2025/06/16 Mon 10 静かな月夜に、丘の上には一本の大木。潮風に揺れる枝に寄り添うようにして、二匹の猫が座っている。 「驚いたな」 艷やかな短毛の白猫、一騎が呆気にとられたように口を開いた。 「なぁ総士、甲洋はもう二度と魔法が使えないんじゃなかったのか?」 彼は色素の薄い瞳を瞬かせ、毛足の長いクリーム色の猫に問いかける。 二匹はここで去っていく二人の姿を見守っていた。操に支えられ、甲洋の足取りはしっかりしている。小さくなっていく二人の背中に、胸を熱くした総士は「愛の力だ」と言い放った。 「あ、愛の……なんだって?」 ポカンとした目で見つめられ、急に照れくさくなってしまう。総士は軽く咳払いすると、何事もなかったかのように補足という名の言い訳をする。 「甲洋の中に残された、わずかな魔力の残滓が奇跡を起こした。あくまでも仮説の域を出ないが、そうとしか言いようがない」 魔力を奪われた甲洋は、本来であれば二度と魔法を使えない呪いにかかっているはずだった。けれど操との接触が、たった一度の奇跡を呼び起こしたのだ。これを愛の力と言わずして、なんと表現すればいいのだろう。 一騎はひとまず納得した様子だが、ロマンチズムに疎い彼は、総士が胸を熱くする理由にまでは理解が及んでいないようだった。 「だけど、本当にこれでよかったのか?」 不安に思うのも無理はない。甲洋が魔力を失ったことに代わりはないのだ。魔法が使えなくては、変身を解くこともままならない。つまり彼は、永遠に猫の姿に戻れなくなってしまったということだ。 猫のままでいたほうが、よほど楽だったろうに。半妖ともいえるあの姿で、どうやって人間社会を生きていくのか。一騎はそれを案じているのだ。 「なんとか魔力を戻してやることはできないのか? 俺と総士の力で……」 総士は首を横に振った。できるならとっくにやっている。しかし王によってかけられた呪いは、王にしか解くことができないのだ。 一騎も本当はそのくらい分かっていたのだろう。歯痒そうに息を漏らしてうつむいてしまった。 「甲洋だって覚悟の上だろう。その意思を、僕は尊重する」 この一ヶ月、甲洋は目に見えて憔悴していた。常に監視の目があり、あの廃神社から出ることすら許されなかった。 彼はずっと朽ちた格子窓から空を見ていた。首輪につけられた鈴を大切そうに握りしめ、どこか遠くに想いを馳せながら。 ある夜、監視を名目に顔を見に訪れた総士に、彼は来主操との思い出話を聞かせてくれた。命を救われ、そのまっすぐで優しい心に惹かれてしまった。掟を破るのも怖くなかった。あの子のためなら、俺はどうなってもいいのだと。 あまり自分のことを多く語らない彼にしては、珍しく雄弁に。誰かに話すことで、痛みを和らげようとでもしているかのように。 その姿に、総士は苛立ちにも似たいたたまれなさを覚えた。大切な友人が苦しんでいる姿を、これ以上は見ていられない。だからたきつけたのだ。 共に生きたいと、心から願うなら。他のなにを捨て去ろうとも、いちばん大切だと思うなら。迷わず彼のもとへ行けばいい。恐れることなどないのだと、煽り立てるように背中を押した。 そのとき、凪いでいた甲洋の瞳に光が灯ったのを確かに見た。彼が覚悟を決めたように、総士もまた覚悟を決めた。そして一騎と協力し、甲洋を逃すことに成功したのだ。 「彼らなら、きっと望む未来にたどり着くだろう」 いちど静かに目を閉じて、一騎は微笑みながら「そうだな」と言った。だいたい自分たちだって、彼らのことを言えた立場ではないのだ。 「甲洋にばかりかまけてもいられないぞ。