2025/06/16 Mon 06 羽佐間家の二階には、翔子の部屋がそのままの状態で残されている。 他とは少し違ったその空気を、操はクンクンと鼻を鳴らして確かめた。ほんのりと甘くて、ふわふわとした柔らかな匂い。それは本当にかすかな残り香のようなものだったが、容子のものと似ているようで、ほんの少しだけ違う気もした。 「娘が使っていた部屋なのよ。いつも綺麗にしてあるから、すぐにでも使えるわ」 「こんな立派な部屋、本当にぼくが使っていいの?」 「ええ、いいわよ。遠慮しないで」 「わぁ……!」 操は目をキラキラとさせながら部屋の中を見回した。 植物があしらわれた薄桃色の壁紙に、棚や机にはぬいぐるみが飾られている。とりわけ操の目を引いたのは、整えられた大きなベッドだった。そっと腰をおろして、ふかふかの感触を確かめる。 「わわっ、しっぽとお尻が埋もれちゃう! すっごくふかふか!」 「ふふっ」 操の無邪気な反応に、容子はついといった様子で手を口元に添えながら笑った。けれどすぐに少し困ったような顔をして、 「男の子には、少し可愛すぎるかもしれないけれど……」 と、気にしている様子を見せる。確かにこの部屋の愛らしさは、ここが女の子の部屋であることを強く主張している。けれど操は思いっきり首を左右に振った。 「そんなことないよ! ぼく、この部屋大好き!」 ベッドで軽く身体を上下させ、ウキウキと声を弾ませる。これから毎晩このふかふかのベッドで寝られるなんて、まるで夢みたいだと操は思った。 その様子に安堵の息を漏らした容子が、ベッド脇のカーテンと窓を開けて換気をはじめる。少しぬるいが、昼間よりはいくらか涼しい空気が流れ込んできた。 夏の虫の声を乗せ、緩やかに吹く風が肩まで伸びた容子の髪を揺らしている。それを軽く手で押さえる横顔を見て、操はことりと首をかしげた。 (翔子って子はもういないのに、どうしてずっと綺麗にしとくんだろう?) まるで今も翔子がいるかのように、彼女はこの部屋をそのままの状態で残し続けている。使う人間がいないのに、わざわざ掃除までしておくことになんの意味があるんだろう。 (人間の風習は、ぼくにはよく分かんないや) だけどそのおかげで、今日からさっそくこの部屋を使うことができるのだ。それにしばらくここにいてみれば、人間のことを少しずつ理解できるようになるかもしれない。 なんだかワクワクしてきた操は、ニッコリ笑って容子に言った。 「この部屋、大事に使うね。お母さん」 操の笑顔に容子は一瞬だけ瞳を揺らし、眉をハの字に下げると「ありがとう」と言って微笑んだ。 * それから一週間が過ぎた。 容子はこの町の小さな中学校で教師の仕事についており、昼間は不在だ。 操はそのあいだ猫のクーと遊んだり、一緒に昼寝をしたり、テレビ──これも最初は驚いた──を見たりしながら留守番している。 家の中は安全だし、エアコンがあれば涼しいし、冷蔵庫にはいつもおやつのアイスが入っている。甘くて冷たくて美味しくて、初めて食べたときから操はこれの虜だった。 だけどアイスは一日に一つしか食べられない決まりになっている。食べ過ぎるとお腹を壊してしまうらしい。少し不満に思ったが、だからって夜中にこっそり食べてしまおうなんて思わない。だって容子と約束したから。 操はここでの暮らしをすっかり気に入り、人里生活を満喫していた。優しい母に美味しいご飯、可愛い猫とふかふかの寝床。そしてアイス。いっそこのまま本当にここんちの子になろうかな、なんて、ちょっと本気で思いはじめている。 ──だけど、里のことはやっぱり気がかりだ。 美羽にはちゃんと帰ると約束している。きっと心配しているだろう。せめて一言でも無事を知らせることができたらいいのだが、そのための手段がない。なおのこと、一日でも早く里に戻るべきだと分かってはいるのだが──。 問題はこの半妖の姿だった。あれから何度も試したが、一向に元に戻れない。 葉っぱを小物に変える程度なら、この姿でも術が使える。