柔らかな布団に折り重なる身体を沈めて、ぴったりと抱き合った。
重なる胸から少し早めの鼓動が伝わる。
甲洋が吐息混じりに操の名を呼び、そっと啄むような口づけを落とした。
(甲洋の唇、いつもより熱い)
繰り返し、触れるだけのキスをする。ちゅ、ちゅ、という濡れた音に呼吸が乱れ、やがてどちらからともなく口が開くと、甲洋の舌がどこか遠慮がちに潜り込んできた。
「ッ、ん」
操は少しだけ驚いて、肩をピクンと震わせる。
柔らかく濡れたそれは、大好きなオレンジジュースよりもずっと甘く感じた。もっとその味を確かめたくて、両腕で甲洋の頭を引き寄せる。
「ん、ぅッ……!」
ぎこちなく歯列をなぞった舌が操の舌先と擦れ合うと、背筋に小さな電気が走った。思考が溶けたようになり、操は一瞬でその感覚の虜になる。
自ら積極的に舌を差し出し、押し合うみたいにしながら絡め合う。
甲洋の舌は操のものよりも少しだけ大きかった。蕩けるような柔らかさと、頬の内側の滑らかさ。つるつるとした綺麗な歯の並び。こんなに深く口付けなければ決して知ることがなかった、甲洋の形。嬉しくて、胸がいっぱいになる。
「ふ、ぁ……ッ」
甲洋の舌先が操の舌の裏側を引っ掻いた。驚くほど甘い痺れが走って、頭の中がじんわりと蒸されように熱を帯びていく。どこで息をしたらいいかも分からず、クラクラと目眩がした。絡め合うほどに濡れた音が大きくなる。
(きもちいい……これ、食べたいな……)
覚えのある、あの衝動が込み上げる。
噎せるような桜の香りに侵されて、あの時の操は自覚もないままに欲情していたのだ。きっと甲洋もそうだったのだと思う。
もっと早く気づいていればと、口惜しさに焦がれた操は、甲洋の舌に緩く歯を立てた。
「ぅ、ぁ……っ!」
甲洋の身体がビクンと跳ねる。驚いた彼は咄嗟に唇を離してしまった。銀色の糸が名残を惜しむようにふたりを繋ぎ、やがて途切れて口端を伝う。
彼は真っ赤な顔で目を白黒させていた。うっすらと汗ばみ、はかはかと呼吸を乱して、濡れた唇さえも赤く染め上げている。その反応を、可愛いと思った。
「こうよう、かわいい」
「きゅ、急に、噛むな」
「ごめんね……痛かった?」
「痛くはない……だけど、ビックリするから」
黒い耳がペタリと下向き、微かに震えていた。毛がギザギザと逆立っている。
操はふと、さっきの甲洋の言葉を思いだした。食べたいからだと、彼はそう言った。同じだ。操もそうだった。恋しくて、愛しくて、だから食べてしまいたかった。
けれど彼は操にそんな欲望をぶつけることを恐れていた。きっと今も、本当は怖くて堪らないのだと思う。
(弱虫だな、甲洋は)
操はその大きな耳を優しく撫でた。可愛い。毛がふかふかとしていて、熱くて、肉厚で、ぷるぷると震えていて。
愛おしさに胸が締めつけられる。優しくて弱虫な、操だけのイヌ。
あげたいなと思った。甲洋が望むなら、なんだって。来主操の全部をあげたい。
「ねぇ、食べていいよ。もう我慢しないで」
甲洋は答えの代わりに喉を鳴らした。
「おれをあげる。だからおれを、甲洋の特別にしてね」
操は写真立ての中で笑っていた白猫のことを思いだした。
ただ朽ち果てるだけの廃墟になった楽園。始まりもせずに終わった初恋。雨が降る間際の濁った海。彼が失くしたもの。得られなかったもの全部。
全てを忘れない甲洋が、その全てを思い出にして、今は操だけをその瞳に映している。
甲洋が、泣きそうな顔をしながらふっと笑った。
「来主は、もうとっくになってるよ。俺の中で」
「本当? 嬉しい……甲洋、大好き。おれも君が、世界でいちばん特別だよ」
「……うん」
甲洋はたったそれだけ返すのが精一杯のようだった。操の身体を強く抱きしめ、吐く息を震わせている。同じだけの強さで抱き返しながら、操は彼の黒い尻尾が見たこともないくらい大きく揺れていることに気がついた。
嘘をつくことができないそこは、弾むように忙しなく左右に振られている。
「甲洋、かわ」
「もう可愛いって言うの禁止……お前の方が、ずっと可愛い」
「!」
耳元で言われ、操は肩を跳ねさせる。どちらかと言えば言われ慣れている言葉だけれど、甲洋に言われたのは初めてだ。
途端に恥ずかしくなって、もじもじとしながらその肩に目元を擦りつけた。
(そっか、好きなひとに可愛いって言われると、こんな気持ちになるんだ)
言った方も恥ずかしいのか、甲洋が首筋を赤く染めていた。まるで誘われているみたいな気がして、操はそこに唇を寄せるとちゅうっと音を立ててキスをする。
「ッ……!」
甲洋の身体がビクンと跳ねる。彼はもっともっと赤くなって操を見た。困っているようにも、怒っているようにも見える複雑そうな表情を、ふわふわとした気持ちで見つめる。
「お前、もう……知らないからな……」
低く呟きながら、甲洋が悩ましげに潤んだ瞳を細めて見せた。
*
剥ぎ取られたシャツが、布団の端で丸くなっている。
薄明かりの室内にはふたり分の忙しない呼吸が響き、熱気を立ち上らせていた。
「くぅ、んっ……ぁ、こう、よ」
耳の裏側や首周りを、甲洋の唇が何度も辿る。
操の身体に覆いかぶさり、彼は夢中で匂いを嗅いでは薄い皮膚を貪っていた。
操は初めての感覚にただ震えながら、甲洋にしがみつくことしかできない。彼が皮膚の上で鼻をすんすんと鳴らすたび、こそばゆさと羞恥に肌が染まった。
「ゃ、ぁ……!」
鎖骨を辿り、熱い舌が胸の片方に触れると、ちゅうと音を立てながら吸い付いてくる。
軽く歯を立てられ、腹の奥の方に向ってジンと何かが響くのを感じた。操はヒクヒクと身体を跳ねさせて、足先でシーツを掻く。
ともすれば一方的ともとれる甲洋の交尾前行動は、飽きることなく繰り返された。
身体中にゆるゆると手の平を這わせ、匂いを嗅いで、舌で味わい、歯を立てる。本能に従い、息を荒げながら、隅々まで貪ろうとするかのように。
けれど彼は決して操を乱暴に扱うことはしなかった。時おり緩く歯を立てても、強く吸い上げて花びらのような痕を残しても。余裕のない甲洋がギリギリのところで理性を繋ぎ止めているのが、素肌を通して伝わってくるような気がした。
「んっ、ぁ……ねぇ、におい……そんなに?」
「ッ、はぁ……うん、いい。来主の匂い、好きだ。興奮する」
「で、も、くすぐった、ぃ」
息も絶え絶えに泣き言を言う操に、甲洋は吐息だけで「ごめん」と言ったが、やめるつもりはないようだった。身体をひっくり返され、剥き出しになった白い項に緩く歯を立てられると、身体が面白いほど大きく跳ねる。
甲洋の唇が背中を辿り、肩甲骨のでっぱりを甘噛みしたあと、内側の緩やかな窪みにキスの雨を降らせる。そうしている間も、後ろから平らな胸をふにふにと揉みしだかれた。
「ふぁ、ん! ァ、は……っ」
執拗に繰り返される愛撫に、彼はやっぱりイヌなんだなと改めて思う。
まるで本当に食べられているみたいだ。けれど怖いとは微塵も感じなかった。むしろ甲洋になら、本当に頭からバリバリと食べられてしまったとしても許してしまいそうな気がする。
それに、くすぐったいだけじゃなくなってきているのも事実だ。
そこかしこを舐め回されているうちに、神経が剥き出しになったみたいに皮膚が敏感になっていた。やめてほしいような気がするのに、もっとして欲しいと思ってしまう。頭がぼうっとして、わけが分からなくなってきた。
「はふ……ッ、ん」
操の身体はもはやクタクタだ。甲洋の腕によって再び仰向けにひっくり返されても分からないくらい、思考がふやけきってどうしようもなくなっている。
「こう、よ……舐めるの、まだ、するのぉ?」
「……する」
ヒクつく身体に覆いかぶさっていた甲洋は半身を起こして膝立ちになると、邪魔くさいとばかりにシャツを乱暴な動作で脱ぎ捨てた。
その仕草がやけに男っぽくて、心臓がドキリと跳ね上がる。
頼りない明かりの中に浮き上がった素肌は、しっとりと汗ばんで艶を放っていた。細いように見えて、その身体はしっかりとした骨組みによって構成されている。広い肩幅にすら胸が疼くのを感じて、操はこくりと喉を鳴らした。
甲洋の指先がつうっと腹のラインをなぞった。ヒクンと身を震わせていると、やがてその人差し指が操のヘソの窪みを引っかく。一瞬、ピリリとしたものが走った。
「んっ……!」
甲洋が身体を下方へと移動させ、操のヘソに顔を寄せる。そして窪みに鼻を押し付け、すんすんと匂いを嗅いだ。
「ぇッ、や! そ、そこも嗅ぐのぉ?」
じわりと涙を浮かべ、身をよじる。しかし甲洋は操の腰を片腕でぐるりと抱き込み、動けないように固定すると、鼻先をグリグリと押し付けるようにしながら匂いを吸い込んだ。はぁ、と漏らされた息が熱い。
「ひゃッ、ぁ!」
舌が窪みにねじ込まれる。甲洋はそこを抉るように舐めほぐし、ちゅくちゅくと音を立てながら吸い上げた。ピリピリとした痺れが腹の奥へ向かって響き渡る。押さえ込まれている腰がビクビクと大きくのたうった。
「ぁうぅッ、んっ! や……おなか、ぁ、ジンジンして、ひびくよぉ……っ」
嫌々と首を振って悶えていると、甲洋の手が操のウエストにかかった。
下着ごと全て下ろされてしまうと、小ぶりな陰茎がぷるんと揺れながら顔をだす。それは少しだけ勃起して、先端が僅かに濡れていた。
全てを剥ぎ取られ、いよいよ丸裸にされた心許なさに肌が粟立つ。
「ぁ……やだ……!」
いつの間にかヘソから顔を上げていた甲洋が、それをじっと見つめて喉を鳴らしていた。
操は反射的に両膝を立てて閉じようとしたが、甲洋の身体が割り込んでいるせいでそれは叶わない。
「……色、薄いな」
「そう、なのかな……?」
「毛も薄い……というより、ほとんど……生えてない……?」
「おかしい……?」
「おかしくない。可愛い」
押し殺したような声で、即答だった。さっきは照れて恥ずかしそうにしていたくせに、甲洋は目の前のものに気をとられて、もはやそれどころではなくなっている。瞬きの回数も少ないし、まさに穴が空くほど見られているという状態だ。
これはかなり恥ずかしい。でも甲洋の尻尾は大きく揺れて嬉しそうだった。拒めば水を差してしまいそうで、操は逃げだしたいのをぐっと堪える。
「子供みたいだ、来主のここ」
「ッ、ぁ!」
甲洋の手が操のそれをゆるりと撫でた。操は握りしめた両手を胸に押しつけ、緊張と微かな不安から息をごくりと飲み込んだ。
恐る恐る見た甲洋の目は、普段の理知的な色を失いつつあった。肩で息をしながら、獲物を狩るような鋭さを滲ませている。これがオスの目なのかと、ぼんやり思う。
彼は無言で操の両膝に手をかけ、ぐっと割り開かせたと同時に躊躇なくそこに顔を寄せた。
「え、甲洋……!?」
緩く勃ち上がっている性器の付け根に、熱い息がかかる。赤ん坊の産毛のような淡い下生えに鼻を擦りつけられて、すんすんと匂いを吸い込まれた。
「そ、そんなとこ、嗅いじゃやだ!」
操は身体中を真っ赤に染め上げると、甲洋の髪を両手で掴んで引き剥がそうとする。だが彼は動じることなく操の太腿を外側からそれぞれ抱え込むようにして、より一層そこに執着しはじめた。
泣きながら身をよじっていると、吸い込むだけでは足りなくなってきた甲洋の唇が、性器に音を立ててキスをした。
「ひぁッ……!」
それは生まれて初めての感覚だった。繰り返しキスをされ、とろとろの舌を這わされる。その度にビクンビクンと身体が跳ね上がるのを止められない。
そのうち甲洋は辛抱たまらずといった様子で、操のものをぱっくりと口の中に収めてしまった。熱い口内でじゅうっと音を立てて吸い上げられると、内腿が小刻みに痙攣する。
「やっ、ああぁ!」
飴を転がすように舌で嬲られ、操は甲洋の頭に爪を立てながら嫌々と首を振る。焼けるような鋭い快感に押しだされ、涙が溢れて止まらない。
「こん、なっ、の……ッ、ぁッくぅ、ん! ァ、無理、ぃ……っ」
自慰だってまともにしたことがない身体だ。恋も性も、まるで興味が持てないまま、なんの疑問も抱かずに素通りしてきてしまった。そんな身体にこの刺激は強すぎる。
甲洋の口の中で、性器が痛いくらい張り詰めているのが分かった。
いやらしい水音を響かせながら舐めしゃぶられたそれに、緩く歯を立てられる。操は目を見開き、涙を散らしながら絶頂を迎えた。
「ひッ、ぃ、ッ──ァっ……──ッ!!」
波のように襲ってきたそれは、待ち構えていたかのように操を頭から飲み込んだ。
目の前が真っ白で、悲鳴をあげることすらままならない。ただ溺れたようにはくはくと口を開閉し、布団から浮き上がるほど背を反らす。やがて一気に突き落とされたように脱力した。
「ぁ、ッ……は、ぁ……ぁ……」
痺れるような余韻に身を震わせ、さまよわせた視線の先では、甲洋がごくりと喉を鳴らしていた。操が放ったもので濡れた下唇を、赤い舌がゆるりと舐めとっている。
「のんだ、の……?」
整わない呼吸のまま呆然と問えば、甲洋は目を細めながら頷いた。瞳を蕩けさせ、はぁっと熱っぽい息を漏らしている。
「う、うそぉ……」
操が小刻みに震えながら涙を溢れさせると、彼は「ごめん」と小さく謝罪した。
「今からもっと恥ずかしい思い、させると思う」
「な、ぇっ? うわぁッ!?」
布団にくたりと沈んでいた身体がひっくり返された。
甲洋は操の下腹に腕を回し、ぐっと持ち上げると膝を立たせる。上半身をシーツに突っ伏し、尻だけを高く突きだす体勢をとらされた。
「ッ……!?」
自分でも見たことがない奥まった場所に、痛いくらいの視線を感じる。
操が悲鳴をあげるより先に、甲洋の両手が尻たぶにかかった。彼はつるりと丸みを帯びたその片方に、ちゅっと音を立ててキスをする。
「ヒッ、やッ!? う、うそっ、そこもぉ!?」
尻の肉にまで吸い付かれ、操は思わず目を剥いた。
誰にも見せたことのない場所を、自分でも最低限触れることがない場所を、全て甲洋に暴かれている。信じられなくて、頭が混乱してしまう。
淡い谷間はさっきまで受けていた口淫によって、先走りと唾液でしとどに濡れていた。甲洋は薄い尻の肉キスをしながら、右手の人差し指を窄まりに這わせる。背筋にぞわりとしたものが駆け抜けた。
「やぁっ、やだ……ぁッ、こうよ……そんなとこ、だめだよぉ……っ!」
ぬるりと円を描くようにくすぐられて、思わず身を捩る。どうにかして逃れようとしたが、人差し指の先端がつぷりと挿し込まれると、身体が強張って動けなくなった。
「ひぅッ!?」
第一関節まで潜り込んだ指先が、マッサージをするかのように浅い場所を出入りする。濡れているせいか痛みはないが、えも言われぬ異物感が操の身体を苛んだ。
ときどき思いだしたように尻たぶにキスを落とされると、腰がヒクンと跳ねてしまう。
操はもう何がなんだか、わけが分からない状態になっていた。チクチクとささやかな水音を立てながらほぐされているうちに、そこからじわりと不可解な熱が広がっていくのを感じる。
皮膚がぞわぞわと粟立ち、背骨が抜き取られたみたいに力が抜けていった。
「ぁッ、ぁん……ッ、ぁ……は、ッ……!」
高く掲げた尻が、無意識にもじもじと揺れはじめる。甲洋が根気よく解きほぐそうとしている場所が、きゅんと疼いて切なくなってきた。
(なにこれぇ……お尻が変な感じになってきちゃったよぉ……)
半開きの瞳をとろりと蕩けさせていると、指がさらに深くまで押し入ってきた。
「あ、ぁ……ッ、指、甲洋の、ゆび、が……」
ほんのりと濡れて綻びかけた穴に、指がぬるりと深くまで侵入してくる。
異物感が増したところに圧迫感まで加わると、喉が詰まったようになってまともに声すら上げられない。
「ッ、ァ……っ」
じわじわと時間をかけて入り込んだ指が、ゆっくりと探るような動きで抜き挿しされる。内壁をぐるりと擦り上げる感触のリアルさに、操は指先が白く染まるほどシーツを握りしめた。
なんともいえない妙な心地だ。けれど根気よく何度も中を擦られているうちに、さっきよりもずっとおかしな感覚が込み上げてきた。
「ふぁぁっ、ぁ、ん……!」
飲み込む瞬間の苦しさが、引き抜かれる瞬間にはどうでもよくなってしまう。ずるりと抜けていく感覚が、背徳感を伴いながら身体の芯を駆け抜ける。とてもいけないことをしているような気がするのに、それが癖になりそうで少し怖い。
さっき達したはずの性器は、ゆるゆると再び勃ちあがりかけていた。それはこの行為に、身体が悦んでいる証だった。
「痛くない?」
「ぅ、ん……痛く、ない……でも、なんか、おしりが変……」
「痛かったら言って。傷つけたくないから」
「ん……」
甲洋の手が労るように腰を撫でる。押し殺した声で、それでも優しく囁かれた言葉にホッとして、操はシーツに頬を押しつけたままこくんと頷いた。
甲洋は時おり指に舌を這わせて潤いを足しながら、長い時間をかけて徐々に指を増やしていった。一本、二本と、やがて操のそこは三本もの指を飲み込んだ。圧迫感が比べ物にならないくらい増したが、そのぶんあのなんともいえない感覚も増す。ぐぷ、ぐぷ、という滑った水音にすら気持ちが高ぶっていくのを感じて、意味をなさない嬌声が止めどなく口から溢れた。
「ぁ、ぅッんっ……あ、ぁっ……ッ、ふ……ぁっ、ん……っ!」
「来主……いい?」
問いかけに、操は何度もこくこくと頷いた。
「い、い……ぁ、どうしよ……これ、きもち、い……ぁ、こう、よ」
「……よかった」
ホッとしたように甲洋が笑う。
操の身体はあまりにも素直に、そして柔軟に与えられる刺激を飲み込んでいた。誰のものでもなかった身体が、甲洋のためだけに作り変えられていくような気がする。操はそれを嬉しいと感じた。
だけど甲洋はずっと我慢したままだ。操が苦痛を感じずに済むよう時間をかける代わりに、彼は必死で欲求を抑え込んでいる。甲洋が熱い息を漏らす音を聞いて、操はどうしようもなく切ない気持ちになった。
「こう、よ」
首を捻って背後を見れば、酷く潤んだ瞳と視線が交わる。
「も……いい、よ」
「……まだ」
「早く、ねぇ甲洋」
息を呑んだ甲洋の指が、思わずといった様子で中からずるりと引き抜かれる。その感覚に身を震わせながら、操は身体を横に倒すと力が入らない両腕でどうにか半身を起こした。
「ねぇ、ほら……甲洋の、もうこんなだもん」
甲洋の身体の中心は目に見えて膨らみを帯びていた。テントを張ったようになっているそこは窮屈そうで、操は彼のヘソの下に手をかけると下着ごと掴んでグイとずらした。
「ッ!」
大きく肩を跳ねさせて、甲洋が唇を引き結ぶ。
ぐんと反り返っている屹立が、可哀想なくらい震えて血管を浮き上がらせていた。
それは操のものより一回り大きくて、バラの花のような濃い色をしていた。焦茶の下生えも十分に生え揃っている。同じ男で年齢もひとつしか違わないのに、どこか未発達なままの自分とは、まるで違ったものに見えた。
「甲洋のは、大人の形をしているね」
操はうっとりと呟き、右手でそっと太い竿に触れた。甲洋の肩が揺れる。
「これをおれのあそこに挿れるんでしょ? なんか嘘みたい」
手の中で、それはピクピクと健気に震えていた。そっと握り込めば、甲洋が喉の奥で低い呻きを漏らす。悩ましげに寄せられた眉と、赤い唇から忙しくなく溢れる吐息に興奮する。
遠慮がちにゆるゆると軽く撫でてみると、肉茎がより膨らみを増した気がした。甲洋の黒い大きな耳はすっかり倒れて、快感が走るたびに後ろの方では長い尻尾がピクンピクンと跳ねている。
(かわいい)
身体の芯が疼いた。食べてもらうつもりでいたのに、やっぱり食べたいと思ってしまう。可愛くて、大好きな甲洋を、いっそ頭から。
操は蕩けた思考で正面から彼に身を寄せた。その肩に両手を置くと膝立ちになり、甲洋の身体を跨ぐような姿勢をとる。
「く、来主」
戸惑いながらも期待と興奮を滲ませた瞳を見下ろし、操は笑った。
その頬に手をやって、震える耳にキスをする。唇でぱくりと食んで、ちゅうと音を立てながら吸いついてみた。
「ッ、ぅ、ぁ! く、来主……ッ」
「ぁ、んむ……ふふ、こうよう、耳、感じるんだ」
甲洋がわずかに身をよじり、操の腰を掴むように両手をかけた。こそばゆさに尻が揺れたが、操は構わず耳の内側に舌を這わせてぬるりと舐める。
「ぁ、こら……っ」
「はぁ……ねぇ、しよ……? 早く君と、ひとつになりたい」
耳に唇を押しつけたまま言った。
「……あぁ、くそ」
甲洋は操の平らな胸に額を押し付けながら、彼にしては珍しく乱暴な言葉を吐きだした。それからキッと睨むように操を見上げる。
「本当に、初めてなんだよな……?」
操はことりと首を傾げた。
「そうだよ。なんでそんなこと聞くの?」
「……別に。分かってるけど、なんとなく」
まるで玄人じみた誘い方をしてしまったなんて、操に分かるはずがない。ましてや蕩けきった表情が、ちぐはぐな幼さが、どれだけ扇情的であるのかなんて。
甲洋はなぜだか少しだけ苛立ったように唇を引き結び、操の身体を抱え込むと布団に押し倒した。そうすると自然と彼の腰を両足で挟み込む形になる。
伸し掛かってくる重みを受け止めて、操は胸を高鳴らせた。
膝裏にかかった手で足をいっそう開かされると、濡れた穴にその熱い切っ先が触れる。
(セックスするんだ、おれたち)
あるいは交尾と呼ぶべきだろうか。ふわふわとした意識を掻き分けて、今さらのように実感が込み上げる。初めてなのに、不安や恐れがひとつもなかった。
(嬉しい)
ずっと苦しかった。だから探していた。甲洋を一番近くに感じる方法を。いっそひとつになって、溶け合ってしまえたらいいのにと。その願いが、ようやく叶う。
高ぶる感情に任せて、操は甲洋の首に両腕を巻きつけると強く引きよせた。息を荒げた甲洋が、耳元で「いくよ」と吐き出す声にこくんと頷く。
甲洋の屹立が、ぐっと穴を圧迫した。ぐち、という鈍い水音がして、指とは比べ物にならない大きくて熱い塊が中に潜り込んでくる。
「あぅッ、ん、ひっ……!」
入ってくる。甲洋の肉が、操の肉を掻き分けて。ギリギリまで引き伸ばされた穴が引きつり、痛みが走る。凄まじい圧迫感に息を吸うことも、吐き出すこともままならない。
思わず甲洋の背に爪を立てながら小刻みに震えた。それに気づいた甲洋は、まだ全てを挿入しきっていない状態で動きをとめてしまう。操は慌てて首を左右に振った。
「ぃ、い……! いい、から、そのままきて……!」
「……ッ、でも」
「やめちゃやだ……ねぇ、お願い……」
痛みも苦しさも、燃えるような熱にのまれて麻痺しはじめている。
操はペタリと寝ている甲洋の耳を優しく撫でた。汗ばんだ頬に髪を張り付けながら、彼は操よりよほど辛そうな顔をする。操はその頭を抱き込んで笑った。
「だいじょうぶ、おれは傷つかないよ。だからそんな顔しないで」
「くるす……」
「大好き、甲洋」
「ッ……!」
甲洋が奥歯を噛みしめる。操を抱く腕に力を込めて、腹を括ったように最後まで高ぶりを押し込んだ。操はその衝撃に声も出せなかったが、皮膚が一瞬にして歓喜に粟立つのを感じた。
身体の中に甲洋がいる。ビクビクと脈打って、操を満たす。1メートル以上も離れていた距離が0になって、ひとつになった。嬉しい。嬉しい。ただそれだけだった。
これ以上ないくらい深く繋がると、ふたりは言葉もなく息を荒げて抱き合った。濡れた粘膜がその形を確かめるように、甲洋を締めつけるのが分かる。
操の腕の中で、甲洋が小さくすんと鼻を鳴らした。
「甲洋……泣いてるの?」
操のこめかみあたりに目元を押しつける甲洋の髪を、そっと撫でる。彼は掠れた声で、素直に「うん」と頷いた。
顔が見たい気がしたけれど、またこの次にしようと思う。代わりにもう一度「好きだよ」と囁くと、彼はふっと笑って「俺も」と言った。
「来主が好きだ」
「うん」
「大好きなんだ」
「うん……嬉しい」
「俺も、嬉しい」
裸の心で紡ぐ言葉はあまりにも拙くて、切ないくらいひたむきだった。
もっと沢山のことを伝えたい気がするのに、だけどそれ以上は言葉にならない。心も身体も、甲洋だけでいっぱいだった。
会話を諦め、ふたりは唇を重ね合わせた。互いに舌を絡めながら、ふとこの味はさっき自分が出したものの味なのかなと思いはしたが、甲洋が小さく腰を揺らめかせた瞬間どうでもよくなる。
「んぅ、ァ……っ!」
奥を突かれた衝撃に、合わさっていた唇がほどける。そのまま幾度か突かれる度に、腹の奥に鋭い熱が広がった。
脈打つものが肉壁をこじ開けては引いていく。ゆっくりと、やがて徐々にペースを上げて中を重く穿つ。
手間暇をかけてほぐされたそこは、それでもまだ初めての行為に強張ってはいたけれど、きつく抱きしめられながら揺さぶられているうちに、熱く蕩けるようにほどけていった。
「はっ、ぁ……来主……っ」
感じ入る甲洋の声が、吐息が、心と鼓膜を震わせる。彼がこの身体で感じているのだと思うほどに、操もまた高ぶらされた。
甲洋と繋がっている場所は、炎のように熱く激しく操の身体を苛んでいる。突かれるごとに内臓が押し上げられ、その反動でひっきりなしに声が押しだされた。
「ぁう、あっ、こう……よ……ぁつ、い……ッ、熱いよぉ……!」
頭の芯までじわじわと蒸されて、ゼリーのように溶けていくような気がする。いつ焼き切れたっておかしくない。どこまで意識を繋ぎ止めていられるか分からなかった。
そのとき、甲洋がギリギリまで引き抜いたものを僅かに角度を変えながら突き入れてきた。
「ッ──!?」
瞬間、まだ上があるのかと思うほどの熱さが競り上がり、操は目を見開いて涙を散らす。
「ッ、ぁ、あ……!?」
甲洋が、ふっと笑った。
「ここ?」
そう言いながら、中の比較的浅い一点を先端でノックするように擦りつける。
操はビクビクと大きく身体を痙攣させ、嫌々と首を左右に振った。
「やっ、やぁ……! ぁッ、そこやだ! だめ、だめ!」
「さっきは上手く探せなかったんだけど……やっと見つけた」
「なに、が、ァ……やめ、ぁ……ひッ、ああぁ……っ!」
両膝の裏に手がかかり、腰が浮き上がるほど深く身体を二つに折り曲げられた。
そして甲洋は操が酷く感じてしまう場所を目がけて、抽送を再開する。擦り上げるようにしながら奥まで突かれると、操の淡い屹立が赤く腫れ上がったように膨らんで蜜を零した。
痛みにも似た強烈な感覚を、操は上手く快感として認識できない。ただ蛇口が壊れた水道みたいに、突き上げられるたびに性器からぴゅ、ぴゅ、と飛沫が上がった。
「だめぇ……っ、そこ、こうよ、こうよぉ……!」
「来主……っ、好きだ」
呟かれた言葉に、混乱していた意識が面白いほど一瞬で蕩かされるのを感じた。
甲洋は何度も繰り返し操の名前を呼んだ。時おり甘く小さな喘ぎを零しながら、いっそ鼓膜が腫れてしまいそうなくらい、好きだと繰り返した。
(おれも好き。好きだよ。大好き、甲洋)
押し寄せてくる波が大きすぎて、声は出せても言葉にはならない。だからせめて心の中で、操も同じだけ愛の言葉を繰り返す。
宙に浮いた足先が、甲洋の動きに合わせて揺れていた。彼の頬を伝った汗が、操の皮膚にぽとりと落ちる。室内に満ちるふたつの呼吸は荒々しくて、己もまた獣に過ぎないのだと、操は思った。
(──気持ちいい)
今にも爆ぜるという瞬間、互いにきつく抱き合った。耳元で甲洋が呻く。操はその腕の中で身体を大きくしならせて、声もなく絶頂にさらわれる。触れられてもいないのに、操のそれは白い精を吐きだしていた。
甲洋がぶるりと震え、腹の中で何か熱いものが弾けるのを感じる。そのままぐったりと沈み込んでくる無防備さが愛しくて、 遠く霞んでいく意識で操は懸命にその身体を抱きしめた。
「っ、ぁ……あ……」
