2025/09/19 Fri 月曜の騒動を受けて学園中は一時騒然とし、新聞の片隅で小さく取り上げられたりもした。 顔の腫れは数日経ってようやくマシにはなったものの、切れた口元にはまだ痛々しい痣が残っている。身体の傷も意外にしつこく消えずにいるが、見えないぶん人目に触れることはない。ただ、ちょっと気を抜くと無意識に引っ掻いてはかさぶたを剥いでしまうこともしばしばあった。 すっかり駄目にされたというより、とてもではないが袖を通す気になれない白衣は処分し、今は新品の皺ひとつないものを身につけている。 後日に伸ばした事情聴取や病院での検査をはじめ、酷い切り方をされた髪を整えるべく、理髪店に足を運んだりとバタバタする中、生徒達はもちろん同僚の教師達、そして教頭や校長まで腫れ物を扱うように接してくるのは申し訳ない半面、少し疲れる。 なにも動けないほどの傷を負わされたわけではないのだから、周りと自分の温度差に戸惑うこともしばしばあった。 あの用務員のことは、今でも許せない。それでもほんの少しだけ、可哀想にも感じられる。他にいくらでもアプローチの仕方はあっただろうに、人との関わり方を正しく知らない彼は、この先もずっと『最愛』を得ることなく生き続けることになるのだろうか。 黒鋼とは、相変わらずただ同じベッドでひっついて眠るだけに落ち着いていた。 忙しいのは分かるのだが、一時は隙あらば触れて来た黒鋼が、あれから全く手を出して寄こさないというのは、どういう了見だろうか。 寝る時はしっかりと抱き込んで離さないくせに、キスのひとつもして来ないなんて。こちらはようやく気持ちを自覚し、いつでも準備万端な状態だというのに。 しかし彼にとっては、今が人生で最も大事な時期であるといっても過言ではないのだ。本来なら惚れた腫れたとうつつを抜かしている場合ではない。 今しばらくの辛抱だと、ファイは黒鋼に触れたい欲求をぐっと堪えているのだった。 * 金曜日、ついに黒鋼の実習が最終日を迎えた。 一階の体育館を一望できる二階の吹き抜けフロアで、ファイは手すりに両肘を預けて彼の最後の授業を見物していた。 実習生の集大成ともいえる公開授業にあたるこの枠を、他にも手の開いた教師達が幾人か訪れて微笑ましそうに眺めている。 種目はバスケットのようで、試合を前にシュートのコツなどを黒鋼自身が実践して生徒達に指導している様子が見て取れた。 (そういえば黒たんって中学でバスケ部だったっけ) 彼の母親が、こっそり「背を伸ばしたいんですって」と教えてくれたのを思い出す。 そんなのただの噂に過ぎないのになぁなんて笑っていた頃、まさか黒鋼があんなにも大きく成長するなんて、予想もしていなかった。 その成長過程を近くで見ていられなかったことを、つくづく口惜しく感じる。 「ちぇー、かっこよくなっちゃって。ずるいなー」 ちょこん、と唇を尖らせながらファイは僅かに頬を火照らせた。 確かにスーツ姿もいいが、黒鋼は何を着ていたって男前だ。いっそ真っ裸でいたってかっこいいし、実は可愛いところもある。 それは昔のように、ただ小さいから可愛い、というのとは少し違う。 男である自分に母性本能なんて呼べるものがあるのかは知らないが、多分それと似たような感覚なのかもしれない。 ふとした瞬間に見せる仕草や表情、物言いが、ファイの心を柔らかくくすぐる。 再会した頃はまるで別人のように感じられたが、今のファイは彼が昔から何ひとつ変わっていないことをよく知っている。優しくて、可愛くて、純粋でひたむきな男なのだということを。 そんなこと、密かに彼に思いを寄せる女子生徒達には、絶対に教えてやらないけれど。 (だってあれ、オレのだからね) こんな風に年甲斐もなく十代の少女たちを相手に優越感に浸ってしまう自分は、相当情けない大人だと思った。 * その日の放課後。 あの事件以来、必要最低限の利用だけに留めていた化学準備室に一人閉じ籠り、ファイは大きなゴミ袋を手に引っ提げていた。 少しは綺麗にしろと偉そうに誰かさんに言われたこともあり、机の中身や、ついでに棚に入っている不要な書類なども全て片付けるつもりだった。 いくら嫌な出来事があった場所といえども、この先も利用しなければならない部屋なのだし。 黒鋼は担当していたクラスでサプライズの送別会があるとかで、まだ戻っていない。それが終わったら、今夜は他の実習生とその担当教官とで飲み会があるとのことだった。 他にも都合のつく教師達も参加するらしいが、ファイはなんとなく辞退した。例の一件のほとぼりが冷めるまでは、きっとどこへ行っても周りに気を使わせることになるからだ。 それに。 正直、ちょっと不貞腐れてもいる。 実習が終わったということは、黒鋼が部屋に居続ける理由はもうない、ということだ。だから一緒に過ごせるのは今夜が最後ということになるわけで。 結局お預けになるのか、なんてがっかりしている自分は、どれだけの欲求不満を持て余しているのかと、自己嫌悪に溜息が尽きない。 そもそも、それ以前に黒鋼は今後こちらに手を出す気があるのかないのか。少し不安になったりもする。 なんだか全く余裕がない。そして面白くない。こちらばかりが心を砕いているようで。 「あー、もう! やめやめ!」 ファイは思いっきり頭を左右に振ると、もやもやとした気持ちを無理やりにでも押しやる。とにかく今は煩悩を遠ざけるため、掃除に没頭することに決めた。 床に膝をついて、カオス状態の机の中をゴソゴソと漁る。びっくりするくらい不必要なガラクタばかりで、これでは黒鋼が呆れかえるのも無理はないと思った。 いつから入っているか知れない飴玉は溶けて、チョコは真っ白に変色しているし、いらないプリント類や古い雑誌なども大量に出て来た。 「あ、これ!」 そんな中に顔を出したのは、色鮮やかなビーズで作られたオモチャのブレスレットだった。 これは昔、近所の夏祭りの帰りに黒鋼から貰ったものだ。 ファイはこれをずっとお守りのように身に着けていたが、この学園に赴任した時に口うるさい年配教師に「いい歳なのだからやめなさい」などと咎められ、仕方なくここにしまい込んだのだった。 その教師はもう定年で退職してここにはいないしと、ファイは嬉々としてそれを左の手首に通した。 「わーい! これオレの宝物ー!」 その割には、今の今まですっかり忘れていたのだが。何度か切れてしまって、その度に少しずつビーズは減ってしまったけれど、その度に直しては大事にしていたつもりだ。 これは黒鋼が、初めてファイにくれたものだから。 「なに一人ではしゃいでんだかな」 「わ!?」 声がして咄嗟に振り向けば、そこには開け放たれていたドア(修理済み)に背を預け、腕を組んだ黒鋼の姿があった。 「お、掃除か」 「ビックリしたー……驚かさないでよー」 送別会を終えたらしい彼は、ジャージから黒のスーツ姿に着替え終えている。 あまりに唐突に声をかけられたせいで少しばかり驚いてしまったが、ファイは気を取り直してふにゃりと笑った。 「今夜は飲み会だよねー? オレは留守番してるから、みんなと楽しんでおいでよー」 一応は我儘な本心を隠して、理解ある大人の態度を示してみる。 黒鋼はそんなファイの手首にはめられているビーズアクセサリーに目を止め、少し呆れた様子で傍までやって来ると、しゃがみ込んだ。 「それ、まだ持ってたのか」 「ふふふ、懐かしいでしょー?」 「馬鹿か。いい歳こいて」 「わー、どっかの誰かさんと同じこと言うんだー」 つんと唇を尖らせると、黒鋼の眉がピクリと動いた。 「どっかの誰かってのはどこのどいつだ? てめぇこら、おい」 「ちょ、怖い顔しないでよー……やきもち?」 