「ねぇ日向クン……こないだの続き、しよっか?」
ねっとりと耳朶に纏わりつくような艶っぽい声が、日向を誘う。
妖艶に微笑む狛枝は、赤い舌でいやらしく下唇を濡らした。猫のように細められた瞳が挑発的で、日向は知らず喉を鳴らしていた。
白い両腕がゆらゆらと揺れ、やがて首に絡みついてくると、もう抗う術がない。
ほっそりとした首筋のラインも、男性であることを示す膨らんだ喉仏ですらも、情欲に飲まれた日向の目には堪らなく扇情的に映った。
「狛枝……」
自分の低く掠れた声や荒い息遣いが、飢えた獣じみている。落ちる、と思った瞬間、日向はその白い肌に食いつき、思うが儘に牙を立てていた。
狛枝が啼く。
脳髄が溶けだしそうなほど、甘い声で。
もっともっとと、媚びるように身をしならせて。白い肌を赤く色づかせ、日向を求める。
やがて。
ジリリリリリリ!
「ッ――!?」
けたたましい電子音が、沈み込んでいた日向の思考を強制的に引き上げる。
ハッとして目を見開いた視界の先には、緩やかな木目を描く自室の天井だけが映っていた。
「ゆ、夢……」
絞り出した声と共に、ようやく詰めていた息を吐き出す。
電子音は枕元の携帯電話から鳴り響いていた。手探りでアラームを解除すると、だるい身体を起こした。
深い溜息をつきながら触れた額は、薄らと汗をかいている。
全身が重く、どろりとした疲労感に包まれていた。
「……まただ」
一体これで何度目だろうか。
酔った狛枝を連れて帰宅したあの夜から、幾度となく日向を苦しませる夢。忘れようとすればするほど、それは纏わりついてくる。
「勘弁してくれよ」
片手で顔の半分を覆いながら、視線を下向ける。
スウェットの股間が見事にテントを張ったような状態になっていて、解放を求める熱が下半身に泥のように留まっていた。
自己嫌悪でどうにかなりそうだ。生理現象といってしまえばそれまでだが、こうなった原因の人物を思うと精神的に滅入るばかりだった。
素直に慰める気にはどうしてもなれなくて、日向は重々しい息を吐き出しながら、冷水を頭からかぶるために前かがみで浴室へ向かった。
*
そろそろ本気で、恋人を作ることを考えた方がよさそうだ。
バイトを終え、日向はぼんやりと夜空を見上げながらボロアパートへの道のりを歩いていた。
別にいやらしい夢を見ること自体は問題じゃない。でも、いくら欲求不満だからって相手が狛枝というのはいかがなものか。彼は正真正銘男性で、日向には当然そちらの気はない。それでもふとした瞬間思い出すのは狛枝の泣き顔や、あの吐息と一緒に吐き出される声ばかりだった。
ハッキリ言って、あの色気は童貞には刺激が強すぎた。情けない話だが、例の夜から日向はずっと狛枝の幻影に惑わされている。
(左右田のヤツにでも連絡するか……)
先日合コンの約束を蹴ったことを、あの友人はまだ怒っているかもしれない。
それでもなんとか謝り倒して席を設けてもらおうか。いや、こちらから頼まなくても、ヤツは定期的にそういった場を仕切っている。頼み込んで、頭数に入れてもらおう。
(不毛、な気もするけど)
童貞を捨てるために彼女が欲しいなんて。まだ見ぬ相手にも失礼だし、自分勝手だと思う。だけど、早くしないと取り返しがつかないことになりそうな気もして、ただただ焦る。
本来なら、こうして先の行動が決まれば多少は気が紛れるはずだった。
それなのに日向の心はどうにも重たいままだ。それは、背後に感じる人の気配と、窺うような視線が原因の大半を占めている。
「…………」
日向が足を止めると、その気配もピタリと止まった。
歩き出すと、またはじまる。何度かそれを繰り返して、いよいよ我慢ならなくなった日向は立ち止まり、ゲッソリとした息を吐き出した。
「おい、隠れてないで出てこいよ」
「ッ!?」
気配が動く。大きく肩を震わせる様まで、空気から鮮明に読み取ることができた。日向は振り向くと、「狛枝」とその名を呼んだ。
街灯の設置された電柱に、無理やり身を隠そうとして思い切りはみ出している、尖った肩が見えた。
「また不審者扱いされても知らないぞ……ストーカーか、お前は」
「……ぅ」
いつものコートを着た彼は、怖々とした様子で電柱の影から姿を現す。
「や、やぁ日向クン、月が綺麗だね」
「月は出てないぞ?」
「あっ、本当だ……。じゃあ、星が綺麗だね」
「今夜は曇りだ」
「んぅッ!」
「はぁ……」
思えばこいつと関わると自分は溜息ばかりついているような気がする。
狛枝は白い指先で頬をカリカリと掻きながら「あは」と笑った。
「コソコソするな。俺が女だったらとっくに通報してる物件だぞ?」
「えへへ、ごめんね」
なぜか照れたように笑う狛枝は、履いているサンダルの踵を鳴らしながら日向に歩み寄って来た。その手には白いビニール袋を持っている。日向が尾行に気づいたのは、このビニール袋の微かな音がキッカケだった。
身を隠すつもりなら、音の出るものを持ち歩かなければいいものを。
「お借りしたサンダル、返しに来たんだ。連絡もせずに来ちゃったから、出るタイミングがわからなくて」
その行動は、ある意味正解だったかもしれない。
おそらく今の日向なら、狛枝の精一杯のメールも迷わず断っていた。できることなら、しばらくは顔を見ずにいたかったから。
「そんなの別にいいって言っただろ?」
狛枝はあの居酒屋に行った夜に靴を紛失している。
だから帰り際にボロボロのサンダルを貸してやったのだが、別にくれてやって困るものでもないし、返す必要はないと告げていた。
それでも彼は気が済まなかったようだ。
「そんなわけにはいかないよ。迷惑をかけた上に、こんな素敵なサンダルまで頂くなんて」
「素敵って……相当なボロなんだけどな」
「日向クンの所有物なら、ボクにとってはどれも宝石より価値のある代物なんだ」
「お前さ、そういうのは誤解を招くから、もう少し言い方に気を付けた方がいいと思うぞ」
「誤解って?」
きょとん、と首を傾げる狛枝から目を逸らす。
ここ最近ずっと自分を悩ませる存在が、わざわざ呼びもしないのに顔を出すなんて。
だけどアパートはもう目の前だ。サンダルを受け取るだけで帰すのもなんだか悪い。日向は親指でアパートの方を指すと、「寄ってくか?」とぶっきらぼうに誘いをかけた。
「い、いいのかい!?」
狛枝はパッと表情を明るくして、僅かに身を乗り出す。素直に喜んで見せる姿に座りの悪さを感じながら、日向は狛枝を再びアパートに招き入れることになった。
*
「あのね日向クン、これ、つまらないものだけどお土産なんだ」
部屋の玄関に入ってすぐ、狛枝は手にしていたビニール袋を差し出して来た。悪いな、と返してやたら重たい袋を受け取りながら、ふと首を傾げてしまう。
狛枝が今まさに脱ごうとしているサンダルは、日向が貸してやったものだ。彼は他に荷物を持っている様子はない。
「なぁ狛枝。聞いてもいいか?」
「ん、なに?」
「お前さ、帰りはどうするんだ? まさか裸足とか言わないよな?」
「へ……?」
日向の問いかけに、彼は目を丸くした。そしてゆっくりと自分の足元を見て、それから日向の顔を見た。
「ドジだな、お前」
そう言うと、さぁ、という血の気が引くような音が聞こえた気がした。
*
正座した狛枝が、俯いて肩を震わせている。
適当に部屋着に着替えた日向は、小さな木製のちゃぶ台越しにどっかりと胡坐をかいた。
「いいから気にするなよ」
「ごめん……ボクって人間は本当にどうしようもないゴミ屑だ……これじゃ何のために来たのか……」
あのあと、狛枝は錯乱状態ですぐに取りに行ってくると言いだした。別にそこまでして返してほしいものでもないし、そんな必要はないと言って宥めすかしたが、以来ずっとふさぎ込んでこの有様だった。
会うたびに震えたり青褪めたり、そんな姿ばかり見ているような気がする。
日向にとって取るに足らないことも、彼にとっては命運を分けるような大事なのかもしれない。
「死んでお詫びを……」
「バカ。こんなことで死ぬヤツがいるか。それより、これいいのか?」
空気を変えようと、日向は何気なさを装いながら畳の上に置かれたビニール袋に手を伸ばす。
中身は缶ビールが数本に、イカの一夜干しや砂肝や、あらゆるつまみが入っている。いやに重いなと思ってはいたが、そこらじゅうのつまみを片っ端から買い占めたのではないかと思うほど、種類が豊富だった。
「うん。こないだはボクなんかのせいで飲み足りない思いをさせてしまったと思ってね。何が好きか分からなくて、とりあえずコンビニでありったけのおつまみを買って来ちゃったよ」
「案の定か。一体幾らしたんだよこれ……凄い量だぞ? ん? これは……?」
「あっ、ごめん、それはボクの」
底の方に一本だけ、細長い缶が入っているのを取り出すと、手を伸ばしてくる狛枝に渡した。
「ありがとう」
両手でそれを受け取った狛枝は、小首を傾げながら肩を竦め、頬を赤らめて微笑んだ。
なんというあざとい仕草だろう。今現在、不本意ながらも狛枝のことをちょっと『そういう目』で見てしまっている日向は、思わず咳払いをした。
「あの、よかったら乾杯とか……どうかな?」
「そ、それはいいけど……それ、ブルーラムだよな? 酒やジュースみたいに飲むもんじゃないぞ」
「だって好きなんだもん」
「すっ……好き、か」
「どうしたの? なんか顔が赤いけど……。そういえば日向クン、バイトだったんだよね? 疲れてるのに、こんなゴミが押しかけて具合が悪くなってしまったんじゃ……?」
「そういうんじゃないって」
実際、本当にそういうわけではなく、いちいち狛枝の言葉や仕草を意識してしまっている自分に腹が立っていた。
それを狛枝自身にぶつけることはできず、ビールの缶を開けて中身を一気に腹の中に流し込む。
狛枝がショックを受けた様子で「乾杯……」と寂しげに零すので、仕方なく半分近く減った缶を摘まむようにして持ち上げ、無言で差し出す。すると今度は嬉しそうに目を輝かせ、ブルーラムのプルタブを開けると軽くぶつけてきた。
コン、という乾いた音がしたあと、狛枝は両手に持った缶に口をつけると一口飲んで「おいしいね」と楽しげに言い放つ。
残りのビールを勢いよくあおりながら、日向はつくづく実感してしまう。
(ほんと可愛い顔してるんだよな、狛枝って……)
その心の呟きをキッカケに、まるで固く閉じていた蓋が開いたように、日向の中の本音が顔を出す。
(なんで女じゃないんだよ、こいつ)
狛枝が女性だったなら、きっともっと単純だった。
顔も可愛いし、色も白くて、薄い身体はつい守ってやりたくなるくらい頼りなくて。どこか天然ぽいところも愛嬌があるし、何より唇が、とても柔らかかった。
(……酔ったな)
手の中にある缶はすっかり空になっていた。
すきっ腹に急激に流し込まれたアルコールが、胃袋の中で燃えるように荒れ狂っている。
早く左右田に連絡を入れようと思った。それが駄目なら、いっそ出会い系だっていい。あの夜のことを、唇の感触を、吐息を、早く忘れなければ。
「日向クン? ねぇ、どうかした?」
「……え?」
ずっと一点を見つめたまま考えに耽っていた日向の顔を、狛枝が心配そうに身体を傾けて覗き込んでいた。
「い、いや、別に」
「やっぱり疲れてるんだね。ボク、もうお暇させてもらうよ」
反射的に引き止めようとしたところで、そうしてもらった方がいいかと口を噤んだ。
「サンダル、改めて返しに来てもいいかな? あ、別にボクは裸足で帰っても構わないんだけど……その、なんていうか」
狛枝は、なぜか頬を赤らめながら目を泳がせていた。
どこかふわふわとした感覚を持て余しながら、日向はその表情をぼんやりと見つめる。
なにかとてつもなく言いにくいことでもあるのか、狛枝はしきりに下唇を噛み締めては湿らすばかりで、先を続けようとはしなかった。
気づけば日向は赤味を増していくその唇ばかりを見つめていた。その光景は、あの夜重ねた熱い感触を思い出させる。そして、夢の中で猫のように舌なめずりをして誘う姿をも、彷彿とさせた。
(ヤバい)
そう思った瞬間、日向は狛枝に手を伸ばしていた。
二の腕を掴んで引きずるようにして、すぐ側の万年床に押し倒す。
「ひ、日向クン!?」
突然のことに、狛枝が困惑した表情を浮かべる。それを見下ろしながら、頭の中が沸騰しているような感覚に息を荒げた。
狛枝は男だ。だから自分にとって、恋愛の対象にはなりえない。ましてや性の対象になんて、絶対に。
(なら、どうしてキスなんかしたんだ)
あのとき、日向は何度も自身を制御しようと試みた。頭の中で繰り返し、言うことをきかない身体と本能に抗おうとした。
だけど駄目だった。どうしても抑えきれなかった。
「狛枝……」
夢の中と同じだった。日向の声は低く掠れて、熱く吐き出される息は獣じみている。
狛枝が小さく身を震わせた。押し倒す日向の下で、ぎゅっと肩を竦めて強張っている。ガラス玉のような瞳が不安そうに揺れていた。
ああ、きっと怖がらせているのだと。あのときのように、欲望に抗うべき思考すらどこか遠くで静観している。
ごくりと、日向が喉を鳴らした瞬間、狛枝は震える息を吐き出しながら、そっと目を閉じた。
それは受容の合図だった。狛枝の身体も、長い睫毛も、まるで生きたまま供物として捧げられた生贄のように見えた。
「……日向クン?」
日向は急激に冷静さを取り戻す自分に気づいて、茫然とした。石化したように動かなくなった日向を、目を開けた狛枝が見上げている。
あれほど熱くなっていたのが嘘のように、胸の内側が凪いでいた。
気が抜けたような顔で身を起こした日向は、力なく布団の上に胡坐をかいた。
「……悪い。どうかしてた」
「……しないの?」
「ッ!」
同じく身を起こした狛枝の言葉に、頭を殴られたような気がして感情が高ぶる。
「すッ、するわけないだろ!」
「でも」
「いいからもう帰ってくれ!!」
とてもではないが、狛枝の顔を見ることができなかった。
乱暴に言い放ったあとで、しまったと後悔してももう遅い。狛枝がのろのろと立ち上がるのが視界の端に映る。
彼は耳を澄ましていなければ聞こえないほどの小さな声で「ごめんね」と言った。ゴミとか屑とか、そういう言葉と同じくらい、謝らせてばかりのような気がする。
早く一人になりたいと思った。一人になって、頭の中を整理したい。狛枝はそんな日向の意志を汲むかのように、従順に姿を消した。
扉が閉まる音の後には、大量の酒とつまみと、飲みかけのブルーラムだけが残されていた。
←戻る ・ 次へ→
ねっとりと耳朶に纏わりつくような艶っぽい声が、日向を誘う。
妖艶に微笑む狛枝は、赤い舌でいやらしく下唇を濡らした。猫のように細められた瞳が挑発的で、日向は知らず喉を鳴らしていた。
白い両腕がゆらゆらと揺れ、やがて首に絡みついてくると、もう抗う術がない。
ほっそりとした首筋のラインも、男性であることを示す膨らんだ喉仏ですらも、情欲に飲まれた日向の目には堪らなく扇情的に映った。
「狛枝……」
自分の低く掠れた声や荒い息遣いが、飢えた獣じみている。落ちる、と思った瞬間、日向はその白い肌に食いつき、思うが儘に牙を立てていた。
狛枝が啼く。
脳髄が溶けだしそうなほど、甘い声で。
もっともっとと、媚びるように身をしならせて。白い肌を赤く色づかせ、日向を求める。
やがて。
ジリリリリリリ!
「ッ――!?」
けたたましい電子音が、沈み込んでいた日向の思考を強制的に引き上げる。
ハッとして目を見開いた視界の先には、緩やかな木目を描く自室の天井だけが映っていた。
「ゆ、夢……」
絞り出した声と共に、ようやく詰めていた息を吐き出す。
電子音は枕元の携帯電話から鳴り響いていた。手探りでアラームを解除すると、だるい身体を起こした。
深い溜息をつきながら触れた額は、薄らと汗をかいている。
全身が重く、どろりとした疲労感に包まれていた。
「……まただ」
一体これで何度目だろうか。
酔った狛枝を連れて帰宅したあの夜から、幾度となく日向を苦しませる夢。忘れようとすればするほど、それは纏わりついてくる。
「勘弁してくれよ」
片手で顔の半分を覆いながら、視線を下向ける。
スウェットの股間が見事にテントを張ったような状態になっていて、解放を求める熱が下半身に泥のように留まっていた。
自己嫌悪でどうにかなりそうだ。生理現象といってしまえばそれまでだが、こうなった原因の人物を思うと精神的に滅入るばかりだった。
素直に慰める気にはどうしてもなれなくて、日向は重々しい息を吐き出しながら、冷水を頭からかぶるために前かがみで浴室へ向かった。
*
そろそろ本気で、恋人を作ることを考えた方がよさそうだ。
バイトを終え、日向はぼんやりと夜空を見上げながらボロアパートへの道のりを歩いていた。
別にいやらしい夢を見ること自体は問題じゃない。でも、いくら欲求不満だからって相手が狛枝というのはいかがなものか。彼は正真正銘男性で、日向には当然そちらの気はない。それでもふとした瞬間思い出すのは狛枝の泣き顔や、あの吐息と一緒に吐き出される声ばかりだった。
ハッキリ言って、あの色気は童貞には刺激が強すぎた。情けない話だが、例の夜から日向はずっと狛枝の幻影に惑わされている。
(左右田のヤツにでも連絡するか……)
先日合コンの約束を蹴ったことを、あの友人はまだ怒っているかもしれない。
それでもなんとか謝り倒して席を設けてもらおうか。いや、こちらから頼まなくても、ヤツは定期的にそういった場を仕切っている。頼み込んで、頭数に入れてもらおう。
(不毛、な気もするけど)
童貞を捨てるために彼女が欲しいなんて。まだ見ぬ相手にも失礼だし、自分勝手だと思う。だけど、早くしないと取り返しがつかないことになりそうな気もして、ただただ焦る。
本来なら、こうして先の行動が決まれば多少は気が紛れるはずだった。
それなのに日向の心はどうにも重たいままだ。それは、背後に感じる人の気配と、窺うような視線が原因の大半を占めている。
「…………」
日向が足を止めると、その気配もピタリと止まった。
歩き出すと、またはじまる。何度かそれを繰り返して、いよいよ我慢ならなくなった日向は立ち止まり、ゲッソリとした息を吐き出した。
「おい、隠れてないで出てこいよ」
「ッ!?」
気配が動く。大きく肩を震わせる様まで、空気から鮮明に読み取ることができた。日向は振り向くと、「狛枝」とその名を呼んだ。
街灯の設置された電柱に、無理やり身を隠そうとして思い切りはみ出している、尖った肩が見えた。
「また不審者扱いされても知らないぞ……ストーカーか、お前は」
「……ぅ」
いつものコートを着た彼は、怖々とした様子で電柱の影から姿を現す。
「や、やぁ日向クン、月が綺麗だね」
「月は出てないぞ?」
「あっ、本当だ……。じゃあ、星が綺麗だね」
「今夜は曇りだ」
「んぅッ!」
「はぁ……」
思えばこいつと関わると自分は溜息ばかりついているような気がする。
狛枝は白い指先で頬をカリカリと掻きながら「あは」と笑った。
「コソコソするな。俺が女だったらとっくに通報してる物件だぞ?」
「えへへ、ごめんね」
なぜか照れたように笑う狛枝は、履いているサンダルの踵を鳴らしながら日向に歩み寄って来た。その手には白いビニール袋を持っている。日向が尾行に気づいたのは、このビニール袋の微かな音がキッカケだった。
身を隠すつもりなら、音の出るものを持ち歩かなければいいものを。
「お借りしたサンダル、返しに来たんだ。連絡もせずに来ちゃったから、出るタイミングがわからなくて」
その行動は、ある意味正解だったかもしれない。
おそらく今の日向なら、狛枝の精一杯のメールも迷わず断っていた。できることなら、しばらくは顔を見ずにいたかったから。
「そんなの別にいいって言っただろ?」
狛枝はあの居酒屋に行った夜に靴を紛失している。
だから帰り際にボロボロのサンダルを貸してやったのだが、別にくれてやって困るものでもないし、返す必要はないと告げていた。
それでも彼は気が済まなかったようだ。
「そんなわけにはいかないよ。迷惑をかけた上に、こんな素敵なサンダルまで頂くなんて」
「素敵って……相当なボロなんだけどな」
「日向クンの所有物なら、ボクにとってはどれも宝石より価値のある代物なんだ」
「お前さ、そういうのは誤解を招くから、もう少し言い方に気を付けた方がいいと思うぞ」
「誤解って?」
きょとん、と首を傾げる狛枝から目を逸らす。
ここ最近ずっと自分を悩ませる存在が、わざわざ呼びもしないのに顔を出すなんて。
だけどアパートはもう目の前だ。サンダルを受け取るだけで帰すのもなんだか悪い。日向は親指でアパートの方を指すと、「寄ってくか?」とぶっきらぼうに誘いをかけた。
「い、いいのかい!?」
狛枝はパッと表情を明るくして、僅かに身を乗り出す。素直に喜んで見せる姿に座りの悪さを感じながら、日向は狛枝を再びアパートに招き入れることになった。
*
「あのね日向クン、これ、つまらないものだけどお土産なんだ」
部屋の玄関に入ってすぐ、狛枝は手にしていたビニール袋を差し出して来た。悪いな、と返してやたら重たい袋を受け取りながら、ふと首を傾げてしまう。
狛枝が今まさに脱ごうとしているサンダルは、日向が貸してやったものだ。彼は他に荷物を持っている様子はない。
「なぁ狛枝。聞いてもいいか?」
「ん、なに?」
「お前さ、帰りはどうするんだ? まさか裸足とか言わないよな?」
「へ……?」
日向の問いかけに、彼は目を丸くした。そしてゆっくりと自分の足元を見て、それから日向の顔を見た。
「ドジだな、お前」
そう言うと、さぁ、という血の気が引くような音が聞こえた気がした。
*
正座した狛枝が、俯いて肩を震わせている。
適当に部屋着に着替えた日向は、小さな木製のちゃぶ台越しにどっかりと胡坐をかいた。
「いいから気にするなよ」
「ごめん……ボクって人間は本当にどうしようもないゴミ屑だ……これじゃ何のために来たのか……」
あのあと、狛枝は錯乱状態ですぐに取りに行ってくると言いだした。別にそこまでして返してほしいものでもないし、そんな必要はないと言って宥めすかしたが、以来ずっとふさぎ込んでこの有様だった。
会うたびに震えたり青褪めたり、そんな姿ばかり見ているような気がする。
日向にとって取るに足らないことも、彼にとっては命運を分けるような大事なのかもしれない。
「死んでお詫びを……」
「バカ。こんなことで死ぬヤツがいるか。それより、これいいのか?」
空気を変えようと、日向は何気なさを装いながら畳の上に置かれたビニール袋に手を伸ばす。
中身は缶ビールが数本に、イカの一夜干しや砂肝や、あらゆるつまみが入っている。いやに重いなと思ってはいたが、そこらじゅうのつまみを片っ端から買い占めたのではないかと思うほど、種類が豊富だった。
「うん。こないだはボクなんかのせいで飲み足りない思いをさせてしまったと思ってね。何が好きか分からなくて、とりあえずコンビニでありったけのおつまみを買って来ちゃったよ」
「案の定か。一体幾らしたんだよこれ……凄い量だぞ? ん? これは……?」
「あっ、ごめん、それはボクの」
底の方に一本だけ、細長い缶が入っているのを取り出すと、手を伸ばしてくる狛枝に渡した。
「ありがとう」
両手でそれを受け取った狛枝は、小首を傾げながら肩を竦め、頬を赤らめて微笑んだ。
なんというあざとい仕草だろう。今現在、不本意ながらも狛枝のことをちょっと『そういう目』で見てしまっている日向は、思わず咳払いをした。
「あの、よかったら乾杯とか……どうかな?」
「そ、それはいいけど……それ、ブルーラムだよな? 酒やジュースみたいに飲むもんじゃないぞ」
「だって好きなんだもん」
「すっ……好き、か」
「どうしたの? なんか顔が赤いけど……。そういえば日向クン、バイトだったんだよね? 疲れてるのに、こんなゴミが押しかけて具合が悪くなってしまったんじゃ……?」
「そういうんじゃないって」
実際、本当にそういうわけではなく、いちいち狛枝の言葉や仕草を意識してしまっている自分に腹が立っていた。
それを狛枝自身にぶつけることはできず、ビールの缶を開けて中身を一気に腹の中に流し込む。
狛枝がショックを受けた様子で「乾杯……」と寂しげに零すので、仕方なく半分近く減った缶を摘まむようにして持ち上げ、無言で差し出す。すると今度は嬉しそうに目を輝かせ、ブルーラムのプルタブを開けると軽くぶつけてきた。
コン、という乾いた音がしたあと、狛枝は両手に持った缶に口をつけると一口飲んで「おいしいね」と楽しげに言い放つ。
残りのビールを勢いよくあおりながら、日向はつくづく実感してしまう。
(ほんと可愛い顔してるんだよな、狛枝って……)
その心の呟きをキッカケに、まるで固く閉じていた蓋が開いたように、日向の中の本音が顔を出す。
(なんで女じゃないんだよ、こいつ)
狛枝が女性だったなら、きっともっと単純だった。
顔も可愛いし、色も白くて、薄い身体はつい守ってやりたくなるくらい頼りなくて。どこか天然ぽいところも愛嬌があるし、何より唇が、とても柔らかかった。
(……酔ったな)
手の中にある缶はすっかり空になっていた。
すきっ腹に急激に流し込まれたアルコールが、胃袋の中で燃えるように荒れ狂っている。
早く左右田に連絡を入れようと思った。それが駄目なら、いっそ出会い系だっていい。あの夜のことを、唇の感触を、吐息を、早く忘れなければ。
「日向クン? ねぇ、どうかした?」
「……え?」
ずっと一点を見つめたまま考えに耽っていた日向の顔を、狛枝が心配そうに身体を傾けて覗き込んでいた。
「い、いや、別に」
「やっぱり疲れてるんだね。ボク、もうお暇させてもらうよ」
反射的に引き止めようとしたところで、そうしてもらった方がいいかと口を噤んだ。
「サンダル、改めて返しに来てもいいかな? あ、別にボクは裸足で帰っても構わないんだけど……その、なんていうか」
狛枝は、なぜか頬を赤らめながら目を泳がせていた。
どこかふわふわとした感覚を持て余しながら、日向はその表情をぼんやりと見つめる。
なにかとてつもなく言いにくいことでもあるのか、狛枝はしきりに下唇を噛み締めては湿らすばかりで、先を続けようとはしなかった。
気づけば日向は赤味を増していくその唇ばかりを見つめていた。その光景は、あの夜重ねた熱い感触を思い出させる。そして、夢の中で猫のように舌なめずりをして誘う姿をも、彷彿とさせた。
(ヤバい)
そう思った瞬間、日向は狛枝に手を伸ばしていた。
二の腕を掴んで引きずるようにして、すぐ側の万年床に押し倒す。
「ひ、日向クン!?」
