2025/09/14 Sun 三日後。 操は総士に呼び出され、彼が通う大学にある食堂を訪れていた。 「すまない。急に呼び出して」 白のニットセーターの袖を、なんとはなしにいじくりながら広い食堂の片隅に座っていると、眼鏡に白衣姿の総士がやってきた。 向かい側に腰かけた彼に首を振った操の頬は、このたった三日間で少しやつれて目の下に隈を作っている。 「そのぶんだと、あまりうまくいってないようだな」 「いくわけないじゃん~……同じ空間にいるだけでオシッコ漏れそうだよぉ」 深く長い息を漏らして、操はテーブルに突っ伏した。 「本当にすまない。なるべく様子を見に行くようにはするが」 「うぅん。だって総士は忙しいし。一騎にも頼めないもんね……わかってるよ」 あまり愚痴っぽくなれば、総士が気に病む。操に頼むことがどれほど無謀か、きっと彼が一番よく分かっているだろうから。証拠に、総士はなんともいえない様子で苦笑いをして見せる。 「彼の様子はどうだ」 テーブルに突っ伏していた操はのろのろと上体を起こし、自分でも驚くほど冴えない声で「うーん」と唸っていた。 「変わりない、と思うよ。喋らないし、笑わない。夜はおれのベッドを使ってもらってるけど、それ以外はずっと本棚の横に座ってる。あとはときどき窓の外を眺めてるくらいかな。ただ……」 「ただ?」 「ご飯を食べてくれない。おれの料理が下手すぎて、食べる気が起きないだけかもしれないけど」 操はこの三日というもの、慣れないなりに頑張っていた。 朝はパンと玉子(黒焦げ)とサラダにスープ、昼はバイトで不在のときも多いため、おにぎり(ボロボロ)を握って置いておき、夜は肉を焼いたり(生焼けな上に調味料を忘れて無味)などなど……。 確かに、思いだすだけでも酷い出来のブツばかりを作りだしている自覚はあった。 テーブルの上でモジモジと擦りあわせたりしている操の指先には、何枚もの絆創膏が巻きつけられていた。包丁なんてまともに扱った試しがない。しょっちゅう指を切ったり、火傷を負ったりしてメソメソと泣いてばかりだ。 総士はそれを痛ましそうに見たあと、難しい顔をして息を漏らした。 「何か対策を練った方がよさそうだな」 「料理教室に通うとか……?」 「一騎に習うというのも手だが」 「あっ、そういえば一騎はどうなの? 元気になった?」 「ああ、だいぶ落ち着いた」 総士が小さく笑う。その様子を見て操は胸を撫で下ろしたが、総士はすぐに表情を引き締めると「ここからが今日の本題だ」と切り出した。 「お前を呼んだのは、彼がいない場所で話しておきたいことがあったからだ」 どこか重々しい雰囲気を察して、操は思わず姿勢を正す。 何かとても言いにくいことを言おうとしているのが、その口ぶりから感じとることができた。 「単刀直入に言う。甲洋は、元の飼い主によって虐待されていた」 「虐待!?」 咄嗟に声を張り上げてしまう。食堂内はそれほど混雑してはいないものの、幾人かから訝しげな視線を向けられてしまった。 操は思わず背中を丸め、声を潜める。 「虐待って……じゃあ、あの子の飼い主は……?」 「探しているのは、彼の新しい飼い主になってくれる人間だ」 「そうだったんだ……」 操は俯き、白く光沢のあるテーブルへと視線を落とす。 甲洋はてっきり迷子犬なのだとばかり思いこんでいた。しかしあの心の閉ざし方を思えば、嫌でも納得せざるをえなかった。彼が厚い壁を作っていることは、操の目から見ても明らかだ。 苦い錠剤を噛み潰してしまったかのように、胸に不快なものが込み上げる。 「酷い。そんなのってないよ……」 「……ネグレクトが主だったようだ。真冬のベランダに長く放置されている姿を、一騎が視た」 「視た? それって、読心能力っていうやつで?」 「そうだ」 総士の話はこうだった。 彼らの相性は、決して最初から悪いものだったわけではない。甲洋は一騎にまるで関心がない様子だったし、合う合わないでいえば、むしろ波長は合っているような印象を総士は受けた。 ただ幾度か対話を試みる段階で一騎が意図せず彼の記憶を『視て』しまったことが、甲洋の感情を激しく揺さぶり、刺激してしまったのだと。 「怒ったの? あの子が?」 「僕も驚いた。酷く唸りながら、一騎を突き飛ばした」 一騎は感受性が豊かで、イヌの中でも特に優れた読心能力を持っていた。 甲洋の記憶を視てしまったのは、その力の強さがゆえに起きてしまった、ある種の事故といっても過言ではない。 どんな生き物だって、常に気を張り詰めていることは不可能だ。頑なに警戒心を解こうとしなかった甲洋にも、一瞬の気の緩みから心の解れは生じてしまった。そのとき傍に一騎がいたというだけの話だ。 「一騎は甲洋に心を砕いていた。その気持ちが強すぎたんだろう」 閉ざされた心に寄り添おうとする気持ちが、甲洋の最も触れられたくない場所を暴いてしまうという結果になった。 一騎は無遠慮に誰かの心に踏み込むようなイヌではない。けれどそこにどんな要因があるにせよ、踏み込まれた方には関係のない話だ。甲洋が混乱して感情的になってしまったとしても、誰も責めることはできない。 