目を覚ますと、真っ先に飛び込んできたのはイレブンの心配そうな顔だった。
「カミュ、大丈夫?」
部屋着を着込んでいる彼は、ベッド横に膝をついているらしかった。その背後では、カーテンの隙間から朝の光が射し込んでいる。
「……イレブンお前、学校は?」
起き抜けの乾いた声で問いかけると、彼は「今日は土曜だよ」と苦笑した。
「そっか。あれ……?」
ノロノロと身を起こしたカミュは、自分の身体がすっかり清められ、部屋着まで着せられていることに気がついた。昨日は汗やら何やら色々なもので、ドロドロになってしまった記憶があるが、寝ている間にイレブンが世話を焼いてくれたらしい。
「ありがとな、イレブン」
イレブンはゆるく笑って首を振り、ベッドの縁に腰かけた。
「それよりカミュ、身体は平気? どっかつらくない?」
「いいや、ぜんぜん。あー、でもちょっと……ケツに違和感はあるかもな。腹んナカにも、まだ熱いのが残ってるような……」
「一応、キレイにはしたつもりなんだけど……ごめん……」
うなだれてしまったイレブンの頭を、ワシワシと思いきり撫でてやった。
「気にすんなって。オレは嬉しかったぜ。お前とちゃんとひとつになれて」
人間という生き物は本当に不思議だ。そこに愛さえあれば、オスもメスも関係なく交尾ができてしまうんだから。
するとイレブンは少し泣きそうな顔で笑って、「ボクも」と言った。
目と目を合わせながら微笑み合っていると、なんとなくお互い照れくさい気持ちになってきて、赤い顔をうつむけた。今さら意識しあうというのも、なんだかおかしな話だけれど。
「それにしても、どうしてまた人間の姿に?」
そんな初々しい沈黙を破ったのはイレブンだった。カミュはどこかホッとしながら、「ああ」と言って彼の左手に手を伸ばした。いつもはしているはずの包帯が、今日は巻かれていない。それは好都合だった。
「多分だけどな。このアザだ」
不思議そうに首をかしげるイレブンの目の前で、カミュはそのアザにキスをした。
すると案の定、全身が淡い光に包まれる。徐々に身体が萎んでいって──
「かっ、カミュ!?」
「ピィ!」
次の瞬間、カミュは山になった部屋着からモゾモゾと抜けだした。元気よくひと鳴きすると、イレブンはまん丸に見開いた瞳をパチクリさせていた。
「ピ! ピ!(ほらな?)」
「ホントだ……。なに言ってるか分かんないけど、なんか分かった」
それからすぐに、カミュはもう一度イレブンのアザにキスをした。大きな光に包まれて、再び人間の姿に変身を遂げる。もちろん、身体はすっぽんぽんだ。
「ほらな?」
四つん這いの姿勢で小首をかしげながら言ったカミュに、イレブンは赤面しながら「わかったから」と言って、手繰り寄せたシーツを身体に巻きつけてくれた。
「つまりそういうことだ。オレの変身は、どうやらお前のそのアザがトリガーになってるらしい」
カミュ自身、こうして改めて試してみるまで確証はなかったのだが。一度目の変身と、昨夜の変身。共通していたのは、イレブンのアザに唇が触れたという点だった。
ならどうして、昨日は急に変身が解けてしまったのか。
単に効果が切れただけなのか、あるいはドン底まで落ち込んでいたカミュのメンタルが、なんらかの作用をもたらしたのか。
シーツに包まったまま腕を組み、あぐらをかいて考え込んでいると、イレブンがどこか遠慮がちに口を開いた。
「……ずっと、このアザが嫌だったんだ」
「そうなのか?」
うん、とイレブンがうなずいた。
「子供の頃、よくからかわれてたんだ。ゲームに出てくる主人公に、これとよく似たアザがあってさ。そのアザの力で、いろんな奇跡を起こすんだ」
生まれつき不思議なアザを持つ主人公が、『勇者』として世界を救う物語。
彼が持つアザと、イレブンの左手のアザは酷似していた。ゆえに、友人たちはこぞってそれをネタにからかってきたのだという。
「何かあるとすぐに、お前も勇者の奇跡を起こしてみろ! なんて無茶振りされてさ。今にして思えば、なんてことない冗談なんだけどね。ボクはそういうノリに、うまくついて行けなくて……」
だんだん鬱陶しくなってきて、隠すようになってしまったらしい。
「でも──」
イレブンはいったん短く言葉を切ると、カミュに向かって瞳を細めた。
「こんな奇跡が起こせるのなら、今はよかったと思う。ボクには本当に、勇者の力があったみたいだ」
嬉しそうに微笑むイレブンに、カミュは誇らしい気持ちになった。彼のアザがあったから、カミュは今こうして、この姿でここにいる。ひょっとしたらあの公園での出会いすら、イレブンが起こした奇跡なのではないかと思えた。
「さすがはオレが見込んだ勇者さまだぜ。なんたってお前はハリネズミを人間に変えるだけでなく、オスをメスに変えちまうんだからな!」
「そ、それはちょっと違くない!?」
そうか? と言って、カミュはイレブンの背中をバシッと叩いた。
「でもオレはお前に、身体の中から作り変えられた気分だぜ」
「た、確かにボクは昨日、女の子にするみたいなことをキミにしたけど……それで本当に、キミが女の子になるわけではなくて……」
「そうなのか?」
「うん。でも……」
イレブンは赤い顔でモジモジしながらうつむくと、「次はもっとがんばるよ」と、消え入りそうな声で言った。
「カミュのこと、ちゃんと満足させられるように」
「? そっか。期待してるぜ! 相棒!」
ぐ~~~っ
そのとき、カミュの腹から景気のいい音が鳴り響いた。あまりにも立派な音だったものだから、さすがに苦笑しながら肩をすくめる。
「人間ってのは、どうもすぐに腹が減っていけねえや」
イレブンはクスクスと笑いながら「いいじゃないか」と言った。
「朝食にしよう。昨日からなにも食べてないしね」
「だな」
ボクが準備するよと言って、イレブンがベッドから立ち上がる。そしてカミュを見下ろしながら言った。
「カミュ。もし動けそうだったら、午後は買い物に行かないか?」
「おう、いいぜ」
臀部や腹にはまだ多少の違和感があるものの、痛みがあるわけじゃない。イレブンは気にしている様子だが、なんだかんだで彼はずっと優しかったし、決してカミュを傷つけなかった。
「よかった。じゃあさ、今日はまた鍋をしよう。今度はもっと凄いのを作ろうよ」
それを聞いて、カミュはパッと瞳を輝かせた。
「マジか! いいなそれ! オレもそうしたいと思ってたんだ!」
するとイレブンはカミュが大好きな、あの花がほころぶような笑みを浮かべた。
(こいつと出会って、こんなふうに一緒に暮らせて、オレはきっと世界でいちばん、運がいいハリネズミなんだろうな)
あの日、あの瞬間。狭いケージを抜けだして、外の世界に飛びだした。あのときの選択は、もしかしたら彼と出会うためのものだったのかもしれない。
『公園で出会うサラサラヘアーと心を通わせ。さすればお前の願いも果たされる』
カミュの願いは果たされた。そしてこれからもずっと。
シーツから右腕を引き抜いて、作った拳を彼へと向ける。イレブンはアザのある左手を握りしめ、拳と拳をコツンとぶつけた。
「これからもよろしく頼むぜ、 相棒!」
お互いが愛してやまない、とびきりの笑顔を向け合いながら。
空色ハリネズミ、街をゆく・了
←戻る ・ Wavebox👏
「カミュ、大丈夫?」
部屋着を着込んでいる彼は、ベッド横に膝をついているらしかった。その背後では、カーテンの隙間から朝の光が射し込んでいる。
「……イレブンお前、学校は?」
起き抜けの乾いた声で問いかけると、彼は「今日は土曜だよ」と苦笑した。
「そっか。あれ……?」
ノロノロと身を起こしたカミュは、自分の身体がすっかり清められ、部屋着まで着せられていることに気がついた。昨日は汗やら何やら色々なもので、ドロドロになってしまった記憶があるが、寝ている間にイレブンが世話を焼いてくれたらしい。
「ありがとな、イレブン」
イレブンはゆるく笑って首を振り、ベッドの縁に腰かけた。
「それよりカミュ、身体は平気? どっかつらくない?」
「いいや、ぜんぜん。あー、でもちょっと……ケツに違和感はあるかもな。腹んナカにも、まだ熱いのが残ってるような……」
「一応、キレイにはしたつもりなんだけど……ごめん……」
うなだれてしまったイレブンの頭を、ワシワシと思いきり撫でてやった。
「気にすんなって。オレは嬉しかったぜ。お前とちゃんとひとつになれて」
人間という生き物は本当に不思議だ。そこに愛さえあれば、オスもメスも関係なく交尾ができてしまうんだから。
するとイレブンは少し泣きそうな顔で笑って、「ボクも」と言った。
目と目を合わせながら微笑み合っていると、なんとなくお互い照れくさい気持ちになってきて、赤い顔をうつむけた。今さら意識しあうというのも、なんだかおかしな話だけれど。
「それにしても、どうしてまた人間の姿に?」
そんな初々しい沈黙を破ったのはイレブンだった。カミュはどこかホッとしながら、「ああ」と言って彼の左手に手を伸ばした。いつもはしているはずの包帯が、今日は巻かれていない。それは好都合だった。
「多分だけどな。このアザだ」
不思議そうに首をかしげるイレブンの目の前で、カミュはそのアザにキスをした。
すると案の定、全身が淡い光に包まれる。徐々に身体が萎んでいって──
「かっ、カミュ!?」
「ピィ!」
次の瞬間、カミュは山になった部屋着からモゾモゾと抜けだした。元気よくひと鳴きすると、イレブンはまん丸に見開いた瞳をパチクリさせていた。
「ピ! ピ!(ほらな?)」
「ホントだ……。なに言ってるか分かんないけど、なんか分かった」
それからすぐに、カミュはもう一度イレブンのアザにキスをした。大きな光に包まれて、再び人間の姿に変身を遂げる。もちろん、身体はすっぽんぽんだ。
「ほらな?」
四つん這いの姿勢で小首をかしげながら言ったカミュに、イレブンは赤面しながら「わかったから」と言って、手繰り寄せたシーツを身体に巻きつけてくれた。
「つまりそういうことだ。オレの変身は、どうやらお前のそのアザがトリガーになってるらしい」
カミュ自身、こうして改めて試してみるまで確証はなかったのだが。一度目の変身と、昨夜の変身。共通していたのは、イレブンのアザに唇が触れたという点だった。
ならどうして、昨日は急に変身が解けてしまったのか。
単に効果が切れただけなのか、あるいはドン底まで落ち込んでいたカミュのメンタルが、なんらかの作用をもたらしたのか。
シーツに包まったまま腕を組み、あぐらをかいて考え込んでいると、イレブンがどこか遠慮がちに口を開いた。
「……ずっと、このアザが嫌だったんだ」
「そうなのか?」
うん、とイレブンがうなずいた。
「子供の頃、よくからかわれてたんだ。ゲームに出てくる主人公に、これとよく似たアザがあってさ。そのアザの力で、いろんな奇跡を起こすんだ」
生まれつき不思議なアザを持つ主人公が、『勇者』として世界を救う物語。
彼が持つアザと、イレブンの左手のアザは酷似していた。ゆえに、友人たちはこぞってそれをネタにからかってきたのだという。
「何かあるとすぐに、お前も勇者の奇跡を起こしてみろ! なんて無茶振りされてさ。今にして思えば、なんてことない冗談なんだけどね。ボクはそういうノリに、うまくついて行けなくて……」