突然のことに、狛枝が困惑した表情を浮かべる。それを見下ろしながら、頭の中が沸騰しているような感覚に息を荒げた。
狛枝は男だ。だから自分にとって、恋愛の対象にはなりえない。ましてや性の対象になんて、絶対に。
(なら、どうしてキスなんかしたんだ)
あのとき、日向は何度も自身を制御しようと試みた。頭の中で繰り返し、言うことをきかない身体と本能に抗おうとした。
だけど駄目だった。どうしても抑えきれなかった。
「狛枝……」
夢の中と同じだった。日向の声は低く掠れて、熱く吐き出される息は獣じみている。
狛枝が小さく身を震わせた。押し倒す日向の下で、ぎゅっと肩を竦めて強張っている。ガラス玉のような瞳が不安そうに揺れていた。
ああ、きっと怖がらせているのだと。あのときのように、欲望に抗うべき思考すらどこか遠くで静観している。
ごくりと、日向が喉を鳴らした瞬間、狛枝は震える息を吐き出しながら、そっと目を閉じた。
それは受容の合図だった。狛枝の身体も、長い睫毛も、まるで生きたまま供物として捧げられた生贄のように見えた。
「……日向クン?」
日向は急激に冷静さを取り戻す自分に気づいて、茫然とした。石化したように動かなくなった日向を、目を開けた狛枝が見上げている。
あれほど熱くなっていたのが嘘のように、胸の内側が凪いでいた。
気が抜けたような顔で身を起こした日向は、力なく布団の上に胡坐をかいた。
「……悪い。どうかしてた」
「……しないの?」
「ッ!」
同じく身を起こした狛枝の言葉に、頭を殴られたような気がして感情が高ぶる。
「すッ、するわけないだろ!」
「でも」
「いいからもう帰ってくれ!!」
とてもではないが、狛枝の顔を見ることができなかった。
乱暴に言い放ったあとで、しまったと後悔してももう遅い。狛枝がのろのろと立ち上がるのが視界の端に映る。
彼は耳を澄ましていなければ聞こえないほどの小さな声で「ごめんね」と言った。ゴミとか屑とか、そういう言葉と同じくらい、謝らせてばかりのような気がする。
早く一人になりたいと思った。一人になって、頭の中を整理したい。狛枝はそんな日向の意志を汲むかのように、従順に姿を消した。
扉が閉まる音の後には、大量の酒とつまみと、飲みかけのブルーラムだけが残されていた。
←戻る ・ 次へ→
日向の住まいは鉄筋コンクリート造りの、オンボロアパートだった。
武骨な箱のようなその建物には、日向のような学生や仕事を引退した熟年者も多く暮らしている。
外観こそ外壁に大きなヒビが入っていたり、空き部屋の窓ガラスが割れていたりと相当な年季が入っているが、風呂もトイレも各部屋に備わっていて快適だ。ただ洗濯機を置くだけのスペースはないため、週に1、2回は例のコインランドリーの世話になる必要があるのだが。
そんなボロアパートの一階奥が日向の部屋だ。
目を覚ました狛枝がまた笑い出しては堪らないと、コソ泥のように足音を潜めて廊下を突っ切り、自室へ辿り着く。
薄い身体を背負いながらどうにか鍵を開け、無事に帰宅を果たした日向は、とりあえず畳の上の万年床に狛枝を転がそうとした。が、首からその両腕が外れない。
「んうぅ~」
「こら、離せ」
「う~」
「バカ枝、いい加減に、ッ、わっ!」
狛枝の臀部が布団に着地したと同時に、日向まで態勢を崩してしまう。まるで押し倒すような形で布団に雪崩れ込み、慌てて起き上がろうとしても、狛枝は両腕の力をいっそう強めて抱き付いてきた。熱い。酔っ払いの体温がまるで湯たんぽのように感じられる。
だがこの温もりは、残念ながら狛枝のものだ。
「お前ふざけんなって! 離せバカ!」
「んぅ……あったかいよぅ……」
「この野郎……」
男を持ち帰る結果になったうえに、なぜ一つの布団で胸と胸を密着させなくてはいけないのか。だんだん安らかな寝息にまで腹が立ってきて、日向は強引に身体を離すとその呑気な寝顔の鼻をぎゅうっとつまんでやった。
狛枝の綺麗な顔の中心に皺が寄って、「いひゃい~」という情けない声が上がると、首に回る腕の力が緩む。その隙をついて、どうにか抜け出すことに成功した。
「これでもかぶって寝てろ!」
もう何ヶ月も干していない掛布団を乱暴に頭からかけてやる。狛枝は「ん~」とか「う~」とか唸りながらモゾモゾと動いていたようだが、やがて大人しく寝息をたてはじめた。
コートくらいは脱がせてやった方がよかったか、とは思ったが、放っておくことにする。
それにしても布団は一組しかないのに、自分は今夜どこで寝ればいいのか。最悪、床に転がるしかないのかと思うと深い溜息しか零れない。かといって今さら狛枝から布団を奪う気にもなれず、せめて冷えた四肢を温めようと、日向はのろのろと浴室へ向かうのだった。
*
シャワーは不経済なため、普段はなるべく浴槽に湯を張るようにしていた。
だが今夜はもう遅いし、冷え込みも厳しい。手っ取り早く温まりたくて、シャワーで済ませることにした。
この分だと、狛枝に独占されている布団に潜り込む羽目になるかもしれない。気のりはしないが、風邪をひくよりはマシだろうか。
そんなことを考えながらスウェット姿で脱衣所から出た日向は、狛枝を起こさないようにキッチンと部屋とを仕切る擦りガラスをそっと開けた。
すると、てっきり爆睡していると思っていた狛枝が、布団の上で膝を抱えて座っていた。
「狛枝? 起きたのか?」
豆電球の小さな光の下、日向が声をかけても彼はピクリとも反応しなかった。
ただ薄暗い中でぼんやりとしている姿を訝しみながら、すぐ側まで近寄ってみる。その顔を覗き込んだところで、狛枝はようやく視線を日向に向けた。
けれどその瞳はどこか虚ろで、何も映していないように見える。
「おい、どうしたんだよ」
「……ボク、死ぬのかな」
「はぁ?」
まだ酔っているのだろうか。
突然なにやら物騒なことを言いだした狛枝に首を傾げ、日向はとりあえず膝をついてしゃがみ込む。
「なにを言ってるんだお前は」
「お兄さん、ボクを殺すの?」
「……あのな、寝言は寝て言うもんなんだぞ。わざわざ起き上がって言うもんじゃ……狛枝?」
曇りガラスのように濁っている狛枝の瞳から、涙が一気に噴出した。日向はそのポロポロと頬を伝う雫にあんぐりと口を開けて、すっかり硬直してしまう。
まさかとは思うが、彼は笑い上戸のうえに泣き上戸でもあったのだろうか。だとしたら、これほどベタで面倒臭い展開はない。
「ちょ、おい、泣くなって……」
「ッ、く……ぅ……ッ」
ただ静かに涙を流すだけだった狛枝の表情が、みるみるうちに歪んでいった。
彼は両手の甲で目元や頬を擦り、小さな子供のようにしゃくり上げる。
「な、なんなんだよお前、一体どうしちゃったんだよ」
大の大人が泣いている姿というのも滑稽で、戸惑いばかりが膨らんだ。
「泣いてちゃわかんないだろ? ……な?」
それでもつい、本当に幼子に語りかけるような口調になってしまう。ヒクヒクと泣いてばかりだった狛枝が、ようやく微かに顔を上げる。
その頬や目元が、豆電球の仄かな暖色の中でもわかるほど、赤く色づいているのがわかった。
潤み切った瞳はキラキラと輝く宝石のようで、どうにも落ち着かない気分になる。なんだか本当に女子供のように見えてしまって、不覚にも胸が一瞬、疼いた。
(バカか俺は……相手は狛枝だぞ……)
自分の中にも多少は入ってる酒が、おかしな幻覚を見せているのか。狛枝は成人男性として見るには、少しばかり顔つきが女性じみている。雪のように白い頬が涙と一緒に色づく様は、恋愛経験のない日向には目の毒のように感じられた。
慌てて小さな咳払いをした日向に、狛枝はたどたどしく唇を震わせた。
「起きたら……知らないとこに、いたから……」
「あー、うん」
「ボク……また変なとこに、連れて来られたのかと思って……」
「……変なとこって……?」
狛枝の瞳に留まっていた涙が、雫になって溢れだした。日向は咄嗟にその頬に手を伸ばし、親指で何度も涙を拭った。
「な、泣くなって……なぁ、お前って顔がちょっと女っぽいからさ、泣かれるとなんていうか、こう……とにかく落ち着かないんだよ」
「だって……ボク、死ぬのはやだよ……」
「だから、なんでそうなるんだよ!?」
俯きながら、再びさめざめと泣きだしてしまった狛枝に、日向は大いに迷った結果、両手を伸ばして抱きしめた。
相手は酔っ払い。まともに相手をするのはバカバカしい。だけど目の前の狛枝は本当に中身が幼い子供に退化しているように見えて、優しく接する以外に方法が思いつかなかった。
腕の中でヒクヒクと震えてばかりの身体に、どうしたらいいのか分からなくなる。彼は何か過去の嫌な記憶でも思い出しているのだろうか。
死にたくないとかなんとか、そんな物騒なことを言われれば、嫌でも勘ぐってしまう。
詳しい話は、今は聞けそうにない。聞いていいことなのかもわからないけれど。
それにしても本当に、どうしてこいつはこんな風になるまで飲めもしない酒をわざわざ飲んだのか。
(まぁ……言いだしたのは俺だけど……)
これは狛枝が日向に対して懸命に気を使った結果、なのかもしれない。
いっそ正直に飲めないと言ってくれた方がありがたかった。だけどそう考えるとどうしても責める気にはなれなくて、とにかく早く寝かしつけてしまおうと、その背をあやすように幾度か叩いた。
「ほら、大丈夫だから早く寝ろ。俺も一緒に寝るから」
「んッ、ぅ……」
どういうわけか、優しくすればするほど狛枝は赤ん坊がむずがるような声を上げた。根気よく接するより他にないのだろうかと、気が滅入りはじめる日向の胸に両手で縋りつき、顔を埋めてくる。
そして、か細い声で「怖い」と言った。
「狛枝……?」
「死にたくない……殺さないで……」
「そんなことするわけないだろ? なぁ狛枝、しっかりしろよ。ここは俺の部屋だよ。別に変なとこでもなんでもないぞ?」
「なんでもするから……なんでも、どんなことでも……」
――だからお願い。
「ッ……!」
それは言葉というよりは、吐息に近かった。
ブレスのきいた囁きはどこか蠱惑的にすら思えて、一気に頭に血が上るのを感じる。顔を上げた狛枝の、潤んだ瞳が日向の心臓を鷲掴む。
なんて顔をするんだろう。不安そうに眉を下げ、目を細めているくせに、唇はどこか物欲しそうに震えていた。
ドクドクという音を立てながら、血液が身体中を巡る感覚に眩暈を覚えた瞬間、日向は吸い寄せられるように狛枝の頬に触れ、口づけていた。
しっとりと濡れたような感触と甘い熱に、背筋が痺れる。
(俺、なにしてるんだ……?)
思考がどこか別の場所にあるような気がした。本能だけが先走っているような、制御できない何かが日向の身体を支配している。
(ま、待ってくれよ……なんで、なんで俺……)
狛枝と、キスをしているんだろう?
「ん、ふ……」
鼻から抜ける甘い息に鼓膜をくすぐられる。それは意志とは裏腹に、悩ましく日向の胸を締め付けた。狛枝の両腕が首に回ると口付けはさらに深まり、止まらなくなる。
(ま、待て! 待て待て待て待て! なにしてんだよ!?)
疑問と制止ばかりを投じる自分自身の声が、まるで雑音のようで邪魔くさい。
唇の僅かな隙間から互いが舌を差し込み、ただ夢中で絡めあう。狛枝の濡れた舌には、微かなアルコールの味が残っていた。気持ちがいい。そして、燃えるように熱かった。
狛枝の吐息と水音が耳朶を食む度に、まるで溺れるような狂おしさを感じて、日向はその背を掻き抱いていた。
腕の中の身体からゆっくりと力が抜けていく。彼はどこか安堵したように鼻から深く息を吐き出し、娼婦のような魅惑的な笑みを浮かべた。
*
「日向クン! 起きて、日向クンってば!」
必死に自分を呼ぶ声が聞こえて、否が応でも意識が浮上する。
安物のカーテンから差し込む朝の光が、こじ開けた目に鋭く刺さって日向は思い切り眉間に皺を寄せた。
「んだよ……うるさいな……」
「起きてよ日向クン……」
「起きただろ」
目を擦りながら身を起こし、胡坐をかいた。欠伸を噛み殺しながら隣に目をやると、正座した狛枝が顔面を蒼白にしていた。
「ひ、日向クン……ここがどこだかわかるかい?」
「は……? お前まだ酔ってんのか?」
「酔ってなんかないよ! ただ、目が覚めたらなぜか知らない部屋にいて、しかも日向クンに、その、抱っこされてて!」
「…………」
「ひ、ひな、日向クンの顔が間近に! 一緒の布団に! 一体なにがどうなってるの!?」
なるほど、それで飛び起きて人を叩き起こしたのか。
酒癖の悪い人間が翌日なにも覚えてないなんて、お約束すぎていっそ笑えてくる。
錯乱状態で頭を抱える狛枝を見て、日向は溜息をつきながら頭をガリガリと掻いた。
「一応聞くけど。お前、どこまで覚えてるんだ?」
「んうぅぅ……日向クンと待ち合わせをして……お店に入ったとこまでは……」
「妥当な答えだよなぁ」
ふぁ、と殺しきれなかった欠伸を漏らす日向に、狛枝は怯えた表情で上目づかいを向けてくる。
「あ、あの……ボク、何か粗相を……?」
「……盛大にな」
「!!!!!」
狛枝が息を呑む音が聞こえた。彼は焦点の合わない瞳をグルグルと回しながら激しく身を震わせはじめる。放っておけば泡を吹いて倒れかねない。
少し意地が悪かったかと反省した日向は、「落ち着けよ」という言葉の後に、ここに至る経緯を簡単に話して聞かせた。
入店後30分で泥酔し、笑い転げたうえに泣き出した。ここは日向の家で、布団が一組しかなかったため、一緒に寝たのだと。
日向の話を聞きながら、狛枝は両手で顔を覆った。
「ごめん……ごめんね日向クン……ボクはキミになんとお詫びすれば……」
「別にいいよ。飲ませたのは俺みたいなもんだしな」
「よくないよ! こんな愚劣で粗悪なゴミ屑が人様に迷惑をかけた上に、同じ寝床に入れてもらうなんて、おこがましすぎて寒気がするよ! そうだ、今すぐ滅びればいいんだ!!」
「ここ壁薄いからさ。声のトーン抑えような」
「んうぅぅ……うぅぅ……」
この男の性質上、大袈裟ともいえる反応は無理もない。日向はついに突っ伏してしまった狛枝の肩をポンと軽く叩いてやった。
「まぁまぁ。そんなに思いつめるなよ。酒の失敗くらい、誰だって一度や二度はあるもんだろ?」
「……一度目」
「ん?」
「これが一度目なんだ……お酒、飲んだことなくて……」
「そうなのか?」
おずおずと顔を上げた狛枝は、可哀想になるくらい肩を落として涙ぐんでいた。つい昨夜の泣き顔を思い出してしまって、咄嗟に顔を背ける。
「ボク、一緒に飲みに行くような友達もいなかったし、お酒を飲むタイミングがよくわからないままきちゃって……」
「別に友達がいなくたって、親や親戚と集まって乾杯とか」
なんとなく苦し紛れに放った問いかけに、狛枝はふるふると首を振った。
「両親は子供の頃に死んじゃっていないし、付き合いのある親戚もいないし」
「……なんかごめん」
「うぅん。いいんだ」
だから、と狛枝が先を続ける。
「昨日が初めてだったんだ。まさかそこまで酒癖が悪いなんて知らなくて……キミに迷惑をかけてしまうなんて、本当に死んだ方がマシだよ……」
「だから俺は気にしてないって。それより、その……」
ずっと視線を背けたままでいた日向は、チラリと横目で狛枝を見た。しおしおと項垂れたままの彼は、酷く思いつめた表情で相変わらず涙ぐんでいる。その唇が悲しげに引き結ばれているのを見て、頬に熱が集まった。
(覚えてないことに感謝、かもな)
泣き顔やその声が色っぽくて、キスをしてしまったなんて。
彼が吐き出した記憶の欠片も、触れないでいた方がよさそうだ。何かしら生死に関わるような出来事があったことは確かなようだが、彼は初対面の際に車にひかれたことがあると言っていた。狛枝が不運の星の下に生まれているのだとしたら、他に幾つも九死に一生を得た経験があるかもしれない。なんとなくこの男ならありそうな気がする。
それに意識のない中で零された言葉に対して、興味本位であれこれ尋ねるのも気が引けた。
「ひ、日向クン? もしかして、ボクは他にも何か……?」
弱々しく掠れた狛枝の声に、つい押し黙ったまま固まっていた日向は慌てて引き攣った笑みを浮かべた。
「いや! 他はなにもないぞ! うん!」
「そ、そう? ならいいんだけど……」
キスをした上に、危うくお前で童貞を卒業しかけたぞ、なんて、口が裂けても言えない。あれからすぐに狛枝が意識を手放してくれたからいいものの、あのまま勢いで突っ走っていたら、今頃どうなっていたか。
いくら狛枝が綺麗な顔をしているからって、男であることに変わりはない。道を踏み外しかけたことは心の中に封印するしかなさそうだ。というより、自分でも認めたくない。
疲れていたし、酔ってもいた。だからこれは日向にとっても、ただの酒の失敗に他ならないのだと。酔うほど飲んでいなかったという事実は、あえて捨て置くとしても。
「とにかく、反省っていうのは失敗しなきゃ出来ないことなんだし、これから気を付ければいいんじゃないか? 飲みたいなら少しずつ慣れていけばいいだろ?」
「うん……ありがとう日向クン。キミはやっぱり優しいね」
「よ、よせよ」
褒められたから照れてしまったというよりは。
狛枝がようやく見せた笑顔に、つい胸が疼いたなんて。
(ないないない。ないったら。まだ酔ってんのか俺は)
「よ、よし! とりあえず朝飯でも食うか! 俺、昼からバイトだし」
無理やり声のトーンを上げた日向が布団から立ち上がると、続けとばかりに狛枝も立ち上がった。そして台所へと向かう日向の後を雛のようについてくる。
「そうだったの!? ますますごめんね日向クン……あ! そうだ、お詫びにボクがご飯を作るよ! 料理は得意なんだ!」
「いいっていいって。一応は客だし」
「そんなこと言わないで! ダニにも劣るボクの、唯一の取り柄なんだ」
少し迷ってから、しょうがないかと日向は思った。
どこかで穴埋めしたいという気持ちは分からないでもないし、それで多少は気が済むのなら。この自分を卑下してやまない男がここまで言うのなら、きっと腕前もそれなりなのだろうし。
「じゃあ、一緒にな」
そう言って笑いかけてやると、狛枝は頬を赤らめてくすぐったそうに微笑んだ。
「一緒に、か。なんか、凄く友達っぽいね!」
「ッ、……あ、ああ。そうだな」
もう友達だろ、と。
即座に返せなかったことに、日向は戸惑う。
けれどすぐに、昨日の今日なのだからまだ少し混乱しているのだと、心の中で言い訳をした。
そうやって、日向はどうしようもなく狛枝を意識しはじめている自分から、目を逸らすのだった。
←戻る ・ 次へ→
武骨な箱のようなその建物には、日向のような学生や仕事を引退した熟年者も多く暮らしている。
外観こそ外壁に大きなヒビが入っていたり、空き部屋の窓ガラスが割れていたりと相当な年季が入っているが、風呂もトイレも各部屋に備わっていて快適だ。ただ洗濯機を置くだけのスペースはないため、週に1、2回は例のコインランドリーの世話になる必要があるのだが。
そんなボロアパートの一階奥が日向の部屋だ。
目を覚ました狛枝がまた笑い出しては堪らないと、コソ泥のように足音を潜めて廊下を突っ切り、自室へ辿り着く。
薄い身体を背負いながらどうにか鍵を開け、無事に帰宅を果たした日向は、とりあえず畳の上の万年床に狛枝を転がそうとした。が、首からその両腕が外れない。
「んうぅ~」
「こら、離せ」
「う~」
「バカ枝、いい加減に、ッ、わっ!」
狛枝の臀部が布団に着地したと同時に、日向まで態勢を崩してしまう。まるで押し倒すような形で布団に雪崩れ込み、慌てて起き上がろうとしても、狛枝は両腕の力をいっそう強めて抱き付いてきた。熱い。酔っ払いの体温がまるで湯たんぽのように感じられる。
だがこの温もりは、残念ながら狛枝のものだ。
「お前ふざけんなって! 離せバカ!」
「んぅ……あったかいよぅ……」
「この野郎……」
男を持ち帰る結果になったうえに、なぜ一つの布団で胸と胸を密着させなくてはいけないのか。だんだん安らかな寝息にまで腹が立ってきて、日向は強引に身体を離すとその呑気な寝顔の鼻をぎゅうっとつまんでやった。
狛枝の綺麗な顔の中心に皺が寄って、「いひゃい~」という情けない声が上がると、首に回る腕の力が緩む。その隙をついて、どうにか抜け出すことに成功した。
「これでもかぶって寝てろ!」
もう何ヶ月も干していない掛布団を乱暴に頭からかけてやる。狛枝は「ん~」とか「う~」とか唸りながらモゾモゾと動いていたようだが、やがて大人しく寝息をたてはじめた。
コートくらいは脱がせてやった方がよかったか、とは思ったが、放っておくことにする。
それにしても布団は一組しかないのに、自分は今夜どこで寝ればいいのか。最悪、床に転がるしかないのかと思うと深い溜息しか零れない。かといって今さら狛枝から布団を奪う気にもなれず、せめて冷えた四肢を温めようと、日向はのろのろと浴室へ向かうのだった。
*
シャワーは不経済なため、普段はなるべく浴槽に湯を張るようにしていた。
だが今夜はもう遅いし、冷え込みも厳しい。手っ取り早く温まりたくて、シャワーで済ませることにした。
この分だと、狛枝に独占されている布団に潜り込む羽目になるかもしれない。気のりはしないが、風邪をひくよりはマシだろうか。
そんなことを考えながらスウェット姿で脱衣所から出た日向は、狛枝を起こさないようにキッチンと部屋とを仕切る擦りガラスをそっと開けた。
すると、てっきり爆睡していると思っていた狛枝が、布団の上で膝を抱えて座っていた。
「狛枝? 起きたのか?」
豆電球の小さな光の下、日向が声をかけても彼はピクリとも反応しなかった。
ただ薄暗い中でぼんやりとしている姿を訝しみながら、すぐ側まで近寄ってみる。その顔を覗き込んだところで、狛枝はようやく視線を日向に向けた。
けれどその瞳はどこか虚ろで、何も映していないように見える。
「おい、どうしたんだよ」
「……ボク、死ぬのかな」
「はぁ?」
まだ酔っているのだろうか。
突然なにやら物騒なことを言いだした狛枝に首を傾げ、日向はとりあえず膝をついてしゃがみ込む。
「なにを言ってるんだお前は」
「お兄さん、ボクを殺すの?」
「……あのな、寝言は寝て言うもんなんだぞ。わざわざ起き上がって言うもんじゃ……狛枝?」
曇りガラスのように濁っている狛枝の瞳から、涙が一気に噴出した。日向はそのポロポロと頬を伝う雫にあんぐりと口を開けて、すっかり硬直してしまう。
まさかとは思うが、彼は笑い上戸のうえに泣き上戸でもあったのだろうか。だとしたら、これほどベタで面倒臭い展開はない。
「ちょ、おい、泣くなって……」
「ッ、く……ぅ……ッ」
ただ静かに涙を流すだけだった狛枝の表情が、みるみるうちに歪んでいった。
彼は両手の甲で目元や頬を擦り、小さな子供のようにしゃくり上げる。
「な、なんなんだよお前、一体どうしちゃったんだよ」
大の大人が泣いている姿というのも滑稽で、戸惑いばかりが膨らんだ。
「泣いてちゃわかんないだろ? ……な?」
それでもつい、本当に幼子に語りかけるような口調になってしまう。ヒクヒクと泣いてばかりだった狛枝が、ようやく微かに顔を上げる。
その頬や目元が、豆電球の仄かな暖色の中でもわかるほど、赤く色づいているのがわかった。
潤み切った瞳はキラキラと輝く宝石のようで、どうにも落ち着かない気分になる。なんだか本当に女子供のように見えてしまって、不覚にも胸が一瞬、疼いた。
(バカか俺は……相手は狛枝だぞ……)
自分の中にも多少は入ってる酒が、おかしな幻覚を見せているのか。狛枝は成人男性として見るには、少しばかり顔つきが女性じみている。雪のように白い頬が涙と一緒に色づく様は、恋愛経験のない日向には目の毒のように感じられた。
慌てて小さな咳払いをした日向に、狛枝はたどたどしく唇を震わせた。
「起きたら……知らないとこに、いたから……」
「あー、うん」
「ボク……また変なとこに、連れて来られたのかと思って……」
「……変なとこって……?」
狛枝の瞳に留まっていた涙が、雫になって溢れだした。日向は咄嗟にその頬に手を伸ばし、親指で何度も涙を拭った。
「な、泣くなって……なぁ、お前って顔がちょっと女っぽいからさ、泣かれるとなんていうか、こう……とにかく落ち着かないんだよ」
「だって……ボク、死ぬのはやだよ……」
「だから、なんでそうなるんだよ!?」
俯きながら、再びさめざめと泣きだしてしまった狛枝に、日向は大いに迷った結果、両手を伸ばして抱きしめた。
相手は酔っ払い。まともに相手をするのはバカバカしい。だけど目の前の狛枝は本当に中身が幼い子供に退化しているように見えて、優しく接する以外に方法が思いつかなかった。
腕の中でヒクヒクと震えてばかりの身体に、どうしたらいいのか分からなくなる。彼は何か過去の嫌な記憶でも思い出しているのだろうか。
死にたくないとかなんとか、そんな物騒なことを言われれば、嫌でも勘ぐってしまう。
詳しい話は、今は聞けそうにない。聞いていいことなのかもわからないけれど。
それにしても本当に、どうしてこいつはこんな風になるまで飲めもしない酒をわざわざ飲んだのか。
(まぁ……言いだしたのは俺だけど……)
これは狛枝が日向に対して懸命に気を使った結果、なのかもしれない。
いっそ正直に飲めないと言ってくれた方がありがたかった。だけどそう考えるとどうしても責める気にはなれなくて、とにかく早く寝かしつけてしまおうと、その背をあやすように幾度か叩いた。
「ほら、大丈夫だから早く寝ろ。俺も一緒に寝るから」
「んッ、ぅ……」
どういうわけか、優しくすればするほど狛枝は赤ん坊がむずがるような声を上げた。根気よく接するより他にないのだろうかと、気が滅入りはじめる日向の胸に両手で縋りつき、顔を埋めてくる。
そして、か細い声で「怖い」と言った。
「狛枝……?」
「死にたくない……殺さないで……」
「そんなことするわけないだろ? なぁ狛枝、しっかりしろよ。ここは俺の部屋だよ。別に変なとこでもなんでもないぞ?」
「なんでもするから……なんでも、どんなことでも……」
――だからお願い。
「ッ……!」
それは言葉というよりは、吐息に近かった。
ブレスのきいた囁きはどこか蠱惑的にすら思えて、一気に頭に血が上るのを感じる。顔を上げた狛枝の、潤んだ瞳が日向の心臓を鷲掴む。
なんて顔をするんだろう。不安そうに眉を下げ、目を細めているくせに、唇はどこか物欲しそうに震えていた。
ドクドクという音を立てながら、血液が身体中を巡る感覚に眩暈を覚えた瞬間、日向は吸い寄せられるように狛枝の頬に触れ、口づけていた。
しっとりと濡れたような感触と甘い熱に、背筋が痺れる。
(俺、なにしてるんだ……?)
