悪夢はまだ終わらない。むしろ、始まってすらいなかった。
男はさっきまで癇癪を起していたのが嘘のように、上機嫌で鼻歌を歌いながらファイの服に鎌の切っ先を引っ掛けては布を裂く作業に没頭していた。
なぜこんな真似をするのかと問いかけても返答は得られず、ビリ、という嫌な音が室内に響く度に、ファイは瞼をぎゅっと閉じて肩を震わせた。
「ッ……!」
皮膚すれすれのところを切っ先が掠める中、時折、本当に皮膚が傷つけられる。この男はどこまでも自分本位で、他人を思いやるという精神に欠けているらしい。
縄がグルグルと巻かれている部分のみを残して、薄手のセーターはもはやただの布と化した。
「いっぱい、傷ついちゃったね……」
「ッ、さ、触るな……!」
「ど、どう、して?」
切っ先が引っかかった場所は、ぷっくりとミミズ腫れのように赤く染まって、チリチリとした熱を放っている。
おぞましいばかりの指先が、それをまるで星座をなぞる様に胸や腹、首筋や肩を行き来する度に、競り上がる吐き気と戦うだけで精一杯だった。
(気持ち悪い……)
他人に肌を触られることが、こんなにも不快なことだなんて。
女性は勿論だが、黒鋼相手には決してこんな風には感じなかった。初めて触れられた時でさえ、気持ち悪いだなんて感情は一切湧かなかったことを思い出す。
――いい加減、気づけ。
(ああ、そっか……そうだったんだ……)
黒鋼は、ずっとこのことを言っていたのだということに気づいた。
触れられるのも、キスをするのも、女のように抱かれて辱められてさえ憎めず、そして拒めなかった。いくら相手が自分よりも大きく、腕力のある人間だったとしても、心底嫌悪していたなら、死ぬ気で抵抗することは出来たはずなのに。
彼は決してファイを縄で縛り付け、刃物や暴力で支配するような真似はしなかった。その身一つであんなにも真っ直ぐに想いをぶつけてきた。
けれどファイはそれを信じることができなかった。押さえつけられ、抗えず流されることを自分への言い訳にして、目を逸らしていた。
(特別だったんだ……オレにとっての、たった一人だったから……)
最初から『拒めなかった』のではなく『拒まなかった』のだと。
「こ、ここ、かわいい……触ってもいい……?」
荒い息使いで、男はファイの傷だらけの胸に手を這わせた。太い指先が外気と怖気に尖る乳首に触れようとする。冗談じゃない。こんな最低な相手に穢されるくらいなら、死んだ方がマシだ。ファイは懸命に身を捩る。
「触るな……絶対に嫌だ……!」
それでも男の指は容赦なくファイの乳首に触れた。人差し指と親指で、力いっぱい抓り上げる。痛みと不快感から、ファイの表情が歪む。
「痛ッ、ぁ!」
「せんせいのちくび、赤くて可愛い……ぼくのアソコ、またおっきくなっちゃった……ねぇ、な、舐めて……」
男はうわごとのように「なめてなめて」と繰り返しながら、ファイを跨ぐように立ちはだかり、勃起した状態でも粗末な性器を目の前で扱きはじめた。
おぞましさに背けた顔は肉付きのいい手に前髪をガッシリと掴まれることで引きもどされ、いよいよ性器の先端を唇に押し付けられそうになった時、ファイは自分でも信じられないような力で声を振り絞っていた。
「嫌だ!! おまえのなんか、死んでも嫌だ!!」
そうだ。絶対に嫌だ。触れられるのも、何をされるのも、たった一人しか欲しくない。
こんな状況になってようやく自分の気持ちに素直になったって、もう遅いのに。
「ど、どうして? どうしてこんなに暴れるの? せんせぇ、ぼくのこと、す、好きだよね?」
一体なにを根拠にそんなことが言えるのか。
何の接点もない、名前すら知らない相手に対して寄せる甘い感情など、ありはしない。いっそ殺したいくらいの憎悪なら、この短い時間で有り余るほど蓄積されてはいるけれど。
「これ以上オレに触れてみろ……舌を噛み切って死んでやる……!」
ファイはそのどす黒い感情のままに、赤くなった瞳でキツく男を睨みつけた。おどおどしはじめた男は「どうして」と繰り返しながら壊れたオモチャのようにカタカタと震えだす。
そして、縛り付けているはずの相手を思うように支配できないことに、再び癇癪を起し始めた。油っぽい頭をガリガリと両手で掻き毟っては、汗とも唾液ともつかない液体を振りまいた。
「うああぁああぁあぁーーー!!!」
やがて凄まじい叫び声を上げ、男は床に投げ出していた鎌を再び手に取り、切っ先をこちらに向けて大きく振り上げた。その全てがスローモーションのように、ゆっくりとファイの目に映る。
これが走馬灯というやつだろうか。
脳裏を掠めるのは幼い頃の黒鋼との思い出や、優しく触れる大きな手や、縋れば必ず抱き返してくれた逞しい腕ばかりで、それしかないのかと笑ってしまいそうなくらい、ファイの中は黒鋼でいっぱいだった。
(こんな終り方ってあんまりだよなぁ……オレも好きだよって、大きくなった黒たんも大好きだよって……ちゃんと言ってあげればよかった……)
それでも地獄に身を置き続けるよりはずっといいと、ファイは目を閉じた。
その時――。
「おい!! いるんだろ!? ここを開けろ!!」
閉じていた目を咄嗟に見開き、ガタガタと鳴っている扉に視線を走らせた。
「無事か!? どうなってる!?」
「く……くろ、た……?」
叫びたいのに喉を締め付けられているかのように、声が出せない。
どうして彼がここにいるんだろう。こんなどうしようもない自分なんかを、助けに来てくれたとでもいうのだろうか。
今一番聞きたかった声が、薄い扉の向こう側から必死で呼びかけて来る。
「蹴破るぞ!! いいな!?」
「ヒィッ……! や、やめろ! あ、開けるなぁ~~!!」
扉の向こうの気迫に押され、男は無様に鎌を取り落とすと腰を抜かし、這いずるように机の下に身を押し込んで丸くなった。
男が頭を抱えてブルブルと震え始める中、派手に扉が外れる音と共にガラスの割れる大きな音がする。扉だったものは床に叩きつけられ、破片もまた散らばった。
それをやってのけた当人は見たこともないほど血相を変えて、ガラスの破片を踏みつけながらファイの元に駆けて来た。
魂が抜けたように、全身の力が一気に抜ける。
黒鋼は、髪を切り裂かれ、顔や上半身に痣と切り傷を作っているファイの悲惨な状況を見て絶句したが、すぐに我に帰ると縄を解くため手を伸ばしてきた。
だがあまりにも硬く結ばれたそれは素手でどうにかするのは難しく、咄嗟に辺りを見回した先にあった鎌を手にすると、それを使って全ての縄を切り裂き放り投げた。
「遅くなった……すまねぇ……」
「どうして……?」
気がつけばただ呆然と、逞しい腕に抱きしめられていた。
つい力が抜けてその肩に額を押し付けそうになったが、すぐに自分が汚れていることに気がつく。慌てて感覚が戻らない両手で押し返そうとしたが、黒鋼はビクともしなかった。
身じろぐほどに抱き締める腕の力は増して、助かったのだという実感が、それによって込み上げる。
「もう大丈夫だ。心配すんな」
「黒た、ん……オレ、オレ……」
「いい。何も言うな」
ファイの未だに震えのおさまらない両手は、ずっと血液をせき止められていたことですっかり青くなっている。手首は擦り切れ、血の塊がこびりついてた。その手で、黒鋼の頬を包む。
今、どうしても伝えたいことがあるから。
「オレね、思い出したよ……」
あの夜、意識を手放す寸前に確かに聞いた黒鋼の言葉。
ここで終わるのだと覚悟を決めた時、ファイの脳裏にぽっかりと浮かび上がった。
それは泣きたくなるくらい嬉しくて、拍子抜けするくらい単純で、そして本当はずっと気付いていたはずの、大切な言葉だった。
「ちゃんと、ッ、思い出したからね」
喉を詰まらせながらも懸命に吐き出した言葉に、黒鋼は苦しげに赤い瞳を細めて見せた。そして昔のように短くなった金髪に長い指を通すと、壊れ物を扱うような優しさでそっと撫でる。
ファイは震える息を吐き出しながら、心からの安堵に濡れた瞼をそっと閉じた。
『ずっとおまえが好きだった』
*
それから黒鋼は、自分のジャージの上を脱ぐとファイの傷ついた白い肩にかけた。
ファイは痛々しく腫れた頬や、切れて血の滲む唇でほっとしたように笑うと「ありがとう」と言っておとなしくそれに腕を通す。
短くなった髪も、手首に残る赤黒い縄の痕も、傷ついた皮膚も、その全てが痛々しくて胸が掻き毟られるようだった。
ひとまわり以上サイズの大きなジャージを、袖を余らせながら着込む様を見届けると、今度は机の下に頭だけを隠して肉ダルマになって震えている男を見やる。
「あっ」
ファイが小さく声を上げるのも構わずそれを引きずり出すと、憎悪をそのまま利き足に込めて、締りのない腹を容赦なく蹴り飛ばした。
男は甲高い呻きと唾液を撒き散らして狭い床を転げ回る。怒りの炎に身を焦がしきっていた黒鋼は、さらにその胸倉を掴み、握った拳を顔面に叩きつけようとした。
だが、それを膝立ちになったファイが腰に縋りついて必死で止めた。
「止めんな」
「ダメだってば! あと少しで実習だって終わるのに……!」
いっそ殺すつもりでいた黒鋼だったが、痛々しい傷を負わされたファイの不安そうな顔を見て、冷静さをどうにか手繰り寄せた。
確かに、過ぎた制裁を加えたことによって自分の進路をぐちゃぐちゃにされたのでは、今まで努力してきたのが無駄になる。そんなことは、何よりファイが望まない。
黒鋼は掴んでいた胸倉を乱暴に離し、無様に尻餅をついた男を忌々しげに睨みつけると舌打ちをした。
ファイはホッと安堵の息を漏らし、男はだらしなく床に四肢を投げ出して放心している。
「それにしても、どうして黒たんがここに……?」
ぺたりと床に座り込んだファイが小首を傾げる。
黒鋼は「ああ」と短く返事をし、ポケットから小さな鍵を取り出した。
「なにそれ?」
「わからねぇか? おまえ、もうちっとシャキッとした方がいいぞ」
「?」
黒鋼は呆れつつ、その鍵を使ってすぐ近くにある机の、三段目の引き出しを開けた。「あ!」と声を上げて驚く彼に、中から透明なビニール袋を取り出して手渡す。
「これ……!」
中には切り刻まれて汚れた白衣と、ぐしゃぐしゃのメモ用紙が詰められている。どうしてこれを、という視線だけの問いかけに、黒鋼は答えてやることにした。
*
これを見つけたのは金曜の夜だった。
ファイがなかなか部屋に戻らず、前の晩どうも様子がおかしかったこともあり、なんとなく気になって迎えに行った。
黒鋼が覗いた時は職員室に人はおらず、他にいそうな場所といえば準備室だったため、東側の階段を使って三階へ向かった。
だが、準備室は無人だった。
ここで待つか他を当たるか考えながら中へ一歩踏み出した黒鋼は、足の裏に何かを踏みつけたような感触を覚えて、すぐに手探りで室内の明りのスイッチを入れた。
足を持ち上げて見れば、そこに小さな鍵が落ちているのを発見した。
それが机の鍵だと気づくのに時間はかからず、全く変なところでだらしのない奴だと呆れつつも、引き出しの鍵穴に差し込んでやった。
そのときに、机の下のバッグや寝袋を発見した。何を考えているんだと舌打ちをしながら部屋を飛び出そうとしたところで、今度は足の先に何かがぶつかった。
それはゴミ箱だった。
倒れたそれからはみ出すようにして顔を覗かせたのは、明らかに『異常』とわかる姿に変わり果てた白衣と、気味の悪いメモ書きだった。
それを見た黒鋼は顔を顰め、これは捨てずにおいた方がいいものと判断した。
しっかりしているようで抜けているファイは、下手をすればこれの存在を忘れているか、思い出した時にでも気まぐれに処分しかねない。
あるいは、他の『誰か』が手を下す前に、どこかにしっかり保管した方がいい。
何もないに越したことはないが、勝手に鍵付きの机を開けてそれを仕舞った。ビニール袋も、ゴミやガラクタだらけの机の中から適当に拝借した。
そして当人を探そうと明りを消し、部屋を出たところで、何かに追われるようにして駆けこんできたファイと遭遇したのだった。
*
「てめぇがしょっちゅう辺りを気にしてたのは、見てて知ってたからな。妙な虫がついてるんじゃねぇかと思ったら、案の定だったな」
「み、見てないようで……見てるんだね、黒ぽん」
「当り前だ」
「あぁ、そう」
ファイはなぜか傷がついた頬を赤らめて、もじもじと目を泳がせた。が、すぐにまた視線を寄こす。
「鍵は、ずっと黒たんが?」
「てめぇが持ってたって、どうせまた失くすと思った。とことんそそっかしくてだらしねぇからな」
「ご、ごめん……」
「いい。ちゃんと言っとかなかった俺も悪かった」
あのときは、どうやっても伝わらない気持ちに黒鋼も余裕を失くしていた。
いっそ引きずってでも自分の手でファイを部屋に連れ戻していれば、ここまでの惨事には至らなかったかもしれない。
もっと違う形で守ってやることができたかもしれないのに。
だが、悔いても仕方がない。いずれにしろこの男がファイを狙っていた以上、遅かれ早かれ手を出してきたに違いないからだ。
むしろ自分がここにいる間に片を付けられたのは、不幸中の幸いだったと言える。
黒鋼はぼんやりと天井を見つめて動かない男に視線をやった。
ズカズカと近づいて足で転がせば、男は「ヒッ」と短い悲鳴を上げてカエルのように飛び跳ね、薬品の入った大棚に背中をぴったりとくっつけてベソをかきはじめた。
「うぅ……せんせぇ、ひどいよ……ひどいよぅ……こんなやつ、せんせぇにふさわしくないよ……」
「あ? 誰がふさわしくねぇだと?」
「ひいぃ! ご、ごめんなさい! ごめんなさいぃ!!」
「ご自慢の鎌がなきゃなんも出来ねぇか? なぁ、おい?」
ジャージのズボンに両手を突っ込んで、黒鋼は両足を抱えるようにして怯える男の正面に立ちはだかった。
いっそ哀れなほど震えている彼は「せ、せんせぇ助けて! いつもみたいに助けて!」と鼻水を垂らしながら必死に叫んでいる。
「いつもみたいにって……なんのこと……?」
「せ、せんせぇ、いつもみたいに、ぼ、ぼくのこと、かばって……!」
「なに言ってんだこいつ?」
「お、おまえは黙ってろ! せんせぇは、いつも女子たちにバカにされてるぼくを、か、かばってくれるんだ!!」
「それって……」
ファイが困惑の表情を浮かべる中、男は泣きながら言った。
以前、偶然ファイが自分を馬鹿にする女子生徒達を咎める場面に居合わせ、庇う声を聞いたのだと。
子供の頃から、いつだって嘲笑の的であり続けることが当たり前だった男にとって、それはあまりにも衝撃的だった。
以来、気付けば白い白衣と金色の髪を目で追いかけるようになった。
男にとって世界の全てはファイに集約された。そして同時に、ファイもまた同じだけの思いを傾けてくれているに違いないと。病的なまでに、そう思い込んだ。
「せんせぇは、ぼくのことが、すっ、好きなんだ! 好きだから、助けてくれたんだ!!」
男が叫ぶ。黒鋼はその瞬間、頭に上った血が沸騰するのを感じて大棚を蹴りあげた。ガツンという音と共に、棚が一度ぐらりと揺れる。
ひん、という男の悲鳴にかぶさるように、ファイの「黒たんそれ薬品入ってる棚!!」と慌てる声がした。だが、怒りが限界値まで達していた黒鋼の耳には、何も届いてはいなかった。
「勝手な思い込みで、人のもんにきたねぇ唾つけてんじゃねぇぞ……?」
「ヒッ、ひいぃ……ッ」
「こいつはとっくの昔に、俺が先約済みだ」
これ以上ふざけたことを言えばどうなるか、黒鋼は口元を歪めて獰猛な笑みを浮かべて見せた。
「息してられるのをあいつに感謝しろよ」
背中に不安そうな視線を感じながら、黒鋼は身を屈めると、眼下で震えあがる男にだけ聞こえる声で「次は殺す」と呟いた。
がくん、と肩を落として、男は燃え尽きた花火のように項垂れた。
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男はさっきまで癇癪を起していたのが嘘のように、上機嫌で鼻歌を歌いながらファイの服に鎌の切っ先を引っ掛けては布を裂く作業に没頭していた。
なぜこんな真似をするのかと問いかけても返答は得られず、ビリ、という嫌な音が室内に響く度に、ファイは瞼をぎゅっと閉じて肩を震わせた。
「ッ……!」
皮膚すれすれのところを切っ先が掠める中、時折、本当に皮膚が傷つけられる。この男はどこまでも自分本位で、他人を思いやるという精神に欠けているらしい。
縄がグルグルと巻かれている部分のみを残して、薄手のセーターはもはやただの布と化した。
「いっぱい、傷ついちゃったね……」
「ッ、さ、触るな……!」
「ど、どう、して?」
切っ先が引っかかった場所は、ぷっくりとミミズ腫れのように赤く染まって、チリチリとした熱を放っている。
おぞましいばかりの指先が、それをまるで星座をなぞる様に胸や腹、首筋や肩を行き来する度に、競り上がる吐き気と戦うだけで精一杯だった。
(気持ち悪い……)
他人に肌を触られることが、こんなにも不快なことだなんて。
女性は勿論だが、黒鋼相手には決してこんな風には感じなかった。初めて触れられた時でさえ、気持ち悪いだなんて感情は一切湧かなかったことを思い出す。
――いい加減、気づけ。
(ああ、そっか……そうだったんだ……)
黒鋼は、ずっとこのことを言っていたのだということに気づいた。
触れられるのも、キスをするのも、女のように抱かれて辱められてさえ憎めず、そして拒めなかった。いくら相手が自分よりも大きく、腕力のある人間だったとしても、心底嫌悪していたなら、死ぬ気で抵抗することは出来たはずなのに。
彼は決してファイを縄で縛り付け、刃物や暴力で支配するような真似はしなかった。その身一つであんなにも真っ直ぐに想いをぶつけてきた。
けれどファイはそれを信じることができなかった。押さえつけられ、抗えず流されることを自分への言い訳にして、目を逸らしていた。
(特別だったんだ……オレにとっての、たった一人だったから……)
最初から『拒めなかった』のではなく『拒まなかった』のだと。
「こ、ここ、かわいい……触ってもいい……?」
荒い息使いで、男はファイの傷だらけの胸に手を這わせた。太い指先が外気と怖気に尖る乳首に触れようとする。冗談じゃない。こんな最低な相手に穢されるくらいなら、死んだ方がマシだ。ファイは懸命に身を捩る。
「触るな……絶対に嫌だ……!」
それでも男の指は容赦なくファイの乳首に触れた。人差し指と親指で、力いっぱい抓り上げる。痛みと不快感から、ファイの表情が歪む。
「痛ッ、ぁ!」
「せんせいのちくび、赤くて可愛い……ぼくのアソコ、またおっきくなっちゃった……ねぇ、な、舐めて……」
男はうわごとのように「なめてなめて」と繰り返しながら、ファイを跨ぐように立ちはだかり、勃起した状態でも粗末な性器を目の前で扱きはじめた。
おぞましさに背けた顔は肉付きのいい手に前髪をガッシリと掴まれることで引きもどされ、いよいよ性器の先端を唇に押し付けられそうになった時、ファイは自分でも信じられないような力で声を振り絞っていた。
「嫌だ!! おまえのなんか、死んでも嫌だ!!」
そうだ。絶対に嫌だ。触れられるのも、何をされるのも、たった一人しか欲しくない。
こんな状況になってようやく自分の気持ちに素直になったって、もう遅いのに。
「ど、どうして? どうしてこんなに暴れるの? せんせぇ、ぼくのこと、す、好きだよね?」
一体なにを根拠にそんなことが言えるのか。
何の接点もない、名前すら知らない相手に対して寄せる甘い感情など、ありはしない。いっそ殺したいくらいの憎悪なら、この短い時間で有り余るほど蓄積されてはいるけれど。
「これ以上オレに触れてみろ……舌を噛み切って死んでやる……!」
ファイはそのどす黒い感情のままに、赤くなった瞳でキツく男を睨みつけた。おどおどしはじめた男は「どうして」と繰り返しながら壊れたオモチャのようにカタカタと震えだす。
そして、縛り付けているはずの相手を思うように支配できないことに、再び癇癪を起し始めた。油っぽい頭をガリガリと両手で掻き毟っては、汗とも唾液ともつかない液体を振りまいた。
「うああぁああぁあぁーーー!!!」
やがて凄まじい叫び声を上げ、男は床に投げ出していた鎌を再び手に取り、切っ先をこちらに向けて大きく振り上げた。その全てがスローモーションのように、ゆっくりとファイの目に映る。
これが走馬灯というやつだろうか。
脳裏を掠めるのは幼い頃の黒鋼との思い出や、優しく触れる大きな手や、縋れば必ず抱き返してくれた逞しい腕ばかりで、それしかないのかと笑ってしまいそうなくらい、ファイの中は黒鋼でいっぱいだった。
(こんな終り方ってあんまりだよなぁ……オレも好きだよって、大きくなった黒たんも大好きだよって……ちゃんと言ってあげればよかった……)
それでも地獄に身を置き続けるよりはずっといいと、ファイは目を閉じた。
その時――。
「おい!! いるんだろ!? ここを開けろ!!」
閉じていた目を咄嗟に見開き、ガタガタと鳴っている扉に視線を走らせた。
「無事か!? どうなってる!?」
「く……くろ、た……?」
叫びたいのに喉を締め付けられているかのように、声が出せない。
どうして彼がここにいるんだろう。こんなどうしようもない自分なんかを、助けに来てくれたとでもいうのだろうか。
今一番聞きたかった声が、薄い扉の向こう側から必死で呼びかけて来る。
「蹴破るぞ!! いいな!?」
「ヒィッ……! や、やめろ! あ、開けるなぁ~~!!」
扉の向こうの気迫に押され、男は無様に鎌を取り落とすと腰を抜かし、這いずるように机の下に身を押し込んで丸くなった。
男が頭を抱えてブルブルと震え始める中、派手に扉が外れる音と共にガラスの割れる大きな音がする。扉だったものは床に叩きつけられ、破片もまた散らばった。
それをやってのけた当人は見たこともないほど血相を変えて、ガラスの破片を踏みつけながらファイの元に駆けて来た。
魂が抜けたように、全身の力が一気に抜ける。
黒鋼は、髪を切り裂かれ、顔や上半身に痣と切り傷を作っているファイの悲惨な状況を見て絶句したが、すぐに我に帰ると縄を解くため手を伸ばしてきた。
だがあまりにも硬く結ばれたそれは素手でどうにかするのは難しく、咄嗟に辺りを見回した先にあった鎌を手にすると、それを使って全ての縄を切り裂き放り投げた。
「遅くなった……すまねぇ……」
「どうして……?」
気がつけばただ呆然と、逞しい腕に抱きしめられていた。
つい力が抜けてその肩に額を押し付けそうになったが、すぐに自分が汚れていることに気がつく。慌てて感覚が戻らない両手で押し返そうとしたが、黒鋼はビクともしなかった。
身じろぐほどに抱き締める腕の力は増して、助かったのだという実感が、それによって込み上げる。
「もう大丈夫だ。心配すんな」
「黒た、ん……オレ、オレ……」
「いい。何も言うな」
ファイの未だに震えのおさまらない両手は、ずっと血液をせき止められていたことですっかり青くなっている。手首は擦り切れ、血の塊がこびりついてた。その手で、黒鋼の頬を包む。
今、どうしても伝えたいことがあるから。
「オレね、思い出したよ……」
あの夜、意識を手放す寸前に確かに聞いた黒鋼の言葉。
ここで終わるのだと覚悟を決めた時、ファイの脳裏にぽっかりと浮かび上がった。
それは泣きたくなるくらい嬉しくて、拍子抜けするくらい単純で、そして本当はずっと気付いていたはずの、大切な言葉だった。
「ちゃんと、ッ、思い出したからね」
喉を詰まらせながらも懸命に吐き出した言葉に、黒鋼は苦しげに赤い瞳を細めて見せた。そして昔のように短くなった金髪に長い指を通すと、壊れ物を扱うような優しさでそっと撫でる。
ファイは震える息を吐き出しながら、心からの安堵に濡れた瞼をそっと閉じた。
『ずっとおまえが好きだった』
*
それから黒鋼は、自分のジャージの上を脱ぐとファイの傷ついた白い肩にかけた。
ファイは痛々しく腫れた頬や、切れて血の滲む唇でほっとしたように笑うと「ありがとう」と言っておとなしくそれに腕を通す。
短くなった髪も、手首に残る赤黒い縄の痕も、傷ついた皮膚も、その全てが痛々しくて胸が掻き毟られるようだった。
ひとまわり以上サイズの大きなジャージを、袖を余らせながら着込む様を見届けると、今度は机の下に頭だけを隠して肉ダルマになって震えている男を見やる。
「あっ」
ファイが小さく声を上げるのも構わずそれを引きずり出すと、憎悪をそのまま利き足に込めて、締りのない腹を容赦なく蹴り飛ばした。
男は甲高い呻きと唾液を撒き散らして狭い床を転げ回る。怒りの炎に身を焦がしきっていた黒鋼は、さらにその胸倉を掴み、握った拳を顔面に叩きつけようとした。
だが、それを膝立ちになったファイが腰に縋りついて必死で止めた。
「止めんな」
「ダメだってば! あと少しで実習だって終わるのに……!」
いっそ殺すつもりでいた黒鋼だったが、痛々しい傷を負わされたファイの不安そうな顔を見て、冷静さをどうにか手繰り寄せた。
確かに、過ぎた制裁を加えたことによって自分の進路をぐちゃぐちゃにされたのでは、今まで努力してきたのが無駄になる。そんなことは、何よりファイが望まない。
黒鋼は掴んでいた胸倉を乱暴に離し、無様に尻餅をついた男を忌々しげに睨みつけると舌打ちをした。
ファイはホッと安堵の息を漏らし、男はだらしなく床に四肢を投げ出して放心している。
「それにしても、どうして黒たんがここに……?」
ぺたりと床に座り込んだファイが小首を傾げる。
黒鋼は「ああ」と短く返事をし、ポケットから小さな鍵を取り出した。
「なにそれ?」
「わからねぇか? おまえ、もうちっとシャキッとした方がいいぞ」
「?」
黒鋼は呆れつつ、その鍵を使ってすぐ近くにある机の、三段目の引き出しを開けた。「あ!」と声を上げて驚く彼に、中から透明なビニール袋を取り出して手渡す。
「これ……!」
中には切り刻まれて汚れた白衣と、ぐしゃぐしゃのメモ用紙が詰められている。どうしてこれを、という視線だけの問いかけに、黒鋼は答えてやることにした。
*
これを見つけたのは金曜の夜だった。
ファイがなかなか部屋に戻らず、前の晩どうも様子がおかしかったこともあり、なんとなく気になって迎えに行った。
黒鋼が覗いた時は職員室に人はおらず、他にいそうな場所といえば準備室だったため、東側の階段を使って三階へ向かった。
だが、準備室は無人だった。
ここで待つか他を当たるか考えながら中へ一歩踏み出した黒鋼は、足の裏に何かを踏みつけたような感触を覚えて、すぐに手探りで室内の明りのスイッチを入れた。
足を持ち上げて見れば、そこに小さな鍵が落ちているのを発見した。
それが机の鍵だと気づくのに時間はかからず、全く変なところでだらしのない奴だと呆れつつも、引き出しの鍵穴に差し込んでやった。
