2025/09/15 Mon ファイが記憶障害を患う以前、2人は同じ学校で教鞭を執る立場にあった。 黒鋼は体育を、ファイは化学を。 そして同じ教師である傍ら、プライベートでもパートナーとしての円満な関係を築いていた。 男同士ではあったが、雨が大地に染み込むような自然さで、気がつけば惹かれあっていた。 多分きっと、死ぬまでの長い付き合いになるだろうと、黒鋼はファイと出会った瞬間に感じたのを覚えている。 今でもその気持ちは薄れるどころか、日に日に大きくなっていた。 ファイが交通事故に巻き込まれたのは、ちょうど今のような暑い時期のことだった。 広く見通しのいい交差点で、横断歩道を渡っていた際に脇見運転の乗用車にはねられた。 運転手は電柱に衝突して即死。ファイは一命を取り留めたものの頭部を強打し、意識不明の状態で病院に緊急搬送され、その後二週間も意識不明のままだった。 あの日、黒鋼は顧問を務める部活の練習試合で彼の側にはいなかった。 連絡を受けて慌てて駆けつけた先で見た、ICUで死んだように眠るファイの痛々しい姿が、今でも忘れられない。 それでも、生きていてくれたことが大きな救いだった。 『彼だけでも』失わずに済んだことが、心から。 +++ あの事故の後、意識を取り戻したファイは検査などの結果、医師から記憶障害が起こる可能性が高いことを示唆された。 そしてその言葉通り、ほどなくして彼の記憶は緩やかに破綻の兆しを見せ始めた。 自分がどこにいたのか、たった今まで何をしていたのか、些細な約束や用事でさえも記憶に留めることができなくなり、その都度メモを取っても、たった数分後にはメモの存在自体を忘れる始末だった。 もちろん、職場に復帰することも叶わなかった。 今でこそ薬の量も安定し、ある程度の落ち着きは取り戻しているが、当初は日常生活もままならないほどの混乱に見舞われ、精神科の世話にもなった。 彼が生きるには都会という環境はあまりにも混濁しすぎていた。 電車に乗ってもバスに乗っても、次の瞬間には行き先を忘れてしまう。結果、訳の分からないままに下車して、見知らぬ街で茫然とする。 当然、自分で車を運転させるなど以ての外だった。 毎朝のように消失している記憶と、繰り返し訪れる混乱。 事故のこと、背負った障害、経過した日数。 それらを毎日のように言い聞かせれば、その都度ファイは受け入れがたい事実に大きなショックを受ける。気休めに飲ませる薬の量はどんどん増えて、起き上がっていられる時間も減少していった。 ファイは一日を暗い部屋の中だけで過ごすようになった。 食欲も減る一方で、頬がこけるほど痩せ細ってゆく姿を、黒鋼はとうとう見ていられなくなった。 せっかくあの酷い事故に巻き込まれながらも助かったというのに、このままでは彼の心が死んでしまう。 そして事故からおよそ半年後。 黒鋼は自らも教師という職を辞した。 2人で、どこか静かな場所でやり直したかった。 もう一度、真夏の太陽の下に咲く向日葵のように、ファイに笑ってほしくて。 +++ 県境の山奥に、ぽつりと一件だけ建っている木造平屋の一軒家。 誰も寄りつかず、そして寄せつけず、立ち並ぶ木々に守られるようにして佇む小さな家に暮らすようになって、もう一年半になる。 ファイは庭で小さな作物や花を育てることに夢中になっていた。 時に我が子のように、親友のように、小さく囁きかけながらその成長を嬉しそうに見守っていた。 それは雨の日も同じで、しょっちゅう窓の外を眺めてはそれらを気にかける。 「もうすぐ向日葵が咲くね」 窓辺に置いた座編みの椅子に腰かけながら、ファイは庭を眺めてぽつりと言った。 待ちわびたような視線の先には、咲きかけの向日葵が幾本か根を下ろしている。 じきに空へ向かって、大輪の花を咲かせるであろうその花は、雨に打たれて僅かに俯いていた。 けれどファイは、その花のずっと先を見ているような遠い目をしている。 「ユゥイ、来るかな?」 彼の口からその名が出る度に、黒鋼は胸を抉られるような気分を味わう。 木製のテーブルの上に置いた雑誌をめくる手が、おのずと止まる。 「こんなに静かで素敵な場所だもの。早く遊びに来たらいいのに。ねぇ、そうでしょ?」 「……忙しいんだろうよ。店の方がな」 「そっか。そういえば最後に話したの、いつだったのかな?」 ファイは椅子から立ち上がると、隣室の文机へ向かって、すぐに戻って来た。 再び腰掛けた彼の手には、赤い表紙の日記帳がある。 これに、ファイは毎日のようにその日あった出来事を記していた。 思い出すためではなく、知るために。 書いた覚えのない日記を、辞書をなぞるような感覚で追っていく。 昨日の自分が、一昨日の自分が、どんな風に過ごしたのかを。 