丸い十字の格子窓から、大きな満月がよく見える。
広い屋根裏部屋には隅っこに簡素な机と椅子が置いてあって、他には古びた木箱が雑多に積み上げられている。
魔法使いはその木箱を窓際に幾つか並べ、干し草を敷き詰めてシーツで覆い、ぼくらが寝るためのベッドを作ってくれた。これしかないよと言って寄越された厚手の毛布は、どこか古臭いような、ほこりっぽい臭いがした。
「よかったね操。博士、悪いひとではないみたい」
ひとつの毛布にくるまりながら、操が月明かりに照らされた天井を見上げてしみじみ言った。
「そんなのまだ分かんないよ」
ぼくはあれからずっと不機嫌なままだ。ぷいっと顔を背けると、操はキョトンとした顔をする。
「まだ怒ってる?」
「ぼく、あのひと好きじゃない」
「おれは結構いい人だと思うな。ベッドも作ってくれたし、籠いっぱいにパンを出してくれたでしょ?」
「そうだけど……そうだけどさ……」
操は勝手に心を読まれてないから、ぼくの気持ちが分からないんだ。
ぼくの頭のなかには、たくさんの思い出が詰まってる。その中には、自分でも忘れてしまいたい記憶だってあるのに。
「ぼくが12歳までおねしょしてたこと、絶対バレたもん。誰にも知られたくなかったのに!」
「そんなこと気にしてたんだ」
「するよ! だっておねしょだよ!?」
ぼくはカァーッと頭に血がのぼっていくのを感じた。火がついたみたいに顔が熱くなっている。悔しくて、恥ずかしくて、だんだん涙ぐんできてしまった。
ぼくらはもう15歳だ。おねしょをしていたのは12歳。たった3年前のことなんだ。それを知られたかもしれないと思うと、とても平気じゃいられない。
「今はしてないんだから、別によくない?」
「よくないよ!」
「でも、お母さんのためだから。好きじゃなくても、ここにいなくちゃ」
「……わかってるよ」
言われなくたって、それくらい。
ぼくらの生い立ちだとか、お母さんのことだとか。どうやらぼくは説明するのがあまり上手じゃないようだから、いっそ記憶を読んでもらったほうが、確かに手っ取り早かったんだ。下手っぴな説明に時間をさくより、ぼくらを正しく知ってもらうには、そのほうが。
ぼくと操は、どこで生まれたかも分からないただの捨て子だった。赤ん坊だったころ、孤児院の玄関先に置き去りにされていたらしい。
ぼくらはそこで、同じような境遇の子どもたちと一緒に育った。施設の人からはひとつしか名前をつけてもらえなくて、いつも一纏めに呼ばれていた。
お母さんは、そんなぼくらを引き取って大事に育ててくれたんだ。優しくて、とても綺麗で。まるで本当の子供みたいに愛してくれた。
だけどそんなお母さんがある日、病気になって倒れてしまった。
お医者さんにもかかったけど、この疫病はずっと昔から原因が分かっていなくて、どんな薬や魔法でも治せないものだった。
お母さんの咳はどんどん酷くなって、ついには血まで吐くようになった。必死で看病したけど──ダメだった。
「ここにいれば、必ず見つかる。お母さんを取り戻す方法。おれたちにも、きっとなにかできることがあるよ」
「うん……そうだね」
ぼくは毛布のなかでモゾモゾ動くと、操の首に腕を回してしがみついた。操が小さく笑って抱き返してくれる。ぼくが操の頬にキスをすると、操はおでこにお返しのキスをしてくれた。
あったかい。操と一緒でよかった。もしぼくがひとりぼっちだったら、今頃どうなっていたか分からない。考えるだけで恐ろしかった。
「お母さん……」
抱き合いながら眠りに落ちる寸前、お母さんを呼んだのは、ぼくと操のどっちだったんだろう。どっちだっていいことだ。ぼくらは同じ願いをはんぶんこしながら、ここで生きている。
お母さん。はやくまた会いたい。すごくすごく、恋しいよ。
*
弟子入りをしたいなら、まずは雑用から。掃除とか洗濯とか、博士の身の回りのことを完璧にこなせるようになるのが、ぼくらに与えられた最初の課題だった。
だけどぼくと比べて操はあまり丈夫じゃない。特に朝は体調が優れず、無理に動こうとすると目眩を起こして倒れてしまう。だからそのぶんぼくが早起きをして、朝の仕事をせっせとこなす。
博士はとても無口で、ほとんど表情を動かさない人だった。名前は春日井甲洋っていうらしい。家の奥にある部屋からほとんど出てこず、朝晩ずっとそこで例の研究に没頭している。
一度だけ部屋を覗いたことがあるけれど、よくわからない魔術の道具や本がぎっしり積まれていて、中央では大きな壺が紫色の煙をあげていた。
しょっちゅう爆発音がするのもその部屋からだ。最初にこの家に来たときにも聞いた、大きな音。あれは実験の失敗を表す合図のようなものだった。
実験が失敗すると、博士は煤で真っ黒になりながら不機嫌そうな顔をして部屋から出てくる。だから初めて会ったときも、あんなに虫の居所が悪そうだったんだ。
*
この家に来て半月。
動けない操のぶんも、ぼくは朝から床掃除をしていた。
「おはよう」
雑巾でキッチンの床を磨いていると、そこに珍しく博士が顔を見せた。いつもの黒いローブは着ておらず、簡素なシャツに破れたジーンズを穿いている。鼻眼鏡もしていない。
「博士、寝てたんだ。夜にちゃんと寝るなんて、なんか珍しいね」
「俺だって人間だからね」
そう言って気怠げに息をつきながら、博士は木製の椅子に腰掛けた。
「操、もうすぐ起きられると思うから。そしたらご飯の支度をするね」
その前に、まずは掃除を終わらせないと。床に這いつくばって雑巾を走らせるぼくのことを、博士がじっと見つめている。
「……容子さんが亡くなったあとは、ずっと子供だけで?」
無口な博士が急に話しかけてくるものだから、ぼくは少し驚いた。膝立ちになって博士を見上げ、キョトンとしながら小首を傾げる。
「そうだよ。だって他に家族はいないし。町の人たちはよくしてくれたけど……そんなこと、博士なら記憶を読んで知ってるんじゃないの?」
「あくまで断片を見ただけだ。なにからなにまで細かく読み取ったわけじゃない」
「そうなの!?」
「キリがないだろ」
「じゃあ、ぼくが12歳までおねしょしてたってことは!?」
博士の口が「は?」という形に開かれる。ぼくはハッとして息を呑んだ。もしかして、ぼくは今とんでもない墓穴を掘ってしまったんじゃ……?
「……してたの?」
「あっ、え、えっと、そのっ、ちがっ」
「君、いま幾つ?」
「……15」
ぼくってバカだ。どうして余計なことを言っちゃったんだろう?
ゆでダコみたいに赤くなってるぼくを見て、博士は小さく噴きだした。控えめに口角を持ち上げて、可笑しそうに肩を揺らしている。
「!」
それを見て、ぼくは思わずポカンとしてしまった。だって、博士が笑うのを初めて見たから。この人、普通に笑えるんだ。いつもはあんなに無表情でいるくせに。
どうしてか、ぼくの心臓はドキドキと高鳴っていた。あまりにも珍しいものを見たから、少し興奮してるのかもしれない。ほっぺもずっと熱いまんまだ。
「聞かなかったことにしておくよ」
そう言って博士は立ち上がり、ぼくの頭をくしゃっと撫でた。お母さんも、よくこうして撫でてくれたっけ。だけど博士の撫で方は少し雑で、なんていうか、男の人って感じがした。
するとどうしてか、胸のドキドキがまた大きくなった。なんなんだろう、この感じ。ほっぺただけじゃなく、耳まで赤くなってる気がする。
博士はそのままぼくの横を通り過ぎ、流しのそばにしゃがみ込むと収納扉を開け、中からコーヒー豆が詰まった瓶を取り出した。
「あ、それはぼくが」
「いいよ。コーヒーくらい自分で淹れる。それより」
博士は瓶をキッチン台に置くと、部屋の隅に向かって軽くあごをしゃくった。
「そこ、ちゃんと拭けてないよ。ほこりが溜まってる」
「え、どこ!?」
「たらたらやってると、いつまでも終わらないよ」
それまでのどこかふわふわした気分が吹き飛び、ぼくは思わずムッとする。
「ちゃんとやろうと思ってたもん! なのに博士が話しかけてくるから!」
「子供みたいな口答えはしない」
「む~ッ! 博士の意地悪!」
この人、やっぱりヤな奴だ。なんか楽しそうにニヤっとしてるし。ちょっとは打ち解けた気がしてたけど、やっぱ好きにはなれなさそう。
博士が豆を挽いたりしているあいだ、ぼくはリスみたいにほっぺを膨らませながら、部屋の隅をゴシゴシ拭いた。これも操とお母さんのためだ。ぜったい立派な弟子になって、あっと驚かせてやる。
そんなことを考えながら床を拭いていると、部屋中がコーヒーの香ばしい匂いで満ちてくる。コーヒーは飲んだことがないけど、この香りはけっこう好きだな。なんとなく気持ちがほぐれていくのを感じた。
「……ねぇ博士」
ムカムカが少しおさまってきたぼくは、ずっと気になっていたことを博士に聞いてみることにした。もちろん、手は止めないまま。またなにを言われるか分かったもんじゃないし。
「なに?」
「この家の裏、お墓があるでしょ。あれは誰のお墓なの?」
それに気づいたのは、ここに来た翌日だった。
操と一緒に家の周りを散策していると、裏手に小さな墓が立っていることに気がついた。細い丸太を組み合わせて作った十字架が、盛り上がった地面にざっくりと突き刺さっていた。
博士はなにも言わなかった。なにか不味いことを聞いちゃったのかな。気になって、ぼくは手を止めると博士を見上げた。
博士はコーヒーを注いだ白いカップを二つ、両手に持ってテーブルに置くと、また椅子に腰掛けた。ぼくは目を丸くする。
「……なに?」
「博士、それひょっとしてぼくの分?」
「いらなかった?」
「いる!」
ぼくは雑巾を投げだし、勢いよく立ち上がると流しで手を洗った。博士の向かい側に腰掛けて、カップの中身を覗き込む。ぼくはさらに驚いて、「あっ」と声をあげてしまった。そこにあったのは、ただのコーヒーじゃなくてカフェオレだった。
ミルクがたっぷり入っているおかげで、コーヒーはいい感じにぬるくなっている。ちょうど喉も乾いていたから、ぼくはそれをゴクゴク飲んだ。
「ぷはっ、美味しい! 甘い!」
カフェオレには砂糖もたくさん入っていた。おかげで少しも苦くない。
それでもぼくはちょっぴり大人になれた気がして嬉しかった。だってコーヒーなんて初めてだもん。これなら操もいけるかも。あとで飲ませてあげたいな。
博士はカップに口をつけながら、一瞬だけふっと笑ったようだった。
「少し前まで──」
「え?」
カップをテーブルに戻して、博士はコーヒーの水面を見下ろしながら言った。
「黒い犬がいたんだ。今はあの場所で眠ってる」
カフェオレに気を取られて、質問していたことをすっかり忘れていた。だって答えてくれないんだと思っていたから。
「黒い犬? 博士の使い魔?」
「違う。ショコラは俺の家族だよ」
「そうなんだ」
犬がいたってことは、散歩とかさせてたのかな。博士って外に出ることあるんだ。ぼくは家に引きこもって煤まみれになっている博士しか知らないから、ちょっと意外だった。
でもよくよく思いだしてみれば、裏庭のお墓にはいつも新しい花が供えられている。きっとぼくらが寝たあとにでも、こっそりお参りしてるんだろう。
「じゃあ博士は、その子を生き返らせるために研究してるの?」
「違うよ。俺はあの子の死に納得してる」
「納得って……博士は寂しくないの? 家族がいなくなったのに」
家族を失うのは、とても寂しくて悲しいことだ。この痛みから逃れるために、ぼくと操はここにいる。だからぼくには博士の言葉が理解できなかった。
大切な家族がいなくなったのに、どうしてそんなことが言えるんだろう。
「寂しくないわけじゃない。だけど老犬だったからね、ショコラは。大往生ってやつさ」
「だいおーじょー?」
「自然死だよ。病気や事故じゃなく、眠るみたいに逝ったってこと」
「眠るみたいに……」
お母さんは最後まで血を吐いて、とても苦しそうだった。でもその子は、痛い思いも、苦しい思いもしなかったんだ。たくさんたくさん生きたあと、まるで昼寝でもするみたいに、博士に見守られながら天国へ旅立った。
博士の穏やかな口調からそれが伝わってきて、ぼくは気が抜けたような、ホッとしたような、不思議な気分を味わった。これが納得するってことなのかな。
「感謝してるよ。あの子には」
細められた博士の目は優しくて、とてもあたたかい。こんなふうに思える『いなくなり方』もあるんだってことを、ぼくはこのとき初めて知った。
じゃあ、もしお母さんがショコラみたいな最期だったなら、ぼくは今ごろどうしてたんだろう。博士みたいに、受け入れることができたんだろうか。
「ねぇ、じゃあ博士は……」
「ん?」
「……あ、うぅん。なんでもないや」
ぼくは首を横に振り、誤魔化すみたいにちょっと笑った。博士は特になにを言うでもなく、またコーヒーカップに口をつけている。
正直なところ、ぼくはとても気になっていた。だったら博士は、誰を生き返らせたくて研究を始めたんだろうって。
きっと博士も、大切な人を納得がいかない形で亡くしてしまったんだろう。だからこんな深い森の奥で、何年もずっと一人ぼっちで研究に没頭している。
博士にそこまでさせる存在に、ぼくは興味を抱いた。だけど聞いたところで、きっと博士は答えてくれない。そんな気がする。
博士はたぶん、ぼくが知りたがっていることに気づいてる。だけどあえて口を開こうとしない。カップの中に落とされた視線は、どこか遠くを見つめているようだった。ショコラの話をしていたときの、あのあったかい眼差しは消えていた。
そこにはまるで大きな影を背負ってるような──もともと暗い雰囲気のひとではあるけど──とにかく、踏み込んじゃいけない壁みたいなものを感じた気がした。
ぼくはその壁に触れちゃいけない。触れることを許されてない。こんなふうにちゃんと言葉で話して、一緒にコーヒーを飲んでいたとしても。
それが今のぼくらと、博士の距離だ。
←戻る ・ 次へ→
広い屋根裏部屋には隅っこに簡素な机と椅子が置いてあって、他には古びた木箱が雑多に積み上げられている。
魔法使いはその木箱を窓際に幾つか並べ、干し草を敷き詰めてシーツで覆い、ぼくらが寝るためのベッドを作ってくれた。これしかないよと言って寄越された厚手の毛布は、どこか古臭いような、ほこりっぽい臭いがした。
「よかったね操。博士、悪いひとではないみたい」
ひとつの毛布にくるまりながら、操が月明かりに照らされた天井を見上げてしみじみ言った。
「そんなのまだ分かんないよ」
ぼくはあれからずっと不機嫌なままだ。ぷいっと顔を背けると、操はキョトンとした顔をする。
「まだ怒ってる?」
「ぼく、あのひと好きじゃない」
「おれは結構いい人だと思うな。ベッドも作ってくれたし、籠いっぱいにパンを出してくれたでしょ?」
「そうだけど……そうだけどさ……」
操は勝手に心を読まれてないから、ぼくの気持ちが分からないんだ。
ぼくの頭のなかには、たくさんの思い出が詰まってる。その中には、自分でも忘れてしまいたい記憶だってあるのに。
「ぼくが12歳までおねしょしてたこと、絶対バレたもん。誰にも知られたくなかったのに!」
「そんなこと気にしてたんだ」
「するよ! だっておねしょだよ!?」
ぼくはカァーッと頭に血がのぼっていくのを感じた。火がついたみたいに顔が熱くなっている。悔しくて、恥ずかしくて、だんだん涙ぐんできてしまった。
ぼくらはもう15歳だ。おねしょをしていたのは12歳。たった3年前のことなんだ。それを知られたかもしれないと思うと、とても平気じゃいられない。
「今はしてないんだから、別によくない?」
「よくないよ!」
「でも、お母さんのためだから。好きじゃなくても、ここにいなくちゃ」
「……わかってるよ」
言われなくたって、それくらい。
ぼくらの生い立ちだとか、お母さんのことだとか。どうやらぼくは説明するのがあまり上手じゃないようだから、いっそ記憶を読んでもらったほうが、確かに手っ取り早かったんだ。下手っぴな説明に時間をさくより、ぼくらを正しく知ってもらうには、そのほうが。
ぼくと操は、どこで生まれたかも分からないただの捨て子だった。赤ん坊だったころ、孤児院の玄関先に置き去りにされていたらしい。
ぼくらはそこで、同じような境遇の子どもたちと一緒に育った。施設の人からはひとつしか名前をつけてもらえなくて、いつも一纏めに呼ばれていた。
お母さんは、そんなぼくらを引き取って大事に育ててくれたんだ。優しくて、とても綺麗で。まるで本当の子供みたいに愛してくれた。
だけどそんなお母さんがある日、病気になって倒れてしまった。
お医者さんにもかかったけど、この疫病はずっと昔から原因が分かっていなくて、どんな薬や魔法でも治せないものだった。
お母さんの咳はどんどん酷くなって、ついには血まで吐くようになった。必死で看病したけど──ダメだった。
「ここにいれば、必ず見つかる。お母さんを取り戻す方法。おれたちにも、きっとなにかできることがあるよ」
