2025/08/07 Thu 芽吹き 今年は桜の開花が異様に遅れていた。 本来ならとっくに満開に花を咲かせているはずのそれが、今年は厳しい寒さがあまりにも長く尾を引いていたせいで、未だ蕾は開花の兆しがない。ただ赤く熟れたように色づいているだけだ。 黒鋼は午後の授業をひとしきり終え、給食を済ませたあと職員室で校長が淹れた茶を啜っていた。 「どうかな? そろそろ一ヶ月だけど、もう慣れたかな?」 この小さな校舎には校長室などと言った畏まった場所がない。職員室の一角に曇ったガラス張りの衝立を二つ並べて仕切っているだけだ。 ソファに向かい合うようにして腰を落ち着け、黒鋼は子供のようにクルクルと瞳を動かして微笑んでいる校長に向かって短く返事をした。 「そうかそうか。大道寺くんは昔からよく出来た生徒だったからなぁ」 「いえ……」 何が一番厄介かと問われれば、黒鋼は迷わず子供達の有り余る元気の良さと答えるだろう。彼らは皆、驚くほど元気がよく、悪く言えば落ち着きがない。いくら生徒数が極端に少ないとは言っても、まとめるだけでも一苦労である。 だが、正直やり甲斐があることも確かだった。一人一人とじっくりと向き合える点も気に入っている。自分には合っているのかもしれないと感じていた。 ちなみに初見でスーツを着込んでいた黒鋼を、生徒達は『ヤクザ先生』などと言ってからかった。現在は常に黒のジャージ姿であるが、どうも彼らの中でヤクザ先生ブームが最高に盛り上がっているらしかった。 「そうそう今日はね、豆腐を使ってドーナツを作るんだそうだよ。きっとそのうちいい香りがしてくるんだろうねぇ」 三時のおやつが楽しみだなぁと、校長はニコニコ顔だった。 黒鋼や他数名の職員が、校長が淹れた茶を啜りつつのんびりしていられるのは、今が水曜の午後だからである。 月に二度ほどの頻度で、全学年合わせてたった20人の生徒達が、家庭科室で『猫の目』の店主によるお菓子教室に参加しているのだ。 ファイとは顔を合わせれば一言二言会話をする程度だった。先刻も、大きな籠いっぱいに詰まった材料を重そうに持ちながら、彼は「今度お店に来てね」と言って笑っていた。思えば、まだ一度も猫の目とやらに足を運んでいなかった。 そうしてお喋りな校長の長話に付き合っていると、廊下をバタバタと忙しなく走ってくる音がした。何事かと顔を上げた職員たちの下へ、六年生の女子が泣きそうな顔で職員室に駆け込んできた。 「どうしたの?」 ドアのすぐ側にいた中年の女性職員が問うと、彼女は言った。 「男子がケンカしてるの! ファイ先生でも止められないんです!!」 黒鋼と校長は、咄嗟に顔を見合わせた。 * 黒鋼を含め、職員数名が駆けつけると、確かに男子二人が取っ組み合いのケンカをしている最中だった。 家庭科室はめちゃくちゃな状態で、小麦粉が床一面に飛び散り、一年生や二年生の女子の中には泣き出すものまでいる始末だった。 緑色の猫がプリントされたクリーム色のエプロンをしたファイは、泣いている生徒を抱きしめながら、すっかり困り果てていた。エプロンは店のものなのだろう。『猫の目』とも書かれていた。よくよく見れば、子供達も同じデザインのものを着用している。 「こらー! やめなさーい!!」 校長の次に年配の女性職員がよく通る声を張り上げたが、彼らはあーだこーだと激しく罵り合いながら取っ組み合いを止めない。校長にいたってはやっぱりニコニコ顔で「元気がいいなぁ」と暢気に呟いて見物していた。 黒鋼は大仰に溜息を零すと、激しくやり合う二人の元へと近づいた。そして一気に双方の首根っこを、まるで猫の子でも持ち上げるかのように掴み上げて引き離す。 あまりの力技に、ファイの腕の中で泣いていた子供が「わぁ」と歓声を上げた。 「てめぇら、いい加減にしねぇか!」 黒鋼に吊るし上げられても、片方はまだジタバタともがいていた。校庭で最初に話しかけてきた、例のガキ大将である。 四年生である彼がやり合っていた生徒は、一つ下の三年生だった。 「下のやつとまともにやり合ってんじゃねぇ。おら、落ち着け」 二人の子供達は頬や額、首や腕にまで引っ掻き傷を負っていた。