2025/09/19 Fri その後はなんとも慌ただしく、息をつく間もなかった。 下の階から警備員が「なんか凄い音がしましたが」なんて言いながら悠長に顔を出し、場の空気に一通り凍りついてから慌てて男を取り押さえた。 すぐに110番され、警察が駆けつけるという事態に発展したものの、残っている人間が少なかったことで、ひとまずその場で大きな騒ぎにまではならなかった。 警備員が駆け付けた段階で、男は思いっきり陰部をさらした状態だったし、ファイの様子や現場の空気から明らかに性的な内容を含む暴行を受けたことは知られてしまっていた。 が、その場で簡易的に受けた警察の事情聴取では、黒鋼と警備員がファイを気遣い、上手くフォローを入れてくれたことで性的な部分はどうにか伏せられた。 表向きは女子生徒に人気のある化学教師を、容姿にコンプレックスを持つ男が一方的に妬み、ストーカー紛いの行為をしたあげく暴行を加えた、ということで落ち着いた。 そして男は袋に詰められた証拠品と共にパトカーに乗せられ、夜の街へと消えて行った。 詳しい事情聴取は後日に回し、その後ファイは夜間の救急病院へ向かった。 車は警備員が貸してくれたも。もちろん運転したのは黒鋼だ。助手席でなんとなくモジモジしながら、あんなに小さかった少年が、今やナチュラルにハンドルをさばく姿にときめきを覚えてしまったことは、秘密だ。 病院では、もっとも心配された頭部は思いのほか軽傷で、医者に見せる頃には出血も止まっていた。念のため後日大きな病院で検査することを進められたが、ひとまず薬を処方されるだけで帰宅することを許された。 その頃には、外はうっすら白みはじめていた。 * 病院へ行くまでは下手に傷に触れることもできず、顔や髪をタオルで拭くしかできなかったファイは、部屋に帰宅したと同時に風呂場に駆け込んだ。 シャワーを浴びるとあらゆる傷が痛んだが、それよりも男が触れた場所全てを、特に体液を擦りつけられた箇所をひたすら石鹸を含ませたスポンジで擦った。 (洗っても洗っても、落ちない気がする……) こうして甘い花の香りに包まれてなお、あの生臭い嫌な臭いが鼻の奥にこびりついていた。 思っていた以上に精神的なダメージの方が大きく、ようやく安心できる場所に戻って来ても、思い出すと指先が震えた。 「おい、大丈夫か」 夢中でその作業に没頭していたファイは、曇りガラスの向こうからかけられた声に肩をビクつかせた。 返事をするのが遅れたせいで、心配した黒鋼が勢いよくドアを開ける。 「わっ!」 「おまえ、もう一時間以上も何して……」 泡まみれで硬直したファイの身体を見て、黒鋼は怪訝そうな顔をする。 そして無言でシャツとジャージのまま中に押し入って来た。 「ちょ、っと、まだ終わってな……!」 「この馬鹿が。血が滲むまで擦る奴があるか」 「え……?」 言われて初めて気がついた。 黒鋼がスポンジを取り上げ、水圧を下げたシャワーをファイに向けて噴射する。首筋や上半身の所々が、男に受けた傷にさらに血を滲ませる形で悪化していた。 「ごめん……」 何に対しての謝罪なのかもよく分からないまま、ファイはただ項垂れた。黒鋼は無言でファイの身体の泡をシャワーで流している。 服がどんどん濡れていくことにいたたまれなさを感じて「もういいから」と手を伸ばせば、縄で擦り切れた手首を掴まれ、引き寄せられた。 シャワーヘッドが音を立てて床に落ちる。 抱きしめられた途端、あの男の臭いが黒鋼の香りで上書きされるのを感じた。こうされると、やっと楽に呼吸が出来るような気さえしてホッとする。 それでも黒鋼が服を着たままだということを思い出し、今更ながらに慌てて身じろぎかけた身体を、さらに強く抱きこまれた。 「ねぇ、苦しいよ……」 「いいからもう少し、このままでいさせろ」 「…………」 またのぼせあがって、熱を出してしまいそうだと思った。多分、抱かれていなければとっくに崩れ落ちている。 心配させてしまったことがひしひしと伝わって、申し訳なさに唇を噛む。熱いくらいの温もりと、伝わる鼓動に目頭が痛んだ。 躊躇いがちに両腕を上げて、その背中に手を這わせた。広くて、大きい。