それが触れられたくない場所であればあるほど、自己を守ろうとする本能が働いてしまうのだ。 「だから一騎、落ち込んじゃったんだね」 「記憶に引きずられて同調してしまったというのもあるだろうが……多くは罪悪感だろうな」 一騎は悪くない。もちろん、甲洋もだ。 「ねぇ総士、その元の飼い主が、今どこにいるか分かる?」 「なにをするつもりだ」 「決まってるじゃん! そんな酷いことするなんて、一度ガツンと言ってやらなきゃ気が済まない!」 総士は溜息をつきながら首を左右に振り「やめておけ」と言った。 「なんで!」 「気持ちは分かるが、不可能だ」 「だからなんで?」 「……来主、僕らが通っていた中学校の近くに、喫茶店があったのを覚えているか?」 「え?」 突然の問いかけに戸惑いながらも、操は記憶の引き出しを探りだす。 自分と総士が通っていた高校。竜宮中学校だ。その近くに、確かに一軒だけ喫茶店があったことは記憶している。 「楽園、だっけ。一度も行ったことはないけど……それがなに?」 「そこは三ヶ月近く前に閉店し、今はもぬけの殻になっている。オーナー夫婦はその二階に住んでいたが、引っ越して現在の消息は不明だ」 「甲洋はそこんちの子だったの?」 総士が頷く。操はやり場のない憤りを覚えた。虐待の末に、そのまま置き去りにして引っ越してしまったということだ。そんなことをするくらいなら、どうして動物を飼おうなんて思ったのだろう。 操は涙が滲むのを止められなかった。 「ッ、お前が泣いたって仕方がない」 「わかってるよぅ……」 「……いや、その。すまない」 総士は白衣のポケットから綺麗に折りたたまれたハンカチを取りだすと、ぎこちない様子で操に差し出してくる。操は遠慮なくそれを受け取り、涙を拭うと少しだけ笑った。 「ありがとう総士。大丈夫、総士が言いたかったこと、おれわかるよ」 ただ一言「泣くな」と言えない不器用な従兄弟だ。 総士は操を泣かせるつもりなんかなかったし、甲洋のことも一騎のことも深く心配している。その優しさはハンカチを通してちゃんと伝わってきた。 涙を拭いながら、つくづく彼の傍にいるのが一騎でよかったと思う。イヌは同種間ほどではないにしろ、人間の心を感じとる力があるらしいから。 彼はきっと子供の頃から一緒にいるはずの操よりも、ずっと総士のことを理解している。 (おれと甲洋は、絶対にそんなふうにはなれないだろうな) 操はどうしたってイヌが怖いし、甲洋はきっと人間という生き物に何も期待していないだろう。あの瞳に映る自分は、彼を捨て去った楽園のオーナー夫婦となにも変わらないのかもしれない。 嫌だと思うのに、それをどうにかするだけの力がないことは操が一番よく知っていた。 甲洋の心を癒し、幸せにできる人間はきっとどこか他にいるはずだ。それを信じて、今は待つしかない。 「おれも飼い主になってくれそうな人、探してみるよ。あと、もうちょっとまともなご飯も作れるようにならないと」 「お前に関してはそちらが最優先事項だろうな」 「だよねぇ」 力なく笑いながら肩を落とした操からハンカチを受け取ると、総士は「そういえば」と言って発券機の方を見た。 「なにか食べていくか? 世話になっている礼だ。好きなものを選ぶといい」 「え!? いいの!?」 喜びかけた操だが、けれどすぐに思い直して首を左右に振った。 「やっぱいいや。おれだけ外でまともなもの食べるなんて、なんか悪いもん」 甲洋だって、本当はきっとお腹を空かせているに違いないのだ。 がんばってもう少しいいものが作れたら、次こそちゃんと食べてくれるかもしれない。そのときは、できれば一緒に食べたいと思う。 同様の理由で、ここ数日はバイト先のまかないも食べずに我慢している。昼は甲洋に握ったのと同じ、ボロボロのおにぎりを持参して食べていた。 「そうか」 「うん。甲洋が待ってる……かは分からないけど、おれもう帰るよ」 隣の椅子に丸めて置いていたモッズコートを引き寄せると席を立った操に、総士は優しく目を細めながらふわりと笑った。 「来主」 「ん、なに?」 「お前に頼んでよかった」 ひとつもまともに世話などできていないのだが。 総士に言われると嬉しくて、操は頬を赤らめながら「ありがとう」と笑って肩をすくめた。 * 「よし! 今日こそ美味しいご飯を作るぞ!」 その夜、部屋着にしているパーカーの袖をまくって、操は台所に立っていた。 まな板の上には鶏の腿肉が置いてある。焦がしたり生焼けにしたりしないよう、しっかり蒸し焼きにする予定だ。そのためには、まず火が通りやすいように切り分けるつもりでいるのだが。 鶏肉の皮の表面というのは、どうしてこうもブツブツとしていて気色が悪いのか。操はそれをじっと見つめたあと、ブルッと身を震わせた。 「でも、がんばる」 甲洋はいつもの本棚脇の定位置でじっと座っている。相変わらず一言も喋らない。この数日で心なしか頬がこけてきたようにも見えて、操は焦りを覚えながら包丁を手にした。 するとそこで、玄関から扉を控えめに叩く音が聞こえてきた。 「はーい?」 