そのときに、机の下のバッグや寝袋を発見した。何を考えているんだと舌打ちをしながら部屋を飛び出そうとしたところで、今度は足の先に何かがぶつかった。
それはゴミ箱だった。
倒れたそれからはみ出すようにして顔を覗かせたのは、明らかに『異常』とわかる姿に変わり果てた白衣と、気味の悪いメモ書きだった。
それを見た黒鋼は顔を顰め、これは捨てずにおいた方がいいものと判断した。
しっかりしているようで抜けているファイは、下手をすればこれの存在を忘れているか、思い出した時にでも気まぐれに処分しかねない。
あるいは、他の『誰か』が手を下す前に、どこかにしっかり保管した方がいい。
何もないに越したことはないが、勝手に鍵付きの机を開けてそれを仕舞った。ビニール袋も、ゴミやガラクタだらけの机の中から適当に拝借した。
そして当人を探そうと明りを消し、部屋を出たところで、何かに追われるようにして駆けこんできたファイと遭遇したのだった。
*
「てめぇがしょっちゅう辺りを気にしてたのは、見てて知ってたからな。妙な虫がついてるんじゃねぇかと思ったら、案の定だったな」
「み、見てないようで……見てるんだね、黒ぽん」
「当り前だ」
「あぁ、そう」
ファイはなぜか傷がついた頬を赤らめて、もじもじと目を泳がせた。が、すぐにまた視線を寄こす。
「鍵は、ずっと黒たんが?」
「てめぇが持ってたって、どうせまた失くすと思った。とことんそそっかしくてだらしねぇからな」
「ご、ごめん……」
「いい。ちゃんと言っとかなかった俺も悪かった」
あのときは、どうやっても伝わらない気持ちに黒鋼も余裕を失くしていた。
いっそ引きずってでも自分の手でファイを部屋に連れ戻していれば、ここまでの惨事には至らなかったかもしれない。
もっと違う形で守ってやることができたかもしれないのに。
だが、悔いても仕方がない。いずれにしろこの男がファイを狙っていた以上、遅かれ早かれ手を出してきたに違いないからだ。
むしろ自分がここにいる間に片を付けられたのは、不幸中の幸いだったと言える。
黒鋼はぼんやりと天井を見つめて動かない男に視線をやった。
ズカズカと近づいて足で転がせば、男は「ヒッ」と短い悲鳴を上げてカエルのように飛び跳ね、薬品の入った大棚に背中をぴったりとくっつけてベソをかきはじめた。
「うぅ……せんせぇ、ひどいよ……ひどいよぅ……こんなやつ、せんせぇにふさわしくないよ……」
「あ? 誰がふさわしくねぇだと?」
「ひいぃ! ご、ごめんなさい! ごめんなさいぃ!!」
「ご自慢の鎌がなきゃなんも出来ねぇか? なぁ、おい?」
ジャージのズボンに両手を突っ込んで、黒鋼は両足を抱えるようにして怯える男の正面に立ちはだかった。
いっそ哀れなほど震えている彼は「せ、せんせぇ助けて! いつもみたいに助けて!」と鼻水を垂らしながら必死に叫んでいる。
「いつもみたいにって……なんのこと……?」
「せ、せんせぇ、いつもみたいに、ぼ、ぼくのこと、かばって……!」
「なに言ってんだこいつ?」
「お、おまえは黙ってろ! せんせぇは、いつも女子たちにバカにされてるぼくを、か、かばってくれるんだ!!」
「それって……」
ファイが困惑の表情を浮かべる中、男は泣きながら言った。
以前、偶然ファイが自分を馬鹿にする女子生徒達を咎める場面に居合わせ、庇う声を聞いたのだと。
子供の頃から、いつだって嘲笑の的であり続けることが当たり前だった男にとって、それはあまりにも衝撃的だった。
以来、気付けば白い白衣と金色の髪を目で追いかけるようになった。
男にとって世界の全てはファイに集約された。そして同時に、ファイもまた同じだけの思いを傾けてくれているに違いないと。病的なまでに、そう思い込んだ。
「せんせぇは、ぼくのことが、すっ、好きなんだ! 好きだから、助けてくれたんだ!!」
男が叫ぶ。黒鋼はその瞬間、頭に上った血が沸騰するのを感じて大棚を蹴りあげた。ガツンという音と共に、棚が一度ぐらりと揺れる。
ひん、という男の悲鳴にかぶさるように、ファイの「黒たんそれ薬品入ってる棚!!」と慌てる声がした。だが、怒りが限界値まで達していた黒鋼の耳には、何も届いてはいなかった。
「勝手な思い込みで、人のもんにきたねぇ唾つけてんじゃねぇぞ……?」
「ヒッ、ひいぃ……ッ」
「こいつはとっくの昔に、俺が先約済みだ」
これ以上ふざけたことを言えばどうなるか、黒鋼は口元を歪めて獰猛な笑みを浮かべて見せた。
「息してられるのをあいつに感謝しろよ」
背中に不安そうな視線を感じながら、黒鋼は身を屈めると、眼下で震えあがる男にだけ聞こえる声で「次は殺す」と呟いた。
がくん、と肩を落として、男は燃え尽きた花火のように項垂れた。
←戻る ・ 次へ→
「はぁ……」
職員宿舎の一階にあるランドリーで、ファイは深い溜息を零した。
ゴウゴウと音を奏でる全自動式の洗濯機の中では、下着や衣類が勢いよく回り続けている。
しゃがみ込んで抱えた膝に顎を乗せながらそれを見つめるファイは、飽きるほどついてきた溜息の量に辟易としていた。
あの金曜の夜から土日を挟んで、現在月曜の夜である。
この土日は授業で行う実験のための準備やら、職員会議等に時間を費やした。やろうと思えば他にも仕事は幾らでもあって、準備室にはほとんど寝に帰るだけの二日間だった。
黒鋼には部屋に戻れと言われたが、ファイはそれをしなかった。
出て行く、と言ったからには、彼はもう部屋にはいないかもしれない。けれど、もしかしたらファイを待っているかもしれない。
こうして洗濯がてらこの宿舎に戻っては来ても、自室を覗いてみる気がどうしても起こらない。いればどんな顔をすればいいか分からないし、いなかった場合、もぬけの殻になっている部屋を見るのが嫌だった。
学校では嫌でも顔を合わせる機会があるが、ずっと目を合わせないようにしていた。
それは向こうも同じのようで、運悪く廊下で擦れ違ってしまったとしても、一切ちょっかいを掛けてくる様子はなかった。
実習期間が終わればどの道いなくなる人間なのだし、戻るのは彼が完全にこの学園を去ってからでもいい。
結局、逃げているだけだと分かってはいたけれど。
*
洗い終えて乾燥も済んだ衣類を畳んで袋詰めし、ファイは学校までの夜道を急いだ。
あの背後を追いかけて来る不気味な足音はあれから無いが、どこにいても気がつくと視線は常に注がれているような気がしてならない。
しかしその嫌な感じにも、だんだん慣れつつある。見ているだけで何も仕掛けて来ないなら、もういっそ好きなだけ見ればいいとさえ思う。
(減るもんじゃないし)
自分でも投げやりになっている自覚はある。
こんな時、普通の感覚の人間ならどうするのだろう。誰かしらに協力を仰いで犯人を捜し出すなり、とっくに自室に戻るなりしているのだろうか。
(でも……戻るの嫌なんだもん……)
会いたいと思うし、会いたくないと思う。
一体自分は彼とどうなりたいのだろうか。どうしたいのだろう。
昔みたいにからかって遊んだり、涙目になっている頬をつついたり、そんな頃には戻れない。それは痛いほど知っている。
身体の関係を結んだだけでなくあんな別れ方をしたら、きっともう友達ですらいられない。
(あ、やばい。これ本気で落ち込むパターンのやつだ)
もしかしたら、自分は元々こんな風に女々しい人間だったのかもしれない。女々しくて弱いから、相手につけこませる隙を自ら与えてダメになる。
どんどん気持ちが弱りきって行く中、足取りがどんどん重く、鈍くなっていく。
そこでふと、ファイは嫌な感覚を覚えて身を強張らせた。
カツ、カツ、カツ。
(ざっ、ざっ、ざっ、ざっ)
カツ、カツ。
(ざっ、ざっ、ざっ)
(これ、こないだと同じ……)
足音が、あの時と同じように重なってついて来る。
ファイが歩く速度を落とせばそれに習い、早めれば、同じように。コンクリートの地面を踏み慣らす、異なる靴音が、確かに。
恐怖よりも、またか、というウンザリした気持ちが強く込みあげる。
どうせ相手は何もできない臆病者だ。人の所有物をボロボロにして、奇妙なメモしか残せないような卑怯な人間なのだ。
例えどんなに女々しくとも、そんな相手に負ける気はしない。
ファイは足を止めると、思いっきり背後を振り返って暗闇を睨みつけた。
「いい加減にしてくれるかな!」
足音も、同時に止まる。
「どんな恨みがあるか知らないけど、付け回すくらいなら出てきなよ!」
夜風が吹き抜け、木々を揺らし、電球切れを起こしている街灯が点滅する。
ついこの間まではぶれることなく点灯していたはずなのに。
そう、あれは黒鋼が来て間もない頃。職員室で口付けられたことに憤慨しながら、この夜道を同じように歩いていた、あの時……。
(街灯……?)
ここは通い慣れた道だ。途中で見知った顔に遭遇することもあれば、知らない人間とすれ違うことだって日常茶飯事で。
何も、あの夜だけが特別ではない。それなのに。
(土、草、切り裂かれた、白衣の汚れ……)
――草刈鎌。
どうして今、あのとき姿を現した用務員の顔を思い出すのだろうか。たかが一度だけ口を利いた程度の人間に、容疑をかけるのは早計すぎやしないか?
何も接点がないし、間違いだったとすれば向こうにだっていい迷惑だ。
けれど、一致してしまった。
あの男は、土と草に酷く汚れた軍手をして、鎌を持ち歩いていた……。
ゾクリとした。
もしこんな頼りない街灯の下で、突然あれを振り下ろされでもしたら。あの白衣のようにズタズタにされるのは、今度は自分の方だ。
未だに確証は持てないが、ファイは洗濯ものを入れた袋を胸に抱くと踵を返し、全速力で学校への道を走った。
*
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
職員玄関から中に入って、内鍵を閉めるとファイはその場にしゃがみ込んで呼吸を整えた。
そろそろ21時を回るころだが、校内にはまだ人気があり、職員室の明かりもついていた。たったそれだけで全身から力が抜けて、深い安堵の息が漏れる。はっきり言って、しばらくは一人になりたくないと思った。
(やっぱ……帰った方がいいのかな……)
例え一人きりの空間だとしても、ここに留まり続けるよりは安全に思えた。
黒鋼のことを思うと気は引けるが、いっそ彼がまだあの部屋にいてくれれば、もっと安心できる。
(……うわ、なに頼ろうとしてるんだろうオレ……情けない……)
また落ち込みかけたが、あまり愚図愚図している時間もなかった。
今はまだ職寝室に人がいて、会話をしているらしい声も聞こえる。ならば、中には宿舎へ戻る人間だっているはずだ。
この学園の教師はほとんどが宿舎を利用しているから、便乗して一緒に帰ればいい。
そうと決まれば彼らがまだここにいるうちに、準備室からとりあえず貴重品だけは取ってきて、さっさと引き上げよう。
ファイは「ふぅ」と息をついてから立ち上がり、南校舎の階段へ向かって小走りに駆けだした。
*
三階に人気はなかったが、重なるような足音もなければ視線も感じず、そこでもファイはホッと息を漏らした。
廊下の電気もまだ灯されており、それによって警戒心がどんどん希薄になっていくのを感じる。
それでものんびりしている余裕はなく、ファイは準備室の扉を開けると電気のスイッチを入れた。そしてすかさず机の側に膝をつき、散らかった荷物をまとめにかかる。
「あ、そうだ……」
ファイはふと思いつき、アルミ製のゴミ箱に手を伸ばした。
あの切り裂かれた白衣とメモは、おそらく重要な証拠品になるはずだ。
準備室の清掃やゴミ出しは教師の自己責任だから、ゴミ箱にはあれらのブツが残されているはずだった。
この時ばかりは自分のいい加減さやだらしなさがいい方面に出た気がした、のも束の間、縁に手をかけて傾けたゴミ箱の中は、チリひとつ見当たらない状態だった。
「あれ……なんで……?」
まさか生徒が気を利かせて、化学室の掃除がてらここのゴミも処分してくれたのだろうか?
だとしたら、いつからこのゴミ箱は空だったのだろう。それにもしそうなら、これの中身の異常性には誰だって気がつくはずだ。
自分で処分した記憶は勿論ないし、なら一体誰が……?
そのとき、背後で『キィィ』という高く軋むような音がした。
「!」
ギクリとして身体を強張らせたファイは、それがロッカーの扉が開く音だということを瞬間的に悟った。
ここに荷物を運び入れた日以来、しばらくは一切開けていない。
建てつけが悪いわけでもないし、誰かが手を加えない限りひとりでに開くなんてことは、ありえないのだが。
ドクドクと心臓が波打つ中、額に冷たい汗が滲む。ゆっくりと、ゆっくりと、呼吸を止めた状態で背後の気配に向け、視線と身体を振り向かせた、まさにその一瞬。
「ッ!?」
驚くほど近くにニヤけた男の顔が見えたと同時に、頭部に強い衝撃を受けたファイはその場に崩れ落ち、意識を失った。
*
頭部の右側面がズキズキと痛んで、ファイは息苦しさに呻きながらゆっくりと目を開けた。
視界が酷くぼやけているが、見慣れた準備津の床や、机と椅子の足が見える。
激しい眩暈に駆られながらも、ファイはゆっくりと視線を彷徨わせた。そして次の瞬間、目の前の光景を見て石のように固まった。
ふ、ふ、ふ、と忙しなく息を吐き出し、顔中に汗をかいた男が、膝立ちになって自らの股間に手をやっている。脂っぽい黒髪が水揚げしたばかりのワカメのように頬に張り付き、その目元を隠しているせいで表情は見えない。
一瞬なにをしているのか分からず、頭が真っ白になりながらも、ファイはその異様な光景から目を逸らすことができなかった。
青いツナギの前を完全に下まで開ききって、毛だらけの出っ張った腹を覗かせている男は、両手で性器を握りしめていた。
だが、素手ではない。
「ッ……?!」
洗ったばかりの予備の白衣が、くしゃくしゃの姿で男の手の中にある。彼はそれを使って自慰を行っているのだ。
瞬間的に込み上げてきたのは凍えるような寒気と激しい嘔吐感だった。それなのに、胃の中のものをぶちまけるどころか、咳き込むことすらできなかった。
なぜなら、タオルのような布が口の中に押し込められているからだ。いわゆる、猿轡というものだろうか。それがぎっちりと、奥歯まで噛まされている。
目を見開き、ただ呻くことしか出来ないファイを見て、男は『にたぁ』と粉のふきまくった口元で笑った。
「おはよう、ファイせんせぇ」
声を聞いただけでもゾワリとした感覚が身体を這いずって、ファイはその場から逃れようとした。が、動けない。それは身体が竦んで動けないのとは、まるで違う理由からだった。
見れば胸のすぐ下辺りに縄が何重にもきつく巻かれており、しかも両腕は身体の後ろで一纏めにされていた。ファイの背後には、鉄製の突っ張り棚が設置されている。縄はその骨組みの一つに括りつけられているようだった。
さらにご丁寧に、両足首まで二本揃えてしっかり縛られている。
「ぜんぜん起きないから……ぼく、我慢、できなくて……」
「ッ……!!」
「ずっと、ふたりきりになれるの……まってたんだぁ……」
どれくらいの時間気絶していたのかは知らないが、少なくとももう職員は一人も残っていないだろう。叫ぼうにもまともに声も出せないし、出せたところで一階まで届くかどうか。
絶望的な感情と悔しさがない交ぜになって、ファイは真っ青になりながらも男を睨みつけた。
しかし彼は再び猿のように自慰行為に耽り出す。あの腹の立つ呼吸を繰り返し、時折「ぁ、ぁ、ぁ」と不快な喘ぎ声を上げていた。
「も、ちょっと……ぁ、で、でる、でる、でるぅ……!!」
なんとも言えない声で呻きながら、男は腰をビクビクさせると白衣の中で性器を爆発させているようだった。
ファイはきつく目を閉じると、咄嗟に顔を背ける。
(いやだ……! なんなんだよこいつ……!!)
生理的な嫌悪感が湯水のように噴き上げて、ファイの精神を蝕んでいく。
それでも男の変態的な行為はまだ序章に過ぎなかった。
「い、いっばい、出た……ね、ほら?」
「ッ!? ううぅっ!? ウッ、んぅー!!」
「ねぇほら、せんせぇ見て、ねぇ」
「!?」
ねっとりと、黄ばんだ精液が大量に付着した白衣を近づけられる。身を遠ざけようと暴れれば棚がガタガタと鳴り、手首の縄が擦れて激痛が走った。
男は容赦なく濡れた白衣をファイの顔に擦りつけて、頬や金の髪を汚した。
「ッ――!!!」
凄まじい悪臭に鼻が曲がりそうになる。
汚れた白衣が離れて行ったかと思うと、太いばかりで短い指がさらに塗り込むように頬や首筋、耳の裏側を撫でた。
吐き気にえづくことしかできない顎を掴まれて、必死で背けていた顔を上向かされる。
「ぅ……うぅ……」
汗ばんだ髪の隙間からチラリと覗く目は、糸のように細い一重瞼だった。その瞳がどろりと濁って、出来そこないの人形のように輝きがない。
荒れた唇から吐き出される息が肌に触れるのさえ苦痛で、ファイはぎゅっと目を閉じる。生理的な涙がじんわりと目頭に溜まった。
それを見て、男は「きれいだなぁ」と子供のように無邪気に言った。
「せんせぇは、髪も、は、肌も、全部キレイ」
「~~~ッ!!」
「い、いい匂い……」
男が顔を近づけて、自分の精液を塗りつけたファイの頬に頬ずりをした。ぞぞぞ、と全身に毛虫が這う様な強烈な不快感に、気が遠くなる。
ギリギリで意識を保ちながら震えるだけのファイを置き去りにして、男は自分の世界の中でご満悦だった。
だが、すぐに何かに気がついたように「でも」と呟く。
「これ、邪魔だよね……?」
「ぅ、う……?」
「あの男……あのでっかいの、せんせぇの髪、引っ張る、でしょ?」
「!」
こいつが言っている『でっかいの』とは、十中八九黒鋼のことだ。
引っ張る、という単語から咄嗟に甦るのは、職員室でされた不意打ちのキスだった。
すぐに思いだすことが出来たのは、後にも先にも彼がこの尻尾のように長い髪を引っ張ったのは、あの一回きりだったからだ。
この男は、あれをどこからか盗み見していたのか。初めて会話をしたあの夜のことといい、今回のことといい、まるで音もなく忍び寄る蛇のようだ。
なおのこと、気味の悪さに拍車がかかる。
「せ、せんせぇにヒドイことするやつ、ぼく、ゆるさないから」
自分のことはすっかり棚に上げているらしい男は顔を上げると、ファイの後ろ首に手を伸ばした。
指先で一つに纏まった長い髪を前へ持ってくる。何をするつもりなのかと、嫌な予感に瞬きも出来ず、ファイは彼の動きを凝視した。
そこに、鈍く光る刃物が姿を現した。ちょうど男の影になっていて見えなかったが、彼は背後に手を伸ばすとそれを掴み上げたのだ。
鎌の取手の先端には、赤黒いものが付着している。
おそらくこれで先刻ファイを殴って気絶させたのだろう。先端の汚れは、その時に頭部が傷つき、付着した自分の血だ。焼けるように痛む頭部の感覚を思えば、確かに血が出ていてもおかしくない。
ぎゅっと身を竦ませたファイの頬に、冷たい刃がペタペタと触れる。男はねっとりとした高い声で「もう大丈夫だからね」と言った。
「んうぅ……ッ!?」
その瞬間、髪をぐっと乱暴に掴まれて頭が傾いた。髪に刃を当てられる感触と、ブチブチという音、そして痛みが走る。どれほど呻いても、男はファイの髪を離さない。ノコギリを扱うように鎌を使い、切るというよりは傷つけて引き千切るといった方が正しい乱雑さだった。
ぱらぱらと、不規則な長さの金糸が床に散らばっていく。
それを横目に見ながら、ファイは心を抉られるような痛みを覚えていた。
別に、これが似合うと思って伸ばしていたわけじゃない。そろそろ切らないとな、なんて考えているうちに面倒臭くなってきて、そのうち肩を過ぎてしまったからゴムで縛っていただけだ。
それなのに、黒鋼はこの長い髪を「悪くない」と言った。幾度も指を通し、そっと撫でて、時には優しく唇を落とした。
(ああ……バカだな、オレは)
あんなにも慈しむような優しい仕草から、どうして目を背けていたのだろう。
昔の仕返しだなんて、そんな子供じみた思考に頑なに囚われ続けていたんだろう。
「これで、もう大丈夫だよ……せんせいは、こっちの方がいいよ。ほら、すっごく可愛くなった、よ」
嬉しいでしょ、と言いながら、男はファイの項にかかる髪に手を這わせ、ぐりぐりと撫で上げるとそのまま猿轡を解いた。
口の中の異物が消えて、ファイは激しく咳き込んだ。その拍子に口の端を伝った唾液を黒い指先がすくい上げ、そのまま味わうように自らの指をしゃぶって見せる。
もうゾッとする気力もなかった。ただ、憎悪だけは胸の内に沸々と蓄積されている。
「オレを……どうする気……?」
低い声で問うと、男は鎌をチラつかせながら笑う。
「せんせぇが悪いんだ」
「どういう意味……?」
「ずっと見てたのに……あ、あんな男、部屋に入れて、ま、毎日、な、何、してたの……?」
ああ、やはりこいつはどこからか見ていたのか。
「い、いやらしいこと、してたんでしょ? あ、あいつ、そういう目、してた」
「……一緒にするなよ」
「な、に……?」
「あの子をおまえと一緒にするなって言ったの!!」
激しい怒りをそのまま声に乗せると、男はビクンと怯えたように肩を震わせた。
自身がどんなに暴力を振るわれ、汚されようとも、それ以上に黒鋼を侮辱されることは絶対に許せなかった。
ましてやこんな卑怯で中身の腐りきった変態野郎に蔑まれるなど、以ての外だ。
「な、なんで……? せんせぇ、なんで……あんなやつのこと……」
怒鳴られたことがよほどショックだったのか、男は顔を真っ青にして頭をガリガリと掻き毟りながら呼吸を荒げはじめた。
「なんで! なんでだ! なんでだよおぉ!!」
繰り返しそう叫びながら、忙しなく全身を揺らしている男の異常な姿を、ファイはただ息を殺して凝視することしか出来なかった。
黒い前髪に隠れていた目が、ギロリとこちらを捉える。濁っていたはずのそれは血走り、明らかに憎悪を募らせた視線にゾッとして肩をビクつかせた瞬間、左頬に凄まじい衝撃が走った。
「ッ!!」
口の中に鉄の味が広がり、殴られたのだと理解した。
頬に焼け石を押しつけられたような強烈な熱がじわりと広がる。耳鳴りと、酷い眩暈を覚えながら目の前が赤と黒の点滅を繰り返す。
男は鎌を持った右の拳を大きく震わせていた。この柄の先端を思い切り叩きつけてきたのか。
霞んでいく意識の中で、切りつけられなかっただけマシだったのかな、なんてぼんやり思う。
それでもきっと、次に機嫌を損なわせれば確実に殺される気がした。ファイが死を意識する中、男は両肩をガックリと落とした。
「せ、せんせぇ、あいつにそそのかされたんだよね……? だってぼくのせんせぇは、今みたいなこと、絶対、言わないんだから……」
だって先生は優しいからと、勝手なことをほざきながら笑う男は鎌を握りしめる拳にぐっと力を込めた。
←戻る ・ 次へ→
職員宿舎の一階にあるランドリーで、ファイは深い溜息を零した。
ゴウゴウと音を奏でる全自動式の洗濯機の中では、下着や衣類が勢いよく回り続けている。
しゃがみ込んで抱えた膝に顎を乗せながらそれを見つめるファイは、飽きるほどついてきた溜息の量に辟易としていた。
あの金曜の夜から土日を挟んで、現在月曜の夜である。
この土日は授業で行う実験のための準備やら、職員会議等に時間を費やした。やろうと思えば他にも仕事は幾らでもあって、準備室にはほとんど寝に帰るだけの二日間だった。
黒鋼には部屋に戻れと言われたが、ファイはそれをしなかった。
出て行く、と言ったからには、彼はもう部屋にはいないかもしれない。けれど、もしかしたらファイを待っているかもしれない。
こうして洗濯がてらこの宿舎に戻っては来ても、自室を覗いてみる気がどうしても起こらない。いればどんな顔をすればいいか分からないし、いなかった場合、もぬけの殻になっている部屋を見るのが嫌だった。
学校では嫌でも顔を合わせる機会があるが、ずっと目を合わせないようにしていた。
それは向こうも同じのようで、運悪く廊下で擦れ違ってしまったとしても、一切ちょっかいを掛けてくる様子はなかった。
実習期間が終わればどの道いなくなる人間なのだし、戻るのは彼が完全にこの学園を去ってからでもいい。
結局、逃げているだけだと分かってはいたけれど。
*
洗い終えて乾燥も済んだ衣類を畳んで袋詰めし、ファイは学校までの夜道を急いだ。
あの背後を追いかけて来る不気味な足音はあれから無いが、どこにいても気がつくと視線は常に注がれているような気がしてならない。
しかしその嫌な感じにも、だんだん慣れつつある。見ているだけで何も仕掛けて来ないなら、もういっそ好きなだけ見ればいいとさえ思う。
(減るもんじゃないし)
自分でも投げやりになっている自覚はある。
こんな時、普通の感覚の人間ならどうするのだろう。誰かしらに協力を仰いで犯人を捜し出すなり、とっくに自室に戻るなりしているのだろうか。
(でも……戻るの嫌なんだもん……)
会いたいと思うし、会いたくないと思う。
一体自分は彼とどうなりたいのだろうか。どうしたいのだろう。
昔みたいにからかって遊んだり、涙目になっている頬をつついたり、そんな頃には戻れない。それは痛いほど知っている。
身体の関係を結んだだけでなくあんな別れ方をしたら、きっともう友達ですらいられない。
(あ、やばい。これ本気で落ち込むパターンのやつだ)
もしかしたら、自分は元々こんな風に女々しい人間だったのかもしれない。女々しくて弱いから、相手につけこませる隙を自ら与えてダメになる。
どんどん気持ちが弱りきって行く中、足取りがどんどん重く、鈍くなっていく。
そこでふと、ファイは嫌な感覚を覚えて身を強張らせた。
カツ、カツ、カツ。
(ざっ、ざっ、ざっ、ざっ)
カツ、カツ。
(ざっ、ざっ、ざっ)
(これ、こないだと同じ……)
足音が、あの時と同じように重なってついて来る。
ファイが歩く速度を落とせばそれに習い、早めれば、同じように。コンクリートの地面を踏み慣らす、異なる靴音が、確かに。
恐怖よりも、またか、というウンザリした気持ちが強く込みあげる。
どうせ相手は何もできない臆病者だ。人の所有物をボロボロにして、奇妙なメモしか残せないような卑怯な人間なのだ。
例えどんなに女々しくとも、そんな相手に負ける気はしない。
ファイは足を止めると、思いっきり背後を振り返って暗闇を睨みつけた。
「いい加減にしてくれるかな!」
足音も、同時に止まる。
「どんな恨みがあるか知らないけど、付け回すくらいなら出てきなよ!」
夜風が吹き抜け、木々を揺らし、電球切れを起こしている街灯が点滅する。
ついこの間まではぶれることなく点灯していたはずなのに。
そう、あれは黒鋼が来て間もない頃。職員室で口付けられたことに憤慨しながら、この夜道を同じように歩いていた、あの時……。
(街灯……?)
