黒鋼に組み伏せられたあの晩から、一週間ほどが経過しただろうか。
その間、ファイは実に2回も同じようにねじ伏せられて、身体を好き勝手されてしまうという不甲斐ない事態に陥った。唇だけなら不意打ちでもう幾度奪われたか知れない。
(なんでかわせないかなぁ……)
じゅうじゅうという食欲をそそる音を立てながら、熱せられたフライパンの上で肉と野菜が踊っている。自室のキッチンで夕食の支度をしているファイの溜息は、その音によって掻き消えた。
教材研究と担当教師との打ち合わせが長引いているらしい黒鋼は、まだ帰宅する気配がない。
今や彼のいないワンルームはファイにとっての癒し空間となっていた。傍にいると、いつちょっかいをかけられるか知れたものじゃないからだ。
自分の部屋なのにろくに休めもしないなんて、もういっそ残りの2週間は学校にでも泊まり込もうか。
(案外それがいいかもしれないなー)
摘まみ出すつもりで意気込んでいたはずなのに、あんなことをされてまでズルズルと一週間も経過している。
黒鋼が何を考えているのかさっぱり分からないが、自分も人のことは言えない。追い出すだけの理由は十分にあるはずなのに。
基本のんびりマイペースなファイの性質では、常に気を張り詰めているなんて真似は苦痛以外の何物でもなかった。
だいたい、黒鋼は一体いつスイッチが入るか予測不能すぎる。
実習初日の放課後のように、ちょっと気を抜いて会話をしただけで隙を突かれるなんてことがざらにあった。
ましてや同じ部屋で生活していればなおさら、常に相手の気配を感じていても、それにばかり気をやってはいられない。
そう、例えば今みたいに料理をしている時だとか。
「美味そうだな」
「ぴゃっ!?」
ぼんやりしていたところへ、唐突に耳元で声がしたかと思うと、背後から伸びてきた腕にぎゅうと抱きすくめられた。
おかしな悲鳴を上げたファイは思わず菜箸を取り落としそうになる。
「危ねぇな」
「だ、誰のせいかな! 音も気配もなく近づくのやめてよねー!」
「声ならかけたぞ。考え事か? 料理中にぼんやりすんな」
「それもぜーんぶ君のせいだ!!」
言ってから、しまったと思う。
案の定、黒鋼はニヤリと笑うと腰を抱く腕に力を込めた。
「煽るなよ」
「ば、バカ言わないで……っ、ちょっと、離れてくれないと困る」
「いいから続けろ」
「あのねぇ! 毎度毎度こうやって不意をつくのホントやめてってば!」
「隙だらけなのが悪い」
「隙って……!」
2回目は風呂上がりに水を飲んでホッと息をついた瞬間だったし、3回目は今日のように先に帰宅して、ちょっとソファでうたた寝をしていた時に、襲われた。
これが4回目になってはたまらないと、ファイはフライパンを手放さないまま激しく身を捩った。
「危ねぇって」
「あっ、こら! 途中なんだから火止めないの!」
「焦げてる」
「あ!!」
ほんのちょっとの隙に、野菜炒めは所々が真っ黒に焦げてしまっていた。
ファイは思わず脱力して「やっちゃった……」と呟きながら菜箸を手放す。溜息ばかり、最近は絶えずつかされている。
黒鋼はノンキに「食えりゃいい」と偉そうに言いながら、ファイの後頭部に唇を落とした。
「もー! ぜーんぶ黒たんのせいだからね! いい加減離してってば! 汗臭いよ!」
「おまえ、俺の汗好きだろ」
「はー!?」
それでもなぜか、咄嗟に目が泳ぐ。
本当のところ、汗臭いというのとは少し違う。なんと言えばいいのか、例えばフェロモン、とでも表現すればしっくり来るのか。
そんなことを考えて、ファイは頭を抱えたくなった。
たった一週間で自分の性癖が迷子になってしまったような気がして仕方がない。
最初の夜にこの身体を組み伏せた黒鋼の、ほんのり汗ばんだ素肌とその香りを思い出すだけで、不思議と身体の奥が熱くなる。
これは認めるわけにはいかないと、それを慌てて自分の中で掻き消して平静を装った。
「ひ、人を変態みたいに言わないでよね」
「よく言うぜ。ショタコン野郎が」
「それすっごい誤解! あれはあくまで黒たん限定で……あっ、今のナシ! 忘れて!」
今度は黒鋼が深く溜息を零す番だった。
「だから……煽るんじゃねぇって」
「煽ってないってば!」
だいたい今の黒鋼と昔の黒鋼では別人にも等しいのだから、煽るもなにもない。
それなのに、まるで熱烈な愛の告白でもしてしまったように頬が赤くなってしまうのは、どうしてだろう。
(ああもう! なんでこうなるかなー!)
「と、とにかく! もうお触りは禁止! 特にちょっと人が油断してる隙をつくとか、そういうのナシ!」
「例えば?」
「風呂上がりにほっこりしてる時とか!」
「あれは風呂上がりのてめぇがエロい顔してんのが悪い」
「ちょっと居眠りしてる時とか!」
「可愛い顔してよだれ垂らしてんのが悪い」
「もう! いい加減からかうのよしてってば!!」
幼い頃の黒鋼はこんな思いでいたのだろうかと、今さら気づいたってもう遅い。
やっぱり悪いことをすれば同じだけ返って来るのだ。ファイは彼に、ここまで行き過ぎたセクハラはしてないけれど。
「よし。汗臭ぇってんなら風呂でも入るか」
腕の中の人間が地団駄を踏みそうになっているのも知らず、黒鋼はファイを抱きしめていた腕を緩めた。
今日は素直に解放してくれるのかとホッとしたのも束の間。
また担がれた。
「え!?」
「おまえもまだだろ?」
「いやいやいや! まだだけど! まだだけども!」
「背中流してやるよ」
「絶対それだけで済まないくせにー!!」
「なんだ。期待してんのか」
「ちが……!!」
……ホントに違うの?
そんな疑問を、向こう岸にいるもう一人の自分が軽蔑するような眼差しと一緒に投げて寄こしたような、そんな気がした。
*
狭い。狭すぎる。
ボディソープの香りが立ち込める浴室。
ただでさえ一人はバカみたいにデカイのに、男2人が一緒に入り込めばスペースに余裕などあるはずがない。
(もう、どうにでもなっちゃえ……)
先刻まで勢いよく噴射されていたシャワーは、今は止められて熱気だけを残している。
どこか投げやりな気持ちになっているファイが置かれている現状といえば、黒鋼によって身体を泡まみれにされているというものだった。
どうせ抵抗したところで力では敵わないし、一通り人の身体で遊んで満足すれば、それで終わるのだろうから。
「ッ、……ぅ……んっ……!」
滑りそうになる両手をタイル状の壁につくと、両腕をどうにか突っ張らせて崩れ落ちそうになる身体を支える。背後からぬるぬると背中を撫で上げる手の感触に、肩を竦めて耐えた。
両肩から腕の外側にかけてを大きな手が幾度も這い、手の甲を掠めると今度は内側をくすぐるようにしながら引いていく。
指先が脇の下へと到達して、窪みを抉るようにねっとり撫でられると思わず大きな悲鳴を上げそうになった。
「――ッ!!」
声はどうにか押さえられても、ビクつく身体だけはどうにもならない。
そのまま、両脇を上下に行ったり来たりを繰り返す黒鋼の手は、明確な意図を持ってファイの反応を楽しんでいた。
背中を流すなんて、分かってはいたがまるきり嘘の塊だった。
「ふっ、ぅ……ッ、ん……ッ、……っ」
「どうした? エロい声出てんぞ」
「だ、して、ない!」
耳元にわざと吹き込むようにしてかけられる声から、大きく首を左右に振って逃れる。ゴムを取り払った長く湿った金糸が頬に張り付いた。
痛いほど下唇を噛み締めるのは、ここが無駄に音を反響させる場所だと分かっているからだ。自分のあの女のように喘ぐ声はどうしても許せない。ファイにだって、それなりのプライドは残っている。
黒鋼の手が脇の下からぬっと胸へと伸びて包み込んだ。石鹸の泡で滑る力を借りながら、そこから下腹ギリギリまでを行き来しはじめる。
「硬くなってきたな」という声がしたと同時に、太い指先が胸の二つのしこりを引っ掻いた。
「あッ……!」
思わず上がってしまった声に気を良くしたように、悪戯な指先は手の平で腹の上を行き来しながら、その都度そこを引っ掻いた。
鈍痛にも似た妙な感覚が、いちいち腰に集まっていくような気がして戸惑う。全身の毛穴が一気に広がるような感覚に、寒気を覚えて震えが止まらない。
「いッ、そこ……引っ掻かないで……」
「丁寧に洗ってやってんじゃねぇか。まさか感じてんのか? ここで」
「ち、が……違う……アッ、やだ……そんなわけ、ない……ッ」
あくまで洗っているだけだと言い張りながら、指先はついにその場所で静止した。親指と人差し指で摘まみ、まるで潰すようにコリコリと圧迫するが、すぐに石鹸の滑りで弾かれる。もどかしい刺激を繰り返される度に、無意識に腰が揺らいだ。
「あっ、あっ、ちくび、やぁ……ッ、いた、い……っ」
「痛がってるようには見えねぇな」
「だっ、て……だって……!」
どこか甘えたような声が浴室に反響する。耳を塞ぎたいほど嫌なのに、どうしてか胸が沸き立つような感覚を覚えた。大嫌いなはずの自分の声にどんどん煽られて、羞恥心すら感度を高める素材になる。
「だって?」
「ぁ、わ、かんな……ッ、胸……んっ……!」
「女みてぇに感じるか?」
ファイは幾度も弱々しい声で「違う」と繰り返して首を振った。
本当は自分でも嫌になるほど敏感になっている。彼の言うとおり、まるで女にでもなったみたいだ。
そうしているうちに、黒鋼の手が片方、皮膚を伝いながら下肢へと伸びた。半起ちの性器に指が絡みつき、泡を塗りたくられる感覚に「ひ」と息を吸い込む。
今そんな場所に触られたら、ましてや刺激なんてされたら、あっという間に達してしまいそうだ。
「やぁ……! おねが……ッ、ぁ、もう……!」
「ここにこんなもんぶら下げてたって、てめぇはオンナだろ?」
「なっ、ぁ、変な、こと、言わな……ッ」
「俺のオンナだ」
思い切り「バカ」と叫びたかったはずの声は、思わず壁に頭を打ちつけたくなるほどの甘い嬌声にしかならなかった。
黒鋼が掴み上げた性器の先端を親指でくるくると刺激して、手が添えられている片方の乳首にも、全く同じような刺激を仕掛けて来る。
連動した動きに快感が見事にリンクして、身も世もなく悶えることしか出来ない。
膝が踊り、立っているのもやっとなのに、もうこれ以上は耐えられそうになかった。
このままでは本当に頭がおかしくなってしまう。そうなってしまう前に早くいってしまえば、それで終わる。
まるで崖っぷちにいるような感覚に身の竦むような焦りすら覚えつつ、ファイは目を閉じて与えられる快感にだけ集中した。
黒鋼の手が完全に育ちきった性器を追い上げるように刺激しはじめる。この時ばかりはそれをありがたく感じ、全てを素直に受け入れた。
だが、もう限界というところでその動きがピタリと止み、性器から手が離れてしまう。
「ぇ、なん……?」
首だけ振り返って見上げるが、潤んだ目元に誤魔化すかのようなキスをされるだけだった。
胸をいじっていた指も離れ、腰に腕が回される。崩れ落ちそうだった身体がそれによってどうにか支えられたが、ほっとする間などなかった。
「えッ!? ちょ、どこ触って……!?」
石鹸が伝い落ち、すでに滑っている尻の谷間をさらに割るようにして、黒鋼の手が潜り込んだ。頭が真っ白になりなりながらも、何をするつもりなのかを察したファイは腰を捩って逃げを打つ。
けれどその寸前で、指が奥まった場所に先端だけ挿しこまれた。
「いっ……!?」
背を反らし、すんなりと入ってしまった異物へのショックに目を見開く。
黒鋼は「ほう」とも「ふぅん」ともつかない感慨の息を漏らした。
「滑りがいいと、こうもつるんと行くもんか」
「ヒッ、ぃッ、いいから、抜いてっ……!」
「逃げんな。まだ先っちょだけだぞ」
「そういう問題じゃなっ、ああぁちょっ、ダメだってばあぁ……!」
自分で腰を前へ突き出すことで引き抜こうとしたが、許さないとばかりにさらに指が奥まで侵入し、結局は壁に張り付くことになってしまった。
「痛ぇか?」
「いいい、痛くないけど、気持ち悪いぃ!!」
実際、大した痛みはない。
それよりも異物感の方が凄まじかった。自分でも触れたことのないような身体の奥に、他人が押し入っているという恐怖感も半端ない。
抜いて抜いてと喚き続けるも、黒鋼は壁に引っついているファイの背に自分の胸を押し当てつつ、指で浅い場所を幾度も出し入れし始めた。
それだけならただ不快なだけで済んだのだが。
黒鋼のもう片方の手が、僅かに力を失いつつあったファイの性器に再び触れた。瞬間的に同時に攻めるつもりだということが分かって、かといってどうにも出来ずにただ泣きそうな声で呻くしか出来ない。
前は扱かれ、後ろは抽挿が繰り返され、気持ちいいのか悪いのか、感覚が分散されて訳が分からなくなった。
しかし、ふと気がついた。
扱く手の動きも、後ろを出入りする指の動きも、そのリズムが全く同じ早さだということに。
性器を下から上へ扱きあげる時は同時に指を押し込み、上から下へと移る時には、同じ早さで指を抜く。
それがゆっくりと、延々繰り返されているのだ。
太い指はその度に奥を探るようにどんどん深くまで侵入していくようだった。
(き、気づかなければよかった……!)
一度それに意識を向けてしまえば、分散されていた感覚がひとつの束になっていくのを感じた。同時に後ろへの不快感が解消されてしまう。むしろ異物感よりも、内壁を擦られる感覚の方に痺れが走るようになる。
前への刺激と重ねることで、性感を開発されているとでもいうのか。
指が二本に増やされても、ファイは仰け反って呻くだけで抗議するだけの言葉を紡ぐ気力がない。
痛みが全くないわけではないと思うが、なんだかもう、よく分からない。
(滅茶苦茶だ……こんなの……!)
「慣れてきたな。いけそうか?」
「ぁ、う……ッ、ん、ん……わ、から、な……ぁ、で、も……」
冷たい壁に額を擦りつけながら、全ての血液が下肢へと集まっていくのを感じた。
瞼の裏が点滅を繰り返し、たどり着きたい場所がすぐ目の前にあることを知らせている。
そして、それはやってきた。
「あっ、あっ、も……ッ、あッ、ぃっく、ぅ……!!」
精液が勢いよく噴出し、壁を汚す。溺れるような感覚に、息が止まった。
「ひ、ぁ……」
頭の中も目の前も真っ白に染まったまま、腰を抜かしたファイは白い床に膝をついた。
未だに内腿の痙攣が治まらず、肩をビクビクと揺らしながら、は、は、と浅い呼吸を繰り返していると、同じく膝をついた黒鋼が背後からきつく抱きしめてきた。
「はッ、い、今……ぁ、ダメ……触らない、で……」
「いいからしっかり息しろ」
「……ふ、ッ、ぅ」
目頭が熱くなって、鼻先にツンとした痛みが走る。過去3度、好きなように嬲られてきたが、泣くことだけは我慢していたのに。
信じられないような形で絶頂を極めさせられて、ファイの涙腺は一気に崩壊した。
「ッ……!」
慌てて口元を押さえる。ポロポロと涙の雫が落ちて、濡れた頬に吸い込まれるようにして融けていく。
嗚咽が零れそうになるのを必死で堪えていると、ファイの様子に気がついた黒鋼に顎を掴まれ、無理やり後方に上向かされた。
「いっ!」
瞬間、首がゴキっと鳴ったのが微妙に情けない。
それよりも思いっきり泣き顔を至近距離で覗きこまれている方が、ずっと情けないとは思うが。
「なんだおまえ。泣いてんのか」
「……そうだよ。悪い?」
「得意の嘘泣きか?」
「バカ!」
ムッとして、ファイは悔しげに相手の顔を睨みつけた。
「これが見たかったんでしょ? もう満足したよね? 泣かす泣かすって、うるさかったしさ!」
「おまえまだそんなこと言ってんのかよ」
「そんなことって言うけど、実際その通りなんでしょ?」
「ガキだな、てめぇは」
「はぁ!?」
「だから、もういい加減気づけっての」
(こないだから一体なんだよ! 何に気づけっていうんだよッ!)
もう喋るのも嫌になって、ファイは忌々しげにシャワーのコックに手を伸ばすと一気に捻った。
2人の頭上からぬるま湯が降り注ぎ、やがてそれはほどよい熱湯へと変わる。
「とっとと離れて。気がすんだなら、も……ぅ?」
そこでファイは首を傾げた。
今の今まで自分のことばかりに気を取られて、気がつかなかったのだが。
「ねぇ……」
「ん」
「なんかね、当たってる気がする」
「これか?」
「ちょおお擦りつけないで!!」
未だに背後から抱きしめられ、ぴったりと密着する身体の一部分。ファイの臀部付近に硬いナニかがゴリゴリと押し付けられるのを感じて、青褪めた。
また変な気分になっては困ると、あえて相手の素肌は見ないように心がけていたのだが。
ファイが浴室の隅っこへ逃げるのを、黒鋼の腕は阻止しなかった。
身体を丸めるようにして隅に落ち着いたファイが見たのは、立派にそそり勃つ黒鋼のイチモツだった。
「な、なん……なんで……」
「なんでって言われてもな」
「なんでこんなになって……? し、しかも……」
(身の丈に合ったご立派なサイズですこと……)
なにもこんな所まで立派に成長を遂げなくてもいいだろうに……。
ここでもまたファイの男としてのプライドが傷つけられた。
黒鋼はこの狭い浴室で、それでもどっしり胡坐をかくと腕を組む。どこか偉そうにふんぞり返っている、ように見えてしまうのは、突如として芽生えた劣等感の表れだろうか。
「生理現象だろ? まさに」
「だ、だって、今までそんな素振り、ぜんぜん……」
一度目も二度目も三度目も、黒鋼が素肌を晒したのは最初の夜だけだった。それだって上半身だけだ。だから全裸は今回、初めてお目にかかった。
「これは……たまたま、なのかな? それとも、毎回……?」
「バカだな、おまえは心底」
「な、なんでオレがバカって言われないといけないんだろう!」
「そりゃあてめぇがあんあん言ってりゃ、こうなって当然だろ」
「そんなことを真顔で言われても、どう反応すれば……じゃあ、いつもはこれ、どういう風に……?」
「一人で処理してたに決まっ」
「い、いい! なんかいたたまれないから聞きたくない!」
「自分で聞いといてなんだそりゃ。おら、来い」
うるさいよー、と言って赤い顔を両手で覆っていると、ぬっと伸びてきた腕に手首を掴まれた。
未だに腰がじんじんと痺れて動きが鈍いファイは、何の反応もできないまま身体をひっ繰り返されて、気づけば浴槽に両手をつかされていた。
「ちょ、え?」
「解した意味がなくなんだろ、バカ」
「バカバカってー! バカって言った方がバカなん……え、ちょ、ま、まさか……?」
「そのまさか」
再び背中から覆いかぶさって来る身体に、腰をがっちりと掴まれた。
シャワーによって身体のほとんどの石鹸は落とされているが、中はまだ多分、落ち切っていない。
(だからってあんな化け物じみたブツ入るわけないでしょ!!)
「ぃ……ッ!?」
先ほど黒鋼の太い指を二本も飲みこまされていた場所に、明らかにそれとは質量の異なるものがぐっと押し付けられた。
しかも物凄く熱くて、腰が引けそうになるのをさらに引き寄せられる。
「む、無理! 無理だってば! ねぇちょっと聞いてる!?」
「うるせぇ」
黒鋼の唇が耳元に強く押し付けられて、荒い息使いがじんわりとファイの聴覚を刺激した。
ピクンと反応してしまうのを止められない中、トドメとばかりに「余裕がねぇよ」という吐息混じりの声が吹き込まれて、心臓が跳ね上がる。
(うわ……この声、やばすぎる……)
先刻の黒鋼の言葉を思い出す。
あれはつまり、これまでずっと彼は我慢してくれていた、という解釈でいいのだろうか。
それ以前に、自分の反応を見てあんなにも性器を大きくしていたのかと考えると。
(ちょっと……嬉しい、なんて……?)
一瞬だけ胸の中を満たしかけた甘い何かを、ファイは首を振って払拭した。
喜ぶバカがいるか。本当にどうかしている。
だがそれ以上の否定をする前に、黒鋼のブツがぐっと押し込まれて、考える余裕がなくなった。
「いっ、た……! 痛い……! 無理、絶対に無理ぃ……!!」
それでも石鹸の恐ろしいまでの力を借りて、ずん、と先端が押し入って来た。身を裂かれるような鋭い痛みが全身を駆け抜けて、目の前が真っ赤に染まる。
嫌だ嫌だと叫んで両腕をバタつかせ、必死で逃れようとしても背後から拘束する腕の力には到底及ばない。
結局、宙を空ぶるだけだった両手は浴槽の縁に戻されて、あとは自分の体重を支えるだけで精いっぱいだった。どうしたらいいか分からずに、大きく首を振る。
「いッ……痛い、の……! そんなおっきいの、入るわけないよぉ……!」
怖い。
完全に恐怖に支配されたファイはパニックを起こしかけた。
訳も分からずただ叫び出したいような衝動に囚われて、一気に肺に酸素を取り込んだところで、するりと優しく下腹を撫でられる。
絶叫する寸前で、耳の中に黒鋼の吐息混じりの声が囁かれた。
「その吸った息、ゆっくり吐き出せるか?」
「ヒッ、ぃ、ひ……」
「ゆっくり、できるな?」
ファイはきゅっと目を閉じると、涙を幾筋も溢れさせながらコクコクと頷いた。
震えて途切れ途切れになりながらも、いっそ苦しいほど吸いこんでいた息を吐き出すと「よくできたな」という声と共にさらに強く抱きしめられる。
(なにがよくできた、だ……生意気なんだよ……)
7つも年下のくせに、あんなに小さくて、強がるばかりでひ弱だったくせに。
なのに、信じられないくらい心が落ち着く。痛くて怖くてどうしようもないのに、許してしまいそうになる。
もう身を預けるより他にないのだと察したとき、再び「息を吸え」と言われて従った。その瞬間に合わせて、絶対に無理だと思っていたはずの大きなものが、どすんと中に納まった。
全部入ったぞ、という黒鋼の呼吸も酷く乱れていて、ファイは涙と一緒に嗚咽を漏らした。
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その間、ファイは実に2回も同じようにねじ伏せられて、身体を好き勝手されてしまうという不甲斐ない事態に陥った。唇だけなら不意打ちでもう幾度奪われたか知れない。
(なんでかわせないかなぁ……)
じゅうじゅうという食欲をそそる音を立てながら、熱せられたフライパンの上で肉と野菜が踊っている。自室のキッチンで夕食の支度をしているファイの溜息は、その音によって掻き消えた。
教材研究と担当教師との打ち合わせが長引いているらしい黒鋼は、まだ帰宅する気配がない。
今や彼のいないワンルームはファイにとっての癒し空間となっていた。傍にいると、いつちょっかいをかけられるか知れたものじゃないからだ。
自分の部屋なのにろくに休めもしないなんて、もういっそ残りの2週間は学校にでも泊まり込もうか。
(案外それがいいかもしれないなー)
摘まみ出すつもりで意気込んでいたはずなのに、あんなことをされてまでズルズルと一週間も経過している。
黒鋼が何を考えているのかさっぱり分からないが、自分も人のことは言えない。追い出すだけの理由は十分にあるはずなのに。
基本のんびりマイペースなファイの性質では、常に気を張り詰めているなんて真似は苦痛以外の何物でもなかった。
だいたい、黒鋼は一体いつスイッチが入るか予測不能すぎる。
実習初日の放課後のように、ちょっと気を抜いて会話をしただけで隙を突かれるなんてことがざらにあった。
ましてや同じ部屋で生活していればなおさら、常に相手の気配を感じていても、それにばかり気をやってはいられない。
そう、例えば今みたいに料理をしている時だとか。
「美味そうだな」
「ぴゃっ!?」
ぼんやりしていたところへ、唐突に耳元で声がしたかと思うと、背後から伸びてきた腕にぎゅうと抱きすくめられた。
おかしな悲鳴を上げたファイは思わず菜箸を取り落としそうになる。
「危ねぇな」
「だ、誰のせいかな! 音も気配もなく近づくのやめてよねー!」
「声ならかけたぞ。考え事か? 料理中にぼんやりすんな」
「それもぜーんぶ君のせいだ!!」
言ってから、しまったと思う。
案の定、黒鋼はニヤリと笑うと腰を抱く腕に力を込めた。
「煽るなよ」
「ば、バカ言わないで……っ、ちょっと、離れてくれないと困る」
「いいから続けろ」
「あのねぇ! 毎度毎度こうやって不意をつくのホントやめてってば!」
「隙だらけなのが悪い」
「隙って……!」
2回目は風呂上がりに水を飲んでホッと息をついた瞬間だったし、3回目は今日のように先に帰宅して、ちょっとソファでうたた寝をしていた時に、襲われた。
これが4回目になってはたまらないと、ファイはフライパンを手放さないまま激しく身を捩った。
「危ねぇって」
「あっ、こら! 途中なんだから火止めないの!」
「焦げてる」
「あ!!」
ほんのちょっとの隙に、野菜炒めは所々が真っ黒に焦げてしまっていた。
ファイは思わず脱力して「やっちゃった……」と呟きながら菜箸を手放す。溜息ばかり、最近は絶えずつかされている。
黒鋼はノンキに「食えりゃいい」と偉そうに言いながら、ファイの後頭部に唇を落とした。
「もー! ぜーんぶ黒たんのせいだからね! いい加減離してってば! 汗臭いよ!」
「おまえ、俺の汗好きだろ」
「はー!?」
それでもなぜか、咄嗟に目が泳ぐ。
本当のところ、汗臭いというのとは少し違う。なんと言えばいいのか、例えばフェロモン、とでも表現すればしっくり来るのか。
そんなことを考えて、ファイは頭を抱えたくなった。
たった一週間で自分の性癖が迷子になってしまったような気がして仕方がない。
最初の夜にこの身体を組み伏せた黒鋼の、ほんのり汗ばんだ素肌とその香りを思い出すだけで、不思議と身体の奥が熱くなる。
これは認めるわけにはいかないと、それを慌てて自分の中で掻き消して平静を装った。
「ひ、人を変態みたいに言わないでよね」
「よく言うぜ。ショタコン野郎が」
「それすっごい誤解! あれはあくまで黒たん限定で……あっ、今のナシ! 忘れて!」
今度は黒鋼が深く溜息を零す番だった。
「だから……煽るんじゃねぇって」
「煽ってないってば!」
だいたい今の黒鋼と昔の黒鋼では別人にも等しいのだから、煽るもなにもない。
それなのに、まるで熱烈な愛の告白でもしてしまったように頬が赤くなってしまうのは、どうしてだろう。
(ああもう! なんでこうなるかなー!)
