三日後。
操は総士に呼び出され、彼が通う大学にある食堂を訪れていた。
「すまない。急に呼び出して」
白のニットセーターの袖を、なんとはなしにいじくりながら広い食堂の片隅に座っていると、眼鏡に白衣姿の総士がやってきた。
向かい側に腰かけた彼に首を振った操の頬は、このたった三日間で少しやつれて目の下に隈を作っている。
「そのぶんだと、あまりうまくいってないようだな」
「いくわけないじゃん~……同じ空間にいるだけでオシッコ漏れそうだよぉ」
深く長い息を漏らして、操はテーブルに突っ伏した。
「本当にすまない。なるべく様子を見に行くようにはするが」
「うぅん。だって総士は忙しいし。一騎にも頼めないもんね……わかってるよ」
あまり愚痴っぽくなれば、総士が気に病む。操に頼むことがどれほど無謀か、きっと彼が一番よく分かっているだろうから。証拠に、総士はなんともいえない様子で苦笑いをして見せる。
「彼の様子はどうだ」
テーブルに突っ伏していた操はのろのろと上体を起こし、自分でも驚くほど冴えない声で「うーん」と唸っていた。
「変わりない、と思うよ。喋らないし、笑わない。夜はおれのベッドを使ってもらってるけど、それ以外はずっと本棚の横に座ってる。あとはときどき窓の外を眺めてるくらいかな。ただ……」
「ただ?」
「ご飯を食べてくれない。おれの料理が下手すぎて、食べる気が起きないだけかもしれないけど」
操はこの三日というもの、慣れないなりに頑張っていた。
朝はパンと玉子(黒焦げ)とサラダにスープ、昼はバイトで不在のときも多いため、おにぎり(ボロボロ)を握って置いておき、夜は肉を焼いたり(生焼けな上に調味料を忘れて無味)などなど……。
確かに、思いだすだけでも酷い出来のブツばかりを作りだしている自覚はあった。
テーブルの上でモジモジと擦りあわせたりしている操の指先には、何枚もの絆創膏が巻きつけられていた。包丁なんてまともに扱った試しがない。しょっちゅう指を切ったり、火傷を負ったりしてメソメソと泣いてばかりだ。
総士はそれを痛ましそうに見たあと、難しい顔をして息を漏らした。
「何か対策を練った方がよさそうだな」
「料理教室に通うとか……?」
「一騎に習うというのも手だが」
「あっ、そういえば一騎はどうなの? 元気になった?」
「ああ、だいぶ落ち着いた」
総士が小さく笑う。その様子を見て操は胸を撫で下ろしたが、総士はすぐに表情を引き締めると「ここからが今日の本題だ」と切り出した。
「お前を呼んだのは、彼がいない場所で話しておきたいことがあったからだ」
どこか重々しい雰囲気を察して、操は思わず姿勢を正す。
何かとても言いにくいことを言おうとしているのが、その口ぶりから感じとることができた。
「単刀直入に言う。甲洋は、元の飼い主によって虐待されていた」
「虐待!?」
咄嗟に声を張り上げてしまう。食堂内はそれほど混雑してはいないものの、幾人かから訝しげな視線を向けられてしまった。
操は思わず背中を丸め、声を潜める。
「虐待って……じゃあ、あの子の飼い主は……?」
「探しているのは、彼の新しい飼い主になってくれる人間だ」
「そうだったんだ……」
操は俯き、白く光沢のあるテーブルへと視線を落とす。
甲洋はてっきり迷子犬なのだとばかり思いこんでいた。しかしあの心の閉ざし方を思えば、嫌でも納得せざるをえなかった。彼が厚い壁を作っていることは、操の目から見ても明らかだ。
苦い錠剤を噛み潰してしまったかのように、胸に不快なものが込み上げる。
「酷い。そんなのってないよ……」
「……ネグレクトが主だったようだ。真冬のベランダに長く放置されている姿を、一騎が視た」
「視た? それって、読心能力っていうやつで?」
「そうだ」
総士の話はこうだった。
彼らの相性は、決して最初から悪いものだったわけではない。甲洋は一騎にまるで関心がない様子だったし、合う合わないでいえば、むしろ波長は合っているような印象を総士は受けた。
ただ幾度か対話を試みる段階で一騎が意図せず彼の記憶を『視て』しまったことが、甲洋の感情を激しく揺さぶり、刺激してしまったのだと。
「怒ったの? あの子が?」
「僕も驚いた。酷く唸りながら、一騎を突き飛ばした」
一騎は感受性が豊かで、イヌの中でも特に優れた読心能力を持っていた。
甲洋の記憶を視てしまったのは、その力の強さがゆえに起きてしまった、ある種の事故といっても過言ではない。
どんな生き物だって、常に気を張り詰めていることは不可能だ。頑なに警戒心を解こうとしなかった甲洋にも、一瞬の気の緩みから心の解れは生じてしまった。そのとき傍に一騎がいたというだけの話だ。
「一騎は甲洋に心を砕いていた。その気持ちが強すぎたんだろう」
閉ざされた心に寄り添おうとする気持ちが、甲洋の最も触れられたくない場所を暴いてしまうという結果になった。
一騎は無遠慮に誰かの心に踏み込むようなイヌではない。けれどそこにどんな要因があるにせよ、踏み込まれた方には関係のない話だ。甲洋が混乱して感情的になってしまったとしても、誰も責めることはできない。
それが触れられたくない場所であればあるほど、自己を守ろうとする本能が働いてしまうのだ。
「だから一騎、落ち込んじゃったんだね」
「記憶に引きずられて同調してしまったというのもあるだろうが……多くは罪悪感だろうな」
一騎は悪くない。もちろん、甲洋もだ。
「ねぇ総士、その元の飼い主が、今どこにいるか分かる?」
「なにをするつもりだ」
「決まってるじゃん! そんな酷いことするなんて、一度ガツンと言ってやらなきゃ気が済まない!」
総士は溜息をつきながら首を左右に振り「やめておけ」と言った。
「なんで!」
「気持ちは分かるが、不可能だ」
「だからなんで?」
「……来主、僕らが通っていた中学校の近くに、喫茶店があったのを覚えているか?」
「え?」
突然の問いかけに戸惑いながらも、操は記憶の引き出しを探りだす。
自分と総士が通っていた高校。竜宮中学校だ。その近くに、確かに一軒だけ喫茶店があったことは記憶している。
「楽園、だっけ。一度も行ったことはないけど……それがなに?」
「そこは三ヶ月近く前に閉店し、今はもぬけの殻になっている。オーナー夫婦はその二階に住んでいたが、引っ越して現在の消息は不明だ」
「甲洋はそこんちの子だったの?」
総士が頷く。操はやり場のない憤りを覚えた。虐待の末に、そのまま置き去りにして引っ越してしまったということだ。そんなことをするくらいなら、どうして動物を飼おうなんて思ったのだろう。
操は涙が滲むのを止められなかった。
「ッ、お前が泣いたって仕方がない」
「わかってるよぅ……」
「……いや、その。すまない」
総士は白衣のポケットから綺麗に折りたたまれたハンカチを取りだすと、ぎこちない様子で操に差し出してくる。操は遠慮なくそれを受け取り、涙を拭うと少しだけ笑った。
「ありがとう総士。大丈夫、総士が言いたかったこと、おれわかるよ」
ただ一言「泣くな」と言えない不器用な従兄弟だ。
総士は操を泣かせるつもりなんかなかったし、甲洋のことも一騎のことも深く心配している。その優しさはハンカチを通してちゃんと伝わってきた。
涙を拭いながら、つくづく彼の傍にいるのが一騎でよかったと思う。イヌは同種間ほどではないにしろ、人間の心を感じとる力があるらしいから。
彼はきっと子供の頃から一緒にいるはずの操よりも、ずっと総士のことを理解している。
(おれと甲洋は、絶対にそんなふうにはなれないだろうな)
操はどうしたってイヌが怖いし、甲洋はきっと人間という生き物に何も期待していないだろう。あの瞳に映る自分は、彼を捨て去った楽園のオーナー夫婦となにも変わらないのかもしれない。
嫌だと思うのに、それをどうにかするだけの力がないことは操が一番よく知っていた。
甲洋の心を癒し、幸せにできる人間はきっとどこか他にいるはずだ。それを信じて、今は待つしかない。
「おれも飼い主になってくれそうな人、探してみるよ。あと、もうちょっとまともなご飯も作れるようにならないと」
「お前に関してはそちらが最優先事項だろうな」
「だよねぇ」
力なく笑いながら肩を落とした操からハンカチを受け取ると、総士は「そういえば」と言って発券機の方を見た。
「なにか食べていくか? 世話になっている礼だ。好きなものを選ぶといい」
「え!? いいの!?」
喜びかけた操だが、けれどすぐに思い直して首を左右に振った。
「やっぱいいや。おれだけ外でまともなもの食べるなんて、なんか悪いもん」
甲洋だって、本当はきっとお腹を空かせているに違いないのだ。
がんばってもう少しいいものが作れたら、次こそちゃんと食べてくれるかもしれない。そのときは、できれば一緒に食べたいと思う。
同様の理由で、ここ数日はバイト先のまかないも食べずに我慢している。昼は甲洋に握ったのと同じ、ボロボロのおにぎりを持参して食べていた。
「そうか」
「うん。甲洋が待ってる……かは分からないけど、おれもう帰るよ」
隣の椅子に丸めて置いていたモッズコートを引き寄せると席を立った操に、総士は優しく目を細めながらふわりと笑った。
「来主」
「ん、なに?」
「お前に頼んでよかった」
ひとつもまともに世話などできていないのだが。
総士に言われると嬉しくて、操は頬を赤らめながら「ありがとう」と笑って肩をすくめた。
*
「よし! 今日こそ美味しいご飯を作るぞ!」
その夜、部屋着にしているパーカーの袖をまくって、操は台所に立っていた。
まな板の上には鶏の腿肉が置いてある。焦がしたり生焼けにしたりしないよう、しっかり蒸し焼きにする予定だ。そのためには、まず火が通りやすいように切り分けるつもりでいるのだが。
鶏肉の皮の表面というのは、どうしてこうもブツブツとしていて気色が悪いのか。操はそれをじっと見つめたあと、ブルッと身を震わせた。
「でも、がんばる」
甲洋はいつもの本棚脇の定位置でじっと座っている。相変わらず一言も喋らない。この数日で心なしか頬がこけてきたようにも見えて、操は焦りを覚えながら包丁を手にした。
するとそこで、玄関から扉を控えめに叩く音が聞こえてきた。
「はーい?」
操はいったん包丁を置くと甲洋を振り返り「ちょっと待っててね」と声をかける。それから玄関へ行き、そっと扉を開けた。
するとそこには真っ白い耳と尻尾をもつチワワ、一騎の姿があった。
「うわぁ!? 一騎ぃ!?」
「よ、来主。なんか久しぶりだな」
反射的に後ろに数歩後退した操に笑いかけながら、ベージュのボアコートを羽織った一騎が苦笑する。彼は手に大きな荷物を持っていた。
「ちょっといいか? 渡したいものがあって来たんだけど」
「う、うん。わかった」
一騎が通路の方へ姿を消すので、操も靴を引っかけて外に出る。
ここはアパートの一階、角部屋だ。扉を開けると目の前は駐車場になっていて、一騎は乗ってきた自転車を街灯の真下に停めて操を待っていた。
「一体どうしたの? 総士は?」
「ああ、今夜は大学につめてるよ。あいつから連絡をもらってさ。今日、会ったんだろ?」
「うん」
操と一騎の距離はおよそ1メートル半。これが操の限界だ。その距離に一騎が小さく笑ったのが分かる。
「ご、ごめんね一騎。一騎は大丈夫ってわかってるんだけど……身体がどうしても」
「いいよ、気にしなくて」
そう言って、一騎は手にしていた大きな鞄と袋を二人のちょうど中間にそっと置いた。
「それなに?」
「確認してくれ」
言われた通り、操は二つの荷物に手を伸ばして足元に引き寄せた。しゃがみこんでから、まずは鞄の方を開けてみる。大きな旅行鞄だ。
「あ、これって……服?」
「ああ。イヌ用だから、すぐにでも着られるはずだ」
「ほんとだ! お尻のとこにちゃんと尻尾の切り込みが入ってる!」
「総士とだいたい背格好は同じだったはずだから、サイズも合ってると思う」
「ありがとう一騎!」
感激して見上げると、一騎は「買ったのは総士だよ」と言って笑った。
甲洋がいま着ているのは最初にここを訪れたときに身に着けていたシャツとジーンズ、あとは操のジャージやスウェットに無理やりハサミで尻尾穴を開けたものである。
上背がある彼に操の服は少し丈が短くて、手首と足首がつんつるてんの状態になっていた。
鞄の中には何着かの部屋着と、外出用のシャツやパンツ類、下着も数枚入っていた。
(そういえば甲洋、ノーパンだ……)
今さら気がついて考えなしだったことを後悔した。だからこれは非常に助かる。
操はさらにもう一つの、紙袋の方を開けると「わ」と声をあげた。中にはジャガイモやニンジン、玉ねぎといった野菜類が入っていた。
「野菜がたくさんだ! あと、これは……?」
野菜類と一緒に、茶封筒に入った本が出てくる。操はそれを取りだすと立ちあがり、表紙を見て「わっ」と短く声をあげた。
「これレシピ本!? オーブンレンジで簡単料理!?」
「ああ。それなら火を使わなくてもいいし、少しは楽だろ?」
「す、すごいや……美味しそうなのがいっぱいある……」
中身をパラパラと流し見るだけでも、結構な数のレシピがあって感動した。
これなら火加減を間違えて失敗することもないだろうし、自分でもできそうな気がしてくる。
「野菜は俺の実家からよく貰うんだ。俺と総士だけじゃ食べきれないから、少しだけど貰ってくれると助かる」
「ありがとう一騎……総士にもお礼を言わなくちゃ」
操はレシピ本を両腕で抱えて、胸に強く抱きしめた。
これならきっと上手くいく。甲洋だって、次こそは食べてくれるかもしれない。
「ごめんな来主。俺がうまくやれなかったから、お前に苦労をかけて」
「そんなことない。一騎はがんばったよ。総士から聞いたもん」
「だけど、甲洋のことは俺が頼まれたんだ。父さんから」
「父さん? えっと、総士の先生んとこの家だっけ?」
そうだと言って一騎が頷いた。
彼が父と呼んで慕うのは、総士の大学の教授でもある真壁史彦のことだ。
甲洋は弱っているところを保護され、入院生活を経たあとは真壁の家に預けられていたらしい。
しかしまるで心を開かず、塞ぎ込むばかりの甲洋に頭を悩ませた史彦は、同じイヌである一騎に彼を託した。人間とイヌでは読心能力が使えないし、なにより年齢が近い者同士──外見からおおよその年齢を予想したにすぎないが──のほうが、心を開きやすいのではないかと考えたからだ。
「そうだったんだ。でも、だからって一騎が謝ることないよ。悪いのは、甲洋に酷いことした人たちのほうでしょ?」
「……ありがとな、来主」
一騎は形のいい眉と白い耳を少しだけ力なく下げた状態で笑った。
「甲洋は、今どうしてる?」
「じっとしてるよ。あんまり動かない、かな」
泣きもしなければ笑いもしない。ただじっと座って操を見ているか、物憂げに窓の外に目を向けていることが多かった。彼が何を考えているのか、操にはまるで分からない。
「……尻尾はどうだ?」
「尻尾?」
小首を傾げて見せると、一騎が小さく頷いた。
「俺たちは耳や尻尾で感情表現をするんだ。あいつが来たばかりの頃は、ずっと足の間に尻尾を巻きこんで怖がってた。どんなに心に壁を作っても、そこだけは嘘をつけないんだよ」
操はこの数日、甲洋の尻尾がどう動いていたかを思いだしてみた。
「うーん。いま一騎が言ったみたいな形は、見たことないと思う。垂れさがってるか、たまに左の方に振ってるような気はする、かなぁ? 多分だけど」
それを聞いた一騎はどこかバツが悪そうな表情で黙り込み、俯いてしまった。
「か、一騎。なにかあるなら言って。じゃなきゃおれわかんない」
「いや……うん、そうだよな。俺たちはヒトの心が読めるわけじゃないけど、なんとなく感じとることはできるんだ。だから来主が不安に思ってることが、そのままあいつにも伝わってるのかもしれない」
「……おれのせいで、甲洋はストレスを感じてるってこと?」
一騎はなにも言わなかった。言えなかった、という方が正解かもしれない。
操は甲洋の立場に立って考えてみた。もし自分の傍にいる人間が、自分を恐れて拒絶していたら。それを敏感に感じ取ってしまったら、どう思うだろう。
(悲しいって思う。おれは何も悪いことしないのにって)
イヌはヒトの心を多少なりとも感じ取ることができる。ちゃんと分かっていたはずなのに。
「来主は悪くない。きっと甲洋もそれは分かってる。お前ががんばってることも」
「……そう、かな」
「優しいよ。あいつは」
「それも、心を読んだからわかるの?」
一騎は小さく笑って首を振った。
「目を見れば分かる。優しすぎるから、傷つきやすいんだ。きっと」
*
一騎は「あいつを頼むな」と言って帰っていった。
操は野菜と本が入った袋を台所の隅に置くと、鞄を抱えて居間に入った。
「こ、甲洋」
ピクリと黒い耳が動いて、少しだけ前方に傾いた。透明感のある瞳が操をじっと見つめている。
操は少しずつ彼ににじり寄り、ここが限界という位置でちょこんと正座すると膝の上に鞄を置いた。
距離にしておよそ1メートル半。一騎に対して近づけるギリギリのラインと同じだ。
「新しい服、一騎が持ってきてくれたよ。おれのじゃ窮屈だったでしょ。ごめんね」
甲洋はやっぱり何も言わない。そろそろこの沈黙にも慣れてきたような気がする。
「あのね。おれ、まだ君にちゃんと言ってなかったことがあって」
それは一騎と話をして、初めて気がついたことだった。
操はまだ自分の話を何ひとつしていない。恐怖心が先行して、甲洋にただ漠然とした不安を与えるばかりだったことを。
自分たちはイヌ同士ではないのだから、心の中を探り合うことだってできない。甲洋が何も話そうとしないからって、操まで口を閉ざしていていいわけはないのだ。
ちゃんと言葉にして、操自身が抱える不安の正体を伝えなくてはいけないと思った。
「きっと君はもう気づいてると思うけど……おれ、イヌが怖い。子供の頃に追いかけられたことがあって……そのときね、総士が怪我しちゃったんだ。それがショックで、怖くて、忘れられなくて」
大きな身体で牙を剥き、唸りながら吠え立てるブルドッグの姿を思いだす。操は思わず肩を竦め、気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸をした。
「だから本当は、預かるのも嫌だったんだ。今も正直、怖い。でもこれはおれの問題で……一騎に対しても同じ。いつもこれ以上は近づけなくて、きっと嫌な思いをさせてる」
一騎はいつも笑って許してくれるけれど。でも、いい気持ちはしていないだろうと思う。友達だと思っているのに、気軽に肩を触れ合わせることすらできないなんて。
「つまり何が言いたいかっていうと、おれは君個人のことを嫌ってるわけじゃないし、ご飯もちゃんと食べてほしいし、喋ってほしいし、あとは……えっと、ここにいてほしいって、思ってる」
「!」
一瞬、甲洋が息を呑んだような気がする。
それはほんの些細な反応でしかなかったけれど、彼が初めて示した、なんらかのサインだった。
「おれなんかじゃ頼りないよね。それはわかってるんだ。イヌが怖いって気持ちも、きっと抑えられない。でも、がんばるよ。ずっと不安にさせて、ごめんな」
甲洋は鞄の上に添えられている操の両手をじっと見つめた。指先の絆創膏には少し血が滲んでいる。慣れない包丁による傷と、火傷の痕だ。
三日前にはなかったはずのそれらを見て何を思ったのか、彼はふっと息を吐きだした。
「別にいい」
「え?」
操は耳を疑った。
「甲洋、いまなんて」
「……別に、気にしてないから」
少し硬いが、静かで優しい声だった。
操はたったいま起こったことが信じられず、ポカンと口を開けた。甲洋はそっけなく視線を外し、そのまま顔も背けてしまう。
(甲洋が……喋った……)
驚きのあと、じわじわと滲むように喜びが湧きあがる。
少しだけ、ほんの少しだけ、甲洋が心の扉を開いてくれた。そんな気がして。嬉しさと感動のあまり、肌が粟立つのを感じた。
「うぅ……ぅ~……」
「?」
「やったー!!」
「ッ!」
込み上げてくるものを押さえきれず万歳をしだした操に、甲洋が何事かとギョっとしてこちらを見た。
「甲洋が喋った! 喋ってくれた! 嬉しいー!!」
万歳を繰り返す操を見つめる甲洋の顔には、思いっきり「変なやつ」と書かれているような気がしたが、それすらも今は嬉しくて、操は笑いながら、少しだけ泣いた。
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操は総士に呼び出され、彼が通う大学にある食堂を訪れていた。
「すまない。急に呼び出して」
白のニットセーターの袖を、なんとはなしにいじくりながら広い食堂の片隅に座っていると、眼鏡に白衣姿の総士がやってきた。
向かい側に腰かけた彼に首を振った操の頬は、このたった三日間で少しやつれて目の下に隈を作っている。
「そのぶんだと、あまりうまくいってないようだな」
「いくわけないじゃん~……同じ空間にいるだけでオシッコ漏れそうだよぉ」
深く長い息を漏らして、操はテーブルに突っ伏した。
「本当にすまない。なるべく様子を見に行くようにはするが」
「うぅん。だって総士は忙しいし。一騎にも頼めないもんね……わかってるよ」
あまり愚痴っぽくなれば、総士が気に病む。操に頼むことがどれほど無謀か、きっと彼が一番よく分かっているだろうから。証拠に、総士はなんともいえない様子で苦笑いをして見せる。
「彼の様子はどうだ」
テーブルに突っ伏していた操はのろのろと上体を起こし、自分でも驚くほど冴えない声で「うーん」と唸っていた。
「変わりない、と思うよ。喋らないし、笑わない。夜はおれのベッドを使ってもらってるけど、それ以外はずっと本棚の横に座ってる。あとはときどき窓の外を眺めてるくらいかな。ただ……」
「ただ?」
「ご飯を食べてくれない。おれの料理が下手すぎて、食べる気が起きないだけかもしれないけど」
操はこの三日というもの、慣れないなりに頑張っていた。
朝はパンと玉子(黒焦げ)とサラダにスープ、昼はバイトで不在のときも多いため、おにぎり(ボロボロ)を握って置いておき、夜は肉を焼いたり(生焼けな上に調味料を忘れて無味)などなど……。
確かに、思いだすだけでも酷い出来のブツばかりを作りだしている自覚はあった。