ここは通い慣れた道だ。途中で見知った顔に遭遇することもあれば、知らない人間とすれ違うことだって日常茶飯事で。
何も、あの夜だけが特別ではない。それなのに。
(土、草、切り裂かれた、白衣の汚れ……)
――草刈鎌。
どうして今、あのとき姿を現した用務員の顔を思い出すのだろうか。たかが一度だけ口を利いた程度の人間に、容疑をかけるのは早計すぎやしないか?
何も接点がないし、間違いだったとすれば向こうにだっていい迷惑だ。
けれど、一致してしまった。
あの男は、土と草に酷く汚れた軍手をして、鎌を持ち歩いていた……。
ゾクリとした。
もしこんな頼りない街灯の下で、突然あれを振り下ろされでもしたら。あの白衣のようにズタズタにされるのは、今度は自分の方だ。
未だに確証は持てないが、ファイは洗濯ものを入れた袋を胸に抱くと踵を返し、全速力で学校への道を走った。
*
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
職員玄関から中に入って、内鍵を閉めるとファイはその場にしゃがみ込んで呼吸を整えた。
そろそろ21時を回るころだが、校内にはまだ人気があり、職員室の明かりもついていた。たったそれだけで全身から力が抜けて、深い安堵の息が漏れる。はっきり言って、しばらくは一人になりたくないと思った。
(やっぱ……帰った方がいいのかな……)
例え一人きりの空間だとしても、ここに留まり続けるよりは安全に思えた。
黒鋼のことを思うと気は引けるが、いっそ彼がまだあの部屋にいてくれれば、もっと安心できる。
(……うわ、なに頼ろうとしてるんだろうオレ……情けない……)
また落ち込みかけたが、あまり愚図愚図している時間もなかった。
今はまだ職寝室に人がいて、会話をしているらしい声も聞こえる。ならば、中には宿舎へ戻る人間だっているはずだ。
この学園の教師はほとんどが宿舎を利用しているから、便乗して一緒に帰ればいい。
そうと決まれば彼らがまだここにいるうちに、準備室からとりあえず貴重品だけは取ってきて、さっさと引き上げよう。
ファイは「ふぅ」と息をついてから立ち上がり、南校舎の階段へ向かって小走りに駆けだした。
*
三階に人気はなかったが、重なるような足音もなければ視線も感じず、そこでもファイはホッと息を漏らした。
廊下の電気もまだ灯されており、それによって警戒心がどんどん希薄になっていくのを感じる。
それでものんびりしている余裕はなく、ファイは準備室の扉を開けると電気のスイッチを入れた。そしてすかさず机の側に膝をつき、散らかった荷物をまとめにかかる。
「あ、そうだ……」
ファイはふと思いつき、アルミ製のゴミ箱に手を伸ばした。
あの切り裂かれた白衣とメモは、おそらく重要な証拠品になるはずだ。
準備室の清掃やゴミ出しは教師の自己責任だから、ゴミ箱にはあれらのブツが残されているはずだった。
この時ばかりは自分のいい加減さやだらしなさがいい方面に出た気がした、のも束の間、縁に手をかけて傾けたゴミ箱の中は、チリひとつ見当たらない状態だった。
「あれ……なんで……?」
まさか生徒が気を利かせて、化学室の掃除がてらここのゴミも処分してくれたのだろうか?
だとしたら、いつからこのゴミ箱は空だったのだろう。それにもしそうなら、これの中身の異常性には誰だって気がつくはずだ。
自分で処分した記憶は勿論ないし、なら一体誰が……?
そのとき、背後で『キィィ』という高く軋むような音がした。
「!」
ギクリとして身体を強張らせたファイは、それがロッカーの扉が開く音だということを瞬間的に悟った。
ここに荷物を運び入れた日以来、しばらくは一切開けていない。
建てつけが悪いわけでもないし、誰かが手を加えない限りひとりでに開くなんてことは、ありえないのだが。
ドクドクと心臓が波打つ中、額に冷たい汗が滲む。ゆっくりと、ゆっくりと、呼吸を止めた状態で背後の気配に向け、視線と身体を振り向かせた、まさにその一瞬。
「ッ!?」
驚くほど近くにニヤけた男の顔が見えたと同時に、頭部に強い衝撃を受けたファイはその場に崩れ落ち、意識を失った。
*
頭部の右側面がズキズキと痛んで、ファイは息苦しさに呻きながらゆっくりと目を開けた。
視界が酷くぼやけているが、見慣れた準備津の床や、机と椅子の足が見える。
激しい眩暈に駆られながらも、ファイはゆっくりと視線を彷徨わせた。そして次の瞬間、目の前の光景を見て石のように固まった。
ふ、ふ、ふ、と忙しなく息を吐き出し、顔中に汗をかいた男が、膝立ちになって自らの股間に手をやっている。脂っぽい黒髪が水揚げしたばかりのワカメのように頬に張り付き、その目元を隠しているせいで表情は見えない。
一瞬なにをしているのか分からず、頭が真っ白になりながらも、ファイはその異様な光景から目を逸らすことができなかった。
青いツナギの前を完全に下まで開ききって、毛だらけの出っ張った腹を覗かせている男は、両手で性器を握りしめていた。
だが、素手ではない。
「ッ……?!」
洗ったばかりの予備の白衣が、くしゃくしゃの姿で男の手の中にある。彼はそれを使って自慰を行っているのだ。
瞬間的に込み上げてきたのは凍えるような寒気と激しい嘔吐感だった。それなのに、胃の中のものをぶちまけるどころか、咳き込むことすらできなかった。
なぜなら、タオルのような布が口の中に押し込められているからだ。いわゆる、猿轡というものだろうか。それがぎっちりと、奥歯まで噛まされている。
目を見開き、ただ呻くことしか出来ないファイを見て、男は『にたぁ』と粉のふきまくった口元で笑った。
「おはよう、ファイせんせぇ」
声を聞いただけでもゾワリとした感覚が身体を這いずって、ファイはその場から逃れようとした。が、動けない。それは身体が竦んで動けないのとは、まるで違う理由からだった。
見れば胸のすぐ下辺りに縄が何重にもきつく巻かれており、しかも両腕は身体の後ろで一纏めにされていた。ファイの背後には、鉄製の突っ張り棚が設置されている。縄はその骨組みの一つに括りつけられているようだった。
さらにご丁寧に、両足首まで二本揃えてしっかり縛られている。
「ぜんぜん起きないから……ぼく、我慢、できなくて……」
「ッ……!!」
「ずっと、ふたりきりになれるの……まってたんだぁ……」
どれくらいの時間気絶していたのかは知らないが、少なくとももう職員は一人も残っていないだろう。叫ぼうにもまともに声も出せないし、出せたところで一階まで届くかどうか。
絶望的な感情と悔しさがない交ぜになって、ファイは真っ青になりながらも男を睨みつけた。
しかし彼は再び猿のように自慰行為に耽り出す。あの腹の立つ呼吸を繰り返し、時折「ぁ、ぁ、ぁ」と不快な喘ぎ声を上げていた。
「も、ちょっと……ぁ、で、でる、でる、でるぅ……!!」
なんとも言えない声で呻きながら、男は腰をビクビクさせると白衣の中で性器を爆発させているようだった。
ファイはきつく目を閉じると、咄嗟に顔を背ける。
(いやだ……! なんなんだよこいつ……!!)
生理的な嫌悪感が湯水のように噴き上げて、ファイの精神を蝕んでいく。
それでも男の変態的な行為はまだ序章に過ぎなかった。
「い、いっばい、出た……ね、ほら?」
「ッ!? ううぅっ!? ウッ、んぅー!!」
「ねぇほら、せんせぇ見て、ねぇ」
「!?」
ねっとりと、黄ばんだ精液が大量に付着した白衣を近づけられる。身を遠ざけようと暴れれば棚がガタガタと鳴り、手首の縄が擦れて激痛が走った。
男は容赦なく濡れた白衣をファイの顔に擦りつけて、頬や金の髪を汚した。
「ッ――!!!」
凄まじい悪臭に鼻が曲がりそうになる。
汚れた白衣が離れて行ったかと思うと、太いばかりで短い指がさらに塗り込むように頬や首筋、耳の裏側を撫でた。
吐き気にえづくことしかできない顎を掴まれて、必死で背けていた顔を上向かされる。
「ぅ……うぅ……」
汗ばんだ髪の隙間からチラリと覗く目は、糸のように細い一重瞼だった。その瞳がどろりと濁って、出来そこないの人形のように輝きがない。
荒れた唇から吐き出される息が肌に触れるのさえ苦痛で、ファイはぎゅっと目を閉じる。生理的な涙がじんわりと目頭に溜まった。
それを見て、男は「きれいだなぁ」と子供のように無邪気に言った。
「せんせぇは、髪も、は、肌も、全部キレイ」
「~~~ッ!!」
「い、いい匂い……」
男が顔を近づけて、自分の精液を塗りつけたファイの頬に頬ずりをした。ぞぞぞ、と全身に毛虫が這う様な強烈な不快感に、気が遠くなる。
ギリギリで意識を保ちながら震えるだけのファイを置き去りにして、男は自分の世界の中でご満悦だった。
だが、すぐに何かに気がついたように「でも」と呟く。
「これ、邪魔だよね……?」
「ぅ、う……?」
「あの男……あのでっかいの、せんせぇの髪、引っ張る、でしょ?」
「!」
こいつが言っている『でっかいの』とは、十中八九黒鋼のことだ。
引っ張る、という単語から咄嗟に甦るのは、職員室でされた不意打ちのキスだった。
すぐに思いだすことが出来たのは、後にも先にも彼がこの尻尾のように長い髪を引っ張ったのは、あの一回きりだったからだ。
この男は、あれをどこからか盗み見していたのか。初めて会話をしたあの夜のことといい、今回のことといい、まるで音もなく忍び寄る蛇のようだ。
なおのこと、気味の悪さに拍車がかかる。
「せ、せんせぇにヒドイことするやつ、ぼく、ゆるさないから」
自分のことはすっかり棚に上げているらしい男は顔を上げると、ファイの後ろ首に手を伸ばした。
指先で一つに纏まった長い髪を前へ持ってくる。何をするつもりなのかと、嫌な予感に瞬きも出来ず、ファイは彼の動きを凝視した。
そこに、鈍く光る刃物が姿を現した。ちょうど男の影になっていて見えなかったが、彼は背後に手を伸ばすとそれを掴み上げたのだ。
鎌の取手の先端には、赤黒いものが付着している。
おそらくこれで先刻ファイを殴って気絶させたのだろう。先端の汚れは、その時に頭部が傷つき、付着した自分の血だ。焼けるように痛む頭部の感覚を思えば、確かに血が出ていてもおかしくない。
ぎゅっと身を竦ませたファイの頬に、冷たい刃がペタペタと触れる。男はねっとりとした高い声で「もう大丈夫だからね」と言った。
「んうぅ……ッ!?」
その瞬間、髪をぐっと乱暴に掴まれて頭が傾いた。髪に刃を当てられる感触と、ブチブチという音、そして痛みが走る。どれほど呻いても、男はファイの髪を離さない。ノコギリを扱うように鎌を使い、切るというよりは傷つけて引き千切るといった方が正しい乱雑さだった。
ぱらぱらと、不規則な長さの金糸が床に散らばっていく。
それを横目に見ながら、ファイは心を抉られるような痛みを覚えていた。
別に、これが似合うと思って伸ばしていたわけじゃない。そろそろ切らないとな、なんて考えているうちに面倒臭くなってきて、そのうち肩を過ぎてしまったからゴムで縛っていただけだ。
それなのに、黒鋼はこの長い髪を「悪くない」と言った。幾度も指を通し、そっと撫でて、時には優しく唇を落とした。
(ああ……バカだな、オレは)
あんなにも慈しむような優しい仕草から、どうして目を背けていたのだろう。
昔の仕返しだなんて、そんな子供じみた思考に頑なに囚われ続けていたんだろう。
「これで、もう大丈夫だよ……せんせいは、こっちの方がいいよ。ほら、すっごく可愛くなった、よ」
嬉しいでしょ、と言いながら、男はファイの項にかかる髪に手を這わせ、ぐりぐりと撫で上げるとそのまま猿轡を解いた。
口の中の異物が消えて、ファイは激しく咳き込んだ。その拍子に口の端を伝った唾液を黒い指先がすくい上げ、そのまま味わうように自らの指をしゃぶって見せる。
もうゾッとする気力もなかった。ただ、憎悪だけは胸の内に沸々と蓄積されている。
「オレを……どうする気……?」
低い声で問うと、男は鎌をチラつかせながら笑う。
「せんせぇが悪いんだ」
「どういう意味……?」
「ずっと見てたのに……あ、あんな男、部屋に入れて、ま、毎日、な、何、してたの……?」
ああ、やはりこいつはどこからか見ていたのか。
「い、いやらしいこと、してたんでしょ? あ、あいつ、そういう目、してた」
「……一緒にするなよ」
「な、に……?」
「あの子をおまえと一緒にするなって言ったの!!」
激しい怒りをそのまま声に乗せると、男はビクンと怯えたように肩を震わせた。
自身がどんなに暴力を振るわれ、汚されようとも、それ以上に黒鋼を侮辱されることは絶対に許せなかった。
ましてやこんな卑怯で中身の腐りきった変態野郎に蔑まれるなど、以ての外だ。
「な、なんで……? せんせぇ、なんで……あんなやつのこと……」
怒鳴られたことがよほどショックだったのか、男は顔を真っ青にして頭をガリガリと掻き毟りながら呼吸を荒げはじめた。
「なんで! なんでだ! なんでだよおぉ!!」
繰り返しそう叫びながら、忙しなく全身を揺らしている男の異常な姿を、ファイはただ息を殺して凝視することしか出来なかった。
黒い前髪に隠れていた目が、ギロリとこちらを捉える。濁っていたはずのそれは血走り、明らかに憎悪を募らせた視線にゾッとして肩をビクつかせた瞬間、左頬に凄まじい衝撃が走った。
「ッ!!」
口の中に鉄の味が広がり、殴られたのだと理解した。
頬に焼け石を押しつけられたような強烈な熱がじわりと広がる。耳鳴りと、酷い眩暈を覚えながら目の前が赤と黒の点滅を繰り返す。
男は鎌を持った右の拳を大きく震わせていた。この柄の先端を思い切り叩きつけてきたのか。
霞んでいく意識の中で、切りつけられなかっただけマシだったのかな、なんてぼんやり思う。
それでもきっと、次に機嫌を損なわせれば確実に殺される気がした。ファイが死を意識する中、男は両肩をガックリと落とした。
「せ、せんせぇ、あいつにそそのかされたんだよね……? だってぼくのせんせぇは、今みたいなこと、絶対、言わないんだから……」
だって先生は優しいからと、勝手なことをほざきながら笑う男は鎌を握りしめる拳にぐっと力を込めた。
←戻る ・ 次へ→
「だいたいこんなもんかなー」
翌朝金曜日、登校してすぐに化学室と隣接する準備室へ向かったファイは、机の下の床にパンパンに中身の詰まった旅行バッグを置いた。
その横には青い寝袋もグルグル巻きにして並べてある。
「よーし準備オッケー」
ふぅ、と息をついてデスクチェアを引き寄せると、だるさの残る下半身を刺激しないようにそっと腰掛ける。
そして改めて運び入れた足元の荷物に視線を落とすと、深く息をつく。
旅行バッグに入っているのは、着替えやちょっとした日用品の数々だ。寝袋はもちろん、ここで睡眠を取るためのアイテムで、大学の方へわざわざ足を運んで登山部から借り受けた。
学校に教育実習生がやってきて、今日でちょうど2週間。
早い者は今日が最終日だが、長い者はあと一週間残っている。
黒鋼は後者に当てはまるわけで、ファイは残りの日数をこの準備室で生活することに決めた。
彼は禁を破ったわけではないけれど。
むしろまるで忠犬のように言いつけを守り、ファイが「よし」と言うのを待っていた。許可した結果、昨夜は思い出すだけでむせ返りそうになるほど濃厚な一夜を過ごすことになった。
(思い出すと……頭パーンってなっちゃうかも……)
だから他のことに気をやろうとしても、一度向けてしまった意識は接着剤でねっぱしたように脳裏から離れない。
恥ずかしい自分の声だとか、優しく労わる黒鋼の低い声だとか。
『はっ、あぁ……ッ、ん、ぃ、痛……ぁ、い、ぃ……中、いい……』
『まだ辛いか……?』
『んッ、ぅん、つら、けど……いい……なか、いっぱいで、熱、い……』
『動いても』
『いい、いいから……アッ、ゆっくり……優しく、して……』
気が遠くなるほどの時間をかけて慣らし、受け入れた恐ろしいまでの熱は、一度目とは比べ物にならいくらいファイの中に馴染んだ。
自分の意思で受け入れるのと無理やり奪われるのとでは、やはり感覚がまるで違うのか。
痛みや辛さも快楽の前にはただひれ伏すばかりで、黒鋼の努力もあってかファイは存分に痴態をふるった。
こちらの呼吸のペースに合わせて浅く腰をゆり動かすのに合わせて、ファイもまた犬のように腰を振ったのを覚えている。
そうして最後の最後で。
『 』
耳元で、何か囁かれたような気がする。
それは飛び上がって歓喜してしまいそうな言葉だった気がするのに、混濁した意識に呑み込まれていたファイには記憶がない。
ただ、信じられないほどの幸福の中で絶頂を迎えたことだけは、覚えている。
そこまで思い出して、ファイは火を噴きそうになる顔を両手で押さえた。心臓がうるさいくらい小刻みに跳ねて、息が苦しくて堪らない。
「もう……これじゃあまるで……」
恋をしているみたいだ。
黒鋼のことはもちろん好きだった。結局なにをされたとしても、ファイは彼を憎むことなんて出来ない。
向こうにどう思われていたとしても子供の頃の彼を可愛がっていたのは事実で、今でも大切な思い出だ。何より、当時のことを自分の中で否定するのは嫌だった。
昨夜のファイは明らかに彼を巡って嫉妬していたし、求められたことも嬉しかった。まるで選ばれたみたいな優越感もあった。
けれど昨日は……そう、きっと色々と疲れが溜っていて、ちょっとおかしくなっていただけなのだと。
(だって……どうせ仕返しの延長なんだし……)
黒鋼はそれを頑なに否定するが、彼に拒まれた記憶はあれど、好かれた記憶のないファイにしてみれば、一度根付いた思考をそう簡単に覆すことは難しい。
どうせあと一週間で実習が終わればいなくなる人間なのだし、それ以降は会う理由なんてなくなるのだし。
ただ、このまま一緒にいれば厄介なことになりそうだという危機感だけはあって、ファイは逃げるようにして化学準備室を寝床にすることに決めたのだった。
(まさかあの黒たんと、身体だけの関係を結ぶことになるなんてなぁ……)
身体だけ、という言葉に感じた胸の痛みに気づかない振りをするように、足元のバッグに手を伸ばす。中を漁って取り出したのは小型の電気ケトルとマグカップ、そして極力ゴミを出さないようにと適当に購入した顆粒タイプの紅茶缶だ。
職員朝礼まではまだ時間もあるし、温かいものでも飲んで気持ちを切り替えようと思った。
「あ、スプーン忘れちゃった」
どこかになかったろうかと、机の下に収まるキャビネットを上から順に開けていく。
一段目を開け、中身の荒れ様から目を背けると、そっと閉じる。二段目も、開けただけですぐに閉じた。どちらも書類やら筆記用具やら、あらゆる物が溢れていて何がなんだか分からない状態だった。
片付けないとなぁ、なんて少しゲンナリしながら三段目に手をかけ、引き出そうとしたがそこは鍵がかかっており、びくともしない。
「あちゃー、鍵どこにやっちゃったっけかなー……」
持ち歩けば失くしてしまうだろうと、どこかに仕舞ったような気がしないでもないのだが、どうも記憶が曖昧だった。
そうしているうちに面倒になってしまったファイは、まぁいいやと思い出す作業を放棄する。
別にスプーンに拘らずともここにはあらゆる実験器具があり、紅茶をかき混ぜるくらいなら撹拌棒を使えばそれで済む。
そのうちゆっくり片付けがてら探せばいいだろうと、とりあえず水を汲むべくケトルを手に隣の化学室へ向かった。
続々と登校する生徒達の声はこの場所からは酷く遠くて、カーテンが閉め切られたままの薄暗い教室にはリノリウムを叩くファイの靴音だけが鈍く響き渡る。
窓際に面した水汲みスペースで一気に蛇口を捻ると、ケトルのメモリいっぱいまで水を注ぎ、再び蛇口を捻った。
そのときだった。
ガン、という何かがぶつかるような音を聞いた気がして、ファイは咄嗟に顔を上げた。
身を強張らせながら辺りを見回し、人の姿がないことを確認する。
6人掛けの大机と椅子、黒板に教壇。恐る恐るそれらの下を覗きこんで、無人であることを確かめた。
準備室の方へもゆっくりと向かい、そこにも人気がないことを確認するとホッと息をつく。
「気のせい気のせい」
昨日のことがあったせいか、神経質になっているだけかもしれない。
そういえば、今朝はまだロッカーを開けていないことに気付く。
机の上にセットしたケトルのスイッチを入れてから、ファイは背後のロッカーに目を向けた。
あの中には元々たいした貴重品も入れていないし、白衣はもう予備が利かないので、昨日持ち帰って洗濯したものがバッグに入っている。だから今は開ける用事はないのだが。
ファイは少し緊張した面持ちでロッカーへとゆっくり足を進めた。取っ手に手をかけて、喉を鳴らすと一気に開く。
中には……これといって何もない。
またおかしなメモ書きがあったりしたらどうしようかと多少は不安だったが、あれ以上のことは何もないらしい。
本当に誰があんな悪質な真似をしたかは知らないが、何か文句があるなら堂々と姿を見せてくれた方がいっそスッキリするというものだ。
(それが出来ないから、こそこそ嫌がらせするんだろうけど)
見えない相手というのはなんとも不気味ではあるが、か弱い女性でもあるまいし、ビクビクしながら過ごすのは嫌だった。
これ以上ふざけた真似をしてナメてかかってくる相手がいるなら、容赦するつもりはない。そのくらいの気性の荒さは持ち合わせている。
それにこの場所は自分にとって小さな砦だし、一人きりになれる空間が他に思い当たらなかった。
しかもここなら多少は朝ものんびり寝ていられるな、という物臭らしい思惑もある。
親元を離れている生徒も多いため食堂は朝から開いているし、シャワーだって運動部で使用しているものをいつでも借りることができる。
様々な条件があまりにも魅力的だった。
「……わっ! もうこんな時間?」
ロッカーの扉を閉じつつ、ふと目をやった先にあった時計を見て、ファイは額を押さえると「あーぁ」という声を漏らした。
紅茶を飲むくらいの時間はあったはずだが、妙なラップ音のせいで配分が狂ってしまった。
ちょうど湯も沸いたが、仕方なくバッグから白衣を取りだすと袖を通し、慌てて準備室を飛び出した。
ファイの足音が消え去り、しんと静まり返った無人の準備室。
完全には閉じられていなかったロッカーがキィ、と音を立てて開かれる。
その扉の内側に設置されている鏡に、くっきりと白い手形が張り付いていたことに、中身ばかりを気にしていたファイが気付くことはなかった。
『 い つ も み て る よ 』
*
その夜。
ほぼ無人の校舎は恐ろしいまでに静まりかえっていた。
暗く長い廊下にはファイの足音だけが木霊し、一階にいる警備員が貸してくれた懐中電灯の明かりが丸く足元を照らしている。
「わー、結構不気味ー」
そんなこと言いつつも、夜の学校は少しワクワクする。
懐中電灯を貸してくれた警備員は古株で、すっかり顔馴染みの人間だった。
適当な理由をつけて学校に泊まり込む旨を伝えた時、どうせだからとファイはこの三階の南校舎だけ見回りを買って出た。
見回りといっても全ての教室は鍵がかかっているし、それを確認しながら一つ一つ小窓から内部を照らして見るだけの簡単な作業だった。
「よーし終了ー」
化学室はこの階の東側、一番端にある。そこからスタートして、ちょうど西側の突き当たりでファイは足を止めた。あとは準備室に戻って明日の支度をしてしまおうと、元来た廊下を引き返す。
夕食は別に食べても食べなくてもいいし、やることを全て終えて一息ついたら、シャワーを浴びに行こう。
そんなことをぼんやりと考えながら、廊下の中腹で歩みを止める。
「……?」
(まただ……こんな時に……)
このフロアに誰もいないということは、今の今まで見回りをしていた自分が一番よく知っていた。
それなのに、何者かの視線が痛いほど背後から皮膚に突き刺さるような気がした。
咄嗟に振り向きかけて、やめた。
(髪の長い女の霊とかが這いずってたら……どうしようかな……)
ちょっと見てみたい気もするにはするが、まずはとにかく早く戻ろうと再び歩きはじめる。
カツ、カツ、カツ。
(カツ、カツ、カツ、カツ)
カツ、カツ。
(カツ、カツ、カツ)
「…………」
再び足を止めたファイは、ゾクリとして息を飲んだ。
(足音が、多い……)
そう、ファイの足音にかぶせるようにして、一つ多く音が鳴ることに気がついてしまった。
気のせいにするためには、まずは安全な場所で息をつくことが必要だった。渦中の中にあっては嫌なリアリティしか生まれない。
真冬のような寒さを背筋に覚えつつ、ファイは小走りで東側の突き当りの準備室を目指す。
するとやっぱり、謎の足音も同じ速度でついて来る。
(これ、本気でヤバイかも……!)