思考がどこか別の場所にあるような気がした。本能だけが先走っているような、制御できない何かが日向の身体を支配している。
(ま、待ってくれよ……なんで、なんで俺……)
狛枝と、キスをしているんだろう?
「ん、ふ……」
鼻から抜ける甘い息に鼓膜をくすぐられる。それは意志とは裏腹に、悩ましく日向の胸を締め付けた。狛枝の両腕が首に回ると口付けはさらに深まり、止まらなくなる。
(ま、待て! 待て待て待て待て! なにしてんだよ!?)
疑問と制止ばかりを投じる自分自身の声が、まるで雑音のようで邪魔くさい。
唇の僅かな隙間から互いが舌を差し込み、ただ夢中で絡めあう。狛枝の濡れた舌には、微かなアルコールの味が残っていた。気持ちがいい。そして、燃えるように熱かった。
狛枝の吐息と水音が耳朶を食む度に、まるで溺れるような狂おしさを感じて、日向はその背を掻き抱いていた。
腕の中の身体からゆっくりと力が抜けていく。彼はどこか安堵したように鼻から深く息を吐き出し、娼婦のような魅惑的な笑みを浮かべた。
*
「日向クン! 起きて、日向クンってば!」
必死に自分を呼ぶ声が聞こえて、否が応でも意識が浮上する。
安物のカーテンから差し込む朝の光が、こじ開けた目に鋭く刺さって日向は思い切り眉間に皺を寄せた。
「んだよ……うるさいな……」
「起きてよ日向クン……」
「起きただろ」
目を擦りながら身を起こし、胡坐をかいた。欠伸を噛み殺しながら隣に目をやると、正座した狛枝が顔面を蒼白にしていた。
「ひ、日向クン……ここがどこだかわかるかい?」
「は……? お前まだ酔ってんのか?」
「酔ってなんかないよ! ただ、目が覚めたらなぜか知らない部屋にいて、しかも日向クンに、その、抱っこされてて!」
「…………」
「ひ、ひな、日向クンの顔が間近に! 一緒の布団に! 一体なにがどうなってるの!?」
なるほど、それで飛び起きて人を叩き起こしたのか。
酒癖の悪い人間が翌日なにも覚えてないなんて、お約束すぎていっそ笑えてくる。
錯乱状態で頭を抱える狛枝を見て、日向は溜息をつきながら頭をガリガリと掻いた。
「一応聞くけど。お前、どこまで覚えてるんだ?」
「んうぅぅ……日向クンと待ち合わせをして……お店に入ったとこまでは……」
「妥当な答えだよなぁ」
ふぁ、と殺しきれなかった欠伸を漏らす日向に、狛枝は怯えた表情で上目づかいを向けてくる。
「あ、あの……ボク、何か粗相を……?」
「……盛大にな」
「!!!!!」
狛枝が息を呑む音が聞こえた。彼は焦点の合わない瞳をグルグルと回しながら激しく身を震わせはじめる。放っておけば泡を吹いて倒れかねない。
少し意地が悪かったかと反省した日向は、「落ち着けよ」という言葉の後に、ここに至る経緯を簡単に話して聞かせた。
入店後30分で泥酔し、笑い転げたうえに泣き出した。ここは日向の家で、布団が一組しかなかったため、一緒に寝たのだと。
日向の話を聞きながら、狛枝は両手で顔を覆った。
「ごめん……ごめんね日向クン……ボクはキミになんとお詫びすれば……」
「別にいいよ。飲ませたのは俺みたいなもんだしな」
「よくないよ! こんな愚劣で粗悪なゴミ屑が人様に迷惑をかけた上に、同じ寝床に入れてもらうなんて、おこがましすぎて寒気がするよ! そうだ、今すぐ滅びればいいんだ!!」
「ここ壁薄いからさ。声のトーン抑えような」
「んうぅぅ……うぅぅ……」
この男の性質上、大袈裟ともいえる反応は無理もない。日向はついに突っ伏してしまった狛枝の肩をポンと軽く叩いてやった。
「まぁまぁ。そんなに思いつめるなよ。酒の失敗くらい、誰だって一度や二度はあるもんだろ?」
「……一度目」
「ん?」
「これが一度目なんだ……お酒、飲んだことなくて……」
「そうなのか?」
おずおずと顔を上げた狛枝は、可哀想になるくらい肩を落として涙ぐんでいた。つい昨夜の泣き顔を思い出してしまって、咄嗟に顔を背ける。
「ボク、一緒に飲みに行くような友達もいなかったし、お酒を飲むタイミングがよくわからないままきちゃって……」
「別に友達がいなくたって、親や親戚と集まって乾杯とか」
なんとなく苦し紛れに放った問いかけに、狛枝はふるふると首を振った。
「両親は子供の頃に死んじゃっていないし、付き合いのある親戚もいないし」
「……なんかごめん」
「うぅん。いいんだ」
だから、と狛枝が先を続ける。
「昨日が初めてだったんだ。まさかそこまで酒癖が悪いなんて知らなくて……キミに迷惑をかけてしまうなんて、本当に死んだ方がマシだよ……」
「だから俺は気にしてないって。それより、その……」
ずっと視線を背けたままでいた日向は、チラリと横目で狛枝を見た。しおしおと項垂れたままの彼は、酷く思いつめた表情で相変わらず涙ぐんでいる。その唇が悲しげに引き結ばれているのを見て、頬に熱が集まった。
(覚えてないことに感謝、かもな)
泣き顔やその声が色っぽくて、キスをしてしまったなんて。
彼が吐き出した記憶の欠片も、触れないでいた方がよさそうだ。何かしら生死に関わるような出来事があったことは確かなようだが、彼は初対面の際に車にひかれたことがあると言っていた。狛枝が不運の星の下に生まれているのだとしたら、他に幾つも九死に一生を得た経験があるかもしれない。なんとなくこの男ならありそうな気がする。
それに意識のない中で零された言葉に対して、興味本位であれこれ尋ねるのも気が引けた。
「ひ、日向クン? もしかして、ボクは他にも何か……?」
弱々しく掠れた狛枝の声に、つい押し黙ったまま固まっていた日向は慌てて引き攣った笑みを浮かべた。
「いや! 他はなにもないぞ! うん!」
「そ、そう? ならいいんだけど……」
キスをした上に、危うくお前で童貞を卒業しかけたぞ、なんて、口が裂けても言えない。あれからすぐに狛枝が意識を手放してくれたからいいものの、あのまま勢いで突っ走っていたら、今頃どうなっていたか。
いくら狛枝が綺麗な顔をしているからって、男であることに変わりはない。道を踏み外しかけたことは心の中に封印するしかなさそうだ。というより、自分でも認めたくない。
疲れていたし、酔ってもいた。だからこれは日向にとっても、ただの酒の失敗に他ならないのだと。酔うほど飲んでいなかったという事実は、あえて捨て置くとしても。
「とにかく、反省っていうのは失敗しなきゃ出来ないことなんだし、これから気を付ければいいんじゃないか? 飲みたいなら少しずつ慣れていけばいいだろ?」
「うん……ありがとう日向クン。キミはやっぱり優しいね」
「よ、よせよ」
褒められたから照れてしまったというよりは。
狛枝がようやく見せた笑顔に、つい胸が疼いたなんて。
(ないないない。ないったら。まだ酔ってんのか俺は)
「よ、よし! とりあえず朝飯でも食うか! 俺、昼からバイトだし」
無理やり声のトーンを上げた日向が布団から立ち上がると、続けとばかりに狛枝も立ち上がった。そして台所へと向かう日向の後を雛のようについてくる。
「そうだったの!? ますますごめんね日向クン……あ! そうだ、お詫びにボクがご飯を作るよ! 料理は得意なんだ!」
「いいっていいって。一応は客だし」
「そんなこと言わないで! ダニにも劣るボクの、唯一の取り柄なんだ」
少し迷ってから、しょうがないかと日向は思った。
どこかで穴埋めしたいという気持ちは分からないでもないし、それで多少は気が済むのなら。この自分を卑下してやまない男がここまで言うのなら、きっと腕前もそれなりなのだろうし。
「じゃあ、一緒にな」
そう言って笑いかけてやると、狛枝は頬を赤らめてくすぐったそうに微笑んだ。
「一緒に、か。なんか、凄く友達っぽいね!」
「ッ、……あ、ああ。そうだな」
もう友達だろ、と。
即座に返せなかったことに、日向は戸惑う。
けれどすぐに、昨日の今日なのだからまだ少し混乱しているのだと、心の中で言い訳をした。
そうやって、日向はどうしようもなく狛枝を意識しはじめている自分から、目を逸らすのだった。
←戻る ・ 次へ→
~前回までのあらすじ~
大晦日の夜、コインランドリーで下着泥棒の濡れ衣を着せられていた青年を助けた日向。
狛枝凪斗と(聞いてもいないのに)名乗る青年に、なぜかそのまま懐かれてしまう。
一度は突き放した日向だったが、わざわざ寒空の下で震えながら待っていた狛枝にうっかり情が湧いてしまい、その後一緒に蕎麦を食いに行くことにしたのだった。
以来、二人の間に進展は……特になかった。
*
待ち合わせ場所は、初めて会ったコインランドリー前だった。
日向がそこに到着したのは約束していた19時ちょうどで、狛枝はすでに待っていた。
「よう、久しぶり」
片手を上げて声をかけると、華奢な肩がビクンと跳ねた。落とし穴でも踏み抜いた直後のような表情で目を見開く狛枝に、思わず顔を顰める。
「……日向、クン?」
「なんだ? 俺の顔忘れたのかよ?」
いくら会ったのが一回きりで、あれから二ヶ月近くが経っているからって。そんなに自分の顔は記憶に残りにくいのだろうか。
眉間にぐっと皺を寄せた日向に、狛枝は慌てて首を左右に振った。癖の強い、淡い綿毛のような髪が激しく揺れる。
「とんでもない! いくらボクが低能だからって、命の恩人の顔を忘れるほど鳥頭ではないよ!」
「別に命まで救ったわけじゃないけどな」
大袈裟な物言いは変わらずかと苦笑してしまう。
「まさか本当に来てくれるとは思ってなかったから、つい驚いてしまって」
「そりゃ来るだろ。約束したんだし」
「で、でも、ボクみたいな愚劣なゴミ虫が日向クンを食事に誘うなんて、おこがましいにも程があるというか、身の程をわきまえていないというか……」
「なんて言うか、今日も絶好調だな、お前」
狛枝は焦点の合っていない瞳を忙しなく彷徨わせ、両手で心臓の辺りを指先の色が変わるほど強く握りしめている。冬の名残をまだ十分に残した風が吹き抜ける中、竦められた肩が震えているのを見ると、こちらまで凍えそうな気分になった。
あの独特な形状のコートに包まれた身体は相変わらず薄っぺらくて、透き通るような白い肌がより憐れみを誘う。
思えばこのあまりにも頼りない容姿に、つい同情してしまったのがこの男を助けてしまった何よりの動機だった。
「別に遠慮なんかするな。飯くらいいつでも誘えよ。それより立ち話もなんだしさ、早く行こうぜ」
「そっ、そうだよね! えっと、日向クンは何が食べたい気分?」
「そうだなぁ……お前は?」
「ボクはなんでもいいよ! キミが好むものなら、ゴミ捨て場の残飯でも犬の糞でも、喜んで食べるよ!」
「言っとくけど、俺はそんな悪食じゃないからな」
お前それは逆に失礼だぞ、と呆れつつ、狛枝にメニュー選びをさせるのは難しいかと思った。食事に行かないかと誘ってきたのは彼だが、仕切りは自分が行った方が早そうだ。
日向は息を凝らしている狛枝をじっと見つめたあと、よし、と頷いた。
「酒でも飲みに行くか。ここから近くて、いい店知ってるし」
「お酒……!?」
「なんだ? もしかして飲めないのか? っていうか、お前まだ10代とか言わないよな?」
狛枝の中性的な顔立ちは、成人男性として見るには少しばかり頼りない。ひょろりと縦に長いだけの身体つきも相まってか、どこか未成熟な印象を受ける。
すると彼は、再び首を左右に振った。
「だ、大丈夫、かな? これでも一応は成人してるし、お酒も飲めるよ」
「そうか。ならいいよな。居酒屋ならご飯モノもあるし」
ホッとしたように狛枝が頷いたことで、行先が決まった。口許だけでふっと笑った日向が歩き出すと、彼はやっぱり一歩引いた場所を歩く。
日向が居酒屋を選んだのは、なんとなくこの微妙な距離を縮めてやりたいと思ったからだ。隣を歩けと言えば狛枝は素直に従うだろう。でも、それではあまり意味がないような気がする。
狛枝はなにかと人の顔色を窺うような態度を取るし、おこがましいだの身の程知らずだの、自分を卑下した物言いをする。
いちいち緊張して身を強張らせるのも、酒が入れば少しはほぐれるのではないかと考えた。
前回の蕎麦屋では、狛枝は終始捕食される寸前の小動物のように震えて、オドオドしっぱなしだった。おそらく味もへったくれもなかったに違いない。
だから今日は少しでもリラックスさせてやれればと思った。
せっかく狛枝の方から誘いをかけてくれたのだから、なるべく後悔はさせたくないし、したくない。
なんといっても今日の狛枝との約束は、日向にとってそれなりに『大きな代償』を支払った上で成り立っているのだから。
「逃がした魚はデカかったのかもしれないけどな……」
「え? 何か言った?」
無意識に漏れた呟きに、狛枝が首を傾げながら反応する。日向は「なんでもないよ」と返しながら、思わず苦笑した。
*
二月上旬。
日向は大学の春休みを利用してバイトに明け暮れる日々を送っていた。
学費は離れて暮らす両親に頼り切っている状態だが、家賃を含めた諸々の生活費くらいは自分でなんとかしたい。適当に遊ぶ金だって欲しいし、貯金もしておくに越したことはないだろうと、ビルの建設現場で週の大半を警備スタッフとして働いている。
そんなある日、昼の休憩中のことだ。
数少ない友人の一人である左右田から、合コンの誘いがきた。
今日の19時半に来られないかという文面に、もっと早く連絡しろよと思いはしたが、どうせ急に欠席者が出たとか、そんな理由の数合わせに違いなかった。
とはいえここしばらくバイト漬けだった日向は、たまには羽目を外すのもいいかと了解した。
あわよくば人生初の彼女がゲットできるかもしれないチャンスだ。人生なにがキッカケになるか分からないのだし、出会いは大切にしなければ。
すると、なんだかんだで浮かれはじめていた日向のもとに、もう一件メールがきた。
左右田からの返信かと思ったが、差出人の名前を見て驚いた。
それは大晦日の夜、痴漢疑惑をかけられていたところを気紛れで助けた、あの狛枝凪斗からだったのだ。
彼とはあの日以来会っていない。ただ、別れ際に連絡先の交換だけはしていた。
インパクトのある男だったので、たまにふと思い出すことはあったが、特に理由もなく連絡は取っていなかった。
意外に感じつつ受信したメールを開いて見ると、それは実に簡素な内容だった。
『一緒にお食事どうですか』
その一文から、狛枝の緊張がひしひしと伝わって来たような気がした。
自らのことをクズとかゴミとか自虐していた上、本気で友達という存在が一人もいなかったらしい、彼の精一杯が感じ取れる。
今ごろ呼吸困難でも起こしながら返事を待っているのではないかと思うと、命の危機を放っておくわけにもいかず、すぐに『OK』とメールを送った。
別に飯を食いに行くくらい、どうってことはない。
合コンの頭数が足りないという理由でしか、連絡の一つも寄越さない相手よりは、ずっと気分もいい。それでいい思いができるなら、という下心はこのさい置いておくとして、久しぶりに狛枝の顔を見るのも悪くはないような気もして。
けれど驚いたことに、僅か数秒で送られてきた狛枝からの返信で、彼が指定してきた日にちも今日だった。
タイミングが悪かったなと、日向はすぐに日時を変更してくれるようメールを送ろうとした。タッチの差とはいえ、左右田との約束の方が先なのだから、それは当たり前のことだ。
しかしふと思った。狛枝のツイてなさは折り紙付きだ。たった一度会っただけの相手だが、日向はそれをよく知っている。
そんなツイてないやつが、ツイてないタイミングで勇気を振り絞った。そう考えるとなんだか不憫で、日向は気づいたら左右田の方に断りの連絡を入れていた。
『オメーふざけんなよ! 二度と誘ってやんねーかんな!』
なんて、怒りのメールをもらう羽目になってまで、狛枝の誘いを優先してしまった。
何をしてるんだと自分に呆れながら、とにかく日向は合コンという尊い出会いのチャンスを逃したのだった。
*
だが日向は、狛枝を連れ立って訪れた居酒屋で、その選択が誤りだったことを知る羽目になった。
「あははははははは! ねぇねぇ日向クンあれ見て! 電柱だよ!」
静まり返った夜の住宅街に、引くほどテンションの高い笑い声が響き渡っている。
「ぷっ、ふふ、あはははは! 最ッ高だね! 街灯までついてる! あっはははは! ねぇ日向クン! 街灯だよ!? 夜なのに明るいねぇ! あはっ!」
一体なにがそんなに面白いのか、日向に背負われている狛枝は、あれこれとどうでもいいものを指さしてはケタケタと笑っていた。
「お前なぁ、近所迷惑だろ? 頼むから静かにしてくれよ……」
「ぷはっ! ひゃははは! 月まで出てる! ますます明るい! こんなの信じられないよ! あはははは!!」
(ああぁ、なんなんだよこいつは!)
思わず背負っている華奢な身体を投げ飛ばしたい気分になった。ゴミ捨て場にでも捨て置いて、とっとと一人で帰ってしまいたい。
日向の苛立ちなど知りもせず、狛枝は無邪気に手足をバタつかせて大はしゃぎしている。
「わあぁ!? く、車が停まってるー! ぷくくッ、きゃは、あははは! も、苦しい! ぼ、ボク、笑いすぎて死んじゃう!!」
「酒弱いなら無理して飲むなよ! 笑い上戸とかふざけんな!!」
そう、狛枝は異様なまでの笑い上戸だった。
店に入って30分もしないうちに出来上がり、会話もままならないくらい酔って笑い出した。
目に映る全てのものを指さして、ヒィヒィと痙攣するほど笑い転げる彼は、当然のように他の客の迷惑にしかならなかった。
日向は慌てて二人分の会計を済ませ、前後不覚の狛枝を背負って夜の街へと逃げ出した。
そして現在、この有様である。
狛枝は聞いていてこちらが苦しくなるほど爆笑している状態だ。苦しそうにのたうつ感触が、背中から嫌というほど伝わって来る。
このまま騒ぎ続ければ、近隣住民が警察に通報しかねないのではないか。
(こんなことなら、やっぱり合コン行っとけばよかったか……)
そうしていれば、今ごろ可愛い女子の一人くらいはお持ち帰りできていたかもしれない。晴れて童貞を卒業できていたかもしれないのに。
後の祭り。そんな言葉が狛枝の身体と一緒に重くのしかかる。それがバタバタと暴れて身を震わせているのだから、堪ったもんじゃない。
後悔すればするほど、足取りもどんどん重くなっていった。
(ほんっと……最悪だな……)
「ふふふ、うふ、あはは、ねぇ~、ひにゃたクゥ~ン」
長いことずっと爆笑し続けていた狛枝は、ようやく少し落ち着いたのか、ぐったりと日向の背に身を預けながらそれでもクスクスと笑っている。
首に両腕が絡まり、頭部に頬ずりされる感触にウンザリしながらも、「はいはい」と返事をしてやると、嬉しそうに「んふふ」と鼻にかかったような声が聞こえた。
「楽しいねぇひにゃたクン」
「そうかよ。俺は楽しくないけどな」
「あは、ボクねぇ、すっごく頑張っちゃったよぉ」
「なにをだよ」
「メールだよぉ。ひにゃたクンにメールするの、すごーく怖かったぁ」
「……そりゃどうもな」
「ねぇ~、褒めてよぉ~、ボクいい子だったでしょ~?」
酔うとその人間の本性が出る、なんてよく言ったものだ。
狛枝は日向の頭部にグリグリと顔を擦りつけながら、甘えた口調で「褒めて褒めて」と繰り返す。
酒の力ですっかり仮面が剥がれ落ちた狛枝は、まるで小さな駄々っ子だ。
自然体でリラックスしてほしいとは思ったが、まさかここまでとは。
それにしても、日向の予想はいっそ気持ちがいいくらい当たっていたらしい。
やっぱり彼は相当の勇気を振り絞ってメールを寄越したようだ。携帯の画面を見つめて、青くなったり赤くなったりしながら打ち震える狛枝の姿まで、容易に想像ができてしまう。
出会いのチャンスを逃した上に、こんな面倒なヤツの世話をする羽目になってしまった不運を嘆いていたはずなのに。なぜか後悔が薄れていくのを感じる。
すっかり絆されていることを自覚しながら、日向は苦笑した。
「えらかったな、いい子だったな」
「んふ、うん。もっと褒めていいんだよ~」
「えらいえらい。狛枝はえらいよ」
「あはは、ひにゃたクン大好き~」
「はいはい、ありがとな」
ふわふわの癖毛に頬をくすぐられると、不思議と胸の内側までくすぐられているような気分になった。
たった一度ピンチを救ってやっただけなのに、随分と懐かれてしまったものだと思う。
もちろん、左右田の誘いを蹴ったことはいまだに悔やまれる。けれどこんな風に狛枝の無防備な声を聞いているうちに、やっぱりこれでよかったのだと確信する。
ついさっきまであれほど重たいと思っていた狛枝の身体さえ、軽く思えてきてしまうから現金な話だ。
「ふふ、あはははははっ!」
「お前なぁ、もう笑うの禁止。静かにしろって」
「だぁって~」
日向の身体の両脇で、狛枝の膝から下がブラブラと揺れる。
「靴がないんだもんー」
「は?」
「ぷっ! あははは! ボクの靴、どっか行っちゃった! ふふふ、あはは!」
思わず歩みを止めて、狛枝の足先を見る。確かにない。靴がない。
脱げかけの靴下がぷらぷらとぶら下がっているだけで、ご丁寧に両方ともすっかり無くなっていた。
「お、お前! いつの間に脱いだんだよ!? どこで落とした!?」
「そんなのわっかんないよぉ~! 最っ高に楽しいねぇ~!」
「だから俺は楽しくないっての!!」
「…………」
「……おい? 狛枝?」
「…………スー」
……。
…………。
………………え?
