5・宵花ノ行方
暗闇に、川のせせらぎだけが木霊する。
承太郎は茫然としながら川原の砂利を踏みしめていた。
一体なにが起こったのだろう。今の今まで花京院と男の背を追っていたはずなのに。
あと少しで、届いていたかもしれないのに。
「花京院……」
低い声で紡いだ名前を、水の流れがさらっていく。ふと顔を上げれば、視線をさらうようにして蛍が一匹、ふわりと飛んでいた。
承太郎はその淡い光に導かれるまま目で追いかけ、そして息をつめる。
そこには、川の浅瀬に足元を浸しながら佇み、狐の面でこちらを見つめる花京院の姿があった。
浴衣姿の彼は、金魚の提灯を持ってはいなかった。
代わりに、数匹の蛍が彼を囲うようにゆらゆらと飛び交っている。
顔は見えないのに、承太郎は彼がまた幾らか歳を重ねていることを漠然と悟った。
今の花京院は、おそらく承太郎と同じ大人の男の姿をしている。
「ここがゴールか? 花京院」
長い長い夢の終わりが、ここに訪れようとしているのか。
花京院は何も言わなかった。ただ小さく首を傾げ、クスリと笑った。
承太郎は一歩一歩、浅瀬へ向かって砂利を踏み鳴らす。靴が水に浸るのも構わず、花京院の傍へと歩み寄った。
向き合うと、彼はまた笑った。
「やっと会えたね」
「ああ」
「遅いよ、承太郎」
「花京院……」
承太郎は下唇を噛み締め、瞼を閉じると俯いた。一度大きく息をつき、再び花京院を見下ろす。
「守れなかった。おまえとの約束を」
「そんなことはないさ。君はこうして、ぼくに会いに来てくれたじゃないか」
「おれは」
許されたいだけだ。
都合のいい夢を見て、幻を作り上げて、終わらせようとしているにすぎない。
花京院のいない日々はただ色を失くし、思い出さえも月輪のように朧がかるばかりだった。
時が経つほどに風化する想いに罪悪感を募らせ、諦めと後悔を繰り返す日々に囚われたまま、身動きが取れなかった。
いつしか故郷を離れ、足が遠のき、忘れたいと願いながら、それでも心は求めることを止められなくて。
「おまえと共にいきたかった。いつまでもずっと。だが、どこにもいやがらねえ。探しても探しても、てめーは見つからないままだった」
花京院の手が承太郎の頬を包み込む。いつの間に泣いていたのだろう。
触れられるまで、涙を流していたことに気がつかなかった。
「君がたくさん後悔したことを、ぼくは知っているよ。いつだって自分を責めてばかりいたことを」
滲む視界に、狐の面がぼやけていく。
「だけどもう、そんな必要はないんだと言いたくて」
「花京院……」
「そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ」
そっと、白い指先が承太郎の目元を拭う。
小さく柔らかだったそれは、骨ばった男のものになっていた。
それでも綺麗だと思った。彼の指は細く繊細なままで、何より優しかった。
「承太郎、こんな風に縛られていては駄目だ。前を向いて歩かなくては」
そっと、指先が離れていった。
花京院は一歩二歩と、後退していく。そのまま蛍の儚げな光と共に消えてしまいそうで、承太郎は手を伸ばすと宙に浮いたままの手を取った。
浴衣に包まれた肩が、小さく揺れる。
その顔が、見たいと思った。
彼は今、泣いているのだろうか。それとも、笑っているのだろうか。
初めて神社で言葉を交わした日を思い出す。花京院が見せた笑顔を、かくれんぼをした日の、あの泣き顔を。
そのどちらも承太郎にとって大切な記憶だった。
だから今この瞬間、彼がどんな顔をしているのかを知りたいと思った。この目に焼き付けて、決して忘れないように。
もう片方の手を伸ばし、そっと狐の面に触れた。花京院は動かない。物言わぬ狐の瞳は、怒っているようにも、泣いているようにも、笑っているようにも見える。
承太郎はその狐の面を
『選択肢』
外すことができなかった。
ゆっくりと外した。
←戻る
暗闇に、川のせせらぎだけが木霊する。
承太郎は茫然としながら川原の砂利を踏みしめていた。
一体なにが起こったのだろう。今の今まで花京院と男の背を追っていたはずなのに。
あと少しで、届いていたかもしれないのに。
「花京院……」
低い声で紡いだ名前を、水の流れがさらっていく。ふと顔を上げれば、視線をさらうようにして蛍が一匹、ふわりと飛んでいた。
承太郎はその淡い光に導かれるまま目で追いかけ、そして息をつめる。
そこには、川の浅瀬に足元を浸しながら佇み、狐の面でこちらを見つめる花京院の姿があった。
浴衣姿の彼は、金魚の提灯を持ってはいなかった。
代わりに、数匹の蛍が彼を囲うようにゆらゆらと飛び交っている。
顔は見えないのに、承太郎は彼がまた幾らか歳を重ねていることを漠然と悟った。
今の花京院は、おそらく承太郎と同じ大人の男の姿をしている。
「ここがゴールか? 花京院」
長い長い夢の終わりが、ここに訪れようとしているのか。
花京院は何も言わなかった。ただ小さく首を傾げ、クスリと笑った。
承太郎は一歩一歩、浅瀬へ向かって砂利を踏み鳴らす。靴が水に浸るのも構わず、花京院の傍へと歩み寄った。
向き合うと、彼はまた笑った。
「やっと会えたね」
「ああ」
「遅いよ、承太郎」
「花京院……」
承太郎は下唇を噛み締め、瞼を閉じると俯いた。一度大きく息をつき、再び花京院を見下ろす。
「守れなかった。おまえとの約束を」
「そんなことはないさ。君はこうして、ぼくに会いに来てくれたじゃないか」
「おれは」
許されたいだけだ。
都合のいい夢を見て、幻を作り上げて、終わらせようとしているにすぎない。
花京院のいない日々はただ色を失くし、思い出さえも月輪のように朧がかるばかりだった。
時が経つほどに風化する想いに罪悪感を募らせ、諦めと後悔を繰り返す日々に囚われたまま、身動きが取れなかった。
いつしか故郷を離れ、足が遠のき、忘れたいと願いながら、それでも心は求めることを止められなくて。
「おまえと共にいきたかった。いつまでもずっと。だが、どこにもいやがらねえ。探しても探しても、てめーは見つからないままだった」
花京院の手が承太郎の頬を包み込む。いつの間に泣いていたのだろう。
触れられるまで、涙を流していたことに気がつかなかった。
「君がたくさん後悔したことを、ぼくは知っているよ。いつだって自分を責めてばかりいたことを」
滲む視界に、狐の面がぼやけていく。
「だけどもう、そんな必要はないんだと言いたくて」
「花京院……」
「そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ」
そっと、白い指先が承太郎の目元を拭う。
小さく柔らかだったそれは、骨ばった男のものになっていた。
それでも綺麗だと思った。彼の指は細く繊細なままで、何より優しかった。
「承太郎、こんな風に縛られていては駄目だ。前を向いて歩かなくては」
そっと、指先が離れていった。
花京院は一歩二歩と、後退していく。そのまま蛍の儚げな光と共に消えてしまいそうで、承太郎は手を伸ばすと宙に浮いたままの手を取った。
浴衣に包まれた肩が、小さく揺れる。
その顔が、見たいと思った。
彼は今、泣いているのだろうか。それとも、笑っているのだろうか。
初めて神社で言葉を交わした日を思い出す。花京院が見せた笑顔を、かくれんぼをした日の、あの泣き顔を。
そのどちらも承太郎にとって大切な記憶だった。
だから今この瞬間、彼がどんな顔をしているのかを知りたいと思った。この目に焼き付けて、決して忘れないように。
もう片方の手を伸ばし、そっと狐の面に触れた。花京院は動かない。物言わぬ狐の瞳は、怒っているようにも、泣いているようにも、笑っているようにも見える。
承太郎はその狐の面を
『選択肢』
外すことができなかった。
ゆっくりと外した。
←戻る
4・隠れ鬼
「かくれんぼは、おれの負けだったな」
蛍の儚い光を見つめ、承太郎は独り言のように呟いた。
在りし日の遠い記憶。花京院がいて、自分がいて、手を繋いで歩いた夕焼け空の下。
強く願い、そして誓った約束を、果たすことはできなかった。
彼を失えば、生きていけないとすら思った。それでも承太郎は生きている。死んだように、ただ生き続けていた。
身体の半分を失ったみたいに、心が大きく欠けたまま。
「おまえを置いて、おれは大人になっちまったぜ」
花京院は、いつの間にか承太郎から遠く離れていた。
金魚の提灯を揺らめかせながら、変わらぬ装いでいる彼は、また少し大きくなっていた。
承太郎はもう驚かない。彼の背がすらりと伸びて、高校生ほどの姿に成長していても。
(これは、夢だからな)
花京院が存在しているのなら、いっそ夢でも構わないと思った。
けれど承太郎は、どこまで行っても10歳までの彼の姿しか知らない。
だからこれは幻だ。墨色に満ちた、暗い、冥いこの世界は承太郎が作り出した夢の国で、目の前の光景が全て作り物であることを知っている
見ることの叶わなかった、彼が大人の姿へと移り変わっていく光景は、あくまでも承太郎が思い描く想像でしかないのだ。
「降参だ、花京院」
――おまえは今、どこにいる?
もう分かっている。
彼はどこにもいない。だけど知りたかった。引導を渡してほしかった。
どこかで諦めるキッカケが欲しかったのだと思う。
だけど無情にも、花京院の幻は首を横に振った。
「かくれんぼは、まだ終わってないよ」
声は低く、大人の男のそれだった。
もうどこにも幼さの欠片も見当たらない。その変化に、胸を抉られるような気がした。承太郎の知らない花京院。同じ時を共有していた幼き日の彼は、失われてしまった。なのに愛しさだけは何ひとつ変わらぬままで、承太郎の中に在り続ける。
「花京院……」
「さあ、祭の時間だよ、承太郎」
花京院が、そのスラリと長い両腕を大きく開いた瞬間だった。
闇の世界が、大きく音を立ててひび割れる。
「ッ!?」
バラバラと崩れていく景色の中、承太郎の身体にざわりと鳥肌が立つ。
そして全てが一瞬のうちに移り変わった。
承太郎は鳥居の真下に立ち尽くしていた。
目の前には多くの人々が行き交い、社殿へと続く石畳に沿って露店が軒を連ねている。
そこは祭囃子と、人々の熱気で満ちていた。
「なんだ……これは……?」
煌々と輝きながら連なる提灯の下、浴衣を着た人々が承太郎の身体を通り抜けていく。擦れ違うのではない。文字通り、空気のように擦り抜けるのだ。
まるで幽霊にでもなった気分だった。誰も彼もが金魚すくいや射的などといった娯楽に興じる中、承太郎の姿が見えているものは一人もいない。
水風船と綿飴を手に、ヒーロー物のお面をつけた子供たちの一団が、はしゃいだ声をあげながら走り抜けていく。
喧騒の中に花京院の姿は見当たらない。たった今まで目の前にいたはずなのに。
そのとき。
『もういいよ! 承太郎のバカッ!』
声が、した。
「ッ!?」
承太郎は息を呑み、声のした方向へと視線を走らせる。
そこには10歳の自分と、花京院の姿があった。
承太郎は青い甚平姿で、花京院はあの緑色の浴衣を着て。二人がいるのは手作り雑貨を並べ立てる出店の前だった。
髪飾りや腕輪などといったアクセサリーをはじめ、ちりめん風の和雑貨などが所狭しと並んでいる。
花京院は浴衣に包まれた華奢な肩を怒らせて、眉を吊り上げていた。
それを見つめる幼い自分は、困ったように顔を顰めている。
『てめーなぁ、それ分かってんのか? ピアスだぜ。耳に穴開けるんだぜ』
『別に自分でつけたいわけじゃないよ! ただ飾っておきたいだけだ!』
『ああそうかい分かったよ。勝手にしろ。ただ、買い物は後だぜ。早くしねーともう神楽が始まっちまうんだ』
『売り切れたらどうするんだ! こんなに可愛いんだぞッ!』
言い争う二人の少年を茫然と眺めながら、承太郎はようやく状況を飲み込むことができた。
これは、過去だ。
今目の前で繰り広げられている光景は、まさに10年前のものだった。それは全ての命運を分けた瞬間でもある。
承太郎の胸に、どうしようもない絶望とジレンマが込み上げた。
あの日を再現して見せようというのか。かけがえのないただ一つの輝きを失った、愚かな幼き自分の姿を。
このとき、二人は母の神楽を見るために先を急いでいたはずだった。
最前列で見たいからと他の店には脇目もふらず向かっていたが、花京院がふとこの場所で足を止めた。
雑貨屋には、チェリーの赤い実を模したピアスが飾られていた。彼はその輝きに目を奪われ、そこから動かなくなってしまったのだ。
承太郎はどうにかして花京院の興味を逸らそうとして焦っていた。早くしないと間に合わない。せっかく母が巫女として選ばれたのだ。花京院だって楽しみにしていたはずなのに。
今にして思えば、ちょっとした買い物をする程度の時間くらい、十分にあったはずだ。けれどこのときの承太郎はとにかく気が急いていて、余裕がなかった。
花京院もまた、少し意地になっているように見える。
『そうかよ、じゃあもう知らねえぞ! おれは先に行ってるからなッ!』
承太郎は幼い自分の言葉を聞いて、痛みを堪えるように目を伏せた。
走り去っていく足音が、後悔となって胸を貫く。
このとき、なぜ傍にいてやらなかったのだろう。なぜ、離れてしまったのだろう。
たった今繰り広げられた光景が、二人を別つ結果をもたらしたというのに。
「もういい……頼む、もう許してくれ、花京院……ッ」
気づけば膝から崩れ落ちていた。
責められているのだと感じた。片時も忘れることは許さないと。けれど、これ以上見続けることは耐えられそうにない。
だけどふと思った。このまま目をそらさずにいれば、花京院の身に何が起こったのかを知ることができるのではないかと。
承太郎は大きく喉を鳴らしながら、視線を再び雑貨屋の前に走らせた。
花京院は去っていく承太郎の背を見つめ、少し泣きそうに唇を噛み締めていた。それからすぐに目当てのピアスに視線を戻し、じっと見つめる。
彼はしばらくずっとそうしていたが、結局ピアスは買わずに店を離れてしまった。
花京院はどういうわけか祭の会場に背を向け、承太郎の身体を擦り抜けて鳥居をくぐると石段を下りはじめた。
「おい、どこへ行く? 神楽はあっちだぜッ!」
届かないと知りつつ、声を発しながらその背を追った。
石段を降りるほどに太鼓の音色や騒がしい人の声が遠ざかる。一番下に到達する頃には、どこか祭の後の寂しささえ感じられた。カエルの大合唱だけが、申し訳程度に設置された街灯が照らす道にこだまする。
花京院は足を止めると、遥か先の鳥居と提灯の光を見上げた。
「花京院、早く戻れ。おれはな、別に怒っちゃいねえんだ。てめーだってそうだろ」
『承太郎のバカ』
「花京院……」
ああ、そうか。
このとき、承太郎は気づいてしまった。
彼は、待っていたのだ。
本当に置いて行かれるとは思わなくて、そのまま、戻って来ないとは思わなくて。追いかけて来てくれるのではと期待して、こうして足を止めていた。
見なければよかった。
承太郎は花京院を追ったことを後悔した。
この石段の先では、そろそろ神楽が始まっている頃だ。
あのとき、自分は花京院は必ずどこかで母の晴れ舞台を見ているのだと信じていた。並んで見ることはできなかったが、あんなにも楽しみにしていたのだから。
あのピアスを買ったあとすぐに駆けつけて、近くで見ているに違いないと。
母の神楽はとても綺麗だった。艶やかな衣を纏い、天女のように舞い踊っていた。太鼓と笛の音に乗せて、母は今まで見て来たどんなものより美しく輝いて見えた。
花京院も同じ気持ちでいるに違いない。このあと顔を合わせたら、興奮に頬を赤く染めながら笑顔を見せてくれるだろうと。
そうしたら、すぐに置いて行ってしまったことを謝ろう。赤いピアスを近くで見せてもらおう。金魚すくいやヨーヨーすくいをして遊んで、綿飴を買って、母の分の焼きそばやたこ焼きも買って、家で三人で食べよう。
そう思っていた。
だけど花京院はどこにもいなかった。
美しい巫女の舞に人々の歓声が冷めやらぬ中、承太郎はその姿を必死で探した。
もしやまだあの雑貨店にいるのかと思ったが、そこに姿はなく、赤いピアスも売れ残っていた。承太郎はすぐに財布を取り出し、そのピアスを買った。小学生に500円は少々痛かったが、売り切れてしまったらきっと花京院はガッカリするだろう。
もしかしたら臍を曲げて隠れているのかもしれない彼にこれを渡せば、すぐに機嫌がなおるだろうと。
「花京院、おれは絶対に戻って来る。てめーが欲しがってたピアスを買って、必ず探しに来るんだぜ。だから」
承太郎の声は、届かない。
花京院は唇を尖らせて、焼き下駄を履いた足をぶらぶらとさせながら歩き出してしまった。無駄と知りつつ手を伸ばし、その名を呼ぶ。
「おい花京院ッ!」
そのとき、承太郎の身体を擦り抜けて何者かが姿を現した。
『君、この辺の子かな?』
「!?」
それは見たことのない、若い男だった。今の承太郎と同じくらいか、少し上だろうか。ワイシャツとジーンズ姿の学生風の男に声をかけられ、花京院は足を止めると振り向いた。
「誰だてめーは」
『僕は観光客なんだけど、暗くて道に迷ってしまったんだ』
「おい花京院、構うんじゃねえぞ」
『この近くに小さな宿が一軒あるはずなんだけど……君、知らない?』
男は子供の目線に合わせるように膝を曲げ、首を傾げながら優しげな笑顔を見せた。
花京院は警戒しているようで、一歩後退ると「知りません」と言って、すぐに立ち去ろうとする。
賢い対応にホッと胸を撫で下ろしかけたが、男はすかさず手を伸ばし、細い二の腕を掴んだ。
「てめー……ッ!」
一瞬で頭に血がのぼった承太郎は、男に掴みかかろうとした。だが、誰も承太郎に触れられないのと同じく、承太郎の腕も相手の身体を擦り抜けてしまう。
(くそッ!)
目の前が赤く染まるようだった。自分がどんなに伸ばしても届かない手で、この男はやすやすと花京院に触れてしまう。
承太郎は確信していた。こいつだ。この男だ。違いない。この男が。
花京院を――。
『は、離して』
『お願いだよ。とても具合が悪いんだ。宿泊先に薬を置いてきちゃったんだよ』
男の演技がかった物言いは、大人であればすぐに身破れるほどの胡散臭さだった。だけど花京院はようやく10歳になったばかりの子供だ。
強張らせていた身を僅かに解いて、上目使いに男を見上げた。その探るような瞳に迷いの色が生じているのを悟り、承太郎の絶望感に拍車がかかる。
『……お兄さん、どこか悪いの?』
「聞くな花京院! そいつの言うことは全部嘘だッ!!」
『うん。病気なんだ。身体があまり丈夫じゃなくてさ』
『……わかった』
「花京院ッ!!」
承太郎の叫びも虚しく、花京院は男に向かって「こっちだよ」と言うと男の手を引いて歩き出した。
承太郎もすぐにその後を追おうとした。だが、そこでまた不可思議な現象が起きた。
どれほど足を前に進めても、先を行く二人に追いつけないのだ。
(なんだ? どういうことだ?)
承太郎は必死で足を前に進めるが、なぜか距離は離されていくばかりだった。まるで蜃気楼を追いかけているかのように、どれほど行っても二人の背中が遠い場所にある。
「ダメだ、行くなッ! 行くんじゃねぇッ!!」
声を振り絞りながら、承太郎は走り続けた。見えない何かが、ぴったりと背に張り付こうとしているような恐怖と焦燥感が、承太郎の四肢を凍らせていく。
『ありがとう。優しいね。名前はなんていうの?』
『花京院典明、です』
『典明くんか、何歳?』
『10歳』
『へぇ~、可愛いね。お祭には一人で来たの?』
『……違うけど』
男は気色の悪い猫なで声で花京院の警戒心を解しにかかっている。
生真面目な彼は男の問いかけに律儀に答えてやっていた。
『もしかして、友達とケンカでもしたのかな?』
『……なんでわかるの?』
花京院は男を見上げると目を見開いた。
『寂しそうだったからさ。何か酷いことでもされた?』
『……されてない。ぼくが我儘を言ってしまっただけ』
『そうなんだ。ちゃんと仲直りできるといいね』
『うん……』
慰めの声をかけながら、男は握っていた花京院の手をさらに強く握って引き寄せた。
驚いた花京院が顔を上げると「迷子にならないように、もっとくっつこう」と言う。
田舎道の数少ない街灯が点滅していた。承太郎からは男がどんな顔をしているかまでは分からない。だが花京院は何かしら感じるものがあったのか、その小さな身体を強張らせた。咄嗟に手を振りほどこうとするが、子供が大人の力に敵うはずがなかった。
男は花京院を引きずるようにして、歩いて来た道から外れると細い脇道に入って行く。
『こ、こっちは、違う。民宿はずっと向こうの、田んぼの先だよ』
『いいんだよ。大丈夫だから』
左右を鬱蒼とした木々と茂みに遮られた小道は、街灯のひとつもありはしない。ただ空に浮かぶ丸い月だけが辺りを薄ぼんやりと青く照らしているだけだった。
承太郎が行くな行くなと念じるほどに、花京院は身を震わせはじめる。
『イヤだ……そっちには行きたくない……!』
『いい子だからさ、大人しくしてろよ。ちょっと遊ぶだけだって』
『おまえなんかとは遊ばないッ!!』
「花京院……ッ」
過ぎた時間は戻らない。失くしたものは取り戻せない。この光景は過去のもので、なにもかも終わってしまったことだ。実際の光景かどうかだって怪しい。
分かっている。自分はこうして見ていることしかできないのだということを。
だけど足掻かずにはいられなかった。失いたくない。この手で守れるのなら、なんだってする。
承太郎は手の平に爪が食い込むほど強く拳を握った。怒りで頭がどうにかなりそうだった。この男は絶対に許さない。
殺してやる。
『イッテェ!!』
その瞬間、男の口から悲鳴が上がった。
目を見張る承太郎の眼前では、男の腕にしがみつくようにして、花京院が思い切りその手首に歯を立てていた。
『こんのクソガキッ!!』
男は悪態をつきながら表情を歪め、堪らず小さな身体を引き剥がすと地面へ投げ飛ばした。
整備されていない道に叩きつけられた花京院の腕や膝小僧が、小石や土に削られて血を流す。
「花京院! そのまま逃げろッ!!」
まるで承太郎の言葉が届いたかのように、花京院は痛む身体で立ち上がると走り出した。男は頭に血を上らせながら、当然それを追いかける。
『待てこのガキが!』
花京院は何度も転びそうになりながら、必死で夜の小道を駆け抜ける。だが、その歩幅の違いから男が追い付くのは時間の問題だった。証拠に、男はわざと一定の距離を保って花京院の背を追い上げている。
『ほらほら、早く逃げないと捕まえちゃうぞ~?』
どこまでも胸糞の悪い野郎だ。承太郎は己の無力さを噛み締めながらも憎悪を募らせる。
早く、早く、早く。頼むから早く逃げてくれ。どうにもならないことを理解していてなお、願わずにいられない。
花京院は息を切らし、肩を大きく上下させていた。あきらかに体力が限界を迎えようとしているのが分かる。
『ッ!!』
ついに花京院は足を縺れさせて派手に転んだ。その拍子に下駄が片方、脱げてしまう。
「花京院ッ!!」
『あ~、可哀想に、大丈夫?』
『……ッ』
楽しそうな声で、歌うように男が問いかけた。
花京院は半身を起こすと青褪めた表情で辺りを見回し、足を引きずりながらどうにか立ち上がると、すぐ側の茂みに分け入るようにして身体を潜り込ませた。
よろよろとした足取りで木々を縫い、そのまま山の中へ入っていこうとする。
男は余裕の態度を崩さなかった。すぐにでも捕まえられる距離に獲物がいて、しかもますますひと気のない場所へ自ら進んで行こうとしてるのだ。卑下た笑みを浮かべながら、同じく茂みに足を踏み入れるのがハッキリと見える。
「待てッ! 待ちやがれ……ッ!!」
行かせてなるものかと、承太郎は力の限り手を伸ばす。
全身に感覚はなく、自分がまともに走れているのかさえ分からない。それでも構わなかった。
守らなければならない。傷つきながら、小さな身体を恐怖に支配されている、あの子供を。幼い自分が、守れなかった彼を。
失くしたくない。取り戻したい。
ずっと共に生きていくのだと、黄昏に描いた未来を。
交わした約束を。
「花京院ッ!!」
承太郎の手が茂みに届く。
それを一気に掻き分けた、その瞬間。
世界が、再び闇に閉ざされた。
←戻る ・ 次へ→
「かくれんぼは、おれの負けだったな」
蛍の儚い光を見つめ、承太郎は独り言のように呟いた。
在りし日の遠い記憶。花京院がいて、自分がいて、手を繋いで歩いた夕焼け空の下。
強く願い、そして誓った約束を、果たすことはできなかった。
彼を失えば、生きていけないとすら思った。それでも承太郎は生きている。死んだように、ただ生き続けていた。
身体の半分を失ったみたいに、心が大きく欠けたまま。
「おまえを置いて、おれは大人になっちまったぜ」
花京院は、いつの間にか承太郎から遠く離れていた。
金魚の提灯を揺らめかせながら、変わらぬ装いでいる彼は、また少し大きくなっていた。
承太郎はもう驚かない。彼の背がすらりと伸びて、高校生ほどの姿に成長していても。
(これは、夢だからな)
花京院が存在しているのなら、いっそ夢でも構わないと思った。
けれど承太郎は、どこまで行っても10歳までの彼の姿しか知らない。
だからこれは幻だ。墨色に満ちた、暗い、冥いこの世界は承太郎が作り出した夢の国で、目の前の光景が全て作り物であることを知っている
見ることの叶わなかった、彼が大人の姿へと移り変わっていく光景は、あくまでも承太郎が思い描く想像でしかないのだ。
「降参だ、花京院」
――おまえは今、どこにいる?