だんだん鬱陶しくなってきて、隠すようになってしまったらしい。
「でも──」
イレブンはいったん短く言葉を切ると、カミュに向かって瞳を細めた。
「こんな奇跡が起こせるのなら、今はよかったと思う。ボクには本当に、勇者の力があったみたいだ」
嬉しそうに微笑むイレブンに、カミュは誇らしい気持ちになった。彼のアザがあったから、カミュは今こうして、この姿でここにいる。ひょっとしたらあの公園での出会いすら、イレブンが起こした奇跡なのではないかと思えた。
「さすがはオレが見込んだ勇者さまだぜ。なんたってお前はハリネズミを人間に変えるだけでなく、オスをメスに変えちまうんだからな!」
「そ、それはちょっと違くない!?」
そうか? と言って、カミュはイレブンの背中をバシッと叩いた。
「でもオレはお前に、身体の中から作り変えられた気分だぜ」
「た、確かにボクは昨日、女の子にするみたいなことをキミにしたけど……それで本当に、キミが女の子になるわけではなくて……」
「そうなのか?」
「うん。でも……」
イレブンは赤い顔でモジモジしながらうつむくと、「次はもっとがんばるよ」と、消え入りそうな声で言った。
「カミュのこと、ちゃんと満足させられるように」
「? そっか。期待してるぜ! 相棒!」
ぐ~~~っ
そのとき、カミュの腹から景気のいい音が鳴り響いた。あまりにも立派な音だったものだから、さすがに苦笑しながら肩をすくめる。
「人間ってのは、どうもすぐに腹が減っていけねえや」
イレブンはクスクスと笑いながら「いいじゃないか」と言った。
「朝食にしよう。昨日からなにも食べてないしね」
「だな」
ボクが準備するよと言って、イレブンがベッドから立ち上がる。そしてカミュを見下ろしながら言った。
「カミュ。もし動けそうだったら、午後は買い物に行かないか?」
「おう、いいぜ」
臀部や腹にはまだ多少の違和感があるものの、痛みがあるわけじゃない。イレブンは気にしている様子だが、なんだかんだで彼はずっと優しかったし、決してカミュを傷つけなかった。
「よかった。じゃあさ、今日はまた鍋をしよう。今度はもっと凄いのを作ろうよ」
それを聞いて、カミュはパッと瞳を輝かせた。
「マジか! いいなそれ! オレもそうしたいと思ってたんだ!」
するとイレブンはカミュが大好きな、あの花がほころぶような笑みを浮かべた。
(こいつと出会って、こんなふうに一緒に暮らせて、オレはきっと世界でいちばん、運がいいハリネズミなんだろうな)
あの日、あの瞬間。狭いケージを抜けだして、外の世界に飛びだした。あのときの選択は、もしかしたら彼と出会うためのものだったのかもしれない。
『公園で出会うサラサラヘアーと心を通わせ。さすればお前の願いも果たされる』
カミュの願いは果たされた。そしてこれからもずっと。
シーツから右腕を引き抜いて、作った拳を彼へと向ける。イレブンはアザのある左手を握りしめ、拳と拳をコツンとぶつけた。
「これからもよろしく頼むぜ、 相棒!」
お互いが愛してやまない、とびきりの笑顔を向け合いながら。
空色ハリネズミ、街をゆく・了
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カミュを連れて戻ってきたイレブンは、その足で隣の家のエマを訪ねた。
エマはカミュ──ゴンザレスが無事に戻ってきたことに、安堵の笑みを見せた。そして綺麗に畳んだ衣服と靴を、紙袋に入れて返してくれた。
チビちゃんにも会っていく? と問われたが、イレブンはその誘いを断った。
チビはカミュの妹であるらしいことが分かったものの、今夜はひとまずカミュを休ませてやりたかったのだ。
カミュは終始イレブンの肩に乗ったまま、髪を掴んだり引っ張ったりしてピーピーと鳴いていた。見ているこちらが少し心配になるくらい、興奮状態が続いていた。
そんな彼をなだめながら帰宅した頃には、時刻は21時を過ぎていた。
「それにしても、どうして急に元の姿に戻ってしまったんだろう?」
自室に戻ってすぐ、イレブンはベッドの上にカミュをおろした。彼はシーツの上を行ったり来たりして、落ち着きのない様子を見せている。
それを眺めながら、イレブンもベッドに腰掛けて「うーん」とうなった。
先ほど、壮絶な圧迫面接(めっちゃ怖かった)を受けていた際、ホメロスにもそれとなく聞いてみたのだ。あの青いハリネズミには、何か不思議な力でもあるんですか? と──。
すると「なにを言っているんだコイツは」とばかりに、怪訝そうな顔をされた。まるでゴミでも見るかのような目だった。無理もない。動物が人間に変身するなんて、アニメやゲームの世界でしかありえないのだから。
「ピーッ、ピーッ!」
すっかり考え込んでいたイレブンだったが、カミュの甲高い声に「ごめん」と笑った。放っておかれたことにご立腹なのか、あるいはまだ興奮状態が続いているのか、カミュは鳴き声をあげながらイレブンの膝に乗ってきた。
そのままクルクルと動き回ったり、イレブンのシャツをガリガリと引っ掻いたりしている。イレブンはそんなカミュの身体に、そっと優しく両手で触れた。
硬く鋭い被毛のせいで、その温もりを遠く感じる。表面をゆるくなぞるしかできない触れ方が、ひどくもどかしかった。
「ピィッ、ピッ、ピー!」
「うん。ボクも、キミが戻ってきてくれて嬉しいよ。でも困ったな……キミと会話をするのに慣れきってしまったから、すごく焦れったい気分なんだ」
この姿のカミュも可愛らしくて、愛おしいことに変わりはない。けれどあの甘く爽やかなテノールに、名前を呼んでもらえないのはやはり寂しかった。
こうして彼が戻ってきてくれただけで十分だと、そう思うべきなのに。
あの不思議な現象が引き起こされた原因はなんだったのか、そのキッカケさえ分かればと、どうしても考えてしまう自分がいる。
「ピィ、ピ……ピ……」
するといつしか、カミュの声が弱々しいものになっていた。息も荒く、直に皮膚に触れているわけでもないのに、身体の熱さが伝わってくる。
「カミュ、疲れた? 大丈夫か?」
なんとか落ち着かせようとするけれど、その間にもカミュはイレブンの手にしがみついたり、身体を擦りつけようとしてくる。なんだかだいぶ様子がおかしい。
どうしたものかと困り果てているうちに、だんだん左手の包帯がほどけてきた。その隙間から、奇妙な形のアザが覗く。カミュはその鼻先を包帯の下に潜り込ませようとして、グリグリと押しつけてきた。
その瞬間──
「うわっ……!?」
カミュの身体がまばゆい光に包まれた。眩しさにぎゅっと目を閉じたイレブンだったが、それはほんの一瞬のことだった。
「ッ、か……ミュ……?」
膝の上にあったはずの小さな温もりが、ヒトの姿に変わっていた。小動物とは異なる、ずっしりとした重みを感じる。
イレブンを跨ぐようにして、彼は一糸まとわぬ姿をさらしてそこにいた。
「イレブン……」
淡桃に色づく肌が汗に艶めき、宝石のような青い瞳は悩ましげに揺れている。
あれほど切望していた姿を目の前にして、イレブンはそのあられもない様子に唖然とするしかなかった。
カミュは熱っぽい息を漏らしながら、そんなイレブンの首に抱きついてくる。
「わっ……!?」
その拍子に、背中からベッドに倒れ込む。
「カミュ、キミ……っ、その姿、どうして?」
「イレブン、オレ……わかったよ……」
「ッ、ぇ……?」
「お前が言ってた好きの意味……オレも同じだったんだ。他のやつには、こんな気持ちになったりしない……」
とろりとした眼差しがグッと近づき、唇に熱が押し当てられた。しっとりと濡れたような感触に、目の前がチカチカと赤くなる。
「ッ、~~……!」
もはや理性の限界だった。そこにはただ溢れんばかりの喜びと劣情だけがある。
イレブンはその華奢な背を掻き抱いて、ぐるりと身体を反転させた。そして思うがままに、薄い唇を貪った。
「んぅッ……、は…っ、んん……っ!」
舌を絡めるようなキスなんて、エッチな本や動画でしか見たことがない。それでも考えるより感じるままに、愛しいという気持ちをぶつけた。
濡れた肉が擦れるたびに、頭の芯に痺れが走る。必死で応えようとしてくれるカミュのいじらしさが、イレブンをますます駆り立てた。
「は、ふ、…っ、ん……っ」
酸欠で息が苦しくなるまで、キスは途切れることなく続いた。脳が茹だったように熱かった。唾液の糸を引きながら離れたカミュの唇が、真っ赤に濡れて色づいていた。跳ねる鼓動に意識が眩む。
「イレ、ブン……なあ、イレブン……」
「……ん、なに?」
零れそうなほど瞳をうるませ、カミュがイレブンの下で小首をかしげる。
「オレのこと、まだ特別だって、思ってくれるか?」
「……ッ、当たり前だろ!」
声がひっくり返って情けなかった。もっと格好よく言えたらよかったのに。いっそ苛立ちにも似た激情に身を任せ、カミュをキツく抱きしめた。
「初めて会ったときから、キミはずっと、ボクだけの特別だ!」
カミュが笑うと、身体全体に小さな振動が伝わってきた。彼はイレブンに頬ずりをして、耳元に唇を押しつけると「ありがとな」と囁くように言った。
「なら、いいぜ」
「カミュ……?」
「お前のためならオレ、メスにだってなるよ」
胸の奥底から、熱湯が噴き出すようだった。とっさにヒュッと息を呑んだあと、恥ずかしいくらい大きな音を立てて喉を鳴らしてしまう。
本当に、どこまでも格好がつかない。だけど、もういいやと思った。
オスとして走り出した本能の前に、イレブンは開き直りにも似た境地に達した。
*
結論から言うと、行為は成功したとはいえない結果に終わった。
未熟な二人が何の準備もなしに突っ走れるほど、男同士の行為は甘くない。
前々からこっそりと、多少の下調べはしていたけれど、いざとなるとそう上手くはいかないものだ。
結局、ひたすらカミュに負担を強いることになってしまった。
潤滑剤はハンドクリームで代用するしかなかったし、保健の授業で配布されていたスキンは、イレブンにはいささか小さすぎた。だから装着するのは諦めた。
そうやって時間をかけて、なんとか挿入の段階にこぎ着けたものの、カミュは痛みに震えながら脂汗をかいていて、見ているのもつらいほどだった。
これ以上は無理だと判断し、イレブンは途中で断念しようとした。けれどカミュは、それをひどく嫌がった。
「頼むからちゃんと、オレをお前のものにしてくれよ」
ズルいと思った。そんなことを言われたら、引くに引けなくなってしまう。
ひどく迷ったあと、イレブンはカミュを労わるように抱きしめて、嫌というほどキスをした。何度も繰り返し好きだと言って、その身体から強張りが抜けるの根気よく待った。
そうして少しずつ、奥まで自身を飲み込ませていった。
するとカミュは、目にいっぱいの涙をためながら「嬉しい」と言った。苦しげに、けれど甘くかすれた声で、「好きだ、イレブン」と。
これ以上どうしたらいいか分からないくらい、膨らんだ愛しさが胸で弾けた。そしてそれは、不幸な事故を起こす引き金になった。
「……あッ」
