2025/09/15 Mon ※生存ルート。 承太郎はその狐の面を、外すことができなかった。 面に触れていた手がだらりと落ちる。 ふいに漏れたのは自嘲的な笑みで、承太郎は俯くと力なく首を振った。 「おれには、そんな資格はねえな」 花京院がどんな顔をしていようと、それはただの幻だ。 彼の言葉や仕草は、ずっと暗い水の底に沈んでいた心を救うには十分すぎた。諦める口実をどこかで求めていた承太郎に、彼は惜しみなく赦しを与えてくれる。 その顔を見てしまったら、きっとこの夢は美しい思い出の最後を飾って終わるだろう。めでたしめでたしで、都合よく。 確かに承太郎は救いを求めていた。だけど、そんな紛い物の救済に何の意味があるというのか。 ならばいっそ苦しいままでいい。花京院を守れなかった。その事実を風化させてしまうくらいなら、その罪を背負って生きていく方が、ずっと。 「おれは、おれ自身を許せそうにねえ。例えてめーがなんと言おうともだ」 「……ありもしない罪を背負い続けることに、一体なんの意味があると言うんだ?」 花京院の言葉には、呆れと仄かな苛立ちが込められていた。 ゆるゆると顔をあげた承太郎の正面で、蛍を纏わりつかせた狐が溜息を漏らす。 「君は一体、いつまでぼくを一人ぼっちにしておくつもりだい?」 「花京院……?」 「思いだせよ、承太郎」 ――ぼくは、×んでなんかいないぞ。 「――ッ!!」 その瞬間、承太郎の意識が闇に飲まれ、遠のいた。 * 太鼓と笛の音に乗せて、母が舞台の上で厳かに舞い踊っている。 立ち込める熱気とカメラのフラッシュが点滅する中、承太郎はそれを最前列で見つめていた。 巫女装束に身を包み、鈴のついた榊を手に踊る母の姿は、神様が舞い降りたのかと思うほど荘厳で、美しかった。 (一緒に見るはずだったのに。花京院のヤツ) 幼い頬を上気させ、舞台上の母の姿を目に焼き付けながらも、承太郎は時おり背後を振り向いて花京院が来るのを今か今かと待っていた。 (あいつ小せえからな……ここまで来るのはやっぱ無理か) 舞台周辺は人だかりができていて、花京院の小さな身体で割り込んで来るのは難しいだろう。どこかで見ているのならいいのだが、口論になったうえに置いてきてしまった身としては、どうも気になって仕方がない。 (やれやれだぜ) 神楽はまだ始まったばかりだ。最後まで見届けたいという気持ちはあるが、気になりだすと止まらなくなる性分の承太郎は、舞台に背を向けると大人たちの群れを掻き分けた。 迷惑そうな舌打ちを食らいながらも人だかりから脱すると、周辺をざっと見渡す。ほとんどの人間が神楽に夢中になっていて、出店の連なる通路は先刻と比べると幾らか閑散として見えた。 ついさっき言い合いになってしまった雑貨屋もここからよく見えるが、そこに探している人物の姿は見当たらない。 承太郎はキョロキョロと視線を彷徨わせながら石畳の通路を歩く。花京院は身体は小さいが、あの特徴的な前髪や赤毛がよく目立つため、すぐに見つかるとばかり思っていたのだが。 「まさか臍曲げて帰っちまったわけじゃねえよな?」 少しばかりキツく言いすぎた自覚のある承太郎は、ぼりぼりと頭を掻きながら例の雑貨屋の前で足を止める。 そこに彼が欲しがっていたピアスが手つかずで残されているのを見て、なぜか胸騒ぎがした。 どうしてか、今すぐに探し出さなくては手遅れになるような気がして。 漠然とした焦燥感に身を焦がしながら、承太郎は気がつくとピアスを購入し、その足で神社の石段を駆け下りていた。 * 電球の切れかかった街灯が不規則に点滅する道には、田んぼから聞こえるカエルの合唱だけが響き渡っていた。 祭の喧騒を遠くに聞きながら、承太郎は行きは花京院と並んで歩いて来たはずの道をひた走っていた。 