の上に置き、水に浸したタオルを絞ると操の額に置く。するとちょうどそのタイミングで体温計が電子音を響かせた。 「36度5分。普通、かな。でも今は風邪っぴきの設定だから、38度ってことにしておこうか」 「甲洋ぉ。ねえ、怒ってる?」 「別に。お前の望み通りにしたいだけだよ」 「だってなんか……ピリピリしてる」 心を読めなくたって、甲洋がまとう空気がどこか刺々しいことくらい理解できる。 なんの考えもなしに我儘を言ってしまったけれど、流石に不味かったかとここにきて後悔しはじめた。 「やっぱいい。おれ、風邪ひくのやめた」 額からタオルを毟り取るようにしながら半身を起こす。するとすかさず甲洋が「こら」と言って額を小突いてきた。 「あう」 不意打ちに傾いた身体を押され、またベッドに寝かされてしまう。 「寝てなきゃダメだろ。しっかり横になってないと、治るものも治らない」 「だからー、もういいんだってばー」 「ダメだ」 はだけた毛布を綺麗にかけなおし、タオルを再び額に乗せながら言う甲洋は、表面上はいつも通りに見えるものの、その言葉からは有無を言わさぬ圧を感じる。 なんだか取り返しのつかないことになってしまった。そんな気がして不安になる。 「じゃあ俺は仕事に戻るから。いい子で寝てなよ」 甲洋は操の顎の下に引っかかっていたマスクに指先を伸ばし、鼻の上までちゃっかり引き上げるとその場を離れようとする。 「ま、待って! おれ、いつまでこうしてればいいの?」 「治るまで」 「それっていつ? 晩ご飯の時間になったら終わりにしていい?」 今夜の一騎カレーはシーフードカレーなのだ。操の皿に、エビを沢山入れてくれると約束している。今こうしてる間にも、魚介のいい香りがここまで漂ってきては腹の虫を刺激してやまない。 「来主、まさかカレー食べる気?」 「そうだよ? ダメ?」 「ダメに決まってるだろ。風邪ひいてるときは、刺激物は避けないと」 「えー!?」 青褪めて飛び起きた操に背を向け、甲洋はそれ以上なにも言わず部屋を出て行ってしまった。 「そ、そんなぁ~……」 あまりの絶望に、へなへなと力が抜ける。ぼふんと音を立ててベッドに仰向けになると、お腹がぐぅと悲しげな鳴き声をあげた。 「甲洋の……意地悪……」 心なしか、天井がぼやけて見えた。 * そこからの時間はひたすら地獄だった。 漂ってくるシーフードカレーの香りだとか、下の階からワイワイガヤガヤという楽しそうな声が聞こえてきて、操は毛布をかぶると身体を丸めてメソメソと泣いた。 するといつの間にか眠っていたらしく、気づけば辺りは静まり返っていた。 (寝ちゃってた……) 目元を擦りながら起き上がる。眠っている間にタオルは床に落ち、マスクは外れて行方不明になっていた。暗がりで辺りに手を這わせて探してみるが、見つからない。 灯りが必要だと気づき、ヘッドボードに備え付けられている間接照明に手を伸ばす。スイッチを押すと暖色の光が室内を照らして、ボードにスポーツドリンクと水が置かれていることに気がついた。 そういえば美羽の枕元にも、いつでも水分補給ができるようにとこれらが置かれていたのを思いだす。 (甲洋、忙しいのに様子を見に来てくれたんだ) 時計に目をやると、時刻は二十二時を過ぎていた。一騎たちは明日の仕込みを終えて、すでに帰宅している頃だ。 途端に寂しさが込み上げてくる。甲洋はまだ戻って来ない。このまま顔を合わせることなく今日が終わってしまうのだとしたら、とても悲しい。 本当は、この部屋に一人でいるのはあまり好きじゃない。下の階とは異なり、ここにはどこか寂しい記憶が身を潜めている。持ち主の心と同じく、幾重にも蓋を重ねてその輪郭を曖昧なものにしているけれど、隠しきれずにじんわりと滲み出たそれが足元から這い上がってくるのを、操の心は敏感に感じ取ってしまうのだ。 「来主、調子はどう?」 そのときそっと扉が開いて、会いたかった人物がひょっこりと顔を出した。 「甲洋!」 その姿を見て操は涙ぐみ、縋るような瞳で彼を見上げる。 よかった。ちゃんと戻って来てくれた。 「なんて顔してるのさ」 「うぅ……だってぇ……」 情けない声をだす操にふっと笑った甲洋は、手にレンゲが刺さった木の器を持っている。そこからほのかに湯気が立っているのを見て、操は目を瞬かせた。 「遅くなってごめん。お腹空いただろ?」 「もしかしてそれお粥?」 甲洋は机から椅子を引き寄せ、すぐ傍に腰を下ろすと「そうだよ」と言った。 器の中身は玉子粥だった。美羽に見せてもらったイメージと同じ。ふわふわしていて、柔らかそうで、優しい匂いがしている。 「わぁ……! これ、君が作ってくれたの!?」 「余り物のご飯でね」 「嬉しい!」 万歳をして喜ぶ操の横で、甲洋は膝に置いた器の中身をレンゲですくい、息を吹きかけて冷ましはじめた。 そわそわしながら見守っていると、ある程度まで冷まされたそれが口元まで運ばれる。 「はい」 夢にまで見たアーンの瞬間だ。操は目を輝かせ、大きな口を開けてレンゲにかぶりつく。 「どう?」 「んぐっ、ん~! うん、美味しい!」 水分を多く含んだ米が口のなかで蕩けて広がる。ほのかな塩気と玉子の風味が優しくて、ほっとするような味だった。 「あったかくてほわほわしてて、甲洋の味がする」 「なんだそれ」 にっこり笑って頬を両手で包み込みながら感想を述べると、甲洋は少し照れたように微笑んだ。 あのヒリついた最初の空気はどこかに消えて、今はこのほかほかと湯気をたてるお粥のように、温かさが部屋の中を満たしているような気がする。 空き腹に温もりが広がるのと一緒に、操の心も安堵に包まれた。 甲洋は次から次へとお粥を冷まし、せっせと操の口に運んだ。 今がずっと続けばいいのにと、噛まずとも飲み込めるくらい柔らかいそれをじっくりと時間をかけて咀嚼する。けれど器の中身は順調に減り、操の胃袋も満たされてしまった。 甲洋は最後の一口まで律儀に息を吹きかけて食べさせると、レンゲごと空になった器をヘッドボードに置く。