テーブルの上でモジモジと擦りあわせたりしている操の指先には、何枚もの絆創膏が巻きつけられていた。包丁なんてまともに扱った試しがない。しょっちゅう指を切ったり、火傷を負ったりしてメソメソと泣いてばかりだ。
総士はそれを痛ましそうに見たあと、難しい顔をして息を漏らした。
「何か対策を練った方がよさそうだな」
「料理教室に通うとか……?」
「一騎に習うというのも手だが」
「あっ、そういえば一騎はどうなの? 元気になった?」
「ああ、だいぶ落ち着いた」
総士が小さく笑う。その様子を見て操は胸を撫で下ろしたが、総士はすぐに表情を引き締めると「ここからが今日の本題だ」と切り出した。
「お前を呼んだのは、彼がいない場所で話しておきたいことがあったからだ」
どこか重々しい雰囲気を察して、操は思わず姿勢を正す。
何かとても言いにくいことを言おうとしているのが、その口ぶりから感じとることができた。
「単刀直入に言う。甲洋は、元の飼い主によって虐待されていた」
「虐待!?」
咄嗟に声を張り上げてしまう。食堂内はそれほど混雑してはいないものの、幾人かから訝しげな視線を向けられてしまった。
操は思わず背中を丸め、声を潜める。
「虐待って……じゃあ、あの子の飼い主は……?」
「探しているのは、彼の新しい飼い主になってくれる人間だ」
「そうだったんだ……」
操は俯き、白く光沢のあるテーブルへと視線を落とす。
甲洋はてっきり迷子犬なのだとばかり思いこんでいた。しかしあの心の閉ざし方を思えば、嫌でも納得せざるをえなかった。彼が厚い壁を作っていることは、操の目から見ても明らかだ。
苦い錠剤を噛み潰してしまったかのように、胸に不快なものが込み上げる。
「酷い。そんなのってないよ……」
「……ネグレクトが主だったようだ。真冬のベランダに長く放置されている姿を、一騎が視た」
「視た? それって、読心能力っていうやつで?」
「そうだ」
総士の話はこうだった。
彼らの相性は、決して最初から悪いものだったわけではない。甲洋は一騎にまるで関心がない様子だったし、合う合わないでいえば、むしろ波長は合っているような印象を総士は受けた。
ただ幾度か対話を試みる段階で一騎が意図せず彼の記憶を『視て』しまったことが、甲洋の感情を激しく揺さぶり、刺激してしまったのだと。
「怒ったの? あの子が?」
「僕も驚いた。酷く唸りながら、一騎を突き飛ばした」
一騎は感受性が豊かで、イヌの中でも特に優れた読心能力を持っていた。
甲洋の記憶を視てしまったのは、その力の強さがゆえに起きてしまった、ある種の事故といっても過言ではない。
どんな生き物だって、常に気を張り詰めていることは不可能だ。頑なに警戒心を解こうとしなかった甲洋にも、一瞬の気の緩みから心の解れは生じてしまった。そのとき傍に一騎がいたというだけの話だ。
「一騎は甲洋に心を砕いていた。その気持ちが強すぎたんだろう」
閉ざされた心に寄り添おうとする気持ちが、甲洋の最も触れられたくない場所を暴いてしまうという結果になった。
一騎は無遠慮に誰かの心に踏み込むようなイヌではない。けれどそこにどんな要因があるにせよ、踏み込まれた方には関係のない話だ。甲洋が混乱して感情的になってしまったとしても、誰も責めることはできない。
それが触れられたくない場所であればあるほど、自己を守ろうとする本能が働いてしまうのだ。
「だから一騎、落ち込んじゃったんだね」
「記憶に引きずられて同調してしまったというのもあるだろうが……多くは罪悪感だろうな」
一騎は悪くない。もちろん、甲洋もだ。
「ねぇ総士、その元の飼い主が、今どこにいるか分かる?」
「なにをするつもりだ」
「決まってるじゃん! そんな酷いことするなんて、一度ガツンと言ってやらなきゃ気が済まない!」
総士は溜息をつきながら首を左右に振り「やめておけ」と言った。
「なんで!」
「気持ちは分かるが、不可能だ」
「だからなんで?」
「……来主、僕らが通っていた中学校の近くに、喫茶店があったのを覚えているか?」
「え?」
突然の問いかけに戸惑いながらも、操は記憶の引き出しを探りだす。
自分と総士が通っていた高校。竜宮中学校だ。その近くに、確かに一軒だけ喫茶店があったことは記憶している。
「楽園、だっけ。一度も行ったことはないけど……それがなに?」
「そこは三ヶ月近く前に閉店し、今はもぬけの殻になっている。オーナー夫婦はその二階に住んでいたが、引っ越して現在の消息は不明だ」
「甲洋はそこんちの子だったの?」
総士が頷く。操はやり場のない憤りを覚えた。虐待の末に、そのまま置き去りにして引っ越してしまったということだ。そんなことをするくらいなら、どうして動物を飼おうなんて思ったのだろう。
操は涙が滲むのを止められなかった。
「ッ、お前が泣いたって仕方がない」
「わかってるよぅ……」
「……いや、その。すまない」
総士は白衣のポケットから綺麗に折りたたまれたハンカチを取りだすと、ぎこちない様子で操に差し出してくる。操は遠慮なくそれを受け取り、涙を拭うと少しだけ笑った。
「ありがとう総士。大丈夫、総士が言いたかったこと、おれわかるよ」
ただ一言「泣くな」と言えない不器用な従兄弟だ。
総士は操を泣かせるつもりなんかなかったし、甲洋のことも一騎のことも深く心配している。その優しさはハンカチを通してちゃんと伝わってきた。
涙を拭いながら、つくづく彼の傍にいるのが一騎でよかったと思う。イヌは同種間ほどではないにしろ、人間の心を感じとる力があるらしいから。
彼はきっと子供の頃から一緒にいるはずの操よりも、ずっと総士のことを理解している。
(おれと甲洋は、絶対にそんなふうにはなれないだろうな)
操はどうしたってイヌが怖いし、甲洋はきっと人間という生き物に何も期待していないだろう。あの瞳に映る自分は、彼を捨て去った楽園のオーナー夫婦となにも変わらないのかもしれない。
嫌だと思うのに、それをどうにかするだけの力がないことは操が一番よく知っていた。
甲洋の心を癒し、幸せにできる人間はきっとどこか他にいるはずだ。それを信じて、今は待つしかない。
「おれも飼い主になってくれそうな人、探してみるよ。あと、もうちょっとまともなご飯も作れるようにならないと」
「お前に関してはそちらが最優先事項だろうな」
「だよねぇ」
力なく笑いながら肩を落とした操からハンカチを受け取ると、総士は「そういえば」と言って発券機の方を見た。
「なにか食べていくか? 世話になっている礼だ。好きなものを選ぶといい」
「え!? いいの!?」
喜びかけた操だが、けれどすぐに思い直して首を左右に振った。
「やっぱいいや。おれだけ外でまともなもの食べるなんて、なんか悪いもん」
甲洋だって、本当はきっとお腹を空かせているに違いないのだ。
がんばってもう少しいいものが作れたら、次こそちゃんと食べてくれるかもしれない。そのときは、できれば一緒に食べたいと思う。
同様の理由で、ここ数日はバイト先のまかないも食べずに我慢している。昼は甲洋に握ったのと同じ、ボロボロのおにぎりを持参して食べていた。
「そうか」
「うん。甲洋が待ってる……かは分からないけど、おれもう帰るよ」
隣の椅子に丸めて置いていたモッズコートを引き寄せると席を立った操に、総士は優しく目を細めながらふわりと笑った。
「来主」
「ん、なに?」
「お前に頼んでよかった」
ひとつもまともに世話などできていないのだが。
総士に言われると嬉しくて、操は頬を赤らめながら「ありがとう」と笑って肩をすくめた。
*
「よし! 今日こそ美味しいご飯を作るぞ!」
その夜、部屋着にしているパーカーの袖をまくって、操は台所に立っていた。
まな板の上には鶏の腿肉が置いてある。焦がしたり生焼けにしたりしないよう、しっかり蒸し焼きにする予定だ。そのためには、まず火が通りやすいように切り分けるつもりでいるのだが。
鶏肉の皮の表面というのは、どうしてこうもブツブツとしていて気色が悪いのか。操はそれをじっと見つめたあと、ブルッと身を震わせた。
「でも、がんばる」
甲洋はいつもの本棚脇の定位置でじっと座っている。相変わらず一言も喋らない。この数日で心なしか頬がこけてきたようにも見えて、操は焦りを覚えながら包丁を手にした。
するとそこで、玄関から扉を控えめに叩く音が聞こえてきた。
「はーい?」
操はいったん包丁を置くと甲洋を振り返り「ちょっと待っててね」と声をかける。それから玄関へ行き、そっと扉を開けた。
するとそこには真っ白い耳と尻尾をもつチワワ、一騎の姿があった。
「うわぁ!? 一騎ぃ!?」
「よ、来主。なんか久しぶりだな」
反射的に後ろに数歩後退した操に笑いかけながら、ベージュのボアコートを羽織った一騎が苦笑する。彼は手に大きな荷物を持っていた。
「ちょっといいか? 渡したいものがあって来たんだけど」
「う、うん。わかった」
一騎が通路の方へ姿を消すので、操も靴を引っかけて外に出る。
ここはアパートの一階、角部屋だ。扉を開けると目の前は駐車場になっていて、一騎は乗ってきた自転車を街灯の真下に停めて操を待っていた。
「一体どうしたの? 総士は?」
「ああ、今夜は大学につめてるよ。あいつから連絡をもらってさ。今日、会ったんだろ?」
「うん」
操と一騎の距離はおよそ1メートル半。これが操の限界だ。その距離に一騎が小さく笑ったのが分かる。
「ご、ごめんね一騎。一騎は大丈夫ってわかってるんだけど……身体がどうしても」
「いいよ、気にしなくて」
そう言って、一騎は手にしていた大きな鞄と袋を二人のちょうど中間にそっと置いた。
「それなに?」
「確認してくれ」
言われた通り、操は二つの荷物に手を伸ばして足元に引き寄せた。しゃがみこんでから、まずは鞄の方を開けてみる。大きな旅行鞄だ。
「あ、これって……服?」
「ああ。イヌ用だから、すぐにでも着られるはずだ」
「ほんとだ! お尻のとこにちゃんと尻尾の切り込みが入ってる!」
「総士とだいたい背格好は同じだったはずだから、サイズも合ってると思う」
「ありがとう一騎!」
感激して見上げると、一騎は「買ったのは総士だよ」と言って笑った。
甲洋がいま着ているのは最初にここを訪れたときに身に着けていたシャツとジーンズ、あとは操のジャージやスウェットに無理やりハサミで尻尾穴を開けたものである。
上背がある彼に操の服は少し丈が短くて、手首と足首がつんつるてんの状態になっていた。
鞄の中には何着かの部屋着と、外出用のシャツやパンツ類、下着も数枚入っていた。
(そういえば甲洋、ノーパンだ……)
今さら気がついて考えなしだったことを後悔した。だからこれは非常に助かる。
操はさらにもう一つの、紙袋の方を開けると「わ」と声をあげた。中にはジャガイモやニンジン、玉ねぎといった野菜類が入っていた。
「野菜がたくさんだ! あと、これは……?」
野菜類と一緒に、茶封筒に入った本が出てくる。操はそれを取りだすと立ちあがり、表紙を見て「わっ」と短く声をあげた。
「これレシピ本!? オーブンレンジで簡単料理!?」
「ああ。それなら火を使わなくてもいいし、少しは楽だろ?」
「す、すごいや……美味しそうなのがいっぱいある……」
中身をパラパラと流し見るだけでも、結構な数のレシピがあって感動した。
これなら火加減を間違えて失敗することもないだろうし、自分でもできそうな気がしてくる。
「野菜は俺の実家からよく貰うんだ。俺と総士だけじゃ食べきれないから、少しだけど貰ってくれると助かる」
「ありがとう一騎……総士にもお礼を言わなくちゃ」
操はレシピ本を両腕で抱えて、胸に強く抱きしめた。
これならきっと上手くいく。甲洋だって、次こそは食べてくれるかもしれない。
「ごめんな来主。俺がうまくやれなかったから、お前に苦労をかけて」
「そんなことない。一騎はがんばったよ。総士から聞いたもん」
「だけど、甲洋のことは俺が頼まれたんだ。父さんから」
「父さん? えっと、総士の先生んとこの家だっけ?」
そうだと言って一騎が頷いた。
彼が父と呼んで慕うのは、総士の大学の教授でもある真壁史彦のことだ。
甲洋は弱っているところを保護され、入院生活を経たあとは真壁の家に預けられていたらしい。
しかしまるで心を開かず、塞ぎ込むばかりの甲洋に頭を悩ませた史彦は、同じイヌである一騎に彼を託した。人間とイヌでは読心能力が使えないし、なにより年齢が近い者同士──外見からおおよその年齢を予想したにすぎないが──のほうが、心を開きやすいのではないかと考えたからだ。
「そうだったんだ。でも、だからって一騎が謝ることないよ。悪いのは、甲洋に酷いことした人たちのほうでしょ?」
「……ありがとな、来主」
一騎は形のいい眉と白い耳を少しだけ力なく下げた状態で笑った。
「甲洋は、今どうしてる?」
「じっとしてるよ。あんまり動かない、かな」
泣きもしなければ笑いもしない。ただじっと座って操を見ているか、物憂げに窓の外に目を向けていることが多かった。彼が何を考えているのか、操にはまるで分からない。
「……尻尾はどうだ?」
「尻尾?」
小首を傾げて見せると、一騎が小さく頷いた。
「俺たちは耳や尻尾で感情表現をするんだ。あいつが来たばかりの頃は、ずっと足の間に尻尾を巻きこんで怖がってた。どんなに心に壁を作っても、そこだけは嘘をつけないんだよ」
操はこの数日、甲洋の尻尾がどう動いていたかを思いだしてみた。
「うーん。いま一騎が言ったみたいな形は、見たことないと思う。垂れさがってるか、たまに左の方に振ってるような気はする、かなぁ? 多分だけど」
それを聞いた一騎はどこかバツが悪そうな表情で黙り込み、俯いてしまった。
「か、一騎。なにかあるなら言って。じゃなきゃおれわかんない」
「いや……うん、そうだよな。俺たちはヒトの心が読めるわけじゃないけど、なんとなく感じとることはできるんだ。だから来主が不安に思ってることが、そのままあいつにも伝わってるのかもしれない」
「……おれのせいで、甲洋はストレスを感じてるってこと?」
一騎はなにも言わなかった。言えなかった、という方が正解かもしれない。
操は甲洋の立場に立って考えてみた。もし自分の傍にいる人間が、自分を恐れて拒絶していたら。それを敏感に感じ取ってしまったら、どう思うだろう。
(悲しいって思う。おれは何も悪いことしないのにって)
イヌはヒトの心を多少なりとも感じ取ることができる。ちゃんと分かっていたはずなのに。
「来主は悪くない。きっと甲洋もそれは分かってる。お前ががんばってることも」
「……そう、かな」
「優しいよ。あいつは」
「それも、心を読んだからわかるの?」
一騎は小さく笑って首を振った。
「目を見れば分かる。優しすぎるから、傷つきやすいんだ。きっと」
*
一騎は「あいつを頼むな」と言って帰っていった。
操は野菜と本が入った袋を台所の隅に置くと、鞄を抱えて居間に入った。
「こ、甲洋」
ピクリと黒い耳が動いて、少しだけ前方に傾いた。透明感のある瞳が操をじっと見つめている。
操は少しずつ彼ににじり寄り、ここが限界という位置でちょこんと正座すると膝の上に鞄を置いた。
距離にしておよそ1メートル半。一騎に対して近づけるギリギリのラインと同じだ。
「新しい服、一騎が持ってきてくれたよ。おれのじゃ窮屈だったでしょ。ごめんね」
甲洋はやっぱり何も言わない。そろそろこの沈黙にも慣れてきたような気がする。
「あのね。おれ、まだ君にちゃんと言ってなかったことがあって」
それは一騎と話をして、初めて気がついたことだった。
操はまだ自分の話を何ひとつしていない。恐怖心が先行して、甲洋にただ漠然とした不安を与えるばかりだったことを。
自分たちはイヌ同士ではないのだから、心の中を探り合うことだってできない。甲洋が何も話そうとしないからって、操まで口を閉ざしていていいわけはないのだ。
ちゃんと言葉にして、操自身が抱える不安の正体を伝えなくてはいけないと思った。
「きっと君はもう気づいてると思うけど……おれ、イヌが怖い。子供の頃に追いかけられたことがあって……そのときね、総士が怪我しちゃったんだ。それがショックで、怖くて、忘れられなくて」
大きな身体で牙を剥き、唸りながら吠え立てるブルドッグの姿を思いだす。操は思わず肩を竦め、気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸をした。
「だから本当は、預かるのも嫌だったんだ。今も正直、怖い。でもこれはおれの問題で……一騎に対しても同じ。いつもこれ以上は近づけなくて、きっと嫌な思いをさせてる」
一騎はいつも笑って許してくれるけれど。でも、いい気持ちはしていないだろうと思う。友達だと思っているのに、気軽に肩を触れ合わせることすらできないなんて。
「つまり何が言いたいかっていうと、おれは君個人のことを嫌ってるわけじゃないし、ご飯もちゃんと食べてほしいし、喋ってほしいし、あとは……えっと、ここにいてほしいって、思ってる」
「!」
一瞬、甲洋が息を呑んだような気がする。
それはほんの些細な反応でしかなかったけれど、彼が初めて示した、なんらかのサインだった。
「おれなんかじゃ頼りないよね。それはわかってるんだ。イヌが怖いって気持ちも、きっと抑えられない。でも、がんばるよ。ずっと不安にさせて、ごめんな」
甲洋は鞄の上に添えられている操の両手をじっと見つめた。指先の絆創膏には少し血が滲んでいる。慣れない包丁による傷と、火傷の痕だ。
三日前にはなかったはずのそれらを見て何を思ったのか、彼はふっと息を吐きだした。
「別にいい」
「え?」
操は耳を疑った。
「甲洋、いまなんて」
「……別に、気にしてないから」
少し硬いが、静かで優しい声だった。
操はたったいま起こったことが信じられず、ポカンと口を開けた。甲洋はそっけなく視線を外し、そのまま顔も背けてしまう。
(甲洋が……喋った……)
驚きのあと、じわじわと滲むように喜びが湧きあがる。
少しだけ、ほんの少しだけ、甲洋が心の扉を開いてくれた。そんな気がして。嬉しさと感動のあまり、肌が粟立つのを感じた。
「うぅ……ぅ~……」
「?」
「やったー!!」
「ッ!」
込み上げてくるものを押さえきれず万歳をしだした操に、甲洋が何事かとギョっとしてこちらを見た。
「甲洋が喋った! 喋ってくれた! 嬉しいー!!」
万歳を繰り返す操を見つめる甲洋の顔には、思いっきり「変なやつ」と書かれているような気がしたが、それすらも今は嬉しくて、操は笑いながら、少しだけ泣いた。
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小雪のチラつく夜だった。
今年の冬は少ししつこい。もう二月も終わりを迎えようというのに、梃子でも動かんとばかりに居座っている。
築十数年のアパートは半年ほど前から玄関のチャイムが電池切れを起こしていた。ズボラな部屋主がそれを放置しているため、訪ねてきたものはみな扉を叩いて来訪を告げるしかない。
その日、部屋の扉がノックされたのは二十時をほんの少し過ぎた頃だった。
「はぁい!」
風呂上がりにテレビを見ながら寝そべっていた操は、起き上がると玄関がある台所へ向かう。
宅配便か何かだろうかと開けた扉の先には、黒いロングコートを羽織った皆城総士の姿があった。
「総士? どうしたの急に」
「夜分にすまない。少し、構わないか?」
遠慮がちにそう言った一つ年上の従兄弟を、操は頷きながら中に招き入れようとする。
「もちろん。とりあえず入って。寒かったでしょ。一騎は一緒じゃないの?」
「ああ、一騎は置いてきた」
「珍しいね」
総士はいつも以上に硬い表情に躊躇いを見せ、それからひとつ咳払いをした。その場からなかなか動かない様子に小首を傾げると、彼は手に持っていた白い紙袋をそっと差し出してくる。
「まずはこれを受け取ってほしい」
「なに?」
「カレーだ」
「え!? ひょっとして一騎カレー!?」
受け取った袋の中にはカレー入りの白いタッパが入っている。ふわりと漂うスパイスの香りに、操は喜色満面で子供のように目を輝かせた。
「わざわざ届けてくれたの!? ありがとう総士!」
一騎が作るカレーは日本、いや世界一だ。
丹念で品のあるコクと旨味、そしてどこか懐かしい気持ちにさせてくれる優しい甘さ。最後の晩餐は何にするかと問われたら、操は間違いなくこの一騎カレーを選ぶだろう。
それにしても、総士はなぜわざわざこれを届けに来てくれたのだろうか。しかも外出の際にはほぼ必ずといっていいほど連れ歩いているはずの一騎を置いて、こんな夜更けに。
彼らが暮らすマンションはここから徒歩十数分の距離にある。こちらから遊びに行くことはあっても、総士が単身やって来るというのはなかなか珍しい。というより、初めてのことだ。
「それを踏まえた上で本題に入りたい」
「うんうん、なぁに?」
「まずは会ってほしい人物……いや、イヌがいる」
「……へ?」
「こちらに」
総士が横に目をやり、スペースを開けるように一歩退く。するとちょうど操側からは死角だった通路の方から、見覚えのあるベージュのトレンチコート──おそらく総士のものだ──を着た、ひとりの青年が姿を現した。
「ッ!?」
その頭に黒く大きな耳がついているのを見て、操は一気に血の気が引いていくのを感じた。咄嗟に飛び退こうとして態勢を崩し、派手に尻もちをついてしまう。カレーが入った紙袋はしっかりと腕に抱いた状態で。
「ヒッ、ひぇえええ……ッ!? い、イヌ!? イヌが! な、なんでぇ!?」
そのまま腰を抜かしてイヌを指さし、ガタガタと震える操を見た総士は重い溜息をついた。
*
この世界におけるイヌやネコという生き物には、二つの種類がある。
四足歩行の獣型と、耳と尻尾以外は人間と変わらない姿をした二足のヒト型だ。
後者は肉球もなければ鋭い爪や牙もない。食事をはじめ、トイレや風呂といった日常的な動作も人並みにこなすし、もちろん言葉も話す。脚力や運動能力は獣型に劣るものの、理性的で知能も高く、平均寿命も人間となんら変わりない生き物だ。
「い、一体どういうこと!? なんで総士が、一騎以外のイヌなんかと一緒にいるのさ! しかもなんでおれんとこ来るのぉ!?」
