2025/09/19 Fri 「ファイ先生……あのー、ファイ先生ー?」 「…………うーん」 「もう10分過ぎてるんですけどー……」 「…………はぁー」 黒板前の椅子に座って、教卓に頬杖をついたまま上の空でいる化学教師に、生徒達が戸惑っている。 次第にざわつきが増す中、ファイはフラリと立ち上がると一言「ダメだ……」と呟いた。 「せ、先生?」 「答案、適当に集めたら後で誰か職員室に持ってきて……」 「はぁ……」 「今日はあと自習……」 生徒達がぽかんと口を開けているのも構わず、ファイはよろよろとした足取りで教室を後にした。 今日はずっとこんな調子だ。何も手につかず、考えられない。 計画が狂うと分かってはいても、適当な問題集をコピーして生徒に与えるだけで、授業なんてまともに出来る状態でもなかった。 (……ちょっと一人になりたい) ふらつきながら、化学準備室へ向かって静まりかえった廊下の隅を歩く。 精神的なダメージがファイの感情を絶えず揺さぶっていた。 何がどうして『あんなこと』になったのか、ほんの数時間前の、朝の出来事が嫌でも脳内に再生されて、頭痛がした。 * それは今朝のことだった。 強引に居候を決め込んだ黒鋼は、宣言通り本当にベッドを独占した。 そのせいでファイはソファに丸まって眠ることになったのだが、なかなか寝付けず、ようやく眠ったのは朝方近くになってからだった。 結果、ファイは目覚ましのアラームに気がつかなかった。 「おい、起きろ」 夢の中で、聞き慣れない低音が呼びかけるのを聞いた。 それでも浮上しかけた意識はすぐに眠りへと磁石のように吸い寄せられる。 「もうちょっとー……」 「教師が寝坊して遅刻ってのはまずいだろ」 「んー……」 「起きねぇとキスんぞ」 「んー、いいよー……なんでもいいからー」 (分かったから、あと少しだけ……) その時のファイは黒鋼が何を言っているのかなんて、まるで聞き取れてはいなかった。むしろ相手さえ認識できていなかったと言っていい。 今この瞬間を少しでも長引かせることが出来るなら、もう何もかもがどうでもよくて、そればかりに心も身体も支配されていた。 チッ、というガラの悪そうな舌打ちが聞こえたような気がした。 それでも目を開けることができず、眠りに落ちていくファイの前髪に、何かが絡みついた。 それによってぐっと髪を引っ張られ、首の角度を無理に変えられて、無意識に「痛い」と叫びそうになった時、何かが唇に押し付けられた。 (……? ……あー、そっか、これ夢かー) 夢にしては感じる首の捻じれがリアルだし、さっきの髪を掴まれたような感触も残っていたが、考える脳が停止しているファイは全てを『夢』として片付けてしまった。 覆いかぶさるように重ねられた唇の熱さや、その弾力が心地よくて、鼻から抜けるような吐息で微かに笑った。 こんな風に誰かと触れあうのは、久しぶりだ。 (なんか、気持ちいいな……) 突き動かされるような衝動と共に、忙しさにかまけてすっかり忘れ去っていた欲求不満を自覚した。 無意識に両腕を伸ばし、相手の首にそれを絡めるとさらに強く引き寄せてみる。 女にしてはやけに首が太くて、肩幅があるなと思ったのは一瞬だった。僅かに身じろいだ相手の舌が口腔に差し込まれるのと、ファイが相手の唇目がけて舌を捻じ込もうとしたのは同時だった。 「ん、ぅ……ッ」 舌先が強く擦れ合い、そのままぬるぬると競うように絡め合う。重たい瞼と混濁する意識に反して、感覚だけは水音が増す度に研ぎ澄まされた。 指先や足の先まで、じん、という痺れに襲われる。思わずビクンと肩を震わせた瞬間、対等だった主導権が相手に移った。 「ふっ、ん……ッ!」 慣れない受け身の口付けに戸惑う隙もなく、肉厚なそれが歯列を滑り、ファイの口腔を暴れまわった。