2025/09/18 Thu 「ねぇ日向クン……こないだの続き、しよっか?」 ねっとりと耳朶に纏わりつくような艶っぽい声が、日向を誘う。 妖艶に微笑む狛枝は、赤い舌でいやらしく下唇を濡らした。猫のように細められた瞳が挑発的で、日向は知らず喉を鳴らしていた。 白い両腕がゆらゆらと揺れ、やがて首に絡みついてくると、もう抗う術がない。 ほっそりとした首筋のラインも、男性であることを示す膨らんだ喉仏ですらも、情欲に飲まれた日向の目には堪らなく扇情的に映った。 「狛枝……」 自分の低く掠れた声や荒い息遣いが、飢えた獣じみている。落ちる、と思った瞬間、日向はその白い肌に食いつき、思うが儘に牙を立てていた。 狛枝が啼く。 脳髄が溶けだしそうなほど、甘い声で。 もっともっとと、媚びるように身をしならせて。白い肌を赤く色づかせ、日向を求める。 やがて。 ジリリリリリリ! 「ッ――!?」 けたたましい電子音が、沈み込んでいた日向の思考を強制的に引き上げる。 ハッとして目を見開いた視界の先には、緩やかな木目を描く自室の天井だけが映っていた。 「ゆ、夢……」 絞り出した声と共に、ようやく詰めていた息を吐き出す。 電子音は枕元の携帯電話から鳴り響いていた。手探りでアラームを解除すると、だるい身体を起こした。 深い溜息をつきながら触れた額は、薄らと汗をかいている。 全身が重く、どろりとした疲労感に包まれていた。 「……まただ」 一体これで何度目だろうか。 酔った狛枝を連れて帰宅したあの夜から、幾度となく日向を苦しませる夢。忘れようとすればするほど、それは纏わりついてくる。 「勘弁してくれよ」 片手で顔の半分を覆いながら、視線を下向ける。 スウェットの股間が見事にテントを張ったような状態になっていて、解放を求める熱が下半身に泥のように留まっていた。 自己嫌悪でどうにかなりそうだ。生理現象といってしまえばそれまでだが、こうなった原因の人物を思うと精神的に滅入るばかりだった。 素直に慰める気にはどうしてもなれなくて、日向は重々しい息を吐き出しながら、冷水を頭からかぶるために前かがみで浴室へ向かった。 * そろそろ本気で、恋人を作ることを考えた方がよさそうだ。 バイトを終え、日向はぼんやりと夜空を見上げながらボロアパートへの道のりを歩いていた。 別にいやらしい夢を見ること自体は問題じゃない。でも、いくら欲求不満だからって相手が狛枝というのはいかがなものか。彼は正真正銘男性で、日向には当然そちらの気はない。それでもふとした瞬間思い出すのは狛枝の泣き顔や、あの吐息と一緒に吐き出される声ばかりだった。 ハッキリ言って、あの色気は童貞には刺激が強すぎた。情けない話だが、例の夜から日向はずっと狛枝の幻影に惑わされている。 (左右田のヤツにでも連絡するか……) 先日合コンの約束を蹴ったことを、あの友人はまだ怒っているかもしれない。 それでもなんとか謝り倒して席を設けてもらおうか。いや、こちらから頼まなくても、ヤツは定期的にそういった場を仕切っている。頼み込んで、頭数に入れてもらおう。 (不毛、な気もするけど) 童貞を捨てるために彼女が欲しいなんて。まだ見ぬ相手にも失礼だし、自分勝手だと思う。だけど、早くしないと取り返しがつかないことになりそうな気もして、ただただ焦る。 本来なら、こうして先の行動が決まれば多少は気が紛れるはずだった。 それなのに日向の心はどうにも重たいままだ。それは、背後に感じる人の気配と、窺うような視線が原因の大半を占めている。 「…………」 日向が足を止めると、その気配もピタリと止まった。 歩き出すと、またはじまる。何度かそれを繰り返して、いよいよ我慢ならなくなった日向は立ち止まり、ゲッソリとした息を吐き出した。 「おい、隠れてないで出てこいよ」 「ッ!?」 気配が動く。