2025/08/07 Thu 着信 ※黒鋼×蘇摩 地元を離れて市街地の全寮制高校へ入学してから、黒鋼は一度も実家へ帰っていなかった。 もうじき、三年目の夏が来る。 * 全寮制とは言っても、そこは思っていたよりも自由に時間を使うことが可能だった。外出も外泊も、簡単な届けさえ出してしまえば、驚くほどあっさり許可が取れてしまう。規則で決して認められてはいないが、終末の時間をバイトに当てる生徒は多く、黒鋼も例外ではなかった。 きっかけはクラスメイトからの誘いだった。仕事は工場内での軽作業が主だったが、日当で稼げる額が、高校生という身分にしてはかなり大きい。 遠方への進学という我侭を聞いてもらって、さらに毎月少ないながらも自由に使えるだけの小遣いをくれる両親には、本当に申し訳ないことをしていると思う。その金には、なるべく手をつけないようにしていた。両親は遠慮はいらないと言ってくれるけれど、後ろめたさが後を絶たない。 好きなように、好きな道を歩めと言う父だが、実家の営む民宿はそれなりに歴史があった。知世に背負わせるのは酷だと思う。いずれは腹を括る必要があるのは、分かっているつもりだった。 * 機械的な電子音が室内に響いていた。すでに二度ほど、黒鋼はそれを無視している。音を立てつづけているのは、母に言われて半ば仕方なく持たされた携帯電話だった。 かけてくる人間は、それこそ家族以外にはいない。週末になると、こちらからかけないぶん、母か知世が電話をよこす。 三度目のそれも適当に無視を決め込むつもりで目を閉じていると、傍らでシーツが蠢いた。 「電話、これで三度目ですよ」 気だるげな声が、咎めるような響きを含む。黒鋼は、チッと舌を打つと「わかってる」とそっけなく返した。 ベッドの下に放り出されていた携帯を、音と光を頼りに適当に探っていると、気を利かせた女がベッドサイドの間接照明のスイッチに触れた。淡い暖色の光が灯り、黒鋼の指先は目当てのものを探り当てた。裸の半身を起こし、通話ボタンを押す。 『黒鋼? お母さんだけど』 「ああ」 『寝てた?』 「……いや」 女と寝ていたなど、口が裂けてもいえない。チラリと横目で見やると、彼女は、蘇摩は胸元をシーツで隠しながら床に脱ぎ捨てられていたバスローブを拾い上げ、黒鋼に向かって微笑んだ。 褐色の肌が、白いローブに包まれる。ベッドから抜け出した彼女は、そのままバスルームへ消えた。一歩引いた奥ゆかしさがあり、そしてよく気がつく。まだ女は彼女しか知らないが、いい女なのだと思う。 『そう? ならいいんだけど……あのね、もうすぐ夏休みでしょう?』 「ああ、そうだな」 『一度、帰って来たら?』 黒鋼はピクリと片方の眉を動かした。これまでも、母には幾度か実家に顔を出すようにと言われ続けてきた。けれど、いつだって冗談めかして言われるだけで、黒鋼はそれをのらりくらりと交わしてきたのだ。 だが今回は、少し様子が違うように感じられた。母の声に、覇気がないように思える。 「何かあったのか?」 『……うぅん、そういうわけじゃないの。ただほら、そっちへ行ったきり一度も戻らないでしょう? お父さんはあんな感じだけれど、本当は会いたがっているわ』 進路のこともあるでしょう、と母は言う。黒鋼はこの期に及んで迷っていたが、それを言われてしまえば言い逃れは出来ない。進路については、実はもうかなり以前からすでに決めていたが、一度は顔を合わせて相談してみるべきかと思う。 「わかった。休みに入ったら、一度帰る」 『そう? 知世も喜ぶわ』 「どうだかな」 あの生意気な妹は、どれくらい成長しているだろうか。鬱陶しいとばかり思っていたが、いざ思い返せばそろそろ顔くらいは見てやってもいいかもしれない。 母は嬉しそうに声を弾ませて、今から何が食べたいかだとか、具体的な日にちなどを話している。黒鋼は、それに適当に相槌を打ちつつ、やはり少し気になった。 「母さん」 『なぁに?』 「本当に何も変わったことはないのか」 先刻と同様の問いかけに、母は少しだけ間を置いて「何もないわよ」と言った。 * 「おうちの方?」 「ああ」 濡れた髪の水分をタオルに含ませながら、さきほどと同じ姿で蘇摩が戻ってきた。 ベッドの縁へ腰掛けて作業を繰り返す、女の華奢な背中をぼんやりと見つめる。しっとりと濡れた黒髪と、バスローブの襟から覗く褐色の項。蘇摩の纏う色は『彼』を忘れさせてくれるような、そんな気がした。 彼女とは出会いだけなら、もう一年ほど前に遡るだろうか。黒鋼が友人の誘いで働くようになったのは、町外れの小さな物流センターだった。業務は当然力作業が多く、身体を動かすことが好きだった黒鋼にしてみれば、日当も含めて悪くない条件だった。 