同時に後ろ首に手を這わされ、髪の中に差し込まれた指が梳かすような動きで頭皮に爪を立ててくる。 絶妙にリンクする二つの刺激に、目を閉じていながら世界が回るような眩暈を覚えた。 (ぅ、わ……! これ、気持ちよすぎる……!) 息をつく間もなく、きゅう、と甘く舌を吸われるのが堪らない。 もっともっとと、同じように相手の頭部に指を這わせ、爪を立てて掻き乱した。ふと、随分と短くて硬い髪だなと、熱に浮かされながらも引っかかりを覚える。 なにか、おかしい気がした。 腕の中に納まりきらない大きな身体。こちらに主導権を明け渡さない、荒々しい獣のようなキス。まるでこっちが女にでもなったような。 (女……?) そう、この部屋に女なんかいないし、連れ込んだこともない。 ならこれは誰だろう。そもそもこれは本当に夢なのだろうか?確か今、自分以外でここにいるのは、ただ一人のはず……。 「ッ!?」 その時、ファイの意識は完全に覚醒した。 目を見開いたと同時に相手を思いっきり突き飛ばし、慌てて身を起こす。 「な、なん、何して……!?」 「なにって言われてもな」 強く突き飛ばしたつもりだったが、黒鋼はほとんどダメージを受けていなかった。床に胡坐をかいて、濡れた口元を手の甲で拭いながらケロリとした顔をしている。 カッと、頭に血が上った。 「い、一体なにをしてるのかって聞いてるの!!」 「キスだな」 「な、な、な、なんで!?」 「なんか不味かったか?」 「不味いでしょそりゃあ!!」 「了承は得たぞ」 「そんなの知らないし! 許した覚えなし!」 だいたいね、とファイは興奮状態のまま黒鋼を指差した。 「寝起きにあんな濃厚なの普通する!? 信じらんない!!」 「てめぇがノリノリだったんだろ。据え膳食らって何が悪い?」 「すすす、すえぜ……!?」 頭の中が真っ白どころか、上りきっていた血で爆発でもしたかのように真っ赤に点滅していた。 黒鋼が何を言っているのか分からないし、分かりたくないし、分かってはいけない気がする。そもそも、今は混乱が先だって何一つ自分の中で処理できない。 「朝飯食ってる時間はねぇな」 半ば恐慌状態に陥っているファイから視線を時計へと移し、黒鋼は立ち上がって脱衣所の方へ向かった。 口を閉じられないまま彼の動きを凝視していると、一度は消えた姿がひょいっと再び現れる。 「ぼけっとしてねぇで、シャキっとしろよ」 顔を出した黒鋼は偉そうに言うと、思い出したようにニヤリと口元で笑った。片方の口角だけを上げて見せる、あのどこか意地の悪そうな笑みだ。 「おまえ、なかなかそそる反応するんだな」 「は……!?」 「ご馳走さん」 そこからどうやって学校まで駆け込んだのか、ファイはまるで覚えていない。 * まだ授業中ということもあり、学校全体はひっそりと静まりかえっている。 南校舎三階、東側にある化学準備室の鍵を開けて、ファイは引き戸を開けると中に入った。後ろ手で扉を閉めた途端、それを背にしてズルズルと床にしゃがみ込むと、重い溜息をつきながら前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。 薬品の香りがする狭い室内は、入って左手には薬品や実験器具がみっしりと並べられた鉄の大棚、右手側には書籍や書類の詰まったファイルが隙間なく立てられた突っ張り棚が設置され、正面には窓と机、椅子が置かれている。 とにかく一人になって落ち着こうと、自分の縄張りと言ってもいいこの場所を選んだものの、逆にこの静けさと孤立感はじっくりと物を考えるには最適すぎた。 (一体どこで育ち方間違って来たんだろう、あの子……) 彼は冗談の一つもまともに言えないような、硬い性格をした子供だった。単純で、純粋で、態度は突っ張っていても人を疑うことを知らなくて。 