汗ばむ手の中には購入したばかりの赤いピアスがある。 早く花京院に会って、これを渡して謝罪しなければ。その一心で走り続けていた承太郎は、幾つか連なる道祖神の前でふと足を止めた。ここを曲がって田んぼのあぜ道に入って行けば、花京院の家がある方向なのだが。 承太郎は遥か前方に揺れ動く二つの影を見つけて、ぐっと目を凝らす。 それは子供の手を引く、大人の姿だった。ほとんど役割を果たさない街灯と月明かりを頼りに、さらに目を細めて食い入るように見つめると、その様子が少しばかりおかしいことに気がつく。 「あれは……花京院か!?」 二人のやりとりまでは聞こえない。だが、おそらく大人の男であろう影が小さな子供を強引に引きずって、山の方へと続く小道へ入って行こうとするのが、確かに見える。 そう認識した瞬間には走り出していた。あれは花京院に違いない。相手の男が誰かは知らないが、好ましい状況でないことは明白だ。 焦りと怒りに足を取られそうになりながらも全力で駆け抜け、二人が消えていった小道を曲がった。 そこは街灯もなく、ただ青白い月明かりだけが不気味に木々を浮かびあがらせる、暗い一本道だった。 「こんのクソガキッ!!」 声が聞こえたのは、そのときだ。 男が花京院の小さな身体を地面に投げ捨てる光景が目に飛び込んできた。承太郎の頭に、一瞬にして血がのぼる。 「この野郎……ッ!!」 脇目もふらず男目掛けて全力で駆け、その腰に飛びついた。 「承太郎!?」 「な、なんだお前はッ!?」 目を見開く花京院と、突然の乱入者によろめきながら狼狽える男の声が重なる。 「逃げろ花京院ッ! 誰か大人を呼んで来いッ!!」 手足を擦り剥かせ、血を流しながら唖然としている花京院に叫びながら、承太郎は激しく抵抗する男の腰に懸命にしがみついた。 「だ、だけど承太郎ッ!!」 「このガキがぁ!! 離せッ!! 離さねぇとぶっ殺すぞッ!!」 「いいから早く行けッ!!」 「ッ……!」 花京院は泣きそうにくしゃりと表情を歪めながら、それでも大きく頷いて立ち上がり、弾かれたように駆け出した。暴れる男によって激しく身を揺さぶられながらも、承太郎は闇に消えていく小さな背中に安堵する。 ――ああ、守れた。守ることが、できた。 なんだってする。どんなことだってする。 だって失えば生きていけない。笑っている花京院が好きだ。怒っていても、泣いていても。可愛くて優しい、花京院のことが。 「クソガキがぁーッ!!」 焦った男が渾身の力で身を捩る。承太郎の腕を爪が食い込むほど掴み、皮を削ぐような乱暴さで引き剥がした。承太郎は同年代の子供たちより身体は大きかったが、大の大人を長時間押さえ込んでいられるだけの力は、流石になかった。 先刻花京院がされたのと同じように、整備されていない地面に身体を叩きつけられる。それでも諦めず、逃げ出そうとする男の足に両腕を絡めた。 男は血走った眼で激怒し、自由な方の足で承太郎の背や脇腹を蹴りあげる。 激しい痛みに呼吸が出来ない。それでも耐えた。もしここで諦めれば、この男は花京院の後を追うかもしれない。そんな真似は、絶対にさせてなるものか。 男はいよいよ承太郎を引き剥がすことを諦めたようだった。代わりに身を屈め、転がっていた石を鷲掴む。それは野球ボールより一回り大きな、先端の尖った石だった。 死ね、と。 そう言いながら、男が石を降り下ろしてくる光景が、やけにゆっくりと承太郎の目に映る。 夜空にはポッカリと丸い月が浮かび、こんなときであるにも関わらず綺麗だと思った。それから、花京院は無事に人気のある場所に辿り着けただろうかと。出来ればちゃんと謝りたかった。一人きりにして、怖い思いをさせてしまったことを。