大きく肩を震わせる様まで、空気から鮮明に読み取ることができた。日向は振り向くと、「狛枝」とその名を呼んだ。 街灯の設置された電柱に、無理やり身を隠そうとして思い切りはみ出している、尖った肩が見えた。 「また不審者扱いされても知らないぞ……ストーカーか、お前は」 「……ぅ」 いつものコートを着た彼は、怖々とした様子で電柱の影から姿を現す。 「や、やぁ日向クン、月が綺麗だね」 「月は出てないぞ?」 「あっ、本当だ……。じゃあ、星が綺麗だね」 「今夜は曇りだ」 「んぅッ!」 「はぁ……」 思えばこいつと関わると自分は溜息ばかりついているような気がする。 狛枝は白い指先で頬をカリカリと掻きながら「あは」と笑った。 「コソコソするな。俺が女だったらとっくに通報してる物件だぞ?」 「えへへ、ごめんね」 なぜか照れたように笑う狛枝は、履いているサンダルの踵を鳴らしながら日向に歩み寄って来た。その手には白いビニール袋を持っている。日向が尾行に気づいたのは、このビニール袋の微かな音がキッカケだった。 身を隠すつもりなら、音の出るものを持ち歩かなければいいものを。 「お借りしたサンダル、返しに来たんだ。連絡もせずに来ちゃったから、出るタイミングがわからなくて」 その行動は、ある意味正解だったかもしれない。 おそらく今の日向なら、狛枝の精一杯のメールも迷わず断っていた。できることなら、しばらくは顔を見ずにいたかったから。 「そんなの別にいいって言っただろ?」 狛枝はあの居酒屋に行った夜に靴を紛失している。 だから帰り際にボロボロのサンダルを貸してやったのだが、別にくれてやって困るものでもないし、返す必要はないと告げていた。 それでも彼は気が済まなかったようだ。 「そんなわけにはいかないよ。迷惑をかけた上に、こんな素敵なサンダルまで頂くなんて」 「素敵って……相当なボロなんだけどな」 「日向クンの所有物なら、ボクにとってはどれも宝石より価値のある代物なんだ」 「お前さ、そういうのは誤解を招くから、もう少し言い方に気を付けた方がいいと思うぞ」 「誤解って?」 きょとん、と首を傾げる狛枝から目を逸らす。 ここ最近ずっと自分を悩ませる存在が、わざわざ呼びもしないのに顔を出すなんて。 だけどアパートはもう目の前だ。サンダルを受け取るだけで帰すのもなんだか悪い。日向は親指でアパートの方を指すと、「寄ってくか?」とぶっきらぼうに誘いをかけた。 「い、いいのかい!?」 狛枝はパッと表情を明るくして、僅かに身を乗り出す。素直に喜んで見せる姿に座りの悪さを感じながら、日向は狛枝を再びアパートに招き入れることになった。 * 「あのね日向クン、これ、つまらないものだけどお土産なんだ」 部屋の玄関に入ってすぐ、狛枝は手にしていたビニール袋を差し出して来た。悪いな、と返してやたら重たい袋を受け取りながら、ふと首を傾げてしまう。 狛枝が今まさに脱ごうとしているサンダルは、日向が貸してやったものだ。彼は他に荷物を持っている様子はない。 「なぁ狛枝。聞いてもいいか?」 「ん、なに?」 「お前さ、帰りはどうするんだ? まさか裸足とか言わないよな?」 「へ……?」 日向の問いかけに、彼は目を丸くした。そしてゆっくりと自分の足元を見て、それから日向の顔を見た。 「ドジだな、お前」 そう言うと、さぁ、という血の気が引くような音が聞こえた気がした。 * 正座した狛枝が、俯いて肩を震わせている。 適当に部屋着に着替えた日向は、小さな木製のちゃぶ台越しにどっかりと胡坐をかいた。 「いいから気にするなよ」 「ごめん……ボクって人間は本当にどうしようもないゴミ屑だ……これじゃ何のために来たのか……」 あのあと、狛枝は錯乱状態ですぐに取りに行ってくると言いだした。