「……ダメだぁ」 けれど、どれだけ日記を遡ってもユゥイと会話した記録はなかったらしい。 彼は溜息をつくとそれを閉じ、腕の中に抱えて残念そうに俯いた。 「書き忘れちゃってるみたいだ。ユゥイの名前、ひとつも出て来ない」 ファイはちょっと困ったように肩をすくめてから、口許に指先を添えて楽しげに笑い出した。 「この日記帳ね、黒たんと庭のことしか書いてないの。オレって毎日そればっかり。やんなっちゃうよ」 「その割にゃ満足そうじゃねぇか」 「うん。覚えて無くても、毎日幸せだってことがこれを見れば分かるもの」 幸せという一言と無邪気な笑顔が、黒鋼の胸を安堵で満たした。 彼は何も思い出さなくていいし、不安になる必要だってない。 来るはずのない人間を待ち続ける『今』を、『明日』のファイは覚えていないから。 そう、ユゥイは絶対にここには来ない。 明日も明後日も、彼の日記には黒鋼の名と庭の様子だけが書き綴られる。 なぜなら彼の双子の弟は、2年前の夏に死んでいるからだ。 事故に遭ったあの瞬間、車にはねられたのはファイだけではなかった。 夕飯の買い出しに2人仲良く繰り出していた際に起こった、不幸な事故。 現場を目撃した人間の話では、ユゥイは車が突っ込んできた瞬間、並んで歩いていたファイをギリギリのところで突き飛ばす動作を見せたという。 そのおかげで兄はかろうじて致命傷を免れ、弟は帰らぬ人となった。 ユゥイは生前、故郷のイタリアで自分のレストランを持っていた。 いつか日本でも店を出すのだと言って、よく遊びに来ては料理の腕を振る舞ってくれた。 いつだって兄の身を案じていた彼は、最期の瞬間までファイを愛していた。 そしてその愛された記憶だけが、ファイの記憶に焼き付いている。 彼の中では今も、最愛の弟は遠くイタリアの空の下で生き続けているのだ。 だから黒鋼は平然と嘘をつく。 「休暇が取れたら来るんだろ? 最後に話したのはいつだったか……俺も忘れちまった」 読みかけの雑誌に視線を戻しながらそう言うと、ファイはくすくすと声を上げて笑った。 「もう! 黒たんまで忘れちゃったらダメじゃない」 「俺も日記をつけた方がよさそうか?」 「いいよ。特別に、今日だけこの日記帳、貸してあげる」 はい、と差し出された赤い日記帳を受け取りながら、黒鋼は「ありがてぇな」と言って微かに笑った。 ←戻る ・ 次へ→
黒鋼は体育を、ファイは化学を。
そして同じ教師である傍ら、プライベートでもパートナーとしての円満な関係を築いていた。
男同士ではあったが、雨が大地に染み込むような自然さで、気がつけば惹かれあっていた。
多分きっと、死ぬまでの長い付き合いになるだろうと、黒鋼はファイと出会った瞬間に感じたのを覚えている。
今でもその気持ちは薄れるどころか、日に日に大きくなっていた。
ファイが交通事故に巻き込まれたのは、ちょうど今のような暑い時期のことだった。
広く見通しのいい交差点で、横断歩道を渡っていた際に脇見運転の乗用車にはねられた。
運転手は電柱に衝突して即死。ファイは一命を取り留めたものの頭部を強打し、意識不明の状態で病院に緊急搬送され、その後二週間も意識不明のままだった。
あの日、黒鋼は顧問を務める部活の練習試合で彼の側にはいなかった。
連絡を受けて慌てて駆けつけた先で見た、ICUで死んだように眠るファイの痛々しい姿が、今でも忘れられない。
それでも、生きていてくれたことが大きな救いだった。
『彼だけでも』失わずに済んだことが、心から。
+++
あの事故の後、意識を取り戻したファイは検査などの結果、医師から記憶障害が起こる可能性が高いことを示唆された。
そしてその言葉通り、ほどなくして彼の記憶は緩やかに破綻の兆しを見せ始めた。
自分がどこにいたのか、たった今まで何をしていたのか、些細な約束や用事でさえも記憶に留めることができなくなり、その都度メモを取っても、たった数分後にはメモの存在自体を忘れる始末だった。
もちろん、職場に復帰することも叶わなかった。
今でこそ薬の量も安定し、ある程度の落ち着きは取り戻しているが、当初は日常生活もままならないほどの混乱に見舞われ、精神科の世話にもなった。
彼が生きるには都会という環境はあまりにも混濁しすぎていた。
電車に乗ってもバスに乗っても、次の瞬間には行き先を忘れてしまう。結果、訳の分からないままに下車して、見知らぬ街で茫然とする。
当然、自分で車を運転させるなど以ての外だった。
毎朝のように消失している記憶と、繰り返し訪れる混乱。
事故のこと、背負った障害、経過した日数。
それらを毎日のように言い聞かせれば、その都度ファイは受け入れがたい事実に大きなショックを受ける。気休めに飲ませる薬の量はどんどん増えて、起き上がっていられる時間も減少していった。
