2025/08/07 Thu 永遠の日 ここはまるで、時間が止まってしまっているのではないかとさえ思う。たった一人で飛び出してしまったこの町は、あの頃のまま何もかもが、ただそこにあった。 古めかしいばかりだったバス停も、広がる田畑も、山々も、そして空さえも。 生まれてからここで育った年月の方がずっと長いはずなのに、もう何十年もの時間が流れてしまったかのような錯覚を抱いている。だからこそ、自分だけが随分と遠くへ行って変わってしまったような、そんな虚しさにも似た思いを抱く。 黒鋼はバス停から続く道のりを、ひたすら足元だけを見て自宅へ向かった。 * 当たり前といえば当たり前なのだが、自宅の方もまるで変わっていなかった。せいぜい農作業用のトラックが新しくなっていただとか、畑で育てる野菜の種類が増えていたとか、その程度だろうか。 出迎えてくれた母はさらに背が伸びた黒鋼を見て目を丸くすると「お父さんかと思ったわ」と言って笑っていた。 それからすぐに、黒鋼はまずは庭の鋼丸の墓前に手を合わせた。そこは毎日のように知世が花を供えているという。摘み取られた百日紅の花を見つめながら、あの秘密基地の子猫の墓へは、今もファイが行っているのだろうかと思った。 久しぶりに、行ってみようか。そう考えて、重苦しい息をつく。あの場所で過ごした時間を、決して忘れてしまいたいわけではなかった。けれど、もしやのことを考えると正直、怖かった。 会いたくないわけではない。かといって会いたいわけでも、ないような気がする。それら全てから逃げ出したという自責の念が、黒鋼を情けなくも臆病にさせていた。 「黒鋼ー、早く手を洗ってらっしゃいな。お父さんが待ってるわ」 「……わかった」 沈み込みそうになった黒鋼の思考を、縁側から顔を出した母の声が断ち切った。 * 茶の間に顔を出すと、すでにビールで一杯やっていた父が「おお!」と大きな声を上げた。母もだが、父もなんら変わりないようで安心する。 「なんだ、随分と久しぶりじゃないか。この親不孝者め」 豪快に笑う父と向かい合わせの形で胡坐をかく。テーブルの上には懐かしい料理が勢ぞろいしていた。煮物や厚焼き玉子、畑で収穫した野菜で作った漬物などに加え、中心にある丸い桶にはみっしりと散らし寿司が詰まっていた。何か祝い事やイベントがあると、この家では昔からこれと決まっている。 悪かったよ、と答える黒鋼に、父がふっと目元を和らげた。 「変わりはないか?」 「ああ。なんとかやってる」 「まぁ一杯やれ」 伏せてあったグラスをひっくり返し、ビールを注ごうとする父を手で制す。 「俺にはまだ早ぇよ」 「そうか? 見た目だけならもう立派に一人前の男だがなぁ」 「老けてんのはガキの頃からだよ」 「お父さんたら、悪ふざけばかりなのよ。黒鋼からもちゃんと言ってちょうだい」 苦笑いの母が、黒鋼の傍らに膝をつくと冷えた麦茶を注いでくれた。短く礼を言うと、母は忙しそうにまた台所へ消えてしまう。 「はしゃいでるのは母さんの方だ。おまえが戻ると言った日から、あの調子でずっと落ち着かないんだからな」 こっそりと耳打ちするような声のトーンで顔を寄せてくる父に、黒鋼は自然と笑みが込み上げる。要するに、二人とも心底喜んでくれているのだ。ずっと帰らないままでいたことを、今更ながらに申し訳なく感じた。 「知世はどうした?」 「お友達のところよ。お菓子を作るんですって、朝から飛び出して行っちゃったわ」 再び顔を出した母が、貝のお吸い物をよそった碗を盆に乗せてやってきた。母の顔にはハッキリと『しょうがない子なんだから』と書かれている。 「ちょっとはでかくなったのか、アイツは」 「なぁに、チビのまんまさ。ほら、腹が空いただろう。そろそろ始めよう」 「お父さんはもう始めちゃってるでしょう?」 「まぁまぁ、母さんも」 母の顔には、やっぱり『しょうがない人ね』という文字が書かれているような気がした。 * そろそろ夕暮れも間近という時間帯になっても、知世は帰ってこなかった。 父はほろ酔いのおぼつかない足取りで、畑を見てくると言って出て行ってしまった。 黒鋼は台所で母の片付けの手伝いをしていた。小さい頃は頼んでもしてくれなかったのにね、などと言って母は嬉しそうに食器を洗っていた。 「お父さんたらご機嫌ね。いつもならお酒を飲んだらすぐに寝ちゃう人なのに」 よっぽど嬉しかったのよ、という言葉に黒鋼は笑った。