ずっと握りしめたままのピアスが熱い。 きっと喜んでくれるだろうと思うと、早く、会いたかった。 (花京院) 頭部への燃えるような衝撃と共に、重々しく鈍い音が、聞こえた気がした。 それが承太郎の最後の記憶だった。 ――ぼくは、死んでなんかいないぞ。 (ああ、そうか) 闇の中、水中を漂うようにふわふわと身を任せ、承太郎は目を開ける。 花京院は死んでなどいなかった。なぜなら、この手で守ることができたから。 噛み締めるように口元に笑みを浮かべた承太郎の側に、一匹の蛍がふわりと飛んでくる。何も見えない、海の底のような暗闇の中で、緑色に輝く残像が金魚の尾びれのように美しかった。 蛍は寂しげに承太郎の周りをくるりと一周した。そっと長い腕を伸ばせば、人差し指の先にとまる。 ――承太郎。 花京院の声が、聞こえた気がした。 自分がどこにいるのかさえ分からない空間で、それでも心の中は穏やかだ。 このまま、永遠に身を委ねていたい。まるで勤めを終えたかのように、承太郎は静かに瞼を閉じた。 ――帰っておいで。かくれんぼは、もうおしまいだ。 * ふと、目が覚めた。 (朝、か……?) 飛び込んできたのは白い光だった。 闇の中を彷徨っていた意識が認識できたのは、たったそれだけ。 だが、ぼやけた視界は徐々に輪郭を取り戻していく。視界を覆うのが白い天井だと知ったとき、名前を呼ばれた。 「承太郎……?」 その声はずっと夢の中で聞いていたものと同じだった。 けれど酷く震えていて、承太郎は瞬きをするのがやっとの瞳を声のした方へゆっくりと走らせる。 そこには、花京院が、いた。 「ッ……!」 名前を呼ぼうとして、上手く声にならなかった。 まるでずっと呼吸を遮られていたみたいに、空気を吸い込んだ瞬間、喉が引き攣れてちりちりと痛む。 なぜ。どうして。夢は終わったのではなかったのか。それとも、まだ眠りの中にいるのだろうか。身体が重くて、思考すらまともに動かない。 自分は確か、久しぶりに帰った家の自室で眠っていたはずだ。それがどういうわけか覚えのない白い空間でベッドに横たわっている。伸ばそうとして、結局は指先だけ震わせるに終わった手に、床に膝をついた花京院の手が重なった。そっと握られて、その温かさに確かな命の証を感じる。 生きている。 花京院は生きている。そして、承太郎も……。 深緑のタートルネックのセーターを着た花京院は、幼さの削ぎ落とされた頬で承太郎を見下ろし、やがて泣きそうに顔をくしゃりと歪めて笑った。 狐の面に隠れて見ることの叶わなかった、眩しい笑顔と切ない泣き顔。色濃い面影が、そこに確かに彼が存在しているのだということを承太郎に伝えた。 彼の両耳に揺れる、あの祭の出店で買った赤い果実のようなピアスを見て、承太郎は自分が長い間ずっと夢を見続けていたのだということを理解した。 花京院を失ったまま生きる夢を。そして今、ようやく目覚めた。 「おはよう、承太郎」 承太郎の手を両手でしっかりと握りしめ、花京院はやっとの思いで声を絞り出しているようだった。 「君は10年間もずっと、眠り続けていたんだよ」 その静かな声を、頭の中で幾度か反芻してみる。 あの祭の夜から、10年。 俄には信じられないことだったが、けれど少しずつその認識が身体の内側に染み渡っていく。最後に見上げた丸い月や、男の顔や、尖った石の大きさまでもが、鮮明に記憶にこびりついているからだ。 あの男がその後どうなったのかは知らないが、頭部に石を叩きつけられた承太郎はどうにか命を取り留めたものの、長い間ずっと眠り続けていたらしい。 ここは病院で、承太郎が身を横たえているのは病室の、ベッドの上だ。 