立ち話は近所迷惑になる。渋々一人と一匹を部屋に入れる羽目になった操は、安アパートにしてはまぁまぁの広さがある台所でカレーを温める総士の腕に、ぴったりと抱きついて震えていた。
一応は耳元で声を潜めて喋ってはいるのだが、イヌの聴覚を思えばあまり意味はないかもしれない。
「……2℃の誤差か……修正が必要だ」
「ちょっと! 聞いてる!?」
きっちり温度計で測りながら神経質そうに眉を寄せる総士に、操はついに声を張り上げた。
居間へと続くガラスの引き戸は、基本的にいつも開きっぱなしになっている。思わず背後を振り返れば、本棚の横に行儀よく正座しているイヌと目が合った。操は肩を震わせ、より総士に密着する。
「ねぇ総士ってばぁ……」
「わかっている。今日ここに来たのは、お前に頼みがあるからだ」
誤差の修正が済んだのか、総士はひとまず鍋の火を切った。それからしがみついていた操をさりげなく身体から引き離すと、真っ直ぐに向き合い目を合わせてくる。
「なんか、やな予感がする」
自他共に鈍いと言われる操だが、この状況では流石に胡乱な目つきになる。
「彼を頼みたい。少しの間だけでいい」
「やっぱりだぁー!」
思わず頭を抱えた。どうりでサービスがいいわけだ。わざわざ家にカレーを届けてくれて、しかも親切に温めてくれるなんて。
「無理だよ! おれがイヌ駄目なのは、君が一番よく知ってるはずでしょ!? 総士だってそうじゃん! なんで平気なの!?」
操と似た亜麻色の髪をしたこの従兄弟は、操と同様イヌが苦手なはずだった。それは互いが嫌というほどよく知っている。なにせ自分たちは、過去に決定的な現場を共にしているのだから。
総士と操は幼い頃、一緒に遊んでいたところを近所の猛犬に追い回されたことがある。
あれは獣型の、よく肥えたブルドッグだった。いつも鎖で繋がれていたはずが、その時に限って首輪が外れてしまっていたのだ。
好きな人間にとっては愛嬌のある顔つきなのかもしれない。だが幼い二人にとってはそうじゃなかった。大きな身体でよだれをダラダラと零し、目を血走らせながら吠え立ててくるのだから。
総士はギャンギャンと泣き喚く操の手を引いて必死に走った。そしてつまずいて転んだ。
ずっと気丈に振る舞っていた彼だが、膝小僧から血が噴き出すのを見てわぁわぁと泣いた。それを見て、操はさらにショックで泣いた。総士が泣くところなんて、初めて見たからだ。
イヌは寸でのところで駆けつけた飼い主によって取り押さえられた。
それ以上の大事には至らなかったが、二人の中には立派なトラウマとして、その日の出来事が刻まれてしまった。
だから驚いたのだ。総士がイヌを飼うと聞いたときは。
通っている大学の教授の家で──確か名前は真壁だったと思う──生まれた子犬だったと聞くが、なぜ共に暮らすまでに至ったのか、その経緯は分からない。
ただ、一騎はとても穏やかな性格をしたチワワで、しかも炊事家事なんでもこなすスーパー犬だった。
学業に専念するあまり寝食を忘れる総士の世話をよく焼いているし、操とも一定の距離を保ちながら気を使ってくれる。
最初こそ恐ろしくて口もきけなかったが、今では唯一まともに会話ができるイヌが一騎だった。他は、二足だろうが四足だろうが受け付けない。それは総士も同じはずだったのに。
どういうわけか一騎以外のイヌを連れて来て、しかも預かれと言う。とんでもない話だ。
「彼からは人間への敵意は感じない。一騎がそう言ったのだから、僕はそれを信じる。だから連れてきた」
「そ、そんな……いくら一騎が言ったからって」
「彼らの読心能力は知っているだろう。イヌ同士は互いに思考を読み、心の中で会話することができる。彼は──甲洋は、口が利けないんだ」
「え?」
操は思わず甲洋と呼ばれたイヌを見た。伸びっぱなしの焦茶の髪に隠れて、表情は見えにくい。ただ、どこか人形のような顔立ちだと感じる。虚ろな瞳は、まるでガラス玉のようだった。
「あの子、どこか悪いの?」
「いや……保護されたとき医者にはかかっている。栄養失調で一ヶ月ほどの入院を要したが、他にこれといった持病は認められなかった。心因性のものだろうが……」
総士はそこで言葉を切った。何か言いかけて口を噤んだように、操の目には映った。
「総士?」
「とにかく、いま飼い主を探している最中だ。それまでの間、ここにいさせてやってほしい」
「ま、待って、待ってよ。なんでうちなの? 総士んちのほうが、一騎もいるし安心でしょ?」
「最初はそうなるはずだった。だが、不可能な状況に陥った」
「不可能?」
総士は難しい顔をしながら腕組みをして見せた。
「彼は一騎と、あまり相性がよくないらしい」
「え、なにそれどういうこと? あの一騎と? でも、会話したんでしょ?」
「話したといっても、一騎が彼から直接聞きだせた情報は限りなく少ない。名前と、敵意がないことだけだ。それ以外は壁が厚くて、会話にならなかったと言っている」
「そんなことってあるの……?」
意外だった。一騎はこれだけイヌを拒絶している操の心すら解してしまったほどのイヌだ。相手が誰であろうと、すぐに打ち解けてしまうものと思っていたのだが。
「同じ空間にいさせることは、双方にとって大きなストレスになるだろう。現に一騎は……少し弱っている」
「え!? 一騎ケガしたの!?」
「こちらも心因性によるものだ。外傷はない」
操はどうしたらいいか分からず、握った両手の拳を胸に押し当てながら甲洋を見た。
彼はピクリとも動かない。ただ静かにこちらを見ている。綺麗な顔をしているとは思うが、少し、気味が悪い。感情のないロボットのようだ。
いくら人への敵意がないといっても、やはり操にとってイヌは驚異の存在だった。どうしてもあの幼い日のことが思いだされて身が竦む。
俯いてなにも言わなくなってしまった操に、総士は落胆の息を漏らした。
「そうか……これほど頼んでも、駄目か」
「そ、総士……あの、おれ」
「ここなら何かあればすぐに駆けつけることができる。適任だと思ったんだが」
総士は静かに首を振り「仕方ない」と言うと、湯気が立ち込めるカレー鍋に蓋をした。そして取手を掴むと持ちあげる。
「これは没収だ」
「え!? 待って、なんでそうなるの!?」
「最初に言ったはずだ。これを踏まえた上での本題だと」
「カレーで釣る気だったってこと!? しかも鍋ごと没収するの!?」
「お前は自炊なんかしないだろう。鍋ひとつ失ったところで、不都合があるとは思えない」
「あるよぉ!」
いや、実際その通りなのだが、一騎カレーを食べそびれるというのは大問題だ。
操の思考も胃袋も、すっかりカレー色に染まっていた。ちょうど夕飯もまだで、とてつもなくお腹が空いている。この香りだけですでによだれが出そうなのに、それを目の前で没収されるなんて、考えただけで泣きそうだ。
「わかった! わかったよ! だから持ってかないで!」
食い気が勝った操は総士の手から鍋を奪うと、コンロの上に戻して背中に庇った。
「お前ならそう言ってくれると信じていた」
「ずるいよ総士は……それにあの子を連れて帰ったら、一騎がまた嫌な思いをするんでしょ? そんなの、断れるはずないじゃんか……」
一騎はイヌだが、友達だ。傍に寄ったり触ったりすることはできないが、操にとってこの世で唯一、心を許せるイヌだった。だって彼は優しいし、なにより総士をとても大事にしてくれる。
家族がいない操にとって、総士は従兄弟というより実の兄や父親といった方が近い存在だった。彼が許すものは操も許す。彼が大切にしているものは、操にとっても大切だ。
彼らが辛い思いをするくらいなら、自分が我慢した方がずっといい。カレーは我慢できないが。
総士は終始張り詰めたように硬かった表情をふっと和らげ、優しい笑みを浮かべて見せた。
「ありがとう来主。頼んだぞ」
そう言って、操の頭を優しく撫でた。
*
総士は操がカレーを食べるのを見届けると、メモ紙を残して帰っていった。
そのメモには主に甲洋を預かる上でのポイントなどが、神経質そうな文字で書かれている。
まず、彼は言葉による意思疎通ができないということ。言ったことに対してごく稀に頷いたり首を振ったりといった動作はするが、言葉による意思表示や感情表現は、現時点では不可能に等しい。
命じたことは素直に従うし、トイレや風呂などといった基本的な生活動作は備わっている。
食べ物に関しての好き嫌いは不明。保護した当初は栄養失調を起こしていた。
人間に敵意はないようだが、不用意に触れたり近づいたりはしないほうがいい。彼がそれを望まない。なるべくそっとしておくこと。
それらのことが書き連ねてあるメモ書きには、最後にこう書かれていた。
『カップ麺などのインスタント食品は厳禁。栄養面を考慮しながら健康管理を怠らず、常に気を配ること。ついでだから少しは自炊というものを覚えるといい』
と──。
「おれには難しすぎるよ……総士……」
ガラス製のローテーブルに突っ伏し、途方に暮れながら盛大な溜息をつく。
そもそも自分の栄養面ですら気を使っていないのに、イヌの健康管理なんてできるのだろうか。
基本的に台所で稼働しているのは冷蔵庫とオーブンレンジくらいのものだ。一通りの料理器具は揃っていても、まともに使った試しがない。
操はここで一人暮らしをしながら、駅前の小洒落たカフェでホールスタッフのアルバイトをしている。
とはいえ、実際は周囲から猫可愛がりされるだけのマスコット状態だ。そそっかしいので料理を運ばせれば必ず零すし、皿やグラスはしょっちゅう割る。
普通それだけミスが多ければクビになりそうなものだが、そうならないのは操の子供っぽい容姿や性質が為せる技だった。老若男女問わず、明るく無邪気なキャラがとにかく受ける。
ある意味、看板娘ならぬ看板息子なのだ。
バイト仲間の西尾里奈には「あんたって仕事ナメきってるわよね」と、よく呆れられてしまうのだが。
そんな操の食生活は、決して褒められたものではない。朝はギリギリまで寝ていたいし、昼は店でまかないが食べられる。夜は菓子パンだとか、スナック菓子で済ませてしまうような日もあった。
家庭の味が恋しくなれば総士の家に押しかけて、一騎の手料理を食べさせてもらうのが常だ。
そんな操を捕まえて急に自炊しろだなんて、無理難題にもほどがある。
(でもちゃんとしないと総士が怒る……怒られるのは、嫌だなぁ……)
操はなるべく目を向けないようにしていた部屋の隅へ、チラリと横目を走らせた。
漫画本や雑誌がぎっしり詰まった本棚の横で、甲洋は来たときのままじっと正座をして動かずにいる。時おり瞬きをするだけで、表情に一切の変化はなかった。
操は思わず大きな音を立てながら喉を鳴らした。イヌがいる。自分の部屋に。しかも、痩せてはいるがそれなりに上背がある。飛びかかられたら一巻の終わりだ。
この2DKの空間に、その気になれば自分など簡単に噛み殺してしまえるほどの驚異が存在している。その事実に怖気が立つ。
だが、今さら突き返すわけにもいかないのが現状だ。何も死ぬまで面倒を見ろと言われたわけではないのだし、総士が彼の飼い主を見つけるまでの、ほんの少しの間だけなのだから。
「えぇっと……君、甲洋、だっけ」
丸めた背中で恐る恐る話しかける。名前を呼ばれた彼は、黒く尖った耳を一瞬ピクリと震わせるだけだった。
「初めまして。おれ、来主操。よろしくね」
「…………」
「君、迷子かなにか? お父さんとお母さん、早く見つかるといいね……」
「…………」
「と、とりあえず楽にして。正座のままだと、足が痺れるよ」
縺れそうになる舌でどうにか言うと、甲洋は幾度か瞬きを繰り返したあとゆっくりと足を崩した。片方は胡坐をかくように曲げて、片方は膝を立てる。そして操をじっと見つめた。
(本当に素直に言うこときくんだ)
総士のメモを疑っていたわけではないのだが、いざ目の当たりにするとやっぱり驚く。同時に、少しホッとした。とはいえ緊張が解れたわけではないが。
ひとつ分かったのは、彼はこちらが何かしらアクションを起こさない限り、このままいつまでも動かないということだった。
そういえば、ずっとコートも着たままだ。
「こ、コート脱ぐ? うん、肩が凝るしね」
操は震える息を吐きながら立ちあがった。
甲洋の動向を随時チェックするように目を向けつつ、カニ歩きで寝室として使っている隣の部屋へ向かうと、ハンガーを手にして戻る。それを彼からだいぶ離れた位置に置いて、サッと飛び退くように部屋の隅っこに身を寄せた。
「そ、それ使って」
「…………」
甲洋はしばらく無言でカーペットの上のハンガーを見つめていたが、やがて立ちあがるとコートを脱いだ。中には簡素な白い長袖のインナーを着ており、穿いているデニムは両膝が破れて膝小僧が見えている。
モデルのように足も長いし、さぞかしメスにモテるだろうな……なんて思いながら見ていると、バサリと音を立てて黒く立派な尻尾が揺れた。
「ヒッ」
たったそれだけのことで、操は肩をビクつかせて壁に身体を密着させる。
毛足の長いそれにはまるで艶がなく、ボサボサで見るからに痛んでいた。イヌというよりは、まるで野生のオオカミのようだ。彼のどこか繊細な容貌にそぐわない、いかにも獣といった感じの尻尾だった。
不幸にもそれが、操の恐怖心をより煽る結果になってしまう。
甲洋はハンガーに手を伸ばしてコートをかけると、いちど確かめるように操に目を向けた。次の指示を待っているのかもしれないが、青褪めながら震えることに忙しい操は声を出すことができなかった。
すると彼は一瞬だけ淡い朽葉色の瞳を揺らめかせる。どこか悲しそうに見えたのも束の間、いちど目を閉じると顔を背け、寝室の方へと歩きだしてしまった。
操は彼の動向を、ただ固唾を飲んで凝視することしかできない。垂れ下がる黒い尻尾が、ぎこちなく左方向へ揺れていた。畳の床をペタペタと裸足で歩く音がやけに大きく聞こえる。
甲洋は寝室の壁にハンガーラックを見つけると、そこにハンガーをかけてすぐに戻ってきた。今度は操に目を向けることなく、本棚の横に再びさっきと同じ体勢で腰を下ろす。
そのままじっと動かなくなったのを見届けて、操はようやく震える息を吐きだした。いつの間にか汗だくだ。心臓が飛び出しそうなほど大きな音を立てている。
「はぁ……もう、死にそう……」
力なく呟いて、壁に背を張りつけたままズルズルと床に崩れ落ちた。
*
寝る前に好きなタイミングで風呂に入るようにとだけ言って、操は早めに床につくことにした。
恐怖から逃避したかったという思いもあるが、とてもではないがあの沈黙に耐えられそうになかったからだ。
甲洋にはベッドがある隣室を使わせることにした。普段からテレビを見ながらそのまま居間で寝てしまうことが多かったし、イヌとはいえ総士から預かっている客を雑魚寝させるのは気が引ける。
だから毛布だけ持ち込んで、自分がこちらの部屋を使うことにした。
引き戸はしっかりと閉じているため、甲洋が隣室でどう過ごしているかは分からない。
部屋の灯りを消して毛布に包まり息を殺していると、しばらく経ってから甲洋が畳を踏み鳴らす音が聞こえた。寝室にはもうひとつ、トイレや風呂場がある廊下に繋がる開き戸がある。彼は操の指示通り、風呂に入るため脱衣所へ向かったようだった。
歯ブラシも予備のものを出しておいたし、タオルや着替えもあらかじめ置いておいたから──操のものなので少し丈が不安だが──放っておいても大丈夫だろう。
シャワーの音が聞こえてくると、そこでようやく身体から力が抜けた。
「おれ、ちゃんと面倒見られるのかなぁ……」
一体いつまで預かればいいのだろう。彼の飼い主は、今ごろどこにいるのだろうか。
総士はできない約束は絶対にしない。だからきっと見つけ出してくれると信じているが、途方もない不安に押しつぶされそうだ。
この有様ではイヌの健康管理をする前に、こちらが先に参ってしまいかねない。
結局、その夜はなかなか眠気が訪れなかった。
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今年の冬は少ししつこい。もう二月も終わりを迎えようというのに、梃子でも動かんとばかりに居座っている。
築十数年のアパートは半年ほど前から玄関のチャイムが電池切れを起こしていた。ズボラな部屋主がそれを放置しているため、訪ねてきたものはみな扉を叩いて来訪を告げるしかない。
その日、部屋の扉がノックされたのは二十時をほんの少し過ぎた頃だった。
「はぁい!」
風呂上がりにテレビを見ながら寝そべっていた操は、起き上がると玄関がある台所へ向かう。
宅配便か何かだろうかと開けた扉の先には、黒いロングコートを羽織った皆城総士の姿があった。
「総士? どうしたの急に」
「夜分にすまない。少し、構わないか?」
遠慮がちにそう言った一つ年上の従兄弟を、操は頷きながら中に招き入れようとする。
「もちろん。とりあえず入って。寒かったでしょ。一騎は一緒じゃないの?」
「ああ、一騎は置いてきた」
「珍しいね」
総士はいつも以上に硬い表情に躊躇いを見せ、それからひとつ咳払いをした。その場からなかなか動かない様子に小首を傾げると、彼は手に持っていた白い紙袋をそっと差し出してくる。
「まずはこれを受け取ってほしい」
「なに?」
「カレーだ」
「え!? ひょっとして一騎カレー!?」
受け取った袋の中にはカレー入りの白いタッパが入っている。ふわりと漂うスパイスの香りに、操は喜色満面で子供のように目を輝かせた。
「わざわざ届けてくれたの!? ありがとう総士!」
一騎が作るカレーは日本、いや世界一だ。
丹念で品のあるコクと旨味、そしてどこか懐かしい気持ちにさせてくれる優しい甘さ。最後の晩餐は何にするかと問われたら、操は間違いなくこの一騎カレーを選ぶだろう。
それにしても、総士はなぜわざわざこれを届けに来てくれたのだろうか。しかも外出の際にはほぼ必ずといっていいほど連れ歩いているはずの一騎を置いて、こんな夜更けに。
彼らが暮らすマンションはここから徒歩十数分の距離にある。こちらから遊びに行くことはあっても、総士が単身やって来るというのはなかなか珍しい。というより、初めてのことだ。
「それを踏まえた上で本題に入りたい」
「うんうん、なぁに?」
「まずは会ってほしい人物……いや、イヌがいる」
「……へ?」
「こちらに」
総士が横に目をやり、スペースを開けるように一歩退く。するとちょうど操側からは死角だった通路の方から、見覚えのあるベージュのトレンチコート──おそらく総士のものだ──を着た、ひとりの青年が姿を現した。
「ッ!?」
その頭に黒く大きな耳がついているのを見て、操は一気に血の気が引いていくのを感じた。咄嗟に飛び退こうとして態勢を崩し、派手に尻もちをついてしまう。カレーが入った紙袋はしっかりと腕に抱いた状態で。
「ヒッ、ひぇえええ……ッ!? い、イヌ!? イヌが! な、なんでぇ!?」
そのまま腰を抜かしてイヌを指さし、ガタガタと震える操を見た総士は重い溜息をついた。
*
この世界におけるイヌやネコという生き物には、二つの種類がある。
四足歩行の獣型と、耳と尻尾以外は人間と変わらない姿をした二足のヒト型だ。
後者は肉球もなければ鋭い爪や牙もない。食事をはじめ、トイレや風呂といった日常的な動作も人並みにこなすし、もちろん言葉も話す。脚力や運動能力は獣型に劣るものの、理性的で知能も高く、平均寿命も人間となんら変わりない生き物だ。
「い、一体どういうこと!? なんで総士が、一騎以外のイヌなんかと一緒にいるのさ! しかもなんでおれんとこ来るのぉ!?」
立ち話は近所迷惑になる。渋々一人と一匹を部屋に入れる羽目になった操は、安アパートにしてはまぁまぁの広さがある台所でカレーを温める総士の腕に、ぴったりと抱きついて震えていた。
一応は耳元で声を潜めて喋ってはいるのだが、イヌの聴覚を思えばあまり意味はないかもしれない。
「……2℃の誤差か……修正が必要だ」
「ちょっと! 聞いてる!?」
きっちり温度計で測りながら神経質そうに眉を寄せる総士に、操はついに声を張り上げた。
居間へと続くガラスの引き戸は、基本的にいつも開きっぱなしになっている。思わず背後を振り返れば、本棚の横に行儀よく正座しているイヌと目が合った。操は肩を震わせ、より総士に密着する。
「ねぇ総士ってばぁ……」
「わかっている。今日ここに来たのは、お前に頼みがあるからだ」
誤差の修正が済んだのか、総士はひとまず鍋の火を切った。それからしがみついていた操をさりげなく身体から引き離すと、真っ直ぐに向き合い目を合わせてくる。
「なんか、やな予感がする」
自他共に鈍いと言われる操だが、この状況では流石に胡乱な目つきになる。
「彼を頼みたい。少しの間だけでいい」
「やっぱりだぁー!」
思わず頭を抱えた。どうりでサービスがいいわけだ。わざわざ家にカレーを届けてくれて、しかも親切に温めてくれるなんて。
「無理だよ! おれがイヌ駄目なのは、君が一番よく知ってるはずでしょ!? 総士だってそうじゃん! なんで平気なの!?」
操と似た亜麻色の髪をしたこの従兄弟は、操と同様イヌが苦手なはずだった。それは互いが嫌というほどよく知っている。なにせ自分たちは、過去に決定的な現場を共にしているのだから。
総士と操は幼い頃、一緒に遊んでいたところを近所の猛犬に追い回されたことがある。
あれは獣型の、よく肥えたブルドッグだった。いつも鎖で繋がれていたはずが、その時に限って首輪が外れてしまっていたのだ。
好きな人間にとっては愛嬌のある顔つきなのかもしれない。だが幼い二人にとってはそうじゃなかった。大きな身体でよだれをダラダラと零し、目を血走らせながら吠え立ててくるのだから。
総士はギャンギャンと泣き喚く操の手を引いて必死に走った。そしてつまずいて転んだ。
ずっと気丈に振る舞っていた彼だが、膝小僧から血が噴き出すのを見てわぁわぁと泣いた。それを見て、操はさらにショックで泣いた。総士が泣くところなんて、初めて見たからだ。
イヌは寸でのところで駆けつけた飼い主によって取り押さえられた。
それ以上の大事には至らなかったが、二人の中には立派なトラウマとして、その日の出来事が刻まれてしまった。
だから驚いたのだ。総士がイヌを飼うと聞いたときは。