なのにタヌキに戻ることだけが、どうしてもできない状態だった。 足はほぼ完治して、包帯も取れている。あとは変化が解けさえすれば、里に帰ることができるのに。 「元に戻れないんじゃ、しょうがないよね~」 現自室のベッドでごろ寝していた操は、コロリとのんきに寝返りを打つ。 今日も容子が朝から仕事で不在だった。昼に彼女が用意してくれたサンドイッチを食べ、庭をクーと一緒に散歩したり、今日の分のアイスを食べながらテレビを見たりしたあと、部屋に戻って昼寝をしていた。そしてたったいま目を覚ましたところである。 ふぁ、とあくびをしながら身を起こし、壁にかかっている時計に目をやる。時間の見方は教えてもらった。時刻は18時を過ぎており、そろそろ容子が戻ってくる頃だった。 「今日の夜ご飯なんだろ?」 問題を先延ばしにしている自覚は、一応ある。だけど、どうせ帰ったって叱られるだけだ。だったらご飯のことを考えている方が楽しいし、気が楽だった。 先っちょがまん丸のしっぽをウキウキと揺らしながら部屋を出て、一階に下りる。するとちょうど容子が帰宅したところだった。 「あっ、おかえり! お母さん!」 「ただいま、操。すぐにご飯の支度をするわね」 「やったー! ご飯だー!」 容子は普段持ち歩いているバッグの他に、ネギが刺さった買い物袋を持っていた。玄関からリビングに向かうその後ろを、操はヒヨコのようにくっついて歩いた。 「ねぇねぇお母さん、今日の夜なに?」 「今夜はおそうめんを茹でようと思っ、て……」 キッチン横のテーブルにバッグごと袋を置いた瞬間、容子の身体がフラリと一瞬よろめいた。 「お母さん!? どうかしたの!?」 操は容子の肩にしがみつくようにしてその身体を支えた。よく見れば顔色が悪い。くしゃりと表情を歪めた操に、容子はうっすらと額に汗を滲ませながらも笑みを浮かべた。 「大丈夫よ。少し休めば、すぐによくなるから」 そう言って、容子はリビングのソファへ向かうと腰をおろして息をつく。操もすぐに駆け寄って、床に膝をつくとその顔を見上げた。 「お母さん、どこか苦しいの?」 「平気よ。ほら、こうして休んでいれば楽になるわ」 容子は肘掛けにすがるような形で半身を横向きにもたれかけ、そのまま目を閉じてしまった。操は耳をしょげさせながら床にペタリと座り込む。 しばらくは彼女が目を覚ますのを待っていたが、一向にその気配はなかった。むしろどんどん顔色が失われていくような気がして、不安な気持ちが次から次へと湧いてくる。 (どうしよう……お母さん、病気になっちゃったのかな……) こんなとき、人間の子供ならどうするんだろう。どうするのが正解なんだろう。 里では怪我や病気をしたときは、薬草を飲んだり塗ったりして治療する。美羽の祖母にあたる千鶴というタヌキが、薬草を煎じる術に長けていた。だけどここはまるで別世界の人里だ。誰にどうやって助けを求めればいいのか、操には皆目検討もつかなかった。 (ご飯……そうだ、ご飯だ!) もしかしたら、容子は腹が減りすぎて力が出ないのかもしれない。彼女に保護されるまで、自分もこんなふうにグッタリして動けなかった。だけど容子が作ってくれた食事のおかげで、今はこうしてピンピンしている。 (なにか食べれば、お母さんもきっと元気になる!) 操は大急ぎでキッチンに向かった。テーブルの上にある買い物袋から中身を出すと、そこにはそうめんとネギとかつお節の袋があった。 「そーめんってこれのこと? これをどうやって食べるの?」 ネギとかつお節は知っている。どちらも冷奴の上に乗っているものを食べたことがあった。しかし、この細長い棒状の束は一体なんだろう。 操には「そうめんを茹でる」という、人間なら子供ですら知っている常識が備わっていない。そもそもの話、料理をするという概念そのものを持ち合わせていなかったのだ。もっぱら食べるのが専門で、いつも台所に立つ容子の背中をワクワクしながら見ているだけだった。 