僕らもこれからのことを考えよう」 彼を手助けした自分たちも、立派に王の命令に背いている。追手は今頃まだどこかで伸びているだろうが、王の耳に入るのも時間の問題だ。 しかも自分たちが甲洋と同様に優秀なケット・シーであることが知れれば、おのずとどちらかに王のお鉢が回ってくるのは目に見えている。 そんなことあってたまるか。一騎以外のケット・シーと結ばれるくらいなら、このまま逃避行するほうがいいに決まってる。 「俺も同じだよ」 するとまるで総士の心を読んだかのように、一騎が言った。 「逃げよう、総士。どこへだって行けるさ。俺とお前なら」 そうだろ? という問いかけに、総士はふっと笑ってうなずいた。一騎と一緒なら、たとえ火の中にだって飛び込める。水底に沈んだって構わないのだ。 (甲洋にとって、その相手がたまたま人間の少年だった。それだけのことだ) 二人の背中は、とうに見えなくなっている。蒼くて静かな月の夜。どうか彼らの未来に、幸多からんことを。 そう願いながら、二匹のケット・シーは闇夜に消えた。 * それからわずか数日後。 操は寮を引き払い、住み慣れた実家へと帰宅した。もちろん甲洋も一緒に。 「ただいま! お母さん!」 大荷物を抱えて玄関に立つ操の隣に、分担して荷物を持った甲洋がいる。 彼はコートと帽子で耳としっぽを隠していた。デートの日に着ていたものを、わざわざ探して購入したのだ。鈴は操のドングリと同じくペンダントにして、首から大事そうにぶら下げている。 「おかえりなさい、操さん。それと、甲洋くん、だったかしら?」 笑顔で出迎えた母・容子に、甲洋は少し硬い表情で頭をさげる。操はすかさず、その頭から帽子を取った。 「なッ、来主……ッ!?」 「お母さんほら、言ったでしょ? おっきい猫と一緒に帰るって!」 まさかの行動に、サァッと青ざめた甲洋が持っていた荷物を落とす。慌てて操の手から帽子を奪うと、目元が隠れるくらい深くかぶった。恐る恐る容子を見上げ、冷や汗をかいている。 けれど当の容子は「うふふ」と笑い、いっさい動じる素振りを見せない。 「本当に大きな猫ちゃんね。操さんから話は聞いてるわ」 「は、話、とは……?」 甲洋が奇妙なものを見るような目を操に向ける。操はケロッとしながら、「ぜんぶ話したから平気だよ」と言った。 操は容子に、甲洋がケット・シーという猫の妖精であることを伝えている。母はあっさり信じてくれた。むしろ甲洋の方が、にわかに信じられない様子だった。 「嘘だろ……?」 唖然とする気持ちは分かる。操だって驚いたのだ。荒唐無稽とも言える話を、まさかこんなに簡単に信じてもらえるなんて。 けれど理解者がいてくれることは、彼にとっても幸いだ。おかげでこの家でのびのびと生活できる。耳としっぽさえ隠してしまえば、自由に外だって歩けるのだから。 「それよりぼく疲れたよ。お母さん! なんか食べたい!」 ドサッと荷物を置いた操が、子供のような乱雑さで靴を脱ぐ。 「はいはい。甲洋くんもあがって。今日からここはあなたの家でもあるんだから、遠慮はなしよ」 「は、はい」 「甲洋! ぼくの部屋は二階だよ! 案内してあげる!」 「二人とも、落ち着いたらお昼ご飯にしましょう。ちゃんと手を洗ってね」 「はぁい!」 行儀よく靴を脱いだ甲洋──ちゃんと操の靴も揃えてくれた──の手を引き、まずは手始めに彼を洗面所に案内することにした。 * 「ここがぼくの部屋だよ。狭いけど、寮にいた頃とそんなに変わらないでしょ?」 操は部屋に入るなり、整えられたベッドにドスンと腰をおろした。 甲洋は扉の前に立ち尽くし、室内を見渡している。