照れ臭いような気持ちもあるけれど、離れてみなければ、本当の意味で家族のありがたみなど知らないままだったのかもしれない。 知世の分だけを残して、空になった食器を次から次へと運びながら、黒鋼は改めて横に並んだ母の小ささに少しだけ胸が痛んだ。 こんなに小さな人だったろうか。父だってそうだ。幼い頃は、もっともっと大きかった。 二年半という時間は決して長いものではなかったけれど、短いものでもなかったのだということを思い知らされた気がする。 彼はどう変わっただろう。記憶の中のまま、細くて幼いままだろうか。もしまた会うとしたら、あの無邪気な笑顔を見せてくれるだろうか。おかしな呼び方で、この名を呼んでくれるだろうか。 俯いてぼんやりとしていると、母がひょい、と顔を覗き込んできた。 「どうかした?」 「……いや」 「ねぇ黒鋼。母さん、ちょっとお願いしたいことがあるの。いい?」 「ああ」 母は、知世を迎えに行って欲しいと言った。 黒鋼は窓の外へ目を向ける。夕暮れの空に、ひぐらしの声がこだましていた。漠然と、予感めいたものがしていた。 「……どこにいる?」 「お友達の家なの。あのね――」 母が告げた、妹のいる場所。 黒鋼は、悟られぬ程度に息を詰めた。 * ここも、何一つ変わらない。 小高い位置にある、大きな屋敷。朽ちて物置と化している元茶屋の建物。一気に、時間が巻き戻ったような錯覚を覚えた。 今にもこの砂利の敷詰められた坂道を、白くて小さな子供が腰の曲がった優しそうなおばあさんと手を繋いで降りてきそうで、黒鋼は茜色の空の下で瞳を細めた。 道々、ずっと胸が騒いでいた。迷いや葛藤や罪の意識が渦を巻いていた。 知世のことがなければ、おそらくここへ来ることはなかっただろう。迷い続けたまま、再びこの町を後にしていたに違いなかった。 知世は、いつからかここの住人に懐いてしまったらしい。よく遊びに行くのだと、母は笑っていた。 黒鋼は微かに震える息を吐き出した。ずっと昔にも、この屋敷を見上げながらこんな風に二の足を踏んでいたことがあった。そんなところも、変わらない。 一歩を踏み出そうとして、門の開く甲高い音がした。はっとして顔を上げる。 「あら、お兄さん」 ウェーブのかかった、母親譲りの長い黒髪の少女が笑顔で小さく手を振っていた。父の言った通り、まだチビのままだ。そしてその隣にはスラリと背の高い、左目に眼帯をした金髪の青年が立ち尽くしている。 彼は黒鋼を見ると宝石のような青い瞳を片方だけ、大きく見開いた。 「っ……」 黒鋼もまた目を見開き、息を飲む。胸騒ぎが忙しない鼓動へと移り変わった。 「久しぶりにお会いしましたのに、おかしな顔」 知世だけが、クスクスと可憐に笑っていた。傍らの青年に、ペコリと頭を下げる。 「ファイさん、とっても楽しかったですわ。またお菓子作り、教えてくださいな」 「あ、うん。オレも楽しかったよー。また遊びに来てね」 「ええ、もちろん」 ファイと知世は柔らかく微笑み合った。本当に、随分と仲がいいらしい。。 知世は立ち尽くすだけの黒鋼に向かって小走りで坂を下りてくると、ニコリと笑って小さな包みを差し出してきた。 「なんだ」 「クッキーを焼きましたから、お兄さんに」 ピンク色の和紙に可愛らしく包まれた小さなそれを、ずずいと押し付けられて咄嗟に受け取る。甘いものは嫌いだと言おうとして、先制された。 「甘さ控えめです。残したら承知しませんわ」 黒鋼に向けて人差し指をびしっと立てたあと、知世は再びファイの方を向くと手を振った。ファイも微笑みながら小さく手を振っている。 「私、先に帰ってますから。あとはごゆっくり」 「お、おい」 兄の呼びかけは丸無視の状態で、妹は淡いクリーム色のワンピースの裾を翻して、小走りに駆け出して行った。 残されたのは、いまだ一言も声をかけ合えないままでいる二人と、夏の虫の声だけだった。 * 本当に、大きくなったとしみじみ思った。 相変わらず身体は痩せていて、表情にも幼さが残ってはいたけれど、見違えるほどに背が伸びていた。 あれは中学の入学式だったか、彼が誇らしげに言っていた言葉を思い出した。 きっともっと大きくなるから。ぶかぶかの学生服の中で身体を泳がせながら、元気いっぱいに笑っていた少年の姿を思い浮かべては、目を閉じてそれを掻き消した。 