そんな黒鋼だったからこそ、手の平で転がすように弄ぶのが楽しくて仕方がなかった。睨まれたり、怒鳴られたりすると不思議とワクワクして、もっとそんな反応が見たくて飽きることなくからかったものだ。 それが今ではどうだ。やけに落ち着いて、余裕しか感じられなくて、あれではまるで大人の男ではないか。 「……大人、だけどさ……もう……」 この際、認めよう。黒鋼はもう立派な成人男性で、小さくて可愛くてピュアだった幼い彼は、ファイの記憶の中にしか存在しない。 離れていた年月を思えば、そりゃあ誰だって様々な経験をするだろうが。 だけど、それにしたって。 (どこであんなキス……覚えてきたんだろうね、全く) 思い出すだけで頬に熱が集まって来るのを感じる。あれは正直、本当にまずかった。 朝、ということもあったのかもしれないが、それによってうっかり生理現象を催すくらいには、気持ちがよかった。 相手を知ったあまりの衝撃で萎えたのが唯一の救いだったかもしれないが、まざまざと思い出してしまっている今、気を抜くと危険だ。 寝ぼけていたとはいえ、感じ入ってしまった自分に対するショックが最も大きいかもしれない。 ファイは頭を抱えると「うわあぁ」と悲鳴を上げる。 だいたい、冗談にしては行きすぎではないか。据え膳とかなんとか、訳の分からないことを言っていたような気がするが、ふざけるにしたって悪質すぎる。 しかしふと、そこでファイは気がついた。 (悪質な……悪ふざけ……) 思い出してもみれば、程度は違えど自分は彼に全く同じようなイタズラをしていたのだった。純粋で穢れ知らずの、初恋さえ済んでいるか怪しい初な少年を相手に。 おそらく彼にとってあれは初めてのキスだった。 多感で複雑な年頃の少年を相手に仕掛けるには、あまりにも非常識で変態的な行為ではなかったか。 今や教師としての意識がいっぱしに確立しているファイは、今更になって自分がやらかした行いの犯罪性に気がついた。 「まさか、あの時の仕返し、とかじゃないだろうね……?」 いつだったか、彼は「いつか泣かす」なんてことを言っていたような気がしないでもない。 「……流石に考えすぎか」 とにかく、今朝のことはなかったことにして忘れよう。 いつまでもボケっとしているわけにもいかない。午後は実習生が見学に訪れる予定になっているし、残りの授業はしっかりと気合いを入れることにした。 * 放課後。 受け持ちの文化部に顔を出して、午前中は小テストで誤魔化してしまった分の答案の採点を行うべく職員室へ向かったファイは、途中で実習生控室の前を通りがかった。 もしかしたら黒鋼も中にいるのではないかと少し緊張しつつ、扉の小窓から中を覗き込んで見る。 が、そこには数名の実習生が帰り支度や教材研究に没頭する姿以外、見知った顔はなかった。 その姿が見えないことにホッと胸を撫で下ろす。 気を取り直してその場から一歩踏み出そうとしたところで、大きな壁のようなものに弾かれ「わ」と声を上げた。 「なんだ、ぼうっとすんな」 壁は、どうやら黒鋼だったらしい。 その胸板に弾かれてよろめいた腕を取られて、ファイはギクリと身を硬くする。 「あ、えーっと、お疲れ様ー」 緊張を悟られるのは癪で、何事もなかったかのように笑顔で声をかけた。さりげなく取られていた手首を遠ざけることは忘れない。 「今日はもう終わり?」 「ぼちぼちな」 まだジャージ姿でいるところを見ると、部活動の方にも顔を出したのかもしれない。 実習生が帰宅するためには指導報告書を提出し、担当教官にサインを貰わなければならず、それが終わらないことには一日を締めくくることはできない。 教材研究を怠ることも出来ないし、きっと担当教官からのダメだしも相当食らうことになるはずだ。 (がんばってるんだなぁー) そう思うと、今朝のことなどされ忘れて胸がじんとする。 あの小さかった黒鋼が、こうして自分の将来に向けて頑張っている姿を近くで見られるというのは、なんだか嬉しい。 それに、思ったより普通だ。 黒鋼は今朝のことなどまるでなかったかのようにごく自然な様子だし、そのおかげかファイも少しずつ肩の力を抜くことが出来た。 「そっかー。じゃあオレはまだ仕事あるから行くねー」 「おう。あんま無理すんなよ」 「そっちもねー」 そう片肘を張る必要もないんだな、なんて思いつつファイはファイで自分の仕事をこなすべく職員室へ向かった。 * しばらく職員室で作業をしていると、窓から吹く夕時の風が少し冷たくなってきた。時計を見上げると、そろそろ6時を回ろうとする頃だ。 先刻まではちらほらと見えていた教師達の姿も、気づけばまったくなくなっている。 今日のところは早めに帰宅しようかな、などと考えていると、またあの嫌な視線を感じた。 (……まただよ。一体どこから感じるんだろうこれは) 窓の外は薄暗く、校庭に人がいる様子もないのだが。 気味の悪さを覚えつつ立ち上がり、窓とカーテンを閉める。 そこに、報告書にサインを貰って帰り支度を終えたスーツ姿の黒鋼が顔を出した。職員玄関を利用するがてら、通りすがりに中を覗いて見たらしい。 「おう。まだやってんのか」 「あ、うん。もうだいたい終わったけどねー」 「採点か?」 「そそー」 気を取り直したように再び椅子に落ち着いたファイの傍に、黒鋼が近寄って来る。 ひょい、と机の上に重なるプリントを覗きこんで来るので、少しだけ椅子を引いて見せた。 「おい、こいつやる気あんのか? 落書きだらけじゃねぇか」 「あははー、問題はちゃんと解いてるからいいんだよー」 「いいのかよ」 「いいのいいのー。時間あまっちゃうと退屈なんだよねー」 「おまえのいい加減さはガキ共の評判通りだな」 「やだなー。あの子達そんなこと言ってたのー?」 「緩いとこが面白ぇってよ」 「ぷっ」 ファイは思わず肩を竦めてふき出した。 確かに、よく緩いとは言われる。それを不真面目だと指摘して睨んでくる教師もいるにはいるが、自然体でいることで生徒たちが懐いてくれるのは嬉しい。 そんな中、黒鋼はすっかり口を閉ざしてしまった。もしかして、真面目な性分の彼は呆れて物も言えない状態なのだろうか。 どうしたの、と顔を上げるのと、長い後ろ髪を緩く引っ張られるのは同時だった。 「!?」 なにが起きたのか分からないまま、真っ黒の影に視界が遮られて目を見開いた。 (な……?) ファイの髪を掴んだままの黒鋼が身を屈ませている。唇に温かなものが押し付けられていて、脳内がフリーズした。 硬直状態だったファイは、それでもすぐにハッとして「うわぁ!!」と叫びながら身を捩り、結果、椅子から転げ落ちた。 「いったぁーい!!」 「おい、気をつけろよ」 「こ、ここどこだと思って……!?」 ここは学校で、職員室で、カーテンは閉め切られているが、誰が来たっておかしくない場所で。あの嫌な視線は感じられないが、ただ単に感じている余裕がないだけかもしれないというのに。 顔から火を噴きそうになっているファイを見下ろす黒鋼は、無表情でケロリとしている。 そして彼は、さも当然のように「したくなった」と言い放った。 「はい!?」 「じゃあ先に戻ってるぞ」 「ちょ、話終ってない!!」 「とっとと帰って来いよ」 「待っ……!」 まるで聞く耳を持たない黒鋼は、そっけなく背を向けると尻もちをついたままのファイを残して職員室を出て行ってしまった。 ←戻る ・ 次へ→
「…………うーん」
「もう10分過ぎてるんですけどー……」
「…………はぁー」
黒板前の椅子に座って、教卓に頬杖をついたまま上の空でいる化学教師に、生徒達が戸惑っている。