投げ出されている方の腕から伸びる点滴の管によって、承太郎はどうにか生かされ続けていた。 『そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ』 長い長い夢の果て、蛍の飛び交う川のほとりで寂しげに呟かれた言葉を思い出す。あれは確かに花京院の心の声だったのだと、今ならわかる。 いつ目覚めるとも知れない承太郎に寄り添いながら、彼がどれほど己を責め続けてきたか、握りしめてくる手の熱さや震えから痛いほど伝わって来る。 花京院はこくんと喉を鳴らして唇を噛み締めた。握っている承太郎の骨ばった手に額を押し付け、震える息を吐き出してから、濡れた瞳で精一杯の笑顔を浮かべる。 「遅いぞ、承太郎。この寝坊助め」 憎まれ口に乗せられた心からの安堵と労わりに、目頭が熱くなる。 花京院の瞳から、一筋の涙が零れた。そのキラキラと光るすみれ色へ、承太郎は懐かしさと愛しさを込めて目を細めると、小さく笑った。 「か、きょ、いん」 目覚めたばかりで調子を取り戻せない声帯で、承太郎は吐息を駆使して言葉を紡ぐ。 「よく、似合ってる、ぜ」 花京院の耳にさがる赤いピアス。 ただ飾って眺めるだけだと言っていたそれが、大人になった彼に不思議とよく似合っている。 力の入らない指先で、花京院の手をそっと握りしめた。彼は引き結んだ唇を震わせ、両手にいっそう力を込めると承太郎の指先に目頭を押し付ける。 ひくひくと肩を震わせる大人の男に、祠から助け出されて泣いていた子供がぴったりと重なった。 繋いだ手の平の熱と、燃えるような夕陽の赤に誓った想いが、失われることなく今なお息づいていることに、このうえない幸福を覚える。 泣くなよと言って微かに笑えば、花京院は鼻をすすりながら「泣いてないよ」と強がった。そんなところまであの日のままで。 身体中に溢れる熱い想いに、承太郎の頬にも涙が伝っていた。 言いすぎて悪かった。置き去りにして悪かった。一人にして悪かった。怖い思いをさせて悪かった。待たせて、悪かった。 言いたいことが沢山あったはずなのに、承太郎の言葉はたった一つに集約される。 「愛してる」 脆弱な吐息ではなく、しっかりと音になった声に目を見開いた花京院は、ゆっくりと大輪の花が咲くように、鮮やかな笑顔を浮かべた。 もう決して後悔しないように。見失わないように。 握り合った手と手の温もりに、あの懐かしい黄昏の空を瞼の裏に思い描きながら。 二人は未来を紡ぐための、新たな約束を交わす。 ――もう二度と、繋いだこの手を離さない。 長い長い、夢は終わった。 終 死亡ルートも読んでみる ←戻る
承太郎はその狐の面を、外すことができなかった。
面に触れていた手がだらりと落ちる。
ふいに漏れたのは自嘲的な笑みで、承太郎は俯くと力なく首を振った。
「おれには、そんな資格はねえな」
花京院がどんな顔をしていようと、それはただの幻だ。
彼の言葉や仕草は、ずっと暗い水の底に沈んでいた心を救うには十分すぎた。諦める口実をどこかで求めていた承太郎に、彼は惜しみなく赦しを与えてくれる。
その顔を見てしまったら、きっとこの夢は美しい思い出の最後を飾って終わるだろう。めでたしめでたしで、都合よく。
確かに承太郎は救いを求めていた。だけど、そんな紛い物の救済に何の意味があるというのか。
ならばいっそ苦しいままでいい。花京院を守れなかった。その事実を風化させてしまうくらいなら、その罪を背負って生きていく方が、ずっと。
「おれは、おれ自身を許せそうにねえ。例えてめーがなんと言おうともだ」
「……ありもしない罪を背負い続けることに、一体なんの意味があると言うんだ?」
花京院の言葉には、呆れと仄かな苛立ちが込められていた。
