2025/09/15 Mon おまえは生きるほどに失えばいい。 風が通り抜けるように、花が枯れるように。 雪が解けるように、蜻蛉の命のように。 何度でも手放して、何度でも泣けばいい。 そうして粉々に砕け散った破片は俺が拾い上げてやるから。 おまえはそれを綺麗だと言って、笑えばいい。 俺の側で、ただ生きてくれれば、それで。 +++ 今日も暑くなりそうだ。 夜間警備の仕事を終えて、家までの曲がりくねった山道に車を滑らせながら、黒鋼は小さく息をつく。 走れども両脇には雑多な木々が延々と並び、隙間から差し込む朝日がオレンジ色の残像を網膜に焼きつける。 狭い二車線の道は対向車もなく、人っ子一人いやしない。 この先は民家もごく僅かしかなく、時折思い出したようにぽつりと佇む道路標識には、野生動物のシルエットが描かれていた。 山道を抜けると青空の下に広大な田畑が広がり、両脇の閉塞感が消えたことで道が広くなったように感じられた。 青々とした田んぼの真ん中にぽつりと佇む真紅の鳥居を横目に、枝分かれした道の一つを右折する。 一車線にまで狭まった上り坂を進み続けると、やがて青い瓦屋根の小さな家が見えて来きた。 あれは、まだ寝ているのだろうか。 家の脇に車を停車させ、腕時計で時刻を確認すると8時を指す少し前だった。 いつもであれば、庭の小さな畑でせっせと作業をしているはずの姿が、今朝は見当たらない。 昨夜は寝かしつけるのに少し時間がかかってしまったから、まだ起きられずにいるのか。 ここのところ不安定な状態が続いているのは、時期的にしょうがないことなのかもしれない。 曇りガラスの引き戸には鍵がかかっていた。 やはりまだ眠っているのだろうと、ジーンズのポケットから取り出した鍵を使って中に入る。 家の中はひんやりとしていて、板張りの廊下もその先のキッチンも薄暗い。 「帰ったぞ」 一応は小さく声をかけながら、廊下の左手側にある部屋の中を覗き込む。 居間として利用しているその部屋も、明け放たれた襖の向こうで寝室として利用している仏間も、カーテンがかかったままでやはり仄暗かった。 「……黒たん?」 そのとき、居間の片隅から、囁くような声がして目を向けた。 茶箪笥の影に隠れるようにして顔を覗かせる青年が、黒鋼の姿を認めるや安堵の表情を浮かべて立ちあがる。 すぐに側までやって来た彼は両腕を黒鋼の首に回し、ぎゅっとしがみついてきた。 「何かあったか。カーテンも窓も開けねぇで」 頼りない腰に腕を回して金色の前髪に唇を押し付けてから、窓辺に寄ってよもぎ色のカーテンに手を伸ばしかける。 だが、すかさず「ダメ!」という声が白い手と共に黒鋼の手首を掴んだ。 何事かと僅かに目を見開けば、彼は顔を強張らせて窓の方を睨みつけた。 「泥棒がいるんだ」 「泥棒だと?」 「お外、泥棒がいる。だから、気をつけないと……」 冗談を言っているようには見えない青年は、内緒話をするようなひっそりとした声で訴えかけてくる。 黒鋼は今まさに外から戻って来たが、庭にも家の周辺にも、泥棒どころか猫の子一匹見当たらなかった。 「トマト。黒たんが帰って来る前に収穫しようと思ったの」 「……ああ」 「でも、全部なくなってた。動物が食い荒らした感じもなかったし」 やはりそういうことか。 黒鋼は苦笑する。 笑いごとじゃないよと、唇を尖らせる青年の額を小さく小突いて、その青い瞳を真っ直ぐに見つめた。 「いいか。いつも言ってんだろ? おかしいと感じた時には、そこのボードを必ず確認しろって」 「……ボード」 「あれだ。今朝は見たか?」 「……どうだろう……?」 彼が息を潜めて身を隠していた茶箪笥の、まさに上。 マジックで書きこむことのできる白いボードにはいくつも書き込みがされ、端には何枚もの付箋が張り付けられていた。 指差しでそこを示すと、彼は不思議そうにそれを見つめた。 「トマトは昨日の朝、おまえが収穫した。朝飯で食っただろう?」 「……そうなんだ」 「虫に食われたのも多かったが、美味かったな」 青年はボードに目を向けたまま、どこか茫然としている。 