次第にざわつきが増す中、ファイはフラリと立ち上がると一言「ダメだ……」と呟いた。
「せ、先生?」
「答案、適当に集めたら後で誰か職員室に持ってきて……」
「はぁ……」
「今日はあと自習……」
生徒達がぽかんと口を開けているのも構わず、ファイはよろよろとした足取りで教室を後にした。
今日はずっとこんな調子だ。何も手につかず、考えられない。
計画が狂うと分かってはいても、適当な問題集をコピーして生徒に与えるだけで、授業なんてまともに出来る状態でもなかった。
(……ちょっと一人になりたい)
ふらつきながら、化学準備室へ向かって静まりかえった廊下の隅を歩く。
精神的なダメージがファイの感情を絶えず揺さぶっていた。
何がどうして『あんなこと』になったのか、ほんの数時間前の、朝の出来事が嫌でも脳内に再生されて、頭痛がした。
*
それは今朝のことだった。
強引に居候を決め込んだ黒鋼は、宣言通り本当にベッドを独占した。
そのせいでファイはソファに丸まって眠ることになったのだが、なかなか寝付けず、ようやく眠ったのは朝方近くになってからだった。
結果、ファイは目覚ましのアラームに気がつかなかった。
「おい、起きろ」
夢の中で、聞き慣れない低音が呼びかけるのを聞いた。
それでも浮上しかけた意識はすぐに眠りへと磁石のように吸い寄せられる。
「もうちょっとー……」
「教師が寝坊して遅刻ってのはまずいだろ」
「んー……」
「起きねぇとキスんぞ」
「んー、いいよー……なんでもいいからー」
(分かったから、あと少しだけ……)
その時のファイは黒鋼が何を言っているのかなんて、まるで聞き取れてはいなかった。むしろ相手さえ認識できていなかったと言っていい。
今この瞬間を少しでも長引かせることが出来るなら、もう何もかもがどうでもよくて、そればかりに心も身体も支配されていた。
チッ、というガラの悪そうな舌打ちが聞こえたような気がした。
それでも目を開けることができず、眠りに落ちていくファイの前髪に、何かが絡みついた。
それによってぐっと髪を引っ張られ、首の角度を無理に変えられて、無意識に「痛い」と叫びそうになった時、何かが唇に押し付けられた。
(……? ……あー、そっか、これ夢かー)
夢にしては感じる首の捻じれがリアルだし、さっきの髪を掴まれたような感触も残っていたが、考える脳が停止しているファイは全てを『夢』として片付けてしまった。
覆いかぶさるように重ねられた唇の熱さや、その弾力が心地よくて、鼻から抜けるような吐息で微かに笑った。
こんな風に誰かと触れあうのは、久しぶりだ。
(なんか、気持ちいいな……)
突き動かされるような衝動と共に、忙しさにかまけてすっかり忘れ去っていた欲求不満を自覚した。
無意識に両腕を伸ばし、相手の首にそれを絡めるとさらに強く引き寄せてみる。
女にしてはやけに首が太くて、肩幅があるなと思ったのは一瞬だった。僅かに身じろいだ相手の舌が口腔に差し込まれるのと、ファイが相手の唇目がけて舌を捻じ込もうとしたのは同時だった。
「ん、ぅ……ッ」
舌先が強く擦れ合い、そのままぬるぬると競うように絡め合う。重たい瞼と混濁する意識に反して、感覚だけは水音が増す度に研ぎ澄まされた。
指先や足の先まで、じん、という痺れに襲われる。思わずビクンと肩を震わせた瞬間、対等だった主導権が相手に移った。
「ふっ、ん……ッ!」
慣れない受け身の口付けに戸惑う隙もなく、肉厚なそれが歯列を滑り、ファイの口腔を暴れまわった。同時に後ろ首に手を這わされ、髪の中に差し込まれた指が梳かすような動きで頭皮に爪を立ててくる。
絶妙にリンクする二つの刺激に、目を閉じていながら世界が回るような眩暈を覚えた。
(ぅ、わ……! これ、気持ちよすぎる……!)