操はいったん包丁を置くと甲洋を振り返り「ちょっと待っててね」と声をかける。それから玄関へ行き、そっと扉を開けた。 するとそこには真っ白い耳と尻尾をもつチワワ、一騎の姿があった。 「うわぁ!? 一騎ぃ!?」 「よ、来主。なんか久しぶりだな」 反射的に後ろに数歩後退した操に笑いかけながら、ベージュのボアコートを羽織った一騎が苦笑する。彼は手に大きな荷物を持っていた。 「ちょっといいか? 渡したいものがあって来たんだけど」 「う、うん。わかった」 一騎が通路の方へ姿を消すので、操も靴を引っかけて外に出る。 ここはアパートの一階、角部屋だ。扉を開けると目の前は駐車場になっていて、一騎は乗ってきた自転車を街灯の真下に停めて操を待っていた。 「一体どうしたの? 総士は?」 「ああ、今夜は大学につめてるよ。あいつから連絡をもらってさ。今日、会ったんだろ?」 「うん」 操と一騎の距離はおよそ1メートル半。これが操の限界だ。その距離に一騎が小さく笑ったのが分かる。 「ご、ごめんね一騎。一騎は大丈夫ってわかってるんだけど……身体がどうしても」 「いいよ、気にしなくて」 そう言って、一騎は手にしていた大きな鞄と袋を二人のちょうど中間にそっと置いた。 「それなに?」 「確認してくれ」 言われた通り、操は二つの荷物に手を伸ばして足元に引き寄せた。しゃがみこんでから、まずは鞄の方を開けてみる。大きな旅行鞄だ。 「あ、これって……服?」 「ああ。イヌ用だから、すぐにでも着られるはずだ」 「ほんとだ! お尻のとこにちゃんと尻尾の切り込みが入ってる!」 「総士とだいたい背格好は同じだったはずだから、サイズも合ってると思う」 「ありがとう一騎!」 感激して見上げると、一騎は「買ったのは総士だよ」と言って笑った。 甲洋がいま着ているのは最初にここを訪れたときに身に着けていたシャツとジーンズ、あとは操のジャージやスウェットに無理やりハサミで尻尾穴を開けたものである。 上背がある彼に操の服は少し丈が短くて、手首と足首がつんつるてんの状態になっていた。 鞄の中には何着かの部屋着と、外出用のシャツやパンツ類、下着も数枚入っていた。 (そういえば甲洋、ノーパンだ……) 今さら気がついて考えなしだったことを後悔した。だからこれは非常に助かる。 操はさらにもう一つの、紙袋の方を開けると「わ」と声をあげた。中にはジャガイモやニンジン、玉ねぎといった野菜類が入っていた。 「野菜がたくさんだ! あと、これは……?」 野菜類と一緒に、茶封筒に入った本が出てくる。操はそれを取りだすと立ちあがり、表紙を見て「わっ」と短く声をあげた。 「これレシピ本!? オーブンレンジで簡単料理!?」 「ああ。それなら火を使わなくてもいいし、少しは楽だろ?」 「す、すごいや……美味しそうなのがいっぱいある……」 中身をパラパラと流し見るだけでも、結構な数のレシピがあって感動した。 これなら火加減を間違えて失敗することもないだろうし、自分でもできそうな気がしてくる。 「野菜は俺の実家からよく貰うんだ。俺と総士だけじゃ食べきれないから、少しだけど貰ってくれると助かる」 「ありがとう一騎……総士にもお礼を言わなくちゃ」 操はレシピ本を両腕で抱えて、胸に強く抱きしめた。 これならきっと上手くいく。甲洋だって、次こそは食べてくれるかもしれない。 「ごめんな来主。俺がうまくやれなかったから、お前に苦労をかけて」 「そんなことない。一騎はがんばったよ。総士から聞いたもん」 「だけど、甲洋のことは俺が頼まれたんだ。父さんから」 「父さん? えっと、総士の先生んとこの家だっけ?」 そうだと言って一騎が頷いた。 彼が父と呼んで慕うのは、総士の大学の教授でもある真壁史彦のことだ。 甲洋は弱っているところを保護され、入院生活を経たあとは真壁の家に預けられていたらしい。 しかしまるで心を開かず、塞ぎ込むばかりの甲洋に頭を悩ませた史彦は、同じイヌである一騎に彼を託した。人間とイヌでは読心能力が使えないし、なにより年齢が近い者同士──外見からおおよその年齢を予想したにすぎないが──のほうが、心を開きやすいのではないかと考えたからだ。 「そうだったんだ。でも、だからって一騎が謝ることないよ。悪いのは、甲洋に酷いことした人たちのほうでしょ?」 「……ありがとな、来主」 一騎は形のいい眉と白い耳を少しだけ力なく下げた状態で笑った。 「甲洋は、今どうしてる?」 「じっとしてるよ。あんまり動かない、かな」 泣きもしなければ笑いもしない。ただじっと座って操を見ているか、物憂げに窓の外に目を向けていることが多かった。彼が何を考えているのか、操にはまるで分からない。 「……尻尾はどうだ?」 「尻尾?」 小首を傾げて見せると、一騎が小さく頷いた。 「俺たちは耳や尻尾で感情表現をするんだ。あいつが来たばかりの頃は、ずっと足の間に尻尾を巻きこんで怖がってた。どんなに心に壁を作っても、そこだけは嘘をつけないんだよ」 操はこの数日、甲洋の尻尾がどう動いていたかを思いだしてみた。 「うーん。いま一騎が言ったみたいな形は、見たことないと思う。