「と、とにかく! もうお触りは禁止! 特にちょっと人が油断してる隙をつくとか、そういうのナシ!」
「例えば?」
「風呂上がりにほっこりしてる時とか!」
「あれは風呂上がりのてめぇがエロい顔してんのが悪い」
「ちょっと居眠りしてる時とか!」
「可愛い顔してよだれ垂らしてんのが悪い」
「もう! いい加減からかうのよしてってば!!」
幼い頃の黒鋼はこんな思いでいたのだろうかと、今さら気づいたってもう遅い。
やっぱり悪いことをすれば同じだけ返って来るのだ。ファイは彼に、ここまで行き過ぎたセクハラはしてないけれど。
「よし。汗臭ぇってんなら風呂でも入るか」
腕の中の人間が地団駄を踏みそうになっているのも知らず、黒鋼はファイを抱きしめていた腕を緩めた。
今日は素直に解放してくれるのかとホッとしたのも束の間。
また担がれた。
「え!?」
「おまえもまだだろ?」
「いやいやいや! まだだけど! まだだけども!」
「背中流してやるよ」
「絶対それだけで済まないくせにー!!」
「なんだ。期待してんのか」
「ちが……!!」
……ホントに違うの?
そんな疑問を、向こう岸にいるもう一人の自分が軽蔑するような眼差しと一緒に投げて寄こしたような、そんな気がした。
*
狭い。狭すぎる。
ボディソープの香りが立ち込める浴室。
ただでさえ一人はバカみたいにデカイのに、男2人が一緒に入り込めばスペースに余裕などあるはずがない。
(もう、どうにでもなっちゃえ……)
先刻まで勢いよく噴射されていたシャワーは、今は止められて熱気だけを残している。
どこか投げやりな気持ちになっているファイが置かれている現状といえば、黒鋼によって身体を泡まみれにされているというものだった。
どうせ抵抗したところで力では敵わないし、一通り人の身体で遊んで満足すれば、それで終わるのだろうから。
「ッ、……ぅ……んっ……!」
滑りそうになる両手をタイル状の壁につくと、両腕をどうにか突っ張らせて崩れ落ちそうになる身体を支える。背後からぬるぬると背中を撫で上げる手の感触に、肩を竦めて耐えた。
両肩から腕の外側にかけてを大きな手が幾度も這い、手の甲を掠めると今度は内側をくすぐるようにしながら引いていく。
指先が脇の下へと到達して、窪みを抉るようにねっとり撫でられると思わず大きな悲鳴を上げそうになった。
「――ッ!!」
声はどうにか押さえられても、ビクつく身体だけはどうにもならない。
そのまま、両脇を上下に行ったり来たりを繰り返す黒鋼の手は、明確な意図を持ってファイの反応を楽しんでいた。
背中を流すなんて、分かってはいたがまるきり嘘の塊だった。
「ふっ、ぅ……ッ、ん……ッ、……っ」
「どうした? エロい声出てんぞ」
「だ、して、ない!」
耳元にわざと吹き込むようにしてかけられる声から、大きく首を左右に振って逃れる。ゴムを取り払った長く湿った金糸が頬に張り付いた。
痛いほど下唇を噛み締めるのは、ここが無駄に音を反響させる場所だと分かっているからだ。自分のあの女のように喘ぐ声はどうしても許せない。ファイにだって、それなりのプライドは残っている。
黒鋼の手が脇の下からぬっと胸へと伸びて包み込んだ。石鹸の泡で滑る力を借りながら、そこから下腹ギリギリまでを行き来しはじめる。
「硬くなってきたな」という声がしたと同時に、太い指先が胸の二つのしこりを引っ掻いた。
「あッ……!」
思わず上がってしまった声に気を良くしたように、悪戯な指先は手の平で腹の上を行き来しながら、その都度そこを引っ掻いた。
鈍痛にも似た妙な感覚が、いちいち腰に集まっていくような気がして戸惑う。全身の毛穴が一気に広がるような感覚に、寒気を覚えて震えが止まらない。
「いッ、そこ……引っ掻かないで……」
「丁寧に洗ってやってんじゃねぇか。まさか感じてんのか? ここで」
「ち、が……違う……アッ、やだ……そんなわけ、ない……ッ」
あくまで洗っているだけだと言い張りながら、指先はついにその場所で静止した。親指と人差し指で摘まみ、まるで潰すようにコリコリと圧迫するが、すぐに石鹸の滑りで弾かれる。もどかしい刺激を繰り返される度に、無意識に腰が揺らいだ。
「あっ、あっ、ちくび、やぁ……ッ、いた、い……っ」
「痛がってるようには見えねぇな」
「だっ、て……だって……!」
どこか甘えたような声が浴室に反響する。耳を塞ぎたいほど嫌なのに、どうしてか胸が沸き立つような感覚を覚えた。大嫌いなはずの自分の声にどんどん煽られて、羞恥心すら感度を高める素材になる。
「だって?」
「ぁ、わ、かんな……ッ、胸……んっ……!」
「女みてぇに感じるか?」
ファイは幾度も弱々しい声で「違う」と繰り返して首を振った。
本当は自分でも嫌になるほど敏感になっている。彼の言うとおり、まるで女にでもなったみたいだ。
そうしているうちに、黒鋼の手が片方、皮膚を伝いながら下肢へと伸びた。半起ちの性器に指が絡みつき、泡を塗りたくられる感覚に「ひ」と息を吸い込む。
今そんな場所に触られたら、ましてや刺激なんてされたら、あっという間に達してしまいそうだ。
「やぁ……! おねが……ッ、ぁ、もう……!」
「ここにこんなもんぶら下げてたって、てめぇはオンナだろ?」
「なっ、ぁ、変な、こと、言わな……ッ」
「俺のオンナだ」
思い切り「バカ」と叫びたかったはずの声は、思わず壁に頭を打ちつけたくなるほどの甘い嬌声にしかならなかった。
黒鋼が掴み上げた性器の先端を親指でくるくると刺激して、手が添えられている片方の乳首にも、全く同じような刺激を仕掛けて来る。
連動した動きに快感が見事にリンクして、身も世もなく悶えることしか出来ない。
膝が踊り、立っているのもやっとなのに、もうこれ以上は耐えられそうになかった。
このままでは本当に頭がおかしくなってしまう。そうなってしまう前に早くいってしまえば、それで終わる。
まるで崖っぷちにいるような感覚に身の竦むような焦りすら覚えつつ、ファイは目を閉じて与えられる快感にだけ集中した。
黒鋼の手が完全に育ちきった性器を追い上げるように刺激しはじめる。この時ばかりはそれをありがたく感じ、全てを素直に受け入れた。
だが、もう限界というところでその動きがピタリと止み、性器から手が離れてしまう。
「ぇ、なん……?」
首だけ振り返って見上げるが、潤んだ目元に誤魔化すかのようなキスをされるだけだった。
胸をいじっていた指も離れ、腰に腕が回される。崩れ落ちそうだった身体がそれによってどうにか支えられたが、ほっとする間などなかった。
「えッ!? ちょ、どこ触って……!?」
石鹸が伝い落ち、すでに滑っている尻の谷間をさらに割るようにして、黒鋼の手が潜り込んだ。頭が真っ白になりなりながらも、何をするつもりなのかを察したファイは腰を捩って逃げを打つ。
けれどその寸前で、指が奥まった場所に先端だけ挿しこまれた。
「いっ……!?」
背を反らし、すんなりと入ってしまった異物へのショックに目を見開く。
黒鋼は「ほう」とも「ふぅん」ともつかない感慨の息を漏らした。
「滑りがいいと、こうもつるんと行くもんか」
「ヒッ、ぃッ、いいから、抜いてっ……!」
「逃げんな。まだ先っちょだけだぞ」
「そういう問題じゃなっ、ああぁちょっ、ダメだってばあぁ……!」
自分で腰を前へ突き出すことで引き抜こうとしたが、許さないとばかりにさらに指が奥まで侵入し、結局は壁に張り付くことになってしまった。
「痛ぇか?」
「いいい、痛くないけど、気持ち悪いぃ!!」
実際、大した痛みはない。
それよりも異物感の方が凄まじかった。自分でも触れたことのないような身体の奥に、他人が押し入っているという恐怖感も半端ない。
抜いて抜いてと喚き続けるも、黒鋼は壁に引っついているファイの背に自分の胸を押し当てつつ、指で浅い場所を幾度も出し入れし始めた。
それだけならただ不快なだけで済んだのだが。
黒鋼のもう片方の手が、僅かに力を失いつつあったファイの性器に再び触れた。瞬間的に同時に攻めるつもりだということが分かって、かといってどうにも出来ずにただ泣きそうな声で呻くしか出来ない。
前は扱かれ、後ろは抽挿が繰り返され、気持ちいいのか悪いのか、感覚が分散されて訳が分からなくなった。
しかし、ふと気がついた。
扱く手の動きも、後ろを出入りする指の動きも、そのリズムが全く同じ早さだということに。
性器を下から上へ扱きあげる時は同時に指を押し込み、上から下へと移る時には、同じ早さで指を抜く。
それがゆっくりと、延々繰り返されているのだ。
太い指はその度に奥を探るようにどんどん深くまで侵入していくようだった。
(き、気づかなければよかった……!)
一度それに意識を向けてしまえば、分散されていた感覚がひとつの束になっていくのを感じた。同時に後ろへの不快感が解消されてしまう。むしろ異物感よりも、内壁を擦られる感覚の方に痺れが走るようになる。
前への刺激と重ねることで、性感を開発されているとでもいうのか。
指が二本に増やされても、ファイは仰け反って呻くだけで抗議するだけの言葉を紡ぐ気力がない。
痛みが全くないわけではないと思うが、なんだかもう、よく分からない。
(滅茶苦茶だ……こんなの……!)
「慣れてきたな。いけそうか?」
「ぁ、う……ッ、ん、ん……わ、から、な……ぁ、で、も……」
冷たい壁に額を擦りつけながら、全ての血液が下肢へと集まっていくのを感じた。
瞼の裏が点滅を繰り返し、たどり着きたい場所がすぐ目の前にあることを知らせている。
そして、それはやってきた。
「あっ、あっ、も……ッ、あッ、ぃっく、ぅ……!!」
精液が勢いよく噴出し、壁を汚す。溺れるような感覚に、息が止まった。
「ひ、ぁ……」
頭の中も目の前も真っ白に染まったまま、腰を抜かしたファイは白い床に膝をついた。
未だに内腿の痙攣が治まらず、肩をビクビクと揺らしながら、は、は、と浅い呼吸を繰り返していると、同じく膝をついた黒鋼が背後からきつく抱きしめてきた。
「はッ、い、今……ぁ、ダメ……触らない、で……」
「いいからしっかり息しろ」
「……ふ、ッ、ぅ」
目頭が熱くなって、鼻先にツンとした痛みが走る。過去3度、好きなように嬲られてきたが、泣くことだけは我慢していたのに。
信じられないような形で絶頂を極めさせられて、ファイの涙腺は一気に崩壊した。
「ッ……!」
慌てて口元を押さえる。ポロポロと涙の雫が落ちて、濡れた頬に吸い込まれるようにして融けていく。
嗚咽が零れそうになるのを必死で堪えていると、ファイの様子に気がついた黒鋼に顎を掴まれ、無理やり後方に上向かされた。
「いっ!」
瞬間、首がゴキっと鳴ったのが微妙に情けない。
それよりも思いっきり泣き顔を至近距離で覗きこまれている方が、ずっと情けないとは思うが。
「なんだおまえ。泣いてんのか」
「……そうだよ。悪い?」
「得意の嘘泣きか?」
「バカ!」
ムッとして、ファイは悔しげに相手の顔を睨みつけた。
「これが見たかったんでしょ? もう満足したよね? 泣かす泣かすって、うるさかったしさ!」
「おまえまだそんなこと言ってんのかよ」
「そんなことって言うけど、実際その通りなんでしょ?」
「ガキだな、てめぇは」
「はぁ!?」
「だから、もういい加減気づけっての」
(こないだから一体なんだよ! 何に気づけっていうんだよッ!)
もう喋るのも嫌になって、ファイは忌々しげにシャワーのコックに手を伸ばすと一気に捻った。
2人の頭上からぬるま湯が降り注ぎ、やがてそれはほどよい熱湯へと変わる。
「とっとと離れて。気がすんだなら、も……ぅ?」
そこでファイは首を傾げた。
今の今まで自分のことばかりに気を取られて、気がつかなかったのだが。
「ねぇ……」
「ん」
「なんかね、当たってる気がする」
「これか?」
「ちょおお擦りつけないで!!」
未だに背後から抱きしめられ、ぴったりと密着する身体の一部分。ファイの臀部付近に硬いナニかがゴリゴリと押し付けられるのを感じて、青褪めた。
また変な気分になっては困ると、あえて相手の素肌は見ないように心がけていたのだが。
ファイが浴室の隅っこへ逃げるのを、黒鋼の腕は阻止しなかった。
身体を丸めるようにして隅に落ち着いたファイが見たのは、立派にそそり勃つ黒鋼のイチモツだった。
「な、なん……なんで……」
「なんでって言われてもな」
「なんでこんなになって……? し、しかも……」
(身の丈に合ったご立派なサイズですこと……)
なにもこんな所まで立派に成長を遂げなくてもいいだろうに……。
ここでもまたファイの男としてのプライドが傷つけられた。
黒鋼はこの狭い浴室で、それでもどっしり胡坐をかくと腕を組む。どこか偉そうにふんぞり返っている、ように見えてしまうのは、突如として芽生えた劣等感の表れだろうか。
「生理現象だろ? まさに」
「だ、だって、今までそんな素振り、ぜんぜん……」
一度目も二度目も三度目も、黒鋼が素肌を晒したのは最初の夜だけだった。それだって上半身だけだ。だから全裸は今回、初めてお目にかかった。
「これは……たまたま、なのかな? それとも、毎回……?」
「バカだな、おまえは心底」
「な、なんでオレがバカって言われないといけないんだろう!」
「そりゃあてめぇがあんあん言ってりゃ、こうなって当然だろ」
「そんなことを真顔で言われても、どう反応すれば……じゃあ、いつもはこれ、どういう風に……?」
「一人で処理してたに決まっ」
「い、いい! なんかいたたまれないから聞きたくない!」
「自分で聞いといてなんだそりゃ。おら、来い」
うるさいよー、と言って赤い顔を両手で覆っていると、ぬっと伸びてきた腕に手首を掴まれた。
未だに腰がじんじんと痺れて動きが鈍いファイは、何の反応もできないまま身体をひっ繰り返されて、気づけば浴槽に両手をつかされていた。
「ちょ、え?」
「解した意味がなくなんだろ、バカ」
「バカバカってー! バカって言った方がバカなん……え、ちょ、ま、まさか……?」
「そのまさか」
再び背中から覆いかぶさって来る身体に、腰をがっちりと掴まれた。
シャワーによって身体のほとんどの石鹸は落とされているが、中はまだ多分、落ち切っていない。
(だからってあんな化け物じみたブツ入るわけないでしょ!!)
「ぃ……ッ!?」
先ほど黒鋼の太い指を二本も飲みこまされていた場所に、明らかにそれとは質量の異なるものがぐっと押し付けられた。
しかも物凄く熱くて、腰が引けそうになるのをさらに引き寄せられる。
「む、無理! 無理だってば! ねぇちょっと聞いてる!?」
「うるせぇ」
黒鋼の唇が耳元に強く押し付けられて、荒い息使いがじんわりとファイの聴覚を刺激した。
ピクンと反応してしまうのを止められない中、トドメとばかりに「余裕がねぇよ」という吐息混じりの声が吹き込まれて、心臓が跳ね上がる。
(うわ……この声、やばすぎる……)
先刻の黒鋼の言葉を思い出す。
あれはつまり、これまでずっと彼は我慢してくれていた、という解釈でいいのだろうか。
それ以前に、自分の反応を見てあんなにも性器を大きくしていたのかと考えると。
(ちょっと……嬉しい、なんて……?)
一瞬だけ胸の中を満たしかけた甘い何かを、ファイは首を振って払拭した。
喜ぶバカがいるか。本当にどうかしている。
だがそれ以上の否定をする前に、黒鋼のブツがぐっと押し込まれて、考える余裕がなくなった。
「いっ、た……! 痛い……! 無理、絶対に無理ぃ……!!」
それでも石鹸の恐ろしいまでの力を借りて、ずん、と先端が押し入って来た。身を裂かれるような鋭い痛みが全身を駆け抜けて、目の前が真っ赤に染まる。
嫌だ嫌だと叫んで両腕をバタつかせ、必死で逃れようとしても背後から拘束する腕の力には到底及ばない。
結局、宙を空ぶるだけだった両手は浴槽の縁に戻されて、あとは自分の体重を支えるだけで精いっぱいだった。どうしたらいいか分からずに、大きく首を振る。
「いッ……痛い、の……! そんなおっきいの、入るわけないよぉ……!」
怖い。
完全に恐怖に支配されたファイはパニックを起こしかけた。
訳も分からずただ叫び出したいような衝動に囚われて、一気に肺に酸素を取り込んだところで、するりと優しく下腹を撫でられる。
絶叫する寸前で、耳の中に黒鋼の吐息混じりの声が囁かれた。
「その吸った息、ゆっくり吐き出せるか?」
「ヒッ、ぃ、ひ……」
「ゆっくり、できるな?」
ファイはきゅっと目を閉じると、涙を幾筋も溢れさせながらコクコクと頷いた。
震えて途切れ途切れになりながらも、いっそ苦しいほど吸いこんでいた息を吐き出すと「よくできたな」という声と共にさらに強く抱きしめられる。
(なにがよくできた、だ……生意気なんだよ……)
7つも年下のくせに、あんなに小さくて、強がるばかりでひ弱だったくせに。
なのに、信じられないくらい心が落ち着く。痛くて怖くてどうしようもないのに、許してしまいそうになる。
もう身を預けるより他にないのだと察したとき、再び「息を吸え」と言われて従った。その瞬間に合わせて、絶対に無理だと思っていたはずの大きなものが、どすんと中に納まった。
全部入ったぞ、という黒鋼の呼吸も酷く乱れていて、ファイは涙と一緒に嗚咽を漏らした。
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仕返し、の一言で片づけられるのは、正直心外だった。
この男は、大きな勘違いをしている。仕返しなんてそんな子供じみた真似に、今の黒鋼は興味がなかった。
昔はいつか絶対に同じだけの目に遭わせてやろうと、呪詛のように胸に刻む日々を送っていたけれど。
成長につれて、募るのは恋しさばかりだった。
家族揃って元の家へ戻り、隣にはもう見ず知らずの他人しかいないと知った時の、あの喪失感を思い出す。
物心ついた頃からよくしてくれていた老夫婦の死を知り、一応は親戚だと言う見知らぬ夫婦にファイの居場所を聞いたが、彼らは「さぁねぇ」と首を傾げるだけだった。
その余所余所しさは不快でしかなく、果たしてファイはどんな形でこの家を離れたのかと、思いを巡らせるだけで切なさを覚えた。
追われるばかりだった黒鋼は、その時からずっとファイの背を追っていた。
ファイが本当に昔言っていたように、教師になっているとは限らなかった。まだ日本にいるのかどうかも。
それでも進路を決める上で最大のキッカケにはなった。自分の性にも合っているような気がしたし、心の奥底では『もしかしたら』という期待もあった。
そんな中、大学の講師が偶然この学園の卒業生で、なかなか実習先が決まらずにいた黒鋼は、その講師の口利きの元ここでの実習が決まった。
あらかじめ下調べをしていた折に、またも偶然ファイがこの学園にいることを知り、強い引力のようなものを感じて胸が震えた。
再会した彼は髪が伸びたという変化を除き、あの頃のままの姿で黒鋼の前に姿を現した。その変わらなさに、積もり積もった恋しさは愛しさに変わった。
黒鋼の中にあるこの熱情を、本人が知りもしないのは無理もない。仕返しだなどと、そう思い込まれても。
実はこう見えて密かに浮かれていたのは事実だった。若さも手伝い、自制が利かずについ欲求を最優先にしてしまった。
もしファイのことをひたすら嫌煙していた頃の自分が今の状態を知ったら、きっと泡を吹いて倒れるどころの騒ぎでは収まらないだろう。
初恋の相手を、馬鹿の一つ覚えのように思い続けたまま大人になってしまうなんて、その相手が、よりによってこいつだなんて。
*
「わっ、わっ、えっ、ちょっと……!?」
ソファから立ち上がり、おもむろに手を伸ばせばファイは咄嗟に身を引こうとした。
だが、それよりも早く腕を掴むと強く引き寄せ、そのまま流れるような動きでヒョイと肩に担ぎ上げる。
「ッ!?」
息を飲む気配の後、ギャアギャアと騒ぎ出したファイによって背中をドカドカと叩かれるが、痛くも痒くもない。
そんなことよりも、想像以上に薄い身体とその非力さに驚く。こんなにもくみしやすい相手に、昔の自分は手の平で転がされていたのか。そう思うと、実に久方ぶりに『悔しい』という感情が込み上げた。
弄ばれる屈辱を懐かしみながら、同時に腹立たしさが蘇る。
「ぅあ……っ!!」
華奢な身体を担いだまま移動して、ベッドに向かって乱暴に放ったのはちょっとした八つ当たりだ。弾みで幾度かバウンドした身体は強張りながらも、すぐに逃げの態勢を整えようとするが、許さない。
すかさずベッドに乗り上げて、両手を頭上で一纏めにする形でシーツに縫いつける。
黒鋼が何をするつもりなのかを察したらしいファイは、途端に青褪めた表情を浮かべた。
ゾクリとした。
再会を果たしてからというもの、この僅かな時間でファイの様々な表情を見たように思う。戸惑いの顔、呆けたようにポカンと口を開けた顔、怒った顔や、焦った顔。どれも人間味があって新鮮だったが、今のこれはかなり、ぐっと来る。
今なら昔、なぜファイが自分に対して嫌がらせめいたちょっかいを仕切りにかけたがっていたのかが、分かるような気がした。
これは癖になりそうだ。
「あ、あのね黒たん?」
「なんだ」
「オレ、謝ったよねー?」
「ああ、欠片も気持ちはこもってなかったみてぇだがな」
「今からもう一回、ちゃんと気持ち込めたら、このフラグって回避できたりする……?」
引き攣る口元で、なんとか笑おうとして失敗しているのが見て取れる。
それほど余裕がないのかと思うと、黒鋼は口元が緩むのを抑えきれず、小さく鼻で笑って「それは難しいな」と答えた。
「どっちみち手ぇ出す気でいたからな、俺は」
「っ、て、手……!?」
「どうせなら、たっぷり昔の恩返しするってのも乙かもしれねぇよな?」
「そ、そんなの……ッ!」
尚も何か言い募ろうとするうるさい唇を、噛みつくような激しさで塞いだ。必死で逃れようとする身体は体重をかけてしっかりと押さえつける。
これが全力なのかと思えるほど、その抵抗はか弱いものに思えた。
(俺のもんだ)
爆発的に膨らむ支配欲。目の前にぶら下がるご馳走はかつての天敵であり、黒鋼に恋という感情を植え付けた張本人だ。
苦しげに呻く声を、その呼吸すら奪いながら狭い口内を蹂躙する。逃げまどう舌を捕えることさえ簡単で、散々擦りあげてから緩く吸ってやる。こいつはこれに弱いらしい。今朝知ったばかりの弱点。
呻く声に甘さが混ざり、肩が一度大きく跳ねるのが分かる。もがき続けていたファイの身体からは、徐々に抵抗の色が失われていった。
散々嬲ってから解放してやれば、酸欠に赤く染まった目元と潤んだ瞳が揺れていた。はかはかと浅い呼吸を繰り返しながら、彼は黒鋼を睨むと濡れた唇を一度だけきゅっと結んだ。
「ずるい……」
なにがだよ、と苦笑すると、ファイの眉間の皺が深くなる。
「も、いいでしょ……こういうことは、ちゃんと、好きな子としなよ……」
「してるじゃねぇか」
「そういうの、もういいって……ちゃんと謝るから、もうからかわないでよ」
「からかってねぇ」
全く、人の気も知らないで。
幼き日、自分がこの男への想いに気づくのにどれだけ苦悩したと思っているのか。
黒鋼はほんの少しの苛立ちと、もう後には引けないほど火のついた欲求に身を任せ、ファイの顎を掴むとその頬にも唇を落とした。
獲物を味見するように、舌を這わせる。ビクリという反応さえも体重で封じて、そのまま白い首筋に吸いつきながらインナーの裾から手を潜り込ませた。
「ぅ、そ、でしょ? ッ、ねぇ! 本気!?」
騒ぎ出したファイが、再び身を捩りだした。
火事場の馬鹿力という表現がしっくり来るような暴れっぷりに、行為を中断せざるをえなくなる。少しは落ち着いて堪能させろという不満は、ひとまず飲みこんだ。
黒鋼は、「うるせぇな」と呟くと潜り込ませていた手を引き抜き、僅かに身体を浮かせた。
チャンスとばかりに隙間に膝を捻じ込もうとする足の動きを、大きく開かせるように身体を割り込ませ、身動きできなくする。そして服の上から股間を乱暴に鷲掴みにする。そこは彼の抵抗とは真逆の変化を見せていた。
