2025/09/14 Sun 「んー! 美味しー! これ食べたかったんだー!」 苺パフェを食べる操の唇の端には、赤いソースが付着している。 子供のようにみっともなくはしゃぐ操に、総士はホットコーヒーを飲みながら呆れた様子で息を漏らした。 「お前はいつまで経っても子供だな」 操は差し出された紙ナプキンを受け取り、口の横を拭きながらふにゃんと笑う。 「だってこれ今だけの限定パフェなんだよ。総士も食べなきゃもったいないよ」 「遠慮しておこう。昼食も済ませてきたばかりだ」 実のことを言うとそれは操も同じなのだが、また小言を食らいそうなので黙っておいた。 パフェにはたっぷりの苺と、マカロンやクッキーも添えられている。真っ赤な苺ソースにミントのアクセントが鮮やかで、眺めているだけでも幸せな気分だ。 (この次は甲洋も連れて来ようっと) そういえばまだ一緒に外食をしたことがないことに気がついた。たまには外で食べるのもいいだろう。甲洋がこれを食べて、苺ソースで口元を汚すところが見てみたい。彼はそんな子供みたいな食べ方はしないだろうけれど。 「甲洋とはどうだ。上手くやっているのか?」 「やってるよ。ごめんね総士。せっかく色々がんばってくれたのに、振り回しちゃったよね」 「全くだ」 総士の言葉に棘はない。しょうがないなといった様子で微笑んでいる。 甲洋を連れ戻したことを報告したときも、驚いてはいたが「そういうことなら早く言え」と言うだけだった。 「一騎も喜んでいた。お前と甲洋なら大丈夫だと」 「本当? 嬉しいな」 昼時をとうに過ぎたファミレスは、人もまばらでゆったりとした空気が流れていた。ついこの間、真矢と会った店でもある。あのときは頼むだけ頼んで、オレンジジュースに口をつける余裕もなかった。 総士は黙ってコーヒーを飲んでいる。たまに新しい紙ナプキンを差し出してくれるので、操はその度に口を拭いた。 「あー、美味しかった! 幸せ!」 「それはなによりだ」 「もうひとつイケそうな気がする」 「太るぞ。それより僕に聞きたいことがあるんじゃないのか?」 オレンジジュースで一息ついた操はうんと頷き、ようやく本題に入ることにした。 「総士は一騎とどんなキスをするの?」 「ブッ!」 総士がコーヒーを噴き出す。今度は操が紙ナプキンを差し出す番だった。 「大丈夫?」 「な、なにを……と、突然なんだ?」 「総士、顔が真っ赤だ」 「……10秒待て」 総士はナプキンで口周りを拭き、テーブルにこぼれた分も手早く拭き取ると大きく息をつく。そして何事もなかったかのように眼鏡のズレをスッと直した。 「よし、続けろ」 「だからね、総士は一騎とキスをするとき、いつもどんな気持ちになるのかと思って」 「なぜしていることが前提なんだ。お前たちはしているのか?」 「してるよ。普通するでしょ?」 「普通、か」 操はきょとんとして小首を傾げる。 「しないの?」 「……普通かどうかは一概に言えない。愛情表現にも様々な形があるだろう。例えば獣型のイヌやネコには、パスツレラ症をはじめとする人獣共通感染症というものがある。唇同士が接触するような過度の触れ合いは」 「ねぇ総士ぃ、おれは総士の話が聞きたいの。それに一騎と甲洋はヒト型なんだから、病気なんか持ってないでしょ」 「……なぜ急にそんなことを聞きたがるんだ」 どこかはぐらかされているような気がしないでもない。 操の質問は、それほどまでに答えにくい類のものだったのだろうか。 「だって甲洋に言われたんだもん。来主はズレてるって」 「理解不能だ。ちゃんと順を追って話せ」 「あのね、おれと甲洋は毎日寝る前におやすみのキスをするんだよ。だけど、なぜかいつもここがドキドキして、恥ずかしくなって、しちゃいけないことしてるような気持ちになる」 操は両手を心臓の上にそっと重ねた。