耐えて耐えて耐え抜いて、本懐を遂げた瞬間に。せめてナカで出さないようにと、細心の注意を払うつもりでいたにも関わらず。
イレブンは大暴発を起こしてしまったのだ。
(死ぬほど気持ちよかったけど)
二人並んでベッドに横たわりながら、イレブンはちょっと泣きたい気持ちで天井を見上げていた。腕の中ではカミュがピッタリとこちらに身を寄せ、寝息を立てている。
まだ少し赤いままの頬に愛おしさが溢れ、ますます泣きたい気持ちになった。
(同じくらい、死ぬほど情けない……)
苦しい思いをさせてしまったし、最低限のエチケットすら守れなかった。それなのに、どこかでは満たされている自分がいる。カミュにばかり負担をかけたあげく、こんなにも格好悪い初体験になってしまったというのに。
けれど、だからこそ、イレブンの心は感謝の念で満たされていた。華奢な身体で精一杯、こんな自分を受け止めてくれた、なにより大切な存在に。
「ありがとう、カミュ」
指先で、その頬をくすぐった。ん、と小さな声を漏らして、カミュは一瞬ぎゅっと目を閉じた。起こしてしまったかと思ったが、彼はそのまま眠り続けた。
(絶対、幸せにしよう)
カミュを守るようにいっそう抱き寄せ、イレブンは固く胸に誓うのだった。
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エマはカミュ──ゴンザレスが無事に戻ってきたことに、安堵の笑みを見せた。そして綺麗に畳んだ衣服と靴を、紙袋に入れて返してくれた。
チビちゃんにも会っていく? と問われたが、イレブンはその誘いを断った。
チビはカミュの妹であるらしいことが分かったものの、今夜はひとまずカミュを休ませてやりたかったのだ。
カミュは終始イレブンの肩に乗ったまま、髪を掴んだり引っ張ったりしてピーピーと鳴いていた。見ているこちらが少し心配になるくらい、興奮状態が続いていた。
そんな彼をなだめながら帰宅した頃には、時刻は21時を過ぎていた。
「それにしても、どうして急に元の姿に戻ってしまったんだろう?」
自室に戻ってすぐ、イレブンはベッドの上にカミュをおろした。彼はシーツの上を行ったり来たりして、落ち着きのない様子を見せている。
それを眺めながら、イレブンもベッドに腰掛けて「うーん」とうなった。
先ほど、壮絶な圧迫面接(めっちゃ怖かった)を受けていた際、ホメロスにもそれとなく聞いてみたのだ。あの青いハリネズミには、何か不思議な力でもあるんですか? と──。
すると「なにを言っているんだコイツは」とばかりに、怪訝そうな顔をされた。まるでゴミでも見るかのような目だった。無理もない。動物が人間に変身するなんて、アニメやゲームの世界でしかありえないのだから。
「ピーッ、ピーッ!」
すっかり考え込んでいたイレブンだったが、カミュの甲高い声に「ごめん」と笑った。放っておかれたことにご立腹なのか、あるいはまだ興奮状態が続いているのか、カミュは鳴き声をあげながらイレブンの膝に乗ってきた。
そのままクルクルと動き回ったり、イレブンのシャツをガリガリと引っ掻いたりしている。イレブンはそんなカミュの身体に、そっと優しく両手で触れた。
硬く鋭い被毛のせいで、その温もりを遠く感じる。表面をゆるくなぞるしかできない触れ方が、ひどくもどかしかった。
「ピィッ、ピッ、ピー!」
「うん。ボクも、キミが戻ってきてくれて嬉しいよ。でも困ったな……キミと会話をするのに慣れきってしまったから、すごく焦れったい気分なんだ」
この姿のカミュも可愛らしくて、愛おしいことに変わりはない。けれどあの甘く爽やかなテノールに、名前を呼んでもらえないのはやはり寂しかった。
こうして彼が戻ってきてくれただけで十分だと、そう思うべきなのに。
あの不思議な現象が引き起こされた原因はなんだったのか、そのキッカケさえ分かればと、どうしても考えてしまう自分がいる。
「ピィ、ピ……ピ……」
するといつしか、カミュの声が弱々しいものになっていた。息も荒く、直に皮膚に触れているわけでもないのに、身体の熱さが伝わってくる。
「カミュ、疲れた? 大丈夫か?」
なんとか落ち着かせようとするけれど、その間にもカミュはイレブンの手にしがみついたり、身体を擦りつけようとしてくる。なんだかだいぶ様子がおかしい。
どうしたものかと困り果てているうちに、だんだん左手の包帯がほどけてきた。その隙間から、奇妙な形のアザが覗く。カミュはその鼻先を包帯の下に潜り込ませようとして、グリグリと押しつけてきた。
その瞬間──
「うわっ……!?」
カミュの身体がまばゆい光に包まれた。眩しさにぎゅっと目を閉じたイレブンだったが、それはほんの一瞬のことだった。
「ッ、か……ミュ……?」
膝の上にあったはずの小さな温もりが、ヒトの姿に変わっていた。小動物とは異なる、ずっしりとした重みを感じる。
イレブンを跨ぐようにして、彼は一糸まとわぬ姿をさらしてそこにいた。
「イレブン……」
淡桃に色づく肌が汗に艶めき、宝石のような青い瞳は悩ましげに揺れている。
あれほど切望していた姿を目の前にして、イレブンはそのあられもない様子に唖然とするしかなかった。
カミュは熱っぽい息を漏らしながら、そんなイレブンの首に抱きついてくる。
「わっ……!?」
その拍子に、背中からベッドに倒れ込む。
「カミュ、キミ……っ、その姿、どうして?」
「イレブン、オレ……わかったよ……」
「ッ、ぇ……?」
「お前が言ってた好きの意味……オレも同じだったんだ。他のやつには、こんな気持ちになったりしない……」
とろりとした眼差しがグッと近づき、唇に熱が押し当てられた。しっとりと濡れたような感触に、目の前がチカチカと赤くなる。
「ッ、~~……!」
もはや理性の限界だった。そこにはただ溢れんばかりの喜びと劣情だけがある。
イレブンはその華奢な背を掻き抱いて、ぐるりと身体を反転させた。そして思うがままに、薄い唇を貪った。
「んぅッ……、は…っ、んん……っ!」
舌を絡めるようなキスなんて、エッチな本や動画でしか見たことがない。それでも考えるより感じるままに、愛しいという気持ちをぶつけた。
濡れた肉が擦れるたびに、頭の芯に痺れが走る。必死で応えようとしてくれるカミュのいじらしさが、イレブンをますます駆り立てた。
「は、ふ、…っ、ん……っ」
酸欠で息が苦しくなるまで、キスは途切れることなく続いた。脳が茹だったように熱かった。唾液の糸を引きながら離れたカミュの唇が、真っ赤に濡れて色づいていた。跳ねる鼓動に意識が眩む。
「イレ、ブン……なあ、イレブン……」
「……ん、なに?」
零れそうなほど瞳をうるませ、カミュがイレブンの下で小首をかしげる。
「オレのこと、まだ特別だって、思ってくれるか?」
「……ッ、当たり前だろ!」
声がひっくり返って情けなかった。もっと格好よく言えたらよかったのに。いっそ苛立ちにも似た激情に身を任せ、カミュをキツく抱きしめた。
「初めて会ったときから、キミはずっと、ボクだけの特別だ!」
カミュが笑うと、身体全体に小さな振動が伝わってきた。彼はイレブンに頬ずりをして、耳元に唇を押しつけると「ありがとな」と囁くように言った。
「なら、いいぜ」
「カミュ……?」
「お前のためならオレ、メスにだってなるよ」
胸の奥底から、熱湯が噴き出すようだった。とっさにヒュッと息を呑んだあと、恥ずかしいくらい大きな音を立てて喉を鳴らしてしまう。
本当に、どこまでも格好がつかない。だけど、もういいやと思った。
オスとして走り出した本能の前に、イレブンは開き直りにも似た境地に達した。
*
結論から言うと、行為は成功したとはいえない結果に終わった。
未熟な二人が何の準備もなしに突っ走れるほど、男同士の行為は甘くない。
前々からこっそりと、多少の下調べはしていたけれど、いざとなるとそう上手くはいかないものだ。
結局、ひたすらカミュに負担を強いることになってしまった。
潤滑剤はハンドクリームで代用するしかなかったし、保健の授業で配布されていたスキンは、イレブンにはいささか小さすぎた。だから装着するのは諦めた。
そうやって時間をかけて、なんとか挿入の段階にこぎ着けたものの、カミュは痛みに震えながら脂汗をかいていて、見ているのもつらいほどだった。
これ以上は無理だと判断し、イレブンは途中で断念しようとした。けれどカミュは、それをひどく嫌がった。
「頼むからちゃんと、オレをお前のものにしてくれよ」
ズルいと思った。そんなことを言われたら、引くに引けなくなってしまう。
ひどく迷ったあと、イレブンはカミュを労わるように抱きしめて、嫌というほどキスをした。何度も繰り返し好きだと言って、その身体から強張りが抜けるの根気よく待った。
そうして少しずつ、奥まで自身を飲み込ませていった。
するとカミュは、目にいっぱいの涙をためながら「嬉しい」と言った。苦しげに、けれど甘くかすれた声で、「好きだ、イレブン」と。
これ以上どうしたらいいか分からないくらい、膨らんだ愛しさが胸で弾けた。そしてそれは、不幸な事故を起こす引き金になった。
「……あッ」
耐えて耐えて耐え抜いて、本懐を遂げた瞬間に。せめてナカで出さないようにと、細心の注意を払うつもりでいたにも関わらず。
イレブンは大暴発を起こしてしまったのだ。
(死ぬほど気持ちよかったけど)
二人並んでベッドに横たわりながら、イレブンはちょっと泣きたい気持ちで天井を見上げていた。腕の中ではカミュがピッタリとこちらに身を寄せ、寝息を立てている。
まだ少し赤いままの頬に愛おしさが溢れ、ますます泣きたい気持ちになった。
(同じくらい、死ぬほど情けない……)
苦しい思いをさせてしまったし、最低限のエチケットすら守れなかった。それなのに、どこかでは満たされている自分がいる。カミュにばかり負担をかけたあげく、こんなにも格好悪い初体験になってしまったというのに。
けれど、だからこそ、イレブンの心は感謝の念で満たされていた。華奢な身体で精一杯、こんな自分を受け止めてくれた、なにより大切な存在に。
「ありがとう、カミュ」
指先で、その頬をくすぐった。ん、と小さな声を漏らして、カミュは一瞬ぎゅっと目を閉じた。起こしてしまったかと思ったが、彼はそのまま眠り続けた。
(絶対、幸せにしよう)
カミュを守るようにいっそう抱き寄せ、イレブンは固く胸に誓うのだった。
←戻る ・ 次へ→
エマと別れたイレブンは、大急ぎで駅前へと走った。
辺りはすっかり暗くなっている。駅周辺は帰宅途中の学生や、会社員が多く行き交っていた。人波を避けながら、イレブンは先ほどのエマの話を思いだしていた。
──あのお店、店員さんがものすごく怖いって評判なの。
──おじいちゃんも、かなり怖いを思いをしたみたい。
──だから気をつけて、イレブン。なにがあるか分からないから……。
エマの口ぶりから察するに、あまり店員の質が良くないということだろうか。
分からないなりに、イレブンはひたすらカミュの身を案じるしかなかった。そんな場所に彼が戻っていたとして、果たしてどんな扱いを受けているものか。
(カミュ、必ず助ける! だから今は、どうかそこに戻っていてくれ!)