隣を歩くファイが、おもむろに小さな笑い声を上げた。 「なんだよ」 「うぅん。お父さんが迎えに来たのかと思ったからー」 ぎこちない空気を感じていたのは黒鋼だけだったのだろうか。ファイはすっかり落ち着いた声で、相変わらずどこか間の抜けたような話し方をする。 「怒らないでよー。だって本当にそっくりだったんだもん、お父さんに」 ただ顔を顰めるだけだった黒鋼に、気を悪くしたと思ったのか、ファイは苦笑しながら肩をすくめた。それから、黒鋼の方を見上げて右目を細める。 「本当に久しぶりだねー。昔からおっきかったけど、こんなに伸びてるなんて思わなかったなー」 「てめぇもな」 「でもまだまだチビだって言わないのー?」 からかうような言い方に少しムッとして睨むと、ファイは声を上げて笑った。 子供の頃は、背が伸びないファイをからかって遊ぶのが好きだった。小さな唇を尖らせる様が可愛かったから。頭をグリグリと撫でてやると、高い声で嬉しそうに笑っていたっけ。 全てがもう遠い過去になってしまった。今ではもう、気軽に手を伸ばすことも出来ない。 しかしそれをきっかけに、二人は懐かしい思い出話をポツリポツリと語り合った。それは本当に何気ないことばかりで、決して確信には触れないけれど。 そうしているうちに、少しだけ昔に戻ったような気がしてきた。もしかしたら黒鋼だけが妙な罪悪感に苛まれていただけで、ファイにしてみれば何でもないことだったのかもしれない。そんな気すらしてしまう。 ふと、今ならばあの中三の夏の夜のことを、謝ることが出来るかもしれないとも思った。だが下手に蒸し返すのも、逆に愚かしいことのように思える。全ては終わってしまったことなのだと、そう感じた。 「ばあさんも、元気でやってんのか」 結局、口から出たのは当たり障りのない問いかけだった。ファイはほんの僅かの間を空けたあと、どことなくぼんやりと「うん」という答えを返してきた。何か他のことを考えているようにも見える素振りのあと、逆に問われる。 「ねぇ、学校どう? 勉強とか遊ぶ時間とか、やっぱ色々厳しいのー?」 少し違和感を覚える。考えすぎと言われればそれまでだったが、話をはぐらかされたような気がした。幼い頃は大好きなおばあちゃんのこととなれば、いつまでも夢中になって話していたのに。 ふと嫌な予感がしたが、もしその通りならば両親が真っ先に知らせてくるはずだと、自分に言い聞かせる。 「いや、割と普通だ。自由にやってる」 「へー、そうなんだー。あ、じゃあ……じゃあさ、好きな子とか、できたー?」 それはファイにとっては何気ない質問だったのだと思う。だが黒鋼にとっては違った。思わず押し黙ってしまったことに、舌打ちをしたい思いに駆られる。 隠すようなことなんて、何ひとつない。黒鋼一人が馬鹿みたいに意識していただけなのだ。ファイにとって、黒鋼はただの幼馴染に過ぎないのだから。 柔らかく微笑む、蘇摩の顔が思い浮かんだ。短く「ああ」と答える。ファイは細長く続く道の先をまっすぐに見詰めていた。 「昔からモテてたもんねー。きっと凄い美人さんだねぇ」 「……どうだろうな」 あまり長く続けていたい会話ではなかった。黒鋼は口を閉ざし、ファイが次に言葉を発するまで、暫くは沈黙が続いた。ひぐらしが鳴いている。 「ねぇ、そういえばいつまでこっちにいれるのー?」 黒鋼はまたしても「ああ」と短く返事をする。 「明日には戻る」 「え? もっとゆっくりしてけばいいのにー」 「いろいろな」 そっか、と短く返事をしたファイに少し胸が痛んだ。けれど、もともと長居をするつもりはなかったのは事実だった。 「ここでいい」 黒鋼の家までは、まだ少し距離があった。だがもうじき完全に日が暮れる。ファイは頷くと足を止めた。橙の下で見る彼の瞳は、やはり透き通っていて美しかった。これで本当に見納めのような、そんな気がする。 「じゃあね」 「ああ」 「元気で」 「おまえもな」 またね、とファイは言わないし、黒鋼も、またな、とは言わなかった。 会わない間に、心の距離は取り返しがつかないところまで広がっていたのかもしれない。あの頃のように近くにいてさえも、二人の間には計り知れない隔たりが確かに存在していた。こうして会おうと思えばいつだって会いに来られたはずなのに、それをしなかったことがその証拠になっている気がした。 