垂れさがってるか、たまに左の方に振ってるような気はする、かなぁ? 多分だけど」 それを聞いた一騎はどこかバツが悪そうな表情で黙り込み、俯いてしまった。 「か、一騎。なにかあるなら言って。じゃなきゃおれわかんない」 「いや……うん、そうだよな。俺たちはヒトの心が読めるわけじゃないけど、なんとなく感じとることはできるんだ。だから来主が不安に思ってることが、そのままあいつにも伝わってるのかもしれない」 「……おれのせいで、甲洋はストレスを感じてるってこと?」 一騎はなにも言わなかった。言えなかった、という方が正解かもしれない。 操は甲洋の立場に立って考えてみた。もし自分の傍にいる人間が、自分を恐れて拒絶していたら。それを敏感に感じ取ってしまったら、どう思うだろう。 (悲しいって思う。おれは何も悪いことしないのにって) イヌはヒトの心を多少なりとも感じ取ることができる。ちゃんと分かっていたはずなのに。 「来主は悪くない。きっと甲洋もそれは分かってる。お前ががんばってることも」 「……そう、かな」 「優しいよ。あいつは」 「それも、心を読んだからわかるの?」 一騎は小さく笑って首を振った。 「目を見れば分かる。優しすぎるから、傷つきやすいんだ。きっと」 * 一騎は「あいつを頼むな」と言って帰っていった。 操は野菜と本が入った袋を台所の隅に置くと、鞄を抱えて居間に入った。 「こ、甲洋」 ピクリと黒い耳が動いて、少しだけ前方に傾いた。透明感のある瞳が操をじっと見つめている。 操は少しずつ彼ににじり寄り、ここが限界という位置でちょこんと正座すると膝の上に鞄を置いた。 距離にしておよそ1メートル半。一騎に対して近づけるギリギリのラインと同じだ。 「新しい服、一騎が持ってきてくれたよ。おれのじゃ窮屈だったでしょ。ごめんね」 甲洋はやっぱり何も言わない。そろそろこの沈黙にも慣れてきたような気がする。 「あのね。おれ、まだ君にちゃんと言ってなかったことがあって」 それは一騎と話をして、初めて気がついたことだった。 操はまだ自分の話を何ひとつしていない。恐怖心が先行して、甲洋にただ漠然とした不安を与えるばかりだったことを。 自分たちはイヌ同士ではないのだから、心の中を探り合うことだってできない。甲洋が何も話そうとしないからって、操まで口を閉ざしていていいわけはないのだ。 ちゃんと言葉にして、操自身が抱える不安の正体を伝えなくてはいけないと思った。 「きっと君はもう気づいてると思うけど……おれ、イヌが怖い。子供の頃に追いかけられたことがあって……そのときね、総士が怪我しちゃったんだ。それがショックで、怖くて、忘れられなくて」 大きな身体で牙を剥き、唸りながら吠え立てるブルドッグの姿を思いだす。操は思わず肩を竦め、気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸をした。 「だから本当は、預かるのも嫌だったんだ。今も正直、怖い。でもこれはおれの問題で……一騎に対しても同じ。いつもこれ以上は近づけなくて、きっと嫌な思いをさせてる」 一騎はいつも笑って許してくれるけれど。でも、いい気持ちはしていないだろうと思う。友達だと思っているのに、気軽に肩を触れ合わせることすらできないなんて。 「つまり何が言いたいかっていうと、おれは君個人のことを嫌ってるわけじゃないし、ご飯もちゃんと食べてほしいし、喋ってほしいし、あとは……えっと、ここにいてほしいって、思ってる」 「!」 一瞬、甲洋が息を呑んだような気がする。 それはほんの些細な反応でしかなかったけれど、彼が初めて示した、なんらかのサインだった。 「おれなんかじゃ頼りないよね。それはわかってるんだ。イヌが怖いって気持ちも、きっと抑えられない。でも、がんばるよ。ずっと不安にさせて、ごめんな」 甲洋は鞄の上に添えられている操の両手をじっと見つめた。指先の絆創膏には少し血が滲んでいる。慣れない包丁による傷と、火傷の痕だ。 三日前にはなかったはずのそれらを見て何を思ったのか、彼はふっと息を吐きだした。 「別にいい」 「え?」 操は耳を疑った。 「甲洋、いまなんて」 「……別に、気にしてないから」 少し硬いが、静かで優しい声だった。 操はたったいま起こったことが信じられず、ポカンと口を開けた。甲洋はそっけなく視線を外し、そのまま顔も背けてしまう。 (甲洋が……喋った……) 驚きのあと、じわじわと滲むように喜びが湧きあがる。 少しだけ、ほんの少しだけ、甲洋が心の扉を開いてくれた。そんな気がして。嬉しさと感動のあまり、肌が粟立つのを感じた。 「うぅ……ぅ~……」 「?」 「やったー!!」 「ッ!」 込み上げてくるものを押さえきれず万歳をしだした操に、甲洋が何事かとギョっとしてこちらを見た。 「甲洋が喋った! 喋ってくれた! 嬉しいー!!」 万歳を繰り返す操を見つめる甲洋の顔には、思いっきり「変なやつ」と書かれているような気がしたが、それすらも今は嬉しくて、操は笑いながら、少しだけ泣いた。 ←戻る ・ 次へ→