やがて一通り視線を巡らせたあと、遠慮がちに操を見た。 「どうかした?」 「いや……なんだか、あまりにもトントン拍子で……」 大急ぎで町を出たこと、拍子抜けするほど簡単に、容子が甲洋の存在を受け入れたこと。都合よく事が運びすぎていることに、彼は戸惑いを見せている。 そこには操への負い目もあるのだろう。寮にいれば大学も近いし、バイト先だってそうだ。実家から通うとなると、片道だけで二時間近くもかかってしまう。 「ぼくに負担かけてるって思ってるんでしょ。気にすることないのに」 王に逆らい、首輪を引き千切ってまで戻ってきた大胆さはどこへやら。せっかく望み通りになったのだから、もっと喜べばいいものを。幸せすぎると怖くなる、という現象だろうか。甲洋ならありえそうだと操は思う。 その首には白い包帯が巻かれていて、まだ傷が癒えていない。以前の甲洋なら、すぐさま魔法で治すことができただろう。けれど今の彼には魔力がない。首の傷も、おそらく痕が残るだろう。代償なら十分すぎるほど支払っているというのに。 「こっち来て」 操はポンポンとベッドを叩き、隣に座るよう促した。黙り込んでいた甲洋がおずおずと近づいてきて腰をおろすと、その頭から帽子を取りさる。しょげている猫耳に手を伸ばし、毛の流れに沿ってサラサラと優しく撫でた。 「ねぇ甲洋。ぼくの我儘を聞いてくれる?」 「我儘?」 急に話の流れが変わり、甲洋が目を丸くする。 「ぼくね、いつか喫茶店を開きたいんだ。美味しいコーヒーと、美味しいお菓子を出すお店。君はどう思う?」 パチパチとまばたきをしていた甲洋が、ふっと笑って「いいね」と言った。 「素敵な店になると思うよ。来主ならできる」 「なに言ってんの? 君も一緒にやるんだよ。ぼくがスタッフで、君はマスター」 「俺が?」 「カッコいい人がマスターの方がいいでしょ? すごく様になると思うよ」 甲洋にしてみれば、まったく現実味のない話でしかないのだろう。困ったように苦笑している。だけど操は本気だ。 「デートのとき、たくさん喫茶店に行ったでしょ? ぼく、あのときのことが忘れられなくて。君と一緒にお店ができたら、きっと楽しいだろうなって思ったんだ」 甲洋が美味しいコーヒーを淹れている横で、操は好きなだけお菓子を作る。それをあの日の自分たちのように、楽しそうに食べてくれるお客さんがいたら。どんなにいいだろう。きっとすごく幸せだ。想像するだけで嬉しくなる。 操は甘えた仕草で甲洋の腕にぎゅっと抱きつき、上目遣いで彼を見た。 「ねぇ、いいでしょ? ぼくの夢を叶えてよ。君とじゃなくちゃダメなんだ」 「来主……」 「絶対できるよ。だってぼくたち、ずっと一緒にいるんだもん!」 どこか呆けたような顔で話に耳を傾けていた甲洋が、その表情をゆっくりと笑みの形に和らげた。淡い日差しに少しずつ溶かされていく雪のように、彼の心がほどけていくのが伝わってくる。 自然と細められる瞳を潤ませ、甲洋は「わかった」と言ってうなずいた。 「一緒に叶えよう。来主とならできる気がする」 今はまだ想像の域をでない未来の話。だけどいつか必ず現実になることを、操はこのとき強く確信することができた。ふたりならきっと叶えられると。 「嬉しい! ありがとう、甲洋!」 「ッ、わ……!」 まるで体当たりをするような勢いで飛びつくと、ふたりの身体がシーツに雪崩れる。甲洋の鈴が大きく音を奏でるのを聞きながら、操は彼を押し倒したまま口づけた。甲洋は驚いて目を丸くしていたが、すぐにまぶたをおろして操の背中に腕をまわした。 