2025/08/04 Mon こいぶみ 『せんせい、ぼくは、せんせいがすきです。 せんせいのえがおをみると、とてもうれしくなります。 ぼくはおとこだから、せんせいのことを、まもりたいです。 もうすぐおわかれだけど、せんせいのことは、わすれません。 せんせいも、ぼくのことを、わすれないでください。』 「ねぇねぇ黒たん、これなぁに?」 いつものように放課後、秘密基地で過ごしていたときのことだった。 それまで、また新たに黒鋼が持ってきた古い絵本に夢中になっていたはずのファイが、手に折り畳まれた紙を持って首を傾げた。 「なんだ?」 暇を持て余すのにもめっきり慣れた黒鋼は、持参した漫画本から顔を上げることなく、上の空で返事をする。 「えっとねー」 ファイが手元で何かをガサガサとさせて、黒鋼はそこでようやく顔を上げた。 「ぼ、く、は、せん、せい、が、す」 「うわ~~~っ!?」 「ひゃぁ!」 ファイがボロボロに黄ばんだ紙に書かれているものを読み上げはじめた瞬間、黒鋼は悲鳴を上げた。思いっきり飛び掛ってそれを奪い取る。 「んもー! イタイよ黒ぴっぴ~っ」 「ばっ、おま、これっ、どこに!?」 「絵本にはさまってたよー?」 心臓をバクバクと高鳴らせながら、嫌な汗をかく。なぜ、こんなものがここに……。 黒鋼は慌ててそれを手の中に握りこむと、額に滲んだ汗をぬぐった。季節は初夏。汗をかくくらいどうってことはないが、これはなんとも嫌な感じだ。 手の中でぐしゃぐしゃになっている古めかしい紙切れは、黒鋼が幼い頃に書いた、いわゆるラブレターというものだった。 あれは小学一年生の頃だったか。都会からやってきた教育実習生の女性だったと思う。長い黒髪を綺麗に一つにまとめて、いつも淡い桃色のカーディガンを着ていた。優しい笑顔を見るのが好きで、黒鋼は子供心に彼女に恋をしたのだ。思えばあれが初恋、というものだったのだと思う。 「お、おまえ……全部、読んだか……?」 「んん?」 「全部目ぇ通したかって聞いてんだよ!」 コトリと、ファイが首を傾げた。 黒鋼は返事を待つ間、その瞳をじっとりと睨みつける。やがて、不思議そうにしていた表情がへにゃ~んと間抜けた笑顔に変わる。 「ヒミツのことなのー?」 「答えになってねぇし」 「見ちゃおうかなー」 「ばっ、おいダメだって!」 ファイが小さな身体で飛び掛ってきて、黒鋼は咄嗟にそれを避けることが出来なかった。でん、と後方にひっくり返って、それでも伸びてくる手から手紙を守ろうともがく。 そのとき、唇の辺りにガツンと衝撃が走った。 「いっ!?」 「んあっ!」 一瞬、目の前に星が瞬いたような光景が広がって、すぐに頭が真っ白になった。何が起こったのか整理できないまま、とりあえず痛みに口を押えてのっそりと起き上がる。 「イタイよぅ~」 それはファイも同じだったようで、黒鋼の上から退くとペタリと女の子座りをして両手で口元を押えていた。 「っ!」 痛い痛いと涙ぐんでいるファイに、黒鋼は一気にクリアになる思考に衝撃を受けた。 今、触れたのは、ぶつかったのは、唇と唇ではないのか。実際には歯と歯がぶつかったという方が正しい気はするけれど。ガツンという痛みが走る直前、視界いっぱいにファイのニコニコ顔を見たような気がする。 「ま、マジかよ……」 カッと顔が熱くなってゆく。心臓がドクドクと脈打っていて、いきなりのことに痛み以外でもちょっと涙が出そうだった。 ――ファイと、キスをした。 黒鋼が石のように固まっていると、ファイはぶぅと唇を尖らせる。今は、その尖った唇を真っ直ぐに見ていられない。目を泳がせて、頭をガリガリと掻いた。 「ジョーダンだったのにー……黒ぴーがイジワルだから、ガツンてなったー」 「……おう」 ファイの顔さえ見れない。キスをしたのだと、それを実感しているのが自分だけなのだと思うと、なんだかやるせないような、ホッとしたような、複雑な心境を持て余す。 黒鋼は鈍った思考を、それでも物凄い速さで回転させていた。そうだ、あれはちょっとした事故だ。幸か不幸かファイは子供だから、意味なんて分かっていないし。 別に女子でもないし、初めてだからどうとか、そんなのは関係ない。