昔は背負うことだって出来た身体に、今はしがみつくので精一杯だった。 「……間に合った、とは言い切れねぇよな。この有様じゃあ」 「うぅん、間に合ったよ。じゃなきゃオレ、今頃ここにいなかったと思うし」 これは警察を待つ間、警備員からこっそり聞いた話なのだが。 黒鋼はファイが準備室に逃げ込んだあの金曜の夜から、自分も学校で寝泊まりをしていたらしい。 夜の学校で警備の体験もしたいなどと無理のある理由をつけて仕事を手伝い、三階にも定期的に様子を見に足を運んでいたようだ。 ファイの身の回りに異変が起こっていることに気付いていた黒鋼が、あと少しという所で助けに来られたのは、そういう過保護なカラクリがあったからなのだ。 確かに彼は『自分が出て行く』と宣言していたが、まさかそんなことまでしていたなんて。それを聞いたファイはいっそ呆れて物も言えなかった。 実習が大詰めで、やらなければならないことが山積みだろうに。それもあえて自ら口にしない辺り、彼は彼なりにファイのつまらない意地やプライドごと守ろうと、必死になってくれていたのだと感じた。 「……黒ぽんさ」 悪いとは思うが、ファイは黒鋼の腕の中で少しだけ笑ってしまった。 「オレのこと、ちょっと好きすぎるんじゃないかな」 そう言うと、彼は面白くなさそうに「うるせぇ」と言った。 こっそり目線だけ上に向けると、耳が少し赤くなっているのが見える。 こんな大男を捕まえて可愛いなんて思ってしまった自分に、さらに可笑しくなって肩を揺らした。 「おまえ、少し黙っとけ」 「だって、ふふっ、面白い」 「俺は面白くねぇ」 「黒たん、可愛いんだもん」 「……まだ言うかそれ」 舌打ちが聞こえる。 黒鋼の手が首の後ろに伸びて、出会った頃と同じ長さになった髪を梳くように撫でた。 見上げるほどに大きくなった彼の細められた瞳に、ファイは少し照れくさくなって腫れた頬で小さくはにかんだ。 「おまえこそ、こんなにガキ臭かったか?」 「いつまでも若くて変わらないって言ってよね」 「確かに30には見えねぇな」 「だからー、まだギリギリなってないってばー」 ファイが笑うと、黒鋼も少しだけ笑った。 落ち着かないとばかり思っていたその笑い方が、今はこんなにも愛しいと感じる。 背中に回していた腕の力を強めて、ファイはその肩に顔を埋めた。 「あのね、言い忘れてたことがあったの、思い出した」 「ん」 「久しぶりだね、黒たん」 あまりにも今更すぎて、いっそバカらしいとさえ思える、それは再会の挨拶だった。 「また会えて嬉しい。それと……」 ――オレも、ずっと大好きだったよ。 * 風呂上がり。 病院で出された鎮痛剤を飲んで痛みはないものの、神経が高ぶっているせいか一向に眠気は訪れなかった。 だから風呂場から出た後、黒鋼ともしそういう流れになったなら、してもいいかな、なんて思っていた。 いや、むしろきっとそうなるだろうと。 ……思っていたのだが。 自分も軽く身体を流して出てきた黒鋼は、ファイをしっかり抱きこんだ状態で即座に眠ってしまった。 狭いベッドに身を寄せ合って横たわりながら、期待しまくっていた自分を思いきり恥じる。 外はもはや朝と言っていいほどに白んでいて、眠れる時間はあと僅かしかない。その上いかにタフそうに見えても、彼だって疲れきっているはずだった。本来なら自分のことで手一杯なのに、ハードな日常に自ら追い打ちをかける真似をしたのだから。 しかもよくよく考えてもみれば。 (あいつの感触を忘れさせてほしいのーなんて、そんなベタなこと、恥ずかしくて口が裂けても言えないしね……) それにこれはこれで悪くないな、なんて。 大きな身体にすっぽり抱き締められていると、不思議と高ぶったままだった感情が静かに凪いでいくのを感じた。 思えば、こうしてただ同じベッドで一緒に眠るというのは初めてのことだった。今更のように、ちょっぴり照れ臭いような、くすぐったい気持ちになってしまう。 「腕、痺れても知らないんだから」 規則正しい寝息に耳を傾けながら、そう呟くと少し笑った。 そしてその首筋に甘えるように額を擦り付けると、ファイもいつしかどっぷりと深い眠りに落ちていった。 ←戻る ・ 次へ→