何度かついばむようなキスをしたあと、操は尖った耳の片方をくしゃりと撫でてにっこり笑った。夢の話はまだまだ尽きない。 「耳としっぽは隠さなくていいからね。ぼくも猫耳つけるから。そういうコンセプトのお店にしちゃえばいいんだもん」 いささかマニアックかもしれないが、今の世の中なんでもありだ。思い描くだけでワクワクしてくる。甲洋が思わずといった様子で小さな笑い声をあげた。 「よかった。そこがちょっと心配だったんだ」 「いっそ着ぐるみにしようかな? ぼく、黒猫がいい!」 「なんでもありだ」 「なんでもありだよ! だってぼくらだけのお店だもん!」 はしゃいだ声をあげる操に、甲洋はあの蕩けそうな甘い笑顔を見せた。胸がドキッと高鳴り、頬が淡紅色に上気する。 「ッ、ぁ……!」 とっさに何も言えなくなった操の背を抱いたまま、甲洋がグルリと身体を反転させた。逆に押し倒される形になり、降ってくる唇を受け止める。 どちらともなく舌を絡めて、深く互いを貪った。身体の奥に火が灯り、チリチリと甘くくすぶっていた。交わる唾液が卑猥な音を奏でるたびに、その火が大きく煽られる。 「っ、はぁ……っ、ん、甲洋……」 もっとして──と、操が囁くより先に、 「操さん、甲洋くん? そろそろ下りてらっしゃい」 と、下の階から容子の声がして、二人は同時に息をのんだ。 「そ、そうだ。ご飯! お母さんのこと待たせてたんだった!」 「……うん」 顔を真っ赤にして、慌ててベッドから起き上がる。一息ついたらすぐに下りていくはずが、まだコートすら脱いでいない。操はドキドキと早鐘を打つ心臓を誤魔化すように、乱れてしまった髪を手ぐしでせっせと整えた。 残念だが、仕方ない。続きは夜にまたできる。むしろこれから毎日できるのだと思うと、頬にさした赤みが一向に治まりそうになかった。 「ちょっと熱いな」 それは甲洋も同じだったようで、彼は首筋まで赤くしながら窓を開けている。少し冷たい風が、熱を持った皮膚には心地よかった。 「熱いの、もうちょっと冷ましてから行こっか」 赤い頬で照れ笑いを浮かべた操に、甲洋も笑って「うん」とうなずいた。 * 「どうしたのかしら?」 なかなか下りてこない二人に首を傾げながら、容子は戸棚から取りだした取皿をテーブルに重ねた。食卓には山盛りの唐揚げやサラダが並べられている。男の子がひとり増えることだしと、腕によりをかけたのだ。 するとそこに、カリカリというかすかな音が聞こえてきた。窓枠を引っ掻く音だと気づいた容子は、すぐにリビングへ足を運ぶと窓を開ける。すると午前中の散歩を終えた白猫が、隙間からスルリと入り込んできた。 「おかえりなさい、クー。操さんたち、もう帰ってきてるわよ」 老いた白猫はうんともすんとも言わず、ソファに飛び乗ると毛繕いをはじめる。 「甲洋くんっていうんですって。弟ができてよかったわね、クー。それとも、孫って言ったほうがいいかしら?」 くぁ、とあくびをするクーに小さく笑って、容子は再びキッチンに立つと、コーヒーを淹れるためのお湯を沸かしはじめた。 すると扉の向こうから、階段を下りるドタドタという音が聞こえてくる。 「甲洋はやく! ご飯が冷めちゃう!」 「危ないから慌てないで。転ぶから」 「あっ、スリッパ脱げちゃった!」 クーは耳をピクンとさせて、立派な牙を見せながら二度目のあくびをした。そして「にゃー」とは鳴かず、やれやれといった様子でぼやく。 「まったく、騒がしい孫たちだにゃあ」 少ししゃがれたその声に、容子は「そうね」と言って楽しげに笑うのだった。 おおきな猫の好きなひと / 了 ←戻る ・ Wavebox👏