背中から追い上げられる恐怖に足が縺れそうになるのを感じながら、息をするのも忘れて廊下を走り抜け、そして準備室の引き戸に手をかけた。
その瞬間、何者かによってその手首を掴まれたファイは声なき悲鳴を上げた。ガン、と懐中電灯が床に落ちる。
「――ッ!?」
「おい! 俺だ!」
「……ぇ、く、黒様……?」
落ちてしまった懐中電灯は双方の膝下程度までしか照らさず、相手の顔がはっきりと見えるわけではない。
だが、この二週間ほどですっかり耳に馴染んだ低音を、聞き間違えるはずはなかった。
「なんだ、血相変えて」
「ぅ……」
込み上げる安堵に反して、ファイは相手の腕を振り払うと「バカ!」と大声で怒鳴りつけた。
*
「落ち着いたか?」
椅子に腰かけ、ケトルで沸かした湯で淹れた紅茶で一息ついたファイに、黒鋼の呆れた視線が突き刺さった。彼は薬品棚に背中を預け、腕を組んでこちらを見下ろしている。
ちなみに黒鋼の分は未使用のビーカーを使おうと思ったが、謹んでお断りされた。
「落ち着くも何も! 後を付け回すようなことしといてよく言うよ!」
「あ? 付け回すって……何のことだ?」
「知らばっくれちゃって……はぁ、夢に出てきそう……」
「…………」
顔を顰める黒鋼を無視して、ファイは「それより」と先を続けた。
「なんで黒様がここに?」
「いつまで経っても戻らねぇから、迎えに来た」
「……わざわざ?」
「わざわざ」
過保護すぎやしないかと思いつつ、そういえば黒鋼には部屋を出る旨を告げずにいたことを思い出す。
だが、彼は机の足元の荷物と寝袋にとっくに気がついていたようで、ジロリと睨まれる。
「……別に、君のせいじゃないよ」
「だったら」
「オレの問題っていうか……なんていうか……」
自分が自分じゃなくなるような気がして、なんて説明で理解してくれるとは思えなかった。
黒鋼は平気な顔をしてファイのことを『俺のオンナだ』などと言い切ったが、言われる方の身としては、それはとてつもなく恐ろしいことだった。
そう言われても仕方がないくらい身体だって作りかえられて、刺激ばかり覚え込まされて、心が置き去りのまま迷子になっている。
こんな風になってまで、ファイは自分が当たり前のように培ってきた男性としての秩序を手放す気にはなれないのだ。
相手が『本気』なら、まだ余地はあったかもしれないが。
「黒たんもさ……もうやめなよ。男の人が好きだって言うなら別に止めはしないけど……オレで遊ぶのは、いい加減にしてほしいなって」
「俺はゲイじゃねぇぞ」
「そうなの……?」
「誰でもいいってわけでもねぇ」
「……ならなおさら、オレを相手にする意味がわからないな。頭固いって言われるかもだけど、やっぱりセックスは好きな人とした方がいい」
諭すように言いながら、どうしてか傷ついている自分がいた。決して間違ったことは言っていないはずだし、距離を置こうという選択が誤っているとも思えない。
(なのにさ……なんだよ、この嫌な気持ち……)
ぶつかり合っていた視線を、先に外したのは黒鋼だった。どこか苛立ったように舌打ちをして、目線だけそっぽを向く。
ファイにはその苛立ちの理由がいまひとつ理解できない。彼は、一体何に拘っているのか。
「俺がおまえを選んでも、おまえが俺を選ばない。そういうことだな」
「黒たんが俺を選ぶ……? どうして? だって君はずっとオレのこと」
「昨日言った」
嫌いだったでしょ、と続くはずだった言葉は、低い声によって即座に遮られた。目を見開くばかりのファイに、黒鋼はなおも言った。
「昨日、言ったぞ。俺は、確かに」
言った、かもしれない。
けれど肝心のその言葉を、ファイは覚えていないのだ。最後の瞬間、確かに聞いたはずなのに。
咄嗟になんと返すべきか迷っていると、黒鋼はその沈黙を自分なりに解釈したらしい。
「わかった。もういい」
「黒たんあのね、オレ」
「部屋には戻れ。俺が出ていく」
待って、と手を伸ばすより先に、黒鋼は足早に準備室を出て行ってしまった。廊下を歩く足音はほとんどせずに、すぐに階段を下りる音が響いては遠のいていく。
――ふと。
黒鋼はこの準備室脇の東階段を使ってここへ来たのではないかと、そんな考えが頭を過る。
ならば彼はファイがここに慌てて駆け込もうとした時、すでにこの部屋の前にいたのではないか?
(じゃあ、後ろから追いかけて来てたのは、彼ではない……?)
一瞬ヒヤリとしたが、なんだかもう全てどうでもいい気がした。今は何も考えたくない。なにもかもが面倒だ。
(なんでオレが悪いことしたみたいな感じになってるんだろ……)
ファイは床を蹴って椅子ごと回転し、机の上に突っ伏した。
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翌朝金曜日、登校してすぐに化学室と隣接する準備室へ向かったファイは、机の下の床にパンパンに中身の詰まった旅行バッグを置いた。
その横には青い寝袋もグルグル巻きにして並べてある。
「よーし準備オッケー」
ふぅ、と息をついてデスクチェアを引き寄せると、だるさの残る下半身を刺激しないようにそっと腰掛ける。
そして改めて運び入れた足元の荷物に視線を落とすと、深く息をつく。
旅行バッグに入っているのは、着替えやちょっとした日用品の数々だ。寝袋はもちろん、ここで睡眠を取るためのアイテムで、大学の方へわざわざ足を運んで登山部から借り受けた。
学校に教育実習生がやってきて、今日でちょうど2週間。
早い者は今日が最終日だが、長い者はあと一週間残っている。
黒鋼は後者に当てはまるわけで、ファイは残りの日数をこの準備室で生活することに決めた。
彼は禁を破ったわけではないけれど。
むしろまるで忠犬のように言いつけを守り、ファイが「よし」と言うのを待っていた。許可した結果、昨夜は思い出すだけでむせ返りそうになるほど濃厚な一夜を過ごすことになった。
(思い出すと……頭パーンってなっちゃうかも……)
だから他のことに気をやろうとしても、一度向けてしまった意識は接着剤でねっぱしたように脳裏から離れない。
恥ずかしい自分の声だとか、優しく労わる黒鋼の低い声だとか。
『はっ、あぁ……ッ、ん、ぃ、痛……ぁ、い、ぃ……中、いい……』
『まだ辛いか……?』
『んッ、ぅん、つら、けど……いい……なか、いっぱいで、熱、い……』
『動いても』
『いい、いいから……アッ、ゆっくり……優しく、して……』
気が遠くなるほどの時間をかけて慣らし、受け入れた恐ろしいまでの熱は、一度目とは比べ物にならいくらいファイの中に馴染んだ。
自分の意思で受け入れるのと無理やり奪われるのとでは、やはり感覚がまるで違うのか。
痛みや辛さも快楽の前にはただひれ伏すばかりで、黒鋼の努力もあってかファイは存分に痴態をふるった。
こちらの呼吸のペースに合わせて浅く腰をゆり動かすのに合わせて、ファイもまた犬のように腰を振ったのを覚えている。
そうして最後の最後で。
『 』
耳元で、何か囁かれたような気がする。
それは飛び上がって歓喜してしまいそうな言葉だった気がするのに、混濁した意識に呑み込まれていたファイには記憶がない。
ただ、信じられないほどの幸福の中で絶頂を迎えたことだけは、覚えている。
そこまで思い出して、ファイは火を噴きそうになる顔を両手で押さえた。心臓がうるさいくらい小刻みに跳ねて、息が苦しくて堪らない。
「もう……これじゃあまるで……」
恋をしているみたいだ。
黒鋼のことはもちろん好きだった。結局なにをされたとしても、ファイは彼を憎むことなんて出来ない。
向こうにどう思われていたとしても子供の頃の彼を可愛がっていたのは事実で、今でも大切な思い出だ。何より、当時のことを自分の中で否定するのは嫌だった。
昨夜のファイは明らかに彼を巡って嫉妬していたし、求められたことも嬉しかった。まるで選ばれたみたいな優越感もあった。
けれど昨日は……そう、きっと色々と疲れが溜っていて、ちょっとおかしくなっていただけなのだと。
(だって……どうせ仕返しの延長なんだし……)
黒鋼はそれを頑なに否定するが、彼に拒まれた記憶はあれど、好かれた記憶のないファイにしてみれば、一度根付いた思考をそう簡単に覆すことは難しい。
どうせあと一週間で実習が終わればいなくなる人間なのだし、それ以降は会う理由なんてなくなるのだし。
ただ、このまま一緒にいれば厄介なことになりそうだという危機感だけはあって、ファイは逃げるようにして化学準備室を寝床にすることに決めたのだった。
(まさかあの黒たんと、身体だけの関係を結ぶことになるなんてなぁ……)
身体だけ、という言葉に感じた胸の痛みに気づかない振りをするように、足元のバッグに手を伸ばす。中を漁って取り出したのは小型の電気ケトルとマグカップ、そして極力ゴミを出さないようにと適当に購入した顆粒タイプの紅茶缶だ。
職員朝礼まではまだ時間もあるし、温かいものでも飲んで気持ちを切り替えようと思った。
「あ、スプーン忘れちゃった」
どこかになかったろうかと、机の下に収まるキャビネットを上から順に開けていく。
一段目を開け、中身の荒れ様から目を背けると、そっと閉じる。二段目も、開けただけですぐに閉じた。どちらも書類やら筆記用具やら、あらゆる物が溢れていて何がなんだか分からない状態だった。
片付けないとなぁ、なんて少しゲンナリしながら三段目に手をかけ、引き出そうとしたがそこは鍵がかかっており、びくともしない。
「あちゃー、鍵どこにやっちゃったっけかなー……」
持ち歩けば失くしてしまうだろうと、どこかに仕舞ったような気がしないでもないのだが、どうも記憶が曖昧だった。
そうしているうちに面倒になってしまったファイは、まぁいいやと思い出す作業を放棄する。
別にスプーンに拘らずともここにはあらゆる実験器具があり、紅茶をかき混ぜるくらいなら撹拌棒を使えばそれで済む。
そのうちゆっくり片付けがてら探せばいいだろうと、とりあえず水を汲むべくケトルを手に隣の化学室へ向かった。
続々と登校する生徒達の声はこの場所からは酷く遠くて、カーテンが閉め切られたままの薄暗い教室にはリノリウムを叩くファイの靴音だけが鈍く響き渡る。
窓際に面した水汲みスペースで一気に蛇口を捻ると、ケトルのメモリいっぱいまで水を注ぎ、再び蛇口を捻った。
そのときだった。
ガン、という何かがぶつかるような音を聞いた気がして、ファイは咄嗟に顔を上げた。
身を強張らせながら辺りを見回し、人の姿がないことを確認する。
6人掛けの大机と椅子、黒板に教壇。恐る恐るそれらの下を覗きこんで、無人であることを確かめた。
準備室の方へもゆっくりと向かい、そこにも人気がないことを確認するとホッと息をつく。
「気のせい気のせい」
昨日のことがあったせいか、神経質になっているだけかもしれない。
そういえば、今朝はまだロッカーを開けていないことに気付く。
机の上にセットしたケトルのスイッチを入れてから、ファイは背後のロッカーに目を向けた。
あの中には元々たいした貴重品も入れていないし、白衣はもう予備が利かないので、昨日持ち帰って洗濯したものがバッグに入っている。だから今は開ける用事はないのだが。
ファイは少し緊張した面持ちでロッカーへとゆっくり足を進めた。取っ手に手をかけて、喉を鳴らすと一気に開く。
中には……これといって何もない。
またおかしなメモ書きがあったりしたらどうしようかと多少は不安だったが、あれ以上のことは何もないらしい。
本当に誰があんな悪質な真似をしたかは知らないが、何か文句があるなら堂々と姿を見せてくれた方がいっそスッキリするというものだ。
(それが出来ないから、こそこそ嫌がらせするんだろうけど)
見えない相手というのはなんとも不気味ではあるが、か弱い女性でもあるまいし、ビクビクしながら過ごすのは嫌だった。
これ以上ふざけた真似をしてナメてかかってくる相手がいるなら、容赦するつもりはない。そのくらいの気性の荒さは持ち合わせている。
それにこの場所は自分にとって小さな砦だし、一人きりになれる空間が他に思い当たらなかった。
しかもここなら多少は朝ものんびり寝ていられるな、という物臭らしい思惑もある。
親元を離れている生徒も多いため食堂は朝から開いているし、シャワーだって運動部で使用しているものをいつでも借りることができる。
様々な条件があまりにも魅力的だった。
「……わっ! もうこんな時間?」
ロッカーの扉を閉じつつ、ふと目をやった先にあった時計を見て、ファイは額を押さえると「あーぁ」という声を漏らした。
紅茶を飲むくらいの時間はあったはずだが、妙なラップ音のせいで配分が狂ってしまった。
ちょうど湯も沸いたが、仕方なくバッグから白衣を取りだすと袖を通し、慌てて準備室を飛び出した。
ファイの足音が消え去り、しんと静まり返った無人の準備室。
完全には閉じられていなかったロッカーがキィ、と音を立てて開かれる。
その扉の内側に設置されている鏡に、くっきりと白い手形が張り付いていたことに、中身ばかりを気にしていたファイが気付くことはなかった。
『 い つ も み て る よ 』
*
その夜。
ほぼ無人の校舎は恐ろしいまでに静まりかえっていた。
暗く長い廊下にはファイの足音だけが木霊し、一階にいる警備員が貸してくれた懐中電灯の明かりが丸く足元を照らしている。
「わー、結構不気味ー」
そんなこと言いつつも、夜の学校は少しワクワクする。
懐中電灯を貸してくれた警備員は古株で、すっかり顔馴染みの人間だった。
適当な理由をつけて学校に泊まり込む旨を伝えた時、どうせだからとファイはこの三階の南校舎だけ見回りを買って出た。
見回りといっても全ての教室は鍵がかかっているし、それを確認しながら一つ一つ小窓から内部を照らして見るだけの簡単な作業だった。
「よーし終了ー」
化学室はこの階の東側、一番端にある。そこからスタートして、ちょうど西側の突き当たりでファイは足を止めた。あとは準備室に戻って明日の支度をしてしまおうと、元来た廊下を引き返す。
夕食は別に食べても食べなくてもいいし、やることを全て終えて一息ついたら、シャワーを浴びに行こう。
そんなことをぼんやりと考えながら、廊下の中腹で歩みを止める。
「……?」
(まただ……こんな時に……)
このフロアに誰もいないということは、今の今まで見回りをしていた自分が一番よく知っていた。
それなのに、何者かの視線が痛いほど背後から皮膚に突き刺さるような気がした。
咄嗟に振り向きかけて、やめた。
(髪の長い女の霊とかが這いずってたら……どうしようかな……)
ちょっと見てみたい気もするにはするが、まずはとにかく早く戻ろうと再び歩きはじめる。
カツ、カツ、カツ。
(カツ、カツ、カツ、カツ)
カツ、カツ。
(カツ、カツ、カツ)
「…………」
再び足を止めたファイは、ゾクリとして息を飲んだ。
(足音が、多い……)
そう、ファイの足音にかぶせるようにして、一つ多く音が鳴ることに気がついてしまった。
気のせいにするためには、まずは安全な場所で息をつくことが必要だった。渦中の中にあっては嫌なリアリティしか生まれない。
真冬のような寒さを背筋に覚えつつ、ファイは小走りで東側の突き当りの準備室を目指す。
するとやっぱり、謎の足音も同じ速度でついて来る。
(これ、本気でヤバイかも……!)
背中から追い上げられる恐怖に足が縺れそうになるのを感じながら、息をするのも忘れて廊下を走り抜け、そして準備室の引き戸に手をかけた。
その瞬間、何者かによってその手首を掴まれたファイは声なき悲鳴を上げた。ガン、と懐中電灯が床に落ちる。
「――ッ!?」
「おい! 俺だ!」
「……ぇ、く、黒様……?」
落ちてしまった懐中電灯は双方の膝下程度までしか照らさず、相手の顔がはっきりと見えるわけではない。
だが、この二週間ほどですっかり耳に馴染んだ低音を、聞き間違えるはずはなかった。
「なんだ、血相変えて」
「ぅ……」
込み上げる安堵に反して、ファイは相手の腕を振り払うと「バカ!」と大声で怒鳴りつけた。
*
「落ち着いたか?」
椅子に腰かけ、ケトルで沸かした湯で淹れた紅茶で一息ついたファイに、黒鋼の呆れた視線が突き刺さった。彼は薬品棚に背中を預け、腕を組んでこちらを見下ろしている。
ちなみに黒鋼の分は未使用のビーカーを使おうと思ったが、謹んでお断りされた。
「落ち着くも何も! 後を付け回すようなことしといてよく言うよ!」
「あ? 付け回すって……何のことだ?」
「知らばっくれちゃって……はぁ、夢に出てきそう……」
「…………」
顔を顰める黒鋼を無視して、ファイは「それより」と先を続けた。
「なんで黒様がここに?」
「いつまで経っても戻らねぇから、迎えに来た」
「……わざわざ?」
「わざわざ」
過保護すぎやしないかと思いつつ、そういえば黒鋼には部屋を出る旨を告げずにいたことを思い出す。
だが、彼は机の足元の荷物と寝袋にとっくに気がついていたようで、ジロリと睨まれる。
「……別に、君のせいじゃないよ」
「だったら」
「オレの問題っていうか……なんていうか……」
自分が自分じゃなくなるような気がして、なんて説明で理解してくれるとは思えなかった。
黒鋼は平気な顔をしてファイのことを『俺のオンナだ』などと言い切ったが、言われる方の身としては、それはとてつもなく恐ろしいことだった。
そう言われても仕方がないくらい身体だって作りかえられて、刺激ばかり覚え込まされて、心が置き去りのまま迷子になっている。
こんな風になってまで、ファイは自分が当たり前のように培ってきた男性としての秩序を手放す気にはなれないのだ。
相手が『本気』なら、まだ余地はあったかもしれないが。
「黒たんもさ……もうやめなよ。男の人が好きだって言うなら別に止めはしないけど……オレで遊ぶのは、いい加減にしてほしいなって」
「俺はゲイじゃねぇぞ」
「そうなの……?」
「誰でもいいってわけでもねぇ」
「……ならなおさら、オレを相手にする意味がわからないな。頭固いって言われるかもだけど、やっぱりセックスは好きな人とした方がいい」
諭すように言いながら、どうしてか傷ついている自分がいた。決して間違ったことは言っていないはずだし、距離を置こうという選択が誤っているとも思えない。
(なのにさ……なんだよ、この嫌な気持ち……)
ぶつかり合っていた視線を、先に外したのは黒鋼だった。どこか苛立ったように舌打ちをして、目線だけそっぽを向く。
ファイにはその苛立ちの理由がいまひとつ理解できない。彼は、一体何に拘っているのか。
「俺がおまえを選んでも、おまえが俺を選ばない。そういうことだな」
「黒たんが俺を選ぶ……? どうして? だって君はずっとオレのこと」
「昨日言った」
嫌いだったでしょ、と続くはずだった言葉は、低い声によって即座に遮られた。目を見開くばかりのファイに、黒鋼はなおも言った。
「昨日、言ったぞ。俺は、確かに」
言った、かもしれない。
けれど肝心のその言葉を、ファイは覚えていないのだ。最後の瞬間、確かに聞いたはずなのに。
咄嗟になんと返すべきか迷っていると、黒鋼はその沈黙を自分なりに解釈したらしい。
「わかった。もういい」
「黒たんあのね、オレ」
「部屋には戻れ。俺が出ていく」
待って、と手を伸ばすより先に、黒鋼は足早に準備室を出て行ってしまった。廊下を歩く足音はほとんどせずに、すぐに階段を下りる音が響いては遠のいていく。
――ふと。
黒鋼はこの準備室脇の東階段を使ってここへ来たのではないかと、そんな考えが頭を過る。
ならば彼はファイがここに慌てて駆け込もうとした時、すでにこの部屋の前にいたのではないか?
(じゃあ、後ろから追いかけて来てたのは、彼ではない……?)
一瞬ヒヤリとしたが、なんだかもう全てどうでもいい気がした。今は何も考えたくない。なにもかもが面倒だ。
(なんでオレが悪いことしたみたいな感じになってるんだろ……)
ファイは床を蹴って椅子ごと回転し、机の上に突っ伏した。
←戻る ・ 次へ→
その後、何がなんだか分からないうちに身体にかかる負担と、出しっぱなしだったシャワーにのぼせ上ったファイは高熱を出して倒れた。
思いっきり中に出されてしまったような気もするが、ベッドで目を覚ましたときにはどこもかしこもすっかり綺麗になっていたので、黒鋼がちゃんと処理してくれたのだと分かる。
それはそれで、かなり恥ずかしいが……。
黒鋼は「悪い、暴走した」と言って頭を下げ、甲斐甲斐しく一晩ファイの看病をしたが、それも空しく熱は下がらなかった。
そんな彼には今後、一度でも触れれば実習が終わるまで自分が部屋を出ていくという宣言のもと『お触り禁止令』を出した。(ここでもなぜか出ていけとまでは言えなかった)
そして情けなかったのはその翌日、熱が下がらないままへっぴり腰で授業を行う羽目になったことだ。
休むという選択肢が浮かばないこともなかったが、どこの世界にオカマ掘られて熱が出たので仕事ができません、などという社会人がいるのかと考えたとき、ファイは意地でも休んでたまるかと思った。
*
それから数日が経過した。
「あの人――きも――て来てさー」
「ほん――なん――かな?」
「気持ち――悪――よねー!」
「ねー!」
「ファイせんせー。ねー、聞いてるー?」
「うーん……聞いてるよー……ほんと困ったねー」
「……聞いてないよねこれ」
昼休み。
昼食をとる気になれずに中庭のベンチでぼんやりしていたファイの元に、弁当を片手に数人の女子生徒が集まってきていた。
「ファイ先生どうしたの? なんか最近ずっとこんな調子じゃない?」
「……え? なになに? なんの話?」
ようやく囲まれていることに気がついたファイに、女子生徒達は目を丸くしている。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してたよー」
「もー! ぜんぜん聞いてなかったんですかー?」
「えへへごめーん」
照れ笑いを浮かべながら頭をポリポリと掻く。実のところ、今のファイには彼女らにかまけている余裕がなかったのだ。
最近はショッキングな出来事ばかり続いてはいるが(主に黒鋼のせいで)今回はまた少し違った問題が起きていた。
(あれは、一体なんなんだろう……?)