もう分かっている。
彼はどこにもいない。だけど知りたかった。引導を渡してほしかった。
どこかで諦めるキッカケが欲しかったのだと思う。
だけど無情にも、花京院の幻は首を横に振った。
「かくれんぼは、まだ終わってないよ」
声は低く、大人の男のそれだった。
もうどこにも幼さの欠片も見当たらない。その変化に、胸を抉られるような気がした。承太郎の知らない花京院。同じ時を共有していた幼き日の彼は、失われてしまった。なのに愛しさだけは何ひとつ変わらぬままで、承太郎の中に在り続ける。
「花京院……」
「さあ、祭の時間だよ、承太郎」
花京院が、そのスラリと長い両腕を大きく開いた瞬間だった。
闇の世界が、大きく音を立ててひび割れる。
「ッ!?」
バラバラと崩れていく景色の中、承太郎の身体にざわりと鳥肌が立つ。
そして全てが一瞬のうちに移り変わった。
承太郎は鳥居の真下に立ち尽くしていた。
目の前には多くの人々が行き交い、社殿へと続く石畳に沿って露店が軒を連ねている。
そこは祭囃子と、人々の熱気で満ちていた。
「なんだ……これは……?」
煌々と輝きながら連なる提灯の下、浴衣を着た人々が承太郎の身体を通り抜けていく。擦れ違うのではない。文字通り、空気のように擦り抜けるのだ。
まるで幽霊にでもなった気分だった。誰も彼もが金魚すくいや射的などといった娯楽に興じる中、承太郎の姿が見えているものは一人もいない。
水風船と綿飴を手に、ヒーロー物のお面をつけた子供たちの一団が、はしゃいだ声をあげながら走り抜けていく。
喧騒の中に花京院の姿は見当たらない。たった今まで目の前にいたはずなのに。
そのとき。
『もういいよ! 承太郎のバカッ!』
声が、した。
「ッ!?」
承太郎は息を呑み、声のした方向へと視線を走らせる。
そこには10歳の自分と、花京院の姿があった。
承太郎は青い甚平姿で、花京院はあの緑色の浴衣を着て。二人がいるのは手作り雑貨を並べ立てる出店の前だった。
髪飾りや腕輪などといったアクセサリーをはじめ、ちりめん風の和雑貨などが所狭しと並んでいる。
花京院は浴衣に包まれた華奢な肩を怒らせて、眉を吊り上げていた。
それを見つめる幼い自分は、困ったように顔を顰めている。
『てめーなぁ、それ分かってんのか? ピアスだぜ。耳に穴開けるんだぜ』
『別に自分でつけたいわけじゃないよ! ただ飾っておきたいだけだ!』
『ああそうかい分かったよ。勝手にしろ。ただ、買い物は後だぜ。早くしねーともう神楽が始まっちまうんだ』
『売り切れたらどうするんだ! こんなに可愛いんだぞッ!』
言い争う二人の少年を茫然と眺めながら、承太郎はようやく状況を飲み込むことができた。
これは、過去だ。
今目の前で繰り広げられている光景は、まさに10年前のものだった。それは全ての命運を分けた瞬間でもある。
承太郎の胸に、どうしようもない絶望とジレンマが込み上げた。
あの日を再現して見せようというのか。かけがえのないただ一つの輝きを失った、愚かな幼き自分の姿を。
このとき、二人は母の神楽を見るために先を急いでいたはずだった。
最前列で見たいからと他の店には脇目もふらず向かっていたが、花京院がふとこの場所で足を止めた。
雑貨屋には、チェリーの赤い実を模したピアスが飾られていた。彼はその輝きに目を奪われ、そこから動かなくなってしまったのだ。
承太郎はどうにかして花京院の興味を逸らそうとして焦っていた。早くしないと間に合わない。せっかく母が巫女として選ばれたのだ。花京院だって楽しみにしていたはずなのに。
今にして思えば、ちょっとした買い物をする程度の時間くらい、十分にあったはずだ。けれどこのときの承太郎はとにかく気が急いていて、余裕がなかった。
花京院もまた、少し意地になっているように見える。
『そうかよ、じゃあもう知らねえぞ! おれは先に行ってるからなッ!』
承太郎は幼い自分の言葉を聞いて、痛みを堪えるように目を伏せた。
走り去っていく足音が、後悔となって胸を貫く。
このとき、なぜ傍にいてやらなかったのだろう。なぜ、離れてしまったのだろう。
たった今繰り広げられた光景が、二人を別つ結果をもたらしたというのに。
「もういい……頼む、もう許してくれ、花京院……ッ」
気づけば膝から崩れ落ちていた。
責められているのだと感じた。片時も忘れることは許さないと。けれど、これ以上見続けることは耐えられそうにない。
だけどふと思った。このまま目をそらさずにいれば、花京院の身に何が起こったのかを知ることができるのではないかと。
承太郎は大きく喉を鳴らしながら、視線を再び雑貨屋の前に走らせた。
花京院は去っていく承太郎の背を見つめ、少し泣きそうに唇を噛み締めていた。それからすぐに目当てのピアスに視線を戻し、じっと見つめる。
彼はしばらくずっとそうしていたが、結局ピアスは買わずに店を離れてしまった。
花京院はどういうわけか祭の会場に背を向け、承太郎の身体を擦り抜けて鳥居をくぐると石段を下りはじめた。
「おい、どこへ行く? 神楽はあっちだぜッ!」
届かないと知りつつ、声を発しながらその背を追った。
石段を降りるほどに太鼓の音色や騒がしい人の声が遠ざかる。一番下に到達する頃には、どこか祭の後の寂しささえ感じられた。カエルの大合唱だけが、申し訳程度に設置された街灯が照らす道にこだまする。
花京院は足を止めると、遥か先の鳥居と提灯の光を見上げた。
「花京院、早く戻れ。おれはな、別に怒っちゃいねえんだ。てめーだってそうだろ」
『承太郎のバカ』
「花京院……」
ああ、そうか。
このとき、承太郎は気づいてしまった。
彼は、待っていたのだ。
本当に置いて行かれるとは思わなくて、そのまま、戻って来ないとは思わなくて。追いかけて来てくれるのではと期待して、こうして足を止めていた。
見なければよかった。
承太郎は花京院を追ったことを後悔した。
この石段の先では、そろそろ神楽が始まっている頃だ。
あのとき、自分は花京院は必ずどこかで母の晴れ舞台を見ているのだと信じていた。並んで見ることはできなかったが、あんなにも楽しみにしていたのだから。
あのピアスを買ったあとすぐに駆けつけて、近くで見ているに違いないと。
母の神楽はとても綺麗だった。艶やかな衣を纏い、天女のように舞い踊っていた。太鼓と笛の音に乗せて、母は今まで見て来たどんなものより美しく輝いて見えた。
花京院も同じ気持ちでいるに違いない。このあと顔を合わせたら、興奮に頬を赤く染めながら笑顔を見せてくれるだろうと。
そうしたら、すぐに置いて行ってしまったことを謝ろう。赤いピアスを近くで見せてもらおう。金魚すくいやヨーヨーすくいをして遊んで、綿飴を買って、母の分の焼きそばやたこ焼きも買って、家で三人で食べよう。
そう思っていた。
だけど花京院はどこにもいなかった。
美しい巫女の舞に人々の歓声が冷めやらぬ中、承太郎はその姿を必死で探した。
もしやまだあの雑貨店にいるのかと思ったが、そこに姿はなく、赤いピアスも売れ残っていた。承太郎はすぐに財布を取り出し、そのピアスを買った。小学生に500円は少々痛かったが、売り切れてしまったらきっと花京院はガッカリするだろう。
もしかしたら臍を曲げて隠れているのかもしれない彼にこれを渡せば、すぐに機嫌がなおるだろうと。
「花京院、おれは絶対に戻って来る。てめーが欲しがってたピアスを買って、必ず探しに来るんだぜ。だから」
承太郎の声は、届かない。
花京院は唇を尖らせて、焼き下駄を履いた足をぶらぶらとさせながら歩き出してしまった。無駄と知りつつ手を伸ばし、その名を呼ぶ。
「おい花京院ッ!」
そのとき、承太郎の身体を擦り抜けて何者かが姿を現した。
『君、この辺の子かな?』
「!?」
それは見たことのない、若い男だった。今の承太郎と同じくらいか、少し上だろうか。ワイシャツとジーンズ姿の学生風の男に声をかけられ、花京院は足を止めると振り向いた。
「誰だてめーは」
『僕は観光客なんだけど、暗くて道に迷ってしまったんだ』
「おい花京院、構うんじゃねえぞ」
『この近くに小さな宿が一軒あるはずなんだけど……君、知らない?』
男は子供の目線に合わせるように膝を曲げ、首を傾げながら優しげな笑顔を見せた。
花京院は警戒しているようで、一歩後退ると「知りません」と言って、すぐに立ち去ろうとする。
賢い対応にホッと胸を撫で下ろしかけたが、男はすかさず手を伸ばし、細い二の腕を掴んだ。
「てめー……ッ!」
一瞬で頭に血がのぼった承太郎は、男に掴みかかろうとした。だが、誰も承太郎に触れられないのと同じく、承太郎の腕も相手の身体を擦り抜けてしまう。
(くそッ!)
目の前が赤く染まるようだった。自分がどんなに伸ばしても届かない手で、この男はやすやすと花京院に触れてしまう。
承太郎は確信していた。こいつだ。この男だ。違いない。この男が。
花京院を――。
『は、離して』
『お願いだよ。とても具合が悪いんだ。宿泊先に薬を置いてきちゃったんだよ』
男の演技がかった物言いは、大人であればすぐに身破れるほどの胡散臭さだった。だけど花京院はようやく10歳になったばかりの子供だ。
強張らせていた身を僅かに解いて、上目使いに男を見上げた。その探るような瞳に迷いの色が生じているのを悟り、承太郎の絶望感に拍車がかかる。
『……お兄さん、どこか悪いの?』
「聞くな花京院! そいつの言うことは全部嘘だッ!!」
『うん。病気なんだ。身体があまり丈夫じゃなくてさ』
『……わかった』
「花京院ッ!!」
承太郎の叫びも虚しく、花京院は男に向かって「こっちだよ」と言うと男の手を引いて歩き出した。
承太郎もすぐにその後を追おうとした。だが、そこでまた不可思議な現象が起きた。
どれほど足を前に進めても、先を行く二人に追いつけないのだ。
(なんだ? どういうことだ?)
承太郎は必死で足を前に進めるが、なぜか距離は離されていくばかりだった。まるで蜃気楼を追いかけているかのように、どれほど行っても二人の背中が遠い場所にある。
「ダメだ、行くなッ! 行くんじゃねぇッ!!」
声を振り絞りながら、承太郎は走り続けた。見えない何かが、ぴったりと背に張り付こうとしているような恐怖と焦燥感が、承太郎の四肢を凍らせていく。
『ありがとう。優しいね。名前はなんていうの?』
『花京院典明、です』
『典明くんか、何歳?』
『10歳』
『へぇ~、可愛いね。お祭には一人で来たの?』
『……違うけど』
男は気色の悪い猫なで声で花京院の警戒心を解しにかかっている。
生真面目な彼は男の問いかけに律儀に答えてやっていた。
『もしかして、友達とケンカでもしたのかな?』
『……なんでわかるの?』
花京院は男を見上げると目を見開いた。
『寂しそうだったからさ。何か酷いことでもされた?』
『……されてない。ぼくが我儘を言ってしまっただけ』
『そうなんだ。ちゃんと仲直りできるといいね』
『うん……』
慰めの声をかけながら、男は握っていた花京院の手をさらに強く握って引き寄せた。
驚いた花京院が顔を上げると「迷子にならないように、もっとくっつこう」と言う。
田舎道の数少ない街灯が点滅していた。承太郎からは男がどんな顔をしているかまでは分からない。だが花京院は何かしら感じるものがあったのか、その小さな身体を強張らせた。咄嗟に手を振りほどこうとするが、子供が大人の力に敵うはずがなかった。
男は花京院を引きずるようにして、歩いて来た道から外れると細い脇道に入って行く。
『こ、こっちは、違う。民宿はずっと向こうの、田んぼの先だよ』
『いいんだよ。大丈夫だから』
左右を鬱蒼とした木々と茂みに遮られた小道は、街灯のひとつもありはしない。ただ空に浮かぶ丸い月だけが辺りを薄ぼんやりと青く照らしているだけだった。
承太郎が行くな行くなと念じるほどに、花京院は身を震わせはじめる。
『イヤだ……そっちには行きたくない……!』
『いい子だからさ、大人しくしてろよ。ちょっと遊ぶだけだって』
『おまえなんかとは遊ばないッ!!』
「花京院……ッ」
過ぎた時間は戻らない。失くしたものは取り戻せない。この光景は過去のもので、なにもかも終わってしまったことだ。実際の光景かどうかだって怪しい。
分かっている。自分はこうして見ていることしかできないのだということを。
だけど足掻かずにはいられなかった。失いたくない。この手で守れるのなら、なんだってする。
承太郎は手の平に爪が食い込むほど強く拳を握った。怒りで頭がどうにかなりそうだった。この男は絶対に許さない。
殺してやる。
『イッテェ!!』
その瞬間、男の口から悲鳴が上がった。
目を見張る承太郎の眼前では、男の腕にしがみつくようにして、花京院が思い切りその手首に歯を立てていた。
『こんのクソガキッ!!』
男は悪態をつきながら表情を歪め、堪らず小さな身体を引き剥がすと地面へ投げ飛ばした。
整備されていない道に叩きつけられた花京院の腕や膝小僧が、小石や土に削られて血を流す。
「花京院! そのまま逃げろッ!!」
まるで承太郎の言葉が届いたかのように、花京院は痛む身体で立ち上がると走り出した。男は頭に血を上らせながら、当然それを追いかける。
『待てこのガキが!』
花京院は何度も転びそうになりながら、必死で夜の小道を駆け抜ける。だが、その歩幅の違いから男が追い付くのは時間の問題だった。証拠に、男はわざと一定の距離を保って花京院の背を追い上げている。
『ほらほら、早く逃げないと捕まえちゃうぞ~?』
どこまでも胸糞の悪い野郎だ。承太郎は己の無力さを噛み締めながらも憎悪を募らせる。
早く、早く、早く。頼むから早く逃げてくれ。どうにもならないことを理解していてなお、願わずにいられない。
花京院は息を切らし、肩を大きく上下させていた。あきらかに体力が限界を迎えようとしているのが分かる。
『ッ!!』
ついに花京院は足を縺れさせて派手に転んだ。その拍子に下駄が片方、脱げてしまう。
「花京院ッ!!」
『あ~、可哀想に、大丈夫?』
『……ッ』
楽しそうな声で、歌うように男が問いかけた。
花京院は半身を起こすと青褪めた表情で辺りを見回し、足を引きずりながらどうにか立ち上がると、すぐ側の茂みに分け入るようにして身体を潜り込ませた。
よろよろとした足取りで木々を縫い、そのまま山の中へ入っていこうとする。
男は余裕の態度を崩さなかった。すぐにでも捕まえられる距離に獲物がいて、しかもますますひと気のない場所へ自ら進んで行こうとしてるのだ。卑下た笑みを浮かべながら、同じく茂みに足を踏み入れるのがハッキリと見える。
「待てッ! 待ちやがれ……ッ!!」
行かせてなるものかと、承太郎は力の限り手を伸ばす。
全身に感覚はなく、自分がまともに走れているのかさえ分からない。それでも構わなかった。
守らなければならない。傷つきながら、小さな身体を恐怖に支配されている、あの子供を。幼い自分が、守れなかった彼を。
失くしたくない。取り戻したい。
ずっと共に生きていくのだと、黄昏に描いた未来を。
交わした約束を。
「花京院ッ!!」
承太郎の手が茂みに届く。
それを一気に掻き分けた、その瞬間。
世界が、再び闇に閉ざされた。
←戻る ・ 次へ→
3・黄昏の路
「君、足を怪我したようだが……」
大丈夫かい、と問いかけてくるその言葉遣いが大人びていて、承太郎は丸い瞳を見開きながら幾度か瞬きをした。
階段からうっかり足を踏み外し、何段か転げ落ちてしまった承太郎の左足は、膝小僧が擦りむけて血を流している。
それを見て、赤い髪をした少年は硬い表情でハンカチを差し出してきた。
小さな白い手が差し出す清潔そうなハンカチを、承太郎は胸を大きく高鳴らせながら咄嗟に受けとる。
「あ、ありがとうよ」
立ち上がって礼を言うと、少年は強ばった表情のまま無言で背を向けようとする。それを咄嗟に引きとめた。
「待て」
「……なに?」
「ああ、いや……おまえ、花京院、だったな。転校してきたばっかの」
「そう、だけど」
花京院は緊張した様子で肩を強ばらせていた。それもそうだ。同じクラスというだけで、一度も関わったことのない人間に急に引きとめられたら、誰だって驚くだろう。
だけど承太郎はこの花京院のことが、密かにずっと気になっていた。理由は違えどいつも一人でいる同士、もしかしたら、通ずるものがあるかもしれないと。
「おまえ、いまヒマか?」
「うん、まあ……」
「ならよ、ちょっと話さねーか」
勇気を振り絞っての誘いに、花京院の瞳が揺れる。それが少し不安そうに見えて、彼もやはり学校の連中と同じなのかと落胆しかけた。
だが、それはすぐに花京院が見せた笑顔によって掻き消された。
彼はゆっくりと花が開くように表情を和らげると、頬を赤くして「いいよ」と言った。
笑えば、きっととても可愛いだろうと思っていた。予想通り、花京院の少し恥ずかしそうな笑顔はまるで天使のようで、承太郎は自分まで頬が赤らむのを感じながら急いで目を逸らした。
それから二人は階段の隅に並んで腰掛けて、ぽつりぽつりと不器用に会話を重ねた。
「花京院は、どっから来たんだ。都会の方か?」
「どうかな……ここよりはもう少し建物が多い程度、だったと思うよ」
「へえ。なら、けっこう都会だな」
「わかんないよ」
花京院は少し困ったように眉をさげ、肩を竦めながら指先で頬を掻いて見せた。はにかんだような笑顔を真っ直ぐ見ることができなくて、承太郎は膝小僧の傷が気になる素振りで視線を落とす。
思えば、同年代の子供とこうしてまともに会話をするのは初めてだ。親戚にも子供はいて、盆や正月には遊びに来たりもするけれど、血の繋がりのない他人とこんな風に過ごすことは今までなかった。
「君、さっきのハンカチ」
「え?」
「ぼくに貸して」
承太郎は受け取ったハンカチをずっと握りしめたままだったことに気づいて、慌てて指を開いた。皺ひとつなかったそれがくしゃくしゃになっているのを見て、しまったと思う。
花京院は特に気にした様子もなくそれを取ると、どこか遠慮がちにハンカチで承太郎の膝小僧をつついた。
「イテッ」
「ご、ごめん。でも、すごい血が出てるから」
思わず泣き言を漏らしてしまったのが恥ずかしい。しかも花京院の白いハンカチが赤黒い血で汚れていくことに、罪悪感が募った。
ぐっと唇を引き結んだ承太郎に、花京院も同じく唇を噛み締めながら慎重に血を拭っていく。そして最後に「ちょっと足を伸ばして」と言われて素直に応じる。
花京院はハンカチを裏返し、細長く折りたたむと承太郎の傷ついた膝に巻き付け、きゅっと縛りつけた。
「うちに帰ったら、ちゃんと洗って薬をつけないとダメだよ」
「お、おう。ありがとな」
「どういたしまして」
花京院がホッとしたように肩から力を抜き、笑顔を浮かべる。やっぱり可愛いと思った。承太郎はますます胸がドキドキするのを感じながらそっぽを向く。
一体なんだろうこの気持ちは。花京院のことはずっと気になっていたが、いざとなるとこんなにも緊張するものなのか。
そのまま会話が途切れてしまったところで、承太郎はちらりと隣を横目で見た。
花京院は自分の両膝を両腕で抱きしめながら俯いている。その頬が耳まで赤いのを見て、もしかしたら彼も自分と同じなのかもしれないと感じた。
そうなら嬉しいが、同時に不安もある。
「なあ」
「なんだい?」
「おまえ、怖くねえのか」
「なにが?」
「おれが」
少し唇を尖らせ気味に、ぶっきらぼうに問いかけた。花京院はこちらを見ながら小首を傾げ、すぐに赤い前髪を揺らして首を左右に振る。
本当か、と問いかけると、今度は大きく頷かれた。
「そうか……」
嬉しかった。
クラスメイトや他の学年の連中は、承太郎の目の色がおかしいだとか、デカいからって威張ってるだとか、くだらないことばかり言って難癖をつけてくる。
女子は女子で、いつもグループを作ってこちらをチラチラと見てくるだけだ。言いたいことがあるならハッキリ言えと睨み付ければ、すぐに悲鳴をあげて逃げ出してしまう。
学校は、本当につまらない連中ばかりだった。だけどずっと、この花京院は何か違うような気がしていた。そんなイメージを勝手に抱いていただけだが、この目に狂いがなかったことを知って、つい頬が緩むのを抑えきれなかった。
花京院はそんな承太郎を見て、視線だけ俯かせながら膝の上で両手をもじもじとさせる。
「ぼく、キラキラした緑色が好きなんだ」
「緑?」
「うん……だから君の目、とてもキレイだと思って」
――本当はずっと、話をしてみたかった。
承太郎はその告白を聞いて、目と口を丸く見開いた。
お互いがお互いを意識していたなんて、こうして話をするまでちっとも分からなかった。
承太郎は今までずっと見て見ぬふりをしてきた孤独の存在を、このとき初めて認めることができたような気がした。本当はずっと寂しかったのだということを。
その心の隙間が、このたった短い間に埋まっていくのを感じる。
「おれ、承太郎だ」
花京院に向かって、手を差し出す。
「承太郎くん」
少し躊躇いがちではあったが、白い手がそっと重なり、同時に握り合った。花京院の手は小さくて、柔らかくて、そしてとても温かかった。どうしてか胸が締め付けられるような気がした。
「承太郎でいいぜ。花京院」
「じょうたろ?」
「そう、そんな感じだ」
「よろしく、承太郎」
「おう、よろしくな」
目と目を合わせて、二人はにっこりとほほ笑み合う。
この瞬間から、彼は承太郎にとって唯一無二の存在になった。
*
それから、二人はいつも一緒にいるようになった。
学校の行き帰りはもちろん、一度家に帰るとあの神社の石段で待ち合わせをして、日が暮れるまで話をしたり、遊んだりした。
承太郎は花京院と過ごすようになって、初めて誰かに歩幅を合わせるということを覚えた。自分と並んで歩く花京院が、いつも小走りで息を弾ませていることに気がついたからだ。
言ってくれればいいのにと思ったが、一緒に過ごすうちに花京院は決して弱音を吐かない性格だということが分かってきた。
いい意味でとても頑固で、負けず嫌いだ。顔は女みたいに可愛いが、その意外なギャップが承太郎はとても気に入っている。
花京院は最初こそ緊張して態度も控えめだったが、打ち解けていくほどに年相応の素顔を見せるようになっていった。
そして、承太郎に様々な話を聞かせてくれた。
ここに引っ越してきたのは、両親の仕事の都合であること。
前の学校でもあまりクラスに馴染めていなかったこと。
本を読んだり、ゲームをして遊ぶのが好きで、チェリーが大好物。あまりにも好きすぎて、家で使っている専用のマグカップや、箸や茶碗までチェリー柄なのだと、恥ずかしそうに教えてくれた。
承太郎はそんな花京院の話を聞くのが好きだった。
自分も星のマークが好きで、なんでもかんでも星で揃えてしまうんだと教えたら、ぼくたち似てるね、なんて言ってノォホホとおかしな笑い声をあげていた。
二人で過ごす時間は承太郎にとって何よりも心地よく、かけがえのないものになっていた。温かくて、優しい気持ちになれる、特別なものだった。
何度か家にも招いたが、花京院は母ともすぐに仲良くなった。あまりにもなついてしまったものだから、少し面白くないと感じてしまうほどに。
それは、そんなある日の出来事だ。
帰宅後にいつものように神社で待ち合わせをした二人は、しばらく話し込んだあと、かくれんぼをして遊ぶことになった。
じゃんけんで負けて、鬼になったのは承太郎。
「やった! ぼくが隠れる役だ!」
「ちぇ、しょうがねえな。すぐ見つけてやるぜ」
「それはどうかなー?」
花京院のどこか挑発的な笑みに、闘争心が沸き上がる。承太郎も彼に劣らず負けず嫌いだった。
「うるせえ! ゆっっくり数えてやるから、とっとと隠れな!」
高らかに宣言して、鳥居の柱に身を寄せ数を数え始めると、花京院の慌てたような足音がどんどん離れて行く。
(花京院のヤロウ、3分で見つけてやるぜ)
宣言通り十までゆっくり時間をかけて数えると、勢いよく辺りを見渡す。石畳の先へ駆け出し、まずは社殿の賽銭箱まで近づくと裏側を覗く。いない。それからすぐ格子状の扉に張り付くようにして社殿内部を覗き込んだが、中は暗くてよく見えなかった。
それ以前に鍵がかかっていて扉は開かないようだ。
「くそ、どこに隠れていやがる」
3分なんて目標は流石に無理だが、絶対に見つけ出すと決めて、今度は建物の縁の下を探すことにした。暗くて見えないが、四つん這いになればどうにか潜り込んで行けそうだ。
この辺りは他に隠れられそうな場所はないし、この神社は拝殿と神殿が一つになっていて他に建物はない。さらに山の中であるため周辺には森が広がっていて、子供だけで立ち入ることは禁じられている。だから花京院はここに潜んでいるような気がした。
「おい花京院、そこに隠れてんだろ? 諦めて出てきな」
ずりずりと膝を引きずり、暗闇の中で声をかける。が、返事はない。それもそうだ。しっかり目視で確認して初めて成立するのだし、なにより負けず嫌いな花京院が素直に出てくるはずがない。
だがほんの僅かだが気配のようなものを感じて、予想は確信に変わった。
承太郎はニヤリと笑いながらさらに奥へと押し入ろうとした。そのとき。
闇の中で、影が動いた。
「!?」
それはまさに黒い塊で、物凄い早さで承太郎の横をすり抜ける。
「うわッ!!」
あまりの驚きに、思わずその場で尻餅をついてしまった。慌てて這うようにしながら抜け出すと、遠ざかる影を目で追いかける。森の茂みに向かって全力で駆けていくのは、一匹の黒い野良猫だった。
「なんだ、ビックリさせやがって」
承太郎は立ち上がり、服や手足についた土を払い落とした。感じていた気配は、あの黒猫のものだったらしい。
だとしたら、花京院はどこにいる?