「ぼくってもしかして、なにもできない……?」 青ざめながら呆然とした。なにか食べさせようにも、なにをどうすればいいかさっぱりだ。けれどこうしている間にも、容子はどんどん弱ってしまう。 時間がない。焦りばかりが膨らむなか、操はぐったりとソファに沈む容子を見た。 (どうしよう、どうしよう……あっ、そうだ!) 一人だけ、助けを求められそうな人物を知っている。その顔を思い浮かべた瞬間、操は弾かれたようにその場から駆けだしていた。 * 外はすっかり日が落ちて暗くなっていた。 人通りはごくわずかで、夜闇に乗じてしまえば誰にも姿を見られる心配がない。 操は甲洋がいるあの店を目指して必死で走った。道順はさっぱりだったが、野生の勘もフル稼働させ、さして迷うこともなくなんとか辿り着くことができた。 「よかった……っ、まだやってる!」 店にはあの夜と同じように灯りがついていた。 操はそのへんに落ちていた葉っぱを拾うと、千円札に変化させた。今回は『へのへのもへじ』になっていない。容子に紙幣を見せてもらったことがあるから、ちゃんとイメージ通りにできている。 これならバレないはずだと、偽札を握りしめると店に飛び込んだ。 ドアベルを鳴らしながらやってきた操に、エプロン姿の甲洋は驚くでもなく視線をくれるだけだった。相変わらずの反応の薄さだ。彼はレジに立ち、なにか作業をしていたようだった。 またあのウサギ男がいたらどうしようかと思ったが、店内は他に人気がなく、シンと静まり返っている。奥のカウンターではあの夜と同じようにお香が焚かれており、不思議な香りが漂っていた。 「ご飯、ちょうだい!」 操は息を切らしながら甲洋のもとへ駆け寄ると、レジカウンターの上に例の偽札をバンっと勢いよく置いた。 「今度はお金も持ってきたから! ほら……っ、あ、あれ……?」 しかしそこにあるはずの偽札は、元の葉っぱの姿に戻っていた。一箇所だけ虫食いがある、青々とした小さな葉っぱに。 それを見た操は、ショックを受けて言葉を失くす。さっきまではちゃんとお札だったのに。焦るあまり集中が切れて、術が解けてしまったのだ。 「そ、そんな……」 これではなんの役にも立たない。こうしているあいだにも、容子がどんどん弱ってしまう。最悪、死んでしまうかもしれないのに。 焦りと不安がピークに達して、みるみるうちに涙が溢れた。 (肝心なときに……どうしてぼくっていつもこうなの!?) こらえきれずにこぼれた涙が、レジカウンターに置かれた葉っぱに落ちた。ぎゅっと目を閉じてうつむいていると、頭上で小さく溜息を漏らす音が聞こえた。 「いいよ」 「……え?」 顔を上げれば、あの乏しい表情が静かに操を見つめている。 「まだ夜の営業時間には早いけど。いいよ。なにがいいの?」 「でも、ぼく葉っぱしか持ってないよ?」 「それで十分。今夜はね」 今夜は、という言葉に首をかしげた操を、甲洋が視線だけで席に促す。操は慌てて首を横に振った。 「あのね、違うの。食べるのはぼくじゃないの」 「?」 「辛くないご飯ならなんでもいい。早くお母さんに食べさせないと……」 「お母さん?」 今度は甲洋が首をかしげる番だった。 「おっきな家に、白い猫と二人っきりで暮らしてる女の人。その人がぼくを助けてくれて、お母さんになってくれたの」 拙く簡素な説明だったが、甲洋はそれだけでなにかピンと来た様子だった。 「……もしかして、羽佐間容子さん?」 「知ってるの!?」 再び身を乗りだすと、甲洋は距離をとるように少しだけ腰を引かせた。落ち着き払った顔つきではあるが、その瞳がかすかに険しさを帯びている。 「羽佐間先生に、なにかあった?」 「動かなくなっちゃった。きっとお腹がすいてるんだと思う。ぼくも同じだったから」 ぐったりとソファで目を閉じる容子の姿を思いだし、操はまた涙を浮かべた。 まだほんの短い間だけれど、操にとって彼女は大切な存在だ。綺麗で優しくてあったかくて、まるで本当のお母さんみたいだと思っている。