それから、お腹をさすって息をつきながら「ご馳走様」と言った操の表情を、小首を傾げながら覗き込んできた。 「これで合ってた?」 「ん? なにが?」 「来主が望んでいたこと」 甲洋はいつも通り口数が少なく、相変わらず心を閉じている。表情にもこれといって変化は見られないのだが、どこか不安そうに感じられるのはなぜだろう。 「うん。してほしかったことしてもらえて、嬉しかった。ありがと」 「そう」 素直な気持ちを伝えると、甲洋はホッとしたようにやんわりと笑みを浮かべる。どうしてかそれがとても弱々しいものに思えて、操は無意識に彼の腕へ手を伸ばすとそっと触れた。 「甲洋」 「少し休んだら身体を拭いてあげる。風邪をひいているときは、お風呂に入れないから」 「え?」 甲洋は操の手からさりげなく逃れるようにして立ちあがると、空になった器を持って部屋を出て行こうとする。 「もしかしてこれ、まだ続くの?」 「当然。そんなにすぐに治るもんじゃないからね」 「えぇ~! もういいよぉ~!」 不満も露わに顔を顰めても、甲洋は何食わぬ顔でさっさと出て行ってしまった。 * 風邪。多くは完治までに一週間から十日を要し、場合によってはそれ以上長引くこともある。 それを踏まえると、この状態は最低でもあと一週間は続くことになるのだろうか。 カレーも食べられない。外も出歩けない。ずっと寝てなくてはいけない。美羽が「飽きた」と言って千鶴を困らせていたのが、今なら嫌というほど理解できる。 「ねぇ甲洋……おれもう飽きちゃったよ。だから風邪は終わりにしていいでしょ?」 今、操はベッドの縁に腰かけ、シャツを脱ぎ捨てて背中を蒸しタオルで丁寧に拭かれている。 背後で膝をついている甲洋は聞いているのかいないのか、何も言わずに黙々と手を動かしていた。 「ねぇ~、甲洋~」 「ほら、万歳して。脇が拭けない」 ベッドから下りて、甲洋が正面に回り込んできた。床に膝をついて操の両足を割り、開いたスペースに身体を割り込ませてくる。そして唇を尖らせながらも素直に従った操の右脇腹に、タオルを滑らせた。 「んっ!」 思わず肩が跳ねる。甲洋は「動かないで」と短く命じ、もう片方の手を反対側の脇腹に這わせると、ぐっと掴むようにして固定した。 「うひゃ、ぁ! ま、待って、それ、くすぐった……っ」 無防備な素肌の上を、温かなタオル越しに甲洋の手が丹念に行き来する。脇腹のくぼみをなぞられると、身体が大きく跳ねあがった。 「うぅ、ぁ……なん、か、やだぁ……」 顔を背け、頬を真っ赤にしていると、甲洋の溜息が鎖骨の辺りにふわりとかかった。 「身体、拭いてるだけなんだけど?」 「わ、わかってるよぉ」 甲洋にそんな意図はない。分かっている。そして、相手にその気がないのに身体が反応してしまうのは、多分きっと、とても恥ずかしいことなのだ。 (でも、なんか変な感じになってきちゃった……) ふと、仮にこれが一週間も──あるいはそれ以上──続くのだとしたら、夜のアレもお預けになるのだろうかと考える。 操は一騎や総士たちと共に過ごす時間も好きだが、甲洋とふたりきりで裸になって身体を重ねる時間も大好きだ。こんなふうに一緒にいられるだけでも幸せだと感じるけれど、アレはもっと深くて、心の奥まで繋がれるような気がするから。 彼に触れられるとどこもかしこも熱くなって、身も心もゼリーのようにドロドロになってしまいそうになる。あの瞬間が、たまらなく気持ちいい。 「甲洋……風邪ひいてるときは、しない、の?」 「なにを」 「んッ……エッチなこと、したらダメなの?」 甲洋の手が一瞬だけピタリと止まる。彼は微かに声を上ずらせ「当たり前だ」と言ってまた手を動かし始めた。 操は思わず下唇を噛みながら涙ぐむ。もしかしたら、一騎カレーを食べ損ねたときよりずっと辛いかもしれない。 「余計なことは考えなくていい。来主は風邪をひいてるんだから」 「だから、それはもう……ぁ、ひゃうッ」 左側の脇腹もタオルで拭かれる。思わず腰が捩れたところで、甲洋の指先が薄っぺらい胸から腹筋にかけてをつうっとなぞった。臍の窪みを爪の先で引っ掻くようにされると、下半身にピリピリとした痺れが走る。 「くぅッ、ん!」 堪え切れず身体をくの字に屈めると、ちょうど甲洋の肩に額を押し付ける形になる。彼はほんの少しだけ語尾を掠れさせながら「ほら、しゃんとして」と言って、丸まった操の背中を触れるか触れないかの絶妙な力加減でゆるゆると摩った。 (絶対、わざとだ!) 操はヒクヒクと震えながら甲洋の首にしがみつくと泣きべそをかいた。 「も、やだッ……!」 「こんなに優しくしてるのに。何が嫌だって?」 「なんでそんな意地悪するの!?」 操は甲洋の首にしがみついたまま、その唇に噛みつくようなキスをした。彼はそれを黙って受け止め、捻じ込まれた舌を好きなようにさせる。 『応えて。ねぇお願い』 受け身の姿勢を崩さない甲洋の舌に自分のものを擦りつけながら、心の中に訴えかける。すると頑なだった壁の繋ぎ目に、微かな解れが生じた気がした。 ぬるりと動きだした舌に口腔を舐められる。ゾクリとした感覚が背筋を駆け抜け、上気する肌が粟立った。 「ふぁ、ん……ッ、ぁ……うれし……」 悪戯に弄ぶくせに頑なだった甲洋が、やっと応えてくれた。それが嬉しくて、操は高ぶった気持ちのままに彼の頭部に手を這わせ、頭皮に緩く爪を立てながら掻き乱す。 重なり合う唇の合間から、甲洋が漏らした息が甘い。はしたない水音が室内の空気を湿らせていく。 肩と腰を抱き寄せられると、いよいよ感極まって涙が滲んだ。 どれくらい貪り合っていたのか、いっそ舌や唇に痺れを感じるほどになると、糸を引きながら長いキスが終わった。 思考が蕩けたようになって、身体に力が入らない。くったりとその胸にもたれかかると、甲洋は操の身体を抱えたままベッドに乗り上げ、四つん這いで覆いかぶさってくる。 ちゃんと続きをしてくれる気があるのだと分かって、また嬉しさが増す。 