通っている大学の教授の家で──確か名前は真壁だったと思う──生まれた子犬だったと聞くが、なぜ共に暮らすまでに至ったのか、その経緯は分からない。
ただ、一騎はとても穏やかな性格をしたチワワで、しかも炊事家事なんでもこなすスーパー犬だった。
学業に専念するあまり寝食を忘れる総士の世話をよく焼いているし、操とも一定の距離を保ちながら気を使ってくれる。
最初こそ恐ろしくて口もきけなかったが、今では唯一まともに会話ができるイヌが一騎だった。他は、二足だろうが四足だろうが受け付けない。それは総士も同じはずだったのに。
どういうわけか一騎以外のイヌを連れて来て、しかも預かれと言う。とんでもない話だ。
「彼からは人間への敵意は感じない。一騎がそう言ったのだから、僕はそれを信じる。だから連れてきた」
「そ、そんな……いくら一騎が言ったからって」
「彼らの読心能力は知っているだろう。イヌ同士は互いに思考を読み、心の中で会話することができる。彼は──甲洋は、口が利けないんだ」
「え?」
操は思わず甲洋と呼ばれたイヌを見た。伸びっぱなしの焦茶の髪に隠れて、表情は見えにくい。ただ、どこか人形のような顔立ちだと感じる。虚ろな瞳は、まるでガラス玉のようだった。
「あの子、どこか悪いの?」
「いや……保護されたとき医者にはかかっている。栄養失調で一ヶ月ほどの入院を要したが、他にこれといった持病は認められなかった。心因性のものだろうが……」
総士はそこで言葉を切った。何か言いかけて口を噤んだように、操の目には映った。
「総士?」
「とにかく、いま飼い主を探している最中だ。それまでの間、ここにいさせてやってほしい」
「ま、待って、待ってよ。なんでうちなの? 総士んちのほうが、一騎もいるし安心でしょ?」
「最初はそうなるはずだった。だが、不可能な状況に陥った」
「不可能?」
総士は難しい顔をしながら腕組みをして見せた。
「彼は一騎と、あまり相性がよくないらしい」
「え、なにそれどういうこと? あの一騎と? でも、会話したんでしょ?」
「話したといっても、一騎が彼から直接聞きだせた情報は限りなく少ない。名前と、敵意がないことだけだ。それ以外は壁が厚くて、会話にならなかったと言っている」
「そんなことってあるの……?」
意外だった。一騎はこれだけイヌを拒絶している操の心すら解してしまったほどのイヌだ。相手が誰であろうと、すぐに打ち解けてしまうものと思っていたのだが。
「同じ空間にいさせることは、双方にとって大きなストレスになるだろう。現に一騎は……少し弱っている」
「え!? 一騎ケガしたの!?」
「こちらも心因性によるものだ。外傷はない」
操はどうしたらいいか分からず、握った両手の拳を胸に押し当てながら甲洋を見た。
彼はピクリとも動かない。ただ静かにこちらを見ている。綺麗な顔をしているとは思うが、少し、気味が悪い。感情のないロボットのようだ。
いくら人への敵意がないといっても、やはり操にとってイヌは驚異の存在だった。どうしてもあの幼い日のことが思いだされて身が竦む。
俯いてなにも言わなくなってしまった操に、総士は落胆の息を漏らした。
「そうか……これほど頼んでも、駄目か」
「そ、総士……あの、おれ」
「ここなら何かあればすぐに駆けつけることができる。適任だと思ったんだが」
総士は静かに首を振り「仕方ない」と言うと、湯気が立ち込めるカレー鍋に蓋をした。そして取手を掴むと持ちあげる。
「これは没収だ」
「え!? 待って、なんでそうなるの!?」
「最初に言ったはずだ。これを踏まえた上での本題だと」
「カレーで釣る気だったってこと!? しかも鍋ごと没収するの!?」
「お前は自炊なんかしないだろう。鍋ひとつ失ったところで、不都合があるとは思えない」
「あるよぉ!」
いや、実際その通りなのだが、一騎カレーを食べそびれるというのは大問題だ。
操の思考も胃袋も、すっかりカレー色に染まっていた。ちょうど夕飯もまだで、とてつもなくお腹が空いている。この香りだけですでによだれが出そうなのに、それを目の前で没収されるなんて、考えただけで泣きそうだ。
「わかった! わかったよ! だから持ってかないで!」
食い気が勝った操は総士の手から鍋を奪うと、コンロの上に戻して背中に庇った。
「お前ならそう言ってくれると信じていた」
「ずるいよ総士は……それにあの子を連れて帰ったら、一騎がまた嫌な思いをするんでしょ? そんなの、断れるはずないじゃんか……」
一騎はイヌだが、友達だ。傍に寄ったり触ったりすることはできないが、操にとってこの世で唯一、心を許せるイヌだった。だって彼は優しいし、なにより総士をとても大事にしてくれる。
家族がいない操にとって、総士は従兄弟というより実の兄や父親といった方が近い存在だった。彼が許すものは操も許す。彼が大切にしているものは、操にとっても大切だ。
彼らが辛い思いをするくらいなら、自分が我慢した方がずっといい。カレーは我慢できないが。
総士は終始張り詰めたように硬かった表情をふっと和らげ、優しい笑みを浮かべて見せた。
「ありがとう来主。頼んだぞ」
そう言って、操の頭を優しく撫でた。
*
総士は操がカレーを食べるのを見届けると、メモ紙を残して帰っていった。
そのメモには主に甲洋を預かる上でのポイントなどが、神経質そうな文字で書かれている。
まず、彼は言葉による意思疎通ができないということ。言ったことに対してごく稀に頷いたり首を振ったりといった動作はするが、言葉による意思表示や感情表現は、現時点では不可能に等しい。
命じたことは素直に従うし、トイレや風呂などといった基本的な生活動作は備わっている。
食べ物に関しての好き嫌いは不明。保護した当初は栄養失調を起こしていた。
人間に敵意はないようだが、不用意に触れたり近づいたりはしないほうがいい。彼がそれを望まない。なるべくそっとしておくこと。
それらのことが書き連ねてあるメモ書きには、最後にこう書かれていた。
『カップ麺などのインスタント食品は厳禁。栄養面を考慮しながら健康管理を怠らず、常に気を配ること。ついでだから少しは自炊というものを覚えるといい』
と──。
「おれには難しすぎるよ……総士……」
ガラス製のローテーブルに突っ伏し、途方に暮れながら盛大な溜息をつく。
そもそも自分の栄養面ですら気を使っていないのに、イヌの健康管理なんてできるのだろうか。
基本的に台所で稼働しているのは冷蔵庫とオーブンレンジくらいのものだ。一通りの料理器具は揃っていても、まともに使った試しがない。
操はここで一人暮らしをしながら、駅前の小洒落たカフェでホールスタッフのアルバイトをしている。
とはいえ、実際は周囲から猫可愛がりされるだけのマスコット状態だ。そそっかしいので料理を運ばせれば必ず零すし、皿やグラスはしょっちゅう割る。
普通それだけミスが多ければクビになりそうなものだが、そうならないのは操の子供っぽい容姿や性質が為せる技だった。老若男女問わず、明るく無邪気なキャラがとにかく受ける。
ある意味、看板娘ならぬ看板息子なのだ。
バイト仲間の西尾里奈には「あんたって仕事ナメきってるわよね」と、よく呆れられてしまうのだが。
そんな操の食生活は、決して褒められたものではない。朝はギリギリまで寝ていたいし、昼は店でまかないが食べられる。夜は菓子パンだとか、スナック菓子で済ませてしまうような日もあった。
家庭の味が恋しくなれば総士の家に押しかけて、一騎の手料理を食べさせてもらうのが常だ。
そんな操を捕まえて急に自炊しろだなんて、無理難題にもほどがある。
(でもちゃんとしないと総士が怒る……怒られるのは、嫌だなぁ……)
操はなるべく目を向けないようにしていた部屋の隅へ、チラリと横目を走らせた。
漫画本や雑誌がぎっしり詰まった本棚の横で、甲洋は来たときのままじっと正座をして動かずにいる。時おり瞬きをするだけで、表情に一切の変化はなかった。
操は思わず大きな音を立てながら喉を鳴らした。イヌがいる。自分の部屋に。しかも、痩せてはいるがそれなりに上背がある。飛びかかられたら一巻の終わりだ。
この2DKの空間に、その気になれば自分など簡単に噛み殺してしまえるほどの驚異が存在している。その事実に怖気が立つ。
だが、今さら突き返すわけにもいかないのが現状だ。何も死ぬまで面倒を見ろと言われたわけではないのだし、総士が彼の飼い主を見つけるまでの、ほんの少しの間だけなのだから。
「えぇっと……君、甲洋、だっけ」
丸めた背中で恐る恐る話しかける。名前を呼ばれた彼は、黒く尖った耳を一瞬ピクリと震わせるだけだった。
「初めまして。おれ、来主操。よろしくね」
「…………」
「君、迷子かなにか? お父さんとお母さん、早く見つかるといいね……」
「…………」
「と、とりあえず楽にして。正座のままだと、足が痺れるよ」
縺れそうになる舌でどうにか言うと、甲洋は幾度か瞬きを繰り返したあとゆっくりと足を崩した。片方は胡坐をかくように曲げて、片方は膝を立てる。そして操をじっと見つめた。
(本当に素直に言うこときくんだ)
総士のメモを疑っていたわけではないのだが、いざ目の当たりにするとやっぱり驚く。同時に、少しホッとした。とはいえ緊張が解れたわけではないが。
ひとつ分かったのは、彼はこちらが何かしらアクションを起こさない限り、このままいつまでも動かないということだった。
そういえば、ずっとコートも着たままだ。
「こ、コート脱ぐ? うん、肩が凝るしね」
操は震える息を吐きながら立ちあがった。
甲洋の動向を随時チェックするように目を向けつつ、カニ歩きで寝室として使っている隣の部屋へ向かうと、ハンガーを手にして戻る。それを彼からだいぶ離れた位置に置いて、サッと飛び退くように部屋の隅っこに身を寄せた。
「そ、それ使って」
「…………」
甲洋はしばらく無言でカーペットの上のハンガーを見つめていたが、やがて立ちあがるとコートを脱いだ。中には簡素な白い長袖のインナーを着ており、穿いているデニムは両膝が破れて膝小僧が見えている。
モデルのように足も長いし、さぞかしメスにモテるだろうな……なんて思いながら見ていると、バサリと音を立てて黒く立派な尻尾が揺れた。
「ヒッ」
たったそれだけのことで、操は肩をビクつかせて壁に身体を密着させる。
毛足の長いそれにはまるで艶がなく、ボサボサで見るからに痛んでいた。イヌというよりは、まるで野生のオオカミのようだ。彼のどこか繊細な容貌にそぐわない、いかにも獣といった感じの尻尾だった。
不幸にもそれが、操の恐怖心をより煽る結果になってしまう。
甲洋はハンガーに手を伸ばしてコートをかけると、いちど確かめるように操に目を向けた。次の指示を待っているのかもしれないが、青褪めながら震えることに忙しい操は声を出すことができなかった。
すると彼は一瞬だけ淡い朽葉色の瞳を揺らめかせる。どこか悲しそうに見えたのも束の間、いちど目を閉じると顔を背け、寝室の方へと歩きだしてしまった。
操は彼の動向を、ただ固唾を飲んで凝視することしかできない。垂れ下がる黒い尻尾が、ぎこちなく左方向へ揺れていた。畳の床をペタペタと裸足で歩く音がやけに大きく聞こえる。
甲洋は寝室の壁にハンガーラックを見つけると、そこにハンガーをかけてすぐに戻ってきた。今度は操に目を向けることなく、本棚の横に再びさっきと同じ体勢で腰を下ろす。
そのままじっと動かなくなったのを見届けて、操はようやく震える息を吐きだした。いつの間にか汗だくだ。心臓が飛び出しそうなほど大きな音を立てている。
「はぁ……もう、死にそう……」
力なく呟いて、壁に背を張りつけたままズルズルと床に崩れ落ちた。
*
寝る前に好きなタイミングで風呂に入るようにとだけ言って、操は早めに床につくことにした。
恐怖から逃避したかったという思いもあるが、とてもではないがあの沈黙に耐えられそうになかったからだ。
甲洋にはベッドがある隣室を使わせることにした。普段からテレビを見ながらそのまま居間で寝てしまうことが多かったし、イヌとはいえ総士から預かっている客を雑魚寝させるのは気が引ける。
だから毛布だけ持ち込んで、自分がこちらの部屋を使うことにした。
引き戸はしっかりと閉じているため、甲洋が隣室でどう過ごしているかは分からない。
部屋の灯りを消して毛布に包まり息を殺していると、しばらく経ってから甲洋が畳を踏み鳴らす音が聞こえた。寝室にはもうひとつ、トイレや風呂場がある廊下に繋がる開き戸がある。彼は操の指示通り、風呂に入るため脱衣所へ向かったようだった。
歯ブラシも予備のものを出しておいたし、タオルや着替えもあらかじめ置いておいたから──操のものなので少し丈が不安だが──放っておいても大丈夫だろう。
シャワーの音が聞こえてくると、そこでようやく身体から力が抜けた。
「おれ、ちゃんと面倒見られるのかなぁ……」
一体いつまで預かればいいのだろう。彼の飼い主は、今ごろどこにいるのだろうか。
総士はできない約束は絶対にしない。だからきっと見つけ出してくれると信じているが、途方もない不安に押しつぶされそうだ。
この有様ではイヌの健康管理をする前に、こちらが先に参ってしまいかねない。
結局、その夜はなかなか眠気が訪れなかった。
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10
意識が浮上するのを感じながら、頬に柔らかなものが触れていることに気がついた。
儚いものを育てるように、それは何度も行き来する。瞼を開けると、とろりとした琥珀が甲洋を見つめていた。
前にも同じことがあったっけ。そんなことを思いながら、頬を撫でる白い手に指先で触れる。そのままきゅうと握りしめてやると、腕のなかで操が笑った。
あのときも、彼はこうして甲洋が目を覚ますのを待っていた。逃げもせず、怯えもせず。甲洋の頬に触れながら。
「おはよ」
そう言った操の声は枯れていた。
部屋の中はデスクライトが淡く光を放っている。カーテンの隙間から見える空は仄青く、まだ夜は明けきっていなかった。
おはようと返そうとした甲洋の喉も、少し乾いて掠れていた。不器用にむせてから、ふたり目を合わせて小さく笑う。
あれから服を脱いで、裸になって、繰り返し熱を分け合った。
昨日の夜だって何度もしたのに、まるで初めて触れるみたいに互いの肌を探り合い、そこにあるものを確かめた。
操の瞳は充血していて、目元も赤く腫れたようになっている。きっと自分も似たような有様だろうなと、そう思うと少し情けない気もするけれど、心の中は雨上がりの空のように澄んでいた。
「お水とはちみつ、今日はおれが持ってきてあげるね」
腕のなかで、痩躯が身じろぐ。
「あ、でもおれ、はちみつがどこにあるか知らないや。台所……の、どこ?」
枯れた声で言いながら、操はのろのろと半身を起こした。
淡い光の中に彼の華奢な背中が浮かび上がる。痛々しく刻まれた熱傷痕に胸を掻き毟られて、甲洋は思わず追いすがるように起き上がると、その背をすっぽりと抱き包んでいた。
「こうよお?」
「……いい、このままで」
聞こえるか聞こえないかの低い声で言うと、操は呆けたようにパチパチと瞬きを繰り返したあと、頬と耳と、首筋や肩の先までも染め上げて、こそばゆそうにふにゃんと笑った。
柔らかいなと、甲洋は思う。操はどこもかしこも柔らかい。そしていじらしかった。
些細な仕草だったり、表情の動きだったり、肌の色とか、体温の変化。内も外も、その全身で、操は甲洋への想いを伝えてくる。
愛しいと思う感情が蕩けたゼリーのように際限もなく溢れでて、自分の身体が正しく形を保てているかどうかすら自信がなくなってしまう。
好きだ。これが、好きって気持ちだ。知らないままに今までどうやって生きてこられたのか、自分でも不思議でならなかった。
甲洋は赤い耳に頬を擦り寄せながら震える息を吐きだした。くすぐったそうに、操は少しだけ肩をすくめてクスクスと笑い声をあげる。
「ねぇ、くすぐったいよぅ」
「……ごめん。だけど、もう少しこのまま」
「でも、苦しいよ」
少し強く抱きしめすぎただろうか。腕の力を緩めかけると、操は首を左右に振ってみせた。
「ここが苦しいだけだよ。だってさっきから、ずっとドキドキしてるんだもん」
操は心臓の上にある甲洋の前腕に両手で触れた。胸にぴったりとくっついている彼の背中からも、大きな鼓動が伝わってくる。
けれどそれは甲洋も同じだ。あんなに激しく抱き合ったあとなのに、たったいま恋に落ちたみたいに意識しあっている。
「こおよ」
甘えた声が甲洋の名を呼ぶ。ん、と短く返事をすると、操は猫が瞬きをするようにゆっくりと睫毛を踊らせた。
「おれの初めて、いっぱい甲洋にあげちゃったね」
「……うん」
暴かれること、縛られること、デタラメの嘘に踊りながら、愛して、赦した。
恋をするということも。誰かを想って泣くことも。与えたいと、そう思うことすらきっと初めてだったのだ。
それは奪われることの絶望を知ったから、だったのかもしれない。誰かに必要とされたくて、埋められないものを埋めたくて。孤独に膝を抱えていたのは、操も同じだった。
操と甲洋。空っぽのふたり。甲洋の孤独に、操は惹かれた。ちっとも似ていないのに、とてもよく、似ていたから。
そして甲洋もまた、自分でも知らなかった自分自身を幾つも発見させられた。
泣きながら怯える操を可愛いと思ってしまったこともまた事実で、正直いまでもその気持ちは変わらない。甲洋のなかには、そういう歪んだ欲望が未だどこかに潜んでいることは否めなかった。
だけどこんな面倒でどうしようもない男のことを、それでも彼は好きだという。
(──守ろう)
心からそう思った。この子を、きっと。
その身に降りかかる全ての火の粉を払い除け、必ずこの手で守り抜こう。操と、操が愛するものを。もう決して誰も失わせないし、もう二度と、怖い夢を見なくても済むように。
この子が笑っていられるのなら、なんだってしようと。
「全部もらったから……大事にする」
誰かを好きになるのは、とても怖い。だってその先には裏切りが待っているかもしれないから。
甲洋はずっとそういうものから逃げ続けていた。人を信じることができなかった。好かれるための努力はしても、自分から手を伸ばす勇気を持とうとはしなかった。
自分で自分を消していた。だけどもう、終わりにしよう。
だって甲洋は操と恋がしたい。間違ったはじまり。間違った道筋。けれど結末は揺蕩うように穏やかで、この恋は、きっと運命になる。
「好きだよ」
言葉にするとまた少し泣きたくなって、代わりに操を抱く腕に力を込める。
甲洋が鼻をすすっていることに気がつくと、彼は「泣き虫だね」と言って幼く笑った。
丸裸だ。甲洋の心は。
「おれも大好き。甲洋」
そこに操が触れるから。
上向けられた視線と目を合わせ、柔らかな唇にキスをした。
操からは命の匂いがする。あたたかな、空の匂いがする。あの泣きたくなるような切なさは愛しさに形を変えて、甲洋は少しずつ、強く変わっていけるような気がした。
*
八日目、昼。
本当は四人で総士達を船着き場まで迎えに行こうと思っていたけれど、暉が少し寂しそうにしていることに気がついて、真矢とふたりで行ってもらうことにした。
出掛けに「がんばれ」とこっそり耳打ちしたら、暉は真っ赤な顔をして「なに言ってんですか」と声をひっくり返らせていた。この分だと、彼の恋が成就するのは当分先のことになりそうだなと、甲洋は生暖かい眼差しで後輩と友人の背を見送った。
「暉と真矢、もう行っちゃった?」
カウンターに立つ甲洋が、縁いっぱいまで氷を入れたグラスにコーヒー液を注いでいると、二階から操がおりてきた。
「だいぶ前にね。そろそろ戻ってくるんじゃないかな……もう起きてきて平気?」
問いかけに操はうんと頷き、カウンター席に腰掛けた。
一緒に迎えに行けなかったのは、彼の腰の具合があまりよろしくなかったせいもある。一昨日の夜に続いて昨夜もずいぶん無茶をさせてしまったのだから、無理もない。
今朝方ベッドから抜け出そうとして力が入らず、そのまま転げ落ちた操に血の気が引くような思いがしたが、腰から下がなくなっちゃったよと言って泣きそうになっている様子に、悪いと思いながらも気が抜けた。
「ねぇ甲洋、おれにもコーヒーちょうだいよ」
操はケロリとした表情で少し前のめりになりながら言った。甲洋は目を丸くして小首を傾げる。
「いいけど、飲める?」
「へーきへーき! だっておれもう大人だし!」
なぜか彼は自信たっぷりな様子だった。
もしセックスを経験したからもう大人なのだと思っているなら、それは大きな間違いだ。けれどある意味、無理やり『大人』にしてしまったのは甲洋でもあるので、なんとなく返す言葉がなくて、黙って自分用にと作っていたはずのアイスコーヒーを操に差し出す。
「やったー! ありがとう!」
操は嬉しそうにグラスを受け取ると、カウンターテーブルに等間隔に置かれているシュガーケースと、ミルクケースを引き寄せる。
胸焼けがしそうになるほど大量に砂糖を入れたあと、コーヒーが真っ白になるくらいミルクを入れてかき混ぜる姿を見て、甲洋はやっぱりまだ子供なんだなぁと思った。
「一騎と総士が帰ってきたら、おれがコーヒー飲めるようになったこと教えてあげなくちゃ」
ほとんどミルクと砂糖の味しかしない液体を飲みながら、操はどこか誇らしげだった。甲洋は苦笑しながら厨房スペースから出て、その隣に腰掛ける。
壁掛けの時計を見上げれば、時刻は12時をさしていた。あとほんの少しすれば、一騎と総士が長旅を終えて帰ってくるのだ。
ふと、昨日の今ごろ自分はどんな顔をしていたっけと、甲洋は思う。ひとりぼっちでいるみたいな顔。そうだ、そんな顔をしていた。
横顔に視線を感じて、隣にいる操に目を向けた。くるくるとした大きな瞳が、甲洋をじっと見つめている。
彼の目に映る自分は、今どんな顔をしているだろう。
寂しいかと聞かれたら、迷わず否と答えられる。そこにもう嘘はひとつもなくて、毒を出し切ってしまった甲洋にとって、昨日までの自分は干からびた蛇の抜け殻のようなものだった。
「まだ寂しそうに見える?」
操がなにも言わないので、甲洋はふっと微笑みながら自ら問いかけた。