痺れるように尾を引く余韻に、うまく身体が動かない。操の上で忙しない呼吸を繰り返す甲洋の髪に、指先を絡めるだけで精一杯だった。
「ふぁ、んッ!」
ズルリと中から引き抜かれる感触に身を震わせ、操はほうっと息をついた。
穴が閉じきる前に甲洋が放ったものがとろりと溢れ出るのが分かったけれど、身じろぐことすら今は億劫に感じる。このまま眠ってしまえたら、どんなに気持ちがいいだろう。
「来主……」
ふっと意識を手放しかけたとき、名前を呼ばれた。
「は、ぇ……?」
「 ……ごめん」
なにが起こったのか、すぐには理解できなかった。どういうわけか、操は身体をひっくり返されて四つん這いの体勢をとられていた。
「え!?」
慌てて振り向けば、操の背に覆いかぶさろうとしていた甲洋と目が合う。
彼は肩で息をしながら、鋭い瞳を向けてくる。そこに幾ばくかの理性しか残されていないことは、操の目にも明白だった。なにより、達したばかりであるはずの甲洋自身が、まるで力を失っていなかった。
そこで操はようやく、彼が何に対して謝罪したのかを理解した。
「まだ、するのぉ?」
「……ごめん」
「あッ、や、ひぃんっ……!?」
二度目の謝罪と共に熱い楔が再び突き入れられる。
「まだ足りない……もっと、お前を食べさせて」
聞いたこともないくらい低い声で呟かれた言葉を最後に、操にはそこから先の記憶がない。
*
目を覚ますと、操はベッドの中にいた。
カーテンの隙間から零れる白い光が室内を照らし、とっくに夜が終わっていたことを告げている。
「来主……起きた?」
ぼんやりと瞬きをしながら天井を見ていると、視界の横から甲洋がひょいっと顔を覗かせる。酷く心配そうに眉を下げている彼は、ジーンズだけを身に着けた格好でベッドの縁に手をついて身を乗りだしていた。
「こ、よ」
彼の名を呼びかけて、喉がヒリヒリと痛んだ。軽く咳き込んだ操に、甲洋は「いま水を持ってくるから」と言って部屋を飛び出し、すぐにまた戻ってきた。
「起き上がれる?」
水が入ったグラスを手にした甲洋は、ベッドに片膝で乗り上げて腰を下ろすと操が起き上がる動作を助けた。
どうにかして起こした身体を引きよせられて、操はくったりと甲洋によりかかる。それから口元に運ばれたグラスに口をつけ、一口飲んだ。カラカラに乾いた身体にほどよく冷えた水が浸透していくようで、ホッと息をつく。
「大丈夫?」
問いかけながら、甲洋がグラスをキャビネットの上に置いた。
「んん……なんか、腰が変……」
「痛む……?」
「んー……あそこがじんじんして重い。まだ君のが入ってるみたいな……?」
「……ごめん」
しゅん、と耳を下向きにさせ、甲洋が項垂れた。
「抑えがきかなかった……」
操はしょんぼりとしている甲洋を見つめながら、昨夜のことを思いだそうとした。
自分の気持ちを自覚して、生まれて初めての性行為に及んだことはもちろん覚えている。けれど、二度目からは記憶が部分的にしか残されていなかった。あのあと、何度したのかも覚えていない。
自力で起き上がっていられないくらい疲弊しきっていることから察するに、かなり凄かった、のだと思う。
「うぅん。ビックリしたけど、嫌じゃなかったよ」
操はふにゃりと笑って、甲洋の頭に手を伸ばした。黒い耳を優しく撫でると、彼は安堵した様子で小さく息を漏らした。
(あれ? そういえばおれ、ちゃんと服着てる)
人心地ついたところで、操は今さらのように自分がしっかりシャツとスウェットパンツを着込んでいることに気がついた。身体もちゃんと汗やその他諸々が拭き取られているようで、サラサラとして気持ちがいい。
ふと見やればカバーを全て剥がされた布団が、このあとすぐにでも干せるようにと折り畳まれている。遠くで洗濯機が回るかすかな音がしていた。
律儀だなぁと操は思う。自分が目を覚ますまで、彼はどんな気持ちで傍にいたのだろう。無理をさせてしまったという後悔だとか不安とか、そんなものでずっとグルグルと眠れずにいる姿が目に浮かぶ。
操はふっと笑って甲洋の首に腕を回すと、その頬に口づけた。
「君がいっぱい欲しがってくれて嬉しかった。言ったでしょ? おれは傷つかないって」
「……うん」
「でも、起きたとき甲洋が一緒にくっついて寝てたら、もっと嬉しかったかな」
甲洋は少し困ったように目を瞬かせて、それから小さく口を開こうとした。操は昨夜の彼がそうしたように、指先をその唇に押し当てる。
「ごめんはもうなし。ねぇ、次はそうして?」
甲洋は目を丸くしたあと小さく笑うと、操の手首をとって指の甲に口づけた。
「わかった。次はそうする」
蕩けそうなくらいに優しく細められた瞳に、気づけば操は頬を赤らめて見惚れていた。
これが恋だと気づいたからって、泣きたくなるような胸のドキドキが静まることはない。
ならきっとこれは一生モノなんだろうなと思いながら目を閉じて、降ってくるあたたかな唇を受け止めた。
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重なる胸から少し早めの鼓動が伝わる。
甲洋が吐息混じりに操の名を呼び、そっと啄むような口づけを落とした。
(甲洋の唇、いつもより熱い)
繰り返し、触れるだけのキスをする。ちゅ、ちゅ、という濡れた音に呼吸が乱れ、やがてどちらからともなく口が開くと、甲洋の舌がどこか遠慮がちに潜り込んできた。
「ッ、ん」
操は少しだけ驚いて、肩をピクンと震わせる。
柔らかく濡れたそれは、大好きなオレンジジュースよりもずっと甘く感じた。もっとその味を確かめたくて、両腕で甲洋の頭を引き寄せる。
「ん、ぅッ……!」
ぎこちなく歯列をなぞった舌が操の舌先と擦れ合うと、背筋に小さな電気が走った。思考が溶けたようになり、操は一瞬でその感覚の虜になる。
自ら積極的に舌を差し出し、押し合うみたいにしながら絡め合う。
甲洋の舌は操のものよりも少しだけ大きかった。蕩けるような柔らかさと、頬の内側の滑らかさ。つるつるとした綺麗な歯の並び。こんなに深く口付けなければ決して知ることがなかった、甲洋の形。嬉しくて、胸がいっぱいになる。
「ふ、ぁ……ッ」
甲洋の舌先が操の舌の裏側を引っ掻いた。驚くほど甘い痺れが走って、頭の中がじんわりと蒸されように熱を帯びていく。どこで息をしたらいいかも分からず、クラクラと目眩がした。絡め合うほどに濡れた音が大きくなる。
(きもちいい……これ、食べたいな……)
覚えのある、あの衝動が込み上げる。
噎せるような桜の香りに侵されて、あの時の操は自覚もないままに欲情していたのだ。きっと甲洋もそうだったのだと思う。
もっと早く気づいていればと、口惜しさに焦がれた操は、甲洋の舌に緩く歯を立てた。
「ぅ、ぁ……っ!」
甲洋の身体がビクンと跳ねる。驚いた彼は咄嗟に唇を離してしまった。銀色の糸が名残を惜しむようにふたりを繋ぎ、やがて途切れて口端を伝う。
彼は真っ赤な顔で目を白黒させていた。うっすらと汗ばみ、はかはかと呼吸を乱して、濡れた唇さえも赤く染め上げている。その反応を、可愛いと思った。
「こうよう、かわいい」
「きゅ、急に、噛むな」
「ごめんね……痛かった?」
「痛くはない……だけど、ビックリするから」
黒い耳がペタリと下向き、微かに震えていた。毛がギザギザと逆立っている。
操はふと、さっきの甲洋の言葉を思いだした。食べたいからだと、彼はそう言った。同じだ。操もそうだった。恋しくて、愛しくて、だから食べてしまいたかった。
けれど彼は操にそんな欲望をぶつけることを恐れていた。きっと今も、本当は怖くて堪らないのだと思う。
(弱虫だな、甲洋は)
操はその大きな耳を優しく撫でた。可愛い。毛がふかふかとしていて、熱くて、肉厚で、ぷるぷると震えていて。
愛おしさに胸が締めつけられる。優しくて弱虫な、操だけのイヌ。
あげたいなと思った。甲洋が望むなら、なんだって。来主操の全部をあげたい。
「ねぇ、食べていいよ。もう我慢しないで」
甲洋は答えの代わりに喉を鳴らした。
「おれをあげる。だからおれを、甲洋の特別にしてね」
操は写真立ての中で笑っていた白猫のことを思いだした。
ただ朽ち果てるだけの廃墟になった楽園。始まりもせずに終わった初恋。雨が降る間際の濁った海。彼が失くしたもの。得られなかったもの全部。
全てを忘れない甲洋が、その全てを思い出にして、今は操だけをその瞳に映している。
甲洋が、泣きそうな顔をしながらふっと笑った。
「来主は、もうとっくになってるよ。俺の中で」
「本当? 嬉しい……甲洋、大好き。おれも君が、世界でいちばん特別だよ」
「……うん」
甲洋はたったそれだけ返すのが精一杯のようだった。操の身体を強く抱きしめ、吐く息を震わせている。同じだけの強さで抱き返しながら、操は彼の黒い尻尾が見たこともないくらい大きく揺れていることに気がついた。
嘘をつくことができないそこは、弾むように忙しなく左右に振られている。
「甲洋、かわ」
「もう可愛いって言うの禁止……お前の方が、ずっと可愛い」
「!」
耳元で言われ、操は肩を跳ねさせる。どちらかと言えば言われ慣れている言葉だけれど、甲洋に言われたのは初めてだ。
途端に恥ずかしくなって、もじもじとしながらその肩に目元を擦りつけた。
(そっか、好きなひとに可愛いって言われると、こんな気持ちになるんだ)
言った方も恥ずかしいのか、甲洋が首筋を赤く染めていた。まるで誘われているみたいな気がして、操はそこに唇を寄せるとちゅうっと音を立ててキスをする。
「ッ……!」
甲洋の身体がビクンと跳ねる。彼はもっともっと赤くなって操を見た。困っているようにも、怒っているようにも見える複雑そうな表情を、ふわふわとした気持ちで見つめる。
「お前、もう……知らないからな……」
低く呟きながら、甲洋が悩ましげに潤んだ瞳を細めて見せた。
*
剥ぎ取られたシャツが、布団の端で丸くなっている。
薄明かりの室内にはふたり分の忙しない呼吸が響き、熱気を立ち上らせていた。
「くぅ、んっ……ぁ、こう、よ」
耳の裏側や首周りを、甲洋の唇が何度も辿る。
操の身体に覆いかぶさり、彼は夢中で匂いを嗅いでは薄い皮膚を貪っていた。
操は初めての感覚にただ震えながら、甲洋にしがみつくことしかできない。彼が皮膚の上で鼻をすんすんと鳴らすたび、こそばゆさと羞恥に肌が染まった。
「ゃ、ぁ……!」
鎖骨を辿り、熱い舌が胸の片方に触れると、ちゅうと音を立てながら吸い付いてくる。
軽く歯を立てられ、腹の奥の方に向ってジンと何かが響くのを感じた。操はヒクヒクと身体を跳ねさせて、足先でシーツを掻く。
ともすれば一方的ともとれる甲洋の交尾前行動は、飽きることなく繰り返された。
身体中にゆるゆると手の平を這わせ、匂いを嗅いで、舌で味わい、歯を立てる。本能に従い、息を荒げながら、隅々まで貪ろうとするかのように。
けれど彼は決して操を乱暴に扱うことはしなかった。時おり緩く歯を立てても、強く吸い上げて花びらのような痕を残しても。余裕のない甲洋がギリギリのところで理性を繋ぎ止めているのが、素肌を通して伝わってくるような気がした。
「んっ、ぁ……ねぇ、におい……そんなに?」
「ッ、はぁ……うん、いい。来主の匂い、好きだ。興奮する」
「で、も、くすぐった、ぃ」
息も絶え絶えに泣き言を言う操に、甲洋は吐息だけで「ごめん」と言ったが、やめるつもりはないようだった。身体をひっくり返され、剥き出しになった白い項に緩く歯を立てられると、身体が面白いほど大きく跳ねる。
甲洋の唇が背中を辿り、肩甲骨のでっぱりを甘噛みしたあと、内側の緩やかな窪みにキスの雨を降らせる。そうしている間も、後ろから平らな胸をふにふにと揉みしだかれた。
「ふぁ、ん! ァ、は……っ」
執拗に繰り返される愛撫に、彼はやっぱりイヌなんだなと改めて思う。
まるで本当に食べられているみたいだ。けれど怖いとは微塵も感じなかった。むしろ甲洋になら、本当に頭からバリバリと食べられてしまったとしても許してしまいそうな気がする。
それに、くすぐったいだけじゃなくなってきているのも事実だ。
そこかしこを舐め回されているうちに、神経が剥き出しになったみたいに皮膚が敏感になっていた。やめてほしいような気がするのに、もっとして欲しいと思ってしまう。頭がぼうっとして、わけが分からなくなってきた。
「はふ……ッ、ん」
操の身体はもはやクタクタだ。甲洋の腕によって再び仰向けにひっくり返されても分からないくらい、思考がふやけきってどうしようもなくなっている。
「こう、よ……舐めるの、まだ、するのぉ?」
「……する」
ヒクつく身体に覆いかぶさっていた甲洋は半身を起こして膝立ちになると、邪魔くさいとばかりにシャツを乱暴な動作で脱ぎ捨てた。
その仕草がやけに男っぽくて、心臓がドキリと跳ね上がる。
頼りない明かりの中に浮き上がった素肌は、しっとりと汗ばんで艶を放っていた。細いように見えて、その身体はしっかりとした骨組みによって構成されている。広い肩幅にすら胸が疼くのを感じて、操はこくりと喉を鳴らした。
甲洋の指先がつうっと腹のラインをなぞった。ヒクンと身を震わせていると、やがてその人差し指が操のヘソの窪みを引っかく。一瞬、ピリリとしたものが走った。
「んっ……!」
甲洋が身体を下方へと移動させ、操のヘソに顔を寄せる。そして窪みに鼻を押し付け、すんすんと匂いを嗅いだ。
「ぇッ、や! そ、そこも嗅ぐのぉ?」
じわりと涙を浮かべ、身をよじる。しかし甲洋は操の腰を片腕でぐるりと抱き込み、動けないように固定すると、鼻先をグリグリと押し付けるようにしながら匂いを吸い込んだ。はぁ、と漏らされた息が熱い。
「ひゃッ、ぁ!」
舌が窪みにねじ込まれる。甲洋はそこを抉るように舐めほぐし、ちゅくちゅくと音を立てながら吸い上げた。ピリピリとした痺れが腹の奥へ向かって響き渡る。押さえ込まれている腰がビクビクと大きくのたうった。
「ぁうぅッ、んっ! や……おなか、ぁ、ジンジンして、ひびくよぉ……っ」
嫌々と首を振って悶えていると、甲洋の手が操のウエストにかかった。
下着ごと全て下ろされてしまうと、小ぶりな陰茎がぷるんと揺れながら顔をだす。それは少しだけ勃起して、先端が僅かに濡れていた。
全てを剥ぎ取られ、いよいよ丸裸にされた心許なさに肌が粟立つ。
「ぁ……やだ……!」
いつの間にかヘソから顔を上げていた甲洋が、それをじっと見つめて喉を鳴らしていた。
操は反射的に両膝を立てて閉じようとしたが、甲洋の身体が割り込んでいるせいでそれは叶わない。
「……色、薄いな」
「そう、なのかな……?」
「毛も薄い……というより、ほとんど……生えてない……?」
「おかしい……?」
「おかしくない。可愛い」
押し殺したような声で、即答だった。さっきは照れて恥ずかしそうにしていたくせに、甲洋は目の前のものに気をとられて、もはやそれどころではなくなっている。瞬きの回数も少ないし、まさに穴が空くほど見られているという状態だ。
これはかなり恥ずかしい。でも甲洋の尻尾は大きく揺れて嬉しそうだった。拒めば水を差してしまいそうで、操は逃げだしたいのをぐっと堪える。
「子供みたいだ、来主のここ」
「ッ、ぁ!」
甲洋の手が操のそれをゆるりと撫でた。操は握りしめた両手を胸に押しつけ、緊張と微かな不安から息をごくりと飲み込んだ。
恐る恐る見た甲洋の目は、普段の理知的な色を失いつつあった。肩で息をしながら、獲物を狩るような鋭さを滲ませている。これがオスの目なのかと、ぼんやり思う。
彼は無言で操の両膝に手をかけ、ぐっと割り開かせたと同時に躊躇なくそこに顔を寄せた。
「え、甲洋……!?」
緩く勃ち上がっている性器の付け根に、熱い息がかかる。赤ん坊の産毛のような淡い下生えに鼻を擦りつけられて、すんすんと匂いを吸い込まれた。
「そ、そんなとこ、嗅いじゃやだ!」
操は身体中を真っ赤に染め上げると、甲洋の髪を両手で掴んで引き剥がそうとする。だが彼は動じることなく操の太腿を外側からそれぞれ抱え込むようにして、より一層そこに執着しはじめた。
泣きながら身をよじっていると、吸い込むだけでは足りなくなってきた甲洋の唇が、性器に音を立ててキスをした。
「ひぁッ……!」
それは生まれて初めての感覚だった。繰り返しキスをされ、とろとろの舌を這わされる。その度にビクンビクンと身体が跳ね上がるのを止められない。
そのうち甲洋は辛抱たまらずといった様子で、操のものをぱっくりと口の中に収めてしまった。熱い口内でじゅうっと音を立てて吸い上げられると、内腿が小刻みに痙攣する。
「やっ、ああぁ!」
飴を転がすように舌で嬲られ、操は甲洋の頭に爪を立てながら嫌々と首を振る。焼けるような鋭い快感に押しだされ、涙が溢れて止まらない。
「こん、なっ、の……ッ、ぁッくぅ、ん! ァ、無理、ぃ……っ」
自慰だってまともにしたことがない身体だ。恋も性も、まるで興味が持てないまま、なんの疑問も抱かずに素通りしてきてしまった。そんな身体にこの刺激は強すぎる。
甲洋の口の中で、性器が痛いくらい張り詰めているのが分かった。
いやらしい水音を響かせながら舐めしゃぶられたそれに、緩く歯を立てられる。操は目を見開き、涙を散らしながら絶頂を迎えた。
「ひッ、ぃ、ッ──ァっ……──ッ!!」
波のように襲ってきたそれは、待ち構えていたかのように操を頭から飲み込んだ。
目の前が真っ白で、悲鳴をあげることすらままならない。ただ溺れたようにはくはくと口を開閉し、布団から浮き上がるほど背を反らす。やがて一気に突き落とされたように脱力した。
「ぁ、ッ……は、ぁ……ぁ……」
痺れるような余韻に身を震わせ、さまよわせた視線の先では、甲洋がごくりと喉を鳴らしていた。操が放ったもので濡れた下唇を、赤い舌がゆるりと舐めとっている。
「のんだ、の……?」
整わない呼吸のまま呆然と問えば、甲洋は目を細めながら頷いた。瞳を蕩けさせ、はぁっと熱っぽい息を漏らしている。
「う、うそぉ……」
操が小刻みに震えながら涙を溢れさせると、彼は「ごめん」と小さく謝罪した。
「今からもっと恥ずかしい思い、させると思う」
「な、ぇっ? うわぁッ!?」
布団にくたりと沈んでいた身体がひっくり返された。
甲洋は操の下腹に腕を回し、ぐっと持ち上げると膝を立たせる。上半身をシーツに突っ伏し、尻だけを高く突きだす体勢をとらされた。
「ッ……!?」
自分でも見たことがない奥まった場所に、痛いくらいの視線を感じる。
操が悲鳴をあげるより先に、甲洋の両手が尻たぶにかかった。彼はつるりと丸みを帯びたその片方に、ちゅっと音を立ててキスをする。
「ヒッ、やッ!? う、うそっ、そこもぉ!?」
尻の肉にまで吸い付かれ、操は思わず目を剥いた。
誰にも見せたことのない場所を、自分でも最低限触れることがない場所を、全て甲洋に暴かれている。信じられなくて、頭が混乱してしまう。
淡い谷間はさっきまで受けていた口淫によって、先走りと唾液でしとどに濡れていた。甲洋は薄い尻の肉キスをしながら、右手の人差し指を窄まりに這わせる。背筋にぞわりとしたものが駆け抜けた。
「やぁっ、やだ……ぁッ、こうよ……そんなとこ、だめだよぉ……っ!」
ぬるりと円を描くようにくすぐられて、思わず身を捩る。どうにかして逃れようとしたが、人差し指の先端がつぷりと挿し込まれると、身体が強張って動けなくなった。
「ひぅッ!?」
第一関節まで潜り込んだ指先が、マッサージをするかのように浅い場所を出入りする。濡れているせいか痛みはないが、えも言われぬ異物感が操の身体を苛んだ。
ときどき思いだしたように尻たぶにキスを落とされると、腰がヒクンと跳ねてしまう。
操はもう何がなんだか、わけが分からない状態になっていた。チクチクとささやかな水音を立てながらほぐされているうちに、そこからじわりと不可解な熱が広がっていくのを感じる。
皮膚がぞわぞわと粟立ち、背骨が抜き取られたみたいに力が抜けていった。
「ぁッ、ぁん……ッ、ぁ……は、ッ……!」
高く掲げた尻が、無意識にもじもじと揺れはじめる。甲洋が根気よく解きほぐそうとしている場所が、きゅんと疼いて切なくなってきた。
(なにこれぇ……お尻が変な感じになってきちゃったよぉ……)
半開きの瞳をとろりと蕩けさせていると、指がさらに深くまで押し入ってきた。
「あ、ぁ……ッ、指、甲洋の、ゆび、が……」
ほんのりと濡れて綻びかけた穴に、指がぬるりと深くまで侵入してくる。
異物感が増したところに圧迫感まで加わると、喉が詰まったようになってまともに声すら上げられない。
「ッ、ァ……っ」
じわじわと時間をかけて入り込んだ指が、ゆっくりと探るような動きで抜き挿しされる。内壁をぐるりと擦り上げる感触のリアルさに、操は指先が白く染まるほどシーツを握りしめた。
なんともいえない妙な心地だ。けれど根気よく何度も中を擦られているうちに、さっきよりもずっとおかしな感覚が込み上げてきた。
「ふぁぁっ、ぁ、ん……!」
飲み込む瞬間の苦しさが、引き抜かれる瞬間にはどうでもよくなってしまう。ずるりと抜けていく感覚が、背徳感を伴いながら身体の芯を駆け抜ける。とてもいけないことをしているような気がするのに、それが癖になりそうで少し怖い。
さっき達したはずの性器は、ゆるゆると再び勃ちあがりかけていた。それはこの行為に、身体が悦んでいる証だった。
「痛くない?」
「ぅ、ん……痛く、ない……でも、なんか、おしりが変……」
「痛かったら言って。傷つけたくないから」
「ん……」
甲洋の手が労るように腰を撫でる。押し殺した声で、それでも優しく囁かれた言葉にホッとして、操はシーツに頬を押しつけたままこくんと頷いた。
甲洋は時おり指に舌を這わせて潤いを足しながら、長い時間をかけて徐々に指を増やしていった。一本、二本と、やがて操のそこは三本もの指を飲み込んだ。圧迫感が比べ物にならないくらい増したが、そのぶんあのなんともいえない感覚も増す。ぐぷ、ぐぷ、という滑った水音にすら気持ちが高ぶっていくのを感じて、意味をなさない嬌声が止めどなく口から溢れた。
「ぁ、ぅッんっ……あ、ぁっ……ッ、ふ……ぁっ、ん……っ!」
「来主……いい?」
問いかけに、操は何度もこくこくと頷いた。
「い、い……ぁ、どうしよ……これ、きもち、い……ぁ、こう、よ」
「……よかった」
ホッとしたように甲洋が笑う。
操の身体はあまりにも素直に、そして柔軟に与えられる刺激を飲み込んでいた。誰のものでもなかった身体が、甲洋のためだけに作り変えられていくような気がする。操はそれを嬉しいと感じた。
だけど甲洋はずっと我慢したままだ。操が苦痛を感じずに済むよう時間をかける代わりに、彼は必死で欲求を抑え込んでいる。甲洋が熱い息を漏らす音を聞いて、操はどうしようもなく切ない気持ちになった。
「こう、よ」
首を捻って背後を見れば、酷く潤んだ瞳と視線が交わる。
「も……いい、よ」
「……まだ」
「早く、ねぇ甲洋」
息を呑んだ甲洋の指が、思わずといった様子で中からずるりと引き抜かれる。その感覚に身を震わせながら、操は身体を横に倒すと力が入らない両腕でどうにか半身を起こした。
「ねぇ、ほら……甲洋の、もうこんなだもん」
甲洋の身体の中心は目に見えて膨らみを帯びていた。テントを張ったようになっているそこは窮屈そうで、操は彼のヘソの下に手をかけると下着ごと掴んでグイとずらした。
「ッ!」
大きく肩を跳ねさせて、甲洋が唇を引き結ぶ。
ぐんと反り返っている屹立が、可哀想なくらい震えて血管を浮き上がらせていた。
それは操のものより一回り大きくて、バラの花のような濃い色をしていた。焦茶の下生えも十分に生え揃っている。同じ男で年齢もひとつしか違わないのに、どこか未発達なままの自分とは、まるで違ったものに見えた。
「甲洋のは、大人の形をしているね」
操はうっとりと呟き、右手でそっと太い竿に触れた。甲洋の肩が揺れる。
「これをおれのあそこに挿れるんでしょ? なんか嘘みたい」
手の中で、それはピクピクと健気に震えていた。そっと握り込めば、甲洋が喉の奥で低い呻きを漏らす。悩ましげに寄せられた眉と、赤い唇から忙しくなく溢れる吐息に興奮する。
遠慮がちにゆるゆると軽く撫でてみると、肉茎がより膨らみを増した気がした。甲洋の黒い大きな耳はすっかり倒れて、快感が走るたびに後ろの方では長い尻尾がピクンピクンと跳ねている。
(かわいい)
身体の芯が疼いた。食べてもらうつもりでいたのに、やっぱり食べたいと思ってしまう。可愛くて、大好きな甲洋を、いっそ頭から。
操は蕩けた思考で正面から彼に身を寄せた。その肩に両手を置くと膝立ちになり、甲洋の身体を跨ぐような姿勢をとる。
「く、来主」
戸惑いながらも期待と興奮を滲ませた瞳を見下ろし、操は笑った。
その頬に手をやって、震える耳にキスをする。唇でぱくりと食んで、ちゅうと音を立てながら吸いついてみた。
「ッ、ぅ、ぁ! く、来主……ッ」
「ぁ、んむ……ふふ、こうよう、耳、感じるんだ」
甲洋がわずかに身をよじり、操の腰を掴むように両手をかけた。こそばゆさに尻が揺れたが、操は構わず耳の内側に舌を這わせてぬるりと舐める。
「ぁ、こら……っ」
「はぁ……ねぇ、しよ……? 早く君と、ひとつになりたい」
耳に唇を押しつけたまま言った。
「……あぁ、くそ」
甲洋は操の平らな胸に額を押し付けながら、彼にしては珍しく乱暴な言葉を吐きだした。それからキッと睨むように操を見上げる。
「本当に、初めてなんだよな……?」
操はことりと首を傾げた。
「そうだよ。なんでそんなこと聞くの?」
「……別に。分かってるけど、なんとなく」
まるで玄人じみた誘い方をしてしまったなんて、操に分かるはずがない。ましてや蕩けきった表情が、ちぐはぐな幼さが、どれだけ扇情的であるのかなんて。
甲洋はなぜだか少しだけ苛立ったように唇を引き結び、操の身体を抱え込むと布団に押し倒した。そうすると自然と彼の腰を両足で挟み込む形になる。
伸し掛かってくる重みを受け止めて、操は胸を高鳴らせた。
膝裏にかかった手で足をいっそう開かされると、濡れた穴にその熱い切っ先が触れる。
(セックスするんだ、おれたち)
あるいは交尾と呼ぶべきだろうか。ふわふわとした意識を掻き分けて、今さらのように実感が込み上げる。初めてなのに、不安や恐れがひとつもなかった。
(嬉しい)
ずっと苦しかった。だから探していた。甲洋を一番近くに感じる方法を。いっそひとつになって、溶け合ってしまえたらいいのにと。その願いが、ようやく叶う。
高ぶる感情に任せて、操は甲洋の首に両腕を巻きつけると強く引きよせた。息を荒げた甲洋が、耳元で「いくよ」と吐き出す声にこくんと頷く。
甲洋の屹立が、ぐっと穴を圧迫した。ぐち、という鈍い水音がして、指とは比べ物にならない大きくて熱い塊が中に潜り込んでくる。
「あぅッ、ん、ひっ……!」
入ってくる。甲洋の肉が、操の肉を掻き分けて。ギリギリまで引き伸ばされた穴が引きつり、痛みが走る。凄まじい圧迫感に息を吸うことも、吐き出すこともままならない。
思わず甲洋の背に爪を立てながら小刻みに震えた。それに気づいた甲洋は、まだ全てを挿入しきっていない状態で動きをとめてしまう。操は慌てて首を左右に振った。
「ぃ、い……! いい、から、そのままきて……!」
「……ッ、でも」
「やめちゃやだ……ねぇ、お願い……」
痛みも苦しさも、燃えるような熱にのまれて麻痺しはじめている。
操はペタリと寝ている甲洋の耳を優しく撫でた。汗ばんだ頬に髪を張り付けながら、彼は操よりよほど辛そうな顔をする。操はその頭を抱き込んで笑った。
「だいじょうぶ、おれは傷つかないよ。だからそんな顔しないで」