「下、脱いでて」 甲洋は短く命じると手を伸ばし、ベッド脇の棚の一番下からベビーローションを取りだした。 安堵と期待で胸を膨らませた操は頷いて、言われた通りイモムシのようにモゾモゾとした動きで下着ごとハーフパンツを脱ぎ捨てる。微かに形を変えている未成熟な性器が、そのはずみでぷるんと揺れた。 そうしている間に、甲洋はボトルのキャップを開けて中身を手の平に出していた。操は両手を胸に押し付け、ドキドキと胸を高鳴らせながらその光景を見つめていたが、立てていた両膝を割られて内腿にぬるりとした感触を覚えた瞬間、身体を大きく震わせた。 「つめたっ! ぁ、え?」 両の内腿にたっぷりとローションを塗りたくられ、思わず目を白黒させる。 「な、なにしてるの?」 戸惑いながら見上げれば、甲洋はふっと笑って「足を閉じて」と言う。 訳が分からなかったが、操は素直に頷くと濡れた両腿をぴったりと合わせた。 「ぅえ、気持ち悪いよこれ……」 「お前に無理をさせないための、妥協案だよ」 「なにそれ、どういう?」 「今日はこれで我慢して」 頭上にハテナマークを浮かべたまま首を傾げていると、甲洋は少し荒っぽくシャツを脱ぎ捨て、前を寛げると自身を取りだした。ついているものは同じはずなのに、大きさだとか生えている毛の量だとか、形も微妙に違っているから不思議だ。これを見るといつも心臓が大きく跳ねあがって、どうしてか恥ずかしいような気持ちになってしまう。 けれど今日は普段と様子が違っていた。いつもローションを使うはずの場所はほうっておかれているし、まさかこんな状態で挿れるつもりなのだろうか。 不安と戸惑いの目を向ける操に笑いかけ、甲洋はぴったりと閉じている両腿に自身の先端を潜り込ませた。 「えっ、え!?」 思わず肘をついて半身を起こすと、咄嗟に緩んだ両の膝頭をそれぞれ掴まれてぴったりと固定された。内腿にずぶずぶと硬くて長いものが挿入されて、何が行われようとしているのか理解できずに混乱する。 「ねぇ、なにするの!? そこはお尻じゃないよ!」 「知ってるよ」 甲洋は掴んでいた膝頭から、今度は膝裏に手を滑り込ませた。ぐいと強く押して操の身体を折り曲げると、まるで挿入しているかのように抽挿を開始する。 「な、なに? なにこれ!?」 耳を塞ぎたくなるようないやらしい音に合わせて、密着した内腿の間を甲洋のものが行き来する。揺さぶられる動きに合わせて、足の先が空中で揺れた。 「や、やだこれ! なんか変だよ……ッ! ねぇ甲洋!」 どうしてだろう。とてもいけないことをしている気がする。腿の肉が擦られていくうちに、そこから不可思議な熱が広がっていくのを感じた。 「あッ、あつ、い……ッ、や、これやだっ、おれこれ好きじゃない! お尻がいいよぉ……!」 こんなに激しく揺さぶられているのに。甲洋の熱を感じるのに。欲しい場所とはまるで別の場所を犯されている。これじゃ気持ちよくなんてなれないはずなのに。 口では嫌だ嫌だと繰り返しながら、操の気分は激しく高揚していった。 「やぁ、あッ、だめ! そこ、擦れちゃ……あ、ぁ──ッ」 甲洋が体重をかけて狙いを定めると、操の勃起した性器にそれが当たる。ぷるぷるとした柔らかな袋を押しつぶすようにしながら、零れたローションと先走りに濡れる竿が擦れた。何度も何度も行き来して、競りあがる快感に頭がどうにかなりそうだ。 『来主の太腿、やわくてすごく気持ちいい』 「やだ、言わないで! 今はダメ、心の中、あっ、くぅ、ん! ぁ、ダメ、だか、らっ」 『可愛い』 そうやって、普段は滅多に口で言わないようなことを平然と囁くから性質が悪い。恥ずかしくて嬉しくて、泣きたくなる。こんなふうに心をぐずぐずに溶かされてしまうと、快感が何倍にも膨らんでしまうから、少し怖くも感じてしまうのだ。 『挿れたい。来主のナカに』 「おれも、おれも欲しい! 甲洋の、いれてほしい!」 『……でも、ダメ』 なんて酷い。我儘なんか言わなきゃよかった。風邪なんて、ちっとも楽しくない。 「ひうぅ、あッ……! い、っく、こうよ、気持ちいの、くる……っ!」 「ぁ、は……ッ、俺、も」 声なき悲鳴をあげて、操は背を反らしながら打ちあげられた。甲洋もそれに続いて腰を震わせ、二人分の白濁が腹の上に吐きだされる。 押し上げていた両足を解放しながら、息を荒げる甲洋が操の上に身体を沈めた。重なる素肌が放ったものでぬるりと音を立てるが、尾を引く余韻のせいで気にしている余裕がない。 互いにはくはくと忙しない息を漏らしながら、キスの代わりに額を押し付け合う。すると、混濁する意識の中に静止画のようなイメージが幾つも流れ込んできた。 「ッ!」 (これ、なに……?) これは甲洋の記憶と感情だ。この部屋に潜む、凍りつくような寂しさと痛みの根源。操は今、その一端に触れようとしている。 今より幼い彼は苦しそうに息を乱し、激しく咳をして震えながらベッドで丸くなっている。身体中がピリピリと痛んで、寒くて辛くて堪らない。 喉が渇いてお腹が空っぽのような気がするけれど、声を出すどころか起き上がることすらできなかった。 誰か傍にいてほしい。背中を摩ってほしい。手を握っていてほしい。声が聞きたい。一人は嫌だ。下の階から笑い声が聞こえる。父が冗談を言い、母が笑う。彼らの中に『俺』はいない。 諦念に胸を染めながら、それでも薄暗い部屋の扉が開かれるのを待っている。だけど誰もいない。誰も来ない。ここには、誰も──。 「……ごめん」 重ねていた額を離し、甲洋が短く謝罪する。操は両腕で彼の頭を抱きしめた。 「なんで謝るの?」 「見せるつもりはなかった」 「うん。でも、おれは知れてよかった。甲洋は自分のこと、何も話してくれないから」 玉子粥を食べさせくれたあと、彼がどうして不安そうにしていたのか。それが少し、わかった気がする。あれは彼なりの答え合わせだったのだ。 「君、知らなかったんだ。自分がしてもらったことないから」 どんなに辛くても、苦しくても、彼はたった一人で耐え忍ぶより術がなかった。