全力でひた走り、やがて問題のペットショップに到着した。閉店間際らしく、何人かのスタッフが店じまいをしている最中のようだった。
ギリギリ営業時間内ということもあり、店にはなんなく入ることができた。
「すみません! ここに青いハリネズミはいませんか?」
イレブンは入ってすぐの場所にいた店員の一人に声をかけた。
ちょうどこちらに背を向ける形でいた店員は、イレブンの声にピクリと反応し、ゆっくりとこちらを振り返った。
「青いハリネズミ、だと……?」
長い金髪に、ひどく鋭い目つきをした男だった。イレブンは一瞬にして、その威圧感に圧倒されそうになった。しかしここで目を逸らせば負けな気がした。食らいつくようにして見返していると、男は「ククッ」と不敵に笑った。
「あのウスノロをご所望だというのか? 我が王のご活躍により、ようやく連れ戻したばかりの、あのドブネズミを?」
ウスノロだのドブネズミだの、なんという言い草だろうか。
しかしどうやらエマが予測した通り、カミュはこの店に戻っているらしい。察するに、連れ戻されたといったほうが正しいか。けれど安堵に浸る間はなさそうだった。
「よかろう、ついてくるがいい。あちらでじっくりと、話をしようじゃないか」
悪を煮詰めたような笑い方をする男だ。彼は軽くアゴをしゃくるようにして合図を寄越し、そのまま背を向けて歩きだした。
イレブンは緊張に身を固くしながらも、黙ってその後をついていく。
「まさかホメロス様、あんな子供相手に?」
「あの方にとっては大人も子供もないのさ……気の毒だがな」
どこからか、他のスタッフがヒソヒソと話す声が耳に入ってくる。
その不穏すぎる内容に、イレブンは密かに喉を鳴らした。一体この先に、なにが待ち受けているというのだろうか。
けれどイレブンは胸に誓ったのだ。なにがあろうと、必ずカミュを助けだすと。
店内にピリピリと鋭い空気が立ち込めるなか、イレブンは金髪の男に導かれるまま、店の奥へと足を踏み入れていくのだった。
*
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。
昼近くに連れ戻されてから、カミュはずっと塞ぎ込んでいた。水も餌も喉を通らない。ただずっと後悔に打ちひしがれて過ごすしかなかった。
「カミュ」
名を呼ばれても、カミュは巣箱の中で丸まったまま動く気になれなかった。
金属が擦れ、何かが外れるような音がする。巣箱を持ち上げられてもなお、カミュはうずくまったままだった。
「寝ているところすまない」
その声はグレイグのものだった。
(……なんだよ。グレイグのおっさんか)
放っておいてくれよとカミュは思った。今は誰にも構われたくない。目を合わせる気にもなれなかった。
しかしそんな感情が伝わるはずもなく、グレイグの大きな手によって抱き上げられてしまう。
「お前に客だ」
(客? オレに……?)
「お前を欲しがっているそうだ」
(……ふぅん)
マヤならともかく、とんだ物好きがいたものだ。今日の今日で買い手がつくというのも、どこか皮肉な運命を感じる。
けれどカミュには、もはや何もかもがどうでもいいことのように思えた。
ノロノロと力なく顔をあげ、虚ろな瞳でグレイグを見上げた。
「案ずることはない。今はホメロスの圧迫面接を受けている」
(圧迫面接……? なんだそりゃ)
怪訝そうに首をかしげたカミュに、グレイグが深くうなずいた。
「責任感のない人間に、大切な命を預けることはできん。ゆえに客の精査はしっかり行う。それがこの店のモットーだ。しかし──」
グレイグは店の奥を見やったあと、再びカミュに視線を戻す。
「あの様子だと合格だろう。まっすぐな目をした、誠実そうな若者だ」
(!)
そのとき、なにか予感めいたものがした。胸がザワザワと騒ぎだす。
まっすぐな目をした、誠実そうな若者──そんな人間を、カミュは一人しか知らない。
「おっさん、それってまさか……」
無意識のうちに「ピッ、ピッ」という甲高い声が漏れる。グレイグはふっと微笑み、「そうか、お前にも分かるか」と言って店の奥へ足を向けた。
店内は静まり返り、客の姿は一人もなかった。どうやらすでに閉店時間を過ぎているらしい。清掃や、動物たちの世話をしているスタッフの数もまばらだった。
グレイグに抱かれ、カミュはレジ裏にあるスペースに連れて行かれた。
モスグリーンのカーテンが引かれており、どうやらその向こうが圧迫面接の会場になっているらしい。
グレイグの手がカーテンにかかると、カミュはごくりと喉を鳴らした。心臓がうるさいくらい飛び跳ねている。そして次の瞬間、予感は確信に変わった。
「カミュ!」
カーテンが引かれた先には、小さな机と二脚の椅子があった。そしてそのうちの一脚に座っていたのは──
(イレブン……!)
ガタンと大きな音を立て、立ち上がったのはイレブンだった。彼の大きな瞳には、うっすらと涙の膜が張っている。
カミュは一瞬、都合のいい夢でも見ているのかと思った。だってカミュがここにいることを、彼が知っているはずがないからだ。
けれどその花が開くような笑顔を見た瞬間、いっそ夢でも構わないと思えた。
気づいたら、カミュはグレイグの胸を思い切り蹴っていた。
「ピーッ! ピーッ!」
「カミュ! カミュ……!」
力いっぱい飛びかかったカミュを、イレブンが両手でしっかりと受け止める。そして針がチクチクと刺さるのも構わず、思いきり抱きしめた。
「ごめん……っ、ごめんよカミュ! もう絶対に、キミを離したりしないよ!」
「ピッ、ピーッ! ピィーッ!」
夢なんかじゃない。確かにイレブンだ。その頬に何度も鼻先を擦りつけ、カミュは大好きな匂いを吸い込んだ。サラサラの髪を必死で掴み、何度も強く引っ張りながら。
「話は聞かせてもらった。ずいぶん長いこと世話になったようだな」
もう一脚の椅子に足と腕を組んで座っていたホメロスが、再会を喜び合うイレブンとカミュを見ながら言った。
イレブンはホメロスに向き合い、申し訳無さそうに眉尻を下げた。
「本当にごめんなさい。まさかペットショップから逃げだした子だったなんて……もっとよく調べるべきだったのに……」
「いい。その話はさっきも聞いた」
ホメロスは不貞腐れたように顔を逸らすと、ふんっと鼻を鳴らした。
「合格だ。どこへなりとも連れて行くがいい。この忌々しい悪魔の子め……」
「ッ! ありがとうございます……!」
カミュを抱いたまま、イレブンが深々と頭をさげた。
ズビ、と鼻をすするホメロスは、頑なに顔を背け続けている。そんなホメロスの肩を、グレイグがポンと叩いた。
「寂しくなるな」
「うるさいぞグレイグ」
鼻声で憎まれ口を叩くホメロスに、グレイグがふっと笑った。
そしてその光景を、少し離れた位置からしかと見届けていた店長のモーゼフは、瞳を細めながら「うむ」と一つ、大きくうなずいたのだった。
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辺りはすっかり暗くなっている。駅周辺は帰宅途中の学生や、会社員が多く行き交っていた。人波を避けながら、イレブンは先ほどのエマの話を思いだしていた。
──あのお店、店員さんがものすごく怖いって評判なの。
──おじいちゃんも、かなり怖いを思いをしたみたい。
──だから気をつけて、イレブン。なにがあるか分からないから……。
エマの口ぶりから察するに、あまり店員の質が良くないということだろうか。
分からないなりに、イレブンはひたすらカミュの身を案じるしかなかった。そんな場所に彼が戻っていたとして、果たしてどんな扱いを受けているものか。
(カミュ、必ず助ける! だから今は、どうかそこに戻っていてくれ!)
全力でひた走り、やがて問題のペットショップに到着した。閉店間際らしく、何人かのスタッフが店じまいをしている最中のようだった。
ギリギリ営業時間内ということもあり、店にはなんなく入ることができた。
「すみません! ここに青いハリネズミはいませんか?」
イレブンは入ってすぐの場所にいた店員の一人に声をかけた。
ちょうどこちらに背を向ける形でいた店員は、イレブンの声にピクリと反応し、ゆっくりとこちらを振り返った。
「青いハリネズミ、だと……?」
長い金髪に、ひどく鋭い目つきをした男だった。イレブンは一瞬にして、その威圧感に圧倒されそうになった。しかしここで目を逸らせば負けな気がした。食らいつくようにして見返していると、男は「ククッ」と不敵に笑った。
「あのウスノロをご所望だというのか? 我が王のご活躍により、ようやく連れ戻したばかりの、あのドブネズミを?」
ウスノロだのドブネズミだの、なんという言い草だろうか。
しかしどうやらエマが予測した通り、カミュはこの店に戻っているらしい。察するに、連れ戻されたといったほうが正しいか。けれど安堵に浸る間はなさそうだった。
「よかろう、ついてくるがいい。あちらでじっくりと、話をしようじゃないか」
悪を煮詰めたような笑い方をする男だ。彼は軽くアゴをしゃくるようにして合図を寄越し、そのまま背を向けて歩きだした。
イレブンは緊張に身を固くしながらも、黙ってその後をついていく。
「まさかホメロス様、あんな子供相手に?」
「あの方にとっては大人も子供もないのさ……気の毒だがな」
どこからか、他のスタッフがヒソヒソと話す声が耳に入ってくる。
その不穏すぎる内容に、イレブンは密かに喉を鳴らした。一体この先に、なにが待ち受けているというのだろうか。
けれどイレブンは胸に誓ったのだ。なにがあろうと、必ずカミュを助けだすと。
店内にピリピリと鋭い空気が立ち込めるなか、イレブンは金髪の男に導かれるまま、店の奥へと足を踏み入れていくのだった。
*
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。
昼近くに連れ戻されてから、カミュはずっと塞ぎ込んでいた。水も餌も喉を通らない。ただずっと後悔に打ちひしがれて過ごすしかなかった。
「カミュ」
名を呼ばれても、カミュは巣箱の中で丸まったまま動く気になれなかった。
金属が擦れ、何かが外れるような音がする。巣箱を持ち上げられてもなお、カミュはうずくまったままだった。
「寝ているところすまない」
その声はグレイグのものだった。
(……なんだよ。グレイグのおっさんか)
放っておいてくれよとカミュは思った。今は誰にも構われたくない。目を合わせる気にもなれなかった。
しかしそんな感情が伝わるはずもなく、グレイグの大きな手によって抱き上げられてしまう。
「お前に客だ」
(客? オレに……?)
「お前を欲しがっているそうだ」
(……ふぅん)
マヤならともかく、とんだ物好きがいたものだ。今日の今日で買い手がつくというのも、どこか皮肉な運命を感じる。
けれどカミュには、もはや何もかもがどうでもいいことのように思えた。
ノロノロと力なく顔をあげ、虚ろな瞳でグレイグを見上げた。
「案ずることはない。今はホメロスの圧迫面接を受けている」
(圧迫面接……? なんだそりゃ)
怪訝そうに首をかしげたカミュに、グレイグが深くうなずいた。
「責任感のない人間に、大切な命を預けることはできん。ゆえに客の精査はしっかり行う。それがこの店のモットーだ。しかし──」
グレイグは店の奥を見やったあと、再びカミュに視線を戻す。
「あの様子だと合格だろう。まっすぐな目をした、誠実そうな若者だ」
(!)
そのとき、なにか予感めいたものがした。胸がザワザワと騒ぎだす。
まっすぐな目をした、誠実そうな若者──そんな人間を、カミュは一人しか知らない。
「おっさん、それってまさか……」
無意識のうちに「ピッ、ピッ」という甲高い声が漏れる。グレイグはふっと微笑み、「そうか、お前にも分かるか」と言って店の奥へ足を向けた。
店内は静まり返り、客の姿は一人もなかった。どうやらすでに閉店時間を過ぎているらしい。清掃や、動物たちの世話をしているスタッフの数もまばらだった。
グレイグに抱かれ、カミュはレジ裏にあるスペースに連れて行かれた。
モスグリーンのカーテンが引かれており、どうやらその向こうが圧迫面接の会場になっているらしい。
グレイグの手がカーテンにかかると、カミュはごくりと喉を鳴らした。心臓がうるさいくらい飛び跳ねている。そして次の瞬間、予感は確信に変わった。
「カミュ!」
カーテンが引かれた先には、小さな机と二脚の椅子があった。そしてそのうちの一脚に座っていたのは──
(イレブン……!)