彼は答える代わりに白い指先を伸ばし、緩く弧を描く甲洋の唇を確かめるようにゆるりとなぞった。それから、花が開くような笑顔を見せる。
甲洋はゆっくりと離れていこうとするその手をとって、指の隙間を縫うようにそっと優しく握りしめた。
操の瞳に映る甲洋は、もう笑っているのに笑っていない嘘つきでもなければ、ひとりぼっちの寂しいやつでもなかった。
一皮むけて新しくなった皮膚はまだ柔らかくて、丸裸になった心は、きっと些細なことで傷つくだろう。
痛みを恐れて笑顔を盾にしていた甲洋は、傷つかないために優しい人間であり続けなければならなかった。だけど今は、優しくなりたいと思っている。
「お前がいるから、もう寂しくないよ」
昨日の今ごろ、操はきっとこの言葉を待っていたのだろうなと、甲洋は思う。
ゆっくりと顔を近づけあって、一瞬だけ、唇同士を触れ合わせた。誤魔化すためのキスじゃなく、本当にそうしたいと思ったから。好きで好きで、どうにかなりそうだったから。
「じゃあ、これからもずーっと寂しくないね、甲洋」
弾むように未来を紡ぐ操の声が、耳朶をくすぐる。
まぁるい頬を薄紅に染めながら笑う彼は、ちょっと臭い表現だけれど、天使のように愛らしい。
目が眩みそうなほどの幸福に溺れて、甲洋は何も言えなくなった。求められれば幾らでも饒舌になれたはずの自分が、操の前では不器用になる。代わりに強く、指先に力を込めた。
砂糖とミルクの甘い香りと、焙煎されたコーヒー豆の匂い。暮れゆく夏の天気は良好で、ガラス張りの店内が白く豊かな光に包まれている。
古びた時計がちくたくと音を奏でていた。一秒ごとに、甲洋の中には忘れたくないと思える記憶が増えていく。
忘れられないということを、これほど嬉しいと感じられたのは初めてだった。
──カラリ。
そのとき、ドアベルが鳴る音がした。楽園の扉が開かれる。
「帰ってきた!」
熱く蕩けていた瞳を、無邪気な子供の色へと変えて、操が弾かれたように席を立つ。
絡めあっていた指がほどけて、甲洋の手から幼いぬくもりが遠ざかる。だけどその感触はいつまでもそこに残っていて、この恋がずっと続いていくことを教えてくれた。
操が両手を広げて駆け寄っていくその先へと目を細め、甲洋は優しく晴れやかに、笑みを浮かべた。
「おかえり総士! 一騎──!」
フェルデランスの毒を喰らわば/了
←戻る ・ Wavebox👏
意識が浮上するのを感じながら、頬に柔らかなものが触れていることに気がついた。
儚いものを育てるように、それは何度も行き来する。瞼を開けると、とろりとした琥珀が甲洋を見つめていた。
前にも同じことがあったっけ。そんなことを思いながら、頬を撫でる白い手に指先で触れる。そのままきゅうと握りしめてやると、腕のなかで操が笑った。
あのときも、彼はこうして甲洋が目を覚ますのを待っていた。逃げもせず、怯えもせず。甲洋の頬に触れながら。
「おはよ」
そう言った操の声は枯れていた。
部屋の中はデスクライトが淡く光を放っている。カーテンの隙間から見える空は仄青く、まだ夜は明けきっていなかった。
おはようと返そうとした甲洋の喉も、少し乾いて掠れていた。不器用にむせてから、ふたり目を合わせて小さく笑う。
あれから服を脱いで、裸になって、繰り返し熱を分け合った。
昨日の夜だって何度もしたのに、まるで初めて触れるみたいに互いの肌を探り合い、そこにあるものを確かめた。
操の瞳は充血していて、目元も赤く腫れたようになっている。きっと自分も似たような有様だろうなと、そう思うと少し情けない気もするけれど、心の中は雨上がりの空のように澄んでいた。
「お水とはちみつ、今日はおれが持ってきてあげるね」
腕のなかで、痩躯が身じろぐ。
「あ、でもおれ、はちみつがどこにあるか知らないや。台所……の、どこ?」
枯れた声で言いながら、操はのろのろと半身を起こした。
淡い光の中に彼の華奢な背中が浮かび上がる。痛々しく刻まれた熱傷痕に胸を掻き毟られて、甲洋は思わず追いすがるように起き上がると、その背をすっぽりと抱き包んでいた。
「こうよお?」
「……いい、このままで」
聞こえるか聞こえないかの低い声で言うと、操は呆けたようにパチパチと瞬きを繰り返したあと、頬と耳と、首筋や肩の先までも染め上げて、こそばゆそうにふにゃんと笑った。
柔らかいなと、甲洋は思う。操はどこもかしこも柔らかい。そしていじらしかった。
些細な仕草だったり、表情の動きだったり、肌の色とか、体温の変化。内も外も、その全身で、操は甲洋への想いを伝えてくる。
愛しいと思う感情が蕩けたゼリーのように際限もなく溢れでて、自分の身体が正しく形を保てているかどうかすら自信がなくなってしまう。
好きだ。これが、好きって気持ちだ。知らないままに今までどうやって生きてこられたのか、自分でも不思議でならなかった。
甲洋は赤い耳に頬を擦り寄せながら震える息を吐きだした。くすぐったそうに、操は少しだけ肩をすくめてクスクスと笑い声をあげる。
「ねぇ、くすぐったいよぅ」
「……ごめん。だけど、もう少しこのまま」
「でも、苦しいよ」
少し強く抱きしめすぎただろうか。腕の力を緩めかけると、操は首を左右に振ってみせた。
「ここが苦しいだけだよ。だってさっきから、ずっとドキドキしてるんだもん」
操は心臓の上にある甲洋の前腕に両手で触れた。胸にぴったりとくっついている彼の背中からも、大きな鼓動が伝わってくる。
けれどそれは甲洋も同じだ。あんなに激しく抱き合ったあとなのに、たったいま恋に落ちたみたいに意識しあっている。
「こおよ」
甘えた声が甲洋の名を呼ぶ。ん、と短く返事をすると、操は猫が瞬きをするようにゆっくりと睫毛を踊らせた。
「おれの初めて、いっぱい甲洋にあげちゃったね」
「……うん」
暴かれること、縛られること、デタラメの嘘に踊りながら、愛して、赦した。
恋をするということも。誰かを想って泣くことも。与えたいと、そう思うことすらきっと初めてだったのだ。
それは奪われることの絶望を知ったから、だったのかもしれない。誰かに必要とされたくて、埋められないものを埋めたくて。孤独に膝を抱えていたのは、操も同じだった。
操と甲洋。空っぽのふたり。甲洋の孤独に、操は惹かれた。ちっとも似ていないのに、とてもよく、似ていたから。
そして甲洋もまた、自分でも知らなかった自分自身を幾つも発見させられた。
泣きながら怯える操を可愛いと思ってしまったこともまた事実で、正直いまでもその気持ちは変わらない。甲洋のなかには、そういう歪んだ欲望が未だどこかに潜んでいることは否めなかった。
だけどこんな面倒でどうしようもない男のことを、それでも彼は好きだという。
(──守ろう)
心からそう思った。この子を、きっと。
その身に降りかかる全ての火の粉を払い除け、必ずこの手で守り抜こう。操と、操が愛するものを。もう決して誰も失わせないし、もう二度と、怖い夢を見なくても済むように。
この子が笑っていられるのなら、なんだってしようと。
「全部もらったから……大事にする」
誰かを好きになるのは、とても怖い。だってその先には裏切りが待っているかもしれないから。
甲洋はずっとそういうものから逃げ続けていた。人を信じることができなかった。好かれるための努力はしても、自分から手を伸ばす勇気を持とうとはしなかった。
自分で自分を消していた。だけどもう、終わりにしよう。
だって甲洋は操と恋がしたい。間違ったはじまり。間違った道筋。けれど結末は揺蕩うように穏やかで、この恋は、きっと運命になる。
「好きだよ」
言葉にするとまた少し泣きたくなって、代わりに操を抱く腕に力を込める。
甲洋が鼻をすすっていることに気がつくと、彼は「泣き虫だね」と言って幼く笑った。
丸裸だ。甲洋の心は。
「おれも大好き。甲洋」
そこに操が触れるから。
上向けられた視線と目を合わせ、柔らかな唇にキスをした。
操からは命の匂いがする。あたたかな、空の匂いがする。あの泣きたくなるような切なさは愛しさに形を変えて、甲洋は少しずつ、強く変わっていけるような気がした。
*
八日目、昼。
本当は四人で総士達を船着き場まで迎えに行こうと思っていたけれど、暉が少し寂しそうにしていることに気がついて、真矢とふたりで行ってもらうことにした。
出掛けに「がんばれ」とこっそり耳打ちしたら、暉は真っ赤な顔をして「なに言ってんですか」と声をひっくり返らせていた。この分だと、彼の恋が成就するのは当分先のことになりそうだなと、甲洋は生暖かい眼差しで後輩と友人の背を見送った。
「暉と真矢、もう行っちゃった?」
カウンターに立つ甲洋が、縁いっぱいまで氷を入れたグラスにコーヒー液を注いでいると、二階から操がおりてきた。
「だいぶ前にね。そろそろ戻ってくるんじゃないかな……もう起きてきて平気?」
問いかけに操はうんと頷き、カウンター席に腰掛けた。
一緒に迎えに行けなかったのは、彼の腰の具合があまりよろしくなかったせいもある。一昨日の夜に続いて昨夜もずいぶん無茶をさせてしまったのだから、無理もない。
今朝方ベッドから抜け出そうとして力が入らず、そのまま転げ落ちた操に血の気が引くような思いがしたが、腰から下がなくなっちゃったよと言って泣きそうになっている様子に、悪いと思いながらも気が抜けた。
「ねぇ甲洋、おれにもコーヒーちょうだいよ」
操はケロリとした表情で少し前のめりになりながら言った。甲洋は目を丸くして小首を傾げる。
「いいけど、飲める?」
「へーきへーき! だっておれもう大人だし!」
なぜか彼は自信たっぷりな様子だった。
もしセックスを経験したからもう大人なのだと思っているなら、それは大きな間違いだ。けれどある意味、無理やり『大人』にしてしまったのは甲洋でもあるので、なんとなく返す言葉がなくて、黙って自分用にと作っていたはずのアイスコーヒーを操に差し出す。
「やったー! ありがとう!」
操は嬉しそうにグラスを受け取ると、カウンターテーブルに等間隔に置かれているシュガーケースと、ミルクケースを引き寄せる。
胸焼けがしそうになるほど大量に砂糖を入れたあと、コーヒーが真っ白になるくらいミルクを入れてかき混ぜる姿を見て、甲洋はやっぱりまだ子供なんだなぁと思った。
「一騎と総士が帰ってきたら、おれがコーヒー飲めるようになったこと教えてあげなくちゃ」
ほとんどミルクと砂糖の味しかしない液体を飲みながら、操はどこか誇らしげだった。甲洋は苦笑しながら厨房スペースから出て、その隣に腰掛ける。
壁掛けの時計を見上げれば、時刻は12時をさしていた。あとほんの少しすれば、一騎と総士が長旅を終えて帰ってくるのだ。
ふと、昨日の今ごろ自分はどんな顔をしていたっけと、甲洋は思う。ひとりぼっちでいるみたいな顔。そうだ、そんな顔をしていた。
横顔に視線を感じて、隣にいる操に目を向けた。くるくるとした大きな瞳が、甲洋をじっと見つめている。
彼の目に映る自分は、今どんな顔をしているだろう。
寂しいかと聞かれたら、迷わず否と答えられる。そこにもう嘘はひとつもなくて、毒を出し切ってしまった甲洋にとって、昨日までの自分は干からびた蛇の抜け殻のようなものだった。
「まだ寂しそうに見える?」
操がなにも言わないので、甲洋はふっと微笑みながら自ら問いかけた。
彼は答える代わりに白い指先を伸ばし、緩く弧を描く甲洋の唇を確かめるようにゆるりとなぞった。それから、花が開くような笑顔を見せる。
甲洋はゆっくりと離れていこうとするその手をとって、指の隙間を縫うようにそっと優しく握りしめた。
操の瞳に映る甲洋は、もう笑っているのに笑っていない嘘つきでもなければ、ひとりぼっちの寂しいやつでもなかった。
一皮むけて新しくなった皮膚はまだ柔らかくて、丸裸になった心は、きっと些細なことで傷つくだろう。
痛みを恐れて笑顔を盾にしていた甲洋は、傷つかないために優しい人間であり続けなければならなかった。だけど今は、優しくなりたいと思っている。
「お前がいるから、もう寂しくないよ」
昨日の今ごろ、操はきっとこの言葉を待っていたのだろうなと、甲洋は思う。
ゆっくりと顔を近づけあって、一瞬だけ、唇同士を触れ合わせた。誤魔化すためのキスじゃなく、本当にそうしたいと思ったから。好きで好きで、どうにかなりそうだったから。
「じゃあ、これからもずーっと寂しくないね、甲洋」
弾むように未来を紡ぐ操の声が、耳朶をくすぐる。
まぁるい頬を薄紅に染めながら笑う彼は、ちょっと臭い表現だけれど、天使のように愛らしい。
目が眩みそうなほどの幸福に溺れて、甲洋は何も言えなくなった。求められれば幾らでも饒舌になれたはずの自分が、操の前では不器用になる。代わりに強く、指先に力を込めた。
砂糖とミルクの甘い香りと、焙煎されたコーヒー豆の匂い。暮れゆく夏の天気は良好で、ガラス張りの店内が白く豊かな光に包まれている。
古びた時計がちくたくと音を奏でていた。一秒ごとに、甲洋の中には忘れたくないと思える記憶が増えていく。
忘れられないということを、これほど嬉しいと感じられたのは初めてだった。
──カラリ。
そのとき、ドアベルが鳴る音がした。楽園の扉が開かれる。
「帰ってきた!」
熱く蕩けていた瞳を、無邪気な子供の色へと変えて、操が弾かれたように席を立つ。
絡めあっていた指がほどけて、甲洋の手から幼いぬくもりが遠ざかる。だけどその感触はいつまでもそこに残っていて、この恋がずっと続いていくことを教えてくれた。
操が両手を広げて駆け寄っていくその先へと目を細め、甲洋は優しく晴れやかに、笑みを浮かべた。
「おかえり総士! 一騎──!」
フェルデランスの毒を喰らわば/了
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09
甲洋が知らない、操の話。
ひとつひとつ紡がれるたびに感情と共に溢れる涙は、薄ぼんやりとした部屋の中で星屑のようにキラキラと煌めいている。
その美しさに呆然としながら、甲洋は今まで一騎や真矢が言いかけていた言葉の先が、なんとなく想像できたような気がした。
彼は拙い反発心から甲洋に興味を抱いた。
甲洋のことが気になって、総士と一騎だけに留まらず、島中の人に話を聞いて回っていた。そしてその中には、あの両親さえも含まれていたのだ。
──あのね甲洋
朝、カウンター席で並んで朝食を食べたあと。
寂しいのかと聞いてきた操に、甲洋はキスをして、寂しくないよとまた嘘をついた。
それでも彼はほっとした顔を見せ、それから、なにかを言いかけていた。
──おれ、前にね、ここで君の
あの場所で、操は甲洋の孤独に触れていたのだ。
だからあんなに心配そうに、不安そうに問いかけてきた。甲洋を愛さなかったひとたちがいたあの場所で、甲洋を愛しながら、寄り添おうとしていた。
けれど甲洋は嘘をついた。寂しかった。独りでいるよりもずっと、あのときの甲洋は孤独を感じていた。だって明日にはもう、この子はいないのだと思っていたから。ありのままの自分を好いてくれる人間など、どこにもいないのだと思っていたから。
だから気づけなかった。
本当は、もうずっと前から求めていたものが傍にあったということに。
甲洋は真実の愛が欲しかった。
だけどきっと、そんなものが本当にこの世界に存在するなんて、信じていなかったのは甲洋自身だったのかもしれない。
「あのね、好きなひとしか触っちゃダメって言ったの……あれはね、おれのこと好きじゃないひとは、触っちゃダメって意味だったんだよ」
操は耳の際まで真っ赤にしながら、俯いてもじもじと肩を揺らした。
「だっておれは、甲洋に嫌われることばかりしてたもの」
白い手を握りしめ、彼は子供っぽくグイッと涙を拭った。そんなに乱暴にこすったら腫れてしまう。だけど甲洋は喉が詰まったようになっていて、なにも言うことができなかった。
「最初にちゃんと好きって言えなくて……ごめん」
ひたむきに想いを告げる姿に、胸が張り裂けそうになる。
そこにいるのは初恋に頬を染める少年で、甲洋はこれを平然と穢したのだ。すでに消えない傷を負っている彼の身体を、心を、大事に守っていた場所を暴いて、その尊厳を踏み散らかした。
「でも、初めてだったから……ああいうことするのも、誰かをこんなふうに好きになるのも、おれ、初めてだったから……なんて言ったらいいか、わかってなかった。怖かったし、痛かったし、恥ずかしかったから……」
せっかく拭った瞳から、操はまた涙を流した。何度も鼻をすすっているのを見て、甲洋はどうしたらいいか分からなくなる。ただ身体が震えていた。
未だになにひとつ言葉を発せないまま、衝動的にその身体を引き寄せて、強く抱きしめる。
「こ、こうよ」
「……ごめん」
それしか言えなかった。
「ごめん、来主……ごめん……ごめんな……」
もうなにに対しての謝罪なのか分からないくらい、甲洋は操の肩に目元を押しつけ、そればかりを繰り返した。声は濡れて、酷く掠れて上ずっていた。
甲洋はこの純粋な少年の心を、身体を、たくさんたくさん傷つけた。自分の孤独を埋められさえすればそれでよかった。そこにある痛みも、生まれたばかりだった淡い感情も、なにひとつ知らないで。
それでも彼はしなやかな両腕を甲洋の背に回し、力いっぱい抱き返してくる。
「ねぇ、おれは甲洋が好きだよ。君がどんなに酷いやつでも、ちゃんと好きだよ。嫌なことなんかなにもなかった。だから甲洋……嘘にしないで。全部ほんとのことにしちゃえばいいよ。おれには甲洋しかいないって、もういちど言ってよ」
おれのこと嫌いでもいいからと、操は言った。
「だって、そうじゃなきゃ、おれの気持ちまで嘘になっちゃう。そんなの、やだよ」
甲洋は止めどなく溢れる涙に歯を食いしばり、緩く首を振る。
だってそんなの、あんまりだ。
「俺、は」
あまりにも、狡いではないか。
「俺は、ただ怖くて……否定されたことが、怖くて……」
「うん……」
「思い通りになるなら、きっと誰でも、よかったんだ……お前が特別だったからじゃ、ない……他の誰が相手でも、俺はきっと、同じことをしたんだよ……」
「……うん」
「そんなの、ずるいだろ……? お前なんかどうでもいいって……思い通りにならないなら、傷つけたっていいって……傷つけてでも、欲しいだなんてさ……」
泣き方を知らない子供のように、甲洋は言葉を詰まらせながら心の中身をぶちまける。
「こんな気持ち、間違ってるだろ? 許せないだろ? こんな俺が今さら……今さらお前のことが好きなんて、そんなの……」
操は泣いている甲洋の頭をゆるりと撫でながら「うん」と小さく頷いた。
「……それじゃあやっぱり、君にはおれしかいないんだ」
「ッ、……?」
操は甲洋の頬を両手で包み込むと、そっと肩から引き離す。真っ赤な目をして泣いている顔を見て、涙目で笑うと額同士をくっつけた。
「君みたいなやつ、なんて言うか知ってるよ。めんどくさいんだ。こんなのを好きでいられるなんて、きっとおれしかいないでしょ?」
「くるす……」
「だから甲洋には、おれしかいない」
抗毒血清。
「おれしかいないんだよ」
少しずつ、少しずつ身体を蛇の毒で侵していって、中和するための抗体を作る。
操は、甲洋の毒を喰ってしまった。
喰らいつくして、嘘を真実に、変えてしまったのだ。
*
「好きだよ甲洋……ねぇ、大好き……ぁ、こう、よ」
甘く上ずった声が甲洋の名を呼んで、喘ぎながら、何度も好きと繰り返す。
それは甲洋の芯に深く爪を立てるように絡みついて、熱く、柔らかく、蕩けさせていった。
「あッ、痛い……こぉよ……あぁ、ぁ……痛い、よぉ……」
甲洋は下から操を貫いていた。あのあと夢中でキスをして、服すら満足に脱がないままに、繋がった。
愛撫もそこそこに、ただ薄っすらと滲んだ互いの体液だけを頼りに。まだ解れきっていない大事な場所をこじ開けて、揺さぶっている。
甲洋は痛みを一身に受ける操の身体を掻き抱いて、操は甲洋の首にしがみついて、汗を振りまきながら互いを貪り合っていた。ベッドが軋み、換気をしていない室内は性の匂いで蒸している。
「ごめん、来主……ぁ、ッ、ごめん、ごめ、ん」
性急な行為に悲鳴をあげる身体を、甲洋は欲望のままに幾度も突き上げた。優しくしたいのに、その首筋に顔を埋めながら、それでも腰が止まらない。
操のなかは熱く甲洋を締めつけて、鈍い水音を響かせながらさらに奥へと誘い込もうとしているようだった。ずん、ずん、と衝撃を与えるたび、甲洋の上に跨る身体が大きくしなる。
彼は泣きながら笑い、首を振りながら「いいよ」と言った。
「許すから……ぁ、う、甲洋のこと、許すから……」
──許すから。
ああ、きっと、甲洋の嘘が毒ならば、彼の言葉は魔法のようだ。
甘く拙く、とろとろに煮込んだ果実に、幾つも幾つも角砂糖を放り込んでいくような。喉が焼けるほどの甘味もまた、きっと毒であることに違いない。
操の魔法は、甲洋の心を真綿でそっと締め上げる。痛苦しさの中に生まれて初めて安らぎを覚えた甲洋は、涙を流しながら自分自身と向き合った。
(父さん母さん……ごめんなさい……)
甲洋はずっと許されたかった。
そこにいることを許されたかった。
どうか否定しないで。どうかどうか、俺を愛して。
そんなふうにいつまでも求め続ける自分を、許してほしかった。
島を出たのも、本当は引き止めてほしかったからだ。
父から初めて電話がきたとき、そろそろ帰って来いと、そう言ってくれるのではないかと期待した。
戻ってきたのは、いつかふたりが帰ってくるかもしれないと思ったから。
この店を守っていれば、そのうちひょっこり顔を出して、また最初からやり直そうと言ってくれるかもしれないと。
今までよくやったなと、立派になったなと、褒めてほしかった。
(ずっと諦められなくて、ごめんなさい)
だけどその未練を、期待を、甲洋は操を抱きながら手放した。
(諦めたから、だから)
もう、いい。
「好きだよ」
甲洋は言った。抽送の合間に、操の耳たぶに鼻先を押しつけて。
自分の気持ちを疑うことに疲れてしまった。本当は誰でもよかった。だけどきっと、そうじゃない。都合がよくたっていい。狡くたっていい。後付けだって構わない。だってこんなに好きだ。この子でよかったと、甲洋の心と身体は、こんなにも喜んでいる。
「好きだ、来主……好きだよ……好きに、なったんだ……」
