2025/06/16 Mon 03 操が寮の玄関から出ると、すぐそばの街灯の下でコーヒーが待っていた。 「こっちだよ、来主」 外では人目を気にしてか、彼は普通の猫さながらに四足で歩きだす。まだ夢を見ているような気分だが、ひとまずおとなしくその後を追いかけた。 「俺の正体は、ケット・シーっていう猫の妖精なんだ」 導くように一歩先を行きながら、コーヒーがおもむろに話し始める。 「妖精?」 操は子供の頃に母が読み聞かせてくれたおとぎ話に、『長靴をはいた猫』というものがあったことを思いだした。二本足で立って言葉を話す猫が、飼い主の人生を切り開いていく物語だ。もしかしたらあの猫もケット・シーだったのかなと、ふと思う。 なんにせよ、操は目の前の超自然的な存在を受け入れるより他になかった。こうして実際に目の当たりにしているのだから。 「どうしてずっと隠してたの? もっと早く言ってくれてもよかったのに」 「……本当はずっと隠しておくつもりだった。それが俺たちの掟だから」 「俺たち? 君の他にもケット・シーがいるってこと?」 「いるよ。もちろん」 人気のない夜道を歩きながら、彼はケット・シーについて教えてくれた。 ケット・シーは世界中に存在しており、各地で『王様』と呼ばれるボスを中心にして、群れを作って生活している。普通の猫のふりをしながら、決して人前で本性を現すことはないのだと。 人間が猫集会だと思っているものが、実はケット・シー集会だったりすることもあるらしい。それくらいごく自然に、彼らはこの社会に紛れ込んで暮らしているのだ。 (実はクーもケット・シーだったりして……?) クーだけじゃない。もしかしたら今まで操が見てきた猫たちの中にも、彼のような存在が紛れていたのかもしれない。人の言葉を操り、二足歩行する妖精が。 彼らは一見ごく普通の猫にしか見えないから、仮にそうだったとしても見破るすべはないだろう。それこそ彼のように正体を明かしてくれない限り。 「ねぇ、じゃあ君は掟を破ってまで正体を教えてくれたってこと?」 「そうなるね」 「そんなことして平気なの? 王様、だっけ。叱られない?」 「それは──」 コーヒーについて歩いているうちに、気づけば住宅街を抜けていた。 極端に街灯が減っていくなか、月明かりを頼りに緩やかな坂道を登っていく。するとその先は公園のような芝生地帯が広がっていた。 さらに進むと、やがて大きな木が一本だけ生えた小高い丘が見えてくる。 「へぇ、こんなところがあったんだ! 知らなかった!」 丘を駆け上がっていくと、そこから町の夜景が一望できた。決して派手ではないが、点在する光がまるで星空のようだった。 これだけ見晴らしがいいと、昼間に来ても気持ちがよさそうだ。晴れの日にお弁当を持って来たくなるような、そんな開放感のある場所だった。 「来主、木登りはできる?」 二本足になったコーヒーが、木の幹に手をついて操を見上げる。こくんと頷くと、彼は「じゃあついて来て」と言って木を登りはじめた。 猫の姿をしているだけあって、無駄なくスルスルと華麗に登っていく。 「コーヒーずるい! 待ってよぉ!」 「こっちだよ。落ちないように気をつけて」 夜に木登りをするなんて初めてだ。月が明るくて助かった。少し怖いが、ほとんど葉が落ちた木の枝の隙間から、十分な光がさしている。 よいしょよいしょと登っていくと、太く張り出した枝のひとつにコーヒーがちょこんと座っていた。操はそこに足をかけ、隣り合って腰を下ろした。 ホッと息を漏らしたところで、ちょんちょんと肩をつつかれる。 「ほら見て、来主」 促されるまま景色を見渡し、操は一瞬で目を奪われた。 星空のように広がる夜景。この高さまで登って初めて、その向こうに海があることに気がついた。ぽっかりと浮かぶ丸い月が、キラキラと海面に反射している。 青く輝く幻想的な風景に、震えるほど胸を打たれた。 「きれい……夜空の上に宝石が散らばってるみたい……!」 「これを見せたかったんだ」 コーヒーがわざわざ掟を破ってまで正体を明かしたのは、落ち込んでいる操をここに連れてきて元気づけるためだったのだろう。 