ゆるゆると顔をあげた承太郎の正面で、蛍を纏わりつかせた狐が溜息を漏らす。
「君は一体、いつまでぼくを一人ぼっちにしておくつもりだい?」
「花京院……?」
「思いだせよ、承太郎」
――ぼくは、×んでなんかいないぞ。
「――ッ!!」
その瞬間、承太郎の意識が闇に飲まれ、遠のいた。
*
太鼓と笛の音に乗せて、母が舞台の上で厳かに舞い踊っている。
立ち込める熱気とカメラのフラッシュが点滅する中、承太郎はそれを最前列で見つめていた。
巫女装束に身を包み、鈴のついた榊を手に踊る母の姿は、神様が舞い降りたのかと思うほど荘厳で、美しかった。
(一緒に見るはずだったのに。花京院のヤツ)
幼い頬を上気させ、舞台上の母の姿を目に焼き付けながらも、承太郎は時おり背後を振り向いて花京院が来るのを今か今かと待っていた。
(あいつ小せえからな……ここまで来るのはやっぱ無理か)
舞台周辺は人だかりができていて、花京院の小さな身体で割り込んで来るのは難しいだろう。どこかで見ているのならいいのだが、口論になったうえに置いてきてしまった身としては、どうも気になって仕方がない。
(やれやれだぜ)
神楽はまだ始まったばかりだ。最後まで見届けたいという気持ちはあるが、気になりだすと止まらなくなる性分の承太郎は、舞台に背を向けると大人たちの群れを掻き分けた。
迷惑そうな舌打ちを食らいながらも人だかりから脱すると、周辺をざっと見渡す。ほとんどの人間が神楽に夢中になっていて、出店の連なる通路は先刻と比べると幾らか閑散として見えた。
ついさっき言い合いになってしまった雑貨屋もここからよく見えるが、そこに探している人物の姿は見当たらない。
承太郎はキョロキョロと視線を彷徨わせながら石畳の通路を歩く。花京院は身体は小さいが、あの特徴的な前髪や赤毛がよく目立つため、すぐに見つかるとばかり思っていたのだが。
「まさか臍曲げて帰っちまったわけじゃねえよな?」
少しばかりキツく言いすぎた自覚のある承太郎は、ぼりぼりと頭を掻きながら例の雑貨屋の前で足を止める。
そこに彼が欲しがっていたピアスが手つかずで残されているのを見て、なぜか胸騒ぎがした。
どうしてか、今すぐに探し出さなくては手遅れになるような気がして。
漠然とした焦燥感に身を焦がしながら、承太郎は気がつくとピアスを購入し、その足で神社の石段を駆け下りていた。
*
電球の切れかかった街灯が不規則に点滅する道には、田んぼから聞こえるカエルの合唱だけが響き渡っていた。
祭の喧騒を遠くに聞きながら、承太郎は行きは花京院と並んで歩いて来たはずの道をひた走っていた。
汗ばむ手の中には購入したばかりの赤いピアスがある。
早く花京院に会って、これを渡して謝罪しなければ。その一心で走り続けていた承太郎は、幾つか連なる道祖神の前でふと足を止めた。ここを曲がって田んぼのあぜ道に入って行けば、花京院の家がある方向なのだが。
承太郎は遥か前方に揺れ動く二つの影を見つけて、ぐっと目を凝らす。
それは子供の手を引く、大人の姿だった。ほとんど役割を果たさない街灯と月明かりを頼りに、さらに目を細めて食い入るように見つめると、その様子が少しばかりおかしいことに気がつく。
「あれは……花京院か!?」
二人のやりとりまでは聞こえない。だが、おそらく大人の男であろう影が小さな子供を強引に引きずって、山の方へと続く小道へ入って行こうとするのが、確かに見える。
そう認識した瞬間には走り出していた。あれは花京院に違いない。相手の男が誰かは知らないが、好ましい状況でないことは明白だ。
焦りと怒りに足を取られそうになりながらも全力で駆け抜け、二人が消えていった小道を曲がった。
そこは街灯もなく、ただ青白い月明かりだけが不気味に木々を浮かびあがらせる、暗い一本道だった。