静かな月夜に、丘の上には一本の大木。潮風に揺れる枝に寄り添うようにして、二匹の猫が座っている。
「驚いたな」
艷やかな短毛の白猫、一騎が呆気にとられたように口を開いた。
「なぁ総士、甲洋はもう二度と魔法が使えないんじゃなかったのか?」
彼は色素の薄い瞳を瞬かせ、毛足の長いクリーム色の猫に問いかける。
二匹はここで去っていく二人の姿を見守っていた。操に支えられ、甲洋の足取りはしっかりしている。小さくなっていく二人の背中に、胸を熱くした総士は「愛の力だ」と言い放った。
「あ、愛の……なんだって?」
ポカンとした目で見つめられ、急に照れくさくなってしまう。総士は軽く咳払いすると、何事もなかったかのように補足という名の言い訳をする。
「甲洋の中に残された、わずかな魔力の残滓が奇跡を起こした。あくまでも仮説の域を出ないが、そうとしか言いようがない」
魔力を奪われた甲洋は、本来であれば二度と魔法を使えない呪いにかかっているはずだった。けれど操との接触が、たった一度の奇跡を呼び起こしたのだ。これを愛の力と言わずして、なんと表現すればいいのだろう。
一騎はひとまず納得した様子だが、ロマンチズムに疎い彼は、総士が胸を熱くする理由にまでは理解が及んでいないようだった。
「だけど、本当にこれでよかったのか?」
不安に思うのも無理はない。甲洋が魔力を失ったことに代わりはないのだ。魔法が使えなくては、変身を解くこともままならない。つまり彼は、永遠に猫の姿に戻れなくなってしまったということだ。
猫のままでいたほうが、よほど楽だったろうに。半妖ともいえるあの姿で、どうやって人間社会を生きていくのか。一騎はそれを案じているのだ。
「なんとか魔力を戻してやることはできないのか? 俺と総士の力で……」
総士は首を横に振った。できるならとっくにやっている。しかし王によってかけられた呪いは、王にしか解くことができないのだ。
一騎も本当はそのくらい分かっていたのだろう。歯痒そうに息を漏らしてうつむいてしまった。
「甲洋だって覚悟の上だろう。その意思を、僕は尊重する」
この一ヶ月、甲洋は目に見えて憔悴していた。常に監視の目があり、あの廃神社から出ることすら許されなかった。
彼はずっと朽ちた格子窓から空を見ていた。首輪につけられた鈴を大切そうに握りしめ、どこか遠くに想いを馳せながら。
ある夜、監視を名目に顔を見に訪れた総士に、彼は来主操との思い出話を聞かせてくれた。命を救われ、そのまっすぐで優しい心に惹かれてしまった。掟を破るのも怖くなかった。あの子のためなら、俺はどうなってもいいのだと。
あまり自分のことを多く語らない彼にしては、珍しく雄弁に。誰かに話すことで、痛みを和らげようとでもしているかのように。
その姿に、総士は苛立ちにも似たいたたまれなさを覚えた。大切な友人が苦しんでいる姿を、これ以上は見ていられない。だからたきつけたのだ。
共に生きたいと、心から願うなら。他のなにを捨て去ろうとも、いちばん大切だと思うなら。迷わず彼のもとへ行けばいい。恐れることなどないのだと、煽り立てるように背中を押した。
そのとき、凪いでいた甲洋の瞳に光が灯ったのを確かに見た。彼が覚悟を決めたように、総士もまた覚悟を決めた。そして一騎と協力し、甲洋を逃すことに成功したのだ。
「彼らなら、きっと望む未来にたどり着くだろう」
いちど静かに目を閉じて、一騎は微笑みながら「そうだな」と言った。だいたい自分たちだって、彼らのことを言えた立場ではないのだ。
「甲洋にばかりかまけてもいられないぞ。僕らもこれからのことを考えよう」