ガタンと大きな音を立て、立ち上がったのはイレブンだった。彼の大きな瞳には、うっすらと涙の膜が張っている。
カミュは一瞬、都合のいい夢でも見ているのかと思った。だってカミュがここにいることを、彼が知っているはずがないからだ。
けれどその花が開くような笑顔を見た瞬間、いっそ夢でも構わないと思えた。
気づいたら、カミュはグレイグの胸を思い切り蹴っていた。
「ピーッ! ピーッ!」
「カミュ! カミュ……!」
力いっぱい飛びかかったカミュを、イレブンが両手でしっかりと受け止める。そして針がチクチクと刺さるのも構わず、思いきり抱きしめた。
「ごめん……っ、ごめんよカミュ! もう絶対に、キミを離したりしないよ!」
「ピッ、ピーッ! ピィーッ!」
夢なんかじゃない。確かにイレブンだ。その頬に何度も鼻先を擦りつけ、カミュは大好きな匂いを吸い込んだ。サラサラの髪を必死で掴み、何度も強く引っ張りながら。
「話は聞かせてもらった。ずいぶん長いこと世話になったようだな」
もう一脚の椅子に足と腕を組んで座っていたホメロスが、再会を喜び合うイレブンとカミュを見ながら言った。
イレブンはホメロスに向き合い、申し訳無さそうに眉尻を下げた。
「本当にごめんなさい。まさかペットショップから逃げだした子だったなんて……もっとよく調べるべきだったのに……」
「いい。その話はさっきも聞いた」
ホメロスは不貞腐れたように顔を逸らすと、ふんっと鼻を鳴らした。
「合格だ。どこへなりとも連れて行くがいい。この忌々しい悪魔の子め……」
「ッ! ありがとうございます……!」
カミュを抱いたまま、イレブンが深々と頭をさげた。
ズビ、と鼻をすするホメロスは、頑なに顔を背け続けている。そんなホメロスの肩を、グレイグがポンと叩いた。
「寂しくなるな」
「うるさいぞグレイグ」
鼻声で憎まれ口を叩くホメロスに、グレイグがふっと笑った。
そしてその光景を、少し離れた位置からしかと見届けていた店長のモーゼフは、瞳を細めながら「うむ」と一つ、大きくうなずいたのだった。
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でるかだ~る店長、モーゼフの手によって直々に捕獲されたカミュは、数カ月ぶりに古巣のケージに戻されていた。
格子状の蓋には新たに南京錠が追加され、以前よりロックが厳重になっている。これではもう脱走することは不可能だ。ここで一生を終えるか、見ず知らずの誰かに買われてペットにされるか、もはやカミュにはその二択しか残されていない。
(イレブン……)
巣箱の中で丸まりながら、プルプルと身を震わせた。
あんな別れ方をしたまま、もう二度と会えなくなるなんて。せめて最後に、もう一度だけ笑顔が見たかった。けれど、それはもはや叶わぬ願いだ。
(イレブンにも、マヤにも……もう会えなくなっちまったんだな……)
だけど、それでいいのかもしれないとも思った。
マヤにはエマがいる。イレブンだって、いつか彼女と結ばれる日が来るのかもしれない。本人は否定していたが、それはとても自然な流れに思えた。
カミュがいなくたって、カミュが大切だと思う存在はみな幸せになるのだ。
だったらもうここから出る意味はない。マヤの無事が確認できて、イレブンと出会うこともできた。その思い出だけで、十分に釣りが来る経験だった。
そうやって自分を納得させようと思うのに、なぜだか涙が止まらない。次から次へと大きな雫が溢れては、足元の床材を湿らせる。
あのモヤモヤとした思いが、ズキズキという痛みに変わっていた。
(つくづくバカだな、オレってやつは……今さら気づいてどうすんだ)
──だけどボクの好きは、もっと特別な好きなんだ
特別だというその響きに、あのときのカミュは胸を痺れさせた。嬉しかった。それこそが答えだったのに、どうして気づけなかったんだろう。
だってこんなにも胸が痛い。自分以外の誰かとキスをするイレブンを想像するだけで、心が引き裂かれそうだった。
(イレブン……オレ分かったよ。お前が言ってたこと、やっと分かったよ。嫌なもんだな……自分にとっての特別が、他の誰かのもんになっちまうのは……)
彼がエマとキスをするのも、ケッコンして家族になるのも。笑顔を向ける相手でさえも。そこにいるのは自分でありたかったと思う。
結局のところ、このモヤモヤの正体は嫉妬だったのだ。イレブンと結ばれることができる誰かへの。それはエマかもしれないし、他の誰かかもしれないけれど。
(お前も同じ気持ちでいてくれたんだよな……なのにごめん。ごめんな、イレブン……本当に、バカでごめん……)
離れてみて、初めて気がつくなんて。何もかもが、もう手遅れなのに。
(会いたいよ、お前に)
カミュはトゲトゲの被毛を震わせながら、いっそう身を縮こませた。
*
「カミュ! 返事をしてくれ! カミュ!」
そこいらじゅうを駆けずり回り、いったんマンションの側まで戻ってきたイレブンは、汗だくで息を乱していた。
思いつく限りの場所を探してみたが、彼が見つかる気配はない。
どこかで迷子にでもなっているのか、あるは誰かに連れ去られたか──。
「イレブン?」
嫌な予感に凍りつくイレブンの背に、よく知る声がかかった。
振り返ると、そこにはセーラー服を着た幼馴染のエマの姿があった。夕暮れ時の風に、長い金髪と制服の赤いスカーフが揺れている。
「エマ!」
「一体どうしたの? そんなに汗だくになって」
「エマ、カミュを見かけなかったか!? どこを探しても見つからないんだ!」
前のめりになって問いかけるイレブンに、彼女は目をまん丸にして首をかしげた。
「カミュ? それって、あなたのお友達?」
そうだ。エマはカミュを知らないのだった。
イレブンは誤魔化すようにひとつ咳払いをすると、かすかに視線をうつむけせた。
「えっと……ゴンザレスが、脱走してしまって……」
するとエマが「えぇ!?」と非難を滲ませた声をあげる。
「大変じゃない! どうしてちゃんと見ててあげなかったのよ!?」
「う、ご、ごめん……」
まったくもってその通りだ。カミュが一人で外に出たのは、おそらく今朝のことが原因だろう。嫌な態度をとって、彼を傷つけてしまったから。
もしかしたら、カミュは自分に愛想を尽かしたのかもしれない。だから出ていったのではないか。
急激に冷えていく心の内に、いっそう強く不安がのしかかる。ぎゅうっと強く、拳を握った。不甲斐ない自分を、殴りつけてやりたい気分だった。
「しっかりしてよ! ここでこうしてたって仕方ないでしょ!」
エマの声に、ハッとしながら顔をあげた。
「私も一緒に探すわ! 暗くなる前に見つけてあげなきゃ、ゴンザレスくんが可哀想よ!」
そうだ、ウジウジと自分を責めていたって仕方ない。こうしてる間にも、カミュが危険な目にあっている可能性だってあるのだ。
心強いエマの言葉に、イレブンは強くうなずいた。
*
エマの協力もむなしく、カミュは依然として行方知れずのままだった。
辺りはだんだんと薄暗くなってきている。ふたりは再びマンションの前に戻ってきていた。
「これだけ探しても見つからないなんて……」
ここいら一帯はくまなく探したつもりだ。カミュがイレブンの呼びかけを無視するとも思えない。やはり誰かに連れ去られでもしたのか。あるいは事故にでもあったのか──考えたくもないことばかりが頭に浮かぶ。
「もしかして……」
腕を組んで考え込んでいたエマが、何やら閃いた様子でパッと顔をあげた。
「元いた場所に帰った……ってことは、考えられないかしら?」
「元いた場所?」
エマがうなずく。
「元々いた場所よ。犬や猫だとよく聞く話じゃない。帰巣本能? だっけ。ハリネズミはどうか分からないけど……」
「でも、ボクはカミュ……いや、ゴンザレスが元々どこから来たのか知らないんだ」
カミュからは、そういった話をいっさい聞いていないことに気がついた。あれほど毎日一緒にいたのに、イレブンは彼のことを何も知らない。
それでどうして、好きだなんて言えるのだろう。つくづく自分が嫌になってばかりだ。今さら後悔したところで、どうにかなるものでもないけれど。
「どういうこと? だってあの子、でるかだ~るから来た子でしょ?」
するとエマが意外そうな顔をして言った。意味が理解できず、イレブンはただ目を丸くするばかりだった。
「言ったじゃない。うちのチビちゃん、駅前のペットショップからおじいちゃんが連れてきてくれた子だって」
「それは聞いたけど……」
エマが言うにはこうだった。
彼女の祖父が駅前のペットショップ・でるかだ~るに行った際、ケージの中には二匹の青いハリネズミがいた。店員によると、仲のいい兄妹であるという。
引き離すのは忍びなくも思ったが、エマの祖父は赤いリボンの妹ハリネズミを選んだ。孫と女の子同士、きっと馬が合うだろうと考えてのことだった。
残された兄の方は、金色のピアスをしていたという。
「だからてっきり私、あの子もでるかだ~るから来たんだとばかり思っていたのよ」
そうか。それですべてが繋がった。
どうりで飼い主を探しても見つからないわけだ。そもそも飼い主など、最初からいなかった。彼は飼われていたのではなく、ペットショップからやって来たのだから。
「ありがとうエマ。ボク、でるかだ~るに行ってみる。悪いけど、これ頼むよ」
イレブンは抱えていたカバンとカミュの衣服をエマに渡した。彼女は「この服なに?」と不思議そうにしながらも、ひとまず受け取ってくれた。
「それじゃ」
「待ってイレブン!」
駆け出そうとしたイレブンを、不安げな面持ちのエマが引き止める。
「大事な話なの。よく聞いて。あのね──」
エマの言葉に耳を傾けたイレブンは、わずかな緊張をその背に走らせた。
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格子状の蓋には新たに南京錠が追加され、以前よりロックが厳重になっている。これではもう脱走することは不可能だ。ここで一生を終えるか、見ず知らずの誰かに買われてペットにされるか、もはやカミュにはその二択しか残されていない。
(イレブン……)
巣箱の中で丸まりながら、プルプルと身を震わせた。
あんな別れ方をしたまま、もう二度と会えなくなるなんて。せめて最後に、もう一度だけ笑顔が見たかった。けれど、それはもはや叶わぬ願いだ。
(イレブンにも、マヤにも……もう会えなくなっちまったんだな……)
だけど、それでいいのかもしれないとも思った。
マヤにはエマがいる。イレブンだって、いつか彼女と結ばれる日が来るのかもしれない。本人は否定していたが、それはとても自然な流れに思えた。
カミュがいなくたって、カミュが大切だと思う存在はみな幸せになるのだ。
だったらもうここから出る意味はない。マヤの無事が確認できて、イレブンと出会うこともできた。その思い出だけで、十分に釣りが来る経験だった。
そうやって自分を納得させようと思うのに、なぜだか涙が止まらない。次から次へと大きな雫が溢れては、足元の床材を湿らせる。
あのモヤモヤとした思いが、ズキズキという痛みに変わっていた。
(つくづくバカだな、オレってやつは……今さら気づいてどうすんだ)
──だけどボクの好きは、もっと特別な好きなんだ
特別だというその響きに、あのときのカミュは胸を痺れさせた。嬉しかった。それこそが答えだったのに、どうして気づけなかったんだろう。
だってこんなにも胸が痛い。自分以外の誰かとキスをするイレブンを想像するだけで、心が引き裂かれそうだった。