*
それは今朝のことだった。
いつものように登校し、化学準備室で入口脇にある自分のロッカーを開けた。すると一枚の紙切れがヒラリと床に落ちて、ファイは首を傾げた。
咄嗟に拾い上げて見ると、そこには奇妙な文面が赤いペンで書かれていた。
『 い つ も み て る よ 』
一体なんのことかと、それを見てただ首を傾げた。
その時点では「気持ち悪い悪戯をするヤツがいたもんだなぁ」くらいにしか思わず、ロッカーの中の白衣を手に取った時、ファイは思わず息を呑んだ。
白衣が、まるで引き千切ったかのようにボロボロになっていたのだ。
しかも思い切り地面にでも叩きつけて踏みにじったように、土や草まで付着していた。
そこでファイは前々からずっと付きまとっていた、あの嫌な視線について思い出した。手の中にあるメモ紙が、急に重たくなってくる。
ここのところずっと黒鋼のことばかりで忘れていたが、いよいよ気のせいでは済まなくなってきたような気がして、寒気がした。
今は予備の白衣を着ているが、切り刻まれた白衣とメモは、咄嗟に机脇のゴミ箱に放り投げてしまった。
(恨み買うのは黒たんだけで手一杯なんだけどなぁ……)
咄嗟に黒鋼を疑うことをしなかったのは、あまりにも手口が違いすぎるからだ。
少なくとも、彼はこんな陰湿でいやらしい真似をする人間では絶対にないし、文字一つとっても驚くほど美しい字を書く。あのメモは、まるで小学生が書いたような拙さだった。
そんな黒鋼とは、ここ数日は会話らしい会話すらしていないが。
*
「もー! ファイ先生ってば!」
再びぼんやりと思考の海を漂っていたファイだったが、女子生徒の一人が威勢よく「あの用務員の話ですよ!」と叫んだことで我に返った。
「え!? あ、あー……」
そんなことかと思わなくもなかったが、彼女らの気迫に押されて仕方なく耳を傾ける。
「あの人さっき、女子トイレの前をずっとウロウロしてたんですよ!」
「えっとー、廊下の掃除をしててたまたま、とかじゃなく?」
「違いますよ! 掃除用具なんか持ってなかったし! そのせいでアタシ、わざわざ下のトイレまで行く羽目になったのよ! もうちょっとで授業に遅れるところだったんだから!」
「こないだなんて体育の時、草むしりするふりして女子の方ガン見してたよねー?」
全員が声を揃えて「きもーい!」と叫んだ。
凄いシンクロ率だなぁと思いつつ、裏でここまで言われる用務員を少し気の毒に感じる。確かに女性に好感を持たれる風貌とは言い難いかもしれないが……。
ファイは「ダメだよ」と彼女らを窘める。
「決めつけはよくないよー。そんな変な人はこの学園にはいないと思うしねー」
「でもぉ……見た目からして怪しいですよ……」
(まぁ……分からないでもないんだけど……)
ファイが思わず苦笑していると、他の女子が「あ!」と声を上げた。今度は一体なんだと思っていると、彼女は僅かに赤らんだ頬を両手で包んだ。
「見て見て、黒鋼先生発見!」
「え!? どこどこ!? あ、ほんとだー!」
心臓がドキリとして、ファイも咄嗟に彼女らの視線の先を追った。
すると中庭を囲む吹き抜け廊下を、ちょうど黒鋼が担当教官と並んで歩いている様子が見えた。
「黒鋼先生って、最初はちょっと怖そうって思ったけど、実は結構イケメンだよね~」
「そうそう! チャラくないっていうか、硬派な肉食系って感じ!」
「体育の授業の時も、ずっとスーツ着ててくれないかな~」
「それわかる! でもスーツとジャージのギャップもいいんだよねー!!」
「ね~!!」
先ほどまで用務員を相手にゴミでも見るような表情だった彼女たちが、今や完全に年相応の乙女と化している。
代わり身の早さに多少呆れつつ、ファイは吹き抜け廊下から目を逸らした。
(ふぅん……人気あるんだー。意外……)
無口で無愛想だし、ぱっと見はその大きな身体や目つきの鋭さに圧倒されて気付くのが遅れるだけで、彼がえらく整った顔立ちをしているのは確かだ。
草食系だのチャラ男だの、そういった人種が世にはびこる中、黒鋼のような男はまさに女性にとって理想的、なのかもしれない。
実際、彼は相当な肉食系である。というよりケダモノだ。まさに食われてしまったばかりのファイには、ひたすら複雑なものに感じられた。
ただ高校生と大学生なら、まぁお互い難なく守備範囲だろうなとは思う。
やっぱり女の子は目に優しくて可愛いし、彼女たちが黒鋼を気にしているように、彼にだって気になる女子生徒の一人や二人、いたってよさそうだ。
綺麗な女性教師だって、この学園にはゴロゴロいるし……。
(あれ……やだな、この感じ……)
なぜか無性に胸の辺りがムカムカして、面白くない。
あの男が自分にしでかした無体を教えてやったら、彼女らは一体どんな顔をするだろうか。
こちとら朝の一件で滅入っているというのに、なんだかどんどん心が荒んでいくような気がした。
「みんな、黒鋼先生が大好きなんだねー」
ファイは思い切り営業スマイルを作って、女子生徒達に笑いかけると、皆こぞって「えー!」だとか「そんなことないですー!」なんて天の邪鬼なことを言ってはしゃぎ出す。
「じゃあさ、いいこと教えてあげるー」
そう言って、ファイは一人の女子の耳元に唇を近づけた。
*
「お触り厳禁じゃなかったのか?」
必要最低限の会話のみで過ごしたこの数日。黒鋼がファイに触れて来ることは、一切なかった。
「オレが触る分にはいいんだよ」
自分でも、目が据わっているのが分かる。
それぞれ入浴も済ませて、明日の準備も済ませて、いざ寝るだけというところに来て、ファイはベッドで携帯のアラームをチェックしていた黒鋼の手を取り、意識をこちらに向けさせた。
どんな理屈だと呆れる黒鋼を「うるさい」と一蹴する。
「散々弄んだんだから。たまにはオレにも仕返しさせてよ」
「仕返しじゃねぇし、そもそも悦ばせるだけだぜ」
「いいよ。してあげるから、あんあん言ってみて」
「おまえ、何かイラついてねぇか?」
さぁねと適当に返事をして、ファイはベッドの縁に腰掛けている黒鋼の正面に膝をついた。
ジャージのウエスト部分に手をかけて、ぐっとズリ下げると下着の中に手を入れる。萎えていても存在感を主張するそれを引き出して、少しだけ息を飲む。
(こんなのが入ったんだ……オレの中に……)
今更のように驚愕した。これでもまだ萎んだ状態なのだから、フルの状態を思いだすだけで飛び上がって逃げ出したくなる。
ここまできたはいいものの、実際はどうすればいいのか分からなくて、顔を真っ赤にしながらも両手で包みこんだその先端に、音を立てて口付けてみる。竿部分にも何度もキスをして、それからさらに勇気を振り絞って舌を這わせてみた。ぴちゃりという音がすると、黒鋼の腰が僅かに揺らぐ。
たったそれだけで何かを掴めたような気になって、少しずつ大胆に舌を使い、ついには口の中に咥えこんでみる。
ゆっくりと熱く硬くなっていくそれは口内を満たして、奥まで押し込もうとすると苦しくてえづきそうになった。
「こんなような構図、どっかで見たな」
ああ、あったかもしれない。ベッドの縁に腰掛ける黒鋼と、床にペタリと腰を下ろした自分と。幼い腰に腕をまわして、柔らかな腹に顔を埋めて存分にもふもふしたような気がする。
昔はあんなにも簡単に押さえつけることが出来たのに、どこで間違ってこんなことになっているのだろうか。
(初めてちゅうしたのも、あの時だったっけ)
ただ無邪気でいられたあの頃と、今のこの爛れた空気を比べると、まるで異世界にタイムスリップでもしたような気分になる。
そんな不思議な感覚に囚われつつも、熱を持つそれを手で緩く扱きながら、頭を上下に動かし始めた。
苦しさを押し殺し、無理に喉奥まで押し込める度に、涙が出そうになる。
(何してるんだろ、オレ……)
今の自分が正気じゃないのは知っていた。
昼間、女子生徒達と会話した時からずっと苛立ちが納まらない。今朝のあの気味の悪い出来事も、それに拍車をかけている。
これがどこからくる感情なのかも分からないし、考えたくもなかった。ただ、どうしようもなく腹が立っている。
(ホントに触って来ないしさ……)
禁止令を出したのは自分だ。
黒鋼は風呂場での一件を流石に反省しているのか、言いつけ通り一切触れて来なかった。どうせすぐにまた仕掛けてくるだろうと思っていたのに、その予想は外れた。
最後までしてしまったことで、満足して飽きてしまったのだろうか、とか。釣った魚に餌をやらないタイプなのか、とか。別に釣られた覚えなんかないと、自分に対してさらに腹が立ったりもして。
それでも必死でしゃぶり続けていると、黒鋼は小さく鼻で笑って「へたくそ」と言った。
「ううはいあ」
「バカ、咥えたまんま喋んな」
「ッ、うるさいなって言ったのー。しっかり勃ってるくせにー」
「……おまえ、ガキ共に余計なこと言いやがったな?」
濡れた口元を手の甲で子供っぽく拭いながら、ファイはつーんとそっぽを向いた。
「なんのことー?」
「あのアホみてぇな呼び方、一気に広まったぞ」
「うそホント? ぷっ」
「ったく……」
性器を掴んだまま、思いっきり吹き出して笑った。
そう、昼間ファイは彼女たちに彼の子供の頃からの渾名の数々を教えてやったのだ。
黒鋼は心底嫌そうな顔をして舌打ちをしている。その様子に、今の彼の姿に昔の片鱗を見た気がして、急激に気分が浮上するのを感じた。
「黒たんが小さくて可愛かった頃のお話しただけだよー?」
「余計なことすんな」
「今はぜんぜん可愛くないけどねー。でっかくて偉そうだから……そうだ、これからは黒様って呼んであげる」
それは名案だと、肩を揺らしてくすくすと笑っていると、むっつりとした顔のまま黒鋼の手が伸びてきた。
その気配に顔を上げれば、頬に触れかけた手がピタリと止まる。
「……触っても?」
「……いいけど」
目を反らして言うと、大きな手の平が頬を包みこんだ。
(あ……)
たった数日触れられなかっただけで、その温もりがひどく懐かしい。
細められた赤い瞳がどんどん距離を縮める。ファイが片膝で乗り上げると、ベッドが音を立てて軋む。厚みのある両肩にそれぞれ手を置けば、そっと腰を抱き寄せられた。
しばらくの間、互いに何も言わずに見つめ合う。見上げられる形を懐かしく感じながらも、自然と額同士がこつんと触れた。
そしてそのまま、唇が重なる。
さっきガッツリ咥えちゃったんだけどな、と思わなくもなかったが、黒鋼が拒まないなら別にいいかと気にするのはやめた。
口付けは当たり前のように深くなって、お互いの舌を突き出して先端を競うように絡ませる。
黒鋼は舌まで大きくて、競り負けて迎え入れたそれに口蓋を舐められると身体が震えた。
(嬉しい)
純粋にそう感じた。
触れられることが、口付けられることが、安堵に繋がった。
やっぱり今日の自分はどこかおかしい。
「ぁ、ふ……」
「……もう、やめとけ」
「なん……?」
「また止まらなくなる」
それは、これ以上煽るような真似をすれば、あの風呂場での惨事を繰り返しかねない、という忠告だった。
あんな酷い思いはもうしたくない。なのに、欲していることを隠さず口にされれば、嫌な気はしなかった。
「……欲しい?」
問えばムっとした顔をするくせに「当然」と清々しいほどの返答を寄こす。
皮膚がざわつくのと同時に眩暈がして、彼の太い首に両腕を回した。
身体も、頭の中も熱っぽい。熱い湯の中からいきなり立ち上がったみたいな、クラクラとした感覚に身体が揺れる。
胸の中が、砂糖のように甘い何かでいっぱいに溢れそうになっていた。
「痛くしないなら……」
「……自信がねぇ」
「じゃあ、ダメ」
「……努力する」
ファイは彼との再会後初めて、主導権を握ることが出来たような気がして笑った。
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思いっきり中に出されてしまったような気もするが、ベッドで目を覚ましたときにはどこもかしこもすっかり綺麗になっていたので、黒鋼がちゃんと処理してくれたのだと分かる。
それはそれで、かなり恥ずかしいが……。
黒鋼は「悪い、暴走した」と言って頭を下げ、甲斐甲斐しく一晩ファイの看病をしたが、それも空しく熱は下がらなかった。
そんな彼には今後、一度でも触れれば実習が終わるまで自分が部屋を出ていくという宣言のもと『お触り禁止令』を出した。(ここでもなぜか出ていけとまでは言えなかった)
そして情けなかったのはその翌日、熱が下がらないままへっぴり腰で授業を行う羽目になったことだ。
休むという選択肢が浮かばないこともなかったが、どこの世界にオカマ掘られて熱が出たので仕事ができません、などという社会人がいるのかと考えたとき、ファイは意地でも休んでたまるかと思った。
*
それから数日が経過した。
「あの人――きも――て来てさー」
「ほん――なん――かな?」
「気持ち――悪――よねー!」
「ねー!」
「ファイせんせー。ねー、聞いてるー?」
「うーん……聞いてるよー……ほんと困ったねー」
「……聞いてないよねこれ」
昼休み。
昼食をとる気になれずに中庭のベンチでぼんやりしていたファイの元に、弁当を片手に数人の女子生徒が集まってきていた。
「ファイ先生どうしたの? なんか最近ずっとこんな調子じゃない?」
「……え? なになに? なんの話?」
ようやく囲まれていることに気がついたファイに、女子生徒達は目を丸くしている。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してたよー」
「もー! ぜんぜん聞いてなかったんですかー?」
「えへへごめーん」
照れ笑いを浮かべながら頭をポリポリと掻く。実のところ、今のファイには彼女らにかまけている余裕がなかったのだ。
最近はショッキングな出来事ばかり続いてはいるが(主に黒鋼のせいで)今回はまた少し違った問題が起きていた。
(あれは、一体なんなんだろう……?)
*
それは今朝のことだった。
いつものように登校し、化学準備室で入口脇にある自分のロッカーを開けた。すると一枚の紙切れがヒラリと床に落ちて、ファイは首を傾げた。
咄嗟に拾い上げて見ると、そこには奇妙な文面が赤いペンで書かれていた。
『 い つ も み て る よ 』
一体なんのことかと、それを見てただ首を傾げた。
その時点では「気持ち悪い悪戯をするヤツがいたもんだなぁ」くらいにしか思わず、ロッカーの中の白衣を手に取った時、ファイは思わず息を呑んだ。
白衣が、まるで引き千切ったかのようにボロボロになっていたのだ。
しかも思い切り地面にでも叩きつけて踏みにじったように、土や草まで付着していた。
そこでファイは前々からずっと付きまとっていた、あの嫌な視線について思い出した。手の中にあるメモ紙が、急に重たくなってくる。
ここのところずっと黒鋼のことばかりで忘れていたが、いよいよ気のせいでは済まなくなってきたような気がして、寒気がした。
今は予備の白衣を着ているが、切り刻まれた白衣とメモは、咄嗟に机脇のゴミ箱に放り投げてしまった。
(恨み買うのは黒たんだけで手一杯なんだけどなぁ……)
咄嗟に黒鋼を疑うことをしなかったのは、あまりにも手口が違いすぎるからだ。
少なくとも、彼はこんな陰湿でいやらしい真似をする人間では絶対にないし、文字一つとっても驚くほど美しい字を書く。あのメモは、まるで小学生が書いたような拙さだった。
そんな黒鋼とは、ここ数日は会話らしい会話すらしていないが。
*
「もー! ファイ先生ってば!」
再びぼんやりと思考の海を漂っていたファイだったが、女子生徒の一人が威勢よく「あの用務員の話ですよ!」と叫んだことで我に返った。
「え!? あ、あー……」
そんなことかと思わなくもなかったが、彼女らの気迫に押されて仕方なく耳を傾ける。
「あの人さっき、女子トイレの前をずっとウロウロしてたんですよ!」
「えっとー、廊下の掃除をしててたまたま、とかじゃなく?」
「違いますよ! 掃除用具なんか持ってなかったし! そのせいでアタシ、わざわざ下のトイレまで行く羽目になったのよ! もうちょっとで授業に遅れるところだったんだから!」
「こないだなんて体育の時、草むしりするふりして女子の方ガン見してたよねー?」
全員が声を揃えて「きもーい!」と叫んだ。
凄いシンクロ率だなぁと思いつつ、裏でここまで言われる用務員を少し気の毒に感じる。確かに女性に好感を持たれる風貌とは言い難いかもしれないが……。
ファイは「ダメだよ」と彼女らを窘める。
「決めつけはよくないよー。そんな変な人はこの学園にはいないと思うしねー」
「でもぉ……見た目からして怪しいですよ……」
(まぁ……分からないでもないんだけど……)
ファイが思わず苦笑していると、他の女子が「あ!」と声を上げた。今度は一体なんだと思っていると、彼女は僅かに赤らんだ頬を両手で包んだ。
「見て見て、黒鋼先生発見!」
「え!? どこどこ!? あ、ほんとだー!」
心臓がドキリとして、ファイも咄嗟に彼女らの視線の先を追った。
すると中庭を囲む吹き抜け廊下を、ちょうど黒鋼が担当教官と並んで歩いている様子が見えた。
「黒鋼先生って、最初はちょっと怖そうって思ったけど、実は結構イケメンだよね~」
「そうそう! チャラくないっていうか、硬派な肉食系って感じ!」
「体育の授業の時も、ずっとスーツ着ててくれないかな~」
「それわかる! でもスーツとジャージのギャップもいいんだよねー!!」
「ね~!!」
先ほどまで用務員を相手にゴミでも見るような表情だった彼女たちが、今や完全に年相応の乙女と化している。
代わり身の早さに多少呆れつつ、ファイは吹き抜け廊下から目を逸らした。
(ふぅん……人気あるんだー。意外……)
無口で無愛想だし、ぱっと見はその大きな身体や目つきの鋭さに圧倒されて気付くのが遅れるだけで、彼がえらく整った顔立ちをしているのは確かだ。
草食系だのチャラ男だの、そういった人種が世にはびこる中、黒鋼のような男はまさに女性にとって理想的、なのかもしれない。
実際、彼は相当な肉食系である。というよりケダモノだ。まさに食われてしまったばかりのファイには、ひたすら複雑なものに感じられた。
ただ高校生と大学生なら、まぁお互い難なく守備範囲だろうなとは思う。
やっぱり女の子は目に優しくて可愛いし、彼女たちが黒鋼を気にしているように、彼にだって気になる女子生徒の一人や二人、いたってよさそうだ。
綺麗な女性教師だって、この学園にはゴロゴロいるし……。
(あれ……やだな、この感じ……)
なぜか無性に胸の辺りがムカムカして、面白くない。
あの男が自分にしでかした無体を教えてやったら、彼女らは一体どんな顔をするだろうか。
こちとら朝の一件で滅入っているというのに、なんだかどんどん心が荒んでいくような気がした。
「みんな、黒鋼先生が大好きなんだねー」
ファイは思い切り営業スマイルを作って、女子生徒達に笑いかけると、皆こぞって「えー!」だとか「そんなことないですー!」なんて天の邪鬼なことを言ってはしゃぎ出す。
「じゃあさ、いいこと教えてあげるー」
そう言って、ファイは一人の女子の耳元に唇を近づけた。
*
「お触り厳禁じゃなかったのか?」
必要最低限の会話のみで過ごしたこの数日。黒鋼がファイに触れて来ることは、一切なかった。
「オレが触る分にはいいんだよ」
自分でも、目が据わっているのが分かる。
それぞれ入浴も済ませて、明日の準備も済ませて、いざ寝るだけというところに来て、ファイはベッドで携帯のアラームをチェックしていた黒鋼の手を取り、意識をこちらに向けさせた。
どんな理屈だと呆れる黒鋼を「うるさい」と一蹴する。
「散々弄んだんだから。たまにはオレにも仕返しさせてよ」
「仕返しじゃねぇし、そもそも悦ばせるだけだぜ」
「いいよ。してあげるから、あんあん言ってみて」
「おまえ、何かイラついてねぇか?」
さぁねと適当に返事をして、ファイはベッドの縁に腰掛けている黒鋼の正面に膝をついた。
ジャージのウエスト部分に手をかけて、ぐっとズリ下げると下着の中に手を入れる。萎えていても存在感を主張するそれを引き出して、少しだけ息を飲む。
(こんなのが入ったんだ……オレの中に……)
今更のように驚愕した。これでもまだ萎んだ状態なのだから、フルの状態を思いだすだけで飛び上がって逃げ出したくなる。
ここまできたはいいものの、実際はどうすればいいのか分からなくて、顔を真っ赤にしながらも両手で包みこんだその先端に、音を立てて口付けてみる。竿部分にも何度もキスをして、それからさらに勇気を振り絞って舌を這わせてみた。ぴちゃりという音がすると、黒鋼の腰が僅かに揺らぐ。
たったそれだけで何かを掴めたような気になって、少しずつ大胆に舌を使い、ついには口の中に咥えこんでみる。
ゆっくりと熱く硬くなっていくそれは口内を満たして、奥まで押し込もうとすると苦しくてえづきそうになった。
「こんなような構図、どっかで見たな」
ああ、あったかもしれない。ベッドの縁に腰掛ける黒鋼と、床にペタリと腰を下ろした自分と。幼い腰に腕をまわして、柔らかな腹に顔を埋めて存分にもふもふしたような気がする。
昔はあんなにも簡単に押さえつけることが出来たのに、どこで間違ってこんなことになっているのだろうか。
(初めてちゅうしたのも、あの時だったっけ)
ただ無邪気でいられたあの頃と、今のこの爛れた空気を比べると、まるで異世界にタイムスリップでもしたような気分になる。
そんな不思議な感覚に囚われつつも、熱を持つそれを手で緩く扱きながら、頭を上下に動かし始めた。
苦しさを押し殺し、無理に喉奥まで押し込める度に、涙が出そうになる。
(何してるんだろ、オレ……)
今の自分が正気じゃないのは知っていた。
昼間、女子生徒達と会話した時からずっと苛立ちが納まらない。今朝のあの気味の悪い出来事も、それに拍車をかけている。
これがどこからくる感情なのかも分からないし、考えたくもなかった。ただ、どうしようもなく腹が立っている。
(ホントに触って来ないしさ……)
禁止令を出したのは自分だ。
黒鋼は風呂場での一件を流石に反省しているのか、言いつけ通り一切触れて来なかった。どうせすぐにまた仕掛けてくるだろうと思っていたのに、その予想は外れた。
最後までしてしまったことで、満足して飽きてしまったのだろうか、とか。釣った魚に餌をやらないタイプなのか、とか。別に釣られた覚えなんかないと、自分に対してさらに腹が立ったりもして。
それでも必死でしゃぶり続けていると、黒鋼は小さく鼻で笑って「へたくそ」と言った。
「ううはいあ」
「バカ、咥えたまんま喋んな」
「ッ、うるさいなって言ったのー。しっかり勃ってるくせにー」
「……おまえ、ガキ共に余計なこと言いやがったな?」
濡れた口元を手の甲で子供っぽく拭いながら、ファイはつーんとそっぽを向いた。
「なんのことー?」
「あのアホみてぇな呼び方、一気に広まったぞ」
「うそホント? ぷっ」
「ったく……」
性器を掴んだまま、思いっきり吹き出して笑った。
そう、昼間ファイは彼女たちに彼の子供の頃からの渾名の数々を教えてやったのだ。
黒鋼は心底嫌そうな顔をして舌打ちをしている。その様子に、今の彼の姿に昔の片鱗を見た気がして、急激に気分が浮上するのを感じた。
「黒たんが小さくて可愛かった頃のお話しただけだよー?」
「余計なことすんな」
「今はぜんぜん可愛くないけどねー。でっかくて偉そうだから……そうだ、これからは黒様って呼んであげる」
それは名案だと、肩を揺らしてくすくすと笑っていると、むっつりとした顔のまま黒鋼の手が伸びてきた。
その気配に顔を上げれば、頬に触れかけた手がピタリと止まる。
「……触っても?」
「……いいけど」
目を反らして言うと、大きな手の平が頬を包みこんだ。
(あ……)
たった数日触れられなかっただけで、その温もりがひどく懐かしい。
細められた赤い瞳がどんどん距離を縮める。ファイが片膝で乗り上げると、ベッドが音を立てて軋む。厚みのある両肩にそれぞれ手を置けば、そっと腰を抱き寄せられた。
しばらくの間、互いに何も言わずに見つめ合う。見上げられる形を懐かしく感じながらも、自然と額同士がこつんと触れた。
そしてそのまま、唇が重なる。
さっきガッツリ咥えちゃったんだけどな、と思わなくもなかったが、黒鋼が拒まないなら別にいいかと気にするのはやめた。
口付けは当たり前のように深くなって、お互いの舌を突き出して先端を競うように絡ませる。
黒鋼は舌まで大きくて、競り負けて迎え入れたそれに口蓋を舐められると身体が震えた。
(嬉しい)
純粋にそう感じた。
触れられることが、口付けられることが、安堵に繋がった。
やっぱり今日の自分はどこかおかしい。
「ぁ、ふ……」
「……もう、やめとけ」
「なん……?」
「また止まらなくなる」
それは、これ以上煽るような真似をすれば、あの風呂場での惨事を繰り返しかねない、という忠告だった。
あんな酷い思いはもうしたくない。なのに、欲していることを隠さず口にされれば、嫌な気はしなかった。
「……欲しい?」
問えばムっとした顔をするくせに「当然」と清々しいほどの返答を寄こす。
皮膚がざわつくのと同時に眩暈がして、彼の太い首に両腕を回した。
身体も、頭の中も熱っぽい。熱い湯の中からいきなり立ち上がったみたいな、クラクラとした感覚に身体が揺れる。
胸の中が、砂糖のように甘い何かでいっぱいに溢れそうになっていた。
「痛くしないなら……」
「……自信がねぇ」
「じゃあ、ダメ」
「……努力する」
ファイは彼との再会後初めて、主導権を握ることが出来たような気がして笑った。
←戻る ・ 次へ→
黒鋼に組み伏せられたあの晩から、一週間ほどが経過しただろうか。
その間、ファイは実に2回も同じようにねじ伏せられて、身体を好き勝手されてしまうという不甲斐ない事態に陥った。唇だけなら不意打ちでもう幾度奪われたか知れない。
(なんでかわせないかなぁ……)
じゅうじゅうという食欲をそそる音を立てながら、熱せられたフライパンの上で肉と野菜が踊っている。自室のキッチンで夕食の支度をしているファイの溜息は、その音によって掻き消えた。
教材研究と担当教師との打ち合わせが長引いているらしい黒鋼は、まだ帰宅する気配がない。
今や彼のいないワンルームはファイにとっての癒し空間となっていた。傍にいると、いつちょっかいをかけられるか知れたものじゃないからだ。
自分の部屋なのにろくに休めもしないなんて、もういっそ残りの2週間は学校にでも泊まり込もうか。
(案外それがいいかもしれないなー)
摘まみ出すつもりで意気込んでいたはずなのに、あんなことをされてまでズルズルと一週間も経過している。
黒鋼が何を考えているのかさっぱり分からないが、自分も人のことは言えない。追い出すだけの理由は十分にあるはずなのに。
基本のんびりマイペースなファイの性質では、常に気を張り詰めているなんて真似は苦痛以外の何物でもなかった。
だいたい、黒鋼は一体いつスイッチが入るか予測不能すぎる。
実習初日の放課後のように、ちょっと気を抜いて会話をしただけで隙を突かれるなんてことがざらにあった。
ましてや同じ部屋で生活していればなおさら、常に相手の気配を感じていても、それにばかり気をやってはいられない。
そう、例えば今みたいに料理をしている時だとか。
「美味そうだな」
「ぴゃっ!?」
ぼんやりしていたところへ、唐突に耳元で声がしたかと思うと、背後から伸びてきた腕にぎゅうと抱きすくめられた。
おかしな悲鳴を上げたファイは思わず菜箸を取り落としそうになる。
「危ねぇな」
「だ、誰のせいかな! 音も気配もなく近づくのやめてよねー!」
「声ならかけたぞ。考え事か? 料理中にぼんやりすんな」
「それもぜーんぶ君のせいだ!!」
言ってから、しまったと思う。
案の定、黒鋼はニヤリと笑うと腰を抱く腕に力を込めた。
「煽るなよ」
「ば、バカ言わないで……っ、ちょっと、離れてくれないと困る」
「いいから続けろ」
「あのねぇ! 毎度毎度こうやって不意をつくのホントやめてってば!」
「隙だらけなのが悪い」
「隙って……!」
2回目は風呂上がりに水を飲んでホッと息をついた瞬間だったし、3回目は今日のように先に帰宅して、ちょっとソファでうたた寝をしていた時に、襲われた。
これが4回目になってはたまらないと、ファイはフライパンを手放さないまま激しく身を捩った。
「危ねぇって」
「あっ、こら! 途中なんだから火止めないの!」
「焦げてる」
「あ!!」
ほんのちょっとの隙に、野菜炒めは所々が真っ黒に焦げてしまっていた。
ファイは思わず脱力して「やっちゃった……」と呟きながら菜箸を手放す。溜息ばかり、最近は絶えずつかされている。
黒鋼はノンキに「食えりゃいい」と偉そうに言いながら、ファイの後頭部に唇を落とした。
「もー! ぜーんぶ黒たんのせいだからね! いい加減離してってば! 汗臭いよ!」
「おまえ、俺の汗好きだろ」
「はー!?」
それでもなぜか、咄嗟に目が泳ぐ。
本当のところ、汗臭いというのとは少し違う。なんと言えばいいのか、例えばフェロモン、とでも表現すればしっくり来るのか。
そんなことを考えて、ファイは頭を抱えたくなった。
たった一週間で自分の性癖が迷子になってしまったような気がして仕方がない。
最初の夜にこの身体を組み伏せた黒鋼の、ほんのり汗ばんだ素肌とその香りを思い出すだけで、不思議と身体の奥が熱くなる。
これは認めるわけにはいかないと、それを慌てて自分の中で掻き消して平静を装った。
「ひ、人を変態みたいに言わないでよね」
「よく言うぜ。ショタコン野郎が」
「それすっごい誤解! あれはあくまで黒たん限定で……あっ、今のナシ! 忘れて!」
今度は黒鋼が深く溜息を零す番だった。
「だから……煽るんじゃねぇって」
「煽ってないってば!」
だいたい今の黒鋼と昔の黒鋼では別人にも等しいのだから、煽るもなにもない。
それなのに、まるで熱烈な愛の告白でもしてしまったように頬が赤くなってしまうのは、どうしてだろう。
(ああもう! なんでこうなるかなー!)