別にそこまでして返してほしいものでもないし、そんな必要はないと言って宥めすかしたが、以来ずっとふさぎ込んでこの有様だった。 会うたびに震えたり青褪めたり、そんな姿ばかり見ているような気がする。 日向にとって取るに足らないことも、彼にとっては命運を分けるような大事なのかもしれない。 「死んでお詫びを……」 「バカ。こんなことで死ぬヤツがいるか。それより、これいいのか?」 空気を変えようと、日向は何気なさを装いながら畳の上に置かれたビニール袋に手を伸ばす。 中身は缶ビールが数本に、イカの一夜干しや砂肝や、あらゆるつまみが入っている。いやに重いなと思ってはいたが、そこらじゅうのつまみを片っ端から買い占めたのではないかと思うほど、種類が豊富だった。 「うん。こないだはボクなんかのせいで飲み足りない思いをさせてしまったと思ってね。何が好きか分からなくて、とりあえずコンビニでありったけのおつまみを買って来ちゃったよ」 「案の定か。一体幾らしたんだよこれ……凄い量だぞ? ん? これは……?」 「あっ、ごめん、それはボクの」 底の方に一本だけ、細長い缶が入っているのを取り出すと、手を伸ばしてくる狛枝に渡した。 「ありがとう」 両手でそれを受け取った狛枝は、小首を傾げながら肩を竦め、頬を赤らめて微笑んだ。 なんというあざとい仕草だろう。今現在、不本意ながらも狛枝のことをちょっと『そういう目』で見てしまっている日向は、思わず咳払いをした。 「あの、よかったら乾杯とか……どうかな?」 「そ、それはいいけど……それ、ブルーラムだよな? 酒やジュースみたいに飲むもんじゃないぞ」 「だって好きなんだもん」 「すっ……好き、か」 「どうしたの? なんか顔が赤いけど……。そういえば日向クン、バイトだったんだよね? 疲れてるのに、こんなゴミが押しかけて具合が悪くなってしまったんじゃ……?」 「そういうんじゃないって」 実際、本当にそういうわけではなく、いちいち狛枝の言葉や仕草を意識してしまっている自分に腹が立っていた。 それを狛枝自身にぶつけることはできず、ビールの缶を開けて中身を一気に腹の中に流し込む。 狛枝がショックを受けた様子で「乾杯……」と寂しげに零すので、仕方なく半分近く減った缶を摘まむようにして持ち上げ、無言で差し出す。すると今度は嬉しそうに目を輝かせ、ブルーラムのプルタブを開けると軽くぶつけてきた。 コン、という乾いた音がしたあと、狛枝は両手に持った缶に口をつけると一口飲んで「おいしいね」と楽しげに言い放つ。 残りのビールを勢いよくあおりながら、日向はつくづく実感してしまう。 (ほんと可愛い顔してるんだよな、狛枝って……) その心の呟きをキッカケに、まるで固く閉じていた蓋が開いたように、日向の中の本音が顔を出す。 (なんで女じゃないんだよ、こいつ) 狛枝が女性だったなら、きっともっと単純だった。 顔も可愛いし、色も白くて、薄い身体はつい守ってやりたくなるくらい頼りなくて。どこか天然ぽいところも愛嬌があるし、何より唇が、とても柔らかかった。 (……酔ったな) 手の中にある缶はすっかり空になっていた。 すきっ腹に急激に流し込まれたアルコールが、胃袋の中で燃えるように荒れ狂っている。 早く左右田に連絡を入れようと思った。それが駄目なら、いっそ出会い系だっていい。あの夜のことを、唇の感触を、吐息を、早く忘れなければ。 「日向クン? ねぇ、どうかした?」 「……え?」 ずっと一点を見つめたまま考えに耽っていた日向の顔を、狛枝が心配そうに身体を傾けて覗き込んでいた。 「い、いや、別に」 「やっぱり疲れてるんだね。ボク、もうお暇させてもらうよ」 反射的に引き止めようとしたところで、そうしてもらった方がいいかと口を噤んだ。 「サンダル、改めて返しに来てもいいかな? あ、別にボクは裸足で帰っても構わないんだけど……その、なんていうか」 狛枝は、なぜか頬を赤らめながら目を泳がせていた。 