「うん……そうだね」
ぼくは毛布のなかでモゾモゾ動くと、操の首に腕を回してしがみついた。操が小さく笑って抱き返してくれる。ぼくが操の頬にキスをすると、操はおでこにお返しのキスをしてくれた。
あったかい。操と一緒でよかった。もしぼくがひとりぼっちだったら、今頃どうなっていたか分からない。考えるだけで恐ろしかった。
「お母さん……」
抱き合いながら眠りに落ちる寸前、お母さんを呼んだのは、ぼくと操のどっちだったんだろう。どっちだっていいことだ。ぼくらは同じ願いをはんぶんこしながら、ここで生きている。
お母さん。はやくまた会いたい。すごくすごく、恋しいよ。
*
弟子入りをしたいなら、まずは雑用から。掃除とか洗濯とか、博士の身の回りのことを完璧にこなせるようになるのが、ぼくらに与えられた最初の課題だった。
だけどぼくと比べて操はあまり丈夫じゃない。特に朝は体調が優れず、無理に動こうとすると目眩を起こして倒れてしまう。だからそのぶんぼくが早起きをして、朝の仕事をせっせとこなす。
博士はとても無口で、ほとんど表情を動かさない人だった。名前は春日井甲洋っていうらしい。家の奥にある部屋からほとんど出てこず、朝晩ずっとそこで例の研究に没頭している。
一度だけ部屋を覗いたことがあるけれど、よくわからない魔術の道具や本がぎっしり積まれていて、中央では大きな壺が紫色の煙をあげていた。
しょっちゅう爆発音がするのもその部屋からだ。最初にこの家に来たときにも聞いた、大きな音。あれは実験の失敗を表す合図のようなものだった。
実験が失敗すると、博士は煤で真っ黒になりながら不機嫌そうな顔をして部屋から出てくる。だから初めて会ったときも、あんなに虫の居所が悪そうだったんだ。
*
この家に来て半月。
動けない操のぶんも、ぼくは朝から床掃除をしていた。
「おはよう」
雑巾でキッチンの床を磨いていると、そこに珍しく博士が顔を見せた。いつもの黒いローブは着ておらず、簡素なシャツに破れたジーンズを穿いている。鼻眼鏡もしていない。
「博士、寝てたんだ。夜にちゃんと寝るなんて、なんか珍しいね」
「俺だって人間だからね」
そう言って気怠げに息をつきながら、博士は木製の椅子に腰掛けた。
「操、もうすぐ起きられると思うから。そしたらご飯の支度をするね」
その前に、まずは掃除を終わらせないと。床に這いつくばって雑巾を走らせるぼくのことを、博士がじっと見つめている。
「……容子さんが亡くなったあとは、ずっと子供だけで?」
無口な博士が急に話しかけてくるものだから、ぼくは少し驚いた。膝立ちになって博士を見上げ、キョトンとしながら小首を傾げる。
「そうだよ。だって他に家族はいないし。町の人たちはよくしてくれたけど……そんなこと、博士なら記憶を読んで知ってるんじゃないの?」
「あくまで断片を見ただけだ。なにからなにまで細かく読み取ったわけじゃない」
「そうなの!?」
「キリがないだろ」
「じゃあ、ぼくが12歳までおねしょしてたってことは!?」
博士の口が「は?」という形に開かれる。ぼくはハッとして息を呑んだ。もしかして、ぼくは今とんでもない墓穴を掘ってしまったんじゃ……?
「……してたの?」
「あっ、え、えっと、そのっ、ちがっ」
「君、いま幾つ?」
「……15」
ぼくってバカだ。どうして余計なことを言っちゃったんだろう?
ゆでダコみたいに赤くなってるぼくを見て、博士は小さく噴きだした。控えめに口角を持ち上げて、可笑しそうに肩を揺らしている。
「!」
それを見て、ぼくは思わずポカンとしてしまった。だって、博士が笑うのを初めて見たから。この人、普通に笑えるんだ。いつもはあんなに無表情でいるくせに。
どうしてか、ぼくの心臓はドキドキと高鳴っていた。あまりにも珍しいものを見たから、少し興奮してるのかもしれない。ほっぺもずっと熱いまんまだ。
「聞かなかったことにしておくよ」
そう言って博士は立ち上がり、ぼくの頭をくしゃっと撫でた。お母さんも、よくこうして撫でてくれたっけ。だけど博士の撫で方は少し雑で、なんていうか、男の人って感じがした。
するとどうしてか、胸のドキドキがまた大きくなった。なんなんだろう、この感じ。ほっぺただけじゃなく、耳まで赤くなってる気がする。
博士はそのままぼくの横を通り過ぎ、流しのそばにしゃがみ込むと収納扉を開け、中からコーヒー豆が詰まった瓶を取り出した。
「あ、それはぼくが」
「いいよ。コーヒーくらい自分で淹れる。それより」
博士は瓶をキッチン台に置くと、部屋の隅に向かって軽くあごをしゃくった。
「そこ、ちゃんと拭けてないよ。ほこりが溜まってる」
「え、どこ!?」
「たらたらやってると、いつまでも終わらないよ」
それまでのどこかふわふわした気分が吹き飛び、ぼくは思わずムッとする。
「ちゃんとやろうと思ってたもん! なのに博士が話しかけてくるから!」
「子供みたいな口答えはしない」
「む~ッ! 博士の意地悪!」
この人、やっぱりヤな奴だ。なんか楽しそうにニヤっとしてるし。ちょっとは打ち解けた気がしてたけど、やっぱ好きにはなれなさそう。
博士が豆を挽いたりしているあいだ、ぼくはリスみたいにほっぺを膨らませながら、部屋の隅をゴシゴシ拭いた。これも操とお母さんのためだ。ぜったい立派な弟子になって、あっと驚かせてやる。
そんなことを考えながら床を拭いていると、部屋中がコーヒーの香ばしい匂いで満ちてくる。コーヒーは飲んだことがないけど、この香りはけっこう好きだな。なんとなく気持ちがほぐれていくのを感じた。
「……ねぇ博士」
ムカムカが少しおさまってきたぼくは、ずっと気になっていたことを博士に聞いてみることにした。もちろん、手は止めないまま。またなにを言われるか分かったもんじゃないし。
「なに?」
「この家の裏、お墓があるでしょ。あれは誰のお墓なの?」
それに気づいたのは、ここに来た翌日だった。
操と一緒に家の周りを散策していると、裏手に小さな墓が立っていることに気がついた。細い丸太を組み合わせて作った十字架が、盛り上がった地面にざっくりと突き刺さっていた。
博士はなにも言わなかった。なにか不味いことを聞いちゃったのかな。気になって、ぼくは手を止めると博士を見上げた。
博士はコーヒーを注いだ白いカップを二つ、両手に持ってテーブルに置くと、また椅子に腰掛けた。ぼくは目を丸くする。
「……なに?」
「博士、それひょっとしてぼくの分?」
「いらなかった?」
「いる!」
ぼくは雑巾を投げだし、勢いよく立ち上がると流しで手を洗った。博士の向かい側に腰掛けて、カップの中身を覗き込む。ぼくはさらに驚いて、「あっ」と声をあげてしまった。そこにあったのは、ただのコーヒーじゃなくてカフェオレだった。
ミルクがたっぷり入っているおかげで、コーヒーはいい感じにぬるくなっている。ちょうど喉も乾いていたから、ぼくはそれをゴクゴク飲んだ。
「ぷはっ、美味しい! 甘い!」
カフェオレには砂糖もたくさん入っていた。おかげで少しも苦くない。
それでもぼくはちょっぴり大人になれた気がして嬉しかった。だってコーヒーなんて初めてだもん。これなら操もいけるかも。あとで飲ませてあげたいな。
博士はカップに口をつけながら、一瞬だけふっと笑ったようだった。
「少し前まで──」
「え?」
カップをテーブルに戻して、博士はコーヒーの水面を見下ろしながら言った。
「黒い犬がいたんだ。今はあの場所で眠ってる」
カフェオレに気を取られて、質問していたことをすっかり忘れていた。だって答えてくれないんだと思っていたから。
「黒い犬? 博士の使い魔?」
「違う。ショコラは俺の家族だよ」
「そうなんだ」
犬がいたってことは、散歩とかさせてたのかな。博士って外に出ることあるんだ。ぼくは家に引きこもって煤まみれになっている博士しか知らないから、ちょっと意外だった。
でもよくよく思いだしてみれば、裏庭のお墓にはいつも新しい花が供えられている。きっとぼくらが寝たあとにでも、こっそりお参りしてるんだろう。
「じゃあ博士は、その子を生き返らせるために研究してるの?」
「違うよ。俺はあの子の死に納得してる」
「納得って……博士は寂しくないの? 家族がいなくなったのに」
家族を失うのは、とても寂しくて悲しいことだ。この痛みから逃れるために、ぼくと操はここにいる。だからぼくには博士の言葉が理解できなかった。
大切な家族がいなくなったのに、どうしてそんなことが言えるんだろう。
「寂しくないわけじゃない。だけど老犬だったからね、ショコラは。大往生ってやつさ」
「だいおーじょー?」
「自然死だよ。病気や事故じゃなく、眠るみたいに逝ったってこと」
「眠るみたいに……」
お母さんは最後まで血を吐いて、とても苦しそうだった。でもその子は、痛い思いも、苦しい思いもしなかったんだ。たくさんたくさん生きたあと、まるで昼寝でもするみたいに、博士に見守られながら天国へ旅立った。
博士の穏やかな口調からそれが伝わってきて、ぼくは気が抜けたような、ホッとしたような、不思議な気分を味わった。これが納得するってことなのかな。
「感謝してるよ。あの子には」
細められた博士の目は優しくて、とてもあたたかい。こんなふうに思える『いなくなり方』もあるんだってことを、ぼくはこのとき初めて知った。
じゃあ、もしお母さんがショコラみたいな最期だったなら、ぼくは今ごろどうしてたんだろう。博士みたいに、受け入れることができたんだろうか。
「ねぇ、じゃあ博士は……」
「ん?」
「……あ、うぅん。なんでもないや」
ぼくは首を横に振り、誤魔化すみたいにちょっと笑った。博士は特になにを言うでもなく、またコーヒーカップに口をつけている。
正直なところ、ぼくはとても気になっていた。だったら博士は、誰を生き返らせたくて研究を始めたんだろうって。
きっと博士も、大切な人を納得がいかない形で亡くしてしまったんだろう。だからこんな深い森の奥で、何年もずっと一人ぼっちで研究に没頭している。
博士にそこまでさせる存在に、ぼくは興味を抱いた。だけど聞いたところで、きっと博士は答えてくれない。そんな気がする。
博士はたぶん、ぼくが知りたがっていることに気づいてる。だけどあえて口を開こうとしない。カップの中に落とされた視線は、どこか遠くを見つめているようだった。ショコラの話をしていたときの、あのあったかい眼差しは消えていた。
そこにはまるで大きな影を背負ってるような──もともと暗い雰囲気のひとではあるけど──とにかく、踏み込んじゃいけない壁みたいなものを感じた気がした。
ぼくはその壁に触れちゃいけない。触れることを許されてない。こんなふうにちゃんと言葉で話して、一緒にコーヒーを飲んでいたとしても。
それが今のぼくらと、博士の距離だ。
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──ずっと空で見てるから……幸せになって、操。
それはお母さんからもらった、最後の言葉だった。
咳が出て、口からたくさん血を吐いて、あんなに苦しそうだったのに。お母さんは最後の瞬間まで、ずっと優しい目をして笑ってた。
ぼくは泣いて泣いて、ご飯も食べられないくらい毎日泣いて、ずっとお母さんの名前を呼んでいた。
お母さん、お母さん、お母さん。
血は繋がっていないけど、お母さんはぼくの本当のお母さんだ。お母さんが、ぼくをぼくにしてくれた。
ぼくが幸せだったのは、いつもそばにお母さんがいてくれたから。寝る前にはおでこやほっぺにキスをしてくれた。お手伝いをしたらたくさん褒めてくれた。お母さんと一緒に眺める空は、宝物みたいにキラキラしていた。
だけどお母さんがいないなら、幸せなんてどこにもない。空を見ても悲しくなるだけで、そこにお母さんがいるなんてどうしても思えなかった。
ぼくはもう、この痛みには耐えられない。だったらどうすればいいだろう。
ぼくはたくさん考えた。お母さんのためにできること。もう一度、空が綺麗だと思えるように。考えて考えて、そして一つの『希望』に行き着いた。その光を頼りに、ぼくにできることならなんだってしてみせる。
泣いてるだけじゃ、きっとなにも変わらないから。
「行こう、操」
ぼくは泣いているもう一人のぼくに手を差しだした。お母さんがいなくなってから、操もずっと泣いている。真っ赤になった目が、まるでうさぎみたいだった。
操は何度も鼻をすすり、それでも「うん」とうなずいた。ぼくの手を取って、ぎゅっと握りしめてくる。その力はとても強いのに、同じくらい弱くも感じた。
守らなくちゃ。そう思った。ぼくは操。この子も操。ぼくらは生まれたときからたった一つだけ与えられた名前をはんぶんこして、ずっとずっと生きてきた。大事な大事な、ぼくの操。
「お母さんを取り戻すんだ。また一緒に暮らせるように」
ぼくたちになら、必ずできる。操がもう泣かなくてすむように。
きっとまた、お母さんと一緒に──。
*
「あっ……!」
強い風が吹いて、操がかぶっていたベージュのキャスケットが空高く舞い上がった。ブーメランみたいに飛んでって、遠くの木々の谷間に消えてしまう。
「あーぁ、飛んでっちゃった! ダメじゃん操。ぼうっとしてちゃ」
ぼくが両手を腰に当てて言うと、操は困った顔をして肩をすくめた。
「ごめん操。だって急に風が吹くんだもの」
「せっかくお揃いだったのにぃ」
ぼくと操は顔も名前も一緒なら、身につけているものだっていつも一緒だ。
チェック柄のカジュアルシャツに、ロールアップしたオーバーオール。そしてベージュのキャスケット。
違うのはシャツの色だけで、ぼくが赤なら操は空色。これなら誰も、ぼくら双子を間違えない。他はなにからなにまで、ぼくたちはお揃いのものが大好きだ。
風が悪戯をしたせいで、キャスケットをかぶっているのはぼくだけになってしまったけれど。
「どこまでいっちゃったんだろう。おれ、探してくるよ」
「こんな深い森の中じゃ、きっとすぐには見つからないよ。あとでぼくも一緒に探してあげるから。今はほら、それより見て」
ぼくが遠くを指さすと、操もそっちへ目を向けた。
遠くの方で、モクモクと煙が上がっているのが見える。たぶん、煙突の煙だ。つまりあそこには家があるってこと。
深い深い森のなか。ぼくらはもうずっと歩き続けて、ようやくここまでたどり着いた。
「本当にいるのかな……こんなところに魔法使いなんて……」
操が不安そうに身を寄せて、ぼくの腕にしがみついてくる。ぼくは操を安心させるため、力強くうなずいた。
「きっといるよ。森に入る前だって、たくさん話を聞いたでしょ?」
オバケ森と呼ばれる森の外れに住む、引きこもりの魔法使い。そのひとは町の人たちから『博士』と呼ばれている。もうずっと何年も森から出ずに、一人ぼっちで魔術の研究をしている変わり者なんだって。
だけどその研究はとても難しいもので、誰も彼もが期待なんかしていない。だから皮肉を込めて、『博士』なんて呼ばれているらしい。
でも、ぼくらにとって博士の研究はたったひとつの希望だ。それを求めて長い長い旅をしてきた。町から町を巡り巡って、たくさんの人から話を聞いて、そしてついにこの森に博士がいることを突き止めたんだ。
「早く行かなきゃ。夜になっちゃう」
パンや水も、もう尽きた。お財布だって空っぽだ。さっきまで頭の上の方にあったはずの太陽が、地平線に沈もうとしている。薄青が混じりはじめた景色のなかで、複雑な形状をした木々がまるで布をかぶったオバケみたいに見えた。
ぼくは怖いのをぐっと我慢して、操とくっつきながら煙を目印に歩きだした。
*
「あった! あったよ操! 魔法使いの家だ!」
どんどん暗くなっていく森のなか、なんとか太陽が沈みきる前にぼくらは噂の魔法使いがいるという家に辿り着いた。
ぼくが家を指さして言うと、操はホッとしたように息をつく。呼吸も浅いし、あまり顔色がよくないみたいだ。ぼくらは姿かたちがそっくりな双子だけれど、操はあまり身体が丈夫な方じゃない。早く休ませてあげなくちゃ。
魔女の帽子みたいに尖った屋根から、レンガの煙突が突き出してモクモクと煙を上げている。古ぼけた漆喰の壁に緑のツルが絡みつき、この家自体がまるで森と一体化しているようだった。頭上には数羽のコウモリが飛びまわっている。
いかにも何かよくないものが出てきそうな雰囲気に、ぼくと操はごくりと喉を鳴らした。
「い、行こう」
ぼくらは互いの手を強く握って、緊張しながらうなずきあった。
玄関先にはランタンが吊り下げられている。蛾や小さな羽虫を纏わりつかせ、チカチカと点滅を繰り返していた。ぼくは大きく深呼吸をすると、オンボロの木製のドアをノックした。
コンコン、コンコン。乾いた音が静かな森に小さく響く。
「……いないのかな?」
首を傾げながら、今度は操がノックした。コンコン、コンコン。ぼくらは交互に、何度かノックを繰り返す。だけど一向に魔法使いは出てこない。
──ボンッ!!