ファイは、こんな自分を少しでも待っていてくれたのだろうか。 互いが互いの背を見送るでもなく、それぞれの家族が待つ家へと向けて歩み出す。振り返るか否かを、黒鋼は一歩一歩確かに足を進めながらも迷っていた。 そんな葛藤の最中、ふいに背中に声がかかる。 「黒たん」 懐かしい呼び方に、黒鋼は迷いを押しやり振り返ろうとした。だが、すかさずそれを制される。 「そのままでいいよ。振り向かないで」 そう言われてしまっては、黒鋼にはただ足を止めている以外に術はなかった。 「聞いても、いい?」 「……なんだ」 「その人のこと、大事?」 蘇摩のことだ。黒鋼は、やっぱり「ああ」と短く答える。 「大切だ」 「大好きなんだねー」 咄嗟に何も言えなかった。なぜ答えに窮してしまったのだろう。好きじゃなければ一緒にいたいとも思わないし、抱いたりもしない。 きっかけはどうあれ、黒鋼にとって今や彼女はとても大切な存在だった。 不自然な沈黙のあと、また短く返事をした。 「――好きだ」 それは事実だった。だけど、本当は。 「そっかぁ」 本当は、ファイに向けて言いたい言葉だったはずなのに。一番伝えたかった想いのはずなのに。それを自分は今、彼に背を向けながら他の人間に向けて告げている。滑稽だった。 もしかしたら、ファイの問いかけに答えることで、自分の中で決着をつけたかったのかもしれない。ここで本当に終わらせることが出来るなら、それでいいと。 「オレは」 風が吹いた。温い風だった。一瞬、虫の声が止んだ。 「君が好きだった」 黒鋼は目を見開き、己の耳を疑った。振り向こうとして、身体が動かない。ファイはなおも続けた。 「君に、恋をしていたよ」 再びひぐらしが切ない声を上げた。まるで全身を固く縛り付けられたように、身動きが取れなかった。 彼は今どんな顔をしているのか。笑っているのだろうか。それとも、泣いているのだろうか。なぜ、今この瞬間それを告げるのだろうか。 ファイにとって、自分はただのおせっかいで過保護な幼馴染であると同時に、嘘つきで薄情な人間に過ぎないのではなかったのか。彼の告白に対して、なにをどう答えてやればいいのだろうか。今更、何を言えばいいのだろうか。 けれどすぐに悟った。これで終わらせるためだ。今この瞬間、全てが終わるから。 本当は少しだけ疲れていた。ファイを想い続けることに。その想いの深さに。心をすり減らすことに。それはきっとファイも同じだったのだ。だから彼は真実を告げた。自分の気持ちに、決着をつけるために。 黒鋼は、知らず込められていた身体の力をふっと抜いた。金縛りのような感覚は消えていた。それでも振り返らなかった。自分の意思で。 「俺もおまえが好きだった。ガキの頃から、ずっと」 ファイが笑った気配がした。 「なーんだー。両思いだったんだねー、オレたち」 「……そうみてぇだな」 両思い。黒鋼も、自然と口元を緩めた。馬鹿みたいだと思った。 この恋は気がついた瞬間には自らの手で幕を引いたはずだった。けれど、もしかしたらまだ始まってすらいなかったのかと思う。結局はただの独りよがりだった。今、このときまでは。 黒鋼とファイ。二人の恋はたった今、明るみになったと同時に、終わってしまった。 「さよなら」 「ああ」 「さよなら、黒鋼」 ――黒鋼。 その名は本当の意味で幕の下りる、最後の合図だったのかもしれない。 一度も振り返らないまま、黒鋼はただ彼の気配が消えて行くのを背中に感じていた。 何も変わっていないはずだった。家族も、景色も、虫の声や夕暮れの橙色さえも。幼かった自分達は、この景色の中を無邪気に手と手を繋いで歩いていたはずなのに。 黒鋼は、彼が完全に行ってしまったことを察すると、自らも足を踏み出した。どこまでも果てしなく、記憶の中と少しも変わらぬ景色の中。この懐かしさから、早く遠ざかりたいと思った。 季節は幾度も巡りながら繰り返してゆくけれど、この夏は一度きりだ。 儚く叫び続ける夏の虫達さえも、繰り返すように新しく生まれては、死んでゆく。同じ生が二度生まれることは決してない。たった一秒の時間でさえ、やり直すことは叶わない。 あの頃も、そして今も。永遠に、それはもう黒鋼の手の届かない場所にある。 ――黒たん。 幼い声に、向日葵が咲いたような眩しい笑顔に、美しい思い出に。 黒鋼は、幕を下ろした。 ←戻る ・ 次へ→