どこかふわふわとした感覚を持て余しながら、日向はその表情をぼんやりと見つめる。 なにかとてつもなく言いにくいことでもあるのか、狛枝はしきりに下唇を噛み締めては湿らすばかりで、先を続けようとはしなかった。 気づけば日向は赤味を増していくその唇ばかりを見つめていた。その光景は、あの夜重ねた熱い感触を思い出させる。そして、夢の中で猫のように舌なめずりをして誘う姿をも、彷彿とさせた。 (ヤバい) そう思った瞬間、日向は狛枝に手を伸ばしていた。 二の腕を掴んで引きずるようにして、すぐ側の万年床に押し倒す。 「ひ、日向クン!?」 突然のことに、狛枝が困惑した表情を浮かべる。それを見下ろしながら、頭の中が沸騰しているような感覚に息を荒げた。 狛枝は男だ。だから自分にとって、恋愛の対象にはなりえない。ましてや性の対象になんて、絶対に。 (なら、どうしてキスなんかしたんだ) あのとき、日向は何度も自身を制御しようと試みた。頭の中で繰り返し、言うことをきかない身体と本能に抗おうとした。 だけど駄目だった。どうしても抑えきれなかった。 「狛枝……」 夢の中と同じだった。日向の声は低く掠れて、熱く吐き出される息は獣じみている。 狛枝が小さく身を震わせた。押し倒す日向の下で、ぎゅっと肩を竦めて強張っている。ガラス玉のような瞳が不安そうに揺れていた。 ああ、きっと怖がらせているのだと。あのときのように、欲望に抗うべき思考すらどこか遠くで静観している。 ごくりと、日向が喉を鳴らした瞬間、狛枝は震える息を吐き出しながら、そっと目を閉じた。 それは受容の合図だった。狛枝の身体も、長い睫毛も、まるで生きたまま供物として捧げられた生贄のように見えた。 「……日向クン?」 日向は急激に冷静さを取り戻す自分に気づいて、茫然とした。石化したように動かなくなった日向を、目を開けた狛枝が見上げている。 あれほど熱くなっていたのが嘘のように、胸の内側が凪いでいた。 気が抜けたような顔で身を起こした日向は、力なく布団の上に胡坐をかいた。 「……悪い。どうかしてた」 「……しないの?」 「ッ!」 同じく身を起こした狛枝の言葉に、頭を殴られたような気がして感情が高ぶる。 「すッ、するわけないだろ!」 「でも」 「いいからもう帰ってくれ!!」 とてもではないが、狛枝の顔を見ることができなかった。 乱暴に言い放ったあとで、しまったと後悔してももう遅い。狛枝がのろのろと立ち上がるのが視界の端に映る。 彼は耳を澄ましていなければ聞こえないほどの小さな声で「ごめんね」と言った。ゴミとか屑とか、そういう言葉と同じくらい、謝らせてばかりのような気がする。 早く一人になりたいと思った。一人になって、頭の中を整理したい。狛枝はそんな日向の意志を汲むかのように、従順に姿を消した。 扉が閉まる音の後には、大量の酒とつまみと、飲みかけのブルーラムだけが残されていた。 ←戻る ・ 次へ→
ねっとりと耳朶に纏わりつくような艶っぽい声が、日向を誘う。
妖艶に微笑む狛枝は、赤い舌でいやらしく下唇を濡らした。猫のように細められた瞳が挑発的で、日向は知らず喉を鳴らしていた。
白い両腕がゆらゆらと揺れ、やがて首に絡みついてくると、もう抗う術がない。
ほっそりとした首筋のラインも、男性であることを示す膨らんだ喉仏ですらも、情欲に飲まれた日向の目には堪らなく扇情的に映った。
「狛枝……」
自分の低く掠れた声や荒い息遣いが、飢えた獣じみている。落ちる、と思った瞬間、日向はその白い肌に食いつき、思うが儘に牙を立てていた。
狛枝が啼く。
脳髄が溶けだしそうなほど、甘い声で。
もっともっとと、媚びるように身をしならせて。白い肌を赤く色づかせ、日向を求める。
やがて。
ジリリリリリリ!