承太郎は考えながら社殿の裏手に回ったり、黒猫が消えた茂みなど、周辺をくまなく探した。
だが、見つからない。
「おい花京院! どこだ!」
呼びかけても返事はない。ただ、冷たい風がざわざわと木々を揺らすだけだ。
そうしている間に、夕陽はどんどん沈んでいこうとしていた。
まずい。早く見つけてかくれんぼを終わらせなければ、自分も花京院も帰れない。
ふと、この敷地内にいないのならば、石段の下にならいるかもしれないと思った。長い階段の下には小さな公園もある。遊具は錆びていて、誰も遊ぶ人間はいないが、もしかしたらそこにいるのではないか。
承太郎は急いで階段を駆けおりて、打ち捨てられたような遊具が並ぶ公園内部を見回した。そこには古いシーソーとブランコ、鉄棒があるだけで、野良猫一匹いやしない。
「花京院……」
承太郎の胸に、徐々に不安が押し寄せる。このまま見つからなかったらどうしよう。誰かに連れ去られたのではないか。それとも、なかなか見つけてもらえないから、先に帰ってしまったのか?
ならばいっそ、その方がよかった。無事に家に戻っているのなら、それが一番安心だ。
だが、花京院は絶対にそんな真似はしないだろう。承太郎を置いて先に帰るなんて、考えられない。
付き合いこそまだ短いが、承太郎は花京院がどんな人間か、よく分かっているつもりだ。だから絶対にどこかにいるはず。
承太郎は考えるよりも先に、再び神社へ向かって石段を駆けのぼっていた。
勘にしかすぎないが、やはり花京院はまだそこにいるような気がする。
息を切らしながら長い階段をのぼりきり、赤い鳥居をくぐると周辺を見渡す。吹き抜ける風に微かな夜の気配を感じながら、目を閉じて耳を澄ました。
すると、微かに何かを引っ掻いたり、叩くような音が聞こえた気がした。
「花京院ッ!」
承太郎が声を張り上げると、その音は止んだ。代わりに、小さな声が遠くから承太郎を呼んだ。
その声を頼りに走り出し、辿り着いたのは先刻も覗いたはずの、社殿の裏手だった。立ち並ぶスギノキが、黒い影のように狭い範囲を覆っている。そこには古びた祠が幾つか並んでいて、声はそこから聞こえているようだった。
「そこか! 花京院ッ!!」
「承太郎? 承太郎ッ!!」
はっきりと花京院の声を聞いた瞬間、安堵に膝から崩れ落ちそうになった。
よかった。彼はちゃんとここにいた。
承太郎の背丈ほどしかない小さな祠は、ちょうど小さな子供が一人くらいなら隠れられそうな大きさだ。どうしてさっき覗いたときに気がつかなかったんだと後悔しながら駆け寄り、手を伸ばす。両開きの扉は固く閉じられていて、片方に足をかけて全力で引っ張ることで、ようやくバキバキと音を立てながら開いた。
「ッ!!」
「承太郎ッ!!」
その瞬間、飛び出して来た花京院が両腕で抱き付いて来て、受け止めきれずに揃って地面に崩れ落ちる。
「遅いよ、承太郎……ッ」
「か、きょういん……」
承太郎の首に抱き付いたまま、花京院は小さく身を震わせていた。よほど不安だったのだろう。鼻をすすり、しゃくりを上げている様に、承太郎も一緒に泣きたくなったが、ぐっと堪えて思い切り抱き返した。
「このバカ! なんてとこに隠れてんだッ!!」
「だって、だってしょうがないだろ! ここなら絶対に見つからないと思ったし、それに、扉が開かなくなっちゃったんだッ!!」
どうやら花京院は、この小さな祠に入ったはいいものの出て来られない状況に陥っていたらしい。
少し呆れて言葉を失っていると、彼は承太郎の肩に埋めていた顔をあげた。鼻まで赤くして、不貞腐れたように唇を引き結んでいる。涙をいっぱいに溜めた瞳に、堪らない気持ちになって震える息を吐き出した。
「見つからなかったら、どうしようかと思ったじゃねーか……」
泣き濡れた丸い頬の片方に触れながら、労わるように撫でてやる。花京院は大きく鼻をすすって、ごめんと零すと項垂れた。
本当は何度でもバカと言ってやりたかった。だけど、彼が無事に見つかったことの方がずっと大きくて、言葉がでない。
一瞬でも考えた。もしこのまま、花京院を見つけ出すことができなかったら、と。
こうして無事を確認できた今、安堵と一緒に言い知れぬ不安が押し寄せる。
腕の中で泣いている、この小さくて大切な友達を。
永遠に失うことになったら、自分は生きていけるだろうかと。
(そんなの無理に決まってる)
承太郎にとって花京院は、なくてはならない存在だ。
初めて見たときからずっと近づきたいと思っていた。なにか不思議な力に引き寄せられるみたいに、惹かれていた。
多分きっと、これから先もずっとそうだ。ずっとずっと、大人になっても一緒にいたい。
「泣くな、花京院」
「泣いてなんか、ないよ」
「ぼろぼろ泣いてんじゃねーか。怖かったんだろ。遅くなって悪かった」
無造作に頭を撫でてやると、彼は嫌々とむずがるように首を左右に振ると「違う」と言った。
「そりゃ、ちょっとは怖かったさ。それは認める。だけど、信じてたから。承太郎のこと」
――きっとぼくを見つけてくれるって。
そう言って、花京院は笑った。
瞳にいっぱい涙を浮かべているくせに、承太郎の服を掴んだまま離さないくせに。
熱いものが胸に溢れそうなほど込み上げた。湧き水のように止まらない思いに少しだけ苦しくなりながら、承太郎も笑って頷いた。
「約束だ」
握った拳の、小指だけを立ててそっと差し出す。
「おまえがどこに隠れてたって、必ずおれが見つけてやるよ」
花京院はつぶらな瞳を見開いて、目の前の小指を見つめている。それからすぐに視線を承太郎の顔に向けて、嬉しそうにいちど唇を噛み締めると、同じように立てた小指を差し出して来た。
絡み合う指と指が熱い。なんだか照れ臭くなってきて、気づけば二人は真っ赤な顔で俯いていた。
離すタイミングが分からない小指を握り合ったまま、ぶらぶらと動かしたりして言葉を探した。その戯れが、なおのこと恥ずかしいような気がしてきた頃、先に沈黙を破ったのはおどけたような花京院の声だった。
「じゃあ、じゃあさ。次はもっと難しいところに、隠れなくちゃあいけないな」
思わず、小さく噴き出してしまった。
「このバカ野郎」
「だって悔しいじゃないか。かくれんぼは承太郎の勝ちだもん」
「だったらずっとおれの勝ちだぜ。残念だったな」
勝ち誇ったように言うと、花京院はあのノォホホというおかしな声で笑った。
「オラ、もう日が暮れちまう。帰ろうぜ」
「うん」
承太郎が立ち上がるのと一緒に、花京院も立ち上がる。小指は離れたが、代わりに手を繋いで、二人は同じ歩幅で歩き始めた。
このときの花京院を、承太郎は死ぬまでずっと覚えていようと思った。
色濃い夕陽に焼かれた、燃えるように赤い髪を、濡れたままキラキラと輝く瞳を、握った手の、汗ばむほどの熱さを。
沈みゆく夕陽の煌めきの中で。
カラスの鳴き声を聞きながら、彼と歩む、未来を想った。
←戻る ・ 次へ→
「君、足を怪我したようだが……」
大丈夫かい、と問いかけてくるその言葉遣いが大人びていて、承太郎は丸い瞳を見開きながら幾度か瞬きをした。
階段からうっかり足を踏み外し、何段か転げ落ちてしまった承太郎の左足は、膝小僧が擦りむけて血を流している。
それを見て、赤い髪をした少年は硬い表情でハンカチを差し出してきた。
小さな白い手が差し出す清潔そうなハンカチを、承太郎は胸を大きく高鳴らせながら咄嗟に受けとる。
「あ、ありがとうよ」
立ち上がって礼を言うと、少年は強ばった表情のまま無言で背を向けようとする。それを咄嗟に引きとめた。
「待て」
「……なに?」
「ああ、いや……おまえ、花京院、だったな。転校してきたばっかの」
「そう、だけど」
花京院は緊張した様子で肩を強ばらせていた。それもそうだ。同じクラスというだけで、一度も関わったことのない人間に急に引きとめられたら、誰だって驚くだろう。
だけど承太郎はこの花京院のことが、密かにずっと気になっていた。理由は違えどいつも一人でいる同士、もしかしたら、通ずるものがあるかもしれないと。
「おまえ、いまヒマか?」
「うん、まあ……」
「ならよ、ちょっと話さねーか」
勇気を振り絞っての誘いに、花京院の瞳が揺れる。それが少し不安そうに見えて、彼もやはり学校の連中と同じなのかと落胆しかけた。
だが、それはすぐに花京院が見せた笑顔によって掻き消された。
彼はゆっくりと花が開くように表情を和らげると、頬を赤くして「いいよ」と言った。
笑えば、きっととても可愛いだろうと思っていた。予想通り、花京院の少し恥ずかしそうな笑顔はまるで天使のようで、承太郎は自分まで頬が赤らむのを感じながら急いで目を逸らした。
それから二人は階段の隅に並んで腰掛けて、ぽつりぽつりと不器用に会話を重ねた。
「花京院は、どっから来たんだ。都会の方か?」
「どうかな……ここよりはもう少し建物が多い程度、だったと思うよ」
「へえ。なら、けっこう都会だな」
「わかんないよ」
花京院は少し困ったように眉をさげ、肩を竦めながら指先で頬を掻いて見せた。はにかんだような笑顔を真っ直ぐ見ることができなくて、承太郎は膝小僧の傷が気になる素振りで視線を落とす。
思えば、同年代の子供とこうしてまともに会話をするのは初めてだ。親戚にも子供はいて、盆や正月には遊びに来たりもするけれど、血の繋がりのない他人とこんな風に過ごすことは今までなかった。
「君、さっきのハンカチ」
「え?」
「ぼくに貸して」
承太郎は受け取ったハンカチをずっと握りしめたままだったことに気づいて、慌てて指を開いた。皺ひとつなかったそれがくしゃくしゃになっているのを見て、しまったと思う。
花京院は特に気にした様子もなくそれを取ると、どこか遠慮がちにハンカチで承太郎の膝小僧をつついた。
「イテッ」
「ご、ごめん。でも、すごい血が出てるから」
思わず泣き言を漏らしてしまったのが恥ずかしい。しかも花京院の白いハンカチが赤黒い血で汚れていくことに、罪悪感が募った。
ぐっと唇を引き結んだ承太郎に、花京院も同じく唇を噛み締めながら慎重に血を拭っていく。そして最後に「ちょっと足を伸ばして」と言われて素直に応じる。
花京院はハンカチを裏返し、細長く折りたたむと承太郎の傷ついた膝に巻き付け、きゅっと縛りつけた。
「うちに帰ったら、ちゃんと洗って薬をつけないとダメだよ」
「お、おう。ありがとな」
「どういたしまして」
花京院がホッとしたように肩から力を抜き、笑顔を浮かべる。やっぱり可愛いと思った。承太郎はますます胸がドキドキするのを感じながらそっぽを向く。
一体なんだろうこの気持ちは。花京院のことはずっと気になっていたが、いざとなるとこんなにも緊張するものなのか。
そのまま会話が途切れてしまったところで、承太郎はちらりと隣を横目で見た。
花京院は自分の両膝を両腕で抱きしめながら俯いている。その頬が耳まで赤いのを見て、もしかしたら彼も自分と同じなのかもしれないと感じた。
そうなら嬉しいが、同時に不安もある。
「なあ」
「なんだい?」
「おまえ、怖くねえのか」
「なにが?」
「おれが」
少し唇を尖らせ気味に、ぶっきらぼうに問いかけた。花京院はこちらを見ながら小首を傾げ、すぐに赤い前髪を揺らして首を左右に振る。
本当か、と問いかけると、今度は大きく頷かれた。
「そうか……」
嬉しかった。
クラスメイトや他の学年の連中は、承太郎の目の色がおかしいだとか、デカいからって威張ってるだとか、くだらないことばかり言って難癖をつけてくる。
女子は女子で、いつもグループを作ってこちらをチラチラと見てくるだけだ。言いたいことがあるならハッキリ言えと睨み付ければ、すぐに悲鳴をあげて逃げ出してしまう。
学校は、本当につまらない連中ばかりだった。だけどずっと、この花京院は何か違うような気がしていた。そんなイメージを勝手に抱いていただけだが、この目に狂いがなかったことを知って、つい頬が緩むのを抑えきれなかった。
花京院はそんな承太郎を見て、視線だけ俯かせながら膝の上で両手をもじもじとさせる。
「ぼく、キラキラした緑色が好きなんだ」
「緑?」
「うん……だから君の目、とてもキレイだと思って」
――本当はずっと、話をしてみたかった。
承太郎はその告白を聞いて、目と口を丸く見開いた。
お互いがお互いを意識していたなんて、こうして話をするまでちっとも分からなかった。
承太郎は今までずっと見て見ぬふりをしてきた孤独の存在を、このとき初めて認めることができたような気がした。本当はずっと寂しかったのだということを。
その心の隙間が、このたった短い間に埋まっていくのを感じる。
「おれ、承太郎だ」
花京院に向かって、手を差し出す。
「承太郎くん」
少し躊躇いがちではあったが、白い手がそっと重なり、同時に握り合った。花京院の手は小さくて、柔らかくて、そしてとても温かかった。どうしてか胸が締め付けられるような気がした。
「承太郎でいいぜ。花京院」
「じょうたろ?」
「そう、そんな感じだ」
「よろしく、承太郎」
「おう、よろしくな」
目と目を合わせて、二人はにっこりとほほ笑み合う。
この瞬間から、彼は承太郎にとって唯一無二の存在になった。
*
それから、二人はいつも一緒にいるようになった。
学校の行き帰りはもちろん、一度家に帰るとあの神社の石段で待ち合わせをして、日が暮れるまで話をしたり、遊んだりした。
承太郎は花京院と過ごすようになって、初めて誰かに歩幅を合わせるということを覚えた。自分と並んで歩く花京院が、いつも小走りで息を弾ませていることに気がついたからだ。
言ってくれればいいのにと思ったが、一緒に過ごすうちに花京院は決して弱音を吐かない性格だということが分かってきた。
いい意味でとても頑固で、負けず嫌いだ。顔は女みたいに可愛いが、その意外なギャップが承太郎はとても気に入っている。
花京院は最初こそ緊張して態度も控えめだったが、打ち解けていくほどに年相応の素顔を見せるようになっていった。
そして、承太郎に様々な話を聞かせてくれた。
ここに引っ越してきたのは、両親の仕事の都合であること。
前の学校でもあまりクラスに馴染めていなかったこと。
本を読んだり、ゲームをして遊ぶのが好きで、チェリーが大好物。あまりにも好きすぎて、家で使っている専用のマグカップや、箸や茶碗までチェリー柄なのだと、恥ずかしそうに教えてくれた。
承太郎はそんな花京院の話を聞くのが好きだった。
自分も星のマークが好きで、なんでもかんでも星で揃えてしまうんだと教えたら、ぼくたち似てるね、なんて言ってノォホホとおかしな笑い声をあげていた。
二人で過ごす時間は承太郎にとって何よりも心地よく、かけがえのないものになっていた。温かくて、優しい気持ちになれる、特別なものだった。
何度か家にも招いたが、花京院は母ともすぐに仲良くなった。あまりにもなついてしまったものだから、少し面白くないと感じてしまうほどに。
それは、そんなある日の出来事だ。
帰宅後にいつものように神社で待ち合わせをした二人は、しばらく話し込んだあと、かくれんぼをして遊ぶことになった。
じゃんけんで負けて、鬼になったのは承太郎。
「やった! ぼくが隠れる役だ!」
「ちぇ、しょうがねえな。すぐ見つけてやるぜ」
「それはどうかなー?」
花京院のどこか挑発的な笑みに、闘争心が沸き上がる。承太郎も彼に劣らず負けず嫌いだった。
「うるせえ! ゆっっくり数えてやるから、とっとと隠れな!」
高らかに宣言して、鳥居の柱に身を寄せ数を数え始めると、花京院の慌てたような足音がどんどん離れて行く。
(花京院のヤロウ、3分で見つけてやるぜ)
宣言通り十までゆっくり時間をかけて数えると、勢いよく辺りを見渡す。石畳の先へ駆け出し、まずは社殿の賽銭箱まで近づくと裏側を覗く。いない。それからすぐ格子状の扉に張り付くようにして社殿内部を覗き込んだが、中は暗くてよく見えなかった。
それ以前に鍵がかかっていて扉は開かないようだ。
「くそ、どこに隠れていやがる」
3分なんて目標は流石に無理だが、絶対に見つけ出すと決めて、今度は建物の縁の下を探すことにした。暗くて見えないが、四つん這いになればどうにか潜り込んで行けそうだ。
この辺りは他に隠れられそうな場所はないし、この神社は拝殿と神殿が一つになっていて他に建物はない。さらに山の中であるため周辺には森が広がっていて、子供だけで立ち入ることは禁じられている。だから花京院はここに潜んでいるような気がした。
「おい花京院、そこに隠れてんだろ? 諦めて出てきな」
ずりずりと膝を引きずり、暗闇の中で声をかける。が、返事はない。それもそうだ。しっかり目視で確認して初めて成立するのだし、なにより負けず嫌いな花京院が素直に出てくるはずがない。
だがほんの僅かだが気配のようなものを感じて、予想は確信に変わった。
承太郎はニヤリと笑いながらさらに奥へと押し入ろうとした。そのとき。
闇の中で、影が動いた。
「!?」
それはまさに黒い塊で、物凄い早さで承太郎の横をすり抜ける。
「うわッ!!」
あまりの驚きに、思わずその場で尻餅をついてしまった。慌てて這うようにしながら抜け出すと、遠ざかる影を目で追いかける。森の茂みに向かって全力で駆けていくのは、一匹の黒い野良猫だった。
「なんだ、ビックリさせやがって」
承太郎は立ち上がり、服や手足についた土を払い落とした。感じていた気配は、あの黒猫のものだったらしい。
だとしたら、花京院はどこにいる?