「と、とにかく! もうお触りは禁止! 特にちょっと人が油断してる隙をつくとか、そういうのナシ!」
「例えば?」
「風呂上がりにほっこりしてる時とか!」
「あれは風呂上がりのてめぇがエロい顔してんのが悪い」
「ちょっと居眠りしてる時とか!」
「可愛い顔してよだれ垂らしてんのが悪い」
「もう! いい加減からかうのよしてってば!!」
幼い頃の黒鋼はこんな思いでいたのだろうかと、今さら気づいたってもう遅い。
やっぱり悪いことをすれば同じだけ返って来るのだ。ファイは彼に、ここまで行き過ぎたセクハラはしてないけれど。
「よし。汗臭ぇってんなら風呂でも入るか」
腕の中の人間が地団駄を踏みそうになっているのも知らず、黒鋼はファイを抱きしめていた腕を緩めた。
今日は素直に解放してくれるのかとホッとしたのも束の間。
また担がれた。
「え!?」
「おまえもまだだろ?」
「いやいやいや! まだだけど! まだだけども!」
「背中流してやるよ」
「絶対それだけで済まないくせにー!!」
「なんだ。期待してんのか」
「ちが……!!」
……ホントに違うの?
そんな疑問を、向こう岸にいるもう一人の自分が軽蔑するような眼差しと一緒に投げて寄こしたような、そんな気がした。
*
狭い。狭すぎる。
ボディソープの香りが立ち込める浴室。
ただでさえ一人はバカみたいにデカイのに、男2人が一緒に入り込めばスペースに余裕などあるはずがない。
(もう、どうにでもなっちゃえ……)
先刻まで勢いよく噴射されていたシャワーは、今は止められて熱気だけを残している。
どこか投げやりな気持ちになっているファイが置かれている現状といえば、黒鋼によって身体を泡まみれにされているというものだった。
どうせ抵抗したところで力では敵わないし、一通り人の身体で遊んで満足すれば、それで終わるのだろうから。
「ッ、……ぅ……んっ……!」
滑りそうになる両手をタイル状の壁につくと、両腕をどうにか突っ張らせて崩れ落ちそうになる身体を支える。背後からぬるぬると背中を撫で上げる手の感触に、肩を竦めて耐えた。
両肩から腕の外側にかけてを大きな手が幾度も這い、手の甲を掠めると今度は内側をくすぐるようにしながら引いていく。
指先が脇の下へと到達して、窪みを抉るようにねっとり撫でられると思わず大きな悲鳴を上げそうになった。
「――ッ!!」
声はどうにか押さえられても、ビクつく身体だけはどうにもならない。
そのまま、両脇を上下に行ったり来たりを繰り返す黒鋼の手は、明確な意図を持ってファイの反応を楽しんでいた。
背中を流すなんて、分かってはいたがまるきり嘘の塊だった。
「ふっ、ぅ……ッ、ん……ッ、……っ」
「どうした? エロい声出てんぞ」
「だ、して、ない!」
耳元にわざと吹き込むようにしてかけられる声から、大きく首を左右に振って逃れる。ゴムを取り払った長く湿った金糸が頬に張り付いた。
痛いほど下唇を噛み締めるのは、ここが無駄に音を反響させる場所だと分かっているからだ。自分のあの女のように喘ぐ声はどうしても許せない。ファイにだって、それなりのプライドは残っている。
黒鋼の手が脇の下からぬっと胸へと伸びて包み込んだ。石鹸の泡で滑る力を借りながら、そこから下腹ギリギリまでを行き来しはじめる。
「硬くなってきたな」という声がしたと同時に、太い指先が胸の二つのしこりを引っ掻いた。
「あッ……!」
思わず上がってしまった声に気を良くしたように、悪戯な指先は手の平で腹の上を行き来しながら、その都度そこを引っ掻いた。
鈍痛にも似た妙な感覚が、いちいち腰に集まっていくような気がして戸惑う。全身の毛穴が一気に広がるような感覚に、寒気を覚えて震えが止まらない。
「いッ、そこ……引っ掻かないで……」
「丁寧に洗ってやってんじゃねぇか。まさか感じてんのか? ここで」
「ち、が……違う……アッ、やだ……そんなわけ、ない……ッ」
あくまで洗っているだけだと言い張りながら、指先はついにその場所で静止した。親指と人差し指で摘まみ、まるで潰すようにコリコリと圧迫するが、すぐに石鹸の滑りで弾かれる。もどかしい刺激を繰り返される度に、無意識に腰が揺らいだ。
「あっ、あっ、ちくび、やぁ……ッ、いた、い……っ」
「痛がってるようには見えねぇな」
「だっ、て……だって……!」
どこか甘えたような声が浴室に反響する。耳を塞ぎたいほど嫌なのに、どうしてか胸が沸き立つような感覚を覚えた。大嫌いなはずの自分の声にどんどん煽られて、羞恥心すら感度を高める素材になる。
「だって?」
「ぁ、わ、かんな……ッ、胸……んっ……!」
「女みてぇに感じるか?」
ファイは幾度も弱々しい声で「違う」と繰り返して首を振った。
本当は自分でも嫌になるほど敏感になっている。彼の言うとおり、まるで女にでもなったみたいだ。
そうしているうちに、黒鋼の手が片方、皮膚を伝いながら下肢へと伸びた。半起ちの性器に指が絡みつき、泡を塗りたくられる感覚に「ひ」と息を吸い込む。
今そんな場所に触られたら、ましてや刺激なんてされたら、あっという間に達してしまいそうだ。
「やぁ……! おねが……ッ、ぁ、もう……!」
「ここにこんなもんぶら下げてたって、てめぇはオンナだろ?」
「なっ、ぁ、変な、こと、言わな……ッ」
「俺のオンナだ」
思い切り「バカ」と叫びたかったはずの声は、思わず壁に頭を打ちつけたくなるほどの甘い嬌声にしかならなかった。
黒鋼が掴み上げた性器の先端を親指でくるくると刺激して、手が添えられている片方の乳首にも、全く同じような刺激を仕掛けて来る。
連動した動きに快感が見事にリンクして、身も世もなく悶えることしか出来ない。
膝が踊り、立っているのもやっとなのに、もうこれ以上は耐えられそうになかった。
このままでは本当に頭がおかしくなってしまう。そうなってしまう前に早くいってしまえば、それで終わる。
まるで崖っぷちにいるような感覚に身の竦むような焦りすら覚えつつ、ファイは目を閉じて与えられる快感にだけ集中した。
黒鋼の手が完全に育ちきった性器を追い上げるように刺激しはじめる。この時ばかりはそれをありがたく感じ、全てを素直に受け入れた。
だが、もう限界というところでその動きがピタリと止み、性器から手が離れてしまう。
「ぇ、なん……?」
首だけ振り返って見上げるが、潤んだ目元に誤魔化すかのようなキスをされるだけだった。
胸をいじっていた指も離れ、腰に腕が回される。崩れ落ちそうだった身体がそれによってどうにか支えられたが、ほっとする間などなかった。
「えッ!? ちょ、どこ触って……!?」
石鹸が伝い落ち、すでに滑っている尻の谷間をさらに割るようにして、黒鋼の手が潜り込んだ。頭が真っ白になりなりながらも、何をするつもりなのかを察したファイは腰を捩って逃げを打つ。
けれどその寸前で、指が奥まった場所に先端だけ挿しこまれた。
「いっ……!?」
背を反らし、すんなりと入ってしまった異物へのショックに目を見開く。
黒鋼は「ほう」とも「ふぅん」ともつかない感慨の息を漏らした。
「滑りがいいと、こうもつるんと行くもんか」
「ヒッ、ぃッ、いいから、抜いてっ……!」
「逃げんな。まだ先っちょだけだぞ」
「そういう問題じゃなっ、ああぁちょっ、ダメだってばあぁ……!」
自分で腰を前へ突き出すことで引き抜こうとしたが、許さないとばかりにさらに指が奥まで侵入し、結局は壁に張り付くことになってしまった。
「痛ぇか?」
「いいい、痛くないけど、気持ち悪いぃ!!」
実際、大した痛みはない。
それよりも異物感の方が凄まじかった。自分でも触れたことのないような身体の奥に、他人が押し入っているという恐怖感も半端ない。
抜いて抜いてと喚き続けるも、黒鋼は壁に引っついているファイの背に自分の胸を押し当てつつ、指で浅い場所を幾度も出し入れし始めた。
それだけならただ不快なだけで済んだのだが。
黒鋼のもう片方の手が、僅かに力を失いつつあったファイの性器に再び触れた。瞬間的に同時に攻めるつもりだということが分かって、かといってどうにも出来ずにただ泣きそうな声で呻くしか出来ない。
前は扱かれ、後ろは抽挿が繰り返され、気持ちいいのか悪いのか、感覚が分散されて訳が分からなくなった。
しかし、ふと気がついた。
扱く手の動きも、後ろを出入りする指の動きも、そのリズムが全く同じ早さだということに。
性器を下から上へ扱きあげる時は同時に指を押し込み、上から下へと移る時には、同じ早さで指を抜く。
それがゆっくりと、延々繰り返されているのだ。
太い指はその度に奥を探るようにどんどん深くまで侵入していくようだった。
(き、気づかなければよかった……!)
一度それに意識を向けてしまえば、分散されていた感覚がひとつの束になっていくのを感じた。同時に後ろへの不快感が解消されてしまう。むしろ異物感よりも、内壁を擦られる感覚の方に痺れが走るようになる。
前への刺激と重ねることで、性感を開発されているとでもいうのか。
指が二本に増やされても、ファイは仰け反って呻くだけで抗議するだけの言葉を紡ぐ気力がない。
痛みが全くないわけではないと思うが、なんだかもう、よく分からない。
(滅茶苦茶だ……こんなの……!)
「慣れてきたな。いけそうか?」
「ぁ、う……ッ、ん、ん……わ、から、な……ぁ、で、も……」
冷たい壁に額を擦りつけながら、全ての血液が下肢へと集まっていくのを感じた。
瞼の裏が点滅を繰り返し、たどり着きたい場所がすぐ目の前にあることを知らせている。
そして、それはやってきた。
「あっ、あっ、も……ッ、あッ、ぃっく、ぅ……!!」
精液が勢いよく噴出し、壁を汚す。溺れるような感覚に、息が止まった。
「ひ、ぁ……」
頭の中も目の前も真っ白に染まったまま、腰を抜かしたファイは白い床に膝をついた。
未だに内腿の痙攣が治まらず、肩をビクビクと揺らしながら、は、は、と浅い呼吸を繰り返していると、同じく膝をついた黒鋼が背後からきつく抱きしめてきた。
「はッ、い、今……ぁ、ダメ……触らない、で……」
「いいからしっかり息しろ」
「……ふ、ッ、ぅ」
目頭が熱くなって、鼻先にツンとした痛みが走る。過去3度、好きなように嬲られてきたが、泣くことだけは我慢していたのに。
信じられないような形で絶頂を極めさせられて、ファイの涙腺は一気に崩壊した。
「ッ……!」
慌てて口元を押さえる。ポロポロと涙の雫が落ちて、濡れた頬に吸い込まれるようにして融けていく。
嗚咽が零れそうになるのを必死で堪えていると、ファイの様子に気がついた黒鋼に顎を掴まれ、無理やり後方に上向かされた。
「いっ!」
瞬間、首がゴキっと鳴ったのが微妙に情けない。
それよりも思いっきり泣き顔を至近距離で覗きこまれている方が、ずっと情けないとは思うが。
「なんだおまえ。泣いてんのか」
「……そうだよ。悪い?」
「得意の嘘泣きか?」
「バカ!」
ムッとして、ファイは悔しげに相手の顔を睨みつけた。
「これが見たかったんでしょ? もう満足したよね? 泣かす泣かすって、うるさかったしさ!」
「おまえまだそんなこと言ってんのかよ」
「そんなことって言うけど、実際その通りなんでしょ?」
「ガキだな、てめぇは」
「はぁ!?」
「だから、もういい加減気づけっての」
(こないだから一体なんだよ! 何に気づけっていうんだよッ!)
もう喋るのも嫌になって、ファイは忌々しげにシャワーのコックに手を伸ばすと一気に捻った。
2人の頭上からぬるま湯が降り注ぎ、やがてそれはほどよい熱湯へと変わる。
「とっとと離れて。気がすんだなら、も……ぅ?」
そこでファイは首を傾げた。
今の今まで自分のことばかりに気を取られて、気がつかなかったのだが。
「ねぇ……」
「ん」
「なんかね、当たってる気がする」
「これか?」
「ちょおお擦りつけないで!!」
未だに背後から抱きしめられ、ぴったりと密着する身体の一部分。ファイの臀部付近に硬いナニかがゴリゴリと押し付けられるのを感じて、青褪めた。
また変な気分になっては困ると、あえて相手の素肌は見ないように心がけていたのだが。
ファイが浴室の隅っこへ逃げるのを、黒鋼の腕は阻止しなかった。
身体を丸めるようにして隅に落ち着いたファイが見たのは、立派にそそり勃つ黒鋼のイチモツだった。
「な、なん……なんで……」
「なんでって言われてもな」
「なんでこんなになって……? し、しかも……」
(身の丈に合ったご立派なサイズですこと……)
なにもこんな所まで立派に成長を遂げなくてもいいだろうに……。
ここでもまたファイの男としてのプライドが傷つけられた。
黒鋼はこの狭い浴室で、それでもどっしり胡坐をかくと腕を組む。どこか偉そうにふんぞり返っている、ように見えてしまうのは、突如として芽生えた劣等感の表れだろうか。
「生理現象だろ? まさに」
「だ、だって、今までそんな素振り、ぜんぜん……」
一度目も二度目も三度目も、黒鋼が素肌を晒したのは最初の夜だけだった。それだって上半身だけだ。だから全裸は今回、初めてお目にかかった。
「これは……たまたま、なのかな? それとも、毎回……?」
「バカだな、おまえは心底」
「な、なんでオレがバカって言われないといけないんだろう!」
「そりゃあてめぇがあんあん言ってりゃ、こうなって当然だろ」
「そんなことを真顔で言われても、どう反応すれば……じゃあ、いつもはこれ、どういう風に……?」
「一人で処理してたに決まっ」
「い、いい! なんかいたたまれないから聞きたくない!」
「自分で聞いといてなんだそりゃ。おら、来い」
うるさいよー、と言って赤い顔を両手で覆っていると、ぬっと伸びてきた腕に手首を掴まれた。
未だに腰がじんじんと痺れて動きが鈍いファイは、何の反応もできないまま身体をひっ繰り返されて、気づけば浴槽に両手をつかされていた。
「ちょ、え?」
「解した意味がなくなんだろ、バカ」
「バカバカってー! バカって言った方がバカなん……え、ちょ、ま、まさか……?」
「そのまさか」
再び背中から覆いかぶさって来る身体に、腰をがっちりと掴まれた。
シャワーによって身体のほとんどの石鹸は落とされているが、中はまだ多分、落ち切っていない。
(だからってあんな化け物じみたブツ入るわけないでしょ!!)
「ぃ……ッ!?」
先ほど黒鋼の太い指を二本も飲みこまされていた場所に、明らかにそれとは質量の異なるものがぐっと押し付けられた。
しかも物凄く熱くて、腰が引けそうになるのをさらに引き寄せられる。
「む、無理! 無理だってば! ねぇちょっと聞いてる!?」
「うるせぇ」
黒鋼の唇が耳元に強く押し付けられて、荒い息使いがじんわりとファイの聴覚を刺激した。
ピクンと反応してしまうのを止められない中、トドメとばかりに「余裕がねぇよ」という吐息混じりの声が吹き込まれて、心臓が跳ね上がる。
(うわ……この声、やばすぎる……)
先刻の黒鋼の言葉を思い出す。
あれはつまり、これまでずっと彼は我慢してくれていた、という解釈でいいのだろうか。
それ以前に、自分の反応を見てあんなにも性器を大きくしていたのかと考えると。
(ちょっと……嬉しい、なんて……?)
一瞬だけ胸の中を満たしかけた甘い何かを、ファイは首を振って払拭した。
喜ぶバカがいるか。本当にどうかしている。
だがそれ以上の否定をする前に、黒鋼のブツがぐっと押し込まれて、考える余裕がなくなった。
「いっ、た……! 痛い……! 無理、絶対に無理ぃ……!!」
それでも石鹸の恐ろしいまでの力を借りて、ずん、と先端が押し入って来た。身を裂かれるような鋭い痛みが全身を駆け抜けて、目の前が真っ赤に染まる。
嫌だ嫌だと叫んで両腕をバタつかせ、必死で逃れようとしても背後から拘束する腕の力には到底及ばない。
結局、宙を空ぶるだけだった両手は浴槽の縁に戻されて、あとは自分の体重を支えるだけで精いっぱいだった。どうしたらいいか分からずに、大きく首を振る。
「いッ……痛い、の……! そんなおっきいの、入るわけないよぉ……!」
怖い。
完全に恐怖に支配されたファイはパニックを起こしかけた。
訳も分からずただ叫び出したいような衝動に囚われて、一気に肺に酸素を取り込んだところで、するりと優しく下腹を撫でられる。
絶叫する寸前で、耳の中に黒鋼の吐息混じりの声が囁かれた。
「その吸った息、ゆっくり吐き出せるか?」
「ヒッ、ぃ、ひ……」
「ゆっくり、できるな?」
ファイはきゅっと目を閉じると、涙を幾筋も溢れさせながらコクコクと頷いた。
震えて途切れ途切れになりながらも、いっそ苦しいほど吸いこんでいた息を吐き出すと「よくできたな」という声と共にさらに強く抱きしめられる。
(なにがよくできた、だ……生意気なんだよ……)
7つも年下のくせに、あんなに小さくて、強がるばかりでひ弱だったくせに。
なのに、信じられないくらい心が落ち着く。痛くて怖くてどうしようもないのに、許してしまいそうになる。
もう身を預けるより他にないのだと察したとき、再び「息を吸え」と言われて従った。その瞬間に合わせて、絶対に無理だと思っていたはずの大きなものが、どすんと中に納まった。
全部入ったぞ、という黒鋼の呼吸も酷く乱れていて、ファイは涙と一緒に嗚咽を漏らした。
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その間、ファイは実に2回も同じようにねじ伏せられて、身体を好き勝手されてしまうという不甲斐ない事態に陥った。唇だけなら不意打ちでもう幾度奪われたか知れない。
(なんでかわせないかなぁ……)
じゅうじゅうという食欲をそそる音を立てながら、熱せられたフライパンの上で肉と野菜が踊っている。自室のキッチンで夕食の支度をしているファイの溜息は、その音によって掻き消えた。
教材研究と担当教師との打ち合わせが長引いているらしい黒鋼は、まだ帰宅する気配がない。
今や彼のいないワンルームはファイにとっての癒し空間となっていた。傍にいると、いつちょっかいをかけられるか知れたものじゃないからだ。
自分の部屋なのにろくに休めもしないなんて、もういっそ残りの2週間は学校にでも泊まり込もうか。
(案外それがいいかもしれないなー)
摘まみ出すつもりで意気込んでいたはずなのに、あんなことをされてまでズルズルと一週間も経過している。
黒鋼が何を考えているのかさっぱり分からないが、自分も人のことは言えない。追い出すだけの理由は十分にあるはずなのに。
基本のんびりマイペースなファイの性質では、常に気を張り詰めているなんて真似は苦痛以外の何物でもなかった。
だいたい、黒鋼は一体いつスイッチが入るか予測不能すぎる。
実習初日の放課後のように、ちょっと気を抜いて会話をしただけで隙を突かれるなんてことがざらにあった。
ましてや同じ部屋で生活していればなおさら、常に相手の気配を感じていても、それにばかり気をやってはいられない。
そう、例えば今みたいに料理をしている時だとか。
「美味そうだな」
「ぴゃっ!?」
ぼんやりしていたところへ、唐突に耳元で声がしたかと思うと、背後から伸びてきた腕にぎゅうと抱きすくめられた。
おかしな悲鳴を上げたファイは思わず菜箸を取り落としそうになる。
「危ねぇな」
「だ、誰のせいかな! 音も気配もなく近づくのやめてよねー!」
「声ならかけたぞ。考え事か? 料理中にぼんやりすんな」
「それもぜーんぶ君のせいだ!!」
言ってから、しまったと思う。
案の定、黒鋼はニヤリと笑うと腰を抱く腕に力を込めた。
「煽るなよ」
「ば、バカ言わないで……っ、ちょっと、離れてくれないと困る」
「いいから続けろ」
「あのねぇ! 毎度毎度こうやって不意をつくのホントやめてってば!」
「隙だらけなのが悪い」
「隙って……!」
2回目は風呂上がりに水を飲んでホッと息をついた瞬間だったし、3回目は今日のように先に帰宅して、ちょっとソファでうたた寝をしていた時に、襲われた。
これが4回目になってはたまらないと、ファイはフライパンを手放さないまま激しく身を捩った。
「危ねぇって」
「あっ、こら! 途中なんだから火止めないの!」
「焦げてる」
「あ!!」
ほんのちょっとの隙に、野菜炒めは所々が真っ黒に焦げてしまっていた。
ファイは思わず脱力して「やっちゃった……」と呟きながら菜箸を手放す。溜息ばかり、最近は絶えずつかされている。
黒鋼はノンキに「食えりゃいい」と偉そうに言いながら、ファイの後頭部に唇を落とした。
「もー! ぜーんぶ黒たんのせいだからね! いい加減離してってば! 汗臭いよ!」
「おまえ、俺の汗好きだろ」
「はー!?」
それでもなぜか、咄嗟に目が泳ぐ。
本当のところ、汗臭いというのとは少し違う。なんと言えばいいのか、例えばフェロモン、とでも表現すればしっくり来るのか。
そんなことを考えて、ファイは頭を抱えたくなった。
たった一週間で自分の性癖が迷子になってしまったような気がして仕方がない。
最初の夜にこの身体を組み伏せた黒鋼の、ほんのり汗ばんだ素肌とその香りを思い出すだけで、不思議と身体の奥が熱くなる。
これは認めるわけにはいかないと、それを慌てて自分の中で掻き消して平静を装った。
「ひ、人を変態みたいに言わないでよね」
「よく言うぜ。ショタコン野郎が」
「それすっごい誤解! あれはあくまで黒たん限定で……あっ、今のナシ! 忘れて!」
今度は黒鋼が深く溜息を零す番だった。
「だから……煽るんじゃねぇって」
「煽ってないってば!」
だいたい今の黒鋼と昔の黒鋼では別人にも等しいのだから、煽るもなにもない。
それなのに、まるで熱烈な愛の告白でもしてしまったように頬が赤くなってしまうのは、どうしてだろう。
(ああもう! なんでこうなるかなー!)
「と、とにかく! もうお触りは禁止! 特にちょっと人が油断してる隙をつくとか、そういうのナシ!」
「例えば?」
「風呂上がりにほっこりしてる時とか!」
「あれは風呂上がりのてめぇがエロい顔してんのが悪い」
「ちょっと居眠りしてる時とか!」
「可愛い顔してよだれ垂らしてんのが悪い」
「もう! いい加減からかうのよしてってば!!」
幼い頃の黒鋼はこんな思いでいたのだろうかと、今さら気づいたってもう遅い。
やっぱり悪いことをすれば同じだけ返って来るのだ。ファイは彼に、ここまで行き過ぎたセクハラはしてないけれど。
「よし。汗臭ぇってんなら風呂でも入るか」
腕の中の人間が地団駄を踏みそうになっているのも知らず、黒鋼はファイを抱きしめていた腕を緩めた。
今日は素直に解放してくれるのかとホッとしたのも束の間。
また担がれた。
「え!?」
「おまえもまだだろ?」
「いやいやいや! まだだけど! まだだけども!」
「背中流してやるよ」
「絶対それだけで済まないくせにー!!」
「なんだ。期待してんのか」
「ちが……!!」
……ホントに違うの?