息をつく間もなく、きゅう、と甘く舌を吸われるのが堪らない。
もっともっとと、同じように相手の頭部に指を這わせ、爪を立てて掻き乱した。ふと、随分と短くて硬い髪だなと、熱に浮かされながらも引っかかりを覚える。
なにか、おかしい気がした。
腕の中に納まりきらない大きな身体。こちらに主導権を明け渡さない、荒々しい獣のようなキス。まるでこっちが女にでもなったような。
(女……?)
そう、この部屋に女なんかいないし、連れ込んだこともない。
ならこれは誰だろう。そもそもこれは本当に夢なのだろうか?確か今、自分以外でここにいるのは、ただ一人のはず……。
「ッ!?」
その時、ファイの意識は完全に覚醒した。
目を見開いたと同時に相手を思いっきり突き飛ばし、慌てて身を起こす。
「な、なん、何して……!?」
「なにって言われてもな」
強く突き飛ばしたつもりだったが、黒鋼はほとんどダメージを受けていなかった。床に胡坐をかいて、濡れた口元を手の甲で拭いながらケロリとした顔をしている。
カッと、頭に血が上った。
「い、一体なにをしてるのかって聞いてるの!!」
「キスだな」
「な、な、な、なんで!?」
「なんか不味かったか?」
「不味いでしょそりゃあ!!」
「了承は得たぞ」
「そんなの知らないし! 許した覚えなし!」
だいたいね、とファイは興奮状態のまま黒鋼を指差した。
「寝起きにあんな濃厚なの普通する!? 信じらんない!!」
「てめぇがノリノリだったんだろ。据え膳食らって何が悪い?」
「すすす、すえぜ……!?」
頭の中が真っ白どころか、上りきっていた血で爆発でもしたかのように真っ赤に点滅していた。
黒鋼が何を言っているのか分からないし、分かりたくないし、分かってはいけない気がする。そもそも、今は混乱が先だって何一つ自分の中で処理できない。
「朝飯食ってる時間はねぇな」
半ば恐慌状態に陥っているファイから視線を時計へと移し、黒鋼は立ち上がって脱衣所の方へ向かった。
口を閉じられないまま彼の動きを凝視していると、一度は消えた姿がひょいっと再び現れる。
「ぼけっとしてねぇで、シャキっとしろよ」
顔を出した黒鋼は偉そうに言うと、思い出したようにニヤリと口元で笑った。片方の口角だけを上げて見せる、あのどこか意地の悪そうな笑みだ。
「おまえ、なかなかそそる反応するんだな」
「は……!?」
「ご馳走さん」
そこからどうやって学校まで駆け込んだのか、ファイはまるで覚えていない。
*
まだ授業中ということもあり、学校全体はひっそりと静まりかえっている。
南校舎三階、東側にある化学準備室の鍵を開けて、ファイは引き戸を開けると中に入った。後ろ手で扉を閉めた途端、それを背にしてズルズルと床にしゃがみ込むと、重い溜息をつきながら前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
薬品の香りがする狭い室内は、入って左手には薬品や実験器具がみっしりと並べられた鉄の大棚、右手側には書籍や書類の詰まったファイルが隙間なく立てられた突っ張り棚が設置され、正面には窓と机、椅子が置かれている。
とにかく一人になって落ち着こうと、自分の縄張りと言ってもいいこの場所を選んだものの、逆にこの静けさと孤立感はじっくりと物を考えるには最適すぎた。
(一体どこで育ち方間違って来たんだろう、あの子……)
彼は冗談の一つもまともに言えないような、硬い性格をした子供だった。単純で、純粋で、態度は突っ張っていても人を疑うことを知らなくて。
そんな黒鋼だったからこそ、手の平で転がすように弄ぶのが楽しくて仕方がなかった。睨まれたり、怒鳴られたりすると不思議とワクワクして、もっとそんな反応が見たくて飽きることなくからかったものだ。