そのときだった。突然ドアの向こうから爆発音がして、家がちょっとだけ揺れた気がした。ぼくらがビクンと肩を跳ねさせていると、頑なに閉ざされていたはずのドアが、キィっと軋んだ音を立てる。
「っ!」
ぼくは思わず息を呑んだ。ゆっくりと開かれたドアから、胡乱な目がぼくらふたりに向けられている。家の中から黒い煙が押しだされ、焦げた臭いを吸い込んだ操がケホッと小さく咳をした。
「……なにか?」
黒いフード付きのローブを着て、テンプルのない鼻眼鏡をした背の高い男の人が、面倒くさそうに不機嫌な声で問いかけてきた。その頬には黒い煤がついていて、長い焦げ茶の髪の毛先も、焦げてチリチリになっている。
「用がないなら早く帰りな。夜の森は危険だよ」
ぼくと操がポカンとしたままなにも答えられないでいると、魔法使いは冷たくそう言ってドアを閉めようとした。
「ま、待って! ぼくたち、生き返らせたい人がいるんだ!」
魔法使いの頬が、ピクリと動いた。胡乱な目つきはそのままに、ぼくらふたりを上から下までジロジロと見る。
「……それで?」
ぼくも操も、どこか陰気な影を帯びた魔法使いに圧倒されていた。だけど物怖じしている場合じゃない。少しでも言いよどむ素振りを見せれば、容赦なくドアを閉められてしまいそうだったから。
「は、博士がそういう研究をしてるって! 死んだ人を生き返らせる、魔法の研究! 町の人達が話してるのをいろいろ聞いて……それでぼくたち、弟子になりたくてここに来たんだ!」
「博士、ね」
自分が皮肉を込めてそう呼ばれていることを、魔法使いは知っているようだった。軽く鼻を鳴らし、腕を組むと開け放った扉を肩で押さえるようにしながらもたれかかった。
「誰?」
「え?」
「誰を生き返らせたいの?」
話、ちゃんと聞いてくれるんだ……。ぼくが少し驚いていると、今度は黙り込んでいた操が声をあげた。
「お母さんを……お母さんを生き返らせたい! おれたちの大事なお母さんを!」
冷たい風がぴゅうっと吹いて、操の声をさらっていった。
操は今にも泣きそうだ。大きな瞳にいっぱい涙を溜めながら、魔法使いを必死で見上げている。ぼくも泣きそうになりながら、そんな操の手を強く握った。
魔法使いは黙ってぼくらを見つめると、どこか痛ましそうに目を伏せる。
「悪いけど、弟子はとってない。獣避けのまじないをかけてあげるから、今すぐ町に帰りな」
「ま、待って! お願い、ぼくたちなんでも言うこと聞くから! 博士の邪魔は絶対しないし、どんなことでも手伝うから、だから……!」
ぼくは咄嗟に操の手を離し、魔法使いのホコリ臭いローブに縋りついていた。ここで引いたら、ぼくらはまた泣いて暮らすだけの日々に戻ってしまう。そんなのは嫌だ。ぼくはもう操の泣き顔を見たくない。
ぼくの必死の訴えに、魔法使いは心底困ったように溜息を漏らした。やがてぼくの手をさりげなく振り払うと、「名前は?」と問いかけてくる。
「弟子にしてくれるの!?」
「さぁ。それはまだ分からない」
「操! 来主操!」
ぼくはすっかりその気になって、キラキラと目を輝かせながら操の肩を抱き寄せる。
「この子も操! ぼくたち双子なんだ! なんでもはんぶんこ! だから名前もはんぶんこなんだよ!」
「どういうこと?」
「施設の人がひとつしか名前をくれなくて……でも、ぼくたちこの名前が好きなんだ。だってぼくと操は二人で一人なんだもん。なんでもお揃いで、なんでもはんぶんこ。あ、でもさっき帽子が風で飛ばされちゃって」
まくしたてるように喋るぼくに、魔法使いが怪訝そうな顔をする。ぼくよりは幾らか空気が読めるらしい操が、堪えきれずに苦笑した。
「慌てすぎだよ。博士が困ってる」
「え、ぼくなにか変だった?」
顔を見合わせるぼくらを見て、魔法使いがまたひとつ溜息をついた。
「わかった。もういい」
魔法使いはそう言って、突然ぼくの頬に手を伸ばしてきた。ぼくはぎょっとして目を丸くしたけれど、魔法使いは長い指をぼくの頬に押し当てて、それから──
「……容子さん?」
と、なぜかお母さんの名前を呼んだ。
ぼくと操は驚いた。魔法使いの瞳にも、わずかな動揺が浮かんでいる。
「どうしてお母さんの名前を知ってるの?」
訳が分からず、操が呆然と問いかけた。ぼくも操も、お母さんの名前はまだ一度も言ってない。それなのにどうして?
「容子さん、亡くなったのか」
魔法使いはただでさえ辛気臭い顔をさらに暗く曇らせた。悲しげに目を伏せて、なにかを考え込んでいる。
「そうか、彼女と同じ疫病で……」
魔法使いは戸惑うぼくらを複雑そうに見つめて、やがてスッと身を引くと
「入りな。容子さんのところから来たのなら、無下にはできない」
そう言って、ぼくらを家に招き入れようとした。
「待ってよ! ねぇ、さっきぼくになにをしたの?」
「なにって。読んだだけだよ」
「読んだ?」
「そう」
魔法使いは人差し指で自分の左のこめかみをトントンと叩いて見せる。
「君の頭の中にあるものだよ。そのほうが手っ取り早そうだったから」
まったく意味が分からずに顔をしかめていると、操が何かに気づいたように「あ」と言って、ぼくの耳元にそっと唇を寄せてきた。
「さっきのは、きっと読心魔法だよ。操の思考を読んだんだ」
「……は? なにそれ!?」
つまり、ぼくはたったいま会ったばかりの知らない人に、勝手に心を読まれたってこと? なんなのそれ? そんなのってあんまりじゃない? 確かにぼくはちょっと浮かれてて、さっきの話はめちゃくちゃだったかもしれないけど。
「なにか食べる? パンしかないけど、それでいい?」
魔法使いがぼくらに背を向けながら言うと、操はパッと表情を明るくして「うん!」と元気に返事をした。それからぼくの顔を見てにっこり笑う。
「やったね操。喉も乾いたし、おれもうお腹ペコペコだよ」
「お茶は勝手に自分で淹れて。無下にはしないけど、客扱いもしないから」
そっけなく部屋を出ていこうとする魔法使いの背中に、操が素直に「はぁい!」と返事をしている。だけどぼくは腹が立っていて、とてもそれどころじゃなかった。無愛想だし、なんかちょっと冷たい感じがするし、勝手に人の心を読むし。
だからぼくは思ってしまった。いけないことだけど、思ってしまったんだ。この人にはこれから、たくさんお世話にならなきゃいけない。お手伝いをしないといけない。でも、だけど──。
ぼく、この人あまり好きじゃない!
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それはお母さんからもらった、最後の言葉だった。
咳が出て、口からたくさん血を吐いて、あんなに苦しそうだったのに。お母さんは最後の瞬間まで、ずっと優しい目をして笑ってた。
ぼくは泣いて泣いて、ご飯も食べられないくらい毎日泣いて、ずっとお母さんの名前を呼んでいた。
お母さん、お母さん、お母さん。
血は繋がっていないけど、お母さんはぼくの本当のお母さんだ。お母さんが、ぼくをぼくにしてくれた。
ぼくが幸せだったのは、いつもそばにお母さんがいてくれたから。寝る前にはおでこやほっぺにキスをしてくれた。お手伝いをしたらたくさん褒めてくれた。お母さんと一緒に眺める空は、宝物みたいにキラキラしていた。
だけどお母さんがいないなら、幸せなんてどこにもない。空を見ても悲しくなるだけで、そこにお母さんがいるなんてどうしても思えなかった。
ぼくはもう、この痛みには耐えられない。だったらどうすればいいだろう。
ぼくはたくさん考えた。お母さんのためにできること。もう一度、空が綺麗だと思えるように。考えて考えて、そして一つの『希望』に行き着いた。その光を頼りに、ぼくにできることならなんだってしてみせる。
泣いてるだけじゃ、きっとなにも変わらないから。
「行こう、操」
ぼくは泣いているもう一人のぼくに手を差しだした。お母さんがいなくなってから、操もずっと泣いている。真っ赤になった目が、まるでうさぎみたいだった。
操は何度も鼻をすすり、それでも「うん」とうなずいた。ぼくの手を取って、ぎゅっと握りしめてくる。その力はとても強いのに、同じくらい弱くも感じた。
守らなくちゃ。そう思った。ぼくは操。この子も操。ぼくらは生まれたときからたった一つだけ与えられた名前をはんぶんこして、ずっとずっと生きてきた。大事な大事な、ぼくの操。
「お母さんを取り戻すんだ。また一緒に暮らせるように」
ぼくたちになら、必ずできる。操がもう泣かなくてすむように。
きっとまた、お母さんと一緒に──。
*
「あっ……!」
強い風が吹いて、操がかぶっていたベージュのキャスケットが空高く舞い上がった。ブーメランみたいに飛んでって、遠くの木々の谷間に消えてしまう。
「あーぁ、飛んでっちゃった! ダメじゃん操。ぼうっとしてちゃ」
ぼくが両手を腰に当てて言うと、操は困った顔をして肩をすくめた。
「ごめん操。だって急に風が吹くんだもの」
「せっかくお揃いだったのにぃ」
ぼくと操は顔も名前も一緒なら、身につけているものだっていつも一緒だ。
チェック柄のカジュアルシャツに、ロールアップしたオーバーオール。そしてベージュのキャスケット。
違うのはシャツの色だけで、ぼくが赤なら操は空色。これなら誰も、ぼくら双子を間違えない。他はなにからなにまで、ぼくたちはお揃いのものが大好きだ。
風が悪戯をしたせいで、キャスケットをかぶっているのはぼくだけになってしまったけれど。
「どこまでいっちゃったんだろう。おれ、探してくるよ」
「こんな深い森の中じゃ、きっとすぐには見つからないよ。あとでぼくも一緒に探してあげるから。今はほら、それより見て」
ぼくが遠くを指さすと、操もそっちへ目を向けた。
遠くの方で、モクモクと煙が上がっているのが見える。たぶん、煙突の煙だ。つまりあそこには家があるってこと。
深い深い森のなか。ぼくらはもうずっと歩き続けて、ようやくここまでたどり着いた。
「本当にいるのかな……こんなところに魔法使いなんて……」
操が不安そうに身を寄せて、ぼくの腕にしがみついてくる。ぼくは操を安心させるため、力強くうなずいた。
「きっといるよ。森に入る前だって、たくさん話を聞いたでしょ?」
オバケ森と呼ばれる森の外れに住む、引きこもりの魔法使い。そのひとは町の人たちから『博士』と呼ばれている。もうずっと何年も森から出ずに、一人ぼっちで魔術の研究をしている変わり者なんだって。
だけどその研究はとても難しいもので、誰も彼もが期待なんかしていない。だから皮肉を込めて、『博士』なんて呼ばれているらしい。
でも、ぼくらにとって博士の研究はたったひとつの希望だ。それを求めて長い長い旅をしてきた。町から町を巡り巡って、たくさんの人から話を聞いて、そしてついにこの森に博士がいることを突き止めたんだ。
「早く行かなきゃ。夜になっちゃう」
パンや水も、もう尽きた。お財布だって空っぽだ。さっきまで頭の上の方にあったはずの太陽が、地平線に沈もうとしている。薄青が混じりはじめた景色のなかで、複雑な形状をした木々がまるで布をかぶったオバケみたいに見えた。
ぼくは怖いのをぐっと我慢して、操とくっつきながら煙を目印に歩きだした。
*
「あった! あったよ操! 魔法使いの家だ!」
どんどん暗くなっていく森のなか、なんとか太陽が沈みきる前にぼくらは噂の魔法使いがいるという家に辿り着いた。
ぼくが家を指さして言うと、操はホッとしたように息をつく。呼吸も浅いし、あまり顔色がよくないみたいだ。ぼくらは姿かたちがそっくりな双子だけれど、操はあまり身体が丈夫な方じゃない。早く休ませてあげなくちゃ。
魔女の帽子みたいに尖った屋根から、レンガの煙突が突き出してモクモクと煙を上げている。古ぼけた漆喰の壁に緑のツルが絡みつき、この家自体がまるで森と一体化しているようだった。頭上には数羽のコウモリが飛びまわっている。
いかにも何かよくないものが出てきそうな雰囲気に、ぼくと操はごくりと喉を鳴らした。
「い、行こう」
ぼくらは互いの手を強く握って、緊張しながらうなずきあった。
玄関先にはランタンが吊り下げられている。蛾や小さな羽虫を纏わりつかせ、チカチカと点滅を繰り返していた。ぼくは大きく深呼吸をすると、オンボロの木製のドアをノックした。
コンコン、コンコン。乾いた音が静かな森に小さく響く。
「……いないのかな?」
首を傾げながら、今度は操がノックした。コンコン、コンコン。ぼくらは交互に、何度かノックを繰り返す。だけど一向に魔法使いは出てこない。
──ボンッ!!
