2025/08/04 Mon たからもの 「なぁ、それそんなに面白いか?」 黒鋼は実のところ暇を持て余していた。二人だけの秘密基地。ぽっかりと開いたその空間には、もう長いことずっと沈黙が流れ続けていた。 黒鋼の隣で、ファイは半ズボンから剥き出しになった素足を投げ出して、ただひたすら古ぼけた絵本を熱心に眺めている。あまりにも夢中な様に少しだけ面食らって、そして少しだけつまらないなと感じていた。 二人の周りには漫画本だってお菓子だってたくさんあるのに、ファイはそれに見向きもしないのだ。絵本を夢中で眺めて、時々「わぁ」とか「きゃあ」とかいう小さな悲鳴を上げていた。 「うん、これ、好きー」 「ガキのお古なんだぜ」 「うん、キレイだねー」 「そうか……?」 二人きりの秘密基地に、ファイと黒鋼はそれぞれ宝物を持ち込もうと約束をした。 黒鋼はどうしようかと悩みぬいた末に、結局は好きな漫画本とスナック菓子と、それからなんとなく、気紛れで絵本を数冊持ち込んだ。 その古びた絵本は黒鋼が幼い頃に読んでいたもので、他の新しいものを買い与えられた知世が、今ではすっかり飽きて見向きもしなくなり、物置に仕舞われていたものだった。 ファイは絵を描くのが好きだったから、もしかしたら興味があるかもしれないと思った。というよりは、黒鋼はファイをクラスメイトというよりは、知世と同じくまだ小さな子供なのだと思っていたから、きっと好きだろうなと、何の違和感もなくリュックに詰め込んだのである。 絵本は本当に古くて、所々ボロボロにささくれ立っていた。ずっと昔、もっと新しかった頃はページだって美しかったかもしれないが、今は煤けたように変色して、少し黴臭い。そんなもののどこが綺麗だと言うのか。 ファイの言うことはいつもズレているし、突然会話の流れが山の天気のようにガラリと変わってしまうことがある。突拍子もないように思えて、本人の中ではちゃんと筋が通っているらしいけれど。 「ボロボロじゃねぇか」 「キラキラだよー」 「どこが?」 呆れたように呟くと、ファイはようやく絵本から顔を上げて黒鋼を見た。その表情があまりにもポカンとして間抜けなものだったので、黒鋼はまるで自分の方がチンプンカンプンなことを言っているような気になってしまう。 「な、なんだよ」 「だってキラキラなのに」 「わかんねぇなぁ……」 「だって、だってねー、これは黒ぽんのタカラモノなんだよー」 「それは……」 そんな上等なものではない。ただファイが喜ぶと思って持ってきただけだったし、漫画本だってスナック菓子だって同じだ。 本当は宝物なんて言って誇れるものなど何ひとつ持っていなかったから、なんとなく掻き集めて来たものばかりで。 「タカラモノはね、キラキラなんだよー」 「……そうかよ」 再び絵本に夢中になった、ファイの横顔を見つめる。キラキラに光っているのだとすれば、それはファイの方だ。差し込む陽の光を受けて、金色の髪が輝いている。その色は、母が大切に鏡台の引き出しにしまっている、べっ甲細工の髪飾りを思い出させた。 『これはね、お父さんが初めてくれた贈り物なの』 そう言って髪飾りを見せてくれた母は、黒鋼の知らない女の顔をしていた。懐かしそうにそれを撫でて、愛おしそうな眼差しをして。幸せそうなその表情に、黒鋼はなぜか酷く落ち着かない気持ちになった。照れ臭いような、恥ずかしいような、むずむずとした感覚。 母を綺麗だと思い、父に焦燥を覚えた、初めての瞬間。 もっと見ていたいような、もっと知りたいような、それでいて早く過ぎてほしいとも感じていた、あのひととき。ファイの金色は、そんな甘いような酸っぱいような、不思議な感情を思い出させた。