だけどもしこのまま目を覚まさなかったら──。 不安な気持ちごと涙がこぼれそうになったとき、濡れた目元になにかが触れた。 「っ、……!」 それは甲洋の指だった。彼は人差し指の背で、見開かれた操の目尻をそっと拭った。 「泣かなくていい」 じわりと染み込むような声だった。優しい仕草に、頬がぽーっと熱くなる。 あっけなく涙が引くのと同時に、甲洋の指先も遠のいた。なぜだか寂しいような気がして、操はモジモジと肩を揺らした。変な感じだ。今はそれどころじゃないはずなのに、心がふわふわしてしまう。 「一騎」 なにも言えずにまごまごするだけになってしまった操をよそに、甲洋がバックヤードの方に声をかけている。 「なんだー?」 扉が開かれ、真っ白いウサ耳の男がひょいと顔だけを覗かせた。 「うわっ、ウサギ!?」 「ああ、あのときの。大丈夫だったか? あのカレー、ちょっと辛かっただろ?」 「ひ、ひえぇ……っ」 震え上がる操に、ウサギ男が気さくに声をかけてくる。表情も柔らかくて優しげだったが、怖いもんはやっぱり怖い。 「一騎、ちょっと出てくる。頼めるか?」 甲洋がウサギに言うと、彼──一騎は腕時計をチラリと見やり、「ああ」と頷く。 「まだ時間もあるし、いいよ。わかった」 察するに、一騎はここの従業員であるらしい。操は思わずポカンとした。 そもそもタヌキ、キツネ、イタチであるならいざ知らず、ウサギが人間に化けるなんて見たことも聞いたこともない。それだけでも驚きなのに、人間の下で働いているなんて。 (この人、いったい何者なんだろう?) ますます甲洋のことが分からなくなる。母系の犬に守護されながら、世にも珍しい化けウサギを雇っている人間。彼と関わると、やっぱりこちらの方が化かされているような気にさせられるから複雑だ。 なんとも言えない顔で突っ立っていると、甲洋に「行くよ」と声をかけられた。 「え? 行くってどこに?」 「羽佐間先生の家」 短く答えながら、甲洋は外したエプロンをレジカウンターの裏に押し込んだ。 ←戻る ・ 次へ→
羽佐間家の二階には、翔子の部屋がそのままの状態で残されている。
他とは少し違ったその空気を、操はクンクンと鼻を鳴らして確かめた。ほんのりと甘くて、ふわふわとした柔らかな匂い。それは本当にかすかな残り香のようなものだったが、容子のものと似ているようで、ほんの少しだけ違う気もした。
「娘が使っていた部屋なのよ。いつも綺麗にしてあるから、すぐにでも使えるわ」
「こんな立派な部屋、本当にぼくが使っていいの?」
「ええ、いいわよ。遠慮しないで」
「わぁ……!」
操は目をキラキラとさせながら部屋の中を見回した。
植物があしらわれた薄桃色の壁紙に、棚や机にはぬいぐるみが飾られている。とりわけ操の目を引いたのは、整えられた大きなベッドだった。そっと腰をおろして、ふかふかの感触を確かめる。
「わわっ、しっぽとお尻が埋もれちゃう! すっごくふかふか!」
「ふふっ」
操の無邪気な反応に、容子はついといった様子で手を口元に添えながら笑った。けれどすぐに少し困ったような顔をして、
「男の子には、少し可愛すぎるかもしれないけれど……」
と、気にしている様子を見せる。確かにこの部屋の愛らしさは、ここが女の子の部屋であることを強く主張している。けれど操は思いっきり首を左右に振った。
「そんなことないよ! ぼく、この部屋大好き!」
ベッドで軽く身体を上下させ、ウキウキと声を弾ませる。これから毎晩このふかふかのベッドで寝られるなんて、まるで夢みたいだと操は思った。
その様子に安堵の息を漏らした容子が、ベッド脇のカーテンと窓を開けて換気をはじめる。少しぬるいが、昼間よりはいくらか涼しい空気が流れ込んできた。
夏の虫の声を乗せ、緩やかに吹く風が肩まで伸びた容子の髪を揺らしている。それを軽く手で押さえる横顔を見て、操はことりと首をかしげた。
(翔子って子はもういないのに、どうしてずっと綺麗にしとくんだろう?)