そのときだった。突然ドアの向こうから爆発音がして、家がちょっとだけ揺れた気がした。ぼくらがビクンと肩を跳ねさせていると、頑なに閉ざされていたはずのドアが、キィっと軋んだ音を立てる。
「っ!」
ぼくは思わず息を呑んだ。ゆっくりと開かれたドアから、胡乱な目がぼくらふたりに向けられている。家の中から黒い煙が押しだされ、焦げた臭いを吸い込んだ操がケホッと小さく咳をした。
「……なにか?」
黒いフード付きのローブを着て、テンプルのない鼻眼鏡をした背の高い男の人が、面倒くさそうに不機嫌な声で問いかけてきた。その頬には黒い煤がついていて、長い焦げ茶の髪の毛先も、焦げてチリチリになっている。
「用がないなら早く帰りな。夜の森は危険だよ」
ぼくと操がポカンとしたままなにも答えられないでいると、魔法使いは冷たくそう言ってドアを閉めようとした。
「ま、待って! ぼくたち、生き返らせたい人がいるんだ!」
魔法使いの頬が、ピクリと動いた。胡乱な目つきはそのままに、ぼくらふたりを上から下までジロジロと見る。
「……それで?」
ぼくも操も、どこか陰気な影を帯びた魔法使いに圧倒されていた。だけど物怖じしている場合じゃない。少しでも言いよどむ素振りを見せれば、容赦なくドアを閉められてしまいそうだったから。
「は、博士がそういう研究をしてるって! 死んだ人を生き返らせる、魔法の研究! 町の人達が話してるのをいろいろ聞いて……それでぼくたち、弟子になりたくてここに来たんだ!」
「博士、ね」
自分が皮肉を込めてそう呼ばれていることを、魔法使いは知っているようだった。軽く鼻を鳴らし、腕を組むと開け放った扉を肩で押さえるようにしながらもたれかかった。
「誰?」
「え?」
「誰を生き返らせたいの?」
話、ちゃんと聞いてくれるんだ……。ぼくが少し驚いていると、今度は黙り込んでいた操が声をあげた。
「お母さんを……お母さんを生き返らせたい! おれたちの大事なお母さんを!」
冷たい風がぴゅうっと吹いて、操の声をさらっていった。
操は今にも泣きそうだ。大きな瞳にいっぱい涙を溜めながら、魔法使いを必死で見上げている。ぼくも泣きそうになりながら、そんな操の手を強く握った。
魔法使いは黙ってぼくらを見つめると、どこか痛ましそうに目を伏せる。
「悪いけど、弟子はとってない。獣避けのまじないをかけてあげるから、今すぐ町に帰りな」
「ま、待って! お願い、ぼくたちなんでも言うこと聞くから! 博士の邪魔は絶対しないし、どんなことでも手伝うから、だから……!」
ぼくは咄嗟に操の手を離し、魔法使いのホコリ臭いローブに縋りついていた。ここで引いたら、ぼくらはまた泣いて暮らすだけの日々に戻ってしまう。そんなのは嫌だ。ぼくはもう操の泣き顔を見たくない。
ぼくの必死の訴えに、魔法使いは心底困ったように溜息を漏らした。やがてぼくの手をさりげなく振り払うと、「名前は?」と問いかけてくる。
「弟子にしてくれるの!?」
「さぁ。それはまだ分からない」
「操! 来主操!」
ぼくはすっかりその気になって、キラキラと目を輝かせながら操の肩を抱き寄せる。
「この子も操! ぼくたち双子なんだ! なんでもはんぶんこ! だから名前もはんぶんこなんだよ!」
「どういうこと?」
「施設の人がひとつしか名前をくれなくて……でも、ぼくたちこの名前が好きなんだ。だってぼくと操は二人で一人なんだもん。なんでもお揃いで、なんでもはんぶんこ。あ、でもさっき帽子が風で飛ばされちゃって」
まくしたてるように喋るぼくに、魔法使いが怪訝そうな顔をする。ぼくよりは幾らか空気が読めるらしい操が、堪えきれずに苦笑した。
「慌てすぎだよ。博士が困ってる」
「え、ぼくなにか変だった?」
顔を見合わせるぼくらを見て、魔法使いがまたひとつ溜息をついた。
「わかった。もういい」
魔法使いはそう言って、突然ぼくの頬に手を伸ばしてきた。ぼくはぎょっとして目を丸くしたけれど、魔法使いは長い指をぼくの頬に押し当てて、それから──
「……容子さん?」
と、なぜかお母さんの名前を呼んだ。
ぼくと操は驚いた。魔法使いの瞳にも、わずかな動揺が浮かんでいる。
「どうしてお母さんの名前を知ってるの?」
訳が分からず、操が呆然と問いかけた。ぼくも操も、お母さんの名前はまだ一度も言ってない。それなのにどうして?
「容子さん、亡くなったのか」
魔法使いはただでさえ辛気臭い顔をさらに暗く曇らせた。悲しげに目を伏せて、なにかを考え込んでいる。
「そうか、彼女と同じ疫病で……」
魔法使いは戸惑うぼくらを複雑そうに見つめて、やがてスッと身を引くと
「入りな。容子さんのところから来たのなら、無下にはできない」
そう言って、ぼくらを家に招き入れようとした。
「待ってよ! ねぇ、さっきぼくになにをしたの?」
「なにって。読んだだけだよ」
「読んだ?」
「そう」
魔法使いは人差し指で自分の左のこめかみをトントンと叩いて見せる。
「君の頭の中にあるものだよ。そのほうが手っ取り早そうだったから」
まったく意味が分からずに顔をしかめていると、操が何かに気づいたように「あ」と言って、ぼくの耳元にそっと唇を寄せてきた。
「さっきのは、きっと読心魔法だよ。操の思考を読んだんだ」
「……は? なにそれ!?」
つまり、ぼくはたったいま会ったばかりの知らない人に、勝手に心を読まれたってこと? なんなのそれ? そんなのってあんまりじゃない? 確かにぼくはちょっと浮かれてて、さっきの話はめちゃくちゃだったかもしれないけど。
「なにか食べる? パンしかないけど、それでいい?」
魔法使いがぼくらに背を向けながら言うと、操はパッと表情を明るくして「うん!」と元気に返事をした。それからぼくの顔を見てにっこり笑う。
「やったね操。喉も乾いたし、おれもうお腹ペコペコだよ」
「お茶は勝手に自分で淹れて。無下にはしないけど、客扱いもしないから」
そっけなく部屋を出ていこうとする魔法使いの背中に、操が素直に「はぁい!」と返事をしている。だけどぼくは腹が立っていて、とてもそれどころじゃなかった。無愛想だし、なんかちょっと冷たい感じがするし、勝手に人の心を読むし。
だからぼくは思ってしまった。いけないことだけど、思ってしまったんだ。この人にはこれから、たくさんお世話にならなきゃいけない。お手伝いをしないといけない。でも、だけど──。
ぼく、この人あまり好きじゃない!
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道祖神の傍らで
窓の外は蝉時雨がひっきりなしに響き渡っていた。
それと連動するかのような夏の暑さに、扇風機なんてただの気休めにしかならない。それでも縋るものは他になくて、ファイはカタカタと音がする年代物のそれに顔を寄せ「あー」と声を上げていた。
声が振動して、まるでロボットにでもなったみたいだった。なんだかおかしくて「うふふ」と笑ったら、それもやっぱり振動した。
「おもしろーい」
ファイはそのままコロンと寝転がった。自室の天井を眺めながら、小さく唸って首を傾げる。
「もしかしてこれって、たいくつ、っていうのかな?」
そう、ファイは夏休み真っ只中のこの時期、思い切り暇を持て余していた。
*
夏休みになったら、学校へ行けない代わりに黒鋼と遊ぶ時間がもっと増えるのだと思っていた。けれど、その期待はあっさり裏切られた。
黒鋼の家は小さな民宿を営んでおり、彼はこの時期になると、毎年手伝いに借り出されているのだという。
ファイは家のために遊ぶのを我慢する黒鋼を、とても偉いと思った。でも、やっぱり会えないと寂しい。もしそう言ってお願いしたら、黒鋼は我侭を聞いてくれるだろうか。
そこで、ファイはブンブンと首を振って起き上がった。
「そんなのダメだよー……オレ、もう子供じゃないんだもん」
なんだかこんな風に独り言ばかりが増えた気がした。だが、元々こうだったような気もする。ファイは考え込んだ。
「いいお天気だし……おさんぽ、しちゃおうか?」
そういえば祖母がお古の麦藁帽子をくれたけど、まだかぶっていないことを思い出す。それに、最後に黒鋼と会ったのはもう一週間も前のことで、それ以来ずっと秘密基地へ行っていない。子猫のお墓に庭の向日葵を供えたいと思った。
だがそこで、ファイはまた首を振った。黒鋼にきつく言われていることがあるのを思い出したのだ。
『俺がいないときは、一人で外に遊びに出歩くのは禁止だぞ!』
ファイは白い眼帯に覆われた左目を、指先でちょこちょこと引っ掻いた。怪我をしてから、こちらの目は空っぽになってしまった。目蓋にはすっかり傷が残ってしまって、なんだかそれが恐くて気持ち悪くて、鏡で見るのも嫌だった。
だから他の人間に見せるもの嫌で仕方ない。特に、黒鋼がこれを見て恐がったりしたら、とても悲しい。嫌われるのは嫌だ。だから眼帯は絶対に、寝るときと風呂に入る以外では、外さない。
この怪我のせいで見える世界は半分だけになってしまった。一人で歩くと転びそうになることもあるけれど、そのおかげで、黒鋼は今までよりもっとファイの近くにいてくれるようになった。いつも手を繋いでくれるし、転びそうになっても助けてくれる。たくさん心配をかけてしまったけれど、そのことがファイには嬉しくて仕方がなかった。
黒鋼は皆の人気者だから、本当はこんなことを思うのはいけないことだ。こんな風に思う自分は、とても嫌な人間だと思う。でも、やっぱり嬉しいものは嬉しい。
ファイは猫のように四つん這いで窓の側までにじり寄った。膝立ちで網戸越しに景色を眺める。晴れた空と、美しい緑の田畑が、ずっと遠くまで見通せた。視界は狭まったけれど、ファイはかなり視力がよかったりする。
「あれー?」
その中の一角に、見慣れぬものが混ざっていることに気がついた。ファイは片方しかない目を細めて、網戸を開けると僅かに身を乗り出した。
「わー! お祭だー!」
よくよく耳を澄ませば、蝉の合唱に混じって『ドンドン』とか『テンテン』という面白い音がする。色とりどりの提灯と、紅白の幕がかかったやぐらが見えた。
あそこは確か集会所のある公園だったはずだ。幾つかテントが並んでいる。きっと夜に向けて、大勢の人間が準備に勤しんでいるのだろう。ファイは少し嬉しくなった。
「黒たんもいるかな?」
そういえば最後に会ったとき、黒鋼は祭の手伝いにも駆りだされるのだと零していたっけ。
行ったら会えるかもしれない。でもきっと黒鋼は忙しいし、何より自分がそんなものに参加すれば、また祖父が怒るに違いないと思った。祖父はそもそもファイが学校へ行くことすら、快く思っていないのだ。それこそ、我侭など言えっこない。
それでもファイは、遠く田畑の一角を眺めながら、その音を聞いているだけで十分楽しい気分になれた。だってあそこには、きっと黒鋼もいるから。
ファイは一日中それを眺めて過ごした。
*
夕方頃になると、祭囃子がよく聞こえるようになって、提灯に明かりが灯された。
ゆっくりと陽が沈み、辺りが闇に染まると、色とりどりのそれはまるで夢のように美しく光り輝いていた。
ファイは夕食の後、部屋に電気もつけずにその光景を眺めた。聞きなれないお囃子と、田んぼから聞こえるカエルの合唱とが入り混じって、耳を楽しませてくれる。昼間の暑さが嘘のように、涼しい風が窓から吹き込んでくるのが気持ちいい。
ファイは瞳を輝かせながらそれを眺めて、そして黒鋼を思った。遠くから眺めているのも楽しいけれど、いつかきっと一緒に参加できたらいいなと思う。心の中で願うだけなら、誰にも叱られることはない。
どれくらいそうやって思いを馳せていただろうか。ファイは視界の中で、何かが動くのを見たような気がした。
「んん?」
遠くを見ていた視線を落とす。今はほとんど廃墟と化している、元茶屋の建物のすぐ脇。外灯の下で、ぴょんと飛び跳ねながら背伸びをして、こちらの様子を窺っている者がいた。
「あ!」
ファイは声を上げて慌てて立ち上がると、部屋に明かりをつけた。
「黒るーだ!」
そこにいたのは黒鋼だった。部屋が明るくなったことで、彼の方からもファイの姿が確認できたらしい。大きく手を振ってくる姿に、ファイは嬉しくて同じように手を振った。
それから、ファイは唇だけを動かすと「待ってて」と告げた。黒鋼が頷いたのを確認すると、箪笥の上に置いておいた麦藁帽子を手に取り、静かに音を立てないように、部屋から抜け出す。
裸足の足が床に張り付いてペタペタと音がする。壁に身を寄せ、暗い階段をゆっくりと降りた。今にも駆け出したいけれど、バレないために必死だった。
本当はこんなことはいけないことだと思った。けれど、黒鋼が来てくれたのだと思うと、我慢ならない。少しだけ、言葉を交わしたらすぐに戻ればいいと自分に言い聞かせて、終始慎重に行動して外へ出ることに成功した。麦藁帽子をしっかりと頭にかぶる。
幸い、祖父母は朝が早い代わりに、夕食と風呂を済ませたあとの就寝時間が早い。
「黒たん」
「おう」
外灯の心許ない光を頼りに、フラフラと坂を下りて手を振った。地面は砂利が敷き詰められているせいで、ただでさえ足元がふらつく。黒鋼が転びそうになったファイを両手で受け止めてくれた。
ファイが満面の笑顔で礼を言うと、黒鋼は少し赤くなった。
「おまえ、夜だぞ。これどうした」
黒鋼の手が、ファイの帽子の天辺に触れてグリグリした。ファイはよくぞ聞いてくれましたとばかりに、大きく頷いた。
「おばあちゃんがくれたのー。どうしてもかぶりたかったんだもん。にあう?」
彼はまた、少し赤くなりながらコクコクと二度ほど首を振った。嬉しかった。
「それより黒わんこ、どうして? お手伝いは?」
「さんざん手伝った……それより、悪かったな。俺もう帰るから」
黒鋼は、夜にファイを屋敷から抜け出させてしまったことを気にかけているようだった。ファイは黒鋼にしがみついたまま、思い切り首を振る。
「へいきだよー。おじいちゃんもおばあちゃんも、もう寝てるの。だからもうちょっとお話しよー?」
ね? と頼み込むと、黒鋼は少し考え込んだ後「じゃあ……」と遠慮がちに切り出した。
「少しだけな……。あのな、もうすぐ花火が上がるんだぜ」
「花火!?」
「しーっ! おまえ、声でかすぎだぞ……」
「ご、ごめんー」
ファイは両手で口元を押さえた。胸がうきうきと跳ね上がっていて、嬉しくて叫び出したくて仕方がない。黒鋼の腹に両手を回して、力いっぱいしがみつく。
「だって、だってね、オレ黒たんに会いたかったんだもんー」
「わ、わかったから離れろって」
「どうして赤いのー?」
「うるせぇな」
黒鋼は、なぜか慌てた様子でファイの肩を掴むと引き離した。ファイはその赤くなっている頬を見て、リンゴみたいで可愛いなぁと思った。
*
花火が上がるまでの間、二人は田んぼの畦道を、祭り会場を尻目にブラブラ歩いた。
時折、浴衣姿の観光客と擦れ違うと、皆が夜に麦藁帽子をかぶっているファイをクスクスと笑った。黒鋼が「ほれ見ろ」と呆れたように言うけれど、ファイはちっとも気にしないで、むしろ笑っている彼らに向かって手を振った。
ファイは黒鋼に会えなかったこの数日のことを、ぺらぺらと一生懸命に喋った。黒鋼は時折頷いたり、笑ったりしてただ聞いてくれる。実際は家で宿題をしたり、時々祖母の畑仕事などを手伝ったりと、何の変哲もないことばかりだった。
ファイはとにかく楽しくて仕方がなかった。黒鋼が会いに来てくれたこと、繋いだ手の熱さ、夜にこっそりと家を抜け出しているということも、悪いことだと思えば思うほど、なぜかドキドキした。