どうしてか無性に、柔らかくてふわふわとしていて、綺麗なこの髪に触れたいと思った。 母の大切なあの髪飾りには、どうしてか手を伸ばすことが出来なかったけれど。今は、触れたい。そっと手を伸ばして、少し戸惑いがちに緩く撫でた。 ファイが顔を上げて、丸い目を瞬かせる。 「どうしてなでるのー?」 「……嫌かよ」 口元をひん曲げて、照れ臭さを隠しもせず、ぶっきらぼうに問うてみる。 なぜかなんて、黒鋼にだって分からない。ただキラキラしていて、綺麗だったから。思えば妹の頭だって撫でたことなどないし、されたことはあっても、するのはこれが初めてだった。 どうにも尻の座りが悪い気分になって、黒鋼はおずおずと手を引っ込めた。ファイはぽっかりと口を開けたまま、その手の動きを目で追いかけている。それから、ふんわりと微笑んだ。 「ヤじゃないよ」 「そうか」 「オレ、おばあちゃん大好きだもん」 「なんの話だよ」 俺はおまえのおばあちゃんじゃねぇよと吐き捨てながら、今更のように胸が高鳴っていた。一体なにをしているのかと、自分に呆れもする。 俯いてむっつりしていると、今度はファイの手が伸びてきて驚いた。 「な、なんだよ」 「いやかよー」 黒鋼の口真似をして笑うファイの白くて小さな手に、黒くてツンツンの頭を撫でられる。 「おかえしだよ、黒たん」 「やめろバカ。あと、その変な呼び方もやめろ」 するよりもされる方が、なんだか子供扱いされている気がして酷く照れ臭かった。頭をブルブル振るとファイが幼く甲高い声で笑う。 同じだ。 今のこの瞬間がとても大切なのに、早く過ぎればいいと感じている。どうしたらいいのか、分からなくなってしまうから。 「おまえこそ、持ってきたのかよ。宝物ってやつ」 だから誤魔化すように慌てて聞いた。ファイは「あっ」と声を上げると、ポケットの中をゴソゴソと探り出す。そして出てきたものを手渡されて、素直に受け取った。 「おい……」 手の平に乗せられた、小さくて透明なビニールの包みは薄荷の飴玉だ。呆れたような目で見ると、ファイはニコニコ顔で包みを開けて、それを口に放り込んでしまった。ぎゅうと目を閉じて、身を震わせながら「スースーするー」と言っている。 「これがおまえの宝物なのか?」 仕方なく黒鋼も包みを開けるとその飴を口に放る。甘みと一緒に独特の苦味とスースーとした感覚が口いっぱいに広がって、やっぱり苦手だと感じた。ファイは嬉しそうに元気よく頷いた。 「だってオレ、おばあちゃん大好きなんだもん!」 「わかったよ……ったく」 ファイのおばあちゃん、とやらが持たせてくれたものなのだろう。一切の説明を省いて言いたい部分だけを言うのはファイの癖だ。それにもだんだん慣れてきたような気がする。 (ばあちゃん、か) 彼はこれまでも、会話の中によく「おばあちゃん」という単語をだしていた。よほど懐いているようで、ファイがおばあちゃん子であることが知れる。 「あのね、それにね」 ――オレのタカラモノ、ここにあるからいいの。 「ッ!」 細められた青い瞳が、蕩けて零れ落ちそうに見えて、息をのんだ。彼の言葉は、この場所を指しているのだろうか。大切な秘密基地だから。ふたりの宝物だから。 それとも――。 不思議な言動にはすっかり慣れてきた、というのは、ただの勘違いだったのかもしれない。どうやらまだまだ、修行が足りないらしかった。 だけど感じる、あの尻の座りの悪い感じに、やけに頬が熱くて仕方が無かった。 薄荷の香りを纏いながら、幼い笑顔を見つめて。 今ならこのスースーとした苦味も、甘味も、好きになれそうな気がしていた。 ←戻る ・ 次へ→
「なぁ、それそんなに面白いか?」