操は総士に呼び出され、彼が通う大学にある食堂を訪れていた。
「すまない。急に呼び出して」
白のニットセーターの袖を、なんとはなしにいじくりながら広い食堂の片隅に座っていると、眼鏡に白衣姿の総士がやってきた。
向かい側に腰かけた彼に首を振った操の頬は、このたった三日間で少しやつれて目の下に隈を作っている。
「そのぶんだと、あまりうまくいってないようだな」
「いくわけないじゃん~……同じ空間にいるだけでオシッコ漏れそうだよぉ」
深く長い息を漏らして、操はテーブルに突っ伏した。
「本当にすまない。なるべく様子を見に行くようにはするが」
「うぅん。だって総士は忙しいし。一騎にも頼めないもんね……わかってるよ」
あまり愚痴っぽくなれば、総士が気に病む。操に頼むことがどれほど無謀か、きっと彼が一番よく分かっているだろうから。証拠に、総士はなんともいえない様子で苦笑いをして見せる。
「彼の様子はどうだ」
テーブルに突っ伏していた操はのろのろと上体を起こし、自分でも驚くほど冴えない声で「うーん」と唸っていた。
「変わりない、と思うよ。喋らないし、笑わない。夜はおれのベッドを使ってもらってるけど、それ以外はずっと本棚の横に座ってる。あとはときどき窓の外を眺めてるくらいかな。ただ……」
「ただ?」
「ご飯を食べてくれない。おれの料理が下手すぎて、食べる気が起きないだけかもしれないけど」
操はこの三日というもの、慣れないなりに頑張っていた。
朝はパンと玉子(黒焦げ)とサラダにスープ、昼はバイトで不在のときも多いため、おにぎり(ボロボロ)を握って置いておき、夜は肉を焼いたり(生焼けな上に調味料を忘れて無味)などなど……。
確かに、思いだすだけでも酷い出来のブツばかりを作りだしている自覚はあった。
テーブルの上でモジモジと擦りあわせたりしている操の指先には、何枚もの絆創膏が巻きつけられていた。包丁なんてまともに扱った試しがない。しょっちゅう指を切ったり、火傷を負ったりしてメソメソと泣いてばかりだ。
総士はそれを痛ましそうに見たあと、難しい顔をして息を漏らした。
「何か対策を練った方がよさそうだな」
「料理教室に通うとか……?」
「一騎に習うというのも手だが」
「あっ、そういえば一騎はどうなの? 元気になった?」
「ああ、だいぶ落ち着いた」
総士が小さく笑う。その様子を見て操は胸を撫で下ろしたが、総士はすぐに表情を引き締めると「ここからが今日の本題だ」と切り出した。
「お前を呼んだのは、彼がいない場所で話しておきたいことがあったからだ」
どこか重々しい雰囲気を察して、操は思わず姿勢を正す。
何かとても言いにくいことを言おうとしているのが、その口ぶりから感じとることができた。
「単刀直入に言う。甲洋は、元の飼い主によって虐待されていた」
「虐待!?」
咄嗟に声を張り上げてしまう。食堂内はそれほど混雑してはいないものの、幾人かから訝しげな視線を向けられてしまった。
操は思わず背中を丸め、声を潜める。
「虐待って……じゃあ、あの子の飼い主は……?」
「探しているのは、彼の新しい飼い主になってくれる人間だ」
「そうだったんだ……」
操は俯き、白く光沢のあるテーブルへと視線を落とす。
甲洋はてっきり迷子犬なのだとばかり思いこんでいた。しかしあの心の閉ざし方を思えば、嫌でも納得せざるをえなかった。彼が厚い壁を作っていることは、操の目から見ても明らかだ。
苦い錠剤を噛み潰してしまったかのように、胸に不快なものが込み上げる。
「酷い。そんなのってないよ……」
「……ネグレクトが主だったようだ。真冬のベランダに長く放置されている姿を、一騎が視た」
「視た? それって、読心能力っていうやつで?」
「そうだ」
総士の話はこうだった。
彼らの相性は、決して最初から悪いものだったわけではない。甲洋は一騎にまるで関心がない様子だったし、合う合わないでいえば、むしろ波長は合っているような印象を総士は受けた。
ただ幾度か対話を試みる段階で一騎が意図せず彼の記憶を『視て』しまったことが、甲洋の感情を激しく揺さぶり、刺激してしまったのだと。
「怒ったの? あの子が?」
「僕も驚いた。酷く唸りながら、一騎を突き飛ばした」
一騎は感受性が豊かで、イヌの中でも特に優れた読心能力を持っていた。
甲洋の記憶を視てしまったのは、その力の強さがゆえに起きてしまった、ある種の事故といっても過言ではない。
どんな生き物だって、常に気を張り詰めていることは不可能だ。頑なに警戒心を解こうとしなかった甲洋にも、一瞬の気の緩みから心の解れは生じてしまった。そのとき傍に一騎がいたというだけの話だ。
「一騎は甲洋に心を砕いていた。その気持ちが強すぎたんだろう」
閉ざされた心に寄り添おうとする気持ちが、甲洋の最も触れられたくない場所を暴いてしまうという結果になった。
一騎は無遠慮に誰かの心に踏み込むようなイヌではない。けれどそこにどんな要因があるにせよ、踏み込まれた方には関係のない話だ。甲洋が混乱して感情的になってしまったとしても、誰も責めることはできない。