「悪いかこの阿呆」 「ッ!」 少女漫画でもあるまいし。きゅん、なんて音がピッタリくるような胸の高鳴りを覚えながら、痣の残る頬を赤く染めた。 小さな子供なら3秒で泣きだしそうな怖い顔をしながら、黒鋼はそんなファイの顎を掴んで上向ける。 目が合うとどうしたらいいか分からなくなって、視線だけ外そうとしたところで唇を奪われた。 「!」 ビクリと肩を揺らし、目を見開いたのは一瞬で、すぐに力を抜くと目を閉じる。唇はすぐに離れたが、たったこれだけで目が潤んでしまうのが心底恥ずかしい。 ファイは顎に添えられたままの黒鋼の手首を取って、咄嗟に赤い顔を背ける。 「また誰かに、見られたら……」 「悪い」 ファイの手を擦り抜けて、黒鋼の手が離れていこうとする。それを目で追いながら、下から突き上げられるような焦燥を覚えた。 ようやく黒鋼から、こうして触れてくれたのに。 衝動的にファイは手を伸ばし、太い手首をぎゅっと握ると震えた息を吐き出した。 「……ね」 「……おう」 「でも、でもね……」 (ああもう……なにバカなこと考えて……) そのまま石のように動かなくなってしまったファイを、黒鋼はただ黙って見守っている。 先を促されていることは承知の上で、言うべき言葉が即座に口から出てこない。本当はもっと触れてほしいし、抱きしめてほしい。以前のように強引にでも奪って暴いて、何も分からなくなるくらい追いつめてほしかった。 「……あのね」 そうだ。この場所も、いけない。 「あいつの感触、まだ残ってて」 「…………」 「ここにいると、これからもずっと思い出しちゃうのかなって……だから」 ……だから? その先を言いかけて、結局は口を噤んだ。 やっぱりいけない。こんな場所で年甲斐も見境もなく、欲しいだなんて。 ファイは情けなく眉を八の字にしながら「あはは」と笑うと、黒鋼の手首を解放した。 「やっぱりなんでもない。今のは聞かなかったことにして。ほら、飲み行くんでしょ?」 行っておいで、と続けようとして、今度は逆に手首を取られた。 大きく目を見開いたファイが視界に捉えたのは、どこか切羽詰まったように唇を引き結び、瞳を細める黒鋼の表情だった。 「く、くろ」 「出来るわけねぇだろ。しっかり聞いちまったもんはよ」 「……ごめん」 「……いいのか」 「ぇ……?」 黒鋼のもう片方の手が伸びて、ファイの未だに痛々しい痕の残る頬を包みこんだ。導かれるように見上げれば、燃えるような赤い瞳と視線がぶつかる。 その赤に、まるで囚われたように身動き一つ取れなくなった。ただ、身体が熱くなる。 「あんなことがあった後で……いいのか?」 「……?」 半ば惚けた状態でいたファイは一瞬、質問の意図が掴めず小首を傾げた。 常に不遜な態度でいた彼が、何やら珍しく躊躇っているらしいことが伝わってくる。 「怖ぇ目にあったばっかだろ。その、だからよ……」 視線だけ余所へやる黒鋼の、いつになく歯切れの悪い台詞を聞いたファイは暫しの間、口をポカンと開けたままだった。ついでにパチパチと忙しなく瞬きを繰り返す。 そしてふと、合点がいく。 なぜこの数日、彼がせいぜい抱き締めるだけで触れて来ようとしなかったのか、その理由に。 「黒たん……もしかして気を遣って……?」 「……悪ぃか」 つまり、彼は性的な暴行を受けた自分を気遣い、自らも性的に手を出すことに足踏みしていた、ということなのか。 「……ぷっ!」 「!?」 堪え切れずに吹き出してしまったファイを、人も殺せそうな鋭い目が睨みつけてくる。それさえも可笑しくて、結局声を上げて笑ってしまった。 確かに最低最悪な出来事だったし、思い出すと未だに吐き気が込み上げる。早く忘れてしまうのが一番だと理解はしていても、身体の傷を見る度にゾッとする瞬間だってある。