きっとカウントにすら入らないはずだ。そうじゃなきゃいけない、気がする。 短い時間でどうにか自分の中で処理をした瞬間、ファイが「あ」と間抜けな声を出した。 「ねぇねぇ、今のってチュウかなぁ? オレと黒たん、チュウしたのかなぁ?」 「ばっ、違う!」 「ちがうー?」 黒鋼は無意味に幾度か咳払いをした。 「そう、だ。ちがう。今のは、そーゆうんじゃない」 「ふぅん?」 そっかー、とファイは別段変わった様子もなく、へにゃりと笑った。思いっきり取り乱しているのは、やっぱり自分だけなのだ。 馬鹿馬鹿しいような気もしつつ、黒鋼は違う意味でなぜか安堵もしていた。 ファイが、嫌がらなくてよかった、と。 もし彼がたった今起こった不慮の事故に対して、少しでも嫌悪感を露にしていたのならば、多分、黒鋼はとても傷ついていただろうと思う。そして、あれだけ内心で否定しておいて、自分自身も嫌悪感を欠片も抱いていないことに、違和感を覚えた。 けれどそこで働き出したのは、一種の防衛本能だった。考えることを、とりあえずは止める。 だいたい話の主旨は、幼い頃の黒鋼が書いたラブレターなのだから。無機物に対して募る苛立ちに身を任せ、ただでさえシワシワなその紙切れを、さらに丸めてポケットに捻じ込んだ。 「と、とにかく、これはダメだ」 ゴホン、ともう一度咳払いをする。なんだって古い絵本になど挟まっていたのか、その辺りの記憶は曖昧だった。 これは帰ってから、庭の焼却炉ででもこっそり焼いてしまおう。そう決めたところで、ファイがまるで黒鋼の心を読んだかのように言った。 「ダメだよー」 「あ?」 「それ、すごく大事なものなんだよ」 「…………」 一瞬なにも言えないでいると、ファイは首を傾げて微笑みながら「ね?」と言った。 「……やっぱ見たんだろ」 そうに決まってる。 「見てないよ?」 だって黒たんだけのタカラモノでしょ、と言ってファイは笑った。 結局、黒鋼は渡せなかったラブレターを、燃やすことができなかった。 ←戻る ・ 次へ→
『せんせい、ぼくは、せんせいがすきです。
せんせいのえがおをみると、とてもうれしくなります。
ぼくはおとこだから、せんせいのことを、まもりたいです。
もうすぐおわかれだけど、せんせいのことは、わすれません。
せんせいも、ぼくのことを、わすれないでください。』
「ねぇねぇ黒たん、これなぁに?」
いつものように放課後、秘密基地で過ごしていたときのことだった。
それまで、また新たに黒鋼が持ってきた古い絵本に夢中になっていたはずのファイが、手に折り畳まれた紙を持って首を傾げた。
「なんだ?」
暇を持て余すのにもめっきり慣れた黒鋼は、持参した漫画本から顔を上げることなく、上の空で返事をする。
「えっとねー」
ファイが手元で何かをガサガサとさせて、黒鋼はそこでようやく顔を上げた。
「ぼ、く、は、せん、せい、が、す」
「うわ~~~っ!?」
「ひゃぁ!」
ファイがボロボロに黄ばんだ紙に書かれているものを読み上げはじめた瞬間、黒鋼は悲鳴を上げた。思いっきり飛び掛ってそれを奪い取る。
「んもー! イタイよ黒ぴっぴ~っ」
「ばっ、おま、これっ、どこに!?」
「絵本にはさまってたよー?」
心臓をバクバクと高鳴らせながら、嫌な汗をかく。なぜ、こんなものがここに……。
黒鋼は慌ててそれを手の中に握りこむと、額に滲んだ汗をぬぐった。季節は初夏。汗をかくくらいどうってことはないが、これはなんとも嫌な感じだ。
手の中でぐしゃぐしゃになっている古めかしい紙切れは、黒鋼が幼い頃に書いた、いわゆるラブレターというものだった。
あれは小学一年生の頃だったか。都会からやってきた教育実習生の女性だったと思う。長い黒髪を綺麗に一つにまとめて、いつも淡い桃色のカーディガンを着ていた。優しい笑顔を見るのが好きで、黒鋼は子供心に彼女に恋をしたのだ。思えばあれが初恋、というものだったのだと思う。
「お、おまえ……全部、読んだか……?」
「んん?」
「全部目ぇ通したかって聞いてんだよ!」
コトリと、ファイが首を傾げた。
黒鋼は返事を待つ間、その瞳をじっとりと睨みつける。やがて、不思議そうにしていた表情がへにゃ~んと間抜けた笑顔に変わる。