それが触れられたくない場所であればあるほど、自己を守ろうとする本能が働いてしまうのだ。
「だから一騎、落ち込んじゃったんだね」
「記憶に引きずられて同調してしまったというのもあるだろうが……多くは罪悪感だろうな」
一騎は悪くない。もちろん、甲洋もだ。
「ねぇ総士、その元の飼い主が、今どこにいるか分かる?」
「なにをするつもりだ」
「決まってるじゃん! そんな酷いことするなんて、一度ガツンと言ってやらなきゃ気が済まない!」
総士は溜息をつきながら首を左右に振り「やめておけ」と言った。
「なんで!」
「気持ちは分かるが、不可能だ」
「だからなんで?」
「……来主、僕らが通っていた中学校の近くに、喫茶店があったのを覚えているか?」
「え?」
突然の問いかけに戸惑いながらも、操は記憶の引き出しを探りだす。
自分と総士が通っていた高校。竜宮中学校だ。その近くに、確かに一軒だけ喫茶店があったことは記憶している。
「楽園、だっけ。一度も行ったことはないけど……それがなに?」
「そこは三ヶ月近く前に閉店し、今はもぬけの殻になっている。オーナー夫婦はその二階に住んでいたが、引っ越して現在の消息は不明だ」
「甲洋はそこんちの子だったの?」
総士が頷く。操はやり場のない憤りを覚えた。虐待の末に、そのまま置き去りにして引っ越してしまったということだ。そんなことをするくらいなら、どうして動物を飼おうなんて思ったのだろう。
操は涙が滲むのを止められなかった。
「ッ、お前が泣いたって仕方がない」
「わかってるよぅ……」
「……いや、その。すまない」
総士は白衣のポケットから綺麗に折りたたまれたハンカチを取りだすと、ぎこちない様子で操に差し出してくる。操は遠慮なくそれを受け取り、涙を拭うと少しだけ笑った。
「ありがとう総士。大丈夫、総士が言いたかったこと、おれわかるよ」
ただ一言「泣くな」と言えない不器用な従兄弟だ。
総士は操を泣かせるつもりなんかなかったし、甲洋のことも一騎のことも深く心配している。その優しさはハンカチを通してちゃんと伝わってきた。
涙を拭いながら、つくづく彼の傍にいるのが一騎でよかったと思う。イヌは同種間ほどではないにしろ、人間の心を感じとる力があるらしいから。
彼はきっと子供の頃から一緒にいるはずの操よりも、ずっと総士のことを理解している。
(おれと甲洋は、絶対にそんなふうにはなれないだろうな)
操はどうしたってイヌが怖いし、甲洋はきっと人間という生き物に何も期待していないだろう。あの瞳に映る自分は、彼を捨て去った楽園のオーナー夫婦となにも変わらないのかもしれない。
嫌だと思うのに、それをどうにかするだけの力がないことは操が一番よく知っていた。
甲洋の心を癒し、幸せにできる人間はきっとどこか他にいるはずだ。それを信じて、今は待つしかない。
「おれも飼い主になってくれそうな人、探してみるよ。あと、もうちょっとまともなご飯も作れるようにならないと」
「お前に関してはそちらが最優先事項だろうな」
「だよねぇ」
力なく笑いながら肩を落とした操からハンカチを受け取ると、総士は「そういえば」と言って発券機の方を見た。
「なにか食べていくか? 世話になっている礼だ。好きなものを選ぶといい」
「え!? いいの!?」
喜びかけた操だが、けれどすぐに思い直して首を左右に振った。
「やっぱいいや。おれだけ外でまともなもの食べるなんて、なんか悪いもん」
甲洋だって、本当はきっとお腹を空かせているに違いないのだ。
がんばってもう少しいいものが作れたら、次こそちゃんと食べてくれるかもしれない。そのときは、できれば一緒に食べたいと思う。
同様の理由で、ここ数日はバイト先のまかないも食べずに我慢している。昼は甲洋に握ったのと同じ、ボロボロのおにぎりを持参して食べていた。
「そうか」
「うん。甲洋が待ってる……かは分からないけど、おれもう帰るよ」
隣の椅子に丸めて置いていたモッズコートを引き寄せると席を立った操に、総士は優しく目を細めながらふわりと笑った。
「来主」
「ん、なに?」
「お前に頼んでよかった」
ひとつもまともに世話などできていないのだが。
総士に言われると嬉しくて、操は頬を赤らめながら「ありがとう」と笑って肩をすくめた。
*
「よし! 今日こそ美味しいご飯を作るぞ!」
その夜、部屋着にしているパーカーの袖をまくって、操は台所に立っていた。
まな板の上には鶏の腿肉が置いてある。焦がしたり生焼けにしたりしないよう、しっかり蒸し焼きにする予定だ。そのためには、まず火が通りやすいように切り分けるつもりでいるのだが。
鶏肉の皮の表面というのは、どうしてこうもブツブツとしていて気色が悪いのか。操はそれをじっと見つめたあと、ブルッと身を震わせた。
「でも、がんばる」
甲洋はいつもの本棚脇の定位置でじっと座っている。相変わらず一言も喋らない。この数日で心なしか頬がこけてきたようにも見えて、操は焦りを覚えながら包丁を手にした。
するとそこで、玄関から扉を控えめに叩く音が聞こえてきた。
「はーい?」
操はいったん包丁を置くと甲洋を振り返り「ちょっと待っててね」と声をかける。それから玄関へ行き、そっと扉を開けた。