それが今ではどうだ。やけに落ち着いて、余裕しか感じられなくて、あれではまるで大人の男ではないか。
「……大人、だけどさ……もう……」
この際、認めよう。黒鋼はもう立派な成人男性で、小さくて可愛くてピュアだった幼い彼は、ファイの記憶の中にしか存在しない。
離れていた年月を思えば、そりゃあ誰だって様々な経験をするだろうが。
だけど、それにしたって。
(どこであんなキス……覚えてきたんだろうね、全く)
思い出すだけで頬に熱が集まって来るのを感じる。あれは正直、本当にまずかった。
朝、ということもあったのかもしれないが、それによってうっかり生理現象を催すくらいには、気持ちがよかった。
相手を知ったあまりの衝撃で萎えたのが唯一の救いだったかもしれないが、まざまざと思い出してしまっている今、気を抜くと危険だ。
寝ぼけていたとはいえ、感じ入ってしまった自分に対するショックが最も大きいかもしれない。
ファイは頭を抱えると「うわあぁ」と悲鳴を上げる。
だいたい、冗談にしては行きすぎではないか。据え膳とかなんとか、訳の分からないことを言っていたような気がするが、ふざけるにしたって悪質すぎる。
しかしふと、そこでファイは気がついた。
(悪質な……悪ふざけ……)
思い出してもみれば、程度は違えど自分は彼に全く同じようなイタズラをしていたのだった。純粋で穢れ知らずの、初恋さえ済んでいるか怪しい初な少年を相手に。
おそらく彼にとってあれは初めてのキスだった。
多感で複雑な年頃の少年を相手に仕掛けるには、あまりにも非常識で変態的な行為ではなかったか。
今や教師としての意識がいっぱしに確立しているファイは、今更になって自分がやらかした行いの犯罪性に気がついた。
「まさか、あの時の仕返し、とかじゃないだろうね……?」
いつだったか、彼は「いつか泣かす」なんてことを言っていたような気がしないでもない。
「……流石に考えすぎか」
とにかく、今朝のことはなかったことにして忘れよう。
いつまでもボケっとしているわけにもいかない。午後は実習生が見学に訪れる予定になっているし、残りの授業はしっかりと気合いを入れることにした。
*
放課後。
受け持ちの文化部に顔を出して、午前中は小テストで誤魔化してしまった分の答案の採点を行うべく職員室へ向かったファイは、途中で実習生控室の前を通りがかった。
もしかしたら黒鋼も中にいるのではないかと少し緊張しつつ、扉の小窓から中を覗き込んで見る。
が、そこには数名の実習生が帰り支度や教材研究に没頭する姿以外、見知った顔はなかった。
その姿が見えないことにホッと胸を撫で下ろす。
気を取り直してその場から一歩踏み出そうとしたところで、大きな壁のようなものに弾かれ「わ」と声を上げた。
「なんだ、ぼうっとすんな」
壁は、どうやら黒鋼だったらしい。
その胸板に弾かれてよろめいた腕を取られて、ファイはギクリと身を硬くする。
「あ、えーっと、お疲れ様ー」
緊張を悟られるのは癪で、何事もなかったかのように笑顔で声をかけた。さりげなく取られていた手首を遠ざけることは忘れない。
「今日はもう終わり?」
「ぼちぼちな」
まだジャージ姿でいるところを見ると、部活動の方にも顔を出したのかもしれない。
実習生が帰宅するためには指導報告書を提出し、担当教官にサインを貰わなければならず、それが終わらないことには一日を締めくくることはできない。
教材研究を怠ることも出来ないし、きっと担当教官からのダメだしも相当食らうことになるはずだ。
(がんばってるんだなぁー)