「ッ――!?」
けたたましい電子音が、沈み込んでいた日向の思考を強制的に引き上げる。
ハッとして目を見開いた視界の先には、緩やかな木目を描く自室の天井だけが映っていた。
「ゆ、夢……」
絞り出した声と共に、ようやく詰めていた息を吐き出す。
電子音は枕元の携帯電話から鳴り響いていた。手探りでアラームを解除すると、だるい身体を起こした。
深い溜息をつきながら触れた額は、薄らと汗をかいている。
全身が重く、どろりとした疲労感に包まれていた。
「……まただ」
一体これで何度目だろうか。
酔った狛枝を連れて帰宅したあの夜から、幾度となく日向を苦しませる夢。忘れようとすればするほど、それは纏わりついてくる。
「勘弁してくれよ」
片手で顔の半分を覆いながら、視線を下向ける。
スウェットの股間が見事にテントを張ったような状態になっていて、解放を求める熱が下半身に泥のように留まっていた。
自己嫌悪でどうにかなりそうだ。生理現象といってしまえばそれまでだが、こうなった原因の人物を思うと精神的に滅入るばかりだった。
素直に慰める気にはどうしてもなれなくて、日向は重々しい息を吐き出しながら、冷水を頭からかぶるために前かがみで浴室へ向かった。
*
そろそろ本気で、恋人を作ることを考えた方がよさそうだ。
バイトを終え、日向はぼんやりと夜空を見上げながらボロアパートへの道のりを歩いていた。
別にいやらしい夢を見ること自体は問題じゃない。でも、いくら欲求不満だからって相手が狛枝というのはいかがなものか。彼は正真正銘男性で、日向には当然そちらの気はない。それでもふとした瞬間思い出すのは狛枝の泣き顔や、あの吐息と一緒に吐き出される声ばかりだった。
ハッキリ言って、あの色気は童貞には刺激が強すぎた。情けない話だが、例の夜から日向はずっと狛枝の幻影に惑わされている。
(左右田のヤツにでも連絡するか……)
先日合コンの約束を蹴ったことを、あの友人はまだ怒っているかもしれない。
それでもなんとか謝り倒して席を設けてもらおうか。いや、こちらから頼まなくても、ヤツは定期的にそういった場を仕切っている。頼み込んで、頭数に入れてもらおう。
(不毛、な気もするけど)
童貞を捨てるために彼女が欲しいなんて。まだ見ぬ相手にも失礼だし、自分勝手だと思う。だけど、早くしないと取り返しがつかないことになりそうな気もして、ただただ焦る。
本来なら、こうして先の行動が決まれば多少は気が紛れるはずだった。
それなのに日向の心はどうにも重たいままだ。それは、背後に感じる人の気配と、窺うような視線が原因の大半を占めている。
「…………」
日向が足を止めると、その気配もピタリと止まった。
歩き出すと、またはじまる。何度かそれを繰り返して、いよいよ我慢ならなくなった日向は立ち止まり、ゲッソリとした息を吐き出した。
「おい、隠れてないで出てこいよ」
「ッ!?」
気配が動く。大きく肩を震わせる様まで、空気から鮮明に読み取ることができた。日向は振り向くと、「狛枝」とその名を呼んだ。
街灯の設置された電柱に、無理やり身を隠そうとして思い切りはみ出している、尖った肩が見えた。
「また不審者扱いされても知らないぞ……ストーカーか、お前は」
「……ぅ」
いつものコートを着た彼は、怖々とした様子で電柱の影から姿を現す。
「や、やぁ日向クン、月が綺麗だね」
「月は出てないぞ?」