なんなんだこいつは。
散々笑って、はしゃいで、甘えて。プッツリと糸が切れたように、唐突に眠りに落ちてしまうなんて。
酔っ払いをまともに相手にすればバカを見る。それはわかっていることだけど。
「信じられない……」
規則正しい寝息を耳元に感じながら、日向は愕然とするより他になかった。
同時に、もう知るかという気持ちになってくる。
どうせ困るのは狛枝なのだし。とにかく、一刻も早くこいつを送り届けて家に帰りたい。
そんなことを考えて、ふと、日向はあることに気がついた。
「……こいつの家、どこだ……?」
頭部をガツンと叩かれたような衝撃を受ける。
そうだ、日向は彼の連絡先は知っていても、どこに住んでいるのかまでは知らないのだった。
思えばこの住宅街だって、日向の暮らすアパートへと続く道でしかない。爆笑している狛枝に圧倒されるばかりで、何も考えていなかった。
「お、おい、起きろ狛枝」
「ん~……こまどり姉妹~……」
「頼む、起きてくれ」
「スー……スー……」
「……嘘だろ?」
なぜ、どうして。
本当なら、今ごろは左右田の誘いで合コンに行っているはずだった。
頭数を揃えたいだけという理由は少し癪だが、あわよくば人生初の彼女をゲットできるかもしれない、絶好のチャンスだった。
それを棒に振ってまで狛枝を優先したのは日向で、彼には何の罪もない。
わかっている。よくわかっているのだが。
「なんで……お前を持ち帰らなきゃいけないんだよ……!!」
ツイてないのは、狛枝ではなく自分の方だったのかもしれない。
日向は少しだけ泣きたいような、情けない気持ちになりながら、文字通り狛枝を自宅へと持ち帰る羽目になってしまった。
←戻る ・ 次へ→
大晦日の夜、コインランドリーで下着泥棒の濡れ衣を着せられていた青年を助けた日向。
狛枝凪斗と(聞いてもいないのに)名乗る青年に、なぜかそのまま懐かれてしまう。
一度は突き放した日向だったが、わざわざ寒空の下で震えながら待っていた狛枝にうっかり情が湧いてしまい、その後一緒に蕎麦を食いに行くことにしたのだった。
以来、二人の間に進展は……特になかった。
*
待ち合わせ場所は、初めて会ったコインランドリー前だった。
日向がそこに到着したのは約束していた19時ちょうどで、狛枝はすでに待っていた。
「よう、久しぶり」
片手を上げて声をかけると、華奢な肩がビクンと跳ねた。落とし穴でも踏み抜いた直後のような表情で目を見開く狛枝に、思わず顔を顰める。
「……日向、クン?」
「なんだ? 俺の顔忘れたのかよ?」
いくら会ったのが一回きりで、あれから二ヶ月近くが経っているからって。そんなに自分の顔は記憶に残りにくいのだろうか。
眉間にぐっと皺を寄せた日向に、狛枝は慌てて首を左右に振った。癖の強い、淡い綿毛のような髪が激しく揺れる。
「とんでもない! いくらボクが低能だからって、命の恩人の顔を忘れるほど鳥頭ではないよ!」
「別に命まで救ったわけじゃないけどな」
大袈裟な物言いは変わらずかと苦笑してしまう。
「まさか本当に来てくれるとは思ってなかったから、つい驚いてしまって」
「そりゃ来るだろ。約束したんだし」
「で、でも、ボクみたいな愚劣なゴミ虫が日向クンを食事に誘うなんて、おこがましいにも程があるというか、身の程をわきまえていないというか……」
「なんて言うか、今日も絶好調だな、お前」
狛枝は焦点の合っていない瞳を忙しなく彷徨わせ、両手で心臓の辺りを指先の色が変わるほど強く握りしめている。冬の名残をまだ十分に残した風が吹き抜ける中、竦められた肩が震えているのを見ると、こちらまで凍えそうな気分になった。
あの独特な形状のコートに包まれた身体は相変わらず薄っぺらくて、透き通るような白い肌がより憐れみを誘う。
思えばこのあまりにも頼りない容姿に、つい同情してしまったのがこの男を助けてしまった何よりの動機だった。
「別に遠慮なんかするな。飯くらいいつでも誘えよ。それより立ち話もなんだしさ、早く行こうぜ」
「そっ、そうだよね! えっと、日向クンは何が食べたい気分?」
「そうだなぁ……お前は?」
「ボクはなんでもいいよ! キミが好むものなら、ゴミ捨て場の残飯でも犬の糞でも、喜んで食べるよ!」
「言っとくけど、俺はそんな悪食じゃないからな」
お前それは逆に失礼だぞ、と呆れつつ、狛枝にメニュー選びをさせるのは難しいかと思った。食事に行かないかと誘ってきたのは彼だが、仕切りは自分が行った方が早そうだ。
日向は息を凝らしている狛枝をじっと見つめたあと、よし、と頷いた。
「酒でも飲みに行くか。ここから近くて、いい店知ってるし」
「お酒……!?」
「なんだ? もしかして飲めないのか? っていうか、お前まだ10代とか言わないよな?」
狛枝の中性的な顔立ちは、成人男性として見るには少しばかり頼りない。ひょろりと縦に長いだけの身体つきも相まってか、どこか未成熟な印象を受ける。
すると彼は、再び首を左右に振った。
「だ、大丈夫、かな? これでも一応は成人してるし、お酒も飲めるよ」
「そうか。ならいいよな。居酒屋ならご飯モノもあるし」
ホッとしたように狛枝が頷いたことで、行先が決まった。口許だけでふっと笑った日向が歩き出すと、彼はやっぱり一歩引いた場所を歩く。
日向が居酒屋を選んだのは、なんとなくこの微妙な距離を縮めてやりたいと思ったからだ。隣を歩けと言えば狛枝は素直に従うだろう。でも、それではあまり意味がないような気がする。
狛枝はなにかと人の顔色を窺うような態度を取るし、おこがましいだの身の程知らずだの、自分を卑下した物言いをする。
いちいち緊張して身を強張らせるのも、酒が入れば少しはほぐれるのではないかと考えた。
前回の蕎麦屋では、狛枝は終始捕食される寸前の小動物のように震えて、オドオドしっぱなしだった。おそらく味もへったくれもなかったに違いない。
だから今日は少しでもリラックスさせてやれればと思った。
せっかく狛枝の方から誘いをかけてくれたのだから、なるべく後悔はさせたくないし、したくない。
なんといっても今日の狛枝との約束は、日向にとってそれなりに『大きな代償』を支払った上で成り立っているのだから。
「逃がした魚はデカかったのかもしれないけどな……」
「え? 何か言った?」
無意識に漏れた呟きに、狛枝が首を傾げながら反応する。日向は「なんでもないよ」と返しながら、思わず苦笑した。
*
二月上旬。
日向は大学の春休みを利用してバイトに明け暮れる日々を送っていた。
学費は離れて暮らす両親に頼り切っている状態だが、家賃を含めた諸々の生活費くらいは自分でなんとかしたい。適当に遊ぶ金だって欲しいし、貯金もしておくに越したことはないだろうと、ビルの建設現場で週の大半を警備スタッフとして働いている。
そんなある日、昼の休憩中のことだ。
数少ない友人の一人である左右田から、合コンの誘いがきた。
今日の19時半に来られないかという文面に、もっと早く連絡しろよと思いはしたが、どうせ急に欠席者が出たとか、そんな理由の数合わせに違いなかった。
とはいえここしばらくバイト漬けだった日向は、たまには羽目を外すのもいいかと了解した。
あわよくば人生初の彼女がゲットできるかもしれないチャンスだ。人生なにがキッカケになるか分からないのだし、出会いは大切にしなければ。
すると、なんだかんだで浮かれはじめていた日向のもとに、もう一件メールがきた。
左右田からの返信かと思ったが、差出人の名前を見て驚いた。
それは大晦日の夜、痴漢疑惑をかけられていたところを気紛れで助けた、あの狛枝凪斗からだったのだ。
彼とはあの日以来会っていない。ただ、別れ際に連絡先の交換だけはしていた。
インパクトのある男だったので、たまにふと思い出すことはあったが、特に理由もなく連絡は取っていなかった。
意外に感じつつ受信したメールを開いて見ると、それは実に簡素な内容だった。
『一緒にお食事どうですか』
その一文から、狛枝の緊張がひしひしと伝わって来たような気がした。
自らのことをクズとかゴミとか自虐していた上、本気で友達という存在が一人もいなかったらしい、彼の精一杯が感じ取れる。
今ごろ呼吸困難でも起こしながら返事を待っているのではないかと思うと、命の危機を放っておくわけにもいかず、すぐに『OK』とメールを送った。
別に飯を食いに行くくらい、どうってことはない。
合コンの頭数が足りないという理由でしか、連絡の一つも寄越さない相手よりは、ずっと気分もいい。それでいい思いができるなら、という下心はこのさい置いておくとして、久しぶりに狛枝の顔を見るのも悪くはないような気もして。
けれど驚いたことに、僅か数秒で送られてきた狛枝からの返信で、彼が指定してきた日にちも今日だった。
タイミングが悪かったなと、日向はすぐに日時を変更してくれるようメールを送ろうとした。タッチの差とはいえ、左右田との約束の方が先なのだから、それは当たり前のことだ。
しかしふと思った。狛枝のツイてなさは折り紙付きだ。たった一度会っただけの相手だが、日向はそれをよく知っている。
そんなツイてないやつが、ツイてないタイミングで勇気を振り絞った。そう考えるとなんだか不憫で、日向は気づいたら左右田の方に断りの連絡を入れていた。
『オメーふざけんなよ! 二度と誘ってやんねーかんな!』
なんて、怒りのメールをもらう羽目になってまで、狛枝の誘いを優先してしまった。
何をしてるんだと自分に呆れながら、とにかく日向は合コンという尊い出会いのチャンスを逃したのだった。
*
だが日向は、狛枝を連れ立って訪れた居酒屋で、その選択が誤りだったことを知る羽目になった。
「あははははははは! ねぇねぇ日向クンあれ見て! 電柱だよ!」
静まり返った夜の住宅街に、引くほどテンションの高い笑い声が響き渡っている。
「ぷっ、ふふ、あはははは! 最ッ高だね! 街灯までついてる! あっはははは! ねぇ日向クン! 街灯だよ!? 夜なのに明るいねぇ! あはっ!」
一体なにがそんなに面白いのか、日向に背負われている狛枝は、あれこれとどうでもいいものを指さしてはケタケタと笑っていた。
「お前なぁ、近所迷惑だろ? 頼むから静かにしてくれよ……」
「ぷはっ! ひゃははは! 月まで出てる! ますます明るい! こんなの信じられないよ! あはははは!!」
(ああぁ、なんなんだよこいつは!)
思わず背負っている華奢な身体を投げ飛ばしたい気分になった。ゴミ捨て場にでも捨て置いて、とっとと一人で帰ってしまいたい。
日向の苛立ちなど知りもせず、狛枝は無邪気に手足をバタつかせて大はしゃぎしている。
「わあぁ!? く、車が停まってるー! ぷくくッ、きゃは、あははは! も、苦しい! ぼ、ボク、笑いすぎて死んじゃう!!」
「酒弱いなら無理して飲むなよ! 笑い上戸とかふざけんな!!」
そう、狛枝は異様なまでの笑い上戸だった。
店に入って30分もしないうちに出来上がり、会話もままならないくらい酔って笑い出した。
目に映る全てのものを指さして、ヒィヒィと痙攣するほど笑い転げる彼は、当然のように他の客の迷惑にしかならなかった。
日向は慌てて二人分の会計を済ませ、前後不覚の狛枝を背負って夜の街へと逃げ出した。
そして現在、この有様である。
狛枝は聞いていてこちらが苦しくなるほど爆笑している状態だ。苦しそうにのたうつ感触が、背中から嫌というほど伝わって来る。
このまま騒ぎ続ければ、近隣住民が警察に通報しかねないのではないか。
(こんなことなら、やっぱり合コン行っとけばよかったか……)
そうしていれば、今ごろ可愛い女子の一人くらいはお持ち帰りできていたかもしれない。晴れて童貞を卒業できていたかもしれないのに。
後の祭り。そんな言葉が狛枝の身体と一緒に重くのしかかる。それがバタバタと暴れて身を震わせているのだから、堪ったもんじゃない。
後悔すればするほど、足取りもどんどん重くなっていった。
(ほんっと……最悪だな……)
「ふふふ、うふ、あはは、ねぇ~、ひにゃたクゥ~ン」
長いことずっと爆笑し続けていた狛枝は、ようやく少し落ち着いたのか、ぐったりと日向の背に身を預けながらそれでもクスクスと笑っている。
首に両腕が絡まり、頭部に頬ずりされる感触にウンザリしながらも、「はいはい」と返事をしてやると、嬉しそうに「んふふ」と鼻にかかったような声が聞こえた。
「楽しいねぇひにゃたクン」
「そうかよ。俺は楽しくないけどな」
「あは、ボクねぇ、すっごく頑張っちゃったよぉ」
「なにをだよ」
「メールだよぉ。ひにゃたクンにメールするの、すごーく怖かったぁ」
「……そりゃどうもな」
「ねぇ~、褒めてよぉ~、ボクいい子だったでしょ~?」
酔うとその人間の本性が出る、なんてよく言ったものだ。
狛枝は日向の頭部にグリグリと顔を擦りつけながら、甘えた口調で「褒めて褒めて」と繰り返す。
酒の力ですっかり仮面が剥がれ落ちた狛枝は、まるで小さな駄々っ子だ。
自然体でリラックスしてほしいとは思ったが、まさかここまでとは。
それにしても、日向の予想はいっそ気持ちがいいくらい当たっていたらしい。
やっぱり彼は相当の勇気を振り絞ってメールを寄越したようだ。携帯の画面を見つめて、青くなったり赤くなったりしながら打ち震える狛枝の姿まで、容易に想像ができてしまう。
出会いのチャンスを逃した上に、こんな面倒なヤツの世話をする羽目になってしまった不運を嘆いていたはずなのに。なぜか後悔が薄れていくのを感じる。
すっかり絆されていることを自覚しながら、日向は苦笑した。
「えらかったな、いい子だったな」
「んふ、うん。もっと褒めていいんだよ~」
「えらいえらい。狛枝はえらいよ」
「あはは、ひにゃたクン大好き~」
「はいはい、ありがとな」
ふわふわの癖毛に頬をくすぐられると、不思議と胸の内側までくすぐられているような気分になった。
たった一度ピンチを救ってやっただけなのに、随分と懐かれてしまったものだと思う。
もちろん、左右田の誘いを蹴ったことはいまだに悔やまれる。けれどこんな風に狛枝の無防備な声を聞いているうちに、やっぱりこれでよかったのだと確信する。
ついさっきまであれほど重たいと思っていた狛枝の身体さえ、軽く思えてきてしまうから現金な話だ。
「ふふ、あはははははっ!」
「お前なぁ、もう笑うの禁止。静かにしろって」
「だぁって~」
日向の身体の両脇で、狛枝の膝から下がブラブラと揺れる。
「靴がないんだもんー」
「は?」
「ぷっ! あははは! ボクの靴、どっか行っちゃった! ふふふ、あはは!」
思わず歩みを止めて、狛枝の足先を見る。確かにない。靴がない。
脱げかけの靴下がぷらぷらとぶら下がっているだけで、ご丁寧に両方ともすっかり無くなっていた。
「お、お前! いつの間に脱いだんだよ!? どこで落とした!?」
「そんなのわっかんないよぉ~! 最っ高に楽しいねぇ~!」
「だから俺は楽しくないっての!!」
「…………」
「……おい? 狛枝?」
「…………スー」
……。
…………。
………………え?
なんなんだこいつは。
散々笑って、はしゃいで、甘えて。プッツリと糸が切れたように、唐突に眠りに落ちてしまうなんて。
酔っ払いをまともに相手にすればバカを見る。それはわかっていることだけど。
「信じられない……」
規則正しい寝息を耳元に感じながら、日向は愕然とするより他になかった。
同時に、もう知るかという気持ちになってくる。
どうせ困るのは狛枝なのだし。とにかく、一刻も早くこいつを送り届けて家に帰りたい。
そんなことを考えて、ふと、日向はあることに気がついた。
「……こいつの家、どこだ……?」
頭部をガツンと叩かれたような衝撃を受ける。
そうだ、日向は彼の連絡先は知っていても、どこに住んでいるのかまでは知らないのだった。
思えばこの住宅街だって、日向の暮らすアパートへと続く道でしかない。爆笑している狛枝に圧倒されるばかりで、何も考えていなかった。
「お、おい、起きろ狛枝」
「ん~……こまどり姉妹~……」
「頼む、起きてくれ」
「スー……スー……」
「……嘘だろ?」
なぜ、どうして。
本当なら、今ごろは左右田の誘いで合コンに行っているはずだった。
頭数を揃えたいだけという理由は少し癪だが、あわよくば人生初の彼女をゲットできるかもしれない、絶好のチャンスだった。
それを棒に振ってまで狛枝を優先したのは日向で、彼には何の罪もない。
わかっている。よくわかっているのだが。
「なんで……お前を持ち帰らなきゃいけないんだよ……!!」
ツイてないのは、狛枝ではなく自分の方だったのかもしれない。
日向は少しだけ泣きたいような、情けない気持ちになりながら、文字通り狛枝を自宅へと持ち帰る羽目になってしまった。
←戻る ・ 次へ→
絶望的なまでにツイてないヤツと遭遇してしまった。
それはあと数時間もすれば年が明けようという、大晦日の夜のこと。
「あんた! 今あたしの下着盗もうとしてたでしょ!?」
ガラス張りの扉を押し開いた瞬間、キンキンと耳に突き刺さるような女の怒号が出し抜けに日向を出迎えた。
ぎょっとして、思わず洗濯物が詰まった鞄を取り落しそうになる。
大晦日の夜にコインランドリーを訪れている客が自分以外にもいたことも驚きだが、何よりその女の迫力がとにかく凄い。
「なんか言いなさいよ! 警察呼ぶわよ!?」
全自動洗濯機がズラリと並ぶただっ広い空間に、その声はエコーがかかったかのように大きく響き渡っていた。長い茶髪を逆立てるように振り乱すスウェット姿の女の顔は、まるで般若の面を被ったようなド迫力だ。
そしてその怒号を正面からぶつけられているのは、ひょろりと背の高い、いかにも貧弱そうな青年だった。
彼は肩を竦め、猫のように背を丸めながら視線を彷徨わせている。
「えっと、あの」
「はぁ!? なにぃ!? 言い訳する気!? このド変態! もう頭に来た! マジで通報するからね!!」
何か言えと喚いていたのは自分だろうに、女は青年の声を遮り、取り出した携帯電話を操作しだす。青年は青褪めた表情で両手を翳し、どうにかして女の怒りを鎮めようと必死になった。
「それは誤解というか……確かにボクはこの通り不審者丸出しのゴミ虫のように見え……あ、むしろ紛うことなきゴミクズでしかないんだけど、女性の下着を盗むなんて豪気溢れる真似なんか到底……」
「何グダグダ言ってんの気持ち悪い!! じゃあなんであたしの洗濯機の前にいんのよ! しかも開けて中身漁ってるし!!」
「だからそれこそ誤解で、むしろ閉めようと」
「そんな言い訳が通用すると思ってんの!?」
(ったく……この年の瀬に一体なにをしてるんだ)
日向は悟られぬ程度にそっと息を漏らした。そして、なんとなく気配を殺しながら目についた中型の洗濯機へ近づくと、すぐ側のテーブルに鞄を置く。中身は汚れた衣類とタオル、そして洗剤の類だ。
洗濯槽にそれらを放り込み、黙々と準備に取り掛かるその間も、女のヒステリックな金切り声は続いていた。
「あんた、自分で不審者丸出しのクズだって認めてんじゃない! だいたい見るからに怪しいのよね! 雰囲気がさ! いかにもヤバイって感じ!?」
(おいおい、その罵倒は流石にザックリしすぎだろ)
確かにこの様子では、青年は確実にクロとしか思えない。
が、こうも容赦なく怒声を浴びせかけられている様を見ていると、どうにも痛ましいような気持ちになってくる。
例えば、だ。満員電車で、たまたま鞄の角が女性の身体の一部に触れてしまったというだけで、そのまま一気に人生を転落する羽目になるサラリーマンとか。
どれほど「違う」と首を横に振っても、シロはクロにしかならない。こういう場合、男性は圧倒的に立場が弱いのだ。
だからもし彼に本当にやましいことがなく、単に誤解されているだけなのだとしたら、それはあまりにも哀れな話だった。
コートを着ていてさえ華奢と分かる、尖った肩がガックリと落とされているのをチラリと横目に捉え、日向は再び溜息を漏らした。
そうだ、何よりこの青年の、見るからに頼りなさそうな、薄っぺらい身体がいけない。しおしおと項垂れる様は赤の他人である日向にさえ、深く同情させる。
日向は洗濯機が動き出したことを確認すると、二人の側まで歩み寄り、青年の肩にポンと気安く手を置いた。
「どうしたんだよ一体」
「ッ!」
青年の身体が、ビクンと跳ねた。大きなガラス玉のような瞳と至近距離で視線がカチ合った瞬間、日向は漠然と彼がシロであることを察した。
心底困り果てた様子で下がる眉尻や、それなりにデカい図体のくせに小動物めいた怯えの色を覗かせる顔色が、予想通りあまりにも無害そうで。
「な、何よあんた!」
「こいつは俺のツレなんだ。妙な勘違いさせるような真似をしたんなら、俺からも謝るよ。悪かった」
突然割って入って来て頭を下げる日向に、青年はただ口をポカンと開けていた。もちろんツレなんて言葉は嘘っぱちだ。咄嗟に吐いた出まかせだったが、冷静さを欠いた女がそこに食いつくことはなかった。
「勘違いって何よ! どうせそのコートのポケットにアタシの下着が入ってるんでしょ! 確認すれば分かるのよ!!」
「だってさ。入ってんのか?」
顎を軽くしゃくるようにして問えば、青年は淡く不思議な色合いの髪をふわふわと揺らしながら首を左右に振り、深緑色のコートのポケットに一つ一つ手を突っ込んだ。裏地ごと引っ張り出すようにして中に何も入っていないことを証明したあと、さらにコートを脱いで不思議な形状の裾を持ち、バサバサと大きく揺らす。
勿論、何も落ちてはこない。せいぜい細かなほこりが舞い上がる程度だった。
「えっと……全部、脱いだ方がいいのかな?」
身の潔白を証明するためなのだからその申し出は無理もないが、Tシャツと細身のパンツ姿になってしまった彼の身体には、他に一切の膨らみがなかった。そこにはオウトツの浅いボディラインがあるだけで、何かを隠し持っている様子は見られない。
この季節にしてはあまりにも薄すぎるシャツの裾をめくり上げようとする白い手を制し、日向はウンザリした表情で冷ややかな視線を女に送った。
「この辺にしといてくれないか? こいつの裸が見たいなら話は別だけどさ」
「な!? そんなわけないでしょ!?」
「違うのか?」
女は息を飲み、怒りに顔を赤らめると乱雑な動作で洗濯機から衣類を取り込んだ。紙袋にそれらを押し込め、最後に日向と青年に射殺すような目を向けたあと、「次に会ったら覚えてなさいよ!!」と物騒な捨て台詞を残してそそくさと出て行ってしまう。
面白いほどあっさりと静寂に包まれた空間で、日向はふっと息を漏らすと青年を見た。彼は丸くぽっかりと開けた唇をあわあわと震わせながら涙ぐんでいた。さっきまで青褪めていた頬を紅潮させて、感極まっている様子だ。
「危ないところを助けてくれて、どうもありがとう……!」
「いや……」
勢いよく身を乗り出してくる青年から、一歩引いて目を逸らす。そもそも、本当に助けてよかったのかは分からないのだ。
ほんの気紛れで情けをかけただけだし、自分の直観が当たっていたのかどうかも実際は謎だった。未遂に終わったというだけで、この男は本当に下着泥棒をする気でいたのかもしれないし。
「本当に助かったよ! 誤認逮捕された経験は何度かあるんだけど、流石に今日くらいは勘弁してほしいよね! 年越し蕎麦が食べられなくなっちゃうもん!」
「は……?」
「ボクみたいなゴミクズがお正月を炬燵でぬくぬく過ごそうなんて、おこがましい考えだってことは分かってるんだけど……大晦日くらいは人並みに過ごしたいって欲求はあるし」
「お、おい……ちょっと落ち着けって」
事なきを得たのが嬉しいのは分かるが、聞いてもいないことをベラベラと矢継ぎ早に喋られても反応に困る。しかも、誤認逮捕とかなんとか、こいつは何を言っているんだろう。
「あっ、うるさかったよね、ごめんね。あんまり嬉しかったものだからつい」
「まぁ……気持ちは分からないでもないけどさ……コート着ろよ」
「そうだったね。どうりで寒いと思ってたんだ。ありがとう」
青年は思い出したように、裾を掴んで引きずったままだったコートにモタモタと袖を通しはじめた。ランドリー内は暖房がきいてはいるが、流石にTシャツ一枚でいるのは寒かったようだ。
(変なやつだなぁ……)
けれど、よく見れば顔は驚くほど整っている。体系は貧相だが、これがいわゆるモデル体型というやつなのかもしれない。
おかしな奴であることは明白だが、黙っていればさぞかしモテそうだ。
とはいえ、いつまでも関わっている筋合いはなかった。放っておけばそのうち消えるだろうと、日向は備え付けの雑誌を適当に取って革製の長椅子へと足を向けた。
すると、なぜか青年も一緒にひょこひょことついてきた。ちゃっかり隣に腰を下ろして、雑誌をめくりはじめる日向をじっと見つめてくる。
無視を決め込もうにも、これは流石に気味が悪い。日向は雑誌を閉じると、しかめっ面を真横に向けた。
「……なんだよ?」
「うん?」
「うん? じゃなくて。礼なら済んだろ。もう行けよ」
「ボクは狛枝凪斗だよ。キミは?」
「会話のキャッチボールって知ってるか?」
「キャッチボール? ああ、壁とならやったことがあるよ。だけど絶望的にセンスがなかったみたいで、ボールがグローブごと道路に転がっちゃってさ。慌てて追いかけたら、ウッカリ車にはねられちゃった。ツイてないよね。あはっ!」
「もう何をどう突っ込めばいいのか分からないが……よく生きてたな」
「うん。で、キミの名前は?」
「…………」
どうやらなんとしても引くつもりはないらしい。どうせ珍しい名前でもないしと、仕方なくそっけなく苗字だけ名乗ってやった。たったそれだけで、狛枝は感動したように赤面し、目を輝かせる。
「日向クン、か。キミはボクの恩人だよ」
「大袈裟だ。それに、もう礼はいいって」
「何度でも言わせてよ。ボクみたいなゴミ虫に救いの手を差し伸べてくれる人と出会えただけでも、生きてきた甲斐があったような気がしてるんだ。この世界は美しく素晴らしいね!」
(なんなんだこいつ……やっぱりどっかおかしいぞ……)
「……なぁ」
「なにかな? 日向クン」
「本当に……シロなんだよな……?」
きょとん、とした表情で首を傾げる狛枝に、日向は不審げな眼差しを隠すことなく向ける。
この男はやっぱり妙だ。やたらと自虐的なことを言うし、曇りのない瞳はまるで神か仏を崇める勢いで妄信的に光輝いている。異常だ。さっきの女も言っていたが、ザックリと言えばいかにもヤバイ。
直観的にシロだと確信して手を差し伸べたのは自分だが、だんだんそれも疑わしくなってきた。これだけヤバい奴なら、本当に盗もうとしていた可能性は0じゃないような気がする。
日向の視線からその意図を察した狛枝は、なぜか楽しげに「あは」と笑ったあと、視線を俯け自虐的な笑みを浮かべた。