満足そうに景色を見つめる彼の瞳が、海の輝きを映して煌めいていた。なんて綺麗なんだろうと、操は思う。 「ありがとう、コーヒー。こんな素敵なところに連れてきてくれて。嫌なこと、ぜーんぶ吹き飛んじゃったよ」 さっきまで落ち込んでいたのが嘘のようだ。心がスッと晴れ渡り、感動だけで溢れかえっている。 「よかった」 ホッと安心したように息を漏らしたコーヒーは、けれどそのままうつむいて何も言わなくなってしまった。 「どうかしたの?」 なにか言いにくいことでもあるのだろうか。わずかな沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。 「……来主に、頼みたいことがあるんだ」 「頼み? いいよ! ぼくにできることなら、なんでも言ってよ!」 コーヒーがおずおずと顔をあげて操を見つめる。言うべきか言わざるべきか、その瞳は迷いに揺れているようだった。 「コーヒー?」 キョトンとする操の目の前で、彼はポンっと一輪の赤いコスモスを出現させた。 それをスッと差しだしてくるものだから、とっさに受け取って小首をかしげる。 「えっと……コーヒーって手品師かなにか?」 「種も仕掛けもないよ。これは手品じゃなくて、魔法の力」 「ま、魔法!?」 操はコスモスに顔を近づけ、その匂いを嗅いでみた。キク科の花の香りがする。 手品師が使うような造花ではなく、それはまぎれもなく本物のコスモスだった。 「君は魔法が使えるの? ケット・シーって凄いんだね!」 「まぁ、妖精だしね」 すると操の賛辞を否定するかのように、コスモスが一瞬で消えてしまった。 「あっ、消えちゃった」 「魔法といっても、この程度の些細なものなんだ。もっと大きな魔法を使うには、力が足りない……だから、来主の力を分けてほしい」 「ぼくの力?」 コーヒーは頷き、「俺は純血種ではないから」と言った。加えて、もはや現代に純血のケット・シーは存在しないのだとも。 はるか昔、先祖はあらゆる魔法を使えたそうだが、猫たちの社会に紛れ込んで暮らしていくうちに、猫とケット・シーの間で異種交配が繰り返された。その結果、長い年月をかけて徐々に魔力が薄まっていったらしい。 だから現代に生きるケット・シーたちは、ちょっとした簡単な魔法しか使えないのだ。王様と、一部の優秀なケット・シーを除いては。 「それでぼくの力が必要ってこと? でもぼく、魔力なんて持ってないよ」 「いいんだ。魔力じゃなくて、俺が欲しいのは活力のようなものだから」 「活力? そっか、つまり元気が欲しいってことだね!」 長いしっぽを嬉しそうにぴょこんと立てて、コーヒーが「うん」と頷いた。 そういうことならお安い御用だ。元気ならたった今、コーヒーにたくさん分けてもらった。彼が魔法でなにをしたいのかは知らないが、自分ができることならなんでもしたい。 「いいよ! ぼくの元気を分けてあげる! でも、どうしたらいいの?」 するとコーヒーは、まるで後ろめたいことでもあるかのように身体をモジモジと動かした。幾度か目を泳がせて、たっぷり時間を置いたあと、蚊の鳴くような声で「キス」と言った。 「きすぅ?」 「……口移しが、いちばん効率的だから」 「そうなんだ! じゃあ今すぐキスしようよ!」 「ちょ、ちょっと待って。キスだよ? 来主はそれでいいの?」 なぜか焦りだすコーヒー。操はにっこり笑うと「いいよ!」と返す。 「キスなんて簡単だよ。クーともよくしてたもん」 「クー?」 「ぼくんちの猫。今はお母さんと二人で暮らしてるよ」 「……来主にとって、俺はただの猫でしかないってことか」 「?」 なぜか残念そうな様子だが、操にはよく分からなかった。 彼はため息をこぼしたが、なんとか気を取り直したらしい。目を閉じるように言われ、おとなしく従った。 「じゃあいくよ」 「うん、いつでもいいよ」 こくん、とコーヒーが喉を鳴らす音が聞こえた。それから一瞬だけ、唇に猫のものと分かる口づけをされる。閉じた瞼の向こうに、キラキラと輝く何かが見えた。 