承太郎は考えながら社殿の裏手に回ったり、黒猫が消えた茂みなど、周辺をくまなく探した。
だが、見つからない。
「おい花京院! どこだ!」
呼びかけても返事はない。ただ、冷たい風がざわざわと木々を揺らすだけだ。
そうしている間に、夕陽はどんどん沈んでいこうとしていた。
まずい。早く見つけてかくれんぼを終わらせなければ、自分も花京院も帰れない。
ふと、この敷地内にいないのならば、石段の下にならいるかもしれないと思った。長い階段の下には小さな公園もある。遊具は錆びていて、誰も遊ぶ人間はいないが、もしかしたらそこにいるのではないか。
承太郎は急いで階段を駆けおりて、打ち捨てられたような遊具が並ぶ公園内部を見回した。そこには古いシーソーとブランコ、鉄棒があるだけで、野良猫一匹いやしない。
「花京院……」
承太郎の胸に、徐々に不安が押し寄せる。このまま見つからなかったらどうしよう。誰かに連れ去られたのではないか。それとも、なかなか見つけてもらえないから、先に帰ってしまったのか?
ならばいっそ、その方がよかった。無事に家に戻っているのなら、それが一番安心だ。
だが、花京院は絶対にそんな真似はしないだろう。承太郎を置いて先に帰るなんて、考えられない。
付き合いこそまだ短いが、承太郎は花京院がどんな人間か、よく分かっているつもりだ。だから絶対にどこかにいるはず。
承太郎は考えるよりも先に、再び神社へ向かって石段を駆けのぼっていた。
勘にしかすぎないが、やはり花京院はまだそこにいるような気がする。
息を切らしながら長い階段をのぼりきり、赤い鳥居をくぐると周辺を見渡す。吹き抜ける風に微かな夜の気配を感じながら、目を閉じて耳を澄ました。
すると、微かに何かを引っ掻いたり、叩くような音が聞こえた気がした。
「花京院ッ!」
承太郎が声を張り上げると、その音は止んだ。代わりに、小さな声が遠くから承太郎を呼んだ。
その声を頼りに走り出し、辿り着いたのは先刻も覗いたはずの、社殿の裏手だった。立ち並ぶスギノキが、黒い影のように狭い範囲を覆っている。そこには古びた祠が幾つか並んでいて、声はそこから聞こえているようだった。
「そこか! 花京院ッ!!」
「承太郎? 承太郎ッ!!」
はっきりと花京院の声を聞いた瞬間、安堵に膝から崩れ落ちそうになった。
よかった。彼はちゃんとここにいた。
承太郎の背丈ほどしかない小さな祠は、ちょうど小さな子供が一人くらいなら隠れられそうな大きさだ。どうしてさっき覗いたときに気がつかなかったんだと後悔しながら駆け寄り、手を伸ばす。両開きの扉は固く閉じられていて、片方に足をかけて全力で引っ張ることで、ようやくバキバキと音を立てながら開いた。
「ッ!!」
「承太郎ッ!!」
その瞬間、飛び出して来た花京院が両腕で抱き付いて来て、受け止めきれずに揃って地面に崩れ落ちる。
「遅いよ、承太郎……ッ」
「か、きょういん……」
承太郎の首に抱き付いたまま、花京院は小さく身を震わせていた。よほど不安だったのだろう。鼻をすすり、しゃくりを上げている様に、承太郎も一緒に泣きたくなったが、ぐっと堪えて思い切り抱き返した。
「このバカ! なんてとこに隠れてんだッ!!」
「だって、だってしょうがないだろ! ここなら絶対に見つからないと思ったし、それに、扉が開かなくなっちゃったんだッ!!」
どうやら花京院は、この小さな祠に入ったはいいものの出て来られない状況に陥っていたらしい。
少し呆れて言葉を失っていると、彼は承太郎の肩に埋めていた顔をあげた。鼻まで赤くして、不貞腐れたように唇を引き結んでいる。涙をいっぱいに溜めた瞳に、堪らない気持ちになって震える息を吐き出した。
「見つからなかったら、どうしようかと思ったじゃねーか……」
泣き濡れた丸い頬の片方に触れながら、労わるように撫でてやる。花京院は大きく鼻をすすって、ごめんと零すと項垂れた。
本当は何度でもバカと言ってやりたかった。だけど、彼が無事に見つかったことの方がずっと大きくて、言葉がでない。
一瞬でも考えた。もしこのまま、花京院を見つけ出すことができなかったら、と。
こうして無事を確認できた今、安堵と一緒に言い知れぬ不安が押し寄せる。
腕の中で泣いている、この小さくて大切な友達を。
永遠に失うことになったら、自分は生きていけるだろうかと。
(そんなの無理に決まってる)
承太郎にとって花京院は、なくてはならない存在だ。
初めて見たときからずっと近づきたいと思っていた。なにか不思議な力に引き寄せられるみたいに、惹かれていた。
多分きっと、これから先もずっとそうだ。ずっとずっと、大人になっても一緒にいたい。
「泣くな、花京院」
「泣いてなんか、ないよ」
「ぼろぼろ泣いてんじゃねーか。怖かったんだろ。遅くなって悪かった」
無造作に頭を撫でてやると、彼は嫌々とむずがるように首を左右に振ると「違う」と言った。
「そりゃ、ちょっとは怖かったさ。それは認める。だけど、信じてたから。承太郎のこと」
――きっとぼくを見つけてくれるって。
そう言って、花京院は笑った。
瞳にいっぱい涙を浮かべているくせに、承太郎の服を掴んだまま離さないくせに。
熱いものが胸に溢れそうなほど込み上げた。湧き水のように止まらない思いに少しだけ苦しくなりながら、承太郎も笑って頷いた。
「約束だ」
握った拳の、小指だけを立ててそっと差し出す。
「おまえがどこに隠れてたって、必ずおれが見つけてやるよ」
花京院はつぶらな瞳を見開いて、目の前の小指を見つめている。それからすぐに視線を承太郎の顔に向けて、嬉しそうにいちど唇を噛み締めると、同じように立てた小指を差し出して来た。
絡み合う指と指が熱い。なんだか照れ臭くなってきて、気づけば二人は真っ赤な顔で俯いていた。
離すタイミングが分からない小指を握り合ったまま、ぶらぶらと動かしたりして言葉を探した。その戯れが、なおのこと恥ずかしいような気がしてきた頃、先に沈黙を破ったのはおどけたような花京院の声だった。
「じゃあ、じゃあさ。次はもっと難しいところに、隠れなくちゃあいけないな」
思わず、小さく噴き出してしまった。
「このバカ野郎」
「だって悔しいじゃないか。かくれんぼは承太郎の勝ちだもん」
「だったらずっとおれの勝ちだぜ。残念だったな」
勝ち誇ったように言うと、花京院はあのノォホホというおかしな声で笑った。
「オラ、もう日が暮れちまう。帰ろうぜ」
「うん」
承太郎が立ち上がるのと一緒に、花京院も立ち上がる。小指は離れたが、代わりに手を繋いで、二人は同じ歩幅で歩き始めた。
このときの花京院を、承太郎は死ぬまでずっと覚えていようと思った。
色濃い夕陽に焼かれた、燃えるように赤い髪を、濡れたままキラキラと輝く瞳を、握った手の、汗ばむほどの熱さを。
沈みゆく夕陽の煌めきの中で。
カラスの鳴き声を聞きながら、彼と歩む、未来を想った。
←戻る ・ 次へ→
2・狐の面
いつの間に、眠りに落ちていたのだろうか。
気づかぬうちに意識を手放していた承太郎は、ふと目を開けると身を起こして辺りを見回す。
(電気、消した覚えはねえが)
辺りは闇に包まれていた。
眠る直前まで聞こえていたはずの虫の声も祭囃子もなく、一切の音がない。
帰って来た母が灯りを消したのか。全く気がつかないほど深く眠りこけていたというのは驚きだ。だけど、何かがおかしい。
承太郎は立ち上がると障子を開けて、縁側に出た。ぽっかりと浮かぶ丸い月が、庭を仄かに照らしている。
(誰もいない)
無音なだけではない。人の気配がまるで感じられなかった。
てっきり祭に出かけた母たちが戻って来たものとばかり思っていたが、どの部屋に目をやってみても灯りはなく、野良猫の気配ひとつ感じられない。
承太郎は手にしていた携帯で時間を確認する。そして驚愕した。
時刻は、19時ちょうどを表示したまま、動いていない。
「どういうことだ? イカれちまったのか?」
すぐに部屋に戻り、携帯電話の光を頼りに柱にかかる時計を見やった。時刻は携帯と同じ、19時で止まっている。
「おかしい。一体どうなってる?」
まったく訳が分からない。ただなんとなく、この空間は自分が先刻までいた場所とは何かが違うような気がした。同じだが、同じではないような。漠然とだが、承太郎の勘がそう告げている。
ならばこれは夢の世界ということか。そう結論付ける以外に、納得する術がなかった。
承太郎は携帯を片手に再び縁側に出た。無音の世界に、板張りの廊下を裸足で歩く音だけがいやに大きく響き渡る。月明かりを頼りに庭を囲む回廊を進み、母の部屋を覗いてみたが、やはり誰もいなかった。
なんて退屈な夢だろう。どうせ夢ならば、それこそもう少し夢のある世界でもいいだろうに。
ここはまるで、承太郎の内面を映し出す鏡のようだ。
暗く、重く、なにもない。鮮やかな光を失った、抜け殻のような世界。色のない世界。
承太郎は途端に押し寄せる孤独の重圧に、押し潰されそうな感覚を味わう。ここに居続けるのが嫌で、誰でもいいから存在を感じたくて、迷子のような足取りで玄関に向かうと外に出た。
けれど、そこはさらなる闇の世界が広がっていた。
一面が黒、黒、黒。まるで夜の海のように。
灯りがついている民家もなく、街灯すら消えている。家の中ではもう少し明るく感じていた月明かりが、あまりにも儚く夜空にぽつんと浮かんでいるだけだった。
音のない漆黒の世界で、承太郎はただ茫然と立ち尽くす。
「つくづく嫌な夢だぜ」
思わずぽつりと吐き出した。早く目覚めろと、現実世界の自分に訴える。
そのときだった。
遥か遠くに、小さな小さな、光が見えた。
「!」
承太郎は持っていた携帯で足元を照らしながら、足早に門を潜ると歩道に出る。目を凝らせば、その光は時折ゆらゆらと揺れながら、こちらに向かって来ているのが分かった。
光が近づいてくるほどに、ずっと無音だった世界に音が混ざりはじめたことに気がつく。
それは下駄で地面を踏み鳴らす、カラコロという足音だった。
息を殺しながら、近づいてくる謎の光を見ていると、やがてそれは小さな手提げ提灯であることが知れた。側面に描かれているのは真っ赤な金魚で、中の蝋燭が揺れる度、金魚の尾びれがひらひらと踊って見える。
心臓が痛いほど高鳴っているのを感じて、承太郎は知らず震える息を吐き出した。
ぼんやりと浮かび上がる人の形をなした影は、小さな子供の姿をしていた。
どくん、どくんと、自分の心臓の音が頭の中に直接響いていた。どこか予感めいたものが、承太郎から呼吸を奪う。
幼子が、ついにあと数歩というところで足を止めた。
やはりこれは夢なのか。
金魚の提灯を下げ、浴衣をまとった幼子は、ずっと探し求めていた『彼』だった。
ひと房だけ垂れ下がる特徴的な前髪に、承太郎は込み上げる感情を抑えきれず、視界が滲むのを感じる。
けれどなぜか、その顔だけは狐の面で隠されていて、見ることができない。
「花京院、なのか……?」
声を絞り出すと震える手を伸ばし、一歩踏み出す。小さな狐は小首を傾げ、肩を竦めると少女のような高い声でクスリと笑った。
「承太郎」
幼い声が、どこか舌足らずに承太郎を呼ぶ。
「……ッ!」
「ぼくのこと、忘れてしまったのかい?」
ああ、やっぱり花京院だ。
何もない、闇ばかりが冴える世界。承太郎の世界。
花京院はここにいた。ようやく会えた。会いたかった。ずっとずっと。
本当は忘れてしまいたかった。だけど怖かった。自分が忘れてしまったら、本当に彼がこの世から消えてしまうような気がして。それでも時間と共に細部は薄れ、生きるほどに大切なものから失われていくようで。
だけど花京院はここにいる。目の前に、確かにいるのだ。
例え夢でも、構わない。
「かきょう、いん……ッ」
承太郎は地面に膝をつき、ついに堪えきれず涙を零す。
幼い頃でさえ、一度だって彼の前で泣いたことなどなかったのに。後から後から流れ出す涙に、口許を押さえて嗚咽を堪える。
「すまねぇ。花京院……すまねぇ……」
見つけてやれなくてすまない。こんなにも切望していたというのに、結局はこの手で探し出すことができなかった。
いつからか諦めを悟った心が、彼の輪郭をぼやけさせるほどに。
踵を鳴らしながら、花京院はゆっくりと承太郎に近づいた。
顔をあげれば、狐の面が心なしか困った顔をしているような気がした。
「承太郎」
思わず手を伸ばし、抱き寄せようとしたところで名前を呼ばれる。
行き場を失くして宙を彷徨う手に、白く幼い指先がちょん、と触れた。
「泣いてちゃダメだよ。ほら、お祭がはじまってしまう」
「祭……?」
「約束したじゃないか。いっしょにお祭に行こうって」
花京院の指先が遠のいていく。
「大丈夫。ぼくが道を照らしてあげるから。ついて来て、承太郎」
「ま、待て、花京院」
背を向けて歩き出してしまった花京院を追って、おざなりに手の平で涙を拭うと立ち上がる。
彼はふと足を止め、こちらを振り向くと首を傾げた。
「なんだい?」
「顔は……見せちゃくれねえのか」
狐の面で隠されて、その表情は見えないままだ。だけど笑っているような気がした。
ならばその顔が見たい。何よりも大切だと思っていた、あの幼い笑顔を。
けれど花京院は首を左右に振り、「あとでね」と言うとまた歩き出してしまった。
*
暗く長い一本道を、金魚の提灯が照らし出す。
承太郎はその小さな背を不思議な気持ちで見つめながら、ただ後をついて歩いていた。
「おい、花京院」
「なに、承太郎」
「……祭ってのは……どこでやってるんだ?」
この世界が夢の中であろうが、そんなものは承太郎にとってどうでもよかった。
目の前に花京院がいる。ただそれだけで心に静穏が満ちていく。
このまま彼と一緒に行けば、あの毎日が光り輝いていた幼い日に戻れるような、そんな気がして。
けれど不思議なのは、どれほど歩いても他に灯りは見えず、祭囃子が聞こえてこないことだった。
小さな町の中で行われる祭だ。家にいてさえ太鼓や笛の音が微かに聞こえていたはずが、静寂の中には足音しか響かない。
「もうすぐだよ。もうすぐ。承太郎、歩き疲れちゃったのかい?」
「いや、そんなことはねえけどよ」
「楽しみだね」
「……ああ」
楽しげに笑っている花京院の足取りに、迷いはない。
こちらは自分が今どこを歩いているのかすら分からないのに。
そのときふと、目の前を行く背中に違和感を覚えた。
「花京院……?」
目を見開いた承太郎が名を呼ぶと、花京院は足を止めて振り向いた。
浴衣も下駄も、狐の面も。なにひとつ変わらない。だけど。
承太郎の腰の高さほどしかなかった花京院の身長が、明らかに伸びている。
ほっそりとした少年らしさはそのままだが、幼子だったはずの彼はいつの間にか中学生ほどにまで成長していた。それに応じて浴衣の丈も自然と合わされている。
この姿を、承太郎は知らない。記憶の中の花京院は10歳のままで時を止めていたからだ。
「おまえ、その姿は……?」
「どうしたの、承太郎」
声は、まだ幾らか高いままだった。少年と少女の狭間で、不安定に揺れている。
名残は十分に残っているのに、そこには承太郎の知らない花京院の姿があった。
なおのこと、顔が見たいと思った。成長した彼はどんな顔をしているのだろう。大きめの口に、くりくりとした丸い瞳。ふっくらとした赤い頬。それらは失われずに、まだそこにあるだろうか。
「ほら見ろ、承太郎。懐かしいな」
花京院は提灯を持っていない方の手を伸ばすと、ある方向を指さした。白い指先が示す場所に目をやって、承太郎は息をのむ。
そこにはゆらゆらと、数匹の蛍が飛び交っていた。
舞い踊る薄ぼんやりとした光が、巨大な赤い鳥居を浮き上がらせる。幻想的な光景に目を奪われながらも、立て続けに起こる不可思議な現象に思考が追いつかない。
「ここは……神社、なのか?」
知らぬ間に、承太郎は神社の敷地内に立ち尽くしていた。
「一体いつの間に……?」
呆然としている承太郎の声が、踏みしめる石畳の地面にぽつりと落ちた。
記憶の中にあるこの場所は、長く続く石階段をのぼって来なければ辿り着けないはずだった。承太郎は花京院の背について、ただひたすら平坦な道を歩いて来た。それがどうしてこんな場所に。
さらにおかしいのは、ここは今ごろ祭の会場になっているはずなのだが、人っ子一人いやしないことだった。
花京院は祭へ行こうと言っていた。けれど出店の一つも見えやしない。ただ鳥居を照らすように、蛍が舞っているだけだ。
「覚えているかい? ぼくたちここで、初めて話をしたんだよ」
花京院はそんなことなどお構いなしに、懐かしい思い出を語り出す。
「ちょうどこの階段の下だったかな。君が足を踏み外して、転げ落ちてしまったのは」
「……ああ、今でもよく覚えているぜ」
あのときの情景を、今もまざまざと脳裏に思い描くことができる。
頭をもたげていた疑問など、大切な記憶の前にはどうでもよく感じられた。
そう、あの日。承太郎は花京院と、ここで初めて言葉を交わした。9歳だった。
「ぼくはこの町に引っ越してきて間もなくて、学校でも誰とも打ち解けられないでいたんだ」
「そうだったな」
「だけどね、ずっと君のことが気になっていたんだよ。君は背も高くて、勉強もできて、とてもカッコよかったのに、いつも一人でさ」
ふと、小さな笑みが漏れる。
彼の言うように、承太郎はいつも一人だった。
母は大人たちのコミュニティでその努力と人柄を買われ、どうにかやっていたけれど、子供の世界はそうとは限らない。
純粋な日本人ではない承太郎は、学校であきらかに孤立していた。
平均よりも大きな身体と、見たこともないような不思議な色の瞳。ハーフというだけで好奇の視線に晒されることに、初めのうちは抗議めいたことをしたこともあるけれど、いつしか面倒になってしまった。
笑うでもなく、怒るでもなく。知らんぷりをしているうちに、一人が当たり前になっていた。本当は寂しいくせに、その方が気楽だと気づかない振りをして。
ただ、母にだけは心配をかけたくなかった。
彼女の前では明るく笑顔で振る舞い、学校が終わって帰宅すると、すぐに友達と遊んでくると嘘をついて、一人でこの神社で時間を潰すこともあった。
そんなとき、花京院が現れた。
彼は遠い町からの移住者で、転校してきたばかりだった。
狭い田舎町はただでさえ閉鎖的だ。当然、学校でも花京院は周囲の人間に溶け込めず、彼もまた、どこか厚い壁を感じさせる不愛想な子供だった。
承太郎はそんな花京院に、どこか近いものを感じていた。何より珍しい赤い髪色や、リスのように潤んだ瞳が印象的で、一目見たときから気になっていたのだ。
愛嬌のある少し大きめの口で、にっこりと笑ったらどんなに可愛いだろうと。思えばあれが、承太郎にとっての初恋だったのかもしれない。
花京院の少女のような可憐な容姿がそう思わせたのか、最初から性別など気にしない性質だったのか、今では分からないけれど。
承太郎はそっと瞼を伏せる。
世界が鮮やかに、この目に映るようになったあの日。
初めて言葉を交わしたのも、そして『約束』を交わしたのも、この場所だった。
蛍だけが舞い踊る神社で、承太郎は大切な記憶の欠片に、意識を這わせた。
←戻る ・ 次へ→
いつの間に、眠りに落ちていたのだろうか。
気づかぬうちに意識を手放していた承太郎は、ふと目を開けると身を起こして辺りを見回す。
(電気、消した覚えはねえが)
辺りは闇に包まれていた。
眠る直前まで聞こえていたはずの虫の声も祭囃子もなく、一切の音がない。
帰って来た母が灯りを消したのか。全く気がつかないほど深く眠りこけていたというのは驚きだ。だけど、何かがおかしい。
承太郎は立ち上がると障子を開けて、縁側に出た。ぽっかりと浮かぶ丸い月が、庭を仄かに照らしている。
(誰もいない)
無音なだけではない。人の気配がまるで感じられなかった。
てっきり祭に出かけた母たちが戻って来たものとばかり思っていたが、どの部屋に目をやってみても灯りはなく、野良猫の気配ひとつ感じられない。
承太郎は手にしていた携帯で時間を確認する。そして驚愕した。
時刻は、19時ちょうどを表示したまま、動いていない。
「どういうことだ? イカれちまったのか?」
すぐに部屋に戻り、携帯電話の光を頼りに柱にかかる時計を見やった。時刻は携帯と同じ、19時で止まっている。
「おかしい。一体どうなってる?」
まったく訳が分からない。ただなんとなく、この空間は自分が先刻までいた場所とは何かが違うような気がした。同じだが、同じではないような。漠然とだが、承太郎の勘がそう告げている。
ならばこれは夢の世界ということか。そう結論付ける以外に、納得する術がなかった。
承太郎は携帯を片手に再び縁側に出た。無音の世界に、板張りの廊下を裸足で歩く音だけがいやに大きく響き渡る。月明かりを頼りに庭を囲む回廊を進み、母の部屋を覗いてみたが、やはり誰もいなかった。
なんて退屈な夢だろう。どうせ夢ならば、それこそもう少し夢のある世界でもいいだろうに。
ここはまるで、承太郎の内面を映し出す鏡のようだ。
暗く、重く、なにもない。鮮やかな光を失った、抜け殻のような世界。色のない世界。
承太郎は途端に押し寄せる孤独の重圧に、押し潰されそうな感覚を味わう。ここに居続けるのが嫌で、誰でもいいから存在を感じたくて、迷子のような足取りで玄関に向かうと外に出た。
けれど、そこはさらなる闇の世界が広がっていた。
一面が黒、黒、黒。まるで夜の海のように。
灯りがついている民家もなく、街灯すら消えている。家の中ではもう少し明るく感じていた月明かりが、あまりにも儚く夜空にぽつんと浮かんでいるだけだった。
音のない漆黒の世界で、承太郎はただ茫然と立ち尽くす。
「つくづく嫌な夢だぜ」
思わずぽつりと吐き出した。早く目覚めろと、現実世界の自分に訴える。
そのときだった。
遥か遠くに、小さな小さな、光が見えた。
「!」