「くるす……」
「大好き、甲洋」
「ッ……!」
甲洋が奥歯を噛みしめる。操を抱く腕に力を込めて、腹を括ったように最後まで高ぶりを押し込んだ。操はその衝撃に声も出せなかったが、皮膚が一瞬にして歓喜に粟立つのを感じた。
身体の中に甲洋がいる。ビクビクと脈打って、操を満たす。1メートル以上も離れていた距離が0になって、ひとつになった。嬉しい。嬉しい。ただそれだけだった。
これ以上ないくらい深く繋がると、ふたりは言葉もなく息を荒げて抱き合った。濡れた粘膜がその形を確かめるように、甲洋を締めつけるのが分かる。
操の腕の中で、甲洋が小さくすんと鼻を鳴らした。
「甲洋……泣いてるの?」
操のこめかみあたりに目元を押しつける甲洋の髪を、そっと撫でる。彼は掠れた声で、素直に「うん」と頷いた。
顔が見たい気がしたけれど、またこの次にしようと思う。代わりにもう一度「好きだよ」と囁くと、彼はふっと笑って「俺も」と言った。
「来主が好きだ」
「うん」
「大好きなんだ」
「うん……嬉しい」
「俺も、嬉しい」
裸の心で紡ぐ言葉はあまりにも拙くて、切ないくらいひたむきだった。
もっと沢山のことを伝えたい気がするのに、だけどそれ以上は言葉にならない。心も身体も、甲洋だけでいっぱいだった。
会話を諦め、ふたりは唇を重ね合わせた。互いに舌を絡めながら、ふとこの味はさっき自分が出したものの味なのかなと思いはしたが、甲洋が小さく腰を揺らめかせた瞬間どうでもよくなる。
「んぅ、ァ……っ!」
奥を突かれた衝撃に、合わさっていた唇がほどける。そのまま幾度か突かれる度に、腹の奥に鋭い熱が広がった。
脈打つものが肉壁をこじ開けては引いていく。ゆっくりと、やがて徐々にペースを上げて中を重く穿つ。
手間暇をかけてほぐされたそこは、それでもまだ初めての行為に強張ってはいたけれど、きつく抱きしめられながら揺さぶられているうちに、熱く蕩けるようにほどけていった。
「はっ、ぁ……来主……っ」
感じ入る甲洋の声が、吐息が、心と鼓膜を震わせる。彼がこの身体で感じているのだと思うほどに、操もまた高ぶらされた。
甲洋と繋がっている場所は、炎のように熱く激しく操の身体を苛んでいる。突かれるごとに内臓が押し上げられ、その反動でひっきりなしに声が押しだされた。
「ぁう、あっ、こう……よ……ぁつ、い……ッ、熱いよぉ……!」
頭の芯までじわじわと蒸されて、ゼリーのように溶けていくような気がする。いつ焼き切れたっておかしくない。どこまで意識を繋ぎ止めていられるか分からなかった。
そのとき、甲洋がギリギリまで引き抜いたものを僅かに角度を変えながら突き入れてきた。
「ッ──!?」
瞬間、まだ上があるのかと思うほどの熱さが競り上がり、操は目を見開いて涙を散らす。
「ッ、ぁ、あ……!?」
甲洋が、ふっと笑った。
「ここ?」
そう言いながら、中の比較的浅い一点を先端でノックするように擦りつける。
操はビクビクと大きく身体を痙攣させ、嫌々と首を左右に振った。
「やっ、やぁ……! ぁッ、そこやだ! だめ、だめ!」
「さっきは上手く探せなかったんだけど……やっと見つけた」
「なに、が、ァ……やめ、ぁ……ひッ、ああぁ……っ!」
両膝の裏に手がかかり、腰が浮き上がるほど深く身体を二つに折り曲げられた。
そして甲洋は操が酷く感じてしまう場所を目がけて、抽送を再開する。擦り上げるようにしながら奥まで突かれると、操の淡い屹立が赤く腫れ上がったように膨らんで蜜を零した。
痛みにも似た強烈な感覚を、操は上手く快感として認識できない。ただ蛇口が壊れた水道みたいに、突き上げられるたびに性器からぴゅ、ぴゅ、と飛沫が上がった。
「だめぇ……っ、そこ、こうよ、こうよぉ……!」
「来主……っ、好きだ」
呟かれた言葉に、混乱していた意識が面白いほど一瞬で蕩かされるのを感じた。
甲洋は何度も繰り返し操の名前を呼んだ。時おり甘く小さな喘ぎを零しながら、いっそ鼓膜が腫れてしまいそうなくらい、好きだと繰り返した。
(おれも好き。好きだよ。大好き、甲洋)
押し寄せてくる波が大きすぎて、声は出せても言葉にはならない。だからせめて心の中で、操も同じだけ愛の言葉を繰り返す。
宙に浮いた足先が、甲洋の動きに合わせて揺れていた。彼の頬を伝った汗が、操の皮膚にぽとりと落ちる。室内に満ちるふたつの呼吸は荒々しくて、己もまた獣に過ぎないのだと、操は思った。
(──気持ちいい)
今にも爆ぜるという瞬間、互いにきつく抱き合った。耳元で甲洋が呻く。操はその腕の中で身体を大きくしならせて、声もなく絶頂にさらわれる。触れられてもいないのに、操のそれは白い精を吐きだしていた。
甲洋がぶるりと震え、腹の中で何か熱いものが弾けるのを感じる。そのままぐったりと沈み込んでくる無防備さが愛しくて、 遠く霞んでいく意識で操は懸命にその身体を抱きしめた。
「っ、ぁ……あ……」
痺れるように尾を引く余韻に、うまく身体が動かない。操の上で忙しない呼吸を繰り返す甲洋の髪に、指先を絡めるだけで精一杯だった。
「ふぁ、んッ!」
ズルリと中から引き抜かれる感触に身を震わせ、操はほうっと息をついた。
穴が閉じきる前に甲洋が放ったものがとろりと溢れ出るのが分かったけれど、身じろぐことすら今は億劫に感じる。このまま眠ってしまえたら、どんなに気持ちがいいだろう。
「来主……」
ふっと意識を手放しかけたとき、名前を呼ばれた。
「は、ぇ……?」
「 ……ごめん」
なにが起こったのか、すぐには理解できなかった。どういうわけか、操は身体をひっくり返されて四つん這いの体勢をとられていた。
「え!?」
慌てて振り向けば、操の背に覆いかぶさろうとしていた甲洋と目が合う。
彼は肩で息をしながら、鋭い瞳を向けてくる。そこに幾ばくかの理性しか残されていないことは、操の目にも明白だった。なにより、達したばかりであるはずの甲洋自身が、まるで力を失っていなかった。
そこで操はようやく、彼が何に対して謝罪したのかを理解した。
「まだ、するのぉ?」
「……ごめん」
「あッ、や、ひぃんっ……!?」
二度目の謝罪と共に熱い楔が再び突き入れられる。
「まだ足りない……もっと、お前を食べさせて」
聞いたこともないくらい低い声で呟かれた言葉を最後に、操にはそこから先の記憶がない。
*
目を覚ますと、操はベッドの中にいた。
カーテンの隙間から零れる白い光が室内を照らし、とっくに夜が終わっていたことを告げている。
「来主……起きた?」
ぼんやりと瞬きをしながら天井を見ていると、視界の横から甲洋がひょいっと顔を覗かせる。酷く心配そうに眉を下げている彼は、ジーンズだけを身に着けた格好でベッドの縁に手をついて身を乗りだしていた。
「こ、よ」
彼の名を呼びかけて、喉がヒリヒリと痛んだ。軽く咳き込んだ操に、甲洋は「いま水を持ってくるから」と言って部屋を飛び出し、すぐにまた戻ってきた。
「起き上がれる?」
水が入ったグラスを手にした甲洋は、ベッドに片膝で乗り上げて腰を下ろすと操が起き上がる動作を助けた。
どうにかして起こした身体を引きよせられて、操はくったりと甲洋によりかかる。それから口元に運ばれたグラスに口をつけ、一口飲んだ。カラカラに乾いた身体にほどよく冷えた水が浸透していくようで、ホッと息をつく。
「大丈夫?」
問いかけながら、甲洋がグラスをキャビネットの上に置いた。
「んん……なんか、腰が変……」
「痛む……?」
「んー……あそこがじんじんして重い。まだ君のが入ってるみたいな……?」
「……ごめん」
しゅん、と耳を下向きにさせ、甲洋が項垂れた。
「抑えがきかなかった……」
操はしょんぼりとしている甲洋を見つめながら、昨夜のことを思いだそうとした。
自分の気持ちを自覚して、生まれて初めての性行為に及んだことはもちろん覚えている。けれど、二度目からは記憶が部分的にしか残されていなかった。あのあと、何度したのかも覚えていない。
自力で起き上がっていられないくらい疲弊しきっていることから察するに、かなり凄かった、のだと思う。
「うぅん。ビックリしたけど、嫌じゃなかったよ」
操はふにゃりと笑って、甲洋の頭に手を伸ばした。黒い耳を優しく撫でると、彼は安堵した様子で小さく息を漏らした。
(あれ? そういえばおれ、ちゃんと服着てる)
人心地ついたところで、操は今さらのように自分がしっかりシャツとスウェットパンツを着込んでいることに気がついた。身体もちゃんと汗やその他諸々が拭き取られているようで、サラサラとして気持ちがいい。
ふと見やればカバーを全て剥がされた布団が、このあとすぐにでも干せるようにと折り畳まれている。遠くで洗濯機が回るかすかな音がしていた。
律儀だなぁと操は思う。自分が目を覚ますまで、彼はどんな気持ちで傍にいたのだろう。無理をさせてしまったという後悔だとか不安とか、そんなものでずっとグルグルと眠れずにいる姿が目に浮かぶ。
操はふっと笑って甲洋の首に腕を回すと、その頬に口づけた。
「君がいっぱい欲しがってくれて嬉しかった。言ったでしょ? おれは傷つかないって」
「……うん」
「でも、起きたとき甲洋が一緒にくっついて寝てたら、もっと嬉しかったかな」
甲洋は少し困ったように目を瞬かせて、それから小さく口を開こうとした。操は昨夜の彼がそうしたように、指先をその唇に押し当てる。
「ごめんはもうなし。ねぇ、次はそうして?」
甲洋は目を丸くしたあと小さく笑うと、操の手首をとって指の甲に口づけた。
「わかった。次はそうする」
蕩けそうなくらいに優しく細められた瞳に、気づけば操は頬を赤らめて見惚れていた。
これが恋だと気づいたからって、泣きたくなるような胸のドキドキが静まることはない。
ならきっとこれは一生モノなんだろうなと思いながら目を閉じて、降ってくるあたたかな唇を受け止めた。
←戻る ・ 次へ→
玄関のドアを開けてすぐに操を迎えたのは、ホカホカの熱気と生姜焼きの香りだった。
「ただいまー! 美味しい匂いがするね!」
「おかえり来主。もうできるから、うがいと手洗いしておいで」
台所に立っている甲洋はキャベツを千切りしていた手を止めて、柔らかな笑みを浮かべながら尻尾を振った。
焦茶の髪を後ろでひとつに纏め、包丁を握る姿がやたらと様になっていて、なんかいいなぁと操は思う。
「やったぁ! お腹ペコペコだー!」
操はバンザイをしながら洗面所に向かい、言われたとおりうがいと手洗いを済ませると、また台所に戻る。
甲洋はキャベツとトマトを盛った皿に生姜焼きを盛り付けているところだった。
「うわぁ、おいしそう!」
その手元を覗き込み、操は目を輝かせた。
皿からはゆらゆらと湯気が立ち上り、照りのある柔らかそうな肉が飴色に染まっている。しょうがの香りをいっそう強く感じて、腹の虫が雛鳥のように騒ぎだす音がした。
「どうかな。うまく作れてるといいけど」
「絶対おいしいよ。甲洋はおれより上手だもん」
「それは否定しない」
「むうぅ……ちょっとは否定してよぉ、意地悪ぅ」
とはいえ事実である。最近はほとんどの家事が甲洋の仕事になっていた。
家の中は常にピカピカだし、朝もご飯を作ってちゃんと起こしてくれる。買い物をしたレシートはノートにまとめて整理してあり、おかげで無駄な出費もぐんと減った。
ちなみにずっと電池切れを起こしたままだった玄関チャイムも、操が知らないうちにさらっと電池交換が済まされていた。
なんだかまるで自分の方が子供になってしまったみたいで複雑だ。世話をするどころか、完全に世話をされてしまっているような気がする。というか、されている。
ぶぅっと頬を膨らませていると、苦笑していた甲洋が「そういえば」と何か思いだしたように言葉を発した。
「今日、一騎に会ったよ」
「え?」
飛び出した思いがけない話題に、操は不貞腐れていたのも忘れて目を丸くする。
「どこで?」
「スーパーで」
「総士は?」
「いなかったよ」
「じゃあ、君たちだけで?」
頷く甲洋に、操は目を瞬かせる。
彼らの件はずっと心の片隅に引っかかっていた。なにせふたりは実に気まずい別れ方をしているのだ。
そんな彼らが対面したときどんな空気になるのか、操には想像もつかない。甲洋はケロリとした様子でるし、これといって何も問題は起きなかったということだろうか。
揺れる瞳で見上げれば、甲洋は小さく笑って菜箸を置く。
「なにもないよ。心配しないで」
「じゃあ、ちゃんと仲直りできた?」
「まぁね。別にケンカしてたわけでもないけど」
「そっか、よかったぁ」
操は胸に手をあて、ホッと安堵の息をついた。
「気になってたんだ、君たちのこと。でも、ちゃんと仲良くなってくれたなら嬉しい。だって一騎は大事な友達だし、君は大切なおれの家族だから……ずっとそうなればいいなって思ってたんだ」
操は甲洋も一騎も大好きだ。そんな彼らがずっと悲しいわだかまりを残したままでいるのは嫌だった。だから本当に嬉しい。今ごろ総士も、一騎から話を聞いてホッとしているだろうなと思った。
「心配してくれてありがとう、来主」
甲洋は穏やかな声で言いながら、目を細めて笑った。その綺麗であたたかい微笑みに胸をつかれて、操は頬がじわりと熱くなるのを感じる。
(あ、まただ)
内側からなにかが溢れて、止まらなくなるようなあの感覚。
こんなに近くにいるのに、もっと傍で甲洋を感じたくてたまらない。そのまま優しい体温に溶けてしまえたら、どんな心地がするだろう。
彼を食べたいと思ってしまったあの夜から、その欲求は操のなかで日増しに膨らんでいた。
もっともっと彼を感じるためには、これ以上どうすればいいのだろうかと。
(キスしたいなぁ……でも、嫌がるかなぁ……)
「……ねぇ甲洋」
「なに」
「キ」
「そういえば」
操の声を遮って、甲洋がまたなにか思いだしたように口を開いた。
「今度、一騎にカレーの作り方を教わる約束をしたよ」
「え!?」
思わず顔をあげ、甲洋を見上げる。なんだかはぐらかされたような気がしたが、今はそれどころではなかった。
自分でも目がキラキラと輝きだすのが分かる。ついでに口の端から今にもよだれが溢れてきそうだ。
「それって、甲洋も一騎カレーを作れるようになるってこと!?」
「俺が作ったら、それはもう俺のカレーだろ……」
なぜか横目でじっとりと睨まれてしまったが、感極まって甲洋の首に思い切り抱きついた。
その勢いが少しばかり強くて唐突だったものだから、甲洋の身体がわずかに傾く。
「っと……危ないな」
「凄いよ甲洋! そうしたら、家でいつでも一騎カレーが食べられる!」
「だから、俺が作るのになんで名称が一騎カレーのままなわけ」
「やったー! 甲洋の一騎カレーだ! 嬉しいー!」
甲洋の頬に、額からこめかみにかけてをグリグリと擦りつける。操がイヌだったら、高速すぎていっそスローに見えるくらい尻尾を振っていたかもしれない。
甲洋が一騎と仲良くなって、さらにはカレーの作り方を習うというのだ。誕生日とクリスマスと遠足と海開きが一度にやって来たような、とにかくまるで夢みたいな話だと思う。
「ねぇいつ? 明日? 明後日? 待ち遠しいよ!」
「まぁ……挨拶に行ったときにでも」
「わーい挨拶のときだー! なんの挨拶だろう? よく分かんないけど楽しみ!」
「必ず超えるぞ、一騎……」
大はしゃぎする操の耳に、嫉妬に身を焦がす甲洋の低い呟きが届くことはなかった。
*
寝室にはぼんやりとした淡い照明が灯っている。
操が風呂から上がって部屋に戻ると、甲洋は布団をかぶって仰向けに横たわっていた。
「……甲洋、寝た?」
返事はない。操がむぅっと唇を尖らせていると、やや間を置いてから「寝てる」というくぐもった声が返ってくる。
「起きてるじゃん!」
操は膝をつき、布団の端にぺたりと腰を下ろした。
「寝たふりするなんて酷いよ」
「ふりじゃないよ。今から本当に寝るんだから」
「前はちゃんと起きて待っててくれたのに……」
操は人差し指で布団の盛り上がりをツンツンとつついた。
「ねぇ、今日もしないの」
「……なにを」
「おやすみのキス、しないの」
「……しない」
「なんでぇ?」
操は情けなく眉を下げると身を乗り出し、布団の山を揺さぶった。
ここ数日はずっとこうだ。毎日していたはずの寝る前のキスを拒まれている。
理由には心当たりがあった。桜のモンブランを買って帰ったあの日、操が彼を食べようとして怖がらせたからだ。
「ねぇ甲洋ぉ。もう食べようとしないから許してよぉ」
「そういう問題じゃ……いや、問題だけど」
操は布団の山をまたぎ、甲洋の腰のあたりに馬乗りになって腹に両手をついた。甲洋がぎょっとして、わずかに頭を浮かせる。
「こ、こら、ちょっと!」
「重い?」
「重くはない、けど、そこに座るのはダメだ。凄くダメだ」
「甲洋はすぐダメダメばっかり言う! あんまり撫でさせてくれなくなったし!」
喉を詰まらせたように、甲洋は何も言わなくなった。
「ねぇ甲洋……寂しいよ……」
操はもっと彼にくっついていたいし、髪や耳や尻尾にも触れたい。本当は毎晩抱きしめて眠りたいとさえ思うのだ。
ドキドキしすぎて胸が苦しくなるのに、それでも近づきたくて仕方ない。
だからこんなふうに拒まれるのは寂しいし、悲しかった。
「おれがズレてるから、ダメなの?」
しおしおと俯いて問いかける。
甲洋は持ち上げていた頭をボスンと音を立てて枕に沈めた。
「なにがズレてるかも分かってないくせに」
「わかんないよ。総士も教えてくれなかった。ただ、甲洋が気の毒だって」
結局、この感情に正しくつけられる名前があるのかどうかも分からないままだ。
ただ操には甲洋が特別で、こんなふうに近くにいてすら何かが足りない。
甲洋は違うのだろうか。同じ気持ちでいてはくれないのだろうか。操の中に生まれたモヤモヤとした塊が、少しずつ苛立ちに似たなにかに変わる。それは焦燥感だった。
「ここにいるのが翔子だったら、キスした?」
なぜそんなことを聞こうと思ったのだろう。ほとんど無意識に口から飛びだした問いに、操は自分自身で愕然とする。
翔子はもういないのに。こんなことを聞いたって、意味なんかないのに。どうして、そんな酷いことを──。
甲洋がふっと息をついた。操はビクリと身を震わせる。
「ご、ごめ」
「バカだな、来主は」
「こうよ、ごめ、ごめんなさ……」
甲洋がのっそりと起き上がる。操の身体は、彼の膝の上に落ち着いた。
咄嗟に逃げだそうとして身じろいだが、甲洋はそんな操の二の腕を掴んでその動きを阻んだ。近い距離で顔が向き合うと、操は震えながら泣きそうに顔を歪める。
「違う、こんなこと、聞くつもりじゃ……」
「わかってる」
甲洋は翔子が大好きだったのだ。悲しくて寂しくて、それでも誰の手もとらずに独りぼっちになることを選んでしまうくらい、大切な存在だった。
半月にも満たない短い間でも、操は甲洋と離れているのが辛かった。だから総士や、日野家の人たちに迷惑をかけてまで彼を取り返した。だけど甲洋はもう二度と翔子に逢えない。どんなに恋しくても、もう声すら届かないのに。
「ごめん……甲洋、ごめんなさい……」
「わかってるから。泣かないで、来主」
堪えきれずにポロポロと涙を流す操の頭を、大きな手が優しく撫でた。彼は目を細め、少し困ったように眉を下げて微笑んでいる。
「こうよ」
甲洋は頭を撫でていた手をおろし、その人差し指を操の唇に押し当てた。
「しないよ」
「?」
「さっきの答え」
「……ッ」
「聞いて、来主」
押し当てられている指が、操が口を開くことを許さない。
優しげに紡がれる声が、いつもより少しだけ硬いような気がした。
「翔子が好きだったのは俺じゃない。俺は、俺と同じ気持ちでいてくれる相手としか、しないよ」
「おれは甲洋が好きだよ」
思わず口を開けば、甲洋の指が唇から離れる。彼はくすぐったそうに小さく笑った。
「うん、知ってる」
「甲洋は?」
「……好きだよ、お前のことが」
「じゃあ、なんで?」
頼りない照明を吸い込んで、潤んだ甲洋の瞳が揺れていた。
「俺が秘密にしていることが、お前を傷つけるかもしれないから」
「どうしてそう思うの?」
「……食べたいからだよ」
「ぁッ」
甲洋の腕が操の肩と腰に回されたと同時に、ぐるりと世界がひっくり返る。
次の瞬間には、操は布団の上に転がされていた。覆いかぶさるようにして、四つん這いの甲洋が見下ろしている。
何かが張り詰めているのを感じた。空気が、意識が、甲洋が。細い糸を限界まで張り巡らせたみたいに。今にも弾けてしまいそうな気がして、操は訳も分からず身を強張らせる。
彼の瞳はもう揺れてはいなかった。なにかしらの覚悟を決めたような、あるいは観念したような、そんな意思を感じさせる眼差しをしていた。
「甲洋……?」
「俺は、お前のことを抱きたいと思ってる」
操は目を見開いた。
「俺の好きは、そういう好きだよ」
「!」
抱く、ということが、ただ身を寄せてじゃれ合うような意味ではないことくらい、操にだって分かる。セックス、交尾、性行為。彼が言っているのは、そういうことだ。
なにより操を驚かせているのは、その告白を聞いて妙に納得してしまった自分がいることだった。ちぐはぐに繋いでいたパズルのピースが、ようやく正しい場所にはまったみたいに、彼の告白が心の中にストンと落ちる。
「お前がちゃんと自分で気づくまでは、待つつもりでいた。俺はイヌだから……お前が嫌いなイヌだから、怖がらせるのは嫌だった。だけど──」
顔の両脇にあった甲洋の手が、片方だけ操の頬に触れる。
「もう限界みたいだ、来主」
「ッ!」
途端に頬が紅潮していくのを感じた。心臓がドカドカと音を立てはじめる。
熱くて、息が苦しい。その熱はじわじわと全身を覆って、やがて操を丸ごと飲み込んでしまう。頭の天辺から爪の先まで。火がついたみたいに、あるいは、雷にうたれたみたいに。
──今のは、ちゃんとキスだよ。
──答えは出ているも同然だ。あとは早く自覚してやることだな。
(あぁ……そ、っか……)
操はズレていた。だけど何がどうズレているのか、分からないままだった。
だってこんなに苦しい『好き』は、生まれて初めてだったから。
「おれ……甲洋の、お父さんとお母さんに、なる、つもりで」
操に想像できるのはそういう愛情の形だけだった。甲洋だってきっとそれを求めているのだと、なんの疑いもなく決めつけていた。持て余す欲求に違和感を覚えながら、だけど他に当てはめるピースを知らなくて。
甲洋が首を左右に振る。
「俺はお前に父親も母親も求めてない」
恋なんて、したことがなかったから。
自分には関係のない、おとぎ話のように思っていたから。
「俺は、ただの来主操が欲しい」
急な突風に煽られたみたいに、全身の皮膚がざわりと粟立つのを感じた。操はごくりと喉を鳴らし、細く吐きだした息を震わせる。
(ああ……おれ、ずっと甲洋のことが……)
ドキドキするのも、胸が苦しいのも、キスだけじゃ物足りないのも。彼を抱きしめたいと思う気持ちも。もっと近くで繋がりたいという欲求も。
心も身体も、操が頭で理解するより先に彼を求めて走りだしていた。総士が言っていた通り。操の中には、とっくに答えが出ていたのだ。
操は耳まで赤くしながら両手を伸ばすと、甲洋の熱い頬を包み込んだ。
「……甲洋は、甲洋だけは、怖くないよ。だって君は、おれの特別だから」
イヌとかヒトとか、そんなことすらどうでもいい。
「おれ、甲洋が好き。ねぇ、やっとわかったよ」
甲洋の顔がくしゃりと歪んだ。このままでは泣いてしまう。そんな気がして、操はその首に両腕を回すと強く抱き寄せた。
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「ただいまー! 美味しい匂いがするね!」
「おかえり来主。もうできるから、うがいと手洗いしておいで」
台所に立っている甲洋はキャベツを千切りしていた手を止めて、柔らかな笑みを浮かべながら尻尾を振った。
焦茶の髪を後ろでひとつに纏め、包丁を握る姿がやたらと様になっていて、なんかいいなぁと操は思う。
「やったぁ! お腹ペコペコだー!」
操はバンザイをしながら洗面所に向かい、言われたとおりうがいと手洗いを済ませると、また台所に戻る。
甲洋はキャベツとトマトを盛った皿に生姜焼きを盛り付けているところだった。
「うわぁ、おいしそう!」
その手元を覗き込み、操は目を輝かせた。
皿からはゆらゆらと湯気が立ち上り、照りのある柔らかそうな肉が飴色に染まっている。しょうがの香りをいっそう強く感じて、腹の虫が雛鳥のように騒ぎだす音がした。
「どうかな。うまく作れてるといいけど」
「絶対おいしいよ。甲洋はおれより上手だもん」
「それは否定しない」
「むうぅ……ちょっとは否定してよぉ、意地悪ぅ」
とはいえ事実である。最近はほとんどの家事が甲洋の仕事になっていた。
家の中は常にピカピカだし、朝もご飯を作ってちゃんと起こしてくれる。買い物をしたレシートはノートにまとめて整理してあり、おかげで無駄な出費もぐんと減った。
ちなみにずっと電池切れを起こしたままだった玄関チャイムも、操が知らないうちにさらっと電池交換が済まされていた。
なんだかまるで自分の方が子供になってしまったみたいで複雑だ。世話をするどころか、完全に世話をされてしまっているような気がする。というか、されている。
ぶぅっと頬を膨らませていると、苦笑していた甲洋が「そういえば」と何か思いだしたように言葉を発した。
「今日、一騎に会ったよ」
「え?」
飛び出した思いがけない話題に、操は不貞腐れていたのも忘れて目を丸くする。
「どこで?」
「スーパーで」
「総士は?」
「いなかったよ」
「じゃあ、君たちだけで?」
頷く甲洋に、操は目を瞬かせる。
彼らの件はずっと心の片隅に引っかかっていた。なにせふたりは実に気まずい別れ方をしているのだ。
そんな彼らが対面したときどんな空気になるのか、操には想像もつかない。甲洋はケロリとした様子でるし、これといって何も問題は起きなかったということだろうか。
揺れる瞳で見上げれば、甲洋は小さく笑って菜箸を置く。
「なにもないよ。心配しないで」
「じゃあ、ちゃんと仲直りできた?」
「まぁね。別にケンカしてたわけでもないけど」
「そっか、よかったぁ」
操は胸に手をあて、ホッと安堵の息をついた。
「気になってたんだ、君たちのこと。でも、ちゃんと仲良くなってくれたなら嬉しい。だって一騎は大事な友達だし、君は大切なおれの家族だから……ずっとそうなればいいなって思ってたんだ」
操は甲洋も一騎も大好きだ。そんな彼らがずっと悲しいわだかまりを残したままでいるのは嫌だった。だから本当に嬉しい。今ごろ総士も、一騎から話を聞いてホッとしているだろうなと思った。
「心配してくれてありがとう、来主」
甲洋は穏やかな声で言いながら、目を細めて笑った。その綺麗であたたかい微笑みに胸をつかれて、操は頬がじわりと熱くなるのを感じる。
(あ、まただ)
内側からなにかが溢れて、止まらなくなるようなあの感覚。
こんなに近くにいるのに、もっと傍で甲洋を感じたくてたまらない。そのまま優しい体温に溶けてしまえたら、どんな心地がするだろう。
彼を食べたいと思ってしまったあの夜から、その欲求は操のなかで日増しに膨らんでいた。
もっともっと彼を感じるためには、これ以上どうすればいいのだろうかと。
(キスしたいなぁ……でも、嫌がるかなぁ……)
「……ねぇ甲洋」
「なに」
「キ」
「そういえば」
操の声を遮って、甲洋がまたなにか思いだしたように口を開いた。
