2025/06/16 Mon 04 その夜──。 操は少年の姿のまま、建物の裏手にある藪の中に潜んでいた。 かすかに虫の声がするだけで、辺りは閑散とした静寂に満たされている。店はすっかり客足が途絶え、人の出入りが一切なくなっていた。 そろそろ頃合いかと、操は藪からひょっこりと顔をだした。ムッと眉を吊り上げ、不満もあらわに建物を睨みつける。 昼間、あの青年は「夜に出直せ」と言っていた。しかし操がこうして待機していたのは、その言葉を素直に聞き入れたからではない。 (もう怒ったぞ……食べ物の恨みは怖いんだ……!) 完全に逆恨みだ。けれど空腹と苛立ちに取り憑かれた操にとって、それは些細なことだった。どんな手を使っても、あの青年にギャフンと言わせなければ気が済まない。 そこで操はひらめいた。人気が失せた夜の店内に忍び込み、そこにある全てのものを食べ尽くしてやろう、と。 (そもそもぼくはタヌキなんだから、そのほうが野生らしくて自然だよね) 操は化け狸である以前に野生動物だ。野生に生きる獣は、畑を荒らすにもわざわざ人間に断りを入れたりなんかしない。だから下手に人の真似事をするのはやめて、正攻法で挑むことにした。 名付けて『のた坊主作戦』だ。 のた坊主とはその昔、人間の子供に化けて勝手に酒蔵に忍び込み、元酒を飲んでしまうという悪さをしていた化け狸のことである。 操の狙いは酒ではないが、シチュエーション的にはそっくりだ。 知らぬまに店の食べ物が全てなくなっていたら、さすがに彼──甲洋も冷静ではいられないはずだ。少しは慌てる姿が見られるかもしれないとワクワクしたが、そこでふと、今までとは違った感情が胸をよぎった。 (……ぜんぶ食べちゃうのは、さすがにやめとこうかなぁ) 操は彼をほんのちょっぴり困らせたいだけであって、なにも物凄く困らせたいわけではない。一応は手当をしてもらった恩もあるし、おんぶしてくれたのも嬉しかった。操の足を、ずっと気にかけてくれていたことも。 それにもし食べ物が全部なくなってしまったら、今度は甲洋がひもじい思いをすることになる。お腹がすくと悲しくて、泣きたい気持ちになってしまう。人里におりてから、操はそれを嫌というほど学んだ。同じ思いをさせるのは、なんだかちょっと嫌だった。 甲洋の困った顔は見たいけど、泣き顔は別に見たくない。むしろどちらかといえばその逆で── (あのひと、なんで犬にしか笑わないんだろ) 店で接客しているときでさえ、彼は誰に対してもほとんど表情を動かすことがなかった。決まった動作を、ただ淡々と繰り返すだけの人形みたいに。 だけどあの坂道で通せんぼする操を追い払った犬──ショコラにだけは、優しい笑顔を見せていた。 そんなのズルいと操は思う。なにがどうズルいのか、自分でもよく分からないけど。あの笑顔を思いだすと、胸の奥がモヤモヤしてくるような気がするのはなぜだろう。 「……まぁいいや。ぼくにはもっと大事なことがあるんだし」 甲洋のことが気になるのは確かだが、早く帰らなければ今ごろ美羽が心配している。雑念を振り払うように両手でパチパチと頬を叩き、息をついて気合いを入れた。 「よーし、これが最後だ! がんばるぞ!」 藪の中からピョンと飛びだし、操は店の裏口へと忍び寄った。 * 慎重に扉を開けると、そこはちょうどカウンター裏のキッチンになっていた。 明かりはついているが、人の気配は感じられない。ただ、昼間と違ってハーブのような爽やかな香りが漂っている。決して不快なものではないが、操は思わず顔をしかめた。 「うわ、なにこの匂い。鼻が変になっちゃいそう」 ふと見やると、カウンターテーブルに置かれた小皿の上で、スティックタイプのお香が煙を上げていることに気がついた。あれが匂いの発生源だ。 けれどすぐに慣れて気にならなくなったので、操は構わずキッチンの奥まで足を踏み入れた。 するとそこには、コンロの上で火にかけられた大きな鍋があった。 くつくつと音がする丸い鍋を覗き込み、操はパァッと瞳を輝かせた。これが一騎カレーに違いない。昼に見たものより少しばかり赤みが強い気がするが、煮込まれた野菜が見るからにトロトロになっている。 「やったー! これをお腹いっぱい食べちゃうぞ!」 操はウキウキしながらお玉を手に取り、カレーをすくい上げた。ふぅふぅと息を吹きかけ、冷めてきたところを見計らって口をつける。