だがそれよりもファイにとっては、あれ以来まったく黒鋼が手を出してこないことの方が大問題だった。 本当はもうちょっと怯えたり、傷ついている様を醸し出した方が可愛げがあるのだろうが、残念なことにファイはそこまでの繊細さは持ち合わせていなかった。 だから申し訳ないとは思いつつ、笑いを抑えきれない。 「ご、ごめ、あははは! もー! 黒たんはホントにいい子だなー!」 「うるせぇ! ちっと遠慮してやりゃこれか!」 「だ、だって! ぷふっ! い、いまさら……ッ」 「てめぇは昔っからこうだ」 うんざりしたように溜息を零しながらも、照れ臭そうに顔を赤らめる黒鋼は、思いっきり臍を曲げた様子で舌打ちをした。 きっと過去に散々からかわれたことを思い出しているのだろう。苦いものでも噛み潰したような表情が懐かしくて、幾つになってもやっぱり可愛いなぁ、なんて改めて実感してしまう。 ファイ自身、何がここまで可笑しいのか分からないくらい大笑いしてしまったことをほんの少しだけ反省しながらも、目尻に浮かんでいた涙を拭う。 「ごめんってばー。なんかホッとしちゃったっていうのもあって」 「ああ?」 「だって、あんなにがっついてた人が急になんにもしてこなくなるんだもん。今さら放置プレイなんて、ぜーんぜん笑えないよー」 「笑ってんじゃねぇか。思いっきり」 「そうだけどー。飽きられちゃったのかなーとか、色々考えちゃうよ」 「んなわけあるか。何年越しの成就だと思ってやがる」 「…………」 真っ直ぐに見つめられながらそんなことを言われたら、今度はこちらが照れて目を逸らす番だった。何か返したくてもごもごと口を動かそうとすれば「もう黙ってろ」という低い声と共に再び抱き締められて、身体ごと心臓が跳ねた。 こんな風にされるだけで、じわりと広がる甘ったるい感情が胸を満たして溢れそうになる。 広い腕の中にこうして収まりきってしまうと、自分という人間がどこまでもちっぽけな存在に思えた。 だから歳の差なんて遠くへ押しやって、甘えたくなる。 同じだけの強さでその背を抱き返しながら、今ならどんな恥ずかしい言葉だって平気で口に出来そうな気がした。 「黒たん、あのね」 「ん」 「オレ、黒たんじゃなきゃヤダって、あのとき気づいたんだ。だから」 だから。 「ここであったこと、忘れさせてくれないかな?」 ←戻る ・ 次へ→
顔の腫れは数日経ってようやくマシにはなったものの、切れた口元にはまだ痛々しい痣が残っている。身体の傷も意外にしつこく消えずにいるが、見えないぶん人目に触れることはない。ただ、ちょっと気を抜くと無意識に引っ掻いてはかさぶたを剥いでしまうこともしばしばあった。
すっかり駄目にされたというより、とてもではないが袖を通す気になれない白衣は処分し、今は新品の皺ひとつないものを身につけている。
後日に伸ばした事情聴取や病院での検査をはじめ、酷い切り方をされた髪を整えるべく、理髪店に足を運んだりとバタバタする中、生徒達はもちろん同僚の教師達、そして教頭や校長まで腫れ物を扱うように接してくるのは申し訳ない半面、少し疲れる。
なにも動けないほどの傷を負わされたわけではないのだから、周りと自分の温度差に戸惑うこともしばしばあった。
あの用務員のことは、今でも許せない。それでもほんの少しだけ、可哀想にも感じられる。他にいくらでもアプローチの仕方はあっただろうに、人との関わり方を正しく知らない彼は、この先もずっと『最愛』を得ることなく生き続けることになるのだろうか。
黒鋼とは、相変わらずただ同じベッドでひっついて眠るだけに落ち着いていた。
忙しいのは分かるのだが、一時は隙あらば触れて来た黒鋼が、あれから全く手を出して寄こさないというのは、どういう了見だろうか。
寝る時はしっかりと抱き込んで離さないくせに、キスのひとつもして来ないなんて。こちらはようやく気持ちを自覚し、いつでも準備万端な状態だというのに。