「やっぱりそう思われてもおかしくないよね。信じてほしいとも思わないけど……」
咄嗟に何も言えないでいる日向に、狛枝は事のあらましを話し始めた。
「ボクはただ洗濯が終わるまで、夜道を散歩して戻って来ただけなんだ。そうしたら中年の男の人が洗濯機を開けてゴソゴソしてて。まさかあれが泥棒だとは思わなかったな。ボクに気づいた途端、慌てて逃げてっちゃったよ」
「そこに入れ違いであの女が来たってことか?」
「そうなるね。彼女もどこかで暇潰しでもしてたんじゃない? ボクはただ蓋を閉めてあげようとしただけなんだけど、誤解されちゃった」
「……運が悪かったな」
「えへへ」
「なんでそこで照れるんだ……」
決して信じたわけではない。だが、これ以上疑っても仕方ないのも事実だったし、どうせどこかしらには防犯カメラも仕掛けてあるだろうから、もし大事になったとしても真実は容易に明かされることだろう。
いずれにしろ日向にとってはどうでもいいことだ。とにかく、もうこれ以上は関わりたくなかった。
「分かったからもういいだろ。そろそろ一人にしてくれよ」
「そうだね……ボクが側にいたら、ゆっくり雑誌も読めないもんね。貴重な時間をボクなんかのために割いてくれてありがとう」
狛枝は眉をハの字に下げて寂しそうに笑った。それからノロノロと立ち上がり、自分の分の洗濯物をまとめると、適当に畳んで両腕に抱えた。袋くらい持って来いよと思ったが、これ以上余計な声をかければ、また付き纏われそうな気がして無視を決め込む。
ランドリーから出ていく寸前、狛枝が再びこちらをちらりと振り返ったような気がしたが、それすらも無視して雑誌をめくることに専念した。
*
全ての工程を終えた洗濯機が静かに止まったことに気が付いた日向は、視線を上げて壁にかかっている時計を見やった。
「明けてるな」
時刻は深夜0時を僅かに過ぎている。
新しい一年の始まりと同時に、日向もまた年を重ねた。めでたいはずの瞬間を、一人でコインランドリーで過ごしていたなんて虚しい話だ。
彼女でもいればもっと違うのかもしれないが、残念ながら年齢と独り身の期間は日向にとってイコールで結ばれていた。
ふと、衣類を取り込みながらさっきの男のことを思い出す。
これまでの人生で類を見ないほどの変人だったが、容姿だけは完璧だった。少々線が細すぎる気はしたものの、最近はああいうタイプの方が女子受けもいいだろうし、自虐的な割には明るく人当りもよかった。あれで案外、友達も多いのではないか。
新年を迎え、同時に誕生日も迎えたというのに、携帯の一つも鳴らない自分とは、きっと住んでいる世界が違う。
そういえば彼は、無事に年越し蕎麦を食えたのだろうか。
(まぁ、俺には関係ないか。もう会うこともないだろうしな)
そう思いながら、パンパンに詰まった鞄を肩にかけ、外に出た。冷たい冬の夜気が皮膚に突き刺さり、一瞬にして身体が芯まで冷える。
ランドリーのすぐ隣はコンビニになっていた。せっかくだからカップ麺でも買って帰るかと、俯きがちの姿勢で歩き出したそのとき、明るく能天気な声が日向を呼んだ。
「あ、日向クーン!」
驚いて足を止めると同時に顔を上げれば、そこには二度と会うことはないと思っていたはずの人間が佇んでいた。
ランドリーとコンビニから漏れる白い光に、色素の薄い髪が照らされている。狛枝は無邪気な笑顔で、こちらに手を振りながら近づいてきた。
「お、お前……何してるんだ?」
「え? 何って……日向クンを待ってたんだよ?」
「はぁ? なんで?」
洗濯物を抱えたままの狛枝は、日向の問いかけに不思議そうに首を傾げた。まるでこちらの方がおかしな質問をしてしまったような気になってくる。
狛枝はすぐにまたあの気の抜けるような笑顔で「あは」と声を上げた。
「そんなことより、明けましておめでとう、日向クン」
「あぁ、おめでとう……いや、そうじゃなくてな。まさかお前、それを言うためにずっと待っていたわけじゃないだろうな?」
たった短い間の付き合いだが、狛枝が変わり者だということは嫌というほど思い知らされている。だから、ありえない話ではなかった。
それにしたって、いくらコートを着ているとはいえ、こいつの格好はあまりにも薄着だ。洗濯物を抱える指先も、尖った鼻の先も、頬も、冷えた外気に曝されてすっかり赤く染まっていた。
ずっとここで立ち尽くして待っていたのか。真っ白の息を吐き出しながら微笑む狛枝の頼りない肩が、小刻みに震えている。
「んー、それもあるけど。ちょっと違うよ」
「違う?」
うん、と、頷く仕草は澱みのない丸い瞳と相まってどこか幼い。
「だって、ボクは日向クンのツレなんでしょ?」
首を傾げながらそう言われて、日向は「は」という形に唇を開いたまま、何も言えなかった。
それはあれか、あの女についた、咄嗟の嘘のことを言っているのか。
「……あ、あのな、それはそういう意味で言ったわけじゃ」
「なんかいいよね。ツレって言葉。ボク、生まれてこのかた友達がいた経験がないから、なんか嬉しくて」
照れ笑いを浮かべる狛枝だったが、すぐにハッとして表情を青くした。なんとも忙しいやつだ。
「ご、ごめん……! ボクみたいな決定的に最低で最悪で愚かで劣悪で、何をやってもダメなゴミクズ人間に友達扱いなんかされても、新年早々縁起が悪いだけだよね……!」
「お前なぁ……」
また大袈裟なことを。
一体どういう育ち方をすればここまでダイナミックに自虐的な物言いができるのだろう。
だいたい、見た目も中身も地味で目立たない自分ならいざ知らず、これほど容姿にも恵まれ、個性溢れる人間に友人が一人もいないなんて、生まれながらの凡人である日向には信じられないことだった。
(まぁ……でもなぁ……)
過ぎたるはなんとやら、という言葉もある。
地味すぎても埋もれて見えないが、派手すぎても浮いてしまう。世の中はそういう風に出来ている。
思えばこいつはさっきも言っていたではないか。キャッチボールは壁としかしたことがないと。
それは日向も似たようなものだった。流石に車にひかれるなんて経験はないけれど、思いがけず謎の親近感が湧いてしまった。
「確かに……友達いなさそうだよな、お前って」
「えへへ」
「だからなんで照れるんだよ」
気づけば日向は笑っていた。どちらかというと苦笑といった方がピッタリだったが、なんとなく久しぶりに笑ったような気がした。
(これも何かの縁、ってやつか)
「お前、蕎麦はどうしたんだよ。食いたかったんじゃないのか?」
「あはっ! そういえば食べ損ねちゃったよ。しょうがないね」
「じゃあ、さ……今からでも食いに行くか? 俺も腹減ったし」
「へ?」
「なんだよ? 都合でも悪いのか?」
「や、そうじゃ、なく、て……い、行く……って、ボクと?」
今度は日向が首を傾げる番だった。
こう見えて、実はかなり勇気を振り絞って誘ったのだが。
狛枝は唇を震わせ、忙しなく視線を泳がせた。いっそ可哀想になるくらい顔を赤くして狼狽える姿がやっぱりどこか小動物じみていて、不覚にも少しだけ可愛いかもしれない、なんて思えてしまった。
「ぼ、ボクなんか、その、誘っても何も、いいことなんか、その、あ、あぅぅ」
「落ち着けって。どうせまたゴミだのクズだの言いだすんだろ」
「や、あの、だ、で、でもさ……ほ、ホントに……?」
「いいから行くぞ」
「あっ、ま、待ってよ日向クゥン!」
有無を言わさず歩き出す日向の背後から、狛枝の小走りな足音が聞こえる。隣に並ぼうかどうしようか迷った挙句、結局は一歩下がった位置に落ち着いたようだった。
自分のことは棚に上げて、つくづく友達がいなかったんだな、と感心してしまう。
「あ、あの、日向クン……いいのかな? ホントにボクなんかがご一緒しちゃって、いいのかな……?」
「お前は俺のツレなんだから、当然だろ」
「ッ、! は、はわ……ぁ、な、なんか……ボク、日向クンのこと……」
好きになっちゃいそうだよ、と声を震わせる狛枝に、「バカ、やめとけ」なんて軽口を叩きながら、日向は笑った。
←戻る ・ Wavebox👏
それはあと数時間もすれば年が明けようという、大晦日の夜のこと。
「あんた! 今あたしの下着盗もうとしてたでしょ!?」
ガラス張りの扉を押し開いた瞬間、キンキンと耳に突き刺さるような女の怒号が出し抜けに日向を出迎えた。
ぎょっとして、思わず洗濯物が詰まった鞄を取り落しそうになる。
大晦日の夜にコインランドリーを訪れている客が自分以外にもいたことも驚きだが、何よりその女の迫力がとにかく凄い。
「なんか言いなさいよ! 警察呼ぶわよ!?」
全自動洗濯機がズラリと並ぶただっ広い空間に、その声はエコーがかかったかのように大きく響き渡っていた。長い茶髪を逆立てるように振り乱すスウェット姿の女の顔は、まるで般若の面を被ったようなド迫力だ。
そしてその怒号を正面からぶつけられているのは、ひょろりと背の高い、いかにも貧弱そうな青年だった。
彼は肩を竦め、猫のように背を丸めながら視線を彷徨わせている。
「えっと、あの」
「はぁ!? なにぃ!? 言い訳する気!? このド変態! もう頭に来た! マジで通報するからね!!」
何か言えと喚いていたのは自分だろうに、女は青年の声を遮り、取り出した携帯電話を操作しだす。青年は青褪めた表情で両手を翳し、どうにかして女の怒りを鎮めようと必死になった。
「それは誤解というか……確かにボクはこの通り不審者丸出しのゴミ虫のように見え……あ、むしろ紛うことなきゴミクズでしかないんだけど、女性の下着を盗むなんて豪気溢れる真似なんか到底……」
「何グダグダ言ってんの気持ち悪い!! じゃあなんであたしの洗濯機の前にいんのよ! しかも開けて中身漁ってるし!!」
「だからそれこそ誤解で、むしろ閉めようと」
「そんな言い訳が通用すると思ってんの!?」
(ったく……この年の瀬に一体なにをしてるんだ)
日向は悟られぬ程度にそっと息を漏らした。そして、なんとなく気配を殺しながら目についた中型の洗濯機へ近づくと、すぐ側のテーブルに鞄を置く。中身は汚れた衣類とタオル、そして洗剤の類だ。
洗濯槽にそれらを放り込み、黙々と準備に取り掛かるその間も、女のヒステリックな金切り声は続いていた。
「あんた、自分で不審者丸出しのクズだって認めてんじゃない! だいたい見るからに怪しいのよね! 雰囲気がさ! いかにもヤバイって感じ!?」
(おいおい、その罵倒は流石にザックリしすぎだろ)
確かにこの様子では、青年は確実にクロとしか思えない。
が、こうも容赦なく怒声を浴びせかけられている様を見ていると、どうにも痛ましいような気持ちになってくる。
例えば、だ。満員電車で、たまたま鞄の角が女性の身体の一部に触れてしまったというだけで、そのまま一気に人生を転落する羽目になるサラリーマンとか。
どれほど「違う」と首を横に振っても、シロはクロにしかならない。こういう場合、男性は圧倒的に立場が弱いのだ。
だからもし彼に本当にやましいことがなく、単に誤解されているだけなのだとしたら、それはあまりにも哀れな話だった。
コートを着ていてさえ華奢と分かる、尖った肩がガックリと落とされているのをチラリと横目に捉え、日向は再び溜息を漏らした。
そうだ、何よりこの青年の、見るからに頼りなさそうな、薄っぺらい身体がいけない。しおしおと項垂れる様は赤の他人である日向にさえ、深く同情させる。
日向は洗濯機が動き出したことを確認すると、二人の側まで歩み寄り、青年の肩にポンと気安く手を置いた。
「どうしたんだよ一体」
「ッ!」
青年の身体が、ビクンと跳ねた。大きなガラス玉のような瞳と至近距離で視線がカチ合った瞬間、日向は漠然と彼がシロであることを察した。
心底困り果てた様子で下がる眉尻や、それなりにデカい図体のくせに小動物めいた怯えの色を覗かせる顔色が、予想通りあまりにも無害そうで。
「な、何よあんた!」
「こいつは俺のツレなんだ。妙な勘違いさせるような真似をしたんなら、俺からも謝るよ。悪かった」
突然割って入って来て頭を下げる日向に、青年はただ口をポカンと開けていた。もちろんツレなんて言葉は嘘っぱちだ。咄嗟に吐いた出まかせだったが、冷静さを欠いた女がそこに食いつくことはなかった。
「勘違いって何よ! どうせそのコートのポケットにアタシの下着が入ってるんでしょ! 確認すれば分かるのよ!!」
「だってさ。入ってんのか?」
顎を軽くしゃくるようにして問えば、青年は淡く不思議な色合いの髪をふわふわと揺らしながら首を左右に振り、深緑色のコートのポケットに一つ一つ手を突っ込んだ。裏地ごと引っ張り出すようにして中に何も入っていないことを証明したあと、さらにコートを脱いで不思議な形状の裾を持ち、バサバサと大きく揺らす。
勿論、何も落ちてはこない。せいぜい細かなほこりが舞い上がる程度だった。
「えっと……全部、脱いだ方がいいのかな?」
身の潔白を証明するためなのだからその申し出は無理もないが、Tシャツと細身のパンツ姿になってしまった彼の身体には、他に一切の膨らみがなかった。そこにはオウトツの浅いボディラインがあるだけで、何かを隠し持っている様子は見られない。
この季節にしてはあまりにも薄すぎるシャツの裾をめくり上げようとする白い手を制し、日向はウンザリした表情で冷ややかな視線を女に送った。
「この辺にしといてくれないか? こいつの裸が見たいなら話は別だけどさ」
「な!? そんなわけないでしょ!?」
「違うのか?」
女は息を飲み、怒りに顔を赤らめると乱雑な動作で洗濯機から衣類を取り込んだ。紙袋にそれらを押し込め、最後に日向と青年に射殺すような目を向けたあと、「次に会ったら覚えてなさいよ!!」と物騒な捨て台詞を残してそそくさと出て行ってしまう。
面白いほどあっさりと静寂に包まれた空間で、日向はふっと息を漏らすと青年を見た。彼は丸くぽっかりと開けた唇をあわあわと震わせながら涙ぐんでいた。さっきまで青褪めていた頬を紅潮させて、感極まっている様子だ。
「危ないところを助けてくれて、どうもありがとう……!」
「いや……」
勢いよく身を乗り出してくる青年から、一歩引いて目を逸らす。そもそも、本当に助けてよかったのかは分からないのだ。
ほんの気紛れで情けをかけただけだし、自分の直観が当たっていたのかどうかも実際は謎だった。未遂に終わったというだけで、この男は本当に下着泥棒をする気でいたのかもしれないし。
「本当に助かったよ! 誤認逮捕された経験は何度かあるんだけど、流石に今日くらいは勘弁してほしいよね! 年越し蕎麦が食べられなくなっちゃうもん!」
「は……?」
「ボクみたいなゴミクズがお正月を炬燵でぬくぬく過ごそうなんて、おこがましい考えだってことは分かってるんだけど……大晦日くらいは人並みに過ごしたいって欲求はあるし」
「お、おい……ちょっと落ち着けって」
事なきを得たのが嬉しいのは分かるが、聞いてもいないことをベラベラと矢継ぎ早に喋られても反応に困る。しかも、誤認逮捕とかなんとか、こいつは何を言っているんだろう。
「あっ、うるさかったよね、ごめんね。あんまり嬉しかったものだからつい」
「まぁ……気持ちは分からないでもないけどさ……コート着ろよ」
「そうだったね。どうりで寒いと思ってたんだ。ありがとう」
青年は思い出したように、裾を掴んで引きずったままだったコートにモタモタと袖を通しはじめた。ランドリー内は暖房がきいてはいるが、流石にTシャツ一枚でいるのは寒かったようだ。
(変なやつだなぁ……)
けれど、よく見れば顔は驚くほど整っている。体系は貧相だが、これがいわゆるモデル体型というやつなのかもしれない。
おかしな奴であることは明白だが、黙っていればさぞかしモテそうだ。
とはいえ、いつまでも関わっている筋合いはなかった。放っておけばそのうち消えるだろうと、日向は備え付けの雑誌を適当に取って革製の長椅子へと足を向けた。
すると、なぜか青年も一緒にひょこひょことついてきた。ちゃっかり隣に腰を下ろして、雑誌をめくりはじめる日向をじっと見つめてくる。
無視を決め込もうにも、これは流石に気味が悪い。日向は雑誌を閉じると、しかめっ面を真横に向けた。
「……なんだよ?」
「うん?」
「うん? じゃなくて。礼なら済んだろ。もう行けよ」
「ボクは狛枝凪斗だよ。キミは?」
「会話のキャッチボールって知ってるか?」
「キャッチボール? ああ、壁とならやったことがあるよ。だけど絶望的にセンスがなかったみたいで、ボールがグローブごと道路に転がっちゃってさ。慌てて追いかけたら、ウッカリ車にはねられちゃった。ツイてないよね。あはっ!」
「もう何をどう突っ込めばいいのか分からないが……よく生きてたな」
「うん。で、キミの名前は?」
「…………」
どうやらなんとしても引くつもりはないらしい。どうせ珍しい名前でもないしと、仕方なくそっけなく苗字だけ名乗ってやった。たったそれだけで、狛枝は感動したように赤面し、目を輝かせる。
「日向クン、か。キミはボクの恩人だよ」
「大袈裟だ。それに、もう礼はいいって」
「何度でも言わせてよ。ボクみたいなゴミ虫に救いの手を差し伸べてくれる人と出会えただけでも、生きてきた甲斐があったような気がしてるんだ。この世界は美しく素晴らしいね!」
(なんなんだこいつ……やっぱりどっかおかしいぞ……)
「……なぁ」
「なにかな? 日向クン」
「本当に……シロなんだよな……?」
きょとん、とした表情で首を傾げる狛枝に、日向は不審げな眼差しを隠すことなく向ける。
この男はやっぱり妙だ。やたらと自虐的なことを言うし、曇りのない瞳はまるで神か仏を崇める勢いで妄信的に光輝いている。異常だ。さっきの女も言っていたが、ザックリと言えばいかにもヤバイ。
直観的にシロだと確信して手を差し伸べたのは自分だが、だんだんそれも疑わしくなってきた。これだけヤバい奴なら、本当に盗もうとしていた可能性は0じゃないような気がする。
日向の視線からその意図を察した狛枝は、なぜか楽しげに「あは」と笑ったあと、視線を俯け自虐的な笑みを浮かべた。
「やっぱりそう思われてもおかしくないよね。信じてほしいとも思わないけど……」
咄嗟に何も言えないでいる日向に、狛枝は事のあらましを話し始めた。
「ボクはただ洗濯が終わるまで、夜道を散歩して戻って来ただけなんだ。そうしたら中年の男の人が洗濯機を開けてゴソゴソしてて。まさかあれが泥棒だとは思わなかったな。ボクに気づいた途端、慌てて逃げてっちゃったよ」
「そこに入れ違いであの女が来たってことか?」
「そうなるね。彼女もどこかで暇潰しでもしてたんじゃない? ボクはただ蓋を閉めてあげようとしただけなんだけど、誤解されちゃった」
「……運が悪かったな」
「えへへ」
「なんでそこで照れるんだ……」
決して信じたわけではない。だが、これ以上疑っても仕方ないのも事実だったし、どうせどこかしらには防犯カメラも仕掛けてあるだろうから、もし大事になったとしても真実は容易に明かされることだろう。
いずれにしろ日向にとってはどうでもいいことだ。とにかく、もうこれ以上は関わりたくなかった。
「分かったからもういいだろ。そろそろ一人にしてくれよ」
「そうだね……ボクが側にいたら、ゆっくり雑誌も読めないもんね。貴重な時間をボクなんかのために割いてくれてありがとう」
狛枝は眉をハの字に下げて寂しそうに笑った。それからノロノロと立ち上がり、自分の分の洗濯物をまとめると、適当に畳んで両腕に抱えた。袋くらい持って来いよと思ったが、これ以上余計な声をかければ、また付き纏われそうな気がして無視を決め込む。
ランドリーから出ていく寸前、狛枝が再びこちらをちらりと振り返ったような気がしたが、それすらも無視して雑誌をめくることに専念した。
*
全ての工程を終えた洗濯機が静かに止まったことに気が付いた日向は、視線を上げて壁にかかっている時計を見やった。
「明けてるな」
時刻は深夜0時を僅かに過ぎている。
新しい一年の始まりと同時に、日向もまた年を重ねた。めでたいはずの瞬間を、一人でコインランドリーで過ごしていたなんて虚しい話だ。
彼女でもいればもっと違うのかもしれないが、残念ながら年齢と独り身の期間は日向にとってイコールで結ばれていた。
ふと、衣類を取り込みながらさっきの男のことを思い出す。
これまでの人生で類を見ないほどの変人だったが、容姿だけは完璧だった。少々線が細すぎる気はしたものの、最近はああいうタイプの方が女子受けもいいだろうし、自虐的な割には明るく人当りもよかった。あれで案外、友達も多いのではないか。
新年を迎え、同時に誕生日も迎えたというのに、携帯の一つも鳴らない自分とは、きっと住んでいる世界が違う。
そういえば彼は、無事に年越し蕎麦を食えたのだろうか。
(まぁ、俺には関係ないか。もう会うこともないだろうしな)
そう思いながら、パンパンに詰まった鞄を肩にかけ、外に出た。冷たい冬の夜気が皮膚に突き刺さり、一瞬にして身体が芯まで冷える。
ランドリーのすぐ隣はコンビニになっていた。せっかくだからカップ麺でも買って帰るかと、俯きがちの姿勢で歩き出したそのとき、明るく能天気な声が日向を呼んだ。
「あ、日向クーン!」
驚いて足を止めると同時に顔を上げれば、そこには二度と会うことはないと思っていたはずの人間が佇んでいた。
ランドリーとコンビニから漏れる白い光に、色素の薄い髪が照らされている。狛枝は無邪気な笑顔で、こちらに手を振りながら近づいてきた。
「お、お前……何してるんだ?」
「え? 何って……日向クンを待ってたんだよ?」
「はぁ? なんで?」
洗濯物を抱えたままの狛枝は、日向の問いかけに不思議そうに首を傾げた。まるでこちらの方がおかしな質問をしてしまったような気になってくる。
狛枝はすぐにまたあの気の抜けるような笑顔で「あは」と声を上げた。
「そんなことより、明けましておめでとう、日向クン」
「あぁ、おめでとう……いや、そうじゃなくてな。まさかお前、それを言うためにずっと待っていたわけじゃないだろうな?」
たった短い間の付き合いだが、狛枝が変わり者だということは嫌というほど思い知らされている。だから、ありえない話ではなかった。
それにしたって、いくらコートを着ているとはいえ、こいつの格好はあまりにも薄着だ。洗濯物を抱える指先も、尖った鼻の先も、頬も、冷えた外気に曝されてすっかり赤く染まっていた。
ずっとここで立ち尽くして待っていたのか。真っ白の息を吐き出しながら微笑む狛枝の頼りない肩が、小刻みに震えている。
「んー、それもあるけど。ちょっと違うよ」
「違う?」
うん、と、頷く仕草は澱みのない丸い瞳と相まってどこか幼い。
「だって、ボクは日向クンのツレなんでしょ?」
首を傾げながらそう言われて、日向は「は」という形に唇を開いたまま、何も言えなかった。
それはあれか、あの女についた、咄嗟の嘘のことを言っているのか。
「……あ、あのな、それはそういう意味で言ったわけじゃ」
「なんかいいよね。ツレって言葉。ボク、生まれてこのかた友達がいた経験がないから、なんか嬉しくて」
照れ笑いを浮かべる狛枝だったが、すぐにハッとして表情を青くした。なんとも忙しいやつだ。
「ご、ごめん……! ボクみたいな決定的に最低で最悪で愚かで劣悪で、何をやってもダメなゴミクズ人間に友達扱いなんかされても、新年早々縁起が悪いだけだよね……!」
「お前なぁ……」
また大袈裟なことを。
一体どういう育ち方をすればここまでダイナミックに自虐的な物言いができるのだろう。
だいたい、見た目も中身も地味で目立たない自分ならいざ知らず、これほど容姿にも恵まれ、個性溢れる人間に友人が一人もいないなんて、生まれながらの凡人である日向には信じられないことだった。
(まぁ……でもなぁ……)
過ぎたるはなんとやら、という言葉もある。
地味すぎても埋もれて見えないが、派手すぎても浮いてしまう。世の中はそういう風に出来ている。
思えばこいつはさっきも言っていたではないか。キャッチボールは壁としかしたことがないと。
それは日向も似たようなものだった。流石に車にひかれるなんて経験はないけれど、思いがけず謎の親近感が湧いてしまった。
「確かに……友達いなさそうだよな、お前って」
「えへへ」
「だからなんで照れるんだよ」
気づけば日向は笑っていた。どちらかというと苦笑といった方がピッタリだったが、なんとなく久しぶりに笑ったような気がした。
(これも何かの縁、ってやつか)
「お前、蕎麦はどうしたんだよ。食いたかったんじゃないのか?」
「あはっ! そういえば食べ損ねちゃったよ。しょうがないね」
「じゃあ、さ……今からでも食いに行くか? 俺も腹減ったし」
「へ?」
「なんだよ? 都合でも悪いのか?」
「や、そうじゃ、なく、て……い、行く……って、ボクと?」
今度は日向が首を傾げる番だった。
こう見えて、実はかなり勇気を振り絞って誘ったのだが。
狛枝は唇を震わせ、忙しなく視線を泳がせた。いっそ可哀想になるくらい顔を赤くして狼狽える姿がやっぱりどこか小動物じみていて、不覚にも少しだけ可愛いかもしれない、なんて思えてしまった。
「ぼ、ボクなんか、その、誘っても何も、いいことなんか、その、あ、あぅぅ」
「落ち着けって。どうせまたゴミだのクズだの言いだすんだろ」
「や、あの、だ、で、でもさ……ほ、ホントに……?」
「いいから行くぞ」
「あっ、ま、待ってよ日向クゥン!」
有無を言わさず歩き出す日向の背後から、狛枝の小走りな足音が聞こえる。隣に並ぼうかどうしようか迷った挙句、結局は一歩下がった位置に落ち着いたようだった。
自分のことは棚に上げて、つくづく友達がいなかったんだな、と感心してしまう。
「あ、あの、日向クン……いいのかな? ホントにボクなんかがご一緒しちゃって、いいのかな……?」
「お前は俺のツレなんだから、当然だろ」
「ッ、! は、はわ……ぁ、な、なんか……ボク、日向クンのこと……」
好きになっちゃいそうだよ、と声を震わせる狛枝に、「バカ、やめとけ」なんて軽口を叩きながら、日向は笑った。
←戻る ・ Wavebox👏
透き通るようなブルーの海と、光り輝く白い砂浜。
穏やかな南国の風が、労働の後の汗ばんだ素肌を心地よく撫でる。
今日も今日とて、絶好の南国日和というやつだ。
日向は狛枝と一緒に海へ素材採集に来ていた。
ここのところずっと掃除を担当していた狛枝が、「お掃除、好きだけどちょっぴり疲れちゃったな」なんて上目使いで可愛くぼやくものだから、仕方なく同行させた。
別に『しょうがないな、じゃあ朝からデート気分でイチャイチャするか』なんて思ったわけではない。絶対ない。
採集、掃除、休憩の振り分けを任されているのは日向だ。いいように立場を利用しただなんて思われては困る。