「あっ、本当だ……。じゃあ、星が綺麗だね」
「今夜は曇りだ」
「んぅッ!」
「はぁ……」
思えばこいつと関わると自分は溜息ばかりついているような気がする。
狛枝は白い指先で頬をカリカリと掻きながら「あは」と笑った。
「コソコソするな。俺が女だったらとっくに通報してる物件だぞ?」
「えへへ、ごめんね」
なぜか照れたように笑う狛枝は、履いているサンダルの踵を鳴らしながら日向に歩み寄って来た。その手には白いビニール袋を持っている。日向が尾行に気づいたのは、このビニール袋の微かな音がキッカケだった。
身を隠すつもりなら、音の出るものを持ち歩かなければいいものを。
「お借りしたサンダル、返しに来たんだ。連絡もせずに来ちゃったから、出るタイミングがわからなくて」
その行動は、ある意味正解だったかもしれない。
おそらく今の日向なら、狛枝の精一杯のメールも迷わず断っていた。できることなら、しばらくは顔を見ずにいたかったから。
「そんなの別にいいって言っただろ?」
狛枝はあの居酒屋に行った夜に靴を紛失している。
だから帰り際にボロボロのサンダルを貸してやったのだが、別にくれてやって困るものでもないし、返す必要はないと告げていた。
それでも彼は気が済まなかったようだ。
「そんなわけにはいかないよ。迷惑をかけた上に、こんな素敵なサンダルまで頂くなんて」
「素敵って……相当なボロなんだけどな」
「日向クンの所有物なら、ボクにとってはどれも宝石より価値のある代物なんだ」
「お前さ、そういうのは誤解を招くから、もう少し言い方に気を付けた方がいいと思うぞ」
「誤解って?」
きょとん、と首を傾げる狛枝から目を逸らす。
ここ最近ずっと自分を悩ませる存在が、わざわざ呼びもしないのに顔を出すなんて。
だけどアパートはもう目の前だ。サンダルを受け取るだけで帰すのもなんだか悪い。日向は親指でアパートの方を指すと、「寄ってくか?」とぶっきらぼうに誘いをかけた。
「い、いいのかい!?」
狛枝はパッと表情を明るくして、僅かに身を乗り出す。素直に喜んで見せる姿に座りの悪さを感じながら、日向は狛枝を再びアパートに招き入れることになった。
*
「あのね日向クン、これ、つまらないものだけどお土産なんだ」
部屋の玄関に入ってすぐ、狛枝は手にしていたビニール袋を差し出して来た。悪いな、と返してやたら重たい袋を受け取りながら、ふと首を傾げてしまう。
狛枝が今まさに脱ごうとしているサンダルは、日向が貸してやったものだ。彼は他に荷物を持っている様子はない。
「なぁ狛枝。聞いてもいいか?」
「ん、なに?」
「お前さ、帰りはどうするんだ? まさか裸足とか言わないよな?」
「へ……?」
日向の問いかけに、彼は目を丸くした。そしてゆっくりと自分の足元を見て、それから日向の顔を見た。
「ドジだな、お前」
そう言うと、さぁ、という血の気が引くような音が聞こえた気がした。
*
正座した狛枝が、俯いて肩を震わせている。
適当に部屋着に着替えた日向は、小さな木製のちゃぶ台越しにどっかりと胡坐をかいた。
「いいから気にするなよ」
「ごめん……ボクって人間は本当にどうしようもないゴミ屑だ……これじゃ何のために来たのか……」
あのあと、狛枝は錯乱状態ですぐに取りに行ってくると言いだした。別にそこまでして返してほしいものでもないし、そんな必要はないと言って宥めすかしたが、以来ずっとふさぎ込んでこの有様だった。