ヒ、という短い悲鳴を上げて、ファイは身を強張らせた。最大の弱点を押さえ、黒鋼は余裕たっぷりに笑う。
「なんだ? これは」
「ちょ、と! 洒落に、なってな……ッ」
「口吸われただけでこんなにして、抵抗も糞もねぇよな?」
「生理現象だってば! オレの意思じゃな、ぁッ、あの、ホント、離して……」
訴えを無視してその場所をゆるゆると揉んだ。
やだ、という悲鳴に煽られながら、強弱をつけて硬さの増すそこを刺激していく。服の上からでもその場所に熱が集まっているのが分かった。
上がっていく息使いは「嫌だ」と繰り返す割にはどこか甘くもある。
生理現象、と彼は言ったが、ここまで反応を示すとなると、それはつまり生理的な嫌悪感そのものがない、ということだ。きっと本人は気づいていないし、この分ではそう簡単に認めるとも思えないが。
それにしても、この身体は随分と感度がいいらしい。これには正直、黒鋼も内心驚きを隠せなかった。
「ぃ、た、痛いよ! やめ、て!」
「嘘つけ。窮屈そうに膨らんでるぜ」
「やだ、嘘だそんなの……!」
なら見てやろうじゃないかと、器用に片手でベルトを外して前も寛げてしまう。その間も一纏めにした両手首は放さない。縫いつけていたそれはシーツからは離れたが、ファイの胸の上に押し付けるようにしてさらに強く拘束した。
下着が覗き、ウエストのゴムに爪を引っ掛けるとファイと目を合わせる。
「よく見てろよ?」
短く告げて、嫌々と首を振るのも構わず引き下げた瞬間、強制的に高ぶらされた熱の塊が見事に顔を出した。
*
「ほらな」
にやりと笑う黒鋼に、ファイは咄嗟に何も言い返すことが出来ずにただ全身を赤に染める。
この身体に一体何が起こっているというのか、こうして見せつけられても頭の中で収拾がつかなかった。
自分の意思とは裏腹に、あの執拗な口付けが灯した火はそう簡単に鎮まる気配がない。
黒鋼のキスはあまりにも激しくて、強引なのに確実に弱点を捉え、こちらに考える隙を与えなかった。
そこへ来て急所を刺激されたのでは、きっと誰だってこうなると……そう思いたい。
「こ、こんなの誰だって、こんなことされたら……!」
「馬鹿」
「んなっ!?」
身体を伸ばしてきた黒鋼の顔がぐっと近づく。
咄嗟に顔を背けてぎゅっと目を瞑ると、耳元に低い声が熱い息と一緒に吹き込まれた。
「いい加減、気づけ」
「な、にを、あっ、ちょっと、やめ……!」
耳たぶを嬲られながら、下着からすっかり顔を出していた性器を手の平で握りこまれる。水音をたてながら、耳の穴に舌が差し込まれると、情けないほど身体が震えた。
もっと育てとばかりに加えられる性器への刺激は絶妙な力加減で、いけないと思いつつ抗えない。
「ぃ、や……ぁッ……あっ、あっ、や、だ……!」
こなんなにも一方的に攻められるなんて、生まれて初めての経験だった。
性器を扱く手は大きくて、押さえつける腕は力強くて、今更のように相手は女性ではなく、自分と同じ『雄』なのだと意識させられる。
(オレ、男に……黒たん、に)
いいように、弄ばれているのに。
(ばか、何考えて……)
あの美しい、獣のような若い身体がこんなにも近くにあって、ほんのりと汗ばんでいる。無意識のうちに、ファイは物欲しげに喉を鳴らしていた。
一瞬だけ、幼い少年の姿が脳裏を掠めて、すぐに消える。
(ああ、ダメだ)
本来なら抱かなければならないはずの不快感が、どこを探しても見当たらない。それどころか背筋を駆け上がったのは甘い痺れで、その感覚が腰の中心へと痛いほど伝わる。
いつしか胸の上でクロスするように押さえ込まれていた両腕が、自由になっていた。なのに、逃れようとする意思がどこか遠くにある。
そんなものよりもずっと近い場所に、大きな快感の波が押し寄せていた。きっと自分は、この波に溺れる。
「ビクビクいってるぜ。おまえのここ」
「ふ、ぁ……ッ、ダメ、耳、そこで、喋らない、で……!」
「なぁ、いいって言えよ。もっと鳴いてみろ」
「んんっあッ、だ、め……! 声、その声、感じる……!」
黒鋼の肩に縋りつきながら訴えると、彼は一瞬意外そうに目を見開き、そして小さく笑った。
解けかけた乱れ髪を大きな手で撫でられると、それさえも刺激となって熱に浮かされた思考が完全に蕩けた。
手淫は休むことなく、先走りに助けられた大きな手が滑らかに絡みつく。水音と己の喘ぎが重なり、熱気を帯びた室内にいやらしく響き渡っていた。
「いっ、ぁ、でる……! も、んっ、離し……!」
「いいぜ、見ててやる」
「やだ! 見ないで……イクとこッ、おねが……ッ!」
そう思えば思うほどに、羞恥心があらぬ方向へと形を変える。辱めを受ける姿を見られて、感じてしまうなんて。
(オレ、頭おかしくなったのもしれない……)
一層強く限界まで膨らんだ性器を擦られて、黒鋼の肩に爪を立てながら背を反らした。
「――ッ!!」
喉を圧迫されているような息苦しさの中で、ファイは声もなくあっけなく果てた。爪先でぎゅうっとシーツを掻き、大きく身を強張らせる。
黒鋼の手を汚してしまうと分かっていても、噴きだすような射精を止める術はなかった。
あ、あ、とか細く呻きながら張りつめた身体は、白濁を出しきると同時に弛緩した。深く息を吸い込むことができず、脆弱な呼吸と共に身体が不規則に痙攣する。
蕩け切った思考は煙に巻かれたように輪郭を失ったまま、ファイは赤い目元でぼんやりと焦点を合わせられずにいた。
心臓が内側から突き破ってきそうなほど、ドクドクとのたうっている。
「ずいぶん出たな。溜ってたか?」
黒鋼が感心したように、べっとりと濡れた己の手を眺めて言った。
ファイはもう恥じる気力も怒る意欲も湧かず、ただ重苦しい倦怠感の中で茫然と天井を見上げるだけだった。
*
目を覚ますと、昨日の衣服のままベッドの中にいた。
だるさを引きずりながらゆっくり身を起こすと、幾度か瞬きをして頭を振る。
カーテンは閉められたままだったが、隙間から射し込む光の白さに気づいて、ふと時計を見やる。
「う!?」
針は丁度10時を指そうとする頃で、とんだ大遅刻だと肝が冷えた。が、すぐに今日は土曜だったことを思い出す。
あー、という掠れた声を漏らしながら、再びベッドに沈み込んだ、のも束の間、ファイは勢いよく起き上がると上掛けをめくり上げて、自分の身なりに目を走らせた。両手で胸やら腹をまさぐり、身体の中心がどうなっているかを確かめる。
「着てる……服、ちゃんと……」
途中までたくし上げられていた上も、すっかり前を肌蹴られた下も。ベルトは床に投げ出されているが、他は何事もなかったかのように整えられていた。いっそ夕べのことは夢だったのかと思えるほど、綺麗に。
けれど夢じゃないことはまさにこの格好が示していた。風呂にも入れず、寝巻に着替えることさえ出来なかったことが。
あの後ファイは、すぐに意識を保つことを放棄した。異様な眠気と疲労感に襲われて、瞼を閉じた瞬間には一気に眠りに落ちていた気がする。
だからその先どうなったかは知らない。どうやら最後までは、いかなかったようだが。
「しんっじらんない……」
ファイは額にかかる鬱陶しい前髪をぐしゃりと掴む。身体と心が鉛のように重く、絶望感だけがそこにはあった。
いっそのこと、記憶が全て飛んでいてくれたらよかった。脳裏に甦る昨夜の出来事。あの黒鋼に好き勝手されて、誤魔化しようがないくらい悶えた。
自分のものとは思えないような情けない声を上げて、縋りついていたのは理性なんてアテにならないものじゃなく、目の前の男の肩だった。
「ああぁぁ! もう消えたい……!」
今更になって、泣きたくなってくる。そして無性に『黒鋼』に会いたかった。無駄にでかくなった方ではなく、小さくて可愛らしかった頃の黒鋼に。
本当はどこか別の場所にいて、今もまだ小さいままでいるんじゃないか。そんな夢みたいなことを考える自分が滑稽で、でも、そうであって欲しいと心から願わずにはいられない。
「そういえばどこ行ったんだろ? あの黒ばかすけは……」
姿が見えないのは助かるが、一応は気になる。
部屋のどこにも気配すらないところを見ると、何かしら用事でもあって出かけたのだろう。
「いいやあんなの、もう知らない……」
とりあえずもうこれ以上は何も考えたくなくて、ファイはシャワーを浴びるべくベッドを抜け出した。
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この男は、大きな勘違いをしている。仕返しなんてそんな子供じみた真似に、今の黒鋼は興味がなかった。
昔はいつか絶対に同じだけの目に遭わせてやろうと、呪詛のように胸に刻む日々を送っていたけれど。
成長につれて、募るのは恋しさばかりだった。
家族揃って元の家へ戻り、隣にはもう見ず知らずの他人しかいないと知った時の、あの喪失感を思い出す。
物心ついた頃からよくしてくれていた老夫婦の死を知り、一応は親戚だと言う見知らぬ夫婦にファイの居場所を聞いたが、彼らは「さぁねぇ」と首を傾げるだけだった。
その余所余所しさは不快でしかなく、果たしてファイはどんな形でこの家を離れたのかと、思いを巡らせるだけで切なさを覚えた。
追われるばかりだった黒鋼は、その時からずっとファイの背を追っていた。
ファイが本当に昔言っていたように、教師になっているとは限らなかった。まだ日本にいるのかどうかも。
それでも進路を決める上で最大のキッカケにはなった。自分の性にも合っているような気がしたし、心の奥底では『もしかしたら』という期待もあった。
そんな中、大学の講師が偶然この学園の卒業生で、なかなか実習先が決まらずにいた黒鋼は、その講師の口利きの元ここでの実習が決まった。
あらかじめ下調べをしていた折に、またも偶然ファイがこの学園にいることを知り、強い引力のようなものを感じて胸が震えた。
再会した彼は髪が伸びたという変化を除き、あの頃のままの姿で黒鋼の前に姿を現した。その変わらなさに、積もり積もった恋しさは愛しさに変わった。
黒鋼の中にあるこの熱情を、本人が知りもしないのは無理もない。仕返しだなどと、そう思い込まれても。
実はこう見えて密かに浮かれていたのは事実だった。若さも手伝い、自制が利かずについ欲求を最優先にしてしまった。
もしファイのことをひたすら嫌煙していた頃の自分が今の状態を知ったら、きっと泡を吹いて倒れるどころの騒ぎでは収まらないだろう。
初恋の相手を、馬鹿の一つ覚えのように思い続けたまま大人になってしまうなんて、その相手が、よりによってこいつだなんて。
*
「わっ、わっ、えっ、ちょっと……!?」
ソファから立ち上がり、おもむろに手を伸ばせばファイは咄嗟に身を引こうとした。
だが、それよりも早く腕を掴むと強く引き寄せ、そのまま流れるような動きでヒョイと肩に担ぎ上げる。
「ッ!?」
息を飲む気配の後、ギャアギャアと騒ぎ出したファイによって背中をドカドカと叩かれるが、痛くも痒くもない。
そんなことよりも、想像以上に薄い身体とその非力さに驚く。こんなにもくみしやすい相手に、昔の自分は手の平で転がされていたのか。そう思うと、実に久方ぶりに『悔しい』という感情が込み上げた。
弄ばれる屈辱を懐かしみながら、同時に腹立たしさが蘇る。
「ぅあ……っ!!」
華奢な身体を担いだまま移動して、ベッドに向かって乱暴に放ったのはちょっとした八つ当たりだ。弾みで幾度かバウンドした身体は強張りながらも、すぐに逃げの態勢を整えようとするが、許さない。
すかさずベッドに乗り上げて、両手を頭上で一纏めにする形でシーツに縫いつける。
黒鋼が何をするつもりなのかを察したらしいファイは、途端に青褪めた表情を浮かべた。
ゾクリとした。
再会を果たしてからというもの、この僅かな時間でファイの様々な表情を見たように思う。戸惑いの顔、呆けたようにポカンと口を開けた顔、怒った顔や、焦った顔。どれも人間味があって新鮮だったが、今のこれはかなり、ぐっと来る。
今なら昔、なぜファイが自分に対して嫌がらせめいたちょっかいを仕切りにかけたがっていたのかが、分かるような気がした。
これは癖になりそうだ。
「あ、あのね黒たん?」
「なんだ」
「オレ、謝ったよねー?」
「ああ、欠片も気持ちはこもってなかったみてぇだがな」
「今からもう一回、ちゃんと気持ち込めたら、このフラグって回避できたりする……?」
引き攣る口元で、なんとか笑おうとして失敗しているのが見て取れる。
それほど余裕がないのかと思うと、黒鋼は口元が緩むのを抑えきれず、小さく鼻で笑って「それは難しいな」と答えた。
「どっちみち手ぇ出す気でいたからな、俺は」
「っ、て、手……!?」
「どうせなら、たっぷり昔の恩返しするってのも乙かもしれねぇよな?」
「そ、そんなの……ッ!」
尚も何か言い募ろうとするうるさい唇を、噛みつくような激しさで塞いだ。必死で逃れようとする身体は体重をかけてしっかりと押さえつける。
これが全力なのかと思えるほど、その抵抗はか弱いものに思えた。
(俺のもんだ)
爆発的に膨らむ支配欲。目の前にぶら下がるご馳走はかつての天敵であり、黒鋼に恋という感情を植え付けた張本人だ。
苦しげに呻く声を、その呼吸すら奪いながら狭い口内を蹂躙する。逃げまどう舌を捕えることさえ簡単で、散々擦りあげてから緩く吸ってやる。こいつはこれに弱いらしい。今朝知ったばかりの弱点。
呻く声に甘さが混ざり、肩が一度大きく跳ねるのが分かる。もがき続けていたファイの身体からは、徐々に抵抗の色が失われていった。
散々嬲ってから解放してやれば、酸欠に赤く染まった目元と潤んだ瞳が揺れていた。はかはかと浅い呼吸を繰り返しながら、彼は黒鋼を睨むと濡れた唇を一度だけきゅっと結んだ。
「ずるい……」
なにがだよ、と苦笑すると、ファイの眉間の皺が深くなる。
「も、いいでしょ……こういうことは、ちゃんと、好きな子としなよ……」
「してるじゃねぇか」
「そういうの、もういいって……ちゃんと謝るから、もうからかわないでよ」
「からかってねぇ」
全く、人の気も知らないで。
幼き日、自分がこの男への想いに気づくのにどれだけ苦悩したと思っているのか。
黒鋼はほんの少しの苛立ちと、もう後には引けないほど火のついた欲求に身を任せ、ファイの顎を掴むとその頬にも唇を落とした。
獲物を味見するように、舌を這わせる。ビクリという反応さえも体重で封じて、そのまま白い首筋に吸いつきながらインナーの裾から手を潜り込ませた。
「ぅ、そ、でしょ? ッ、ねぇ! 本気!?」
騒ぎ出したファイが、再び身を捩りだした。
火事場の馬鹿力という表現がしっくり来るような暴れっぷりに、行為を中断せざるをえなくなる。少しは落ち着いて堪能させろという不満は、ひとまず飲みこんだ。
黒鋼は、「うるせぇな」と呟くと潜り込ませていた手を引き抜き、僅かに身体を浮かせた。
チャンスとばかりに隙間に膝を捻じ込もうとする足の動きを、大きく開かせるように身体を割り込ませ、身動きできなくする。そして服の上から股間を乱暴に鷲掴みにする。そこは彼の抵抗とは真逆の変化を見せていた。
ヒ、という短い悲鳴を上げて、ファイは身を強張らせた。最大の弱点を押さえ、黒鋼は余裕たっぷりに笑う。
「なんだ? これは」
「ちょ、と! 洒落に、なってな……ッ」
「口吸われただけでこんなにして、抵抗も糞もねぇよな?」
「生理現象だってば! オレの意思じゃな、ぁッ、あの、ホント、離して……」
訴えを無視してその場所をゆるゆると揉んだ。
やだ、という悲鳴に煽られながら、強弱をつけて硬さの増すそこを刺激していく。服の上からでもその場所に熱が集まっているのが分かった。
上がっていく息使いは「嫌だ」と繰り返す割にはどこか甘くもある。
生理現象、と彼は言ったが、ここまで反応を示すとなると、それはつまり生理的な嫌悪感そのものがない、ということだ。きっと本人は気づいていないし、この分ではそう簡単に認めるとも思えないが。
それにしても、この身体は随分と感度がいいらしい。これには正直、黒鋼も内心驚きを隠せなかった。
「ぃ、た、痛いよ! やめ、て!」
「嘘つけ。窮屈そうに膨らんでるぜ」
「やだ、嘘だそんなの……!」
なら見てやろうじゃないかと、器用に片手でベルトを外して前も寛げてしまう。その間も一纏めにした両手首は放さない。縫いつけていたそれはシーツからは離れたが、ファイの胸の上に押し付けるようにしてさらに強く拘束した。
下着が覗き、ウエストのゴムに爪を引っ掛けるとファイと目を合わせる。
「よく見てろよ?」
短く告げて、嫌々と首を振るのも構わず引き下げた瞬間、強制的に高ぶらされた熱の塊が見事に顔を出した。
*
「ほらな」
にやりと笑う黒鋼に、ファイは咄嗟に何も言い返すことが出来ずにただ全身を赤に染める。
この身体に一体何が起こっているというのか、こうして見せつけられても頭の中で収拾がつかなかった。
自分の意思とは裏腹に、あの執拗な口付けが灯した火はそう簡単に鎮まる気配がない。
黒鋼のキスはあまりにも激しくて、強引なのに確実に弱点を捉え、こちらに考える隙を与えなかった。
そこへ来て急所を刺激されたのでは、きっと誰だってこうなると……そう思いたい。
「こ、こんなの誰だって、こんなことされたら……!」
「馬鹿」
「んなっ!?」
身体を伸ばしてきた黒鋼の顔がぐっと近づく。
咄嗟に顔を背けてぎゅっと目を瞑ると、耳元に低い声が熱い息と一緒に吹き込まれた。
「いい加減、気づけ」
「な、にを、あっ、ちょっと、やめ……!」
耳たぶを嬲られながら、下着からすっかり顔を出していた性器を手の平で握りこまれる。水音をたてながら、耳の穴に舌が差し込まれると、情けないほど身体が震えた。
もっと育てとばかりに加えられる性器への刺激は絶妙な力加減で、いけないと思いつつ抗えない。
「ぃ、や……ぁッ……あっ、あっ、や、だ……!」
こなんなにも一方的に攻められるなんて、生まれて初めての経験だった。
性器を扱く手は大きくて、押さえつける腕は力強くて、今更のように相手は女性ではなく、自分と同じ『雄』なのだと意識させられる。
(オレ、男に……黒たん、に)
いいように、弄ばれているのに。
(ばか、何考えて……)
あの美しい、獣のような若い身体がこんなにも近くにあって、ほんのりと汗ばんでいる。無意識のうちに、ファイは物欲しげに喉を鳴らしていた。
一瞬だけ、幼い少年の姿が脳裏を掠めて、すぐに消える。
(ああ、ダメだ)
本来なら抱かなければならないはずの不快感が、どこを探しても見当たらない。それどころか背筋を駆け上がったのは甘い痺れで、その感覚が腰の中心へと痛いほど伝わる。
いつしか胸の上でクロスするように押さえ込まれていた両腕が、自由になっていた。なのに、逃れようとする意思がどこか遠くにある。
そんなものよりもずっと近い場所に、大きな快感の波が押し寄せていた。きっと自分は、この波に溺れる。
「ビクビクいってるぜ。おまえのここ」
「ふ、ぁ……ッ、ダメ、耳、そこで、喋らない、で……!」
「なぁ、いいって言えよ。もっと鳴いてみろ」
「んんっあッ、だ、め……! 声、その声、感じる……!」
黒鋼の肩に縋りつきながら訴えると、彼は一瞬意外そうに目を見開き、そして小さく笑った。
解けかけた乱れ髪を大きな手で撫でられると、それさえも刺激となって熱に浮かされた思考が完全に蕩けた。
手淫は休むことなく、先走りに助けられた大きな手が滑らかに絡みつく。水音と己の喘ぎが重なり、熱気を帯びた室内にいやらしく響き渡っていた。
「いっ、ぁ、でる……! も、んっ、離し……!」
「いいぜ、見ててやる」
「やだ! 見ないで……イクとこッ、おねが……ッ!」
そう思えば思うほどに、羞恥心があらぬ方向へと形を変える。辱めを受ける姿を見られて、感じてしまうなんて。
(オレ、頭おかしくなったのもしれない……)
一層強く限界まで膨らんだ性器を擦られて、黒鋼の肩に爪を立てながら背を反らした。
「――ッ!!」
喉を圧迫されているような息苦しさの中で、ファイは声もなくあっけなく果てた。爪先でぎゅうっとシーツを掻き、大きく身を強張らせる。
黒鋼の手を汚してしまうと分かっていても、噴きだすような射精を止める術はなかった。
あ、あ、とか細く呻きながら張りつめた身体は、白濁を出しきると同時に弛緩した。深く息を吸い込むことができず、脆弱な呼吸と共に身体が不規則に痙攣する。
蕩け切った思考は煙に巻かれたように輪郭を失ったまま、ファイは赤い目元でぼんやりと焦点を合わせられずにいた。
心臓が内側から突き破ってきそうなほど、ドクドクとのたうっている。
「ずいぶん出たな。溜ってたか?」
黒鋼が感心したように、べっとりと濡れた己の手を眺めて言った。
ファイはもう恥じる気力も怒る意欲も湧かず、ただ重苦しい倦怠感の中で茫然と天井を見上げるだけだった。
*
目を覚ますと、昨日の衣服のままベッドの中にいた。
だるさを引きずりながらゆっくり身を起こすと、幾度か瞬きをして頭を振る。
カーテンは閉められたままだったが、隙間から射し込む光の白さに気づいて、ふと時計を見やる。
「う!?」
針は丁度10時を指そうとする頃で、とんだ大遅刻だと肝が冷えた。が、すぐに今日は土曜だったことを思い出す。
あー、という掠れた声を漏らしながら、再びベッドに沈み込んだ、のも束の間、ファイは勢いよく起き上がると上掛けをめくり上げて、自分の身なりに目を走らせた。両手で胸やら腹をまさぐり、身体の中心がどうなっているかを確かめる。
「着てる……服、ちゃんと……」
途中までたくし上げられていた上も、すっかり前を肌蹴られた下も。ベルトは床に投げ出されているが、他は何事もなかったかのように整えられていた。いっそ夕べのことは夢だったのかと思えるほど、綺麗に。
けれど夢じゃないことはまさにこの格好が示していた。風呂にも入れず、寝巻に着替えることさえ出来なかったことが。
あの後ファイは、すぐに意識を保つことを放棄した。異様な眠気と疲労感に襲われて、瞼を閉じた瞬間には一気に眠りに落ちていた気がする。
だからその先どうなったかは知らない。どうやら最後までは、いかなかったようだが。
「しんっじらんない……」
ファイは額にかかる鬱陶しい前髪をぐしゃりと掴む。身体と心が鉛のように重く、絶望感だけがそこにはあった。
いっそのこと、記憶が全て飛んでいてくれたらよかった。脳裏に甦る昨夜の出来事。あの黒鋼に好き勝手されて、誤魔化しようがないくらい悶えた。
自分のものとは思えないような情けない声を上げて、縋りついていたのは理性なんてアテにならないものじゃなく、目の前の男の肩だった。
「ああぁぁ! もう消えたい……!」
今更になって、泣きたくなってくる。そして無性に『黒鋼』に会いたかった。無駄にでかくなった方ではなく、小さくて可愛らしかった頃の黒鋼に。
本当はどこか別の場所にいて、今もまだ小さいままでいるんじゃないか。そんな夢みたいなことを考える自分が滑稽で、でも、そうであって欲しいと心から願わずにはいられない。
「そういえばどこ行ったんだろ? あの黒ばかすけは……」
姿が見えないのは助かるが、一応は気になる。
部屋のどこにも気配すらないところを見ると、何かしら用事でもあって出かけたのだろう。
「いいやあんなの、もう知らない……」
とりあえずもうこれ以上は何も考えたくなくて、ファイはシャワーを浴びるべくベッドを抜け出した。
←戻る ・ 次へ→
(無理! 無理無理! あんなのズルイ!!)
学校から寮への短い距離を、ファイは冷たい風を切り裂くように大きな足音を立てながら急いでいた。陽は沈み、すっかり暗くなった夜道には、そんなファイの苛立ったような靴音が大きく響く。
なぜあんな真似をするのか、やっぱり昔のことに対する意趣返し以外に動機が思いつかない。
(この際ハッキリさせて、場合によっては摘まみ出すんだから!)