「今度、一騎にカレーの作り方を教わる約束をしたよ」
「え!?」
思わず顔をあげ、甲洋を見上げる。なんだかはぐらかされたような気がしたが、今はそれどころではなかった。
自分でも目がキラキラと輝きだすのが分かる。ついでに口の端から今にもよだれが溢れてきそうだ。
「それって、甲洋も一騎カレーを作れるようになるってこと!?」
「俺が作ったら、それはもう俺のカレーだろ……」
なぜか横目でじっとりと睨まれてしまったが、感極まって甲洋の首に思い切り抱きついた。
その勢いが少しばかり強くて唐突だったものだから、甲洋の身体がわずかに傾く。
「っと……危ないな」
「凄いよ甲洋! そうしたら、家でいつでも一騎カレーが食べられる!」
「だから、俺が作るのになんで名称が一騎カレーのままなわけ」
「やったー! 甲洋の一騎カレーだ! 嬉しいー!」
甲洋の頬に、額からこめかみにかけてをグリグリと擦りつける。操がイヌだったら、高速すぎていっそスローに見えるくらい尻尾を振っていたかもしれない。
甲洋が一騎と仲良くなって、さらにはカレーの作り方を習うというのだ。誕生日とクリスマスと遠足と海開きが一度にやって来たような、とにかくまるで夢みたいな話だと思う。
「ねぇいつ? 明日? 明後日? 待ち遠しいよ!」
「まぁ……挨拶に行ったときにでも」
「わーい挨拶のときだー! なんの挨拶だろう? よく分かんないけど楽しみ!」
「必ず超えるぞ、一騎……」
大はしゃぎする操の耳に、嫉妬に身を焦がす甲洋の低い呟きが届くことはなかった。
*
寝室にはぼんやりとした淡い照明が灯っている。
操が風呂から上がって部屋に戻ると、甲洋は布団をかぶって仰向けに横たわっていた。
「……甲洋、寝た?」
返事はない。操がむぅっと唇を尖らせていると、やや間を置いてから「寝てる」というくぐもった声が返ってくる。
「起きてるじゃん!」
操は膝をつき、布団の端にぺたりと腰を下ろした。
「寝たふりするなんて酷いよ」
「ふりじゃないよ。今から本当に寝るんだから」
「前はちゃんと起きて待っててくれたのに……」
操は人差し指で布団の盛り上がりをツンツンとつついた。
「ねぇ、今日もしないの」
「……なにを」
「おやすみのキス、しないの」
「……しない」
「なんでぇ?」
操は情けなく眉を下げると身を乗り出し、布団の山を揺さぶった。
ここ数日はずっとこうだ。毎日していたはずの寝る前のキスを拒まれている。
理由には心当たりがあった。桜のモンブランを買って帰ったあの日、操が彼を食べようとして怖がらせたからだ。
「ねぇ甲洋ぉ。もう食べようとしないから許してよぉ」
「そういう問題じゃ……いや、問題だけど」
操は布団の山をまたぎ、甲洋の腰のあたりに馬乗りになって腹に両手をついた。甲洋がぎょっとして、わずかに頭を浮かせる。
「こ、こら、ちょっと!」
「重い?」
「重くはない、けど、そこに座るのはダメだ。凄くダメだ」
「甲洋はすぐダメダメばっかり言う! あんまり撫でさせてくれなくなったし!」
喉を詰まらせたように、甲洋は何も言わなくなった。
「ねぇ甲洋……寂しいよ……」
操はもっと彼にくっついていたいし、髪や耳や尻尾にも触れたい。本当は毎晩抱きしめて眠りたいとさえ思うのだ。
ドキドキしすぎて胸が苦しくなるのに、それでも近づきたくて仕方ない。
だからこんなふうに拒まれるのは寂しいし、悲しかった。
「おれがズレてるから、ダメなの?」
しおしおと俯いて問いかける。
甲洋は持ち上げていた頭をボスンと音を立てて枕に沈めた。
「なにがズレてるかも分かってないくせに」
「わかんないよ。総士も教えてくれなかった。ただ、甲洋が気の毒だって」
結局、この感情に正しくつけられる名前があるのかどうかも分からないままだ。
ただ操には甲洋が特別で、こんなふうに近くにいてすら何かが足りない。
甲洋は違うのだろうか。同じ気持ちでいてはくれないのだろうか。操の中に生まれたモヤモヤとした塊が、少しずつ苛立ちに似たなにかに変わる。それは焦燥感だった。
「ここにいるのが翔子だったら、キスした?」
なぜそんなことを聞こうと思ったのだろう。ほとんど無意識に口から飛びだした問いに、操は自分自身で愕然とする。
翔子はもういないのに。こんなことを聞いたって、意味なんかないのに。どうして、そんな酷いことを──。
甲洋がふっと息をついた。操はビクリと身を震わせる。
「ご、ごめ」
「バカだな、来主は」
「こうよ、ごめ、ごめんなさ……」
甲洋がのっそりと起き上がる。操の身体は、彼の膝の上に落ち着いた。
咄嗟に逃げだそうとして身じろいだが、甲洋はそんな操の二の腕を掴んでその動きを阻んだ。近い距離で顔が向き合うと、操は震えながら泣きそうに顔を歪める。
「違う、こんなこと、聞くつもりじゃ……」
「わかってる」
甲洋は翔子が大好きだったのだ。悲しくて寂しくて、それでも誰の手もとらずに独りぼっちになることを選んでしまうくらい、大切な存在だった。
半月にも満たない短い間でも、操は甲洋と離れているのが辛かった。だから総士や、日野家の人たちに迷惑をかけてまで彼を取り返した。だけど甲洋はもう二度と翔子に逢えない。どんなに恋しくても、もう声すら届かないのに。
「ごめん……甲洋、ごめんなさい……」
「わかってるから。泣かないで、来主」
堪えきれずにポロポロと涙を流す操の頭を、大きな手が優しく撫でた。彼は目を細め、少し困ったように眉を下げて微笑んでいる。
「こうよ」
甲洋は頭を撫でていた手をおろし、その人差し指を操の唇に押し当てた。
「しないよ」
「?」
「さっきの答え」
「……ッ」
「聞いて、来主」
押し当てられている指が、操が口を開くことを許さない。
優しげに紡がれる声が、いつもより少しだけ硬いような気がした。
「翔子が好きだったのは俺じゃない。俺は、俺と同じ気持ちでいてくれる相手としか、しないよ」
「おれは甲洋が好きだよ」
思わず口を開けば、甲洋の指が唇から離れる。彼はくすぐったそうに小さく笑った。
「うん、知ってる」
「甲洋は?」
「……好きだよ、お前のことが」
「じゃあ、なんで?」
頼りない照明を吸い込んで、潤んだ甲洋の瞳が揺れていた。
「俺が秘密にしていることが、お前を傷つけるかもしれないから」
「どうしてそう思うの?」
「……食べたいからだよ」
「ぁッ」
甲洋の腕が操の肩と腰に回されたと同時に、ぐるりと世界がひっくり返る。
次の瞬間には、操は布団の上に転がされていた。覆いかぶさるようにして、四つん這いの甲洋が見下ろしている。
何かが張り詰めているのを感じた。空気が、意識が、甲洋が。細い糸を限界まで張り巡らせたみたいに。今にも弾けてしまいそうな気がして、操は訳も分からず身を強張らせる。
彼の瞳はもう揺れてはいなかった。なにかしらの覚悟を決めたような、あるいは観念したような、そんな意思を感じさせる眼差しをしていた。
「甲洋……?」
「俺は、お前のことを抱きたいと思ってる」
操は目を見開いた。
「俺の好きは、そういう好きだよ」
「!」
抱く、ということが、ただ身を寄せてじゃれ合うような意味ではないことくらい、操にだって分かる。セックス、交尾、性行為。彼が言っているのは、そういうことだ。
なにより操を驚かせているのは、その告白を聞いて妙に納得してしまった自分がいることだった。ちぐはぐに繋いでいたパズルのピースが、ようやく正しい場所にはまったみたいに、彼の告白が心の中にストンと落ちる。
「お前がちゃんと自分で気づくまでは、待つつもりでいた。俺はイヌだから……お前が嫌いなイヌだから、怖がらせるのは嫌だった。だけど──」
顔の両脇にあった甲洋の手が、片方だけ操の頬に触れる。
「もう限界みたいだ、来主」
「ッ!」
途端に頬が紅潮していくのを感じた。心臓がドカドカと音を立てはじめる。
熱くて、息が苦しい。その熱はじわじわと全身を覆って、やがて操を丸ごと飲み込んでしまう。頭の天辺から爪の先まで。火がついたみたいに、あるいは、雷にうたれたみたいに。
──今のは、ちゃんとキスだよ。
──答えは出ているも同然だ。あとは早く自覚してやることだな。
(あぁ……そ、っか……)
操はズレていた。だけど何がどうズレているのか、分からないままだった。
だってこんなに苦しい『好き』は、生まれて初めてだったから。
「おれ……甲洋の、お父さんとお母さんに、なる、つもりで」
操に想像できるのはそういう愛情の形だけだった。甲洋だってきっとそれを求めているのだと、なんの疑いもなく決めつけていた。持て余す欲求に違和感を覚えながら、だけど他に当てはめるピースを知らなくて。
甲洋が首を左右に振る。
「俺はお前に父親も母親も求めてない」
恋なんて、したことがなかったから。
自分には関係のない、おとぎ話のように思っていたから。
「俺は、ただの来主操が欲しい」
急な突風に煽られたみたいに、全身の皮膚がざわりと粟立つのを感じた。操はごくりと喉を鳴らし、細く吐きだした息を震わせる。
(ああ……おれ、ずっと甲洋のことが……)
ドキドキするのも、胸が苦しいのも、キスだけじゃ物足りないのも。彼を抱きしめたいと思う気持ちも。もっと近くで繋がりたいという欲求も。
心も身体も、操が頭で理解するより先に彼を求めて走りだしていた。総士が言っていた通り。操の中には、とっくに答えが出ていたのだ。
操は耳まで赤くしながら両手を伸ばすと、甲洋の熱い頬を包み込んだ。
「……甲洋は、甲洋だけは、怖くないよ。だって君は、おれの特別だから」
イヌとかヒトとか、そんなことすらどうでもいい。
「おれ、甲洋が好き。ねぇ、やっとわかったよ」
甲洋の顔がくしゃりと歪んだ。このままでは泣いてしまう。そんな気がして、操はその首に両腕を回すと強く抱き寄せた。
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アイドルタイム中のスーパーには、ぽつりぽつりと客がいるだけだった。
レジも一ヶ所しか稼働していない。午後の日差しを避けるため、店員が緩慢な動作でブラインドを下ろしている。
買い物カゴにはしょうがと豚のロース肉が入っていた。今夜の夕飯は豚の生姜焼きだ。
毎日の献立はふたりで決めているが、どちらかと言えば操が食べたいものを優先させることが多かった。甲洋には特に好き嫌いはないし、食に強いこだわりがあるわけでもないのでおのずとそうなる。
最近は操が帰る頃に合わせて、先に食事の支度を済ませておくことが少なくない。それは掃除や洗濯といった家事全般にもいえることだった。
操は「おれの出番がなくなっちゃうよ」と焦っているが、ただヒマを持て余すくらいなら、家のことは全て任せてくれた方がずっといい。働かざるもの食うべからずの精神である。
それに操はハッキリ言って家事センスが壊滅的だった。大雑把だし、不器用だし、かなりそそっかしい性格をしている。
つい先日も洗濯をしようとして液体洗剤を床にぶちまけ、足を滑らせて派手に転んだばかりだ。未だに気を抜くと包丁で指を切るし、なにやらメソメソと泣いていると思ったら、ペアで揃えたマグカップを割ってしまい、片付けようとしてまた指を切っていた。
これでよく今まで生きて来られたなと、最近は呆れを通り越していっそ感心している。
ただ、見ていて飽きない──目が離せない──のは確かだ。
表情筋が発達しすぎているのだろうか。笑ったり泣いたり怒ったり、彼はいつだって忙しい。その影響を受けてか、自分でもよく笑うようになったと思う。彼といると、自然とそうなってしまうのだ。
しかし、ここのところは非常に困ったことになっている。
重たい息を漏らしながら、甲洋は大玉のトマトをひとつ手にとった。
つるりとした表面と、張りのある弾力。これはこれで心地がいいが、操の頬はもっとふにふにとしていて柔らかい。
瞬時にそんなことを考える自分にげんなりしながら、トマトをひとつカゴに入れた。
(そろそろ限界かもしれない)
最近とみにそう思う。
操は可愛い。ふにゃりとした笑顔も、情けない泣き顔も、幼い仕草やその内面も。
ふとした瞬間その肩を抱き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られることが幾度となくある。そのまま自分のものにしてしまえたら、どんなにいいだろうかと。
必死で抑え込んでいるのに、しかし当の操は甲洋の気持ちなどお構いなしだ。困ったことに、彼はなんにも分かっちゃいない。
(どんな無菌室で育てれば、あんな鈍いやつができあがるんだ……?)
操の気持ちは伝わっている。イヌはヒトの心がハッキリと読み取れるわけではないが、感情の機微には敏感だ。そこに元来の勘の鋭さも加わって、甲洋には分かってしまう。
それは宿ったばかりの命のように未熟で、おぼつかないけれど。操から向けられる想いの形は、甲洋が彼に抱くものと同じだった。
一方通行の恋しか知らなかった甲洋は、その幸福に息ができなくなる。
だけどそこまで分かっていながら、自信をもって踏み込むことができないでいた。
思慕と恋慕。親愛と性愛。操にはその区別がついていない。まるで本当に子供のようだ。まだなにも知らない、知ろうとすらしていない子供と一緒だ。
なのに甲洋を見つめる瞳はどこか物欲しげで、蕩けきっている。だからたちが悪かった。
どれだけ人間に近かろうと、甲洋は獣だ。
あの白くて柔らかそうな肌に歯を立ててしまいたいという欲求が、確かにある。
彼が甘えたように身を寄せてくるたび、淡桃に色づく肌がまるで誘っているようだった。そんなとき、操からはなんとも言えない甘い香りがする。
それはフェロモンのようなものかもしれない。発情期のメスがオスを誘うように、彼の匂いは甲洋の情欲を煽りたてる。
しかし操はイヌへの恐怖を克服したわけではない。
だからこそ彼から寄せられる特別な信頼は心地がよくて、けれど同じくらい怖かった。
どこまで自分を制御できるか分からなくて、彼を傷つけてしまいそうで。この獣欲をさらけだすには、彼はあまりにも無垢すぎる。
臆病、むっつり、意気地なし。総合してヘタレなのだ。甲洋は。
情けなくて思わず溜息が漏れた。
しかしここで悶々としていたって埒が明かない。ひとまず買い物を終わらせてしまおうと、生姜焼きに添えるためのキャベツに手を伸ばした。
が、そこで同じようにキャベツに触れようとしていた誰かの白い指先とぶつかってしまう。
「「あ」」
互いに丸くした目をかち合わせ、同時に声をあげる。
白い耳と尻尾。そこにいたのは皆城総士の愛犬、チワワの一騎だった。
*
「アイスコーヒーでよかったか?」
スーパーの片隅にある小さなイートインスペースは無人だった。
先に席についていた甲洋の元に、カップ式自販機で買ったコーヒーを両手に持った一騎がやってくる。心の中で礼を述べてカップを受け取ると、一騎は「どういたしまして」と笑いながら向かいに座った。
一騎が自分の分のカップに口をつけるのを見て、甲洋もコーヒーに口をつける。
「今日は来主はどうしてるんだ? バイトか?」
甲洋が頷く。
「お前もすっかり主夫してるんだな」
心の中でまぁねと言って、また頷いた。
問いかけに短く返すだけの甲洋に、一騎は気を悪くしたふうもなく「そっか」と言うだけだった。
彼は読心能力を使おうとはしなかった。前に不用意に甲洋の記憶に触れてしまったことが原因かというと、そうではない。一騎は甲洋が皆城総士の元で世話になっていた頃も、必要以上に能力を使うことはしなかった。
けれど甲洋は、イヌ同士なら心の中で会話するのは当然のことだと認識している。わざわざ声に出して会話をする必要はないし、その意味もない。
だが一騎はそれをしないのだ。人間のようなイヌだなと思った。
「ずっと気になってた。お前のこと」
一騎はカップをテーブルに置くと言った。
「謝りたかったんだ。ごめんな」
それは甲洋も同じだった。一騎の気持ちはちゃんと理解していた。その優しさも。
一騎だけじゃない。最初に保護してくれた羽佐間容子も、真壁史彦も、皆城総士も。みんな優しい人たちだった。見ず知らずの捨て犬のために、心を砕いてくれた。
けれどあの頃の甲洋は疲弊しきっていた。生きる理由を見失っていた。人間に期待することを恐れ、同様に期待させるのが怖かった。
だけど甲洋は相手が一騎だったからこそ、とりわけ心を見せるが嫌だったのだ。
それは幼い頃に見た、“ある光景”が原因だった。
『どこまで視た?』
心の中で問いかけながら、甲洋はカップの中で揺れているコーヒーを見下ろす。水面には無表情な自分の顔が映り込んでいた。別に不機嫌だからとか、そういうわけではない。単純に気まずかったのだ。
「……ベランダに雪が降っていた。幾つかダンボールやガラクタが積み重なっていて、お前はそこに身を隠すようにしながら、裸足で膝を抱えて座っていた。それから……」
一騎はそこでいちど言葉を切る。そして何かを堪えるように、そっと睫毛を伏せた。
「いなくなったんだな……あの子」
あの子──。
「!」
コーヒーの水面に映る甲洋の瞳が、ハッとして見開かれる。
『……覚えてるのか?』
一騎を見ないまま問いかけた。静かに頷く気配に、甲洋は呆然と瞬きを繰り返す。
きっと忘れているだろうと思っていた。彼女のことなど、覚えてはいないだろうと。
だけど彼は覚えていた。忘れてなんかいなかった。彼女のことを──翔子のことを。
『忘れたことなんかない』
心の中で、一騎が言った。
そこには身を切るような深い悲しみがあって、懐かしい記憶がある。
甲洋は何も言葉を返すことができなかった。一騎もまた、口を噤んで静かに目を伏せる。
翔子を喪った痛みを、彼女を知っている誰かと共有するのは、甲洋にとってこれが初めてのことだった。
ゆるりと心がほどけていくのを感じて、甲洋はふっと息を吐き出した。それから視線を一騎に向けて、小さく笑う。
「昔、一度だけお前を見たことがあるよ。羽佐間さんの家に行ったことがあるだろ? 小さな頃に」
甲洋はまるで昔から知っている友人に語りかけるような、そんな穏やかな声で気安く言った。心の中ではなく、ちゃんと言葉にして。
実際、甲洋は一騎のことを知っていたのだ。皆城総士の元で会う前から、ずっと。
一騎は甲洋の心がほどけたことに少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「父さんと羽佐間先生は昔からの友達なんだ。ほら、陶器があっただろ? 真壁の家に」
甲洋が頷く。ほんの短い間だが、甲洋は真壁家で世話になっていたこともあった。棚いっぱいに、不思議な形の陶器が並んでいたのを覚えている。
「趣味なんだよ。でもけっこう酷いよな、どれもこれも」
「芸術的、ではあったかな」
「いいよ、気を使わなくて。それでも味があるってさ、たまに欲しがる人がいるんだよ。羽佐間先生みたいに。父さん顔には出さないけど大喜びで、わざわざ届けに行ったんだ。それに俺もついて行った……そっか。見てたんだな、お前」
ベランダから幼い子猫に恋をしていたあの頃。甲洋もまだほんの小さな子犬だった。
ある日、羽佐間家の前に見慣れない車が停まった。そこから降りてきたのが真壁史彦と、まだ子犬の一騎だったのだ。
よく晴れた、暖かな日だったのを覚えている。翔子の部屋のカーテンと窓は開かれていて、そこに一騎が通されたのを見た。翔子は一騎を見た瞬間、白い頬を桃の花びらのように染めあげた。
それは彼女が恋に落ちた瞬間だった。あのとき駆られた焦燥感は、今でも忘れられない。
泣きだしそうに潤んだ瞳ではにかむ翔子と、最初こそ戸惑った様子でポカンとしていた一騎だけれど、彼は翔子が必死で紡ぎだす声に真剣に耳を傾けているようだった。
そうやって、幼い二匹は大人たちが話を終えるあいだの、ほんの短い時間を共に過ごした。
彼らがどんな言葉を交わしたのかまでは分からない。だけど甲洋にとってはそのささやかなひと時が、まるで永遠のように感じられた。
それから一騎が翔子に会いに来ることはなかったが、彼女はたまに窓の外を眺めては頬を染め、溜息をつくことが多くなった。
届かぬ想いに身を焦がす翔子に、それでも甲洋は恋をし続けた。出会ってすらいない、どんなに見つめても視線すら交わらない、小さくて可憐な白猫に。
甲洋は目の前で静かにコーヒーを飲んでいる一騎を見た。
皆城総士の元で彼に引き会わされたとき、甲洋は彼に羨望と憎しみを同時に抱いた。たったいちど会っただけで翔子の心を掴んでしまった、一騎に対して。
だけどそんなものはただの八つ当たりだ。彼を恨んだって意味がないことは分かっていた。
もし仮にあのとき傍にいたのが甲洋だったとしても、彼女は一騎に恋をしただろう。彼の優しさを知れば知るほど、それが確信に変わっていくことが苦しかった。
甲洋が頑なに心を閉ざしていたのは、そんな自分のなかに巣食う負の感情を知られたくなかったからだ。
「……俺も悪かった。カッとなって、お前を傷つけたこと」
頭を下げた甲洋に、一騎は静かに笑って首を振る。
再びコーヒーへと落とした視線の先には、憑き物が落ちたように穏やかな目をした自分が映りこんでいる。
(──翔子)
思い出の箱の中で、初恋の少女が笑っていた。
その笑顔が自分に向けられることは終ぞなかったが、今の甲洋は知っている。
ひたむきに注がれる想いと、まっすぐに向けられる眩しい笑顔を。もう一度、誰かを愛しいと想える気持ちを。
それは決して独りよがりではないはずで、だけど未だ強く踏み込むことはできなくて。意気地なしの自分は、ただこうして迷子のように袋小路で怯えているだけなのだ。
甲洋はコーヒーを飲み干すと、深く長い息を漏らす。一騎が小首を傾げた。
「来主のことか?」
心を読まれたのかと思ったが、そうではないらしい。
なぜ分かるのかと目だけで問えば、彼は眉を下げて苦笑した。
「総士から口止めされたんだ。来主に何を聞かれても、絶対に答えるなって」
「口止め?」
「あいつ、俺と総士のことが知りたかったみたいだ」
「ああ、そういうこと……」
つまり、そういうことだ。
先日、操は総士に会うのだと言って意気揚々と出かけて行った。そこでどんな話をしたのか、おかげでなんとなく予想がついた。
一騎と総士の関係には気がついていた。短い期間とはいえ、甲洋は彼らの家にも厄介になっていたのだから。
総士はそんなことおくびにも出さない振る舞いを一貫していたが、ふたりの間に流れる空気は、飼い主とイヌという枠を飛び越えたものだった。
そもそも一騎に隠す気がなかったのだから、嫌でも気がつく。
要するにダダ漏れだったのだ。
「別に教えてやればいいのにな。その方が手っ取り早いだろ?」
同意を求められても、甲洋は何も答えられない。
自分の色恋をあれこれ暴露するというのは、なかなかできることではないような気がする。
しかし一騎は意外にもオープン気質だ。繊細そうに見えて、実は大雑把なところがあるのだろうか。
「お前が相手なら、俺も総士も安心だよ」
「どうしてそう言える?」
「だって、お前は来主を傷つけないだろ?」
果たしてそれはどうだろう。自信がないから、こうして踏み出せないでいる。
つい先日だって、失態を犯したばかりだった。あのとき暴走しなかったのは奇跡に近い。
だってあんなキスは反則だ。小さな唇が濡れた音を立てながら吸いついてくる感触。正直、思いだしてはあのあとも幾度か催した。その度に一人で処理するというのは、なかなかに虚しいものがある。
「大変だな、お前」
一騎が気の毒そうに、そして心配そうにしみじみと言った。
「……視るなよ」
「視たくて視たんじゃない。視せられたんだ。お前、気をつけないとダダ漏れだったぞ」
ああ、自分も一騎のことは言えないのか。
あまりにも強烈な出来事だったせいか、あるいは甲洋に余裕がなさすぎるせいなのか、一騎にはその気がなくても視えてしまったのだ。
下手に心を開いたことが裏目にでた。いらぬ恥をかいてしまった気がするし、誰であっても自分以外のオスに操のあんな姿は知られたくない。
が、今のは甲洋が完全に油断していた。彼を責めることはできなかった。
「なんだか緊張してきたな」
「なんでお前が緊張するのさ」
「だって、近いうち挨拶に来ることになるんだろ? 息子さんを俺にくださいって」
「は……?」
「総士はわざわざスーツを用意しておくつもりでいるみたいだけど……俺はあまり堅くならない方がいいような気がするんだよな。どう思う?」
どう、と聞かれても困る。
一騎は真剣だ。こんな調子で、家でも総士とあれこれ話をしているのだろうか。確かにほとんど親代わりなのだろうが、わざわざ挨拶に行くなんて考えたこともなかった。
操も大概だが、一騎も総士も天然である。あの親にしてこの子ありとは、彼らのためにある言葉かもしれない。
「……まだ当分は先かもね」
そう言って、甲洋は力なく息を漏らした。
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レジも一ヶ所しか稼働していない。午後の日差しを避けるため、店員が緩慢な動作でブラインドを下ろしている。
買い物カゴにはしょうがと豚のロース肉が入っていた。今夜の夕飯は豚の生姜焼きだ。
毎日の献立はふたりで決めているが、どちらかと言えば操が食べたいものを優先させることが多かった。甲洋には特に好き嫌いはないし、食に強いこだわりがあるわけでもないのでおのずとそうなる。
最近は操が帰る頃に合わせて、先に食事の支度を済ませておくことが少なくない。それは掃除や洗濯といった家事全般にもいえることだった。
操は「おれの出番がなくなっちゃうよ」と焦っているが、ただヒマを持て余すくらいなら、家のことは全て任せてくれた方がずっといい。働かざるもの食うべからずの精神である。
それに操はハッキリ言って家事センスが壊滅的だった。大雑把だし、不器用だし、かなりそそっかしい性格をしている。
つい先日も洗濯をしようとして液体洗剤を床にぶちまけ、足を滑らせて派手に転んだばかりだ。未だに気を抜くと包丁で指を切るし、なにやらメソメソと泣いていると思ったら、ペアで揃えたマグカップを割ってしまい、片付けようとしてまた指を切っていた。
これでよく今まで生きて来られたなと、最近は呆れを通り越していっそ感心している。
ただ、見ていて飽きない──目が離せない──のは確かだ。
表情筋が発達しすぎているのだろうか。笑ったり泣いたり怒ったり、彼はいつだって忙しい。その影響を受けてか、自分でもよく笑うようになったと思う。彼といると、自然とそうなってしまうのだ。
しかし、ここのところは非常に困ったことになっている。
重たい息を漏らしながら、甲洋は大玉のトマトをひとつ手にとった。
つるりとした表面と、張りのある弾力。これはこれで心地がいいが、操の頬はもっとふにふにとしていて柔らかい。
瞬時にそんなことを考える自分にげんなりしながら、トマトをひとつカゴに入れた。
(そろそろ限界かもしれない)
最近とみにそう思う。
操は可愛い。ふにゃりとした笑顔も、情けない泣き顔も、幼い仕草やその内面も。
ふとした瞬間その肩を抱き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られることが幾度となくある。そのまま自分のものにしてしまえたら、どんなにいいだろうかと。
必死で抑え込んでいるのに、しかし当の操は甲洋の気持ちなどお構いなしだ。困ったことに、彼はなんにも分かっちゃいない。
(どんな無菌室で育てれば、あんな鈍いやつができあがるんだ……?)