ここはまるで、時間が止まってしまっているのではないかとさえ思う。たった一人で飛び出してしまったこの町は、あの頃のまま何もかもが、ただそこにあった。
古めかしいばかりだったバス停も、広がる田畑も、山々も、そして空さえも。
生まれてからここで育った年月の方がずっと長いはずなのに、もう何十年もの時間が流れてしまったかのような錯覚を抱いている。だからこそ、自分だけが随分と遠くへ行って変わってしまったような、そんな虚しさにも似た思いを抱く。
黒鋼はバス停から続く道のりを、ひたすら足元だけを見て自宅へ向かった。
*
当たり前といえば当たり前なのだが、自宅の方もまるで変わっていなかった。せいぜい農作業用のトラックが新しくなっていただとか、畑で育てる野菜の種類が増えていたとか、その程度だろうか。
出迎えてくれた母はさらに背が伸びた黒鋼を見て目を丸くすると「お父さんかと思ったわ」と言って笑っていた。
それからすぐに、黒鋼はまずは庭の鋼丸の墓前に手を合わせた。そこは毎日のように知世が花を供えているという。摘み取られた百日紅の花を見つめながら、あの秘密基地の子猫の墓へは、今もファイが行っているのだろうかと思った。
久しぶりに、行ってみようか。そう考えて、重苦しい息をつく。あの場所で過ごした時間を、決して忘れてしまいたいわけではなかった。けれど、もしやのことを考えると正直、怖かった。
会いたくないわけではない。かといって会いたいわけでも、ないような気がする。それら全てから逃げ出したという自責の念が、黒鋼を情けなくも臆病にさせていた。
「黒鋼ー、早く手を洗ってらっしゃいな。お父さんが待ってるわ」
「……わかった」
沈み込みそうになった黒鋼の思考を、縁側から顔を出した母の声が断ち切った。
*
茶の間に顔を出すと、すでにビールで一杯やっていた父が「おお!」と大きな声を上げた。母もだが、父もなんら変わりないようで安心する。
「なんだ、随分と久しぶりじゃないか。この親不孝者め」
豪快に笑う父と向かい合わせの形で胡坐をかく。テーブルの上には懐かしい料理が勢ぞろいしていた。煮物や厚焼き玉子、畑で収穫した野菜で作った漬物などに加え、中心にある丸い桶にはみっしりと散らし寿司が詰まっていた。何か祝い事やイベントがあると、この家では昔からこれと決まっている。
悪かったよ、と答える黒鋼に、父がふっと目元を和らげた。
「変わりはないか?」
「ああ。なんとかやってる」
「まぁ一杯やれ」
伏せてあったグラスをひっくり返し、ビールを注ごうとする父を手で制す。
「俺にはまだ早ぇよ」
「そうか? 見た目だけならもう立派に一人前の男だがなぁ」
「老けてんのはガキの頃からだよ」
「お父さんたら、悪ふざけばかりなのよ。黒鋼からもちゃんと言ってちょうだい」
苦笑いの母が、黒鋼の傍らに膝をつくと冷えた麦茶を注いでくれた。短く礼を言うと、母は忙しそうにまた台所へ消えてしまう。
「はしゃいでるのは母さんの方だ。おまえが戻ると言った日から、あの調子でずっと落ち着かないんだからな」
こっそりと耳打ちするような声のトーンで顔を寄せてくる父に、黒鋼は自然と笑みが込み上げる。要するに、二人とも心底喜んでくれているのだ。ずっと帰らないままでいたことを、今更ながらに申し訳なく感じた。
「知世はどうした?」
「お友達のところよ。お菓子を作るんですって、朝から飛び出して行っちゃったわ」
再び顔を出した母が、貝のお吸い物をよそった碗を盆に乗せてやってきた。母の顔にはハッキリと『しょうがない子なんだから』と書かれている。
「ちょっとはでかくなったのか、アイツは」
「なぁに、チビのまんまさ。ほら、腹が空いただろう。そろそろ始めよう」
「お父さんはもう始めちゃってるでしょう?」
「まぁまぁ、母さんも」
母の顔には、やっぱり『しょうがない人ね』という文字が書かれているような気がした。
*
そろそろ夕暮れも間近という時間帯になっても、知世は帰ってこなかった。
父はほろ酔いのおぼつかない足取りで、畑を見てくると言って出て行ってしまった。
黒鋼は台所で母の片付けの手伝いをしていた。小さい頃は頼んでもしてくれなかったのにね、などと言って母は嬉しそうに食器を洗っていた。
「お父さんたらご機嫌ね。いつもならお酒を飲んだらすぐに寝ちゃう人なのに」