とにかくいつも以上にみなぎるヤル気で挑んだ海での採集。だが、日向はちょっと拗ねていた。
「海風が気持ちいいね、日向クン」
「…………」
「何事もなく無事に素材も集められたし、足を引っ張るようなことにならなくてよかったよ」
「…………」
「さて、この後はどうしようか。日向クンは誰かと過ごす予定は……ねぇ、聞いてる?」
「…………」
大体の素材集めが済んだあと、二人はヤシの木の木陰に座って休憩を取っていた。狛枝の言う通り海風は気持ちがよかったが、日向の心はささくれていた。
ついつい、八つ当たりめいた無視を決め込む日向は、ずっと不満顔でどこまでも続く美しい海を眺めている。
「ねぇ、日向クンってば。もしかして怒ってる?」
「……別に」
「でも……さっきからずっとお話してくれないよ」
横目で見やった狛枝は、しょんぼりと項垂れて悲しげに睫毛を伏せていた。
「そうだよね、ボクみたいな無価値なゴミ屑が掃除より採集の方がいいなんて、我儘で生意気にも程があるってもんだよね。無理を言ってしまってごめん」
「あのなぁ……」
子供じみた振る舞いを棚に上げて、日向は相変わらずの卑屈ぶりにウンザリとした溜息を吐いた。
「だから、怒ってないって」
「……でも」
「怒ってないったら怒ってない。何度も言わせるな」
「ならよかった……」
ほう、と息を吐き出しながら、狛枝は手の平で胸を撫で下ろしている。
確かに日向は『あること』によって不貞腐れていたが、それは別に狛枝が悪いわけじゃない。ただちょっと、面白くなかっただけだ。
日向は出掛けに言われた西園寺の言葉を思い出していた。狛枝と一緒にコテージを出たところで遭遇した彼女は、並んでいる二人を見てクスクスと馬鹿にしたように笑ってこう言った。
『日向おにぃと狛枝おにぃが並んでるのを見ると、なんか可哀想な気持ちになるよねー。日向おにぃのモブ顔がますます引き立っちゃってさー』
その時は「悪かったな」の一言で済ませる程度で気にはしなかった。西園寺の人をコケにしたような態度や毒舌にもそろそろ慣れてきたし、自分に大した個性がないことも自覚していた。
ましてやこの狛枝と並べば、さらに地味さに磨きがかかって見えても仕方のないことだと。
しかし。
一緒に海辺で採集をしているうちに、だんだん響いてきた。
青く澄んだ水面が太陽と共にキラキラと輝く中で、真珠を見つけたと言っては喜ぶ狛枝の笑顔は、無邪気な子供のように純粋で、可愛くて、綺麗だった。悪戯な南国の風が、不規則に揺らめく炎のような髪を淡く揺らす度に、日向は彼を正面から見られなくなっていった。
(不釣合い、って……言われたようなもんだしな)
狛枝は自分のことをゴミだの虫だのと言って自虐するが、そんな彼自身の姿形は、まるで精巧に作られた人形のように美しく整っている。惚れた贔屓目を差し引いたとしても、それは絶対的な事実だった。
思えばどうして狛枝は、こんな何の個性もない退屈な自分を慕ってくれるのだろう。ちょっと声をかけたりするだけで嬉しそうに笑って、まるで忙しなく尻尾を振る犬のように大喜びしてくれる。
ふと、別に誰だって構わないのではないか、なんて考えが浮かんだ。構ってくれる相手なら、狛枝は誰にでも尻尾を振ってついて行くのではないか。
後ろ向きな思考に、日向の心は荒んでいった。それは想い人である狛枝に直接向けられて、つい無視なんて馬鹿げた形でそっぽを向いてしまった。
情けなさが込み上げて、日向は素直に狛枝に頭を下げる。
「悪かったよ。ガキみたいな真似して」
「うん?」
「出掛けに西園寺に笑われただろ? お前を見てたら、なんか悔しくなってきてさ。言われたって仕方ないことなのに、笑っちゃうよな」
だからごめん、と言ってもう一度頭を下げる日向の顔を、狛枝は不思議そうに覗きこんでくる。
丸い瞳はこの島の青空とは対照的に、雨雲のような不思議な色をしていた。丸くて綺麗で、真珠みたいだな、なんてぼんやり思う。
「日向クンが何を気にしてるのか、ボクにはよくわからないな」
狛枝は腕を組み、うーんと考え込むような素振りを見せる。
「だって、あれってこういうことでしょ? ボクなんかが日向クンのように希望に満ち溢れた存在と並んで歩くなんて、蛆虫がアゲハ蝶に寄生しようとしているようなものだって」
「はい?」
「流石は西園寺さんだね。それをハッキリとは言わず、オブラートに包んでくれるなんて。彼女は超高校級の日本舞踊家であると同時に、超高校級の聖母でもあったんだね」
「???」
なんだか話が噛み合っていないというか、認識にズレが生じているような気がする。あれは日向を貶める言葉であり、突き詰めれば狛枝の容姿に対する賛辞ともとれるのだが。
「なぁ狛枝。お前、何か勘違いしてないか?」
「え? そう?」
「モブ顔って言われたのは俺の方だぞ? お前の引き立て役って言われたようなもんだぞ?」
「引き立て役!? 何を言ってるんだい日向クンは!? それはボクにこそ相応しい役目だよ!!」
それまではふわふわと笑っていた狛枝が、急に眉を吊り上げて怒り出した。そこまで熱くなって言うことでもない気がしつつ、やっぱり彼は何か勘違いしているらしい。
「落ち着けって。お前、西園寺の言葉をもう一度ちゃんと思い出してみろよ」
「うーん……そうは言ってもねぇ。そもそもね、ボクはそのモブっていう言葉の意味がよくわかってないんだよね」
「マジでか?」
「マジだよ?」
なるほど、そういうことだったのか。
日向は狛枝に『モブ』という言葉の意味を丁寧に教えてやった。
もし狛枝が中心人物のゲームや漫画があったとすれば、自分はその他大勢の通行人のようなものだ。サブキャラ以下の、名もなき背景のような存在だと。
「それってつまり、ドラマでいうところのエキストラみたいなもの?」
「そう、それだ」
「納得がいかないなぁ」
ムッと眉間に皺を寄せながら、狛枝が首を傾げた。
「日向クンはモブでもエキストラでもないじゃないか」
「はは、いいよ。気を使わなくても」
「ボクごときが日向クンに気を使うのは当たり前のことだけどね、これはそんなんじゃないよ。心からの言葉だもん」
「だからいいって。俺は自分がお前より見劣りしてるって、一応は自覚してるんだ」
つい臍を曲げてしまったけれど、それは事実だ。
けれど狛枝は不満そうに唇を尖らせたままだった。
「見劣りって……一体どこが?」
「全部だろ。顔の作りからしてさ。お前ってスタイルもいいしな」
「ボクみたいなゴミ虫を褒めてくれるのは光栄だけど、こんなヒョロヒョロのもやし体系だよ?」
「そういうのをモデル体型っていうんだぞ。女子にモテそうじゃないか。あと、俺より背も高い」
「そんなの嬉しくないし、1cm差なんて、あってないようなものじゃない?」
「俺的にその差はデカいんだ。足だってお前の方が長いよな。それこそ、1cmしか差がないのに悔しいだろ」
「……日向クンって、実は劣等感の塊だったんだね?」
「……悪かったな」
改めて指摘されると、ますます情けなくなってくる。
別に自分のことを標準以下とまでは思わないけれど、狛枝の卑屈癖がうつってしまったのだろうか。
これはよくない。このままでは空気が悪くなる一方だろうし、頭を冷やすためにも、今日のところは大人しくコテージに戻って休んだ方がよさそうだ。
「悪い、今の忘れてく……お、おい? 狛枝?」
てっきり呆れ顔をしているとばかり思っていた狛枝が、俯いて唇を噛み締めながら、頬を赤らめている。
これは一体どういう反応なのかと、日向はその表情をまじまじと見つめた。
「日向クンは……わかってないよ……」
「な、何がだ……?」
「日向クンがボクより劣っているわけがないんだ。顔だって、日向クンはそんな風に言うけど、ボクから見れば凄く精悍で男らしくて、憧れちゃうよ」
咄嗟に言葉がでなかった。
こんな風に言われたのは初めてで、なんだかとてつもなく座りが悪い。貶められる方がマシかもしれないとすら思った。
「それは、言いすぎだぞ……」
「まだ抑えてる方だよ。日向クンはボクとは違って胸板だって厚いし、逞しくてかっこいいよ。女の子は、日向クンみたいな人の方が好きだと思うな。その、ボクだって……」
「も、モジモジしながら言うなよ……照れるだろ……」
「ご、ごめん……」
狛枝が両手を胸の前で握ったり擦り合わせたりしながら頬を染めるものだから、こちらまで恥ずかしくなってきてしまう。
お互いが顔を真っ赤にしながら黙りこくって、沈黙が流れる。ここからどういう流れに展開させればいいのかと迷う日向より先に、狛枝がわざとらしいくらいはしゃいだ声を出した。
「あ、あのね! それに日向クンはボクよりアソコも大きいよね!!」
「はッ、はあぁッ!? お、前、昼間から何言ってるんだ!?」
「だってこれって男にとっては何よりも重大なことだと思うんだ!」
目を輝かせながら宣言されても困る。確かにそうかもしれないが、それはそれで少し情けないような、嬉しいような。
「べ、別にそんな大差ないだろ……」
赤いままの頬で目を泳がせる日向に、狛枝は勢いよく首を左右に振った。
「大ありだよ! 日向クンのは太さや勃起力が違うよ! 持続力も凄いし陰毛も濃くて、まさに男根って感じの雄々しさだね!!」
「うあああやめろ! この南国の景色と太陽の下で声高らかに言うのはやめろ! あと、お前のその顔で勃起とか陰毛とか男根とか聞きたくないぞ!!」
「ちんぽとかチン毛って言った方がよかったのかな……」
「そういう問題じゃないっていうかもっと駄目だ!!」
「難しいなぁ日向クンは……」
お前に夢を見ちゃってるんだよ悪いか……と現実に直面した日向が頭を抱えていると、狛枝がまたしても「あ!」と明るい声を上げた。
「今度はなんだ……」
「見て見て日向クン、蟹だよ」
狛枝が指をさしている方へ視線を下向けると、手の届く位置にジャバ蟹がゆったりと歩いている。
そんなことかとホッとしつつ、必要な素材でもあるし、余ったら余ったで食料にもなるため、せっかくだから捕まえるかと日向が手を伸ばすより先に、身を乗り出した狛枝がそっと人差し指でつつこうとした。
「こうやって眺めると結構可愛いね」
だがその瞬間、生命の危機を察知したのか蟹が鋭い爪を振りかざそうとした。
「危ない!」
「わっ」
日向は咄嗟に狛枝の手首を掴んで蟹から遠ざけていた。
狛枝はどちらかといえば日向の反応に驚いたようで、目を丸くしながら「びっくりしたぁ」と情けない声をあげる。それからすぐに、何かに気づいたように逆に日向の手首を取った。
「急に手を出したら危ないだろ……って、なんだ? 俺の手がどうかしたか?」
「日向クン日向クン、手、ちゃんと開いて。ジャンケンする時みたいに」
「なんなんだよ」
不思議に思いながらも言う通りに掴まれている右手をパーの形に開いた。するとそこに、狛枝が同じように開いた左手の平をぴったりと合わせてくる。
「あはっ! ほら見て。日向クンの手、ボクの手よりおっきい」
「ああ、本当だな」
言われてみればそうかもしれない。
狛枝の白魚のような手に比べると、日向の手の方が厚みがあってゴツゴツしている。
狛枝はなぜか砂糖菓子が蕩けるような甘い笑みを浮かべて、あざといとすら思える仕草で小首を傾げた。
「日向クンの手、ボク好きだな。大きいだけじゃなく、優しくてあったかくて……ほら、この指の節くれだってる感じも凄くセクシーだと思わない?」
「ば、バカ……反応に困るようなこと言うな」
「やっぱりボクは日向クンには敵わないね。負けっぱなしだよ」
「……お前な」
たかが手の大きさくらいでと、呆れた素振りを見せながらも悪い気はしない。むしろこんな可愛い笑顔で可愛いことを言われてしまったら、嬉しくならないわけがなかった。
それでもなんだか照れくさくて、つい怒ったような表情でそっぽを向いてしまう。けれど、横目でしっかりと視界に収めている狛枝の左手には、希望ヶ峰の指輪がはめられていた。もちろん、薬指に。
合わさったままの手の平が汗ばんでいくのを感じながら、日向は胸の中で張り裂けそうなほど膨らんでいく愛しさを感じた。
指の隙間に自分の指をはめるようにして握ってやると、狛枝はくすぐったそうに肩を竦めながら頬を染めて、同じように握り返してくる。
(誰がなんと言おうと、俺はこいつに惚れちゃったんだもんな)
日向は狛枝に恋をしてしまった。狛枝も同じ気持ちでいてくれる。永遠を誓う場所で光輝く指輪が何よりの証拠で、狛枝にとっての『特別』であり続けることができるなら、それで十分だと気がついた。
「あのさ」
「なぁに? 日向クン」
「好きだぞ。狛枝」
「ッ!」
真っ直ぐに目を見て言いきった日向に、狛枝はただでさえ赤かった顔を耳まで赤くして、恥ずかしそうに俯いた。
平気な顔で臭い台詞も下品な台詞も吐くくせに、いざとなるとこんな反応を見せるのは反則だ。
「ぼ、ボクも……」
蚊の鳴くような声で紡がれた「大好き」という言葉が、日向の心をどうしようもなくくすぐるから。
(ああ、クソ!)
南国の風に煽られるまま握り合った手に力を込めて、日向は狛枝を引き寄せる。
そして俯いたまま噛み締められた唇に目掛けて。
日向は下から掬い上げるようにしながら、少しだけ強引なキスをした。
←戻る ・ Wavebox👏
穏やかな南国の風が、労働の後の汗ばんだ素肌を心地よく撫でる。
今日も今日とて、絶好の南国日和というやつだ。
日向は狛枝と一緒に海へ素材採集に来ていた。
ここのところずっと掃除を担当していた狛枝が、「お掃除、好きだけどちょっぴり疲れちゃったな」なんて上目使いで可愛くぼやくものだから、仕方なく同行させた。
別に『しょうがないな、じゃあ朝からデート気分でイチャイチャするか』なんて思ったわけではない。絶対ない。
採集、掃除、休憩の振り分けを任されているのは日向だ。いいように立場を利用しただなんて思われては困る。
とにかくいつも以上にみなぎるヤル気で挑んだ海での採集。だが、日向はちょっと拗ねていた。
「海風が気持ちいいね、日向クン」
「…………」
「何事もなく無事に素材も集められたし、足を引っ張るようなことにならなくてよかったよ」
「…………」
「さて、この後はどうしようか。日向クンは誰かと過ごす予定は……ねぇ、聞いてる?」
「…………」
大体の素材集めが済んだあと、二人はヤシの木の木陰に座って休憩を取っていた。狛枝の言う通り海風は気持ちがよかったが、日向の心はささくれていた。
ついつい、八つ当たりめいた無視を決め込む日向は、ずっと不満顔でどこまでも続く美しい海を眺めている。
「ねぇ、日向クンってば。もしかして怒ってる?」
「……別に」
「でも……さっきからずっとお話してくれないよ」
横目で見やった狛枝は、しょんぼりと項垂れて悲しげに睫毛を伏せていた。
「そうだよね、ボクみたいな無価値なゴミ屑が掃除より採集の方がいいなんて、我儘で生意気にも程があるってもんだよね。無理を言ってしまってごめん」
「あのなぁ……」
子供じみた振る舞いを棚に上げて、日向は相変わらずの卑屈ぶりにウンザリとした溜息を吐いた。
「だから、怒ってないって」
「……でも」
「怒ってないったら怒ってない。何度も言わせるな」
「ならよかった……」
ほう、と息を吐き出しながら、狛枝は手の平で胸を撫で下ろしている。
確かに日向は『あること』によって不貞腐れていたが、それは別に狛枝が悪いわけじゃない。ただちょっと、面白くなかっただけだ。
日向は出掛けに言われた西園寺の言葉を思い出していた。狛枝と一緒にコテージを出たところで遭遇した彼女は、並んでいる二人を見てクスクスと馬鹿にしたように笑ってこう言った。
『日向おにぃと狛枝おにぃが並んでるのを見ると、なんか可哀想な気持ちになるよねー。日向おにぃのモブ顔がますます引き立っちゃってさー』
その時は「悪かったな」の一言で済ませる程度で気にはしなかった。西園寺の人をコケにしたような態度や毒舌にもそろそろ慣れてきたし、自分に大した個性がないことも自覚していた。
ましてやこの狛枝と並べば、さらに地味さに磨きがかかって見えても仕方のないことだと。
しかし。
一緒に海辺で採集をしているうちに、だんだん響いてきた。
青く澄んだ水面が太陽と共にキラキラと輝く中で、真珠を見つけたと言っては喜ぶ狛枝の笑顔は、無邪気な子供のように純粋で、可愛くて、綺麗だった。悪戯な南国の風が、不規則に揺らめく炎のような髪を淡く揺らす度に、日向は彼を正面から見られなくなっていった。
(不釣合い、って……言われたようなもんだしな)
狛枝は自分のことをゴミだの虫だのと言って自虐するが、そんな彼自身の姿形は、まるで精巧に作られた人形のように美しく整っている。惚れた贔屓目を差し引いたとしても、それは絶対的な事実だった。
思えばどうして狛枝は、こんな何の個性もない退屈な自分を慕ってくれるのだろう。ちょっと声をかけたりするだけで嬉しそうに笑って、まるで忙しなく尻尾を振る犬のように大喜びしてくれる。
ふと、別に誰だって構わないのではないか、なんて考えが浮かんだ。構ってくれる相手なら、狛枝は誰にでも尻尾を振ってついて行くのではないか。
後ろ向きな思考に、日向の心は荒んでいった。それは想い人である狛枝に直接向けられて、つい無視なんて馬鹿げた形でそっぽを向いてしまった。
情けなさが込み上げて、日向は素直に狛枝に頭を下げる。
「悪かったよ。ガキみたいな真似して」
「うん?」
「出掛けに西園寺に笑われただろ? お前を見てたら、なんか悔しくなってきてさ。言われたって仕方ないことなのに、笑っちゃうよな」
だからごめん、と言ってもう一度頭を下げる日向の顔を、狛枝は不思議そうに覗きこんでくる。
丸い瞳はこの島の青空とは対照的に、雨雲のような不思議な色をしていた。丸くて綺麗で、真珠みたいだな、なんてぼんやり思う。
「日向クンが何を気にしてるのか、ボクにはよくわからないな」
狛枝は腕を組み、うーんと考え込むような素振りを見せる。
「だって、あれってこういうことでしょ? ボクなんかが日向クンのように希望に満ち溢れた存在と並んで歩くなんて、蛆虫がアゲハ蝶に寄生しようとしているようなものだって」
「はい?」
「流石は西園寺さんだね。それをハッキリとは言わず、オブラートに包んでくれるなんて。彼女は超高校級の日本舞踊家であると同時に、超高校級の聖母でもあったんだね」
「???」
なんだか話が噛み合っていないというか、認識にズレが生じているような気がする。あれは日向を貶める言葉であり、突き詰めれば狛枝の容姿に対する賛辞ともとれるのだが。
「なぁ狛枝。お前、何か勘違いしてないか?」
「え? そう?」
「モブ顔って言われたのは俺の方だぞ? お前の引き立て役って言われたようなもんだぞ?」
「引き立て役!? 何を言ってるんだい日向クンは!? それはボクにこそ相応しい役目だよ!!」
それまではふわふわと笑っていた狛枝が、急に眉を吊り上げて怒り出した。そこまで熱くなって言うことでもない気がしつつ、やっぱり彼は何か勘違いしているらしい。
「落ち着けって。お前、西園寺の言葉をもう一度ちゃんと思い出してみろよ」
「うーん……そうは言ってもねぇ。そもそもね、ボクはそのモブっていう言葉の意味がよくわかってないんだよね」
「マジでか?」
「マジだよ?」
なるほど、そういうことだったのか。
日向は狛枝に『モブ』という言葉の意味を丁寧に教えてやった。
もし狛枝が中心人物のゲームや漫画があったとすれば、自分はその他大勢の通行人のようなものだ。サブキャラ以下の、名もなき背景のような存在だと。
「それってつまり、ドラマでいうところのエキストラみたいなもの?」
「そう、それだ」
「納得がいかないなぁ」
ムッと眉間に皺を寄せながら、狛枝が首を傾げた。
「日向クンはモブでもエキストラでもないじゃないか」
「はは、いいよ。気を使わなくても」
「ボクごときが日向クンに気を使うのは当たり前のことだけどね、これはそんなんじゃないよ。心からの言葉だもん」
「だからいいって。俺は自分がお前より見劣りしてるって、一応は自覚してるんだ」
つい臍を曲げてしまったけれど、それは事実だ。
けれど狛枝は不満そうに唇を尖らせたままだった。
「見劣りって……一体どこが?」
「全部だろ。顔の作りからしてさ。お前ってスタイルもいいしな」
「ボクみたいなゴミ虫を褒めてくれるのは光栄だけど、こんなヒョロヒョロのもやし体系だよ?」
「そういうのをモデル体型っていうんだぞ。女子にモテそうじゃないか。あと、俺より背も高い」
「そんなの嬉しくないし、1cm差なんて、あってないようなものじゃない?」
「俺的にその差はデカいんだ。足だってお前の方が長いよな。それこそ、1cmしか差がないのに悔しいだろ」
「……日向クンって、実は劣等感の塊だったんだね?」
「……悪かったな」
改めて指摘されると、ますます情けなくなってくる。
別に自分のことを標準以下とまでは思わないけれど、狛枝の卑屈癖がうつってしまったのだろうか。
これはよくない。このままでは空気が悪くなる一方だろうし、頭を冷やすためにも、今日のところは大人しくコテージに戻って休んだ方がよさそうだ。
「悪い、今の忘れてく……お、おい? 狛枝?」
てっきり呆れ顔をしているとばかり思っていた狛枝が、俯いて唇を噛み締めながら、頬を赤らめている。
これは一体どういう反応なのかと、日向はその表情をまじまじと見つめた。
「日向クンは……わかってないよ……」
「な、何がだ……?」
「日向クンがボクより劣っているわけがないんだ。顔だって、日向クンはそんな風に言うけど、ボクから見れば凄く精悍で男らしくて、憧れちゃうよ」
咄嗟に言葉がでなかった。
こんな風に言われたのは初めてで、なんだかとてつもなく座りが悪い。貶められる方がマシかもしれないとすら思った。
「それは、言いすぎだぞ……」
「まだ抑えてる方だよ。日向クンはボクとは違って胸板だって厚いし、逞しくてかっこいいよ。女の子は、日向クンみたいな人の方が好きだと思うな。その、ボクだって……」
「も、モジモジしながら言うなよ……照れるだろ……」
「ご、ごめん……」
狛枝が両手を胸の前で握ったり擦り合わせたりしながら頬を染めるものだから、こちらまで恥ずかしくなってきてしまう。
お互いが顔を真っ赤にしながら黙りこくって、沈黙が流れる。ここからどういう流れに展開させればいいのかと迷う日向より先に、狛枝がわざとらしいくらいはしゃいだ声を出した。
「あ、あのね! それに日向クンはボクよりアソコも大きいよね!!」
「はッ、はあぁッ!? お、前、昼間から何言ってるんだ!?」
「だってこれって男にとっては何よりも重大なことだと思うんだ!」
目を輝かせながら宣言されても困る。確かにそうかもしれないが、それはそれで少し情けないような、嬉しいような。
「べ、別にそんな大差ないだろ……」
赤いままの頬で目を泳がせる日向に、狛枝は勢いよく首を左右に振った。
「大ありだよ! 日向クンのは太さや勃起力が違うよ! 持続力も凄いし陰毛も濃くて、まさに男根って感じの雄々しさだね!!」
「うあああやめろ! この南国の景色と太陽の下で声高らかに言うのはやめろ! あと、お前のその顔で勃起とか陰毛とか男根とか聞きたくないぞ!!」
「ちんぽとかチン毛って言った方がよかったのかな……」
「そういう問題じゃないっていうかもっと駄目だ!!」
「難しいなぁ日向クンは……」
お前に夢を見ちゃってるんだよ悪いか……と現実に直面した日向が頭を抱えていると、狛枝がまたしても「あ!」と明るい声を上げた。
「今度はなんだ……」
「見て見て日向クン、蟹だよ」
狛枝が指をさしている方へ視線を下向けると、手の届く位置にジャバ蟹がゆったりと歩いている。
そんなことかとホッとしつつ、必要な素材でもあるし、余ったら余ったで食料にもなるため、せっかくだから捕まえるかと日向が手を伸ばすより先に、身を乗り出した狛枝がそっと人差し指でつつこうとした。
「こうやって眺めると結構可愛いね」
だがその瞬間、生命の危機を察知したのか蟹が鋭い爪を振りかざそうとした。
「危ない!」
「わっ」
日向は咄嗟に狛枝の手首を掴んで蟹から遠ざけていた。
狛枝はどちらかといえば日向の反応に驚いたようで、目を丸くしながら「びっくりしたぁ」と情けない声をあげる。それからすぐに、何かに気づいたように逆に日向の手首を取った。
「急に手を出したら危ないだろ……って、なんだ? 俺の手がどうかしたか?」
「日向クン日向クン、手、ちゃんと開いて。ジャンケンする時みたいに」
「なんなんだよ」
不思議に思いながらも言う通りに掴まれている右手をパーの形に開いた。するとそこに、狛枝が同じように開いた左手の平をぴったりと合わせてくる。
「あはっ! ほら見て。日向クンの手、ボクの手よりおっきい」
「ああ、本当だな」
言われてみればそうかもしれない。
狛枝の白魚のような手に比べると、日向の手の方が厚みがあってゴツゴツしている。
狛枝はなぜか砂糖菓子が蕩けるような甘い笑みを浮かべて、あざといとすら思える仕草で小首を傾げた。
「日向クンの手、ボク好きだな。大きいだけじゃなく、優しくてあったかくて……ほら、この指の節くれだってる感じも凄くセクシーだと思わない?」
「ば、バカ……反応に困るようなこと言うな」
「やっぱりボクは日向クンには敵わないね。負けっぱなしだよ」
「……お前な」
たかが手の大きさくらいでと、呆れた素振りを見せながらも悪い気はしない。むしろこんな可愛い笑顔で可愛いことを言われてしまったら、嬉しくならないわけがなかった。
それでもなんだか照れくさくて、つい怒ったような表情でそっぽを向いてしまう。けれど、横目でしっかりと視界に収めている狛枝の左手には、希望ヶ峰の指輪がはめられていた。もちろん、薬指に。
合わさったままの手の平が汗ばんでいくのを感じながら、日向は胸の中で張り裂けそうなほど膨らんでいく愛しさを感じた。
指の隙間に自分の指をはめるようにして握ってやると、狛枝はくすぐったそうに肩を竦めながら頬を染めて、同じように握り返してくる。
(誰がなんと言おうと、俺はこいつに惚れちゃったんだもんな)
日向は狛枝に恋をしてしまった。狛枝も同じ気持ちでいてくれる。永遠を誓う場所で光輝く指輪が何よりの証拠で、狛枝にとっての『特別』であり続けることができるなら、それで十分だと気がついた。
「あのさ」
「なぁに? 日向クン」
「好きだぞ。狛枝」
「ッ!」
真っ直ぐに目を見て言いきった日向に、狛枝はただでさえ赤かった顔を耳まで赤くして、恥ずかしそうに俯いた。
平気な顔で臭い台詞も下品な台詞も吐くくせに、いざとなるとこんな反応を見せるのは反則だ。
「ぼ、ボクも……」
蚊の鳴くような声で紡がれた「大好き」という言葉が、日向の心をどうしようもなくくすぐるから。
(ああ、クソ!)