まるで今も翔子がいるかのように、彼女はこの部屋をそのままの状態で残し続けている。使う人間がいないのに、わざわざ掃除までしておくことになんの意味があるんだろう。
(人間の風習は、ぼくにはよく分かんないや)
だけどそのおかげで、今日からさっそくこの部屋を使うことができるのだ。それにしばらくここにいてみれば、人間のことを少しずつ理解できるようになるかもしれない。
なんだかワクワクしてきた操は、ニッコリ笑って容子に言った。
「この部屋、大事に使うね。お母さん」
操の笑顔に容子は一瞬だけ瞳を揺らし、眉をハの字に下げると「ありがとう」と言って微笑んだ。
*
それから一週間が過ぎた。
容子はこの町の小さな中学校で教師の仕事についており、昼間は不在だ。
操はそのあいだ猫のクーと遊んだり、一緒に昼寝をしたり、テレビ──これも最初は驚いた──を見たりしながら留守番している。
家の中は安全だし、エアコンがあれば涼しいし、冷蔵庫にはいつもおやつのアイスが入っている。甘くて冷たくて美味しくて、初めて食べたときから操はこれの虜だった。
だけどアイスは一日に一つしか食べられない決まりになっている。食べ過ぎるとお腹を壊してしまうらしい。少し不満に思ったが、だからって夜中にこっそり食べてしまおうなんて思わない。だって容子と約束したから。
操はここでの暮らしをすっかり気に入り、人里生活を満喫していた。優しい母に美味しいご飯、可愛い猫とふかふかの寝床。そしてアイス。いっそこのまま本当にここんちの子になろうかな、なんて、ちょっと本気で思いはじめている。
──だけど、里のことはやっぱり気がかりだ。
美羽にはちゃんと帰ると約束している。きっと心配しているだろう。せめて一言でも無事を知らせることができたらいいのだが、そのための手段がない。なおのこと、一日でも早く里に戻るべきだと分かってはいるのだが──。
問題はこの半妖の姿だった。あれから何度も試したが、一向に元に戻れない。
葉っぱを小物に変える程度なら、この姿でも術が使える。なのにタヌキに戻ることだけが、どうしてもできない状態だった。
足はほぼ完治して、包帯も取れている。あとは変化が解けさえすれば、里に帰ることができるのに。
「元に戻れないんじゃ、しょうがないよね~」
現自室のベッドでごろ寝していた操は、コロリとのんきに寝返りを打つ。
今日も容子が朝から仕事で不在だった。昼に彼女が用意してくれたサンドイッチを食べ、庭をクーと一緒に散歩したり、今日の分のアイスを食べながらテレビを見たりしたあと、部屋に戻って昼寝をしていた。そしてたったいま目を覚ましたところである。
ふぁ、とあくびをしながら身を起こし、壁にかかっている時計に目をやる。時間の見方は教えてもらった。時刻は18時を過ぎており、そろそろ容子が戻ってくる頃だった。
「今日の夜ご飯なんだろ?」
問題を先延ばしにしている自覚は、一応ある。だけど、どうせ帰ったって叱られるだけだ。だったらご飯のことを考えている方が楽しいし、気が楽だった。
先っちょがまん丸のしっぽをウキウキと揺らしながら部屋を出て、一階に下りる。するとちょうど容子が帰宅したところだった。
「あっ、おかえり! お母さん!」
「ただいま、操。すぐにご飯の支度をするわね」
「やったー! ご飯だー!」
容子は普段持ち歩いているバッグの他に、ネギが刺さった買い物袋を持っていた。玄関からリビングに向かうその後ろを、操はヒヨコのようにくっついて歩いた。
「ねぇねぇお母さん、今日の夜なに?」
「今夜はおそうめんを茹でようと思っ、て……」
キッチン横のテーブルにバッグごと袋を置いた瞬間、容子の身体がフラリと一瞬よろめいた。
「お母さん!? どうかしたの!?」
操は容子の肩にしがみつくようにしてその身体を支えた。よく見れば顔色が悪い。くしゃりと表情を歪めた操に、容子はうっすらと額に汗を滲ませながらも笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。少し休めば、すぐによくなるから」
そう言って、容子はリビングのソファへ向かうと腰をおろして息をつく。操もすぐに駆け寄って、床に膝をつくとその顔を見上げた。
「お母さん、どこか苦しいの?」
「平気よ。ほら、こうして休んでいれば楽になるわ」
容子は肘掛けにすがるような形で半身を横向きにもたれかけ、そのまま目を閉じてしまった。操は耳をしょげさせながら床にペタリと座り込む。
しばらくは彼女が目を覚ますのを待っていたが、一向にその気配はなかった。むしろどんどん顔色が失われていくような気がして、不安な気持ちが次から次へと湧いてくる。
(どうしよう……お母さん、病気になっちゃったのかな……)
こんなとき、人間の子供ならどうするんだろう。どうするのが正解なんだろう。
里では怪我や病気をしたときは、薬草を飲んだり塗ったりして治療する。美羽の祖母にあたる千鶴というタヌキが、薬草を煎じる術に長けていた。だけどここはまるで別世界の人里だ。誰にどうやって助けを求めればいいのか、操には皆目検討もつかなかった。
(ご飯……そうだ、ご飯だ!)