けれどすぐに悲しげに目を伏せて、それから顔を上げると小さな笑みを作って見せた。 「黒たんが美味しかったなら、よかった」 「おまえも美味い美味いって食ってたぞ」 「そっか。じゃあ、よかった」 彼はようやく納得したようで、黒鋼から離れるとカーテンと窓を開けた。 薄暗かった室内に眩しい朝日が射し込んで、青年の金色の髪を明るく照らす。 温い風に乗って、土や夏草の香りが鼻先を掠めた。 都会に暮らしていた頃には聞けなかった蝉の声が、気温の上昇に共鳴するように少しずつ強くなってゆく。 小さな畑の奥を流れる小川が奏でる水音が、耳に心地よかった。 すぐに朝ご飯を作るねと廊下に消える背中を見送りながら、今朝はまだいい方かと、黒鋼は幾分かホッとした。 +++ ファイは物事を認識し、その場で記憶することは出来ても、その記憶を長く保持し続けることができない。 彼の意識は『過去』に遡り、そして『今』に至る経緯を失う。 毎日のように前日までの記憶がリセットされるのに加え、稀にふとした瞬間にも記憶がすっ飛ぶことがある。 原因は2年前の夏。 ファイは交通事故に巻き込まれて、意識不明の重体に陥った。 一命は取り留めたが失ったものは大きく、そして脳に大きな障害を負うことになった。 彼の脳は虫に食われたトマトと同じだった。放っておけばその穴はどんどん増える。 黒鋼に出来ることといえば、その穴を『記憶』としてではなく、『知識』として根気よく埋め続けてやることくらいのものだ。 幸い、彼は事故に遭う前までの記憶はしっかりと持っている。 自分がどこで生まれ、どうやって育ち、それまでの人生を生きてきたのか。 黒鋼と出会い、気持ちを通じさせ、結ばれた日のことも、まだ失ってはいない。 だからこそ、ファイは『大切なもの』をなくしたことに気付かない。 それはとても皮肉で残酷なことではあるけれど。 彼の心と2人の暮らしが、それによって強固に守られていることは、逃れようもない事実だった。 ←戻る ・ 次へ→
風が通り抜けるように、花が枯れるように。
雪が解けるように、蜻蛉の命のように。
何度でも手放して、何度でも泣けばいい。
そうして粉々に砕け散った破片は俺が拾い上げてやるから。
おまえはそれを綺麗だと言って、笑えばいい。
俺の側で、ただ生きてくれれば、それで。
+++
今日も暑くなりそうだ。
夜間警備の仕事を終えて、家までの曲がりくねった山道に車を滑らせながら、黒鋼は小さく息をつく。
走れども両脇には雑多な木々が延々と並び、隙間から差し込む朝日がオレンジ色の残像を網膜に焼きつける。
狭い二車線の道は対向車もなく、人っ子一人いやしない。
この先は民家もごく僅かしかなく、時折思い出したようにぽつりと佇む道路標識には、野生動物のシルエットが描かれていた。
山道を抜けると青空の下に広大な田畑が広がり、両脇の閉塞感が消えたことで道が広くなったように感じられた。
青々とした田んぼの真ん中にぽつりと佇む真紅の鳥居を横目に、枝分かれした道の一つを右折する。
一車線にまで狭まった上り坂を進み続けると、やがて青い瓦屋根の小さな家が見えて来きた。
あれは、まだ寝ているのだろうか。
家の脇に車を停車させ、腕時計で時刻を確認すると8時を指す少し前だった。
いつもであれば、庭の小さな畑でせっせと作業をしているはずの姿が、今朝は見当たらない。
昨夜は寝かしつけるのに少し時間がかかってしまったから、まだ起きられずにいるのか。
ここのところ不安定な状態が続いているのは、時期的にしょうがないことなのかもしれない。
曇りガラスの引き戸には鍵がかかっていた。
やはりまだ眠っているのだろうと、ジーンズのポケットから取り出した鍵を使って中に入る。
家の中はひんやりとしていて、板張りの廊下もその先のキッチンも薄暗い。
「帰ったぞ」
一応は小さく声をかけながら、廊下の左手側にある部屋の中を覗き込む。
居間として利用しているその部屋も、明け放たれた襖の向こうで寝室として利用している仏間も、カーテンがかかったままでやはり仄暗かった。
「……黒たん?」
そのとき、居間の片隅から、囁くような声がして目を向けた。