すると舌の上いっぱいに、今まで味わったことのない未知の旨味が──広がらなかった。 「う゛……ッ!?」 駆け抜けたのは強烈な刺激だった。操の顔が一瞬にして真っ赤に染まり、全身からドッと汗が噴きだしてくる。口いっぱいに広がったのは、一言で言えば激痛だった。 「~~ッ! か、からぁい! 痛い! にゃにこれぇ!?」 とっさに手放したお玉が、派手な音を立てて床に転がる。操は目に涙をためながら、火を吹きそうになっている口を両手で押さえた。 どうにか飲み込んだものの、焼けつくような痛みは喉の奥にまで広がっている。両足をバタつかせながら、ゲホゲホと激しくむせた。 (ムリムリ! こんなのぜんぜん美味しくないよ!!) 衝撃のあまり中途半端に変化が解けて、ポンッと音を立てながら耳としっぽだけがタヌキに戻ってしまった。けれど構っている余裕がない。水を求めて周辺をガチャガチャと荒らしていると、ふいに背後から声がした。 「どこの子だ?」 「ッ!?」 振り返ると、そこには白いウサ耳を生やした黒髪の青年がいた。カウンター越しにキョトンとしながら、こちらを見ている。 それを見た操は、今度は一気に青ざめた。悪事を働いたタヌキと、罰を下すウサギの伝説。カチカチ山がトラウマ化している操にとって、ウサギもまた恐怖の対象だ。しかも、現在進行形で悪さをしている最中である。 「裏から入ったのか? そこはキッチンだから、お客さんは入っちゃダメだぞ?」 ウサギ青年の声と表情は優しげだが、激辛と恐怖のコンボでそれどころじゃない操は、目が回るほどの大パニックになってしまった。 「ヒイィィ……ッ、う、う、ウサギだぁー!!」 「あ、おい! ちょっとっ……!」 上ずった悲鳴を漏らし、操は一も二もなく逃げだした。腰を抜かしそうになりながらも、裏口から全力で飛びだしていく。 残されたウサギの青年は、呆然としながら目を瞬かせた。クツクツというカレーを煮込む音だけが、静かな店内に大きく響く。 「な、なんだ? あれ……」 「どうかした?」 騒ぎを聞きつけ、バックヤードから姿を現したのは店主である甲洋だった。うさ耳青年は、戸惑った表情のまま小首を傾げる。 「えーと……タヌキ、かな?」 「……ああ、あの子か」 裏口の扉が開けっ放しのまま、ギィギィと音を立てている。甲洋はそれを見て、心のうちで呆れながら嘆息を漏らした。 * 操は泣きながら、夜の道をがむしゃらに走って逃げていた。 口の中はいまだに燃えるように痛いし、胃袋にまでその感覚が広がっている。しかも無理をして走っているせいで、せっかく落ち着いていた足の痛みまでぶり返してきた。 だけど、気を抜けばあのウサギ男が追いかけてくるかもしれない。そう思うとどうしても足を止めることができなかった。 (なんなのあれ!? もうやだ! こんなとこいたくないよ……!!) 人里に下りてから、散々な目にばかりあっている。こんなことなら美羽の言うことを聞いて、あのとき素直に里へ引き返していればよかった。今さら後悔しても仕方のないことを、それでも思わずにはいられない。 甲洋に背負われてのぼった坂を下り、それでもなお操は走った。やがて住宅地に迷い込み、ついに体力が限界を迎えた。 「こ、ここまで来れば、もう大丈夫だよね……」 操は適当な民家の庭に侵入すると、木陰に膝をついてそのままうつ伏せに倒れた。ゼェゼェと荒く息をつき、意識を朦朧とさせる。 これからどうしたらいいのだろう。考えかけて、やめてしまった。今はとにかく休みたい。けっきょく腹も満たせなかったし、喉もカラカラだ。夜のジメジメとした蒸し暑さが、操からわずかな気力すら奪い去る。 (もう、どうだっていいや……) 耳としっぽだけを生やした半妖のまま、操は意識を手放した。 ←戻る ・ 次へ→
その夜──。
操は少年の姿のまま、建物の裏手にある藪の中に潜んでいた。
かすかに虫の声がするだけで、辺りは閑散とした静寂に満たされている。店はすっかり客足が途絶え、人の出入りが一切なくなっていた。
そろそろ頃合いかと、操は藪からひょっこりと顔をだした。ムッと眉を吊り上げ、不満もあらわに建物を睨みつける。
昼間、あの青年は「夜に出直せ」と言っていた。しかし操がこうして待機していたのは、その言葉を素直に聞き入れたからではない。
(もう怒ったぞ……食べ物の恨みは怖いんだ……!)