もしかしたら、容子は腹が減りすぎて力が出ないのかもしれない。彼女に保護されるまで、自分もこんなふうにグッタリして動けなかった。だけど容子が作ってくれた食事のおかげで、今はこうしてピンピンしている。
(なにか食べれば、お母さんもきっと元気になる!)
操は大急ぎでキッチンに向かった。テーブルの上にある買い物袋から中身を出すと、そこにはそうめんとネギとかつお節の袋があった。
「そーめんってこれのこと? これをどうやって食べるの?」
ネギとかつお節は知っている。どちらも冷奴の上に乗っているものを食べたことがあった。しかし、この細長い棒状の束は一体なんだろう。
操には「そうめんを茹でる」という、人間なら子供ですら知っている常識が備わっていない。そもそもの話、料理をするという概念そのものを持ち合わせていなかったのだ。もっぱら食べるのが専門で、いつも台所に立つ容子の背中をワクワクしながら見ているだけだった。
「ぼくってもしかして、なにもできない……?」
青ざめながら呆然とした。なにか食べさせようにも、なにをどうすればいいかさっぱりだ。けれどこうしている間にも、容子はどんどん弱ってしまう。
時間がない。焦りばかりが膨らむなか、操はぐったりとソファに沈む容子を見た。
(どうしよう、どうしよう……あっ、そうだ!)
一人だけ、助けを求められそうな人物を知っている。その顔を思い浮かべた瞬間、操は弾かれたようにその場から駆けだしていた。
*
外はすっかり日が落ちて暗くなっていた。
人通りはごくわずかで、夜闇に乗じてしまえば誰にも姿を見られる心配がない。
操は甲洋がいるあの店を目指して必死で走った。道順はさっぱりだったが、野生の勘もフル稼働させ、さして迷うこともなくなんとか辿り着くことができた。
「よかった……っ、まだやってる!」
店にはあの夜と同じように灯りがついていた。
操はそのへんに落ちていた葉っぱを拾うと、千円札に変化させた。今回は『へのへのもへじ』になっていない。容子に紙幣を見せてもらったことがあるから、ちゃんとイメージ通りにできている。
これならバレないはずだと、偽札を握りしめると店に飛び込んだ。
ドアベルを鳴らしながらやってきた操に、エプロン姿の甲洋は驚くでもなく視線をくれるだけだった。相変わらずの反応の薄さだ。彼はレジに立ち、なにか作業をしていたようだった。
またあのウサギ男がいたらどうしようかと思ったが、店内は他に人気がなく、シンと静まり返っている。奥のカウンターではあの夜と同じようにお香が焚かれており、不思議な香りが漂っていた。
「ご飯、ちょうだい!」
操は息を切らしながら甲洋のもとへ駆け寄ると、レジカウンターの上に例の偽札をバンっと勢いよく置いた。
「今度はお金も持ってきたから! ほら……っ、あ、あれ……?」
しかしそこにあるはずの偽札は、元の葉っぱの姿に戻っていた。一箇所だけ虫食いがある、青々とした小さな葉っぱに。
それを見た操は、ショックを受けて言葉を失くす。さっきまではちゃんとお札だったのに。焦るあまり集中が切れて、術が解けてしまったのだ。
「そ、そんな……」
これではなんの役にも立たない。こうしているあいだにも、容子がどんどん弱ってしまう。最悪、死んでしまうかもしれないのに。
焦りと不安がピークに達して、みるみるうちに涙が溢れた。
(肝心なときに……どうしてぼくっていつもこうなの!?)