するとそこには真っ白い耳と尻尾をもつチワワ、一騎の姿があった。
「うわぁ!? 一騎ぃ!?」
「よ、来主。なんか久しぶりだな」
反射的に後ろに数歩後退した操に笑いかけながら、ベージュのボアコートを羽織った一騎が苦笑する。彼は手に大きな荷物を持っていた。
「ちょっといいか? 渡したいものがあって来たんだけど」
「う、うん。わかった」
一騎が通路の方へ姿を消すので、操も靴を引っかけて外に出る。
ここはアパートの一階、角部屋だ。扉を開けると目の前は駐車場になっていて、一騎は乗ってきた自転車を街灯の真下に停めて操を待っていた。
「一体どうしたの? 総士は?」
「ああ、今夜は大学につめてるよ。あいつから連絡をもらってさ。今日、会ったんだろ?」
「うん」
操と一騎の距離はおよそ1メートル半。これが操の限界だ。その距離に一騎が小さく笑ったのが分かる。
「ご、ごめんね一騎。一騎は大丈夫ってわかってるんだけど……身体がどうしても」
「いいよ、気にしなくて」
そう言って、一騎は手にしていた大きな鞄と袋を二人のちょうど中間にそっと置いた。
「それなに?」
「確認してくれ」
言われた通り、操は二つの荷物に手を伸ばして足元に引き寄せた。しゃがみこんでから、まずは鞄の方を開けてみる。大きな旅行鞄だ。
「あ、これって……服?」
「ああ。イヌ用だから、すぐにでも着られるはずだ」
「ほんとだ! お尻のとこにちゃんと尻尾の切り込みが入ってる!」
「総士とだいたい背格好は同じだったはずだから、サイズも合ってると思う」
「ありがとう一騎!」
感激して見上げると、一騎は「買ったのは総士だよ」と言って笑った。
甲洋がいま着ているのは最初にここを訪れたときに身に着けていたシャツとジーンズ、あとは操のジャージやスウェットに無理やりハサミで尻尾穴を開けたものである。
上背がある彼に操の服は少し丈が短くて、手首と足首がつんつるてんの状態になっていた。
鞄の中には何着かの部屋着と、外出用のシャツやパンツ類、下着も数枚入っていた。
(そういえば甲洋、ノーパンだ……)
今さら気がついて考えなしだったことを後悔した。だからこれは非常に助かる。
操はさらにもう一つの、紙袋の方を開けると「わ」と声をあげた。中にはジャガイモやニンジン、玉ねぎといった野菜類が入っていた。
「野菜がたくさんだ! あと、これは……?」
野菜類と一緒に、茶封筒に入った本が出てくる。操はそれを取りだすと立ちあがり、表紙を見て「わっ」と短く声をあげた。
「これレシピ本!? オーブンレンジで簡単料理!?」
「ああ。それなら火を使わなくてもいいし、少しは楽だろ?」
「す、すごいや……美味しそうなのがいっぱいある……」
中身をパラパラと流し見るだけでも、結構な数のレシピがあって感動した。
これなら火加減を間違えて失敗することもないだろうし、自分でもできそうな気がしてくる。
「野菜は俺の実家からよく貰うんだ。俺と総士だけじゃ食べきれないから、少しだけど貰ってくれると助かる」
「ありがとう一騎……総士にもお礼を言わなくちゃ」
操はレシピ本を両腕で抱えて、胸に強く抱きしめた。
これならきっと上手くいく。甲洋だって、次こそは食べてくれるかもしれない。
「ごめんな来主。俺がうまくやれなかったから、お前に苦労をかけて」
「そんなことない。一騎はがんばったよ。総士から聞いたもん」
「だけど、甲洋のことは俺が頼まれたんだ。父さんから」
「父さん? えっと、総士の先生んとこの家だっけ?」
そうだと言って一騎が頷いた。
彼が父と呼んで慕うのは、総士の大学の教授でもある真壁史彦のことだ。
甲洋は弱っているところを保護され、入院生活を経たあとは真壁の家に預けられていたらしい。
しかしまるで心を開かず、塞ぎ込むばかりの甲洋に頭を悩ませた史彦は、同じイヌである一騎に彼を託した。人間とイヌでは読心能力が使えないし、なにより年齢が近い者同士──外見からおおよその年齢を予想したにすぎないが──のほうが、心を開きやすいのではないかと考えたからだ。
「そうだったんだ。でも、だからって一騎が謝ることないよ。悪いのは、甲洋に酷いことした人たちのほうでしょ?」
「……ありがとな、来主」
一騎は形のいい眉と白い耳を少しだけ力なく下げた状態で笑った。
「甲洋は、今どうしてる?」
「じっとしてるよ。あんまり動かない、かな」
泣きもしなければ笑いもしない。ただじっと座って操を見ているか、物憂げに窓の外に目を向けていることが多かった。彼が何を考えているのか、操にはまるで分からない。
「……尻尾はどうだ?」
「尻尾?」
小首を傾げて見せると、一騎が小さく頷いた。
「俺たちは耳や尻尾で感情表現をするんだ。あいつが来たばかりの頃は、ずっと足の間に尻尾を巻きこんで怖がってた。どんなに心に壁を作っても、そこだけは嘘をつけないんだよ」
操はこの数日、甲洋の尻尾がどう動いていたかを思いだしてみた。
「うーん。いま一騎が言ったみたいな形は、見たことないと思う。垂れさがってるか、たまに左の方に振ってるような気はする、かなぁ? 多分だけど」