黒鋼の言っていた通り、おそらく先刻のことは誰にも見られていない、とは思う。それでも一歩間違えれば大変なことになっていたのだから、簡単に見過ごすことは出来ない。
昔のことを謝れと言うなら土下座でもなんでもしてやるつもりで、ファイは拳を握りしめた。
その時。
「こんばんわ……」
「ッ!?」
ファイは咄嗟に足を止め、息を飲んだ。
自分以外、誰もいないと思っていたはずの夜道に、唐突に黒い影がくっきりと浮かび上がったからだ。しかも、驚くほどすぐ目の前に。
まったく気配が感じられなかったのは、単に頭に血が上っていて注意力に欠けていたせいだろうか。
その影はゆっくりと近づき、頼りない街灯の下に姿を現した。
「こ、こん、ばんわ」
青いツナギを着た男は、にたりと引き攣ったような笑みを浮かべつつ、再びファイに挨拶を寄こした。
身長は低く、猫背のせいで小太りな体系が際立って見える。腹回りなどはまるで風船のようだ。街灯の薄暗さでそう見えるのかもしれなが、肌も白いというよりは青い。
口元が乾燥しているのか、白く粉をふいているようにも見え、無精髭がさらに清潔感を遠ざけている。
黒くうねる癖毛の隙間から、濁ったような瞳がこちらに向けられていた。
(ああ、この人……)
たまに見かける用務員の一人だ。
女子生徒からはすごくぶる評判が悪く、彼女たちが「気持ち悪い」などと陰口を叩いているのを幾度か聞いたことがあった。
その度に人を見かけで判断してはいけないよと窘めていたファイだったが、こうして間近で見ると、確かにこれでは特に女性が嫌がるのも無理はない。
それでもファイはなんとか笑顔を作って挨拶を返そうとした。が、彼の右手に使いこまれた草刈り鎌が握られているのを見て、ドキリとする。
男はファイの視線が己の手の中にある凶器に向けられていることに気がつくと、それを少しだけ高く持ち上げて「……草」と言うと、またにたりと笑う。
よく見れば彼の軍手にも土や草のクズが付着している。
ファイはホッと息をついた。
「こんなに暗くまで、お疲れ様です」
「うん……あ、あり、がと……」
「じゃあ、オレはこれでー……」
「うん……き、気を、つけて……」
えらく擦れて籠った声は、男性にしては少し高めかもしれない。
話し方もたどたどしい感じで、よくどもるせいで聞きとりにくい印象を受ける。
あまり長く話し込みたい相手ではないなと、ファイはそそくさとその横を通り抜けて足早にその場を去った。
背中からいつまでも離れないねっとりとした視線が、ただただ不快だった。
*
「遅かったな」
玄関の扉を開けると、問題の人物がひょいっと顔を覗かせた。
まずは思いっきり叱りつけてやろうと思っていたのだが、さきほど遭遇した男の視線が未だに張り付いているようで気分が悪かったファイは、黒鋼の顔を見た途端に安堵が込み上げてきた。
「……なにかあったか?」
気遣わしげに問いかけてくる心地よい低音にほぅっと息を吐き出し、ファイは緩く首を振った。
「んー、まぁちょっとね……あ、そうだ! それどころじゃないよ! あのね黒たん! さっそくだけど、ちょっとお話があります!!」
「おう。まず入れ」
「入れってねぇ、ここオレの部屋なんだからねっ、て……ん?」
思い出したように鼻息を荒くしていたファイは、部屋の奥から香ばしいソースの香りが漂ってくることに気がついて、ウサギのように鼻をすんすんと鳴らした。
「なにこれ……すごく美味しい匂いがする……」
「焼きそば」
「え? 作ったの?」
「手の込んだもんは作れねぇからな」
「すっごーい! 見せて見せてー!!」
バタバタと子供のように部屋の中へ入って行くと、二つの皿にこんもりと焼きそばが盛られていた。
たっぷりとソースが絡められた麺に野菜や肉もしっかり入っていて、白い湯気がソースと青のりの香りを乗せてもくもくと踊っている。
ちゃんと自分の分まで用意してくれたのかと思うと、胸がジーンとした。
(あのちっちゃかった黒たんが、お料理も一人で出来るようになって……)
黒鋼の家は長いこと父親が単身赴任で家を開けていたため、彼がよく母を手伝っていたことは知っていた。
あの家の息子さんはお母さん思いで偉いわね、という近所の評判を聞くと、我が事のように嬉しかったものだ。
だがもっぱら料理は母親がしていて、傍でちょこちょこと手伝っているところしか見たことがない。
あの頃の自分が黒鋼の手料理を食べることになるなんて知ったら、きっと血管が切れるまで興奮して気絶するに違いない。
「冷めねぇうちに食えよ。腹減ったろ?」
「うん! オレ手洗ってくるー!」
わぁいと万歳をして、ファイは上着と鞄を投げ出して洗面所へ向かった。
ルンルンと浮かれながらうがいと手洗いを済ませ、クッションの敷かれた床にべたんと座る。
黒鋼はファイを待っていてくれたようで「いただきまーす!」と言って手を合わせるのを見てから自分も箸を手に取った。
山もりの麺の中に箸を入れ、摘まんで持ち上げると、白い湯気がさらに熱気を帯びて立ち上る。ぱぁ、と目を輝かせながらふぅふぅと冷まして口に運ぶと、それは期待を裏切らない美味さだった。
「すーっごく美味し…………ん?」
(あれ……? なんでオレ、こんなほのぼのしてるんだろう……?)
ここに来て今更のように、ファイは自分が憤慨していたことを思い出した。
うっかり感動と嬉しさに忘れていたが、本来こんなことをしている場合ではない。
これは不味いと、ファイは箸をテーブルにバンっと音を立てて戻した。
「あ、あのねー! 言っとくけどオレ怒ってるからね!」
「あ?」
「ノンキに食べてる場合じゃないんだからー!」
「口に合わなかったか?」
「さっきのことだけど、え? あ、そんなことないよー! 合う合うー! この焼きそばは絶品だよー!」
「そりゃよかった。しっかり食えよ」
「あ、はい」
うまく自分のペースに持っていけずに、萎んだ風船のように素直に頷いてしまった。
なぜならそれはとても単純な理由からで、黒鋼が嬉しそうに笑うから。決して満面の笑みを浮かべているわけではなく、あの口角だけを持ち上げるささやかなものなのだが、そこから彼の優しさが伝わって来るような気がした。
それに、なんだか。
(落ち着かないんだよなぁ……)
今朝見せた意地の悪そうな笑顔は腹が立つが、今のこれは昨夜見たものと同じだった。
目付きは悪いのに、なにか愛しいものでも見るように瞳を細められると、どうも胸の辺りがムズムズしてきて仕方ない。
昔は滅多に笑いかけてなんてくれなかったし、子供の頃はどちらかと言えば嫌われていたはずだ。彼の嫌がることを、あえて中毒患者のように止められないでいた本人なのだから、よく分かっている。
(とりあえず……今はいっか)
焼きそばが美味いのだって、いけない。
全ては食事を済ませてからにしようと、ファイは冷めかけているそれに慌てて箸をつけた。
*
流石に黒鋼と同じだけの量は、元々小食のファイにはキツかった。
無理をするなと途中で止められたが、残すのは嫌で完食した。結果、食後は全く動く気になれずテーブルに突っ伏していた。
「お腹の中で麺が膨らんでるー」
人間、腹八分目が一番だ。
どんなに美味いものでも、吐き気がするほどたんまり食うのは絶対によくない。それを痛いほど体感しつつ、度を超えた満腹感に意識が重たくなってくる。
睡魔が後から後から襲ってきて、ファイは勢いよく顔を上げると自分で自分の頬をパチンと叩いた。
「シャキッとしないと」
風呂だってまだ入ってないし、やりたいこともあるし、何より肝心な黒鋼との話が済んでいない。
彼は食後の後片付けもしっかり終わらせ、今は風呂に入っている。
正直な話、腹が膨らみすぎて先ほどまでの勢いはないものの、ファイは黒鋼が戻るのをじりじりと待つことにした。
それからさほど時間をかけず、黒鋼が風呂からあがって来る気配を感じた。洗面所の扉が開く音がして、ファイは眉間にきゅっと皺を寄せると振り返る。
丁度ジャージの下だけを履いて上半身を露出した黒鋼が、首にかけたタオルで頬を拭いながらのっそりと姿を現した。
「!」
それが視界に飛び込んできた瞬間、ドキリとして息を飲む。目を見開き、身を強張らせたまま、視線が彼の露出した素肌に釘付けになった。
石のように固まってしまったファイを見て、黒鋼が不思議そうに眉を顰めている。
「なんだ?」
乾ききっていない黒髪から、時折ぽたりと雫が落ちて、美しく隆起する肩や腕のライン、そして胸板を伝っていく。ほどよく焼け、そしてよく鍛え上げられているなだらかな筋肉が、太く恵まれた骨組みの上に嫌みなほど精妙なバランスで引き伸ばされていた。
テレビなんかでたまに見かけるような、ボディビルダーのやけにテラテラして隆々としすぎた身体とは、また違うのだ。
(なんだろう……なんていうのかな……。そう、綺麗なんだ)
それは同性である相手に言うには語弊があるかもしれない。だがそこにはまさに完成された『男』の肉体があった。
鋭く研ぎ澄まされた、野生の獣のような。
(この期に及んでさ……つくづく……)
「おい?」
「……ライオンとか虎の子供って」
「あ?」
「子供の頃はちょっと大きい猫って感じでさ……このまんま大きくならなければ、家でも飼えるかもーとか、思っちゃうよねー……」
「……なんだ急に」
「でっかくなったライオンなんて飼えっこないって話!!」
「はぁ?」
ファイの中で、膨らみきった何かが音を立てて爆発した。
「昨日の今日で、オレはもう限界だよ黒たん!」
「なにがだよ」
「なにもかもだよ! バカみたいにでっかくなっちゃって! 羨ましいくらい鍛えちゃってさ! どうやったらアレがコレになるのかな! 可愛くないったらありゃしないんだよ!」
「……そうは言われてもな」
「しかもだよ!!」
ファイは床から勢いよく立ち上がると、黒鋼に向かってビシっと指をさした。
「今朝のアレと! 夕方のアレ!! いくら子供の頃の仕返しって言ったって、やりすぎだよ!!」
「仕返し?」
「なにも今更になってやり返すことないじゃない!」
そこまで一気に吐き出した途端、ちょっと噎せた。黒鋼は困惑の表情で頭をガリガリと掻いている。
「ケホッ、と、とにかく、なんなら土下座でもなんでもするし、特に学校でああいうことは、もう」
「何が悪いんだか、さっぱりわからねぇな」
「はー!? 悪いに決まってるでしょ!」
「旦那が嫁を好き勝手して何が悪い?」
「あのね、夫婦だろうがなんだろうが、一方的に……んぇ?」
「他の女に手ぇ出すよりよっぽどいいじゃねぇか」
「ちょ、ちょっと待った。言ってる意味がよく分からないんだけど」
黒鋼は心底呆れた様子で溜息を吐き、腕を組んだ。なぜこちらが寝言を言っているような空気になっているのかも分からないし、そもそも旦那とか嫁とか、この男は何を言っているのだろうか。
昔は黒鋼がまるで女の子のように小さかったから「未来のお嫁さん」なんて言ってからかってはいた。母親まで便乗してファイの冗談に加担するものだから、それも楽しくてつい癖になってしまったのだが。
「本気で忘れてんのか?」
「忘れてはいないよ……でもほら、黒たんもう可愛くないしー……オレ、貰うなら美人で華奢で、でも胸はおっきめの髪の長い美脚なお嫁さんがいいなー、なんて」
「贅沢な夢語ってんじゃねぇぞ。思い出せ。俺と約束しただろう」
ファイは腕を組み、首を傾げて「うーん」と考え込んだ。
そうしている間に黒鋼はソファへ移動し、タオルで髪をガシガシと拭きはじめる。
(約束……約束……なんのこと……?)
過去の楽しかった記憶を呼び起こすと、顔を真っ赤にして怒っている黒鋼の顔ばかりが甦る。大きな目に溜った涙とか、不満そうに膨らむ赤い頬とか、女の子みたいに高く怒鳴る声とか。
うっかり口元が緩みそうになりつつも、ファイはふと彼とその母が引っ越す前夜のことを思い出した。
あの時は、最後にビックリさせてやろうと思って隣の庭に侵入し、木によじ登って屋根に飛び移った。窓から顔を出し、最後の最後まで黒鋼をからかって、それから最後に……。
『次に会った時』
『え、うん?』
『もし俺がてめぇよりデカくなってたら』
『うんうん』
『てめぇが俺の嫁になれ』
「……あ」
思い出した……。
黒鋼は顔を上げると「やっと思い出したかアホ」と言って鼻で笑う。ファイはわざとらしく顔を逸らし、唇を尖らせて吹けない口笛を吹く真似をした。
「いやー? 黒るーにボールぶつけられて窓から転がり落ちたことしか覚えてないなー? あの時に記憶飛んじゃったのかもなー? おっきいタンコブできたしなー? お尻にも蒙古斑みたいな青痣できたしなー?」
「そいつは悪かったな。だが約束は約束だ」
「約束って言うけど、オレあの時オッケーしてないからね? そもそもオッケーする前にボールがガーンて当たって」
「やっぱり覚えてんじゃねぇか」
「…………」
できれば思い出したくなかったような気がしないでもない。
だが、これでハッキリしたような気もする。まさか本気で旦那だ嫁だとほざいているわけではないだろうし、要するに彼の一連の行動は、それをネタにした過去の制裁なのだということが。
「あー、もう! わかったよ! 昔のことはここで謝る。色々と嫌なことしたり言ったりしてごめんね。これでいい?」
ファイはツンとそっぽを向きながら、溜息混じりのおざなりな謝罪をした。
人に頭を下げる態度でないことはもちろん分かっている。だがどんな形であれ、これで決着がつくなら何だっていい気がした。
勝手な言い分かもしれないが、ここまで根に持たれていたことにショックを受けてもいる。
そりゃあ、彼にとってはトラウマレベルで嫌な思い出かもしれない。けれど、ファイにとっては黒鋼との記憶は宝物だった。
知らない土地に来て、慣れない環境の中、彼はもっとも身近に感じられる初めての友達だったから。
誠意のないファイの謝罪を、黒鋼は特に腹を立てるでもなく静かに聞いていた。
それからすぐ「なるほど」とぽつりと零す。
「……なにが?」
「仕返し、か。確かに今なら屁でもねぇな」
「え」
「やってみるか?」
「へ?」
「ただ、俺ももうガキじゃねぇからな。大人になってからの仕返しとなると、性質が悪いぜ?」
またあの意地の悪そうな笑い方だ。鋭い瞳がすっと細められる様子は、まるで獲物を狙う肉食獣のようで、ファイは足元が竦むのを感じた。
←戻る ・ 次へ→
学校から寮への短い距離を、ファイは冷たい風を切り裂くように大きな足音を立てながら急いでいた。陽は沈み、すっかり暗くなった夜道には、そんなファイの苛立ったような靴音が大きく響く。
なぜあんな真似をするのか、やっぱり昔のことに対する意趣返し以外に動機が思いつかない。
(この際ハッキリさせて、場合によっては摘まみ出すんだから!)
黒鋼の言っていた通り、おそらく先刻のことは誰にも見られていない、とは思う。それでも一歩間違えれば大変なことになっていたのだから、簡単に見過ごすことは出来ない。
昔のことを謝れと言うなら土下座でもなんでもしてやるつもりで、ファイは拳を握りしめた。
その時。
「こんばんわ……」
「ッ!?」
ファイは咄嗟に足を止め、息を飲んだ。
自分以外、誰もいないと思っていたはずの夜道に、唐突に黒い影がくっきりと浮かび上がったからだ。しかも、驚くほどすぐ目の前に。
まったく気配が感じられなかったのは、単に頭に血が上っていて注意力に欠けていたせいだろうか。
その影はゆっくりと近づき、頼りない街灯の下に姿を現した。
「こ、こん、ばんわ」
青いツナギを着た男は、にたりと引き攣ったような笑みを浮かべつつ、再びファイに挨拶を寄こした。
身長は低く、猫背のせいで小太りな体系が際立って見える。腹回りなどはまるで風船のようだ。街灯の薄暗さでそう見えるのかもしれなが、肌も白いというよりは青い。
口元が乾燥しているのか、白く粉をふいているようにも見え、無精髭がさらに清潔感を遠ざけている。
黒くうねる癖毛の隙間から、濁ったような瞳がこちらに向けられていた。
(ああ、この人……)
たまに見かける用務員の一人だ。
女子生徒からはすごくぶる評判が悪く、彼女たちが「気持ち悪い」などと陰口を叩いているのを幾度か聞いたことがあった。
その度に人を見かけで判断してはいけないよと窘めていたファイだったが、こうして間近で見ると、確かにこれでは特に女性が嫌がるのも無理はない。
それでもファイはなんとか笑顔を作って挨拶を返そうとした。が、彼の右手に使いこまれた草刈り鎌が握られているのを見て、ドキリとする。
男はファイの視線が己の手の中にある凶器に向けられていることに気がつくと、それを少しだけ高く持ち上げて「……草」と言うと、またにたりと笑う。
よく見れば彼の軍手にも土や草のクズが付着している。
ファイはホッと息をついた。
「こんなに暗くまで、お疲れ様です」
「うん……あ、あり、がと……」
「じゃあ、オレはこれでー……」
「うん……き、気を、つけて……」
えらく擦れて籠った声は、男性にしては少し高めかもしれない。
話し方もたどたどしい感じで、よくどもるせいで聞きとりにくい印象を受ける。
あまり長く話し込みたい相手ではないなと、ファイはそそくさとその横を通り抜けて足早にその場を去った。
背中からいつまでも離れないねっとりとした視線が、ただただ不快だった。
*
「遅かったな」
玄関の扉を開けると、問題の人物がひょいっと顔を覗かせた。
まずは思いっきり叱りつけてやろうと思っていたのだが、さきほど遭遇した男の視線が未だに張り付いているようで気分が悪かったファイは、黒鋼の顔を見た途端に安堵が込み上げてきた。
「……なにかあったか?」
気遣わしげに問いかけてくる心地よい低音にほぅっと息を吐き出し、ファイは緩く首を振った。
「んー、まぁちょっとね……あ、そうだ! それどころじゃないよ! あのね黒たん! さっそくだけど、ちょっとお話があります!!」
「おう。まず入れ」
「入れってねぇ、ここオレの部屋なんだからねっ、て……ん?」
思い出したように鼻息を荒くしていたファイは、部屋の奥から香ばしいソースの香りが漂ってくることに気がついて、ウサギのように鼻をすんすんと鳴らした。
「なにこれ……すごく美味しい匂いがする……」
「焼きそば」
「え? 作ったの?」
「手の込んだもんは作れねぇからな」
「すっごーい! 見せて見せてー!!」
バタバタと子供のように部屋の中へ入って行くと、二つの皿にこんもりと焼きそばが盛られていた。
たっぷりとソースが絡められた麺に野菜や肉もしっかり入っていて、白い湯気がソースと青のりの香りを乗せてもくもくと踊っている。
ちゃんと自分の分まで用意してくれたのかと思うと、胸がジーンとした。
(あのちっちゃかった黒たんが、お料理も一人で出来るようになって……)
黒鋼の家は長いこと父親が単身赴任で家を開けていたため、彼がよく母を手伝っていたことは知っていた。
あの家の息子さんはお母さん思いで偉いわね、という近所の評判を聞くと、我が事のように嬉しかったものだ。
だがもっぱら料理は母親がしていて、傍でちょこちょこと手伝っているところしか見たことがない。
あの頃の自分が黒鋼の手料理を食べることになるなんて知ったら、きっと血管が切れるまで興奮して気絶するに違いない。
「冷めねぇうちに食えよ。腹減ったろ?」
「うん! オレ手洗ってくるー!」
わぁいと万歳をして、ファイは上着と鞄を投げ出して洗面所へ向かった。
ルンルンと浮かれながらうがいと手洗いを済ませ、クッションの敷かれた床にべたんと座る。
黒鋼はファイを待っていてくれたようで「いただきまーす!」と言って手を合わせるのを見てから自分も箸を手に取った。
山もりの麺の中に箸を入れ、摘まんで持ち上げると、白い湯気がさらに熱気を帯びて立ち上る。ぱぁ、と目を輝かせながらふぅふぅと冷まして口に運ぶと、それは期待を裏切らない美味さだった。
「すーっごく美味し…………ん?」
(あれ……? なんでオレ、こんなほのぼのしてるんだろう……?)
ここに来て今更のように、ファイは自分が憤慨していたことを思い出した。
うっかり感動と嬉しさに忘れていたが、本来こんなことをしている場合ではない。
これは不味いと、ファイは箸をテーブルにバンっと音を立てて戻した。
「あ、あのねー! 言っとくけどオレ怒ってるからね!」
「あ?」
「ノンキに食べてる場合じゃないんだからー!」
「口に合わなかったか?」
「さっきのことだけど、え? あ、そんなことないよー! 合う合うー! この焼きそばは絶品だよー!」
「そりゃよかった。しっかり食えよ」
「あ、はい」
うまく自分のペースに持っていけずに、萎んだ風船のように素直に頷いてしまった。
なぜならそれはとても単純な理由からで、黒鋼が嬉しそうに笑うから。決して満面の笑みを浮かべているわけではなく、あの口角だけを持ち上げるささやかなものなのだが、そこから彼の優しさが伝わって来るような気がした。
それに、なんだか。
(落ち着かないんだよなぁ……)
今朝見せた意地の悪そうな笑顔は腹が立つが、今のこれは昨夜見たものと同じだった。
目付きは悪いのに、なにか愛しいものでも見るように瞳を細められると、どうも胸の辺りがムズムズしてきて仕方ない。
昔は滅多に笑いかけてなんてくれなかったし、子供の頃はどちらかと言えば嫌われていたはずだ。彼の嫌がることを、あえて中毒患者のように止められないでいた本人なのだから、よく分かっている。
(とりあえず……今はいっか)
焼きそばが美味いのだって、いけない。
全ては食事を済ませてからにしようと、ファイは冷めかけているそれに慌てて箸をつけた。
*
流石に黒鋼と同じだけの量は、元々小食のファイにはキツかった。
無理をするなと途中で止められたが、残すのは嫌で完食した。結果、食後は全く動く気になれずテーブルに突っ伏していた。
「お腹の中で麺が膨らんでるー」
人間、腹八分目が一番だ。
どんなに美味いものでも、吐き気がするほどたんまり食うのは絶対によくない。それを痛いほど体感しつつ、度を超えた満腹感に意識が重たくなってくる。
睡魔が後から後から襲ってきて、ファイは勢いよく顔を上げると自分で自分の頬をパチンと叩いた。
「シャキッとしないと」
風呂だってまだ入ってないし、やりたいこともあるし、何より肝心な黒鋼との話が済んでいない。
彼は食後の後片付けもしっかり終わらせ、今は風呂に入っている。
正直な話、腹が膨らみすぎて先ほどまでの勢いはないものの、ファイは黒鋼が戻るのをじりじりと待つことにした。
それからさほど時間をかけず、黒鋼が風呂からあがって来る気配を感じた。洗面所の扉が開く音がして、ファイは眉間にきゅっと皺を寄せると振り返る。
丁度ジャージの下だけを履いて上半身を露出した黒鋼が、首にかけたタオルで頬を拭いながらのっそりと姿を現した。
「!」
それが視界に飛び込んできた瞬間、ドキリとして息を飲む。目を見開き、身を強張らせたまま、視線が彼の露出した素肌に釘付けになった。
石のように固まってしまったファイを見て、黒鋼が不思議そうに眉を顰めている。
「なんだ?」
乾ききっていない黒髪から、時折ぽたりと雫が落ちて、美しく隆起する肩や腕のライン、そして胸板を伝っていく。ほどよく焼け、そしてよく鍛え上げられているなだらかな筋肉が、太く恵まれた骨組みの上に嫌みなほど精妙なバランスで引き伸ばされていた。
テレビなんかでたまに見かけるような、ボディビルダーのやけにテラテラして隆々としすぎた身体とは、また違うのだ。
(なんだろう……なんていうのかな……。そう、綺麗なんだ)
それは同性である相手に言うには語弊があるかもしれない。だがそこにはまさに完成された『男』の肉体があった。
鋭く研ぎ澄まされた、野生の獣のような。
(この期に及んでさ……つくづく……)
「おい?」
「……ライオンとか虎の子供って」
「あ?」
「子供の頃はちょっと大きい猫って感じでさ……このまんま大きくならなければ、家でも飼えるかもーとか、思っちゃうよねー……」
「……なんだ急に」
「でっかくなったライオンなんて飼えっこないって話!!」
「はぁ?」
ファイの中で、膨らみきった何かが音を立てて爆発した。
「昨日の今日で、オレはもう限界だよ黒たん!」
「なにがだよ」
「なにもかもだよ! バカみたいにでっかくなっちゃって! 羨ましいくらい鍛えちゃってさ! どうやったらアレがコレになるのかな! 可愛くないったらありゃしないんだよ!」
「……そうは言われてもな」
「しかもだよ!!」
ファイは床から勢いよく立ち上がると、黒鋼に向かってビシっと指をさした。
「今朝のアレと! 夕方のアレ!! いくら子供の頃の仕返しって言ったって、やりすぎだよ!!」
「仕返し?」
「なにも今更になってやり返すことないじゃない!」
そこまで一気に吐き出した途端、ちょっと噎せた。黒鋼は困惑の表情で頭をガリガリと掻いている。
「ケホッ、と、とにかく、なんなら土下座でもなんでもするし、特に学校でああいうことは、もう」
「何が悪いんだか、さっぱりわからねぇな」
「はー!? 悪いに決まってるでしょ!」
「旦那が嫁を好き勝手して何が悪い?」
「あのね、夫婦だろうがなんだろうが、一方的に……んぇ?」
「他の女に手ぇ出すよりよっぽどいいじゃねぇか」
「ちょ、ちょっと待った。言ってる意味がよく分からないんだけど」
黒鋼は心底呆れた様子で溜息を吐き、腕を組んだ。なぜこちらが寝言を言っているような空気になっているのかも分からないし、そもそも旦那とか嫁とか、この男は何を言っているのだろうか。
昔は黒鋼がまるで女の子のように小さかったから「未来のお嫁さん」なんて言ってからかってはいた。母親まで便乗してファイの冗談に加担するものだから、それも楽しくてつい癖になってしまったのだが。
「本気で忘れてんのか?」
「忘れてはいないよ……でもほら、黒たんもう可愛くないしー……オレ、貰うなら美人で華奢で、でも胸はおっきめの髪の長い美脚なお嫁さんがいいなー、なんて」
「贅沢な夢語ってんじゃねぇぞ。思い出せ。俺と約束しただろう」
ファイは腕を組み、首を傾げて「うーん」と考え込んだ。
そうしている間に黒鋼はソファへ移動し、タオルで髪をガシガシと拭きはじめる。
(約束……約束……なんのこと……?)