操の身体がビクリと跳ねて、甲洋を食んでいる秘所がさらにきゅうっときつく締まった。
彼は赤かった全身をもっともっと染め上げて、甲洋の顔を間近に見ながら唇を戦慄かせる。
「来主に会えて、よかった」
多分きっと最初から、依存していたのは甲洋だった。
依存されることに依存していた。それはとても愚かなことで、だけどこのまま、変わることなんかできないのかもしれない。
だけど操が許すなら。許してくれるなら。甲洋はこの愛を、信じてみたかった。
「うん……おれも嬉しいよ。甲洋に会えたこと」
こんな幸せを、甲洋は知らない。
受け止めきれなくて、内側から溢れ出してしまいそうだった。だけど一滴も手放したくなくて、全部この身体に注ぎ込みたいと思った。嬉しい。嬉しい。もうなにも、言葉にならない。
「あッ! ふぁ……っ!」
操を抱いたまま、甲洋は体勢を変えるとベッドにその身を押し倒す。両足をギリギリまで開かせて、体重をかけながら奥まで突き上げると、深く身体を折られた操の腰がシーツからすっかり浮いた状態になった。
「ひッ、ぃ! あッ、あう、ぁ……っ、ふか、い! こうよ、深い、よぉ……!」
シャツ越しに操が背中に爪を立てる。性急にことを進めてしまったせいで、その薄い布越しの感覚にもどかしさを覚えた。
大きく身体を揺さぶるたびに、操の小さな屹立が揺れる。先走りの蜜がとろとろと零れて腹を伝い、胸のあたりまでたくし上げられているシャツまでしっとりと濡らしていった。
快感の痺れが背筋を這い上がり、頭の天辺まで響き渡る。なにも考えられなくなって、急いたように動物めいた息だけが大きくなっていく。
「う、ッ、ぁ、来主……、来主、いく……ぁっ、出したい、ナカ、に」
色づいた全身をぶるぶると震わせながら、操は何度も首を縦に振った。甲洋の腰に絡みつく、柔らかな腿が痙攣している。
操の赤い屹立を手のひらですっぽり包み込むと、ぐちぐちと水音を立てながら小刻みに扱いた。前と後ろを同時に責められ、操の唇から打ち据えられた子犬のような悲鳴があがる。目がくらみそうになるほどの興奮に甲洋もまた小さく喘いで、絡みつく肉壁に逆らいながら奥を突く。
焼け爛れそうな熱に、頭の中が白く染まった。
「あぁッ、こうよ、甲洋……っ、ぁう、ぁ、あぁ──……ッ!」
同時に飛沫をあげながら、ぎゅうと強く抱き合って震えた。早鐘をうつ鼓動が、荒々しい息が、もうどちらのものか分からないくらい、ひとつに溶け合っているのを感じる。
長く尾を引くような絶頂に、目の前で星がキラキラと舞い踊っていた。怖いくらい、気持ちがいい。操はか細い声で喘ぎながら、甲洋の迸りを全て薄い臓腑に受け止める。
「こう、よ」
ふやけた声で甲洋の名を呼びながら、操のしっとりと汗ばむ両腕が甲洋の頭を抱きかかえ、癖のある焦げ茶を梳かすように何度も撫でた。
ふと、抱かれているのは俺のほうだと、甲洋は思った。守られているような安堵すら込み上げて、自分より身体の小さな少年の腕のなかで、甲洋はまた少し泣いてしまった。
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甲洋が知らない、操の話。
ひとつひとつ紡がれるたびに感情と共に溢れる涙は、薄ぼんやりとした部屋の中で星屑のようにキラキラと煌めいている。
その美しさに呆然としながら、甲洋は今まで一騎や真矢が言いかけていた言葉の先が、なんとなく想像できたような気がした。
彼は拙い反発心から甲洋に興味を抱いた。
甲洋のことが気になって、総士と一騎だけに留まらず、島中の人に話を聞いて回っていた。そしてその中には、あの両親さえも含まれていたのだ。
──あのね甲洋
朝、カウンター席で並んで朝食を食べたあと。
寂しいのかと聞いてきた操に、甲洋はキスをして、寂しくないよとまた嘘をついた。
それでも彼はほっとした顔を見せ、それから、なにかを言いかけていた。
──おれ、前にね、ここで君の
あの場所で、操は甲洋の孤独に触れていたのだ。
だからあんなに心配そうに、不安そうに問いかけてきた。甲洋を愛さなかったひとたちがいたあの場所で、甲洋を愛しながら、寄り添おうとしていた。
けれど甲洋は嘘をついた。寂しかった。独りでいるよりもずっと、あのときの甲洋は孤独を感じていた。だって明日にはもう、この子はいないのだと思っていたから。ありのままの自分を好いてくれる人間など、どこにもいないのだと思っていたから。
だから気づけなかった。
本当は、もうずっと前から求めていたものが傍にあったということに。
甲洋は真実の愛が欲しかった。
だけどきっと、そんなものが本当にこの世界に存在するなんて、信じていなかったのは甲洋自身だったのかもしれない。
「あのね、好きなひとしか触っちゃダメって言ったの……あれはね、おれのこと好きじゃないひとは、触っちゃダメって意味だったんだよ」
操は耳の際まで真っ赤にしながら、俯いてもじもじと肩を揺らした。
「だっておれは、甲洋に嫌われることばかりしてたもの」
白い手を握りしめ、彼は子供っぽくグイッと涙を拭った。そんなに乱暴にこすったら腫れてしまう。だけど甲洋は喉が詰まったようになっていて、なにも言うことができなかった。
「最初にちゃんと好きって言えなくて……ごめん」
ひたむきに想いを告げる姿に、胸が張り裂けそうになる。
そこにいるのは初恋に頬を染める少年で、甲洋はこれを平然と穢したのだ。すでに消えない傷を負っている彼の身体を、心を、大事に守っていた場所を暴いて、その尊厳を踏み散らかした。
「でも、初めてだったから……ああいうことするのも、誰かをこんなふうに好きになるのも、おれ、初めてだったから……なんて言ったらいいか、わかってなかった。怖かったし、痛かったし、恥ずかしかったから……」
せっかく拭った瞳から、操はまた涙を流した。何度も鼻をすすっているのを見て、甲洋はどうしたらいいか分からなくなる。ただ身体が震えていた。
未だになにひとつ言葉を発せないまま、衝動的にその身体を引き寄せて、強く抱きしめる。
「こ、こうよ」
「……ごめん」
それしか言えなかった。
「ごめん、来主……ごめん……ごめんな……」
もうなにに対しての謝罪なのか分からないくらい、甲洋は操の肩に目元を押しつけ、そればかりを繰り返した。声は濡れて、酷く掠れて上ずっていた。
甲洋はこの純粋な少年の心を、身体を、たくさんたくさん傷つけた。自分の孤独を埋められさえすればそれでよかった。そこにある痛みも、生まれたばかりだった淡い感情も、なにひとつ知らないで。
それでも彼はしなやかな両腕を甲洋の背に回し、力いっぱい抱き返してくる。
「ねぇ、おれは甲洋が好きだよ。君がどんなに酷いやつでも、ちゃんと好きだよ。嫌なことなんかなにもなかった。だから甲洋……嘘にしないで。全部ほんとのことにしちゃえばいいよ。おれには甲洋しかいないって、もういちど言ってよ」
おれのこと嫌いでもいいからと、操は言った。
「だって、そうじゃなきゃ、おれの気持ちまで嘘になっちゃう。そんなの、やだよ」
甲洋は止めどなく溢れる涙に歯を食いしばり、緩く首を振る。
だってそんなの、あんまりだ。
「俺、は」
あまりにも、狡いではないか。
「俺は、ただ怖くて……否定されたことが、怖くて……」
「うん……」
「思い通りになるなら、きっと誰でも、よかったんだ……お前が特別だったからじゃ、ない……他の誰が相手でも、俺はきっと、同じことをしたんだよ……」
「……うん」
「そんなの、ずるいだろ……? お前なんかどうでもいいって……思い通りにならないなら、傷つけたっていいって……傷つけてでも、欲しいだなんてさ……」
泣き方を知らない子供のように、甲洋は言葉を詰まらせながら心の中身をぶちまける。
「こんな気持ち、間違ってるだろ? 許せないだろ? こんな俺が今さら……今さらお前のことが好きなんて、そんなの……」
操は泣いている甲洋の頭をゆるりと撫でながら「うん」と小さく頷いた。
「……それじゃあやっぱり、君にはおれしかいないんだ」
「ッ、……?」
操は甲洋の頬を両手で包み込むと、そっと肩から引き離す。真っ赤な目をして泣いている顔を見て、涙目で笑うと額同士をくっつけた。
「君みたいなやつ、なんて言うか知ってるよ。めんどくさいんだ。こんなのを好きでいられるなんて、きっとおれしかいないでしょ?」
「くるす……」
「だから甲洋には、おれしかいない」
抗毒血清。
「おれしかいないんだよ」
少しずつ、少しずつ身体を蛇の毒で侵していって、中和するための抗体を作る。
操は、甲洋の毒を喰ってしまった。
喰らいつくして、嘘を真実に、変えてしまったのだ。
*
「好きだよ甲洋……ねぇ、大好き……ぁ、こう、よ」
甘く上ずった声が甲洋の名を呼んで、喘ぎながら、何度も好きと繰り返す。
それは甲洋の芯に深く爪を立てるように絡みついて、熱く、柔らかく、蕩けさせていった。
「あッ、痛い……こぉよ……あぁ、ぁ……痛い、よぉ……」
甲洋は下から操を貫いていた。あのあと夢中でキスをして、服すら満足に脱がないままに、繋がった。
愛撫もそこそこに、ただ薄っすらと滲んだ互いの体液だけを頼りに。まだ解れきっていない大事な場所をこじ開けて、揺さぶっている。
甲洋は痛みを一身に受ける操の身体を掻き抱いて、操は甲洋の首にしがみついて、汗を振りまきながら互いを貪り合っていた。ベッドが軋み、換気をしていない室内は性の匂いで蒸している。
「ごめん、来主……ぁ、ッ、ごめん、ごめ、ん」
性急な行為に悲鳴をあげる身体を、甲洋は欲望のままに幾度も突き上げた。優しくしたいのに、その首筋に顔を埋めながら、それでも腰が止まらない。
操のなかは熱く甲洋を締めつけて、鈍い水音を響かせながらさらに奥へと誘い込もうとしているようだった。ずん、ずん、と衝撃を与えるたび、甲洋の上に跨る身体が大きくしなる。
彼は泣きながら笑い、首を振りながら「いいよ」と言った。
「許すから……ぁ、う、甲洋のこと、許すから……」
──許すから。
ああ、きっと、甲洋の嘘が毒ならば、彼の言葉は魔法のようだ。
甘く拙く、とろとろに煮込んだ果実に、幾つも幾つも角砂糖を放り込んでいくような。喉が焼けるほどの甘味もまた、きっと毒であることに違いない。
操の魔法は、甲洋の心を真綿でそっと締め上げる。痛苦しさの中に生まれて初めて安らぎを覚えた甲洋は、涙を流しながら自分自身と向き合った。
(父さん母さん……ごめんなさい……)
甲洋はずっと許されたかった。
そこにいることを許されたかった。
どうか否定しないで。どうかどうか、俺を愛して。
そんなふうにいつまでも求め続ける自分を、許してほしかった。
島を出たのも、本当は引き止めてほしかったからだ。
父から初めて電話がきたとき、そろそろ帰って来いと、そう言ってくれるのではないかと期待した。
戻ってきたのは、いつかふたりが帰ってくるかもしれないと思ったから。
この店を守っていれば、そのうちひょっこり顔を出して、また最初からやり直そうと言ってくれるかもしれないと。
今までよくやったなと、立派になったなと、褒めてほしかった。
(ずっと諦められなくて、ごめんなさい)
だけどその未練を、期待を、甲洋は操を抱きながら手放した。
(諦めたから、だから)
もう、いい。
「好きだよ」
甲洋は言った。抽送の合間に、操の耳たぶに鼻先を押しつけて。
自分の気持ちを疑うことに疲れてしまった。本当は誰でもよかった。だけどきっと、そうじゃない。都合がよくたっていい。狡くたっていい。後付けだって構わない。だってこんなに好きだ。この子でよかったと、甲洋の心と身体は、こんなにも喜んでいる。
「好きだ、来主……好きだよ……好きに、なったんだ……」
操の身体がビクリと跳ねて、甲洋を食んでいる秘所がさらにきゅうっときつく締まった。
彼は赤かった全身をもっともっと染め上げて、甲洋の顔を間近に見ながら唇を戦慄かせる。
「来主に会えて、よかった」
多分きっと最初から、依存していたのは甲洋だった。
依存されることに依存していた。それはとても愚かなことで、だけどこのまま、変わることなんかできないのかもしれない。
だけど操が許すなら。許してくれるなら。甲洋はこの愛を、信じてみたかった。
「うん……おれも嬉しいよ。甲洋に会えたこと」
こんな幸せを、甲洋は知らない。
受け止めきれなくて、内側から溢れ出してしまいそうだった。だけど一滴も手放したくなくて、全部この身体に注ぎ込みたいと思った。嬉しい。嬉しい。もうなにも、言葉にならない。
「あッ! ふぁ……っ!」
操を抱いたまま、甲洋は体勢を変えるとベッドにその身を押し倒す。両足をギリギリまで開かせて、体重をかけながら奥まで突き上げると、深く身体を折られた操の腰がシーツからすっかり浮いた状態になった。
「ひッ、ぃ! あッ、あう、ぁ……っ、ふか、い! こうよ、深い、よぉ……!」
シャツ越しに操が背中に爪を立てる。性急にことを進めてしまったせいで、その薄い布越しの感覚にもどかしさを覚えた。
大きく身体を揺さぶるたびに、操の小さな屹立が揺れる。先走りの蜜がとろとろと零れて腹を伝い、胸のあたりまでたくし上げられているシャツまでしっとりと濡らしていった。
快感の痺れが背筋を這い上がり、頭の天辺まで響き渡る。なにも考えられなくなって、急いたように動物めいた息だけが大きくなっていく。
「う、ッ、ぁ、来主……、来主、いく……ぁっ、出したい、ナカ、に」
色づいた全身をぶるぶると震わせながら、操は何度も首を縦に振った。甲洋の腰に絡みつく、柔らかな腿が痙攣している。
操の赤い屹立を手のひらですっぽり包み込むと、ぐちぐちと水音を立てながら小刻みに扱いた。前と後ろを同時に責められ、操の唇から打ち据えられた子犬のような悲鳴があがる。目がくらみそうになるほどの興奮に甲洋もまた小さく喘いで、絡みつく肉壁に逆らいながら奥を突く。
焼け爛れそうな熱に、頭の中が白く染まった。
「あぁッ、こうよ、甲洋……っ、ぁう、ぁ、あぁ──……ッ!」
同時に飛沫をあげながら、ぎゅうと強く抱き合って震えた。早鐘をうつ鼓動が、荒々しい息が、もうどちらのものか分からないくらい、ひとつに溶け合っているのを感じる。
長く尾を引くような絶頂に、目の前で星がキラキラと舞い踊っていた。怖いくらい、気持ちがいい。操はか細い声で喘ぎながら、甲洋の迸りを全て薄い臓腑に受け止める。
「こう、よ」
ふやけた声で甲洋の名を呼びながら、操のしっとりと汗ばむ両腕が甲洋の頭を抱きかかえ、癖のある焦げ茶を梳かすように何度も撫でた。
ふと、抱かれているのは俺のほうだと、甲洋は思った。守られているような安堵すら込み上げて、自分より身体の小さな少年の腕のなかで、甲洋はまた少し泣いてしまった。
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08
部屋につくなり、操は机の上のライトだけを乱暴に灯すと甲洋をベッドに突き飛ばし、その上に馬乗りになった。
「お、おい来主!?」
激しい動揺にさらされながら、どうしてか自分より一回りも小さな身体を跳ね除けることができない。どこか煮え切らない抵抗の隙をつき、操は甲洋の両肩を掴んで押さえつけるようにすると首筋に顔を埋めてくる。
「ッ、くる、す!」
「甲洋……こうよう……」
操は時おり甲洋の名を呼びながら、耳やその裏側、首筋から鎖骨にかけてに唇を這わせた。
その愛撫は性的というよりも、じゃれつく子猫が加減も分からず噛みついてくるような、そんな拙さばかりを感じさせる。
なにが彼をこうまで駆り立てているのか。必死な様子に困窮しながらも、幼い欲動に引きずられそうになる。だがこれ以上流されるわけにはいかないと、甲洋は操の両肩を掴んでその身を強引に引き剥がした。
「やめろって、来主!」
ひどく傷ついた表情で、操が甲洋を見る。瞳には涙が浮かび、赤くなった唇はほんのりと濡れて艶めいていた。
甲洋は身を起こすと、操を膝に乗せたまま緩く首を左右に振った。
「お前、自分で言ったんだぞ。こういうことは、好きな人としかしちゃダメなんだって。俺は……違うだろ?」
さんざん無体をしておいて今さらのような気がするが、甲洋には操が正気でいるようにはとても見えなかった。
彼の心は歪な支配からすでに開放されているはずではないのか。それなのにどうしてか、操はムキになったように甲洋を求めようとする。
「お前は、俺のことが嫌いだろ?」
だからどうして操がこんなにも悲しそうな顔をしているのかも、甲洋には分からない。
「嫌いなんて、言ってない。好きじゃないって、言ったんだ」
「……それは嫌いなのと、どう違うの?」
「ぜんぜん違う!」
操は机に手を伸ばし、例のブックカバーがされた本を取った。中から写真を引き抜くと、甲洋の胸に押しつける。
見てもいい、ということか。あれだけ頑なに見せたがらなかった写真を。操の意図は未だに理解できないが、甲洋は恐る恐る写真を手にするとひっくり返して表を見た。
そして、見開いた目を瞬かせる。
そこには一騎と総士が写っていた。彼らに挟まれるようにして真ん中に写っていたのは──
「……俺?」
甲洋がいた。
それは船の甲板で三人で撮ったものだった。高校卒業後、島を出るときに写した一枚だ。
思わず操を見た。彼は伏せていた顔を上げると、おずおずと甲洋を見上げる。
「嘘は、ついてないよ。総士と一騎は、おれの家族だもの」
「……なんで、お前がこれを?」
「君が写ってるからだよ」
操が頬を赤くする。甲洋はまだ彼が言わんとしていることを理解できないでいた。頭が混乱している。なぜ操はこんなものをわざわざ持ち歩いていたのだろう。元々は甲洋が所持していた本に挟んで、甲洋が写っている写真を、後生大事に。
何を言えばいいか分からないでいると、操が焦れたように睨みつけてくる。
「ずっと好きだったんだよ! なんでわかんないの!?」
ぽかん、と口を開ける。なぜ分からないのかなんて聞かれても、分かるはずがないだろうとしか言えない。
操は甲洋の写真を持っていた。甲洋が島に戻る前から、甲洋が操の存在すら知らなかった頃から、ずっと。
「好き、だった……?」
「そうだよ」
「お前が、俺を? なぜ?」
呆然としながら問いかける。操はぐっと眉を釣り上げたまま、それでもどこか躊躇いがちに唇を震わせた。
「最初は、多分、本当に好きじゃなかったよ。気に入らなかったんだと思う。君のこと。だって初めて総士から君の名前を聞いたとき、総士が、一騎が……すごく優しい顔をしたから」
操はゆっくりと、甲洋が知らない彼自身のことを語りはじめた。
*
春日井甲洋の存在を知ったのは、操が島へ移住して一年が経った頃だった。
ある日、操は総士の部屋で一冊のアルバムを見つけた。
そこには自分が知らない頃の総士や、一騎たちの姿が写っていた。
子供の頃から比較的最近のものまで、興味深くページをめくっていると、それに気づいた総士が隣で一緒にアルバムを見はじめた。
「懐かしいな」
そう言って、総士はポツポツと思い出話を聞かせてくれた。そこで初めて、春日井甲洋という人物の名前を知ったのだ。
そのひとは一騎と特に仲がよく、確かに言われてみれば一緒に写っていることが多かった。
誰にでも分け隔てなく親切で、優しく穏やかな人格者だったと総士は言った。もう何年も会っておらず、同級生の多くが島に帰ってきているなか、彼だけはずっと外に飛び出していったまま、一度も戻っていないのだと。
懐かしそうに目を細め、総士はふと思い立ったように本棚から一冊の本を取り出した。
甲洋は天才的な記憶力の持ち主だった。たった一度読んだだけの本を、一語一句違わず丸暗記するほどだったのだと、そう言いながら操に手渡してきた。
それは甲洋が今の操と同じ歳の頃、総士にくれたものだという。
本には英語がぎっしりと詰まっていて、見ているのも嫌になるほどだった。なんだか、胸がモヤモヤした。
それから操は、なんとなく一騎にも甲洋のことを聞いてみた。
すると彼は総士と同じように懐かしそうな顔をしながら、甲洋との思い出を語りはじめた。
ビックリするほど頭がよくて、いつも笑顔で、誰にでも優しいやつだったと、一騎は言った。怒った顔など一度も見たことがないのだと。
あいつ、怒ったことなんかあるのかな? なんて言って、最後には首を傾げていた。
そんなこと操が知るはずはない。だって会ったこともなければ、名前すら聞いたことがなかったのだから。
操はなぜかとても不安になった。
もしこの人が島に戻ってきたら、自分の居場所がなくなるのではないか。大好きな一騎と総士を、甲洋にとられてしまうのではないか。
あのふたりはいつも優しい。だけど甲洋の話をするときの顔は、もっともっと瞳が柔らかくなっているような気がして。どうしようもなく、ヤキモチを焼いてしまったのだ。
*
その日からずっと、春日井甲洋という人のことが頭から離れなくなった。
いてもたってもいられなくなって、操は色んな人に甲洋の話を聞いて回った。誰か一人くらいは、悪く言う人がいるかもしれない。なにかひとつでも彼の欠点を知ることができたなら、このモヤモヤとした不安が少しは解消されるような気がして。
けれど真矢も、剣司も、咲良も。島の人達はみんな、誰ひとりとして甲洋を悪く言う者はいなかった。
彼らはみな口を揃えてこう言うのだ。
頭がよくて、優しくて、いつも笑っている。
誰にでも親切で、穏やかで、怒ったところを見たことがない。
女の子にも人気があるのに、ぜんぜん嫌味がなくて、男子からもよく好かれていたと。
操はだんだん、本当にそんな完璧な人間がいるのだろうかと疑問を抱くようになった。だってそんなの、まるでアニメや漫画に出てくる架空の人物のようではないか。
春日井甲洋という人は、そのくらい現実味に欠ける存在に思えた。
*
あるとき、操は甲洋の実家である喫茶【楽園】に足を運んでみることにした。
島にある数少ない飲食店にも関わらず、操はこの店にまだ一度も来たことがなかった。
なにせ皆城家には一騎が頻繁に出入りしているのだ。彼は高校を卒業してすぐに島を出ると、飲食店に勤めながら調理師免許を取得したプロの料理人なのである。
島に戻ってからは父親が営む器屋を手伝い、土いじりをしながら総士と操の世話をなにかと焼いてくれていた。