操の気持ちは伝わっている。イヌはヒトの心がハッキリと読み取れるわけではないが、感情の機微には敏感だ。そこに元来の勘の鋭さも加わって、甲洋には分かってしまう。
それは宿ったばかりの命のように未熟で、おぼつかないけれど。操から向けられる想いの形は、甲洋が彼に抱くものと同じだった。
一方通行の恋しか知らなかった甲洋は、その幸福に息ができなくなる。
だけどそこまで分かっていながら、自信をもって踏み込むことができないでいた。
思慕と恋慕。親愛と性愛。操にはその区別がついていない。まるで本当に子供のようだ。まだなにも知らない、知ろうとすらしていない子供と一緒だ。
なのに甲洋を見つめる瞳はどこか物欲しげで、蕩けきっている。だからたちが悪かった。
どれだけ人間に近かろうと、甲洋は獣だ。
あの白くて柔らかそうな肌に歯を立ててしまいたいという欲求が、確かにある。
彼が甘えたように身を寄せてくるたび、淡桃に色づく肌がまるで誘っているようだった。そんなとき、操からはなんとも言えない甘い香りがする。
それはフェロモンのようなものかもしれない。発情期のメスがオスを誘うように、彼の匂いは甲洋の情欲を煽りたてる。
しかし操はイヌへの恐怖を克服したわけではない。
だからこそ彼から寄せられる特別な信頼は心地がよくて、けれど同じくらい怖かった。
どこまで自分を制御できるか分からなくて、彼を傷つけてしまいそうで。この獣欲をさらけだすには、彼はあまりにも無垢すぎる。
臆病、むっつり、意気地なし。総合してヘタレなのだ。甲洋は。
情けなくて思わず溜息が漏れた。
しかしここで悶々としていたって埒が明かない。ひとまず買い物を終わらせてしまおうと、生姜焼きに添えるためのキャベツに手を伸ばした。
が、そこで同じようにキャベツに触れようとしていた誰かの白い指先とぶつかってしまう。
「「あ」」
互いに丸くした目をかち合わせ、同時に声をあげる。
白い耳と尻尾。そこにいたのは皆城総士の愛犬、チワワの一騎だった。
*
「アイスコーヒーでよかったか?」
スーパーの片隅にある小さなイートインスペースは無人だった。
先に席についていた甲洋の元に、カップ式自販機で買ったコーヒーを両手に持った一騎がやってくる。心の中で礼を述べてカップを受け取ると、一騎は「どういたしまして」と笑いながら向かいに座った。
一騎が自分の分のカップに口をつけるのを見て、甲洋もコーヒーに口をつける。
「今日は来主はどうしてるんだ? バイトか?」
甲洋が頷く。
「お前もすっかり主夫してるんだな」
心の中でまぁねと言って、また頷いた。
問いかけに短く返すだけの甲洋に、一騎は気を悪くしたふうもなく「そっか」と言うだけだった。
彼は読心能力を使おうとはしなかった。前に不用意に甲洋の記憶に触れてしまったことが原因かというと、そうではない。一騎は甲洋が皆城総士の元で世話になっていた頃も、必要以上に能力を使うことはしなかった。
けれど甲洋は、イヌ同士なら心の中で会話するのは当然のことだと認識している。わざわざ声に出して会話をする必要はないし、その意味もない。
だが一騎はそれをしないのだ。人間のようなイヌだなと思った。
「ずっと気になってた。お前のこと」
一騎はカップをテーブルに置くと言った。
「謝りたかったんだ。ごめんな」
それは甲洋も同じだった。一騎の気持ちはちゃんと理解していた。その優しさも。
一騎だけじゃない。最初に保護してくれた羽佐間容子も、真壁史彦も、皆城総士も。みんな優しい人たちだった。見ず知らずの捨て犬のために、心を砕いてくれた。
けれどあの頃の甲洋は疲弊しきっていた。生きる理由を見失っていた。人間に期待することを恐れ、同様に期待させるのが怖かった。
だけど甲洋は相手が一騎だったからこそ、とりわけ心を見せるが嫌だったのだ。
それは幼い頃に見た、“ある光景”が原因だった。
『どこまで視た?』
心の中で問いかけながら、甲洋はカップの中で揺れているコーヒーを見下ろす。水面には無表情な自分の顔が映り込んでいた。別に不機嫌だからとか、そういうわけではない。単純に気まずかったのだ。
「……ベランダに雪が降っていた。幾つかダンボールやガラクタが積み重なっていて、お前はそこに身を隠すようにしながら、裸足で膝を抱えて座っていた。それから……」
一騎はそこでいちど言葉を切る。そして何かを堪えるように、そっと睫毛を伏せた。
「いなくなったんだな……あの子」
あの子──。
「!」
コーヒーの水面に映る甲洋の瞳が、ハッとして見開かれる。
『……覚えてるのか?』
一騎を見ないまま問いかけた。静かに頷く気配に、甲洋は呆然と瞬きを繰り返す。
きっと忘れているだろうと思っていた。彼女のことなど、覚えてはいないだろうと。
だけど彼は覚えていた。忘れてなんかいなかった。彼女のことを──翔子のことを。
『忘れたことなんかない』
心の中で、一騎が言った。
そこには身を切るような深い悲しみがあって、懐かしい記憶がある。
甲洋は何も言葉を返すことができなかった。一騎もまた、口を噤んで静かに目を伏せる。
翔子を喪った痛みを、彼女を知っている誰かと共有するのは、甲洋にとってこれが初めてのことだった。
ゆるりと心がほどけていくのを感じて、甲洋はふっと息を吐き出した。それから視線を一騎に向けて、小さく笑う。
「昔、一度だけお前を見たことがあるよ。羽佐間さんの家に行ったことがあるだろ? 小さな頃に」
甲洋はまるで昔から知っている友人に語りかけるような、そんな穏やかな声で気安く言った。心の中ではなく、ちゃんと言葉にして。
実際、甲洋は一騎のことを知っていたのだ。皆城総士の元で会う前から、ずっと。
一騎は甲洋の心がほどけたことに少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「父さんと羽佐間先生は昔からの友達なんだ。ほら、陶器があっただろ? 真壁の家に」
甲洋が頷く。ほんの短い間だが、甲洋は真壁家で世話になっていたこともあった。棚いっぱいに、不思議な形の陶器が並んでいたのを覚えている。
「趣味なんだよ。でもけっこう酷いよな、どれもこれも」
「芸術的、ではあったかな」
「いいよ、気を使わなくて。それでも味があるってさ、たまに欲しがる人がいるんだよ。羽佐間先生みたいに。父さん顔には出さないけど大喜びで、わざわざ届けに行ったんだ。それに俺もついて行った……そっか。見てたんだな、お前」
ベランダから幼い子猫に恋をしていたあの頃。甲洋もまだほんの小さな子犬だった。
ある日、羽佐間家の前に見慣れない車が停まった。そこから降りてきたのが真壁史彦と、まだ子犬の一騎だったのだ。
よく晴れた、暖かな日だったのを覚えている。翔子の部屋のカーテンと窓は開かれていて、そこに一騎が通されたのを見た。翔子は一騎を見た瞬間、白い頬を桃の花びらのように染めあげた。
それは彼女が恋に落ちた瞬間だった。あのとき駆られた焦燥感は、今でも忘れられない。
泣きだしそうに潤んだ瞳ではにかむ翔子と、最初こそ戸惑った様子でポカンとしていた一騎だけれど、彼は翔子が必死で紡ぎだす声に真剣に耳を傾けているようだった。
そうやって、幼い二匹は大人たちが話を終えるあいだの、ほんの短い時間を共に過ごした。
彼らがどんな言葉を交わしたのかまでは分からない。だけど甲洋にとってはそのささやかなひと時が、まるで永遠のように感じられた。
それから一騎が翔子に会いに来ることはなかったが、彼女はたまに窓の外を眺めては頬を染め、溜息をつくことが多くなった。
届かぬ想いに身を焦がす翔子に、それでも甲洋は恋をし続けた。出会ってすらいない、どんなに見つめても視線すら交わらない、小さくて可憐な白猫に。
甲洋は目の前で静かにコーヒーを飲んでいる一騎を見た。
皆城総士の元で彼に引き会わされたとき、甲洋は彼に羨望と憎しみを同時に抱いた。たったいちど会っただけで翔子の心を掴んでしまった、一騎に対して。
だけどそんなものはただの八つ当たりだ。彼を恨んだって意味がないことは分かっていた。
もし仮にあのとき傍にいたのが甲洋だったとしても、彼女は一騎に恋をしただろう。彼の優しさを知れば知るほど、それが確信に変わっていくことが苦しかった。
甲洋が頑なに心を閉ざしていたのは、そんな自分のなかに巣食う負の感情を知られたくなかったからだ。
「……俺も悪かった。カッとなって、お前を傷つけたこと」
頭を下げた甲洋に、一騎は静かに笑って首を振る。
再びコーヒーへと落とした視線の先には、憑き物が落ちたように穏やかな目をした自分が映りこんでいる。
(──翔子)
思い出の箱の中で、初恋の少女が笑っていた。
その笑顔が自分に向けられることは終ぞなかったが、今の甲洋は知っている。
ひたむきに注がれる想いと、まっすぐに向けられる眩しい笑顔を。もう一度、誰かを愛しいと想える気持ちを。
それは決して独りよがりではないはずで、だけど未だ強く踏み込むことはできなくて。意気地なしの自分は、ただこうして迷子のように袋小路で怯えているだけなのだ。
甲洋はコーヒーを飲み干すと、深く長い息を漏らす。一騎が小首を傾げた。
「来主のことか?」
心を読まれたのかと思ったが、そうではないらしい。
なぜ分かるのかと目だけで問えば、彼は眉を下げて苦笑した。
「総士から口止めされたんだ。来主に何を聞かれても、絶対に答えるなって」
「口止め?」
「あいつ、俺と総士のことが知りたかったみたいだ」
「ああ、そういうこと……」
つまり、そういうことだ。
先日、操は総士に会うのだと言って意気揚々と出かけて行った。そこでどんな話をしたのか、おかげでなんとなく予想がついた。
一騎と総士の関係には気がついていた。短い期間とはいえ、甲洋は彼らの家にも厄介になっていたのだから。
総士はそんなことおくびにも出さない振る舞いを一貫していたが、ふたりの間に流れる空気は、飼い主とイヌという枠を飛び越えたものだった。
そもそも一騎に隠す気がなかったのだから、嫌でも気がつく。
要するにダダ漏れだったのだ。
「別に教えてやればいいのにな。その方が手っ取り早いだろ?」
同意を求められても、甲洋は何も答えられない。
自分の色恋をあれこれ暴露するというのは、なかなかできることではないような気がする。
しかし一騎は意外にもオープン気質だ。繊細そうに見えて、実は大雑把なところがあるのだろうか。
「お前が相手なら、俺も総士も安心だよ」
「どうしてそう言える?」
「だって、お前は来主を傷つけないだろ?」
果たしてそれはどうだろう。自信がないから、こうして踏み出せないでいる。
つい先日だって、失態を犯したばかりだった。あのとき暴走しなかったのは奇跡に近い。
だってあんなキスは反則だ。小さな唇が濡れた音を立てながら吸いついてくる感触。正直、思いだしてはあのあとも幾度か催した。その度に一人で処理するというのは、なかなかに虚しいものがある。
「大変だな、お前」
一騎が気の毒そうに、そして心配そうにしみじみと言った。
「……視るなよ」
「視たくて視たんじゃない。視せられたんだ。お前、気をつけないとダダ漏れだったぞ」
ああ、自分も一騎のことは言えないのか。
あまりにも強烈な出来事だったせいか、あるいは甲洋に余裕がなさすぎるせいなのか、一騎にはその気がなくても視えてしまったのだ。
下手に心を開いたことが裏目にでた。いらぬ恥をかいてしまった気がするし、誰であっても自分以外のオスに操のあんな姿は知られたくない。
が、今のは甲洋が完全に油断していた。彼を責めることはできなかった。
「なんだか緊張してきたな」
「なんでお前が緊張するのさ」
「だって、近いうち挨拶に来ることになるんだろ? 息子さんを俺にくださいって」
「は……?」
「総士はわざわざスーツを用意しておくつもりでいるみたいだけど……俺はあまり堅くならない方がいいような気がするんだよな。どう思う?」
どう、と聞かれても困る。
一騎は真剣だ。こんな調子で、家でも総士とあれこれ話をしているのだろうか。確かにほとんど親代わりなのだろうが、わざわざ挨拶に行くなんて考えたこともなかった。
操も大概だが、一騎も総士も天然である。あの親にしてこの子ありとは、彼らのためにある言葉かもしれない。
「……まだ当分は先かもね」
そう言って、甲洋は力なく息を漏らした。
←戻る ・ 次へ→
「んー! 美味しー! これ食べたかったんだー!」
苺パフェを食べる操の唇の端には、赤いソースが付着している。
子供のようにみっともなくはしゃぐ操に、総士はホットコーヒーを飲みながら呆れた様子で息を漏らした。
「お前はいつまで経っても子供だな」
操は差し出された紙ナプキンを受け取り、口の横を拭きながらふにゃんと笑う。
「だってこれ今だけの限定パフェなんだよ。総士も食べなきゃもったいないよ」
「遠慮しておこう。昼食も済ませてきたばかりだ」
実のことを言うとそれは操も同じなのだが、また小言を食らいそうなので黙っておいた。
パフェにはたっぷりの苺と、マカロンやクッキーも添えられている。真っ赤な苺ソースにミントのアクセントが鮮やかで、眺めているだけでも幸せな気分だ。
(この次は甲洋も連れて来ようっと)
そういえばまだ一緒に外食をしたことがないことに気がついた。たまには外で食べるのもいいだろう。甲洋がこれを食べて、苺ソースで口元を汚すところが見てみたい。彼はそんな子供みたいな食べ方はしないだろうけれど。
「甲洋とはどうだ。上手くやっているのか?」
「やってるよ。ごめんね総士。せっかく色々がんばってくれたのに、振り回しちゃったよね」
「全くだ」
総士の言葉に棘はない。しょうがないなといった様子で微笑んでいる。
甲洋を連れ戻したことを報告したときも、驚いてはいたが「そういうことなら早く言え」と言うだけだった。
「一騎も喜んでいた。お前と甲洋なら大丈夫だと」
「本当? 嬉しいな」
昼時をとうに過ぎたファミレスは、人もまばらでゆったりとした空気が流れていた。ついこの間、真矢と会った店でもある。あのときは頼むだけ頼んで、オレンジジュースに口をつける余裕もなかった。
総士は黙ってコーヒーを飲んでいる。たまに新しい紙ナプキンを差し出してくれるので、操はその度に口を拭いた。
「あー、美味しかった! 幸せ!」
「それはなによりだ」
「もうひとつイケそうな気がする」
「太るぞ。それより僕に聞きたいことがあるんじゃないのか?」
オレンジジュースで一息ついた操はうんと頷き、ようやく本題に入ることにした。
「総士は一騎とどんなキスをするの?」
「ブッ!」
総士がコーヒーを噴き出す。今度は操が紙ナプキンを差し出す番だった。
「大丈夫?」
「な、なにを……と、突然なんだ?」
「総士、顔が真っ赤だ」
「……10秒待て」
総士はナプキンで口周りを拭き、テーブルにこぼれた分も手早く拭き取ると大きく息をつく。そして何事もなかったかのように眼鏡のズレをスッと直した。
「よし、続けろ」
「だからね、総士は一騎とキスをするとき、いつもどんな気持ちになるのかと思って」
「なぜしていることが前提なんだ。お前たちはしているのか?」
「してるよ。普通するでしょ?」
「普通、か」
操はきょとんとして小首を傾げる。
「しないの?」
「……普通かどうかは一概に言えない。愛情表現にも様々な形があるだろう。例えば獣型のイヌやネコには、パスツレラ症をはじめとする人獣共通感染症というものがある。唇同士が接触するような過度の触れ合いは」
「ねぇ総士ぃ、おれは総士の話が聞きたいの。それに一騎と甲洋はヒト型なんだから、病気なんか持ってないでしょ」
「……なぜ急にそんなことを聞きたがるんだ」
どこかはぐらかされているような気がしないでもない。
操の質問は、それほどまでに答えにくい類のものだったのだろうか。
「だって甲洋に言われたんだもん。来主はズレてるって」
「理解不能だ。ちゃんと順を追って話せ」
「あのね、おれと甲洋は毎日寝る前におやすみのキスをするんだよ。だけど、なぜかいつもここがドキドキして、恥ずかしくなって、しちゃいけないことしてるような気持ちになる」
操は両手を心臓の上にそっと重ねた。思いだすだけで胸が高鳴り、頬が熱くなっていくのを感じた。
「これって普通のことなのかな。みんなこんなにドキドキしながら、イヌやネコを飼ってるの?」
「……なるほど」
赤らんだ頬でほぅっと息を漏らす操を見て、総士はなにかを察した様子だった。
「おれ、甲洋をいっぱい甘やかしたい。大切にしたいんだ。だっておれたち家族になったんだもん。だけどおれは総士に対してこんなに胸が痛くなったり、苦しくなったりしたことないよ。もちろん、一騎にも」
「……甲洋はどんな様子なんだ?」
「甲洋はおれが撫でると困った顔をするし、抱っこして寝たくても嫌だって言う。恥ずかしいのかな? いつも顔が赤くなってるし……あ、もしかしてこれが反抗期!?」
「なぜそうなる?」
「だっておれは飼い主だもん。それってつまり、おれは甲洋のお父さんでお母さんってことでしょ?」
総士はやれやれと溜息をつきながらコーヒーカップに手を伸ばす。けれどすでに空になっていることに気づき、そっとテーブルの隅に寄せた。
「確かに、ズレているんだろうな」
「総士もそう思うの?」
「ああ、甲洋が気の毒だ」
「えぇ~? なんで? おれなにか間違ってる?」
テーブルに乗り出して情けない顔をする操に、総士はどこか途方に暮れたように「ここまで鈍いとはな」と呟いた。
「だが、遅かれ早かれ時間の問題のように思えてならない。せっかくだから、最後まで自分で考えてみるといい」
「そんなぁ~……考えても分かんないから聞いてるのに。ねぇ教えてよ、総士はどうなの?」
「僕は惚気話をする趣味はないんだ」
「ノロケってなに? 総士が教えてくれないなら、一騎に聞くよ」
「口止めしておく必要があるな」
「むぅー」
操が唇を尖らせ、情けなく眉をハの字にしているのを見て、総士はくすりと楽しげに笑うだけだった。そんな彼を、操はじっとりとした目で睨む。
なんだか面白がられているような気がしてしょうがない。そのどこか生温かい笑顔からは、どうしてもそんな印象を受ける。
しかしこのぶんだと、本当になにも教えてはくれなさそうだ。
「教えるもなにも、答えは出ているも同然だ。あとは早く自覚してやることだな」
総士は微笑んだままそう言って、伝票を手にすると席を立った。
*
「どお? それ美味しい?」
湯気が立ち上るマグカップを両手に操が居間に戻ると、ニュース番組を見ていた瞳がこちらに向けられた。
甲洋は食後のデザートを食べている。薄桃色のモンブランは、操が総士と会った帰りにお土産に買ってきたものだった。
「うん、美味しいよ。ちゃんと桜の味がして」
「へぇ。やっぱり二つ買えばよかったな。でもおれファミレスでパフェ食べちゃったんだよね。総士に太るぞって言われたし」
ぶぅっと唇を尖らせながらテーブルにカップを置いた。中身はほうじ茶だ。
「食べる?」
「いいの? じゃあ一口ちょうだい!」
操は目を輝かせ、胡座をかく甲洋の隣に身を乗り出すような姿勢でぺたんと座った。甲洋はフォークでモンブランの中央をこそぎ、手を添えて操の口元に運ぼうとする。
「あっ、待ってダメダメ! そこ一番いいところだから、甲洋が食べて!」
「俺はいいよ。来主が食べな」
「ダメだって! ねぇ、それ桜の塩漬けっていうんだよね? 食べたら感想聞かせて!」
モンブランの上には塩漬けにされた桜の花が可愛らしく添えられている。ショートケーキでいうところの苺のようなものだ。甲洋に食べてほしいから買ってきたのに、大事なところを操が食べてしまっては意味がない。
甲洋は小さく笑うと「わかった」と言ってフォークを口に運んだ。
綺麗な形をした薄い唇が開かれて、一瞬だけ赤い舌が覗く。しっとりと濡れて色づく桜の花が、彼の口内へと姿を消した。なんだか妙にドキドキしてしまう。
「どう?」
どこか落ち着かない気持ちで問いかけた。
「しょっぱい?」
「ん……ほんのり塩気があるくらいで、しょっぱくはないよ。香りが強くて、甘さが引き立つって感じかな」
「あ、本当だ……桜の匂いがするね」
甲洋の口の中で噛み潰された花が、飲み込まれてもなお強い香りを放っている。操は思わず顔を近づけ、クンクンと鼻を鳴らした。
「春の匂いだね」
「うん。春の匂いだ」
立ち寄ったケーキ屋のショーケースには、様々なケーキが並んでいた。苺に抹茶、チョコレートにフルーツタルト。けれどこの薄桃色をした桜のモンブランは、その中にあって最も季節を感じさせるものだった。
「来年は行きたいな、お花見。お弁当の中身、考えておかなくちゃ」
「今から?」
「そう、今から」
「気が早いよ」
甲洋が肩を揺らして笑うと、また桜の香りが濃くなった。そこに混ざって彼自身の匂いがする。それはうまく例えられるものではなくて、ただあたたかくて優しくて、切ないような気持ちにさせられるものだった。
桜の香りと、甲洋と。操の胸を締め付ける甘酸っぱい感情には、まだ名前がない。
(唇、濡れてる)
笑っている甲洋の唇がほのかに艶を帯びていた。そういえば、まだケーキを一口もらっていない。
食べたい、と思った。操は甲洋の肩に手を置いて身を寄せると、下からすくい上げるようにして口づけた。
「ッ!」
甲洋の手からフォークが落ちる。彼は一瞬だけ丸くした目をゆっくりと細め、静かにそっと睫毛を伏せた。
操の項に熱い手が触れ、襟足をくしゃりと乱される。そこから生まれた小さな痺れが、身体の芯をチリチリと焦がすように通り抜けた。
「ん、ふ……」
拙く触れ合わせるだけのキスは甘くて、むせるような桜の香りに目眩がする。
食べたい。さらに欲求が膨らんで、操は薄く柔らかな甲洋の唇をぱくんと食んでいた。歯は立てず、唇で。
「ッ、な、ぅ……っ」
驚いた甲洋が肩を跳ねさせた。唇が離れてしまうのが嫌で、操はその首に腕を回して強く引き寄せる。ちゅう、という音を立てて吸いついたところで、肩を掴まれた。
「く、来主っ、やめなって……!」
「ふぁ……? ァ……なに?」
「なに、じゃ、なくて……ッ」
とろんとした瞳で小首を傾げる。操の両肩を掴んで遠ざけた甲洋が、見たこともないくらい顔中を赤く染めていた。
まるで茹で上がったタコのようだ。いっそ首筋さえも赤い。黒い耳がぺたんとなって、微かに震えていた。
「こうよう?」
「ま、待って。ちょっと、離れて」
「なんで」
「いいから、今、まずいから」
甲洋はまるで操から身体の正面を隠すように片膝を立てた。そして手の平で額の辺りを押さえて俯く。地の底から響くような溜息を吐きだし、何も言わなくなってしまった。
心なしか、姿勢が前屈みのようになっている。
「甲洋、ねぇどうしたの……?」
「──」
「甲洋?」
操はまだどこか夢見心地だった。甲洋の様子が明らかにおかしいことと、自分がしでかしたことを結びつけられないくらい、思考が鈍りきっている。
「……今のは、ダメだろ」
それは独り言のように小さくて、泣きそうに掠れた声だった。
「だって、食べたかったんだもん」
「食べていいから。ケーキ、残り全部」
「違う。甲洋を食べたいって思った」
甲洋の肩がまた跳ねた。額を抑えていた手で、今度は耳ごと頭をガリガリと掻きだす。
操は膝立ちになって甲洋の顔をひょいと覗き込もうとした。けれど今度は完全に背中を向けられてしまう。
「今はダメだって!」
「なんでぇ? なんでそっち向いちゃうのぉ?」
急に壁を作られたような気がして、操は不満の声をあげた。すっかりこちらに背を向けている甲洋は、頭を抱えたまま石のように沈黙している。
丸くなっている背中を見つめながら、だんだん不安になってきた。
「甲洋、怒った?」
「……怒ってない」
「じゃあこっち向いてよ」
「……待って、いま素数を数えてる最中だから」
何を言っているのか分からないが、掠れた声が弱々しかった。耳は倒れたままだし、尻尾は左側に向ってヒクヒクと震えていた。怖がらせてしまったのだろうか。だとしたら大失敗だ。
だけど操自身、どうして彼を食べたいなんて思ってしまったのかが、よく分かっていなかった。ただ艶めいた唇が無性に美味しそうで。微かに感じた甲洋の匂いに胸が疼いて。気がついたら、吸い寄せられていた。
「甲洋ごめん。もう食べようとしたりなんかしないよ。ねぇ」
操は女の子のように横座りをしながら甲洋の背中に身を寄せた。手の平で背中に触れ、頬を押し当てる。甲洋はギクリと身を強張らせただけで、拒む様子は見せなかった。そのことにホッとする。
甲洋の背中は熱かった。少し鼓動が早い。操は目を閉じて、その音に耳を傾けた。
(甲洋もドキドキしてる。おれと一緒だね)
操の胸もまだ高鳴っていた。そういえば寝るとき以外にキスをしたのは、甲洋が日野家から帰ってきた日以来のことだ。
彼は二度目だと言ったが、操の体感ではあれが初めてのキスだった。
──今のは、ちゃんとキスだよ。
ふと、あのとき甲洋が言った言葉を思いだした。
あれはどういう意味だったのだろう。今まであまり深く考えたことがなかった。
(ちゃんとしたキスって、なんだろう)
例えば愛し合う男女がするようなもの、だろうか。
だけど操は人間で、甲洋はイヌで、なにより自分たちは男同士だ。だから当てはめて考えるのが良いことなのか悪いことなのか、よく分からない。
(でも、だけど……じゃあさっきのキスはなに?)
まだ寝るには早い時間だ。だからあれはおやすみの挨拶とは違う。したいと思ったからした。食べたかったから。それは、どうしてなんだろう。この気持ちはどこから来て、どこへ向かおうとしているのだろう。
ただ今の操に分かるのは、甲洋への気持ちは今まで誰にも抱いたことのない、新しい形をしているということだけだった。
──あとは早く自覚してやることだな。
(自覚? 自覚って、なにを……?)