しかし彼にとっては、今が人生で最も大事な時期であるといっても過言ではないのだ。本来なら惚れた腫れたとうつつを抜かしている場合ではない。
今しばらくの辛抱だと、ファイは黒鋼に触れたい欲求をぐっと堪えているのだった。
*
金曜日、ついに黒鋼の実習が最終日を迎えた。
一階の体育館を一望できる二階の吹き抜けフロアで、ファイは手すりに両肘を預けて彼の最後の授業を見物していた。
実習生の集大成ともいえる公開授業にあたるこの枠を、他にも手の開いた教師達が幾人か訪れて微笑ましそうに眺めている。
種目はバスケットのようで、試合を前にシュートのコツなどを黒鋼自身が実践して生徒達に指導している様子が見て取れた。
(そういえば黒たんって中学でバスケ部だったっけ)
彼の母親が、こっそり「背を伸ばしたいんですって」と教えてくれたのを思い出す。
そんなのただの噂に過ぎないのになぁなんて笑っていた頃、まさか黒鋼があんなにも大きく成長するなんて、予想もしていなかった。
その成長過程を近くで見ていられなかったことを、つくづく口惜しく感じる。
「ちぇー、かっこよくなっちゃって。ずるいなー」
ちょこん、と唇を尖らせながらファイは僅かに頬を火照らせた。
確かにスーツ姿もいいが、黒鋼は何を着ていたって男前だ。いっそ真っ裸でいたってかっこいいし、実は可愛いところもある。
それは昔のように、ただ小さいから可愛い、というのとは少し違う。
男である自分に母性本能なんて呼べるものがあるのかは知らないが、多分それと似たような感覚なのかもしれない。
ふとした瞬間に見せる仕草や表情、物言いが、ファイの心を柔らかくくすぐる。
再会した頃はまるで別人のように感じられたが、今のファイは彼が昔から何ひとつ変わっていないことをよく知っている。優しくて、可愛くて、純粋でひたむきな男なのだということを。
そんなこと、密かに彼に思いを寄せる女子生徒達には、絶対に教えてやらないけれど。
(だってあれ、オレのだからね)
こんな風に年甲斐もなく十代の少女たちを相手に優越感に浸ってしまう自分は、相当情けない大人だと思った。
*
その日の放課後。
あの事件以来、必要最低限の利用だけに留めていた化学準備室に一人閉じ籠り、ファイは大きなゴミ袋を手に引っ提げていた。
少しは綺麗にしろと偉そうに誰かさんに言われたこともあり、机の中身や、ついでに棚に入っている不要な書類なども全て片付けるつもりだった。
いくら嫌な出来事があった場所といえども、この先も利用しなければならない部屋なのだし。
黒鋼は担当していたクラスでサプライズの送別会があるとかで、まだ戻っていない。それが終わったら、今夜は他の実習生とその担当教官とで飲み会があるとのことだった。
他にも都合のつく教師達も参加するらしいが、ファイはなんとなく辞退した。例の一件のほとぼりが冷めるまでは、きっとどこへ行っても周りに気を使わせることになるからだ。
それに。
正直、ちょっと不貞腐れてもいる。
実習が終わったということは、黒鋼が部屋に居続ける理由はもうない、ということだ。だから一緒に過ごせるのは今夜が最後ということになるわけで。
結局お預けになるのか、なんてがっかりしている自分は、どれだけの欲求不満を持て余しているのかと、自己嫌悪に溜息が尽きない。
そもそも、それ以前に黒鋼は今後こちらに手を出す気があるのかないのか。少し不安になったりもする。
なんだか全く余裕がない。そして面白くない。こちらばかりが心を砕いているようで。
「あー、もう! やめやめ!」
ファイは思いっきり頭を左右に振ると、もやもやとした気持ちを無理やりにでも押しやる。とにかく今は煩悩を遠ざけるため、掃除に没頭することに決めた。
