2025/06/16 Mon 11 薄暗いリビングには、時計の秒針が鳴る音だけが響いている。 日は沈みかけているが、容子はまだ帰ってこない。クーの姿も見当たらず、操は一人きりでソファに膝を抱えて座っていた。 思いだすのはあの夜の出来事ばかりだ。甲洋の凍てつく視線が、今も胸に突き刺さっている。 (甲洋って、あんなふうに怒るんだ……) あれから数日。 操はずっと塞ぎ込んでいた。昨夜は物の怪喫茶の営業日だったが、店に行く勇気もなかった。あの甲洋を怒らせてしまったことがあまりにショックで、磔にされたように身動きがとれなかったのだ。 ──冷やかし目的のイタズラ狸には、どうせ言っても分からない。人の痛みなんか。 (……どうせぼくはタヌキだもん) 操は唇を噛みしめると両膝に顔を埋めた。投げ捨てるような甲洋の言葉が、頭の中をぐるぐると回り続ける。 操は知りたかった。人間のこと、甲洋のこと。だけど何も分からなかった。むしろ分かる必要などないのだ。だって操は人じゃないから。いつかは里に戻るのだから。そこが本当の生きる場所なのだから。分かってる。分かってるけど。 (あんな顔させたかったわけじゃないのに) ただ羨ましかっただけなのに。 甲洋の心を持っていってしまったまま、もう二度と戻らない翔子のことが。 ──コンコン そのとき、窓を叩く音がした。顔をあげて目を向けると、レースのカーテン越しにうっすらと人影がある。操は警戒し、とっさに身を固くすると息を殺した。玄関から訪ねてくるなら分かるが、わざわざ庭から窓を叩くなんて怪しすぎる。どのみち来客があったところで、この姿では対応できない。 すると窓の向こうの人影が、焦れたように口を開いた。 「ねぇ操、そこにいるんでしょ?」 「!」 その声には聞き覚えがあった。まさかと思いながら駆け寄って、恐る恐るカーテンと窓を開ける。庭は通りから射す街灯に薄ぼんやりと照らされており、そこにいる女性と少女の二人連れを浮かび上がらせていた。 「あは、操! やっと会えたね!」 「もしかして、美羽……!?」 サンダルを引っかけて庭に出た操に、少女はニッコリ微笑んだ。長くウェーブする髪を揺らしながら、「どう? うまく化けてるでしょ?」と無邪気に言って、クルリとターンして見せる。 「な、なんで? なんで美羽と……えっと……」 ニコニコ顔の少女とは対照的に、腕組みをして冷ややかな視線を向けてくる女性。操にはその人が誰であるか、一瞬で理解できてしまった。総士いわく、怒らせると怖い遠見真矢だ。彼女が今まさに怒っていることくらい、発しているオーラから容易に察することができた。 二人はラフなシャツとパンツスタイルという格好で、完璧に人に化けている。 「もう! 操ってばぜんぜん戻ってこないんだもん。だから迎えに来たんだよ!」 美羽はきゅっと眉をつり上げ、戸惑っている操の手を両手で握りしめる。 「本当は美羽だけで来るつもりだったけど、お姉ちゃんに見つかっちゃって」 「当たり前でしょ。美羽ちゃんだけで行くなんて、そんな危ない真似させられない」 チラリと冷たく一瞥されて、操はしおしおとうなだれた。 「でもよかった、操が無事で。美羽すっごく心配したんだから」 「ごめん、美羽……」 「いいの。こうしてちゃんと会えたもん。さ、早く帰ろ。タヌキの里に」 美羽の言葉に、ギクリと肩をこわばらせる。 「そ、それは……その、急に言われても……」 握られていた手をそっとほどいて、さりげなく二人から一歩引いた。口ごもる操に、美羽は不思議そうにパチパチと瞬きをしている。 「どうして? なにかあるの?」 「……う、うん。だってぼく、まだ目的を果たしてないし。言ったでしょ? ぼくが立派な化け狸だってこと証明するまで、絶対に帰らないって」 「まだそんなこと言ってるの!?」 呆れる美羽に、操は目を泳がせた。本当はそんなこと、とっくにどうでもよくなっている。美羽の言うとおり、早く里に帰るべきだということも理解していた。 