「ねぇ黒たん。黒たんはお手伝いエライねー。お手伝い、楽しかったー?」
「楽しいわけあるか。退屈だし面倒だし、嫌んなるぜ」
「あのねあのね、オレもおばあちゃんのお手伝いしたよー。えらい?」
黒鋼が笑って、麦わらの頭をグリグリと撫でた。少し乱暴なその動作に、ファイの声が裏返る。
「きゃあ」
「エライよ、おまえは」
ファイはなんだか自分の頬がぽわっと熱くなるのを感じた。きっと赤くなっているに違いない。黒鋼も同じように頬を赤くしていたのは、きっと今の自分と同じだからなのだと思った。嬉しくて楽しいから、胸がドキドキして顔が赤くなるのだと。
やがて二人は道祖神の傍で、ふと足を止めた。ファイは小首を傾げ、黒鋼を見上げる。
「黒たん、明日もずっといそがしいー?」
「すぐにまた遊べる」
「ほんとー?」
「ほんと」
「そしたら、またこうやってむかえに来てくれるー?」
黒鋼が大きく頷いた。ファイはほっとして、ふにゃりと笑った。
「うれしい」
本当は、どうしたらいいか分からなくて、ずっと考えていた。
黒鋼と仲良くなるまでは、一人でいることなんて当たり前のはずだったのに。今は、そんなとき自分がどんな風にして時間を過ごしていたのかを、思い出せなくなっていたから。
一人だった時間の方が、今この瞬間よりもずっと長かったはずなのに。
けれど黒鋼は会いに来てくれた。次に会えるときの約束をくれた。ファイは、ちゃんといい子にして待っていようと、改めて胸に誓った。
そのとき、ひゅうと音がして花火が上がった。
「わぁ!」
赤や橙の光が空の上で弾ける。二人は手を繋いだままそれを見上げた。遠くから、同じようにそれを見る人たちの歓声が聞こえた。ファイも思い切り声を上げる。
「キレイー!!」
「うん」
その花火は、テレビなどで見るものよりは随分と小さなものだったけど、ファイの眼には世界で一番大きくて、綺麗なものに映った。
黒鋼を見ると、彼の瞳の中にも花火が散っていた。とても綺麗だと思う。ずっと見ていたくて、ファイはいつしか花火よりもその横顔に夢中になった。
「……なんだよ?」
すると視線に気づいた黒鋼が、ちょっと怒ったような顔で睨んでくる。にっこり笑うと、彼はさらにムッとした顔をした。
「見るとこ違ってんぞ」
「黒たんキレイだよー」
「は?」
「やっぱり黒たんはキラキラしてるねー」
そう言うと、すかさず「バカ」と言われてしまう。けれど、それから黒鋼はどこかバツが悪そうに口をもごもごさせた後、ぷいとそっぽを向いた。
クライマックスへ向けて、花火が忙しなく上がる。絶え間なく、幾つもの花が夜空に咲いては、散ってゆく。
――てめぇのほうが、ずっとキレイだ
それと被さるように、今宵一番大きな音と共に花火が上がった。その最後の一発のせいで、黒鋼の言葉は掻き消されてしまった。
ファイはなぜか、聞き取れなかった言葉について問うことをしなかった。握られていた手が、さらに強く握られた。だからファイもぎゅうと握り返した。汗ばんだ手の平が離れてしまわないよう、必死だった。
ファイの小さな胸の中は、熱いものでいっぱいに溢れかえっていた。それはとても幸せな気持ちで、甘いお菓子を目の前にたくさん差し出されたら、こんな気持ちになるのかもしれないと思った。
だけど、それを上手く言葉に出来ない。もっと大きくなって、もっとたくさんの言葉を紡げるようになったら、ちゃんと自分の気持ちを形にして、伝えることが出来るだろうか。この気持ちに、名前をつけることが出来るだろうか。
黒鋼も、同じ気持ちだったらいいと思う。
手をきつく結び合ったまま、元来た道を行きながら、二人はただ「また来年も一緒に見ようね」と言って笑い合うだけで、精一杯だった。
祭の夜は、そうして終わりを告げた。
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窓の外は蝉時雨がひっきりなしに響き渡っていた。
それと連動するかのような夏の暑さに、扇風機なんてただの気休めにしかならない。それでも縋るものは他になくて、ファイはカタカタと音がする年代物のそれに顔を寄せ「あー」と声を上げていた。
声が振動して、まるでロボットにでもなったみたいだった。なんだかおかしくて「うふふ」と笑ったら、それもやっぱり振動した。
「おもしろーい」
ファイはそのままコロンと寝転がった。自室の天井を眺めながら、小さく唸って首を傾げる。
「もしかしてこれって、たいくつ、っていうのかな?」
そう、ファイは夏休み真っ只中のこの時期、思い切り暇を持て余していた。
*
夏休みになったら、学校へ行けない代わりに黒鋼と遊ぶ時間がもっと増えるのだと思っていた。けれど、その期待はあっさり裏切られた。
黒鋼の家は小さな民宿を営んでおり、彼はこの時期になると、毎年手伝いに借り出されているのだという。
ファイは家のために遊ぶのを我慢する黒鋼を、とても偉いと思った。でも、やっぱり会えないと寂しい。もしそう言ってお願いしたら、黒鋼は我侭を聞いてくれるだろうか。
そこで、ファイはブンブンと首を振って起き上がった。
「そんなのダメだよー……オレ、もう子供じゃないんだもん」
なんだかこんな風に独り言ばかりが増えた気がした。だが、元々こうだったような気もする。ファイは考え込んだ。
「いいお天気だし……おさんぽ、しちゃおうか?」
そういえば祖母がお古の麦藁帽子をくれたけど、まだかぶっていないことを思い出す。それに、最後に黒鋼と会ったのはもう一週間も前のことで、それ以来ずっと秘密基地へ行っていない。子猫のお墓に庭の向日葵を供えたいと思った。
だがそこで、ファイはまた首を振った。黒鋼にきつく言われていることがあるのを思い出したのだ。
『俺がいないときは、一人で外に遊びに出歩くのは禁止だぞ!』
ファイは白い眼帯に覆われた左目を、指先でちょこちょこと引っ掻いた。怪我をしてから、こちらの目は空っぽになってしまった。目蓋にはすっかり傷が残ってしまって、なんだかそれが恐くて気持ち悪くて、鏡で見るのも嫌だった。
だから他の人間に見せるもの嫌で仕方ない。特に、黒鋼がこれを見て恐がったりしたら、とても悲しい。嫌われるのは嫌だ。だから眼帯は絶対に、寝るときと風呂に入る以外では、外さない。
この怪我のせいで見える世界は半分だけになってしまった。一人で歩くと転びそうになることもあるけれど、そのおかげで、黒鋼は今までよりもっとファイの近くにいてくれるようになった。いつも手を繋いでくれるし、転びそうになっても助けてくれる。たくさん心配をかけてしまったけれど、そのことがファイには嬉しくて仕方がなかった。
黒鋼は皆の人気者だから、本当はこんなことを思うのはいけないことだ。こんな風に思う自分は、とても嫌な人間だと思う。でも、やっぱり嬉しいものは嬉しい。
ファイは猫のように四つん這いで窓の側までにじり寄った。膝立ちで網戸越しに景色を眺める。晴れた空と、美しい緑の田畑が、ずっと遠くまで見通せた。視界は狭まったけれど、ファイはかなり視力がよかったりする。
「あれー?」
その中の一角に、見慣れぬものが混ざっていることに気がついた。ファイは片方しかない目を細めて、網戸を開けると僅かに身を乗り出した。
「わー! お祭だー!」
よくよく耳を澄ませば、蝉の合唱に混じって『ドンドン』とか『テンテン』という面白い音がする。色とりどりの提灯と、紅白の幕がかかったやぐらが見えた。
あそこは確か集会所のある公園だったはずだ。幾つかテントが並んでいる。きっと夜に向けて、大勢の人間が準備に勤しんでいるのだろう。ファイは少し嬉しくなった。
「黒たんもいるかな?」
そういえば最後に会ったとき、黒鋼は祭の手伝いにも駆りだされるのだと零していたっけ。
行ったら会えるかもしれない。でもきっと黒鋼は忙しいし、何より自分がそんなものに参加すれば、また祖父が怒るに違いないと思った。祖父はそもそもファイが学校へ行くことすら、快く思っていないのだ。それこそ、我侭など言えっこない。
それでもファイは、遠く田畑の一角を眺めながら、その音を聞いているだけで十分楽しい気分になれた。だってあそこには、きっと黒鋼もいるから。
ファイは一日中それを眺めて過ごした。
*
夕方頃になると、祭囃子がよく聞こえるようになって、提灯に明かりが灯された。
ゆっくりと陽が沈み、辺りが闇に染まると、色とりどりのそれはまるで夢のように美しく光り輝いていた。
ファイは夕食の後、部屋に電気もつけずにその光景を眺めた。聞きなれないお囃子と、田んぼから聞こえるカエルの合唱とが入り混じって、耳を楽しませてくれる。昼間の暑さが嘘のように、涼しい風が窓から吹き込んでくるのが気持ちいい。
ファイは瞳を輝かせながらそれを眺めて、そして黒鋼を思った。遠くから眺めているのも楽しいけれど、いつかきっと一緒に参加できたらいいなと思う。心の中で願うだけなら、誰にも叱られることはない。
どれくらいそうやって思いを馳せていただろうか。ファイは視界の中で、何かが動くのを見たような気がした。
「んん?」
遠くを見ていた視線を落とす。今はほとんど廃墟と化している、元茶屋の建物のすぐ脇。外灯の下で、ぴょんと飛び跳ねながら背伸びをして、こちらの様子を窺っている者がいた。
「あ!」
ファイは声を上げて慌てて立ち上がると、部屋に明かりをつけた。
「黒るーだ!」
そこにいたのは黒鋼だった。部屋が明るくなったことで、彼の方からもファイの姿が確認できたらしい。大きく手を振ってくる姿に、ファイは嬉しくて同じように手を振った。
それから、ファイは唇だけを動かすと「待ってて」と告げた。黒鋼が頷いたのを確認すると、箪笥の上に置いておいた麦藁帽子を手に取り、静かに音を立てないように、部屋から抜け出す。
裸足の足が床に張り付いてペタペタと音がする。壁に身を寄せ、暗い階段をゆっくりと降りた。今にも駆け出したいけれど、バレないために必死だった。
本当はこんなことはいけないことだと思った。けれど、黒鋼が来てくれたのだと思うと、我慢ならない。少しだけ、言葉を交わしたらすぐに戻ればいいと自分に言い聞かせて、終始慎重に行動して外へ出ることに成功した。麦藁帽子をしっかりと頭にかぶる。
幸い、祖父母は朝が早い代わりに、夕食と風呂を済ませたあとの就寝時間が早い。
「黒たん」
「おう」
外灯の心許ない光を頼りに、フラフラと坂を下りて手を振った。地面は砂利が敷き詰められているせいで、ただでさえ足元がふらつく。黒鋼が転びそうになったファイを両手で受け止めてくれた。
ファイが満面の笑顔で礼を言うと、黒鋼は少し赤くなった。
「おまえ、夜だぞ。これどうした」
黒鋼の手が、ファイの帽子の天辺に触れてグリグリした。ファイはよくぞ聞いてくれましたとばかりに、大きく頷いた。
「おばあちゃんがくれたのー。どうしてもかぶりたかったんだもん。にあう?」
彼はまた、少し赤くなりながらコクコクと二度ほど首を振った。嬉しかった。
「それより黒わんこ、どうして? お手伝いは?」
「さんざん手伝った……それより、悪かったな。俺もう帰るから」
黒鋼は、夜にファイを屋敷から抜け出させてしまったことを気にかけているようだった。ファイは黒鋼にしがみついたまま、思い切り首を振る。
「へいきだよー。おじいちゃんもおばあちゃんも、もう寝てるの。だからもうちょっとお話しよー?」
ね? と頼み込むと、黒鋼は少し考え込んだ後「じゃあ……」と遠慮がちに切り出した。
「少しだけな……。あのな、もうすぐ花火が上がるんだぜ」
「花火!?」
「しーっ! おまえ、声でかすぎだぞ……」
「ご、ごめんー」
ファイは両手で口元を押さえた。胸がうきうきと跳ね上がっていて、嬉しくて叫び出したくて仕方がない。黒鋼の腹に両手を回して、力いっぱいしがみつく。
「だって、だってね、オレ黒たんに会いたかったんだもんー」
「わ、わかったから離れろって」
「どうして赤いのー?」
「うるせぇな」
黒鋼は、なぜか慌てた様子でファイの肩を掴むと引き離した。ファイはその赤くなっている頬を見て、リンゴみたいで可愛いなぁと思った。
*
花火が上がるまでの間、二人は田んぼの畦道を、祭り会場を尻目にブラブラ歩いた。
時折、浴衣姿の観光客と擦れ違うと、皆が夜に麦藁帽子をかぶっているファイをクスクスと笑った。黒鋼が「ほれ見ろ」と呆れたように言うけれど、ファイはちっとも気にしないで、むしろ笑っている彼らに向かって手を振った。
ファイは黒鋼に会えなかったこの数日のことを、ぺらぺらと一生懸命に喋った。黒鋼は時折頷いたり、笑ったりしてただ聞いてくれる。実際は家で宿題をしたり、時々祖母の畑仕事などを手伝ったりと、何の変哲もないことばかりだった。
ファイはとにかく楽しくて仕方がなかった。黒鋼が会いに来てくれたこと、繋いだ手の熱さ、夜にこっそりと家を抜け出しているということも、悪いことだと思えば思うほど、なぜかドキドキした。
「ねぇ黒たん。黒たんはお手伝いエライねー。お手伝い、楽しかったー?」
「楽しいわけあるか。退屈だし面倒だし、嫌んなるぜ」
「あのねあのね、オレもおばあちゃんのお手伝いしたよー。えらい?」
黒鋼が笑って、麦わらの頭をグリグリと撫でた。少し乱暴なその動作に、ファイの声が裏返る。
「きゃあ」
「エライよ、おまえは」
ファイはなんだか自分の頬がぽわっと熱くなるのを感じた。きっと赤くなっているに違いない。黒鋼も同じように頬を赤くしていたのは、きっと今の自分と同じだからなのだと思った。嬉しくて楽しいから、胸がドキドキして顔が赤くなるのだと。
やがて二人は道祖神の傍で、ふと足を止めた。ファイは小首を傾げ、黒鋼を見上げる。
「黒たん、明日もずっといそがしいー?」
「すぐにまた遊べる」
「ほんとー?」
「ほんと」
「そしたら、またこうやってむかえに来てくれるー?」
黒鋼が大きく頷いた。ファイはほっとして、ふにゃりと笑った。
「うれしい」
本当は、どうしたらいいか分からなくて、ずっと考えていた。
黒鋼と仲良くなるまでは、一人でいることなんて当たり前のはずだったのに。今は、そんなとき自分がどんな風にして時間を過ごしていたのかを、思い出せなくなっていたから。
一人だった時間の方が、今この瞬間よりもずっと長かったはずなのに。
けれど黒鋼は会いに来てくれた。次に会えるときの約束をくれた。ファイは、ちゃんといい子にして待っていようと、改めて胸に誓った。
そのとき、ひゅうと音がして花火が上がった。
「わぁ!」
赤や橙の光が空の上で弾ける。二人は手を繋いだままそれを見上げた。遠くから、同じようにそれを見る人たちの歓声が聞こえた。ファイも思い切り声を上げる。
「キレイー!!」
「うん」
その花火は、テレビなどで見るものよりは随分と小さなものだったけど、ファイの眼には世界で一番大きくて、綺麗なものに映った。
黒鋼を見ると、彼の瞳の中にも花火が散っていた。とても綺麗だと思う。ずっと見ていたくて、ファイはいつしか花火よりもその横顔に夢中になった。
「……なんだよ?」
すると視線に気づいた黒鋼が、ちょっと怒ったような顔で睨んでくる。にっこり笑うと、彼はさらにムッとした顔をした。
「見るとこ違ってんぞ」
「黒たんキレイだよー」
「は?」
「やっぱり黒たんはキラキラしてるねー」
そう言うと、すかさず「バカ」と言われてしまう。けれど、それから黒鋼はどこかバツが悪そうに口をもごもごさせた後、ぷいとそっぽを向いた。