蘇摩はそこで、事務員として勤めていた。顔を合わせれば多少の挨拶をする程度の、そんな関係だった。それが今では、バイト先から近いという理由で、終末の夜はわざわざ外泊の届けまで出して、彼女のマンションの一室に寝泊りしている。 互いに色恋に対して積極的ではない。だが、幼い頃の初恋をカウントに入れないならば、黒鋼にとって異性に対して特別な興味を惹かれたのは、彼女が初めてだった。 手を伸ばすと、ほっそりとした肩に触れた。蘇摩が振り返るよりも先に、強く胸元に引き寄せる。 「今夜は、もういけませんよ」 「わかってる」 「じゃあこの手はなんです?」 黒鋼の大きな手の中にもしっくりと馴染む、ふくよかな胸の膨らみに手を添えれば、しなやかな指先が咎めるように甲に添えられた。石鹸の甘い香りが鼻腔をくすぐる。 「さぁな」 「もう……」 呆れたように笑うくせに、唇を落とせば受け入れてくれることを知っていた。どうしようもないくらい、自分はこの女に甘えていると、そう感じる。深く口付けながら、黒鋼は柔らかな肌に溺れていく。 最低だと思う。 あの町を離れるだけでなく、逃げ伸びた先でさえ、自分は新しい拠り所に縋りついている。 彼女と関係を持つとき、これでようやく『彼』を忘れられると、そう思った。結局、黒鋼が蘇摩に抱く感情は、恋とは違うものなのだ。利用しているだけなのだと思うと、罪悪感が胸に降り積もる。 大切だと思うし、失いたくないとも思う。一番手放したくなかったものを置き去りにしたままのくせに、彼女に対してそう感じるのは、あまりにも都合がよすぎるのではないか。 それでも、黒鋼には他に術がない。 息をつく間もなく学業や部活動に専念しても、開いた時間をバイトに勤しんでも、片時も脳裏から離れない、あの柔らかな笑顔。異国の歌。共に過ごした懐かしい空間。小さな手。彼女を抱いて、その温もりや快楽に溺れている瞬間だけは、遠くへ押しやることが出来る。 けれど。 母に『帰る』と告げてしまった。蘇摩の甘い吐息を聞いても、細い腕に抱かれても、もう、駄目だった。 帰るのだろうか、自分は。本当はまだ迷っている。 結局、どこに逃げたって同じだった。いつまでたっても、忘れることなんかできやしない。 ←戻る ・ 次へ→
※黒鋼×蘇摩
地元を離れて市街地の全寮制高校へ入学してから、黒鋼は一度も実家へ帰っていなかった。
もうじき、三年目の夏が来る。
*
全寮制とは言っても、そこは思っていたよりも自由に時間を使うことが可能だった。外出も外泊も、簡単な届けさえ出してしまえば、驚くほどあっさり許可が取れてしまう。規則で決して認められてはいないが、終末の時間をバイトに当てる生徒は多く、黒鋼も例外ではなかった。
きっかけはクラスメイトからの誘いだった。仕事は工場内での軽作業が主だったが、日当で稼げる額が、高校生という身分にしてはかなり大きい。
遠方への進学という我侭を聞いてもらって、さらに毎月少ないながらも自由に使えるだけの小遣いをくれる両親には、本当に申し訳ないことをしていると思う。その金には、なるべく手をつけないようにしていた。両親は遠慮はいらないと言ってくれるけれど、後ろめたさが後を絶たない。
好きなように、好きな道を歩めと言う父だが、実家の営む民宿はそれなりに歴史があった。知世に背負わせるのは酷だと思う。いずれは腹を括る必要があるのは、分かっているつもりだった。
*
機械的な電子音が室内に響いていた。すでに二度ほど、黒鋼はそれを無視している。音を立てつづけているのは、母に言われて半ば仕方なく持たされた携帯電話だった。
かけてくる人間は、それこそ家族以外にはいない。週末になると、こちらからかけないぶん、母か知世が電話をよこす。
三度目のそれも適当に無視を決め込むつもりで目を閉じていると、傍らでシーツが蠢いた。
「電話、これで三度目ですよ」
気だるげな声が、咎めるような響きを含む。黒鋼は、チッと舌を打つと「わかってる」とそっけなく返した。
ベッドの下に放り出されていた携帯を、音と光を頼りに適当に探っていると、気を利かせた女がベッドサイドの間接照明のスイッチに触れた。淡い暖色の光が灯り、黒鋼の指先は目当てのものを探り当てた。裸の半身を起こし、通話ボタンを押す。
『黒鋼? お母さんだけど』
「ああ」
『寝てた?』
「……いや」
女と寝ていたなど、口が裂けてもいえない。チラリと横目で見やると、彼女は、蘇摩は胸元をシーツで隠しながら床に脱ぎ捨てられていたバスローブを拾い上げ、黒鋼に向かって微笑んだ。
褐色の肌が、白いローブに包まれる。ベッドから抜け出した彼女は、そのままバスルームへ消えた。一歩引いた奥ゆかしさがあり、そしてよく気がつく。まだ女は彼女しか知らないが、いい女なのだと思う。