思いだすだけで胸が高鳴り、頬が熱くなっていくのを感じた。 「これって普通のことなのかな。みんなこんなにドキドキしながら、イヌやネコを飼ってるの?」 「……なるほど」 赤らんだ頬でほぅっと息を漏らす操を見て、総士はなにかを察した様子だった。 「おれ、甲洋をいっぱい甘やかしたい。大切にしたいんだ。だっておれたち家族になったんだもん。だけどおれは総士に対してこんなに胸が痛くなったり、苦しくなったりしたことないよ。もちろん、一騎にも」 「……甲洋はどんな様子なんだ?」 「甲洋はおれが撫でると困った顔をするし、抱っこして寝たくても嫌だって言う。恥ずかしいのかな? いつも顔が赤くなってるし……あ、もしかしてこれが反抗期!?」 「なぜそうなる?」 「だっておれは飼い主だもん。それってつまり、おれは甲洋のお父さんでお母さんってことでしょ?」 総士はやれやれと溜息をつきながらコーヒーカップに手を伸ばす。けれどすでに空になっていることに気づき、そっとテーブルの隅に寄せた。 「確かに、ズレているんだろうな」 「総士もそう思うの?」 「ああ、甲洋が気の毒だ」 「えぇ~? なんで? おれなにか間違ってる?」 テーブルに乗り出して情けない顔をする操に、総士はどこか途方に暮れたように「ここまで鈍いとはな」と呟いた。 「だが、遅かれ早かれ時間の問題のように思えてならない。せっかくだから、最後まで自分で考えてみるといい」 「そんなぁ~……考えても分かんないから聞いてるのに。ねぇ教えてよ、総士はどうなの?」 「僕は惚気話をする趣味はないんだ」 「ノロケってなに? 総士が教えてくれないなら、一騎に聞くよ」 「口止めしておく必要があるな」 「むぅー」 操が唇を尖らせ、情けなく眉をハの字にしているのを見て、総士はくすりと楽しげに笑うだけだった。そんな彼を、操はじっとりとした目で睨む。 なんだか面白がられているような気がしてしょうがない。そのどこか生温かい笑顔からは、どうしてもそんな印象を受ける。 しかしこのぶんだと、本当になにも教えてはくれなさそうだ。 「教えるもなにも、答えは出ているも同然だ。あとは早く自覚してやることだな」 総士は微笑んだままそう言って、伝票を手にすると席を立った。 * 「どお? それ美味しい?」 湯気が立ち上るマグカップを両手に操が居間に戻ると、ニュース番組を見ていた瞳がこちらに向けられた。 甲洋は食後のデザートを食べている。薄桃色のモンブランは、操が総士と会った帰りにお土産に買ってきたものだった。 「うん、美味しいよ。ちゃんと桜の味がして」 「へぇ。やっぱり二つ買えばよかったな。でもおれファミレスでパフェ食べちゃったんだよね。総士に太るぞって言われたし」 ぶぅっと唇を尖らせながらテーブルにカップを置いた。中身はほうじ茶だ。 「食べる?」 「いいの? じゃあ一口ちょうだい!」 操は目を輝かせ、胡座をかく甲洋の隣に身を乗り出すような姿勢でぺたんと座った。甲洋はフォークでモンブランの中央をこそぎ、手を添えて操の口元に運ぼうとする。 「あっ、待ってダメダメ! そこ一番いいところだから、甲洋が食べて!」 「俺はいいよ。来主が食べな」 「ダメだって! ねぇ、それ桜の塩漬けっていうんだよね? 食べたら感想聞かせて!」 モンブランの上には塩漬けにされた桜の花が可愛らしく添えられている。ショートケーキでいうところの苺のようなものだ。甲洋に食べてほしいから買ってきたのに、大事なところを操が食べてしまっては意味がない。 甲洋は小さく笑うと「わかった」と言ってフォークを口に運んだ。 綺麗な形をした薄い唇が開かれて、一瞬だけ赤い舌が覗く。しっとりと濡れて色づく桜の花が、彼の口内へと姿を消した。なんだか妙にドキドキしてしまう。 「どう?」 どこか落ち着かない気持ちで問いかけた。 「しょっぱい?」 