過去の楽しかった記憶を呼び起こすと、顔を真っ赤にして怒っている黒鋼の顔ばかりが甦る。大きな目に溜った涙とか、不満そうに膨らむ赤い頬とか、女の子みたいに高く怒鳴る声とか。
うっかり口元が緩みそうになりつつも、ファイはふと彼とその母が引っ越す前夜のことを思い出した。
あの時は、最後にビックリさせてやろうと思って隣の庭に侵入し、木によじ登って屋根に飛び移った。窓から顔を出し、最後の最後まで黒鋼をからかって、それから最後に……。
『次に会った時』
『え、うん?』
『もし俺がてめぇよりデカくなってたら』
『うんうん』
『てめぇが俺の嫁になれ』
「……あ」
思い出した……。
黒鋼は顔を上げると「やっと思い出したかアホ」と言って鼻で笑う。ファイはわざとらしく顔を逸らし、唇を尖らせて吹けない口笛を吹く真似をした。
「いやー? 黒るーにボールぶつけられて窓から転がり落ちたことしか覚えてないなー? あの時に記憶飛んじゃったのかもなー? おっきいタンコブできたしなー? お尻にも蒙古斑みたいな青痣できたしなー?」
「そいつは悪かったな。だが約束は約束だ」
「約束って言うけど、オレあの時オッケーしてないからね? そもそもオッケーする前にボールがガーンて当たって」
「やっぱり覚えてんじゃねぇか」
「…………」
できれば思い出したくなかったような気がしないでもない。
だが、これでハッキリしたような気もする。まさか本気で旦那だ嫁だとほざいているわけではないだろうし、要するに彼の一連の行動は、それをネタにした過去の制裁なのだということが。
「あー、もう! わかったよ! 昔のことはここで謝る。色々と嫌なことしたり言ったりしてごめんね。これでいい?」
ファイはツンとそっぽを向きながら、溜息混じりのおざなりな謝罪をした。
人に頭を下げる態度でないことはもちろん分かっている。だがどんな形であれ、これで決着がつくなら何だっていい気がした。
勝手な言い分かもしれないが、ここまで根に持たれていたことにショックを受けてもいる。
そりゃあ、彼にとってはトラウマレベルで嫌な思い出かもしれない。けれど、ファイにとっては黒鋼との記憶は宝物だった。
知らない土地に来て、慣れない環境の中、彼はもっとも身近に感じられる初めての友達だったから。
誠意のないファイの謝罪を、黒鋼は特に腹を立てるでもなく静かに聞いていた。
それからすぐ「なるほど」とぽつりと零す。
「……なにが?」
「仕返し、か。確かに今なら屁でもねぇな」
「え」
「やってみるか?」
「へ?」
「ただ、俺ももうガキじゃねぇからな。大人になってからの仕返しとなると、性質が悪いぜ?」
またあの意地の悪そうな笑い方だ。鋭い瞳がすっと細められる様子は、まるで獲物を狙う肉食獣のようで、ファイは足元が竦むのを感じた。
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「ファイ先生……あのー、ファイ先生ー?」
「…………うーん」
「もう10分過ぎてるんですけどー……」
「…………はぁー」
黒板前の椅子に座って、教卓に頬杖をついたまま上の空でいる化学教師に、生徒達が戸惑っている。
次第にざわつきが増す中、ファイはフラリと立ち上がると一言「ダメだ……」と呟いた。
「せ、先生?」
「答案、適当に集めたら後で誰か職員室に持ってきて……」
「はぁ……」
「今日はあと自習……」
生徒達がぽかんと口を開けているのも構わず、ファイはよろよろとした足取りで教室を後にした。
今日はずっとこんな調子だ。何も手につかず、考えられない。
計画が狂うと分かってはいても、適当な問題集をコピーして生徒に与えるだけで、授業なんてまともに出来る状態でもなかった。
(……ちょっと一人になりたい)
ふらつきながら、化学準備室へ向かって静まりかえった廊下の隅を歩く。
精神的なダメージがファイの感情を絶えず揺さぶっていた。
何がどうして『あんなこと』になったのか、ほんの数時間前の、朝の出来事が嫌でも脳内に再生されて、頭痛がした。
*
それは今朝のことだった。
強引に居候を決め込んだ黒鋼は、宣言通り本当にベッドを独占した。
そのせいでファイはソファに丸まって眠ることになったのだが、なかなか寝付けず、ようやく眠ったのは朝方近くになってからだった。
結果、ファイは目覚ましのアラームに気がつかなかった。
「おい、起きろ」
夢の中で、聞き慣れない低音が呼びかけるのを聞いた。
それでも浮上しかけた意識はすぐに眠りへと磁石のように吸い寄せられる。
「もうちょっとー……」
「教師が寝坊して遅刻ってのはまずいだろ」
「んー……」
「起きねぇとキスんぞ」
「んー、いいよー……なんでもいいからー」
(分かったから、あと少しだけ……)
その時のファイは黒鋼が何を言っているのかなんて、まるで聞き取れてはいなかった。むしろ相手さえ認識できていなかったと言っていい。
今この瞬間を少しでも長引かせることが出来るなら、もう何もかもがどうでもよくて、そればかりに心も身体も支配されていた。
チッ、というガラの悪そうな舌打ちが聞こえたような気がした。
それでも目を開けることができず、眠りに落ちていくファイの前髪に、何かが絡みついた。
それによってぐっと髪を引っ張られ、首の角度を無理に変えられて、無意識に「痛い」と叫びそうになった時、何かが唇に押し付けられた。
(……? ……あー、そっか、これ夢かー)
夢にしては感じる首の捻じれがリアルだし、さっきの髪を掴まれたような感触も残っていたが、考える脳が停止しているファイは全てを『夢』として片付けてしまった。
覆いかぶさるように重ねられた唇の熱さや、その弾力が心地よくて、鼻から抜けるような吐息で微かに笑った。
こんな風に誰かと触れあうのは、久しぶりだ。
(なんか、気持ちいいな……)
突き動かされるような衝動と共に、忙しさにかまけてすっかり忘れ去っていた欲求不満を自覚した。
無意識に両腕を伸ばし、相手の首にそれを絡めるとさらに強く引き寄せてみる。
女にしてはやけに首が太くて、肩幅があるなと思ったのは一瞬だった。僅かに身じろいだ相手の舌が口腔に差し込まれるのと、ファイが相手の唇目がけて舌を捻じ込もうとしたのは同時だった。
「ん、ぅ……ッ」
舌先が強く擦れ合い、そのままぬるぬると競うように絡め合う。重たい瞼と混濁する意識に反して、感覚だけは水音が増す度に研ぎ澄まされた。
指先や足の先まで、じん、という痺れに襲われる。思わずビクンと肩を震わせた瞬間、対等だった主導権が相手に移った。
「ふっ、ん……ッ!」
慣れない受け身の口付けに戸惑う隙もなく、肉厚なそれが歯列を滑り、ファイの口腔を暴れまわった。同時に後ろ首に手を這わされ、髪の中に差し込まれた指が梳かすような動きで頭皮に爪を立ててくる。
絶妙にリンクする二つの刺激に、目を閉じていながら世界が回るような眩暈を覚えた。
(ぅ、わ……! これ、気持ちよすぎる……!)
息をつく間もなく、きゅう、と甘く舌を吸われるのが堪らない。
もっともっとと、同じように相手の頭部に指を這わせ、爪を立てて掻き乱した。ふと、随分と短くて硬い髪だなと、熱に浮かされながらも引っかかりを覚える。
なにか、おかしい気がした。
腕の中に納まりきらない大きな身体。こちらに主導権を明け渡さない、荒々しい獣のようなキス。まるでこっちが女にでもなったような。
(女……?)
そう、この部屋に女なんかいないし、連れ込んだこともない。
ならこれは誰だろう。そもそもこれは本当に夢なのだろうか?確か今、自分以外でここにいるのは、ただ一人のはず……。
「ッ!?」
その時、ファイの意識は完全に覚醒した。
目を見開いたと同時に相手を思いっきり突き飛ばし、慌てて身を起こす。
「な、なん、何して……!?」
「なにって言われてもな」
強く突き飛ばしたつもりだったが、黒鋼はほとんどダメージを受けていなかった。床に胡坐をかいて、濡れた口元を手の甲で拭いながらケロリとした顔をしている。
カッと、頭に血が上った。
「い、一体なにをしてるのかって聞いてるの!!」
「キスだな」
「な、な、な、なんで!?」
「なんか不味かったか?」
「不味いでしょそりゃあ!!」
「了承は得たぞ」
「そんなの知らないし! 許した覚えなし!」
だいたいね、とファイは興奮状態のまま黒鋼を指差した。
「寝起きにあんな濃厚なの普通する!? 信じらんない!!」
「てめぇがノリノリだったんだろ。据え膳食らって何が悪い?」
「すすす、すえぜ……!?」
頭の中が真っ白どころか、上りきっていた血で爆発でもしたかのように真っ赤に点滅していた。
黒鋼が何を言っているのか分からないし、分かりたくないし、分かってはいけない気がする。そもそも、今は混乱が先だって何一つ自分の中で処理できない。
「朝飯食ってる時間はねぇな」
半ば恐慌状態に陥っているファイから視線を時計へと移し、黒鋼は立ち上がって脱衣所の方へ向かった。
口を閉じられないまま彼の動きを凝視していると、一度は消えた姿がひょいっと再び現れる。
「ぼけっとしてねぇで、シャキっとしろよ」
顔を出した黒鋼は偉そうに言うと、思い出したようにニヤリと口元で笑った。片方の口角だけを上げて見せる、あのどこか意地の悪そうな笑みだ。
「おまえ、なかなかそそる反応するんだな」
「は……!?」
「ご馳走さん」
そこからどうやって学校まで駆け込んだのか、ファイはまるで覚えていない。
*
まだ授業中ということもあり、学校全体はひっそりと静まりかえっている。
南校舎三階、東側にある化学準備室の鍵を開けて、ファイは引き戸を開けると中に入った。後ろ手で扉を閉めた途端、それを背にしてズルズルと床にしゃがみ込むと、重い溜息をつきながら前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
薬品の香りがする狭い室内は、入って左手には薬品や実験器具がみっしりと並べられた鉄の大棚、右手側には書籍や書類の詰まったファイルが隙間なく立てられた突っ張り棚が設置され、正面には窓と机、椅子が置かれている。
とにかく一人になって落ち着こうと、自分の縄張りと言ってもいいこの場所を選んだものの、逆にこの静けさと孤立感はじっくりと物を考えるには最適すぎた。
(一体どこで育ち方間違って来たんだろう、あの子……)
彼は冗談の一つもまともに言えないような、硬い性格をした子供だった。単純で、純粋で、態度は突っ張っていても人を疑うことを知らなくて。
そんな黒鋼だったからこそ、手の平で転がすように弄ぶのが楽しくて仕方がなかった。睨まれたり、怒鳴られたりすると不思議とワクワクして、もっとそんな反応が見たくて飽きることなくからかったものだ。
それが今ではどうだ。やけに落ち着いて、余裕しか感じられなくて、あれではまるで大人の男ではないか。
「……大人、だけどさ……もう……」
この際、認めよう。黒鋼はもう立派な成人男性で、小さくて可愛くてピュアだった幼い彼は、ファイの記憶の中にしか存在しない。
離れていた年月を思えば、そりゃあ誰だって様々な経験をするだろうが。
だけど、それにしたって。
(どこであんなキス……覚えてきたんだろうね、全く)
思い出すだけで頬に熱が集まって来るのを感じる。あれは正直、本当にまずかった。
朝、ということもあったのかもしれないが、それによってうっかり生理現象を催すくらいには、気持ちがよかった。
相手を知ったあまりの衝撃で萎えたのが唯一の救いだったかもしれないが、まざまざと思い出してしまっている今、気を抜くと危険だ。
寝ぼけていたとはいえ、感じ入ってしまった自分に対するショックが最も大きいかもしれない。
ファイは頭を抱えると「うわあぁ」と悲鳴を上げる。
だいたい、冗談にしては行きすぎではないか。据え膳とかなんとか、訳の分からないことを言っていたような気がするが、ふざけるにしたって悪質すぎる。
しかしふと、そこでファイは気がついた。
(悪質な……悪ふざけ……)
思い出してもみれば、程度は違えど自分は彼に全く同じようなイタズラをしていたのだった。純粋で穢れ知らずの、初恋さえ済んでいるか怪しい初な少年を相手に。
おそらく彼にとってあれは初めてのキスだった。
多感で複雑な年頃の少年を相手に仕掛けるには、あまりにも非常識で変態的な行為ではなかったか。
今や教師としての意識がいっぱしに確立しているファイは、今更になって自分がやらかした行いの犯罪性に気がついた。
「まさか、あの時の仕返し、とかじゃないだろうね……?」
いつだったか、彼は「いつか泣かす」なんてことを言っていたような気がしないでもない。
「……流石に考えすぎか」
とにかく、今朝のことはなかったことにして忘れよう。
いつまでもボケっとしているわけにもいかない。午後は実習生が見学に訪れる予定になっているし、残りの授業はしっかりと気合いを入れることにした。
*
放課後。
受け持ちの文化部に顔を出して、午前中は小テストで誤魔化してしまった分の答案の採点を行うべく職員室へ向かったファイは、途中で実習生控室の前を通りがかった。
もしかしたら黒鋼も中にいるのではないかと少し緊張しつつ、扉の小窓から中を覗き込んで見る。
が、そこには数名の実習生が帰り支度や教材研究に没頭する姿以外、見知った顔はなかった。
その姿が見えないことにホッと胸を撫で下ろす。
気を取り直してその場から一歩踏み出そうとしたところで、大きな壁のようなものに弾かれ「わ」と声を上げた。
「なんだ、ぼうっとすんな」
壁は、どうやら黒鋼だったらしい。
その胸板に弾かれてよろめいた腕を取られて、ファイはギクリと身を硬くする。
「あ、えーっと、お疲れ様ー」
緊張を悟られるのは癪で、何事もなかったかのように笑顔で声をかけた。さりげなく取られていた手首を遠ざけることは忘れない。
「今日はもう終わり?」
「ぼちぼちな」
まだジャージ姿でいるところを見ると、部活動の方にも顔を出したのかもしれない。
実習生が帰宅するためには指導報告書を提出し、担当教官にサインを貰わなければならず、それが終わらないことには一日を締めくくることはできない。
教材研究を怠ることも出来ないし、きっと担当教官からのダメだしも相当食らうことになるはずだ。
(がんばってるんだなぁー)
そう思うと、今朝のことなどされ忘れて胸がじんとする。
あの小さかった黒鋼が、こうして自分の将来に向けて頑張っている姿を近くで見られるというのは、なんだか嬉しい。
それに、思ったより普通だ。
黒鋼は今朝のことなどまるでなかったかのようにごく自然な様子だし、そのおかげかファイも少しずつ肩の力を抜くことが出来た。
「そっかー。じゃあオレはまだ仕事あるから行くねー」
「おう。あんま無理すんなよ」
「そっちもねー」
そう片肘を張る必要もないんだな、なんて思いつつファイはファイで自分の仕事をこなすべく職員室へ向かった。
*
しばらく職員室で作業をしていると、窓から吹く夕時の風が少し冷たくなってきた。時計を見上げると、そろそろ6時を回ろうとする頃だ。
先刻まではちらほらと見えていた教師達の姿も、気づけばまったくなくなっている。
今日のところは早めに帰宅しようかな、などと考えていると、またあの嫌な視線を感じた。
(……まただよ。一体どこから感じるんだろうこれは)
窓の外は薄暗く、校庭に人がいる様子もないのだが。
気味の悪さを覚えつつ立ち上がり、窓とカーテンを閉める。
そこに、報告書にサインを貰って帰り支度を終えたスーツ姿の黒鋼が顔を出した。職員玄関を利用するがてら、通りすがりに中を覗いて見たらしい。
「おう。まだやってんのか」
「あ、うん。もうだいたい終わったけどねー」
「採点か?」
「そそー」
気を取り直したように再び椅子に落ち着いたファイの傍に、黒鋼が近寄って来る。
ひょい、と机の上に重なるプリントを覗きこんで来るので、少しだけ椅子を引いて見せた。
「おい、こいつやる気あんのか? 落書きだらけじゃねぇか」
「あははー、問題はちゃんと解いてるからいいんだよー」
「いいのかよ」
「いいのいいのー。時間あまっちゃうと退屈なんだよねー」
「おまえのいい加減さはガキ共の評判通りだな」
「やだなー。あの子達そんなこと言ってたのー?」
「緩いとこが面白ぇってよ」
「ぷっ」
ファイは思わず肩を竦めてふき出した。
確かに、よく緩いとは言われる。それを不真面目だと指摘して睨んでくる教師もいるにはいるが、自然体でいることで生徒たちが懐いてくれるのは嬉しい。
そんな中、黒鋼はすっかり口を閉ざしてしまった。もしかして、真面目な性分の彼は呆れて物も言えない状態なのだろうか。
どうしたの、と顔を上げるのと、長い後ろ髪を緩く引っ張られるのは同時だった。
「!?」
なにが起きたのか分からないまま、真っ黒の影に視界が遮られて目を見開いた。
(な……?)
ファイの髪を掴んだままの黒鋼が身を屈ませている。唇に温かなものが押し付けられていて、脳内がフリーズした。
硬直状態だったファイは、それでもすぐにハッとして「うわぁ!!」と叫びながら身を捩り、結果、椅子から転げ落ちた。
「いったぁーい!!」
「おい、気をつけろよ」
「こ、ここどこだと思って……!?」
ここは学校で、職員室で、カーテンは閉め切られているが、誰が来たっておかしくない場所で。あの嫌な視線は感じられないが、ただ単に感じている余裕がないだけかもしれないというのに。
顔から火を噴きそうになっているファイを見下ろす黒鋼は、無表情でケロリとしている。
そして彼は、さも当然のように「したくなった」と言い放った。
「はい!?」
「じゃあ先に戻ってるぞ」
「ちょ、話終ってない!!」
「とっとと帰って来いよ」
「待っ……!」
まるで聞く耳を持たない黒鋼は、そっけなく背を向けると尻もちをついたままのファイを残して職員室を出て行ってしまった。
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「…………うーん」
「もう10分過ぎてるんですけどー……」
「…………はぁー」
黒板前の椅子に座って、教卓に頬杖をついたまま上の空でいる化学教師に、生徒達が戸惑っている。
次第にざわつきが増す中、ファイはフラリと立ち上がると一言「ダメだ……」と呟いた。
「せ、先生?」
「答案、適当に集めたら後で誰か職員室に持ってきて……」
「はぁ……」
「今日はあと自習……」
生徒達がぽかんと口を開けているのも構わず、ファイはよろよろとした足取りで教室を後にした。
今日はずっとこんな調子だ。何も手につかず、考えられない。
計画が狂うと分かってはいても、適当な問題集をコピーして生徒に与えるだけで、授業なんてまともに出来る状態でもなかった。
(……ちょっと一人になりたい)
ふらつきながら、化学準備室へ向かって静まりかえった廊下の隅を歩く。
精神的なダメージがファイの感情を絶えず揺さぶっていた。
何がどうして『あんなこと』になったのか、ほんの数時間前の、朝の出来事が嫌でも脳内に再生されて、頭痛がした。
*
それは今朝のことだった。
強引に居候を決め込んだ黒鋼は、宣言通り本当にベッドを独占した。
そのせいでファイはソファに丸まって眠ることになったのだが、なかなか寝付けず、ようやく眠ったのは朝方近くになってからだった。
結果、ファイは目覚ましのアラームに気がつかなかった。
「おい、起きろ」
夢の中で、聞き慣れない低音が呼びかけるのを聞いた。
それでも浮上しかけた意識はすぐに眠りへと磁石のように吸い寄せられる。
「もうちょっとー……」
「教師が寝坊して遅刻ってのはまずいだろ」
「んー……」
「起きねぇとキスんぞ」
「んー、いいよー……なんでもいいからー」
(分かったから、あと少しだけ……)
その時のファイは黒鋼が何を言っているのかなんて、まるで聞き取れてはいなかった。むしろ相手さえ認識できていなかったと言っていい。
今この瞬間を少しでも長引かせることが出来るなら、もう何もかもがどうでもよくて、そればかりに心も身体も支配されていた。
チッ、というガラの悪そうな舌打ちが聞こえたような気がした。
それでも目を開けることができず、眠りに落ちていくファイの前髪に、何かが絡みついた。
それによってぐっと髪を引っ張られ、首の角度を無理に変えられて、無意識に「痛い」と叫びそうになった時、何かが唇に押し付けられた。
(……? ……あー、そっか、これ夢かー)
夢にしては感じる首の捻じれがリアルだし、さっきの髪を掴まれたような感触も残っていたが、考える脳が停止しているファイは全てを『夢』として片付けてしまった。
覆いかぶさるように重ねられた唇の熱さや、その弾力が心地よくて、鼻から抜けるような吐息で微かに笑った。
こんな風に誰かと触れあうのは、久しぶりだ。
(なんか、気持ちいいな……)
突き動かされるような衝動と共に、忙しさにかまけてすっかり忘れ去っていた欲求不満を自覚した。
無意識に両腕を伸ばし、相手の首にそれを絡めるとさらに強く引き寄せてみる。
女にしてはやけに首が太くて、肩幅があるなと思ったのは一瞬だった。僅かに身じろいだ相手の舌が口腔に差し込まれるのと、ファイが相手の唇目がけて舌を捻じ込もうとしたのは同時だった。
「ん、ぅ……ッ」
舌先が強く擦れ合い、そのままぬるぬると競うように絡め合う。重たい瞼と混濁する意識に反して、感覚だけは水音が増す度に研ぎ澄まされた。
指先や足の先まで、じん、という痺れに襲われる。思わずビクンと肩を震わせた瞬間、対等だった主導権が相手に移った。
「ふっ、ん……ッ!」
慣れない受け身の口付けに戸惑う隙もなく、肉厚なそれが歯列を滑り、ファイの口腔を暴れまわった。同時に後ろ首に手を這わされ、髪の中に差し込まれた指が梳かすような動きで頭皮に爪を立ててくる。
絶妙にリンクする二つの刺激に、目を閉じていながら世界が回るような眩暈を覚えた。
(ぅ、わ……! これ、気持ちよすぎる……!)
息をつく間もなく、きゅう、と甘く舌を吸われるのが堪らない。
もっともっとと、同じように相手の頭部に指を這わせ、爪を立てて掻き乱した。ふと、随分と短くて硬い髪だなと、熱に浮かされながらも引っかかりを覚える。
なにか、おかしい気がした。
腕の中に納まりきらない大きな身体。こちらに主導権を明け渡さない、荒々しい獣のようなキス。まるでこっちが女にでもなったような。
(女……?)