甘やかされたことがないから、甘やかし方が分からなかった。誰よりも優しいくせに、本当は不器用で。 操はあの暗く寂しい記憶に思いを馳せながら、胸が締め付けられるように痛むのを感じた。借り物の知識の引き出しから、この感情につける名前を探ってみる。同情、という言葉が浮かび上がったけれど、なぜかしっくりこなかった。 「わっ、ちょっと、なに?」 操は両腕で力の限り甲洋を抱きしめた。流石に苦しかったのか、両手をついて身体を浮かそうとするのを許さず、離れようとすればするほど強く抱きしめて頬ずりをする。 「苦しいって」 「今お返ししてるんだから、じっとしててよ」 「お返しってなんの」 「がんばってくれたお返し。今度はおれがいっぱい甘やかしてあげる!」 ついには焦茶の癖毛を両手でわしゃわしゃと撫でまわした。よく甲洋がショコラにやっているのを思いだしたからだ。そのイメージが伝わってしまったのか、彼が複雑そうに眉を寄せるのが分かる。 だけど別に構わなかった。甲洋はショコラに無償の愛を注いでいる。形は違うけど、これも同じだ。ただひたむきな愛おしさが、ここにもあるということを知ってほしかった。 甲洋はもう壁を取り払っていて、操はそのいちばん柔らかな場所に触れている。きっとそこは誰も触れたことのない場所で、触れてはいけない場所で、だけどそれを許してくれているのが分かるから。 だから全部あげたいと思った。自分が持っているもの、できること、全部をあげたい。 そうしたらきっと、甲洋はもう寂しくない。寂しくなんか、させてやらない。 「君がしてほしかったこと、これからは全部、おれにさせてね」 最後にもう一度ぎゅうっと抱きしめて、柔らかな癖毛に思いきり唇を押しつけた。甲洋は観念したように身体から力を抜き、ふっと笑う。大人しく身を預け、操の首筋に甘えるように額を軽く擦りつけてよこした。 「……来主はさ」 「なぁに」 「バカみたいに元気でいる方が、似合ってるよ」 「えへへ。うん、おれもそう思う」 本当に、心の底から。風邪なんてひくもんじゃない。実際にひいていたわけではないけれど、多分きっと操が思っている以上に辛いし、その間はこんなふうに彼を抱きしめることだってできないのだ。 「ね、ところでさ、甲洋」 「なに」 焦茶の頭をもうひと撫でしてから、操は僅かに身じろいだ。汗と精液とローションと。流石に少し、気になってきた。 「お風呂はいって、もっかいしよ。今度はちゃんとさ」 それは甲洋も同じだったようで、彼は肩をすくめると「同感だ」と言って苦笑した。 ←戻る ・ Wavebox👏
とつぜん訪ねてきた操を玄関先で出迎えたのは美羽の祖母である千鶴で、彼女は申し訳なさそうに「美羽ちゃん、風邪をひいて寝てるのよ」と言った。
風邪。ウイルスによる上気道感染症。咳、咽頭痛、くしゃみ、鼻水、鼻閉、頭痛、発熱、嗄声などが症状として現れる。借り物の知識だが、操も一応は知っていた。
「ひどいの?」
「うぅん。もうほとんどよくはなっているのよ。だけどごめんなさいね。ちゃんと元気になったら、また遊べるようになるから」
「わかった! じゃあおれ、今日は帰るね」
すると廊下の奥から「美羽、だいじょうぶだよ」という、少し掠れた声が聞こえてきた。
「ダメよ。治りかけがいちばん肝心なんだから」
「ずぅっとねてばっかり! 美羽もうあきちゃった! ねぇ、ちょっとだけ。おはなししてもいいでしょ?」
「……言いだすと聞かない子なのよね」
心配そうに眉をひそめる千鶴は、きょとんとした顔で突っ立っている操を少し複雑そうな表情で見つめた。
*
「で、影響を受けて帰ってきたわけ」
ディナータイムの混雑を前に帰ってきた操に、いつものボックス席でショコラに餌をやっていた甲洋が溜息をついた。
ショコラが傍にいる間は彼に近づくことはできないので、操はお気に入りの中央席について両手で頬杖をつくとにっこり笑う。
「うん! だからおれ、風邪ひいてみたいなって!」
「意味がわからない。そもそも、フェストゥムって風邪ひくの?」
「そんなのおれだって分かんないよ。千鶴もまだ分からないって。だけど念のためマスクをくれたよ」
マスク初体験の操はそれが嬉しくて、いまだにそれを装着している。ただ、話すときに声がこもってしまうため、今は顎の下までズラしていた。
「ねーねー、いいでしょ? 風邪ひいてみてもいいでしょ?」
「ひこうと思ってひけるもんじゃないよ」
冷やかにぴしゃりと言いきられてしまい、思わずムッとする。リスのように頬を膨らませた操を見て、甲洋は呆れた様子で二度目の溜息を漏らした。
「なんだってそんな変な気を起こすかな……」
「だってぇ……風邪をひくと、いっぱい甘やかしてもらえるんでしょ? 美羽が教えてくれたよ。千鶴と真矢に、アーンしてリンゴやお粥を食べさせてもらって、たくさん優しくしてもらったってさ!」
美羽は操にそのときの記憶を見せてくれた。リンゴは食べやすいように摩り下ろされていたし、お粥はふうふうと冷まして食べさせてもらっていた。
その光景がとても温かくて幸せそうだったから、つい羨ましくなってしまったのだ。
甲洋は何も言わない。相手にするのも馬鹿らしいとばかりに、ただ足元で食事しているショコラを見つめているだけだった。
業を煮やした操は伸ばした両手の平でテーブルの上をバンバンと叩いた。
「ねぇってばー! おれもあんなふうにされてみたいー!」
「ガウッ!」
いよいよ足までバタつかせはじめた操に、ショコラがドスのきいた声で吠えたてる。
「うひゃあっ!? な、なに!?」
「うるさいって」
「だ、だからって急に吠えないでよ! 甲洋の意地悪!」
「今のは俺がけしかけたんじゃないだろ」
甲洋は三度目の溜息を漏らしたあと席を立つと、中央席までやって来て縮こまっている操を見下ろした。何を考えているか読みにくい表情はいつものことだが、今日は普段と様子が違う気がする。
なにが、というわけではないのだが、そこはかとない違和感を覚えた。
(あれ……甲洋、もしかして怒ってる?)