「ん……ほんのり塩気があるくらいで、しょっぱくはないよ。香りが強くて、甘さが引き立つって感じかな」 「あ、本当だ……桜の匂いがするね」 甲洋の口の中で噛み潰された花が、飲み込まれてもなお強い香りを放っている。操は思わず顔を近づけ、クンクンと鼻を鳴らした。 「春の匂いだね」 「うん。春の匂いだ」 立ち寄ったケーキ屋のショーケースには、様々なケーキが並んでいた。苺に抹茶、チョコレートにフルーツタルト。けれどこの薄桃色をした桜のモンブランは、その中にあって最も季節を感じさせるものだった。 「来年は行きたいな、お花見。お弁当の中身、考えておかなくちゃ」 「今から?」 「そう、今から」 「気が早いよ」 甲洋が肩を揺らして笑うと、また桜の香りが濃くなった。そこに混ざって彼自身の匂いがする。それはうまく例えられるものではなくて、ただあたたかくて優しくて、切ないような気持ちにさせられるものだった。 桜の香りと、甲洋と。操の胸を締め付ける甘酸っぱい感情には、まだ名前がない。 (唇、濡れてる) 笑っている甲洋の唇がほのかに艶を帯びていた。そういえば、まだケーキを一口もらっていない。 食べたい、と思った。操は甲洋の肩に手を置いて身を寄せると、下からすくい上げるようにして口づけた。 「ッ!」 甲洋の手からフォークが落ちる。彼は一瞬だけ丸くした目をゆっくりと細め、静かにそっと睫毛を伏せた。 操の項に熱い手が触れ、襟足をくしゃりと乱される。そこから生まれた小さな痺れが、身体の芯をチリチリと焦がすように通り抜けた。 「ん、ふ……」 拙く触れ合わせるだけのキスは甘くて、むせるような桜の香りに目眩がする。 食べたい。さらに欲求が膨らんで、操は薄く柔らかな甲洋の唇をぱくんと食んでいた。歯は立てず、唇で。 「ッ、な、ぅ……っ」 驚いた甲洋が肩を跳ねさせた。唇が離れてしまうのが嫌で、操はその首に腕を回して強く引き寄せる。ちゅう、という音を立てて吸いついたところで、肩を掴まれた。 「く、来主っ、やめなって……!」 「ふぁ……? ァ……なに?」 「なに、じゃ、なくて……ッ」 とろんとした瞳で小首を傾げる。操の両肩を掴んで遠ざけた甲洋が、見たこともないくらい顔中を赤く染めていた。 まるで茹で上がったタコのようだ。いっそ首筋さえも赤い。黒い耳がぺたんとなって、微かに震えていた。 「こうよう?」 「ま、待って。ちょっと、離れて」 「なんで」 「いいから、今、まずいから」 甲洋はまるで操から身体の正面を隠すように片膝を立てた。そして手の平で額の辺りを押さえて俯く。地の底から響くような溜息を吐きだし、何も言わなくなってしまった。 心なしか、姿勢が前屈みのようになっている。 「甲洋、ねぇどうしたの……?」 「──」 「甲洋?」 操はまだどこか夢見心地だった。甲洋の様子が明らかにおかしいことと、自分がしでかしたことを結びつけられないくらい、思考が鈍りきっている。 「……今のは、ダメだろ」 それは独り言のように小さくて、泣きそうに掠れた声だった。 「だって、食べたかったんだもん」 「食べていいから。ケーキ、残り全部」 「違う。甲洋を食べたいって思った」 甲洋の肩がまた跳ねた。額を抑えていた手で、今度は耳ごと頭をガリガリと掻きだす。 操は膝立ちになって甲洋の顔をひょいと覗き込もうとした。けれど今度は完全に背中を向けられてしまう。 「今はダメだって!」 「なんでぇ? なんでそっち向いちゃうのぉ?」 急に壁を作られたような気がして、操は不満の声をあげた。すっかりこちらに背を向けている甲洋は、頭を抱えたまま石のように沈黙している。 丸くなっている背中を見つめながら、だんだん不安になってきた。 「甲洋、怒った?」 「……怒ってない」 「じゃあこっち向いてよ」 「……待って、いま素数を数えてる最中だから」 何を言っているのか分からないが、掠れた声が弱々しかった。