ファイは一日を暗い部屋の中だけで過ごすようになった。
食欲も減る一方で、頬がこけるほど痩せ細ってゆく姿を、黒鋼はとうとう見ていられなくなった。
せっかくあの酷い事故に巻き込まれながらも助かったというのに、このままでは彼の心が死んでしまう。
そして事故からおよそ半年後。
黒鋼は自らも教師という職を辞した。
2人で、どこか静かな場所でやり直したかった。
もう一度、真夏の太陽の下に咲く向日葵のように、ファイに笑ってほしくて。
+++
県境の山奥に、ぽつりと一件だけ建っている木造平屋の一軒家。
誰も寄りつかず、そして寄せつけず、立ち並ぶ木々に守られるようにして佇む小さな家に暮らすようになって、もう一年半になる。
ファイは庭で小さな作物や花を育てることに夢中になっていた。
時に我が子のように、親友のように、小さく囁きかけながらその成長を嬉しそうに見守っていた。
それは雨の日も同じで、しょっちゅう窓の外を眺めてはそれらを気にかける。
「もうすぐ向日葵が咲くね」
窓辺に置いた座編みの椅子に腰かけながら、ファイは庭を眺めてぽつりと言った。
待ちわびたような視線の先には、咲きかけの向日葵が幾本か根を下ろしている。
じきに空へ向かって、大輪の花を咲かせるであろうその花は、雨に打たれて僅かに俯いていた。
けれどファイは、その花のずっと先を見ているような遠い目をしている。
「ユゥイ、来るかな?」
彼の口からその名が出る度に、黒鋼は胸を抉られるような気分を味わう。
木製のテーブルの上に置いた雑誌をめくる手が、おのずと止まる。
「こんなに静かで素敵な場所だもの。早く遊びに来たらいいのに。ねぇ、そうでしょ?」
「……忙しいんだろうよ。店の方がな」
「そっか。そういえば最後に話したの、いつだったのかな?」
ファイは椅子から立ち上がると、隣室の文机へ向かって、すぐに戻って来た。
再び腰掛けた彼の手には、赤い表紙の日記帳がある。
これに、ファイは毎日のようにその日あった出来事を記していた。
思い出すためではなく、知るために。
書いた覚えのない日記を、辞書をなぞるような感覚で追っていく。
昨日の自分が、一昨日の自分が、どんな風に過ごしたのかを。
「……ダメだぁ」
けれど、どれだけ日記を遡ってもユゥイと会話した記録はなかったらしい。
彼は溜息をつくとそれを閉じ、腕の中に抱えて残念そうに俯いた。
「書き忘れちゃってるみたいだ。ユゥイの名前、ひとつも出て来ない」
ファイはちょっと困ったように肩をすくめてから、口許に指先を添えて楽しげに笑い出した。
「この日記帳ね、黒たんと庭のことしか書いてないの。オレって毎日そればっかり。やんなっちゃうよ」
「その割にゃ満足そうじゃねぇか」
「うん。覚えて無くても、毎日幸せだってことがこれを見れば分かるもの」
幸せという一言と無邪気な笑顔が、黒鋼の胸を安堵で満たした。
彼は何も思い出さなくていいし、不安になる必要だってない。
来るはずのない人間を待ち続ける『今』を、『明日』のファイは覚えていないから。
そう、ユゥイは絶対にここには来ない。
明日も明後日も、彼の日記には黒鋼の名と庭の様子だけが書き綴られる。
なぜなら彼の双子の弟は、2年前の夏に死んでいるからだ。
事故に遭ったあの瞬間、車にはねられたのはファイだけではなかった。
夕飯の買い出しに2人仲良く繰り出していた際に起こった、不幸な事故。
現場を目撃した人間の話では、ユゥイは車が突っ込んできた瞬間、並んで歩いていたファイをギリギリのところで突き飛ばす動作を見せたという。
そのおかげで兄はかろうじて致命傷を免れ、弟は帰らぬ人となった。
ユゥイは生前、故郷のイタリアで自分のレストランを持っていた。
いつか日本でも店を出すのだと言って、よく遊びに来ては料理の腕を振る舞ってくれた。
いつだって兄の身を案じていた彼は、最期の瞬間までファイを愛していた。
そしてその愛された記憶だけが、ファイの記憶に焼き付いている。
彼の中では今も、最愛の弟は遠くイタリアの空の下で生き続けているのだ。
だから黒鋼は平然と嘘をつく。
「休暇が取れたら来るんだろ? 最後に話したのはいつだったか……俺も忘れちまった」
読みかけの雑誌に視線を戻しながらそう言うと、ファイはくすくすと声を上げて笑った。
「もう! 黒たんまで忘れちゃったらダメじゃない」
「俺も日記をつけた方がよさそうか?」
「いいよ。特別に、今日だけこの日記帳、貸してあげる」
はい、と差し出された赤い日記帳を受け取りながら、黒鋼は「ありがてぇな」と言って微かに笑った。
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