『そう? ならいいんだけど……あのね、もうすぐ夏休みでしょう?』
「ああ、そうだな」
『一度、帰って来たら?』
黒鋼はピクリと片方の眉を動かした。これまでも、母には幾度か実家に顔を出すようにと言われ続けてきた。けれど、いつだって冗談めかして言われるだけで、黒鋼はそれをのらりくらりと交わしてきたのだ。
だが今回は、少し様子が違うように感じられた。母の声に、覇気がないように思える。
「何かあったのか?」
『……うぅん、そういうわけじゃないの。ただほら、そっちへ行ったきり一度も戻らないでしょう? お父さんはあんな感じだけれど、本当は会いたがっているわ』
進路のこともあるでしょう、と母は言う。黒鋼はこの期に及んで迷っていたが、それを言われてしまえば言い逃れは出来ない。進路については、実はもうかなり以前からすでに決めていたが、一度は顔を合わせて相談してみるべきかと思う。
「わかった。休みに入ったら、一度帰る」
『そう? 知世も喜ぶわ』
「どうだかな」
あの生意気な妹は、どれくらい成長しているだろうか。鬱陶しいとばかり思っていたが、いざ思い返せばそろそろ顔くらいは見てやってもいいかもしれない。
母は嬉しそうに声を弾ませて、今から何が食べたいかだとか、具体的な日にちなどを話している。黒鋼は、それに適当に相槌を打ちつつ、やはり少し気になった。
「母さん」
『なぁに?』
「本当に何も変わったことはないのか」
先刻と同様の問いかけに、母は少しだけ間を置いて「何もないわよ」と言った。
*
「おうちの方?」
「ああ」
濡れた髪の水分をタオルに含ませながら、さきほどと同じ姿で蘇摩が戻ってきた。
ベッドの縁へ腰掛けて作業を繰り返す、女の華奢な背中をぼんやりと見つめる。しっとりと濡れた黒髪と、バスローブの襟から覗く褐色の項。蘇摩の纏う色は『彼』を忘れさせてくれるような、そんな気がした。
彼女とは出会いだけなら、もう一年ほど前に遡るだろうか。黒鋼が友人の誘いで働くようになったのは、町外れの小さな物流センターだった。業務は当然力作業が多く、身体を動かすことが好きだった黒鋼にしてみれば、日当も含めて悪くない条件だった。
蘇摩はそこで、事務員として勤めていた。顔を合わせれば多少の挨拶をする程度の、そんな関係だった。それが今では、バイト先から近いという理由で、終末の夜はわざわざ外泊の届けまで出して、彼女のマンションの一室に寝泊りしている。
互いに色恋に対して積極的ではない。だが、幼い頃の初恋をカウントに入れないならば、黒鋼にとって異性に対して特別な興味を惹かれたのは、彼女が初めてだった。
手を伸ばすと、ほっそりとした肩に触れた。蘇摩が振り返るよりも先に、強く胸元に引き寄せる。
「今夜は、もういけませんよ」
「わかってる」
「じゃあこの手はなんです?」
黒鋼の大きな手の中にもしっくりと馴染む、ふくよかな胸の膨らみに手を添えれば、しなやかな指先が咎めるように甲に添えられた。石鹸の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「さぁな」
「もう……」
呆れたように笑うくせに、唇を落とせば受け入れてくれることを知っていた。どうしようもないくらい、自分はこの女に甘えていると、そう感じる。深く口付けながら、黒鋼は柔らかな肌に溺れていく。
最低だと思う。
あの町を離れるだけでなく、逃げ伸びた先でさえ、自分は新しい拠り所に縋りついている。
彼女と関係を持つとき、これでようやく『彼』を忘れられると、そう思った。結局、黒鋼が蘇摩に抱く感情は、恋とは違うものなのだ。利用しているだけなのだと思うと、罪悪感が胸に降り積もる。
大切だと思うし、失いたくないとも思う。一番手放したくなかったものを置き去りにしたままのくせに、彼女に対してそう感じるのは、あまりにも都合がよすぎるのではないか。
それでも、黒鋼には他に術がない。
息をつく間もなく学業や部活動に専念しても、開いた時間をバイトに勤しんでも、片時も脳裏から離れない、あの柔らかな笑顔。異国の歌。共に過ごした懐かしい空間。小さな手。彼女を抱いて、その温もりや快楽に溺れている瞬間だけは、遠くへ押しやることが出来る。
けれど。
母に『帰る』と告げてしまった。蘇摩の甘い吐息を聞いても、細い腕に抱かれても、もう、駄目だった。
帰るのだろうか、自分は。本当はまだ迷っている。
結局、どこに逃げたって同じだった。いつまでたっても、忘れることなんかできやしない。
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