だから操がここに来るのは初めてだ。そもそも一人で飲食店に入るという行為が初めてで、少し緊張しながら扉を開く。
店内はガラリとしており、自分以外に客の姿はない。戸惑いながら店の奥に目をやると、そこには甲洋の両親の姿があった。
カウンター席でまだ日も沈まないうちから酒を飲んでいる父・正浩と、グラスを磨いているのは母・諒子だ。
「あら、いらっしゃい」
ドアベルを鳴らして店に足を踏み入れた操に、顔を上げた諒子が平坦な声で言った。正浩は見向きもせず、グイッと酒を煽るだけだった。
操は少し怖くなったが、勇気をだしてカウンター席へ近づいた。正浩からふた席ほど空白を開けて腰掛けると、こっそりその横顔を覗き込む。
「ご注文は?」
そこで諒子が声をかけてきたので、操は思わず「わっ」と悲鳴をあげながら肩を跳ねさせた。緊張のせいか喉が詰まったようになっている。けれどどうにか「オレンジジュース」とだけ言うと、諒子は特に返事をするでもなく用意にかかった。
(……似てないな、ぜんぜん)
そう思った。ふたりとも、写真に写っていた人物とは似ても似つかない。それどころか、親切で優しい島の人たちとも、まるで雰囲気が違っているような気がする。
重たくて、冷たくて、暗い。店の中だってそうだ。ガラス張りの窓からは光が射しているはずなのに、彼らが顔を突き合わせているこのカウンター席だけは、黒いモヤがかかっているように見える。そして空気が今にも張り裂けそうなほど乾ききっていた。
「はいどうぞ」
諒子がオレンジジュースを注いだグラスを操の前に置く。ありがとう、とお礼の言葉を絞り出しながら、操は迷っていた。
甲洋の話が聞きたくてここまで来たが、なんだか話しかけてはいけないような気がした。だけどこのまま黙っていたら、わざわざ来た意味がなくなってしまう。
操は勇気をだして、再びグラスを磨きはじめた諒子に向かって問いかけてみた。
「ねぇ」
「……なにかしら?」
「甲洋ってひと、ここんちの子だよね?」
その瞬間、空気が変わった。
正浩が酒の入ったグラスをテーブルに叩きつけるようにして置いた。乾いていた空気に、いよいよヒビが入ったような。操は肩をビクリと跳ねさせる。
「……あのバカ息子がどうしたって?」
正浩が、酔っ払った赤い顔をこちらに向ける。
「あんた、皆城んとこのお坊ちゃんだろ。一年前に島に来たっていう」
「うん。そうだけど」
「そんなのが、一体あれになんの用だい」
どこか蔑むような、高圧的な物言いだった。諒子は我関せずでグラスを磨き続けている。
操はただただ驚いた。息子の名前を出しただけで、嫌な空気がもっともっと嫌なものに変わってしまった。
(この人たちは、嫌いだな……)
素直にそう感じた。
「用はないよ。ただ、どんなひとか知りたかっただけ」
操の言葉を、正浩は鼻で笑った。
「どんなひとかって? さぁな。なにを考えてるんだか、よくわからん奴だったからな」
「わからない? 自分の子供のことなのに?」
「出て行っちまった人間のことなんざ、俺たちが知るか」
正浩はグラスの中身を飲み干すと、忌々しげに「黙って店だけ継いでりゃいいもんを」と吐き捨てる。
「だったらどうして止めなかったのよ。継がせる気があったなら、あの子が島を出るのを反対すればよかったじゃない」
うんざりした様子で諒子が口を挟む。正浩は再びグラスをテーブルに叩きつけた。
「俺のせいだって言いたいのか? お前だって止めなかっただろうが!」
「止めてどうするっていうのよ!? こんな人っ子一人来やしない店、続けてたって意味ないわ!」
「なんだと!?」
口論をはじめてしまった夫婦に、操は身をすくませた。怖かった。大人同士が大声で言い合っているところなんて、生まれて初めて見たからだ。
やがて鉛のように重たい沈黙が流れるなか、聞こえるか聞こえないかの声で、今度は諒子が「薄情なものよね」と吐き捨てた。
「育ててもらった恩も忘れて、私たちを差し置いて島を出ていくなんて」
「引き取らなきゃよかったんだ。ありゃハズレだよ。必要なかったのさ」
その口ぶりから、甲洋が彼らの実の息子ではないということが窺い知れた。
(おれと一緒だ……でも、なんか違う。なんか変だ)
「ねぇ、どうしてそんなに悪く言うの……?」
この人たちは、息子を愛していないのだろうか。
彼らは操を育ててくれた人たちとはなにもかもが違う。まるで甲洋のことを悪く言うことで、どうにかバランスを保っているかのようにも見えた。
「家族なのに、せっかく家族になったのに、大事じゃないの? いなくなって、寂しくないの……?」
正浩がまた鼻で笑った。
「店が続かないんじゃ意味なんかないさ。そのためにわざわざ引き取ったんだからな」
「でも、でもさ、いい子だったんでしょ? だってみんな褒めてるよ。甲洋ってひとのこと、誰も悪く言わないよ。すごく勉強ができて、優しくて、いつも笑顔だったって」
「……あんた一体なにが言いたいんだ?」
飽き飽きしたように正浩は酒臭い息を漏らし、操に身体を向ける。
「頭がいいだって? 学費だってタダじゃないんだ。勉強くらいできて当然だろう? あいつのなにが特別だっていうんだ? それがあんたになんの関係がある?」
「それは、ない、けど……でも」
操はどうしても納得することができず、自分の中身がぐちゃぐちゃになるのを感じていた。
みんなが口を揃えて褒めるから、だから不安でたまらなかったはずなのに。甲洋にだってひとつくらいは欠点があって、一人くらいは彼を悪く言う人間がいたっておかしくないと、そう思っていたはずなのに。
(なんかおれ、すごく……嫌なやつだ……)
自分が安心したいから、甲洋のマイナス部分を探りたかった。居場所をとられたくなかった。だけど甲洋には最初から、どこにも居場所なんかなかったのかもしれない。
「ハズレなんかじゃないよ」
やり場のない感情が込み上げて、膝の上で握りしめた拳を震わせた。
正浩と諒子が険のある眼差しを向けてくる。それでも構わず、操は続けた。
「おれだって、きっと同じことをするよ。ここにいても悲しいだけで、ちっとも嬉しくない。甲洋はきっとすごく……寂しかったんだよ」
*
それから操はポケットに入れていた五百円玉をテーブルに置いて、お釣りも受け取らずに店を出た。オレンジジュースには、ひとくちも口をつけないまま。
帰り道をトボトボと歩きながら、泣きたくなって空を仰いだ。茜色がさしはじめる空は綺麗で、だけどどんどん滲んでいった。
自分を育ててくれた人たちに会いたいと思った。もうどこにもいないと分かっているのに、家は全て焼けてしまったのに、今は無性に帰りたい。
どうしてこんなに違うんだろう。血の繋がらない家族でも、操はとても幸せだった。
みんなでいつも笑っていた。操を中心に世界が回っているようだった。なにをしても喜んでくれたし、どんなイタズラも許してくれた。
理不尽だ。優しかった人たちが生きられなかったこの世界に、子供を愛せない人たちがああして罵り合いながら存在している。
逆だったらよかったのにと、そんなこと、きっと思っちゃいけないのに。自分が嫌で、もっともっと悲しくなった。
あの人たちがいる限り、きっと甲洋は帰って来ない。操に分かるのはそれだけだった。
空を見上げてこんなに悲しい気持ちになったのは初めてで、操は会ったこともない人のことを思いながら、ぽろぽろと涙を零した。
*
泣きながら家に帰ると、一騎は目を丸くした。
楽園に行ったとだけ言うのがやっとの操に、彼はただ一言「そっか」と言って、手作りのプリンを冷蔵庫から出してくれた。
「昔はさ、繁盛してたんだ、あの店。俺も父さんと飯を食いに、よく行ったよ」
まだ甲洋がいたころ、一騎は父・史彦と一緒に楽園で食事をすることが多かった。それがきっかけで、甲洋とよく話すようになったのだと言って、一騎は懐かしそうに目を細めて笑った。
ここからは彼も聞きかじった程度だそうだが、甲洋が島を出てからというもの、客足はどんどん伸び悩んでいったのだという。
正浩は客がいてもお構いなしに酒を飲み、その勢いで諒子とよく口論になっていた。
そんな店にわざわざ足を運びたいと思う人間などいないだろう。いつしか常連客にすら見限られ、今ではああして閑古鳥が鳴く有様になっているのだと。
一騎プリンを食べたあと、操は総士の部屋に勝手に入った。
またあのアルバムを取り出して、机に向かうと一ページずつめくっていく。
今よりずっと幼い顔をしている一騎と総士が可愛くて、操の顔に少しだけ笑顔が戻る。だけどふと、気がついた。
(……甲洋だけは、同じ顔)
まるで機械で正確に型抜かれた板を貼り付けたみたいだ。
どのページのどの写真を見ても、幼い頃から甲洋の笑顔は変わらない。操には、それがだんだん笑っているようには見えなくなっていった。
笑っているのに、笑っていない。どうしてか、そう感じられたのだ。
だけどそのなかに、一枚だけ雰囲気の異なる写真があった。
一騎と甲洋と、総士が三人で並んで写っている。背景は海で、船の甲板と思しき場所で三人は笑みを浮かべていた。
けれどそこに写っている甲洋だけは、その他の写真とは少し違った表情を見せているような気がした。
笑顔でいることに代わりはない。だけどどこか寂しさを隠しきれていないように、操の目には映ったのだ。
それこそが彼の生身の表情であるような気がして、操は思わずアルバムからその写真を抜きとっていた。
操はそれを総士からもらった本に挟んで、時折こっそり眺めるようになった。
春日井甲洋。このひとは、今どこでどうしているんだろう。
もしいつか彼が帰ってくる日が来たとして。そのとき自分はどう感じるのだろう。優しくていい人だと、甲洋の貼り付けた綺麗な笑顔を見て、皆が抱くのと同じ感想を抱くのだろうか。
なぜか想像ができなくて、だけど甲洋のことを考えながら眠る夜は、不思議と夢も見ずに朝まで眠ることができた。
*
それから一年──。
春日井夫婦が島を出てから間もなくして、甲洋が帰ってきた。
彼はやっぱりあの笑っているのに笑っていない、綺麗な笑顔を操に向けた。操はなぜだか、それを無性に腹立たしいと感じてしまった。
アルバムの中の甲洋が、いつも同じ顔をしていたように。このひとの目に映る自分も、その他大勢と同じ顔をしているのかもしれない。それがどうしても、嫌だったのだ。
「総士、おれこの人あまり好きじゃない」
だから操は、感じたことをそのまま口に出してしまっていた。
甲洋は平気そうな顔で笑っていたけれど、きっと傷ついている。分かっているのに、操はそのあとも彼に心を開くことができなかった。
どんなに気を使われても、優しくされても、皆が口を揃えて言うようには、どうしても思えなかった。いや、思いたくなかったのだ。
だってそんなことをすれば、きっと自分は彼の中の『その他大勢』になってしまう。そんな気がして。
操は甲洋のことが気になって仕方がなかった。きっとずっと、初めて彼に興味を持ったときから、操の中では何かが特別だったのだと思う。だから自分のことも、特別に思ってほしかった。
あまりにも子供っぽい我儘だ。どうしてそんなふうに思ってしまうのかも分からない。
自分の気持ちなのにちっとも理解できなくて、思い通りにならないことに腹が立って、また甲洋を傷つけて。わざわざ嫌われるような態度しかとることができなかった。
そしてあの夜。
──総士に言いつけてやろうか?
操の世界はひっくり返った。
もう後戻りできないところまで、なにかが音を忍ばせ、狂いはじめた。
──来主は、俺のことが嫌いだったね。
あの浴室で、初めて身体を暴かれたとき。
操はそこで、ようやく気づいた。
(違う、そうじゃない。そうじゃなくて……)
冷たく凍ったように怒りを顕にする甲洋はとても怖くて、そこには皆がいう優しくて穏やかな青年はいなかった。
怖かった。甲洋の言葉が。声が。その指先の動きひとつひとつさえも。怖くて怖くて──だけど本当は、どこかで喜んでいたのかもしれない。
だってそれは、誰も見たことがない顔だったから。自分しか知らない、甲洋の素顔だったから。
けれど気づいたときには、操も、きっと甲洋も、どこかおかしくなっていた。
狭い浴室。立ち込める湯気。どこにも逃がすことができない熱。反響する水音に耳鳴りが重なり、目の前がチカチカと明暗を繰り返していた。
自分じゃない誰かが、身体のなかに入ってくる感覚。痛くて、つらくて、苦しみだけが世界の全てのように思えてくる。
──俺しかいないよ。
そして抑圧された操の心は、なにが正常でなにが異常なのか、もう判断がつかなくなっていた。
──来主には、もう俺しかいない。
このひとは、怖い。
怖くて酷くて、悲しいひとだ。だけどきっと、その心は操とよく似た形をしている。
独りぼっちになるのは嫌だ。置いていかれるのは嫌だ。寂しいのは、もう嫌だ。
ひどく追いつめられながら、それでもこのとき、操は彼でよかったと心の底からそう思った。ふたりぼっちになるのなら、このひとと一緒がいい。
だってあのとき操が言いたかったのは、本当に伝えたかったのは、好きじゃないなんて言葉じゃなくて。
(好きって、言いたかったんだ)
初めて同じベッドで目を覚ました朝。
隣で眠る甲洋の寝顔を見つめながら、ふと彼を想って見上げた空を思いだした。
このひとは、自分のために操が泣いたことを知らない。このさき流す涙もすべて、きっと甲洋のためのものになるのだろうと、操は漠然とそう感じていた。
泣くのは苦しい。痛くて、つらい。だけどこのひとのために泣くのなら、それもいいのかもしれないなんて。
その頬を指先でなぞりながら、操は茜色の空を見上げて流した、あの涙の意味に気がついた。
おれは、このひとの『居場所』になりたかったのだ、と──。
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部屋につくなり、操は机の上のライトだけを乱暴に灯すと甲洋をベッドに突き飛ばし、その上に馬乗りになった。
「お、おい来主!?」
激しい動揺にさらされながら、どうしてか自分より一回りも小さな身体を跳ね除けることができない。どこか煮え切らない抵抗の隙をつき、操は甲洋の両肩を掴んで押さえつけるようにすると首筋に顔を埋めてくる。
「ッ、くる、す!」
「甲洋……こうよう……」
操は時おり甲洋の名を呼びながら、耳やその裏側、首筋から鎖骨にかけてに唇を這わせた。
その愛撫は性的というよりも、じゃれつく子猫が加減も分からず噛みついてくるような、そんな拙さばかりを感じさせる。
なにが彼をこうまで駆り立てているのか。必死な様子に困窮しながらも、幼い欲動に引きずられそうになる。だがこれ以上流されるわけにはいかないと、甲洋は操の両肩を掴んでその身を強引に引き剥がした。
「やめろって、来主!」
ひどく傷ついた表情で、操が甲洋を見る。瞳には涙が浮かび、赤くなった唇はほんのりと濡れて艶めいていた。
甲洋は身を起こすと、操を膝に乗せたまま緩く首を左右に振った。
「お前、自分で言ったんだぞ。こういうことは、好きな人としかしちゃダメなんだって。俺は……違うだろ?」
さんざん無体をしておいて今さらのような気がするが、甲洋には操が正気でいるようにはとても見えなかった。
彼の心は歪な支配からすでに開放されているはずではないのか。それなのにどうしてか、操はムキになったように甲洋を求めようとする。
「お前は、俺のことが嫌いだろ?」
だからどうして操がこんなにも悲しそうな顔をしているのかも、甲洋には分からない。
「嫌いなんて、言ってない。好きじゃないって、言ったんだ」
「……それは嫌いなのと、どう違うの?」
「ぜんぜん違う!」
操は机に手を伸ばし、例のブックカバーがされた本を取った。中から写真を引き抜くと、甲洋の胸に押しつける。
見てもいい、ということか。あれだけ頑なに見せたがらなかった写真を。操の意図は未だに理解できないが、甲洋は恐る恐る写真を手にするとひっくり返して表を見た。
そして、見開いた目を瞬かせる。
そこには一騎と総士が写っていた。彼らに挟まれるようにして真ん中に写っていたのは──
「……俺?」
甲洋がいた。
それは船の甲板で三人で撮ったものだった。高校卒業後、島を出るときに写した一枚だ。
思わず操を見た。彼は伏せていた顔を上げると、おずおずと甲洋を見上げる。
「嘘は、ついてないよ。総士と一騎は、おれの家族だもの」
「……なんで、お前がこれを?」
「君が写ってるからだよ」
操が頬を赤くする。甲洋はまだ彼が言わんとしていることを理解できないでいた。頭が混乱している。なぜ操はこんなものをわざわざ持ち歩いていたのだろう。元々は甲洋が所持していた本に挟んで、甲洋が写っている写真を、後生大事に。
何を言えばいいか分からないでいると、操が焦れたように睨みつけてくる。
「ずっと好きだったんだよ! なんでわかんないの!?」
ぽかん、と口を開ける。なぜ分からないのかなんて聞かれても、分かるはずがないだろうとしか言えない。
操は甲洋の写真を持っていた。甲洋が島に戻る前から、甲洋が操の存在すら知らなかった頃から、ずっと。
「好き、だった……?」
「そうだよ」
「お前が、俺を? なぜ?」
呆然としながら問いかける。操はぐっと眉を釣り上げたまま、それでもどこか躊躇いがちに唇を震わせた。
「最初は、多分、本当に好きじゃなかったよ。気に入らなかったんだと思う。君のこと。だって初めて総士から君の名前を聞いたとき、総士が、一騎が……すごく優しい顔をしたから」
操はゆっくりと、甲洋が知らない彼自身のことを語りはじめた。
*
春日井甲洋の存在を知ったのは、操が島へ移住して一年が経った頃だった。
ある日、操は総士の部屋で一冊のアルバムを見つけた。
そこには自分が知らない頃の総士や、一騎たちの姿が写っていた。
子供の頃から比較的最近のものまで、興味深くページをめくっていると、それに気づいた総士が隣で一緒にアルバムを見はじめた。
「懐かしいな」
そう言って、総士はポツポツと思い出話を聞かせてくれた。そこで初めて、春日井甲洋という人物の名前を知ったのだ。
そのひとは一騎と特に仲がよく、確かに言われてみれば一緒に写っていることが多かった。
誰にでも分け隔てなく親切で、優しく穏やかな人格者だったと総士は言った。もう何年も会っておらず、同級生の多くが島に帰ってきているなか、彼だけはずっと外に飛び出していったまま、一度も戻っていないのだと。
懐かしそうに目を細め、総士はふと思い立ったように本棚から一冊の本を取り出した。
甲洋は天才的な記憶力の持ち主だった。たった一度読んだだけの本を、一語一句違わず丸暗記するほどだったのだと、そう言いながら操に手渡してきた。
それは甲洋が今の操と同じ歳の頃、総士にくれたものだという。
本には英語がぎっしりと詰まっていて、見ているのも嫌になるほどだった。なんだか、胸がモヤモヤした。
それから操は、なんとなく一騎にも甲洋のことを聞いてみた。
すると彼は総士と同じように懐かしそうな顔をしながら、甲洋との思い出を語りはじめた。
ビックリするほど頭がよくて、いつも笑顔で、誰にでも優しいやつだったと、一騎は言った。怒った顔など一度も見たことがないのだと。
あいつ、怒ったことなんかあるのかな? なんて言って、最後には首を傾げていた。
そんなこと操が知るはずはない。だって会ったこともなければ、名前すら聞いたことがなかったのだから。
操はなぜかとても不安になった。
もしこの人が島に戻ってきたら、自分の居場所がなくなるのではないか。大好きな一騎と総士を、甲洋にとられてしまうのではないか。
あのふたりはいつも優しい。だけど甲洋の話をするときの顔は、もっともっと瞳が柔らかくなっているような気がして。どうしようもなく、ヤキモチを焼いてしまったのだ。
*
その日からずっと、春日井甲洋という人のことが頭から離れなくなった。
いてもたってもいられなくなって、操は色んな人に甲洋の話を聞いて回った。誰か一人くらいは、悪く言う人がいるかもしれない。なにかひとつでも彼の欠点を知ることができたなら、このモヤモヤとした不安が少しは解消されるような気がして。
けれど真矢も、剣司も、咲良も。島の人達はみんな、誰ひとりとして甲洋を悪く言う者はいなかった。
彼らはみな口を揃えてこう言うのだ。
頭がよくて、優しくて、いつも笑っている。
誰にでも親切で、穏やかで、怒ったところを見たことがない。
女の子にも人気があるのに、ぜんぜん嫌味がなくて、男子からもよく好かれていたと。
操はだんだん、本当にそんな完璧な人間がいるのだろうかと疑問を抱くようになった。だってそんなの、まるでアニメや漫画に出てくる架空の人物のようではないか。
春日井甲洋という人は、そのくらい現実味に欠ける存在に思えた。
*
あるとき、操は甲洋の実家である喫茶【楽園】に足を運んでみることにした。
島にある数少ない飲食店にも関わらず、操はこの店にまだ一度も来たことがなかった。
なにせ皆城家には一騎が頻繁に出入りしているのだ。彼は高校を卒業してすぐに島を出ると、飲食店に勤めながら調理師免許を取得したプロの料理人なのである。
島に戻ってからは父親が営む器屋を手伝い、土いじりをしながら総士と操の世話をなにかと焼いてくれていた。
だから操がここに来るのは初めてだ。そもそも一人で飲食店に入るという行為が初めてで、少し緊張しながら扉を開く。
店内はガラリとしており、自分以外に客の姿はない。戸惑いながら店の奥に目をやると、そこには甲洋の両親の姿があった。
カウンター席でまだ日も沈まないうちから酒を飲んでいる父・正浩と、グラスを磨いているのは母・諒子だ。
「あら、いらっしゃい」
ドアベルを鳴らして店に足を踏み入れた操に、顔を上げた諒子が平坦な声で言った。正浩は見向きもせず、グイッと酒を煽るだけだった。
操は少し怖くなったが、勇気をだしてカウンター席へ近づいた。正浩からふた席ほど空白を開けて腰掛けると、こっそりその横顔を覗き込む。
「ご注文は?」
そこで諒子が声をかけてきたので、操は思わず「わっ」と悲鳴をあげながら肩を跳ねさせた。緊張のせいか喉が詰まったようになっている。けれどどうにか「オレンジジュース」とだけ言うと、諒子は特に返事をするでもなく用意にかかった。
(……似てないな、ぜんぜん)