よっぽど嬉しかったのよ、という言葉に黒鋼は笑った。照れ臭いような気持ちもあるけれど、離れてみなければ、本当の意味で家族のありがたみなど知らないままだったのかもしれない。
知世の分だけを残して、空になった食器を次から次へと運びながら、黒鋼は改めて横に並んだ母の小ささに少しだけ胸が痛んだ。
こんなに小さな人だったろうか。父だってそうだ。幼い頃は、もっともっと大きかった。
二年半という時間は決して長いものではなかったけれど、短いものでもなかったのだということを思い知らされた気がする。
彼はどう変わっただろう。記憶の中のまま、細くて幼いままだろうか。もしまた会うとしたら、あの無邪気な笑顔を見せてくれるだろうか。おかしな呼び方で、この名を呼んでくれるだろうか。
俯いてぼんやりとしていると、母がひょい、と顔を覗き込んできた。
「どうかした?」
「……いや」
「ねぇ黒鋼。母さん、ちょっとお願いしたいことがあるの。いい?」
「ああ」
母は、知世を迎えに行って欲しいと言った。
黒鋼は窓の外へ目を向ける。夕暮れの空に、ひぐらしの声がこだましていた。漠然と、予感めいたものがしていた。
「……どこにいる?」
「お友達の家なの。あのね――」
母が告げた、妹のいる場所。
黒鋼は、悟られぬ程度に息を詰めた。
*
ここも、何一つ変わらない。
小高い位置にある、大きな屋敷。朽ちて物置と化している元茶屋の建物。一気に、時間が巻き戻ったような錯覚を覚えた。
今にもこの砂利の敷詰められた坂道を、白くて小さな子供が腰の曲がった優しそうなおばあさんと手を繋いで降りてきそうで、黒鋼は茜色の空の下で瞳を細めた。
道々、ずっと胸が騒いでいた。迷いや葛藤や罪の意識が渦を巻いていた。
知世のことがなければ、おそらくここへ来ることはなかっただろう。迷い続けたまま、再びこの町を後にしていたに違いなかった。
知世は、いつからかここの住人に懐いてしまったらしい。よく遊びに行くのだと、母は笑っていた。
黒鋼は微かに震える息を吐き出した。ずっと昔にも、この屋敷を見上げながらこんな風に二の足を踏んでいたことがあった。そんなところも、変わらない。
一歩を踏み出そうとして、門の開く甲高い音がした。はっとして顔を上げる。
「あら、お兄さん」
ウェーブのかかった、母親譲りの長い黒髪の少女が笑顔で小さく手を振っていた。父の言った通り、まだチビのままだ。そしてその隣にはスラリと背の高い、左目に眼帯をした金髪の青年が立ち尽くしている。
彼は黒鋼を見ると宝石のような青い瞳を片方だけ、大きく見開いた。
「っ……」
黒鋼もまた目を見開き、息を飲む。胸騒ぎが忙しない鼓動へと移り変わった。
「久しぶりにお会いしましたのに、おかしな顔」
知世だけが、クスクスと可憐に笑っていた。傍らの青年に、ペコリと頭を下げる。
「ファイさん、とっても楽しかったですわ。またお菓子作り、教えてくださいな」
「あ、うん。オレも楽しかったよー。また遊びに来てね」
「ええ、もちろん」
ファイと知世は柔らかく微笑み合った。本当に、随分と仲がいいらしい。。
知世は立ち尽くすだけの黒鋼に向かって小走りで坂を下りてくると、ニコリと笑って小さな包みを差し出してきた。
「なんだ」
「クッキーを焼きましたから、お兄さんに」
ピンク色の和紙に可愛らしく包まれた小さなそれを、ずずいと押し付けられて咄嗟に受け取る。甘いものは嫌いだと言おうとして、先制された。
「甘さ控えめです。残したら承知しませんわ」
黒鋼に向けて人差し指をびしっと立てたあと、知世は再びファイの方を向くと手を振った。ファイも微笑みながら小さく手を振っている。
「私、先に帰ってますから。あとはごゆっくり」
「お、おい」
兄の呼びかけは丸無視の状態で、妹は淡いクリーム色のワンピースの裾を翻して、小走りに駆け出して行った。
残されたのは、いまだ一言も声をかけ合えないままでいる二人と、夏の虫の声だけだった。
*
本当に、大きくなったとしみじみ思った。
相変わらず身体は痩せていて、表情にも幼さが残ってはいたけれど、見違えるほどに背が伸びていた。
あれは中学の入学式だったか、彼が誇らしげに言っていた言葉を思い出した。
きっともっと大きくなるから。ぶかぶかの学生服の中で身体を泳がせながら、元気いっぱいに笑っていた少年の姿を思い浮かべては、目を閉じてそれを掻き消した。
隣を歩くファイが、おもむろに小さな笑い声を上げた。
「なんだよ」