ゼェハァと荒々しい呼吸を繰り返しながら、まだ睨み合っている。 他の職員が片付けをするようにと他の生徒達を煽る中、泣いていた少女から離れたファイが駆け寄ってきた。黒鋼に首根っこを掴まれたままだったガキ大将は、咄嗟に悔しそうに唇を噛み締めると俯いた。 「ごめんなさい黒鋼先生。全部オレの責任なんです」 「いや、こいつらまとめんのはなかなか難しいだろ」 普段から関わっている黒鋼や、ベテランの教師でさえ手を焼いているのだから、ファイには一切の非はないはずだ。けれど彼は苦しげに眉を寄せた。 「違うんだ。この子はオレの……」 「ほらほら、君はこっち来て、校長先生が手当てしようなー」 ファイが何かを言いかけて黙り込んでしまったとき、和やかに見物していた校長が三年生の生徒の肩を抱いた。悔しいのか、泣き出してしまったその生徒を職員室へと連れて行こうとしている。黒鋼も腕の中の少年の手を引いた。 「とりあえず話はこっちから聞く。おまえは、ここなんとかしろ」 「……はい」 心配そうに双方の少年を見て、ファイは素直に返事を返した。唇が、小さく「ごめんね」という形に動く。それから、俯いたままさらに言った。 「オレは、また君に迷惑をかけてしまうんだね」 それについて問いかけようとした声は、聞き分けのない子供達へ向けてヒステリーを起こした女性教諭の声によって掻き消されてしまった。 * ここには保健室はあるものの、現在では常駐の養護教諭というものはいない。 小学校から歩いてほんの数分程度の場所に小さな個人病院があり、何かの折にはそこから年老いた医師がやってくる。とは言ってもそれを待つより、いっそ子供を抱えて駆け込んだ方が早いだろうと思うのだが。 今回はそれをするほど大袈裟なものではないので、黒鋼はとりあえず引っ掻き傷だけの生徒を皮製の椅子に座らせると、棚から救急箱を取り出して向かい合うように膝をついた。 「ちっと染みるぞ」 ピンセットで白い綿を摘み、消毒液に濡らしたそれを赤くなって血の滲んだ頬に押し当てた。少年は「いてぇ!」と言って身体を震わせる。 「いてぇよ先生! こんなんツバつけときゃなおるってー」 「まぁそれはそうだろうがな」 黒鋼とて、彼らくらいの年齢のときはしょっちゅうこの程度の掠り傷を作っていた。だが、こういったときの消毒液の痛みというのは、灸をすえるという意味でいい効果がある。経験者は知っているのだ。 しばらくそういった作業を繰り返している間、最初はぶつくさと文句を垂れていた彼は何も言わなくなった。皮製の椅子の、穴が開いてスポンジが飛び出している部分を爪で引っ掻いている。 「なんだって下のやつ相手にあんなことしてた」 黙々と消毒を続けていた黒鋼だったが、頃合を見て問いかけた。彼は、唇を微かに尖らせて穴をいじくる指を止めた。 返答を待つ間も、手は休むことなく作業を続けた。大きめの絆創膏を取り出して、一番大きな頬の傷に貼り付ける。鼻の頭には小さなものを貼り付けた。腕にも膝にも傷はあって、どれだけ激しい取っ組み合いだったのかがよく分かる。 彼は暫く押し黙っていたが、やがて口を開いた。 「なぁ先生……」 「なんだよ」 「先生さ、ファイ先生と友達なんだろ?」 「……ああ」 「この小学校にいたんだろ?」 「そうだ」 手の甲の傷にも絆創膏を貼った。彼の問いかけは、あまり質問の内容に関係ないようにも思えるが、根気よく付き合ってやることにした。 「それがどうした」 「……アイツさ」 アイツ、というのはもちろんケンカ相手の子供のことだろう。 「アイツ、ファイ先生に言ったんだ。先生は、他所から来たから嫌われてるのかって」 黒鋼は、思わず手を止めた。少年を見上げる。彼は俯いて、悔しそうに表情を歪めていた。 「俺、知ってんだ。俺の母ちゃんも言ってたし、ばあちゃんもじいちゃんも、ファイ先生が嫌いなんだ。せっかく教えてもらって、上手に作れたお菓子を持って帰っても、誰も食ってくれないんだよ。他のヤツらの家の人も、そうなんだって。俺たちはみんなファイ先生が好きなのに、なんで大人はそんなつまんないことばっか言って、意地悪するんだよ」 「……それが原因か」 「……分かってたよ。