完全に逆恨みだ。けれど空腹と苛立ちに取り憑かれた操にとって、それは些細なことだった。どんな手を使っても、あの青年にギャフンと言わせなければ気が済まない。
そこで操はひらめいた。人気が失せた夜の店内に忍び込み、そこにある全てのものを食べ尽くしてやろう、と。
(そもそもぼくはタヌキなんだから、そのほうが野生らしくて自然だよね)
操は化け狸である以前に野生動物だ。野生に生きる獣は、畑を荒らすにもわざわざ人間に断りを入れたりなんかしない。だから下手に人の真似事をするのはやめて、正攻法で挑むことにした。
名付けて『のた坊主作戦』だ。
のた坊主とはその昔、人間の子供に化けて勝手に酒蔵に忍び込み、元酒を飲んでしまうという悪さをしていた化け狸のことである。
操の狙いは酒ではないが、シチュエーション的にはそっくりだ。
知らぬまに店の食べ物が全てなくなっていたら、さすがに彼──甲洋も冷静ではいられないはずだ。少しは慌てる姿が見られるかもしれないとワクワクしたが、そこでふと、今までとは違った感情が胸をよぎった。
(……ぜんぶ食べちゃうのは、さすがにやめとこうかなぁ)
操は彼をほんのちょっぴり困らせたいだけであって、なにも物凄く困らせたいわけではない。一応は手当をしてもらった恩もあるし、おんぶしてくれたのも嬉しかった。操の足を、ずっと気にかけてくれていたことも。
それにもし食べ物が全部なくなってしまったら、今度は甲洋がひもじい思いをすることになる。お腹がすくと悲しくて、泣きたい気持ちになってしまう。人里におりてから、操はそれを嫌というほど学んだ。同じ思いをさせるのは、なんだかちょっと嫌だった。
甲洋の困った顔は見たいけど、泣き顔は別に見たくない。むしろどちらかといえばその逆で──
(あのひと、なんで犬にしか笑わないんだろ)
店で接客しているときでさえ、彼は誰に対してもほとんど表情を動かすことがなかった。決まった動作を、ただ淡々と繰り返すだけの人形みたいに。
だけどあの坂道で通せんぼする操を追い払った犬──ショコラにだけは、優しい笑顔を見せていた。
そんなのズルいと操は思う。なにがどうズルいのか、自分でもよく分からないけど。あの笑顔を思いだすと、胸の奥がモヤモヤしてくるような気がするのはなぜだろう。
「……まぁいいや。ぼくにはもっと大事なことがあるんだし」
甲洋のことが気になるのは確かだが、早く帰らなければ今ごろ美羽が心配している。雑念を振り払うように両手でパチパチと頬を叩き、息をついて気合いを入れた。
「よーし、これが最後だ! がんばるぞ!」
藪の中からピョンと飛びだし、操は店の裏口へと忍び寄った。
*
慎重に扉を開けると、そこはちょうどカウンター裏のキッチンになっていた。
明かりはついているが、人の気配は感じられない。ただ、昼間と違ってハーブのような爽やかな香りが漂っている。決して不快なものではないが、操は思わず顔をしかめた。
「うわ、なにこの匂い。鼻が変になっちゃいそう」
ふと見やると、カウンターテーブルに置かれた小皿の上で、スティックタイプのお香が煙を上げていることに気がついた。あれが匂いの発生源だ。
けれどすぐに慣れて気にならなくなったので、操は構わずキッチンの奥まで足を踏み入れた。
するとそこには、コンロの上で火にかけられた大きな鍋があった。
くつくつと音がする丸い鍋を覗き込み、操はパァッと瞳を輝かせた。これが一騎カレーに違いない。昼に見たものより少しばかり赤みが強い気がするが、煮込まれた野菜が見るからにトロトロになっている。
「やったー! これをお腹いっぱい食べちゃうぞ!」
操はウキウキしながらお玉を手に取り、カレーをすくい上げた。ふぅふぅと息を吹きかけ、冷めてきたところを見計らって口をつける。すると舌の上いっぱいに、今まで味わったことのない未知の旨味が──広がらなかった。
「う゛……ッ!?」
駆け抜けたのは強烈な刺激だった。操の顔が一瞬にして真っ赤に染まり、全身からドッと汗が噴きだしてくる。口いっぱいに広がったのは、一言で言えば激痛だった。
「~~ッ! か、からぁい! 痛い! にゃにこれぇ!?」
とっさに手放したお玉が、派手な音を立てて床に転がる。操は目に涙をためながら、火を吹きそうになっている口を両手で押さえた。
どうにか飲み込んだものの、焼けつくような痛みは喉の奥にまで広がっている。両足をバタつかせながら、ゲホゲホと激しくむせた。
(ムリムリ! こんなのぜんぜん美味しくないよ!!)