「こんのクソガキッ!!」
声が聞こえたのは、そのときだ。
男が花京院の小さな身体を地面に投げ捨てる光景が目に飛び込んできた。承太郎の頭に、一瞬にして血がのぼる。
「この野郎……ッ!!」
脇目もふらず男目掛けて全力で駆け、その腰に飛びついた。
「承太郎!?」
「な、なんだお前はッ!?」
目を見開く花京院と、突然の乱入者によろめきながら狼狽える男の声が重なる。
「逃げろ花京院ッ! 誰か大人を呼んで来いッ!!」
手足を擦り剥かせ、血を流しながら唖然としている花京院に叫びながら、承太郎は激しく抵抗する男の腰に懸命にしがみついた。
「だ、だけど承太郎ッ!!」
「このガキがぁ!! 離せッ!! 離さねぇとぶっ殺すぞッ!!」
「いいから早く行けッ!!」
「ッ……!」
花京院は泣きそうにくしゃりと表情を歪めながら、それでも大きく頷いて立ち上がり、弾かれたように駆け出した。暴れる男によって激しく身を揺さぶられながらも、承太郎は闇に消えていく小さな背中に安堵する。
――ああ、守れた。守ることが、できた。
なんだってする。どんなことだってする。
だって失えば生きていけない。笑っている花京院が好きだ。怒っていても、泣いていても。可愛くて優しい、花京院のことが。
「クソガキがぁーッ!!」
焦った男が渾身の力で身を捩る。承太郎の腕を爪が食い込むほど掴み、皮を削ぐような乱暴さで引き剥がした。承太郎は同年代の子供たちより身体は大きかったが、大の大人を長時間押さえ込んでいられるだけの力は、流石になかった。
先刻花京院がされたのと同じように、整備されていない地面に身体を叩きつけられる。それでも諦めず、逃げ出そうとする男の足に両腕を絡めた。
男は血走った眼で激怒し、自由な方の足で承太郎の背や脇腹を蹴りあげる。
激しい痛みに呼吸が出来ない。それでも耐えた。もしここで諦めれば、この男は花京院の後を追うかもしれない。そんな真似は、絶対にさせてなるものか。
男はいよいよ承太郎を引き剥がすことを諦めたようだった。代わりに身を屈め、転がっていた石を鷲掴む。それは野球ボールより一回り大きな、先端の尖った石だった。
死ね、と。
そう言いながら、男が石を降り下ろしてくる光景が、やけにゆっくりと承太郎の目に映る。
夜空にはポッカリと丸い月が浮かび、こんなときであるにも関わらず綺麗だと思った。それから、花京院は無事に人気のある場所に辿り着けただろうかと。出来ればちゃんと謝りたかった。一人きりにして、怖い思いをさせてしまったことを。ずっと握りしめたままのピアスが熱い。
きっと喜んでくれるだろうと思うと、早く、会いたかった。
(花京院)
頭部への燃えるような衝撃と共に、重々しく鈍い音が、聞こえた気がした。
それが承太郎の最後の記憶だった。
――ぼくは、死んでなんかいないぞ。
(ああ、そうか)
闇の中、水中を漂うようにふわふわと身を任せ、承太郎は目を開ける。
花京院は死んでなどいなかった。なぜなら、この手で守ることができたから。
噛み締めるように口元に笑みを浮かべた承太郎の側に、一匹の蛍がふわりと飛んでくる。何も見えない、海の底のような暗闇の中で、緑色に輝く残像が金魚の尾びれのように美しかった。
蛍は寂しげに承太郎の周りをくるりと一周した。そっと長い腕を伸ばせば、人差し指の先にとまる。
――承太郎。
花京院の声が、聞こえた気がした。
自分がどこにいるのかさえ分からない空間で、それでも心の中は穏やかだ。
このまま、永遠に身を委ねていたい。まるで勤めを終えたかのように、承太郎は静かに瞼を閉じた。
――帰っておいで。かくれんぼは、もうおしまいだ。
*
ふと、目が覚めた。
(朝、か……?)