操にはまだ人間の複雑な心の機微を完全に理解することは難しい。甲洋はもはや存在だけなら人ではないが、人であった頃の記憶や感覚を十分すぎるほど有している。だからその思考を読み取ったとしても、完全に理解することは困難な場合が多かった。
しかも彼はいま、心に厚い壁を張り巡らせている。触れたくても触れられなくて、まるで取りつく島がない状態だ。
「ね、ねぇ甲洋……?」
「わかった」
「へ?」
「風邪をひきたいんだろ? 実際は無理でも、気分くらいなら味わわせてあげる」
「え、ちょっ、ちょっと! な、なになに~!?」
甲洋の腕が伸びてきて、まるで猫の子を扱うように首根っこを掴まれる。そのまま強く引き上げられ、ズルズルと二階の居住スペースまで連れて行かれた。
*
甲洋の部屋に連れてこられた操は、いつも寝間着にしているシャツとハーフパンツに着替えさせられると、ベッドに半ば強制的に押し込まれた。
「熱はないだろうけど、とりあえず測るよ」
どこからか取りだしてきた体温計を、口の中に突っ込まれる。その間に甲洋はいったん部屋を出て、水を張った洗面器とタオルを持って戻ってきた。
それを机の上に置き、水に浸したタオルを絞ると操の額に置く。するとちょうどそのタイミングで体温計が電子音を響かせた。
「36度5分。普通、かな。でも今は風邪っぴきの設定だから、38度ってことにしておこうか」
「甲洋ぉ。ねえ、怒ってる?」
「別に。お前の望み通りにしたいだけだよ」
「だってなんか……ピリピリしてる」
心を読めなくたって、甲洋がまとう空気がどこか刺々しいことくらい理解できる。
なんの考えもなしに我儘を言ってしまったけれど、流石に不味かったかとここにきて後悔しはじめた。
「やっぱいい。おれ、風邪ひくのやめた」
額からタオルを毟り取るようにしながら半身を起こす。するとすかさず甲洋が「こら」と言って額を小突いてきた。
「あう」
不意打ちに傾いた身体を押され、またベッドに寝かされてしまう。
「寝てなきゃダメだろ。しっかり横になってないと、治るものも治らない」
「だからー、もういいんだってばー」
「ダメだ」
はだけた毛布を綺麗にかけなおし、タオルを再び額に乗せながら言う甲洋は、表面上はいつも通りに見えるものの、その言葉からは有無を言わさぬ圧を感じる。
なんだか取り返しのつかないことになってしまった。そんな気がして不安になる。
「じゃあ俺は仕事に戻るから。いい子で寝てなよ」
甲洋は操の顎の下に引っかかっていたマスクに指先を伸ばし、鼻の上までちゃっかり引き上げるとその場を離れようとする。
「ま、待って! おれ、いつまでこうしてればいいの?」
「治るまで」
「それっていつ? 晩ご飯の時間になったら終わりにしていい?」
今夜の一騎カレーはシーフードカレーなのだ。操の皿に、エビを沢山入れてくれると約束している。今こうしてる間にも、魚介のいい香りがここまで漂ってきては腹の虫を刺激してやまない。
「来主、まさかカレー食べる気?」
「そうだよ? ダメ?」
「ダメに決まってるだろ。風邪ひいてるときは、刺激物は避けないと」
「えー!?」
青褪めて飛び起きた操に背を向け、甲洋はそれ以上なにも言わず部屋を出て行ってしまった。
「そ、そんなぁ~……」
あまりの絶望に、へなへなと力が抜ける。ぼふんと音を立ててベッドに仰向けになると、お腹がぐぅと悲しげな鳴き声をあげた。
「甲洋の……意地悪……」
心なしか、天井がぼやけて見えた。
*
そこからの時間はひたすら地獄だった。
漂ってくるシーフードカレーの香りだとか、下の階からワイワイガヤガヤという楽しそうな声が聞こえてきて、操は毛布をかぶると身体を丸めてメソメソと泣いた。
するといつの間にか眠っていたらしく、気づけば辺りは静まり返っていた。
(寝ちゃってた……)
目元を擦りながら起き上がる。眠っている間にタオルは床に落ち、マスクは外れて行方不明になっていた。暗がりで辺りに手を這わせて探してみるが、見つからない。
灯りが必要だと気づき、ヘッドボードに備え付けられている間接照明に手を伸ばす。スイッチを押すと暖色の光が室内を照らして、ボードにスポーツドリンクと水が置かれていることに気がついた。
そういえば美羽の枕元にも、いつでも水分補給ができるようにとこれらが置かれていたのを思いだす。
(甲洋、忙しいのに様子を見に来てくれたんだ)
時計に目をやると、時刻は二十二時を過ぎていた。一騎たちは明日の仕込みを終えて、すでに帰宅している頃だ。
途端に寂しさが込み上げてくる。甲洋はまだ戻って来ない。このまま顔を合わせることなく今日が終わってしまうのだとしたら、とても悲しい。
本当は、この部屋に一人でいるのはあまり好きじゃない。下の階とは異なり、ここにはどこか寂しい記憶が身を潜めている。持ち主の心と同じく、幾重にも蓋を重ねてその輪郭を曖昧なものにしているけれど、隠しきれずにじんわりと滲み出たそれが足元から這い上がってくるのを、操の心は敏感に感じ取ってしまうのだ。
「来主、調子はどう?」
そのときそっと扉が開いて、会いたかった人物がひょっこりと顔を出した。
「甲洋!」
その姿を見て操は涙ぐみ、縋るような瞳で彼を見上げる。
よかった。ちゃんと戻って来てくれた。
「なんて顔してるのさ」
「うぅ……だってぇ……」
情けない声をだす操にふっと笑った甲洋は、手にレンゲが刺さった木の器を持っている。そこからほのかに湯気が立っているのを見て、操は目を瞬かせた。
「遅くなってごめん。お腹空いただろ?」
「もしかしてそれお粥?」
甲洋は机から椅子を引き寄せ、すぐ傍に腰を下ろすと「そうだよ」と言った。
器の中身は玉子粥だった。美羽に見せてもらったイメージと同じ。ふわふわしていて、柔らかそうで、優しい匂いがしている。
「わぁ……! これ、君が作ってくれたの!?」