「うぅん。お父さんが迎えに来たのかと思ったからー」
ぎこちない空気を感じていたのは黒鋼だけだったのだろうか。ファイはすっかり落ち着いた声で、相変わらずどこか間の抜けたような話し方をする。
「怒らないでよー。だって本当にそっくりだったんだもん、お父さんに」
ただ顔を顰めるだけだった黒鋼に、気を悪くしたと思ったのか、ファイは苦笑しながら肩をすくめた。それから、黒鋼の方を見上げて右目を細める。
「本当に久しぶりだねー。昔からおっきかったけど、こんなに伸びてるなんて思わなかったなー」
「てめぇもな」
「でもまだまだチビだって言わないのー?」
からかうような言い方に少しムッとして睨むと、ファイは声を上げて笑った。
子供の頃は、背が伸びないファイをからかって遊ぶのが好きだった。小さな唇を尖らせる様が可愛かったから。頭をグリグリと撫でてやると、高い声で嬉しそうに笑っていたっけ。
全てがもう遠い過去になってしまった。今ではもう、気軽に手を伸ばすことも出来ない。
しかしそれをきっかけに、二人は懐かしい思い出話をポツリポツリと語り合った。それは本当に何気ないことばかりで、決して確信には触れないけれど。
そうしているうちに、少しだけ昔に戻ったような気がしてきた。もしかしたら黒鋼だけが妙な罪悪感に苛まれていただけで、ファイにしてみれば何でもないことだったのかもしれない。そんな気すらしてしまう。
ふと、今ならばあの中三の夏の夜のことを、謝ることが出来るかもしれないとも思った。だが下手に蒸し返すのも、逆に愚かしいことのように思える。全ては終わってしまったことなのだと、そう感じた。
「ばあさんも、元気でやってんのか」
結局、口から出たのは当たり障りのない問いかけだった。ファイはほんの僅かの間を空けたあと、どことなくぼんやりと「うん」という答えを返してきた。何か他のことを考えているようにも見える素振りのあと、逆に問われる。
「ねぇ、学校どう? 勉強とか遊ぶ時間とか、やっぱ色々厳しいのー?」
少し違和感を覚える。考えすぎと言われればそれまでだったが、話をはぐらかされたような気がした。幼い頃は大好きなおばあちゃんのこととなれば、いつまでも夢中になって話していたのに。
ふと嫌な予感がしたが、もしその通りならば両親が真っ先に知らせてくるはずだと、自分に言い聞かせる。
「いや、割と普通だ。自由にやってる」
「へー、そうなんだー。あ、じゃあ……じゃあさ、好きな子とか、できたー?」
それはファイにとっては何気ない質問だったのだと思う。だが黒鋼にとっては違った。思わず押し黙ってしまったことに、舌打ちをしたい思いに駆られる。
隠すようなことなんて、何ひとつない。黒鋼一人が馬鹿みたいに意識していただけなのだ。ファイにとって、黒鋼はただの幼馴染に過ぎないのだから。
柔らかく微笑む、蘇摩の顔が思い浮かんだ。短く「ああ」と答える。ファイは細長く続く道の先をまっすぐに見詰めていた。
「昔からモテてたもんねー。きっと凄い美人さんだねぇ」
「……どうだろうな」
あまり長く続けていたい会話ではなかった。黒鋼は口を閉ざし、ファイが次に言葉を発するまで、暫くは沈黙が続いた。ひぐらしが鳴いている。
「ねぇ、そういえばいつまでこっちにいれるのー?」
黒鋼はまたしても「ああ」と短く返事をする。
「明日には戻る」
「え? もっとゆっくりしてけばいいのにー」
「いろいろな」
そっか、と短く返事をしたファイに少し胸が痛んだ。けれど、もともと長居をするつもりはなかったのは事実だった。
「ここでいい」
黒鋼の家までは、まだ少し距離があった。だがもうじき完全に日が暮れる。ファイは頷くと足を止めた。橙の下で見る彼の瞳は、やはり透き通っていて美しかった。これで本当に見納めのような、そんな気がする。
「じゃあね」
「ああ」
「元気で」
「おまえもな」
またね、とファイは言わないし、黒鋼も、またな、とは言わなかった。
会わない間に、心の距離は取り返しがつかないところまで広がっていたのかもしれない。あの頃のように近くにいてさえも、二人の間には計り知れない隔たりが確かに存在していた。こうして会おうと思えばいつだって会いに来られたはずなのに、それをしなかったことがその証拠になっている気がした。
ファイは、こんな自分を少しでも待っていてくれたのだろうか。