しかし身体にこれといった変化は感じず、こんなに簡単に済んでしまっていいのだろうかと、不思議に思った。 「もういいの?」 「うん。もういいよ」 操はゆっくりと瞼を開いていった。 すると目の前に、見知らぬ『青年』の姿があった。長袖の白い簡素なシャツに、破れたジーンズをはいたその青年は、頭に尖った耳を生やしている。ふかふかのしっぽを揺らして、操に微笑みかけていた。 「──ッ、え!? ぁ、うわぁ!?」 「来主!」 まさにひっくり返るほど驚いた操は、とっさに身体のバランスを崩してしまった。落ちる、と思った瞬間、青年の長い両腕に抱き込まれる。 そしてそのまま真っ逆さまに、ふたり一緒に落下した──はずだった。 「ッ!?」 一瞬、ジェットコースターに乗ったときのような、内蔵がふわりと浮き上がる感覚を味わった。けれど思っていたほどの衝撃はない。ただで済むはずのない高さから、確実に落下したはずなのに。 (ぼく、どうなっちゃったの……?) おそるおそる閉じていた瞼をこじ開けると、びっくりするほど近い距離に猫耳青年の顔がある。彼は地面にしっかりと足をついており、操はその腕にお姫様抱っこされていた。 彼が抱えて飛び降りてくれたおかげで、怪我ひとつなく済んだらしい。 「驚かせてごめん。大丈夫?」 コクコクと、うなずくだけで精一杯だ。思考が完全に停止している。 「よかった、来主が無事で」 ポカンとするばかりの操に、猫耳青年が微笑んだ。 信じがたい出来事に呆気にとられながら、操は震える声を絞りだす。 「コーヒー、なの……?」 尖った耳も、狼のようにフサフサとした長いしっぽも、操がよく知るサビ柄だ。 無造作に伸びたくせ毛は焦げ茶で、優しげな瞳は澄んだ灰色。それらすべてに、コーヒーの面影がある。 操の問いかけに、彼は「甲洋」と静かに言った。 「え……?」 「甲洋だよ、来主。俺の、本当の名前」 冬の始めの冷たい風が、ほんのりと潮の香りを運んでくる。頭上では裸んぼうの枝が、カサカサと乾いた音を立てていた。蒼くて静かな、月の夜。 まるでここだけ別世界にあるような、そんな錯覚に襲われる。 「甲、洋……」 大切に、なぞるようにその名前を口にした。 甲洋は瞳を細めて、蕩けるような笑みを浮かべる。 「嬉しいよ。ありがとう、来主」 ドキドキと、胸が激しく高鳴っていた。息ができなくて、少し苦しい。こんな感覚は初めてだ。身体が熱い。内側に火が灯ったみたいに。 まだどこか呆然としながらも、操はその笑顔から目を離すことができなかった。 ←戻る ・ 次へ→
操が寮の玄関から出ると、すぐそばの街灯の下でコーヒーが待っていた。
「こっちだよ、来主」
外では人目を気にしてか、彼は普通の猫さながらに四足で歩きだす。まだ夢を見ているような気分だが、ひとまずおとなしくその後を追いかけた。
「俺の正体は、ケット・シーっていう猫の妖精なんだ」
導くように一歩先を行きながら、コーヒーがおもむろに話し始める。
「妖精?」
操は子供の頃に母が読み聞かせてくれたおとぎ話に、『長靴をはいた猫』というものがあったことを思いだした。二本足で立って言葉を話す猫が、飼い主の人生を切り開いていく物語だ。もしかしたらあの猫もケット・シーだったのかなと、ふと思う。
なんにせよ、操は目の前の超自然的な存在を受け入れるより他になかった。こうして実際に目の当たりにしているのだから。
「どうしてずっと隠してたの? もっと早く言ってくれてもよかったのに」
「……本当はずっと隠しておくつもりだった。それが俺たちの掟だから」
「俺たち? 君の他にもケット・シーがいるってこと?」
「いるよ。もちろん」
人気のない夜道を歩きながら、彼はケット・シーについて教えてくれた。
ケット・シーは世界中に存在しており、各地で『王様』と呼ばれるボスを中心にして、群れを作って生活している。普通の猫のふりをしながら、決して人前で本性を現すことはないのだと。
人間が猫集会だと思っているものが、実はケット・シー集会だったりすることもあるらしい。それくらいごく自然に、彼らはこの社会に紛れ込んで暮らしているのだ。
(実はクーもケット・シーだったりして……?)