だけど本当にそれでいいのだろうか。甲洋とあんなふうに別れたまま、全部なかったことにしてしまっても。なにより、もう会えなくなることが嫌だった。嫌われてしまったかもしれないし、どうすればいいかも分からないけど、それでも。 「つまらない意地を張るのはやめなさい」 すると、黙って話を聞いていた真矢が低い声でぴしゃりと言った。 「言いたいやつらには好きに言わせておけばいい。わざわざ危険を犯してまで、いつまでもここにいる必要はない」 「あ、あのね、操のことバカにした子たち、あのあと真矢お姉ちゃんがたっぷり叱ってくれたの。だからもう誰も操のこと悪く言わないよ。みんな反省してるから──」 美羽の言葉を遮るように、操はブンブンと首を大きく横に振った。 「危険なことなんかないよ! だってみんなぼくに優しくしてくれるもん!」 「……ならどうするつもり?」 真矢の声がいっそう冷たい。 「ここで人間の真似事をして、ずっと暮らしていくつもり? その半端な姿で?」 ぐうの音もでなかった。二人のように完璧に変化できていたのなら、まだ説得力もあっただろう。しかし今の操は人でもタヌキでもない状態だ。真矢の言う通り、中途半端な存在でしかない。 「お姉ちゃんはね、操のことが心配なんだよ。美羽だってそうだよ。里のみんなだって……だから帰ろ? ね?」 「操、帰ったわよ。いないの?」 「ッ!?」 そのとき、リビングの向こうにある廊下から容子の声がした。息を呑む操を尻目に、真矢が土足のまま窓から室内に入り込もうとする。 「ま、待って! なにする気!?」 「あなたと関わったすべての人間に、まやかしの術をかける」 「な……!?」 まやかしの術──ようは催眠術のようなもので、真矢は容子の中にある操の記憶を、すべて封じようとしているのだ。 そうこうしているあいだにも、パタパタと廊下をスリッパで歩く音が近づいてくる。操は強引に二人の手を引き、庭の隅にある背の高い茂みの影に引っ張った。 「操? おかしいわね……どうしたのかしら……?」 リビングの明かりを灯し、容子が開けっ放しの窓に首を傾げる。心配そうに庭を見渡し、その後も幾度か操の名を呼んだあと、息を漏らして窓を閉じた。それを茂み越しに見届けて、操はホッと胸を撫で下ろす。 「どういうつもり?」 真矢が鋭い視線を向けてくる。操も思わず眉をつり上げた。 「それはこっちのセリフだよ! 記憶を封じるだなんて、そんな勝手なこと!」 「人間は悪さをする。私たちのような存在がいることを知れば、どうなるかなんて考えなくても分かるはず」 「絶対そんなことにはならないよ! お母さんはそんなことしない!」 「確証は?」 「……ッ!」 確証はないが、確信はある。それは容子と一緒に暮らしてきた操が、なによりも理解していることだった。もちろん容子だけじゃない。一騎も、そして甲洋も。けれどそれで彼女を納得させられるとは思えなかった。守るべきもののためならば、真矢は決して譲歩しない。 (ぼくだってそうだったもん。最初は人間が怖くて、信じられなかった) 今ここでなにをどう言ったところで、警戒心の強い野生動物──とりわけ真矢は慎重な性格だ──を信用させることは不可能だろう。 歯がゆさに涙が込み上げ、下唇を噛み締めた。それを見た美羽が、痛ましげな表情で操に寄り添うと肩を抱く。 「優しそうな女の人だったね。あの人が操を助けてくれたの?」 「……うん」 「ねぇ、そこまで厳しくしなくてもいいんじゃない?」 美羽がすがるような眼差しを向けると、真矢は困ったように眉を下げる。 「しかたないの。そういう決まりなんだから」 「でもっ……これじゃ操が可哀想だよ……」 「美羽ちゃん……」 美羽までうなだれてしまったのを見て、真矢は深々とため息を漏らした。 「だったらなおさら、記憶は封じたほうがいい」 「お姉ちゃん!」 「来主操」 名前を呼ばれて、操はおずおずと顔をあげた。 「あなたも辛いように、あなたを大切に思う人たちも、あなたを失うのは辛いはず。