床に膝をついて、カオス状態の机の中をゴソゴソと漁る。びっくりするくらい不必要なガラクタばかりで、これでは黒鋼が呆れかえるのも無理はないと思った。
いつから入っているか知れない飴玉は溶けて、チョコは真っ白に変色しているし、いらないプリント類や古い雑誌なども大量に出て来た。
「あ、これ!」
そんな中に顔を出したのは、色鮮やかなビーズで作られたオモチャのブレスレットだった。
これは昔、近所の夏祭りの帰りに黒鋼から貰ったものだ。
ファイはこれをずっとお守りのように身に着けていたが、この学園に赴任した時に口うるさい年配教師に「いい歳なのだからやめなさい」などと咎められ、仕方なくここにしまい込んだのだった。
その教師はもう定年で退職してここにはいないしと、ファイは嬉々としてそれを左の手首に通した。
「わーい! これオレの宝物ー!」
その割には、今の今まですっかり忘れていたのだが。何度か切れてしまって、その度に少しずつビーズは減ってしまったけれど、その度に直しては大事にしていたつもりだ。
これは黒鋼が、初めてファイにくれたものだから。
「なに一人ではしゃいでんだかな」
「わ!?」
声がして咄嗟に振り向けば、そこには開け放たれていたドア(修理済み)に背を預け、腕を組んだ黒鋼の姿があった。
「お、掃除か」
「ビックリしたー……驚かさないでよー」
送別会を終えたらしい彼は、ジャージから黒のスーツ姿に着替え終えている。
あまりに唐突に声をかけられたせいで少しばかり驚いてしまったが、ファイは気を取り直してふにゃりと笑った。
「今夜は飲み会だよねー? オレは留守番してるから、みんなと楽しんでおいでよー」
一応は我儘な本心を隠して、理解ある大人の態度を示してみる。
黒鋼はそんなファイの手首にはめられているビーズアクセサリーに目を止め、少し呆れた様子で傍までやって来ると、しゃがみ込んだ。
「それ、まだ持ってたのか」
「ふふふ、懐かしいでしょー?」
「馬鹿か。いい歳こいて」
「わー、どっかの誰かさんと同じこと言うんだー」
つんと唇を尖らせると、黒鋼の眉がピクリと動いた。
「どっかの誰かってのはどこのどいつだ? てめぇこら、おい」
「ちょ、怖い顔しないでよー……やきもち?」
「悪いかこの阿呆」
「ッ!」
少女漫画でもあるまいし。きゅん、なんて音がピッタリくるような胸の高鳴りを覚えながら、痣の残る頬を赤く染めた。
小さな子供なら3秒で泣きだしそうな怖い顔をしながら、黒鋼はそんなファイの顎を掴んで上向ける。
目が合うとどうしたらいいか分からなくなって、視線だけ外そうとしたところで唇を奪われた。
「!」
ビクリと肩を揺らし、目を見開いたのは一瞬で、すぐに力を抜くと目を閉じる。唇はすぐに離れたが、たったこれだけで目が潤んでしまうのが心底恥ずかしい。
ファイは顎に添えられたままの黒鋼の手首を取って、咄嗟に赤い顔を背ける。
「また誰かに、見られたら……」
「悪い」
ファイの手を擦り抜けて、黒鋼の手が離れていこうとする。それを目で追いながら、下から突き上げられるような焦燥を覚えた。
ようやく黒鋼から、こうして触れてくれたのに。
衝動的にファイは手を伸ばし、太い手首をぎゅっと握ると震えた息を吐き出した。
「……ね」
「……おう」
「でも、でもね……」
(ああもう……なにバカなこと考えて……)
そのまま石のように動かなくなってしまったファイを、黒鋼はただ黙って見守っている。
先を促されていることは承知の上で、言うべき言葉が即座に口から出てこない。本当はもっと触れてほしいし、抱きしめてほしい。以前のように強引にでも奪って暴いて、何も分からなくなるくらい追いつめてほしかった。
「……あのね」
そうだ。この場所も、いけない。
「あいつの感触、まだ残ってて」
「…………」
「ここにいると、これからもずっと思い出しちゃうのかなって……だから」
……だから?