承太郎は持っていた携帯で足元を照らしながら、足早に門を潜ると歩道に出る。目を凝らせば、その光は時折ゆらゆらと揺れながら、こちらに向かって来ているのが分かった。
光が近づいてくるほどに、ずっと無音だった世界に音が混ざりはじめたことに気がつく。
それは下駄で地面を踏み鳴らす、カラコロという足音だった。
息を殺しながら、近づいてくる謎の光を見ていると、やがてそれは小さな手提げ提灯であることが知れた。側面に描かれているのは真っ赤な金魚で、中の蝋燭が揺れる度、金魚の尾びれがひらひらと踊って見える。
心臓が痛いほど高鳴っているのを感じて、承太郎は知らず震える息を吐き出した。
ぼんやりと浮かび上がる人の形をなした影は、小さな子供の姿をしていた。
どくん、どくんと、自分の心臓の音が頭の中に直接響いていた。どこか予感めいたものが、承太郎から呼吸を奪う。
幼子が、ついにあと数歩というところで足を止めた。
やはりこれは夢なのか。
金魚の提灯を下げ、浴衣をまとった幼子は、ずっと探し求めていた『彼』だった。
ひと房だけ垂れ下がる特徴的な前髪に、承太郎は込み上げる感情を抑えきれず、視界が滲むのを感じる。
けれどなぜか、その顔だけは狐の面で隠されていて、見ることができない。
「花京院、なのか……?」
声を絞り出すと震える手を伸ばし、一歩踏み出す。小さな狐は小首を傾げ、肩を竦めると少女のような高い声でクスリと笑った。
「承太郎」
幼い声が、どこか舌足らずに承太郎を呼ぶ。
「……ッ!」
「ぼくのこと、忘れてしまったのかい?」
ああ、やっぱり花京院だ。
何もない、闇ばかりが冴える世界。承太郎の世界。
花京院はここにいた。ようやく会えた。会いたかった。ずっとずっと。
本当は忘れてしまいたかった。だけど怖かった。自分が忘れてしまったら、本当に彼がこの世から消えてしまうような気がして。それでも時間と共に細部は薄れ、生きるほどに大切なものから失われていくようで。
だけど花京院はここにいる。目の前に、確かにいるのだ。
例え夢でも、構わない。
「かきょう、いん……ッ」
承太郎は地面に膝をつき、ついに堪えきれず涙を零す。
幼い頃でさえ、一度だって彼の前で泣いたことなどなかったのに。後から後から流れ出す涙に、口許を押さえて嗚咽を堪える。
「すまねぇ。花京院……すまねぇ……」
見つけてやれなくてすまない。こんなにも切望していたというのに、結局はこの手で探し出すことができなかった。
いつからか諦めを悟った心が、彼の輪郭をぼやけさせるほどに。
踵を鳴らしながら、花京院はゆっくりと承太郎に近づいた。
顔をあげれば、狐の面が心なしか困った顔をしているような気がした。
「承太郎」
思わず手を伸ばし、抱き寄せようとしたところで名前を呼ばれる。
行き場を失くして宙を彷徨う手に、白く幼い指先がちょん、と触れた。
「泣いてちゃダメだよ。ほら、お祭がはじまってしまう」
「祭……?」
「約束したじゃないか。いっしょにお祭に行こうって」
花京院の指先が遠のいていく。
「大丈夫。ぼくが道を照らしてあげるから。ついて来て、承太郎」
「ま、待て、花京院」
背を向けて歩き出してしまった花京院を追って、おざなりに手の平で涙を拭うと立ち上がる。
彼はふと足を止め、こちらを振り向くと首を傾げた。
「なんだい?」
「顔は……見せちゃくれねえのか」
狐の面で隠されて、その表情は見えないままだ。だけど笑っているような気がした。
ならばその顔が見たい。何よりも大切だと思っていた、あの幼い笑顔を。
けれど花京院は首を左右に振り、「あとでね」と言うとまた歩き出してしまった。
*
暗く長い一本道を、金魚の提灯が照らし出す。
承太郎はその小さな背を不思議な気持ちで見つめながら、ただ後をついて歩いていた。
「おい、花京院」
「なに、承太郎」
「……祭ってのは……どこでやってるんだ?」
この世界が夢の中であろうが、そんなものは承太郎にとってどうでもよかった。
目の前に花京院がいる。ただそれだけで心に静穏が満ちていく。
このまま彼と一緒に行けば、あの毎日が光り輝いていた幼い日に戻れるような、そんな気がして。
けれど不思議なのは、どれほど歩いても他に灯りは見えず、祭囃子が聞こえてこないことだった。
小さな町の中で行われる祭だ。家にいてさえ太鼓や笛の音が微かに聞こえていたはずが、静寂の中には足音しか響かない。
「もうすぐだよ。もうすぐ。承太郎、歩き疲れちゃったのかい?」
「いや、そんなことはねえけどよ」
「楽しみだね」
「……ああ」
楽しげに笑っている花京院の足取りに、迷いはない。
こちらは自分が今どこを歩いているのかすら分からないのに。
そのときふと、目の前を行く背中に違和感を覚えた。
「花京院……?」
目を見開いた承太郎が名を呼ぶと、花京院は足を止めて振り向いた。
浴衣も下駄も、狐の面も。なにひとつ変わらない。だけど。
承太郎の腰の高さほどしかなかった花京院の身長が、明らかに伸びている。
ほっそりとした少年らしさはそのままだが、幼子だったはずの彼はいつの間にか中学生ほどにまで成長していた。それに応じて浴衣の丈も自然と合わされている。
この姿を、承太郎は知らない。記憶の中の花京院は10歳のままで時を止めていたからだ。
「おまえ、その姿は……?」
「どうしたの、承太郎」
声は、まだ幾らか高いままだった。少年と少女の狭間で、不安定に揺れている。
名残は十分に残っているのに、そこには承太郎の知らない花京院の姿があった。
なおのこと、顔が見たいと思った。成長した彼はどんな顔をしているのだろう。大きめの口に、くりくりとした丸い瞳。ふっくらとした赤い頬。それらは失われずに、まだそこにあるだろうか。
「ほら見ろ、承太郎。懐かしいな」
花京院は提灯を持っていない方の手を伸ばすと、ある方向を指さした。白い指先が示す場所に目をやって、承太郎は息をのむ。
そこにはゆらゆらと、数匹の蛍が飛び交っていた。
舞い踊る薄ぼんやりとした光が、巨大な赤い鳥居を浮き上がらせる。幻想的な光景に目を奪われながらも、立て続けに起こる不可思議な現象に思考が追いつかない。
「ここは……神社、なのか?」
知らぬ間に、承太郎は神社の敷地内に立ち尽くしていた。
「一体いつの間に……?」
呆然としている承太郎の声が、踏みしめる石畳の地面にぽつりと落ちた。
記憶の中にあるこの場所は、長く続く石階段をのぼって来なければ辿り着けないはずだった。承太郎は花京院の背について、ただひたすら平坦な道を歩いて来た。それがどうしてこんな場所に。
さらにおかしいのは、ここは今ごろ祭の会場になっているはずなのだが、人っ子一人いやしないことだった。
花京院は祭へ行こうと言っていた。けれど出店の一つも見えやしない。ただ鳥居を照らすように、蛍が舞っているだけだ。
「覚えているかい? ぼくたちここで、初めて話をしたんだよ」
花京院はそんなことなどお構いなしに、懐かしい思い出を語り出す。
「ちょうどこの階段の下だったかな。君が足を踏み外して、転げ落ちてしまったのは」
「……ああ、今でもよく覚えているぜ」
あのときの情景を、今もまざまざと脳裏に思い描くことができる。
頭をもたげていた疑問など、大切な記憶の前にはどうでもよく感じられた。
そう、あの日。承太郎は花京院と、ここで初めて言葉を交わした。9歳だった。
「ぼくはこの町に引っ越してきて間もなくて、学校でも誰とも打ち解けられないでいたんだ」
「そうだったな」
「だけどね、ずっと君のことが気になっていたんだよ。君は背も高くて、勉強もできて、とてもカッコよかったのに、いつも一人でさ」
ふと、小さな笑みが漏れる。
彼の言うように、承太郎はいつも一人だった。
母は大人たちのコミュニティでその努力と人柄を買われ、どうにかやっていたけれど、子供の世界はそうとは限らない。
純粋な日本人ではない承太郎は、学校であきらかに孤立していた。
平均よりも大きな身体と、見たこともないような不思議な色の瞳。ハーフというだけで好奇の視線に晒されることに、初めのうちは抗議めいたことをしたこともあるけれど、いつしか面倒になってしまった。
笑うでもなく、怒るでもなく。知らんぷりをしているうちに、一人が当たり前になっていた。本当は寂しいくせに、その方が気楽だと気づかない振りをして。
ただ、母にだけは心配をかけたくなかった。
彼女の前では明るく笑顔で振る舞い、学校が終わって帰宅すると、すぐに友達と遊んでくると嘘をついて、一人でこの神社で時間を潰すこともあった。
そんなとき、花京院が現れた。
彼は遠い町からの移住者で、転校してきたばかりだった。
狭い田舎町はただでさえ閉鎖的だ。当然、学校でも花京院は周囲の人間に溶け込めず、彼もまた、どこか厚い壁を感じさせる不愛想な子供だった。
承太郎はそんな花京院に、どこか近いものを感じていた。何より珍しい赤い髪色や、リスのように潤んだ瞳が印象的で、一目見たときから気になっていたのだ。
愛嬌のある少し大きめの口で、にっこりと笑ったらどんなに可愛いだろうと。思えばあれが、承太郎にとっての初恋だったのかもしれない。
花京院の少女のような可憐な容姿がそう思わせたのか、最初から性別など気にしない性質だったのか、今では分からないけれど。
承太郎はそっと瞼を伏せる。
世界が鮮やかに、この目に映るようになったあの日。
初めて言葉を交わしたのも、そして『約束』を交わしたのも、この場所だった。
蛍だけが舞い踊る神社で、承太郎は大切な記憶の欠片に、意識を這わせた。
←戻る ・ 次へ→
1・まぼろし
あの日、彼は確かに承太郎の傍にいた。
ころころと転がる鈴の音のような幼い声で、赤を乗せた丸い頬で、濡れた瞳で。
同じ歩幅で歩き、同じ寂しさを抱え、その隙間を埋めあいながら。
二人ならどこへだって行ける気がした。強くなれる気がした。
誰よりも大切で、かけがえのない存在だった。
笑った顔が眩しくて、泣いた顔が切なくて。
小さな強がりが危なっかしくて、だけどとても可愛くて。
あれは確かに恋だった。
いつまでもずっと一緒にいられるのだと信じて、共に歩む未来だけを思い描いて。二人は約束を交わした。小指を絡め合い、真っ直ぐにその目を見つめながら。
『おまえがどこに隠れてたって、必ずおれが見つけてやるよ』
幼き日。
沈みゆく夕陽の煌めきが、今は遠い。
*
真夏の焼けつくような空の下、黒の乗用車が深い渓谷を跨ぐ大橋にさしかかる。この橋を渡り切れば、じきに高校三年生までを過ごした田舎町に辿り着く。
まだどこか都会の雑多な空気の中にいるような感覚が、一気に過去へと引き戻されるような気がして、知らず大きな溜息が漏れた。
(去年の夏休みは、戻らなかったからな)
都会の大学へ進学して以来、承太郎が実家に戻る頻度は減っていた。
最後に帰ったのは去年の正月だ。本当は今年も帰らないつもりでいたが、寂しそうな母からの電話に思い直した。
承太郎の父は仕事の関係でほとんど家にいた試しがない。あの大きな家で一人暮らす母を思うと、帰らないわけにもいかない気がした。
承太郎は遠くの緑を白く染める、ギラギラとした太陽に目を眇めると、ハンドルを握り直した。そしてふと、橋の中腹に人だかりができていることに気がついた。
(なにかあったか)
みな一様に橋の下を覗き込んでいたようだが、わざわざ車を停めてまで混ざる気にはなれなかった。
身投げした人間の遺体でも上がったか。昔からこの橋を死に場所に選ぶ人間は少なくなかった。どれほど高いフェンスで仕切っても、死の欲求に抗えない人間にとっては子供騙しにしかならないのだと思う。
命を手放す最期の瞬間。彼らは何を思うのだろう。
安息を求めて飛び込んだそこに、望む世界はあるのだろうか。
少しだけ、それを羨ましいと感じながら。
承太郎は母の待つ家へ向かって、ひたすら車を走らせた。
***
大豪邸と言って差し支えないほどの立派な屋敷が、承太郎の生まれ育った家だった。
遥か彼方まで起伏をなす山々を背に、聳え立つ屋敷の周辺には広大な田園風景がどこまでも広がる。
ここ数年で移住者が増えたのか、申し訳程度にしかなかった民家の他に、真新しい家が何軒か増えていたが、相変わらず何もないど田舎に変わりはなかった。
久しぶりに帰った実家には、盆の時期ということもあり親戚連中が集まっていた。
当然のように父は不在だったが、子供の頃からよく知る叔父や叔母が昼間からわいわいと酒を飲んでは、それぞれの近況や昔話に花を咲かせている。
母は帰って来た承太郎にひとしきりハグをしてはしゃいだ後、次から次へと酒や料理を運ぶのに大忙しだった。
承太郎は酒盛りをする親戚連中を背に、縁側に胡坐をかいてぼんやりと庭を眺めていた。
夏の風に揺れる風鈴が涼やかな音色を奏で、昔に比べるといくらか元気のない蝉の合唱に耳を傾ける。ふわりと立ち上る蚊取り線香の匂いに、懐かしさが込み上げた。
広い庭では数人の子供たちが遊びまわっていた。親戚の子供だが、中には見知った顔もあれば、名前と顔が一致しない子供もいる。
暑いなか駆けまわる活気に満ちた姿へ目を細めると、承太郎はジーンズのポケットに手を忍ばせる。指先で探り当てたものを掌に乗せると、僅かに揺らして転がした。
それはまるでさくらんぼのような、二つの赤いピアスだった。
承太郎はただ静かに瞳を揺らし、昔はもっと赤々として光り輝いていたはずのピアスを見下ろす。
時がたつにつれ、誰にも身に着けてもらえないまま色褪せていく石は、承太郎の心だけを鈍く反射しているような気がした。
「そういや、ついさっきすぐそこの橋の下で仏さんが上がったってなぁ」
そっとピアスを握り込んだ承太郎の耳が、背後で酒を飲む誰かの声を拾う。
ぴくりと、無意識に眉が動くのを感じた。
「あらまぁ嫌だねぇ。身投げかい?」
「詳しいことはようわからんがね、だいぶ古くて白骨化した遺体だって話だ」
先刻、橋の上で見た一団はやはり野次馬だったか。
そんなことだろうとは思っていたが、遺体が古いという話を聞いた途端に心臓がドクンと跳ねた。じわじわと黒い靄が広がるように、身体の内側で何かが騒ぐ。
「おい叔父さん」
黙って聞いていた承太郎だが、矢も楯もたまらず振り向くと叔父に向かって声をかける。一斉に視線が集まる中、押し殺したような低い声で問いかけた。
「その遺体ってのは……子供か?」
叔父は手にしていたビールジョッキをテーブルに戻すと、否定とも肯定ともつかない曖昧な息を漏らす。
「大人と子供、両方だって話だ。親子心中なんてな、痛ましい話だ」
「……心中」
糸が張り詰めるように緊張していた身体から、ほんの僅かに力が抜けた。
悟られぬ程度に震えた息を漏らし、承太郎は再び庭の方へと視線を戻す。
(花京院じゃない、か)
胸の中から溢れ出るのは安堵と、ほんの僅かな落胆だった。
後者の感情は承太郎にとって忌むべきもので、自責の念に拍車をかけるには十分すぎる。
それでも、ほんの少しだけ。
(もう10年だ。なぁ、花京院)
庭に敷き詰められた白玉石が、真夏の金色を弾いて光り輝いている。承太郎の目に、それは些か眩しすぎた。目を逸らすように閉じた瞳の内側にさえ、光の残像がいつまでもこびりついて離れない。赤く、まるで責めるように燃えている。
あれは10年前の夏のこと。
承太郎は、大切な友人を失くした。
祭の夜だった。太鼓や笛の音色と、美しい衣を纏った巫女が艶やかに舞う神楽。承太郎がその美しさに目を奪われている間に、彼は、消えた。
警察や消防が必死の捜索を行ったが、神社からさほど離れていない山道で、彼が履いていた下駄の片方が見つかるだけだった。
年寄り連中はしきりに神隠しだなんだと騒ぎ立てていたが、熊に食われたか、崖から落ちて川に流されたのだろうと、町の人間は勿論、いつしか彼の両親までもが我が子の無事を諦めた。
そんな中、承太郎だけは納得することができなかった。花京院はどこかに隠れているだけなのだと、そう信じて思いつく限りの場所を必死で探して回った。けれど髪の毛一本、見つけ出すことは叶わなかった。
約束したのに。どこにいたって必ず、見つけてやると。
(おまえは、どこにもいやがらねえ)
月日の流れと共に、取り戻したかったはずの温もりが陽炎のように揺らめき、薄れていくのを感じていた。
手を伸ばしても、そこにあるのはバラバラに砕けた思い出の残骸だけだ。
砂のように崩れていく記憶が、絆が、指の隙間を零れ落ちていく。
忘れたい。忘れたくない。果たしたい。だけど果たせない。交わした約束が、遥か遠くの岸へと流されていくようで。
いつしか償う方法だけを、探すようになっていた。
俯き、額を押さえる承太郎の頬を生ぬるい風が撫でていく。そんな中ふと、辺りが異様なまでに静まり返っていることに気がついた。
親戚連中の話し声も、子供たちのはしゃぐ声も、痛々しい蝉の合唱も。
ただ、風鈴だけがチリンと音を立てた。
「ッ……!」
その違和感に顔を上げた。色を失くした世界は白黒で、微かにノイズがかかって見える。
恐ろしいまでの静寂の中、承太郎は目の前の光景から目が離せない。
それは、浴衣を着た小さな子供の姿をしていた。
白と黒の世界に、彼だけが色を失わず、目の前に佇んでいる。
緑色の浴衣に黄色みがかった献上柄の帯をして、焼下駄を履いているその姿は、あの祭の夜のまま何一つ変わらない。
赤い髪とビー玉のように丸い瞳が、縁側で硬直する承太郎を見つめている。
『おかえり』
懐かしい、幼い声でそう言って、少年は微笑んだ。
瞬きひとつできない承太郎は、震える指先を彼へと伸ばす。
「か、きょう、いん……?」
風鈴が、再び大きく音を奏でた。
「――ッ!!」
一瞬にして世界が色を取り戻す。真夏の陽光と庭の木々、駆けまわる子供たちの足音や、一斉に喚く蝉の声。
目の前に、花京院はいない。ただ、同じ年頃の少年が一人、目を丸くして小首を傾げていた。
「承太郎さん? どうしたんスか?」
「……仗助、か?」
「ういっす!」
青い浴衣を着た仗助は、親戚の子供たちの中でも特に承太郎に懐いている少年だった。
艶やかな黒髪をリーゼントで決めて、白い歯を見せながらニッと笑う姿は、記憶の中より一回り大きくなっている。
承太郎は内心の動揺を押し隠しながら表情を和らげた。
「でかくなったな。いま幾つだ?」
「10歳ッス! 小4になりました!」
「そうか」
「承太郎さん! 今夜はそこの神社でお祭りッスよ! 一緒に行きましょうよォ~!!」
「祭、か……」
縁側に腰を下ろす承太郎に駆け寄り、仗助が無邪気に目を輝かせて頷いた。
祭というワードに、心臓が針を刺したようにズキリと痛む。
承太郎はそのリーゼントを崩さない程度に大きな手の平でそっと撫で、苦笑しながら首を左右に振った。
「悪いな。おれは留守番だ。祭にはおまえらだけで行ってきな」
「そうっスかぁ……なら仕方ないっスね~……」
しょんぼりと俯きながらも聞き分けのいい仗助は、すぐに駆けだしてまた他の子供たちと遊び始めた。
その姿を眺めながら、承太郎はつい先ほど見た光景について思考を巡らせる。
(仗助を見間違えただけか……? あいつがいなくなったのも、ちょうど同じ年の頃だった)
白と黒の不思議な世界。あれは白昼夢のようなものだったのか。
久しぶりに長い時間車を走らせたせいで、少し疲れているのかもしれない。
仮に花京院が生きていたとして、あの頃の姿のままでいるはずがないのだから。
(……仮に、か)
ふと、自嘲的な笑みが漏れる。
花京院は今も必ずどこかで生きていると、だから見つかるまで探し続けるのだと。幼い頃はそう信じていたはずなのに。
(わかっている。わかっているのさ)
大人になって、目に見える現実だけが全てだということを、承太郎は悟ってしまった。
花京院はもう、どこにもいない。
(頼む……許してくれ、花京院……)
彼の幻にまで縋ろうとしている自分が無様で、承太郎はそっと睫毛を揺らして瞳を閉じる。
どこからか漂う白檀を乗せた風に、風鈴が悲しげな音をたてた。
――おかえり、承太郎。
***
夜、誰もいない屋敷の内部はしんと静まり返っていた。
承太郎は自室に敷いた布団に寝そべり、ぼんやりと天井の木目を見つめる。
閉じられた障子の向こうから、夏の虫がどこか儚い声を響かせていた。それに混じって、微かに太鼓と笛の音が聞こえていた。
仗助を含む子供たちは、大人連中に連れられて今ごろ出店をひやかして回っていることだろう。母ホリィもまた、彼らの保護者として共に行ってしまった。
留守番をすると言った息子に、母は何も言わなかった。彼女は承太郎のことをよく分かってくれている。あるいは母もまた、責任を感じて今も胸を痛めているのかもしれない。
花京院はホリィによく懐いていた。ともすれば自分の母親以上に慕っていたのを覚えている。母もまた、彼を息子同然に可愛がっていた。
毎年のように行われる夏祭りでは、この町に暮らす女性が一人、神楽巫女として選ばれる。
10年前の今日、巫女を務めたのは母だった。
母はこの家に嫁入りしたに過ぎない他所者で、しかも日本人ではない。嫁いだ当初は周りの風当たりも相当厳しかったと聞いた。
だが彼女は持前の明るさと優しさで、少しずつこの町に溶け込んだ。今では『聖子』と日本人女性の名で呼ばれるほど、近所付き合いも良好だ。
だからあの年、母が巫女に選ばれたとき承太郎は心の底から誇らしかった。それは花京院も同じで、早くホリィさんの舞う神楽が見たいと頬を染めてはしゃいでいた。
花京院が姿を消したあと、母はやはり巫女の役を引き受けるべきではなかったと、涙を零していた。
あなたたちの傍についていれば、こんなことにはならなかったのにと。
どんな時でも笑顔を絶やさぬ母の泣き顔を思い出して、承太郎は心の中の澱みを逃がすように震える息を吐き出した。そしてふと、枕元に投げ出していた携帯電話で時刻を確認する。
ちょうど19時。そろそろ、今年の巫女が神楽を舞う頃か。
承太郎は仰向けから横向きへと姿勢を変え、背中を丸めると目を閉じた。
――承太郎、起きて。待ちくたびれてしまったよ。
←戻る ・ 次へ→