だったら忘れてもらったほうがいい。必要なら、あなたの記憶にも蓋をする」 「ぼ、ぼくの記憶も……?」 操は美羽の腕から離れ、首を左右に振りながら後ずさった。そのまま逃げだしたかったが、まるで阻むように背中が塀にぶつかった。 「ぼくに、お母さんたちを忘れろっていうの……?」 「強制するわけじゃない。あなたが望むなら、そういう選択肢もあるってこと」 「そんな……」 まだほんの短い時間ではあるけれど、操はここで出会った人たちのことが大好きだ。この気持ちを忘れるなんて、考えたくもないことだった。 だけど忘れなければ、ずっと心が痛いままだ。今ですらこんなにも苦しい。容子や甲洋と過ごした日々を思うだけで、胸が張り裂けそうになる。たとえどれだけ時間が経ったとしても、きっとこの痛みは消えないだろう。だったらいっそ忘れたほうが──。 ──お母さんなら大丈夫だよ。 「……ッ、ぁ」 そのときやっと気がついた。自分の言葉が、どれほど心無いものだったかを。 忘れずに生きていくということが、こんなにも苦しいことだったなんて初めて知った。容子も甲洋も、あえてこの痛みを抱えて生きている。だけど心はずっと泣いているのだ。 (なにが大丈夫だよ……こんなのちっとも大丈夫じゃないじゃん……!!) 彼らの思いをなにひとつ深く考えようとせず、操はただ軽率に自分の願いだけを押しつけてしまった。 (だから甲洋は怒ってたんだ……お母さんの気持ち、ちっとも考えてなかったから……ぼくが、自分のことしか考えてなかったから……) 忘れてしまえば楽なのに。忘れることもまた、とても悲しいことだから。 「……わかった」 ポツリと吐きだした操を、美羽が心配そうに見守っている。 「でも、少しだけ待って。ぼく、どうしてもやらなきゃいけないことがあるんだ」 操はずっとうなだれたままだった顔をあげた。このまま帰れば、きっと一生後悔するから。 (甲洋に謝らないと!) ←戻る ・ 次へ→
薄暗いリビングには、時計の秒針が鳴る音だけが響いている。
日は沈みかけているが、容子はまだ帰ってこない。クーの姿も見当たらず、操は一人きりでソファに膝を抱えて座っていた。
思いだすのはあの夜の出来事ばかりだ。甲洋の凍てつく視線が、今も胸に突き刺さっている。
(甲洋って、あんなふうに怒るんだ……)
あれから数日。
操はずっと塞ぎ込んでいた。昨夜は物の怪喫茶の営業日だったが、店に行く勇気もなかった。あの甲洋を怒らせてしまったことがあまりにショックで、磔にされたように身動きがとれなかったのだ。
──冷やかし目的のイタズラ狸には、どうせ言っても分からない。人の痛みなんか。
(……どうせぼくはタヌキだもん)
操は唇を噛みしめると両膝に顔を埋めた。投げ捨てるような甲洋の言葉が、頭の中をぐるぐると回り続ける。
操は知りたかった。人間のこと、甲洋のこと。だけど何も分からなかった。むしろ分かる必要などないのだ。だって操は人じゃないから。いつかは里に戻るのだから。そこが本当の生きる場所なのだから。分かってる。分かってるけど。
(あんな顔させたかったわけじゃないのに)
ただ羨ましかっただけなのに。
甲洋の心を持っていってしまったまま、もう二度と戻らない翔子のことが。
──コンコン
そのとき、窓を叩く音がした。顔をあげて目を向けると、レースのカーテン越しにうっすらと人影がある。操は警戒し、とっさに身を固くすると息を殺した。玄関から訪ねてくるなら分かるが、わざわざ庭から窓を叩くなんて怪しすぎる。どのみち来客があったところで、この姿では対応できない。
すると窓の向こうの人影が、焦れたように口を開いた。
「ねぇ操、そこにいるんでしょ?」
「!」
その声には聞き覚えがあった。まさかと思いながら駆け寄って、恐る恐るカーテンと窓を開ける。庭は通りから射す街灯に薄ぼんやりと照らされており、そこにいる女性と少女の二人連れを浮かび上がらせていた。
「あは、操! やっと会えたね!」
「もしかして、美羽……!?」