(イレブン……オレ分かったよ。お前が言ってたこと、やっと分かったよ。嫌なもんだな……自分にとっての特別が、他の誰かのもんになっちまうのは……)
彼がエマとキスをするのも、ケッコンして家族になるのも。笑顔を向ける相手でさえも。そこにいるのは自分でありたかったと思う。
結局のところ、このモヤモヤの正体は嫉妬だったのだ。イレブンと結ばれることができる誰かへの。それはエマかもしれないし、他の誰かかもしれないけれど。
(お前も同じ気持ちでいてくれたんだよな……なのにごめん。ごめんな、イレブン……本当に、バカでごめん……)
離れてみて、初めて気がつくなんて。何もかもが、もう手遅れなのに。
(会いたいよ、お前に)
カミュはトゲトゲの被毛を震わせながら、いっそう身を縮こませた。
*
「カミュ! 返事をしてくれ! カミュ!」
そこいらじゅうを駆けずり回り、いったんマンションの側まで戻ってきたイレブンは、汗だくで息を乱していた。
思いつく限りの場所を探してみたが、彼が見つかる気配はない。
どこかで迷子にでもなっているのか、あるは誰かに連れ去られたか──。
「イレブン?」
嫌な予感に凍りつくイレブンの背に、よく知る声がかかった。
振り返ると、そこにはセーラー服を着た幼馴染のエマの姿があった。夕暮れ時の風に、長い金髪と制服の赤いスカーフが揺れている。
「エマ!」
「一体どうしたの? そんなに汗だくになって」
「エマ、カミュを見かけなかったか!? どこを探しても見つからないんだ!」
前のめりになって問いかけるイレブンに、彼女は目をまん丸にして首をかしげた。
「カミュ? それって、あなたのお友達?」
そうだ。エマはカミュを知らないのだった。
イレブンは誤魔化すようにひとつ咳払いをすると、かすかに視線をうつむけせた。
「えっと……ゴンザレスが、脱走してしまって……」
するとエマが「えぇ!?」と非難を滲ませた声をあげる。
「大変じゃない! どうしてちゃんと見ててあげなかったのよ!?」
「う、ご、ごめん……」
まったくもってその通りだ。カミュが一人で外に出たのは、おそらく今朝のことが原因だろう。嫌な態度をとって、彼を傷つけてしまったから。
もしかしたら、カミュは自分に愛想を尽かしたのかもしれない。だから出ていったのではないか。
急激に冷えていく心の内に、いっそう強く不安がのしかかる。ぎゅうっと強く、拳を握った。不甲斐ない自分を、殴りつけてやりたい気分だった。
「しっかりしてよ! ここでこうしてたって仕方ないでしょ!」
エマの声に、ハッとしながら顔をあげた。
「私も一緒に探すわ! 暗くなる前に見つけてあげなきゃ、ゴンザレスくんが可哀想よ!」
そうだ、ウジウジと自分を責めていたって仕方ない。こうしてる間にも、カミュが危険な目にあっている可能性だってあるのだ。
心強いエマの言葉に、イレブンは強くうなずいた。
*
エマの協力もむなしく、カミュは依然として行方知れずのままだった。
辺りはだんだんと薄暗くなってきている。ふたりは再びマンションの前に戻ってきていた。
「これだけ探しても見つからないなんて……」
ここいら一帯はくまなく探したつもりだ。カミュがイレブンの呼びかけを無視するとも思えない。やはり誰かに連れ去られでもしたのか。あるいは事故にでもあったのか──考えたくもないことばかりが頭に浮かぶ。
「もしかして……」
腕を組んで考え込んでいたエマが、何やら閃いた様子でパッと顔をあげた。
「元いた場所に帰った……ってことは、考えられないかしら?」
「元いた場所?」
エマがうなずく。
「元々いた場所よ。犬や猫だとよく聞く話じゃない。帰巣本能? だっけ。ハリネズミはどうか分からないけど……」
「でも、ボクはカミュ……いや、ゴンザレスが元々どこから来たのか知らないんだ」
カミュからは、そういった話をいっさい聞いていないことに気がついた。あれほど毎日一緒にいたのに、イレブンは彼のことを何も知らない。
それでどうして、好きだなんて言えるのだろう。つくづく自分が嫌になってばかりだ。今さら後悔したところで、どうにかなるものでもないけれど。
「どういうこと? だってあの子、でるかだ~るから来た子でしょ?」
するとエマが意外そうな顔をして言った。意味が理解できず、イレブンはただ目を丸くするばかりだった。
「言ったじゃない。うちのチビちゃん、駅前のペットショップからおじいちゃんが連れてきてくれた子だって」
「それは聞いたけど……」
エマが言うにはこうだった。
彼女の祖父が駅前のペットショップ・でるかだ~るに行った際、ケージの中には二匹の青いハリネズミがいた。店員によると、仲のいい兄妹であるという。
引き離すのは忍びなくも思ったが、エマの祖父は赤いリボンの妹ハリネズミを選んだ。孫と女の子同士、きっと馬が合うだろうと考えてのことだった。
残された兄の方は、金色のピアスをしていたという。
「だからてっきり私、あの子もでるかだ~るから来たんだとばかり思っていたのよ」
そうか。それですべてが繋がった。
どうりで飼い主を探しても見つからないわけだ。そもそも飼い主など、最初からいなかった。彼は飼われていたのではなく、ペットショップからやって来たのだから。
「ありがとうエマ。ボク、でるかだ~るに行ってみる。悪いけど、これ頼むよ」
イレブンは抱えていたカバンとカミュの衣服をエマに渡した。彼女は「この服なに?」と不思議そうにしながらも、ひとまず受け取ってくれた。
「それじゃ」
「待ってイレブン!」
駆け出そうとしたイレブンを、不安げな面持ちのエマが引き止める。
「大事な話なの。よく聞いて。あのね──」
エマの言葉に耳を傾けたイレブンは、わずかな緊張をその背に走らせた。
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普段は高層から見下ろすことが多い町並みに、初夏の日差しが降り注いでいた。
Tシャツの上から薄手のパーカーを羽織ってきたが、必要なかったかもしれない。動いていると、いっそ暑いくらいだった。
それでも青空の下を歩くのは心地がよかった。
やはり外に出たのは正解だ。家の中で悶々としているより、遥かに健康的だった。
(イレブンのやつ、喜んでくれるといいんだけどな)
カミュは期待に胸を膨らませ、意気揚々と住宅街を進んでいた。
目指すは近所のスーパーだ。この姿になってから一人で外出するのは初めてだが、道順はしっかり頭に入っているため、迷うことはないだろう。
途中でイレブンと初めて出会った公園を横切り、感慨にふけったりもしつつ、カミュの足取りは軽やかだった。
(あんときよりもっとすげぇもんを鍋にブチ込んで、あいつをビックリさせてやるぜ!)
──が、しかし。
ここまで順調だったカミュは、とある重大な見落としに気がついた。
「……ん? そういやぁ……」
ぴたりと足を止め、首をかしげて考える。
スーパーで様々な食材を物色し、珍しいものをカゴいっぱいに買って帰る。そのミッションを遂行するために、もっとも重要なピース。それすなわち──
「オレ、金持ってなくねーか!?」
そう、お金である。
カミュは当然ながら、現金など所持していない。つまりスーパーへ行ったところで、なにも買えやしないということだ。
「バカかオレは! いっつもこうだ!!」
一気に青ざめ、その場にしゃがんで頭を抱えた。
マヤを探すため、ペットショップを脱走したときもそうだった。あのときも、カミュはノープランであることに途中で気づき、こうして途方に暮れたのだ。
人間に姿を変え、様々なことを知り、成長したつもりでいた。けれど結局のところ、なにも進歩していない。自分で自分が情けなかった。
「イレブンにあの黒いカードを借りるしかねえ……ってことか? でも、それじゃなんにも意味なくねーか!?」
カミュは自分の力だけで、イレブンをアッと驚かせたかったのだ。それなのに彼を頼ってしまったら、なにも意味をなさなくなってしまう。
ヨロヨロと立ち上がり、来た道を引き返しながら、どん底まで落ち込んだ。一気に老け込んだ気すらしながら、ドッと大きなため息をつく。
いっそのこと、その辺に生えている食べられそうな草でも採って帰るか……などと思いつつ、マンションの近くまで戻ってきたそのとき、事件は起こった。
「……あ?」
ふと、自身の身体が淡く発光していることに気がついた。目線もどんどん低くなっていき、周りにあるすべてのものが、少しずつ巨大化していくようだった。
「な、なんだ? オレ、一体どうなって……?」
そこでハッとした。これはもしかして、もしかしなくても──
(ちょっ、おいおいマジかよ!?)
今の今まで着ていたはずの衣服の山から抜け出して、カミュは自分の姿をまじまじと見下ろした。小さな手。全身を覆う青い被毛はトゲトゲで、フシュッ、フシュッ、という声しか発することができない。
そう、カミュはハリネズミの姿に戻ってしまったのだ。
(な、なんだってこんな、急に……!?)
パニックを起こしながらも、とりあえずどこか隠れられそうな場所はないかと、周辺を見渡した。この姿ではマンションに入ることはできないし、どこかに身を隠してイレブンの帰りを待つしかない。
が、しかし──そんなカミュに、新たな危機が襲いかかった。
「ドブネズミ! いたら返事をしろ! 薄汚いドブネズミー!!」
なんだかものすごーく、聞き覚えのある声がした。
(!?)
その方向を見やると、白いエプロンをした金髪の男が、カミュを探して声を張り上げている姿があった。
「出てこいドブネズミ! ドブネズミー!!」
(ほ、ホメロス……! なんでこんなところに!?)
なんという最悪なタイミングだろうか。カミュはすぐにその場を離れようと、とっさに反対方向へ駆け出そうとした。だがしかし。
「そこのご婦人。この周辺で、青いハリネズミを見かけなかっただろうか?」
(!?)
そこにはなんと、黒いエプロンの大男までいた。彼は通りすがりの主婦に、猫背で話しかけている。
「……そうか。もし見かけたときは、このチラシにある番号に連絡をもらえるとありがたい」
グレイグは腕に紙の束を抱えており、その中の一枚を主婦に渡している。どうやらお尋ね者──いや、迷いハリネズミのチラシ配りをしているらしい。
カミュがペットショップを脱走して、はや数ヶ月。彼らはずっと捜索を続けていたのだろう。ありがたいようなありがたくないような、いずれにしても『今じゃない感』が凄まじい。
(嘘だろ!? とにかく、はやくどっかに隠れねえと!)
いま見つかれば、またペットショップに逆戻りだ。そうなれば、おそらく二度とここに戻って来ることはできないだろう。
カミュは二人に見つからないよう、その場から駆けだした。そしてマンション脇にある細い路地に、どうにか身を滑り込ませることができた。
しかしそこで、カミュはいよいよ天に見放されていた事実を知った。
(!?)
巨大な影が、カミュの小さな身体に覆いかぶさる。
その瞬間、ザーッと血の気が引くのを感じた。ドッと全身に汗を滲ませながら、カミュは目の前にそそり立つ壁のような存在に目を見張った。
(ま……マジか……)
白く長い、まるでタテガミのような毛髪。豊かなヒゲと、猛禽類を思わせる鋭い目つき。グレイグに引けを取らぬ長身の老人が、路地を塞ぐようにして佇んでいる。
威厳たっぷりの老人は、足元で石のように硬直してしまった青いハリネズミを、まるで射抜くように見下ろしていた。
なぜ。どうしてここに。わざわざハリネズミ一匹を探すためだけに、これほどの大物が……?