彼を手助けした自分たちも、立派に王の命令に背いている。追手は今頃まだどこかで伸びているだろうが、王の耳に入るのも時間の問題だ。
しかも自分たちが甲洋と同様に優秀なケット・シーであることが知れれば、おのずとどちらかに王のお鉢が回ってくるのは目に見えている。
そんなことあってたまるか。一騎以外のケット・シーと結ばれるくらいなら、このまま逃避行するほうがいいに決まってる。
「俺も同じだよ」
するとまるで総士の心を読んだかのように、一騎が言った。
「逃げよう、総士。どこへだって行けるさ。俺とお前なら」
そうだろ? という問いかけに、総士はふっと笑ってうなずいた。一騎と一緒なら、たとえ火の中にだって飛び込める。水底に沈んだって構わないのだ。
(甲洋にとって、その相手がたまたま人間の少年だった。それだけのことだ)
二人の背中は、とうに見えなくなっている。蒼くて静かな月の夜。どうか彼らの未来に、幸多からんことを。
そう願いながら、二匹のケット・シーは闇夜に消えた。
*
それからわずか数日後。
操は寮を引き払い、住み慣れた実家へと帰宅した。もちろん甲洋も一緒に。
「ただいま! お母さん!」
大荷物を抱えて玄関に立つ操の隣に、分担して荷物を持った甲洋がいる。
彼はコートと帽子で耳としっぽを隠していた。デートの日に着ていたものを、わざわざ探して購入したのだ。鈴は操のドングリと同じくペンダントにして、首から大事そうにぶら下げている。
「おかえりなさい、操さん。それと、甲洋くん、だったかしら?」
笑顔で出迎えた母・容子に、甲洋は少し硬い表情で頭をさげる。操はすかさず、その頭から帽子を取った。
「なッ、来主……ッ!?」
「お母さんほら、言ったでしょ? おっきい猫と一緒に帰るって!」
まさかの行動に、サァッと青ざめた甲洋が持っていた荷物を落とす。慌てて操の手から帽子を奪うと、目元が隠れるくらい深くかぶった。恐る恐る容子を見上げ、冷や汗をかいている。
けれど当の容子は「うふふ」と笑い、いっさい動じる素振りを見せない。
「本当に大きな猫ちゃんね。操さんから話は聞いてるわ」
「は、話、とは……?」
甲洋が奇妙なものを見るような目を操に向ける。操はケロッとしながら、「ぜんぶ話したから平気だよ」と言った。
操は容子に、甲洋がケット・シーという猫の妖精であることを伝えている。母はあっさり信じてくれた。むしろ甲洋の方が、にわかに信じられない様子だった。
「嘘だろ……?」
唖然とする気持ちは分かる。操だって驚いたのだ。荒唐無稽とも言える話を、まさかこんなに簡単に信じてもらえるなんて。
けれど理解者がいてくれることは、彼にとっても幸いだ。おかげでこの家でのびのびと生活できる。耳としっぽさえ隠してしまえば、自由に外だって歩けるのだから。
「それよりぼく疲れたよ。お母さん! なんか食べたい!」
ドサッと荷物を置いた操が、子供のような乱雑さで靴を脱ぐ。
「はいはい。甲洋くんもあがって。今日からここはあなたの家でもあるんだから、遠慮はなしよ」
「は、はい」
「甲洋! ぼくの部屋は二階だよ! 案内してあげる!」
「二人とも、落ち着いたらお昼ご飯にしましょう。ちゃんと手を洗ってね」
「はぁい!」
行儀よく靴を脱いだ甲洋──ちゃんと操の靴も揃えてくれた──の手を引き、まずは手始めに彼を洗面所に案内することにした。
*
「ここがぼくの部屋だよ。狭いけど、寮にいた頃とそんなに変わらないでしょ?」
操は部屋に入るなり、整えられたベッドにドスンと腰をおろした。
甲洋は扉の前に立ち尽くし、室内を見渡している。やがて一通り視線を巡らせたあと、遠慮がちに操を見た。