あの日、彼は確かに承太郎の傍にいた。
ころころと転がる鈴の音のような幼い声で、赤を乗せた丸い頬で、濡れた瞳で。
同じ歩幅で歩き、同じ寂しさを抱え、その隙間を埋めあいながら。
二人ならどこへだって行ける気がした。強くなれる気がした。
誰よりも大切で、かけがえのない存在だった。
笑った顔が眩しくて、泣いた顔が切なくて。
小さな強がりが危なっかしくて、だけどとても可愛くて。
あれは確かに恋だった。
いつまでもずっと一緒にいられるのだと信じて、共に歩む未来だけを思い描いて。二人は約束を交わした。小指を絡め合い、真っ直ぐにその目を見つめながら。
『おまえがどこに隠れてたって、必ずおれが見つけてやるよ』
幼き日。
沈みゆく夕陽の煌めきが、今は遠い。
*
真夏の焼けつくような空の下、黒の乗用車が深い渓谷を跨ぐ大橋にさしかかる。この橋を渡り切れば、じきに高校三年生までを過ごした田舎町に辿り着く。
まだどこか都会の雑多な空気の中にいるような感覚が、一気に過去へと引き戻されるような気がして、知らず大きな溜息が漏れた。
(去年の夏休みは、戻らなかったからな)
都会の大学へ進学して以来、承太郎が実家に戻る頻度は減っていた。
最後に帰ったのは去年の正月だ。本当は今年も帰らないつもりでいたが、寂しそうな母からの電話に思い直した。
承太郎の父は仕事の関係でほとんど家にいた試しがない。あの大きな家で一人暮らす母を思うと、帰らないわけにもいかない気がした。
承太郎は遠くの緑を白く染める、ギラギラとした太陽に目を眇めると、ハンドルを握り直した。そしてふと、橋の中腹に人だかりができていることに気がついた。
(なにかあったか)
みな一様に橋の下を覗き込んでいたようだが、わざわざ車を停めてまで混ざる気にはなれなかった。
身投げした人間の遺体でも上がったか。昔からこの橋を死に場所に選ぶ人間は少なくなかった。どれほど高いフェンスで仕切っても、死の欲求に抗えない人間にとっては子供騙しにしかならないのだと思う。
命を手放す最期の瞬間。彼らは何を思うのだろう。
安息を求めて飛び込んだそこに、望む世界はあるのだろうか。
少しだけ、それを羨ましいと感じながら。
承太郎は母の待つ家へ向かって、ひたすら車を走らせた。
***
大豪邸と言って差し支えないほどの立派な屋敷が、承太郎の生まれ育った家だった。
遥か彼方まで起伏をなす山々を背に、聳え立つ屋敷の周辺には広大な田園風景がどこまでも広がる。
ここ数年で移住者が増えたのか、申し訳程度にしかなかった民家の他に、真新しい家が何軒か増えていたが、相変わらず何もないど田舎に変わりはなかった。
久しぶりに帰った実家には、盆の時期ということもあり親戚連中が集まっていた。
当然のように父は不在だったが、子供の頃からよく知る叔父や叔母が昼間からわいわいと酒を飲んでは、それぞれの近況や昔話に花を咲かせている。
母は帰って来た承太郎にひとしきりハグをしてはしゃいだ後、次から次へと酒や料理を運ぶのに大忙しだった。
承太郎は酒盛りをする親戚連中を背に、縁側に胡坐をかいてぼんやりと庭を眺めていた。
夏の風に揺れる風鈴が涼やかな音色を奏で、昔に比べるといくらか元気のない蝉の合唱に耳を傾ける。ふわりと立ち上る蚊取り線香の匂いに、懐かしさが込み上げた。
広い庭では数人の子供たちが遊びまわっていた。親戚の子供だが、中には見知った顔もあれば、名前と顔が一致しない子供もいる。
暑いなか駆けまわる活気に満ちた姿へ目を細めると、承太郎はジーンズのポケットに手を忍ばせる。指先で探り当てたものを掌に乗せると、僅かに揺らして転がした。
それはまるでさくらんぼのような、二つの赤いピアスだった。
承太郎はただ静かに瞳を揺らし、昔はもっと赤々として光り輝いていたはずのピアスを見下ろす。
時がたつにつれ、誰にも身に着けてもらえないまま色褪せていく石は、承太郎の心だけを鈍く反射しているような気がした。
「そういや、ついさっきすぐそこの橋の下で仏さんが上がったってなぁ」
そっとピアスを握り込んだ承太郎の耳が、背後で酒を飲む誰かの声を拾う。
ぴくりと、無意識に眉が動くのを感じた。
「あらまぁ嫌だねぇ。身投げかい?」
「詳しいことはようわからんがね、だいぶ古くて白骨化した遺体だって話だ」
先刻、橋の上で見た一団はやはり野次馬だったか。
そんなことだろうとは思っていたが、遺体が古いという話を聞いた途端に心臓がドクンと跳ねた。じわじわと黒い靄が広がるように、身体の内側で何かが騒ぐ。
「おい叔父さん」
黙って聞いていた承太郎だが、矢も楯もたまらず振り向くと叔父に向かって声をかける。一斉に視線が集まる中、押し殺したような低い声で問いかけた。
「その遺体ってのは……子供か?」
叔父は手にしていたビールジョッキをテーブルに戻すと、否定とも肯定ともつかない曖昧な息を漏らす。
「大人と子供、両方だって話だ。親子心中なんてな、痛ましい話だ」
「……心中」
糸が張り詰めるように緊張していた身体から、ほんの僅かに力が抜けた。
悟られぬ程度に震えた息を漏らし、承太郎は再び庭の方へと視線を戻す。
(花京院じゃない、か)
胸の中から溢れ出るのは安堵と、ほんの僅かな落胆だった。
後者の感情は承太郎にとって忌むべきもので、自責の念に拍車をかけるには十分すぎる。
それでも、ほんの少しだけ。
(もう10年だ。なぁ、花京院)
庭に敷き詰められた白玉石が、真夏の金色を弾いて光り輝いている。承太郎の目に、それは些か眩しすぎた。目を逸らすように閉じた瞳の内側にさえ、光の残像がいつまでもこびりついて離れない。赤く、まるで責めるように燃えている。
あれは10年前の夏のこと。
承太郎は、大切な友人を失くした。
祭の夜だった。太鼓や笛の音色と、美しい衣を纏った巫女が艶やかに舞う神楽。承太郎がその美しさに目を奪われている間に、彼は、消えた。
警察や消防が必死の捜索を行ったが、神社からさほど離れていない山道で、彼が履いていた下駄の片方が見つかるだけだった。
年寄り連中はしきりに神隠しだなんだと騒ぎ立てていたが、熊に食われたか、崖から落ちて川に流されたのだろうと、町の人間は勿論、いつしか彼の両親までもが我が子の無事を諦めた。
そんな中、承太郎だけは納得することができなかった。花京院はどこかに隠れているだけなのだと、そう信じて思いつく限りの場所を必死で探して回った。けれど髪の毛一本、見つけ出すことは叶わなかった。
約束したのに。どこにいたって必ず、見つけてやると。
(おまえは、どこにもいやがらねえ)
月日の流れと共に、取り戻したかったはずの温もりが陽炎のように揺らめき、薄れていくのを感じていた。
手を伸ばしても、そこにあるのはバラバラに砕けた思い出の残骸だけだ。
砂のように崩れていく記憶が、絆が、指の隙間を零れ落ちていく。
忘れたい。忘れたくない。果たしたい。だけど果たせない。交わした約束が、遥か遠くの岸へと流されていくようで。
いつしか償う方法だけを、探すようになっていた。
俯き、額を押さえる承太郎の頬を生ぬるい風が撫でていく。そんな中ふと、辺りが異様なまでに静まり返っていることに気がついた。
親戚連中の話し声も、子供たちのはしゃぐ声も、痛々しい蝉の合唱も。
ただ、風鈴だけがチリンと音を立てた。
「ッ……!」
その違和感に顔を上げた。色を失くした世界は白黒で、微かにノイズがかかって見える。
恐ろしいまでの静寂の中、承太郎は目の前の光景から目が離せない。
それは、浴衣を着た小さな子供の姿をしていた。
白と黒の世界に、彼だけが色を失わず、目の前に佇んでいる。
緑色の浴衣に黄色みがかった献上柄の帯をして、焼下駄を履いているその姿は、あの祭の夜のまま何一つ変わらない。
赤い髪とビー玉のように丸い瞳が、縁側で硬直する承太郎を見つめている。
『おかえり』
懐かしい、幼い声でそう言って、少年は微笑んだ。
瞬きひとつできない承太郎は、震える指先を彼へと伸ばす。
「か、きょう、いん……?」
風鈴が、再び大きく音を奏でた。
「――ッ!!」
一瞬にして世界が色を取り戻す。真夏の陽光と庭の木々、駆けまわる子供たちの足音や、一斉に喚く蝉の声。
目の前に、花京院はいない。ただ、同じ年頃の少年が一人、目を丸くして小首を傾げていた。
「承太郎さん? どうしたんスか?」
「……仗助、か?」
「ういっす!」
青い浴衣を着た仗助は、親戚の子供たちの中でも特に承太郎に懐いている少年だった。
艶やかな黒髪をリーゼントで決めて、白い歯を見せながらニッと笑う姿は、記憶の中より一回り大きくなっている。
承太郎は内心の動揺を押し隠しながら表情を和らげた。
「でかくなったな。いま幾つだ?」
「10歳ッス! 小4になりました!」
「そうか」
「承太郎さん! 今夜はそこの神社でお祭りッスよ! 一緒に行きましょうよォ~!!」
「祭、か……」
縁側に腰を下ろす承太郎に駆け寄り、仗助が無邪気に目を輝かせて頷いた。
祭というワードに、心臓が針を刺したようにズキリと痛む。
承太郎はそのリーゼントを崩さない程度に大きな手の平でそっと撫で、苦笑しながら首を左右に振った。
「悪いな。おれは留守番だ。祭にはおまえらだけで行ってきな」
「そうっスかぁ……なら仕方ないっスね~……」
しょんぼりと俯きながらも聞き分けのいい仗助は、すぐに駆けだしてまた他の子供たちと遊び始めた。
その姿を眺めながら、承太郎はつい先ほど見た光景について思考を巡らせる。
(仗助を見間違えただけか……? あいつがいなくなったのも、ちょうど同じ年の頃だった)
白と黒の不思議な世界。あれは白昼夢のようなものだったのか。
久しぶりに長い時間車を走らせたせいで、少し疲れているのかもしれない。
仮に花京院が生きていたとして、あの頃の姿のままでいるはずがないのだから。
(……仮に、か)
ふと、自嘲的な笑みが漏れる。
花京院は今も必ずどこかで生きていると、だから見つかるまで探し続けるのだと。幼い頃はそう信じていたはずなのに。
(わかっている。わかっているのさ)
大人になって、目に見える現実だけが全てだということを、承太郎は悟ってしまった。
花京院はもう、どこにもいない。
(頼む……許してくれ、花京院……)
彼の幻にまで縋ろうとしている自分が無様で、承太郎はそっと睫毛を揺らして瞳を閉じる。
どこからか漂う白檀を乗せた風に、風鈴が悲しげな音をたてた。
――おかえり、承太郎。
***
夜、誰もいない屋敷の内部はしんと静まり返っていた。
承太郎は自室に敷いた布団に寝そべり、ぼんやりと天井の木目を見つめる。
閉じられた障子の向こうから、夏の虫がどこか儚い声を響かせていた。それに混じって、微かに太鼓と笛の音が聞こえていた。
仗助を含む子供たちは、大人連中に連れられて今ごろ出店をひやかして回っていることだろう。母ホリィもまた、彼らの保護者として共に行ってしまった。
留守番をすると言った息子に、母は何も言わなかった。彼女は承太郎のことをよく分かってくれている。あるいは母もまた、責任を感じて今も胸を痛めているのかもしれない。
花京院はホリィによく懐いていた。ともすれば自分の母親以上に慕っていたのを覚えている。母もまた、彼を息子同然に可愛がっていた。
毎年のように行われる夏祭りでは、この町に暮らす女性が一人、神楽巫女として選ばれる。
10年前の今日、巫女を務めたのは母だった。
母はこの家に嫁入りしたに過ぎない他所者で、しかも日本人ではない。嫁いだ当初は周りの風当たりも相当厳しかったと聞いた。
だが彼女は持前の明るさと優しさで、少しずつこの町に溶け込んだ。今では『聖子』と日本人女性の名で呼ばれるほど、近所付き合いも良好だ。
だからあの年、母が巫女に選ばれたとき承太郎は心の底から誇らしかった。それは花京院も同じで、早くホリィさんの舞う神楽が見たいと頬を染めてはしゃいでいた。
花京院が姿を消したあと、母はやはり巫女の役を引き受けるべきではなかったと、涙を零していた。
あなたたちの傍についていれば、こんなことにはならなかったのにと。
どんな時でも笑顔を絶やさぬ母の泣き顔を思い出して、承太郎は心の中の澱みを逃がすように震える息を吐き出した。そしてふと、枕元に投げ出していた携帯電話で時刻を確認する。
ちょうど19時。そろそろ、今年の巫女が神楽を舞う頃か。
承太郎は仰向けから横向きへと姿勢を変え、背中を丸めると目を閉じた。
――承太郎、起きて。待ちくたびれてしまったよ。
←戻る ・ 次へ→
「来主」
好天に恵まれた5月のある日。
今年の夏は少しせっかちだ。まだ梅雨入りもしていないうちから暑い日が続いている。
アスファルトが白く日差しを照り返す中、長い坂道をのぼる操は数歩遅れた位置から甲洋に呼ばれても、なにも答えず歩き続けていた。
「来主ってば。そろそろ機嫌なおして」
甲洋は耳をぺったりと寝かせ、困った顔をしている。振り向かなくてもそれが分かった。
「俺が悪かった。謝るから」
坂の中腹で操はようやく足を止めた。彼が言う通り、操は機嫌を損ねていた。というより、へそを曲げている。意地になって先を急いでいたせいで、呼吸が乱れて汗だくになっていた。
すぐに甲洋が追いついて、隣に並んだ。思った通り耳も眉もすっかり下げた状態で顔を覗き込まれたとき、操は自分が腹を立てているというよりは、悲しんでいるのだということに気がついて泣きたくなった。そしてその悲しいという気持ちの根底には、悔しいという感情があることにも、気がついている。
「水は? 持ってきただろ?」
甲洋が白いパンツの尻ポケットからタオル地のハンカチを取り出し、操の額や首筋を拭きながら言った。サラリとした生地が皮膚を撫でるのが心地いい。
「……かばん」
熱さにすっかり赤らんだ頬をしながら答えると、甲洋は操の背中にある斜めがけのショルダーバッグの中身を漁った。取り出した500ミリのペットボトルの蓋を開け、そっと差し出してくる。
「ほら、飲みな」
はかはかと息を漏らす唇に飲み口が寄せられる。操をそれを両手で受け取り、勢いよく水を飲んだ。半分くらい飲み干したところで大きく息をつく。
甲洋もどこかほっとしたような息を漏らした。それから操がかけているバッグのショルダー部分を掴むと、スルリと外して手に持った。
「い、いいよ。そんな重くないし」
「ここからは俺が持つよ。本も入ってるし。水だけ持っといて、こまめに飲んで」
同じ距離を歩いてきたはずなのに、甲洋は汗ひとつかかず涼しげだ。彼は操より身体が大きいし、ヒト型とはいえ人間に比べると脚力にだって大きな差がある。
「……どうせおれは弱っちいよ」
むっと口をへの字にして俯く操に、甲洋がまた困った顔をして肩をすくめた。
*
時は数刻前まで遡る。
朝起きて、のんびり朝食をとったあと、操と甲洋は羽佐間容子の家へ赴いた。以前、甲洋が家出してしまったときに、彼女と交わした約束を果たすためだ。
容子はふたりを笑顔で出迎えてくれた。
冷えた麦茶と水羊羹をご馳走になりながら、翔子の成長記録ともいえるアルバムを数冊、見せてもらった。
翔子のことを話す容子の瞳に涙はなかった。こんなふうに微笑みながら話ができるようになるまで、このひとはどれだけの涙を流したのだろう。容子を見て、彼女もまた悲しい記憶を大切な思い出に変えて生きているのだと、操は思った。
それから翔子の遺影の前でふたり並んで手を合わせた。
操は甲洋の様子がずっと気がかりだったが、彼の表情はずっと穏やかなまま、写真立てに収まる初恋の少女と向き合っていた。
そのあと散歩から戻ってきたカノンにも会った。
彼女は淡い薄青のワンピースを着て、ふたりの前に恥ずかしそうに姿を見せた。翔子が着ていたものだということは、ひと目で分かった。
カノンは少し前に比べて、仕草も表情もずいぶんと柔らかくなっていた。不器用そうな物言いは相変わらずだったが、甲洋が無事に生きて目の前に現れたことに、はにかむような笑顔を見せた。
勝ち気そうな瞳と鮮やかな赤毛をした黒猫に、ただ静かに瞳を眇めた甲洋は何を見たのだろう。彼が愛した淡く儚い白猫と、カノンは少しも重ならない。
けれどワンピースは彼女にとてもよく似合っていた。名前を呼ばれ、容子の元へと駆け寄る華奢な背中。スカートがふわりと揺れるのを見て、操は不思議な懐かしさにとらわれた。
この場所に積み重なる優しい記憶が空気になって、そんなふうに思わせたのかもしれない。
その懐かしさをどこか愛おしいと感じながら、そっと甲洋の手に触れた。彼は優しく、けれど確かな強さで操の手を握り返した。
*
きちんと礼を済ませて羽佐間家を後にすると、視線は自然と無人の楽園へと向けられた。
操が訪れたのは三月の中頃だったはずだから、まだ二ヶ月経つかどうかといったところだ。
たったそれだけの短い間で、外壁の汚れはさらに色濃く滲み、窓ガラスも曇りを帯びて墨を塗り込めたようになっていた。
店の前には一人の男性が立ち尽くしていた。建物を見上げ、困った顔をしながら「ありゃ~」と声をあげている。歴戦の猛者を思わせるような容貌に、タンクトップから突き出た太い両腕がこんがりと焼けていた。
「閉店してたとはなぁ……すっかり廃墟になっちまって……」
ああ、以前この店の常連だった人かとぼんやり眺めていると、甲洋が意外そうな顔をしながら「溝口さんだ」と言った。
「え? あの人が前に言ってた?」
「そう」
すると溝口と呼ばれた男性もこちらに気づき、甲洋を見て目を丸くした。
「お前さん、甲洋か? おいおい、ずいぶん立派になったじゃないか」
「ご無沙汰してます、溝口さん」
甲洋が頭を下げたので、操も慌ててペコリと頭を下げた。
溝口はぽっかりと口を開けながら甲洋を上から下まで眺めつつ、こちらに近づいてくる。
「全くやだね、ガキんちょってのは。ちょっと目を離すとすーぐでっかくなっちゃって。久々に来たら店はこんな有様だしよ。お前さん、今どうしてるんだ? 親父さんとお袋さんは?」
「店は去年の暮れに。父さんと母さんは……きっと元気にしてると思います」
「……へぇ。で、お前さんは?」
「俺は、今は彼と」
甲洋が目配せをしてくるので、操はなんとなく緊張しながら背筋を伸ばした。
「い、今はおれが甲洋の飼い主です! 名前は来主操です!」
子供のように拙い自己紹介をした操に、甲洋が小さくふきだした。
「な、なに? おれなにか変なこと言った?」
「いや、お前でも緊張することがあるのかと思って」
「またそうやって意地悪言う……」
甲洋を見上げながら頬を膨らます操を見て、溝口がカラカラと笑った。
「まぁ色々あったんだろうが……楽しくやってるんならよかったよ」
それから溝口は「あ、そうだ」と言って、担いでいたボストンバッグからゴソゴソと何かをとりだし、甲洋に差し出した。
「これは?」
それは書店名が書かれた茶色い封筒だった。
溝口は少し参った様子で頭を掻きながら「土産だよ」と言った。
封筒を受け取った甲洋が中身を取りだすと、そこからは何冊かの児童書が顔を覗かせた。
「あ、この本おれ読んだことある! 小学生のころの夏休みで、課題図書だったやつだ」
覗き込んでそう言った操に、溝口は「なはは」とおどけて苦笑した。
「いやぁ……あれから随分と経ってるってのに、時間の感覚がなくってなぁ。ついつい子供向けの本を買っ……や、持ってきちまったよ」
甲洋が話していた通りだなぁと操は思った。中身も封筒も明らかに新品である。
このひとの中では、甲洋はいつまで経っても腹をすかせた子犬のままなのだ。その頃の甲洋を知らない操は、そんな溝口を少しだけ羨ましく思った。
「ありがとう、溝口さん。大事にするよ」
甲洋はどこかくすぐったそうに肩をすくめて笑った。
「そうか? まぁ、大人が読んでもいいもんだ。そういうのはな」
「そうですね」
「誕生日プレゼントにしちゃあ、ちょいと地味かもしれんが。おめっとさん」
「誕生日!?」
溝口が放った言葉に反応したのは操だった。
「甲洋、誕生日だったの? いつ? 今日?」
「なんだお前さん、飼い主のくせに知らなかったのか? おいおい水臭いな。そういうのはちゃんと言っとくもんだろうに」
「ああ、うん……ごめん」
「昨日だよ、昨日。5月7日」
そう言って、溝口はバッグを担ぎ直した。
「んじゃ、俺は行くよ。またしばらくここいらに滞在することになったから、縁がありゃあまたどっかで会うかもな」
「今回も仕事で?」
溝口は軽い感じで「そ」と言うと、改めて甲洋を見て嬉しそうに笑った。
「お前さんが幸せそうでなによりだ。達者でな」
「溝口さんも、お元気で」
「甲洋を頼んだぞ、操ちゃん」
溝口は甲洋と操の頭をそれぞれポンポンと軽く叩くと、大きな歩幅で行ってしまった。
*
そして今に至る。
操は甲洋の誕生日を祝えなかったことが悔しかった。いま一番近くにいるのは自分なのに、真っ先におめでとうを言えなかったことが。
なにより教えてもらえなかったことが悲しくて、腹がたった。
「昨日だったなんて、酷いよ」
「ごめん」
操が甲洋を見上げると、ガードレールの向こう側をトラックが走り抜けた。結構な勢いの風に乗って、砂埃と排気ガスの臭いが立ち込める。道の両脇で伸びっぱなしの雑草がざわざわと大きな音をたてた。甲洋が風圧によろけそうになった操の腕をとり、さりげなく引き寄せる。
やがて辺りが静まりかえるのを待って、甲洋の口が開かれた。
「わざわざ言うのも気が引けたんだ。祝われる習慣もなかったから」
「だったらなおさらだよ。言ってほしかった。ちゃんと」
甲洋はもう一度「ごめん」と小さく言った。
彼がそうやって謝罪するたび、決して謝ってほしいわけではないのだと操は思う。だけど結果的に彼を責める形になっていて、気まずい空気に下唇を噛み締めた。
「……本当は」
どこか迷っている様子で、甲洋がぽつりと零す。操はただ頷いて、静かにその先を促した。
「一度だけ、祝ってもらったことがあるんだ。小さなころに。思いつきというか、気まぐれだったんだろうけど」