(嘘だろ……)
それは駅前の大型ペットショップ・でるかだ~るの店長──モーゼフ・デルカダール3世その人であった。
*
「はぁ……」
夕暮れ時の住宅街を、イレブンは重い足を引きずりながら歩いていた。
つい昨日までは家に帰るのが楽しみだったのに、今日はひどく気分が憂鬱だ。
(カミュ、どうしてるかな。今朝はひどい態度を取ってしまった……怒ってるかもしれないな……)
カミュがあまりにも分かってくれないものだから、つい腹を立ててしまった。
けれど考えてもみれば、彼が人間であるのは見かけだけなのだ。中身はハリネズミとして生きてきた彼のままなのだから、人の感情や価値観が分からなくたって無理はない。
それにしたって、少し鈍すぎるような気はするけれど。
(謝らなきゃな。謝って、ちゃんと話をしなくては。カミュが分かってくれるまで、何度だってボクの気持ちを伝えるんだ)
決心してしまうと、足取りは驚くほど軽くなった。
諦めなければ、きっと伝わる。あの月明かりの夜に初めて彼の姿を見たときから、イレブンにとってカミュは世界中の誰よりも特別な存在なのだ。
やがて見慣れたマンションがすぐ目の前まで近づいてくる。逸る気持ちと共に、自然と歩く速度も速まった。
しかしそこでふと、イレブンは足を止めることになった。止めざるをえなかったのだ。道の端に、何かがぐしゃぐしゃと丸まって落ちている。
「これは……?」
それは衣服が山になったものだった。よくよく近づいてみると、それは嫌というほど見覚えがあるものだった。シャツもパーカーもジーンズも、そして靴さえも。
「これ、カミュのじゃないか!!」
シャツとジーンズは、イレブンが中学の頃に着ていたものだ。パーカーとスニーカーは、つい先日購入したばかりのものだった。タブレットでショッピングサイトを見ながら、カミュに似合いそうなものを吟味した。だから絶対に、見間違えるはずがない。
しかしどうしてここにこんなものが、こんな状態で落ちているのか。
嫌な予感と共に、汗が背筋を伝っていく。
(まさか、外に出たってことか……!?)
状況から推察するに、カミュは一人でマンションの外に出たのだろう。そして途中で、何らかの理由により元の姿に戻ってしまった。そう考えるのが妥当だ。
そもそもの話、なぜ彼が人間に変身したのかすら謎のままなのだ。超自然的な力が働いていることは確かで、それゆえ何が起こったっておかしくはない。
なら本人はどこへ消えたのか。あの姿では、マンションの部屋まで戻ることは不可能だろう。
「カミュ! どこにいるんだ……!?」
拾い上げた衣服と靴をカバンごと腕に抱えて、イレブンは必死で周囲を探しはじめた。
←戻る ・ 次へ→
Tシャツの上から薄手のパーカーを羽織ってきたが、必要なかったかもしれない。動いていると、いっそ暑いくらいだった。
それでも青空の下を歩くのは心地がよかった。
やはり外に出たのは正解だ。家の中で悶々としているより、遥かに健康的だった。
(イレブンのやつ、喜んでくれるといいんだけどな)
カミュは期待に胸を膨らませ、意気揚々と住宅街を進んでいた。
目指すは近所のスーパーだ。この姿になってから一人で外出するのは初めてだが、道順はしっかり頭に入っているため、迷うことはないだろう。
途中でイレブンと初めて出会った公園を横切り、感慨にふけったりもしつつ、カミュの足取りは軽やかだった。
(あんときよりもっとすげぇもんを鍋にブチ込んで、あいつをビックリさせてやるぜ!)
──が、しかし。
ここまで順調だったカミュは、とある重大な見落としに気がついた。
「……ん? そういやぁ……」
ぴたりと足を止め、首をかしげて考える。
スーパーで様々な食材を物色し、珍しいものをカゴいっぱいに買って帰る。そのミッションを遂行するために、もっとも重要なピース。それすなわち──
「オレ、金持ってなくねーか!?」
そう、お金である。
カミュは当然ながら、現金など所持していない。つまりスーパーへ行ったところで、なにも買えやしないということだ。
「バカかオレは! いっつもこうだ!!」
一気に青ざめ、その場にしゃがんで頭を抱えた。
マヤを探すため、ペットショップを脱走したときもそうだった。あのときも、カミュはノープランであることに途中で気づき、こうして途方に暮れたのだ。
人間に姿を変え、様々なことを知り、成長したつもりでいた。けれど結局のところ、なにも進歩していない。自分で自分が情けなかった。
「イレブンにあの黒いカードを借りるしかねえ……ってことか? でも、それじゃなんにも意味なくねーか!?」
カミュは自分の力だけで、イレブンをアッと驚かせたかったのだ。それなのに彼を頼ってしまったら、なにも意味をなさなくなってしまう。
ヨロヨロと立ち上がり、来た道を引き返しながら、どん底まで落ち込んだ。一気に老け込んだ気すらしながら、ドッと大きなため息をつく。
いっそのこと、その辺に生えている食べられそうな草でも採って帰るか……などと思いつつ、マンションの近くまで戻ってきたそのとき、事件は起こった。
「……あ?」
ふと、自身の身体が淡く発光していることに気がついた。目線もどんどん低くなっていき、周りにあるすべてのものが、少しずつ巨大化していくようだった。
「な、なんだ? オレ、一体どうなって……?」
そこでハッとした。これはもしかして、もしかしなくても──
(ちょっ、おいおいマジかよ!?)
今の今まで着ていたはずの衣服の山から抜け出して、カミュは自分の姿をまじまじと見下ろした。小さな手。全身を覆う青い被毛はトゲトゲで、フシュッ、フシュッ、という声しか発することができない。
そう、カミュはハリネズミの姿に戻ってしまったのだ。
(な、なんだってこんな、急に……!?)
パニックを起こしながらも、とりあえずどこか隠れられそうな場所はないかと、周辺を見渡した。この姿ではマンションに入ることはできないし、どこかに身を隠してイレブンの帰りを待つしかない。
が、しかし──そんなカミュに、新たな危機が襲いかかった。
「ドブネズミ! いたら返事をしろ! 薄汚いドブネズミー!!」
なんだかものすごーく、聞き覚えのある声がした。
(!?)
その方向を見やると、白いエプロンをした金髪の男が、カミュを探して声を張り上げている姿があった。
「出てこいドブネズミ! ドブネズミー!!」
(ほ、ホメロス……! なんでこんなところに!?)
なんという最悪なタイミングだろうか。カミュはすぐにその場を離れようと、とっさに反対方向へ駆け出そうとした。だがしかし。
「そこのご婦人。この周辺で、青いハリネズミを見かけなかっただろうか?」
(!?)
そこにはなんと、黒いエプロンの大男までいた。彼は通りすがりの主婦に、猫背で話しかけている。
「……そうか。もし見かけたときは、このチラシにある番号に連絡をもらえるとありがたい」
グレイグは腕に紙の束を抱えており、その中の一枚を主婦に渡している。どうやらお尋ね者──いや、迷いハリネズミのチラシ配りをしているらしい。
カミュがペットショップを脱走して、はや数ヶ月。彼らはずっと捜索を続けていたのだろう。ありがたいようなありがたくないような、いずれにしても『今じゃない感』が凄まじい。
(嘘だろ!? とにかく、はやくどっかに隠れねえと!)
いま見つかれば、またペットショップに逆戻りだ。そうなれば、おそらく二度とここに戻って来ることはできないだろう。
カミュは二人に見つからないよう、その場から駆けだした。そしてマンション脇にある細い路地に、どうにか身を滑り込ませることができた。
しかしそこで、カミュはいよいよ天に見放されていた事実を知った。
(!?)
巨大な影が、カミュの小さな身体に覆いかぶさる。
その瞬間、ザーッと血の気が引くのを感じた。ドッと全身に汗を滲ませながら、カミュは目の前にそそり立つ壁のような存在に目を見張った。
(ま……マジか……)
白く長い、まるでタテガミのような毛髪。豊かなヒゲと、猛禽類を思わせる鋭い目つき。グレイグに引けを取らぬ長身の老人が、路地を塞ぐようにして佇んでいる。
威厳たっぷりの老人は、足元で石のように硬直してしまった青いハリネズミを、まるで射抜くように見下ろしていた。
なぜ。どうしてここに。わざわざハリネズミ一匹を探すためだけに、これほどの大物が……?
(嘘だろ……)
それは駅前の大型ペットショップ・でるかだ~るの店長──モーゼフ・デルカダール3世その人であった。
*
「はぁ……」
夕暮れ時の住宅街を、イレブンは重い足を引きずりながら歩いていた。
つい昨日までは家に帰るのが楽しみだったのに、今日はひどく気分が憂鬱だ。
(カミュ、どうしてるかな。今朝はひどい態度を取ってしまった……怒ってるかもしれないな……)
カミュがあまりにも分かってくれないものだから、つい腹を立ててしまった。
けれど考えてもみれば、彼が人間であるのは見かけだけなのだ。中身はハリネズミとして生きてきた彼のままなのだから、人の感情や価値観が分からなくたって無理はない。
それにしたって、少し鈍すぎるような気はするけれど。
(謝らなきゃな。謝って、ちゃんと話をしなくては。カミュが分かってくれるまで、何度だってボクの気持ちを伝えるんだ)
決心してしまうと、足取りは驚くほど軽くなった。
諦めなければ、きっと伝わる。あの月明かりの夜に初めて彼の姿を見たときから、イレブンにとってカミュは世界中の誰よりも特別な存在なのだ。
やがて見慣れたマンションがすぐ目の前まで近づいてくる。逸る気持ちと共に、自然と歩く速度も速まった。
しかしそこでふと、イレブンは足を止めることになった。止めざるをえなかったのだ。道の端に、何かがぐしゃぐしゃと丸まって落ちている。
「これは……?」
それは衣服が山になったものだった。よくよく近づいてみると、それは嫌というほど見覚えがあるものだった。シャツもパーカーもジーンズも、そして靴さえも。
「これ、カミュのじゃないか!!」
シャツとジーンズは、イレブンが中学の頃に着ていたものだ。パーカーとスニーカーは、つい先日購入したばかりのものだった。タブレットでショッピングサイトを見ながら、カミュに似合いそうなものを吟味した。だから絶対に、見間違えるはずがない。
しかしどうしてここにこんなものが、こんな状態で落ちているのか。
嫌な予感と共に、汗が背筋を伝っていく。
(まさか、外に出たってことか……!?)