ややしばらくしてから、甲洋が深い息を漏らしながら「よし」と言った。思考の海にふわふわと意識を漂わせていた操は、ドキリとして肩を跳ねさせる。
「……なんとか鎮まった」
「ぁ……」
甲洋が身体ごと振り向こうとする。操はなぜか焦りに駆られ、甲洋の背中に両手を押し当てながらより密着すると、額を埋めた。
「来主?」
「もうちょっと、このままがいい。だめ?」
どうしてか、今は甲洋の顔が見られそうにない。なんだか無性に恥ずかしい気持ちだ。いま顔を見たら、もっともっと恥ずかしくなってしまうような気がした。
甲洋は不思議そうな顔をしながらも「いいよ」と言って、そのまま動かなくなる。操は静かに震える息を吐き出した。
(この気持ちはなに? わかんないよ、総士)
心臓が今にも飛び出して来そうなくらい高鳴っている。自分で自分の胸に耳を押し当てているみたいに、ドキドキという大きな鼓動が頭の中にまで響き渡っていた。
大きな熱い塊を、身体の内側に無理やり閉じ込めているみたいだ。操の薄い胸では、とても抱えきれない。溢れ出してきそうな感覚が怖くて、苦しくて、少しだけ泣きくなった。
(でもこうしてると……嬉しい)
桜の香りが、まだほんのりと辺りを漂っていた。だけどそれ以上に、操に染みつく甲洋の匂いは鮮明だ。すんと鼻を鳴らして吸い込めば、春の香りは完全に消えてしまった。操の中は、甲洋だけで埋め尽くされる。
(このままひとつになれたらいいのに)
家族、友達。総士や、一騎や、今まで出会った全ての人たち。その中の誰にも抱いたことのない、特別な気持ち。怖くて、嬉しくて、切なくて、あたたかい。
この気持ちを、どう言葉にして伝えたらいいだろう。
(ねぇ、甲洋)
未熟すぎる操の心が、それを恋だと理解するのは、あとほんの少しだけ先の話だ。
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苺パフェを食べる操の唇の端には、赤いソースが付着している。
子供のようにみっともなくはしゃぐ操に、総士はホットコーヒーを飲みながら呆れた様子で息を漏らした。
「お前はいつまで経っても子供だな」
操は差し出された紙ナプキンを受け取り、口の横を拭きながらふにゃんと笑う。
「だってこれ今だけの限定パフェなんだよ。総士も食べなきゃもったいないよ」
「遠慮しておこう。昼食も済ませてきたばかりだ」
実のことを言うとそれは操も同じなのだが、また小言を食らいそうなので黙っておいた。
パフェにはたっぷりの苺と、マカロンやクッキーも添えられている。真っ赤な苺ソースにミントのアクセントが鮮やかで、眺めているだけでも幸せな気分だ。
(この次は甲洋も連れて来ようっと)
そういえばまだ一緒に外食をしたことがないことに気がついた。たまには外で食べるのもいいだろう。甲洋がこれを食べて、苺ソースで口元を汚すところが見てみたい。彼はそんな子供みたいな食べ方はしないだろうけれど。
「甲洋とはどうだ。上手くやっているのか?」
「やってるよ。ごめんね総士。せっかく色々がんばってくれたのに、振り回しちゃったよね」
「全くだ」
総士の言葉に棘はない。しょうがないなといった様子で微笑んでいる。
甲洋を連れ戻したことを報告したときも、驚いてはいたが「そういうことなら早く言え」と言うだけだった。
「一騎も喜んでいた。お前と甲洋なら大丈夫だと」
「本当? 嬉しいな」
昼時をとうに過ぎたファミレスは、人もまばらでゆったりとした空気が流れていた。ついこの間、真矢と会った店でもある。あのときは頼むだけ頼んで、オレンジジュースに口をつける余裕もなかった。
総士は黙ってコーヒーを飲んでいる。たまに新しい紙ナプキンを差し出してくれるので、操はその度に口を拭いた。
「あー、美味しかった! 幸せ!」
「それはなによりだ」
「もうひとつイケそうな気がする」
「太るぞ。それより僕に聞きたいことがあるんじゃないのか?」
オレンジジュースで一息ついた操はうんと頷き、ようやく本題に入ることにした。
「総士は一騎とどんなキスをするの?」
「ブッ!」
総士がコーヒーを噴き出す。今度は操が紙ナプキンを差し出す番だった。
「大丈夫?」
「な、なにを……と、突然なんだ?」
「総士、顔が真っ赤だ」
「……10秒待て」
総士はナプキンで口周りを拭き、テーブルにこぼれた分も手早く拭き取ると大きく息をつく。そして何事もなかったかのように眼鏡のズレをスッと直した。
「よし、続けろ」
「だからね、総士は一騎とキスをするとき、いつもどんな気持ちになるのかと思って」
「なぜしていることが前提なんだ。お前たちはしているのか?」
「してるよ。普通するでしょ?」
「普通、か」
操はきょとんとして小首を傾げる。
「しないの?」
「……普通かどうかは一概に言えない。愛情表現にも様々な形があるだろう。例えば獣型のイヌやネコには、パスツレラ症をはじめとする人獣共通感染症というものがある。唇同士が接触するような過度の触れ合いは」
「ねぇ総士ぃ、おれは総士の話が聞きたいの。それに一騎と甲洋はヒト型なんだから、病気なんか持ってないでしょ」
「……なぜ急にそんなことを聞きたがるんだ」
どこかはぐらかされているような気がしないでもない。
操の質問は、それほどまでに答えにくい類のものだったのだろうか。
「だって甲洋に言われたんだもん。来主はズレてるって」
「理解不能だ。ちゃんと順を追って話せ」
「あのね、おれと甲洋は毎日寝る前におやすみのキスをするんだよ。だけど、なぜかいつもここがドキドキして、恥ずかしくなって、しちゃいけないことしてるような気持ちになる」
操は両手を心臓の上にそっと重ねた。思いだすだけで胸が高鳴り、頬が熱くなっていくのを感じた。
「これって普通のことなのかな。みんなこんなにドキドキしながら、イヌやネコを飼ってるの?」
「……なるほど」
赤らんだ頬でほぅっと息を漏らす操を見て、総士はなにかを察した様子だった。
「おれ、甲洋をいっぱい甘やかしたい。大切にしたいんだ。だっておれたち家族になったんだもん。だけどおれは総士に対してこんなに胸が痛くなったり、苦しくなったりしたことないよ。もちろん、一騎にも」
「……甲洋はどんな様子なんだ?」
「甲洋はおれが撫でると困った顔をするし、抱っこして寝たくても嫌だって言う。恥ずかしいのかな? いつも顔が赤くなってるし……あ、もしかしてこれが反抗期!?」
「なぜそうなる?」
「だっておれは飼い主だもん。それってつまり、おれは甲洋のお父さんでお母さんってことでしょ?」
総士はやれやれと溜息をつきながらコーヒーカップに手を伸ばす。けれどすでに空になっていることに気づき、そっとテーブルの隅に寄せた。
「確かに、ズレているんだろうな」
「総士もそう思うの?」
「ああ、甲洋が気の毒だ」
「えぇ~? なんで? おれなにか間違ってる?」
テーブルに乗り出して情けない顔をする操に、総士はどこか途方に暮れたように「ここまで鈍いとはな」と呟いた。
「だが、遅かれ早かれ時間の問題のように思えてならない。せっかくだから、最後まで自分で考えてみるといい」
「そんなぁ~……考えても分かんないから聞いてるのに。ねぇ教えてよ、総士はどうなの?」
「僕は惚気話をする趣味はないんだ」
「ノロケってなに? 総士が教えてくれないなら、一騎に聞くよ」
「口止めしておく必要があるな」
「むぅー」
操が唇を尖らせ、情けなく眉をハの字にしているのを見て、総士はくすりと楽しげに笑うだけだった。そんな彼を、操はじっとりとした目で睨む。
なんだか面白がられているような気がしてしょうがない。そのどこか生温かい笑顔からは、どうしてもそんな印象を受ける。
しかしこのぶんだと、本当になにも教えてはくれなさそうだ。
「教えるもなにも、答えは出ているも同然だ。あとは早く自覚してやることだな」
総士は微笑んだままそう言って、伝票を手にすると席を立った。
*
「どお? それ美味しい?」
湯気が立ち上るマグカップを両手に操が居間に戻ると、ニュース番組を見ていた瞳がこちらに向けられた。
甲洋は食後のデザートを食べている。薄桃色のモンブランは、操が総士と会った帰りにお土産に買ってきたものだった。
「うん、美味しいよ。ちゃんと桜の味がして」
「へぇ。やっぱり二つ買えばよかったな。でもおれファミレスでパフェ食べちゃったんだよね。総士に太るぞって言われたし」
ぶぅっと唇を尖らせながらテーブルにカップを置いた。中身はほうじ茶だ。
「食べる?」
「いいの? じゃあ一口ちょうだい!」
操は目を輝かせ、胡座をかく甲洋の隣に身を乗り出すような姿勢でぺたんと座った。甲洋はフォークでモンブランの中央をこそぎ、手を添えて操の口元に運ぼうとする。
「あっ、待ってダメダメ! そこ一番いいところだから、甲洋が食べて!」
「俺はいいよ。来主が食べな」
「ダメだって! ねぇ、それ桜の塩漬けっていうんだよね? 食べたら感想聞かせて!」
モンブランの上には塩漬けにされた桜の花が可愛らしく添えられている。ショートケーキでいうところの苺のようなものだ。甲洋に食べてほしいから買ってきたのに、大事なところを操が食べてしまっては意味がない。
甲洋は小さく笑うと「わかった」と言ってフォークを口に運んだ。
綺麗な形をした薄い唇が開かれて、一瞬だけ赤い舌が覗く。しっとりと濡れて色づく桜の花が、彼の口内へと姿を消した。なんだか妙にドキドキしてしまう。
「どう?」
どこか落ち着かない気持ちで問いかけた。
「しょっぱい?」
「ん……ほんのり塩気があるくらいで、しょっぱくはないよ。香りが強くて、甘さが引き立つって感じかな」
「あ、本当だ……桜の匂いがするね」
甲洋の口の中で噛み潰された花が、飲み込まれてもなお強い香りを放っている。操は思わず顔を近づけ、クンクンと鼻を鳴らした。
「春の匂いだね」
「うん。春の匂いだ」
立ち寄ったケーキ屋のショーケースには、様々なケーキが並んでいた。苺に抹茶、チョコレートにフルーツタルト。けれどこの薄桃色をした桜のモンブランは、その中にあって最も季節を感じさせるものだった。
「来年は行きたいな、お花見。お弁当の中身、考えておかなくちゃ」
「今から?」
「そう、今から」
「気が早いよ」
甲洋が肩を揺らして笑うと、また桜の香りが濃くなった。そこに混ざって彼自身の匂いがする。それはうまく例えられるものではなくて、ただあたたかくて優しくて、切ないような気持ちにさせられるものだった。
桜の香りと、甲洋と。操の胸を締め付ける甘酸っぱい感情には、まだ名前がない。
(唇、濡れてる)
笑っている甲洋の唇がほのかに艶を帯びていた。そういえば、まだケーキを一口もらっていない。
食べたい、と思った。操は甲洋の肩に手を置いて身を寄せると、下からすくい上げるようにして口づけた。
「ッ!」
甲洋の手からフォークが落ちる。彼は一瞬だけ丸くした目をゆっくりと細め、静かにそっと睫毛を伏せた。
操の項に熱い手が触れ、襟足をくしゃりと乱される。そこから生まれた小さな痺れが、身体の芯をチリチリと焦がすように通り抜けた。
「ん、ふ……」
拙く触れ合わせるだけのキスは甘くて、むせるような桜の香りに目眩がする。
食べたい。さらに欲求が膨らんで、操は薄く柔らかな甲洋の唇をぱくんと食んでいた。歯は立てず、唇で。
「ッ、な、ぅ……っ」
驚いた甲洋が肩を跳ねさせた。唇が離れてしまうのが嫌で、操はその首に腕を回して強く引き寄せる。ちゅう、という音を立てて吸いついたところで、肩を掴まれた。
「く、来主っ、やめなって……!」
「ふぁ……? ァ……なに?」
「なに、じゃ、なくて……ッ」
とろんとした瞳で小首を傾げる。操の両肩を掴んで遠ざけた甲洋が、見たこともないくらい顔中を赤く染めていた。
まるで茹で上がったタコのようだ。いっそ首筋さえも赤い。黒い耳がぺたんとなって、微かに震えていた。
「こうよう?」
「ま、待って。ちょっと、離れて」
「なんで」
「いいから、今、まずいから」
甲洋はまるで操から身体の正面を隠すように片膝を立てた。そして手の平で額の辺りを押さえて俯く。地の底から響くような溜息を吐きだし、何も言わなくなってしまった。
心なしか、姿勢が前屈みのようになっている。
「甲洋、ねぇどうしたの……?」
「──」
「甲洋?」
操はまだどこか夢見心地だった。甲洋の様子が明らかにおかしいことと、自分がしでかしたことを結びつけられないくらい、思考が鈍りきっている。
「……今のは、ダメだろ」
それは独り言のように小さくて、泣きそうに掠れた声だった。
「だって、食べたかったんだもん」
「食べていいから。ケーキ、残り全部」
「違う。甲洋を食べたいって思った」
甲洋の肩がまた跳ねた。額を抑えていた手で、今度は耳ごと頭をガリガリと掻きだす。
操は膝立ちになって甲洋の顔をひょいと覗き込もうとした。けれど今度は完全に背中を向けられてしまう。
「今はダメだって!」
「なんでぇ? なんでそっち向いちゃうのぉ?」
急に壁を作られたような気がして、操は不満の声をあげた。すっかりこちらに背を向けている甲洋は、頭を抱えたまま石のように沈黙している。
丸くなっている背中を見つめながら、だんだん不安になってきた。
「甲洋、怒った?」
「……怒ってない」
「じゃあこっち向いてよ」
「……待って、いま素数を数えてる最中だから」
何を言っているのか分からないが、掠れた声が弱々しかった。耳は倒れたままだし、尻尾は左側に向ってヒクヒクと震えていた。怖がらせてしまったのだろうか。だとしたら大失敗だ。
だけど操自身、どうして彼を食べたいなんて思ってしまったのかが、よく分かっていなかった。ただ艶めいた唇が無性に美味しそうで。微かに感じた甲洋の匂いに胸が疼いて。気がついたら、吸い寄せられていた。
「甲洋ごめん。もう食べようとしたりなんかしないよ。ねぇ」
操は女の子のように横座りをしながら甲洋の背中に身を寄せた。手の平で背中に触れ、頬を押し当てる。甲洋はギクリと身を強張らせただけで、拒む様子は見せなかった。そのことにホッとする。
甲洋の背中は熱かった。少し鼓動が早い。操は目を閉じて、その音に耳を傾けた。
(甲洋もドキドキしてる。おれと一緒だね)
操の胸もまだ高鳴っていた。そういえば寝るとき以外にキスをしたのは、甲洋が日野家から帰ってきた日以来のことだ。
彼は二度目だと言ったが、操の体感ではあれが初めてのキスだった。
──今のは、ちゃんとキスだよ。
ふと、あのとき甲洋が言った言葉を思いだした。
あれはどういう意味だったのだろう。今まであまり深く考えたことがなかった。
(ちゃんとしたキスって、なんだろう)
例えば愛し合う男女がするようなもの、だろうか。
だけど操は人間で、甲洋はイヌで、なにより自分たちは男同士だ。だから当てはめて考えるのが良いことなのか悪いことなのか、よく分からない。
(でも、だけど……じゃあさっきのキスはなに?)
まだ寝るには早い時間だ。だからあれはおやすみの挨拶とは違う。したいと思ったからした。食べたかったから。それは、どうしてなんだろう。この気持ちはどこから来て、どこへ向かおうとしているのだろう。
ただ今の操に分かるのは、甲洋への気持ちは今まで誰にも抱いたことのない、新しい形をしているということだけだった。
──あとは早く自覚してやることだな。
(自覚? 自覚って、なにを……?)
ややしばらくしてから、甲洋が深い息を漏らしながら「よし」と言った。思考の海にふわふわと意識を漂わせていた操は、ドキリとして肩を跳ねさせる。
「……なんとか鎮まった」
「ぁ……」
甲洋が身体ごと振り向こうとする。操はなぜか焦りに駆られ、甲洋の背中に両手を押し当てながらより密着すると、額を埋めた。
「来主?」
「もうちょっと、このままがいい。だめ?」
どうしてか、今は甲洋の顔が見られそうにない。なんだか無性に恥ずかしい気持ちだ。いま顔を見たら、もっともっと恥ずかしくなってしまうような気がした。
甲洋は不思議そうな顔をしながらも「いいよ」と言って、そのまま動かなくなる。操は静かに震える息を吐き出した。
(この気持ちはなに? わかんないよ、総士)
心臓が今にも飛び出して来そうなくらい高鳴っている。自分で自分の胸に耳を押し当てているみたいに、ドキドキという大きな鼓動が頭の中にまで響き渡っていた。
大きな熱い塊を、身体の内側に無理やり閉じ込めているみたいだ。操の薄い胸では、とても抱えきれない。溢れ出してきそうな感覚が怖くて、苦しくて、少しだけ泣きくなった。
(でもこうしてると……嬉しい)
桜の香りが、まだほんのりと辺りを漂っていた。だけどそれ以上に、操に染みつく甲洋の匂いは鮮明だ。すんと鼻を鳴らして吸い込めば、春の香りは完全に消えてしまった。操の中は、甲洋だけで埋め尽くされる。
(このままひとつになれたらいいのに)
家族、友達。総士や、一騎や、今まで出会った全ての人たち。その中の誰にも抱いたことのない、特別な気持ち。怖くて、嬉しくて、切なくて、あたたかい。
この気持ちを、どう言葉にして伝えたらいいだろう。
(ねぇ、甲洋)
未熟すぎる操の心が、それを恋だと理解するのは、あとほんの少しだけ先の話だ。
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四月も上旬に差し掛かっていた。
「ううぅ……うええぇ~……」
台所に立って包丁を握りしめ、操は顔を上向けると情けない呻き声をあげた。
目に激痛が走り、涙がポロポロと頬を伝う。
「どうかしたの?」
その奇妙な声を聞きつけて、居間にいた甲洋が台所にやってくる。操の顔を覗き込み、困惑の表情を浮かべた。
「目がぁ……目がぁ~……」
操は泣きながらどこかの大佐のような台詞を漏らす。
まな板の上には切りかけの玉ねぎが散乱しており、それを見た甲洋は合点がいった様子で「ああ」と声をあげる。
「痛いよぉ……玉ねぎってどうしてこんなに痛くなるんだろ……」
「硫化アリルっていう成分のせいだよ」
涙を零す操の頬を、シャツの袖で丁寧に拭いながら甲洋が言った。
「りゅーかあるる……? なぁにそれ?」
「玉ねぎに含まれるアミノ酸と、切ったときに細胞が壊れて発生する酵素が反応してできる物質のこと。それが蒸発して空気中を漂うと、目や鼻の粘膜を刺激して涙や鼻水がでる──ほら、切りかけのやつこっちに寄こしな」
「どうするの?」
流しの下の開きからラップを取り出した甲洋が、まな板の横に切り取ったラップを広げた。
玉ねぎは二個あるうちの一個がすでに乱切りにされている。残りもすでに表面の皮は剥かれている状態だ。操は首を傾げながらも言われた通り、半端な一個をラップの中央に乗せた。
「これをレンジで20秒くらい温める。硫化アリルは熱に弱いから、これでだいぶマシになると思うよ」
「そういえば、火が通った玉ねぎはぜんぜん痛くならないね」
「揮発成分の発散を抑えるには、逆に切る直前まで冷やしておくのも効果的だけど」
「へえぇ~……甲洋って物知りなんだ。凄いな」
玉ねぎは切ると目にしみる。操の中ではそこで完結していて、細胞がどうとか成分がどうとかいう細かなメカニズムなんて、気にも留めたことがなかった。
レンジの中にラップで包んだ玉ねぎを入れ、ボタンを押した甲洋は「別に普通だよ」と言って苦笑した。
「だっておれぜんぜん知らなかったよ。甲洋は天才犬だね」
「よせって」
彼は否定するが、操は彼がとんでもない記憶力の持ち主であることに気がついている。
「ほら、終わったよ」
甲洋がレンジの中からラップをつまみ出してまな板の上に置く。
ほんのりと温まった玉ねぎは、もう操を泣かせることはなかった。
*
「……普通、だね」
「まぁ……普通、かな」
出来上がった夕食のカレーは、良くも悪くも極めて普通の味だった。
「やっぱり甲洋と一緒に作った方がよかったかな……?」
「俺が一緒でも同じだったと思うけど」
操はスプーンをカレーに横刺しして手放すと、両手を後ろについてため息を漏らした。
「せっかく気合い入れて作ったのにな」
普段は甲洋と一緒に行う炊事だが、最近の操はすっかり彼のアシスタント状態だった。
甲洋は実に器用で手際がよく、しかもレシピにサラリと目を通しただけですぐに記憶してしまう。材料も分量も手順も時間も、正確に頭の中に刻みつけてしまうのだ。
だからたまにはいいところを見せようと、今日は一人で夕食を作ることにした。しかもちゃんと火を使って。
何を作ろうかと考えて、メニューはカレーに決めた。子供の頃に学校行事で作ったことがあったし、そうそう失敗しないだろうと思ったからだ。
甲洋は手伝うつもりでいたようだが、操は最後までそれを許さず──タマネギの件は置いておくとして──なんとか自力でカレーを完成させた。
とはいえ、やはり一騎カレーのようにはいかない。基本に忠実な、ごくごく普通のカレーにしかならなかった。
「美味しいよ、ちゃんと」
甲洋はそう言って順調にカレーを食べ進める。それを見ていると、操もまぁいいかという気持ちになってきた。奇跡的に指も切らなかったし、火傷もしなかった。具材にもちゃんと火が通っている。失敗したわけではないのだからと。
「甲洋、玉ねぎの裏技美羽にも教えたでしょ」
気を取り直してスプーンを手に取り、ゴロリとした大きなジャガイモをすくい上げながら問いかけた。
「教えたよ」
「なんでおれが知ってるか聞かないの?」
「美羽の母さんが動画を撮っていた。お前がそれを見たんだとしたら、あの妹さん経由だろうと思っただけ」
「……君って探偵みたいだね」
「分かるよ、そのくらい」
日野家からの帰り道、真矢に会った。操がファミレスに置き去りにした傘を持って、わざわざ追いかけて来てくれたのだ。
もちろん甲洋もその場にいたから、彼なら察するのは容易なことだったのかもしれない。しかし真矢から聞いた話では、確か弓子はこっそり動画を撮影していたのではなかったか。
甲洋には隠し事ができないんだなぁと、操はつくづくそう感じた。
「君は本当に頭がいいね。字も読めるし、なんでもすぐに覚えちゃうし。どこで勉強したの?」
ヒト型のイヌやネコは、個体差はあるだろうが人間と同等の知能を持っている。だから世の中には彼らが通うための『しつけ教室』が、多く存在しているのだ。中身は人間が通う幼稚園や学校と変わらない内容になっている。
甲洋はスプーンを置き、グラスに入った水を一口飲むと「家だよ」と言った。
「家? でも甲洋の元の飼い主って……あ、この話あんまりしない方がいい?」
「別にいいよ、気にしなくても」
「そう? じゃあ聞きたい。聞かせてよ」
甲洋が気にしないなら、操も必要以上は気にしない。あっさりとしたその反応が逆に嬉しかったのか、甲洋は小さく笑った。
「読み書きのほとんどは、店の常連さんのおかげだよ。溝口っていう男の人が、よく気にかけてくれた。親はあまりいい顔しなかったけどね。溝口さんが来ると、いつも俺を呼ぶんだ。甲洋はどこだ、下りてこいって」
溝口はよく幼い甲洋のために学習ドリルや児童書など、日によって様々な本を持って店に来たという。家族のお古だと言っていたが、本はいつも明らかに新品だった。
彼はいつも甲洋を隣に座らせ、ざっくりとだが字の読み書きを教えてくれた。そして一人では食べきれない量の料理を注文し、甲洋に分け与えた。
甲洋はなんでもすぐに吸収してしまうから、さぞ教え甲斐があっただろうなと操は思う。
同時に、もしかしたらその人は甲洋が普段どんな扱いを受けているか、薄々気がついていたのかもしれないとも。
「親だって、別に年中冷たかったわけじゃない。気まぐれに優しくしてくれることもあった。物置部屋に古い本が山積みになってたんだ。それを好きに読ませてくれた」
「そっか。ねぇ、その溝口って人はそれからどうしたの?」
「仕事でどこか遠くへ行ったよ」
「そうなんだ……いつか会ってみたいな」
彼がこんなに自分のことを話してくれたのはこれが初めてのことだったし、甲洋に優しくしてくれた人が過去に存在していたことを知り、操の胸にじわりと嬉しさが込み上げた。
元の飼い主のことだってそうだ。今でも彼らがしたことは許せないし、辛いことの方がずっと多かったはずなのに、甲洋はそんな彼らの『気まぐれ』さえも、決して忘れはしないのだ。
「君は全部覚えてるんだね。辛いことも、嬉しいことも」
「どうだろうな」
甲洋ははぐらかすように言って笑うと、またカレーを食べはじめた。
なんの変哲もないカレーの味も、彼はずっと覚えていてくれるのかもしれない。甲洋と一緒に食べるために作った、この操カレーの味を。
願わくは彼がこれから刻んでいく記憶が、全て優しいものだったらいい。
そう願いながら、操は大きなジャガイモを口の中に押し入れた。
*
食後は片付けを済ませ、のんびりとテレビを見ながらお茶を飲んだりして過ごす。
そのあと順番に風呂に入り、寝支度をして寝室で一緒に寝るのだが、一緒と言っても同じベッドに入るわけではない。
甲洋がこの部屋に帰ってきてから数日後、日野の家から彼のために買った衣類や布団一式が、宅配便で送られてきた。
すぐに連絡を入れると、電話に応じたのは道生だった。彼は「せっかくだし、よかったら使ってやってくれ」と言って、気さくに笑っていた。
お言葉に甘えて、その日の夜から布団はベッドの横に並べて敷くことにした。
甲洋の手足はもうほとんど痣が消えていた。だから以前は毎晩のように行っていたケアは必要なくなった。その代わり、寝る前に必ずすることが一つだけある。
「おやすみ、甲洋」
「うん、おやすみ」
ベッドの縁に腰掛けた操は身を屈め、布団の上に胡座をかいている甲洋の首に両腕を回すと、唇を寄せる。低い位置にいる甲洋はぐんと首を伸ばすようにしながら上向いて、操の唇を受け止めた。
甲洋が帰ってきた日の夜から、寝る前には挨拶のキスをするようになっていた。
子供の頃に総士としていたみたいに、操から彼の頬にキスをしたのが始まりだった。
甲洋は驚いていたが、その尻尾は嬉しそうにパタパタと左右に振られていた。それ以来、おやすみのキスが習慣になった。
だけど頬にしていたのは最初の何回かだけだ。そのあとは自然に唇へと場所が変わった。
「ん、ぅ」
甲洋の手が項にかかる。離れるタイミングを失って、操はより強く彼の首に腕を絡めた。
自然な動作で角度が変わると、ちゅ、という濡れた音がしてちょっぴり恥ずかしい気持ちになる。感情が高ぶり、頬がどんどん熱くなるのに比例して、頭の中にはどんどん霧がかかっていった。
(もっと触りたいな……あ、そうだ)
操は両手で甲洋の頭を撫でた。大きな耳ごとわしゃわしゃと。
「……なに」
甲洋が戸惑ったように唇を離した。操は頭を撫でていた手で、今度はその頬を包み込む。
大人びた面立ちの白皙が、今はほのかな熱をもって赤らんでいた。それがどこか幼く見えて、操の胸を締めつける。
「甘やかしてるの」
どこか湿った息を漏らしながら、ぼんやりと鈍った頭で呟いた。
「抱っこして寝る?」
「……嫌だよ」
「そうしてほしそうに見えたんだけどな」
毎晩のように交わすようになった口づけは、すぐに終わることもあれば、こうして長引くこともある。そういうときは決まって甲洋の手が項にかかり、なかなか離れようとしないのだ。
操はそれを彼なりの甘えたいサインなのだと解釈している。
「……来主は、ズレてるよ」
「ズレてる?」
「うん、ズレてる」
操には甲洋が言わんとしていることが分からなかった。
「おやすみ、来主」
甲洋はもう一度そう言って、さりげなく操の両腕を剥がした。気を悪くしたのかと思いきや、彼はただ困ったように小さく笑っているだけだ。
キスもお喋りも、今夜は終わり。そう言わんばかりに、布団の中に潜り込んで背中を向けてしまう。
操もまたベッドに横たわった。手を伸ばし、キャビネットの上のライトを消す。部屋の中が墨色で塗りつぶされた。
操は掛け布団を引き上げながら、ぼんやりと天井を見上げる。唇には甲洋の熱や柔らかな感触が残っていた。
(ズレてるのかな、おれ)
自分ではそんな実感はなかった。そもそも、根本的に何がズレているのかも分からない。
操はただ甲洋を大事にしたいだけだ。家族だから、飼い主だから。
しかし愛犬におやすみのキスをするだけで、こんなにドキドキするものだろうか。身体が熱くなって、胸が切なく締めつけられる。心の中は満ち足りているようでいて、どこか物足りなさを覚えていた。
動物を飼っている人間にとって、これは普通のことなのだろうか?