その先を言いかけて、結局は口を噤んだ。
やっぱりいけない。こんな場所で年甲斐も見境もなく、欲しいだなんて。
ファイは情けなく眉を八の字にしながら「あはは」と笑うと、黒鋼の手首を解放した。
「やっぱりなんでもない。今のは聞かなかったことにして。ほら、飲み行くんでしょ?」
行っておいで、と続けようとして、今度は逆に手首を取られた。
大きく目を見開いたファイが視界に捉えたのは、どこか切羽詰まったように唇を引き結び、瞳を細める黒鋼の表情だった。
「く、くろ」
「出来るわけねぇだろ。しっかり聞いちまったもんはよ」
「……ごめん」
「……いいのか」
「ぇ……?」
黒鋼のもう片方の手が伸びて、ファイの未だに痛々しい痕の残る頬を包みこんだ。導かれるように見上げれば、燃えるような赤い瞳と視線がぶつかる。
その赤に、まるで囚われたように身動き一つ取れなくなった。ただ、身体が熱くなる。
「あんなことがあった後で……いいのか?」
「……?」
半ば惚けた状態でいたファイは一瞬、質問の意図が掴めず小首を傾げた。
常に不遜な態度でいた彼が、何やら珍しく躊躇っているらしいことが伝わってくる。
「怖ぇ目にあったばっかだろ。その、だからよ……」
視線だけ余所へやる黒鋼の、いつになく歯切れの悪い台詞を聞いたファイは暫しの間、口をポカンと開けたままだった。ついでにパチパチと忙しなく瞬きを繰り返す。
そしてふと、合点がいく。
なぜこの数日、彼がせいぜい抱き締めるだけで触れて来ようとしなかったのか、その理由に。
「黒たん……もしかして気を遣って……?」
「……悪ぃか」
つまり、彼は性的な暴行を受けた自分を気遣い、自らも性的に手を出すことに足踏みしていた、ということなのか。
「……ぷっ!」
「!?」
堪え切れずに吹き出してしまったファイを、人も殺せそうな鋭い目が睨みつけてくる。それさえも可笑しくて、結局声を上げて笑ってしまった。
確かに最低最悪な出来事だったし、思い出すと未だに吐き気が込み上げる。早く忘れてしまうのが一番だと理解はしていても、身体の傷を見る度にゾッとする瞬間だってある。だがそれよりもファイにとっては、あれ以来まったく黒鋼が手を出してこないことの方が大問題だった。
本当はもうちょっと怯えたり、傷ついている様を醸し出した方が可愛げがあるのだろうが、残念なことにファイはそこまでの繊細さは持ち合わせていなかった。
だから申し訳ないとは思いつつ、笑いを抑えきれない。
「ご、ごめ、あははは! もー! 黒たんはホントにいい子だなー!」
「うるせぇ! ちっと遠慮してやりゃこれか!」
「だ、だって! ぷふっ! い、いまさら……ッ」
「てめぇは昔っからこうだ」
うんざりしたように溜息を零しながらも、照れ臭そうに顔を赤らめる黒鋼は、思いっきり臍を曲げた様子で舌打ちをした。
きっと過去に散々からかわれたことを思い出しているのだろう。苦いものでも噛み潰したような表情が懐かしくて、幾つになってもやっぱり可愛いなぁ、なんて改めて実感してしまう。
ファイ自身、何がここまで可笑しいのか分からないくらい大笑いしてしまったことをほんの少しだけ反省しながらも、目尻に浮かんでいた涙を拭う。
「ごめんってばー。なんかホッとしちゃったっていうのもあって」
「ああ?」
「だって、あんなにがっついてた人が急になんにもしてこなくなるんだもん。今さら放置プレイなんて、ぜーんぜん笑えないよー」
「笑ってんじゃねぇか。思いっきり」
「そうだけどー。飽きられちゃったのかなーとか、色々考えちゃうよ」
「んなわけあるか。何年越しの成就だと思ってやがる」
「…………」
真っ直ぐに見つめられながらそんなことを言われたら、今度はこちらが照れて目を逸らす番だった。何か返したくてもごもごと口を動かそうとすれば「もう黙ってろ」という低い声と共に再び抱き締められて、身体ごと心臓が跳ねた。
こんな風にされるだけで、じわりと広がる甘ったるい感情が胸を満たして溢れそうになる。
広い腕の中にこうして収まりきってしまうと、自分という人間がどこまでもちっぽけな存在に思えた。
だから歳の差なんて遠くへ押しやって、甘えたくなる。
同じだけの強さでその背を抱き返しながら、今ならどんな恥ずかしい言葉だって平気で口に出来そうな気がした。
「黒たん、あのね」
「ん」
「オレ、黒たんじゃなきゃヤダって、あのとき気づいたんだ。だから」
だから。
「ここであったこと、忘れさせてくれないかな?」
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