クライマックスへ向けて、花火が忙しなく上がる。絶え間なく、幾つもの花が夜空に咲いては、散ってゆく。
――てめぇのほうが、ずっとキレイだ
それと被さるように、今宵一番大きな音と共に花火が上がった。その最後の一発のせいで、黒鋼の言葉は掻き消されてしまった。
ファイはなぜか、聞き取れなかった言葉について問うことをしなかった。握られていた手が、さらに強く握られた。だからファイもぎゅうと握り返した。汗ばんだ手の平が離れてしまわないよう、必死だった。
ファイの小さな胸の中は、熱いものでいっぱいに溢れかえっていた。それはとても幸せな気持ちで、甘いお菓子を目の前にたくさん差し出されたら、こんな気持ちになるのかもしれないと思った。
だけど、それを上手く言葉に出来ない。もっと大きくなって、もっとたくさんの言葉を紡げるようになったら、ちゃんと自分の気持ちを形にして、伝えることが出来るだろうか。この気持ちに、名前をつけることが出来るだろうか。
黒鋼も、同じ気持ちだったらいいと思う。
手をきつく結び合ったまま、元来た道を行きながら、二人はただ「また来年も一緒に見ようね」と言って笑い合うだけで、精一杯だった。
祭の夜は、そうして終わりを告げた。
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逃れの夢
真っ赤に染まっていた。
顔から大量に流れ出した血液が、白かったはずの肌も、シャツさえも汚して。
血塗れの小さなファイが担架で担がれる光景に、黒鋼はただ追い縋るようにして声を上げていた。泣かないでと、幾度も呟いては伸ばされる手を強く掴むと、黒鋼の手もまた赤に染まった。
『泣かないでね、泣いたらダメ。おなか痛いの?』
脆弱な呼吸の合間に紡がれる声は、弱りきっていたあの子猫を思い出させた。
置き去りにすれば死んでしまうのに。
手を離せば、もう戻らないかもしれないのに。
ぬるりとした感覚に手と手が引き離される頃には、黒鋼の足は縺れて、身体は地面に伏していた。
そのときになって自分が泣いていたことに気がついた。
そしてそのときになって初めて「おい」とか「おまえ」じゃなく、ファイの名を声に出して呼んでいたことに、気がついた。
*
それは黒鋼の知らない歌だった。
初めて耳にするメロディのはずなのに、なぜか酷く懐かしいような気持ちになる。小さく紡がれる声からは、歌詞を鮮明に聞き取ることは出来ない。ただ、同じフレーズを幾度も幾度も繰り返していること、そしてそれがこの国の言葉でないことだけは分かった。
黒鋼は小さな手を引きながら、何も言わずにただそれを聞いていた。
夕暮れに染まる田畑を横目に、ゆっくりと彼に歩調を合わせながら、真っ直ぐに伸びた道を行く。ファイの左手を握り締め、滅多に車通りのない道と分かっていても、ガードレール側を歩かせた。
自分の家とは逆の方向へと、ファイを自宅へ送り届けるために。
あの日、ファイの左目から光が消えた。
黒鋼が体調不良からその場を離れていた、ほんの数分の間に、あの出来事は起こってしまった。
いつもなら多少具合が悪かろうがなんだろうが、保健室になど足を運ぶことはないのに。どうしてあの日に限って、我慢が出来なかったのだろう。
今、ファイは顔の半分を白い包帯で覆われている。驚いたことに、あれからたったの数日で、彼はいつものように登校してきた。何事もなかったかのように、片目だけでふにゃりと笑って。
けれど何事もなかったかのように見えたのは、ファイだけではなかった。
あれだけの騒ぎになっておきながら、クラスメイトなど端から勿論、担任の教師さえなんの反応も見せず、普段通り授業を始めた。
だから。だから黒鋼は――。
「あ」
歌い続けていたファイが小さく声を上げた。すぐ近くで、夏の虫の声がする。
「カナカナだー」
「……ひぐらしだって教えたろ」
「でも、カナカナーって鳴いてるんだもん」
「他のセミはセミって呼ぶくせに」
そう言うと、ファイは「んー」と小さく唸った。それから、黒鋼を見上げて笑う。
「だって、セミは色んな鳴き方するんだもん。ミーンミーンとか、ジージーとか」
「ヘリクツって言うんだぜ、そーゆうの」
「へりくつかー」
知らない言葉だなーと呟きながら、ファイはどこまでも広がる田畑の方へ目を向けた。オレンジ色をした丸い夕陽に向かって右手を伸ばし、それを掴もうとでもするかのように、小さな手をグーパーさせながら「ミカンが食べたいねー」と言った。
表情は見えないけれど、きっと笑っているのだと思う。
いつもだったら、すぐに転ぶのだから余所見をするなと咎めている。けれど、もうそんな必要はないのだということを知っていた。
ファイの手は、こうして黒鋼が引いて歩くのだから。
足元に石があろうが、たとえ落とし穴があろうが、この手を離しさえしなければ、守ることが出来る。だからファイは好きなものを、好きなだけ眺めて歩いていればいい。歌いたければ歌えばいい。知らないものがあったら、自分がなんだって教えてやるのだから。
誰も彼を救えないのなら、そしてファイが誰も憎もうとしないのなら、自分だけは絶対に、忘れない。
あの悪夢の日のことは。
きっととてつもなく大事になるだろうと確信していた。
あれほどまでに行き過ぎたイジメが行われた記憶など、少なくとも黒鋼が物心ついたときから現在に至るまで、一度だって耳にしたことのない大事件だったのだから。
たとえそれが学校という枠内に限らずとも、これほどのことが起これば町中が大騒ぎになるはずだった。下手をすれば、死んでいたっておかしくないのだ。
黒鋼が制裁を加えずとも、あの生徒はきっと酷く叱られて、ひょっとすればもう学校へだって来られなくなるかもしれない。この町にだって、いられなくなるかもしれないと、そう信じていた。
けれど違った。
本当に何もなかったのかもしれないと、あれほど怒りに満ち満ちていた黒鋼さえも錯覚しそうなほど。
全て夢の中の出来事だったかのように、ファイを傷つけた生徒は翌日知らぬ顔で登校して来た。目が合うとバツが悪そうに顔を背けてはいたけれど、その表情がどこか誇らしげにも見えて、黒鋼は身体の中で血液が煮えたぎるのを感じた。
今、黒鋼の左の拳には、傷がついている。
人を本気で殴るのも、殺したいとさえ思うほど憎むことも、生まれて初めてだった。
それは友人同士のじゃれ合いや、昔はテンションが上がると聞き分けが無くなることがあった飼い犬を小突くものとは、大きく違った。殴った拳だって同じ様に傷つき、血を流すのだということを、黒鋼はそのとき知ったのだった。
黒鋼はその日のうちに、両親と連れ立ってその生徒の家へと足を運んだ。
玄関先で頭を下げる父と母に、謝罪された方の親は酷く腹を立てていたが、黒鋼は最後まで口を噤んで何も言わなかった。
帰り道で、両親は何も言わなかった。けれど、父は大きな手で黒鋼の頭をグリグリと撫でた。
弱いものや、小さなものは守ってやらなければいけない。そう教えてくれたのは父だった。
結果的に黒鋼は自分よりも小さなクラスメイトを殴りつけたけれど、父も母も黒鋼が何も言わずとも、事情はある程度把握していたようだった。
いや、むしろ本当はずっと知っていたのだと思う。
小さな町の中で、黒鋼が爪弾きを食らっているファイと仲良くしていることなど、両親の耳に入らないはずがなかったのだ。
黒鋼は、そこで涙を流した。この人たちの子供でよかった。心からそう思った。
「あ、おばあちゃんだー!」
数日前のことに思考が囚われていた黒鋼だったが、ファイのあっけらかんとした声に、我に返った。
顔を上げると、すでに目的地には到着していて、団子屋敷の門へと続く細長い坂の中腹に、ニコニコ顔のおばあちゃんが手を振っていた。
「黒ぽんありがとー! もうだいじょぶだよー」
「……ああ」
黒鋼は、優しいおばあちゃんの笑顔を正面から見ることが出来なかった。俯いて短く返すだけに留めると、右手からファイの手の感触が消えた。それからすぐに、あの生徒を殴って傷つけた左手が、温かなものに包まれる。
「っ」
顔を上げると、ファイが微笑んでいた。けれど、どこか弱々しく悲しそうにも見えたのは、なぜだろう。
黒鋼の傷ついた左手は、ファイの小さな両手にぎゅうと握られていた。
「もう、しないでね」
「…………!」
「黒たんの優しいおてて、キズつけたらダメなんだよ」
ああ、また泣いてしまいそうだ。
自分は優しくなどない。
きっとこの手は、何度だって人を傷つける。
ファイを悲しませても、両親に迷惑をかけても、大切なものを守るためならば、きっと。
「また明日ねー!」
そしてファイは、おぼつかない足取りで坂を登ると、おばあちゃんに抱き付いた。振り向いて無邪気に手を振るファイに、同じ様に手を振り返してやると、黒鋼は元来た道を歩き出した。
いつか。
この壊れた小さな世界から、ファイを連れ出そう。
もっと大きく強くなって、あの手を引いて。
どこへだって行ってやる。彼を傷つけるすべてのものから、彼を遠ざけるためならば。
(それができるのは、俺だけだ)
空に向かって手を伸ばし、ゆっくりと落ちてゆく夕日を掴むようにして、傷ついた拳を握ると、黒鋼は強く胸に誓った。
カナカナカナ、という切ない声と共に、どこか懐かしさを覚えたあの歌声が、いつまでも頭の中に残って消えることはなかった。
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真っ赤に染まっていた。
顔から大量に流れ出した血液が、白かったはずの肌も、シャツさえも汚して。
血塗れの小さなファイが担架で担がれる光景に、黒鋼はただ追い縋るようにして声を上げていた。泣かないでと、幾度も呟いては伸ばされる手を強く掴むと、黒鋼の手もまた赤に染まった。
『泣かないでね、泣いたらダメ。おなか痛いの?』
脆弱な呼吸の合間に紡がれる声は、弱りきっていたあの子猫を思い出させた。
置き去りにすれば死んでしまうのに。
手を離せば、もう戻らないかもしれないのに。
ぬるりとした感覚に手と手が引き離される頃には、黒鋼の足は縺れて、身体は地面に伏していた。
そのときになって自分が泣いていたことに気がついた。
そしてそのときになって初めて「おい」とか「おまえ」じゃなく、ファイの名を声に出して呼んでいたことに、気がついた。
*
それは黒鋼の知らない歌だった。
初めて耳にするメロディのはずなのに、なぜか酷く懐かしいような気持ちになる。小さく紡がれる声からは、歌詞を鮮明に聞き取ることは出来ない。ただ、同じフレーズを幾度も幾度も繰り返していること、そしてそれがこの国の言葉でないことだけは分かった。
黒鋼は小さな手を引きながら、何も言わずにただそれを聞いていた。
夕暮れに染まる田畑を横目に、ゆっくりと彼に歩調を合わせながら、真っ直ぐに伸びた道を行く。ファイの左手を握り締め、滅多に車通りのない道と分かっていても、ガードレール側を歩かせた。
自分の家とは逆の方向へと、ファイを自宅へ送り届けるために。
あの日、ファイの左目から光が消えた。
黒鋼が体調不良からその場を離れていた、ほんの数分の間に、あの出来事は起こってしまった。
いつもなら多少具合が悪かろうがなんだろうが、保健室になど足を運ぶことはないのに。どうしてあの日に限って、我慢が出来なかったのだろう。
今、ファイは顔の半分を白い包帯で覆われている。驚いたことに、あれからたったの数日で、彼はいつものように登校してきた。何事もなかったかのように、片目だけでふにゃりと笑って。
けれど何事もなかったかのように見えたのは、ファイだけではなかった。
あれだけの騒ぎになっておきながら、クラスメイトなど端から勿論、担任の教師さえなんの反応も見せず、普段通り授業を始めた。
だから。だから黒鋼は――。
「あ」
歌い続けていたファイが小さく声を上げた。すぐ近くで、夏の虫の声がする。
「カナカナだー」
「……ひぐらしだって教えたろ」
「でも、カナカナーって鳴いてるんだもん」
「他のセミはセミって呼ぶくせに」
そう言うと、ファイは「んー」と小さく唸った。それから、黒鋼を見上げて笑う。
「だって、セミは色んな鳴き方するんだもん。ミーンミーンとか、ジージーとか」
「ヘリクツって言うんだぜ、そーゆうの」
「へりくつかー」
知らない言葉だなーと呟きながら、ファイはどこまでも広がる田畑の方へ目を向けた。オレンジ色をした丸い夕陽に向かって右手を伸ばし、それを掴もうとでもするかのように、小さな手をグーパーさせながら「ミカンが食べたいねー」と言った。
表情は見えないけれど、きっと笑っているのだと思う。
いつもだったら、すぐに転ぶのだから余所見をするなと咎めている。けれど、もうそんな必要はないのだということを知っていた。
ファイの手は、こうして黒鋼が引いて歩くのだから。
足元に石があろうが、たとえ落とし穴があろうが、この手を離しさえしなければ、守ることが出来る。だからファイは好きなものを、好きなだけ眺めて歩いていればいい。歌いたければ歌えばいい。知らないものがあったら、自分がなんだって教えてやるのだから。
誰も彼を救えないのなら、そしてファイが誰も憎もうとしないのなら、自分だけは絶対に、忘れない。
あの悪夢の日のことは。
きっととてつもなく大事になるだろうと確信していた。
あれほどまでに行き過ぎたイジメが行われた記憶など、少なくとも黒鋼が物心ついたときから現在に至るまで、一度だって耳にしたことのない大事件だったのだから。
たとえそれが学校という枠内に限らずとも、これほどのことが起これば町中が大騒ぎになるはずだった。下手をすれば、死んでいたっておかしくないのだ。
黒鋼が制裁を加えずとも、あの生徒はきっと酷く叱られて、ひょっとすればもう学校へだって来られなくなるかもしれない。この町にだって、いられなくなるかもしれないと、そう信じていた。
けれど違った。
本当に何もなかったのかもしれないと、あれほど怒りに満ち満ちていた黒鋼さえも錯覚しそうなほど。
全て夢の中の出来事だったかのように、ファイを傷つけた生徒は翌日知らぬ顔で登校して来た。目が合うとバツが悪そうに顔を背けてはいたけれど、その表情がどこか誇らしげにも見えて、黒鋼は身体の中で血液が煮えたぎるのを感じた。
今、黒鋼の左の拳には、傷がついている。
人を本気で殴るのも、殺したいとさえ思うほど憎むことも、生まれて初めてだった。
それは友人同士のじゃれ合いや、昔はテンションが上がると聞き分けが無くなることがあった飼い犬を小突くものとは、大きく違った。殴った拳だって同じ様に傷つき、血を流すのだということを、黒鋼はそのとき知ったのだった。
黒鋼はその日のうちに、両親と連れ立ってその生徒の家へと足を運んだ。
玄関先で頭を下げる父と母に、謝罪された方の親は酷く腹を立てていたが、黒鋼は最後まで口を噤んで何も言わなかった。
帰り道で、両親は何も言わなかった。けれど、父は大きな手で黒鋼の頭をグリグリと撫でた。
弱いものや、小さなものは守ってやらなければいけない。そう教えてくれたのは父だった。
結果的に黒鋼は自分よりも小さなクラスメイトを殴りつけたけれど、父も母も黒鋼が何も言わずとも、事情はある程度把握していたようだった。
いや、むしろ本当はずっと知っていたのだと思う。
小さな町の中で、黒鋼が爪弾きを食らっているファイと仲良くしていることなど、両親の耳に入らないはずがなかったのだ。