アイツに悪気はないって。この学校に、ファイ先生が嫌いなヤツなんかいないもん。でも、なんか腹が立ったんだ。だってファイ先生、笑ってたけど、すごく悲しそうだったんだ……」 ファイが店を始めて、それで成功を収めたことを町興しの一環として捉え、以降それなりに受け入れてくれた人間もいると聞いていた。まるで手の平を返すようにと言えば聞こえは悪いが、それでもこの町に根付く、余所者へ対するあまりにも根深い意識を思えば、黒鋼はこの町も、人も、まだ完全に捨てたものではないのだと考えるようにしていた。 結局のところ、必要なのは時間なのだ。幼い頃はそういった連中からどうにかしてでもファイを守りたかった。けれど、ただ傍にいて、その間だけ目を光らせていただけに過ぎない。黒鋼のいないところで、彼はきっと辛い思いをしていたに違いなかった。 ふと、高三の夏の、父と語らった月の庭を思い出した。父も、同じことを言っていた。母は大道寺家の嫁としての責務を果たしながら家業も手伝い、父を愛し、家族を愛し、時間をかけてゆっくりと、自分の力でこの町に溶け込んでいったのだ。それは父の支えがあったからこそではあるが、母自身の努力の賜物だった。 守る、などと大層なことを胸に誓いながら、黒鋼が出来ることなど本当は何一つなかったのだと思う。逃げ出したなら、なおのこと。支えることだって出来やしなかった。 「なぁ黒鋼先生。先生は違ったんだろ? ちゃんと友達だったんだよな?」 黒鋼の胸中は複雑なものだった。けれど手を伸ばし、しっとりと汗に濡れた少年の頭に触れると、グシャグシャと撫でて乱した。 「な、なんだよ、子供扱いすんなよな」 「ガキだろうが。黙って撫でられてりゃいいんだ」 彼は照れ臭そうに「ちぇー」と言った。それから、再び手当てを始めた黒鋼に言った。 「先生、俺もがんばるからさ、先生もファイ先生を守ってやってくれよ。友達なんだろ?」 思わず手を止めかけて、結局はそのまま続ける。彼は、自分の幼い頃によく似ている。 「好きか? あいつのことが」 そう問うと、彼はぽっと頬を赤く染めた。黒鋼は思わず「おや」と目を僅かに見開いた。 「う、うん。あ、でも、みんなファイ先生が大好きなんだ。ケンカしちゃったアイツだってそうだよ。ファイ先生、優しいもん……キレイだし」 どこか誤魔化すように慌てて言い募る姿が微笑ましい。ファイのことを、なんとも罪な男だと思った。 「そうか」 「先生だって好きだろ?」 聞かれて、黒鋼は静かに目を閉じた。それからゆっくりと目を開けて、言った。 「ああ……好きだ」 黒鋼は、むき出しの膝小僧の上で握られていた、小さな拳にそっと己の手を被せた。これが大きくなるのはもっとずっと先のことだ。けれど、この町はきっと、変われると思う。 「こいつはな、誰かを傷つけるためにあるんじゃねぇよ」 「先生……?」 「自分より小さくて、弱いもんは守ってやれ。だが、ただいきがることとそれは違う」 守るということは、傍で支え、そして見ていてやることだ。自分の力で乗り越えなければならない壁があるのなら、せめてその背を支えて少しでも傷が軽くなるように。それでも深く傷ついたなら、唾をつけてやればいい。傷つくことを、そして傷つけることを恐れていては駄目だ。 手を引いて歩くのは相手が転ばないようにするためではなくて、転んでもすぐに立ち上がれるようにしてやるため。自分が転んだときだってそうだ。一方的に引っ張ってやるためではない。共に歩いていくためだ。 それはただがむしゃらに、立ちはだかる壁から遠ざけてやることではなかった。乗り越えるために、地に足をつけて前へ進むために。人は一人では生きられないけれど、だから支えあうし、手を繋ぐ。心が繋がる。強くもなれる。それは互いに依存し合うこととはまるで違う。黒鋼は、それをずっと履き違えていた。 「むずかしいよ先生。俺、バカだからさ」 「それでいい。すぐに分かりゃ、誰も苦労はしねぇのさ」 黒鋼は今でも、ファイが片目を失った日のことを後悔している。暴力にさらされて、頬を腫らしていたあのときのことも。 だがそれはファイがただ小さくて、弱い人間だったからではなかった。