サンダルを引っかけて庭に出た操に、少女はニッコリ微笑んだ。長くウェーブする髪を揺らしながら、「どう? うまく化けてるでしょ?」と無邪気に言って、クルリとターンして見せる。
「な、なんで? なんで美羽と……えっと……」
ニコニコ顔の少女とは対照的に、腕組みをして冷ややかな視線を向けてくる女性。操にはその人が誰であるか、一瞬で理解できてしまった。総士いわく、怒らせると怖い遠見真矢だ。彼女が今まさに怒っていることくらい、発しているオーラから容易に察することができた。
二人はラフなシャツとパンツスタイルという格好で、完璧に人に化けている。
「もう! 操ってばぜんぜん戻ってこないんだもん。だから迎えに来たんだよ!」
美羽はきゅっと眉をつり上げ、戸惑っている操の手を両手で握りしめる。
「本当は美羽だけで来るつもりだったけど、お姉ちゃんに見つかっちゃって」
「当たり前でしょ。美羽ちゃんだけで行くなんて、そんな危ない真似させられない」
チラリと冷たく一瞥されて、操はしおしおとうなだれた。
「でもよかった、操が無事で。美羽すっごく心配したんだから」
「ごめん、美羽……」
「いいの。こうしてちゃんと会えたもん。さ、早く帰ろ。タヌキの里に」
美羽の言葉に、ギクリと肩をこわばらせる。
「そ、それは……その、急に言われても……」
握られていた手をそっとほどいて、さりげなく二人から一歩引いた。口ごもる操に、美羽は不思議そうにパチパチと瞬きをしている。
「どうして? なにかあるの?」
「……う、うん。だってぼく、まだ目的を果たしてないし。言ったでしょ? ぼくが立派な化け狸だってこと証明するまで、絶対に帰らないって」
「まだそんなこと言ってるの!?」
呆れる美羽に、操は目を泳がせた。本当はそんなこと、とっくにどうでもよくなっている。美羽の言うとおり、早く里に帰るべきだということも理解していた。
だけど本当にそれでいいのだろうか。甲洋とあんなふうに別れたまま、全部なかったことにしてしまっても。なにより、もう会えなくなることが嫌だった。嫌われてしまったかもしれないし、どうすればいいかも分からないけど、それでも。
「つまらない意地を張るのはやめなさい」
すると、黙って話を聞いていた真矢が低い声でぴしゃりと言った。
「言いたいやつらには好きに言わせておけばいい。わざわざ危険を犯してまで、いつまでもここにいる必要はない」
「あ、あのね、操のことバカにした子たち、あのあと真矢お姉ちゃんがたっぷり叱ってくれたの。だからもう誰も操のこと悪く言わないよ。みんな反省してるから──」
美羽の言葉を遮るように、操はブンブンと首を大きく横に振った。
「危険なことなんかないよ! だってみんなぼくに優しくしてくれるもん!」
「……ならどうするつもり?」
真矢の声がいっそう冷たい。
「ここで人間の真似事をして、ずっと暮らしていくつもり? その半端な姿で?」
ぐうの音もでなかった。二人のように完璧に変化できていたのなら、まだ説得力もあっただろう。しかし今の操は人でもタヌキでもない状態だ。真矢の言う通り、中途半端な存在でしかない。
「お姉ちゃんはね、操のことが心配なんだよ。美羽だってそうだよ。里のみんなだって……だから帰ろ? ね?」
「操、帰ったわよ。いないの?」
「ッ!?」
そのとき、リビングの向こうにある廊下から容子の声がした。息を呑む操を尻目に、真矢が土足のまま窓から室内に入り込もうとする。
「ま、待って! なにする気!?」
「あなたと関わったすべての人間に、まやかしの術をかける」
「な……!?」
まやかしの術──ようは催眠術のようなもので、真矢は容子の中にある操の記憶を、すべて封じようとしているのだ。
そうこうしているあいだにも、パタパタと廊下をスリッパで歩く音が近づいてくる。操は強引に二人の手を引き、庭の隅にある背の高い茂みの影に引っ張った。
「操? おかしいわね……どうしたのかしら……?」