「余り物のご飯でね」
「嬉しい!」
万歳をして喜ぶ操の横で、甲洋は膝に置いた器の中身をレンゲですくい、息を吹きかけて冷ましはじめた。
そわそわしながら見守っていると、ある程度まで冷まされたそれが口元まで運ばれる。
「はい」
夢にまで見たアーンの瞬間だ。操は目を輝かせ、大きな口を開けてレンゲにかぶりつく。
「どう?」
「んぐっ、ん~! うん、美味しい!」
水分を多く含んだ米が口のなかで蕩けて広がる。ほのかな塩気と玉子の風味が優しくて、ほっとするような味だった。
「あったかくてほわほわしてて、甲洋の味がする」
「なんだそれ」
にっこり笑って頬を両手で包み込みながら感想を述べると、甲洋は少し照れたように微笑んだ。
あのヒリついた最初の空気はどこかに消えて、今はこのほかほかと湯気をたてるお粥のように、温かさが部屋の中を満たしているような気がする。
空き腹に温もりが広がるのと一緒に、操の心も安堵に包まれた。
甲洋は次から次へとお粥を冷まし、せっせと操の口に運んだ。
今がずっと続けばいいのにと、噛まずとも飲み込めるくらい柔らかいそれをじっくりと時間をかけて咀嚼する。けれど器の中身は順調に減り、操の胃袋も満たされてしまった。
甲洋は最後の一口まで律儀に息を吹きかけて食べさせると、レンゲごと空になった器をヘッドボードに置く。それから、お腹をさすって息をつきながら「ご馳走様」と言った操の表情を、小首を傾げながら覗き込んできた。
「これで合ってた?」
「ん? なにが?」
「来主が望んでいたこと」
甲洋はいつも通り口数が少なく、相変わらず心を閉じている。表情にもこれといって変化は見られないのだが、どこか不安そうに感じられるのはなぜだろう。
「うん。してほしかったことしてもらえて、嬉しかった。ありがと」
「そう」
素直な気持ちを伝えると、甲洋はホッとしたようにやんわりと笑みを浮かべる。どうしてかそれがとても弱々しいものに思えて、操は無意識に彼の腕へ手を伸ばすとそっと触れた。
「甲洋」
「少し休んだら身体を拭いてあげる。風邪をひいているときは、お風呂に入れないから」
「え?」
甲洋は操の手からさりげなく逃れるようにして立ちあがると、空になった器を持って部屋を出て行こうとする。
「もしかしてこれ、まだ続くの?」
「当然。そんなにすぐに治るもんじゃないからね」
「えぇ~! もういいよぉ~!」
不満も露わに顔を顰めても、甲洋は何食わぬ顔でさっさと出て行ってしまった。
*
風邪。多くは完治までに一週間から十日を要し、場合によってはそれ以上長引くこともある。
それを踏まえると、この状態は最低でもあと一週間は続くことになるのだろうか。
カレーも食べられない。外も出歩けない。ずっと寝てなくてはいけない。美羽が「飽きた」と言って千鶴を困らせていたのが、今なら嫌というほど理解できる。
「ねぇ甲洋……おれもう飽きちゃったよ。だから風邪は終わりにしていいでしょ?」
今、操はベッドの縁に腰かけ、シャツを脱ぎ捨てて背中を蒸しタオルで丁寧に拭かれている。
背後で膝をついている甲洋は聞いているのかいないのか、何も言わずに黙々と手を動かしていた。
「ねぇ~、甲洋~」
「ほら、万歳して。脇が拭けない」
ベッドから下りて、甲洋が正面に回り込んできた。床に膝をついて操の両足を割り、開いたスペースに身体を割り込ませてくる。そして唇を尖らせながらも素直に従った操の右脇腹に、タオルを滑らせた。
「んっ!」
思わず肩が跳ねる。甲洋は「動かないで」と短く命じ、もう片方の手を反対側の脇腹に這わせると、ぐっと掴むようにして固定した。
「うひゃ、ぁ! ま、待って、それ、くすぐった……っ」
無防備な素肌の上を、温かなタオル越しに甲洋の手が丹念に行き来する。脇腹のくぼみをなぞられると、身体が大きく跳ねあがった。
「うぅ、ぁ……なん、か、やだぁ……」
顔を背け、頬を真っ赤にしていると、甲洋の溜息が鎖骨の辺りにふわりとかかった。
「身体、拭いてるだけなんだけど?」
「わ、わかってるよぉ」
甲洋にそんな意図はない。分かっている。そして、相手にその気がないのに身体が反応してしまうのは、多分きっと、とても恥ずかしいことなのだ。
(でも、なんか変な感じになってきちゃった……)
ふと、仮にこれが一週間も──あるいはそれ以上──続くのだとしたら、夜のアレもお預けになるのだろうかと考える。
操は一騎や総士たちと共に過ごす時間も好きだが、甲洋とふたりきりで裸になって身体を重ねる時間も大好きだ。こんなふうに一緒にいられるだけでも幸せだと感じるけれど、アレはもっと深くて、心の奥まで繋がれるような気がするから。
彼に触れられるとどこもかしこも熱くなって、身も心もゼリーのようにドロドロになってしまいそうになる。あの瞬間が、たまらなく気持ちいい。
「甲洋……風邪ひいてるときは、しない、の?」
「なにを」
「んッ……エッチなこと、したらダメなの?」
甲洋の手が一瞬だけピタリと止まる。彼は微かに声を上ずらせ「当たり前だ」と言ってまた手を動かし始めた。
操は思わず下唇を噛みながら涙ぐむ。もしかしたら、一騎カレーを食べ損ねたときよりずっと辛いかもしれない。
「余計なことは考えなくていい。来主は風邪をひいてるんだから」
「だから、それはもう……ぁ、ひゃうッ」
左側の脇腹もタオルで拭かれる。思わず腰が捩れたところで、甲洋の指先が薄っぺらい胸から腹筋にかけてをつうっとなぞった。臍の窪みを爪の先で引っ掻くようにされると、下半身にピリピリとした痺れが走る。
「くぅッ、ん!」
堪え切れず身体をくの字に屈めると、ちょうど甲洋の肩に額を押し付ける形になる。彼はほんの少しだけ語尾を掠れさせながら「ほら、しゃんとして」と言って、丸まった操の背中を触れるか触れないかの絶妙な力加減でゆるゆると摩った。
(絶対、わざとだ!)