南国の風に煽られるまま握り合った手に力を込めて、日向は狛枝を引き寄せる。
そして俯いたまま噛み締められた唇に目掛けて。
日向は下から掬い上げるようにしながら、少しだけ強引なキスをした。
←戻る ・ Wavebox👏
唇を吸われるだけで眩暈がしていた。
擦れ合う舌と舌が鈍い水音を立てる度に、皮膚の内側をチクチクとした小さな電流が駆け抜けるようだった。
ベッドシーツを爪先で引っ掻きながら、狛枝は無意識に身を捩る。組み敷いてくる日向の身体は熱く、そして存外、逞しい。
「は、ぅ……んぅ……ッ」
角度を変えながら執拗に唇を貪られる合間に、甘ったるい呻きが零れるのを抑えきれない。飲み込めないまま溜まるばかりの二人分の唾液が、口の端を伝った。
重い瞼を薄らとこじ開けた視界は、ぼんやりと滲んでいた。日向の睫毛が微かに震えているが見えて、締め付けられるように胸が疼いた。
真っ昼間のコテージは窓から差し込む陽光に明るく照らされ、ゆったりとした時の流れが風に乗ってカーテンを揺らしている。
こんな時間に何をしてるんだろうと思うほど、背徳的な逸楽に沈まんとする感情を制御できない。
遠慮がちに肩に這わせるだけだった両手を、思い切って日向の首に回してみる。振り払われたらどうしよう、という不安を笑い飛ばすようにして、与えられる口付けが深くなった。
呼吸はますます苦しくなったけれど、拒まれないその事実だけが狛枝の胸にじんわりと沁み込むような歓喜をもたらした。
(このまま、死んじゃうかも……)
あるいは、それでもいいのかもしれない、なんて。
遠のいていく意識に身を委ねる狛枝の頬を、温かな指がスルリと撫でた。糸を引きながら離れた唇の名残惜しさに、掠れた熱い吐息が零れる。
「寝るなよ、お前」
見上げれば、少し不貞腐れたような日向の顔があった。ハッとして、すぐに首を左右に振った。
「ね、寝ないよ。ただちょっとふわふわしちゃっただけで」
「ふぅん。ならいいけど。退屈じゃないなら」
「退屈なんてとんでもない……!」
そんなものを感じる余裕が、一体どこにあったというのか。
むしろそれはこちらの台詞でもある。真っ昼間であろうがなんであろうが、日向が求めてくれるならこんなに嬉しいことはないというのに。
本当は、いつも誘ってくれる日向を自分から誘ってみるつもりでここに来た。すでに誰かと出かけているかもしれなかったし、自分なんかが声をかけるなんておこがましいことだと思いつつ、勇気を振り絞ったのだ。
そんな狛枝を、日向は笑顔で迎えてくれた。今ちょうど誘いに行こうとしていたところなんだ、という言葉のオマケ付きで。
夢でも見ているんじゃないかと思うほど嬉しくて、全身の穴という穴から色んな液体が噴出しそうだった。
グルグルと目を回す狛枝は、落ち着けよと宥められつつ今日の行先について相談をした。が、気づいたらなんとなくいい雰囲気になっていて、先に手を伸ばしてきたのは日向の方だった。
「ボクは、日向クンと一緒にいられるだけで……その……」
こんな風に押し倒される形で密着していると、何をどう言っていいのか分からなくなる。日向の顔が驚くほど近くにあって、今の今までキスをしていたというのに、恥ずかしくて見ていられなくなってしまう。
つい視線を背けてしまった狛枝の前髪が、日向の手によって掻き上げられる。普段は隠れている額に口付けられて、ビクンと肩が跳ねてしまった。
「わ、ぁ……!」
「そういう反応されるとさ……なんていうか、こう」
我慢できなくなるんだよな、という、まだ十分に少年らしさの残る声が耳元に押し付けられた。それだけで身体が火を噴きそうなほど熱くなる。
何か言わなくてはいけないような気がして、けれど何も返すべき言葉が見つからない。あったとしても、耳たぶに吸い付く湿った感触にあられもない悲鳴しか上げられない狛枝に、まともな言葉を紡ぐだけの余裕などなかった。
「ひゃ……ッ、ぁ、んッ!」
ちゅう、という音が鼓膜を震わせる。悪戯な舌が耳穴に押し入り、ぬめぬめと蠢いた。咄嗟に肩を竦め、厚い胸板を押し返そうとしても全く力が出ない。
日向は狛枝の弱々しい抵抗など全く意に介さず、執拗に耳朶に舌を這わせながらシャツの裾から手を差し込んできた。
下から上へと脇腹を撫でる手が、シャツを押し上げながらやがて胸へと這わされる。陽の光の下に二つの乳首が晒されて、狛枝は羞恥に身を染め上げることしかできなかった。
別に、見られたからといってどうということはない。でも、例えば海水浴をするとか、プールで遊ぶとか、これはそういう意味で人目に触れるのとは訳が違う。この先なにをするのか分かっているからこその、どうしようもない羞恥心だった。
「あっ、ぅ……!」
日向の指が、まだ柔らかいままの胸の一点に触れる。緩く乳輪をなぞられ、親指と人差し指で扱くようにクリクリと刺激されると、痛いようなむず痒いような不思議な感覚が腰のあたりから這い上がって来た。
狛枝が嫌々と首を振ると、耳から離れた日向の唇がもう片方の乳首に落とされる。最初は軽く吸い付き、それから緩く舌で転がされて。両方を万遍なく刺激されているうちに、胸の二点はぷっくりと腫れあがり、赤い果実のように色づいていく。
脳みそがどろどろに蕩けてしまいそうだと思った。
日向に触れられているというだけも、どうにかなってしまいそうなのに。
「ひな、た、ク……っ、も、そこ……ッ」
嫌だ、なんてハッキリと口にするのは、あまりにもおこがましいことだ。こんなゴミ虫のような自分が、そんな生意気なことは絶対に言えない。本当に嫌なわけでは決してないし、本音ではもっとして欲しいとも思っている。でも、このままでは本当に気が狂ってしまいそうな気もして、もう何がなんだか分からない。
ただ確かなのは、こんな風に感じ入っているのは自分だけ、ということ。
(ボクも……ボクも何かしなきゃ……このままじゃ日向クンが退屈しちゃう)
狛枝に緩く肩を押された日向がようやく顔を上げる。なぜか少し不満そうな目をしていて、やっぱり飽きかけていたんだと察する。
「なんだよ」
「ぁ、日向クン……ごめん。ボクなんかが、一人で気持ちよくなって……」
狛枝は震える指先で日向のワイシャツのネクタイに手をかけた。必死で解こうとするが、うまく力が入らない。余計に絡まるばかりのそれを見て、日向がひとつ溜息を零した。
「ご、ごめ」
「あのさ、お前って男のくせに、男のことなんにも分かってないんだよな」
「え、ぇ……?」
「お前だけじゃないよ。俺だって気持ちいいぞ」
目を丸くするばかりの狛枝に、頬を染めた日向がぶっきらぼうに言う。
「俺は俺がしたいことをさせてもらってるだけだし。それにさ、その……あぁ、くそ!」
日向は苛立ったように声を荒げると、上体を起こして狛枝を跨ぐように膝立ちになった。
自らネクタイを外し、ボタンが弾け飛ぶんじゃないかと心配になるくらい強引な手つきでシャツを脱ぐと、まとめてベッドの下に放り投げる。健康的に焼けた肌と、バランスよく引き伸ばされた筋肉が薄らと隆起する様が、昼間の明るさの中で眩しいくらいだった。
一連の動作と、幼い顔つきの割に逞しい身体をした日向に目を奪われていた狛枝は、射るような双眸に見下ろされて身を強張らせる。
「俺は狛枝が素直に感じてくれてるのが嬉しいんだ。声とか……可愛いし」
最後の一言は、あまりにもボソリと呟かれたせいでハッキリとは聞き取れなかった。
でも、少なくとも日向は退屈なんかしていなかった。それが分かっただけでも嬉しくて、涙が出そうだった。
シャイな日向は赤くなった顔を隠すようにして、再び覆いかぶさって来た。
すぐにまた何かしらされるのかと緊張に気を張り詰めていた狛枝だったが、ぎゅうと強く抱きしめられるだけで日向が動き出す様子はなかった。
心臓が口から飛び出しそうなくらいバクバクと音を立てていた。こうして肌を重ねるのは初めてのことではないのに、いつだって目が回りそうなくらい緊張してしまう。今日なんか特に、お互いの顔がよく見える分、普段の比ではなかった。だけど、それと重なるように同じくらい大きな心音を肌に感じた。
(日向クンも……凄くドキドキしてる……)
先刻、日向に言われた言葉を思い出す。
男のくせに、男の気持ちが分かっていないと。なら、今なにをどう言えば日向は喜んでくれるだろう。いつもの調子で自虐的なことを言えば、きっと怒らせてしまうに違いない。
狛枝は知らず知らずのうちにシーツを握りしめていた両手を、そっと日向の背に回した。ほんのりと汗ばむ素肌は手の平に吸い付くようで、多分きっと、今なら何を言っても拒まれないような、そんな勇気を与えてくれる気がした。
「日向、クン」
カラカラに乾いた喉で、か細く名前を呼んでみる。ん、と吐息混じりに返事を寄越す日向の耳元に、さっき彼がそうしたように唇を押し付けた。
「あのね、ボクのこと……滅茶苦茶に、してくれる……?」
日向の身体が一気に強張るのを感じた。
果たしてこの台詞で合っていただろうか。またお前は分かってない、なんて言われてしまうんだろうか。
不安に押し潰されそうになっている狛枝の耳元で、日向が大きく喉を鳴らす音が聞こえた。
それからの日向は、なんというか、それはもう激しかった。
噛んだり舐めたり、吸ったり擦ったり。身体中どこもかしこもいいようにされて、もはや今がまだ日中だとか、誰が通りかかるか分からないとか、そんなことを気にする余裕もなくただ身悶えて喘ぐしかできなかった。
胸の上までたくし上げられたシャツ以外、他は全て丸裸に剥かれても、恥ずかしがる暇すら与えてもらえないまま、心も身体もドロドロに溶かされてしまった。
「も、ッ、だ、め! ひにゃ、た、ク……ッ」
うつ伏せでシーツに縋りつき、膝を立てて尻だけを高く突き出す狛枝が、日向の節くれだった指を三本も飲み込むようになった頃。
もう舌さえも回らなくなった情けない声に、日向が小さく吹き出すのが分かった。
「なんだよ、ひにゃたクンって」
「あ、ぁ、あ……ッ、んっ、んうぅ……!」
三本の指が器用に中を広げながら引き抜かれ、背筋を駆け抜ける快感に腰が跳ねる。開きっぱなしの口端からは次から次へとだらしなく唾液が零れ落ち、馬鹿になってしまった涙腺からは生理的な涙が後を絶たない。
腹につくほど形を変えた性器も、先端から止めどなく先走りの蜜を振りまいていた。
狛枝はシーツを掻き毟るように乱しながら、無理に首を捻って背後の日向に顔を向ける。
「も、ぉ、ダメ、だよ……ッ、入れ、て! ひにゃた、クンの……ッ!」
これ以上続けられたら、本当にどうにかなってしまう。その前に、日向のものが欲しかった。じゃなきゃ、本当に一人で楽しむだけ楽しんで終わってしまいそうな気がする。日向にもよくなって欲しい。こんなちっぽけな身体でも、許されるなら。
狛枝の反応を見て、日向も先刻からずっと息を荒げていた。きっと彼もそうしたいと思ってくれているに違いない。狛枝は両腕を後方に伸ばし、薄い尻の肉にそれぞれ手を這わせると、これ以上ないくらい割開いて幾度も腰を捩った。醜い姿だと理解はしていても、自分の痴態を止める術がない。
「おねが、い……! ね、ボクの、ここ、使って……!」
「ッ……!」
「緩くて、あんまり、よくないかもしれないけど……いっぱい使って、好きにして、いいから……ッ」
「……あのなぁ!」
声を荒げた日向に強引に身体を引っくり返される。あまりに唐突で、舌を噛みそうになりながらぎゅっと目を閉じた。
また間違ったことを言ってしまったのかと、恐る恐る瞼を開けて見上げれば、案の定少し怒ったような顔をした日向と至近距離で目が合った。
「ぁ、あ……ごめ、ボク……」
「使えとか緩いとか、そういう言い方するなよな!」
「だ、だって、ボクなんか……」
「それ以上言ったら本気で怒るぞ!」
「お、怒らないで……嫌いに……」
「なるわけないだろ! バカ!」
やっぱり怒らせてしまったのだと、狛枝はせめてこれ以上日向の気を損ねまいと震える唇を噛み締めた。
日向は険しい表情のまま狛枝の両足を割り開くと、焦ったような手つきで自らの前を寛げる。すっかり見慣れた柄の下着をほんの僅かに下げただけで、反り返った性器が勢いよく飛び出してきた。
明るい光の下で見るそれは、思っていたよりも大きくて逞しかった。思わず瞬きも忘れて息を飲む狛枝に見せつけるように、日向はそれを右手に持って幾度か扱く。
こんな立派なブツが、つい最近まで未使用のまま眠らされていたなんて。
「お前のことが好きだから、こんな風になるんだからな」
「ッ……!」
脈打つ屹立が、散々指を咥えこんで慣らされた尻穴にぐっと押し付けられる。貫かれる衝撃を知っている身体が、無意識に強張った。
握りしめた両手を胸の上で震わせる狛枝の顔をチラリと見て、日向はゆっくりとその先端を潜り込ませてくる。
「ッ、ぅ……んぐ、ぅ……!」
狛枝は唇を噛み締めたまま、その衝撃に耐えた。
どれほど慣らされたとはいえ、そこは本来なら受け入れるための場所ではない。かろうじて痛みはないが、圧迫感に息が詰まる。
日向の手が小刻みに震える狛枝の両膝をそれぞれ掴んだ。彼はこちらの表情や反応を注意深く窺いながら腰を進め、時折「大丈夫か?」と吐息混じりに確認してくる。
狛枝は握ったままの拳を口元に押し当て、何度も首を縦に振った。構わず一気に貫いてくれても構わないのに、額に大粒の汗を滲ませ、堪えるように奥歯を噛み締めながらも労わろうとする日向の気遣いに心が震える。
普段は夜のコテージで、灯りもつけずに交わることが多いから。こんな風に苦しそうな顔をしているなんて、知らなかった。
「ッ、お、まえ……そんな、締めるなって……っ」
「ひな、ッ、ぁ、ごめ……ッ」
胸の疼きがそのまま身体の奥の強張りに繋がってしまった。無意識に力んでしまったせいか、締め付けの鋭さに日向が喉を唸らせる。
このままではきっと苦しいだけだ。肉棒はようやく半分ほどが収まった程度で、日向は一度動きを止めると大きく息ついて呼吸を整えはじめる。
こんなに身も心も蕩けきっているのに、どうしてこの身体は日向の形に馴染んでくれないのだろう。やっぱり自分は何をやってもダメな人間だ。ちょっと優しくされたぐらいで愛されているような気になって、結局は大好きな人の性欲すらまともに満たせない。
(日向クン……ごめん……ごめんね……。ボクなんかじゃキミを気持ちよくさせてあげられない……身体まで出来損ないだなんて、本当にボクはどこまでも絶望的で、ダニにも劣るゴミクズ人間だよ……)
「それは、違うぞ」
「え……?」
自分を責めるばかりの狛枝の心を読んだかのように、日向が否定の言葉を口にした。
そのまま両腕を取られ、首に回すように導かれる。されるがまま素直に抱き付くと、日向は満足そうに微笑んで狛枝の涙や汗に濡れた頬に小さな口付けを落としてきた。そして。
「凪斗」
「ッ……!?」
耳元で、名前を呼ばれた。狛枝ではなく、凪斗、と。
それは魔法のように狛枝の心を甘く蕩かした。身体から一気に力が抜けて、何も考えられなくなってしまう。日向の首にしがみついていなければ、このままふわふわとどこか遠くへ飛んで行ってしまいそうだった。
酩酊状態。まさに、そんな感じ。ずるい。こんなの、反則だ。
好機とばかりに日向の腕が狛枝の腰を抱く。ぐ、ぐ、と身体の奥深くまで熱の塊が押し入って来る感覚に、狛枝は甲高い子犬のような悲鳴を上げる。
「ひぁ、アッ、ああぁ――……ッ!!」
「う、ぁ……!」
日向の甘い呻きが心地いい。身体の隅々まで、余すところなく満たされたような気がした。ギリギリまで伸ばされた襞の感覚に、奥まった場所が痛いほど痺れていた。
自分でも触れたことのないような場所で、日向自身が脈打っている。二人の身体に挟まれるようにして天を仰ぐ狛枝自身も、断続的にビクビクと小さく跳ねていた。
日向は狛枝をきつく抱いて、ゆっくりと小刻みに腰を動かし始めた。その度に狛枝の身体がカクンカクンと上下に揺れる。
「あ、あッ……ひぅ、アっ……ん、ぅ!」
内臓を直接押し上げられているような圧迫感と、内壁を強く擦られる快感とで、溺れたみたいに息が苦しい。
徐々に早まる動きの激しさにベッドが軋む音を聞きながら、あまりにも刺激的すぎる律動に嫌々と首を振る。日向の唇が薄い首筋の皮膚を痛いほど吸い上げ、狛枝はその太く硬い髪に指を通してぐしゃぐしゃと乱しながらこれ以上ないくらい身悶えた。
突き上げられる度に頭の奥が痺れて堪らない。
「ひな、ぁッ、た、ク……ッ、んぅ、ぁ、きも、ち、ぃ……ッ」
「俺も……ッ、俺も、凄くいい……狛枝……!」
「ね、ぇ! 好きッ、て……ッ、ん、言って、い、ぃ?」
「ッ、こ、の……バカ……ッ」
身体中を真っ赤に染め上げた日向の、いちいち聞くなよ、という声を聞いた途端に、狛枝は壊れたオモチャのように「好き」という言葉を繰り返した。
好き、好き、大好き。もっと、もっと。そう言って日向と同じタイミングで腰を跳ねるように動かした。日向の呼吸がどんどん荒くなる。はち切れそうなほど膨らんだ狛枝自身も、律動に合わせて揺れながら涎を垂らし、ぬるぬると脇腹を滑り落ちていく。
「もっ、ア、やぁ、あ……! イッ、く! いく、ボク、もぉ……!!」
「狛枝、一緒に……ッ」
目の前で幾つもの白い火花が飛び散るのが見えた気がした。
ビン、と爪先を張り、声にならない悲鳴を上げて狛枝が先に射精した。ひ、ひ、と脆弱な呼吸を繰り返しながら激しく身を震わせる狛枝の中から、日向の性器が一気に引き抜かれる。
「ぅ、ッ、ぁ……!」
低い呻きと共に、日向が吐き出した白濁が狛枝の腹に飛び散った。二人分の精液が溶けるように混ざり合う。
断続的な痙攣を繰り返したまま、絶頂の余韻から抜け出せない狛枝は倒れ込んできた日向の頬に自分の頬を擦りつける。途切れそうな意識で無防備に甘える狛枝の耳に、日向の「好きだぞ」という声が柔らかく沁みこんだ。
窓から差し込む光は昼間のものから夕焼け色に変わっていた。
あのあとも散々戯れて、何度か繋がって、今は二人並んでベッドにダラダラと寝そべっている。シャワーを浴びたい欲求はあるものの、下半身の感覚がすっかり麻痺して動くのがひたすら億劫だった。この調子では、夕食をとりに行けるかどうかも微妙なところだ。
「生きてるか?」
日向が軽く半身を起し、気遣わしげに顔を覗き込んでくる。狛枝はまだどこかぼんやりとした頭で、微かに笑うと頷いた。
「なんとか大丈夫、かな?」
「……悪かったよ」
「?」
狛枝が小首を傾げると、日向は照れ臭そうに頬を指先で幾度か引っ掻いた。
「いや……結局どこにも行けなかったしさ。先に手を出したのも俺だし」
それは違うよと、狛枝は心の中でポツリと吐き出す。
拒まなかったのは自分だし、結局のところ日向と一緒にいられるなら、どこだって構わないのだから。ただ。
「なんかボクたち、凄く爛れた大人になってしまったような気がするね」
何気なく放った言葉に、日向が軽く吹き出した。
「ッ、た、爛れたって、お前な……」
「だってお昼だよ? みんなが健全に外で過ごしてるのに、ボク達ときたら」
「わ、分かった。分かったよ。だから俺が悪かったって言ってるだろ」
「謝っちゃやだよ。ボクは凄く嬉しかったんだから」
普段は見れないものが、色々と見れたのだから。
日向がどんな顔をして、反応をして、労わってくれていたかを存分に知ることができた。
顔を赤くした日向は、口の中でごにょごにょと何かを言いかけて、やがて諦めたようにシーツに深く沈みこんだ。
ぴったりと身を寄せ合って、そのまま何気ない沈黙が流れる。心地よい静けさの中、狛枝はどんどん瞼が重くなっていくのを感じた。
「あのさ」
気づけば日向の指先が狛枝の髪を緩く弄んでいる。なんだかくすぐったくて、小さく肩を竦めた。
「明日は、走るか。砂浜で」
それはちょっと嫌かな、なんて思ったけれど、それで日向が今日の帳尻を合わせたいなら文句を言うつもりはなかった。
いつもなら、やんわりと断っているところだけど。
「あは、いいね。それ、凄く健全だよ」
何より、明日も一緒に過ごせることを彼が約束してくれたことが、とても嬉しい。
「誘いに行くからな。待ってろよ」
「ん、待ってる」
蕩けるような安堵感に身を任せて、狛枝は微笑みながらまどろみに落ちていった。
←戻る ・ Wavebox👏
擦れ合う舌と舌が鈍い水音を立てる度に、皮膚の内側をチクチクとした小さな電流が駆け抜けるようだった。
ベッドシーツを爪先で引っ掻きながら、狛枝は無意識に身を捩る。組み敷いてくる日向の身体は熱く、そして存外、逞しい。
「は、ぅ……んぅ……ッ」
角度を変えながら執拗に唇を貪られる合間に、甘ったるい呻きが零れるのを抑えきれない。飲み込めないまま溜まるばかりの二人分の唾液が、口の端を伝った。
重い瞼を薄らとこじ開けた視界は、ぼんやりと滲んでいた。日向の睫毛が微かに震えているが見えて、締め付けられるように胸が疼いた。
真っ昼間のコテージは窓から差し込む陽光に明るく照らされ、ゆったりとした時の流れが風に乗ってカーテンを揺らしている。
こんな時間に何をしてるんだろうと思うほど、背徳的な逸楽に沈まんとする感情を制御できない。
遠慮がちに肩に這わせるだけだった両手を、思い切って日向の首に回してみる。振り払われたらどうしよう、という不安を笑い飛ばすようにして、与えられる口付けが深くなった。
呼吸はますます苦しくなったけれど、拒まれないその事実だけが狛枝の胸にじんわりと沁み込むような歓喜をもたらした。
(このまま、死んじゃうかも……)
あるいは、それでもいいのかもしれない、なんて。
遠のいていく意識に身を委ねる狛枝の頬を、温かな指がスルリと撫でた。糸を引きながら離れた唇の名残惜しさに、掠れた熱い吐息が零れる。
「寝るなよ、お前」
見上げれば、少し不貞腐れたような日向の顔があった。ハッとして、すぐに首を左右に振った。
「ね、寝ないよ。ただちょっとふわふわしちゃっただけで」
「ふぅん。ならいいけど。退屈じゃないなら」
「退屈なんてとんでもない……!」
そんなものを感じる余裕が、一体どこにあったというのか。
むしろそれはこちらの台詞でもある。真っ昼間であろうがなんであろうが、日向が求めてくれるならこんなに嬉しいことはないというのに。
本当は、いつも誘ってくれる日向を自分から誘ってみるつもりでここに来た。すでに誰かと出かけているかもしれなかったし、自分なんかが声をかけるなんておこがましいことだと思いつつ、勇気を振り絞ったのだ。
そんな狛枝を、日向は笑顔で迎えてくれた。今ちょうど誘いに行こうとしていたところなんだ、という言葉のオマケ付きで。
夢でも見ているんじゃないかと思うほど嬉しくて、全身の穴という穴から色んな液体が噴出しそうだった。
グルグルと目を回す狛枝は、落ち着けよと宥められつつ今日の行先について相談をした。が、気づいたらなんとなくいい雰囲気になっていて、先に手を伸ばしてきたのは日向の方だった。
「ボクは、日向クンと一緒にいられるだけで……その……」
こんな風に押し倒される形で密着していると、何をどう言っていいのか分からなくなる。日向の顔が驚くほど近くにあって、今の今までキスをしていたというのに、恥ずかしくて見ていられなくなってしまう。
つい視線を背けてしまった狛枝の前髪が、日向の手によって掻き上げられる。普段は隠れている額に口付けられて、ビクンと肩が跳ねてしまった。
「わ、ぁ……!」
「そういう反応されるとさ……なんていうか、こう」
我慢できなくなるんだよな、という、まだ十分に少年らしさの残る声が耳元に押し付けられた。それだけで身体が火を噴きそうなほど熱くなる。
何か言わなくてはいけないような気がして、けれど何も返すべき言葉が見つからない。あったとしても、耳たぶに吸い付く湿った感触にあられもない悲鳴しか上げられない狛枝に、まともな言葉を紡ぐだけの余裕などなかった。
「ひゃ……ッ、ぁ、んッ!」
ちゅう、という音が鼓膜を震わせる。悪戯な舌が耳穴に押し入り、ぬめぬめと蠢いた。咄嗟に肩を竦め、厚い胸板を押し返そうとしても全く力が出ない。
日向は狛枝の弱々しい抵抗など全く意に介さず、執拗に耳朶に舌を這わせながらシャツの裾から手を差し込んできた。
下から上へと脇腹を撫でる手が、シャツを押し上げながらやがて胸へと這わされる。陽の光の下に二つの乳首が晒されて、狛枝は羞恥に身を染め上げることしかできなかった。
別に、見られたからといってどうということはない。でも、例えば海水浴をするとか、プールで遊ぶとか、これはそういう意味で人目に触れるのとは訳が違う。この先なにをするのか分かっているからこその、どうしようもない羞恥心だった。
「あっ、ぅ……!」
日向の指が、まだ柔らかいままの胸の一点に触れる。緩く乳輪をなぞられ、親指と人差し指で扱くようにクリクリと刺激されると、痛いようなむず痒いような不思議な感覚が腰のあたりから這い上がって来た。
狛枝が嫌々と首を振ると、耳から離れた日向の唇がもう片方の乳首に落とされる。最初は軽く吸い付き、それから緩く舌で転がされて。両方を万遍なく刺激されているうちに、胸の二点はぷっくりと腫れあがり、赤い果実のように色づいていく。
脳みそがどろどろに蕩けてしまいそうだと思った。
日向に触れられているというだけも、どうにかなってしまいそうなのに。
「ひな、た、ク……っ、も、そこ……ッ」