そう思うと、今朝のことなどされ忘れて胸がじんとする。
あの小さかった黒鋼が、こうして自分の将来に向けて頑張っている姿を近くで見られるというのは、なんだか嬉しい。
それに、思ったより普通だ。
黒鋼は今朝のことなどまるでなかったかのようにごく自然な様子だし、そのおかげかファイも少しずつ肩の力を抜くことが出来た。
「そっかー。じゃあオレはまだ仕事あるから行くねー」
「おう。あんま無理すんなよ」
「そっちもねー」
そう片肘を張る必要もないんだな、なんて思いつつファイはファイで自分の仕事をこなすべく職員室へ向かった。
*
しばらく職員室で作業をしていると、窓から吹く夕時の風が少し冷たくなってきた。時計を見上げると、そろそろ6時を回ろうとする頃だ。
先刻まではちらほらと見えていた教師達の姿も、気づけばまったくなくなっている。
今日のところは早めに帰宅しようかな、などと考えていると、またあの嫌な視線を感じた。
(……まただよ。一体どこから感じるんだろうこれは)
窓の外は薄暗く、校庭に人がいる様子もないのだが。
気味の悪さを覚えつつ立ち上がり、窓とカーテンを閉める。
そこに、報告書にサインを貰って帰り支度を終えたスーツ姿の黒鋼が顔を出した。職員玄関を利用するがてら、通りすがりに中を覗いて見たらしい。
「おう。まだやってんのか」
「あ、うん。もうだいたい終わったけどねー」
「採点か?」
「そそー」
気を取り直したように再び椅子に落ち着いたファイの傍に、黒鋼が近寄って来る。
ひょい、と机の上に重なるプリントを覗きこんで来るので、少しだけ椅子を引いて見せた。
「おい、こいつやる気あんのか? 落書きだらけじゃねぇか」
「あははー、問題はちゃんと解いてるからいいんだよー」
「いいのかよ」
「いいのいいのー。時間あまっちゃうと退屈なんだよねー」
「おまえのいい加減さはガキ共の評判通りだな」
「やだなー。あの子達そんなこと言ってたのー?」
「緩いとこが面白ぇってよ」
「ぷっ」
ファイは思わず肩を竦めてふき出した。
確かに、よく緩いとは言われる。それを不真面目だと指摘して睨んでくる教師もいるにはいるが、自然体でいることで生徒たちが懐いてくれるのは嬉しい。
そんな中、黒鋼はすっかり口を閉ざしてしまった。もしかして、真面目な性分の彼は呆れて物も言えない状態なのだろうか。
どうしたの、と顔を上げるのと、長い後ろ髪を緩く引っ張られるのは同時だった。
「!?」
なにが起きたのか分からないまま、真っ黒の影に視界が遮られて目を見開いた。
(な……?)
ファイの髪を掴んだままの黒鋼が身を屈ませている。唇に温かなものが押し付けられていて、脳内がフリーズした。
硬直状態だったファイは、それでもすぐにハッとして「うわぁ!!」と叫びながら身を捩り、結果、椅子から転げ落ちた。
「いったぁーい!!」
「おい、気をつけろよ」
「こ、ここどこだと思って……!?」
ここは学校で、職員室で、カーテンは閉め切られているが、誰が来たっておかしくない場所で。あの嫌な視線は感じられないが、ただ単に感じている余裕がないだけかもしれないというのに。
顔から火を噴きそうになっているファイを見下ろす黒鋼は、無表情でケロリとしている。
そして彼は、さも当然のように「したくなった」と言い放った。
「はい!?」
「じゃあ先に戻ってるぞ」
「ちょ、話終ってない!!」
「とっとと帰って来いよ」
「待っ……!」
まるで聞く耳を持たない黒鋼は、そっけなく背を向けると尻もちをついたままのファイを残して職員室を出て行ってしまった。
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