クーだけじゃない。もしかしたら今まで操が見てきた猫たちの中にも、彼のような存在が紛れていたのかもしれない。人の言葉を操り、二足歩行する妖精が。
彼らは一見ごく普通の猫にしか見えないから、仮にそうだったとしても見破るすべはないだろう。それこそ彼のように正体を明かしてくれない限り。
「ねぇ、じゃあ君は掟を破ってまで正体を教えてくれたってこと?」
「そうなるね」
「そんなことして平気なの? 王様、だっけ。叱られない?」
「それは──」
コーヒーについて歩いているうちに、気づけば住宅街を抜けていた。
極端に街灯が減っていくなか、月明かりを頼りに緩やかな坂道を登っていく。するとその先は公園のような芝生地帯が広がっていた。
さらに進むと、やがて大きな木が一本だけ生えた小高い丘が見えてくる。
「へぇ、こんなところがあったんだ! 知らなかった!」
丘を駆け上がっていくと、そこから町の夜景が一望できた。決して派手ではないが、点在する光がまるで星空のようだった。
これだけ見晴らしがいいと、昼間に来ても気持ちがよさそうだ。晴れの日にお弁当を持って来たくなるような、そんな開放感のある場所だった。
「来主、木登りはできる?」
二本足になったコーヒーが、木の幹に手をついて操を見上げる。こくんと頷くと、彼は「じゃあついて来て」と言って木を登りはじめた。
猫の姿をしているだけあって、無駄なくスルスルと華麗に登っていく。
「コーヒーずるい! 待ってよぉ!」
「こっちだよ。落ちないように気をつけて」
夜に木登りをするなんて初めてだ。月が明るくて助かった。少し怖いが、ほとんど葉が落ちた木の枝の隙間から、十分な光がさしている。
よいしょよいしょと登っていくと、太く張り出した枝のひとつにコーヒーがちょこんと座っていた。操はそこに足をかけ、隣り合って腰を下ろした。
ホッと息を漏らしたところで、ちょんちょんと肩をつつかれる。
「ほら見て、来主」
促されるまま景色を見渡し、操は一瞬で目を奪われた。
星空のように広がる夜景。この高さまで登って初めて、その向こうに海があることに気がついた。ぽっかりと浮かぶ丸い月が、キラキラと海面に反射している。
青く輝く幻想的な風景に、震えるほど胸を打たれた。
「きれい……夜空の上に宝石が散らばってるみたい……!」
「これを見せたかったんだ」
コーヒーがわざわざ掟を破ってまで正体を明かしたのは、落ち込んでいる操をここに連れてきて元気づけるためだったのだろう。
満足そうに景色を見つめる彼の瞳が、海の輝きを映して煌めいていた。なんて綺麗なんだろうと、操は思う。
「ありがとう、コーヒー。こんな素敵なところに連れてきてくれて。嫌なこと、ぜーんぶ吹き飛んじゃったよ」
さっきまで落ち込んでいたのが嘘のようだ。心がスッと晴れ渡り、感動だけで溢れかえっている。
「よかった」
ホッと安心したように息を漏らしたコーヒーは、けれどそのままうつむいて何も言わなくなってしまった。
「どうかしたの?」
なにか言いにくいことでもあるのだろうか。わずかな沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。
「……来主に、頼みたいことがあるんだ」
「頼み? いいよ! ぼくにできることなら、なんでも言ってよ!」
コーヒーがおずおずと顔をあげて操を見つめる。言うべきか言わざるべきか、その瞳は迷いに揺れているようだった。
「コーヒー?」
キョトンとする操の目の前で、彼はポンっと一輪の赤いコスモスを出現させた。
それをスッと差しだしてくるものだから、とっさに受け取って小首をかしげる。
「えっと……コーヒーって手品師かなにか?」
「種も仕掛けもないよ。これは手品じゃなくて、魔法の力」
「ま、魔法!?」
操はコスモスに顔を近づけ、その匂いを嗅いでみた。キク科の花の香りがする。
手品師が使うような造花ではなく、それはまぎれもなく本物のコスモスだった。
「君は魔法が使えるの? ケット・シーって凄いんだね!」
「まぁ、妖精だしね」
すると操の賛辞を否定するかのように、コスモスが一瞬で消えてしまった。
「あっ、消えちゃった」
「魔法といっても、この程度の些細なものなんだ。もっと大きな魔法を使うには、力が足りない……だから、来主の力を分けてほしい」
「ぼくの力?」
コーヒーは頷き、「俺は純血種ではないから」と言った。加えて、もはや現代に純血のケット・シーは存在しないのだとも。
はるか昔、先祖はあらゆる魔法を使えたそうだが、猫たちの社会に紛れ込んで暮らしていくうちに、猫とケット・シーの間で異種交配が繰り返された。その結果、長い年月をかけて徐々に魔力が薄まっていったらしい。