その日はちょうど甲洋があの夫婦に引き取られた日だった。
もともといつ生まれたのかは流石の甲洋も覚えていないらしいが、彼の両親は「お前が来た日だから」と言って、店の残り物のケーキとTシャツを一枚プレゼントしてくれた。それがちょうど5月7日だったのだ。
「嬉しかったんだ。すごく」
ケーキはクリームが溶けて表面がドロドロになっていたし、シャツは毎日着続けているうちに傷んでしまった。そのうちだんだん着られなくなって、知らぬ間に捨てられていたけれど。
そう言いながら、甲洋は目を細めて笑った。
ほんの一度の、ささいな気まぐれ。それでも彼は忘れない。嬉しかったことを、つい昨日のことのように思いだせるから。だから甲洋は自分を捨てたはずの夫婦を憎めないのだろうなと、操は思う。
「俺にはその思い出だけで充分なんだよ」
「……じゃあ、おれからはなにもいらないってこと?」
「それは……」
甲洋は口ごもり、それから幾度か目を泳がせる。指先でカリカリと頬をかき、やがておずおずと操を見た。
「バチが当たるかもしれないだろ」
「ばち?」
「俺はいま幸せだから。これ以上は、きっとバチが当たる」
茶化しているふうでもなく、甲洋は真剣だった。操は思わず目を丸くして、口をぽっかりと開ける。
「幸せすぎて怖いって言いたいの?」
「……うん」
「臆病だな、甲洋は」
「俺もそう思う」
苦笑した甲洋に、操はへそを曲げていたのが嘘のように気が抜けてしまった。
「そんなこと言ったら、おれは明日にでも死んじゃうかもしれないよ」
「縁起でもないな」
「だってそういうことでしょ。おれだって幸せなんだから」
甲洋はなにも答えられずにただ唇を震わせる。操は笑った。
「ねぇ、おれたちきっと明日も生きてるよ。次の日も、そのまた次の日も。来年も、再来年もさ。10年後も、その先も、たぶん生きてる。君と一緒に、生きてるんだと思う」
この幸せに対価なんかない。もしあるのだとしたら、それはもうおつりが来るくらい払っている。だからあとは、ずっと笑って生きていなくちゃ嘘だ。
「おれは甲洋が生まれてきてくれて嬉しい。今ここに君がいてくれることが嬉しいよ。だから来年はちゃんとお祝いする。バチなんか当たらない」
「来主……」
彼が生きてきた時間が愛しい。今こうして生きている甲洋のことが、大好きだ。
「おれが守ってあげるよ。怖がりな君のこと」
それに、やっぱり単純に悔しいと思う。これはきっとヤキモチだ。溝口だけが彼の幼い頃を知っていて、先にプレゼントを渡して、おめでとうを言ってしまった。
けれどあそこで彼に会わなければ、操は甲洋の誕生日を知らないままだったかもしれない思うと、それもまた複雑である。もちろん、溝口に会えたことは嬉しかったけれど。
甲洋は操の言葉に目を瞬かせ、それから眉をほんのりハの字にしながら複雑そうに言った。
「お前っていつもそうだよ。俺が言いたかったことを、俺より先に言ってしまう」
「そうなの?」
「自分だって怖がりのくせに」
「そ、そんなことないよ! おれは怖がりじゃない!」
焦りだした操に、甲洋は堪えきれず小さくふきだした。
せっかくかっこよく決まったと思ったのに、これでは台無しだ。ぶぅっと頬を膨らませていると、甲洋の大きな手が操の頭をぽんぽんと撫でた。
「ありがとう、来主」
小首を傾げるようにしてくすぐったそうに笑う甲洋に、操の胸もくすぐられる。
その笑顔はどこか甘ったるくて、きっと自分にだけ向けられる特別なものなのだと思った。
だって操は甲洋の飼い主だけれど、ふたりの関係はそれだけではないのだ。
「守るよ。俺も、お前のことを」
こればかりは絶対に、溝口だって敵うまい。
*
ふたりがその足で訪れたのは、家出した甲洋を見つけたあの臨海公園だった。
海沿いに長く伸びる堤防に手をかけて、操と甲洋は晴れた空の下に広がる、青々とした海を見つめていた。
平日ということもあってか、辺りにはまるで人の姿がない。遥か遠くに見える防波堤で、男性がひとり釣りをしているのが見えるだけだった。
海は太陽の光を弾いてキラキラと輝いていた。潮風に乗って、甲高い海鳥の声がゆっくりと交差する。どこまでものどかで、静かな時間がそこには流れていた。
「あ、そっか」
ふと操が声を上げた。甲洋がこちらを見て首を傾げる。
「一騎と総士もおれたちと同じなんだ」
「なに? 急に」
「総士が言ってた。惚気話をする趣味はないって」
海を見つめながら、なんとなく甲洋と出会った日から今までのことを思いだしていた。
今にして思えば、総士は最初から答えを言っていたようなものだったのだ。甲洋が日野家へ行く日の朝、彼が漏らした言葉がそうだった。そういう関係というものがどういう関係をさすのか、あのときの操にはまるで理解できていなかった。
「なぁんだ。そうならそうと言ってくれればよかったのに。その方が手っ取り早いでしょ?」
「どっかで同じことを言ってるやつがいたよ」
「誰?」
「さぁね」
甲洋はくすりと笑って、また海を見つめた。
彼はあのふたりのことを知っていたんだろうなと操は思う。自分だけ、ずいぶんと遠回りをしてしまった。
(だから総士も、一騎だけは平気だったんだ)
恋をすると世界が変わるなんて、よく言ったものだ。総士も操も、たまたま好きになった相手がイヌだったというだけで、抱え込んでいたトラウマがどうでもよくなってしまった。
それでも操には甲洋だけだし、総士には一騎だけだ。そこいらを散歩している他所のイヌを撫でろなんて言われても、絶対にできない話だと思った。
(んー、でも、いつか一騎だけは撫でられるようになりたいなぁ……)
そんなことを考えながら、ふと隣にいる甲洋に目を向けた。
焦茶の癖毛が風に乗って揺れている。その綺麗な横顔を見つめながら、操は彼の長い睫毛が綺麗にくるりとカールしていることに気がついた。
それはとても些細なことだし、さっきの誕生日の件だってそうだ。こんなに近くにいて身体までぴったりと重ね合わせたのに、それでもまだ気づかないことや知らないことが沢山ある。
例えばあの日。傷ついた彼がここでなにを思っていたのか、とか。今は、なにを考えているのか、とか。
「甲洋は、海が好きなの?」
聞きたいことが沢山あるような気がしたけれど、操はいつかと同じ問いを投げていた。あのときの甲洋は今じゃ信じられないくらいそっけなくて、はっきり答えてはくれなかった。
「好きだよ。少し怖いとも思うけど」
甲洋は海に背を向け、堤防に両肘をかけると背中を預けた。
「……あのときの俺は、多分ここで死のうとしてたんだと思うよ」
ビクリと肩を震わせて甲洋を見た操に、彼は優しく笑って見せた。
「自分なんかどこにもいないような気がして、だったらここで消えても、なにも変わらないと思ったから。そうしたら、この魂はどこに還るんだろうって考えてた。海が生命の起源だっていうのは通説だろ? だから俺の魂も、ここに還るのかもしれないって──来主、そんな顔しないで。今は思ってないよ、そんなこと」
泣きそうに顔を歪めた操の目尻に、甲洋の指先が触れた。雫が零れる前にそっと拭われる。
あのときこの場所で見た甲洋の背中を、操はきっと死ぬまで忘れることができないと思う。
彼は今にも消えていなくなってしまいそうだった。
それが嫌で、どうしようもなく嫌で、怖くて、操は甲洋に手を伸ばした。奪われる前に、取り戻さなくてはならないと思ったから。
「本当に思ってないんだ。今はここにいたい。心からそう思うよ。──お前が迎えに来てくれたから」
目尻をなぞっていた甲洋の手が、今度は頬に触れた。優しい温もりにまた少し涙が出そうになって、操はその手の甲に触れると強く握りしめる。
「どこにだって行くよ、甲洋。おれは君のこと、どこにだって迎えに行く。それが海の底でも、泳いで行くよ」
甲洋が嬉しそうに笑いながら、こちらに向けて僅かに身を屈めた。操はもう片方の手で彼の項に触れると、上向きながら引きよせる。重ね合わせた唇が、海風にさらされたせいで少し乾いていた。
キスはほんの数秒で終わってしまった。それでも離れがたくて、操は甲洋の手を離すことができなかった。
「来主、泳げるの?」
甲洋が悪戯っぽく笑って言った。操はそんな彼を上目遣いに軽く睨んだ。
「……泳げないけど、泳ぐよ」
「溺れる、の間違いじゃなく?」
「う、うるさいなぁ! どっちだっていいじゃん!」
甲洋は空を仰ぐようにしながら大きな口を開けて笑った。その拍子に握りしめていた手がほどけてしまう。
彼がこんな風に笑うのを初めて見た。操は怒るに怒れなくなって、ただ唇を尖らせる。
「君ってほんとに──」
意地悪だ。
そう言おうとして、操はふと甲洋の言葉を思いだす。
──来主にしかしないよ。
「どうかした?」
急に言葉を切ったまま何も言わなくなった操に、甲洋が小首を傾げた。
「別にー。甲洋ってほんと、おれのこと大好きなんだなって思っただけ!」
「……まぁ、否定はしない」
「えへへー」
照れくさそうに目を逸らした甲洋にふにゃふにゃと笑っていると、とつぜん手が伸びてきて鼻を摘まれた。
「うにゃぁー! にゃに!? にゃにするのぉー!?」
「別に。なんとなく」
そのままグリグリと軽く揺さぶられ、涙目になった操の鼻を開放して、甲洋が笑った。
「いじわる……」
少しだけ赤くなった鼻を擦りながら言うと、黒い尻尾が元気よく左右に揺れた。
「さて、そろそろ行こうか」
「もうそんな時間?」
「遅れると、お前の保護者になにを言われるか分からない」
「そっか。総士は時間にうるさいからね」
今日はこのあと、総士と一騎が暮らすマンションへ顔を出す約束になっている。
まだ時間に余裕があったので海を見にここまで来たが、確かに遅れて行くよりは早めにつくぐらいがよさそうだ。
甲洋はあのふたりに何やら『挨拶』をすると言っていたが、操にはその後に控えるイベントの方が重要だった。
「甲洋のカレー修行、おれも隣でちゃんと見てるからね!」
「はいはい、行くよ」
甲洋が堤防に置いていたショルダーバッグを肩にかけて、操に手を差しだした。操はその手をとり、互いにしっかりと握り合う。
寄せてはかえす波音に、優しく背中を押されたような気がする。
果てしない蒼穹が優しく見守るなかを、操と甲洋はゆっくりと、歩きだした。
半径1メートル半の恋・了
←戻る ・ Wavebox👏
好天に恵まれた5月のある日。
今年の夏は少しせっかちだ。まだ梅雨入りもしていないうちから暑い日が続いている。
アスファルトが白く日差しを照り返す中、長い坂道をのぼる操は数歩遅れた位置から甲洋に呼ばれても、なにも答えず歩き続けていた。
「来主ってば。そろそろ機嫌なおして」
甲洋は耳をぺったりと寝かせ、困った顔をしている。振り向かなくてもそれが分かった。
「俺が悪かった。謝るから」
坂の中腹で操はようやく足を止めた。彼が言う通り、操は機嫌を損ねていた。というより、へそを曲げている。意地になって先を急いでいたせいで、呼吸が乱れて汗だくになっていた。
すぐに甲洋が追いついて、隣に並んだ。思った通り耳も眉もすっかり下げた状態で顔を覗き込まれたとき、操は自分が腹を立てているというよりは、悲しんでいるのだということに気がついて泣きたくなった。そしてその悲しいという気持ちの根底には、悔しいという感情があることにも、気がついている。
「水は? 持ってきただろ?」
甲洋が白いパンツの尻ポケットからタオル地のハンカチを取り出し、操の額や首筋を拭きながら言った。サラリとした生地が皮膚を撫でるのが心地いい。
「……かばん」
熱さにすっかり赤らんだ頬をしながら答えると、甲洋は操の背中にある斜めがけのショルダーバッグの中身を漁った。取り出した500ミリのペットボトルの蓋を開け、そっと差し出してくる。
「ほら、飲みな」
はかはかと息を漏らす唇に飲み口が寄せられる。操をそれを両手で受け取り、勢いよく水を飲んだ。半分くらい飲み干したところで大きく息をつく。
甲洋もどこかほっとしたような息を漏らした。それから操がかけているバッグのショルダー部分を掴むと、スルリと外して手に持った。
「い、いいよ。そんな重くないし」
「ここからは俺が持つよ。本も入ってるし。水だけ持っといて、こまめに飲んで」
同じ距離を歩いてきたはずなのに、甲洋は汗ひとつかかず涼しげだ。彼は操より身体が大きいし、ヒト型とはいえ人間に比べると脚力にだって大きな差がある。
「……どうせおれは弱っちいよ」
むっと口をへの字にして俯く操に、甲洋がまた困った顔をして肩をすくめた。
*
時は数刻前まで遡る。
朝起きて、のんびり朝食をとったあと、操と甲洋は羽佐間容子の家へ赴いた。以前、甲洋が家出してしまったときに、彼女と交わした約束を果たすためだ。
容子はふたりを笑顔で出迎えてくれた。
冷えた麦茶と水羊羹をご馳走になりながら、翔子の成長記録ともいえるアルバムを数冊、見せてもらった。
翔子のことを話す容子の瞳に涙はなかった。こんなふうに微笑みながら話ができるようになるまで、このひとはどれだけの涙を流したのだろう。容子を見て、彼女もまた悲しい記憶を大切な思い出に変えて生きているのだと、操は思った。
それから翔子の遺影の前でふたり並んで手を合わせた。
操は甲洋の様子がずっと気がかりだったが、彼の表情はずっと穏やかなまま、写真立てに収まる初恋の少女と向き合っていた。
そのあと散歩から戻ってきたカノンにも会った。
彼女は淡い薄青のワンピースを着て、ふたりの前に恥ずかしそうに姿を見せた。翔子が着ていたものだということは、ひと目で分かった。
カノンは少し前に比べて、仕草も表情もずいぶんと柔らかくなっていた。不器用そうな物言いは相変わらずだったが、甲洋が無事に生きて目の前に現れたことに、はにかむような笑顔を見せた。
勝ち気そうな瞳と鮮やかな赤毛をした黒猫に、ただ静かに瞳を眇めた甲洋は何を見たのだろう。彼が愛した淡く儚い白猫と、カノンは少しも重ならない。
けれどワンピースは彼女にとてもよく似合っていた。名前を呼ばれ、容子の元へと駆け寄る華奢な背中。スカートがふわりと揺れるのを見て、操は不思議な懐かしさにとらわれた。
この場所に積み重なる優しい記憶が空気になって、そんなふうに思わせたのかもしれない。
その懐かしさをどこか愛おしいと感じながら、そっと甲洋の手に触れた。彼は優しく、けれど確かな強さで操の手を握り返した。
*
きちんと礼を済ませて羽佐間家を後にすると、視線は自然と無人の楽園へと向けられた。
操が訪れたのは三月の中頃だったはずだから、まだ二ヶ月経つかどうかといったところだ。
たったそれだけの短い間で、外壁の汚れはさらに色濃く滲み、窓ガラスも曇りを帯びて墨を塗り込めたようになっていた。
店の前には一人の男性が立ち尽くしていた。建物を見上げ、困った顔をしながら「ありゃ~」と声をあげている。歴戦の猛者を思わせるような容貌に、タンクトップから突き出た太い両腕がこんがりと焼けていた。
「閉店してたとはなぁ……すっかり廃墟になっちまって……」
ああ、以前この店の常連だった人かとぼんやり眺めていると、甲洋が意外そうな顔をしながら「溝口さんだ」と言った。
「え? あの人が前に言ってた?」
「そう」
すると溝口と呼ばれた男性もこちらに気づき、甲洋を見て目を丸くした。
「お前さん、甲洋か? おいおい、ずいぶん立派になったじゃないか」
「ご無沙汰してます、溝口さん」
甲洋が頭を下げたので、操も慌ててペコリと頭を下げた。
溝口はぽっかりと口を開けながら甲洋を上から下まで眺めつつ、こちらに近づいてくる。
「全くやだね、ガキんちょってのは。ちょっと目を離すとすーぐでっかくなっちゃって。久々に来たら店はこんな有様だしよ。お前さん、今どうしてるんだ? 親父さんとお袋さんは?」
「店は去年の暮れに。父さんと母さんは……きっと元気にしてると思います」
「……へぇ。で、お前さんは?」
「俺は、今は彼と」
甲洋が目配せをしてくるので、操はなんとなく緊張しながら背筋を伸ばした。
「い、今はおれが甲洋の飼い主です! 名前は来主操です!」
子供のように拙い自己紹介をした操に、甲洋が小さくふきだした。
「な、なに? おれなにか変なこと言った?」
「いや、お前でも緊張することがあるのかと思って」
「またそうやって意地悪言う……」
甲洋を見上げながら頬を膨らます操を見て、溝口がカラカラと笑った。
「まぁ色々あったんだろうが……楽しくやってるんならよかったよ」
それから溝口は「あ、そうだ」と言って、担いでいたボストンバッグからゴソゴソと何かをとりだし、甲洋に差し出した。
「これは?」
それは書店名が書かれた茶色い封筒だった。
溝口は少し参った様子で頭を掻きながら「土産だよ」と言った。
封筒を受け取った甲洋が中身を取りだすと、そこからは何冊かの児童書が顔を覗かせた。
「あ、この本おれ読んだことある! 小学生のころの夏休みで、課題図書だったやつだ」
覗き込んでそう言った操に、溝口は「なはは」とおどけて苦笑した。
「いやぁ……あれから随分と経ってるってのに、時間の感覚がなくってなぁ。ついつい子供向けの本を買っ……や、持ってきちまったよ」
甲洋が話していた通りだなぁと操は思った。中身も封筒も明らかに新品である。
このひとの中では、甲洋はいつまで経っても腹をすかせた子犬のままなのだ。その頃の甲洋を知らない操は、そんな溝口を少しだけ羨ましく思った。
「ありがとう、溝口さん。大事にするよ」
甲洋はどこかくすぐったそうに肩をすくめて笑った。
「そうか? まぁ、大人が読んでもいいもんだ。そういうのはな」
「そうですね」
「誕生日プレゼントにしちゃあ、ちょいと地味かもしれんが。おめっとさん」
「誕生日!?」
溝口が放った言葉に反応したのは操だった。
「甲洋、誕生日だったの? いつ? 今日?」
「なんだお前さん、飼い主のくせに知らなかったのか? おいおい水臭いな。そういうのはちゃんと言っとくもんだろうに」
「ああ、うん……ごめん」
「昨日だよ、昨日。5月7日」
そう言って、溝口はバッグを担ぎ直した。
「んじゃ、俺は行くよ。またしばらくここいらに滞在することになったから、縁がありゃあまたどっかで会うかもな」
「今回も仕事で?」
溝口は軽い感じで「そ」と言うと、改めて甲洋を見て嬉しそうに笑った。
「お前さんが幸せそうでなによりだ。達者でな」
「溝口さんも、お元気で」
「甲洋を頼んだぞ、操ちゃん」
溝口は甲洋と操の頭をそれぞれポンポンと軽く叩くと、大きな歩幅で行ってしまった。
*
そして今に至る。
操は甲洋の誕生日を祝えなかったことが悔しかった。いま一番近くにいるのは自分なのに、真っ先におめでとうを言えなかったことが。
なにより教えてもらえなかったことが悲しくて、腹がたった。
「昨日だったなんて、酷いよ」
「ごめん」
操が甲洋を見上げると、ガードレールの向こう側をトラックが走り抜けた。結構な勢いの風に乗って、砂埃と排気ガスの臭いが立ち込める。道の両脇で伸びっぱなしの雑草がざわざわと大きな音をたてた。甲洋が風圧によろけそうになった操の腕をとり、さりげなく引き寄せる。
やがて辺りが静まりかえるのを待って、甲洋の口が開かれた。
「わざわざ言うのも気が引けたんだ。祝われる習慣もなかったから」
「だったらなおさらだよ。言ってほしかった。ちゃんと」
甲洋はもう一度「ごめん」と小さく言った。
彼がそうやって謝罪するたび、決して謝ってほしいわけではないのだと操は思う。だけど結果的に彼を責める形になっていて、気まずい空気に下唇を噛み締めた。
「……本当は」
どこか迷っている様子で、甲洋がぽつりと零す。操はただ頷いて、静かにその先を促した。
「一度だけ、祝ってもらったことがあるんだ。小さなころに。思いつきというか、気まぐれだったんだろうけど」
その日はちょうど甲洋があの夫婦に引き取られた日だった。
もともといつ生まれたのかは流石の甲洋も覚えていないらしいが、彼の両親は「お前が来た日だから」と言って、店の残り物のケーキとTシャツを一枚プレゼントしてくれた。それがちょうど5月7日だったのだ。
「嬉しかったんだ。すごく」
ケーキはクリームが溶けて表面がドロドロになっていたし、シャツは毎日着続けているうちに傷んでしまった。そのうちだんだん着られなくなって、知らぬ間に捨てられていたけれど。
そう言いながら、甲洋は目を細めて笑った。
ほんの一度の、ささいな気まぐれ。それでも彼は忘れない。嬉しかったことを、つい昨日のことのように思いだせるから。だから甲洋は自分を捨てたはずの夫婦を憎めないのだろうなと、操は思う。
「俺にはその思い出だけで充分なんだよ」
「……じゃあ、おれからはなにもいらないってこと?」
「それは……」
甲洋は口ごもり、それから幾度か目を泳がせる。指先でカリカリと頬をかき、やがておずおずと操を見た。
「バチが当たるかもしれないだろ」
「ばち?」
「俺はいま幸せだから。これ以上は、きっとバチが当たる」
茶化しているふうでもなく、甲洋は真剣だった。操は思わず目を丸くして、口をぽっかりと開ける。
「幸せすぎて怖いって言いたいの?」
「……うん」
「臆病だな、甲洋は」
「俺もそう思う」
苦笑した甲洋に、操はへそを曲げていたのが嘘のように気が抜けてしまった。
「そんなこと言ったら、おれは明日にでも死んじゃうかもしれないよ」
「縁起でもないな」
「だってそういうことでしょ。おれだって幸せなんだから」
甲洋はなにも答えられずにただ唇を震わせる。操は笑った。
「ねぇ、おれたちきっと明日も生きてるよ。次の日も、そのまた次の日も。来年も、再来年もさ。10年後も、その先も、たぶん生きてる。君と一緒に、生きてるんだと思う」
この幸せに対価なんかない。もしあるのだとしたら、それはもうおつりが来るくらい払っている。だからあとは、ずっと笑って生きていなくちゃ嘘だ。