耳は倒れたままだし、尻尾は左側に向ってヒクヒクと震えていた。怖がらせてしまったのだろうか。だとしたら大失敗だ。 だけど操自身、どうして彼を食べたいなんて思ってしまったのかが、よく分かっていなかった。ただ艶めいた唇が無性に美味しそうで。微かに感じた甲洋の匂いに胸が疼いて。気がついたら、吸い寄せられていた。 「甲洋ごめん。もう食べようとしたりなんかしないよ。ねぇ」 操は女の子のように横座りをしながら甲洋の背中に身を寄せた。手の平で背中に触れ、頬を押し当てる。甲洋はギクリと身を強張らせただけで、拒む様子は見せなかった。そのことにホッとする。 甲洋の背中は熱かった。少し鼓動が早い。操は目を閉じて、その音に耳を傾けた。 (甲洋もドキドキしてる。おれと一緒だね) 操の胸もまだ高鳴っていた。そういえば寝るとき以外にキスをしたのは、甲洋が日野家から帰ってきた日以来のことだ。 彼は二度目だと言ったが、操の体感ではあれが初めてのキスだった。 ──今のは、ちゃんとキスだよ。 ふと、あのとき甲洋が言った言葉を思いだした。 あれはどういう意味だったのだろう。今まであまり深く考えたことがなかった。 (ちゃんとしたキスって、なんだろう) 例えば愛し合う男女がするようなもの、だろうか。 だけど操は人間で、甲洋はイヌで、なにより自分たちは男同士だ。だから当てはめて考えるのが良いことなのか悪いことなのか、よく分からない。 (でも、だけど……じゃあさっきのキスはなに?) まだ寝るには早い時間だ。だからあれはおやすみの挨拶とは違う。したいと思ったからした。食べたかったから。それは、どうしてなんだろう。この気持ちはどこから来て、どこへ向かおうとしているのだろう。 ただ今の操に分かるのは、甲洋への気持ちは今まで誰にも抱いたことのない、新しい形をしているということだけだった。 ──あとは早く自覚してやることだな。 (自覚? 自覚って、なにを……?) ややしばらくしてから、甲洋が深い息を漏らしながら「よし」と言った。思考の海にふわふわと意識を漂わせていた操は、ドキリとして肩を跳ねさせる。 「……なんとか鎮まった」 「ぁ……」 甲洋が身体ごと振り向こうとする。操はなぜか焦りに駆られ、甲洋の背中に両手を押し当てながらより密着すると、額を埋めた。 「来主?」 「もうちょっと、このままがいい。だめ?」 どうしてか、今は甲洋の顔が見られそうにない。なんだか無性に恥ずかしい気持ちだ。いま顔を見たら、もっともっと恥ずかしくなってしまうような気がした。 甲洋は不思議そうな顔をしながらも「いいよ」と言って、そのまま動かなくなる。操は静かに震える息を吐き出した。 (この気持ちはなに? わかんないよ、総士) 心臓が今にも飛び出して来そうなくらい高鳴っている。自分で自分の胸に耳を押し当てているみたいに、ドキドキという大きな鼓動が頭の中にまで響き渡っていた。 大きな熱い塊を、身体の内側に無理やり閉じ込めているみたいだ。操の薄い胸では、とても抱えきれない。溢れ出してきそうな感覚が怖くて、苦しくて、少しだけ泣きくなった。 (でもこうしてると……嬉しい) 桜の香りが、まだほんのりと辺りを漂っていた。だけどそれ以上に、操に染みつく甲洋の匂いは鮮明だ。すんと鼻を鳴らして吸い込めば、春の香りは完全に消えてしまった。操の中は、甲洋だけで埋め尽くされる。 (このままひとつになれたらいいのに) 家族、友達。総士や、一騎や、今まで出会った全ての人たち。その中の誰にも抱いたことのない、特別な気持ち。怖くて、嬉しくて、切なくて、あたたかい。 この気持ちを、どう言葉にして伝えたらいいだろう。 (ねぇ、甲洋) 未熟すぎる操の心が、それを恋だと理解するのは、あとほんの少しだけ先の話だ。 ←戻る ・ 次へ→