下の階から警備員が「なんか凄い音がしましたが」なんて言いながら悠長に顔を出し、場の空気に一通り凍りついてから慌てて男を取り押さえた。
すぐに110番され、警察が駆けつけるという事態に発展したものの、残っている人間が少なかったことで、ひとまずその場で大きな騒ぎにまではならなかった。
警備員が駆け付けた段階で、男は思いっきり陰部をさらした状態だったし、ファイの様子や現場の空気から明らかに性的な内容を含む暴行を受けたことは知られてしまっていた。
が、その場で簡易的に受けた警察の事情聴取では、黒鋼と警備員がファイを気遣い、上手くフォローを入れてくれたことで性的な部分はどうにか伏せられた。
表向きは女子生徒に人気のある化学教師を、容姿にコンプレックスを持つ男が一方的に妬み、ストーカー紛いの行為をしたあげく暴行を加えた、ということで落ち着いた。
そして男は袋に詰められた証拠品と共にパトカーに乗せられ、夜の街へと消えて行った。
詳しい事情聴取は後日に回し、その後ファイは夜間の救急病院へ向かった。
車は警備員が貸してくれたも。もちろん運転したのは黒鋼だ。助手席でなんとなくモジモジしながら、あんなに小さかった少年が、今やナチュラルにハンドルをさばく姿にときめきを覚えてしまったことは、秘密だ。
病院では、もっとも心配された頭部は思いのほか軽傷で、医者に見せる頃には出血も止まっていた。念のため後日大きな病院で検査することを進められたが、ひとまず薬を処方されるだけで帰宅することを許された。
その頃には、外はうっすら白みはじめていた。
*
病院へ行くまでは下手に傷に触れることもできず、顔や髪をタオルで拭くしかできなかったファイは、部屋に帰宅したと同時に風呂場に駆け込んだ。
シャワーを浴びるとあらゆる傷が痛んだが、それよりも男が触れた場所全てを、特に体液を擦りつけられた箇所をひたすら石鹸を含ませたスポンジで擦った。
(洗っても洗っても、落ちない気がする……)
こうして甘い花の香りに包まれてなお、あの生臭い嫌な臭いが鼻の奥にこびりついていた。
思っていた以上に精神的なダメージの方が大きく、ようやく安心できる場所に戻って来ても、思い出すと指先が震えた。
「おい、大丈夫か」
夢中でその作業に没頭していたファイは、曇りガラスの向こうからかけられた声に肩をビクつかせた。
返事をするのが遅れたせいで、心配した黒鋼が勢いよくドアを開ける。
「わっ!」
「おまえ、もう一時間以上も何して……」
泡まみれで硬直したファイの身体を見て、黒鋼は怪訝そうな顔をする。
そして無言でシャツとジャージのまま中に押し入って来た。
「ちょ、っと、まだ終わってな……!」
「この馬鹿が。血が滲むまで擦る奴があるか」
「え……?」
言われて初めて気がついた。
黒鋼がスポンジを取り上げ、水圧を下げたシャワーをファイに向けて噴射する。首筋や上半身の所々が、男に受けた傷にさらに血を滲ませる形で悪化していた。
「ごめん……」
何に対しての謝罪なのかもよく分からないまま、ファイはただ項垂れた。黒鋼は無言でファイの身体の泡をシャワーで流している。
服がどんどん濡れていくことにいたたまれなさを感じて「もういいから」と手を伸ばせば、縄で擦り切れた手首を掴まれ、引き寄せられた。
シャワーヘッドが音を立てて床に落ちる。
抱きしめられた途端、あの男の臭いが黒鋼の香りで上書きされるのを感じた。こうされると、やっと楽に呼吸が出来るような気さえしてホッとする。
それでも黒鋼が服を着たままだということを思い出し、今更ながらに慌てて身じろぎかけた身体を、さらに強く抱きこまれた。
「ねぇ、苦しいよ……」
「いいからもう少し、このままでいさせろ」
「…………」
またのぼせあがって、熱を出してしまいそうだと思った。多分、抱かれていなければとっくに崩れ落ちている。
心配させてしまったことがひしひしと伝わって、申し訳なさに唇を噛む。熱いくらいの温もりと、伝わる鼓動に目頭が痛んだ。
躊躇いがちに両腕を上げて、その背中に手を這わせた。広くて、大きい。昔は背負うことだって出来た身体に、今はしがみつくので精一杯だった。