それを聞いた一騎はどこかバツが悪そうな表情で黙り込み、俯いてしまった。
「か、一騎。なにかあるなら言って。じゃなきゃおれわかんない」
「いや……うん、そうだよな。俺たちはヒトの心が読めるわけじゃないけど、なんとなく感じとることはできるんだ。だから来主が不安に思ってることが、そのままあいつにも伝わってるのかもしれない」
「……おれのせいで、甲洋はストレスを感じてるってこと?」
一騎はなにも言わなかった。言えなかった、という方が正解かもしれない。
操は甲洋の立場に立って考えてみた。もし自分の傍にいる人間が、自分を恐れて拒絶していたら。それを敏感に感じ取ってしまったら、どう思うだろう。
(悲しいって思う。おれは何も悪いことしないのにって)
イヌはヒトの心を多少なりとも感じ取ることができる。ちゃんと分かっていたはずなのに。
「来主は悪くない。きっと甲洋もそれは分かってる。お前ががんばってることも」
「……そう、かな」
「優しいよ。あいつは」
「それも、心を読んだからわかるの?」
一騎は小さく笑って首を振った。
「目を見れば分かる。優しすぎるから、傷つきやすいんだ。きっと」
*
一騎は「あいつを頼むな」と言って帰っていった。
操は野菜と本が入った袋を台所の隅に置くと、鞄を抱えて居間に入った。
「こ、甲洋」
ピクリと黒い耳が動いて、少しだけ前方に傾いた。透明感のある瞳が操をじっと見つめている。
操は少しずつ彼ににじり寄り、ここが限界という位置でちょこんと正座すると膝の上に鞄を置いた。
距離にしておよそ1メートル半。一騎に対して近づけるギリギリのラインと同じだ。
「新しい服、一騎が持ってきてくれたよ。おれのじゃ窮屈だったでしょ。ごめんね」
甲洋はやっぱり何も言わない。そろそろこの沈黙にも慣れてきたような気がする。
「あのね。おれ、まだ君にちゃんと言ってなかったことがあって」
それは一騎と話をして、初めて気がついたことだった。
操はまだ自分の話を何ひとつしていない。恐怖心が先行して、甲洋にただ漠然とした不安を与えるばかりだったことを。
自分たちはイヌ同士ではないのだから、心の中を探り合うことだってできない。甲洋が何も話そうとしないからって、操まで口を閉ざしていていいわけはないのだ。
ちゃんと言葉にして、操自身が抱える不安の正体を伝えなくてはいけないと思った。
「きっと君はもう気づいてると思うけど……おれ、イヌが怖い。子供の頃に追いかけられたことがあって……そのときね、総士が怪我しちゃったんだ。それがショックで、怖くて、忘れられなくて」
大きな身体で牙を剥き、唸りながら吠え立てるブルドッグの姿を思いだす。操は思わず肩を竦め、気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸をした。
「だから本当は、預かるのも嫌だったんだ。今も正直、怖い。でもこれはおれの問題で……一騎に対しても同じ。いつもこれ以上は近づけなくて、きっと嫌な思いをさせてる」
一騎はいつも笑って許してくれるけれど。でも、いい気持ちはしていないだろうと思う。友達だと思っているのに、気軽に肩を触れ合わせることすらできないなんて。
「つまり何が言いたいかっていうと、おれは君個人のことを嫌ってるわけじゃないし、ご飯もちゃんと食べてほしいし、喋ってほしいし、あとは……えっと、ここにいてほしいって、思ってる」
「!」
一瞬、甲洋が息を呑んだような気がする。
それはほんの些細な反応でしかなかったけれど、彼が初めて示した、なんらかのサインだった。
「おれなんかじゃ頼りないよね。それはわかってるんだ。イヌが怖いって気持ちも、きっと抑えられない。でも、がんばるよ。ずっと不安にさせて、ごめんな」
甲洋は鞄の上に添えられている操の両手をじっと見つめた。指先の絆創膏には少し血が滲んでいる。慣れない包丁による傷と、火傷の痕だ。
三日前にはなかったはずのそれらを見て何を思ったのか、彼はふっと息を吐きだした。
「別にいい」
「え?」
操は耳を疑った。
「甲洋、いまなんて」
「……別に、気にしてないから」
少し硬いが、静かで優しい声だった。
操はたったいま起こったことが信じられず、ポカンと口を開けた。甲洋はそっけなく視線を外し、そのまま顔も背けてしまう。
(甲洋が……喋った……)
驚きのあと、じわじわと滲むように喜びが湧きあがる。
少しだけ、ほんの少しだけ、甲洋が心の扉を開いてくれた。そんな気がして。嬉しさと感動のあまり、肌が粟立つのを感じた。
「うぅ……ぅ~……」
「?」
「やったー!!」
「ッ!」
込み上げてくるものを押さえきれず万歳をしだした操に、甲洋が何事かとギョっとしてこちらを見た。
「甲洋が喋った! 喋ってくれた! 嬉しいー!!」
万歳を繰り返す操を見つめる甲洋の顔には、思いっきり「変なやつ」と書かれているような気がしたが、それすらも今は嬉しくて、操は笑いながら、少しだけ泣いた。
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