「どうかした?」
「いや……なんだか、あまりにもトントン拍子で……」
大急ぎで町を出たこと、拍子抜けするほど簡単に、容子が甲洋の存在を受け入れたこと。都合よく事が運びすぎていることに、彼は戸惑いを見せている。
そこには操への負い目もあるのだろう。寮にいれば大学も近いし、バイト先だってそうだ。実家から通うとなると、片道だけで二時間近くもかかってしまう。
「ぼくに負担かけてるって思ってるんでしょ。気にすることないのに」
王に逆らい、首輪を引き千切ってまで戻ってきた大胆さはどこへやら。せっかく望み通りになったのだから、もっと喜べばいいものを。幸せすぎると怖くなる、という現象だろうか。甲洋ならありえそうだと操は思う。
その首には白い包帯が巻かれていて、まだ傷が癒えていない。以前の甲洋なら、すぐさま魔法で治すことができただろう。けれど今の彼には魔力がない。首の傷も、おそらく痕が残るだろう。代償なら十分すぎるほど支払っているというのに。
「こっち来て」
操はポンポンとベッドを叩き、隣に座るよう促した。黙り込んでいた甲洋がおずおずと近づいてきて腰をおろすと、その頭から帽子を取りさる。しょげている猫耳に手を伸ばし、毛の流れに沿ってサラサラと優しく撫でた。
「ねぇ甲洋。ぼくの我儘を聞いてくれる?」
「我儘?」
急に話の流れが変わり、甲洋が目を丸くする。
「ぼくね、いつか喫茶店を開きたいんだ。美味しいコーヒーと、美味しいお菓子を出すお店。君はどう思う?」
パチパチとまばたきをしていた甲洋が、ふっと笑って「いいね」と言った。
「素敵な店になると思うよ。来主ならできる」
「なに言ってんの? 君も一緒にやるんだよ。ぼくがスタッフで、君はマスター」
「俺が?」
「カッコいい人がマスターの方がいいでしょ? すごく様になると思うよ」
甲洋にしてみれば、まったく現実味のない話でしかないのだろう。困ったように苦笑している。だけど操は本気だ。
「デートのとき、たくさん喫茶店に行ったでしょ? ぼく、あのときのことが忘れられなくて。君と一緒にお店ができたら、きっと楽しいだろうなって思ったんだ」
甲洋が美味しいコーヒーを淹れている横で、操は好きなだけお菓子を作る。それをあの日の自分たちのように、楽しそうに食べてくれるお客さんがいたら。どんなにいいだろう。きっとすごく幸せだ。想像するだけで嬉しくなる。
操は甘えた仕草で甲洋の腕にぎゅっと抱きつき、上目遣いで彼を見た。
「ねぇ、いいでしょ? ぼくの夢を叶えてよ。君とじゃなくちゃダメなんだ」
「来主……」
「絶対できるよ。だってぼくたち、ずっと一緒にいるんだもん!」
どこか呆けたような顔で話に耳を傾けていた甲洋が、その表情をゆっくりと笑みの形に和らげた。淡い日差しに少しずつ溶かされていく雪のように、彼の心がほどけていくのが伝わってくる。
自然と細められる瞳を潤ませ、甲洋は「わかった」と言ってうなずいた。
「一緒に叶えよう。来主とならできる気がする」
今はまだ想像の域をでない未来の話。だけどいつか必ず現実になることを、操はこのとき強く確信することができた。ふたりならきっと叶えられると。
「嬉しい! ありがとう、甲洋!」
「ッ、わ……!」
まるで体当たりをするような勢いで飛びつくと、ふたりの身体がシーツに雪崩れる。甲洋の鈴が大きく音を奏でるのを聞きながら、操は彼を押し倒したまま口づけた。甲洋は驚いて目を丸くしていたが、すぐにまぶたをおろして操の背中に腕をまわした。
何度かついばむようなキスをしたあと、操は尖った耳の片方をくしゃりと撫でてにっこり笑った。夢の話はまだまだ尽きない。