黒鋼は実のところ暇を持て余していた。二人だけの秘密基地。ぽっかりと開いたその空間には、もう長いことずっと沈黙が流れ続けていた。
黒鋼の隣で、ファイは半ズボンから剥き出しになった素足を投げ出して、ただひたすら古ぼけた絵本を熱心に眺めている。あまりにも夢中な様に少しだけ面食らって、そして少しだけつまらないなと感じていた。
二人の周りには漫画本だってお菓子だってたくさんあるのに、ファイはそれに見向きもしないのだ。絵本を夢中で眺めて、時々「わぁ」とか「きゃあ」とかいう小さな悲鳴を上げていた。
「うん、これ、好きー」
「ガキのお古なんだぜ」
「うん、キレイだねー」
「そうか……?」
二人きりの秘密基地に、ファイと黒鋼はそれぞれ宝物を持ち込もうと約束をした。
黒鋼はどうしようかと悩みぬいた末に、結局は好きな漫画本とスナック菓子と、それからなんとなく、気紛れで絵本を数冊持ち込んだ。
その古びた絵本は黒鋼が幼い頃に読んでいたもので、他の新しいものを買い与えられた知世が、今ではすっかり飽きて見向きもしなくなり、物置に仕舞われていたものだった。
ファイは絵を描くのが好きだったから、もしかしたら興味があるかもしれないと思った。というよりは、黒鋼はファイをクラスメイトというよりは、知世と同じくまだ小さな子供なのだと思っていたから、きっと好きだろうなと、何の違和感もなくリュックに詰め込んだのである。
絵本は本当に古くて、所々ボロボロにささくれ立っていた。ずっと昔、もっと新しかった頃はページだって美しかったかもしれないが、今は煤けたように変色して、少し黴臭い。そんなもののどこが綺麗だと言うのか。
ファイの言うことはいつもズレているし、突然会話の流れが山の天気のようにガラリと変わってしまうことがある。突拍子もないように思えて、本人の中ではちゃんと筋が通っているらしいけれど。
「ボロボロじゃねぇか」
「キラキラだよー」
「どこが?」
呆れたように呟くと、ファイはようやく絵本から顔を上げて黒鋼を見た。その表情があまりにもポカンとして間抜けなものだったので、黒鋼はまるで自分の方がチンプンカンプンなことを言っているような気になってしまう。
「な、なんだよ」
「だってキラキラなのに」
「わかんねぇなぁ……」
「だって、だってねー、これは黒ぽんのタカラモノなんだよー」
「それは……」
そんな上等なものではない。ただファイが喜ぶと思って持ってきただけだったし、漫画本だってスナック菓子だって同じだ。
本当は宝物なんて言って誇れるものなど何ひとつ持っていなかったから、なんとなく掻き集めて来たものばかりで。
「タカラモノはね、キラキラなんだよー」
「……そうかよ」
再び絵本に夢中になった、ファイの横顔を見つめる。キラキラに光っているのだとすれば、それはファイの方だ。差し込む陽の光を受けて、金色の髪が輝いている。その色は、母が大切に鏡台の引き出しにしまっている、べっ甲細工の髪飾りを思い出させた。
『これはね、お父さんが初めてくれた贈り物なの』
そう言って髪飾りを見せてくれた母は、黒鋼の知らない女の顔をしていた。懐かしそうにそれを撫でて、愛おしそうな眼差しをして。幸せそうなその表情に、黒鋼はなぜか酷く落ち着かない気持ちになった。照れ臭いような、恥ずかしいような、むずむずとした感覚。
母を綺麗だと思い、父に焦燥を覚えた、初めての瞬間。
もっと見ていたいような、もっと知りたいような、それでいて早く過ぎてほしいとも感じていた、あのひととき。ファイの金色は、そんな甘いような酸っぱいような、不思議な感情を思い出させた。どうしてか無性に、柔らかくてふわふわとしていて、綺麗なこの髪に触れたいと思った。