そう思った。ふたりとも、写真に写っていた人物とは似ても似つかない。それどころか、親切で優しい島の人たちとも、まるで雰囲気が違っているような気がする。
重たくて、冷たくて、暗い。店の中だってそうだ。ガラス張りの窓からは光が射しているはずなのに、彼らが顔を突き合わせているこのカウンター席だけは、黒いモヤがかかっているように見える。そして空気が今にも張り裂けそうなほど乾ききっていた。
「はいどうぞ」
諒子がオレンジジュースを注いだグラスを操の前に置く。ありがとう、とお礼の言葉を絞り出しながら、操は迷っていた。
甲洋の話が聞きたくてここまで来たが、なんだか話しかけてはいけないような気がした。だけどこのまま黙っていたら、わざわざ来た意味がなくなってしまう。
操は勇気をだして、再びグラスを磨きはじめた諒子に向かって問いかけてみた。
「ねぇ」
「……なにかしら?」
「甲洋ってひと、ここんちの子だよね?」
その瞬間、空気が変わった。
正浩が酒の入ったグラスをテーブルに叩きつけるようにして置いた。乾いていた空気に、いよいよヒビが入ったような。操は肩をビクリと跳ねさせる。
「……あのバカ息子がどうしたって?」
正浩が、酔っ払った赤い顔をこちらに向ける。
「あんた、皆城んとこのお坊ちゃんだろ。一年前に島に来たっていう」
「うん。そうだけど」
「そんなのが、一体あれになんの用だい」
どこか蔑むような、高圧的な物言いだった。諒子は我関せずでグラスを磨き続けている。
操はただただ驚いた。息子の名前を出しただけで、嫌な空気がもっともっと嫌なものに変わってしまった。
(この人たちは、嫌いだな……)
素直にそう感じた。
「用はないよ。ただ、どんなひとか知りたかっただけ」
操の言葉を、正浩は鼻で笑った。
「どんなひとかって? さぁな。なにを考えてるんだか、よくわからん奴だったからな」
「わからない? 自分の子供のことなのに?」
「出て行っちまった人間のことなんざ、俺たちが知るか」
正浩はグラスの中身を飲み干すと、忌々しげに「黙って店だけ継いでりゃいいもんを」と吐き捨てる。
「だったらどうして止めなかったのよ。継がせる気があったなら、あの子が島を出るのを反対すればよかったじゃない」
うんざりした様子で諒子が口を挟む。正浩は再びグラスをテーブルに叩きつけた。
「俺のせいだって言いたいのか? お前だって止めなかっただろうが!」
「止めてどうするっていうのよ!? こんな人っ子一人来やしない店、続けてたって意味ないわ!」
「なんだと!?」
口論をはじめてしまった夫婦に、操は身をすくませた。怖かった。大人同士が大声で言い合っているところなんて、生まれて初めて見たからだ。
やがて鉛のように重たい沈黙が流れるなか、聞こえるか聞こえないかの声で、今度は諒子が「薄情なものよね」と吐き捨てた。
「育ててもらった恩も忘れて、私たちを差し置いて島を出ていくなんて」
「引き取らなきゃよかったんだ。ありゃハズレだよ。必要なかったのさ」
その口ぶりから、甲洋が彼らの実の息子ではないということが窺い知れた。
(おれと一緒だ……でも、なんか違う。なんか変だ)
「ねぇ、どうしてそんなに悪く言うの……?」
この人たちは、息子を愛していないのだろうか。
彼らは操を育ててくれた人たちとはなにもかもが違う。まるで甲洋のことを悪く言うことで、どうにかバランスを保っているかのようにも見えた。
「家族なのに、せっかく家族になったのに、大事じゃないの? いなくなって、寂しくないの……?」
正浩がまた鼻で笑った。
「店が続かないんじゃ意味なんかないさ。そのためにわざわざ引き取ったんだからな」
「でも、でもさ、いい子だったんでしょ? だってみんな褒めてるよ。甲洋ってひとのこと、誰も悪く言わないよ。すごく勉強ができて、優しくて、いつも笑顔だったって」
「……あんた一体なにが言いたいんだ?」
飽き飽きしたように正浩は酒臭い息を漏らし、操に身体を向ける。
「頭がいいだって? 学費だってタダじゃないんだ。勉強くらいできて当然だろう? あいつのなにが特別だっていうんだ? それがあんたになんの関係がある?」
「それは、ない、けど……でも」
操はどうしても納得することができず、自分の中身がぐちゃぐちゃになるのを感じていた。
みんなが口を揃えて褒めるから、だから不安でたまらなかったはずなのに。甲洋にだってひとつくらいは欠点があって、一人くらいは彼を悪く言う人間がいたっておかしくないと、そう思っていたはずなのに。
(なんかおれ、すごく……嫌なやつだ……)
自分が安心したいから、甲洋のマイナス部分を探りたかった。居場所をとられたくなかった。だけど甲洋には最初から、どこにも居場所なんかなかったのかもしれない。
「ハズレなんかじゃないよ」
やり場のない感情が込み上げて、膝の上で握りしめた拳を震わせた。
正浩と諒子が険のある眼差しを向けてくる。それでも構わず、操は続けた。
「おれだって、きっと同じことをするよ。ここにいても悲しいだけで、ちっとも嬉しくない。甲洋はきっとすごく……寂しかったんだよ」
*
それから操はポケットに入れていた五百円玉をテーブルに置いて、お釣りも受け取らずに店を出た。オレンジジュースには、ひとくちも口をつけないまま。
帰り道をトボトボと歩きながら、泣きたくなって空を仰いだ。茜色がさしはじめる空は綺麗で、だけどどんどん滲んでいった。
自分を育ててくれた人たちに会いたいと思った。もうどこにもいないと分かっているのに、家は全て焼けてしまったのに、今は無性に帰りたい。
どうしてこんなに違うんだろう。血の繋がらない家族でも、操はとても幸せだった。
みんなでいつも笑っていた。操を中心に世界が回っているようだった。なにをしても喜んでくれたし、どんなイタズラも許してくれた。
理不尽だ。優しかった人たちが生きられなかったこの世界に、子供を愛せない人たちがああして罵り合いながら存在している。
逆だったらよかったのにと、そんなこと、きっと思っちゃいけないのに。自分が嫌で、もっともっと悲しくなった。
あの人たちがいる限り、きっと甲洋は帰って来ない。操に分かるのはそれだけだった。
空を見上げてこんなに悲しい気持ちになったのは初めてで、操は会ったこともない人のことを思いながら、ぽろぽろと涙を零した。
*
泣きながら家に帰ると、一騎は目を丸くした。
楽園に行ったとだけ言うのがやっとの操に、彼はただ一言「そっか」と言って、手作りのプリンを冷蔵庫から出してくれた。
「昔はさ、繁盛してたんだ、あの店。俺も父さんと飯を食いに、よく行ったよ」
まだ甲洋がいたころ、一騎は父・史彦と一緒に楽園で食事をすることが多かった。それがきっかけで、甲洋とよく話すようになったのだと言って、一騎は懐かしそうに目を細めて笑った。
ここからは彼も聞きかじった程度だそうだが、甲洋が島を出てからというもの、客足はどんどん伸び悩んでいったのだという。
正浩は客がいてもお構いなしに酒を飲み、その勢いで諒子とよく口論になっていた。
そんな店にわざわざ足を運びたいと思う人間などいないだろう。いつしか常連客にすら見限られ、今ではああして閑古鳥が鳴く有様になっているのだと。
一騎プリンを食べたあと、操は総士の部屋に勝手に入った。
またあのアルバムを取り出して、机に向かうと一ページずつめくっていく。
今よりずっと幼い顔をしている一騎と総士が可愛くて、操の顔に少しだけ笑顔が戻る。だけどふと、気がついた。
(……甲洋だけは、同じ顔)
まるで機械で正確に型抜かれた板を貼り付けたみたいだ。
どのページのどの写真を見ても、幼い頃から甲洋の笑顔は変わらない。操には、それがだんだん笑っているようには見えなくなっていった。
笑っているのに、笑っていない。どうしてか、そう感じられたのだ。
だけどそのなかに、一枚だけ雰囲気の異なる写真があった。
一騎と甲洋と、総士が三人で並んで写っている。背景は海で、船の甲板と思しき場所で三人は笑みを浮かべていた。
けれどそこに写っている甲洋だけは、その他の写真とは少し違った表情を見せているような気がした。
笑顔でいることに代わりはない。だけどどこか寂しさを隠しきれていないように、操の目には映ったのだ。
それこそが彼の生身の表情であるような気がして、操は思わずアルバムからその写真を抜きとっていた。
操はそれを総士からもらった本に挟んで、時折こっそり眺めるようになった。
春日井甲洋。このひとは、今どこでどうしているんだろう。
もしいつか彼が帰ってくる日が来たとして。そのとき自分はどう感じるのだろう。優しくていい人だと、甲洋の貼り付けた綺麗な笑顔を見て、皆が抱くのと同じ感想を抱くのだろうか。
なぜか想像ができなくて、だけど甲洋のことを考えながら眠る夜は、不思議と夢も見ずに朝まで眠ることができた。
*
それから一年──。
春日井夫婦が島を出てから間もなくして、甲洋が帰ってきた。
彼はやっぱりあの笑っているのに笑っていない、綺麗な笑顔を操に向けた。操はなぜだか、それを無性に腹立たしいと感じてしまった。
アルバムの中の甲洋が、いつも同じ顔をしていたように。このひとの目に映る自分も、その他大勢と同じ顔をしているのかもしれない。それがどうしても、嫌だったのだ。
「総士、おれこの人あまり好きじゃない」
だから操は、感じたことをそのまま口に出してしまっていた。
甲洋は平気そうな顔で笑っていたけれど、きっと傷ついている。分かっているのに、操はそのあとも彼に心を開くことができなかった。
どんなに気を使われても、優しくされても、皆が口を揃えて言うようには、どうしても思えなかった。いや、思いたくなかったのだ。
だってそんなことをすれば、きっと自分は彼の中の『その他大勢』になってしまう。そんな気がして。
操は甲洋のことが気になって仕方がなかった。きっとずっと、初めて彼に興味を持ったときから、操の中では何かが特別だったのだと思う。だから自分のことも、特別に思ってほしかった。
あまりにも子供っぽい我儘だ。どうしてそんなふうに思ってしまうのかも分からない。
自分の気持ちなのにちっとも理解できなくて、思い通りにならないことに腹が立って、また甲洋を傷つけて。わざわざ嫌われるような態度しかとることができなかった。
そしてあの夜。
──総士に言いつけてやろうか?
操の世界はひっくり返った。
もう後戻りできないところまで、なにかが音を忍ばせ、狂いはじめた。
──来主は、俺のことが嫌いだったね。
あの浴室で、初めて身体を暴かれたとき。
操はそこで、ようやく気づいた。
(違う、そうじゃない。そうじゃなくて……)
冷たく凍ったように怒りを顕にする甲洋はとても怖くて、そこには皆がいう優しくて穏やかな青年はいなかった。
怖かった。甲洋の言葉が。声が。その指先の動きひとつひとつさえも。怖くて怖くて──だけど本当は、どこかで喜んでいたのかもしれない。
だってそれは、誰も見たことがない顔だったから。自分しか知らない、甲洋の素顔だったから。
けれど気づいたときには、操も、きっと甲洋も、どこかおかしくなっていた。
狭い浴室。立ち込める湯気。どこにも逃がすことができない熱。反響する水音に耳鳴りが重なり、目の前がチカチカと明暗を繰り返していた。
自分じゃない誰かが、身体のなかに入ってくる感覚。痛くて、つらくて、苦しみだけが世界の全てのように思えてくる。
──俺しかいないよ。
そして抑圧された操の心は、なにが正常でなにが異常なのか、もう判断がつかなくなっていた。
──来主には、もう俺しかいない。
このひとは、怖い。
怖くて酷くて、悲しいひとだ。だけどきっと、その心は操とよく似た形をしている。
独りぼっちになるのは嫌だ。置いていかれるのは嫌だ。寂しいのは、もう嫌だ。
ひどく追いつめられながら、それでもこのとき、操は彼でよかったと心の底からそう思った。ふたりぼっちになるのなら、このひとと一緒がいい。
だってあのとき操が言いたかったのは、本当に伝えたかったのは、好きじゃないなんて言葉じゃなくて。
(好きって、言いたかったんだ)
初めて同じベッドで目を覚ました朝。
隣で眠る甲洋の寝顔を見つめながら、ふと彼を想って見上げた空を思いだした。
このひとは、自分のために操が泣いたことを知らない。このさき流す涙もすべて、きっと甲洋のためのものになるのだろうと、操は漠然とそう感じていた。
泣くのは苦しい。痛くて、つらい。だけどこのひとのために泣くのなら、それもいいのかもしれないなんて。
その頬を指先でなぞりながら、操は茜色の空を見上げて流した、あの涙の意味に気がついた。
おれは、このひとの『居場所』になりたかったのだ、と──。
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操は総士に呼び出され、彼が通う大学にある食堂を訪れていた。
「すまない。急に呼び出して」
白のニットセーターの袖を、なんとはなしにいじくりながら広い食堂の片隅に座っていると、眼鏡に白衣姿の総士がやってきた。
向かい側に腰かけた彼に首を振った操の頬は、このたった三日間で少しやつれて目の下に隈を作っている。
「そのぶんだと、あまりうまくいってないようだな」
「いくわけないじゃん~……同じ空間にいるだけでオシッコ漏れそうだよぉ」
深く長い息を漏らして、操はテーブルに突っ伏した。
「本当にすまない。なるべく様子を見に行くようにはするが」
「うぅん。だって総士は忙しいし。一騎にも頼めないもんね……わかってるよ」
あまり愚痴っぽくなれば、総士が気に病む。操に頼むことがどれほど無謀か、きっと彼が一番よく分かっているだろうから。証拠に、総士はなんともいえない様子で苦笑いをして見せる。
「彼の様子はどうだ」
テーブルに突っ伏していた操はのろのろと上体を起こし、自分でも驚くほど冴えない声で「うーん」と唸っていた。
「変わりない、と思うよ。喋らないし、笑わない。夜はおれのベッドを使ってもらってるけど、それ以外はずっと本棚の横に座ってる。あとはときどき窓の外を眺めてるくらいかな。ただ……」
「ただ?」
「ご飯を食べてくれない。おれの料理が下手すぎて、食べる気が起きないだけかもしれないけど」
操はこの三日というもの、慣れないなりに頑張っていた。
朝はパンと玉子(黒焦げ)とサラダにスープ、昼はバイトで不在のときも多いため、おにぎり(ボロボロ)を握って置いておき、夜は肉を焼いたり(生焼けな上に調味料を忘れて無味)などなど……。
確かに、思いだすだけでも酷い出来のブツばかりを作りだしている自覚はあった。
テーブルの上でモジモジと擦りあわせたりしている操の指先には、何枚もの絆創膏が巻きつけられていた。包丁なんてまともに扱った試しがない。しょっちゅう指を切ったり、火傷を負ったりしてメソメソと泣いてばかりだ。
総士はそれを痛ましそうに見たあと、難しい顔をして息を漏らした。
「何か対策を練った方がよさそうだな」
「料理教室に通うとか……?」
「一騎に習うというのも手だが」
「あっ、そういえば一騎はどうなの? 元気になった?」
「ああ、だいぶ落ち着いた」
総士が小さく笑う。その様子を見て操は胸を撫で下ろしたが、総士はすぐに表情を引き締めると「ここからが今日の本題だ」と切り出した。
「お前を呼んだのは、彼がいない場所で話しておきたいことがあったからだ」
どこか重々しい雰囲気を察して、操は思わず姿勢を正す。
何かとても言いにくいことを言おうとしているのが、その口ぶりから感じとることができた。
「単刀直入に言う。甲洋は、元の飼い主によって虐待されていた」
「虐待!?」
咄嗟に声を張り上げてしまう。食堂内はそれほど混雑してはいないものの、幾人かから訝しげな視線を向けられてしまった。
操は思わず背中を丸め、声を潜める。
「虐待って……じゃあ、あの子の飼い主は……?」
「探しているのは、彼の新しい飼い主になってくれる人間だ」
「そうだったんだ……」
操は俯き、白く光沢のあるテーブルへと視線を落とす。
甲洋はてっきり迷子犬なのだとばかり思いこんでいた。しかしあの心の閉ざし方を思えば、嫌でも納得せざるをえなかった。彼が厚い壁を作っていることは、操の目から見ても明らかだ。
苦い錠剤を噛み潰してしまったかのように、胸に不快なものが込み上げる。
「酷い。そんなのってないよ……」
「……ネグレクトが主だったようだ。真冬のベランダに長く放置されている姿を、一騎が視た」
「視た? それって、読心能力っていうやつで?」
「そうだ」
総士の話はこうだった。
彼らの相性は、決して最初から悪いものだったわけではない。甲洋は一騎にまるで関心がない様子だったし、合う合わないでいえば、むしろ波長は合っているような印象を総士は受けた。
ただ幾度か対話を試みる段階で一騎が意図せず彼の記憶を『視て』しまったことが、甲洋の感情を激しく揺さぶり、刺激してしまったのだと。
「怒ったの? あの子が?」
「僕も驚いた。酷く唸りながら、一騎を突き飛ばした」
一騎は感受性が豊かで、イヌの中でも特に優れた読心能力を持っていた。
甲洋の記憶を視てしまったのは、その力の強さがゆえに起きてしまった、ある種の事故といっても過言ではない。
どんな生き物だって、常に気を張り詰めていることは不可能だ。頑なに警戒心を解こうとしなかった甲洋にも、一瞬の気の緩みから心の解れは生じてしまった。そのとき傍に一騎がいたというだけの話だ。
「一騎は甲洋に心を砕いていた。その気持ちが強すぎたんだろう」
閉ざされた心に寄り添おうとする気持ちが、甲洋の最も触れられたくない場所を暴いてしまうという結果になった。
一騎は無遠慮に誰かの心に踏み込むようなイヌではない。けれどそこにどんな要因があるにせよ、踏み込まれた方には関係のない話だ。甲洋が混乱して感情的になってしまったとしても、誰も責めることはできない。
それが触れられたくない場所であればあるほど、自己を守ろうとする本能が働いてしまうのだ。
「だから一騎、落ち込んじゃったんだね」
「記憶に引きずられて同調してしまったというのもあるだろうが……多くは罪悪感だろうな」
一騎は悪くない。もちろん、甲洋もだ。
「ねぇ総士、その元の飼い主が、今どこにいるか分かる?」
「なにをするつもりだ」
「決まってるじゃん! そんな酷いことするなんて、一度ガツンと言ってやらなきゃ気が済まない!」
総士は溜息をつきながら首を左右に振り「やめておけ」と言った。
「なんで!」
「気持ちは分かるが、不可能だ」
「だからなんで?」
「……来主、僕らが通っていた中学校の近くに、喫茶店があったのを覚えているか?」
「え?」
突然の問いかけに戸惑いながらも、操は記憶の引き出しを探りだす。
自分と総士が通っていた高校。竜宮中学校だ。その近くに、確かに一軒だけ喫茶店があったことは記憶している。
「楽園、だっけ。一度も行ったことはないけど……それがなに?」
「そこは三ヶ月近く前に閉店し、今はもぬけの殻になっている。オーナー夫婦はその二階に住んでいたが、引っ越して現在の消息は不明だ」
「甲洋はそこんちの子だったの?」
総士が頷く。操はやり場のない憤りを覚えた。虐待の末に、そのまま置き去りにして引っ越してしまったということだ。そんなことをするくらいなら、どうして動物を飼おうなんて思ったのだろう。
操は涙が滲むのを止められなかった。
「ッ、お前が泣いたって仕方がない」
「わかってるよぅ……」
「……いや、その。すまない」
総士は白衣のポケットから綺麗に折りたたまれたハンカチを取りだすと、ぎこちない様子で操に差し出してくる。操は遠慮なくそれを受け取り、涙を拭うと少しだけ笑った。
「ありがとう総士。大丈夫、総士が言いたかったこと、おれわかるよ」
ただ一言「泣くな」と言えない不器用な従兄弟だ。
総士は操を泣かせるつもりなんかなかったし、甲洋のことも一騎のことも深く心配している。その優しさはハンカチを通してちゃんと伝わってきた。
涙を拭いながら、つくづく彼の傍にいるのが一騎でよかったと思う。イヌは同種間ほどではないにしろ、人間の心を感じとる力があるらしいから。
彼はきっと子供の頃から一緒にいるはずの操よりも、ずっと総士のことを理解している。
(おれと甲洋は、絶対にそんなふうにはなれないだろうな)
操はどうしたってイヌが怖いし、甲洋はきっと人間という生き物に何も期待していないだろう。あの瞳に映る自分は、彼を捨て去った楽園のオーナー夫婦となにも変わらないのかもしれない。
嫌だと思うのに、それをどうにかするだけの力がないことは操が一番よく知っていた。
甲洋の心を癒し、幸せにできる人間はきっとどこか他にいるはずだ。それを信じて、今は待つしかない。
「おれも飼い主になってくれそうな人、探してみるよ。あと、もうちょっとまともなご飯も作れるようにならないと」
「お前に関してはそちらが最優先事項だろうな」
「だよねぇ」
力なく笑いながら肩を落とした操からハンカチを受け取ると、総士は「そういえば」と言って発券機の方を見た。
「なにか食べていくか? 世話になっている礼だ。好きなものを選ぶといい」
「え!? いいの!?」
喜びかけた操だが、けれどすぐに思い直して首を左右に振った。
「やっぱいいや。おれだけ外でまともなもの食べるなんて、なんか悪いもん」
甲洋だって、本当はきっとお腹を空かせているに違いないのだ。
がんばってもう少しいいものが作れたら、次こそちゃんと食べてくれるかもしれない。そのときは、できれば一緒に食べたいと思う。
同様の理由で、ここ数日はバイト先のまかないも食べずに我慢している。昼は甲洋に握ったのと同じ、ボロボロのおにぎりを持参して食べていた。
「そうか」
「うん。甲洋が待ってる……かは分からないけど、おれもう帰るよ」
隣の椅子に丸めて置いていたモッズコートを引き寄せると席を立った操に、総士は優しく目を細めながらふわりと笑った。
「来主」
「ん、なに?」
「お前に頼んでよかった」
ひとつもまともに世話などできていないのだが。
総士に言われると嬉しくて、操は頬を赤らめながら「ありがとう」と笑って肩をすくめた。
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