こらえきれずにこぼれた涙が、レジカウンターに置かれた葉っぱに落ちた。ぎゅっと目を閉じてうつむいていると、頭上で小さく溜息を漏らす音が聞こえた。
「いいよ」
「……え?」
顔を上げれば、あの乏しい表情が静かに操を見つめている。
「まだ夜の営業時間には早いけど。いいよ。なにがいいの?」
「でも、ぼく葉っぱしか持ってないよ?」
「それで十分。今夜はね」
今夜は、という言葉に首をかしげた操を、甲洋が視線だけで席に促す。操は慌てて首を横に振った。
「あのね、違うの。食べるのはぼくじゃないの」
「?」
「辛くないご飯ならなんでもいい。早くお母さんに食べさせないと……」
「お母さん?」
今度は甲洋が首をかしげる番だった。
「おっきな家に、白い猫と二人っきりで暮らしてる女の人。その人がぼくを助けてくれて、お母さんになってくれたの」
拙く簡素な説明だったが、甲洋はそれだけでなにかピンと来た様子だった。
「……もしかして、羽佐間容子さん?」
「知ってるの!?」
再び身を乗りだすと、甲洋は距離をとるように少しだけ腰を引かせた。落ち着き払った顔つきではあるが、その瞳がかすかに険しさを帯びている。
「羽佐間先生に、なにかあった?」
「動かなくなっちゃった。きっとお腹がすいてるんだと思う。ぼくも同じだったから」
ぐったりとソファで目を閉じる容子の姿を思いだし、操はまた涙を浮かべた。
まだほんの短い間だけれど、操にとって彼女は大切な存在だ。綺麗で優しくてあったかくて、まるで本当のお母さんみたいだと思っている。だけどもしこのまま目を覚まさなかったら──。
不安な気持ちごと涙がこぼれそうになったとき、濡れた目元になにかが触れた。
「っ、……!」
それは甲洋の指だった。彼は人差し指の背で、見開かれた操の目尻をそっと拭った。
「泣かなくていい」
じわりと染み込むような声だった。優しい仕草に、頬がぽーっと熱くなる。
あっけなく涙が引くのと同時に、甲洋の指先も遠のいた。なぜだか寂しいような気がして、操はモジモジと肩を揺らした。変な感じだ。今はそれどころじゃないはずなのに、心がふわふわしてしまう。
「一騎」
なにも言えずにまごまごするだけになってしまった操をよそに、甲洋がバックヤードの方に声をかけている。
「なんだー?」
扉が開かれ、真っ白いウサ耳の男がひょいと顔だけを覗かせた。
「うわっ、ウサギ!?」
「ああ、あのときの。大丈夫だったか? あのカレー、ちょっと辛かっただろ?」
「ひ、ひえぇ……っ」
震え上がる操に、ウサギ男が気さくに声をかけてくる。表情も柔らかくて優しげだったが、怖いもんはやっぱり怖い。
「一騎、ちょっと出てくる。頼めるか?」
甲洋がウサギに言うと、彼──一騎は腕時計をチラリと見やり、「ああ」と頷く。
「まだ時間もあるし、いいよ。わかった」
察するに、一騎はここの従業員であるらしい。操は思わずポカンとした。
そもそもタヌキ、キツネ、イタチであるならいざ知らず、ウサギが人間に化けるなんて見たことも聞いたこともない。それだけでも驚きなのに、人間の下で働いているなんて。
(この人、いったい何者なんだろう?)
ますます甲洋のことが分からなくなる。母系の犬に守護されながら、世にも珍しい化けウサギを雇っている人間。彼と関わると、やっぱりこちらの方が化かされているような気にさせられるから複雑だ。
なんとも言えない顔で突っ立っていると、甲洋に「行くよ」と声をかけられた。
「え? 行くってどこに?」
「羽佐間先生の家」
短く答えながら、甲洋は外したエプロンをレジカウンターの裏に押し込んだ。
←戻る ・ 次へ→