会うたびに震えたり青褪めたり、そんな姿ばかり見ているような気がする。
日向にとって取るに足らないことも、彼にとっては命運を分けるような大事なのかもしれない。
「死んでお詫びを……」
「バカ。こんなことで死ぬヤツがいるか。それより、これいいのか?」
空気を変えようと、日向は何気なさを装いながら畳の上に置かれたビニール袋に手を伸ばす。
中身は缶ビールが数本に、イカの一夜干しや砂肝や、あらゆるつまみが入っている。いやに重いなと思ってはいたが、そこらじゅうのつまみを片っ端から買い占めたのではないかと思うほど、種類が豊富だった。
「うん。こないだはボクなんかのせいで飲み足りない思いをさせてしまったと思ってね。何が好きか分からなくて、とりあえずコンビニでありったけのおつまみを買って来ちゃったよ」
「案の定か。一体幾らしたんだよこれ……凄い量だぞ? ん? これは……?」
「あっ、ごめん、それはボクの」
底の方に一本だけ、細長い缶が入っているのを取り出すと、手を伸ばしてくる狛枝に渡した。
「ありがとう」
両手でそれを受け取った狛枝は、小首を傾げながら肩を竦め、頬を赤らめて微笑んだ。
なんというあざとい仕草だろう。今現在、不本意ながらも狛枝のことをちょっと『そういう目』で見てしまっている日向は、思わず咳払いをした。
「あの、よかったら乾杯とか……どうかな?」
「そ、それはいいけど……それ、ブルーラムだよな? 酒やジュースみたいに飲むもんじゃないぞ」
「だって好きなんだもん」
「すっ……好き、か」
「どうしたの? なんか顔が赤いけど……。そういえば日向クン、バイトだったんだよね? 疲れてるのに、こんなゴミが押しかけて具合が悪くなってしまったんじゃ……?」
「そういうんじゃないって」
実際、本当にそういうわけではなく、いちいち狛枝の言葉や仕草を意識してしまっている自分に腹が立っていた。
それを狛枝自身にぶつけることはできず、ビールの缶を開けて中身を一気に腹の中に流し込む。
狛枝がショックを受けた様子で「乾杯……」と寂しげに零すので、仕方なく半分近く減った缶を摘まむようにして持ち上げ、無言で差し出す。すると今度は嬉しそうに目を輝かせ、ブルーラムのプルタブを開けると軽くぶつけてきた。
コン、という乾いた音がしたあと、狛枝は両手に持った缶に口をつけると一口飲んで「おいしいね」と楽しげに言い放つ。
残りのビールを勢いよくあおりながら、日向はつくづく実感してしまう。
(ほんと可愛い顔してるんだよな、狛枝って……)
その心の呟きをキッカケに、まるで固く閉じていた蓋が開いたように、日向の中の本音が顔を出す。
(なんで女じゃないんだよ、こいつ)
狛枝が女性だったなら、きっともっと単純だった。
顔も可愛いし、色も白くて、薄い身体はつい守ってやりたくなるくらい頼りなくて。どこか天然ぽいところも愛嬌があるし、何より唇が、とても柔らかかった。
(……酔ったな)
手の中にある缶はすっかり空になっていた。
すきっ腹に急激に流し込まれたアルコールが、胃袋の中で燃えるように荒れ狂っている。
早く左右田に連絡を入れようと思った。それが駄目なら、いっそ出会い系だっていい。あの夜のことを、唇の感触を、吐息を、早く忘れなければ。
「日向クン? ねぇ、どうかした?」
「……え?」
ずっと一点を見つめたまま考えに耽っていた日向の顔を、狛枝が心配そうに身体を傾けて覗き込んでいた。