そんな疑問を、向こう岸にいるもう一人の自分が軽蔑するような眼差しと一緒に投げて寄こしたような、そんな気がした。
*
狭い。狭すぎる。
ボディソープの香りが立ち込める浴室。
ただでさえ一人はバカみたいにデカイのに、男2人が一緒に入り込めばスペースに余裕などあるはずがない。
(もう、どうにでもなっちゃえ……)
先刻まで勢いよく噴射されていたシャワーは、今は止められて熱気だけを残している。
どこか投げやりな気持ちになっているファイが置かれている現状といえば、黒鋼によって身体を泡まみれにされているというものだった。
どうせ抵抗したところで力では敵わないし、一通り人の身体で遊んで満足すれば、それで終わるのだろうから。
「ッ、……ぅ……んっ……!」
滑りそうになる両手をタイル状の壁につくと、両腕をどうにか突っ張らせて崩れ落ちそうになる身体を支える。背後からぬるぬると背中を撫で上げる手の感触に、肩を竦めて耐えた。
両肩から腕の外側にかけてを大きな手が幾度も這い、手の甲を掠めると今度は内側をくすぐるようにしながら引いていく。
指先が脇の下へと到達して、窪みを抉るようにねっとり撫でられると思わず大きな悲鳴を上げそうになった。
「――ッ!!」
声はどうにか押さえられても、ビクつく身体だけはどうにもならない。
そのまま、両脇を上下に行ったり来たりを繰り返す黒鋼の手は、明確な意図を持ってファイの反応を楽しんでいた。
背中を流すなんて、分かってはいたがまるきり嘘の塊だった。
「ふっ、ぅ……ッ、ん……ッ、……っ」
「どうした? エロい声出てんぞ」
「だ、して、ない!」
耳元にわざと吹き込むようにしてかけられる声から、大きく首を左右に振って逃れる。ゴムを取り払った長く湿った金糸が頬に張り付いた。
痛いほど下唇を噛み締めるのは、ここが無駄に音を反響させる場所だと分かっているからだ。自分のあの女のように喘ぐ声はどうしても許せない。ファイにだって、それなりのプライドは残っている。
黒鋼の手が脇の下からぬっと胸へと伸びて包み込んだ。石鹸の泡で滑る力を借りながら、そこから下腹ギリギリまでを行き来しはじめる。
「硬くなってきたな」という声がしたと同時に、太い指先が胸の二つのしこりを引っ掻いた。
「あッ……!」
思わず上がってしまった声に気を良くしたように、悪戯な指先は手の平で腹の上を行き来しながら、その都度そこを引っ掻いた。
鈍痛にも似た妙な感覚が、いちいち腰に集まっていくような気がして戸惑う。全身の毛穴が一気に広がるような感覚に、寒気を覚えて震えが止まらない。
「いッ、そこ……引っ掻かないで……」
「丁寧に洗ってやってんじゃねぇか。まさか感じてんのか? ここで」
「ち、が……違う……アッ、やだ……そんなわけ、ない……ッ」
あくまで洗っているだけだと言い張りながら、指先はついにその場所で静止した。親指と人差し指で摘まみ、まるで潰すようにコリコリと圧迫するが、すぐに石鹸の滑りで弾かれる。もどかしい刺激を繰り返される度に、無意識に腰が揺らいだ。
「あっ、あっ、ちくび、やぁ……ッ、いた、い……っ」
「痛がってるようには見えねぇな」
「だっ、て……だって……!」
どこか甘えたような声が浴室に反響する。耳を塞ぎたいほど嫌なのに、どうしてか胸が沸き立つような感覚を覚えた。大嫌いなはずの自分の声にどんどん煽られて、羞恥心すら感度を高める素材になる。
「だって?」
「ぁ、わ、かんな……ッ、胸……んっ……!」
「女みてぇに感じるか?」
ファイは幾度も弱々しい声で「違う」と繰り返して首を振った。
本当は自分でも嫌になるほど敏感になっている。彼の言うとおり、まるで女にでもなったみたいだ。
そうしているうちに、黒鋼の手が片方、皮膚を伝いながら下肢へと伸びた。半起ちの性器に指が絡みつき、泡を塗りたくられる感覚に「ひ」と息を吸い込む。
今そんな場所に触られたら、ましてや刺激なんてされたら、あっという間に達してしまいそうだ。
「やぁ……! おねが……ッ、ぁ、もう……!」
「ここにこんなもんぶら下げてたって、てめぇはオンナだろ?」
「なっ、ぁ、変な、こと、言わな……ッ」
「俺のオンナだ」
思い切り「バカ」と叫びたかったはずの声は、思わず壁に頭を打ちつけたくなるほどの甘い嬌声にしかならなかった。
黒鋼が掴み上げた性器の先端を親指でくるくると刺激して、手が添えられている片方の乳首にも、全く同じような刺激を仕掛けて来る。
連動した動きに快感が見事にリンクして、身も世もなく悶えることしか出来ない。
膝が踊り、立っているのもやっとなのに、もうこれ以上は耐えられそうになかった。
このままでは本当に頭がおかしくなってしまう。そうなってしまう前に早くいってしまえば、それで終わる。
まるで崖っぷちにいるような感覚に身の竦むような焦りすら覚えつつ、ファイは目を閉じて与えられる快感にだけ集中した。
黒鋼の手が完全に育ちきった性器を追い上げるように刺激しはじめる。この時ばかりはそれをありがたく感じ、全てを素直に受け入れた。
だが、もう限界というところでその動きがピタリと止み、性器から手が離れてしまう。
「ぇ、なん……?」
首だけ振り返って見上げるが、潤んだ目元に誤魔化すかのようなキスをされるだけだった。
胸をいじっていた指も離れ、腰に腕が回される。崩れ落ちそうだった身体がそれによってどうにか支えられたが、ほっとする間などなかった。
「えッ!? ちょ、どこ触って……!?」
石鹸が伝い落ち、すでに滑っている尻の谷間をさらに割るようにして、黒鋼の手が潜り込んだ。頭が真っ白になりなりながらも、何をするつもりなのかを察したファイは腰を捩って逃げを打つ。
けれどその寸前で、指が奥まった場所に先端だけ挿しこまれた。
「いっ……!?」
背を反らし、すんなりと入ってしまった異物へのショックに目を見開く。
黒鋼は「ほう」とも「ふぅん」ともつかない感慨の息を漏らした。
「滑りがいいと、こうもつるんと行くもんか」
「ヒッ、ぃッ、いいから、抜いてっ……!」
「逃げんな。まだ先っちょだけだぞ」
「そういう問題じゃなっ、ああぁちょっ、ダメだってばあぁ……!」
自分で腰を前へ突き出すことで引き抜こうとしたが、許さないとばかりにさらに指が奥まで侵入し、結局は壁に張り付くことになってしまった。
「痛ぇか?」
「いいい、痛くないけど、気持ち悪いぃ!!」
実際、大した痛みはない。
それよりも異物感の方が凄まじかった。自分でも触れたことのないような身体の奥に、他人が押し入っているという恐怖感も半端ない。
抜いて抜いてと喚き続けるも、黒鋼は壁に引っついているファイの背に自分の胸を押し当てつつ、指で浅い場所を幾度も出し入れし始めた。
それだけならただ不快なだけで済んだのだが。
黒鋼のもう片方の手が、僅かに力を失いつつあったファイの性器に再び触れた。瞬間的に同時に攻めるつもりだということが分かって、かといってどうにも出来ずにただ泣きそうな声で呻くしか出来ない。
前は扱かれ、後ろは抽挿が繰り返され、気持ちいいのか悪いのか、感覚が分散されて訳が分からなくなった。
しかし、ふと気がついた。
扱く手の動きも、後ろを出入りする指の動きも、そのリズムが全く同じ早さだということに。
性器を下から上へ扱きあげる時は同時に指を押し込み、上から下へと移る時には、同じ早さで指を抜く。
それがゆっくりと、延々繰り返されているのだ。
太い指はその度に奥を探るようにどんどん深くまで侵入していくようだった。
(き、気づかなければよかった……!)
一度それに意識を向けてしまえば、分散されていた感覚がひとつの束になっていくのを感じた。同時に後ろへの不快感が解消されてしまう。むしろ異物感よりも、内壁を擦られる感覚の方に痺れが走るようになる。
前への刺激と重ねることで、性感を開発されているとでもいうのか。
指が二本に増やされても、ファイは仰け反って呻くだけで抗議するだけの言葉を紡ぐ気力がない。
痛みが全くないわけではないと思うが、なんだかもう、よく分からない。
(滅茶苦茶だ……こんなの……!)
「慣れてきたな。いけそうか?」
「ぁ、う……ッ、ん、ん……わ、から、な……ぁ、で、も……」
冷たい壁に額を擦りつけながら、全ての血液が下肢へと集まっていくのを感じた。
瞼の裏が点滅を繰り返し、たどり着きたい場所がすぐ目の前にあることを知らせている。
そして、それはやってきた。
「あっ、あっ、も……ッ、あッ、ぃっく、ぅ……!!」
精液が勢いよく噴出し、壁を汚す。溺れるような感覚に、息が止まった。
「ひ、ぁ……」
頭の中も目の前も真っ白に染まったまま、腰を抜かしたファイは白い床に膝をついた。
未だに内腿の痙攣が治まらず、肩をビクビクと揺らしながら、は、は、と浅い呼吸を繰り返していると、同じく膝をついた黒鋼が背後からきつく抱きしめてきた。
「はッ、い、今……ぁ、ダメ……触らない、で……」
「いいからしっかり息しろ」
「……ふ、ッ、ぅ」
目頭が熱くなって、鼻先にツンとした痛みが走る。過去3度、好きなように嬲られてきたが、泣くことだけは我慢していたのに。
信じられないような形で絶頂を極めさせられて、ファイの涙腺は一気に崩壊した。
「ッ……!」
慌てて口元を押さえる。ポロポロと涙の雫が落ちて、濡れた頬に吸い込まれるようにして融けていく。
嗚咽が零れそうになるのを必死で堪えていると、ファイの様子に気がついた黒鋼に顎を掴まれ、無理やり後方に上向かされた。
「いっ!」
瞬間、首がゴキっと鳴ったのが微妙に情けない。
それよりも思いっきり泣き顔を至近距離で覗きこまれている方が、ずっと情けないとは思うが。
「なんだおまえ。泣いてんのか」
「……そうだよ。悪い?」
「得意の嘘泣きか?」
「バカ!」
ムッとして、ファイは悔しげに相手の顔を睨みつけた。
「これが見たかったんでしょ? もう満足したよね? 泣かす泣かすって、うるさかったしさ!」
「おまえまだそんなこと言ってんのかよ」
「そんなことって言うけど、実際その通りなんでしょ?」
「ガキだな、てめぇは」
「はぁ!?」
「だから、もういい加減気づけっての」
(こないだから一体なんだよ! 何に気づけっていうんだよッ!)
もう喋るのも嫌になって、ファイは忌々しげにシャワーのコックに手を伸ばすと一気に捻った。
2人の頭上からぬるま湯が降り注ぎ、やがてそれはほどよい熱湯へと変わる。
「とっとと離れて。気がすんだなら、も……ぅ?」
そこでファイは首を傾げた。
今の今まで自分のことばかりに気を取られて、気がつかなかったのだが。
「ねぇ……」
「ん」
「なんかね、当たってる気がする」
「これか?」
「ちょおお擦りつけないで!!」
未だに背後から抱きしめられ、ぴったりと密着する身体の一部分。ファイの臀部付近に硬いナニかがゴリゴリと押し付けられるのを感じて、青褪めた。
また変な気分になっては困ると、あえて相手の素肌は見ないように心がけていたのだが。
ファイが浴室の隅っこへ逃げるのを、黒鋼の腕は阻止しなかった。
身体を丸めるようにして隅に落ち着いたファイが見たのは、立派にそそり勃つ黒鋼のイチモツだった。
「な、なん……なんで……」
「なんでって言われてもな」
「なんでこんなになって……? し、しかも……」
(身の丈に合ったご立派なサイズですこと……)
なにもこんな所まで立派に成長を遂げなくてもいいだろうに……。
ここでもまたファイの男としてのプライドが傷つけられた。
黒鋼はこの狭い浴室で、それでもどっしり胡坐をかくと腕を組む。どこか偉そうにふんぞり返っている、ように見えてしまうのは、突如として芽生えた劣等感の表れだろうか。
「生理現象だろ? まさに」
「だ、だって、今までそんな素振り、ぜんぜん……」
一度目も二度目も三度目も、黒鋼が素肌を晒したのは最初の夜だけだった。それだって上半身だけだ。だから全裸は今回、初めてお目にかかった。
「これは……たまたま、なのかな? それとも、毎回……?」
「バカだな、おまえは心底」
「な、なんでオレがバカって言われないといけないんだろう!」
「そりゃあてめぇがあんあん言ってりゃ、こうなって当然だろ」
「そんなことを真顔で言われても、どう反応すれば……じゃあ、いつもはこれ、どういう風に……?」
「一人で処理してたに決まっ」
「い、いい! なんかいたたまれないから聞きたくない!」
「自分で聞いといてなんだそりゃ。おら、来い」
うるさいよー、と言って赤い顔を両手で覆っていると、ぬっと伸びてきた腕に手首を掴まれた。
未だに腰がじんじんと痺れて動きが鈍いファイは、何の反応もできないまま身体をひっ繰り返されて、気づけば浴槽に両手をつかされていた。
「ちょ、え?」
「解した意味がなくなんだろ、バカ」
「バカバカってー! バカって言った方がバカなん……え、ちょ、ま、まさか……?」
「そのまさか」
再び背中から覆いかぶさって来る身体に、腰をがっちりと掴まれた。
シャワーによって身体のほとんどの石鹸は落とされているが、中はまだ多分、落ち切っていない。
(だからってあんな化け物じみたブツ入るわけないでしょ!!)
「ぃ……ッ!?」
先ほど黒鋼の太い指を二本も飲みこまされていた場所に、明らかにそれとは質量の異なるものがぐっと押し付けられた。
しかも物凄く熱くて、腰が引けそうになるのをさらに引き寄せられる。
「む、無理! 無理だってば! ねぇちょっと聞いてる!?」
「うるせぇ」
黒鋼の唇が耳元に強く押し付けられて、荒い息使いがじんわりとファイの聴覚を刺激した。
ピクンと反応してしまうのを止められない中、トドメとばかりに「余裕がねぇよ」という吐息混じりの声が吹き込まれて、心臓が跳ね上がる。
(うわ……この声、やばすぎる……)
先刻の黒鋼の言葉を思い出す。
あれはつまり、これまでずっと彼は我慢してくれていた、という解釈でいいのだろうか。
それ以前に、自分の反応を見てあんなにも性器を大きくしていたのかと考えると。
(ちょっと……嬉しい、なんて……?)
一瞬だけ胸の中を満たしかけた甘い何かを、ファイは首を振って払拭した。
喜ぶバカがいるか。本当にどうかしている。
だがそれ以上の否定をする前に、黒鋼のブツがぐっと押し込まれて、考える余裕がなくなった。
「いっ、た……! 痛い……! 無理、絶対に無理ぃ……!!」
それでも石鹸の恐ろしいまでの力を借りて、ずん、と先端が押し入って来た。身を裂かれるような鋭い痛みが全身を駆け抜けて、目の前が真っ赤に染まる。
嫌だ嫌だと叫んで両腕をバタつかせ、必死で逃れようとしても背後から拘束する腕の力には到底及ばない。
結局、宙を空ぶるだけだった両手は浴槽の縁に戻されて、あとは自分の体重を支えるだけで精いっぱいだった。どうしたらいいか分からずに、大きく首を振る。
「いッ……痛い、の……! そんなおっきいの、入るわけないよぉ……!」
怖い。
完全に恐怖に支配されたファイはパニックを起こしかけた。
訳も分からずただ叫び出したいような衝動に囚われて、一気に肺に酸素を取り込んだところで、するりと優しく下腹を撫でられる。
絶叫する寸前で、耳の中に黒鋼の吐息混じりの声が囁かれた。
「その吸った息、ゆっくり吐き出せるか?」
「ヒッ、ぃ、ひ……」
「ゆっくり、できるな?」
ファイはきゅっと目を閉じると、涙を幾筋も溢れさせながらコクコクと頷いた。
震えて途切れ途切れになりながらも、いっそ苦しいほど吸いこんでいた息を吐き出すと「よくできたな」という声と共にさらに強く抱きしめられる。
(なにがよくできた、だ……生意気なんだよ……)
7つも年下のくせに、あんなに小さくて、強がるばかりでひ弱だったくせに。
なのに、信じられないくらい心が落ち着く。痛くて怖くてどうしようもないのに、許してしまいそうになる。
もう身を預けるより他にないのだと察したとき、再び「息を吸え」と言われて従った。その瞬間に合わせて、絶対に無理だと思っていたはずの大きなものが、どすんと中に納まった。
全部入ったぞ、という黒鋼の呼吸も酷く乱れていて、ファイは涙と一緒に嗚咽を漏らした。
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仕返し、の一言で片づけられるのは、正直心外だった。
この男は、大きな勘違いをしている。仕返しなんてそんな子供じみた真似に、今の黒鋼は興味がなかった。
昔はいつか絶対に同じだけの目に遭わせてやろうと、呪詛のように胸に刻む日々を送っていたけれど。
成長につれて、募るのは恋しさばかりだった。
家族揃って元の家へ戻り、隣にはもう見ず知らずの他人しかいないと知った時の、あの喪失感を思い出す。
物心ついた頃からよくしてくれていた老夫婦の死を知り、一応は親戚だと言う見知らぬ夫婦にファイの居場所を聞いたが、彼らは「さぁねぇ」と首を傾げるだけだった。
その余所余所しさは不快でしかなく、果たしてファイはどんな形でこの家を離れたのかと、思いを巡らせるだけで切なさを覚えた。
追われるばかりだった黒鋼は、その時からずっとファイの背を追っていた。
ファイが本当に昔言っていたように、教師になっているとは限らなかった。まだ日本にいるのかどうかも。
それでも進路を決める上で最大のキッカケにはなった。自分の性にも合っているような気がしたし、心の奥底では『もしかしたら』という期待もあった。
そんな中、大学の講師が偶然この学園の卒業生で、なかなか実習先が決まらずにいた黒鋼は、その講師の口利きの元ここでの実習が決まった。
あらかじめ下調べをしていた折に、またも偶然ファイがこの学園にいることを知り、強い引力のようなものを感じて胸が震えた。
再会した彼は髪が伸びたという変化を除き、あの頃のままの姿で黒鋼の前に姿を現した。その変わらなさに、積もり積もった恋しさは愛しさに変わった。
黒鋼の中にあるこの熱情を、本人が知りもしないのは無理もない。仕返しだなどと、そう思い込まれても。
実はこう見えて密かに浮かれていたのは事実だった。若さも手伝い、自制が利かずについ欲求を最優先にしてしまった。
もしファイのことをひたすら嫌煙していた頃の自分が今の状態を知ったら、きっと泡を吹いて倒れるどころの騒ぎでは収まらないだろう。
初恋の相手を、馬鹿の一つ覚えのように思い続けたまま大人になってしまうなんて、その相手が、よりによってこいつだなんて。
*
「わっ、わっ、えっ、ちょっと……!?」
ソファから立ち上がり、おもむろに手を伸ばせばファイは咄嗟に身を引こうとした。
だが、それよりも早く腕を掴むと強く引き寄せ、そのまま流れるような動きでヒョイと肩に担ぎ上げる。
「ッ!?」
息を飲む気配の後、ギャアギャアと騒ぎ出したファイによって背中をドカドカと叩かれるが、痛くも痒くもない。
そんなことよりも、想像以上に薄い身体とその非力さに驚く。こんなにもくみしやすい相手に、昔の自分は手の平で転がされていたのか。そう思うと、実に久方ぶりに『悔しい』という感情が込み上げた。
弄ばれる屈辱を懐かしみながら、同時に腹立たしさが蘇る。
「ぅあ……っ!!」
華奢な身体を担いだまま移動して、ベッドに向かって乱暴に放ったのはちょっとした八つ当たりだ。弾みで幾度かバウンドした身体は強張りながらも、すぐに逃げの態勢を整えようとするが、許さない。
すかさずベッドに乗り上げて、両手を頭上で一纏めにする形でシーツに縫いつける。
黒鋼が何をするつもりなのかを察したらしいファイは、途端に青褪めた表情を浮かべた。
ゾクリとした。
再会を果たしてからというもの、この僅かな時間でファイの様々な表情を見たように思う。戸惑いの顔、呆けたようにポカンと口を開けた顔、怒った顔や、焦った顔。どれも人間味があって新鮮だったが、今のこれはかなり、ぐっと来る。
今なら昔、なぜファイが自分に対して嫌がらせめいたちょっかいを仕切りにかけたがっていたのかが、分かるような気がした。
これは癖になりそうだ。
「あ、あのね黒たん?」
「なんだ」
「オレ、謝ったよねー?」
「ああ、欠片も気持ちはこもってなかったみてぇだがな」
「今からもう一回、ちゃんと気持ち込めたら、このフラグって回避できたりする……?」
引き攣る口元で、なんとか笑おうとして失敗しているのが見て取れる。
それほど余裕がないのかと思うと、黒鋼は口元が緩むのを抑えきれず、小さく鼻で笑って「それは難しいな」と答えた。
「どっちみち手ぇ出す気でいたからな、俺は」
「っ、て、手……!?」
「どうせなら、たっぷり昔の恩返しするってのも乙かもしれねぇよな?」
「そ、そんなの……ッ!」
尚も何か言い募ろうとするうるさい唇を、噛みつくような激しさで塞いだ。必死で逃れようとする身体は体重をかけてしっかりと押さえつける。
これが全力なのかと思えるほど、その抵抗はか弱いものに思えた。
(俺のもんだ)
爆発的に膨らむ支配欲。目の前にぶら下がるご馳走はかつての天敵であり、黒鋼に恋という感情を植え付けた張本人だ。
苦しげに呻く声を、その呼吸すら奪いながら狭い口内を蹂躙する。逃げまどう舌を捕えることさえ簡単で、散々擦りあげてから緩く吸ってやる。こいつはこれに弱いらしい。今朝知ったばかりの弱点。
呻く声に甘さが混ざり、肩が一度大きく跳ねるのが分かる。もがき続けていたファイの身体からは、徐々に抵抗の色が失われていった。
散々嬲ってから解放してやれば、酸欠に赤く染まった目元と潤んだ瞳が揺れていた。はかはかと浅い呼吸を繰り返しながら、彼は黒鋼を睨むと濡れた唇を一度だけきゅっと結んだ。
「ずるい……」
なにがだよ、と苦笑すると、ファイの眉間の皺が深くなる。
「も、いいでしょ……こういうことは、ちゃんと、好きな子としなよ……」
「してるじゃねぇか」
「そういうの、もういいって……ちゃんと謝るから、もうからかわないでよ」
「からかってねぇ」
全く、人の気も知らないで。
幼き日、自分がこの男への想いに気づくのにどれだけ苦悩したと思っているのか。
黒鋼はほんの少しの苛立ちと、もう後には引けないほど火のついた欲求に身を任せ、ファイの顎を掴むとその頬にも唇を落とした。
獲物を味見するように、舌を這わせる。ビクリという反応さえも体重で封じて、そのまま白い首筋に吸いつきながらインナーの裾から手を潜り込ませた。
「ぅ、そ、でしょ? ッ、ねぇ! 本気!?」
騒ぎ出したファイが、再び身を捩りだした。
火事場の馬鹿力という表現がしっくり来るような暴れっぷりに、行為を中断せざるをえなくなる。少しは落ち着いて堪能させろという不満は、ひとまず飲みこんだ。
黒鋼は、「うるせぇな」と呟くと潜り込ませていた手を引き抜き、僅かに身体を浮かせた。
チャンスとばかりに隙間に膝を捻じ込もうとする足の動きを、大きく開かせるように身体を割り込ませ、身動きできなくする。そして服の上から股間を乱暴に鷲掴みにする。そこは彼の抵抗とは真逆の変化を見せていた。
ヒ、という短い悲鳴を上げて、ファイは身を強張らせた。最大の弱点を押さえ、黒鋼は余裕たっぷりに笑う。
「なんだ? これは」
「ちょ、と! 洒落に、なってな……ッ」
「口吸われただけでこんなにして、抵抗も糞もねぇよな?」
「生理現象だってば! オレの意思じゃな、ぁッ、あの、ホント、離して……」
訴えを無視してその場所をゆるゆると揉んだ。
やだ、という悲鳴に煽られながら、強弱をつけて硬さの増すそこを刺激していく。服の上からでもその場所に熱が集まっているのが分かった。
上がっていく息使いは「嫌だ」と繰り返す割にはどこか甘くもある。
生理現象、と彼は言ったが、ここまで反応を示すとなると、それはつまり生理的な嫌悪感そのものがない、ということだ。きっと本人は気づいていないし、この分ではそう簡単に認めるとも思えないが。
それにしても、この身体は随分と感度がいいらしい。これには正直、黒鋼も内心驚きを隠せなかった。
「ぃ、た、痛いよ! やめ、て!」
「嘘つけ。窮屈そうに膨らんでるぜ」
「やだ、嘘だそんなの……!」
なら見てやろうじゃないかと、器用に片手でベルトを外して前も寛げてしまう。その間も一纏めにした両手首は放さない。縫いつけていたそれはシーツからは離れたが、ファイの胸の上に押し付けるようにしてさらに強く拘束した。
下着が覗き、ウエストのゴムに爪を引っ掛けるとファイと目を合わせる。
「よく見てろよ?」
短く告げて、嫌々と首を振るのも構わず引き下げた瞬間、強制的に高ぶらされた熱の塊が見事に顔を出した。
*
「ほらな」
にやりと笑う黒鋼に、ファイは咄嗟に何も言い返すことが出来ずにただ全身を赤に染める。
この身体に一体何が起こっているというのか、こうして見せつけられても頭の中で収拾がつかなかった。
自分の意思とは裏腹に、あの執拗な口付けが灯した火はそう簡単に鎮まる気配がない。
黒鋼のキスはあまりにも激しくて、強引なのに確実に弱点を捉え、こちらに考える隙を与えなかった。
そこへ来て急所を刺激されたのでは、きっと誰だってこうなると……そう思いたい。
「こ、こんなの誰だって、こんなことされたら……!」
「馬鹿」
「んなっ!?」
身体を伸ばしてきた黒鋼の顔がぐっと近づく。
咄嗟に顔を背けてぎゅっと目を瞑ると、耳元に低い声が熱い息と一緒に吹き込まれた。
「いい加減、気づけ」
「な、にを、あっ、ちょっと、やめ……!」
耳たぶを嬲られながら、下着からすっかり顔を出していた性器を手の平で握りこまれる。水音をたてながら、耳の穴に舌が差し込まれると、情けないほど身体が震えた。
もっと育てとばかりに加えられる性器への刺激は絶妙な力加減で、いけないと思いつつ抗えない。
「ぃ、や……ぁッ……あっ、あっ、や、だ……!」
こなんなにも一方的に攻められるなんて、生まれて初めての経験だった。
性器を扱く手は大きくて、押さえつける腕は力強くて、今更のように相手は女性ではなく、自分と同じ『雄』なのだと意識させられる。
(オレ、男に……黒たん、に)
いいように、弄ばれているのに。
(ばか、何考えて……)
あの美しい、獣のような若い身体がこんなにも近くにあって、ほんのりと汗ばんでいる。無意識のうちに、ファイは物欲しげに喉を鳴らしていた。
一瞬だけ、幼い少年の姿が脳裏を掠めて、すぐに消える。
(ああ、ダメだ)
本来なら抱かなければならないはずの不快感が、どこを探しても見当たらない。それどころか背筋を駆け上がったのは甘い痺れで、その感覚が腰の中心へと痛いほど伝わる。
いつしか胸の上でクロスするように押さえ込まれていた両腕が、自由になっていた。なのに、逃れようとする意思がどこか遠くにある。
そんなものよりもずっと近い場所に、大きな快感の波が押し寄せていた。きっと自分は、この波に溺れる。
「ビクビクいってるぜ。おまえのここ」
「ふ、ぁ……ッ、ダメ、耳、そこで、喋らない、で……!」
「なぁ、いいって言えよ。もっと鳴いてみろ」
「んんっあッ、だ、め……! 声、その声、感じる……!」
黒鋼の肩に縋りつきながら訴えると、彼は一瞬意外そうに目を見開き、そして小さく笑った。
解けかけた乱れ髪を大きな手で撫でられると、それさえも刺激となって熱に浮かされた思考が完全に蕩けた。
手淫は休むことなく、先走りに助けられた大きな手が滑らかに絡みつく。水音と己の喘ぎが重なり、熱気を帯びた室内にいやらしく響き渡っていた。
「いっ、ぁ、でる……! も、んっ、離し……!」