「おれは甲洋が生まれてきてくれて嬉しい。今ここに君がいてくれることが嬉しいよ。だから来年はちゃんとお祝いする。バチなんか当たらない」
「来主……」
彼が生きてきた時間が愛しい。今こうして生きている甲洋のことが、大好きだ。
「おれが守ってあげるよ。怖がりな君のこと」
それに、やっぱり単純に悔しいと思う。これはきっとヤキモチだ。溝口だけが彼の幼い頃を知っていて、先にプレゼントを渡して、おめでとうを言ってしまった。
けれどあそこで彼に会わなければ、操は甲洋の誕生日を知らないままだったかもしれない思うと、それもまた複雑である。もちろん、溝口に会えたことは嬉しかったけれど。
甲洋は操の言葉に目を瞬かせ、それから眉をほんのりハの字にしながら複雑そうに言った。
「お前っていつもそうだよ。俺が言いたかったことを、俺より先に言ってしまう」
「そうなの?」
「自分だって怖がりのくせに」
「そ、そんなことないよ! おれは怖がりじゃない!」
焦りだした操に、甲洋は堪えきれず小さくふきだした。
せっかくかっこよく決まったと思ったのに、これでは台無しだ。ぶぅっと頬を膨らませていると、甲洋の大きな手が操の頭をぽんぽんと撫でた。
「ありがとう、来主」
小首を傾げるようにしてくすぐったそうに笑う甲洋に、操の胸もくすぐられる。
その笑顔はどこか甘ったるくて、きっと自分にだけ向けられる特別なものなのだと思った。
だって操は甲洋の飼い主だけれど、ふたりの関係はそれだけではないのだ。
「守るよ。俺も、お前のことを」
こればかりは絶対に、溝口だって敵うまい。
*
ふたりがその足で訪れたのは、家出した甲洋を見つけたあの臨海公園だった。
海沿いに長く伸びる堤防に手をかけて、操と甲洋は晴れた空の下に広がる、青々とした海を見つめていた。
平日ということもあってか、辺りにはまるで人の姿がない。遥か遠くに見える防波堤で、男性がひとり釣りをしているのが見えるだけだった。
海は太陽の光を弾いてキラキラと輝いていた。潮風に乗って、甲高い海鳥の声がゆっくりと交差する。どこまでものどかで、静かな時間がそこには流れていた。
「あ、そっか」
ふと操が声を上げた。甲洋がこちらを見て首を傾げる。
「一騎と総士もおれたちと同じなんだ」
「なに? 急に」
「総士が言ってた。惚気話をする趣味はないって」
海を見つめながら、なんとなく甲洋と出会った日から今までのことを思いだしていた。
今にして思えば、総士は最初から答えを言っていたようなものだったのだ。甲洋が日野家へ行く日の朝、彼が漏らした言葉がそうだった。そういう関係というものがどういう関係をさすのか、あのときの操にはまるで理解できていなかった。
「なぁんだ。そうならそうと言ってくれればよかったのに。その方が手っ取り早いでしょ?」
「どっかで同じことを言ってるやつがいたよ」
「誰?」
「さぁね」
甲洋はくすりと笑って、また海を見つめた。
彼はあのふたりのことを知っていたんだろうなと操は思う。自分だけ、ずいぶんと遠回りをしてしまった。
(だから総士も、一騎だけは平気だったんだ)
恋をすると世界が変わるなんて、よく言ったものだ。総士も操も、たまたま好きになった相手がイヌだったというだけで、抱え込んでいたトラウマがどうでもよくなってしまった。
それでも操には甲洋だけだし、総士には一騎だけだ。そこいらを散歩している他所のイヌを撫でろなんて言われても、絶対にできない話だと思った。
(んー、でも、いつか一騎だけは撫でられるようになりたいなぁ……)
そんなことを考えながら、ふと隣にいる甲洋に目を向けた。
焦茶の癖毛が風に乗って揺れている。その綺麗な横顔を見つめながら、操は彼の長い睫毛が綺麗にくるりとカールしていることに気がついた。
それはとても些細なことだし、さっきの誕生日の件だってそうだ。こんなに近くにいて身体までぴったりと重ね合わせたのに、それでもまだ気づかないことや知らないことが沢山ある。
例えばあの日。傷ついた彼がここでなにを思っていたのか、とか。今は、なにを考えているのか、とか。
「甲洋は、海が好きなの?」
聞きたいことが沢山あるような気がしたけれど、操はいつかと同じ問いを投げていた。あのときの甲洋は今じゃ信じられないくらいそっけなくて、はっきり答えてはくれなかった。
「好きだよ。少し怖いとも思うけど」
甲洋は海に背を向け、堤防に両肘をかけると背中を預けた。
「……あのときの俺は、多分ここで死のうとしてたんだと思うよ」
ビクリと肩を震わせて甲洋を見た操に、彼は優しく笑って見せた。
「自分なんかどこにもいないような気がして、だったらここで消えても、なにも変わらないと思ったから。そうしたら、この魂はどこに還るんだろうって考えてた。海が生命の起源だっていうのは通説だろ? だから俺の魂も、ここに還るのかもしれないって──来主、そんな顔しないで。今は思ってないよ、そんなこと」
泣きそうに顔を歪めた操の目尻に、甲洋の指先が触れた。雫が零れる前にそっと拭われる。
あのときこの場所で見た甲洋の背中を、操はきっと死ぬまで忘れることができないと思う。
彼は今にも消えていなくなってしまいそうだった。
それが嫌で、どうしようもなく嫌で、怖くて、操は甲洋に手を伸ばした。奪われる前に、取り戻さなくてはならないと思ったから。
「本当に思ってないんだ。今はここにいたい。心からそう思うよ。──お前が迎えに来てくれたから」
目尻をなぞっていた甲洋の手が、今度は頬に触れた。優しい温もりにまた少し涙が出そうになって、操はその手の甲に触れると強く握りしめる。
「どこにだって行くよ、甲洋。おれは君のこと、どこにだって迎えに行く。それが海の底でも、泳いで行くよ」
甲洋が嬉しそうに笑いながら、こちらに向けて僅かに身を屈めた。操はもう片方の手で彼の項に触れると、上向きながら引きよせる。重ね合わせた唇が、海風にさらされたせいで少し乾いていた。
キスはほんの数秒で終わってしまった。それでも離れがたくて、操は甲洋の手を離すことができなかった。
「来主、泳げるの?」
甲洋が悪戯っぽく笑って言った。操はそんな彼を上目遣いに軽く睨んだ。
「……泳げないけど、泳ぐよ」
「溺れる、の間違いじゃなく?」
「う、うるさいなぁ! どっちだっていいじゃん!」
甲洋は空を仰ぐようにしながら大きな口を開けて笑った。その拍子に握りしめていた手がほどけてしまう。
彼がこんな風に笑うのを初めて見た。操は怒るに怒れなくなって、ただ唇を尖らせる。
「君ってほんとに──」
意地悪だ。
そう言おうとして、操はふと甲洋の言葉を思いだす。
──来主にしかしないよ。
「どうかした?」
急に言葉を切ったまま何も言わなくなった操に、甲洋が小首を傾げた。
「別にー。甲洋ってほんと、おれのこと大好きなんだなって思っただけ!」
「……まぁ、否定はしない」
「えへへー」
照れくさそうに目を逸らした甲洋にふにゃふにゃと笑っていると、とつぜん手が伸びてきて鼻を摘まれた。
「うにゃぁー! にゃに!? にゃにするのぉー!?」
「別に。なんとなく」
そのままグリグリと軽く揺さぶられ、涙目になった操の鼻を開放して、甲洋が笑った。
「いじわる……」
少しだけ赤くなった鼻を擦りながら言うと、黒い尻尾が元気よく左右に揺れた。
「さて、そろそろ行こうか」
「もうそんな時間?」
「遅れると、お前の保護者になにを言われるか分からない」
「そっか。総士は時間にうるさいからね」
今日はこのあと、総士と一騎が暮らすマンションへ顔を出す約束になっている。
まだ時間に余裕があったので海を見にここまで来たが、確かに遅れて行くよりは早めにつくぐらいがよさそうだ。
甲洋はあのふたりに何やら『挨拶』をすると言っていたが、操にはその後に控えるイベントの方が重要だった。
「甲洋のカレー修行、おれも隣でちゃんと見てるからね!」
「はいはい、行くよ」
甲洋が堤防に置いていたショルダーバッグを肩にかけて、操に手を差しだした。操はその手をとり、互いにしっかりと握り合う。
寄せてはかえす波音に、優しく背中を押されたような気がする。
果てしない蒼穹が優しく見守るなかを、操と甲洋はゆっくりと、歩きだした。
半径1メートル半の恋・了
←戻る ・ Wavebox👏
承太郎はその狐の面を、外すことができなかった。
面に触れていた手がだらりと落ちる。
ふいに漏れたのは自嘲的な笑みで、承太郎は俯くと力なく首を振った。
「おれには、そんな資格はねえな」
花京院がどんな顔をしていようと、それはただの幻だ。
彼の言葉や仕草は、ずっと暗い水の底に沈んでいた心を救うには十分すぎた。諦める口実をどこかで求めていた承太郎に、彼は惜しみなく赦しを与えてくれる。
その顔を見てしまったら、きっとこの夢は美しい思い出の最後を飾って終わるだろう。めでたしめでたしで、都合よく。
確かに承太郎は救いを求めていた。だけど、そんな紛い物の救済に何の意味があるというのか。
ならばいっそ苦しいままでいい。花京院を守れなかった。その事実を風化させてしまうくらいなら、その罪を背負って生きていく方が、ずっと。
「おれは、おれ自身を許せそうにねえ。例えてめーがなんと言おうともだ」
「……ありもしない罪を背負い続けることに、一体なんの意味があると言うんだ?」
花京院の言葉には、呆れと仄かな苛立ちが込められていた。
ゆるゆると顔をあげた承太郎の正面で、蛍を纏わりつかせた狐が溜息を漏らす。
「君は一体、いつまでぼくを一人ぼっちにしておくつもりだい?」
「花京院……?」
「思いだせよ、承太郎」
――ぼくは、×んでなんかいないぞ。
「――ッ!!」
その瞬間、承太郎の意識が闇に飲まれ、遠のいた。
*
太鼓と笛の音に乗せて、母が舞台の上で厳かに舞い踊っている。
立ち込める熱気とカメラのフラッシュが点滅する中、承太郎はそれを最前列で見つめていた。
巫女装束に身を包み、鈴のついた榊を手に踊る母の姿は、神様が舞い降りたのかと思うほど荘厳で、美しかった。
(一緒に見るはずだったのに。花京院のヤツ)
幼い頬を上気させ、舞台上の母の姿を目に焼き付けながらも、承太郎は時おり背後を振り向いて花京院が来るのを今か今かと待っていた。
(あいつ小せえからな……ここまで来るのはやっぱ無理か)
舞台周辺は人だかりができていて、花京院の小さな身体で割り込んで来るのは難しいだろう。どこかで見ているのならいいのだが、口論になったうえに置いてきてしまった身としては、どうも気になって仕方がない。
(やれやれだぜ)
神楽はまだ始まったばかりだ。最後まで見届けたいという気持ちはあるが、気になりだすと止まらなくなる性分の承太郎は、舞台に背を向けると大人たちの群れを掻き分けた。
迷惑そうな舌打ちを食らいながらも人だかりから脱すると、周辺をざっと見渡す。ほとんどの人間が神楽に夢中になっていて、出店の連なる通路は先刻と比べると幾らか閑散として見えた。
ついさっき言い合いになってしまった雑貨屋もここからよく見えるが、そこに探している人物の姿は見当たらない。
承太郎はキョロキョロと視線を彷徨わせながら石畳の通路を歩く。花京院は身体は小さいが、あの特徴的な前髪や赤毛がよく目立つため、すぐに見つかるとばかり思っていたのだが。
「まさか臍曲げて帰っちまったわけじゃねえよな?」
少しばかりキツく言いすぎた自覚のある承太郎は、ぼりぼりと頭を掻きながら例の雑貨屋の前で足を止める。
そこに彼が欲しがっていたピアスが手つかずで残されているのを見て、なぜか胸騒ぎがした。
どうしてか、今すぐに探し出さなくては手遅れになるような気がして。
漠然とした焦燥感に身を焦がしながら、承太郎は気がつくとピアスを購入し、その足で神社の石段を駆け下りていた。
*
電球の切れかかった街灯が不規則に点滅する道には、田んぼから聞こえるカエルの合唱だけが響き渡っていた。
祭の喧騒を遠くに聞きながら、承太郎は行きは花京院と並んで歩いて来たはずの道をひた走っていた。
汗ばむ手の中には購入したばかりの赤いピアスがある。
早く花京院に会って、これを渡して謝罪しなければ。その一心で走り続けていた承太郎は、幾つか連なる道祖神の前でふと足を止めた。ここを曲がって田んぼのあぜ道に入って行けば、花京院の家がある方向なのだが。
承太郎は遥か前方に揺れ動く二つの影を見つけて、ぐっと目を凝らす。
それは子供の手を引く、大人の姿だった。ほとんど役割を果たさない街灯と月明かりを頼りに、さらに目を細めて食い入るように見つめると、その様子が少しばかりおかしいことに気がつく。
「あれは……花京院か!?」
二人のやりとりまでは聞こえない。だが、おそらく大人の男であろう影が小さな子供を強引に引きずって、山の方へと続く小道へ入って行こうとするのが、確かに見える。
そう認識した瞬間には走り出していた。あれは花京院に違いない。相手の男が誰かは知らないが、好ましい状況でないことは明白だ。
焦りと怒りに足を取られそうになりながらも全力で駆け抜け、二人が消えていった小道を曲がった。
そこは街灯もなく、ただ青白い月明かりだけが不気味に木々を浮かびあがらせる、暗い一本道だった。
「こんのクソガキッ!!」
声が聞こえたのは、そのときだ。
男が花京院の小さな身体を地面に投げ捨てる光景が目に飛び込んできた。承太郎の頭に、一瞬にして血がのぼる。
「この野郎……ッ!!」
脇目もふらず男目掛けて全力で駆け、その腰に飛びついた。
「承太郎!?」
「な、なんだお前はッ!?」
目を見開く花京院と、突然の乱入者によろめきながら狼狽える男の声が重なる。
「逃げろ花京院ッ! 誰か大人を呼んで来いッ!!」
手足を擦り剥かせ、血を流しながら唖然としている花京院に叫びながら、承太郎は激しく抵抗する男の腰に懸命にしがみついた。
「だ、だけど承太郎ッ!!」
「このガキがぁ!! 離せッ!! 離さねぇとぶっ殺すぞッ!!」
「いいから早く行けッ!!」
「ッ……!」
花京院は泣きそうにくしゃりと表情を歪めながら、それでも大きく頷いて立ち上がり、弾かれたように駆け出した。暴れる男によって激しく身を揺さぶられながらも、承太郎は闇に消えていく小さな背中に安堵する。
――ああ、守れた。守ることが、できた。
なんだってする。どんなことだってする。
だって失えば生きていけない。笑っている花京院が好きだ。怒っていても、泣いていても。可愛くて優しい、花京院のことが。
「クソガキがぁーッ!!」
焦った男が渾身の力で身を捩る。承太郎の腕を爪が食い込むほど掴み、皮を削ぐような乱暴さで引き剥がした。承太郎は同年代の子供たちより身体は大きかったが、大の大人を長時間押さえ込んでいられるだけの力は、流石になかった。
先刻花京院がされたのと同じように、整備されていない地面に身体を叩きつけられる。それでも諦めず、逃げ出そうとする男の足に両腕を絡めた。
男は血走った眼で激怒し、自由な方の足で承太郎の背や脇腹を蹴りあげる。
激しい痛みに呼吸が出来ない。それでも耐えた。もしここで諦めれば、この男は花京院の後を追うかもしれない。そんな真似は、絶対にさせてなるものか。
男はいよいよ承太郎を引き剥がすことを諦めたようだった。代わりに身を屈め、転がっていた石を鷲掴む。それは野球ボールより一回り大きな、先端の尖った石だった。
死ね、と。
そう言いながら、男が石を降り下ろしてくる光景が、やけにゆっくりと承太郎の目に映る。
夜空にはポッカリと丸い月が浮かび、こんなときであるにも関わらず綺麗だと思った。それから、花京院は無事に人気のある場所に辿り着けただろうかと。出来ればちゃんと謝りたかった。一人きりにして、怖い思いをさせてしまったことを。ずっと握りしめたままのピアスが熱い。
きっと喜んでくれるだろうと思うと、早く、会いたかった。
(花京院)
頭部への燃えるような衝撃と共に、重々しく鈍い音が、聞こえた気がした。
それが承太郎の最後の記憶だった。
――ぼくは、死んでなんかいないぞ。
(ああ、そうか)
闇の中、水中を漂うようにふわふわと身を任せ、承太郎は目を開ける。
花京院は死んでなどいなかった。なぜなら、この手で守ることができたから。
噛み締めるように口元に笑みを浮かべた承太郎の側に、一匹の蛍がふわりと飛んでくる。何も見えない、海の底のような暗闇の中で、緑色に輝く残像が金魚の尾びれのように美しかった。
蛍は寂しげに承太郎の周りをくるりと一周した。そっと長い腕を伸ばせば、人差し指の先にとまる。
――承太郎。
花京院の声が、聞こえた気がした。
自分がどこにいるのかさえ分からない空間で、それでも心の中は穏やかだ。
このまま、永遠に身を委ねていたい。まるで勤めを終えたかのように、承太郎は静かに瞼を閉じた。
――帰っておいで。かくれんぼは、もうおしまいだ。
*
ふと、目が覚めた。
(朝、か……?)
飛び込んできたのは白い光だった。
闇の中を彷徨っていた意識が認識できたのは、たったそれだけ。
だが、ぼやけた視界は徐々に輪郭を取り戻していく。視界を覆うのが白い天井だと知ったとき、名前を呼ばれた。
「承太郎……?」
その声はずっと夢の中で聞いていたものと同じだった。
けれど酷く震えていて、承太郎は瞬きをするのがやっとの瞳を声のした方へゆっくりと走らせる。
そこには、花京院が、いた。
「ッ……!」
名前を呼ぼうとして、上手く声にならなかった。
まるでずっと呼吸を遮られていたみたいに、空気を吸い込んだ瞬間、喉が引き攣れてちりちりと痛む。
なぜ。どうして。夢は終わったのではなかったのか。それとも、まだ眠りの中にいるのだろうか。身体が重くて、思考すらまともに動かない。
自分は確か、久しぶりに帰った家の自室で眠っていたはずだ。それがどういうわけか覚えのない白い空間でベッドに横たわっている。伸ばそうとして、結局は指先だけ震わせるに終わった手に、床に膝をついた花京院の手が重なった。そっと握られて、その温かさに確かな命の証を感じる。
生きている。
花京院は生きている。そして、承太郎も……。
深緑のタートルネックのセーターを着た花京院は、幼さの削ぎ落とされた頬で承太郎を見下ろし、やがて泣きそうに顔をくしゃりと歪めて笑った。
狐の面に隠れて見ることの叶わなかった、眩しい笑顔と切ない泣き顔。色濃い面影が、そこに確かに彼が存在しているのだということを承太郎に伝えた。
彼の両耳に揺れる、あの祭の出店で買った赤い果実のようなピアスを見て、承太郎は自分が長い間ずっと夢を見続けていたのだということを理解した。
花京院を失ったまま生きる夢を。そして今、ようやく目覚めた。
「おはよう、承太郎」
承太郎の手を両手でしっかりと握りしめ、花京院はやっとの思いで声を絞り出しているようだった。
「君は10年間もずっと、眠り続けていたんだよ」
その静かな声を、頭の中で幾度か反芻してみる。
あの祭の夜から、10年。
俄には信じられないことだったが、けれど少しずつその認識が身体の内側に染み渡っていく。最後に見上げた丸い月や、男の顔や、尖った石の大きさまでもが、鮮明に記憶にこびりついているからだ。
あの男がその後どうなったのかは知らないが、頭部に石を叩きつけられた承太郎はどうにか命を取り留めたものの、長い間ずっと眠り続けていたらしい。
ここは病院で、承太郎が身を横たえているのは病室の、ベッドの上だ。
投げ出されている方の腕から伸びる点滴の管によって、承太郎はどうにか生かされ続けていた。
『そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ』
長い長い夢の果て、蛍の飛び交う川のほとりで寂しげに呟かれた言葉を思い出す。あれは確かに花京院の心の声だったのだと、今ならわかる。
いつ目覚めるとも知れない承太郎に寄り添いながら、彼がどれほど己を責め続けてきたか、握りしめてくる手の熱さや震えから痛いほど伝わって来る。
花京院はこくんと喉を鳴らして唇を噛み締めた。握っている承太郎の骨ばった手に額を押し付け、震える息を吐き出してから、濡れた瞳で精一杯の笑顔を浮かべる。
「遅いぞ、承太郎。この寝坊助め」
憎まれ口に乗せられた心からの安堵と労わりに、目頭が熱くなる。
花京院の瞳から、一筋の涙が零れた。そのキラキラと光るすみれ色へ、承太郎は懐かしさと愛しさを込めて目を細めると、小さく笑った。
「か、きょ、いん」
目覚めたばかりで調子を取り戻せない声帯で、承太郎は吐息を駆使して言葉を紡ぐ。
「よく、似合ってる、ぜ」
花京院の耳にさがる赤いピアス。
ただ飾って眺めるだけだと言っていたそれが、大人になった彼に不思議とよく似合っている。
力の入らない指先で、花京院の手をそっと握りしめた。彼は引き結んだ唇を震わせ、両手にいっそう力を込めると承太郎の指先に目頭を押し付ける。
ひくひくと肩を震わせる大人の男に、祠から助け出されて泣いていた子供がぴったりと重なった。
繋いだ手の平の熱と、燃えるような夕陽の赤に誓った想いが、失われることなく今なお息づいていることに、このうえない幸福を覚える。
泣くなよと言って微かに笑えば、花京院は鼻をすすりながら「泣いてないよ」と強がった。そんなところまであの日のままで。
身体中に溢れる熱い想いに、承太郎の頬にも涙が伝っていた。
言いすぎて悪かった。置き去りにして悪かった。一人にして悪かった。怖い思いをさせて悪かった。待たせて、悪かった。
言いたいことが沢山あったはずなのに、承太郎の言葉はたった一つに集約される。
「愛してる」
脆弱な吐息ではなく、しっかりと音になった声に目を見開いた花京院は、ゆっくりと大輪の花が咲くように、鮮やかな笑顔を浮かべた。
もう決して後悔しないように。見失わないように。
握り合った手と手の温もりに、あの懐かしい黄昏の空を瞼の裏に思い描きながら。
二人は未来を紡ぐための、新たな約束を交わす。
――もう二度と、繋いだこの手を離さない。
長い長い、夢は終わった。
終
死亡ルートも読んでみる
←戻る