黒鋼は、そこで涙を流した。この人たちの子供でよかった。心からそう思った。
「あ、おばあちゃんだー!」
数日前のことに思考が囚われていた黒鋼だったが、ファイのあっけらかんとした声に、我に返った。
顔を上げると、すでに目的地には到着していて、団子屋敷の門へと続く細長い坂の中腹に、ニコニコ顔のおばあちゃんが手を振っていた。
「黒ぽんありがとー! もうだいじょぶだよー」
「……ああ」
黒鋼は、優しいおばあちゃんの笑顔を正面から見ることが出来なかった。俯いて短く返すだけに留めると、右手からファイの手の感触が消えた。それからすぐに、あの生徒を殴って傷つけた左手が、温かなものに包まれる。
「っ」
顔を上げると、ファイが微笑んでいた。けれど、どこか弱々しく悲しそうにも見えたのは、なぜだろう。
黒鋼の傷ついた左手は、ファイの小さな両手にぎゅうと握られていた。
「もう、しないでね」
「…………!」
「黒たんの優しいおてて、キズつけたらダメなんだよ」
ああ、また泣いてしまいそうだ。
自分は優しくなどない。
きっとこの手は、何度だって人を傷つける。
ファイを悲しませても、両親に迷惑をかけても、大切なものを守るためならば、きっと。
「また明日ねー!」
そしてファイは、おぼつかない足取りで坂を登ると、おばあちゃんに抱き付いた。振り向いて無邪気に手を振るファイに、同じ様に手を振り返してやると、黒鋼は元来た道を歩き出した。
いつか。
この壊れた小さな世界から、ファイを連れ出そう。
もっと大きく強くなって、あの手を引いて。
どこへだって行ってやる。彼を傷つけるすべてのものから、彼を遠ざけるためならば。
(それができるのは、俺だけだ)
空に向かって手を伸ばし、ゆっくりと落ちてゆく夕日を掴むようにして、傷ついた拳を握ると、黒鋼は強く胸に誓った。
カナカナカナ、という切ない声と共に、どこか懐かしさを覚えたあの歌声が、いつまでも頭の中に残って消えることはなかった。
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光
黒たんは、いっつもキラキラに光っていたんだ。
たくさん友達に囲まれて、黒たんはあんまり笑わないけど、みんなはニコニコしていたよ。
オレはずっと見ていたから、知ってるんだよ。
みんな黒たんが大好きだよ。
だから。
だからおねがい。
そんなふうに、泣かないで。
*
はっきり言って、最初から気に入らなかった。
家族だって近所の人たちだって、みんなあの家の子供には近寄るなって言ってたし、余所者はただでさえ悪さをする奴がいるから、注意しなきゃいけないって。
最初はあの変わった色の目や髪とか、大きな街の方からやって来たアイツに興味深々な奴もいたけどさ。
でも、話しかけてもおかしなことばかり言うし、いっつもヘラヘラ馬鹿みたいに笑ってるのが、みんなだんだん気持ち悪くなっていったんだ。
だからやっぱり外から来た奴なんか、ろくなもんじゃないんだよ。
しかもたまに、アイツはぼんやりした顔でこっちを見ていることがあったんだ。
それは本当に時々なんだけど、おれたちが教室で固まって喋ってたり、校庭で走り回ってたりするときに、気がつくと見てる。
おれがにらみ返してるのに気づくと、やっぱりヘラヘラ笑ってから、どこか他を向いてしまうけど。
もしかしたら、大道寺くんを見ていたのかもしれないって、今になって思う。
大道寺くんはクラスで一番大きくて、足も速いし勉強もできるし、名前だって強そうで、すごくカッコいい。
大道寺くんが言うことはみんななんでも信じるし、大道寺くんがやることはなんでもマネした。
カリスマ、っていうのかな? とにかく、おれたちにとって大道寺くんは、憧れのリーダーなんだ。
生意気な女子共は目つきが恐いとか、怒ってるみたいだとか言って、大道寺くんのことをあまり良く思ってない。
どうせ女子なんかには分からないんだから、そんなことはどうでもいいんだけど。
そんなことよりもおれたちが、ってゆーかおれが一番ムカついたのは、最近になって大道寺くんと、あのチビ野郎が仲良くしてるってことなんだ。
ずっと興味なんかなさそうだったのに、大道寺くんはどうしていちいちあんな奴を構うようになったんだろう。
放課後なんて、二人してさっさとどっかに消えちゃうし、おれたちは大道寺くんとあんまり遊べなくなった。
教室にいても、校庭にいても、大道寺くんは必ずアイツを連れてくるようになった。
今までは影でこっそりアイツをイジメたりしてたから、みんなそんな奴と遊ぶのは、なんとなく気が引けてたんだ。
おれたちはみんな大道寺くんがイジメとか、そーゆうのが嫌いだってことを知っていたから、だから影でこっそりやってたんだけど。
大道寺くんとアイツが仲良くなってから、アイツが一人きりでいることはほとんどなくなったから、誰もちょっかいを出せる奴はいなくなった。
ただそれでもマシだったのは、あのチビは大道寺くんに金魚のフンみたいにくっついてはくるけど、おれたちの輪の中にまでは、入ってこないってことだった。
校庭でも他のどこかでも、ただ近くにいて、ニコニコしながらおれたちを眺めているだけ。
他の連中はそのうちだんだん気にならなくなったみたいだけど。
おれはそれでも十分、イヤだった。
その日は、体育の授業で先生が校庭で好きなことをしてもいいって言った。
だからおれたちは、みんな倉庫から持ってきたサッカーボールを転がして走り回ってた。
そうしたら、大道寺くんはもともと朝からあんまり調子がよくなかったみたいで、ひとしきり遊んだあと「腹がイテェ」って言って、保健室に行っちゃった。
行く前に、鉄棒に寄りかかっておれたちを眺めていたチビ野郎のところに行って、なんか声かけてたのを見て、おれはちょっといい機会だと思った。
アイツは最近いい気になってるから、せっかくだからちょっと脅かしてやろうぜってことになって、一人きりになったアイツのところに何人かで行って、取り囲んでやった。
「もうボールで遊ばないのー?」
楽しかったのに……なんて、一緒に遊んでたわけでもないのにチビは言った。
「お前さ、調子にのんなよ」
そう言ってやると、「オレ、なんにものってないよー?」なんてふざけたことを言う。
やっぱりコイツは馬鹿だ。
無性にムカついて、おれがちっこい肩に思い切りパンチを入れると、薄っぺらな身体は大きく揺れて、ペタリと崩れた。
女みたいに座り込んだ格好を見て、おれたちはゲラゲラ笑った。
でも、チビは不思議そうにおれたちの顔を見上げたあと、ヘラっと笑って「ころんじゃったぁ」と言った。
それから、まるで何事もなかったみたいにキョロキョロ辺りを見渡しはじめた。
「黒たんおそいねー? おなかイタイのかわいそう……」
おれは頭に血が上った。
きっとコイツは大道寺くんに助けを求めるつもりでいるんだ。
そうしたらおれたちが、大道寺くんに嫌われるってことを知ってるから。
前に放課後、コイツにちょっかいを出していたやつが、運悪く大道寺くんに見られて睨まれたって言ってた。
そいつらはしばらくの間、大道寺くんに無視されて青くなってたっけ。
「お前さ、ムカつくんだよ! もう大道寺くんについて歩くのやめろよ!」
同情されてるだけだって早く気づけよ。
見てると無性に腹立つんだよ。
余所者は早く出てけ。
いっそ死ねばいいんだ。
今すぐに。
おれもみんなも、そんなようなことを口々に言ったけど、笑ってないのはおれだけだった。
からかうとか、ちょっと脅かすとか、おれはもうそんなレベルじゃなくなってた。
馬鹿みたいに笑って、女みたいな顔して、おれたちの楽しい時間を奪って。
チビはポカンと口をあけて、青い眼をパチクリさせた。
そうだ、この眼が一番ムカつくんだ。
いつもおれたちを見てた。大道寺くんを。
おれは砂場の砂を蹴り上げてチビ野郎に吹っかけた。
白い体操着が薄茶色に汚れる。
何度も蹴り上げているうちに、おれは足先になにか固いものがぶつかったのを感じて、下を見た。
なんでこんなもんが砂場に埋まってるのか、きっと誰かの悪戯かなんかだったんだろう。
でもそんなことはどうでもよくて、おれはそれを勢いよく掴み上げた。
ちょうど野球ボールくらいの、真っ黒い石だった。
他のみんなが、驚いて「わっ」と声を上げた。
よせ、とかやめろ、って声も混ざっていた気がしたけど、おれの耳にはほとんど届いていなかった。
「死ね!!」
おれはそれを、相変わらず座り込んだままのチビ野郎の顔面に、叩き付けてやった。
*
黒たん、やっぱりお腹が痛いのかな。
泣かないでって言いたいけど、オレは上手に言えてるのかな?
どうしてだろう。
オレには君の声が聞こえないんだ。
もうすぐ顔も見えなくなるみたい。
目の中が赤くて、顔がとっても熱いんだ。
ねぇ黒たん。
みんな君が大好きだよ。
オレも君が大好きだよ。
だから黒たん。
――泣かないで。
←戻る ・ 次へ→
黒たんは、いっつもキラキラに光っていたんだ。
たくさん友達に囲まれて、黒たんはあんまり笑わないけど、みんなはニコニコしていたよ。
オレはずっと見ていたから、知ってるんだよ。
みんな黒たんが大好きだよ。
だから。
だからおねがい。
そんなふうに、泣かないで。
*
はっきり言って、最初から気に入らなかった。
家族だって近所の人たちだって、みんなあの家の子供には近寄るなって言ってたし、余所者はただでさえ悪さをする奴がいるから、注意しなきゃいけないって。
最初はあの変わった色の目や髪とか、大きな街の方からやって来たアイツに興味深々な奴もいたけどさ。
でも、話しかけてもおかしなことばかり言うし、いっつもヘラヘラ馬鹿みたいに笑ってるのが、みんなだんだん気持ち悪くなっていったんだ。
だからやっぱり外から来た奴なんか、ろくなもんじゃないんだよ。
しかもたまに、アイツはぼんやりした顔でこっちを見ていることがあったんだ。
それは本当に時々なんだけど、おれたちが教室で固まって喋ってたり、校庭で走り回ってたりするときに、気がつくと見てる。
おれがにらみ返してるのに気づくと、やっぱりヘラヘラ笑ってから、どこか他を向いてしまうけど。
もしかしたら、大道寺くんを見ていたのかもしれないって、今になって思う。
大道寺くんはクラスで一番大きくて、足も速いし勉強もできるし、名前だって強そうで、すごくカッコいい。
大道寺くんが言うことはみんななんでも信じるし、大道寺くんがやることはなんでもマネした。
カリスマ、っていうのかな? とにかく、おれたちにとって大道寺くんは、憧れのリーダーなんだ。
生意気な女子共は目つきが恐いとか、怒ってるみたいだとか言って、大道寺くんのことをあまり良く思ってない。
どうせ女子なんかには分からないんだから、そんなことはどうでもいいんだけど。
そんなことよりもおれたちが、ってゆーかおれが一番ムカついたのは、最近になって大道寺くんと、あのチビ野郎が仲良くしてるってことなんだ。
ずっと興味なんかなさそうだったのに、大道寺くんはどうしていちいちあんな奴を構うようになったんだろう。
放課後なんて、二人してさっさとどっかに消えちゃうし、おれたちは大道寺くんとあんまり遊べなくなった。
教室にいても、校庭にいても、大道寺くんは必ずアイツを連れてくるようになった。
今までは影でこっそりアイツをイジメたりしてたから、みんなそんな奴と遊ぶのは、なんとなく気が引けてたんだ。
おれたちはみんな大道寺くんがイジメとか、そーゆうのが嫌いだってことを知っていたから、だから影でこっそりやってたんだけど。
大道寺くんとアイツが仲良くなってから、アイツが一人きりでいることはほとんどなくなったから、誰もちょっかいを出せる奴はいなくなった。
ただそれでもマシだったのは、あのチビは大道寺くんに金魚のフンみたいにくっついてはくるけど、おれたちの輪の中にまでは、入ってこないってことだった。
校庭でも他のどこかでも、ただ近くにいて、ニコニコしながらおれたちを眺めているだけ。
他の連中はそのうちだんだん気にならなくなったみたいだけど。
おれはそれでも十分、イヤだった。
その日は、体育の授業で先生が校庭で好きなことをしてもいいって言った。
だからおれたちは、みんな倉庫から持ってきたサッカーボールを転がして走り回ってた。
そうしたら、大道寺くんはもともと朝からあんまり調子がよくなかったみたいで、ひとしきり遊んだあと「腹がイテェ」って言って、保健室に行っちゃった。
行く前に、鉄棒に寄りかかっておれたちを眺めていたチビ野郎のところに行って、なんか声かけてたのを見て、おれはちょっといい機会だと思った。
アイツは最近いい気になってるから、せっかくだからちょっと脅かしてやろうぜってことになって、一人きりになったアイツのところに何人かで行って、取り囲んでやった。
「もうボールで遊ばないのー?」
楽しかったのに……なんて、一緒に遊んでたわけでもないのにチビは言った。
「お前さ、調子にのんなよ」
そう言ってやると、「オレ、なんにものってないよー?」なんてふざけたことを言う。
やっぱりコイツは馬鹿だ。
無性にムカついて、おれがちっこい肩に思い切りパンチを入れると、薄っぺらな身体は大きく揺れて、ペタリと崩れた。
女みたいに座り込んだ格好を見て、おれたちはゲラゲラ笑った。
でも、チビは不思議そうにおれたちの顔を見上げたあと、ヘラっと笑って「ころんじゃったぁ」と言った。
それから、まるで何事もなかったみたいにキョロキョロ辺りを見渡しはじめた。
「黒たんおそいねー? おなかイタイのかわいそう……」
おれは頭に血が上った。
きっとコイツは大道寺くんに助けを求めるつもりでいるんだ。
そうしたらおれたちが、大道寺くんに嫌われるってことを知ってるから。
前に放課後、コイツにちょっかいを出していたやつが、運悪く大道寺くんに見られて睨まれたって言ってた。
そいつらはしばらくの間、大道寺くんに無視されて青くなってたっけ。
「お前さ、ムカつくんだよ! もう大道寺くんについて歩くのやめろよ!」
同情されてるだけだって早く気づけよ。
見てると無性に腹立つんだよ。
余所者は早く出てけ。
いっそ死ねばいいんだ。
今すぐに。
おれもみんなも、そんなようなことを口々に言ったけど、笑ってないのはおれだけだった。
からかうとか、ちょっと脅かすとか、おれはもうそんなレベルじゃなくなってた。
馬鹿みたいに笑って、女みたいな顔して、おれたちの楽しい時間を奪って。
チビはポカンと口をあけて、青い眼をパチクリさせた。
そうだ、この眼が一番ムカつくんだ。
いつもおれたちを見てた。大道寺くんを。
おれは砂場の砂を蹴り上げてチビ野郎に吹っかけた。
白い体操着が薄茶色に汚れる。
何度も蹴り上げているうちに、おれは足先になにか固いものがぶつかったのを感じて、下を見た。
なんでこんなもんが砂場に埋まってるのか、きっと誰かの悪戯かなんかだったんだろう。
でもそんなことはどうでもよくて、おれはそれを勢いよく掴み上げた。
ちょうど野球ボールくらいの、真っ黒い石だった。
他のみんなが、驚いて「わっ」と声を上げた。
よせ、とかやめろ、って声も混ざっていた気がしたけど、おれの耳にはほとんど届いていなかった。
「死ね!!」
おれはそれを、相変わらず座り込んだままのチビ野郎の顔面に、叩き付けてやった。
*
黒たん、やっぱりお腹が痛いのかな。
泣かないでって言いたいけど、オレは上手に言えてるのかな?