「ヒミツのことなのー?」
「答えになってねぇし」
「見ちゃおうかなー」
「ばっ、おいダメだって!」
ファイが小さな身体で飛び掛ってきて、黒鋼は咄嗟にそれを避けることが出来なかった。でん、と後方にひっくり返って、それでも伸びてくる手から手紙を守ろうともがく。
そのとき、唇の辺りにガツンと衝撃が走った。
「いっ!?」
「んあっ!」
一瞬、目の前に星が瞬いたような光景が広がって、すぐに頭が真っ白になった。何が起こったのか整理できないまま、とりあえず痛みに口を押えてのっそりと起き上がる。
「イタイよぅ~」
それはファイも同じだったようで、黒鋼の上から退くとペタリと女の子座りをして両手で口元を押えていた。
「っ!」
痛い痛いと涙ぐんでいるファイに、黒鋼は一気にクリアになる思考に衝撃を受けた。
今、触れたのは、ぶつかったのは、唇と唇ではないのか。実際には歯と歯がぶつかったという方が正しい気はするけれど。ガツンという痛みが走る直前、視界いっぱいにファイのニコニコ顔を見たような気がする。
「ま、マジかよ……」
カッと顔が熱くなってゆく。心臓がドクドクと脈打っていて、いきなりのことに痛み以外でもちょっと涙が出そうだった。
――ファイと、キスをした。
黒鋼が石のように固まっていると、ファイはぶぅと唇を尖らせる。今は、その尖った唇を真っ直ぐに見ていられない。目を泳がせて、頭をガリガリと掻いた。
「ジョーダンだったのにー……黒ぴーがイジワルだから、ガツンてなったー」
「……おう」
ファイの顔さえ見れない。キスをしたのだと、それを実感しているのが自分だけなのだと思うと、なんだかやるせないような、ホッとしたような、複雑な心境を持て余す。
黒鋼は鈍った思考を、それでも物凄い速さで回転させていた。そうだ、あれはちょっとした事故だ。幸か不幸かファイは子供だから、意味なんて分かっていないし。
別に女子でもないし、初めてだからどうとか、そんなのは関係ない。きっとカウントにすら入らないはずだ。そうじゃなきゃいけない、気がする。
短い時間でどうにか自分の中で処理をした瞬間、ファイが「あ」と間抜けな声を出した。
「ねぇねぇ、今のってチュウかなぁ? オレと黒たん、チュウしたのかなぁ?」
「ばっ、違う!」
「ちがうー?」
黒鋼は無意味に幾度か咳払いをした。
「そう、だ。ちがう。今のは、そーゆうんじゃない」
「ふぅん?」
そっかー、とファイは別段変わった様子もなく、へにゃりと笑った。思いっきり取り乱しているのは、やっぱり自分だけなのだ。
馬鹿馬鹿しいような気もしつつ、黒鋼は違う意味でなぜか安堵もしていた。
ファイが、嫌がらなくてよかった、と。
もし彼がたった今起こった不慮の事故に対して、少しでも嫌悪感を露にしていたのならば、多分、黒鋼はとても傷ついていただろうと思う。そして、あれだけ内心で否定しておいて、自分自身も嫌悪感を欠片も抱いていないことに、違和感を覚えた。
けれどそこで働き出したのは、一種の防衛本能だった。考えることを、とりあえずは止める。
だいたい話の主旨は、幼い頃の黒鋼が書いたラブレターなのだから。無機物に対して募る苛立ちに身を任せ、ただでさえシワシワなその紙切れを、さらに丸めてポケットに捻じ込んだ。
「と、とにかく、これはダメだ」
ゴホン、ともう一度咳払いをする。なんだって古い絵本になど挟まっていたのか、その辺りの記憶は曖昧だった。
これは帰ってから、庭の焼却炉ででもこっそり焼いてしまおう。そう決めたところで、ファイがまるで黒鋼の心を読んだかのように言った。
「ダメだよー」
「あ?」
「それ、すごく大事なものなんだよ」
「…………」
一瞬なにも言えないでいると、ファイは首を傾げて微笑みながら「ね?」と言った。
「……やっぱ見たんだろ」
そうに決まってる。
「見てないよ?」
だって黒たんだけのタカラモノでしょ、と言ってファイは笑った。
結局、黒鋼は渡せなかったラブレターを、燃やすことができなかった。
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