「……間に合った、とは言い切れねぇよな。この有様じゃあ」
「うぅん、間に合ったよ。じゃなきゃオレ、今頃ここにいなかったと思うし」
これは警察を待つ間、警備員からこっそり聞いた話なのだが。
黒鋼はファイが準備室に逃げ込んだあの金曜の夜から、自分も学校で寝泊まりをしていたらしい。
夜の学校で警備の体験もしたいなどと無理のある理由をつけて仕事を手伝い、三階にも定期的に様子を見に足を運んでいたようだ。
ファイの身の回りに異変が起こっていることに気付いていた黒鋼が、あと少しという所で助けに来られたのは、そういう過保護なカラクリがあったからなのだ。
確かに彼は『自分が出て行く』と宣言していたが、まさかそんなことまでしていたなんて。それを聞いたファイはいっそ呆れて物も言えなかった。
実習が大詰めで、やらなければならないことが山積みだろうに。それもあえて自ら口にしない辺り、彼は彼なりにファイのつまらない意地やプライドごと守ろうと、必死になってくれていたのだと感じた。
「……黒ぽんさ」
悪いとは思うが、ファイは黒鋼の腕の中で少しだけ笑ってしまった。
「オレのこと、ちょっと好きすぎるんじゃないかな」
そう言うと、彼は面白くなさそうに「うるせぇ」と言った。
こっそり目線だけ上に向けると、耳が少し赤くなっているのが見える。
こんな大男を捕まえて可愛いなんて思ってしまった自分に、さらに可笑しくなって肩を揺らした。
「おまえ、少し黙っとけ」
「だって、ふふっ、面白い」
「俺は面白くねぇ」
「黒たん、可愛いんだもん」
「……まだ言うかそれ」
舌打ちが聞こえる。
黒鋼の手が首の後ろに伸びて、出会った頃と同じ長さになった髪を梳くように撫でた。
見上げるほどに大きくなった彼の細められた瞳に、ファイは少し照れくさくなって腫れた頬で小さくはにかんだ。
「おまえこそ、こんなにガキ臭かったか?」
「いつまでも若くて変わらないって言ってよね」
「確かに30には見えねぇな」
「だからー、まだギリギリなってないってばー」
ファイが笑うと、黒鋼も少しだけ笑った。
落ち着かないとばかり思っていたその笑い方が、今はこんなにも愛しいと感じる。
背中に回していた腕の力を強めて、ファイはその肩に顔を埋めた。
「あのね、言い忘れてたことがあったの、思い出した」
「ん」
「久しぶりだね、黒たん」
あまりにも今更すぎて、いっそバカらしいとさえ思える、それは再会の挨拶だった。
「また会えて嬉しい。それと……」
――オレも、ずっと大好きだったよ。
*
風呂上がり。
病院で出された鎮痛剤を飲んで痛みはないものの、神経が高ぶっているせいか一向に眠気は訪れなかった。
だから風呂場から出た後、黒鋼ともしそういう流れになったなら、してもいいかな、なんて思っていた。
いや、むしろきっとそうなるだろうと。
……思っていたのだが。
自分も軽く身体を流して出てきた黒鋼は、ファイをしっかり抱きこんだ状態で即座に眠ってしまった。
狭いベッドに身を寄せ合って横たわりながら、期待しまくっていた自分を思いきり恥じる。
外はもはや朝と言っていいほどに白んでいて、眠れる時間はあと僅かしかない。その上いかにタフそうに見えても、彼だって疲れきっているはずだった。本来なら自分のことで手一杯なのに、ハードな日常に自ら追い打ちをかける真似をしたのだから。
しかもよくよく考えてもみれば。
(あいつの感触を忘れさせてほしいのーなんて、そんなベタなこと、恥ずかしくて口が裂けても言えないしね……)
それにこれはこれで悪くないな、なんて。
大きな身体にすっぽり抱き締められていると、不思議と高ぶったままだった感情が静かに凪いでいくのを感じた。
思えば、こうしてただ同じベッドで一緒に眠るというのは初めてのことだった。今更のように、ちょっぴり照れ臭いような、くすぐったい気持ちになってしまう。
「腕、痺れても知らないんだから」
規則正しい寝息に耳を傾けながら、そう呟くと少し笑った。
そしてその首筋に甘えるように額を擦り付けると、ファイもいつしかどっぷりと深い眠りに落ちていった。
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