そう、この部屋に女なんかいないし、連れ込んだこともない。
ならこれは誰だろう。そもそもこれは本当に夢なのだろうか?確か今、自分以外でここにいるのは、ただ一人のはず……。
「ッ!?」
その時、ファイの意識は完全に覚醒した。
目を見開いたと同時に相手を思いっきり突き飛ばし、慌てて身を起こす。
「な、なん、何して……!?」
「なにって言われてもな」
強く突き飛ばしたつもりだったが、黒鋼はほとんどダメージを受けていなかった。床に胡坐をかいて、濡れた口元を手の甲で拭いながらケロリとした顔をしている。
カッと、頭に血が上った。
「い、一体なにをしてるのかって聞いてるの!!」
「キスだな」
「な、な、な、なんで!?」
「なんか不味かったか?」
「不味いでしょそりゃあ!!」
「了承は得たぞ」
「そんなの知らないし! 許した覚えなし!」
だいたいね、とファイは興奮状態のまま黒鋼を指差した。
「寝起きにあんな濃厚なの普通する!? 信じらんない!!」
「てめぇがノリノリだったんだろ。据え膳食らって何が悪い?」
「すすす、すえぜ……!?」
頭の中が真っ白どころか、上りきっていた血で爆発でもしたかのように真っ赤に点滅していた。
黒鋼が何を言っているのか分からないし、分かりたくないし、分かってはいけない気がする。そもそも、今は混乱が先だって何一つ自分の中で処理できない。
「朝飯食ってる時間はねぇな」
半ば恐慌状態に陥っているファイから視線を時計へと移し、黒鋼は立ち上がって脱衣所の方へ向かった。
口を閉じられないまま彼の動きを凝視していると、一度は消えた姿がひょいっと再び現れる。
「ぼけっとしてねぇで、シャキっとしろよ」
顔を出した黒鋼は偉そうに言うと、思い出したようにニヤリと口元で笑った。片方の口角だけを上げて見せる、あのどこか意地の悪そうな笑みだ。
「おまえ、なかなかそそる反応するんだな」
「は……!?」
「ご馳走さん」
そこからどうやって学校まで駆け込んだのか、ファイはまるで覚えていない。
*
まだ授業中ということもあり、学校全体はひっそりと静まりかえっている。
南校舎三階、東側にある化学準備室の鍵を開けて、ファイは引き戸を開けると中に入った。後ろ手で扉を閉めた途端、それを背にしてズルズルと床にしゃがみ込むと、重い溜息をつきながら前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
薬品の香りがする狭い室内は、入って左手には薬品や実験器具がみっしりと並べられた鉄の大棚、右手側には書籍や書類の詰まったファイルが隙間なく立てられた突っ張り棚が設置され、正面には窓と机、椅子が置かれている。
とにかく一人になって落ち着こうと、自分の縄張りと言ってもいいこの場所を選んだものの、逆にこの静けさと孤立感はじっくりと物を考えるには最適すぎた。
(一体どこで育ち方間違って来たんだろう、あの子……)
彼は冗談の一つもまともに言えないような、硬い性格をした子供だった。単純で、純粋で、態度は突っ張っていても人を疑うことを知らなくて。
そんな黒鋼だったからこそ、手の平で転がすように弄ぶのが楽しくて仕方がなかった。睨まれたり、怒鳴られたりすると不思議とワクワクして、もっとそんな反応が見たくて飽きることなくからかったものだ。
それが今ではどうだ。やけに落ち着いて、余裕しか感じられなくて、あれではまるで大人の男ではないか。
「……大人、だけどさ……もう……」
この際、認めよう。黒鋼はもう立派な成人男性で、小さくて可愛くてピュアだった幼い彼は、ファイの記憶の中にしか存在しない。
離れていた年月を思えば、そりゃあ誰だって様々な経験をするだろうが。
だけど、それにしたって。
(どこであんなキス……覚えてきたんだろうね、全く)
思い出すだけで頬に熱が集まって来るのを感じる。あれは正直、本当にまずかった。
朝、ということもあったのかもしれないが、それによってうっかり生理現象を催すくらいには、気持ちがよかった。
相手を知ったあまりの衝撃で萎えたのが唯一の救いだったかもしれないが、まざまざと思い出してしまっている今、気を抜くと危険だ。
寝ぼけていたとはいえ、感じ入ってしまった自分に対するショックが最も大きいかもしれない。
ファイは頭を抱えると「うわあぁ」と悲鳴を上げる。
だいたい、冗談にしては行きすぎではないか。据え膳とかなんとか、訳の分からないことを言っていたような気がするが、ふざけるにしたって悪質すぎる。
しかしふと、そこでファイは気がついた。
(悪質な……悪ふざけ……)
思い出してもみれば、程度は違えど自分は彼に全く同じようなイタズラをしていたのだった。純粋で穢れ知らずの、初恋さえ済んでいるか怪しい初な少年を相手に。
おそらく彼にとってあれは初めてのキスだった。
多感で複雑な年頃の少年を相手に仕掛けるには、あまりにも非常識で変態的な行為ではなかったか。
今や教師としての意識がいっぱしに確立しているファイは、今更になって自分がやらかした行いの犯罪性に気がついた。
「まさか、あの時の仕返し、とかじゃないだろうね……?」
いつだったか、彼は「いつか泣かす」なんてことを言っていたような気がしないでもない。
「……流石に考えすぎか」
とにかく、今朝のことはなかったことにして忘れよう。
いつまでもボケっとしているわけにもいかない。午後は実習生が見学に訪れる予定になっているし、残りの授業はしっかりと気合いを入れることにした。
*
放課後。
受け持ちの文化部に顔を出して、午前中は小テストで誤魔化してしまった分の答案の採点を行うべく職員室へ向かったファイは、途中で実習生控室の前を通りがかった。
もしかしたら黒鋼も中にいるのではないかと少し緊張しつつ、扉の小窓から中を覗き込んで見る。
が、そこには数名の実習生が帰り支度や教材研究に没頭する姿以外、見知った顔はなかった。
その姿が見えないことにホッと胸を撫で下ろす。
気を取り直してその場から一歩踏み出そうとしたところで、大きな壁のようなものに弾かれ「わ」と声を上げた。
「なんだ、ぼうっとすんな」
壁は、どうやら黒鋼だったらしい。
その胸板に弾かれてよろめいた腕を取られて、ファイはギクリと身を硬くする。
「あ、えーっと、お疲れ様ー」
緊張を悟られるのは癪で、何事もなかったかのように笑顔で声をかけた。さりげなく取られていた手首を遠ざけることは忘れない。
「今日はもう終わり?」
「ぼちぼちな」
まだジャージ姿でいるところを見ると、部活動の方にも顔を出したのかもしれない。
実習生が帰宅するためには指導報告書を提出し、担当教官にサインを貰わなければならず、それが終わらないことには一日を締めくくることはできない。
教材研究を怠ることも出来ないし、きっと担当教官からのダメだしも相当食らうことになるはずだ。
(がんばってるんだなぁー)
そう思うと、今朝のことなどされ忘れて胸がじんとする。
あの小さかった黒鋼が、こうして自分の将来に向けて頑張っている姿を近くで見られるというのは、なんだか嬉しい。
それに、思ったより普通だ。
黒鋼は今朝のことなどまるでなかったかのようにごく自然な様子だし、そのおかげかファイも少しずつ肩の力を抜くことが出来た。
「そっかー。じゃあオレはまだ仕事あるから行くねー」
「おう。あんま無理すんなよ」
「そっちもねー」
そう片肘を張る必要もないんだな、なんて思いつつファイはファイで自分の仕事をこなすべく職員室へ向かった。
*
しばらく職員室で作業をしていると、窓から吹く夕時の風が少し冷たくなってきた。時計を見上げると、そろそろ6時を回ろうとする頃だ。
先刻まではちらほらと見えていた教師達の姿も、気づけばまったくなくなっている。
今日のところは早めに帰宅しようかな、などと考えていると、またあの嫌な視線を感じた。
(……まただよ。一体どこから感じるんだろうこれは)
窓の外は薄暗く、校庭に人がいる様子もないのだが。
気味の悪さを覚えつつ立ち上がり、窓とカーテンを閉める。
そこに、報告書にサインを貰って帰り支度を終えたスーツ姿の黒鋼が顔を出した。職員玄関を利用するがてら、通りすがりに中を覗いて見たらしい。
「おう。まだやってんのか」
「あ、うん。もうだいたい終わったけどねー」
「採点か?」
「そそー」
気を取り直したように再び椅子に落ち着いたファイの傍に、黒鋼が近寄って来る。
ひょい、と机の上に重なるプリントを覗きこんで来るので、少しだけ椅子を引いて見せた。
「おい、こいつやる気あんのか? 落書きだらけじゃねぇか」
「あははー、問題はちゃんと解いてるからいいんだよー」
「いいのかよ」
「いいのいいのー。時間あまっちゃうと退屈なんだよねー」
「おまえのいい加減さはガキ共の評判通りだな」
「やだなー。あの子達そんなこと言ってたのー?」
「緩いとこが面白ぇってよ」
「ぷっ」
ファイは思わず肩を竦めてふき出した。
確かに、よく緩いとは言われる。それを不真面目だと指摘して睨んでくる教師もいるにはいるが、自然体でいることで生徒たちが懐いてくれるのは嬉しい。
そんな中、黒鋼はすっかり口を閉ざしてしまった。もしかして、真面目な性分の彼は呆れて物も言えない状態なのだろうか。
どうしたの、と顔を上げるのと、長い後ろ髪を緩く引っ張られるのは同時だった。
「!?」
なにが起きたのか分からないまま、真っ黒の影に視界が遮られて目を見開いた。
(な……?)
ファイの髪を掴んだままの黒鋼が身を屈ませている。唇に温かなものが押し付けられていて、脳内がフリーズした。
硬直状態だったファイは、それでもすぐにハッとして「うわぁ!!」と叫びながら身を捩り、結果、椅子から転げ落ちた。
「いったぁーい!!」
「おい、気をつけろよ」
「こ、ここどこだと思って……!?」
ここは学校で、職員室で、カーテンは閉め切られているが、誰が来たっておかしくない場所で。あの嫌な視線は感じられないが、ただ単に感じている余裕がないだけかもしれないというのに。
顔から火を噴きそうになっているファイを見下ろす黒鋼は、無表情でケロリとしている。
そして彼は、さも当然のように「したくなった」と言い放った。
「はい!?」
「じゃあ先に戻ってるぞ」
「ちょ、話終ってない!!」
「とっとと帰って来いよ」
「待っ……!」
まるで聞く耳を持たない黒鋼は、そっけなく背を向けると尻もちをついたままのファイを残して職員室を出て行ってしまった。
←戻る ・ 次へ→
あの子は小さくて、陽だまりのような香りのする、とても可愛い男の子だった。
大きな目はサクランボみたいに赤くて丸くて、頬っぺたはお餅みたいにふにふにしてて。
怒るとすぐに瞳をうるうるさせて、子犬みたいにキャンキャン吠えた。
小さくて可愛くて、子犬のようだったあの子は、今どうしているんだろう。
*
それは教師になって7年目の、美しい新緑の季節のこと。
「ふあぁ……」
職員室の窓際の席で、ファイは大きな欠伸をした。
授業が終わり、部活指導の傍ら山積みになっていた校務をある程度こなすと、一日の疲れが一気に押し寄せて少しばかり気が抜ける。
首の付け根に手を当てて軽く横に傾けると、関節の鳴る小さな音がして思わず「あいたっ」という声が洩れた。
肩が凝ったような気がするのは、基本的に常に着用している長白衣のせいか、それとも面倒くさがって伸ばしっぱなしの髪が、地味に重たいせいなのだろうか。
ふと、夕焼けの校庭で部活動に励む生徒たちの声が、爽やかな風に乗って耳に届いた。
笛の号令と一緒に短い掛け声を上げながら、校庭を何周もしている少年少女がやけに眩しい。
(最近どうも弛んでるなー)
頬杖をつきながら小さく息を吐きだす。
そして再び欠伸をしかけたところで、ファイは皮膚にチクリと何かが刺さるような違和感を覚えて、顔を顰めた。
(あー、まただ……)
最近、ふとした瞬間どこからともなく視線を感じる時がある。新入生が入ってきた頃からだから、ここ一ヶ月ほどだろうか。
ファイは気味の悪さを覚えつつ、改めて校庭の方へ目を向ける。相変わらず爽やかに青春の汗を流す生徒達の他には、それを指導する顧問や青いツナギを着た用務員が、せっせと草むしりする後ろ姿しか見えない。
見慣れた光景だ。何もおかしなところはない。
(気のせいかなぁ。疲れてるのかもしれないし)
こんなことではいかんと、一度強く瞬きをしてから両手で頬をパンパンと叩く。さらに深呼吸をしたところで、他の教師達でざわつく職員室に校長と教頭が揃って姿を見せた。
そしてその背後から見知らぬ男女が数名、スーツ姿で職員室に入って来る。
そういえばどこぞの大学から教育実習生がやって来るのは明日からだったか。今春は自分が担当する実習生はいないため、すっかり忘れていた。
今日はその最終的な打ち合わせも兼ねた顔合わせと言ったところだろう。各自仕事にあたっていた教師達がのっそりと立ち上がるのに合わせて、ファイもとりあえず起立する。
果たしてこの中の何人が本気で教師を目指しているかは知らないが、緊張に張りつめた若者たちの様子は微笑ましく、自分の時もこんな感じだったなぁと懐かしさが込み上げる。
しかし、そんなものにゆっくりと浸る間もなく、一番最後に入って来た若者を見てファイは少し驚いた。
それは他の教師達も同じだったようで、皆が口を揃えて「でかいなぁ」と驚きの声を上げている。
彼はとんでもなく日本人離れした、規格外の体格の持ち主だった。
ファイも長身の方だが、おそらく彼はそれよりもさらに、頭一つ分は軽く飛びぬけている。しかも大きいのは背丈だけでなく、見るからに格闘技に精通していそうな逞しい身体つきが、黒のスーツ越しにも見て取れた。
最近の子は発育がいいなんてよく耳にするが、彼からはすでに成熟しきった大人の貫録をたっぷりと感じる。緊張する面々の中でも、一人だけ威風堂々として浮いた存在に見えた。
言い方を変えれば、威圧感、だろうか。
あなた一体どれほどの死線を潜り抜けて来た猛者ですか、と問いかけたくなるほど眼光が鋭い。
(……でもこの子、どっかで見たかな)
たった一人に視線を奪われたまま小首を傾げるファイを尻目に、教頭が実習生たちを紹介しはじめる。
全体の挨拶もそこそこに、実習生が一人一人、声を上ずらせながら出身の大学やら何やらを自己紹介していくが、ファイの耳には入らない。
(こんな目立つの、一度見たら絶対に忘れないと思うんだけど)
見覚えがあるというよりは、どことなく懐かしいような。
うーん、と首を傾げながら、ファイは改めてそのバカでかい男を上から下まで眺めた。
ツンツンと尖った硬そうな黒髪と、眉間に寄った皺。普通にしていても怒っているのかと勘違いされそうな人相の悪さで、損することもありそうだな、などとと余計なことを考える。
切れ長の目は赤く、ふとこんな配色をどこかで見た気がして記憶の蓋を開けた時、ファイは一人の少年の姿を脳裏に思い描いた。
(ん……?)
確かに、似てると思えば似ているような気がしないでもない。
するとだんだん、視線の先にある男の顔と、大きな瞳の可愛い少年の像がだぶって見えた。
(あれ……あれあれ……? この子、もしかして……?)
「アァー!?」
その瞬間、ファイは大声を上げて彼を指差していた。
自己紹介の途中だった実習生の若い女の子が、ぎょっとして肩を震わせる。咄嗟に両手で口元を抑えたがすでに遅く、周りの全員が視線をファイに集中させた。
「あ、いえ、すみません……続けてください……」
眼鏡の奥を光らせる校長の視線からさりげなく目を逸らしつつ、ファイは肩を竦めて身体を小さくした。
気を取り直して実習生が再び自己紹介を始める中、額に嫌な汗をかきながらチラリと問題の人物を窺うと、ファイは思わず身を硬くする。
男は、じっとファイを見つめている。
そして、無表情だった口元を不敵に笑みの形に釣りあげて見せた。
向こうはいつから気付いていたのか知らないが、ファイのように取り乱す様子は一切なく、すぐに視線が逸らされる。
(こここ、これは……)
悪夢か?
そうだ。そうに違いない。これは紛れもなく悪夢だ。決してあってはならないことだ。
目が合ったような気がするのも、なんだか底意地悪そうな笑みを浮かべていたような気がするのも『そんな気がする』だけであって、きっと見間違いだ。
だから一瞬だけあの懐かしい面影が重なって見えたのだって、きっと疲れ目のせいに違いない。
だって今、この目に映る大きな男のどこにも可愛らしさなんて欠片もないし、あの思いっきりシャープな頬はつついたって絶対に柔らかくなんてない。
(違う……違う……あれは違う……あんなどっかの傭兵か格闘家みたいなごっついのが、あの可愛い黒たんなわけない……だからこれは夢……夢……)
ファイの静かなる混乱を尻目に、一人また一人とたどたどしい自己紹介が終わる中、ついに彼の番がやってくる。
だが次の瞬間、とんだド低音で容赦なく告げられた忘れもしない名前に、ファイは気が遠のくのを感じた。
***
初めて見た時は、気難しそうな子だなという印象を受けた。
気が強くて生意気そうで、扱いにくそうだな、と。
それでも家が隣同士で、世話になっている祖父母も可愛がっているらしいし、上手くやって行くに越したことはないだろうと思った。
だからって努力して仲良くなろうとか、ご機嫌を取ろうとか、そういったことは特に考えていなかった。関わることがあれば愛想よくすればいいだろう、くらいにしか。
あの朝。
学校へ行くのに、偶然同じタイミングで家を出た、あの時までは。
「ガッコ、一緒に行こう?」
ランドセルの肩ベルトをぎゅっと握って、俯きながら門から出て来る姿を見た瞬間、ファイはその子供に声をかけていた。
どことなく寂しそうに見えて、なんとなく見過ごすのが嫌で。
黒鋼は近くで見るとびっくりするくらい小さくて、驚きに見開かれた瞳は赤い果実のようだった。
警戒心を丸出しにする様は、幼い頃に公園の片隅に捨てられていた子犬を思い出させた。ユゥイと2人で連れて帰って、少しの間だけ面倒を見ていたら、すぐに里親が見つかり、引き取られて行った。
黒くて小さくて、ファイにだけはなぜか大人しく抱っこさせてくれなかったけれど、とても可愛い子だったから。別れの時は、ユゥイと一緒に声を上げて泣いたっけ。
愛しい記憶を手繰り寄せるように、日に焼けた小さな手を取っていた。
柔らかくて温かくて、守ってあげたくなるような手だった。
この子と仲良くなりたいなと。
そのとき初めて思った。
歳は離れているし、このくらいの子供が何をすれば喜ぶかも分からなかったけれど。
でもきっと『可愛い』と言われて嫌がる子供はいないだろうと思った。
だって本当に、よく見ればとても可愛い顔をしていたし。頬っぺただって、指先で摘まんでふにふにしたくらい柔らかそうだし。
だから衝動の赴くままに接したら。
「おまえなんか……大っきらいだ!!」
……好かれるどころか、嫌われてしまった。
なのに全くショックじゃなかった。むしろ、なぜかワクワクした。
すぐに感情を露わにしてぶつかって来る様が、打てば響く太鼓のようで。
逃げられると、追いかけたくて仕方なくなる。
自分の意思で家を出たのに、本当は故郷を離れたことが少しだけ寂しかったファイは、あっと言う間に隣の家の、可愛い少年に夢中になってしまった。
*
「すみませーん、新聞の勧誘なら間に合ってますー」
とっぷりと日が暮れた頃、職員宿舎に帰宅したファイはドアに背を預け、腕を組んでいる大男にわざとらしいくらいの笑顔でそう言った。
スーツ姿の男は片眉をひょいと上げて見せると、口の端だけを持ち上げるような笑みを浮かべる。
「久しぶりだってのに。随分なあしらい方だな」
「えー? どこかでお会いしましたっけー?」
「だいたい9年ぶりってとこか?」
「いやいやー、知りませんホント、勘弁してくださーい」
「人間30にもなると、もうボケが始まるもんなのか?」
「ちょ、まだギリなってませんー!!」
一体どうしてここに彼がいるのか。
ここは幼等部から大学院まで連なる、巨大な学園都市の内部だ。遠方に家がある生徒のための学生寮もあれば、もちろん教員専用の宿舎もある。
ファイは高校教師として化学を担当しつつ、この宿舎の一室を住処としていた。
だが、たかだか教育実習生に部屋が割り当てられることは絶対にない。都市在住でない限りは、言うまでもなく自宅から通うのが基本のはずだった。
チラリと視線を落とせば、彼の足元には黒いスーツケースと、青いスポーツバッグがどっしりと置かれている。
そこはかとなく嫌な予感が背筋を這う中、ファイは一刻も早く自室に引きこもりたくて仕方がなかった。
すっと目を泳がせるファイを気にも留めず、男は足元のそれらを掴み上げると「よし」と言った。
「とっとと開けろ」
「はいー?」
「ここおまえの部屋だろ。さっさと開けて中に入れろ」
「ちょちょちょ、ちょっと待って! それは一体どういう!?」
「うるせぇな。俺は腹が減ってるんだよ。なんか作れ」
「うわー! すっごい横暴ー!」
その後もファイが何を言っても全く相手にされず、結局は押し切られる形で部屋への侵入を許してしまった。
揃って中に入る間際、またあの薄気味悪い視線を遠くから感じたような気がしたが、その時のファイはそれに構ってる余裕はなかった。
*
ソファにテレビ、ベッド、ガラス製のローテーブルや、背が高く横幅もあるユニット棚。クローゼットなどの収納スペースも充実しているこの部屋は、窓際に大きな観葉植物なんかも置けてしまうくらいには、広く快適なワンルームだった。
しかしそこにガタイのいい長身の男が一人余計に入り込むだけで、少々手狭に感じられる。
ローテーブルを挟んでテレビと向かい合うソファにどっかりと腰を下ろした黒鋼は、スーツのジャケットを肘かけに放り投げた。
「あの……聞いてもいいかなー?」
「なんだ」
そこ、オレの定位置なんだけど……と内心ぼやきながらも、ファイは行き場を失ったように立ち尽くす。
黒鋼はこちらにチラリと視線を寄こしながら、片手でネクタイを緩めていた。
その手つきが妙に男臭い仕草に見えて、胸の中の複雑な感情が肥大した。
「色々と聞きたいことはあるんだけど」
「おう」
「……君、ホントにあの黒たん?」
「あ?」
瞳を眇めて見せる彼は、やっぱりどう見ても人相が悪い。
獣の骨なんかをワイルドに齧る仕草が、思いっきり似合いそうだと思った。
「……野蛮そうー」
「てめぇは相変わらず失敬な野郎だな」
「……いやいやー、ないわー。これは酷い」
「ぶん殴るぞこら」
「うーわー……その脅し、まぎれもなく黒たんだー……」
大きな喪失感に力が抜けて、ファイは膝から床に崩れ落ちた。
「どっからどう見ても俺だろ。てめぇの目は節穴か」
「よく言うよー! まるっきり別人じゃん! 詐欺だよ詐欺! 訴えたら勝てる物件だよこれ!」
「安心しろ。そんな物件を相手にする弁護士なんかまずいねぇ」
「やだー! オレは信じないー!!」
「信じるも信じねぇもてめぇの勝手だがな。9年も経ってりゃあ」
「アーアーアー! 聞こえませーん!!」
両手で耳を塞いでブルブルと頭を振るファイを見て、黒鋼は呆れた様に溜息を零した。
***
こんなにも長い空白の時が開いてしまったのには、事情がある。
黒鋼とその母親が赴任先の父のもとへ引っ越してから、2年後にまずは祖母が他界した。そしてその翌年、祖父も逝った。
すでに自立して一人暮らしをしていたファイは、祖父母が生きていた頃はしょっちゅう家に足を運んでいた。
だが彼らが他界した後、あの家は遠い親戚の手に渡ってしまった。何分遠すぎて、ファイにしてみればほとんど他人も同然だ。気軽に足を運ぶことなど、到底できなかった。
だからファイは黒鋼がいつ実家に戻って来たのかを、知ることができなかった。
いつかまた会えたらいいなと、たまに思い出しては楽しかった頃に思いを馳せるのが関の山だったのだ。
*
「それにしても、黒たんが学校の先生になりたいなんて知らなかったなー」
いつまでも悲観に暮れていたって仕方がないと気を取り直したファイは、紅茶のカップを2つ、テーブルに置きながらしみじみ呟いた。
定位置のソファは相変わらず占領されているので、床にクッションを敷いてぺったりと腰を下ろす。
「体育の先生だっけー?」
「おう」
「そういえば黒たんは駆けっこも一番だったもんねぇ」
熱い紅茶に口をつける横顔を眺めながら、懐かしい姿を思い浮かべると胸がほっこりした。
黒鋼がまだ小学生だった頃、本当に一等賞なのか見てみたくて、こっそり運動会を覗きに行ったことがある。
彼は他の誰よりも身体が小さかったが、誰よりも差をつけてゴールテープを切っていた。一人でギャーギャー騒いで応援していたら黒鋼の母に見つかって、結局一緒にお弁当をご馳走になった。
黒鋼は「なんでてめぇがいるんだよ!」とプリプリ怒りながらも、美味しそうにおにぎりを食べていた。
頬っぺたに米粒がついていたから取ってあげたら、真っ赤になってさらに怒っていたっけ。
(あぁー……ホントあの頃は可愛かったなぁー……)
そういえば昔、庭でキャッチボールをした時に将来の夢を訊ねたことがあった。あの時、彼は「まだ何も考えてない」と言っていた気がする。
そんな黒鋼が自分と同じ教師の道を選んだというのは、なんだか不思議な感じがした。しかも実習先の学校に自分がいて、こんな形で再会を果たすことになるなんて。
そこでファイは、少しずつ昔の感覚が戻って来るような気がして「うふふ」と笑った。
「なんだよ」
「んー? ひょっとしてー、オレが学校の先生になりたいって言ってたから、黒たんも真似ッ子したのかなーって?」
こういう言葉の選び方をすれば、ファイの知っている黒鋼なら絶対に顔を真っ赤にして否定するはずだった。
彼はこちらの言うことには何かと突っかかって来たから、仮に本当にファイの存在がキッカケになっていたとしても、素直に認めることはしないだろうと。
見た目こそどんなに変わっても、人間中身までは早々変わらないはずだ。だからファイは、せめて内面くらいは幼い頃の片鱗を見せてほしくて、胸を躍らせながらにんまりと微笑んだ。
(さぁ来い黒わんこ! ファイお兄さんが久しぶりに遊んであげちゃう!)
だが、その目論見は外れた。
黒鋼は紅茶のカップをテーブルに戻すと、ふぅっと息を吐きだして緩く口角を上げる。目元はどこか優しげに、うっすらと細められてファイを捉えた。
「そうだ」
「……ぇ?」
「てめぇの背中を追いかけて、ここまで来た」
は、という形に口を開けた状態で、ファイは思考も動きも静止した。今の今まで、自分が一体誰と会話をしていたのかさえ、分からなくなる。
一応は重なり合っていた幼い黒鋼と、今の黒鋼の像が一瞬にしてバラバラに分離して見えた。
別に昔のように、涙目になるほどの大袈裟なリアクションを期待していたわけではない。そういうわけでは、決してないのだが。
(この人……誰だろ……)
少なくとも、見た目も中身も自分が知っている黒鋼でないことは確かな気がする。
激しく戸惑い言葉を失うファイに、黒鋼はすっかり大きくなった手をおもむろに伸ばしてきた。
ファイはただ、それを茫然と眺める。
武骨そうな指先が優しく頬を掠めた後、そっと頬にかかる鬱陶しい前髪を撫でた。
「髪、伸びたな」
「……え、ぁ、ぅん」
「悪くない」
「へっ? あ、ぁりが、と……?」
そこはかとなく場の空気を甘ったるく感じるのは気のせいだろうか。
ファイは離れていく手を、伸ばされた時と同じくただ視線で追いかける。骨ばっていて、大きくて、長い指。まるで知らない人の、知らない手だと思った。
なぜか胸が苦しい。そして、一瞬だけ触れられた頬が、火をつけられたように熱くなっていることに気がついた。
(な、なにこれ……なんだこの変な感じ……)
いつまでも石のように硬直したまま戻って来られないファイを置き去りに、黒鋼は再び無表情を取り戻していた。
ソファにのったりと背中を預け、さも当然のように不遜に言い放つ。
「とりあえず飯と風呂」
「……うん」
「あと、しばらく泊めろよ」
「……うん……うん!?」
「おまえソファで寝ろ。ベッドは俺が使ってやる」
「ちょ、ちょっと!?」
黒鋼は床に放り出されていた荷物を手に立ちあがると、ベッドにそれをドスンと置いた。ファイはテーブルに手をつき、慌てて腰を浮かす。
「ちょっとホントに待ってよ! そんな勝手に……!」
「あ? おまえそんだけひょろけりゃソファで十分だろ」
「そ、そういうことを言ってるんじゃなくって!」
「一緒に寝るには流石に狭ぇぞ。このベッドじゃ」
「だからあぁー!!」
広かったら問題ないのかよと突っ込みかけて、内心ハッとする。
噛み合わない会話にちょっと泣きそうになっている自分と、何事にも動じないように見えるマイペースな黒鋼。
これではまるで、昔と立場が逆転しているではないか、と。
もういっそ可愛くなくなったどころの騒ぎではない。ハッキリ言って、この男。
(なんかすっごーく、やりにくいー!!)