嫌だ、なんてハッキリと口にするのは、あまりにもおこがましいことだ。こんなゴミ虫のような自分が、そんな生意気なことは絶対に言えない。本当に嫌なわけでは決してないし、本音ではもっとして欲しいとも思っている。でも、このままでは本当に気が狂ってしまいそうな気もして、もう何がなんだか分からない。
ただ確かなのは、こんな風に感じ入っているのは自分だけ、ということ。
(ボクも……ボクも何かしなきゃ……このままじゃ日向クンが退屈しちゃう)
狛枝に緩く肩を押された日向がようやく顔を上げる。なぜか少し不満そうな目をしていて、やっぱり飽きかけていたんだと察する。
「なんだよ」
「ぁ、日向クン……ごめん。ボクなんかが、一人で気持ちよくなって……」
狛枝は震える指先で日向のワイシャツのネクタイに手をかけた。必死で解こうとするが、うまく力が入らない。余計に絡まるばかりのそれを見て、日向がひとつ溜息を零した。
「ご、ごめ」
「あのさ、お前って男のくせに、男のことなんにも分かってないんだよな」
「え、ぇ……?」
「お前だけじゃないよ。俺だって気持ちいいぞ」
目を丸くするばかりの狛枝に、頬を染めた日向がぶっきらぼうに言う。
「俺は俺がしたいことをさせてもらってるだけだし。それにさ、その……あぁ、くそ!」
日向は苛立ったように声を荒げると、上体を起こして狛枝を跨ぐように膝立ちになった。
自らネクタイを外し、ボタンが弾け飛ぶんじゃないかと心配になるくらい強引な手つきでシャツを脱ぐと、まとめてベッドの下に放り投げる。健康的に焼けた肌と、バランスよく引き伸ばされた筋肉が薄らと隆起する様が、昼間の明るさの中で眩しいくらいだった。
一連の動作と、幼い顔つきの割に逞しい身体をした日向に目を奪われていた狛枝は、射るような双眸に見下ろされて身を強張らせる。
「俺は狛枝が素直に感じてくれてるのが嬉しいんだ。声とか……可愛いし」
最後の一言は、あまりにもボソリと呟かれたせいでハッキリとは聞き取れなかった。
でも、少なくとも日向は退屈なんかしていなかった。それが分かっただけでも嬉しくて、涙が出そうだった。
シャイな日向は赤くなった顔を隠すようにして、再び覆いかぶさって来た。
すぐにまた何かしらされるのかと緊張に気を張り詰めていた狛枝だったが、ぎゅうと強く抱きしめられるだけで日向が動き出す様子はなかった。
心臓が口から飛び出しそうなくらいバクバクと音を立てていた。こうして肌を重ねるのは初めてのことではないのに、いつだって目が回りそうなくらい緊張してしまう。今日なんか特に、お互いの顔がよく見える分、普段の比ではなかった。だけど、それと重なるように同じくらい大きな心音を肌に感じた。
(日向クンも……凄くドキドキしてる……)
先刻、日向に言われた言葉を思い出す。
男のくせに、男の気持ちが分かっていないと。なら、今なにをどう言えば日向は喜んでくれるだろう。いつもの調子で自虐的なことを言えば、きっと怒らせてしまうに違いない。
狛枝は知らず知らずのうちにシーツを握りしめていた両手を、そっと日向の背に回した。ほんのりと汗ばむ素肌は手の平に吸い付くようで、多分きっと、今なら何を言っても拒まれないような、そんな勇気を与えてくれる気がした。
「日向、クン」
カラカラに乾いた喉で、か細く名前を呼んでみる。ん、と吐息混じりに返事を寄越す日向の耳元に、さっき彼がそうしたように唇を押し付けた。
「あのね、ボクのこと……滅茶苦茶に、してくれる……?」
日向の身体が一気に強張るのを感じた。
果たしてこの台詞で合っていただろうか。またお前は分かってない、なんて言われてしまうんだろうか。
不安に押し潰されそうになっている狛枝の耳元で、日向が大きく喉を鳴らす音が聞こえた。
それからの日向は、なんというか、それはもう激しかった。
噛んだり舐めたり、吸ったり擦ったり。身体中どこもかしこもいいようにされて、もはや今がまだ日中だとか、誰が通りかかるか分からないとか、そんなことを気にする余裕もなくただ身悶えて喘ぐしかできなかった。
胸の上までたくし上げられたシャツ以外、他は全て丸裸に剥かれても、恥ずかしがる暇すら与えてもらえないまま、心も身体もドロドロに溶かされてしまった。
「も、ッ、だ、め! ひにゃ、た、ク……ッ」
うつ伏せでシーツに縋りつき、膝を立てて尻だけを高く突き出す狛枝が、日向の節くれだった指を三本も飲み込むようになった頃。
もう舌さえも回らなくなった情けない声に、日向が小さく吹き出すのが分かった。
「なんだよ、ひにゃたクンって」
「あ、ぁ、あ……ッ、んっ、んうぅ……!」
三本の指が器用に中を広げながら引き抜かれ、背筋を駆け抜ける快感に腰が跳ねる。開きっぱなしの口端からは次から次へとだらしなく唾液が零れ落ち、馬鹿になってしまった涙腺からは生理的な涙が後を絶たない。
腹につくほど形を変えた性器も、先端から止めどなく先走りの蜜を振りまいていた。
狛枝はシーツを掻き毟るように乱しながら、無理に首を捻って背後の日向に顔を向ける。
「も、ぉ、ダメ、だよ……ッ、入れ、て! ひにゃた、クンの……ッ!」
これ以上続けられたら、本当にどうにかなってしまう。その前に、日向のものが欲しかった。じゃなきゃ、本当に一人で楽しむだけ楽しんで終わってしまいそうな気がする。日向にもよくなって欲しい。こんなちっぽけな身体でも、許されるなら。
狛枝の反応を見て、日向も先刻からずっと息を荒げていた。きっと彼もそうしたいと思ってくれているに違いない。狛枝は両腕を後方に伸ばし、薄い尻の肉にそれぞれ手を這わせると、これ以上ないくらい割開いて幾度も腰を捩った。醜い姿だと理解はしていても、自分の痴態を止める術がない。
「おねが、い……! ね、ボクの、ここ、使って……!」
「ッ……!」
「緩くて、あんまり、よくないかもしれないけど……いっぱい使って、好きにして、いいから……ッ」
「……あのなぁ!」
声を荒げた日向に強引に身体を引っくり返される。あまりに唐突で、舌を噛みそうになりながらぎゅっと目を閉じた。
また間違ったことを言ってしまったのかと、恐る恐る瞼を開けて見上げれば、案の定少し怒ったような顔をした日向と至近距離で目が合った。
「ぁ、あ……ごめ、ボク……」
「使えとか緩いとか、そういう言い方するなよな!」
「だ、だって、ボクなんか……」
「それ以上言ったら本気で怒るぞ!」
「お、怒らないで……嫌いに……」
「なるわけないだろ! バカ!」
やっぱり怒らせてしまったのだと、狛枝はせめてこれ以上日向の気を損ねまいと震える唇を噛み締めた。
日向は険しい表情のまま狛枝の両足を割り開くと、焦ったような手つきで自らの前を寛げる。すっかり見慣れた柄の下着をほんの僅かに下げただけで、反り返った性器が勢いよく飛び出してきた。
明るい光の下で見るそれは、思っていたよりも大きくて逞しかった。思わず瞬きも忘れて息を飲む狛枝に見せつけるように、日向はそれを右手に持って幾度か扱く。
こんな立派なブツが、つい最近まで未使用のまま眠らされていたなんて。
「お前のことが好きだから、こんな風になるんだからな」
「ッ……!」
脈打つ屹立が、散々指を咥えこんで慣らされた尻穴にぐっと押し付けられる。貫かれる衝撃を知っている身体が、無意識に強張った。
握りしめた両手を胸の上で震わせる狛枝の顔をチラリと見て、日向はゆっくりとその先端を潜り込ませてくる。
「ッ、ぅ……んぐ、ぅ……!」
狛枝は唇を噛み締めたまま、その衝撃に耐えた。
どれほど慣らされたとはいえ、そこは本来なら受け入れるための場所ではない。かろうじて痛みはないが、圧迫感に息が詰まる。
日向の手が小刻みに震える狛枝の両膝をそれぞれ掴んだ。彼はこちらの表情や反応を注意深く窺いながら腰を進め、時折「大丈夫か?」と吐息混じりに確認してくる。
狛枝は握ったままの拳を口元に押し当て、何度も首を縦に振った。構わず一気に貫いてくれても構わないのに、額に大粒の汗を滲ませ、堪えるように奥歯を噛み締めながらも労わろうとする日向の気遣いに心が震える。
普段は夜のコテージで、灯りもつけずに交わることが多いから。こんな風に苦しそうな顔をしているなんて、知らなかった。
「ッ、お、まえ……そんな、締めるなって……っ」
「ひな、ッ、ぁ、ごめ……ッ」
胸の疼きがそのまま身体の奥の強張りに繋がってしまった。無意識に力んでしまったせいか、締め付けの鋭さに日向が喉を唸らせる。
このままではきっと苦しいだけだ。肉棒はようやく半分ほどが収まった程度で、日向は一度動きを止めると大きく息ついて呼吸を整えはじめる。
こんなに身も心も蕩けきっているのに、どうしてこの身体は日向の形に馴染んでくれないのだろう。やっぱり自分は何をやってもダメな人間だ。ちょっと優しくされたぐらいで愛されているような気になって、結局は大好きな人の性欲すらまともに満たせない。
(日向クン……ごめん……ごめんね……。ボクなんかじゃキミを気持ちよくさせてあげられない……身体まで出来損ないだなんて、本当にボクはどこまでも絶望的で、ダニにも劣るゴミクズ人間だよ……)
「それは、違うぞ」
「え……?」
自分を責めるばかりの狛枝の心を読んだかのように、日向が否定の言葉を口にした。
そのまま両腕を取られ、首に回すように導かれる。されるがまま素直に抱き付くと、日向は満足そうに微笑んで狛枝の涙や汗に濡れた頬に小さな口付けを落としてきた。そして。
「凪斗」
「ッ……!?」
耳元で、名前を呼ばれた。狛枝ではなく、凪斗、と。
それは魔法のように狛枝の心を甘く蕩かした。身体から一気に力が抜けて、何も考えられなくなってしまう。日向の首にしがみついていなければ、このままふわふわとどこか遠くへ飛んで行ってしまいそうだった。
酩酊状態。まさに、そんな感じ。ずるい。こんなの、反則だ。
好機とばかりに日向の腕が狛枝の腰を抱く。ぐ、ぐ、と身体の奥深くまで熱の塊が押し入って来る感覚に、狛枝は甲高い子犬のような悲鳴を上げる。
「ひぁ、アッ、ああぁ――……ッ!!」
「う、ぁ……!」
日向の甘い呻きが心地いい。身体の隅々まで、余すところなく満たされたような気がした。ギリギリまで伸ばされた襞の感覚に、奥まった場所が痛いほど痺れていた。
自分でも触れたことのないような場所で、日向自身が脈打っている。二人の身体に挟まれるようにして天を仰ぐ狛枝自身も、断続的にビクビクと小さく跳ねていた。
日向は狛枝をきつく抱いて、ゆっくりと小刻みに腰を動かし始めた。その度に狛枝の身体がカクンカクンと上下に揺れる。
「あ、あッ……ひぅ、アっ……ん、ぅ!」
内臓を直接押し上げられているような圧迫感と、内壁を強く擦られる快感とで、溺れたみたいに息が苦しい。
徐々に早まる動きの激しさにベッドが軋む音を聞きながら、あまりにも刺激的すぎる律動に嫌々と首を振る。日向の唇が薄い首筋の皮膚を痛いほど吸い上げ、狛枝はその太く硬い髪に指を通してぐしゃぐしゃと乱しながらこれ以上ないくらい身悶えた。
突き上げられる度に頭の奥が痺れて堪らない。
「ひな、ぁッ、た、ク……ッ、んぅ、ぁ、きも、ち、ぃ……ッ」
「俺も……ッ、俺も、凄くいい……狛枝……!」
「ね、ぇ! 好きッ、て……ッ、ん、言って、い、ぃ?」
「ッ、こ、の……バカ……ッ」
身体中を真っ赤に染め上げた日向の、いちいち聞くなよ、という声を聞いた途端に、狛枝は壊れたオモチャのように「好き」という言葉を繰り返した。
好き、好き、大好き。もっと、もっと。そう言って日向と同じタイミングで腰を跳ねるように動かした。日向の呼吸がどんどん荒くなる。はち切れそうなほど膨らんだ狛枝自身も、律動に合わせて揺れながら涎を垂らし、ぬるぬると脇腹を滑り落ちていく。
「もっ、ア、やぁ、あ……! イッ、く! いく、ボク、もぉ……!!」
「狛枝、一緒に……ッ」
目の前で幾つもの白い火花が飛び散るのが見えた気がした。
ビン、と爪先を張り、声にならない悲鳴を上げて狛枝が先に射精した。ひ、ひ、と脆弱な呼吸を繰り返しながら激しく身を震わせる狛枝の中から、日向の性器が一気に引き抜かれる。
「ぅ、ッ、ぁ……!」
低い呻きと共に、日向が吐き出した白濁が狛枝の腹に飛び散った。二人分の精液が溶けるように混ざり合う。
断続的な痙攣を繰り返したまま、絶頂の余韻から抜け出せない狛枝は倒れ込んできた日向の頬に自分の頬を擦りつける。途切れそうな意識で無防備に甘える狛枝の耳に、日向の「好きだぞ」という声が柔らかく沁みこんだ。
窓から差し込む光は昼間のものから夕焼け色に変わっていた。
あのあとも散々戯れて、何度か繋がって、今は二人並んでベッドにダラダラと寝そべっている。シャワーを浴びたい欲求はあるものの、下半身の感覚がすっかり麻痺して動くのがひたすら億劫だった。この調子では、夕食をとりに行けるかどうかも微妙なところだ。
「生きてるか?」
日向が軽く半身を起し、気遣わしげに顔を覗き込んでくる。狛枝はまだどこかぼんやりとした頭で、微かに笑うと頷いた。
「なんとか大丈夫、かな?」
「……悪かったよ」
「?」
狛枝が小首を傾げると、日向は照れ臭そうに頬を指先で幾度か引っ掻いた。
「いや……結局どこにも行けなかったしさ。先に手を出したのも俺だし」
それは違うよと、狛枝は心の中でポツリと吐き出す。
拒まなかったのは自分だし、結局のところ日向と一緒にいられるなら、どこだって構わないのだから。ただ。
「なんかボクたち、凄く爛れた大人になってしまったような気がするね」
何気なく放った言葉に、日向が軽く吹き出した。
「ッ、た、爛れたって、お前な……」
「だってお昼だよ? みんなが健全に外で過ごしてるのに、ボク達ときたら」
「わ、分かった。分かったよ。だから俺が悪かったって言ってるだろ」
「謝っちゃやだよ。ボクは凄く嬉しかったんだから」
普段は見れないものが、色々と見れたのだから。
日向がどんな顔をして、反応をして、労わってくれていたかを存分に知ることができた。
顔を赤くした日向は、口の中でごにょごにょと何かを言いかけて、やがて諦めたようにシーツに深く沈みこんだ。
ぴったりと身を寄せ合って、そのまま何気ない沈黙が流れる。心地よい静けさの中、狛枝はどんどん瞼が重くなっていくのを感じた。
「あのさ」
気づけば日向の指先が狛枝の髪を緩く弄んでいる。なんだかくすぐったくて、小さく肩を竦めた。
「明日は、走るか。砂浜で」
それはちょっと嫌かな、なんて思ったけれど、それで日向が今日の帳尻を合わせたいなら文句を言うつもりはなかった。
いつもなら、やんわりと断っているところだけど。
「あは、いいね。それ、凄く健全だよ」
何より、明日も一緒に過ごせることを彼が約束してくれたことが、とても嬉しい。
「誘いに行くからな。待ってろよ」
「ん、待ってる」
蕩けるような安堵感に身を任せて、狛枝は微笑みながらまどろみに落ちていった。
←戻る ・ Wavebox👏
ピンク色の派手な髪をかき上げながら、友人の左右田が屋台のカウンターに肘を預けている。
じっとりとした視線から逃げるように、日向はひたすらラーメンをすすることに集中していた。
3月とはいえ夜の風は冷たい。合コン帰りの若い男が二人、どこか昭和臭い雰囲気の漂う屋台でラーメンなんて、結果の侘しさを噛み締めるには十分なシチュエーションだった。
「ヤル気満々で頼み込んできたくせによォ。連絡先の一つもゲットできねーってのはどうかと思うぜ」
「……お前には言われたくないよ」
「うっせー! オレはなんつーか、今日は調子が出なかったっつーか」
今度は日向が左右田にジト目を向ける番だった。
「つーかよォ、オレのことはいいんだよ。オメーだよ。何人かは脈ありだったじゃねーか」
「そうか?」
「なんっかムカつくな、その態度」
ギザギザの歯を剥きだして睨み付けられても困る。
日向だってこんな寂れた屋台で、左右田とラーメンを食う結果に終わるとは思ってもみなかった。
この男に連絡を入れた段階では、本気で彼女を作るつもりで意気込んでいたのだから。
だけど、結局は駄目だった。
「綺麗な子ばっかりだったな……」
日向が遠い目をしながら呟くと、なぜか左右田は「だろ? だろ?」と自慢げに歯を見せて笑う。
それに愛想笑いを返しながら、日向は同じ男同士でどうしてこうも温度差があるのか、不思議でならなかった。
居酒屋の個室で開かれた合コンには、日向と左右田を含めた男子が4人、女子4人が集まっていた。どの子も明るくて社交的で、あんな場にわざわざ参加しなくたって、彼氏の一人や二人は普通にいそうな女子ばかりだったと思う。
酒も料理も美味かったし、それなりに楽しめた。だけど、なんだかんだでただの飲み会という雰囲気で終わってしまった。
女子慣れしていない、というのもあるけれど。いざとなるとみんな同じ顔に見えた。整ったメイクと女性らしい可愛い服装やアクセサリー、そして甘い香り。それらはただそわそわと落ち着かない気持ちにさせられるだけで、どこか決定打に欠けた。
自分のレベルなんてたかが知れている。だから選り好みなんて贅沢な真似をするつもりなんてなかった。仮に左右田が言うように、自分に好感を持ってくれた女子がいたのだとしても、きっと日向には踏み出す意志がなかったのだと思う。
「なァ、オメーもしかして、他に好きな子いたりすんじゃねーの?」
左右田の問いかけに、なぜか心臓が大きく跳ねた。
どうしてか真っ先に頭に浮かんだ顔を、必死でどこか遠くへ押しやろうとするのに、頭の中でうまく収拾がつかなくなっている。
「ば、バカ言うな。そんなわけないだろ」
「そーかァ? なんつーか、誰にも興味ねーって顔してたぞ?」
「……お前って、結構よく見てるんだな」
「そりゃオメー、幹事だからな。全体をしっかり見てねーとな」
「左右田って実は真面目だよな。見た目が派手な割に」
「悪かったな! 中身は地味でよ!」
「褒めてるんだって」
ぜんぜん嬉しくねー、と言ってそっぽを向いてしまった友人に、つい声を上げて笑ってしまう。
本当は笑っていられる余裕なんかないはずなのに。
*
その後、また誘うからな、と言って軽く手を上げる左右田と駅で別れた。
日向はなんとなく真っ直ぐに家に帰る気になれず、あえて自宅方面へと向かう電車の最終を逃した。
別に歩いたって家までは大した距離ではない。
明日はバイトも休みだし、のんびり徒歩で帰ることにした。
狛枝と例のことがあって、まだ数日しか経っていなかった。
あれ以来、彼がアパートを訪れることはないし、もちろん連絡もない。
サンダルは、玄関に残されていた。狛枝は裸足でアパートを出て行ったらしい。
彼を傷つけたこと、追いかけなかったこと。なにもかもが後悔しても遅かった。
全て悪い夢だったのだと、そう片付けてしまいたくて左右田に連絡を入れた。自分はホモじゃないし、あまりにも童貞をこじらせすぎて、欲求不満が限界に達してしまったのだと。だから近くに異性を感じれば、すぐに元の正常な自分を取り戻すことが出来ると思った。
なのにこの有様だ。
結局なにをしていても、どこで誰といても、狛枝のことが頭から離れない。
それどころか、あの女性たちの愛らしい仕草や言動がどこか作り物のように見えて、ちっとも胸に響かなかった。
日向は、狛枝を背負って歩いた夜道を思い出していた。
彼の柔らかな髪に頬をくすぐられると、なぜか胸の奥までこそばゆく感じた。
褒めて、と我儘を言うのがなんだか憎めなくて、可愛いとすら思った。
ふと、あの性的な衝動は、本当に欲求不満だけが原因だったのだろうかと、疑問が浮かぶ。狛枝にすら欲情してしまったはずの自分が、なぜ何の成果も上げられないままに、一人で夜道を歩いているのだろうかと。
何かに気づきかけて、だけど遮るように日向は足を止めていた。知らぬ間に結構な距離を歩いていたようで、自宅近くのコンビニが目の前にあった。そしてその隣には、狛枝と初めて会ったコインランドリーがある。
真夜中ではあるが、ここからでも洗濯機が回っているのがうっすらと見えた。
日向はほとんど無意識にそちらへ足を向けていた。コンビニの駐車場を突っ切り、同じ敷地内のランドリーを覗き込むと、そこには誰もいなかった。
「……だよな」
狛枝とここで遭遇したのは、初対面の一回きりだ。
日向は毎週のようにここを利用しているから、機会があればまた会うこともあるかもしれないと思っていた。だが、実際は狛枝から食事の誘いが来るまでは、一度も顔を合わせなかった。
それが今日に限って偶然パッタリ会うなんて、そんな虫のいい話はないだろう。
(会ったところで、どんな顔すりゃいいんだよ)
思えば身勝手すぎる話ではないか。
勝手にサカって、勝手に意識して、強引に押し倒して、帰れと怒鳴った。
狛枝にとって日向は初めてできた『友達』であり、親切な『恩人』という存在だったはずだ。
そんな相手に裏切られて、今ごろどんな思いでいるのだろう。
日向は目を閉じて、力なく首を左右に振った。そしてなんとなく、ランドリーの扉を開けて中に入り込んだ。壁際の長椅子に座って、視界の先で回る洗濯槽をぼんやりと眺める。
確か、あの大晦日の夜もここに狛枝と並んで座った。聞いてもいないのに名乗った彼は、頼んでもいないのに寒空の下で日向が出てくるのを待っていた。
おかしなヤツだとは思ったけれど、なんとなく、放っておけなくて。
「なにしてんだろうな、俺……」
無人の空間に、乾いた声が虚しく反響して消えた。
狛枝は本当にツイてないヤツだ。信じて懐いた男に傷つけられて、結局、友達すら作れなかった。
当の日向は謝罪すらしないままに、こんな場所で一人腐っている。
(そういえばあいつ、あの時なんて言おうとしてたのかな)
『別にボクは裸足で帰っても構わないんだけど……その、なんていうか』
どうしてあんなに赤い顔をして、言いにくそうにしていたんだろう。
あの言葉の先が、なぜか今になって猛烈に聞きたくなった。本当にどこまでも身勝手で、都合のいい話だと思う。だけど、無性に。
「……会いたいな」
蛍光灯の白すぎる光が眩しくて、日向はそっと目を閉じる。
それはほとんど無意識に零れた、心からの声だった。
*
――日向クン。
名前を呼ばれるのと同時に、軽く肩を叩かれる。
――ねぇ、日向クンってば。
酷く困った様子で、今度はゆさゆさと揺さぶられた。
「……なんだよ」
沈み込んでいた意識を浮上させた日向は、いつの間に眠ってしまったのだろうかと考えながら目を擦った。
相変わらず室内の蛍光灯はやたらと白くて、瞼が痛い。
スッキリしない頭で何度か強く瞬きをしてから、ふと顔を上げる。そして、思わずぐっと喉を詰まらせた。
「こんなところで寝てたら風邪ひいちゃうよ」
「こ、狛枝……?」
どうして彼がここに。
いつものコートを着て、いつもの笑顔を浮かべて。佇む彼は、しっかり靴を履いていた。
「あ、これ? ちゃんと交番に届けられてたんだ。ダメ元で行ってみて正解だったよ。結構気に入ってたからさ」
「そう、か……よかったな」
「うん」
狛枝は何事もなかったかのように日向の隣に腰かけて、身を乗り出すようにしながら顔を覗き込んできた。
「日向クンもお洗濯?」
「いや、俺は……」
お前がいるんじゃないかと思って、なんて言えるわけがなかった。実際、どんな顔をすればいいのか未だに分からなくて、つい目を逸らしてしまう。
「なんだかよく分からないけど、大晦日ぶりだね、ここで会うのは」
「……だな」
「日向クンはよくここを利用してるんだね」
「まぁな……お前もそうなんだろ?」
問えば、彼は困ったように首を傾げて「あは」と笑った。
「大晦日以来ボクは来てないよ。あの日は買ったばかりの洗濯機が壊れちゃったから、仕方なくね」
「買ったばかりで?」
「そう、しかも買った当日だよ。でね、せっかく修理してもらったのに、今日また壊れちゃったんだ。だからほら」
狛枝はテーブルを挟んで正面にある洗濯機を指さして、「あれボクの」と言った。日向がここに腰を下ろしたときには確かに回っていたはずだが、今は止まっている。あれは狛枝の衣類だったのか。
なんという偶然だろう。今日に限って、会えるなんて思ってもみなかった。
だけどそれ以前に。
「お前って、本当にツイてないよな」
日向は笑っていた。苦笑といった方が正しいが、相変わらずの不運ぶりになぜかホッとしたように笑みが零れていた。
すると狛枝は、なぜかやっぱり照れたように「えへへ」と笑う。
「だからどうして照れるんだよ」
「あは、そうだよね。変だよね」
「変じゃなきゃ狛枝じゃないけどな」
「それは正論だけど、酷いなぁ日向クンは!」
二人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。
なにがそんなにと不思議に思うくらい、気分が高揚するのを感じる。
こじゃれた居酒屋の個室で、可愛くて綺麗な女子と一緒に酒を飲むよりもずっと、殺風景なコインランドリーで狛枝と笑っているこの瞬間が。
ちょっと泣きそうになるくらい楽しくて、仕方がなかった。
(なんだ、こんなに簡単なことだったのか)
笑いながら、日向は左右田が言った言葉を思い出していた。
『オメーもしかして、他に好きな子いたりすんじゃねーの?』
(どうやらそうだったみたいだな)
『誰にも興味ねーって顔してたぞ?』
(だって俺には、こいつしか見えてなかったんだ)
いつからなんてハッキリとはわからない。
ただ、こうして狛枝が笑っているのを見ると嬉しい。そう思える今が、とても大切だと思えた。
←戻る ・ 次へ→