「い、いや、別に」
「やっぱり疲れてるんだね。ボク、もうお暇させてもらうよ」
反射的に引き止めようとしたところで、そうしてもらった方がいいかと口を噤んだ。
「サンダル、改めて返しに来てもいいかな? あ、別にボクは裸足で帰っても構わないんだけど……その、なんていうか」
狛枝は、なぜか頬を赤らめながら目を泳がせていた。
どこかふわふわとした感覚を持て余しながら、日向はその表情をぼんやりと見つめる。
なにかとてつもなく言いにくいことでもあるのか、狛枝はしきりに下唇を噛み締めては湿らすばかりで、先を続けようとはしなかった。
気づけば日向は赤味を増していくその唇ばかりを見つめていた。その光景は、あの夜重ねた熱い感触を思い出させる。そして、夢の中で猫のように舌なめずりをして誘う姿をも、彷彿とさせた。
(ヤバい)
そう思った瞬間、日向は狛枝に手を伸ばしていた。
二の腕を掴んで引きずるようにして、すぐ側の万年床に押し倒す。
「ひ、日向クン!?」
突然のことに、狛枝が困惑した表情を浮かべる。それを見下ろしながら、頭の中が沸騰しているような感覚に息を荒げた。
狛枝は男だ。だから自分にとって、恋愛の対象にはなりえない。ましてや性の対象になんて、絶対に。
(なら、どうしてキスなんかしたんだ)
あのとき、日向は何度も自身を制御しようと試みた。頭の中で繰り返し、言うことをきかない身体と本能に抗おうとした。
だけど駄目だった。どうしても抑えきれなかった。
「狛枝……」
夢の中と同じだった。日向の声は低く掠れて、熱く吐き出される息は獣じみている。
狛枝が小さく身を震わせた。押し倒す日向の下で、ぎゅっと肩を竦めて強張っている。ガラス玉のような瞳が不安そうに揺れていた。
ああ、きっと怖がらせているのだと。あのときのように、欲望に抗うべき思考すらどこか遠くで静観している。
ごくりと、日向が喉を鳴らした瞬間、狛枝は震える息を吐き出しながら、そっと目を閉じた。
それは受容の合図だった。狛枝の身体も、長い睫毛も、まるで生きたまま供物として捧げられた生贄のように見えた。
「……日向クン?」
日向は急激に冷静さを取り戻す自分に気づいて、茫然とした。石化したように動かなくなった日向を、目を開けた狛枝が見上げている。
あれほど熱くなっていたのが嘘のように、胸の内側が凪いでいた。
気が抜けたような顔で身を起こした日向は、力なく布団の上に胡坐をかいた。
「……悪い。どうかしてた」
「……しないの?」
「ッ!」
同じく身を起こした狛枝の言葉に、頭を殴られたような気がして感情が高ぶる。
「すッ、するわけないだろ!」
「でも」
「いいからもう帰ってくれ!!」
とてもではないが、狛枝の顔を見ることができなかった。
乱暴に言い放ったあとで、しまったと後悔してももう遅い。狛枝がのろのろと立ち上がるのが視界の端に映る。
彼は耳を澄ましていなければ聞こえないほどの小さな声で「ごめんね」と言った。ゴミとか屑とか、そういう言葉と同じくらい、謝らせてばかりのような気がする。
早く一人になりたいと思った。一人になって、頭の中を整理したい。狛枝はそんな日向の意志を汲むかのように、従順に姿を消した。
扉が閉まる音の後には、大量の酒とつまみと、飲みかけのブルーラムだけが残されていた。
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