リビングの明かりを灯し、容子が開けっ放しの窓に首を傾げる。心配そうに庭を見渡し、その後も幾度か操の名を呼んだあと、息を漏らして窓を閉じた。それを茂み越しに見届けて、操はホッと胸を撫で下ろす。
「どういうつもり?」
真矢が鋭い視線を向けてくる。操も思わず眉をつり上げた。
「それはこっちのセリフだよ! 記憶を封じるだなんて、そんな勝手なこと!」
「人間は悪さをする。私たちのような存在がいることを知れば、どうなるかなんて考えなくても分かるはず」
「絶対そんなことにはならないよ! お母さんはそんなことしない!」
「確証は?」
「……ッ!」
確証はないが、確信はある。それは容子と一緒に暮らしてきた操が、なによりも理解していることだった。もちろん容子だけじゃない。一騎も、そして甲洋も。けれどそれで彼女を納得させられるとは思えなかった。守るべきもののためならば、真矢は決して譲歩しない。
(ぼくだってそうだったもん。最初は人間が怖くて、信じられなかった)
今ここでなにをどう言ったところで、警戒心の強い野生動物──とりわけ真矢は慎重な性格だ──を信用させることは不可能だろう。
歯がゆさに涙が込み上げ、下唇を噛み締めた。それを見た美羽が、痛ましげな表情で操に寄り添うと肩を抱く。
「優しそうな女の人だったね。あの人が操を助けてくれたの?」
「……うん」
「ねぇ、そこまで厳しくしなくてもいいんじゃない?」
美羽がすがるような眼差しを向けると、真矢は困ったように眉を下げる。
「しかたないの。そういう決まりなんだから」
「でもっ……これじゃ操が可哀想だよ……」
「美羽ちゃん……」
美羽までうなだれてしまったのを見て、真矢は深々とため息を漏らした。
「だったらなおさら、記憶は封じたほうがいい」
「お姉ちゃん!」
「来主操」
名前を呼ばれて、操はおずおずと顔をあげた。
「あなたも辛いように、あなたを大切に思う人たちも、あなたを失うのは辛いはず。だったら忘れてもらったほうがいい。必要なら、あなたの記憶にも蓋をする」
「ぼ、ぼくの記憶も……?」
操は美羽の腕から離れ、首を左右に振りながら後ずさった。そのまま逃げだしたかったが、まるで阻むように背中が塀にぶつかった。
「ぼくに、お母さんたちを忘れろっていうの……?」
「強制するわけじゃない。あなたが望むなら、そういう選択肢もあるってこと」
「そんな……」
まだほんの短い時間ではあるけれど、操はここで出会った人たちのことが大好きだ。この気持ちを忘れるなんて、考えたくもないことだった。
だけど忘れなければ、ずっと心が痛いままだ。今ですらこんなにも苦しい。容子や甲洋と過ごした日々を思うだけで、胸が張り裂けそうになる。たとえどれだけ時間が経ったとしても、きっとこの痛みは消えないだろう。だったらいっそ忘れたほうが──。
──お母さんなら大丈夫だよ。
「……ッ、ぁ」
そのときやっと気がついた。自分の言葉が、どれほど心無いものだったかを。
忘れずに生きていくということが、こんなにも苦しいことだったなんて初めて知った。容子も甲洋も、あえてこの痛みを抱えて生きている。だけど心はずっと泣いているのだ。
(なにが大丈夫だよ……こんなのちっとも大丈夫じゃないじゃん……!!)
彼らの思いをなにひとつ深く考えようとせず、操はただ軽率に自分の願いだけを押しつけてしまった。
(だから甲洋は怒ってたんだ……お母さんの気持ち、ちっとも考えてなかったから……ぼくが、自分のことしか考えてなかったから……)
忘れてしまえば楽なのに。忘れることもまた、とても悲しいことだから。
「……わかった」
ポツリと吐きだした操を、美羽が心配そうに見守っている。
「でも、少しだけ待って。ぼく、どうしてもやらなきゃいけないことがあるんだ」
操はずっとうなだれたままだった顔をあげた。このまま帰れば、きっと一生後悔するから。
(甲洋に謝らないと!)
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