苺パフェを食べる操の唇の端には、赤いソースが付着している。
子供のようにみっともなくはしゃぐ操に、総士はホットコーヒーを飲みながら呆れた様子で息を漏らした。
「お前はいつまで経っても子供だな」
操は差し出された紙ナプキンを受け取り、口の横を拭きながらふにゃんと笑う。
「だってこれ今だけの限定パフェなんだよ。総士も食べなきゃもったいないよ」
「遠慮しておこう。昼食も済ませてきたばかりだ」
実のことを言うとそれは操も同じなのだが、また小言を食らいそうなので黙っておいた。
パフェにはたっぷりの苺と、マカロンやクッキーも添えられている。真っ赤な苺ソースにミントのアクセントが鮮やかで、眺めているだけでも幸せな気分だ。
(この次は甲洋も連れて来ようっと)
そういえばまだ一緒に外食をしたことがないことに気がついた。たまには外で食べるのもいいだろう。甲洋がこれを食べて、苺ソースで口元を汚すところが見てみたい。彼はそんな子供みたいな食べ方はしないだろうけれど。
「甲洋とはどうだ。上手くやっているのか?」
「やってるよ。ごめんね総士。せっかく色々がんばってくれたのに、振り回しちゃったよね」
「全くだ」
総士の言葉に棘はない。しょうがないなといった様子で微笑んでいる。
甲洋を連れ戻したことを報告したときも、驚いてはいたが「そういうことなら早く言え」と言うだけだった。
「一騎も喜んでいた。お前と甲洋なら大丈夫だと」
「本当? 嬉しいな」
昼時をとうに過ぎたファミレスは、人もまばらでゆったりとした空気が流れていた。ついこの間、真矢と会った店でもある。あのときは頼むだけ頼んで、オレンジジュースに口をつける余裕もなかった。
総士は黙ってコーヒーを飲んでいる。たまに新しい紙ナプキンを差し出してくれるので、操はその度に口を拭いた。
「あー、美味しかった! 幸せ!」
「それはなによりだ」
「もうひとつイケそうな気がする」
「太るぞ。それより僕に聞きたいことがあるんじゃないのか?」
オレンジジュースで一息ついた操はうんと頷き、ようやく本題に入ることにした。
「総士は一騎とどんなキスをするの?」
「ブッ!」
総士がコーヒーを噴き出す。今度は操が紙ナプキンを差し出す番だった。
「大丈夫?」
「な、なにを……と、突然なんだ?」
「総士、顔が真っ赤だ」
「……10秒待て」
総士はナプキンで口周りを拭き、テーブルにこぼれた分も手早く拭き取ると大きく息をつく。そして何事もなかったかのように眼鏡のズレをスッと直した。
「よし、続けろ」
「だからね、総士は一騎とキスをするとき、いつもどんな気持ちになるのかと思って」
「なぜしていることが前提なんだ。お前たちはしているのか?」
「してるよ。普通するでしょ?」
「普通、か」
操はきょとんとして小首を傾げる。
「しないの?」
「……普通かどうかは一概に言えない。愛情表現にも様々な形があるだろう。例えば獣型のイヌやネコには、パスツレラ症をはじめとする人獣共通感染症というものがある。唇同士が接触するような過度の触れ合いは」
「ねぇ総士ぃ、おれは総士の話が聞きたいの。それに一騎と甲洋はヒト型なんだから、病気なんか持ってないでしょ」
「……なぜ急にそんなことを聞きたがるんだ」
どこかはぐらかされているような気がしないでもない。
操の質問は、それほどまでに答えにくい類のものだったのだろうか。
「だって甲洋に言われたんだもん。来主はズレてるって」
「理解不能だ。ちゃんと順を追って話せ」
「あのね、おれと甲洋は毎日寝る前におやすみのキスをするんだよ。だけど、なぜかいつもここがドキドキして、恥ずかしくなって、しちゃいけないことしてるような気持ちになる」
操は両手を心臓の上にそっと重ねた。思いだすだけで胸が高鳴り、頬が熱くなっていくのを感じた。