(総士に聞いたら分かるかな)
総士だって本来はイヌが苦手なはずだ。それでも一騎とあんなにうまくやっている。彼に聞けば、なにか分かるかもしれない。
明日にでも連絡してみようと決めて、操はひとつ欠伸をすると目を閉じた。
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「ううぅ……うええぇ~……」
台所に立って包丁を握りしめ、操は顔を上向けると情けない呻き声をあげた。
目に激痛が走り、涙がポロポロと頬を伝う。
「どうかしたの?」
その奇妙な声を聞きつけて、居間にいた甲洋が台所にやってくる。操の顔を覗き込み、困惑の表情を浮かべた。
「目がぁ……目がぁ~……」
操は泣きながらどこかの大佐のような台詞を漏らす。
まな板の上には切りかけの玉ねぎが散乱しており、それを見た甲洋は合点がいった様子で「ああ」と声をあげる。
「痛いよぉ……玉ねぎってどうしてこんなに痛くなるんだろ……」
「硫化アリルっていう成分のせいだよ」
涙を零す操の頬を、シャツの袖で丁寧に拭いながら甲洋が言った。
「りゅーかあるる……? なぁにそれ?」
「玉ねぎに含まれるアミノ酸と、切ったときに細胞が壊れて発生する酵素が反応してできる物質のこと。それが蒸発して空気中を漂うと、目や鼻の粘膜を刺激して涙や鼻水がでる──ほら、切りかけのやつこっちに寄こしな」
「どうするの?」
流しの下の開きからラップを取り出した甲洋が、まな板の横に切り取ったラップを広げた。
玉ねぎは二個あるうちの一個がすでに乱切りにされている。残りもすでに表面の皮は剥かれている状態だ。操は首を傾げながらも言われた通り、半端な一個をラップの中央に乗せた。
「これをレンジで20秒くらい温める。硫化アリルは熱に弱いから、これでだいぶマシになると思うよ」
「そういえば、火が通った玉ねぎはぜんぜん痛くならないね」
「揮発成分の発散を抑えるには、逆に切る直前まで冷やしておくのも効果的だけど」
「へえぇ~……甲洋って物知りなんだ。凄いな」
玉ねぎは切ると目にしみる。操の中ではそこで完結していて、細胞がどうとか成分がどうとかいう細かなメカニズムなんて、気にも留めたことがなかった。
レンジの中にラップで包んだ玉ねぎを入れ、ボタンを押した甲洋は「別に普通だよ」と言って苦笑した。
「だっておれぜんぜん知らなかったよ。甲洋は天才犬だね」
「よせって」
彼は否定するが、操は彼がとんでもない記憶力の持ち主であることに気がついている。
「ほら、終わったよ」
甲洋がレンジの中からラップをつまみ出してまな板の上に置く。
ほんのりと温まった玉ねぎは、もう操を泣かせることはなかった。
*
「……普通、だね」
「まぁ……普通、かな」
出来上がった夕食のカレーは、良くも悪くも極めて普通の味だった。
「やっぱり甲洋と一緒に作った方がよかったかな……?」
「俺が一緒でも同じだったと思うけど」
操はスプーンをカレーに横刺しして手放すと、両手を後ろについてため息を漏らした。
「せっかく気合い入れて作ったのにな」
普段は甲洋と一緒に行う炊事だが、最近の操はすっかり彼のアシスタント状態だった。
甲洋は実に器用で手際がよく、しかもレシピにサラリと目を通しただけですぐに記憶してしまう。材料も分量も手順も時間も、正確に頭の中に刻みつけてしまうのだ。
だからたまにはいいところを見せようと、今日は一人で夕食を作ることにした。しかもちゃんと火を使って。
何を作ろうかと考えて、メニューはカレーに決めた。子供の頃に学校行事で作ったことがあったし、そうそう失敗しないだろうと思ったからだ。
甲洋は手伝うつもりでいたようだが、操は最後までそれを許さず──タマネギの件は置いておくとして──なんとか自力でカレーを完成させた。
とはいえ、やはり一騎カレーのようにはいかない。基本に忠実な、ごくごく普通のカレーにしかならなかった。
「美味しいよ、ちゃんと」
甲洋はそう言って順調にカレーを食べ進める。それを見ていると、操もまぁいいかという気持ちになってきた。奇跡的に指も切らなかったし、火傷もしなかった。具材にもちゃんと火が通っている。失敗したわけではないのだからと。
「甲洋、玉ねぎの裏技美羽にも教えたでしょ」
気を取り直してスプーンを手に取り、ゴロリとした大きなジャガイモをすくい上げながら問いかけた。
「教えたよ」
「なんでおれが知ってるか聞かないの?」
「美羽の母さんが動画を撮っていた。お前がそれを見たんだとしたら、あの妹さん経由だろうと思っただけ」
「……君って探偵みたいだね」
「分かるよ、そのくらい」
日野家からの帰り道、真矢に会った。操がファミレスに置き去りにした傘を持って、わざわざ追いかけて来てくれたのだ。
もちろん甲洋もその場にいたから、彼なら察するのは容易なことだったのかもしれない。しかし真矢から聞いた話では、確か弓子はこっそり動画を撮影していたのではなかったか。
甲洋には隠し事ができないんだなぁと、操はつくづくそう感じた。
「君は本当に頭がいいね。字も読めるし、なんでもすぐに覚えちゃうし。どこで勉強したの?」
ヒト型のイヌやネコは、個体差はあるだろうが人間と同等の知能を持っている。だから世の中には彼らが通うための『しつけ教室』が、多く存在しているのだ。中身は人間が通う幼稚園や学校と変わらない内容になっている。
甲洋はスプーンを置き、グラスに入った水を一口飲むと「家だよ」と言った。
「家? でも甲洋の元の飼い主って……あ、この話あんまりしない方がいい?」
「別にいいよ、気にしなくても」
「そう? じゃあ聞きたい。聞かせてよ」
甲洋が気にしないなら、操も必要以上は気にしない。あっさりとしたその反応が逆に嬉しかったのか、甲洋は小さく笑った。
「読み書きのほとんどは、店の常連さんのおかげだよ。溝口っていう男の人が、よく気にかけてくれた。親はあまりいい顔しなかったけどね。溝口さんが来ると、いつも俺を呼ぶんだ。甲洋はどこだ、下りてこいって」
溝口はよく幼い甲洋のために学習ドリルや児童書など、日によって様々な本を持って店に来たという。家族のお古だと言っていたが、本はいつも明らかに新品だった。
彼はいつも甲洋を隣に座らせ、ざっくりとだが字の読み書きを教えてくれた。そして一人では食べきれない量の料理を注文し、甲洋に分け与えた。
甲洋はなんでもすぐに吸収してしまうから、さぞ教え甲斐があっただろうなと操は思う。
同時に、もしかしたらその人は甲洋が普段どんな扱いを受けているか、薄々気がついていたのかもしれないとも。
「親だって、別に年中冷たかったわけじゃない。気まぐれに優しくしてくれることもあった。物置部屋に古い本が山積みになってたんだ。それを好きに読ませてくれた」
「そっか。ねぇ、その溝口って人はそれからどうしたの?」
「仕事でどこか遠くへ行ったよ」
「そうなんだ……いつか会ってみたいな」
彼がこんなに自分のことを話してくれたのはこれが初めてのことだったし、甲洋に優しくしてくれた人が過去に存在していたことを知り、操の胸にじわりと嬉しさが込み上げた。
元の飼い主のことだってそうだ。今でも彼らがしたことは許せないし、辛いことの方がずっと多かったはずなのに、甲洋はそんな彼らの『気まぐれ』さえも、決して忘れはしないのだ。
「君は全部覚えてるんだね。辛いことも、嬉しいことも」
「どうだろうな」
甲洋ははぐらかすように言って笑うと、またカレーを食べはじめた。
なんの変哲もないカレーの味も、彼はずっと覚えていてくれるのかもしれない。甲洋と一緒に食べるために作った、この操カレーの味を。
願わくは彼がこれから刻んでいく記憶が、全て優しいものだったらいい。
そう願いながら、操は大きなジャガイモを口の中に押し入れた。
*
食後は片付けを済ませ、のんびりとテレビを見ながらお茶を飲んだりして過ごす。
そのあと順番に風呂に入り、寝支度をして寝室で一緒に寝るのだが、一緒と言っても同じベッドに入るわけではない。
甲洋がこの部屋に帰ってきてから数日後、日野の家から彼のために買った衣類や布団一式が、宅配便で送られてきた。
すぐに連絡を入れると、電話に応じたのは道生だった。彼は「せっかくだし、よかったら使ってやってくれ」と言って、気さくに笑っていた。
お言葉に甘えて、その日の夜から布団はベッドの横に並べて敷くことにした。
甲洋の手足はもうほとんど痣が消えていた。だから以前は毎晩のように行っていたケアは必要なくなった。その代わり、寝る前に必ずすることが一つだけある。
「おやすみ、甲洋」
「うん、おやすみ」
ベッドの縁に腰掛けた操は身を屈め、布団の上に胡座をかいている甲洋の首に両腕を回すと、唇を寄せる。低い位置にいる甲洋はぐんと首を伸ばすようにしながら上向いて、操の唇を受け止めた。
甲洋が帰ってきた日の夜から、寝る前には挨拶のキスをするようになっていた。
子供の頃に総士としていたみたいに、操から彼の頬にキスをしたのが始まりだった。
甲洋は驚いていたが、その尻尾は嬉しそうにパタパタと左右に振られていた。それ以来、おやすみのキスが習慣になった。
だけど頬にしていたのは最初の何回かだけだ。そのあとは自然に唇へと場所が変わった。
「ん、ぅ」
甲洋の手が項にかかる。離れるタイミングを失って、操はより強く彼の首に腕を絡めた。
自然な動作で角度が変わると、ちゅ、という濡れた音がしてちょっぴり恥ずかしい気持ちになる。感情が高ぶり、頬がどんどん熱くなるのに比例して、頭の中にはどんどん霧がかかっていった。
(もっと触りたいな……あ、そうだ)
操は両手で甲洋の頭を撫でた。大きな耳ごとわしゃわしゃと。
「……なに」
甲洋が戸惑ったように唇を離した。操は頭を撫でていた手で、今度はその頬を包み込む。
大人びた面立ちの白皙が、今はほのかな熱をもって赤らんでいた。それがどこか幼く見えて、操の胸を締めつける。
「甘やかしてるの」
どこか湿った息を漏らしながら、ぼんやりと鈍った頭で呟いた。
「抱っこして寝る?」
「……嫌だよ」
「そうしてほしそうに見えたんだけどな」
毎晩のように交わすようになった口づけは、すぐに終わることもあれば、こうして長引くこともある。そういうときは決まって甲洋の手が項にかかり、なかなか離れようとしないのだ。
操はそれを彼なりの甘えたいサインなのだと解釈している。
「……来主は、ズレてるよ」
「ズレてる?」
「うん、ズレてる」
操には甲洋が言わんとしていることが分からなかった。
「おやすみ、来主」
甲洋はもう一度そう言って、さりげなく操の両腕を剥がした。気を悪くしたのかと思いきや、彼はただ困ったように小さく笑っているだけだ。
キスもお喋りも、今夜は終わり。そう言わんばかりに、布団の中に潜り込んで背中を向けてしまう。
操もまたベッドに横たわった。手を伸ばし、キャビネットの上のライトを消す。部屋の中が墨色で塗りつぶされた。
操は掛け布団を引き上げながら、ぼんやりと天井を見上げる。唇には甲洋の熱や柔らかな感触が残っていた。
(ズレてるのかな、おれ)
自分ではそんな実感はなかった。そもそも、根本的に何がズレているのかも分からない。
操はただ甲洋を大事にしたいだけだ。家族だから、飼い主だから。
しかし愛犬におやすみのキスをするだけで、こんなにドキドキするものだろうか。身体が熱くなって、胸が切なく締めつけられる。心の中は満ち足りているようでいて、どこか物足りなさを覚えていた。
動物を飼っている人間にとって、これは普通のことなのだろうか?
(総士に聞いたら分かるかな)
総士だって本来はイヌが苦手なはずだ。それでも一騎とあんなにうまくやっている。彼に聞けば、なにか分かるかもしれない。
明日にでも連絡してみようと決めて、操はひとつ欠伸をすると目を閉じた。
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持ってきた傘を置き去りにして、店を飛び出した操は駅から電車に飛び乗った。
真矢に教えてもらった駅で降りると、頭の中に刻みつけた道順を頼りに住宅街を駆け抜ける。
小雨が降りしきるなか、息苦しさに肺や心臓が悲鳴をあげていた。足がもつれ、何度も転びそうになる。それでも走ることをやめられない。
甲洋が家出したときも、こんなふうに力の限り走り回っていた。あのときは彼を大切に思う気持ちの他に、総士から預かっているという責任感もあったと思う。いずれ出会うであろう新しい飼い主の元で、彼が幸せに暮らせるように。
だけど今の操は、ただ自分の望みを叶えたいがためだけに走っている。甲洋を取り戻したいという意思だけが、操を突き動かしていた。
「あった……!」
黒い瓦屋根の大きな家には『日野』という表札がかかっていた。
少し小高い位置にある家は、玄関に向って白い石段が伸びている。操はそこを一気に駆け上がった。
ガラスの引き戸を何度か叩く。女性が「はぁい」と返事をするのを聞いた途端、ガラリと音を立てて戸を開くと中に押し入った。
「どなた……あら? あなた確か……?」
フリルのついた白いブラウスに、黒いスカートを穿いた女性が目を丸くする。真矢の姉の弓子だ。
彼女は激しく息を乱す操を見て、驚いた様子で小首を傾げた。
「操くんよね? どうしたのよ、傘もささずに来たの?」
「ぁ、の……ッ、あの」
息が苦しくて、まともに言葉を発することができない。けれど息が整うのを待たず、操は大きな声で叫ぶように訴えた。
「甲洋を……甲洋を、返してください!」
「え!?」
「お願い……!」
懇願と共に深く頭を下げる。
とつぜん押しかけて、あまりにも身勝手なことを言っている自覚はあった。操は一時的に甲洋を預かっていただけで、飼い主として正式に名乗り出てくれたこの家の人たちとは違う。
今更こんなことを言える立場ではないのだ。だけど。
「おれ、甲洋がいないとダメで……何を食べても味がしないし、一人で部屋にいると寂しくて、ずっと甲洋のこと考えて泣いちゃうし……なにしてても、ぜんぜん楽しくなくて……ッ、だから、だからやっぱり、甲洋がいないと、おれ、ぜんぜんダメで……ッ」
言いながら泣いていた。最後の方はほとんど嗚咽混じりで、何を言っているか自分でも分からなくなっていた。ただただ、必死だった。
「か、返すなんて、そんなことを急に来て言われても……」
弓子の戸惑いはもっともだった。甲洋はもうこの家のイヌなのだ。なにより美羽のことを思えば、引き離すなんて真似がそう簡単にできるとは思えない。
操は下唇を噛みしめる。いよいよ土下座をしようかと思ったそのとき、弓子の背後から声がした。
「いいよ」
咄嗟に顔をあげる。廊下の中腹にある居間の出入り口から、桃花色のワンピースを着た可愛らしい少女がひょっこりと顔だけを覗かせていた。
「美羽!? いいよってあなた、そんな簡単に……!?」
「だってそのほうが、甲洋うれしいって言ってるもん」
美羽がよたよたと幼い足取りで廊下に出てくる。彼女は誰かの服の袖を掴んでいた。小さな手がそれを引っ張ると、居間から躊躇いがちに姿を現したのは甲洋だった。
「甲洋……!」
十日ぶりに見た彼は、ネイビーのシャツと白のパンツに身を包んでいた。伸びっぱなしだった髪も毛先が幾らか整えられて、小奇麗になっている。尻尾の毛はよくブラッシングされているようで、ボサボサだったのが一回り細くなって見えた。
彼は信じられないものを目の当たりにしたような、どこか呆然とした面持ちで操を見つめている。何かを言いかけて唇を震わせたが、それが音になることはなかった。
操はその姿を見て胸がいっぱいになった。目の前に甲洋がいる。それだけで、また涙が溢れた。
けれど同時に僅かな後悔が頭をもたげる。綺麗に身なりを整えられた彼は、もう『他所の子』なのだと思い知らされたような気がした。
「あ、あのね美羽。この子はお喋りができないのよ。嬉しいかどうかなんて、そんなの分からないでしょ?」
「そんなことないもん。美羽、いっぱいお話してるもん」
「美羽……」
美羽が操を見て、無邪気に指をさしてくる。
「ねぇママ、このお兄ちゃんだよ。甲洋の心のなかはね、このお兄ちゃんでいっぱいなんだよ」
「ッ!」
甲洋がビクリと肩を震わせ、困った様子で美羽を見た。操もまたドキリとして肩を跳ねさせる。
美羽は甲洋を見上げ、にっこりと花が開いたような笑顔を浮かべた。
「美羽さみしくないよ。甲洋がうれしいと、美羽もうれしいもん」
彼女は本当に読心能力が使えるのだ。オロオロとした様子の弓子は娘の特殊な能力に困惑の色を隠せないでいるが、操にはそれがとても羨ましく感じられた。
「……美羽」
美羽の名を呼び、甲洋は片膝をついて視線を低くした。弓子は初めて聞いた甲洋の声に目を丸くする。
紅葉のように小さな手が、大きく尖った耳を優しく撫でた。
「バイバイ甲洋。でもね、また会えるよ。だから美羽はへいきだよ」
「──ありがとう」
甲洋は立ち上がると、立ち尽くす操の方を振り向いた。
彼が美羽から離れると、今度は弓子が彼女に駆け寄って膝をつく。
「美羽、本当にいいの? ずっと楽しみにしてたのに……」
「うん、いいの。だって美羽には、ママとパパがいるもん。でもね、甲洋にはこのお兄ちゃんしかいないの。美羽でもママでも、ダメなんだよ」
「美羽……」
迷いのない幼い笑顔に、弓子は少しだけ困ったように微笑んだ。
上がり框の際までやって来た甲洋は、立ち尽くす操を見下ろした。目にいっぱい涙を浮かべ、口を半開きにしているのを見て、眉を下げて小さく笑う。
「来主」
「甲洋……」
離れていたのは半月にも満たない短い間だった。それでも久しぶりに見たその笑顔に、胸が締め付けられる。
「ごめん……ごめんね甲洋。おれ嘘ついた。ぜんぜん平気じゃなかった。ちっとも大丈夫じゃなかったよ。おれ……やっぱり君と一緒にいたいんだ」
彼の幸せを勝手に決めつけた。操だって甲洋のことはいえない。自分に自信がなくて、その意思を確かめもしなかった。もっと早くにこうして気持ちを伝えていたら、誰も振り回さなくて済んだのに。
だけどもし許されるなら、こんな我儘で臆病な自分でも許されるなら。ずっと傍にいてほしかった。ふたりであの部屋に帰りたかった。
「……俺も」
甲洋が静かに手を差し出した。痣も傷跡も、もうほとんどが消えている。彼は言った。
「帰りたい。来主のところに」
──帰りたい。
その言葉に、操はくしゃりと顔を歪める。甲洋の言葉に、あの日のような迷いはなかった。まっすぐな瞳で操を見据え、本当の気持ちを隠さず言葉にしてくれた。
震える下唇を噛み締め、その手をとる。強く強く握りしめ、ひとつ鼻をすすると操は笑った。
「うん。一緒に帰ろう、甲洋」
雨はいつの間にか止んでいた。
まるでふたりの心を映し出したかのように、流れる雲の波間からは澄んだ青い空が顔を覗かせていた。
*
(なんか、久しぶりに帰ってきたって感じがする)
部屋に戻り、居間に入ると不思議な懐かしさにとらわれた。
甲洋が行ってしまってからも、操は変わらずここで生活していたはずなのに。自分がどれほど心ここにあらずといった暮らしを送っていたかが、よく分かる。
「どうかした?」
居間に入った途端に立ち尽くすばかりの操の顔を、甲洋が背後から覗き込んでくる。間近にその瞳を見て、彼が帰ってきたのだという実感がじわりと湧いた。
「甲洋がいるんだって思うと、なんだかまだ信じられなくて。おれ、寂しくてずっと泣いてたから」
「ッ、そ、そう」
ふにゃりと笑った操に甲洋は言葉を詰まらせ、少しだけ頬を赤らめながら目を泳がせる。視線を逸らした先に折りたたんである毛布を見つけて、また操を見た。
「あ……えっと。甲洋が行ったときのままなんだ。箸もコップも歯ブラシも、君が使ってたもの全部」
「めんどくさかったの?」
「違うよぉ!」
久しぶりに意地悪を言われてしまったと思ったのも束の間、甲洋は不思議そうに瞬きを繰り返すばかりだった。操はなんだか恥ずかしい気持ちになって、胸の前で両手の指をモジモジといじくる。
「だって……片付けちゃったら、君がここにいたことまで消えちゃうような気がして、なんか嫌だったんだ。意味ないよね。そんなことしてたって、甲洋はもういないのに」
何も今生の別れというわけではなかった。会いに行こうと思えば、きっといつでも行けたはずだ。けれど寂しくて仕方がなかった。真矢にキッカケを貰わなければ、操は今もここでメソメソと泣いていただろう。
「俺はここにいるよ。お前が迎えに来てくれたから」
甲洋の右手が操の頬に触れ、手の平で包み込んだ。親指で目尻をそっとなぞられる。ずいぶん泣いたから、そこは赤く腫れぼったくなっていた。彼の指先は労るように、何度も何度も涙の跡が残る目尻をなぞる。
その温もりが優しくて、嬉しくてたまらない。甲洋がいる。こんなに近くに。
「うん……嬉しい」
操は目を細め、うっそりと呟いた。
いつかの公園でそうしたように、ふたりは互いの瞳を見つめ合う。時間が停まったような気がした。
甲洋の顔がどんどん近くなっていく。そうあることが当たり前のように、操もまた彼に吸い寄せられる。目を閉じると、柔らかな温もりが唇に押し付けられた。焦茶の癖毛が頬や鼻先をくすぐる。
身体をぴったりと寄せ合い、操は無意識に甲洋の肩に縋り付くように手を這わせていた。長い腕に腰を抱かれる。胸いっぱいに甘いものが広がった。熱くて、蕩けそうになる。
「ぁ……」
唇が離れると、名残惜しさに微かな声が漏れた。このままでいたいと思う心を読んだかのように、甲洋が額と額を合わせてくる。唇が、微かに痺れていた。
泣きたくなったのはなぜだろう。胸が苦しい。ずっと高鳴っている。嬉しくて、切ない。
部屋の中はあまりにも静かだった。ふと遠くから時計の秒針が動く音が聞こえる。時が止まったような錯覚が、魔法が解けるみたいに掻き消えてしまった。
「…………」
「…………」
たぶん、どうしたらいいか分からなくなってしまったのは二人同時だった。甲洋も操も頬を真っ赤にしている。引くに引けない。抱き合って、額と額をくっつけたまま。
「……キス、しちゃったね」
甲洋が「うん」と短く返事をする。
「ねぇ、これってさ、カウントされるのかな?」
「なにが」
「ん……初めてだもん。おれ、キスするの」
「……えっ」
甲洋がぎょっとして肩を震わせた。ひっついていた額が離れて、互いにバッチリと目を合わせる。彼がこんなふうに狼狽えるなんて珍しい。
「は、初めて?」
「うん。でも、イヌと人間でしょ、おれたち。よく動物を飼ってる人って、ペットにチュってするじゃん。だから今のは、それと一緒かな?」
素朴な疑問だ。同時になぜ甲洋がこうも戸惑っているのかも分からない。
「来主って、いま幾つ?」
「十九だよ」
「……最近の子は、もっと進んでるものだと思ってた」
「なんだよそれ。最近の子って、甲洋だってそんな変わんないでしょ。いま幾つ?」
「二十歳」
「一個しか違わないじゃん!」
操は甲洋の肩をパシリと叩いた。
確かに遅れているのかもしれない。学校に通っていたころ、クラスメイトの中には小学生の頃にはすでに恋人がいて、あらかた経験済みという友人もいた。
けれど操には恋というものがよく分からない。興味もなかったし、今まで誰にも友達以上の気持ちを抱いたことがなかったからだ。
「ちっちゃい頃は、よく総士のほっぺにちゅうしたけどさ」
「なんだよ、それ」
どうしてか、目の前にある甲洋の顔がムッとしかめられた。
「なんでそんな怖い顔するの?」
「……してない」
「してるじゃん。ねぇ怒ってる?」
「怒ってないって……ほっぺただけ?」
「うん。ほっぺただけ。寝る前にいつもしてたよ。おやすみって」
ふむ、と甲洋が低く声を発しながら息を吐き出した。それから、難しい顔のまま何か考え込んだかと思うと、こほんと小さな咳払いをする。
「今のは、ちゃんとキスだよ」
「そうなの?」
「来主のファーストキスは俺だし、あと、この際だから言うと二回目だから」
「二回目? なにそれ? おれ知らないよ?」
まったくもって覚えがない。心なしか、甲洋の目が据わって見える。
「お前が寝てるとき、一度したから」
「へ? 誰が?」
「俺以外にいる?」
「なんで!?」
「……したかったから」
甲洋はふいっと顔を背け、操の身体を離してしまった。そのままテレビ横のカラーボックスに近づくと、表面を指先でつつっとなぞる。付着したほこりをふっと吹き飛ばし「掃除くらいはしようよ」とため息を漏らした。その頬はまだ赤い。
操は口をぽっかりと空け、目を白黒させていた。知らなかった。彼がそんなことをしていたなんて。
(甲洋、本当はそんなにおれに甘えたかったのかぁ……)
ズレている。甲洋が聞けばそう言ってこめかみを押さえたであろう感想を、操は抱く。
(これからはいっぱい可愛がって、甘やかしてあげないと)
操は甲洋の飼い主になったのだ。彼は元々の飼い主だった夫婦から、愛情を受けることができなかった。だけど操にはそれができる。頼りないかもしれないけれど、自分にできることならなんでもしようと思った。
(おれが甲洋を幸せにするんだ)
せっかくこうして帰って来てくれたのだから。
(──あ)
そこで操はふと気がついた。とても大切なことを言い忘れていることに。
「ああほら、ここにもほこりが……汚くしてるとまた虫が来るよ」
「甲洋!」
「なに、わッ」
操はブツブツと小言を漏らしていた背中に、思い切り勢いをつけて抱きついた。
「な、なに、どうしたの」
「おかえり、甲洋」
「ッ!」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
息を呑みながら首だけで振り向いた甲洋を見上げて、操はニッコリ笑って見せた。
彼は見開いていた目を優しく細め、ゆっくりと口元を綻ばせる。腹に回っている操の腕に、両手を添えて緩く握りしめた。あたたかな手だった。
「ただいま、来主」
操の身体に当っている黒い尻尾が、パタパタと大きく揺れる動きを見せた。
←戻る ・ 次へ→
真矢に教えてもらった駅で降りると、頭の中に刻みつけた道順を頼りに住宅街を駆け抜ける。
小雨が降りしきるなか、息苦しさに肺や心臓が悲鳴をあげていた。足がもつれ、何度も転びそうになる。それでも走ることをやめられない。
甲洋が家出したときも、こんなふうに力の限り走り回っていた。あのときは彼を大切に思う気持ちの他に、総士から預かっているという責任感もあったと思う。いずれ出会うであろう新しい飼い主の元で、彼が幸せに暮らせるように。
だけど今の操は、ただ自分の望みを叶えたいがためだけに走っている。甲洋を取り戻したいという意思だけが、操を突き動かしていた。
「あった……!」
黒い瓦屋根の大きな家には『日野』という表札がかかっていた。
少し小高い位置にある家は、玄関に向って白い石段が伸びている。操はそこを一気に駆け上がった。
ガラスの引き戸を何度か叩く。女性が「はぁい」と返事をするのを聞いた途端、ガラリと音を立てて戸を開くと中に押し入った。
「どなた……あら? あなた確か……?」
フリルのついた白いブラウスに、黒いスカートを穿いた女性が目を丸くする。真矢の姉の弓子だ。
彼女は激しく息を乱す操を見て、驚いた様子で小首を傾げた。
「操くんよね? どうしたのよ、傘もささずに来たの?」
「ぁ、の……ッ、あの」
息が苦しくて、まともに言葉を発することができない。けれど息が整うのを待たず、操は大きな声で叫ぶように訴えた。
「甲洋を……甲洋を、返してください!」
「え!?」
「お願い……!」
懇願と共に深く頭を下げる。
とつぜん押しかけて、あまりにも身勝手なことを言っている自覚はあった。操は一時的に甲洋を預かっていただけで、飼い主として正式に名乗り出てくれたこの家の人たちとは違う。
今更こんなことを言える立場ではないのだ。だけど。
「おれ、甲洋がいないとダメで……何を食べても味がしないし、一人で部屋にいると寂しくて、ずっと甲洋のこと考えて泣いちゃうし……なにしてても、ぜんぜん楽しくなくて……ッ、だから、だからやっぱり、甲洋がいないと、おれ、ぜんぜんダメで……ッ」
言いながら泣いていた。最後の方はほとんど嗚咽混じりで、何を言っているか自分でも分からなくなっていた。ただただ、必死だった。
「か、返すなんて、そんなことを急に来て言われても……」
弓子の戸惑いはもっともだった。甲洋はもうこの家のイヌなのだ。なにより美羽のことを思えば、引き離すなんて真似がそう簡単にできるとは思えない。
操は下唇を噛みしめる。いよいよ土下座をしようかと思ったそのとき、弓子の背後から声がした。
「いいよ」
咄嗟に顔をあげる。廊下の中腹にある居間の出入り口から、桃花色のワンピースを着た可愛らしい少女がひょっこりと顔だけを覗かせていた。
「美羽!? いいよってあなた、そんな簡単に……!?」
「だってそのほうが、甲洋うれしいって言ってるもん」
美羽がよたよたと幼い足取りで廊下に出てくる。彼女は誰かの服の袖を掴んでいた。小さな手がそれを引っ張ると、居間から躊躇いがちに姿を現したのは甲洋だった。
「甲洋……!」
十日ぶりに見た彼は、ネイビーのシャツと白のパンツに身を包んでいた。伸びっぱなしだった髪も毛先が幾らか整えられて、小奇麗になっている。尻尾の毛はよくブラッシングされているようで、ボサボサだったのが一回り細くなって見えた。
彼は信じられないものを目の当たりにしたような、どこか呆然とした面持ちで操を見つめている。何かを言いかけて唇を震わせたが、それが音になることはなかった。
操はその姿を見て胸がいっぱいになった。目の前に甲洋がいる。それだけで、また涙が溢れた。
けれど同時に僅かな後悔が頭をもたげる。綺麗に身なりを整えられた彼は、もう『他所の子』なのだと思い知らされたような気がした。
「あ、あのね美羽。この子はお喋りができないのよ。嬉しいかどうかなんて、そんなの分からないでしょ?」
「そんなことないもん。美羽、いっぱいお話してるもん」