「いいぜ、見ててやる」
「やだ! 見ないで……イクとこッ、おねが……ッ!」
そう思えば思うほどに、羞恥心があらぬ方向へと形を変える。辱めを受ける姿を見られて、感じてしまうなんて。
(オレ、頭おかしくなったのもしれない……)
一層強く限界まで膨らんだ性器を擦られて、黒鋼の肩に爪を立てながら背を反らした。
「――ッ!!」
喉を圧迫されているような息苦しさの中で、ファイは声もなくあっけなく果てた。爪先でぎゅうっとシーツを掻き、大きく身を強張らせる。
黒鋼の手を汚してしまうと分かっていても、噴きだすような射精を止める術はなかった。
あ、あ、とか細く呻きながら張りつめた身体は、白濁を出しきると同時に弛緩した。深く息を吸い込むことができず、脆弱な呼吸と共に身体が不規則に痙攣する。
蕩け切った思考は煙に巻かれたように輪郭を失ったまま、ファイは赤い目元でぼんやりと焦点を合わせられずにいた。
心臓が内側から突き破ってきそうなほど、ドクドクとのたうっている。
「ずいぶん出たな。溜ってたか?」
黒鋼が感心したように、べっとりと濡れた己の手を眺めて言った。
ファイはもう恥じる気力も怒る意欲も湧かず、ただ重苦しい倦怠感の中で茫然と天井を見上げるだけだった。
*
目を覚ますと、昨日の衣服のままベッドの中にいた。
だるさを引きずりながらゆっくり身を起こすと、幾度か瞬きをして頭を振る。
カーテンは閉められたままだったが、隙間から射し込む光の白さに気づいて、ふと時計を見やる。
「う!?」
針は丁度10時を指そうとする頃で、とんだ大遅刻だと肝が冷えた。が、すぐに今日は土曜だったことを思い出す。
あー、という掠れた声を漏らしながら、再びベッドに沈み込んだ、のも束の間、ファイは勢いよく起き上がると上掛けをめくり上げて、自分の身なりに目を走らせた。両手で胸やら腹をまさぐり、身体の中心がどうなっているかを確かめる。
「着てる……服、ちゃんと……」
途中までたくし上げられていた上も、すっかり前を肌蹴られた下も。ベルトは床に投げ出されているが、他は何事もなかったかのように整えられていた。いっそ夕べのことは夢だったのかと思えるほど、綺麗に。
けれど夢じゃないことはまさにこの格好が示していた。風呂にも入れず、寝巻に着替えることさえ出来なかったことが。
あの後ファイは、すぐに意識を保つことを放棄した。異様な眠気と疲労感に襲われて、瞼を閉じた瞬間には一気に眠りに落ちていた気がする。
だからその先どうなったかは知らない。どうやら最後までは、いかなかったようだが。
「しんっじらんない……」
ファイは額にかかる鬱陶しい前髪をぐしゃりと掴む。身体と心が鉛のように重く、絶望感だけがそこにはあった。
いっそのこと、記憶が全て飛んでいてくれたらよかった。脳裏に甦る昨夜の出来事。あの黒鋼に好き勝手されて、誤魔化しようがないくらい悶えた。
自分のものとは思えないような情けない声を上げて、縋りついていたのは理性なんてアテにならないものじゃなく、目の前の男の肩だった。
「ああぁぁ! もう消えたい……!」
今更になって、泣きたくなってくる。そして無性に『黒鋼』に会いたかった。無駄にでかくなった方ではなく、小さくて可愛らしかった頃の黒鋼に。
本当はどこか別の場所にいて、今もまだ小さいままでいるんじゃないか。そんな夢みたいなことを考える自分が滑稽で、でも、そうであって欲しいと心から願わずにはいられない。
「そういえばどこ行ったんだろ? あの黒ばかすけは……」
姿が見えないのは助かるが、一応は気になる。
部屋のどこにも気配すらないところを見ると、何かしら用事でもあって出かけたのだろう。
「いいやあんなの、もう知らない……」
とりあえずもうこれ以上は何も考えたくなくて、ファイはシャワーを浴びるべくベッドを抜け出した。
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この男は、大きな勘違いをしている。仕返しなんてそんな子供じみた真似に、今の黒鋼は興味がなかった。
昔はいつか絶対に同じだけの目に遭わせてやろうと、呪詛のように胸に刻む日々を送っていたけれど。
成長につれて、募るのは恋しさばかりだった。
家族揃って元の家へ戻り、隣にはもう見ず知らずの他人しかいないと知った時の、あの喪失感を思い出す。
物心ついた頃からよくしてくれていた老夫婦の死を知り、一応は親戚だと言う見知らぬ夫婦にファイの居場所を聞いたが、彼らは「さぁねぇ」と首を傾げるだけだった。
その余所余所しさは不快でしかなく、果たしてファイはどんな形でこの家を離れたのかと、思いを巡らせるだけで切なさを覚えた。
追われるばかりだった黒鋼は、その時からずっとファイの背を追っていた。
ファイが本当に昔言っていたように、教師になっているとは限らなかった。まだ日本にいるのかどうかも。
それでも進路を決める上で最大のキッカケにはなった。自分の性にも合っているような気がしたし、心の奥底では『もしかしたら』という期待もあった。
そんな中、大学の講師が偶然この学園の卒業生で、なかなか実習先が決まらずにいた黒鋼は、その講師の口利きの元ここでの実習が決まった。
あらかじめ下調べをしていた折に、またも偶然ファイがこの学園にいることを知り、強い引力のようなものを感じて胸が震えた。
再会した彼は髪が伸びたという変化を除き、あの頃のままの姿で黒鋼の前に姿を現した。その変わらなさに、積もり積もった恋しさは愛しさに変わった。
黒鋼の中にあるこの熱情を、本人が知りもしないのは無理もない。仕返しだなどと、そう思い込まれても。
実はこう見えて密かに浮かれていたのは事実だった。若さも手伝い、自制が利かずについ欲求を最優先にしてしまった。
もしファイのことをひたすら嫌煙していた頃の自分が今の状態を知ったら、きっと泡を吹いて倒れるどころの騒ぎでは収まらないだろう。
初恋の相手を、馬鹿の一つ覚えのように思い続けたまま大人になってしまうなんて、その相手が、よりによってこいつだなんて。
*
「わっ、わっ、えっ、ちょっと……!?」
ソファから立ち上がり、おもむろに手を伸ばせばファイは咄嗟に身を引こうとした。
だが、それよりも早く腕を掴むと強く引き寄せ、そのまま流れるような動きでヒョイと肩に担ぎ上げる。
「ッ!?」
息を飲む気配の後、ギャアギャアと騒ぎ出したファイによって背中をドカドカと叩かれるが、痛くも痒くもない。
そんなことよりも、想像以上に薄い身体とその非力さに驚く。こんなにもくみしやすい相手に、昔の自分は手の平で転がされていたのか。そう思うと、実に久方ぶりに『悔しい』という感情が込み上げた。
弄ばれる屈辱を懐かしみながら、同時に腹立たしさが蘇る。
「ぅあ……っ!!」
華奢な身体を担いだまま移動して、ベッドに向かって乱暴に放ったのはちょっとした八つ当たりだ。弾みで幾度かバウンドした身体は強張りながらも、すぐに逃げの態勢を整えようとするが、許さない。
すかさずベッドに乗り上げて、両手を頭上で一纏めにする形でシーツに縫いつける。
黒鋼が何をするつもりなのかを察したらしいファイは、途端に青褪めた表情を浮かべた。
ゾクリとした。
再会を果たしてからというもの、この僅かな時間でファイの様々な表情を見たように思う。戸惑いの顔、呆けたようにポカンと口を開けた顔、怒った顔や、焦った顔。どれも人間味があって新鮮だったが、今のこれはかなり、ぐっと来る。
今なら昔、なぜファイが自分に対して嫌がらせめいたちょっかいを仕切りにかけたがっていたのかが、分かるような気がした。
これは癖になりそうだ。
「あ、あのね黒たん?」
「なんだ」
「オレ、謝ったよねー?」
「ああ、欠片も気持ちはこもってなかったみてぇだがな」
「今からもう一回、ちゃんと気持ち込めたら、このフラグって回避できたりする……?」
引き攣る口元で、なんとか笑おうとして失敗しているのが見て取れる。
それほど余裕がないのかと思うと、黒鋼は口元が緩むのを抑えきれず、小さく鼻で笑って「それは難しいな」と答えた。
「どっちみち手ぇ出す気でいたからな、俺は」
「っ、て、手……!?」
「どうせなら、たっぷり昔の恩返しするってのも乙かもしれねぇよな?」
「そ、そんなの……ッ!」
尚も何か言い募ろうとするうるさい唇を、噛みつくような激しさで塞いだ。必死で逃れようとする身体は体重をかけてしっかりと押さえつける。
これが全力なのかと思えるほど、その抵抗はか弱いものに思えた。
(俺のもんだ)
爆発的に膨らむ支配欲。目の前にぶら下がるご馳走はかつての天敵であり、黒鋼に恋という感情を植え付けた張本人だ。
苦しげに呻く声を、その呼吸すら奪いながら狭い口内を蹂躙する。逃げまどう舌を捕えることさえ簡単で、散々擦りあげてから緩く吸ってやる。こいつはこれに弱いらしい。今朝知ったばかりの弱点。
呻く声に甘さが混ざり、肩が一度大きく跳ねるのが分かる。もがき続けていたファイの身体からは、徐々に抵抗の色が失われていった。
散々嬲ってから解放してやれば、酸欠に赤く染まった目元と潤んだ瞳が揺れていた。はかはかと浅い呼吸を繰り返しながら、彼は黒鋼を睨むと濡れた唇を一度だけきゅっと結んだ。
「ずるい……」
なにがだよ、と苦笑すると、ファイの眉間の皺が深くなる。
「も、いいでしょ……こういうことは、ちゃんと、好きな子としなよ……」
「してるじゃねぇか」
「そういうの、もういいって……ちゃんと謝るから、もうからかわないでよ」
「からかってねぇ」
全く、人の気も知らないで。
幼き日、自分がこの男への想いに気づくのにどれだけ苦悩したと思っているのか。
黒鋼はほんの少しの苛立ちと、もう後には引けないほど火のついた欲求に身を任せ、ファイの顎を掴むとその頬にも唇を落とした。
獲物を味見するように、舌を這わせる。ビクリという反応さえも体重で封じて、そのまま白い首筋に吸いつきながらインナーの裾から手を潜り込ませた。
「ぅ、そ、でしょ? ッ、ねぇ! 本気!?」
騒ぎ出したファイが、再び身を捩りだした。
火事場の馬鹿力という表現がしっくり来るような暴れっぷりに、行為を中断せざるをえなくなる。少しは落ち着いて堪能させろという不満は、ひとまず飲みこんだ。
黒鋼は、「うるせぇな」と呟くと潜り込ませていた手を引き抜き、僅かに身体を浮かせた。
チャンスとばかりに隙間に膝を捻じ込もうとする足の動きを、大きく開かせるように身体を割り込ませ、身動きできなくする。そして服の上から股間を乱暴に鷲掴みにする。そこは彼の抵抗とは真逆の変化を見せていた。
ヒ、という短い悲鳴を上げて、ファイは身を強張らせた。最大の弱点を押さえ、黒鋼は余裕たっぷりに笑う。
「なんだ? これは」
「ちょ、と! 洒落に、なってな……ッ」
「口吸われただけでこんなにして、抵抗も糞もねぇよな?」
「生理現象だってば! オレの意思じゃな、ぁッ、あの、ホント、離して……」
訴えを無視してその場所をゆるゆると揉んだ。
やだ、という悲鳴に煽られながら、強弱をつけて硬さの増すそこを刺激していく。服の上からでもその場所に熱が集まっているのが分かった。
上がっていく息使いは「嫌だ」と繰り返す割にはどこか甘くもある。
生理現象、と彼は言ったが、ここまで反応を示すとなると、それはつまり生理的な嫌悪感そのものがない、ということだ。きっと本人は気づいていないし、この分ではそう簡単に認めるとも思えないが。
それにしても、この身体は随分と感度がいいらしい。これには正直、黒鋼も内心驚きを隠せなかった。
「ぃ、た、痛いよ! やめ、て!」
「嘘つけ。窮屈そうに膨らんでるぜ」
「やだ、嘘だそんなの……!」
なら見てやろうじゃないかと、器用に片手でベルトを外して前も寛げてしまう。その間も一纏めにした両手首は放さない。縫いつけていたそれはシーツからは離れたが、ファイの胸の上に押し付けるようにしてさらに強く拘束した。
下着が覗き、ウエストのゴムに爪を引っ掛けるとファイと目を合わせる。
「よく見てろよ?」
短く告げて、嫌々と首を振るのも構わず引き下げた瞬間、強制的に高ぶらされた熱の塊が見事に顔を出した。
*
「ほらな」
にやりと笑う黒鋼に、ファイは咄嗟に何も言い返すことが出来ずにただ全身を赤に染める。
この身体に一体何が起こっているというのか、こうして見せつけられても頭の中で収拾がつかなかった。
自分の意思とは裏腹に、あの執拗な口付けが灯した火はそう簡単に鎮まる気配がない。
黒鋼のキスはあまりにも激しくて、強引なのに確実に弱点を捉え、こちらに考える隙を与えなかった。
そこへ来て急所を刺激されたのでは、きっと誰だってこうなると……そう思いたい。
「こ、こんなの誰だって、こんなことされたら……!」
「馬鹿」
「んなっ!?」
身体を伸ばしてきた黒鋼の顔がぐっと近づく。
咄嗟に顔を背けてぎゅっと目を瞑ると、耳元に低い声が熱い息と一緒に吹き込まれた。
「いい加減、気づけ」
「な、にを、あっ、ちょっと、やめ……!」
耳たぶを嬲られながら、下着からすっかり顔を出していた性器を手の平で握りこまれる。水音をたてながら、耳の穴に舌が差し込まれると、情けないほど身体が震えた。
もっと育てとばかりに加えられる性器への刺激は絶妙な力加減で、いけないと思いつつ抗えない。
「ぃ、や……ぁッ……あっ、あっ、や、だ……!」
こなんなにも一方的に攻められるなんて、生まれて初めての経験だった。
性器を扱く手は大きくて、押さえつける腕は力強くて、今更のように相手は女性ではなく、自分と同じ『雄』なのだと意識させられる。
(オレ、男に……黒たん、に)
いいように、弄ばれているのに。
(ばか、何考えて……)
あの美しい、獣のような若い身体がこんなにも近くにあって、ほんのりと汗ばんでいる。無意識のうちに、ファイは物欲しげに喉を鳴らしていた。
一瞬だけ、幼い少年の姿が脳裏を掠めて、すぐに消える。
(ああ、ダメだ)
本来なら抱かなければならないはずの不快感が、どこを探しても見当たらない。それどころか背筋を駆け上がったのは甘い痺れで、その感覚が腰の中心へと痛いほど伝わる。
いつしか胸の上でクロスするように押さえ込まれていた両腕が、自由になっていた。なのに、逃れようとする意思がどこか遠くにある。
そんなものよりもずっと近い場所に、大きな快感の波が押し寄せていた。きっと自分は、この波に溺れる。
「ビクビクいってるぜ。おまえのここ」
「ふ、ぁ……ッ、ダメ、耳、そこで、喋らない、で……!」
「なぁ、いいって言えよ。もっと鳴いてみろ」
「んんっあッ、だ、め……! 声、その声、感じる……!」
黒鋼の肩に縋りつきながら訴えると、彼は一瞬意外そうに目を見開き、そして小さく笑った。
解けかけた乱れ髪を大きな手で撫でられると、それさえも刺激となって熱に浮かされた思考が完全に蕩けた。
手淫は休むことなく、先走りに助けられた大きな手が滑らかに絡みつく。水音と己の喘ぎが重なり、熱気を帯びた室内にいやらしく響き渡っていた。
「いっ、ぁ、でる……! も、んっ、離し……!」
「いいぜ、見ててやる」
「やだ! 見ないで……イクとこッ、おねが……ッ!」
そう思えば思うほどに、羞恥心があらぬ方向へと形を変える。辱めを受ける姿を見られて、感じてしまうなんて。
(オレ、頭おかしくなったのもしれない……)
一層強く限界まで膨らんだ性器を擦られて、黒鋼の肩に爪を立てながら背を反らした。
「――ッ!!」
喉を圧迫されているような息苦しさの中で、ファイは声もなくあっけなく果てた。爪先でぎゅうっとシーツを掻き、大きく身を強張らせる。
黒鋼の手を汚してしまうと分かっていても、噴きだすような射精を止める術はなかった。
あ、あ、とか細く呻きながら張りつめた身体は、白濁を出しきると同時に弛緩した。深く息を吸い込むことができず、脆弱な呼吸と共に身体が不規則に痙攣する。
蕩け切った思考は煙に巻かれたように輪郭を失ったまま、ファイは赤い目元でぼんやりと焦点を合わせられずにいた。
心臓が内側から突き破ってきそうなほど、ドクドクとのたうっている。
「ずいぶん出たな。溜ってたか?」
黒鋼が感心したように、べっとりと濡れた己の手を眺めて言った。
ファイはもう恥じる気力も怒る意欲も湧かず、ただ重苦しい倦怠感の中で茫然と天井を見上げるだけだった。
*
目を覚ますと、昨日の衣服のままベッドの中にいた。
だるさを引きずりながらゆっくり身を起こすと、幾度か瞬きをして頭を振る。
カーテンは閉められたままだったが、隙間から射し込む光の白さに気づいて、ふと時計を見やる。
「う!?」
針は丁度10時を指そうとする頃で、とんだ大遅刻だと肝が冷えた。が、すぐに今日は土曜だったことを思い出す。
あー、という掠れた声を漏らしながら、再びベッドに沈み込んだ、のも束の間、ファイは勢いよく起き上がると上掛けをめくり上げて、自分の身なりに目を走らせた。両手で胸やら腹をまさぐり、身体の中心がどうなっているかを確かめる。
「着てる……服、ちゃんと……」
途中までたくし上げられていた上も、すっかり前を肌蹴られた下も。ベルトは床に投げ出されているが、他は何事もなかったかのように整えられていた。いっそ夕べのことは夢だったのかと思えるほど、綺麗に。
けれど夢じゃないことはまさにこの格好が示していた。風呂にも入れず、寝巻に着替えることさえ出来なかったことが。
あの後ファイは、すぐに意識を保つことを放棄した。異様な眠気と疲労感に襲われて、瞼を閉じた瞬間には一気に眠りに落ちていた気がする。
だからその先どうなったかは知らない。どうやら最後までは、いかなかったようだが。
「しんっじらんない……」
ファイは額にかかる鬱陶しい前髪をぐしゃりと掴む。身体と心が鉛のように重く、絶望感だけがそこにはあった。
いっそのこと、記憶が全て飛んでいてくれたらよかった。脳裏に甦る昨夜の出来事。あの黒鋼に好き勝手されて、誤魔化しようがないくらい悶えた。
自分のものとは思えないような情けない声を上げて、縋りついていたのは理性なんてアテにならないものじゃなく、目の前の男の肩だった。
「ああぁぁ! もう消えたい……!」
今更になって、泣きたくなってくる。そして無性に『黒鋼』に会いたかった。無駄にでかくなった方ではなく、小さくて可愛らしかった頃の黒鋼に。
本当はどこか別の場所にいて、今もまだ小さいままでいるんじゃないか。そんな夢みたいなことを考える自分が滑稽で、でも、そうであって欲しいと心から願わずにはいられない。
「そういえばどこ行ったんだろ? あの黒ばかすけは……」
姿が見えないのは助かるが、一応は気になる。
部屋のどこにも気配すらないところを見ると、何かしら用事でもあって出かけたのだろう。
「いいやあんなの、もう知らない……」
とりあえずもうこれ以上は何も考えたくなくて、ファイはシャワーを浴びるべくベッドを抜け出した。
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下の階から警備員が「なんか凄い音がしましたが」なんて言いながら悠長に顔を出し、場の空気に一通り凍りついてから慌てて男を取り押さえた。
すぐに110番され、警察が駆けつけるという事態に発展したものの、残っている人間が少なかったことで、ひとまずその場で大きな騒ぎにまではならなかった。
警備員が駆け付けた段階で、男は思いっきり陰部をさらした状態だったし、ファイの様子や現場の空気から明らかに性的な内容を含む暴行を受けたことは知られてしまっていた。
が、その場で簡易的に受けた警察の事情聴取では、黒鋼と警備員がファイを気遣い、上手くフォローを入れてくれたことで性的な部分はどうにか伏せられた。
表向きは女子生徒に人気のある化学教師を、容姿にコンプレックスを持つ男が一方的に妬み、ストーカー紛いの行為をしたあげく暴行を加えた、ということで落ち着いた。
そして男は袋に詰められた証拠品と共にパトカーに乗せられ、夜の街へと消えて行った。
詳しい事情聴取は後日に回し、その後ファイは夜間の救急病院へ向かった。
車は警備員が貸してくれたも。もちろん運転したのは黒鋼だ。助手席でなんとなくモジモジしながら、あんなに小さかった少年が、今やナチュラルにハンドルをさばく姿にときめきを覚えてしまったことは、秘密だ。
病院では、もっとも心配された頭部は思いのほか軽傷で、医者に見せる頃には出血も止まっていた。念のため後日大きな病院で検査することを進められたが、ひとまず薬を処方されるだけで帰宅することを許された。
その頃には、外はうっすら白みはじめていた。
*
病院へ行くまでは下手に傷に触れることもできず、顔や髪をタオルで拭くしかできなかったファイは、部屋に帰宅したと同時に風呂場に駆け込んだ。
シャワーを浴びるとあらゆる傷が痛んだが、それよりも男が触れた場所全てを、特に体液を擦りつけられた箇所をひたすら石鹸を含ませたスポンジで擦った。
(洗っても洗っても、落ちない気がする……)
こうして甘い花の香りに包まれてなお、あの生臭い嫌な臭いが鼻の奥にこびりついていた。
思っていた以上に精神的なダメージの方が大きく、ようやく安心できる場所に戻って来ても、思い出すと指先が震えた。
「おい、大丈夫か」
夢中でその作業に没頭していたファイは、曇りガラスの向こうからかけられた声に肩をビクつかせた。
返事をするのが遅れたせいで、心配した黒鋼が勢いよくドアを開ける。
「わっ!」
「おまえ、もう一時間以上も何して……」
泡まみれで硬直したファイの身体を見て、黒鋼は怪訝そうな顔をする。
そして無言でシャツとジャージのまま中に押し入って来た。
「ちょ、っと、まだ終わってな……!」
「この馬鹿が。血が滲むまで擦る奴があるか」
「え……?」
言われて初めて気がついた。
黒鋼がスポンジを取り上げ、水圧を下げたシャワーをファイに向けて噴射する。首筋や上半身の所々が、男に受けた傷にさらに血を滲ませる形で悪化していた。
「ごめん……」
何に対しての謝罪なのかもよく分からないまま、ファイはただ項垂れた。黒鋼は無言でファイの身体の泡をシャワーで流している。
服がどんどん濡れていくことにいたたまれなさを感じて「もういいから」と手を伸ばせば、縄で擦り切れた手首を掴まれ、引き寄せられた。
シャワーヘッドが音を立てて床に落ちる。
抱きしめられた途端、あの男の臭いが黒鋼の香りで上書きされるのを感じた。こうされると、やっと楽に呼吸が出来るような気さえしてホッとする。
それでも黒鋼が服を着たままだということを思い出し、今更ながらに慌てて身じろぎかけた身体を、さらに強く抱きこまれた。
「ねぇ、苦しいよ……」
「いいからもう少し、このままでいさせろ」
「…………」
またのぼせあがって、熱を出してしまいそうだと思った。多分、抱かれていなければとっくに崩れ落ちている。
心配させてしまったことがひしひしと伝わって、申し訳なさに唇を噛む。熱いくらいの温もりと、伝わる鼓動に目頭が痛んだ。
躊躇いがちに両腕を上げて、その背中に手を這わせた。広くて、大きい。昔は背負うことだって出来た身体に、今はしがみつくので精一杯だった。
「……間に合った、とは言い切れねぇよな。この有様じゃあ」
「うぅん、間に合ったよ。じゃなきゃオレ、今頃ここにいなかったと思うし」
これは警察を待つ間、警備員からこっそり聞いた話なのだが。
黒鋼はファイが準備室に逃げ込んだあの金曜の夜から、自分も学校で寝泊まりをしていたらしい。
夜の学校で警備の体験もしたいなどと無理のある理由をつけて仕事を手伝い、三階にも定期的に様子を見に足を運んでいたようだ。
ファイの身の回りに異変が起こっていることに気付いていた黒鋼が、あと少しという所で助けに来られたのは、そういう過保護なカラクリがあったからなのだ。
確かに彼は『自分が出て行く』と宣言していたが、まさかそんなことまでしていたなんて。それを聞いたファイはいっそ呆れて物も言えなかった。
実習が大詰めで、やらなければならないことが山積みだろうに。それもあえて自ら口にしない辺り、彼は彼なりにファイのつまらない意地やプライドごと守ろうと、必死になってくれていたのだと感じた。
「……黒ぽんさ」
悪いとは思うが、ファイは黒鋼の腕の中で少しだけ笑ってしまった。
「オレのこと、ちょっと好きすぎるんじゃないかな」
そう言うと、彼は面白くなさそうに「うるせぇ」と言った。
こっそり目線だけ上に向けると、耳が少し赤くなっているのが見える。
こんな大男を捕まえて可愛いなんて思ってしまった自分に、さらに可笑しくなって肩を揺らした。
「おまえ、少し黙っとけ」
「だって、ふふっ、面白い」
「俺は面白くねぇ」
「黒たん、可愛いんだもん」
「……まだ言うかそれ」
舌打ちが聞こえる。
黒鋼の手が首の後ろに伸びて、出会った頃と同じ長さになった髪を梳くように撫でた。
見上げるほどに大きくなった彼の細められた瞳に、ファイは少し照れくさくなって腫れた頬で小さくはにかんだ。
「おまえこそ、こんなにガキ臭かったか?」
「いつまでも若くて変わらないって言ってよね」
「確かに30には見えねぇな」
「だからー、まだギリギリなってないってばー」
ファイが笑うと、黒鋼も少しだけ笑った。
落ち着かないとばかり思っていたその笑い方が、今はこんなにも愛しいと感じる。
背中に回していた腕の力を強めて、ファイはその肩に顔を埋めた。
「あのね、言い忘れてたことがあったの、思い出した」
「ん」
「久しぶりだね、黒たん」
あまりにも今更すぎて、いっそバカらしいとさえ思える、それは再会の挨拶だった。
「また会えて嬉しい。それと……」
――オレも、ずっと大好きだったよ。
*
風呂上がり。
病院で出された鎮痛剤を飲んで痛みはないものの、神経が高ぶっているせいか一向に眠気は訪れなかった。
だから風呂場から出た後、黒鋼ともしそういう流れになったなら、してもいいかな、なんて思っていた。
いや、むしろきっとそうなるだろうと。
……思っていたのだが。
自分も軽く身体を流して出てきた黒鋼は、ファイをしっかり抱きこんだ状態で即座に眠ってしまった。
狭いベッドに身を寄せ合って横たわりながら、期待しまくっていた自分を思いきり恥じる。
外はもはや朝と言っていいほどに白んでいて、眠れる時間はあと僅かしかない。その上いかにタフそうに見えても、彼だって疲れきっているはずだった。本来なら自分のことで手一杯なのに、ハードな日常に自ら追い打ちをかける真似をしたのだから。
しかもよくよく考えてもみれば。
(あいつの感触を忘れさせてほしいのーなんて、そんなベタなこと、恥ずかしくて口が裂けても言えないしね……)
それにこれはこれで悪くないな、なんて。
大きな身体にすっぽり抱き締められていると、不思議と高ぶったままだった感情が静かに凪いでいくのを感じた。
思えば、こうしてただ同じベッドで一緒に眠るというのは初めてのことだった。今更のように、ちょっぴり照れ臭いような、くすぐったい気持ちになってしまう。
「腕、痺れても知らないんだから」
規則正しい寝息に耳を傾けながら、そう呟くと少し笑った。
そしてその首筋に甘えるように額を擦り付けると、ファイもいつしかどっぷりと深い眠りに落ちていった。
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