衝撃のあまり中途半端に変化が解けて、ポンッと音を立てながら耳としっぽだけがタヌキに戻ってしまった。けれど構っている余裕がない。水を求めて周辺をガチャガチャと荒らしていると、ふいに背後から声がした。
「どこの子だ?」
「ッ!?」
振り返ると、そこには白いウサ耳を生やした黒髪の青年がいた。カウンター越しにキョトンとしながら、こちらを見ている。
それを見た操は、今度は一気に青ざめた。悪事を働いたタヌキと、罰を下すウサギの伝説。カチカチ山がトラウマ化している操にとって、ウサギもまた恐怖の対象だ。しかも、現在進行形で悪さをしている最中である。
「裏から入ったのか? そこはキッチンだから、お客さんは入っちゃダメだぞ?」
ウサギ青年の声と表情は優しげだが、激辛と恐怖のコンボでそれどころじゃない操は、目が回るほどの大パニックになってしまった。
「ヒイィィ……ッ、う、う、ウサギだぁー!!」
「あ、おい! ちょっとっ……!」
上ずった悲鳴を漏らし、操は一も二もなく逃げだした。腰を抜かしそうになりながらも、裏口から全力で飛びだしていく。
残されたウサギの青年は、呆然としながら目を瞬かせた。クツクツというカレーを煮込む音だけが、静かな店内に大きく響く。
「な、なんだ? あれ……」
「どうかした?」
騒ぎを聞きつけ、バックヤードから姿を現したのは店主である甲洋だった。うさ耳青年は、戸惑った表情のまま小首を傾げる。
「えーと……タヌキ、かな?」
「……ああ、あの子か」
裏口の扉が開けっ放しのまま、ギィギィと音を立てている。甲洋はそれを見て、心のうちで呆れながら嘆息を漏らした。
*
操は泣きながら、夜の道をがむしゃらに走って逃げていた。
口の中はいまだに燃えるように痛いし、胃袋にまでその感覚が広がっている。しかも無理をして走っているせいで、せっかく落ち着いていた足の痛みまでぶり返してきた。
だけど、気を抜けばあのウサギ男が追いかけてくるかもしれない。そう思うとどうしても足を止めることができなかった。
(なんなのあれ!? もうやだ! こんなとこいたくないよ……!!)
人里に下りてから、散々な目にばかりあっている。こんなことなら美羽の言うことを聞いて、あのとき素直に里へ引き返していればよかった。今さら後悔しても仕方のないことを、それでも思わずにはいられない。
甲洋に背負われてのぼった坂を下り、それでもなお操は走った。やがて住宅地に迷い込み、ついに体力が限界を迎えた。
「こ、ここまで来れば、もう大丈夫だよね……」
操は適当な民家の庭に侵入すると、木陰に膝をついてそのままうつ伏せに倒れた。ゼェゼェと荒く息をつき、意識を朦朧とさせる。
これからどうしたらいいのだろう。考えかけて、やめてしまった。今はとにかく休みたい。けっきょく腹も満たせなかったし、喉もカラカラだ。夜のジメジメとした蒸し暑さが、操からわずかな気力すら奪い去る。
(もう、どうだっていいや……)
耳としっぽだけを生やした半妖のまま、操は意識を手放した。
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