「これって普通のことなのかな。みんなこんなにドキドキしながら、イヌやネコを飼ってるの?」
「……なるほど」
赤らんだ頬でほぅっと息を漏らす操を見て、総士はなにかを察した様子だった。
「おれ、甲洋をいっぱい甘やかしたい。大切にしたいんだ。だっておれたち家族になったんだもん。だけどおれは総士に対してこんなに胸が痛くなったり、苦しくなったりしたことないよ。もちろん、一騎にも」
「……甲洋はどんな様子なんだ?」
「甲洋はおれが撫でると困った顔をするし、抱っこして寝たくても嫌だって言う。恥ずかしいのかな? いつも顔が赤くなってるし……あ、もしかしてこれが反抗期!?」
「なぜそうなる?」
「だっておれは飼い主だもん。それってつまり、おれは甲洋のお父さんでお母さんってことでしょ?」
総士はやれやれと溜息をつきながらコーヒーカップに手を伸ばす。けれどすでに空になっていることに気づき、そっとテーブルの隅に寄せた。
「確かに、ズレているんだろうな」
「総士もそう思うの?」
「ああ、甲洋が気の毒だ」
「えぇ~? なんで? おれなにか間違ってる?」
テーブルに乗り出して情けない顔をする操に、総士はどこか途方に暮れたように「ここまで鈍いとはな」と呟いた。
「だが、遅かれ早かれ時間の問題のように思えてならない。せっかくだから、最後まで自分で考えてみるといい」
「そんなぁ~……考えても分かんないから聞いてるのに。ねぇ教えてよ、総士はどうなの?」
「僕は惚気話をする趣味はないんだ」
「ノロケってなに? 総士が教えてくれないなら、一騎に聞くよ」
「口止めしておく必要があるな」
「むぅー」
操が唇を尖らせ、情けなく眉をハの字にしているのを見て、総士はくすりと楽しげに笑うだけだった。そんな彼を、操はじっとりとした目で睨む。
なんだか面白がられているような気がしてしょうがない。そのどこか生温かい笑顔からは、どうしてもそんな印象を受ける。
しかしこのぶんだと、本当になにも教えてはくれなさそうだ。
「教えるもなにも、答えは出ているも同然だ。あとは早く自覚してやることだな」
総士は微笑んだままそう言って、伝票を手にすると席を立った。
*
「どお? それ美味しい?」
湯気が立ち上るマグカップを両手に操が居間に戻ると、ニュース番組を見ていた瞳がこちらに向けられた。
甲洋は食後のデザートを食べている。薄桃色のモンブランは、操が総士と会った帰りにお土産に買ってきたものだった。
「うん、美味しいよ。ちゃんと桜の味がして」
「へぇ。やっぱり二つ買えばよかったな。でもおれファミレスでパフェ食べちゃったんだよね。総士に太るぞって言われたし」
ぶぅっと唇を尖らせながらテーブルにカップを置いた。中身はほうじ茶だ。
「食べる?」
「いいの? じゃあ一口ちょうだい!」
操は目を輝かせ、胡座をかく甲洋の隣に身を乗り出すような姿勢でぺたんと座った。甲洋はフォークでモンブランの中央をこそぎ、手を添えて操の口元に運ぼうとする。
「あっ、待ってダメダメ! そこ一番いいところだから、甲洋が食べて!」
「俺はいいよ。来主が食べな」
「ダメだって! ねぇ、それ桜の塩漬けっていうんだよね? 食べたら感想聞かせて!」
モンブランの上には塩漬けにされた桜の花が可愛らしく添えられている。ショートケーキでいうところの苺のようなものだ。甲洋に食べてほしいから買ってきたのに、大事なところを操が食べてしまっては意味がない。
甲洋は小さく笑うと「わかった」と言ってフォークを口に運んだ。
綺麗な形をした薄い唇が開かれて、一瞬だけ赤い舌が覗く。しっとりと濡れて色づく桜の花が、彼の口内へと姿を消した。なんだか妙にドキドキしてしまう。
「どう?」
どこか落ち着かない気持ちで問いかけた。
「しょっぱい?」
「ん……ほんのり塩気があるくらいで、しょっぱくはないよ。香りが強くて、甘さが引き立つって感じかな」