茶箪笥の影に隠れるようにして顔を覗かせる青年が、黒鋼の姿を認めるや安堵の表情を浮かべて立ちあがる。
すぐに側までやって来た彼は両腕を黒鋼の首に回し、ぎゅっとしがみついてきた。
「何かあったか。カーテンも窓も開けねぇで」
頼りない腰に腕を回して金色の前髪に唇を押し付けてから、窓辺に寄ってよもぎ色のカーテンに手を伸ばしかける。
だが、すかさず「ダメ!」という声が白い手と共に黒鋼の手首を掴んだ。
何事かと僅かに目を見開けば、彼は顔を強張らせて窓の方を睨みつけた。
「泥棒がいるんだ」
「泥棒だと?」
「お外、泥棒がいる。だから、気をつけないと……」
冗談を言っているようには見えない青年は、内緒話をするようなひっそりとした声で訴えかけてくる。
黒鋼は今まさに外から戻って来たが、庭にも家の周辺にも、泥棒どころか猫の子一匹見当たらなかった。
「トマト。黒たんが帰って来る前に収穫しようと思ったの」
「……ああ」
「でも、全部なくなってた。動物が食い荒らした感じもなかったし」
やはりそういうことか。
黒鋼は苦笑する。
笑いごとじゃないよと、唇を尖らせる青年の額を小さく小突いて、その青い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「いいか。いつも言ってんだろ? おかしいと感じた時には、そこのボードを必ず確認しろって」
「……ボード」
「あれだ。今朝は見たか?」
「……どうだろう……?」
彼が息を潜めて身を隠していた茶箪笥の、まさに上。
マジックで書きこむことのできる白いボードにはいくつも書き込みがされ、端には何枚もの付箋が張り付けられていた。
指差しでそこを示すと、彼は不思議そうにそれを見つめた。
「トマトは昨日の朝、おまえが収穫した。朝飯で食っただろう?」
「……そうなんだ」
「虫に食われたのも多かったが、美味かったな」
青年はボードに目を向けたまま、どこか茫然としている。
けれどすぐに悲しげに目を伏せて、それから顔を上げると小さな笑みを作って見せた。
「黒たんが美味しかったなら、よかった」
「おまえも美味い美味いって食ってたぞ」
「そっか。じゃあ、よかった」
彼はようやく納得したようで、黒鋼から離れるとカーテンと窓を開けた。
薄暗かった室内に眩しい朝日が射し込んで、青年の金色の髪を明るく照らす。
温い風に乗って、土や夏草の香りが鼻先を掠めた。
都会に暮らしていた頃には聞けなかった蝉の声が、気温の上昇に共鳴するように少しずつ強くなってゆく。
小さな畑の奥を流れる小川が奏でる水音が、耳に心地よかった。
すぐに朝ご飯を作るねと廊下に消える背中を見送りながら、今朝はまだいい方かと、黒鋼は幾分かホッとした。
+++
ファイは物事を認識し、その場で記憶することは出来ても、その記憶を長く保持し続けることができない。
彼の意識は『過去』に遡り、そして『今』に至る経緯を失う。
毎日のように前日までの記憶がリセットされるのに加え、稀にふとした瞬間にも記憶がすっ飛ぶことがある。
原因は2年前の夏。
ファイは交通事故に巻き込まれて、意識不明の重体に陥った。
一命は取り留めたが失ったものは大きく、そして脳に大きな障害を負うことになった。
彼の脳は虫に食われたトマトと同じだった。放っておけばその穴はどんどん増える。
黒鋼に出来ることといえば、その穴を『記憶』としてではなく、『知識』として根気よく埋め続けてやることくらいのものだ。
幸い、彼は事故に遭う前までの記憶はしっかりと持っている。
自分がどこで生まれ、どうやって育ち、それまでの人生を生きてきたのか。
黒鋼と出会い、気持ちを通じさせ、結ばれた日のことも、まだ失ってはいない。
だからこそ、ファイは『大切なもの』をなくしたことに気付かない。
それはとても皮肉で残酷なことではあるけれど。
彼の心と2人の暮らしが、それによって強固に守られていることは、逃れようもない事実だった。
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