操はヒクヒクと震えながら甲洋の首にしがみつくと泣きべそをかいた。
「も、やだッ……!」
「こんなに優しくしてるのに。何が嫌だって?」
「なんでそんな意地悪するの!?」
操は甲洋の首にしがみついたまま、その唇に噛みつくようなキスをした。彼はそれを黙って受け止め、捻じ込まれた舌を好きなようにさせる。
『応えて。ねぇお願い』
受け身の姿勢を崩さない甲洋の舌に自分のものを擦りつけながら、心の中に訴えかける。すると頑なだった壁の繋ぎ目に、微かな解れが生じた気がした。
ぬるりと動きだした舌に口腔を舐められる。ゾクリとした感覚が背筋を駆け抜け、上気する肌が粟立った。
「ふぁ、ん……ッ、ぁ……うれし……」
悪戯に弄ぶくせに頑なだった甲洋が、やっと応えてくれた。それが嬉しくて、操は高ぶった気持ちのままに彼の頭部に手を這わせ、頭皮に緩く爪を立てながら掻き乱す。
重なり合う唇の合間から、甲洋が漏らした息が甘い。はしたない水音が室内の空気を湿らせていく。
肩と腰を抱き寄せられると、いよいよ感極まって涙が滲んだ。
どれくらい貪り合っていたのか、いっそ舌や唇に痺れを感じるほどになると、糸を引きながら長いキスが終わった。
思考が蕩けたようになって、身体に力が入らない。くったりとその胸にもたれかかると、甲洋は操の身体を抱えたままベッドに乗り上げ、四つん這いで覆いかぶさってくる。
ちゃんと続きをしてくれる気があるのだと分かって、また嬉しさが増す。
「下、脱いでて」
甲洋は短く命じると手を伸ばし、ベッド脇の棚の一番下からベビーローションを取りだした。
安堵と期待で胸を膨らませた操は頷いて、言われた通りイモムシのようにモゾモゾとした動きで下着ごとハーフパンツを脱ぎ捨てる。微かに形を変えている未成熟な性器が、そのはずみでぷるんと揺れた。
そうしている間に、甲洋はボトルのキャップを開けて中身を手の平に出していた。操は両手を胸に押し付け、ドキドキと胸を高鳴らせながらその光景を見つめていたが、立てていた両膝を割られて内腿にぬるりとした感触を覚えた瞬間、身体を大きく震わせた。
「つめたっ! ぁ、え?」
両の内腿にたっぷりとローションを塗りたくられ、思わず目を白黒させる。
「な、なにしてるの?」
戸惑いながら見上げれば、甲洋はふっと笑って「足を閉じて」と言う。
訳が分からなかったが、操は素直に頷くと濡れた両腿をぴったりと合わせた。
「ぅえ、気持ち悪いよこれ……」
「お前に無理をさせないための、妥協案だよ」
「なにそれ、どういう?」
「今日はこれで我慢して」
頭上にハテナマークを浮かべたまま首を傾げていると、甲洋は少し荒っぽくシャツを脱ぎ捨て、前を寛げると自身を取りだした。ついているものは同じはずなのに、大きさだとか生えている毛の量だとか、形も微妙に違っているから不思議だ。これを見るといつも心臓が大きく跳ねあがって、どうしてか恥ずかしいような気持ちになってしまう。
けれど今日は普段と様子が違っていた。いつもローションを使うはずの場所はほうっておかれているし、まさかこんな状態で挿れるつもりなのだろうか。
不安と戸惑いの目を向ける操に笑いかけ、甲洋はぴったりと閉じている両腿に自身の先端を潜り込ませた。
「えっ、え!?」
思わず肘をついて半身を起こすと、咄嗟に緩んだ両の膝頭をそれぞれ掴まれてぴったりと固定された。内腿にずぶずぶと硬くて長いものが挿入されて、何が行われようとしているのか理解できずに混乱する。
「ねぇ、なにするの!? そこはお尻じゃないよ!」
「知ってるよ」
甲洋は掴んでいた膝頭から、今度は膝裏に手を滑り込ませた。ぐいと強く押して操の身体を折り曲げると、まるで挿入しているかのように抽挿を開始する。
「な、なに? なにこれ!?」
耳を塞ぎたくなるようないやらしい音に合わせて、密着した内腿の間を甲洋のものが行き来する。揺さぶられる動きに合わせて、足の先が空中で揺れた。
「や、やだこれ! なんか変だよ……ッ! ねぇ甲洋!」
どうしてだろう。とてもいけないことをしている気がする。腿の肉が擦られていくうちに、そこから不可思議な熱が広がっていくのを感じた。
「あッ、あつ、い……ッ、や、これやだっ、おれこれ好きじゃない! お尻がいいよぉ……!」
こんなに激しく揺さぶられているのに。甲洋の熱を感じるのに。欲しい場所とはまるで別の場所を犯されている。これじゃ気持ちよくなんてなれないはずなのに。
口では嫌だ嫌だと繰り返しながら、操の気分は激しく高揚していった。
「やぁ、あッ、だめ! そこ、擦れちゃ……あ、ぁ──ッ」
甲洋が体重をかけて狙いを定めると、操の勃起した性器にそれが当たる。ぷるぷるとした柔らかな袋を押しつぶすようにしながら、零れたローションと先走りに濡れる竿が擦れた。何度も何度も行き来して、競りあがる快感に頭がどうにかなりそうだ。
『来主の太腿、やわくてすごく気持ちいい』
「やだ、言わないで! 今はダメ、心の中、あっ、くぅ、ん! ぁ、ダメ、だか、らっ」
『可愛い』