しかしこの黒鋼が、その後ただ扱いにくいだけでなく、凄まじい脅威の存在となっていくことを、この時のファイは知るよしもなかった……。
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大きな目はサクランボみたいに赤くて丸くて、頬っぺたはお餅みたいにふにふにしてて。
怒るとすぐに瞳をうるうるさせて、子犬みたいにキャンキャン吠えた。
小さくて可愛くて、子犬のようだったあの子は、今どうしているんだろう。
*
それは教師になって7年目の、美しい新緑の季節のこと。
「ふあぁ……」
職員室の窓際の席で、ファイは大きな欠伸をした。
授業が終わり、部活指導の傍ら山積みになっていた校務をある程度こなすと、一日の疲れが一気に押し寄せて少しばかり気が抜ける。
首の付け根に手を当てて軽く横に傾けると、関節の鳴る小さな音がして思わず「あいたっ」という声が洩れた。
肩が凝ったような気がするのは、基本的に常に着用している長白衣のせいか、それとも面倒くさがって伸ばしっぱなしの髪が、地味に重たいせいなのだろうか。
ふと、夕焼けの校庭で部活動に励む生徒たちの声が、爽やかな風に乗って耳に届いた。
笛の号令と一緒に短い掛け声を上げながら、校庭を何周もしている少年少女がやけに眩しい。
(最近どうも弛んでるなー)
頬杖をつきながら小さく息を吐きだす。
そして再び欠伸をしかけたところで、ファイは皮膚にチクリと何かが刺さるような違和感を覚えて、顔を顰めた。
(あー、まただ……)
最近、ふとした瞬間どこからともなく視線を感じる時がある。新入生が入ってきた頃からだから、ここ一ヶ月ほどだろうか。
ファイは気味の悪さを覚えつつ、改めて校庭の方へ目を向ける。相変わらず爽やかに青春の汗を流す生徒達の他には、それを指導する顧問や青いツナギを着た用務員が、せっせと草むしりする後ろ姿しか見えない。
見慣れた光景だ。何もおかしなところはない。
(気のせいかなぁ。疲れてるのかもしれないし)
こんなことではいかんと、一度強く瞬きをしてから両手で頬をパンパンと叩く。さらに深呼吸をしたところで、他の教師達でざわつく職員室に校長と教頭が揃って姿を見せた。
そしてその背後から見知らぬ男女が数名、スーツ姿で職員室に入って来る。
そういえばどこぞの大学から教育実習生がやって来るのは明日からだったか。今春は自分が担当する実習生はいないため、すっかり忘れていた。
今日はその最終的な打ち合わせも兼ねた顔合わせと言ったところだろう。各自仕事にあたっていた教師達がのっそりと立ち上がるのに合わせて、ファイもとりあえず起立する。
果たしてこの中の何人が本気で教師を目指しているかは知らないが、緊張に張りつめた若者たちの様子は微笑ましく、自分の時もこんな感じだったなぁと懐かしさが込み上げる。
しかし、そんなものにゆっくりと浸る間もなく、一番最後に入って来た若者を見てファイは少し驚いた。
それは他の教師達も同じだったようで、皆が口を揃えて「でかいなぁ」と驚きの声を上げている。
彼はとんでもなく日本人離れした、規格外の体格の持ち主だった。
ファイも長身の方だが、おそらく彼はそれよりもさらに、頭一つ分は軽く飛びぬけている。しかも大きいのは背丈だけでなく、見るからに格闘技に精通していそうな逞しい身体つきが、黒のスーツ越しにも見て取れた。
最近の子は発育がいいなんてよく耳にするが、彼からはすでに成熟しきった大人の貫録をたっぷりと感じる。緊張する面々の中でも、一人だけ威風堂々として浮いた存在に見えた。
言い方を変えれば、威圧感、だろうか。
あなた一体どれほどの死線を潜り抜けて来た猛者ですか、と問いかけたくなるほど眼光が鋭い。
(……でもこの子、どっかで見たかな)
たった一人に視線を奪われたまま小首を傾げるファイを尻目に、教頭が実習生たちを紹介しはじめる。
全体の挨拶もそこそこに、実習生が一人一人、声を上ずらせながら出身の大学やら何やらを自己紹介していくが、ファイの耳には入らない。
(こんな目立つの、一度見たら絶対に忘れないと思うんだけど)
見覚えがあるというよりは、どことなく懐かしいような。
うーん、と首を傾げながら、ファイは改めてそのバカでかい男を上から下まで眺めた。
ツンツンと尖った硬そうな黒髪と、眉間に寄った皺。普通にしていても怒っているのかと勘違いされそうな人相の悪さで、損することもありそうだな、などとと余計なことを考える。
切れ長の目は赤く、ふとこんな配色をどこかで見た気がして記憶の蓋を開けた時、ファイは一人の少年の姿を脳裏に思い描いた。
(ん……?)
確かに、似てると思えば似ているような気がしないでもない。
するとだんだん、視線の先にある男の顔と、大きな瞳の可愛い少年の像がだぶって見えた。
(あれ……あれあれ……? この子、もしかして……?)
「アァー!?」
その瞬間、ファイは大声を上げて彼を指差していた。
自己紹介の途中だった実習生の若い女の子が、ぎょっとして肩を震わせる。咄嗟に両手で口元を抑えたがすでに遅く、周りの全員が視線をファイに集中させた。
「あ、いえ、すみません……続けてください……」
眼鏡の奥を光らせる校長の視線からさりげなく目を逸らしつつ、ファイは肩を竦めて身体を小さくした。
気を取り直して実習生が再び自己紹介を始める中、額に嫌な汗をかきながらチラリと問題の人物を窺うと、ファイは思わず身を硬くする。
男は、じっとファイを見つめている。
そして、無表情だった口元を不敵に笑みの形に釣りあげて見せた。
向こうはいつから気付いていたのか知らないが、ファイのように取り乱す様子は一切なく、すぐに視線が逸らされる。
(こここ、これは……)
悪夢か?
そうだ。そうに違いない。これは紛れもなく悪夢だ。決してあってはならないことだ。
目が合ったような気がするのも、なんだか底意地悪そうな笑みを浮かべていたような気がするのも『そんな気がする』だけであって、きっと見間違いだ。
だから一瞬だけあの懐かしい面影が重なって見えたのだって、きっと疲れ目のせいに違いない。
だって今、この目に映る大きな男のどこにも可愛らしさなんて欠片もないし、あの思いっきりシャープな頬はつついたって絶対に柔らかくなんてない。
(違う……違う……あれは違う……あんなどっかの傭兵か格闘家みたいなごっついのが、あの可愛い黒たんなわけない……だからこれは夢……夢……)
ファイの静かなる混乱を尻目に、一人また一人とたどたどしい自己紹介が終わる中、ついに彼の番がやってくる。
だが次の瞬間、とんだド低音で容赦なく告げられた忘れもしない名前に、ファイは気が遠のくのを感じた。
***
初めて見た時は、気難しそうな子だなという印象を受けた。
気が強くて生意気そうで、扱いにくそうだな、と。
それでも家が隣同士で、世話になっている祖父母も可愛がっているらしいし、上手くやって行くに越したことはないだろうと思った。
だからって努力して仲良くなろうとか、ご機嫌を取ろうとか、そういったことは特に考えていなかった。関わることがあれば愛想よくすればいいだろう、くらいにしか。
あの朝。
学校へ行くのに、偶然同じタイミングで家を出た、あの時までは。
「ガッコ、一緒に行こう?」
ランドセルの肩ベルトをぎゅっと握って、俯きながら門から出て来る姿を見た瞬間、ファイはその子供に声をかけていた。
どことなく寂しそうに見えて、なんとなく見過ごすのが嫌で。
黒鋼は近くで見るとびっくりするくらい小さくて、驚きに見開かれた瞳は赤い果実のようだった。
警戒心を丸出しにする様は、幼い頃に公園の片隅に捨てられていた子犬を思い出させた。ユゥイと2人で連れて帰って、少しの間だけ面倒を見ていたら、すぐに里親が見つかり、引き取られて行った。
黒くて小さくて、ファイにだけはなぜか大人しく抱っこさせてくれなかったけれど、とても可愛い子だったから。別れの時は、ユゥイと一緒に声を上げて泣いたっけ。
愛しい記憶を手繰り寄せるように、日に焼けた小さな手を取っていた。
柔らかくて温かくて、守ってあげたくなるような手だった。
この子と仲良くなりたいなと。
そのとき初めて思った。
歳は離れているし、このくらいの子供が何をすれば喜ぶかも分からなかったけれど。
でもきっと『可愛い』と言われて嫌がる子供はいないだろうと思った。
だって本当に、よく見ればとても可愛い顔をしていたし。頬っぺただって、指先で摘まんでふにふにしたくらい柔らかそうだし。
だから衝動の赴くままに接したら。
「おまえなんか……大っきらいだ!!」
……好かれるどころか、嫌われてしまった。
なのに全くショックじゃなかった。むしろ、なぜかワクワクした。
すぐに感情を露わにしてぶつかって来る様が、打てば響く太鼓のようで。
逃げられると、追いかけたくて仕方なくなる。
自分の意思で家を出たのに、本当は故郷を離れたことが少しだけ寂しかったファイは、あっと言う間に隣の家の、可愛い少年に夢中になってしまった。
*
「すみませーん、新聞の勧誘なら間に合ってますー」
とっぷりと日が暮れた頃、職員宿舎に帰宅したファイはドアに背を預け、腕を組んでいる大男にわざとらしいくらいの笑顔でそう言った。
スーツ姿の男は片眉をひょいと上げて見せると、口の端だけを持ち上げるような笑みを浮かべる。
「久しぶりだってのに。随分なあしらい方だな」
「えー? どこかでお会いしましたっけー?」
「だいたい9年ぶりってとこか?」
「いやいやー、知りませんホント、勘弁してくださーい」
「人間30にもなると、もうボケが始まるもんなのか?」
「ちょ、まだギリなってませんー!!」
一体どうしてここに彼がいるのか。
ここは幼等部から大学院まで連なる、巨大な学園都市の内部だ。遠方に家がある生徒のための学生寮もあれば、もちろん教員専用の宿舎もある。
ファイは高校教師として化学を担当しつつ、この宿舎の一室を住処としていた。
だが、たかだか教育実習生に部屋が割り当てられることは絶対にない。都市在住でない限りは、言うまでもなく自宅から通うのが基本のはずだった。
チラリと視線を落とせば、彼の足元には黒いスーツケースと、青いスポーツバッグがどっしりと置かれている。
そこはかとなく嫌な予感が背筋を這う中、ファイは一刻も早く自室に引きこもりたくて仕方がなかった。
すっと目を泳がせるファイを気にも留めず、男は足元のそれらを掴み上げると「よし」と言った。
「とっとと開けろ」
「はいー?」
「ここおまえの部屋だろ。さっさと開けて中に入れろ」
「ちょちょちょ、ちょっと待って! それは一体どういう!?」
「うるせぇな。俺は腹が減ってるんだよ。なんか作れ」
「うわー! すっごい横暴ー!」
その後もファイが何を言っても全く相手にされず、結局は押し切られる形で部屋への侵入を許してしまった。
揃って中に入る間際、またあの薄気味悪い視線を遠くから感じたような気がしたが、その時のファイはそれに構ってる余裕はなかった。
*
ソファにテレビ、ベッド、ガラス製のローテーブルや、背が高く横幅もあるユニット棚。クローゼットなどの収納スペースも充実しているこの部屋は、窓際に大きな観葉植物なんかも置けてしまうくらいには、広く快適なワンルームだった。
しかしそこにガタイのいい長身の男が一人余計に入り込むだけで、少々手狭に感じられる。
ローテーブルを挟んでテレビと向かい合うソファにどっかりと腰を下ろした黒鋼は、スーツのジャケットを肘かけに放り投げた。
「あの……聞いてもいいかなー?」
「なんだ」
そこ、オレの定位置なんだけど……と内心ぼやきながらも、ファイは行き場を失ったように立ち尽くす。
黒鋼はこちらにチラリと視線を寄こしながら、片手でネクタイを緩めていた。
その手つきが妙に男臭い仕草に見えて、胸の中の複雑な感情が肥大した。
「色々と聞きたいことはあるんだけど」
「おう」
「……君、ホントにあの黒たん?」
「あ?」
瞳を眇めて見せる彼は、やっぱりどう見ても人相が悪い。
獣の骨なんかをワイルドに齧る仕草が、思いっきり似合いそうだと思った。
「……野蛮そうー」
「てめぇは相変わらず失敬な野郎だな」
「……いやいやー、ないわー。これは酷い」
「ぶん殴るぞこら」
「うーわー……その脅し、まぎれもなく黒たんだー……」
大きな喪失感に力が抜けて、ファイは膝から床に崩れ落ちた。
「どっからどう見ても俺だろ。てめぇの目は節穴か」
「よく言うよー! まるっきり別人じゃん! 詐欺だよ詐欺! 訴えたら勝てる物件だよこれ!」
「安心しろ。そんな物件を相手にする弁護士なんかまずいねぇ」
「やだー! オレは信じないー!!」
「信じるも信じねぇもてめぇの勝手だがな。9年も経ってりゃあ」
「アーアーアー! 聞こえませーん!!」
両手で耳を塞いでブルブルと頭を振るファイを見て、黒鋼は呆れた様に溜息を零した。
***
こんなにも長い空白の時が開いてしまったのには、事情がある。
黒鋼とその母親が赴任先の父のもとへ引っ越してから、2年後にまずは祖母が他界した。そしてその翌年、祖父も逝った。
すでに自立して一人暮らしをしていたファイは、祖父母が生きていた頃はしょっちゅう家に足を運んでいた。
だが彼らが他界した後、あの家は遠い親戚の手に渡ってしまった。何分遠すぎて、ファイにしてみればほとんど他人も同然だ。気軽に足を運ぶことなど、到底できなかった。
だからファイは黒鋼がいつ実家に戻って来たのかを、知ることができなかった。
いつかまた会えたらいいなと、たまに思い出しては楽しかった頃に思いを馳せるのが関の山だったのだ。
*
「それにしても、黒たんが学校の先生になりたいなんて知らなかったなー」
いつまでも悲観に暮れていたって仕方がないと気を取り直したファイは、紅茶のカップを2つ、テーブルに置きながらしみじみ呟いた。
定位置のソファは相変わらず占領されているので、床にクッションを敷いてぺったりと腰を下ろす。
「体育の先生だっけー?」
「おう」
「そういえば黒たんは駆けっこも一番だったもんねぇ」
熱い紅茶に口をつける横顔を眺めながら、懐かしい姿を思い浮かべると胸がほっこりした。
黒鋼がまだ小学生だった頃、本当に一等賞なのか見てみたくて、こっそり運動会を覗きに行ったことがある。
彼は他の誰よりも身体が小さかったが、誰よりも差をつけてゴールテープを切っていた。一人でギャーギャー騒いで応援していたら黒鋼の母に見つかって、結局一緒にお弁当をご馳走になった。
黒鋼は「なんでてめぇがいるんだよ!」とプリプリ怒りながらも、美味しそうにおにぎりを食べていた。
頬っぺたに米粒がついていたから取ってあげたら、真っ赤になってさらに怒っていたっけ。
(あぁー……ホントあの頃は可愛かったなぁー……)
そういえば昔、庭でキャッチボールをした時に将来の夢を訊ねたことがあった。あの時、彼は「まだ何も考えてない」と言っていた気がする。
そんな黒鋼が自分と同じ教師の道を選んだというのは、なんだか不思議な感じがした。しかも実習先の学校に自分がいて、こんな形で再会を果たすことになるなんて。
そこでファイは、少しずつ昔の感覚が戻って来るような気がして「うふふ」と笑った。
「なんだよ」
「んー? ひょっとしてー、オレが学校の先生になりたいって言ってたから、黒たんも真似ッ子したのかなーって?」
こういう言葉の選び方をすれば、ファイの知っている黒鋼なら絶対に顔を真っ赤にして否定するはずだった。
彼はこちらの言うことには何かと突っかかって来たから、仮に本当にファイの存在がキッカケになっていたとしても、素直に認めることはしないだろうと。
見た目こそどんなに変わっても、人間中身までは早々変わらないはずだ。だからファイは、せめて内面くらいは幼い頃の片鱗を見せてほしくて、胸を躍らせながらにんまりと微笑んだ。
(さぁ来い黒わんこ! ファイお兄さんが久しぶりに遊んであげちゃう!)
だが、その目論見は外れた。
黒鋼は紅茶のカップをテーブルに戻すと、ふぅっと息を吐きだして緩く口角を上げる。目元はどこか優しげに、うっすらと細められてファイを捉えた。
「そうだ」
「……ぇ?」
「てめぇの背中を追いかけて、ここまで来た」
は、という形に口を開けた状態で、ファイは思考も動きも静止した。今の今まで、自分が一体誰と会話をしていたのかさえ、分からなくなる。
一応は重なり合っていた幼い黒鋼と、今の黒鋼の像が一瞬にしてバラバラに分離して見えた。
別に昔のように、涙目になるほどの大袈裟なリアクションを期待していたわけではない。そういうわけでは、決してないのだが。
(この人……誰だろ……)
少なくとも、見た目も中身も自分が知っている黒鋼でないことは確かな気がする。
激しく戸惑い言葉を失うファイに、黒鋼はすっかり大きくなった手をおもむろに伸ばしてきた。
ファイはただ、それを茫然と眺める。
武骨そうな指先が優しく頬を掠めた後、そっと頬にかかる鬱陶しい前髪を撫でた。
「髪、伸びたな」
「……え、ぁ、ぅん」
「悪くない」
「へっ? あ、ぁりが、と……?」
そこはかとなく場の空気を甘ったるく感じるのは気のせいだろうか。
ファイは離れていく手を、伸ばされた時と同じくただ視線で追いかける。骨ばっていて、大きくて、長い指。まるで知らない人の、知らない手だと思った。
なぜか胸が苦しい。そして、一瞬だけ触れられた頬が、火をつけられたように熱くなっていることに気がついた。
(な、なにこれ……なんだこの変な感じ……)
いつまでも石のように硬直したまま戻って来られないファイを置き去りに、黒鋼は再び無表情を取り戻していた。
ソファにのったりと背中を預け、さも当然のように不遜に言い放つ。
「とりあえず飯と風呂」
「……うん」
「あと、しばらく泊めろよ」
「……うん……うん!?」
「おまえソファで寝ろ。ベッドは俺が使ってやる」
「ちょ、ちょっと!?」
黒鋼は床に放り出されていた荷物を手に立ちあがると、ベッドにそれをドスンと置いた。ファイはテーブルに手をつき、慌てて腰を浮かす。
「ちょっとホントに待ってよ! そんな勝手に……!」
「あ? おまえそんだけひょろけりゃソファで十分だろ」
「そ、そういうことを言ってるんじゃなくって!」
「一緒に寝るには流石に狭ぇぞ。このベッドじゃ」
「だからあぁー!!」
広かったら問題ないのかよと突っ込みかけて、内心ハッとする。
噛み合わない会話にちょっと泣きそうになっている自分と、何事にも動じないように見えるマイペースな黒鋼。
これではまるで、昔と立場が逆転しているではないか、と。
もういっそ可愛くなくなったどころの騒ぎではない。ハッキリ言って、この男。
(なんかすっごーく、やりにくいー!!)