「美羽……」
美羽が操を見て、無邪気に指をさしてくる。
「ねぇママ、このお兄ちゃんだよ。甲洋の心のなかはね、このお兄ちゃんでいっぱいなんだよ」
「ッ!」
甲洋がビクリと肩を震わせ、困った様子で美羽を見た。操もまたドキリとして肩を跳ねさせる。
美羽は甲洋を見上げ、にっこりと花が開いたような笑顔を浮かべた。
「美羽さみしくないよ。甲洋がうれしいと、美羽もうれしいもん」
彼女は本当に読心能力が使えるのだ。オロオロとした様子の弓子は娘の特殊な能力に困惑の色を隠せないでいるが、操にはそれがとても羨ましく感じられた。
「……美羽」
美羽の名を呼び、甲洋は片膝をついて視線を低くした。弓子は初めて聞いた甲洋の声に目を丸くする。
紅葉のように小さな手が、大きく尖った耳を優しく撫でた。
「バイバイ甲洋。でもね、また会えるよ。だから美羽はへいきだよ」
「──ありがとう」
甲洋は立ち上がると、立ち尽くす操の方を振り向いた。
彼が美羽から離れると、今度は弓子が彼女に駆け寄って膝をつく。
「美羽、本当にいいの? ずっと楽しみにしてたのに……」
「うん、いいの。だって美羽には、ママとパパがいるもん。でもね、甲洋にはこのお兄ちゃんしかいないの。美羽でもママでも、ダメなんだよ」
「美羽……」
迷いのない幼い笑顔に、弓子は少しだけ困ったように微笑んだ。
上がり框の際までやって来た甲洋は、立ち尽くす操を見下ろした。目にいっぱい涙を浮かべ、口を半開きにしているのを見て、眉を下げて小さく笑う。
「来主」
「甲洋……」
離れていたのは半月にも満たない短い間だった。それでも久しぶりに見たその笑顔に、胸が締め付けられる。
「ごめん……ごめんね甲洋。おれ嘘ついた。ぜんぜん平気じゃなかった。ちっとも大丈夫じゃなかったよ。おれ……やっぱり君と一緒にいたいんだ」
彼の幸せを勝手に決めつけた。操だって甲洋のことはいえない。自分に自信がなくて、その意思を確かめもしなかった。もっと早くにこうして気持ちを伝えていたら、誰も振り回さなくて済んだのに。
だけどもし許されるなら、こんな我儘で臆病な自分でも許されるなら。ずっと傍にいてほしかった。ふたりであの部屋に帰りたかった。
「……俺も」
甲洋が静かに手を差し出した。痣も傷跡も、もうほとんどが消えている。彼は言った。
「帰りたい。来主のところに」
──帰りたい。
その言葉に、操はくしゃりと顔を歪める。甲洋の言葉に、あの日のような迷いはなかった。まっすぐな瞳で操を見据え、本当の気持ちを隠さず言葉にしてくれた。
震える下唇を噛み締め、その手をとる。強く強く握りしめ、ひとつ鼻をすすると操は笑った。
「うん。一緒に帰ろう、甲洋」
雨はいつの間にか止んでいた。
まるでふたりの心を映し出したかのように、流れる雲の波間からは澄んだ青い空が顔を覗かせていた。
*
(なんか、久しぶりに帰ってきたって感じがする)
部屋に戻り、居間に入ると不思議な懐かしさにとらわれた。
甲洋が行ってしまってからも、操は変わらずここで生活していたはずなのに。自分がどれほど心ここにあらずといった暮らしを送っていたかが、よく分かる。
「どうかした?」
居間に入った途端に立ち尽くすばかりの操の顔を、甲洋が背後から覗き込んでくる。間近にその瞳を見て、彼が帰ってきたのだという実感がじわりと湧いた。
「甲洋がいるんだって思うと、なんだかまだ信じられなくて。おれ、寂しくてずっと泣いてたから」
「ッ、そ、そう」
ふにゃりと笑った操に甲洋は言葉を詰まらせ、少しだけ頬を赤らめながら目を泳がせる。視線を逸らした先に折りたたんである毛布を見つけて、また操を見た。
「あ……えっと。甲洋が行ったときのままなんだ。箸もコップも歯ブラシも、君が使ってたもの全部」
「めんどくさかったの?」
「違うよぉ!」
久しぶりに意地悪を言われてしまったと思ったのも束の間、甲洋は不思議そうに瞬きを繰り返すばかりだった。操はなんだか恥ずかしい気持ちになって、胸の前で両手の指をモジモジといじくる。
「だって……片付けちゃったら、君がここにいたことまで消えちゃうような気がして、なんか嫌だったんだ。意味ないよね。そんなことしてたって、甲洋はもういないのに」
何も今生の別れというわけではなかった。会いに行こうと思えば、きっといつでも行けたはずだ。けれど寂しくて仕方がなかった。真矢にキッカケを貰わなければ、操は今もここでメソメソと泣いていただろう。
「俺はここにいるよ。お前が迎えに来てくれたから」
甲洋の右手が操の頬に触れ、手の平で包み込んだ。親指で目尻をそっとなぞられる。ずいぶん泣いたから、そこは赤く腫れぼったくなっていた。彼の指先は労るように、何度も何度も涙の跡が残る目尻をなぞる。
その温もりが優しくて、嬉しくてたまらない。甲洋がいる。こんなに近くに。
「うん……嬉しい」
操は目を細め、うっそりと呟いた。
いつかの公園でそうしたように、ふたりは互いの瞳を見つめ合う。時間が停まったような気がした。
甲洋の顔がどんどん近くなっていく。そうあることが当たり前のように、操もまた彼に吸い寄せられる。目を閉じると、柔らかな温もりが唇に押し付けられた。焦茶の癖毛が頬や鼻先をくすぐる。
身体をぴったりと寄せ合い、操は無意識に甲洋の肩に縋り付くように手を這わせていた。長い腕に腰を抱かれる。胸いっぱいに甘いものが広がった。熱くて、蕩けそうになる。
「ぁ……」
唇が離れると、名残惜しさに微かな声が漏れた。このままでいたいと思う心を読んだかのように、甲洋が額と額を合わせてくる。唇が、微かに痺れていた。
泣きたくなったのはなぜだろう。胸が苦しい。ずっと高鳴っている。嬉しくて、切ない。
部屋の中はあまりにも静かだった。ふと遠くから時計の秒針が動く音が聞こえる。時が止まったような錯覚が、魔法が解けるみたいに掻き消えてしまった。
「…………」
「…………」
たぶん、どうしたらいいか分からなくなってしまったのは二人同時だった。甲洋も操も頬を真っ赤にしている。引くに引けない。抱き合って、額と額をくっつけたまま。
「……キス、しちゃったね」
甲洋が「うん」と短く返事をする。
「ねぇ、これってさ、カウントされるのかな?」
「なにが」
「ん……初めてだもん。おれ、キスするの」
「……えっ」
甲洋がぎょっとして肩を震わせた。ひっついていた額が離れて、互いにバッチリと目を合わせる。彼がこんなふうに狼狽えるなんて珍しい。
「は、初めて?」
「うん。でも、イヌと人間でしょ、おれたち。よく動物を飼ってる人って、ペットにチュってするじゃん。だから今のは、それと一緒かな?」
素朴な疑問だ。同時になぜ甲洋がこうも戸惑っているのかも分からない。
「来主って、いま幾つ?」
「十九だよ」
「……最近の子は、もっと進んでるものだと思ってた」
「なんだよそれ。最近の子って、甲洋だってそんな変わんないでしょ。いま幾つ?」
「二十歳」
「一個しか違わないじゃん!」
操は甲洋の肩をパシリと叩いた。
確かに遅れているのかもしれない。学校に通っていたころ、クラスメイトの中には小学生の頃にはすでに恋人がいて、あらかた経験済みという友人もいた。
けれど操には恋というものがよく分からない。興味もなかったし、今まで誰にも友達以上の気持ちを抱いたことがなかったからだ。
「ちっちゃい頃は、よく総士のほっぺにちゅうしたけどさ」
「なんだよ、それ」
どうしてか、目の前にある甲洋の顔がムッとしかめられた。
「なんでそんな怖い顔するの?」
「……してない」
「してるじゃん。ねぇ怒ってる?」
「怒ってないって……ほっぺただけ?」
「うん。ほっぺただけ。寝る前にいつもしてたよ。おやすみって」
ふむ、と甲洋が低く声を発しながら息を吐き出した。それから、難しい顔のまま何か考え込んだかと思うと、こほんと小さな咳払いをする。
「今のは、ちゃんとキスだよ」
「そうなの?」
「来主のファーストキスは俺だし、あと、この際だから言うと二回目だから」
「二回目? なにそれ? おれ知らないよ?」
まったくもって覚えがない。心なしか、甲洋の目が据わって見える。
「お前が寝てるとき、一度したから」
「へ? 誰が?」
「俺以外にいる?」
「なんで!?」
「……したかったから」
甲洋はふいっと顔を背け、操の身体を離してしまった。そのままテレビ横のカラーボックスに近づくと、表面を指先でつつっとなぞる。付着したほこりをふっと吹き飛ばし「掃除くらいはしようよ」とため息を漏らした。その頬はまだ赤い。
操は口をぽっかりと空け、目を白黒させていた。知らなかった。彼がそんなことをしていたなんて。
(甲洋、本当はそんなにおれに甘えたかったのかぁ……)
ズレている。甲洋が聞けばそう言ってこめかみを押さえたであろう感想を、操は抱く。
(これからはいっぱい可愛がって、甘やかしてあげないと)
操は甲洋の飼い主になったのだ。彼は元々の飼い主だった夫婦から、愛情を受けることができなかった。だけど操にはそれができる。頼りないかもしれないけれど、自分にできることならなんでもしようと思った。
(おれが甲洋を幸せにするんだ)
せっかくこうして帰って来てくれたのだから。
(──あ)
そこで操はふと気がついた。とても大切なことを言い忘れていることに。
「ああほら、ここにもほこりが……汚くしてるとまた虫が来るよ」
「甲洋!」
「なに、わッ」
操はブツブツと小言を漏らしていた背中に、思い切り勢いをつけて抱きついた。
「な、なに、どうしたの」
「おかえり、甲洋」
「ッ!」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
息を呑みながら首だけで振り向いた甲洋を見上げて、操はニッコリ笑って見せた。
彼は見開いていた目を優しく細め、ゆっくりと口元を綻ばせる。腹に回っている操の腕に、両手を添えて緩く握りしめた。あたたかな手だった。
「ただいま、来主」
操の身体に当っている黒い尻尾が、パタパタと大きく揺れる動きを見せた。
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好天に恵まれた5月のある日。
今年の夏は少しせっかちだ。まだ梅雨入りもしていないうちから暑い日が続いている。
アスファルトが白く日差しを照り返す中、長い坂道をのぼる操は数歩遅れた位置から甲洋に呼ばれても、なにも答えず歩き続けていた。
「来主ってば。そろそろ機嫌なおして」
甲洋は耳をぺったりと寝かせ、困った顔をしている。振り向かなくてもそれが分かった。
「俺が悪かった。謝るから」
坂の中腹で操はようやく足を止めた。彼が言う通り、操は機嫌を損ねていた。というより、へそを曲げている。意地になって先を急いでいたせいで、呼吸が乱れて汗だくになっていた。
すぐに甲洋が追いついて、隣に並んだ。思った通り耳も眉もすっかり下げた状態で顔を覗き込まれたとき、操は自分が腹を立てているというよりは、悲しんでいるのだということに気がついて泣きたくなった。そしてその悲しいという気持ちの根底には、悔しいという感情があることにも、気がついている。
「水は? 持ってきただろ?」
甲洋が白いパンツの尻ポケットからタオル地のハンカチを取り出し、操の額や首筋を拭きながら言った。サラリとした生地が皮膚を撫でるのが心地いい。
「……かばん」
熱さにすっかり赤らんだ頬をしながら答えると、甲洋は操の背中にある斜めがけのショルダーバッグの中身を漁った。取り出した500ミリのペットボトルの蓋を開け、そっと差し出してくる。
「ほら、飲みな」
はかはかと息を漏らす唇に飲み口が寄せられる。操をそれを両手で受け取り、勢いよく水を飲んだ。半分くらい飲み干したところで大きく息をつく。
甲洋もどこかほっとしたような息を漏らした。それから操がかけているバッグのショルダー部分を掴むと、スルリと外して手に持った。
「い、いいよ。そんな重くないし」
「ここからは俺が持つよ。本も入ってるし。水だけ持っといて、こまめに飲んで」
同じ距離を歩いてきたはずなのに、甲洋は汗ひとつかかず涼しげだ。彼は操より身体が大きいし、ヒト型とはいえ人間に比べると脚力にだって大きな差がある。
「……どうせおれは弱っちいよ」
むっと口をへの字にして俯く操に、甲洋がまた困った顔をして肩をすくめた。
*
時は数刻前まで遡る。
朝起きて、のんびり朝食をとったあと、操と甲洋は羽佐間容子の家へ赴いた。以前、甲洋が家出してしまったときに、彼女と交わした約束を果たすためだ。
容子はふたりを笑顔で出迎えてくれた。
冷えた麦茶と水羊羹をご馳走になりながら、翔子の成長記録ともいえるアルバムを数冊、見せてもらった。
翔子のことを話す容子の瞳に涙はなかった。こんなふうに微笑みながら話ができるようになるまで、このひとはどれだけの涙を流したのだろう。容子を見て、彼女もまた悲しい記憶を大切な思い出に変えて生きているのだと、操は思った。
それから翔子の遺影の前でふたり並んで手を合わせた。
操は甲洋の様子がずっと気がかりだったが、彼の表情はずっと穏やかなまま、写真立てに収まる初恋の少女と向き合っていた。
そのあと散歩から戻ってきたカノンにも会った。
彼女は淡い薄青のワンピースを着て、ふたりの前に恥ずかしそうに姿を見せた。翔子が着ていたものだということは、ひと目で分かった。
カノンは少し前に比べて、仕草も表情もずいぶんと柔らかくなっていた。不器用そうな物言いは相変わらずだったが、甲洋が無事に生きて目の前に現れたことに、はにかむような笑顔を見せた。
勝ち気そうな瞳と鮮やかな赤毛をした黒猫に、ただ静かに瞳を眇めた甲洋は何を見たのだろう。彼が愛した淡く儚い白猫と、カノンは少しも重ならない。
けれどワンピースは彼女にとてもよく似合っていた。名前を呼ばれ、容子の元へと駆け寄る華奢な背中。スカートがふわりと揺れるのを見て、操は不思議な懐かしさにとらわれた。
この場所に積み重なる優しい記憶が空気になって、そんなふうに思わせたのかもしれない。
その懐かしさをどこか愛おしいと感じながら、そっと甲洋の手に触れた。彼は優しく、けれど確かな強さで操の手を握り返した。
*
きちんと礼を済ませて羽佐間家を後にすると、視線は自然と無人の楽園へと向けられた。
操が訪れたのは三月の中頃だったはずだから、まだ二ヶ月経つかどうかといったところだ。
たったそれだけの短い間で、外壁の汚れはさらに色濃く滲み、窓ガラスも曇りを帯びて墨を塗り込めたようになっていた。
店の前には一人の男性が立ち尽くしていた。建物を見上げ、困った顔をしながら「ありゃ~」と声をあげている。歴戦の猛者を思わせるような容貌に、タンクトップから突き出た太い両腕がこんがりと焼けていた。
「閉店してたとはなぁ……すっかり廃墟になっちまって……」
ああ、以前この店の常連だった人かとぼんやり眺めていると、甲洋が意外そうな顔をしながら「溝口さんだ」と言った。
「え? あの人が前に言ってた?」
「そう」
すると溝口と呼ばれた男性もこちらに気づき、甲洋を見て目を丸くした。
「お前さん、甲洋か? おいおい、ずいぶん立派になったじゃないか」
「ご無沙汰してます、溝口さん」
甲洋が頭を下げたので、操も慌ててペコリと頭を下げた。
溝口はぽっかりと口を開けながら甲洋を上から下まで眺めつつ、こちらに近づいてくる。
「全くやだね、ガキんちょってのは。ちょっと目を離すとすーぐでっかくなっちゃって。久々に来たら店はこんな有様だしよ。お前さん、今どうしてるんだ? 親父さんとお袋さんは?」
「店は去年の暮れに。父さんと母さんは……きっと元気にしてると思います」
「……へぇ。で、お前さんは?」
「俺は、今は彼と」
甲洋が目配せをしてくるので、操はなんとなく緊張しながら背筋を伸ばした。
「い、今はおれが甲洋の飼い主です! 名前は来主操です!」
子供のように拙い自己紹介をした操に、甲洋が小さくふきだした。
「な、なに? おれなにか変なこと言った?」
「いや、お前でも緊張することがあるのかと思って」
「またそうやって意地悪言う……」
甲洋を見上げながら頬を膨らます操を見て、溝口がカラカラと笑った。
「まぁ色々あったんだろうが……楽しくやってるんならよかったよ」
それから溝口は「あ、そうだ」と言って、担いでいたボストンバッグからゴソゴソと何かをとりだし、甲洋に差し出した。
「これは?」
それは書店名が書かれた茶色い封筒だった。
溝口は少し参った様子で頭を掻きながら「土産だよ」と言った。
封筒を受け取った甲洋が中身を取りだすと、そこからは何冊かの児童書が顔を覗かせた。
「あ、この本おれ読んだことある! 小学生のころの夏休みで、課題図書だったやつだ」
覗き込んでそう言った操に、溝口は「なはは」とおどけて苦笑した。
「いやぁ……あれから随分と経ってるってのに、時間の感覚がなくってなぁ。ついつい子供向けの本を買っ……や、持ってきちまったよ」
甲洋が話していた通りだなぁと操は思った。中身も封筒も明らかに新品である。
このひとの中では、甲洋はいつまで経っても腹をすかせた子犬のままなのだ。その頃の甲洋を知らない操は、そんな溝口を少しだけ羨ましく思った。
「ありがとう、溝口さん。大事にするよ」
甲洋はどこかくすぐったそうに肩をすくめて笑った。
「そうか? まぁ、大人が読んでもいいもんだ。そういうのはな」
「そうですね」
「誕生日プレゼントにしちゃあ、ちょいと地味かもしれんが。おめっとさん」
「誕生日!?」
溝口が放った言葉に反応したのは操だった。
「甲洋、誕生日だったの? いつ? 今日?」
「なんだお前さん、飼い主のくせに知らなかったのか? おいおい水臭いな。そういうのはちゃんと言っとくもんだろうに」
「ああ、うん……ごめん」
「昨日だよ、昨日。5月7日」
そう言って、溝口はバッグを担ぎ直した。
「んじゃ、俺は行くよ。またしばらくここいらに滞在することになったから、縁がありゃあまたどっかで会うかもな」
「今回も仕事で?」
溝口は軽い感じで「そ」と言うと、改めて甲洋を見て嬉しそうに笑った。
「お前さんが幸せそうでなによりだ。達者でな」
「溝口さんも、お元気で」
「甲洋を頼んだぞ、操ちゃん」
溝口は甲洋と操の頭をそれぞれポンポンと軽く叩くと、大きな歩幅で行ってしまった。
*
そして今に至る。
操は甲洋の誕生日を祝えなかったことが悔しかった。いま一番近くにいるのは自分なのに、真っ先におめでとうを言えなかったことが。
なにより教えてもらえなかったことが悲しくて、腹がたった。
「昨日だったなんて、酷いよ」
「ごめん」
操が甲洋を見上げると、ガードレールの向こう側をトラックが走り抜けた。結構な勢いの風に乗って、砂埃と排気ガスの臭いが立ち込める。道の両脇で伸びっぱなしの雑草がざわざわと大きな音をたてた。甲洋が風圧によろけそうになった操の腕をとり、さりげなく引き寄せる。
やがて辺りが静まりかえるのを待って、甲洋の口が開かれた。
「わざわざ言うのも気が引けたんだ。祝われる習慣もなかったから」
「だったらなおさらだよ。言ってほしかった。ちゃんと」
甲洋はもう一度「ごめん」と小さく言った。
彼がそうやって謝罪するたび、決して謝ってほしいわけではないのだと操は思う。だけど結果的に彼を責める形になっていて、気まずい空気に下唇を噛み締めた。
「……本当は」
どこか迷っている様子で、甲洋がぽつりと零す。操はただ頷いて、静かにその先を促した。
「一度だけ、祝ってもらったことがあるんだ。小さなころに。思いつきというか、気まぐれだったんだろうけど」
その日はちょうど甲洋があの夫婦に引き取られた日だった。
もともといつ生まれたのかは流石の甲洋も覚えていないらしいが、彼の両親は「お前が来た日だから」と言って、店の残り物のケーキとTシャツを一枚プレゼントしてくれた。それがちょうど5月7日だったのだ。
「嬉しかったんだ。すごく」
ケーキはクリームが溶けて表面がドロドロになっていたし、シャツは毎日着続けているうちに傷んでしまった。そのうちだんだん着られなくなって、知らぬ間に捨てられていたけれど。
そう言いながら、甲洋は目を細めて笑った。
ほんの一度の、ささいな気まぐれ。それでも彼は忘れない。嬉しかったことを、つい昨日のことのように思いだせるから。だから甲洋は自分を捨てたはずの夫婦を憎めないのだろうなと、操は思う。
「俺にはその思い出だけで充分なんだよ」
「……じゃあ、おれからはなにもいらないってこと?」
「それは……」
甲洋は口ごもり、それから幾度か目を泳がせる。指先でカリカリと頬をかき、やがておずおずと操を見た。
「バチが当たるかもしれないだろ」
「ばち?」
「俺はいま幸せだから。これ以上は、きっとバチが当たる」
茶化しているふうでもなく、甲洋は真剣だった。操は思わず目を丸くして、口をぽっかりと開ける。
「幸せすぎて怖いって言いたいの?」
「……うん」
「臆病だな、甲洋は」
「俺もそう思う」
苦笑した甲洋に、操はへそを曲げていたのが嘘のように気が抜けてしまった。
「そんなこと言ったら、おれは明日にでも死んじゃうかもしれないよ」
「縁起でもないな」
「だってそういうことでしょ。おれだって幸せなんだから」
甲洋はなにも答えられずにただ唇を震わせる。操は笑った。
「ねぇ、おれたちきっと明日も生きてるよ。次の日も、そのまた次の日も。来年も、再来年もさ。10年後も、その先も、たぶん生きてる。君と一緒に、生きてるんだと思う」
この幸せに対価なんかない。もしあるのだとしたら、それはもうおつりが来るくらい払っている。だからあとは、ずっと笑って生きていなくちゃ嘘だ。
「おれは甲洋が生まれてきてくれて嬉しい。今ここに君がいてくれることが嬉しいよ。だから来年はちゃんとお祝いする。バチなんか当たらない」
「来主……」
彼が生きてきた時間が愛しい。今こうして生きている甲洋のことが、大好きだ。
「おれが守ってあげるよ。怖がりな君のこと」
それに、やっぱり単純に悔しいと思う。これはきっとヤキモチだ。溝口だけが彼の幼い頃を知っていて、先にプレゼントを渡して、おめでとうを言ってしまった。
けれどあそこで彼に会わなければ、操は甲洋の誕生日を知らないままだったかもしれない思うと、それもまた複雑である。もちろん、溝口に会えたことは嬉しかったけれど。
甲洋は操の言葉に目を瞬かせ、それから眉をほんのりハの字にしながら複雑そうに言った。
「お前っていつもそうだよ。俺が言いたかったことを、俺より先に言ってしまう」
「そうなの?」
「自分だって怖がりのくせに」
「そ、そんなことないよ! おれは怖がりじゃない!」
焦りだした操に、甲洋は堪えきれず小さくふきだした。
せっかくかっこよく決まったと思ったのに、これでは台無しだ。ぶぅっと頬を膨らませていると、甲洋の大きな手が操の頭をぽんぽんと撫でた。
「ありがとう、来主」
小首を傾げるようにしてくすぐったそうに笑う甲洋に、操の胸もくすぐられる。
その笑顔はどこか甘ったるくて、きっと自分にだけ向けられる特別なものなのだと思った。
だって操は甲洋の飼い主だけれど、ふたりの関係はそれだけではないのだ。
「守るよ。俺も、お前のことを」
こればかりは絶対に、溝口だって敵うまい。
*
ふたりがその足で訪れたのは、家出した甲洋を見つけたあの臨海公園だった。
海沿いに長く伸びる堤防に手をかけて、操と甲洋は晴れた空の下に広がる、青々とした海を見つめていた。
平日ということもあってか、辺りにはまるで人の姿がない。遥か遠くに見える防波堤で、男性がひとり釣りをしているのが見えるだけだった。
海は太陽の光を弾いてキラキラと輝いていた。潮風に乗って、甲高い海鳥の声がゆっくりと交差する。どこまでものどかで、静かな時間がそこには流れていた。
「あ、そっか」
ふと操が声を上げた。甲洋がこちらを見て首を傾げる。
「一騎と総士もおれたちと同じなんだ」
「なに? 急に」
「総士が言ってた。惚気話をする趣味はないって」
海を見つめながら、なんとなく甲洋と出会った日から今までのことを思いだしていた。
今にして思えば、総士は最初から答えを言っていたようなものだったのだ。甲洋が日野家へ行く日の朝、彼が漏らした言葉がそうだった。そういう関係というものがどういう関係をさすのか、あのときの操にはまるで理解できていなかった。
「なぁんだ。そうならそうと言ってくれればよかったのに。その方が手っ取り早いでしょ?」
「どっかで同じことを言ってるやつがいたよ」
「誰?」
「さぁね」
甲洋はくすりと笑って、また海を見つめた。
彼はあのふたりのことを知っていたんだろうなと操は思う。自分だけ、ずいぶんと遠回りをしてしまった。
(だから総士も、一騎だけは平気だったんだ)
恋をすると世界が変わるなんて、よく言ったものだ。総士も操も、たまたま好きになった相手がイヌだったというだけで、抱え込んでいたトラウマがどうでもよくなってしまった。
それでも操には甲洋だけだし、総士には一騎だけだ。そこいらを散歩している他所のイヌを撫でろなんて言われても、絶対にできない話だと思った。
(んー、でも、いつか一騎だけは撫でられるようになりたいなぁ……)
そんなことを考えながら、ふと隣にいる甲洋に目を向けた。
焦茶の癖毛が風に乗って揺れている。その綺麗な横顔を見つめながら、操は彼の長い睫毛が綺麗にくるりとカールしていることに気がついた。
それはとても些細なことだし、さっきの誕生日の件だってそうだ。こんなに近くにいて身体までぴったりと重ね合わせたのに、それでもまだ気づかないことや知らないことが沢山ある。
例えばあの日。傷ついた彼がここでなにを思っていたのか、とか。今は、なにを考えているのか、とか。
「甲洋は、海が好きなの?」
聞きたいことが沢山あるような気がしたけれど、操はいつかと同じ問いを投げていた。あのときの甲洋は今じゃ信じられないくらいそっけなくて、はっきり答えてはくれなかった。
「好きだよ。少し怖いとも思うけど」
甲洋は海に背を向け、堤防に両肘をかけると背中を預けた。
「……あのときの俺は、多分ここで死のうとしてたんだと思うよ」
ビクリと肩を震わせて甲洋を見た操に、彼は優しく笑って見せた。
「自分なんかどこにもいないような気がして、だったらここで消えても、なにも変わらないと思ったから。そうしたら、この魂はどこに還るんだろうって考えてた。海が生命の起源だっていうのは通説だろ? だから俺の魂も、ここに還るのかもしれないって──来主、そんな顔しないで。今は思ってないよ、そんなこと」
泣きそうに顔を歪めた操の目尻に、甲洋の指先が触れた。雫が零れる前にそっと拭われる。
あのときこの場所で見た甲洋の背中を、操はきっと死ぬまで忘れることができないと思う。
彼は今にも消えていなくなってしまいそうだった。
それが嫌で、どうしようもなく嫌で、怖くて、操は甲洋に手を伸ばした。奪われる前に、取り戻さなくてはならないと思ったから。
「本当に思ってないんだ。今はここにいたい。心からそう思うよ。──お前が迎えに来てくれたから」
目尻をなぞっていた甲洋の手が、今度は頬に触れた。優しい温もりにまた少し涙が出そうになって、操はその手の甲に触れると強く握りしめる。
「どこにだって行くよ、甲洋。おれは君のこと、どこにだって迎えに行く。それが海の底でも、泳いで行くよ」
甲洋が嬉しそうに笑いながら、こちらに向けて僅かに身を屈めた。操はもう片方の手で彼の項に触れると、上向きながら引きよせる。重ね合わせた唇が、海風にさらされたせいで少し乾いていた。
キスはほんの数秒で終わってしまった。それでも離れがたくて、操は甲洋の手を離すことができなかった。
「来主、泳げるの?」
甲洋が悪戯っぽく笑って言った。操はそんな彼を上目遣いに軽く睨んだ。
「……泳げないけど、泳ぐよ」
「溺れる、の間違いじゃなく?」
「う、うるさいなぁ! どっちだっていいじゃん!」
甲洋は空を仰ぐようにしながら大きな口を開けて笑った。その拍子に握りしめていた手がほどけてしまう。
彼がこんな風に笑うのを初めて見た。操は怒るに怒れなくなって、ただ唇を尖らせる。
「君ってほんとに──」
意地悪だ。
そう言おうとして、操はふと甲洋の言葉を思いだす。
──来主にしかしないよ。
「どうかした?」
急に言葉を切ったまま何も言わなくなった操に、甲洋が小首を傾げた。
「別にー。甲洋ってほんと、おれのこと大好きなんだなって思っただけ!」
「……まぁ、否定はしない」
「えへへー」
照れくさそうに目を逸らした甲洋にふにゃふにゃと笑っていると、とつぜん手が伸びてきて鼻を摘まれた。
「うにゃぁー! にゃに!? にゃにするのぉー!?」
「別に。なんとなく」
そのままグリグリと軽く揺さぶられ、涙目になった操の鼻を開放して、甲洋が笑った。
「いじわる……」
少しだけ赤くなった鼻を擦りながら言うと、黒い尻尾が元気よく左右に揺れた。
「さて、そろそろ行こうか」
「もうそんな時間?」
「遅れると、お前の保護者になにを言われるか分からない」
「そっか。総士は時間にうるさいからね」
今日はこのあと、総士と一騎が暮らすマンションへ顔を出す約束になっている。
まだ時間に余裕があったので海を見にここまで来たが、確かに遅れて行くよりは早めにつくぐらいがよさそうだ。
甲洋はあのふたりに何やら『挨拶』をすると言っていたが、操にはその後に控えるイベントの方が重要だった。
「甲洋のカレー修行、おれも隣でちゃんと見てるからね!」
「はいはい、行くよ」
甲洋が堤防に置いていたショルダーバッグを肩にかけて、操に手を差しだした。操はその手をとり、互いにしっかりと握り合う。
寄せてはかえす波音に、優しく背中を押されたような気がする。
果てしない蒼穹が優しく見守るなかを、操と甲洋はゆっくりと、歩きだした。
半径1メートル半の恋・了
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