互いが互いの背を見送るでもなく、それぞれの家族が待つ家へと向けて歩み出す。振り返るか否かを、黒鋼は一歩一歩確かに足を進めながらも迷っていた。
そんな葛藤の最中、ふいに背中に声がかかる。
「黒たん」
懐かしい呼び方に、黒鋼は迷いを押しやり振り返ろうとした。だが、すかさずそれを制される。
「そのままでいいよ。振り向かないで」
そう言われてしまっては、黒鋼にはただ足を止めている以外に術はなかった。
「聞いても、いい?」
「……なんだ」
「その人のこと、大事?」
蘇摩のことだ。黒鋼は、やっぱり「ああ」と短く答える。
「大切だ」
「大好きなんだねー」
咄嗟に何も言えなかった。なぜ答えに窮してしまったのだろう。好きじゃなければ一緒にいたいとも思わないし、抱いたりもしない。
きっかけはどうあれ、黒鋼にとって今や彼女はとても大切な存在だった。
不自然な沈黙のあと、また短く返事をした。
「――好きだ」
それは事実だった。だけど、本当は。
「そっかぁ」
本当は、ファイに向けて言いたい言葉だったはずなのに。一番伝えたかった想いのはずなのに。それを自分は今、彼に背を向けながら他の人間に向けて告げている。滑稽だった。
もしかしたら、ファイの問いかけに答えることで、自分の中で決着をつけたかったのかもしれない。ここで本当に終わらせることが出来るなら、それでいいと。
「オレは」
風が吹いた。温い風だった。一瞬、虫の声が止んだ。
「君が好きだった」
黒鋼は目を見開き、己の耳を疑った。振り向こうとして、身体が動かない。ファイはなおも続けた。
「君に、恋をしていたよ」
再びひぐらしが切ない声を上げた。まるで全身を固く縛り付けられたように、身動きが取れなかった。
彼は今どんな顔をしているのか。笑っているのだろうか。それとも、泣いているのだろうか。なぜ、今この瞬間それを告げるのだろうか。
ファイにとって、自分はただのおせっかいで過保護な幼馴染であると同時に、嘘つきで薄情な人間に過ぎないのではなかったのか。彼の告白に対して、なにをどう答えてやればいいのだろうか。今更、何を言えばいいのだろうか。
けれどすぐに悟った。これで終わらせるためだ。今この瞬間、全てが終わるから。
本当は少しだけ疲れていた。ファイを想い続けることに。その想いの深さに。心をすり減らすことに。それはきっとファイも同じだったのだ。だから彼は真実を告げた。自分の気持ちに、決着をつけるために。
黒鋼は、知らず込められていた身体の力をふっと抜いた。金縛りのような感覚は消えていた。それでも振り返らなかった。自分の意思で。
「俺もおまえが好きだった。ガキの頃から、ずっと」
ファイが笑った気配がした。
「なーんだー。両思いだったんだねー、オレたち」
「……そうみてぇだな」
両思い。黒鋼も、自然と口元を緩めた。馬鹿みたいだと思った。
この恋は気がついた瞬間には自らの手で幕を引いたはずだった。けれど、もしかしたらまだ始まってすらいなかったのかと思う。結局はただの独りよがりだった。今、このときまでは。
黒鋼とファイ。二人の恋はたった今、明るみになったと同時に、終わってしまった。
「さよなら」
「ああ」
「さよなら、黒鋼」
――黒鋼。
その名は本当の意味で幕の下りる、最後の合図だったのかもしれない。
一度も振り返らないまま、黒鋼はただ彼の気配が消えて行くのを背中に感じていた。
何も変わっていないはずだった。家族も、景色も、虫の声や夕暮れの橙色さえも。幼かった自分達は、この景色の中を無邪気に手と手を繋いで歩いていたはずなのに。
黒鋼は、彼が完全に行ってしまったことを察すると、自らも足を踏み出した。どこまでも果てしなく、記憶の中と少しも変わらぬ景色の中。この懐かしさから、早く遠ざかりたいと思った。
季節は幾度も巡りながら繰り返してゆくけれど、この夏は一度きりだ。
儚く叫び続ける夏の虫達さえも、繰り返すように新しく生まれては、死んでゆく。同じ生が二度生まれることは決してない。たった一秒の時間でさえ、やり直すことは叶わない。
あの頃も、そして今も。永遠に、それはもう黒鋼の手の届かない場所にある。
――黒たん。
幼い声に、向日葵が咲いたような眩しい笑顔に、美しい思い出に。
黒鋼は、幕を下ろした。
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