しかしこの黒鋼が、その後ただ扱いにくいだけでなく、凄まじい脅威の存在となっていくことを、この時のファイは知るよしもなかった……。
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「黒たん、元気出してー」
終業式があったその日の夜、黒鋼は自室にいた。
「仕方ないよー。だって決まっちゃったことだもんー」
むっつりとした顔で腕を組み、机に向かって椅子に座った黒鋼の真正面の窓。
「そんなに泣かないでー。今生の別れじゃないんだしー」
「うるせぇ! 泣いてねぇし、そもそもおまえはなんつーとこから顔出してやがる!!」
ダァン、と拳で机を叩くと、白い光を放っていたデスクライトが一瞬跳ねた。ファイはそれを見て「マンガみたーい」と言ってへらりと笑う。
そんなアホが顔を覗かせているのは黒鋼の自室の窓で、まるで湯船に浸かるようにサッシに両肘をかけるファイは庭の木をよじ登り、屋根を伝ってここまでやって来た。まるで忍者である。
「いやー。普通に登場するのもつまんないかと思ってー」
「つまんねぇとかそういう問題じゃねぇ……」
「だってもうしばらく会えなくなるでしょ? だからインパクトのあることがしたいなーって」
「……ふん」
黒鋼は思わず鼻で笑うとそっぽを向いた。
そう、彼の言う通り、こんな風にこの男と顔を合わせるのは、今夜が最後なのだ。
それは本当に突然のことだった。
黒鋼は長いこと離れていた父と、再び一緒に暮らすことになった。
父が戻って来たのではなく、母と黒鋼が父の元へ行くことになったのだ。
父はずっと社員寮で生活していたが、長い間ずっと社宅として一軒家を借りられるようにと申請していたらしい。
そして長いこと空きがなかった社宅に、ようやく一軒の空きが出た。
そんなこと自体、全くの初耳だった黒鋼は、嬉しそうな母の様子にただ複雑な心境を持て余すことになった。
住み慣れた家は戻って来るまでの間、父の知り合いに貸すことに決まった。
もちろん転校も余儀なくされるし、今の中学へ通うのは今学期いっぱいとなった。
何もかもが自分の預かり知らぬところで進められて、それは仕方のないことではあるけれど、なんだか取り残されたような気分だった。
父と母と、また3人で一緒に暮らせるのは嬉しいはずなのに。
黒鋼は引っ越しの件をなかなかファイに話せずにいた。
彼の耳にはなんらかの形で情報が入っていたはずだが、向こうからも何も言ってこなかった。
そうして迎えた引っ越し前夜。
明日は早いしそろそろ寝るかと思っていた矢先に窓が叩かれて、見れば窓ガラスにファイが張り付いていた。(心臓が飛び出るかと思った)
「でもよかったねー。またお父さんと一緒に暮らせるようになって」
「……まぁな」
「お母さんも凄く嬉しそうだったし、なんだかオレも嬉しいなー」
「てめぇには何も関係ねぇだろ」
「あるよー。君がお母さんの笑顔が好きなのと一緒でさー」
黒たんが幸せだとオレも嬉しいと、ファイは恥ずかしげもなく言って笑った。そう言われたら悪い気はしないけれど、やっぱり複雑だ。
それは喉の奥に小骨が突き刺さっているような気持ち悪さに似ている。
別にこれで何もかもが終わってしまうわけじゃない。いつかは戻って来るのだし、例えば密かに楽しみにしていた今年の祭りだって、帰ってくればまた毎年参加できるはずだ。
だがそこで、黒鋼はなんだかバツが悪くなって椅子に座りなおした。
素直に認めるのは、嫌だ。嫌だけど、それでも多分、黒鋼が楽しみにしていたのは『今年の夏祭り』であって、いつになるか分からない先のことなど、正直どうでもいい。
(なんでだよ。なんで俺は、こんなアホのこと、こんなに……)
その先は続かなかった。どんな言葉を繋げればしっくり来るのだろう。
やっぱり、ファイといると気持ちにムラが出来る。自分の心の中なのに掴みどころがなくなって、むしろ何を掴みたいのか、何をハッキリさせたいのかさえ、分からなくなる。
「ねぇ黒たーん。元気出してよー。オレとお別れするの寂しいのは分かるけどー」
「は!? おまえ思いあがってんじゃねぇぞ! 逆だ逆! 清々すらぁ!」
「あははー、そっかー」
つい勢いで吐いてしまった暴言に、ファイは相変わらずへらへらと笑っていた。
ちょっとくらいは傷つけよ、と思わなくもなかったが、どうもこの男は本音が見えない。思い起こせば出会ってからずっと、いつだって感情的にぶつかっていたのは自分だけだ。
それはつまり、本気で相手にされていたわけではない、ということになる。
「……おまえって、変だ。ムカつく」
「えー? 今更ー?」
「人形みてぇだ」
「うん?」
「笑ってるけど、別に楽しくて笑ってるわけじゃねぇんだ。きっとそういう顔に作られたから、仕方なく笑ってるだけなんだろ」
ファイは一瞬キョトンとした顔をした。それから、肩を揺らしてくすくすと笑いだす。
何が可笑しいのか知らないが、なんだか腹が立って睨みつけた。
肩の揺れがおさまると、ファイは頬杖をついて目を細め、にやりと口角を上げた。
「……ッ」
それはいつも見るような無邪気な笑顔ではなかったが、確かに見覚えがある。初めて彼に口づけられた日に見た唇と、同じ形をしていたからだ。
心臓が大きく跳ねるのを感じながら、黒鋼は自分の意思でそれから目を逸らすことをしなかった。
なぜか挑まれているような気になる。目を逸らしたら、この先もずっと負け続けることが確定してしまうような、おかしな意地が一瞬にして芽生えるのを感じた。
「生意気だなぁと思ってさ」
笑い方一つで、声音の違いで、この男は纏う空気を自在に操る。
今が夏の盛りだということを忘れるくらい、冷えた空気に。
「取っつきにくくて、可愛くないガキだなって」
「それがてめぇの本性か……」
ファイは目を閉じ、清々したような様子でふっと息を吐きだした。
それを真っ直ぐに見つめながら、黒鋼はひたすら喉が渇くのを感じていた。
ずっとおかしいとは思っていた。
なぜこんなにもベタベタと猫の子を可愛がるように接してくるのか、そういうマニアックな人種なのかと思っていた時期もあったし、今でも少し疑っているが、今のファイの様子を見てやっと分かった。
こいつは『可愛いから』からかっていたのではなく『生意気そうなクソガキ』だから、バカにしておちょくっていただけなのだと。
黒鋼は机の下で拳を握りしめた。
ずっとからかわれて、バカにされて、酷い思いをさせられてきたとは思うけれど、ここまで胸を抉られるような痛みを感じるのは初めてだった。
今までの思い出が全て否定されたような気がする。自分にとっては全て最悪でしかなったはずなのに、なぜか酷く傷ついた。
もういい。どうせ今夜でこいつの顔も見おさめだ。
これ以上一緒にいたら、自分がどんどん弱くなっていく気がして許せない。
だから帰れと一言告げるために息を吸いかける。だが。
「なーんちゃってー!」
次の瞬間、ガラリと空気が温く変わるのを黒鋼は肌で感じた。
「……あ?」
「ビックリした? ねぇどうだった? オレ、ミステリアスなイケメンって感じしたでしょー!」
「…………は」
「どこか影のある儚げな美青年……よし、これからはこのキャラで行こうかなー!」
「…………」
「ふふ!」
……おちょくられた。
最後の最後。これが本当に、最後の夜。
イケメンだの美青年だの、自分で言うなと突っ込みたいのに、開いた口が塞がらなくて何も言えない。
黒鋼は全く違った意味で拳を震わせた。とんでもなく腹が立っている。けれど同じくらい、心底ホッとしている。
ペテン師のような男のくだらない嘘や、冗談や、仕草が、いつだってこんなにも気がかりでしょうがない。
そうだ。『可愛い』も『小さい』も、きっとファイだから尚のことムカついていた。出会った時から多分、こいつだけは理由もなく何かが特別で。
嫌よ嫌よも、という言葉が、黒鋼の脳内にぽっかりと浮かび上がる。そして気がついた。
先刻は見つけられなかった『こんなに』の続き。
きっと自分はこの男のことが好きだった。
それは女と笑い合っているのを見ただけで臍を曲げてしまうような、そういう類いの……。
「だって黒たんオレの未来のお嫁さんでしょー? 可愛くないなんて思うわけないじゃーん!」
「……だったらてめぇ、自分の言った言葉に責任持てるんだよな?」
「はへ?」
いつものように、怒鳴り散らすことはしない。
そんな真似をすればファイの思い通りだし、下で休んでいる母を起してしまう。
黒鋼は小刻みに語尾を震わせながら、椅子から立ち上がるとファイを見下ろした。
「次に会った時」
「え、うん?」
「もし俺がてめぇよりデカくなってたら」
「うんうん」
「てめぇが俺の嫁になれ」
「へ?」
「いいか。男と男の約束だからな!」
「え、いや、あの、嫁とか言ってる時点で男同士の約束もクソもないような」
「てめぇが言うな!!」
結局怒鳴ってしまった黒鋼は、すっかり片付いた荷物の上にあったバスケットボールを掴むと、ファイの顔面に向かって投げつけた。
それが額にヒットしたファイは「ふぎゃ!」と間抜けな声を上げて窓から闇夜へフェードアウトしていく。
屋根を転がる派手な音と、悲鳴と、ドスンという音が聞こえた気がしたが、黒鋼は容赦なく窓を締め、カーテンも締めきった。
そしてそれが、少年時代の黒鋼にとってファイとの最後の思い出になった。
←戻る ・ 下剋上編へ→
終業式があったその日の夜、黒鋼は自室にいた。
「仕方ないよー。だって決まっちゃったことだもんー」
むっつりとした顔で腕を組み、机に向かって椅子に座った黒鋼の真正面の窓。
「そんなに泣かないでー。今生の別れじゃないんだしー」
「うるせぇ! 泣いてねぇし、そもそもおまえはなんつーとこから顔出してやがる!!」
ダァン、と拳で机を叩くと、白い光を放っていたデスクライトが一瞬跳ねた。ファイはそれを見て「マンガみたーい」と言ってへらりと笑う。
そんなアホが顔を覗かせているのは黒鋼の自室の窓で、まるで湯船に浸かるようにサッシに両肘をかけるファイは庭の木をよじ登り、屋根を伝ってここまでやって来た。まるで忍者である。
「いやー。普通に登場するのもつまんないかと思ってー」
「つまんねぇとかそういう問題じゃねぇ……」
「だってもうしばらく会えなくなるでしょ? だからインパクトのあることがしたいなーって」
「……ふん」
黒鋼は思わず鼻で笑うとそっぽを向いた。
そう、彼の言う通り、こんな風にこの男と顔を合わせるのは、今夜が最後なのだ。
それは本当に突然のことだった。
黒鋼は長いこと離れていた父と、再び一緒に暮らすことになった。
父が戻って来たのではなく、母と黒鋼が父の元へ行くことになったのだ。
父はずっと社員寮で生活していたが、長い間ずっと社宅として一軒家を借りられるようにと申請していたらしい。
そして長いこと空きがなかった社宅に、ようやく一軒の空きが出た。
そんなこと自体、全くの初耳だった黒鋼は、嬉しそうな母の様子にただ複雑な心境を持て余すことになった。
住み慣れた家は戻って来るまでの間、父の知り合いに貸すことに決まった。
もちろん転校も余儀なくされるし、今の中学へ通うのは今学期いっぱいとなった。
何もかもが自分の預かり知らぬところで進められて、それは仕方のないことではあるけれど、なんだか取り残されたような気分だった。
父と母と、また3人で一緒に暮らせるのは嬉しいはずなのに。
黒鋼は引っ越しの件をなかなかファイに話せずにいた。
彼の耳にはなんらかの形で情報が入っていたはずだが、向こうからも何も言ってこなかった。
そうして迎えた引っ越し前夜。
明日は早いしそろそろ寝るかと思っていた矢先に窓が叩かれて、見れば窓ガラスにファイが張り付いていた。(心臓が飛び出るかと思った)
「でもよかったねー。またお父さんと一緒に暮らせるようになって」
「……まぁな」
「お母さんも凄く嬉しそうだったし、なんだかオレも嬉しいなー」
「てめぇには何も関係ねぇだろ」
「あるよー。君がお母さんの笑顔が好きなのと一緒でさー」
黒たんが幸せだとオレも嬉しいと、ファイは恥ずかしげもなく言って笑った。そう言われたら悪い気はしないけれど、やっぱり複雑だ。
それは喉の奥に小骨が突き刺さっているような気持ち悪さに似ている。
別にこれで何もかもが終わってしまうわけじゃない。いつかは戻って来るのだし、例えば密かに楽しみにしていた今年の祭りだって、帰ってくればまた毎年参加できるはずだ。
だがそこで、黒鋼はなんだかバツが悪くなって椅子に座りなおした。
素直に認めるのは、嫌だ。嫌だけど、それでも多分、黒鋼が楽しみにしていたのは『今年の夏祭り』であって、いつになるか分からない先のことなど、正直どうでもいい。
(なんでだよ。なんで俺は、こんなアホのこと、こんなに……)
その先は続かなかった。どんな言葉を繋げればしっくり来るのだろう。
やっぱり、ファイといると気持ちにムラが出来る。自分の心の中なのに掴みどころがなくなって、むしろ何を掴みたいのか、何をハッキリさせたいのかさえ、分からなくなる。
「ねぇ黒たーん。元気出してよー。オレとお別れするの寂しいのは分かるけどー」
「は!? おまえ思いあがってんじゃねぇぞ! 逆だ逆! 清々すらぁ!」
「あははー、そっかー」
つい勢いで吐いてしまった暴言に、ファイは相変わらずへらへらと笑っていた。
ちょっとくらいは傷つけよ、と思わなくもなかったが、どうもこの男は本音が見えない。思い起こせば出会ってからずっと、いつだって感情的にぶつかっていたのは自分だけだ。
それはつまり、本気で相手にされていたわけではない、ということになる。
「……おまえって、変だ。ムカつく」
「えー? 今更ー?」
「人形みてぇだ」
「うん?」
「笑ってるけど、別に楽しくて笑ってるわけじゃねぇんだ。きっとそういう顔に作られたから、仕方なく笑ってるだけなんだろ」
ファイは一瞬キョトンとした顔をした。それから、肩を揺らしてくすくすと笑いだす。
何が可笑しいのか知らないが、なんだか腹が立って睨みつけた。
肩の揺れがおさまると、ファイは頬杖をついて目を細め、にやりと口角を上げた。
「……ッ」
それはいつも見るような無邪気な笑顔ではなかったが、確かに見覚えがある。初めて彼に口づけられた日に見た唇と、同じ形をしていたからだ。
心臓が大きく跳ねるのを感じながら、黒鋼は自分の意思でそれから目を逸らすことをしなかった。
なぜか挑まれているような気になる。目を逸らしたら、この先もずっと負け続けることが確定してしまうような、おかしな意地が一瞬にして芽生えるのを感じた。
「生意気だなぁと思ってさ」
笑い方一つで、声音の違いで、この男は纏う空気を自在に操る。
今が夏の盛りだということを忘れるくらい、冷えた空気に。
「取っつきにくくて、可愛くないガキだなって」
「それがてめぇの本性か……」
ファイは目を閉じ、清々したような様子でふっと息を吐きだした。
それを真っ直ぐに見つめながら、黒鋼はひたすら喉が渇くのを感じていた。
ずっとおかしいとは思っていた。
なぜこんなにもベタベタと猫の子を可愛がるように接してくるのか、そういうマニアックな人種なのかと思っていた時期もあったし、今でも少し疑っているが、今のファイの様子を見てやっと分かった。
こいつは『可愛いから』からかっていたのではなく『生意気そうなクソガキ』だから、バカにしておちょくっていただけなのだと。
黒鋼は机の下で拳を握りしめた。
ずっとからかわれて、バカにされて、酷い思いをさせられてきたとは思うけれど、ここまで胸を抉られるような痛みを感じるのは初めてだった。
今までの思い出が全て否定されたような気がする。自分にとっては全て最悪でしかなったはずなのに、なぜか酷く傷ついた。
もういい。どうせ今夜でこいつの顔も見おさめだ。
これ以上一緒にいたら、自分がどんどん弱くなっていく気がして許せない。
だから帰れと一言告げるために息を吸いかける。だが。
「なーんちゃってー!」
次の瞬間、ガラリと空気が温く変わるのを黒鋼は肌で感じた。
「……あ?」
「ビックリした? ねぇどうだった? オレ、ミステリアスなイケメンって感じしたでしょー!」
「…………は」
「どこか影のある儚げな美青年……よし、これからはこのキャラで行こうかなー!」
「…………」
「ふふ!」
……おちょくられた。
最後の最後。これが本当に、最後の夜。
イケメンだの美青年だの、自分で言うなと突っ込みたいのに、開いた口が塞がらなくて何も言えない。
黒鋼は全く違った意味で拳を震わせた。とんでもなく腹が立っている。けれど同じくらい、心底ホッとしている。
ペテン師のような男のくだらない嘘や、冗談や、仕草が、いつだってこんなにも気がかりでしょうがない。
そうだ。『可愛い』も『小さい』も、きっとファイだから尚のことムカついていた。出会った時から多分、こいつだけは理由もなく何かが特別で。
嫌よ嫌よも、という言葉が、黒鋼の脳内にぽっかりと浮かび上がる。そして気がついた。
先刻は見つけられなかった『こんなに』の続き。
きっと自分はこの男のことが好きだった。
それは女と笑い合っているのを見ただけで臍を曲げてしまうような、そういう類いの……。
「だって黒たんオレの未来のお嫁さんでしょー? 可愛くないなんて思うわけないじゃーん!」
「……だったらてめぇ、自分の言った言葉に責任持てるんだよな?」
「はへ?」
いつものように、怒鳴り散らすことはしない。
そんな真似をすればファイの思い通りだし、下で休んでいる母を起してしまう。
黒鋼は小刻みに語尾を震わせながら、椅子から立ち上がるとファイを見下ろした。
「次に会った時」
「え、うん?」
「もし俺がてめぇよりデカくなってたら」
「うんうん」
「てめぇが俺の嫁になれ」
「へ?」
「いいか。男と男の約束だからな!」
「え、いや、あの、嫁とか言ってる時点で男同士の約束もクソもないような」
「てめぇが言うな!!」
結局怒鳴ってしまった黒鋼は、すっかり片付いた荷物の上にあったバスケットボールを掴むと、ファイの顔面に向かって投げつけた。
それが額にヒットしたファイは「ふぎゃ!」と間抜けな声を上げて窓から闇夜へフェードアウトしていく。
屋根を転がる派手な音と、悲鳴と、ドスンという音が聞こえた気がしたが、黒鋼は容赦なく窓を締め、カーテンも締めきった。
そしてそれが、少年時代の黒鋼にとってファイとの最後の思い出になった。
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思いっきり中に出されてしまったような気もするが、ベッドで目を覚ましたときにはどこもかしこもすっかり綺麗になっていたので、黒鋼がちゃんと処理してくれたのだと分かる。
それはそれで、かなり恥ずかしいが……。
黒鋼は「悪い、暴走した」と言って頭を下げ、甲斐甲斐しく一晩ファイの看病をしたが、それも空しく熱は下がらなかった。
そんな彼には今後、一度でも触れれば実習が終わるまで自分が部屋を出ていくという宣言のもと『お触り禁止令』を出した。(ここでもなぜか出ていけとまでは言えなかった)
そして情けなかったのはその翌日、熱が下がらないままへっぴり腰で授業を行う羽目になったことだ。
休むという選択肢が浮かばないこともなかったが、どこの世界にオカマ掘られて熱が出たので仕事ができません、などという社会人がいるのかと考えたとき、ファイは意地でも休んでたまるかと思った。
*
それから数日が経過した。
「あの人――きも――て来てさー」
「ほん――なん――かな?」
「気持ち――悪――よねー!」
「ねー!」
「ファイせんせー。ねー、聞いてるー?」
「うーん……聞いてるよー……ほんと困ったねー」
「……聞いてないよねこれ」
昼休み。
昼食をとる気になれずに中庭のベンチでぼんやりしていたファイの元に、弁当を片手に数人の女子生徒が集まってきていた。
「ファイ先生どうしたの? なんか最近ずっとこんな調子じゃない?」
「……え? なになに? なんの話?」
ようやく囲まれていることに気がついたファイに、女子生徒達は目を丸くしている。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してたよー」
「もー! ぜんぜん聞いてなかったんですかー?」
「えへへごめーん」
照れ笑いを浮かべながら頭をポリポリと掻く。実のところ、今のファイには彼女らにかまけている余裕がなかったのだ。
最近はショッキングな出来事ばかり続いてはいるが(主に黒鋼のせいで)今回はまた少し違った問題が起きていた。
(あれは、一体なんなんだろう……?)
*
それは今朝のことだった。
いつものように登校し、化学準備室で入口脇にある自分のロッカーを開けた。すると一枚の紙切れがヒラリと床に落ちて、ファイは首を傾げた。
咄嗟に拾い上げて見ると、そこには奇妙な文面が赤いペンで書かれていた。
『 い つ も み て る よ 』
一体なんのことかと、それを見てただ首を傾げた。
その時点では「気持ち悪い悪戯をするヤツがいたもんだなぁ」くらいにしか思わず、ロッカーの中の白衣を手に取った時、ファイは思わず息を呑んだ。
白衣が、まるで引き千切ったかのようにボロボロになっていたのだ。
しかも思い切り地面にでも叩きつけて踏みにじったように、土や草まで付着していた。
そこでファイは前々からずっと付きまとっていた、あの嫌な視線について思い出した。手の中にあるメモ紙が、急に重たくなってくる。
ここのところずっと黒鋼のことばかりで忘れていたが、いよいよ気のせいでは済まなくなってきたような気がして、寒気がした。
今は予備の白衣を着ているが、切り刻まれた白衣とメモは、咄嗟に机脇のゴミ箱に放り投げてしまった。
(恨み買うのは黒たんだけで手一杯なんだけどなぁ……)
咄嗟に黒鋼を疑うことをしなかったのは、あまりにも手口が違いすぎるからだ。
少なくとも、彼はこんな陰湿でいやらしい真似をする人間では絶対にないし、文字一つとっても驚くほど美しい字を書く。あのメモは、まるで小学生が書いたような拙さだった。
そんな黒鋼とは、ここ数日は会話らしい会話すらしていないが。
*
「もー! ファイ先生ってば!」
再びぼんやりと思考の海を漂っていたファイだったが、女子生徒の一人が威勢よく「あの用務員の話ですよ!」と叫んだことで我に返った。
「え!? あ、あー……」
そんなことかと思わなくもなかったが、彼女らの気迫に押されて仕方なく耳を傾ける。
「あの人さっき、女子トイレの前をずっとウロウロしてたんですよ!」
「えっとー、廊下の掃除をしててたまたま、とかじゃなく?」
「違いますよ! 掃除用具なんか持ってなかったし! そのせいでアタシ、わざわざ下のトイレまで行く羽目になったのよ! もうちょっとで授業に遅れるところだったんだから!」
「こないだなんて体育の時、草むしりするふりして女子の方ガン見してたよねー?」
全員が声を揃えて「きもーい!」と叫んだ。
凄いシンクロ率だなぁと思いつつ、裏でここまで言われる用務員を少し気の毒に感じる。確かに女性に好感を持たれる風貌とは言い難いかもしれないが……。
ファイは「ダメだよ」と彼女らを窘める。
「決めつけはよくないよー。そんな変な人はこの学園にはいないと思うしねー」
「でもぉ……見た目からして怪しいですよ……」
(まぁ……分からないでもないんだけど……)
ファイが思わず苦笑していると、他の女子が「あ!」と声を上げた。今度は一体なんだと思っていると、彼女は僅かに赤らんだ頬を両手で包んだ。
「見て見て、黒鋼先生発見!」
「え!? どこどこ!? あ、ほんとだー!」
心臓がドキリとして、ファイも咄嗟に彼女らの視線の先を追った。
すると中庭を囲む吹き抜け廊下を、ちょうど黒鋼が担当教官と並んで歩いている様子が見えた。
「黒鋼先生って、最初はちょっと怖そうって思ったけど、実は結構イケメンだよね~」
「そうそう! チャラくないっていうか、硬派な肉食系って感じ!」
「体育の授業の時も、ずっとスーツ着ててくれないかな~」
「それわかる! でもスーツとジャージのギャップもいいんだよねー!!」
「ね~!!」
先ほどまで用務員を相手にゴミでも見るような表情だった彼女たちが、今や完全に年相応の乙女と化している。
代わり身の早さに多少呆れつつ、ファイは吹き抜け廊下から目を逸らした。
(ふぅん……人気あるんだー。意外……)
無口で無愛想だし、ぱっと見はその大きな身体や目つきの鋭さに圧倒されて気付くのが遅れるだけで、彼がえらく整った顔立ちをしているのは確かだ。
草食系だのチャラ男だの、そういった人種が世にはびこる中、黒鋼のような男はまさに女性にとって理想的、なのかもしれない。
実際、彼は相当な肉食系である。というよりケダモノだ。まさに食われてしまったばかりのファイには、ひたすら複雑なものに感じられた。
ただ高校生と大学生なら、まぁお互い難なく守備範囲だろうなとは思う。
やっぱり女の子は目に優しくて可愛いし、彼女たちが黒鋼を気にしているように、彼にだって気になる女子生徒の一人や二人、いたってよさそうだ。
綺麗な女性教師だって、この学園にはゴロゴロいるし……。
(あれ……やだな、この感じ……)
なぜか無性に胸の辺りがムカムカして、面白くない。
あの男が自分にしでかした無体を教えてやったら、彼女らは一体どんな顔をするだろうか。
こちとら朝の一件で滅入っているというのに、なんだかどんどん心が荒んでいくような気がした。
「みんな、黒鋼先生が大好きなんだねー」
ファイは思い切り営業スマイルを作って、女子生徒達に笑いかけると、皆こぞって「えー!」だとか「そんなことないですー!」なんて天の邪鬼なことを言ってはしゃぎ出す。
「じゃあさ、いいこと教えてあげるー」
そう言って、ファイは一人の女子の耳元に唇を近づけた。
*
「お触り厳禁じゃなかったのか?」
必要最低限の会話のみで過ごしたこの数日。黒鋼がファイに触れて来ることは、一切なかった。
「オレが触る分にはいいんだよ」
自分でも、目が据わっているのが分かる。
それぞれ入浴も済ませて、明日の準備も済ませて、いざ寝るだけというところに来て、ファイはベッドで携帯のアラームをチェックしていた黒鋼の手を取り、意識をこちらに向けさせた。
どんな理屈だと呆れる黒鋼を「うるさい」と一蹴する。
「散々弄んだんだから。たまにはオレにも仕返しさせてよ」
「仕返しじゃねぇし、そもそも悦ばせるだけだぜ」
「いいよ。してあげるから、あんあん言ってみて」
「おまえ、何かイラついてねぇか?」
さぁねと適当に返事をして、ファイはベッドの縁に腰掛けている黒鋼の正面に膝をついた。
ジャージのウエスト部分に手をかけて、ぐっとズリ下げると下着の中に手を入れる。萎えていても存在感を主張するそれを引き出して、少しだけ息を飲む。
(こんなのが入ったんだ……オレの中に……)
今更のように驚愕した。これでもまだ萎んだ状態なのだから、フルの状態を思いだすだけで飛び上がって逃げ出したくなる。
ここまできたはいいものの、実際はどうすればいいのか分からなくて、顔を真っ赤にしながらも両手で包みこんだその先端に、音を立てて口付けてみる。竿部分にも何度もキスをして、それからさらに勇気を振り絞って舌を這わせてみた。ぴちゃりという音がすると、黒鋼の腰が僅かに揺らぐ。
たったそれだけで何かを掴めたような気になって、少しずつ大胆に舌を使い、ついには口の中に咥えこんでみる。
ゆっくりと熱く硬くなっていくそれは口内を満たして、奥まで押し込もうとすると苦しくてえづきそうになった。
「こんなような構図、どっかで見たな」
ああ、あったかもしれない。ベッドの縁に腰掛ける黒鋼と、床にペタリと腰を下ろした自分と。幼い腰に腕をまわして、柔らかな腹に顔を埋めて存分にもふもふしたような気がする。
昔はあんなにも簡単に押さえつけることが出来たのに、どこで間違ってこんなことになっているのだろうか。
(初めてちゅうしたのも、あの時だったっけ)
ただ無邪気でいられたあの頃と、今のこの爛れた空気を比べると、まるで異世界にタイムスリップでもしたような気分になる。
そんな不思議な感覚に囚われつつも、熱を持つそれを手で緩く扱きながら、頭を上下に動かし始めた。
苦しさを押し殺し、無理に喉奥まで押し込める度に、涙が出そうになる。
(何してるんだろ、オレ……)
今の自分が正気じゃないのは知っていた。
昼間、女子生徒達と会話した時からずっと苛立ちが納まらない。今朝のあの気味の悪い出来事も、それに拍車をかけている。
これがどこからくる感情なのかも分からないし、考えたくもなかった。ただ、どうしようもなく腹が立っている。
(ホントに触って来ないしさ……)
禁止令を出したのは自分だ。
黒鋼は風呂場での一件を流石に反省しているのか、言いつけ通り一切触れて来なかった。どうせすぐにまた仕掛けてくるだろうと思っていたのに、その予想は外れた。
最後までしてしまったことで、満足して飽きてしまったのだろうか、とか。釣った魚に餌をやらないタイプなのか、とか。別に釣られた覚えなんかないと、自分に対してさらに腹が立ったりもして。
それでも必死でしゃぶり続けていると、黒鋼は小さく鼻で笑って「へたくそ」と言った。
「ううはいあ」
「バカ、咥えたまんま喋んな」
「ッ、うるさいなって言ったのー。しっかり勃ってるくせにー」
「……おまえ、ガキ共に余計なこと言いやがったな?」
濡れた口元を手の甲で子供っぽく拭いながら、ファイはつーんとそっぽを向いた。
「なんのことー?」
「あのアホみてぇな呼び方、一気に広まったぞ」
「うそホント? ぷっ」
「ったく……」
性器を掴んだまま、思いっきり吹き出して笑った。
そう、昼間ファイは彼女たちに彼の子供の頃からの渾名の数々を教えてやったのだ。
黒鋼は心底嫌そうな顔をして舌打ちをしている。その様子に、今の彼の姿に昔の片鱗を見た気がして、急激に気分が浮上するのを感じた。
「黒たんが小さくて可愛かった頃のお話しただけだよー?」
「余計なことすんな」
「今はぜんぜん可愛くないけどねー。でっかくて偉そうだから……そうだ、これからは黒様って呼んであげる」
それは名案だと、肩を揺らしてくすくすと笑っていると、むっつりとした顔のまま黒鋼の手が伸びてきた。
その気配に顔を上げれば、頬に触れかけた手がピタリと止まる。
「……触っても?」
「……いいけど」
目を反らして言うと、大きな手の平が頬を包みこんだ。
(あ……)
たった数日触れられなかっただけで、その温もりがひどく懐かしい。
細められた赤い瞳がどんどん距離を縮める。ファイが片膝で乗り上げると、ベッドが音を立てて軋む。厚みのある両肩にそれぞれ手を置けば、そっと腰を抱き寄せられた。
しばらくの間、互いに何も言わずに見つめ合う。見上げられる形を懐かしく感じながらも、自然と額同士がこつんと触れた。
そしてそのまま、唇が重なる。
さっきガッツリ咥えちゃったんだけどな、と思わなくもなかったが、黒鋼が拒まないなら別にいいかと気にするのはやめた。
口付けは当たり前のように深くなって、お互いの舌を突き出して先端を競うように絡ませる。
黒鋼は舌まで大きくて、競り負けて迎え入れたそれに口蓋を舐められると身体が震えた。
(嬉しい)
純粋にそう感じた。
触れられることが、口付けられることが、安堵に繋がった。
やっぱり今日の自分はどこかおかしい。
「ぁ、ふ……」
「……もう、やめとけ」
「なん……?」
「また止まらなくなる」
それは、これ以上煽るような真似をすれば、あの風呂場での惨事を繰り返しかねない、という忠告だった。
あんな酷い思いはもうしたくない。なのに、欲していることを隠さず口にされれば、嫌な気はしなかった。
「……欲しい?」
問えばムっとした顔をするくせに「当然」と清々しいほどの返答を寄こす。
皮膚がざわつくのと同時に眩暈がして、彼の太い首に両腕を回した。
身体も、頭の中も熱っぽい。熱い湯の中からいきなり立ち上がったみたいな、クラクラとした感覚に身体が揺れる。
胸の中が、砂糖のように甘い何かでいっぱいに溢れそうになっていた。
「痛くしないなら……」
「……自信がねぇ」
「じゃあ、ダメ」
「……努力する」
ファイは彼との再会後初めて、主導権を握ることが出来たような気がして笑った。
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