どうしてだろう。
オレには君の声が聞こえないんだ。
もうすぐ顔も見えなくなるみたい。
目の中が赤くて、顔がとっても熱いんだ。
ねぇ黒たん。
みんな君が大好きだよ。
オレも君が大好きだよ。
だから黒たん。
――泣かないで。
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「材料、ちゃんと揃ってよかったね」
ぼくが持っている取っ手付きのバスケットの中には、毒があるとしか思えない色のキノコや葉っぱ、ヘビの卵や抜け殻なんかが入っている。ぜんぶ博士から採ってくるように言われたものだ。
博士は研究の他にも、いろんな材料を使って怪我や病気に効く薬も作ってる。月に二、三度、町から薬を買い付けに商人がやってきて、代わりに食料だとか生活用品だとか、必要なものと交換する仕組みになっていた。
「博士って、ぜんぜん人と関わってないわけじゃないんだね。こないだ商人の人とずっと立ち話してたよ。大きなリュックを背負った、タンクトップのおじさんでさ──操?」
ぼくは操がうなずきもせず黙りこくっていることに気づいて、足を止めた。
操はすぐにハッとして顔をあげ、「なんでもないよ」と言いながら首を振って見せる。でも、顔はうまく笑えていない。操は誤魔化すことを諦めて、小さく「ごめん」とこぼしながら、またうつむいてしまった。
「ねぇ操、大丈夫だよ。今日がダメでも、明日があるから。元気だそうよ」
「うん……」
操に元気がないのは、風で飛ばされたキャスケットが見つからないせいだった。
ここに来てもうすぐ一ヶ月。ぼくらは博士の小間使いとして仕事を覚えながら毎日を過ごして、その合間にキャスケットを探し続けている。迷子にならないように木の枝に紐をくくって印をつけながら、少しずつ探す範囲を広げていった。
だけどなかなか見つからない。今日もお使いをしながら探したけど、ぜんぜんダメだった。あれはお母さんがくれた大事なものだから、どうしても諦めきれないでいる気持ちはぼくも同じだ。でも、正直もうどうしたらいいのか、ぼくらには分からなくなっていた。
「操」
ぼくは自分がかぶっているキャスケットのツバを掴んで、サッと脱ぐと操の頭にかぶせてやった。目をまんまるにした操に、ニッコリ笑いかける。
「それ、かぶってていいよ」
「でも……」
「いいじゃん。ぼくたちなんでもはんぶんこ。そうでしょ?」
なくなってしまったものは戻ってこないかもしれないけど、だったら今あるものを仲良くはんぶんこすればいいだけの話だ。生まれたときから、ぼくらはずっとそうしてきたんだから。
ぼくはこうすればきっと操がまた笑ってくれると思っていた。だけど操は下唇を噛みしめて、やっぱりうつむくだけだった。
「操?」
「ねぇ操」
「うん」
「博士の研究、本当に完成すると思う……?」
ぼくは薄々気がついていた。操に元気がなかったのは、キャスケットのことだけじゃないってこと。だってその不安はぼくも感じていたことだから。
博士の研究は失敗続きだ。あの爆発音にも、焦げ臭さにも、そのあとの博士の不機嫌そうな顔にも、そろそろ慣れてきてしまった。
「お母さんとまた暮らせるようになる日、本当に来るのかな」
「来るよ! 絶対!」
ぼくは思わず大きな声を出していた。
「博士が諦めない限り、きっといつか成功するよ! 操だってそう言ったじゃん。ここにいれば、必ずお母さんを取り戻す方法が見つかるって!」
「操……」
「だからがんばってるんじゃないか! 料理だって掃除だって、本当はあんまり得意じゃないけど……でも、博士の弟子になれたら、今よりもっと手伝えることだって増えるはずだよ! だから……っ」
泣きそうになっているぼくに、操は「ごめんね」と言って笑った。下手くそだなってぼくは思う。だって無理してるのがバレバレの笑い方なんだもん。
「ちょっと弱気になっただけ。変なこと言っちゃって、ごめんな」
「……うぅん、わかるよ。操の気持ち、ぼくにも分かる」
ずっと苦しかった。ここに来てから覚えることがたくさんで、毎日が一瞬で過ぎてしまったような気がしていたけれど。本当はすごく長かった。お母さんと会えなくなってから、今日までずっと。
だけどぼくらは博士を信じてここにいるしかない。どんなに時間がかかっても、そうするしかないって決めたから。
「帰ろ。博士のご飯を作らなきゃ」
操はやっぱり無理してるって分かる下手くそな笑顔でそう言って、かぶっていたキャスケットのツバを摘むと、ぼくの頭にポンと戻した。
なんとか気を取り直して、ぼくも操と同じ、下手っぴな笑顔で大きく頷く。
「うん。今日こそ美味しいって言ってもらおうね」
博士は基本的に、食べられればなんでもいいという人だ。研究のこと以外、他はどうでもいいみたいだった。だから焦げたパンでも塩を入れすぎたスープでも、なにも言わずに黙々と食べる。生きるための作業って感じ。カエルの姿焼きを出したときは、ちょっとだけ嫌そうな顔をしてたけど。
ぼくらが来るまではカビたパンでも平気で齧っていたそうだから、それに比べたらちょっとは役に立ててると思う。
「博士、今日のご飯きっとビックリするだろうな」
バスケットには、今夜食べるために捕まえたトカゲが数匹、袋に入って暴れてる。博士がどんな反応するかを想像したら、ぼくはちょっぴり楽しくなってきた。
ぼくはあれから、ときどき博士と一緒にコーヒーを飲むようになった。
こないだ、珍しく朝から操の調子がいい日には、初めて操の分もカフェオレも作ってもらった。
だけど操はどうしてもコーヒーが得意じゃないみたいで、ちょっと口をつけただけで渋い顔をした。それを見てぼくは笑ってしまったけど、博士はなにか考え込んでいる様子だった。
その数日後、商人が薬を買いつけに家に来たとき、博士はタンクトップのおじさんにオレンジジュースを注文していた。廊下を雑巾がけしていたぼくは、その話をこっそり聞いていた。嬉しかった。博士はときどき嫌味を言ったりすることもあるけど、ぼくと操のことをとても大事にしてくれていると思う。
だからぼくの中では最近、博士のことを「あまり好きじゃない」から「ほんのちょっとだけ好きじゃない」に変わってて──だってたまに意地悪なのは変わらないし──博士がふいに見せる表情の変化は、見ててけっこう楽しかったりもする。
だからもう少し一緒にいたら、そのうちもっとちゃんと好きになれるかもしれないって、そう思うようになっていた。
「博士、また嫌そうな顔するのかな?」
操の顔に、やっと本当の笑顔が戻ってきた。
「するかもね。だって今日はトカゲの唐揚げだもん!」
ぼくらは顔を見合わせるとクスクス笑い、遠くに見える煙突の煙を目指して、手を繋ぎながら家に帰った。
*
その夜、ぼくはなかなか寝つけずにこっそり屋根裏部屋を抜け出した。
玄関の横にある朽ちた木のベンチに腰掛けて、ホットケーキを裏返したような丸い月をぼんやり見上げる。
頭の中では帰り道で操とした会話が、ずっとグルグル行ったり来たりしていた。
「そんな格好でいたら風邪ひくよ」
「うわっ」
とつぜん声がしたことに驚いて、ぼくはビクンと肩を跳ねさせた。
そこには裏庭から回り込んできたらしい博士がいて、膝丈まである無地のシャツを一枚ペロッと着ているだけのぼくに、少し呆れた表情を浮かべている。
「び、ビックリしたぁ~……オバケが出たかと思ったよ」
ぼくは大きく息をつき、胸に手を押し当てた。心臓がバクバクしてる。
博士はいつもの黒いなローブ姿で、夜の森に溶け込んでいるのがちょっと不気味だ。顔色が優れないように見えるのは、夕飯で出したトカゲのせいだと思う。博士は引きつった顔をしながら、それでもチビチビと口に入れて水で流し込んでいた。
「眠れない?」
博士はそう言ってぼくに近づいてくると、ローブを脱いでそっと肩にかけてくれた。あったかい。うなずく代わりにすんと鼻を鳴らすと、ちょっぴりほこり臭い中に博士の匂いが混ざっていた。なんだか少し、ホッとする。
「ありがと、博士」
ぼくはローブの合わせ目を内側から両手でぎゅっと掴んで、胸元に手繰り寄せた。やっぱり博士は大きいな。ぼくの身体はローブにすっぽり包まれてしまう。
「博士はショコラのところに行ってたの?」
「日課だからね」
博士がぼくの隣に腰掛ける。ボロボロのベンチが、ギシっと軋んだ音を立てた。
「花、ありがとう」
しばらく一緒に月を見上げていると、博士がぽつりとそう言った。
お使いから戻る途中、たまたま目についた花を摘んで持ち帰ったぼくらは、それをこっそりショコラの墓にお供えしておいた。名前は分からなかったけど、白くてとても綺麗な花だったから。
「ショコラ、喜んでるかな?」
「喜んでるよ。きっと」
「えへへ、そっか。よかった」
博士がふっと笑った気配がした。ぼくはそんな博士の横顔を見やる。
「ねぇ博士」
「なに?」
「博士は、どうしてお母さんを知ってたの?」
それはずっと気になっていたことだった。
初めて会ったときにも同じ質問をしたはずだけど、あのときの博士は勝手に心を読むことはしても、ぼくらとじっくり話そうとはしてくれなかった。
でも、今ならちゃんと答えてくれるんじゃないかって気がした。博士とはずいぶん打ち解けたと思うし、なによりお母さんのことだもん。ぼくには知る権利があるはずでしょ。
「……容子さんは、俺の恩師だった人だ」
思った通り、博士はお母さんの話をしてくれた。
「小さな田舎の魔法学校で、教師をしていた。10年以上も前のことだよ」
「そうだったんだ。知らなかった」
ぼくが知ってるお母さんは、修理屋さんをして生計を立てていた。ほつれた洋服だとか、壊れたオモチャだとか、ちょっとした機械なんかを直して元通りにする仕事だ。ぼくもよく手伝いをさせてもらってた。
「どうして先生やめちゃったの?」
「……娘がいたんだ。その一人娘が、疫病でね」
ぼくは家に飾ってあった写真立てのことを思いだした。可愛いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶった黒髪の女の子。名前は、確か翔子っていったはずだ。ぼくらにとってはお姉ちゃんってことになる。
「ぼくはお姉ちゃんに会ったことがない。お母さんから聞いて、名前を知っているだけ。お母さんは、お姉ちゃんがいなくなったのが悲しくて、先生をやめちゃったってこと?」
博士はなにも言わなかった。ただ静かに月を見上げている。たぶん、それが答えなんだと思う。
その寂しそうな横顔に、ぼくは見覚えがあるような気がした。お母さんも、写真を見つめながらよくこんな顔をしていたことを思いだす。
博士も思いだしているのかな。失ってしまった、大切な誰かのことを。胸がぎゅっと締めつけられるような痛みを覚えて、ぼくは静かにうつむいた。それからふと、思いついたんだ。
お姉ちゃんのことも、生き返らせてあげたいって。
これは名案だと、ぼくは思った。
そうすればお母さんだってきっと喜ぶ。ぼくと操と、お姉ちゃんとお母さん。家族4人で、一緒に暮らすことができる。博士の研究が成功すれば、いつかきっとその夢は叶うんだから。
「ねぇ博士。研究、きっと成功するよね?」
博士を見上げて、縋るような目をしながら問いかけた。だけど博士は月を見つめたまま、なにも言ってくれない。
分かってるんだ。とても難しい研究だから、そう簡単に返事なんかできないってこと。博士は何年も研究し続けて、そして何度も失敗し続けている。町の人達だってみんな言ってた。どうせ無理だって。叶いっこないって、笑ってた。
だけど博士の研究はぼくらの希望だから。操が心から笑えるようになるためには、博士の力が必要だった。
「お願い博士、うんって言って」
博士の横顔が、涙でどんどん滲んでいった。どんなに時間がかかってもいい。必ず完成するって、たった一言そう言ってくれるだけで、ぼくは安心できるのに。
それなのに、博士はやっぱりなにも言わずに月を見ていた。
「お願いだから、うんって言ってよ……」
ぼくは博士の腕に縋りついて泣いていた。お母さんを取り戻す日まで、もう泣かないって決めたのに。今までずっと我慢し続けていたものが、一気に溢れて止まらなくなってしまった。
肩を震わせて泣いていると、頬にあたたかなものが触れてぼくは顔をあげた。こらえるように細められた博士の瞳が、ゆらゆらと揺れている。
博士の白い指先が何度も涙をぬぐってくれるけど、その優しい感触にぼくはもっと悲しくなった。ひ、ひ、としゃくりを上げながら必死でその瞳を見返していると、博士が両手でぼくの濡れた頬を包み込んだ。
親指でそれぞれ両方の目尻を拭いながら、博士はじっとぼくの泣き顔を見つめている。なにか言いたそうに開きかけた唇を震わせて、だけどそこから言葉が発されることはなかった。代わりにゆっくりと、博士の顔が近づいてくる。
どうしてかぼくは無意識に息を止めて、自然とまぶたを閉じていた。唇に、熱くて柔らかなものが押しつけられる。
「っ!」
ぼくの肩がピクンと揺れるのと同時に、その感触は離れていった。おずおずと目を開けると、なぜか博士が狼狽えた表情で声をつまらせている。まるで自分がしたことに、自分で驚いているみたいだった。どうしてこんなことをしたのか、博士自身が戸惑っているような。
だけど、そんなのぼくにはもっと分からない。
「どうして、ちゅうしたの?」
寝る前にお母さんがしてくれていたキスとは違う。唇にするキスに特別な意味があることくらい、ぼくだって知ってるよ。だから分からない。どうして博士は、ぼくの唇にキスなんかしたんだろう?
博士は正面を向いてうなだれると、深い息を漏らした。膝の上に肘を置き、鬱陶しい前髪ごとガリガリと頭をかいている。その手つきは乱暴で、こんな博士の仕草を見たのは初めてだった。
やがて横目でチラリとぼくを見ると、上ずった声で「今のは忘れて」と言った。
ぼくは何度も目を瞬かせる。月明かりに照らされて、博士の頬がほんの少しだけ赤くなっていることに気がついた。それを見たら、急に変な気分になってしまった。とてもいけないことをしたような気がして、ぼくは素直にうなずいた。
だけど頭の中は軽くパニックになっている。顔が真っ赤になって、心臓が思いきり走ったときみたいにドキドキしていた。どうしよう。よく分からないけど、すごく困った。だってこんなの初めてだったし、それに、それに。
「博士、今の……忘れる、から」
「……うん」
「今のこと、操には言わないで」
なんでかは分からない。だけど操には、どうしても知られたくないと思ってしまった。おねしょをしていたのがバレてしまったときよりも、今のほうが何倍も恥ずかしい。操に知られたらって思うと、もっともっと恥ずかしいような気がした。
操に隠し事をするなんて、ちょっと前のぼくなら考えられないことだけど。ぼくが博士とキスをしたことは、ぼくらだけの秘密にしておきたかった。
博士は気が抜けたように笑ってぼくを見た。ぼくは博士の顔が見られない。だからうつむいて、もじもじと足の先を擦り合わせた。
なんか、誤魔化されちゃったような気がするな。とても大事な話をしていたのに、博士があんなことするから。だけど今さら続きを問いただす気にはなれなかった。涙も、いつの間にか止まってる。
考えなきゃいけないこと、不安なこと、たくさんあるのに。
ぼくの唇にはまだ博士の熱が残ってる。ちゃんと忘れなくちゃと思うのに、あの一瞬の感覚がぼくの身体に染みついて、いつまでも消えることはなかった。
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