だから現代に生きるケット・シーたちは、ちょっとした簡単な魔法しか使えないのだ。王様と、一部の優秀なケット・シーを除いては。
「それでぼくの力が必要ってこと? でもぼく、魔力なんて持ってないよ」
「いいんだ。魔力じゃなくて、俺が欲しいのは活力のようなものだから」
「活力? そっか、つまり元気が欲しいってことだね!」
長いしっぽを嬉しそうにぴょこんと立てて、コーヒーが「うん」と頷いた。
そういうことならお安い御用だ。元気ならたった今、コーヒーにたくさん分けてもらった。彼が魔法でなにをしたいのかは知らないが、自分ができることならなんでもしたい。
「いいよ! ぼくの元気を分けてあげる! でも、どうしたらいいの?」
するとコーヒーは、まるで後ろめたいことでもあるかのように身体をモジモジと動かした。幾度か目を泳がせて、たっぷり時間を置いたあと、蚊の鳴くような声で「キス」と言った。
「きすぅ?」
「……口移しが、いちばん効率的だから」
「そうなんだ! じゃあ今すぐキスしようよ!」
「ちょ、ちょっと待って。キスだよ? 来主はそれでいいの?」
なぜか焦りだすコーヒー。操はにっこり笑うと「いいよ!」と返す。
「キスなんて簡単だよ。クーともよくしてたもん」
「クー?」
「ぼくんちの猫。今はお母さんと二人で暮らしてるよ」
「……来主にとって、俺はただの猫でしかないってことか」
「?」
なぜか残念そうな様子だが、操にはよく分からなかった。
彼はため息をこぼしたが、なんとか気を取り直したらしい。目を閉じるように言われ、おとなしく従った。
「じゃあいくよ」
「うん、いつでもいいよ」
こくん、とコーヒーが喉を鳴らす音が聞こえた。それから一瞬だけ、唇に猫のものと分かる口づけをされる。閉じた瞼の向こうに、キラキラと輝く何かが見えた。
しかし身体にこれといった変化は感じず、こんなに簡単に済んでしまっていいのだろうかと、不思議に思った。
「もういいの?」
「うん。もういいよ」
操はゆっくりと瞼を開いていった。
すると目の前に、見知らぬ『青年』の姿があった。長袖の白い簡素なシャツに、破れたジーンズをはいたその青年は、頭に尖った耳を生やしている。ふかふかのしっぽを揺らして、操に微笑みかけていた。
「──ッ、え!? ぁ、うわぁ!?」
「来主!」
まさにひっくり返るほど驚いた操は、とっさに身体のバランスを崩してしまった。落ちる、と思った瞬間、青年の長い両腕に抱き込まれる。
そしてそのまま真っ逆さまに、ふたり一緒に落下した──はずだった。
「ッ!?」
一瞬、ジェットコースターに乗ったときのような、内蔵がふわりと浮き上がる感覚を味わった。けれど思っていたほどの衝撃はない。ただで済むはずのない高さから、確実に落下したはずなのに。
(ぼく、どうなっちゃったの……?)
おそるおそる閉じていた瞼をこじ開けると、びっくりするほど近い距離に猫耳青年の顔がある。彼は地面にしっかりと足をついており、操はその腕にお姫様抱っこされていた。
彼が抱えて飛び降りてくれたおかげで、怪我ひとつなく済んだらしい。
「驚かせてごめん。大丈夫?」
コクコクと、うなずくだけで精一杯だ。思考が完全に停止している。
「よかった、来主が無事で」
ポカンとするばかりの操に、猫耳青年が微笑んだ。
信じがたい出来事に呆気にとられながら、操は震える声を絞りだす。
「コーヒー、なの……?」
尖った耳も、狼のようにフサフサとした長いしっぽも、操がよく知るサビ柄だ。
無造作に伸びたくせ毛は焦げ茶で、優しげな瞳は澄んだ灰色。それらすべてに、コーヒーの面影がある。
操の問いかけに、彼は「甲洋」と静かに言った。
「え……?」
「甲洋だよ、来主。俺の、本当の名前」
冬の始めの冷たい風が、ほんのりと潮の香りを運んでくる。頭上では裸んぼうの枝が、カサカサと乾いた音を立てていた。蒼くて静かな、月の夜。
まるでここだけ別世界にあるような、そんな錯覚に襲われる。
「甲、洋……」
大切に、なぞるようにその名前を口にした。
甲洋は瞳を細めて、蕩けるような笑みを浮かべる。
「嬉しいよ。ありがとう、来主」
ドキドキと、胸が激しく高鳴っていた。息ができなくて、少し苦しい。こんな感覚は初めてだ。身体が熱い。内側に火が灯ったみたいに。
まだどこか呆然としながらも、操はその笑顔から目を離すことができなかった。
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