飛び込んできたのは白い光だった。
闇の中を彷徨っていた意識が認識できたのは、たったそれだけ。
だが、ぼやけた視界は徐々に輪郭を取り戻していく。視界を覆うのが白い天井だと知ったとき、名前を呼ばれた。
「承太郎……?」
その声はずっと夢の中で聞いていたものと同じだった。
けれど酷く震えていて、承太郎は瞬きをするのがやっとの瞳を声のした方へゆっくりと走らせる。
そこには、花京院が、いた。
「ッ……!」
名前を呼ぼうとして、上手く声にならなかった。
まるでずっと呼吸を遮られていたみたいに、空気を吸い込んだ瞬間、喉が引き攣れてちりちりと痛む。
なぜ。どうして。夢は終わったのではなかったのか。それとも、まだ眠りの中にいるのだろうか。身体が重くて、思考すらまともに動かない。
自分は確か、久しぶりに帰った家の自室で眠っていたはずだ。それがどういうわけか覚えのない白い空間でベッドに横たわっている。伸ばそうとして、結局は指先だけ震わせるに終わった手に、床に膝をついた花京院の手が重なった。そっと握られて、その温かさに確かな命の証を感じる。
生きている。
花京院は生きている。そして、承太郎も……。
深緑のタートルネックのセーターを着た花京院は、幼さの削ぎ落とされた頬で承太郎を見下ろし、やがて泣きそうに顔をくしゃりと歪めて笑った。
狐の面に隠れて見ることの叶わなかった、眩しい笑顔と切ない泣き顔。色濃い面影が、そこに確かに彼が存在しているのだということを承太郎に伝えた。
彼の両耳に揺れる、あの祭の出店で買った赤い果実のようなピアスを見て、承太郎は自分が長い間ずっと夢を見続けていたのだということを理解した。
花京院を失ったまま生きる夢を。そして今、ようやく目覚めた。
「おはよう、承太郎」
承太郎の手を両手でしっかりと握りしめ、花京院はやっとの思いで声を絞り出しているようだった。
「君は10年間もずっと、眠り続けていたんだよ」
その静かな声を、頭の中で幾度か反芻してみる。
あの祭の夜から、10年。
俄には信じられないことだったが、けれど少しずつその認識が身体の内側に染み渡っていく。最後に見上げた丸い月や、男の顔や、尖った石の大きさまでもが、鮮明に記憶にこびりついているからだ。
あの男がその後どうなったのかは知らないが、頭部に石を叩きつけられた承太郎はどうにか命を取り留めたものの、長い間ずっと眠り続けていたらしい。
ここは病院で、承太郎が身を横たえているのは病室の、ベッドの上だ。
投げ出されている方の腕から伸びる点滴の管によって、承太郎はどうにか生かされ続けていた。
『そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ』
長い長い夢の果て、蛍の飛び交う川のほとりで寂しげに呟かれた言葉を思い出す。あれは確かに花京院の心の声だったのだと、今ならわかる。
いつ目覚めるとも知れない承太郎に寄り添いながら、彼がどれほど己を責め続けてきたか、握りしめてくる手の熱さや震えから痛いほど伝わって来る。
花京院はこくんと喉を鳴らして唇を噛み締めた。握っている承太郎の骨ばった手に額を押し付け、震える息を吐き出してから、濡れた瞳で精一杯の笑顔を浮かべる。
「遅いぞ、承太郎。この寝坊助め」
憎まれ口に乗せられた心からの安堵と労わりに、目頭が熱くなる。
花京院の瞳から、一筋の涙が零れた。そのキラキラと光るすみれ色へ、承太郎は懐かしさと愛しさを込めて目を細めると、小さく笑った。
「か、きょ、いん」
目覚めたばかりで調子を取り戻せない声帯で、承太郎は吐息を駆使して言葉を紡ぐ。
「よく、似合ってる、ぜ」
花京院の耳にさがる赤いピアス。
ただ飾って眺めるだけだと言っていたそれが、大人になった彼に不思議とよく似合っている。
力の入らない指先で、花京院の手をそっと握りしめた。彼は引き結んだ唇を震わせ、両手にいっそう力を込めると承太郎の指先に目頭を押し付ける。
ひくひくと肩を震わせる大人の男に、祠から助け出されて泣いていた子供がぴったりと重なった。
繋いだ手の平の熱と、燃えるような夕陽の赤に誓った想いが、失われることなく今なお息づいていることに、このうえない幸福を覚える。
泣くなよと言って微かに笑えば、花京院は鼻をすすりながら「泣いてないよ」と強がった。そんなところまであの日のままで。
身体中に溢れる熱い想いに、承太郎の頬にも涙が伝っていた。
言いすぎて悪かった。置き去りにして悪かった。一人にして悪かった。怖い思いをさせて悪かった。待たせて、悪かった。
言いたいことが沢山あったはずなのに、承太郎の言葉はたった一つに集約される。
「愛してる」
脆弱な吐息ではなく、しっかりと音になった声に目を見開いた花京院は、ゆっくりと大輪の花が咲くように、鮮やかな笑顔を浮かべた。
もう決して後悔しないように。見失わないように。
握り合った手と手の温もりに、あの懐かしい黄昏の空を瞼の裏に思い描きながら。
二人は未来を紡ぐための、新たな約束を交わす。
――もう二度と、繋いだこの手を離さない。
長い長い、夢は終わった。
終
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