母の大切なあの髪飾りには、どうしてか手を伸ばすことが出来なかったけれど。今は、触れたい。そっと手を伸ばして、少し戸惑いがちに緩く撫でた。
ファイが顔を上げて、丸い目を瞬かせる。
「どうしてなでるのー?」
「……嫌かよ」
口元をひん曲げて、照れ臭さを隠しもせず、ぶっきらぼうに問うてみる。
なぜかなんて、黒鋼にだって分からない。ただキラキラしていて、綺麗だったから。思えば妹の頭だって撫でたことなどないし、されたことはあっても、するのはこれが初めてだった。
どうにも尻の座りが悪い気分になって、黒鋼はおずおずと手を引っ込めた。ファイはぽっかりと口を開けたまま、その手の動きを目で追いかけている。それから、ふんわりと微笑んだ。
「ヤじゃないよ」
「そうか」
「オレ、おばあちゃん大好きだもん」
「なんの話だよ」
俺はおまえのおばあちゃんじゃねぇよと吐き捨てながら、今更のように胸が高鳴っていた。一体なにをしているのかと、自分に呆れもする。
俯いてむっつりしていると、今度はファイの手が伸びてきて驚いた。
「な、なんだよ」
「いやかよー」
黒鋼の口真似をして笑うファイの白くて小さな手に、黒くてツンツンの頭を撫でられる。
「おかえしだよ、黒たん」
「やめろバカ。あと、その変な呼び方もやめろ」
するよりもされる方が、なんだか子供扱いされている気がして酷く照れ臭かった。頭をブルブル振るとファイが幼く甲高い声で笑う。
同じだ。
今のこの瞬間がとても大切なのに、早く過ぎればいいと感じている。どうしたらいいのか、分からなくなってしまうから。
「おまえこそ、持ってきたのかよ。宝物ってやつ」
だから誤魔化すように慌てて聞いた。ファイは「あっ」と声を上げると、ポケットの中をゴソゴソと探り出す。そして出てきたものを手渡されて、素直に受け取った。
「おい……」
手の平に乗せられた、小さくて透明なビニールの包みは薄荷の飴玉だ。呆れたような目で見ると、ファイはニコニコ顔で包みを開けて、それを口に放り込んでしまった。ぎゅうと目を閉じて、身を震わせながら「スースーするー」と言っている。
「これがおまえの宝物なのか?」
仕方なく黒鋼も包みを開けるとその飴を口に放る。甘みと一緒に独特の苦味とスースーとした感覚が口いっぱいに広がって、やっぱり苦手だと感じた。ファイは嬉しそうに元気よく頷いた。
「だってオレ、おばあちゃん大好きなんだもん!」
「わかったよ……ったく」
ファイのおばあちゃん、とやらが持たせてくれたものなのだろう。一切の説明を省いて言いたい部分だけを言うのはファイの癖だ。それにもだんだん慣れてきたような気がする。
(ばあちゃん、か)
彼はこれまでも、会話の中によく「おばあちゃん」という単語をだしていた。よほど懐いているようで、ファイがおばあちゃん子であることが知れる。
「あのね、それにね」
――オレのタカラモノ、ここにあるからいいの。
「ッ!」
細められた青い瞳が、蕩けて零れ落ちそうに見えて、息をのんだ。彼の言葉は、この場所を指しているのだろうか。大切な秘密基地だから。ふたりの宝物だから。
それとも――。
不思議な言動にはすっかり慣れてきた、というのは、ただの勘違いだったのかもしれない。どうやらまだまだ、修行が足りないらしかった。
だけど感じる、あの尻の座りの悪い感じに、やけに頬が熱くて仕方が無かった。
薄荷の香りを纏いながら、幼い笑顔を見つめて。
今ならこのスースーとした苦味も、甘味も、好きになれそうな気がしていた。
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