「耳としっぽは隠さなくていいからね。ぼくも猫耳つけるから。そういうコンセプトのお店にしちゃえばいいんだもん」
いささかマニアックかもしれないが、今の世の中なんでもありだ。思い描くだけでワクワクしてくる。甲洋が思わずといった様子で小さな笑い声をあげた。
「よかった。そこがちょっと心配だったんだ」
「いっそ着ぐるみにしようかな? ぼく、黒猫がいい!」
「なんでもありだ」
「なんでもありだよ! だってぼくらだけのお店だもん!」
はしゃいだ声をあげる操に、甲洋はあの蕩けそうな甘い笑顔を見せた。胸がドキッと高鳴り、頬が淡紅色に上気する。
「ッ、ぁ……!」
とっさに何も言えなくなった操の背を抱いたまま、甲洋がグルリと身体を反転させた。逆に押し倒される形になり、降ってくる唇を受け止める。
どちらともなく舌を絡めて、深く互いを貪った。身体の奥に火が灯り、チリチリと甘くくすぶっていた。交わる唾液が卑猥な音を奏でるたびに、その火が大きく煽られる。
「っ、はぁ……っ、ん、甲洋……」
もっとして──と、操が囁くより先に、
「操さん、甲洋くん? そろそろ下りてらっしゃい」
と、下の階から容子の声がして、二人は同時に息をのんだ。
「そ、そうだ。ご飯! お母さんのこと待たせてたんだった!」
「……うん」
顔を真っ赤にして、慌ててベッドから起き上がる。一息ついたらすぐに下りていくはずが、まだコートすら脱いでいない。操はドキドキと早鐘を打つ心臓を誤魔化すように、乱れてしまった髪を手ぐしでせっせと整えた。
残念だが、仕方ない。続きは夜にまたできる。むしろこれから毎日できるのだと思うと、頬にさした赤みが一向に治まりそうになかった。
「ちょっと熱いな」
それは甲洋も同じだったようで、彼は首筋まで赤くしながら窓を開けている。少し冷たい風が、熱を持った皮膚には心地よかった。
「熱いの、もうちょっと冷ましてから行こっか」
赤い頬で照れ笑いを浮かべた操に、甲洋も笑って「うん」とうなずいた。
*
「どうしたのかしら?」
なかなか下りてこない二人に首を傾げながら、容子は戸棚から取りだした取皿をテーブルに重ねた。食卓には山盛りの唐揚げやサラダが並べられている。男の子がひとり増えることだしと、腕によりをかけたのだ。
するとそこに、カリカリというかすかな音が聞こえてきた。窓枠を引っ掻く音だと気づいた容子は、すぐにリビングへ足を運ぶと窓を開ける。すると午前中の散歩を終えた白猫が、隙間からスルリと入り込んできた。
「おかえりなさい、クー。操さんたち、もう帰ってきてるわよ」
老いた白猫はうんともすんとも言わず、ソファに飛び乗ると毛繕いをはじめる。
「甲洋くんっていうんですって。弟ができてよかったわね、クー。それとも、孫って言ったほうがいいかしら?」
くぁ、とあくびをするクーに小さく笑って、容子は再びキッチンに立つと、コーヒーを淹れるためのお湯を沸かしはじめた。
すると扉の向こうから、階段を下りるドタドタという音が聞こえてくる。
「甲洋はやく! ご飯が冷めちゃう!」
「危ないから慌てないで。転ぶから」
「あっ、スリッパ脱げちゃった!」
クーは耳をピクンとさせて、立派な牙を見せながら二度目のあくびをした。そして「にゃー」とは鳴かず、やれやれといった様子でぼやく。
「まったく、騒がしい孫たちだにゃあ」
少ししゃがれたその声に、容子は「そうね」と言って楽しげに笑うのだった。
おおきな猫の好きなひと / 了
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