「あ、本当だ……桜の匂いがするね」
甲洋の口の中で噛み潰された花が、飲み込まれてもなお強い香りを放っている。操は思わず顔を近づけ、クンクンと鼻を鳴らした。
「春の匂いだね」
「うん。春の匂いだ」
立ち寄ったケーキ屋のショーケースには、様々なケーキが並んでいた。苺に抹茶、チョコレートにフルーツタルト。けれどこの薄桃色をした桜のモンブランは、その中にあって最も季節を感じさせるものだった。
「来年は行きたいな、お花見。お弁当の中身、考えておかなくちゃ」
「今から?」
「そう、今から」
「気が早いよ」
甲洋が肩を揺らして笑うと、また桜の香りが濃くなった。そこに混ざって彼自身の匂いがする。それはうまく例えられるものではなくて、ただあたたかくて優しくて、切ないような気持ちにさせられるものだった。
桜の香りと、甲洋と。操の胸を締め付ける甘酸っぱい感情には、まだ名前がない。
(唇、濡れてる)
笑っている甲洋の唇がほのかに艶を帯びていた。そういえば、まだケーキを一口もらっていない。
食べたい、と思った。操は甲洋の肩に手を置いて身を寄せると、下からすくい上げるようにして口づけた。
「ッ!」
甲洋の手からフォークが落ちる。彼は一瞬だけ丸くした目をゆっくりと細め、静かにそっと睫毛を伏せた。
操の項に熱い手が触れ、襟足をくしゃりと乱される。そこから生まれた小さな痺れが、身体の芯をチリチリと焦がすように通り抜けた。
「ん、ふ……」
拙く触れ合わせるだけのキスは甘くて、むせるような桜の香りに目眩がする。
食べたい。さらに欲求が膨らんで、操は薄く柔らかな甲洋の唇をぱくんと食んでいた。歯は立てず、唇で。
「ッ、な、ぅ……っ」
驚いた甲洋が肩を跳ねさせた。唇が離れてしまうのが嫌で、操はその首に腕を回して強く引き寄せる。ちゅう、という音を立てて吸いついたところで、肩を掴まれた。
「く、来主っ、やめなって……!」
「ふぁ……? ァ……なに?」
「なに、じゃ、なくて……ッ」
とろんとした瞳で小首を傾げる。操の両肩を掴んで遠ざけた甲洋が、見たこともないくらい顔中を赤く染めていた。
まるで茹で上がったタコのようだ。いっそ首筋さえも赤い。黒い耳がぺたんとなって、微かに震えていた。
「こうよう?」
「ま、待って。ちょっと、離れて」
「なんで」
「いいから、今、まずいから」
甲洋はまるで操から身体の正面を隠すように片膝を立てた。そして手の平で額の辺りを押さえて俯く。地の底から響くような溜息を吐きだし、何も言わなくなってしまった。
心なしか、姿勢が前屈みのようになっている。
「甲洋、ねぇどうしたの……?」
「──」
「甲洋?」
操はまだどこか夢見心地だった。甲洋の様子が明らかにおかしいことと、自分がしでかしたことを結びつけられないくらい、思考が鈍りきっている。
「……今のは、ダメだろ」
それは独り言のように小さくて、泣きそうに掠れた声だった。
「だって、食べたかったんだもん」
「食べていいから。ケーキ、残り全部」
「違う。甲洋を食べたいって思った」
甲洋の肩がまた跳ねた。額を抑えていた手で、今度は耳ごと頭をガリガリと掻きだす。
操は膝立ちになって甲洋の顔をひょいと覗き込もうとした。けれど今度は完全に背中を向けられてしまう。
「今はダメだって!」
「なんでぇ? なんでそっち向いちゃうのぉ?」
急に壁を作られたような気がして、操は不満の声をあげた。すっかりこちらに背を向けている甲洋は、頭を抱えたまま石のように沈黙している。
丸くなっている背中を見つめながら、だんだん不安になってきた。
「甲洋、怒った?」
「……怒ってない」
「じゃあこっち向いてよ」
「……待って、いま素数を数えてる最中だから」
何を言っているのか分からないが、掠れた声が弱々しかった。耳は倒れたままだし、尻尾は左側に向ってヒクヒクと震えていた。怖がらせてしまったのだろうか。だとしたら大失敗だ。