そうやって、普段は滅多に口で言わないようなことを平然と囁くから性質が悪い。恥ずかしくて嬉しくて、泣きたくなる。こんなふうに心をぐずぐずに溶かされてしまうと、快感が何倍にも膨らんでしまうから、少し怖くも感じてしまうのだ。
『挿れたい。来主のナカに』
「おれも、おれも欲しい! 甲洋の、いれてほしい!」
『……でも、ダメ』
なんて酷い。我儘なんか言わなきゃよかった。風邪なんて、ちっとも楽しくない。
「ひうぅ、あッ……! い、っく、こうよ、気持ちいの、くる……っ!」
「ぁ、は……ッ、俺、も」
声なき悲鳴をあげて、操は背を反らしながら打ちあげられた。甲洋もそれに続いて腰を震わせ、二人分の白濁が腹の上に吐きだされる。
押し上げていた両足を解放しながら、息を荒げる甲洋が操の上に身体を沈めた。重なる素肌が放ったものでぬるりと音を立てるが、尾を引く余韻のせいで気にしている余裕がない。
互いにはくはくと忙しない息を漏らしながら、キスの代わりに額を押し付け合う。すると、混濁する意識の中に静止画のようなイメージが幾つも流れ込んできた。
「ッ!」
(これ、なに……?)
これは甲洋の記憶と感情だ。この部屋に潜む、凍りつくような寂しさと痛みの根源。操は今、その一端に触れようとしている。
今より幼い彼は苦しそうに息を乱し、激しく咳をして震えながらベッドで丸くなっている。身体中がピリピリと痛んで、寒くて辛くて堪らない。
喉が渇いてお腹が空っぽのような気がするけれど、声を出すどころか起き上がることすらできなかった。
誰か傍にいてほしい。背中を摩ってほしい。手を握っていてほしい。声が聞きたい。一人は嫌だ。下の階から笑い声が聞こえる。父が冗談を言い、母が笑う。彼らの中に『俺』はいない。
諦念に胸を染めながら、それでも薄暗い部屋の扉が開かれるのを待っている。だけど誰もいない。誰も来ない。ここには、誰も──。
「……ごめん」
重ねていた額を離し、甲洋が短く謝罪する。操は両腕で彼の頭を抱きしめた。
「なんで謝るの?」
「見せるつもりはなかった」
「うん。でも、おれは知れてよかった。甲洋は自分のこと、何も話してくれないから」
玉子粥を食べさせくれたあと、彼がどうして不安そうにしていたのか。それが少し、わかった気がする。あれは彼なりの答え合わせだったのだ。
「君、知らなかったんだ。自分がしてもらったことないから」
どんなに辛くても、苦しくても、彼はたった一人で耐え忍ぶより術がなかった。甘やかされたことがないから、甘やかし方が分からなかった。誰よりも優しいくせに、本当は不器用で。
操はあの暗く寂しい記憶に思いを馳せながら、胸が締め付けられるように痛むのを感じた。借り物の知識の引き出しから、この感情につける名前を探ってみる。同情、という言葉が浮かび上がったけれど、なぜかしっくりこなかった。
「わっ、ちょっと、なに?」
操は両腕で力の限り甲洋を抱きしめた。流石に苦しかったのか、両手をついて身体を浮かそうとするのを許さず、離れようとすればするほど強く抱きしめて頬ずりをする。
「苦しいって」
「今お返ししてるんだから、じっとしててよ」
「お返しってなんの」
「がんばってくれたお返し。今度はおれがいっぱい甘やかしてあげる!」
ついには焦茶の癖毛を両手でわしゃわしゃと撫でまわした。よく甲洋がショコラにやっているのを思いだしたからだ。そのイメージが伝わってしまったのか、彼が複雑そうに眉を寄せるのが分かる。
だけど別に構わなかった。甲洋はショコラに無償の愛を注いでいる。形は違うけど、これも同じだ。ただひたむきな愛おしさが、ここにもあるということを知ってほしかった。
甲洋はもう壁を取り払っていて、操はそのいちばん柔らかな場所に触れている。きっとそこは誰も触れたことのない場所で、触れてはいけない場所で、だけどそれを許してくれているのが分かるから。
だから全部あげたいと思った。自分が持っているもの、できること、全部をあげたい。
そうしたらきっと、甲洋はもう寂しくない。寂しくなんか、させてやらない。
「君がしてほしかったこと、これからは全部、おれにさせてね」
最後にもう一度ぎゅうっと抱きしめて、柔らかな癖毛に思いきり唇を押しつけた。甲洋は観念したように身体から力を抜き、ふっと笑う。大人しく身を預け、操の首筋に甘えるように額を軽く擦りつけてよこした。
「……来主はさ」
「なぁに」
「バカみたいに元気でいる方が、似合ってるよ」
「えへへ。うん、おれもそう思う」
本当に、心の底から。風邪なんてひくもんじゃない。実際にひいていたわけではないけれど、多分きっと操が思っている以上に辛いし、その間はこんなふうに彼を抱きしめることだってできないのだ。
「ね、ところでさ、甲洋」
「なに」
焦茶の頭をもうひと撫でしてから、操は僅かに身じろいだ。汗と精液とローションと。流石に少し、気になってきた。
「お風呂はいって、もっかいしよ。今度はちゃんとさ」
それは甲洋も同じだったようで、彼は肩をすくめると「同感だ」と言って苦笑した。
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