状況から推察するに、カミュは一人でマンションの外に出たのだろう。そして途中で、何らかの理由により元の姿に戻ってしまった。そう考えるのが妥当だ。
そもそもの話、なぜ彼が人間に変身したのかすら謎のままなのだ。超自然的な力が働いていることは確かで、それゆえ何が起こったっておかしくはない。
なら本人はどこへ消えたのか。あの姿では、マンションの部屋まで戻ることは不可能だろう。
「カミュ! どこにいるんだ……!?」
拾い上げた衣服と靴をカバンごと腕に抱えて、イレブンは必死で周囲を探しはじめた。
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実際、図々しい理事長に文句の一つも言わずにせっせと茶を淹れてやるくらいには、相当ご機嫌だった。
そんな黒鋼を見て「逆に気持ちが悪いわねぇ」とニンマリする理事長に多少は苛立ちはしたが、それだけだ。
思えば今日は一日全くと言っていいほど怒鳴り声も上げていないし、額に青筋も立てていない。
とにかく穏やかで平和な日だった。
おかげで宿舎に戻る黒鋼の足取りは軽く、うっかり鼻歌まで飛び出すほど。
なぜ彼がこれほど上機嫌かというと、今日は朝から化学教師が不在なのだ。泊りがけの、いわゆる出張というやつである。
ある意味、生徒よりも面倒で手のかかる人間がいないというだけで、こんなにも一日の疲れが半減するとは。
黒鋼にとって本日は『アホのいぬ間に命の洗濯』と言っても過言ではない。
とりあえず早いところ帰宅してシャワーでも浴びて、軽く一杯引っかけようと、黒鋼はご機嫌で宿舎へ辿りついた。
だがそのとき、ちょうど入り口の明かりに照らされて、白く小さなものが丸まっているのを視界の隅に捉えると咄嗟に足を止めた。
「?」
はじめはビニール袋か何かと思ったが、よく目を凝らして見るとそれはまだ小さな、痩せた白猫だった。
なんとなく気にかかり、思わずそちらに足を向ける。
「おい、そんなとこで寝てると風邪ひくぞ」
すっかり丸まっている白猫は、黒鋼がすぐ側までやって来てしゃがみ込んでもピクリとも動かない。
まさか死んでいるのかと眉を寄せ、そっと指先で背中に触れるとほんのりと温かい。
黒鋼はふと顔を上げて、夜の闇に静まり返っている辺りを見回した。人気はなく、他に野良猫の姿も見当たらない。
母猫とはぐれたのか、それとも捨てられたのか。
いずれにしろ、これほど人間が近づいてもビクリともしない子猫に全く元気がないことだけは分かる。
季節は春とはいえ、夜から朝方にかけてはかなり冷え込む。このまま放置していいものか。
「……しょうがねぇな」
黒鋼は蹲る子猫を抱き上げると、上着の胸元にすっぽりと入れるようにして抱き、自室へと向かった。
*
白い子猫は、ただ単に腹を空かせていただけだった。
果たして人間の食い物を無闇に与えていいものか迷ったが、それでもその場しのぎで致し方ないと判断し、キッチンの棚にあった魚の缶詰をやった。
すると現金なもので、差し出してやった瞬間カッと目を見開いた子猫は物凄い勢いで缶の中身の半分を一気に平らげた。
そして現在、子猫は黒鋼の肩の上で爪を立てている。
「いてっ、こら、いてぇよ……爪研ぐんじゃねぇ!」
「ミキャーッ」
軽く手で払うと、子猫は甲高い声を上げ、ピョンと大袈裟に飛び上がって床に綺麗に着地した。そして、勢いよくベッドの下に入り込むとガサガサと駆け回りはじめた。
さっきからずっとこの調子だ。飛んだり跳ねたり走ったり転がったりしながら、幾ら払いのけてもめげずにジャレついてくる。
どっかりと床に胡坐をかいていた黒鋼は、溜息を零しながら小さく首を左右に振った。
「これじゃどっかのアホ教師と変わんねぇぞ……」
今夜は騒がしいのがいないので、ゆっくりと一人の時間を過ごす予定だった。だがこのぶんだと、その計画は粉々に砕け散ってしまったらしい。
「キャウーッ」
「いってぇ……!」
子猫はベッドの下を駆け回っていたかと思ったら、そのままの勢いで黒鋼の背中を駆け上ってきた。
小さく鋭い爪が衣服を貫通して皮膚にチクチクと突き刺さる。激痛というほどではなかったが、それでも地味に痛い。
おそらく黒鋼の肩や背中には、赤く小さな引っかき傷が無数に出来上がっていることだろう。
「この野郎……いい加減にしろよ?」
肩に乗り、黒いツンツン頭にぺしぺしとジャレついていた子猫の首根っこをぎゅっと掴む。そして引っぺがすようにして持ち上げ、面と向かって睨み付けた。
「ピャーッ」
「だいたい猫ってのはニャーって鳴くんじゃねぇのかよ」
小さく文句を垂れながら、黒鋼は子猫の股を覗き込んだ。そして鼻を鳴らす。
「メスのくせしてヤンチャだなおい」
最初こそ若干暴れはしたが、首根っこを摘まれたことで本能的に尻尾と両足をくるりと丸め、大人しく目を細めた白猫に黒鋼の口元が僅かに緩んだ。
「青いな。おまえの目」
白くて痩せっぽちで煩くて、そんな子猫は嫌でもアホの化学教師を連想させた。
いつまでも吊るし上げているのを不憫に思い、そっと足の間に下ろすと、子猫はそのままちょこんと腰を落ち着け、青く大きな丸い目で黒鋼をじっと見上げてくる。
指先で喉元を撫でれば、微かにコロコロという音が聞こえてきた。
そのままどんどん力が抜けてゆく子猫を指先でいじりながら、黒鋼はまた一つ溜息を零した。
一度手を差し伸べた以上、中途半端に投げ出すつもりはない。
母猫が見つかればそれに越したことは無いが、いざとなればあの何でも有りの昼間の校内放送でも使って呼びかけるというのも、一つの手だと思った。誰かしらは反応してくれるかもしれない。
しばらく思案していた黒鋼だったが、いつしかあのコロコロという音が止んでいることに気づいて下を見た。
くにゃん、と力なく腹を見せて胡坐の足の間に納まり眠っている子猫を見て、そのあまりの警戒心のなさに思わず小さく吹き出す。
腹が満ちたところで散々じゃれて甘えて、ようやく満足したらしい。どこか間抜けな寝顔まで、やっぱり似てる。
「ずっと寝てりゃあ平和なのにな。おまえも、あれも」
なんだか胸の奥がくすぐったい。
小さな頭をそっと撫でながら、黒鋼は今ここにはいない恋人のことを想った。
落ち着きはないし、子供より手がかかるし、どうしようもなく甘ったれな男ではあるけれど、こうして静まり返った室内にポツリといてみれば、悔しいが少し物足りない。
あのアホはちゃんと飯は食ったのか、風呂のあと髪は乾かしたのか、人様に迷惑はかけていないか、あと、ほんの少しだけ……変な奴にちょっかいかけられたりはしていないかが気になった。
そしてそんなことを気にかけ始めてしまった自分に無性に腹が立つ。
実際子供ではないのだし、アホではあるが、馬鹿ではないことを知っている。
「……ったく……面白くねぇな」
ふいに零れた呟きは、果たして自身に向けられたものだったのか、それとも煩い男がいない今の状況に対してのものだったのか。自分でもよく分からない。
こんな夜は、小さな湯たんぽ代わりでも抱いてとっとと眠ってしまうに限るだろう。
結局のところ、黒鋼はファイが愛しくて、恋しくて、そして可愛くて仕方がないのだった。
*
「あれぇー?」
翌日、出張先から朝一で戻ったファイは宿舎の入り口付近でウロウロと歩き回る白い猫を発見して足を止めた。
「にゃーん? にゃんこー? どうしたのー?」
脇に荷物を置き、僅かに屈んで首を傾げたファイに気づいたその猫は、ガラス球のような瞳でこちらを見上げると「ニャーゴ」と太めの声で鳴いた。
ほんの少し薄汚れた白猫は、一定の距離以上は近づいてこない。
そのまま、再びウロウロと同じ場所を行ったり来たりし始めた猫に、ファイはきょとんとさらに首を傾げた。
「探し物ー?」
が、どうやら相手はこれ以上こちらに構う気はないらしい。残念だが仕方が無い。
ファイは再び荷物を手にすると宿舎へ戻ることにした。
「黒たーんただいまー! いい子で待ってたー? 帰ってきたよー」
宿舎に戻ったからといって、ファイが真っ直ぐ自室へ向かうかと思えば大間違いである。
真っ先に向かう先は隣の黒鋼の部屋で、合鍵も持っているため勝手にズカズカと上がりこんだ。
「まだ寝てるー? あのねー、さっき下でにゃんこが……ん?」
「……んだよ……うるせぇな……」
騒がしくやって来たファイに不機嫌そうな低い声をあげ、ベッドの上で黒鋼がのっそりと身体を起こす。
だがファイはその腕の中にちょこんと納まる白い物体に釘付けになった。
「あ?」
頭をボリボリと掻いている黒鋼に、同じく目を覚ました小さな白猫も立ち上がった。大きく口を開けて欠伸をしながら、小さな四肢で背伸びをしている。
荷物を投げ出したファイは、ズザザァッとベッド脇にスライディングするかの勢いで膝をつくと、目を輝かせた。
「なにこの子!? どうしたの!? 拾ったの!? キャー可愛い! 触ってもいい!? てゆーかー、黒様先生ってばオレがいない間にこんな可愛い子と浮気なんて酷いなー! 黒たん先生に腕枕してもらってもいいのはオレだけなんだよー! でも可愛いから許しちゃうー!!」
くにゃんと小首を傾げる子猫に思わず興奮して一気にまくし立てたファイは、身悶えながら両手を伸ばし、子猫を抱き上げた。
「あったか~いふわふわ~幸せ~うふふふふ」
恍惚とした表情で頬擦りをすると、子猫が「ピャー」と妙な声で鳴いた。
頬をピンク色に染めながら鼻の下を伸ばしていたファイだったが、そこでふと先ほど遭遇した白い猫のことを思い出した。
何かをしきりに探し回っているような素振りだったが、もしかすればこの子猫を探していた母猫だったのかもしれない。
「もしかしてこの子ってさっきの……って、あれ? 黒様? 黒たん? どしたの?」
朝っぱらから勝手に部屋へ押しかけた挙句、忙しなく喋り続けていたファイに、いつもであればそろそろくっきりとした青筋を立てながら怒鳴り散らしてもおかしくない黒鋼が、どこかぼんやりとこちらを見下ろしている。
「ねぇってばー。なんか変だよー? 寝ぼけてる?」
どことなく目が据わっているようにも見える黒鋼に不安を覚えたファイは、子猫を抱いたままきゅっと眉を寄せた。
だが次の瞬間、黒鋼の両手がにゅっと伸びてきた。
「!?」
がしっと片方の頬を包み込まれ、そしてもう片方の手でグリグリと乱暴に頭を掻き乱される。
「え、ちょ、な、なに~!?」
首がガクガクするほど強く撫で回されて、ファイは驚きと戸惑い以上に激しく混乱した。目が回って仕方が無い。
黒鋼は相変わらず無表情で、いつしか頬やら頭やら髪やら、とにかく滅茶苦茶にされてしまった。
ようやく解放された頃にはファイはすっかりヘトヘトで、そして髪は見るも無残に乱されていた。
「な、何なのぉ……?」
黒鋼の方から率先してファイに触れてくることは滅多にない。どちらかと言えば、いつもベッタリとくっついているのは自分の方だったから、ファイはその黒鋼らしからぬ行動にただ茫然と瞬きを繰り返した。
「く、くろさまぁ……?」
「……うるせぇ」
やがて不機嫌そうに顔を顰めた黒鋼は、握った拳でファイの額をさらに軽く小突くとベッドから抜け出し、洗面所の方へと姿を消した。
「……どうしちゃったんだろ黒様先生……何か悪いものでも食べたのかな……?」
いまだに状況が理解できていないファイが茫然と呟けば、腕の中の子猫が「ミャー」と、ようやく猫らしい声で鳴いた。
それからすぐに、子猫は母猫の元へ帰って行った。
二匹が去ってゆく姿を見送りつつ、ちらりと見やった黒鋼の表情は満足気なものだった。結局あの奇行の意味は分からずじまいだったけれど。
まぁいいかと、ファイは笑顔でその腕に両腕を回し、思い切りぎゅっと抱き付いた。
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