だけど操自身、どうして彼を食べたいなんて思ってしまったのかが、よく分かっていなかった。ただ艶めいた唇が無性に美味しそうで。微かに感じた甲洋の匂いに胸が疼いて。気がついたら、吸い寄せられていた。
「甲洋ごめん。もう食べようとしたりなんかしないよ。ねぇ」
操は女の子のように横座りをしながら甲洋の背中に身を寄せた。手の平で背中に触れ、頬を押し当てる。甲洋はギクリと身を強張らせただけで、拒む様子は見せなかった。そのことにホッとする。
甲洋の背中は熱かった。少し鼓動が早い。操は目を閉じて、その音に耳を傾けた。
(甲洋もドキドキしてる。おれと一緒だね)
操の胸もまだ高鳴っていた。そういえば寝るとき以外にキスをしたのは、甲洋が日野家から帰ってきた日以来のことだ。
彼は二度目だと言ったが、操の体感ではあれが初めてのキスだった。
──今のは、ちゃんとキスだよ。
ふと、あのとき甲洋が言った言葉を思いだした。
あれはどういう意味だったのだろう。今まであまり深く考えたことがなかった。
(ちゃんとしたキスって、なんだろう)
例えば愛し合う男女がするようなもの、だろうか。
だけど操は人間で、甲洋はイヌで、なにより自分たちは男同士だ。だから当てはめて考えるのが良いことなのか悪いことなのか、よく分からない。
(でも、だけど……じゃあさっきのキスはなに?)
まだ寝るには早い時間だ。だからあれはおやすみの挨拶とは違う。したいと思ったからした。食べたかったから。それは、どうしてなんだろう。この気持ちはどこから来て、どこへ向かおうとしているのだろう。
ただ今の操に分かるのは、甲洋への気持ちは今まで誰にも抱いたことのない、新しい形をしているということだけだった。
──あとは早く自覚してやることだな。
(自覚? 自覚って、なにを……?)
ややしばらくしてから、甲洋が深い息を漏らしながら「よし」と言った。思考の海にふわふわと意識を漂わせていた操は、ドキリとして肩を跳ねさせる。
「……なんとか鎮まった」
「ぁ……」
甲洋が身体ごと振り向こうとする。操はなぜか焦りに駆られ、甲洋の背中に両手を押し当てながらより密着すると、額を埋めた。
「来主?」
「もうちょっと、このままがいい。だめ?」
どうしてか、今は甲洋の顔が見られそうにない。なんだか無性に恥ずかしい気持ちだ。いま顔を見たら、もっともっと恥ずかしくなってしまうような気がした。
甲洋は不思議そうな顔をしながらも「いいよ」と言って、そのまま動かなくなる。操は静かに震える息を吐き出した。
(この気持ちはなに? わかんないよ、総士)
心臓が今にも飛び出して来そうなくらい高鳴っている。自分で自分の胸に耳を押し当てているみたいに、ドキドキという大きな鼓動が頭の中にまで響き渡っていた。
大きな熱い塊を、身体の内側に無理やり閉じ込めているみたいだ。操の薄い胸では、とても抱えきれない。溢れ出してきそうな感覚が怖くて、苦しくて、少しだけ泣きくなった。
(でもこうしてると……嬉しい)
桜の香りが、まだほんのりと辺りを漂っていた。だけどそれ以上に、操に染みつく甲洋の匂いは鮮明だ。すんと鼻を鳴らして吸い込めば、春の香りは完全に消えてしまった。操の中は、甲洋だけで埋め尽くされる。
(このままひとつになれたらいいのに)
家族、友達。総士や、一騎や、今まで出会った全ての人たち。その中の誰にも抱いたことのない、特別な気持ち。怖くて、嬉しくて、切なくて、あたたかい。
この気持ちを、どう言葉にして伝えたらいいだろう。
(ねぇ、甲洋)
未熟すぎる操の心が、それを恋だと理解するのは、あとほんの少しだけ先の話だ。
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