ファイがファイだったからこそ、彼が自分にとっての特別だったからこそ、だからこその無念だった。 いつからか黒鋼は、彼に対して歪んだ欲望を抱くようになっていた。若すぎた自分は、それによって彼を傷つけることを恐れてしまった。だから離れた。 本当の意味で後悔したのはそれからずっと先のことで、ファイもまた自分を思ってくれていたことを知ったときだった。 ずっと一緒にいたのに。自分達には足りなかったものがあった。 踏み込む勇気。曝け出す勇気。そしてファイも黒鋼も、もっともっとたくさんの言葉を互いに交わさねばならなかったのかもしれない。 自分のことを話すのがあまり得意ではないファイは、けれどお喋りが大好きだった。くだらないことばかりを喋っては笑っていた。黒鋼は、ただそれを聞いてやることが彼の一番喜ぶことだと思っていた。 黒鋼は、ファイが望むとおりの自分でいることに、いつからか囚われてしまったのだと思う。 だからこそ、彼への本当の思いに気づき、欲望を抱いたとき、己を許すことが出来なかった。本当に恐ろしかったのは彼を傷つけることよりも、彼の中にある自分自身の姿を歪ませてしまうことだったのかもしれない。 彼の存在を脅かし、傷つけんとする者に自分自身が含まれるなど思いもしなかった。けれどあのとき、素直に思いを打ち明けていたら、何かが変わっていたのだろうか。まだ、間に合うのだろうか。 ファイのことを好きだと言う少年と会話をしながら。気がついてしまった。 彼は今も、黒鋼の中でたった一人のかけがえのない存在なのだということ。他の誰でもない。他の誰にも埋められない。満たされない。 黒鋼はファイを、今もなお愛しているのだ。 ←戻る ・ 次へ→
今年は桜の開花が異様に遅れていた。
本来ならとっくに満開に花を咲かせているはずのそれが、今年は厳しい寒さがあまりにも長く尾を引いていたせいで、未だ蕾は開花の兆しがない。ただ赤く熟れたように色づいているだけだ。
黒鋼は午後の授業をひとしきり終え、給食を済ませたあと職員室で校長が淹れた茶を啜っていた。
「どうかな? そろそろ一ヶ月だけど、もう慣れたかな?」
この小さな校舎には校長室などと言った畏まった場所がない。職員室の一角に曇ったガラス張りの衝立を二つ並べて仕切っているだけだ。
ソファに向かい合うようにして腰を落ち着け、黒鋼は子供のようにクルクルと瞳を動かして微笑んでいる校長に向かって短く返事をした。
「そうかそうか。大道寺くんは昔からよく出来た生徒だったからなぁ」
「いえ……」
何が一番厄介かと問われれば、黒鋼は迷わず子供達の有り余る元気の良さと答えるだろう。彼らは皆、驚くほど元気がよく、悪く言えば落ち着きがない。いくら生徒数が極端に少ないとは言っても、まとめるだけでも一苦労である。
だが、正直やり甲斐があることも確かだった。一人一人とじっくりと向き合える点も気に入っている。自分には合っているのかもしれないと感じていた。
ちなみに初見でスーツを着込んでいた黒鋼を、生徒達は『ヤクザ先生』などと言ってからかった。現在は常に黒のジャージ姿であるが、どうも彼らの中でヤクザ先生ブームが最高に盛り上がっているらしかった。
「そうそう今日はね、豆腐を使ってドーナツを作るんだそうだよ。きっとそのうちいい香りがしてくるんだろうねぇ」
三時のおやつが楽しみだなぁと、校長はニコニコ顔だった。
黒鋼や他数名の職員が、校長が淹れた茶を啜りつつのんびりしていられるのは、今が水曜の午後だからである。
月に二度ほどの頻度で、全学年合わせてたった20人の生徒達が、家庭科室で『猫の目』の店主によるお菓子教室に参加しているのだ。
ファイとは顔を合わせれば一言二言会話をする程度だった。先刻も、大きな籠いっぱいに詰まった材料を重そうに持ちながら、彼は「今度お店に来てね」と言って笑っていた。思えば、まだ一度も猫の目とやらに足を運んでいなかった。
そうしてお喋りな校長の長話に付き合っていると、廊下をバタバタと忙しなく走ってくる音がした。何事かと顔を上げた職員たちの下へ、六年生の女子が泣きそうな顔で職員室に駆け込んできた。
「どうしたの?」
ドアのすぐ側にいた中年の女性職員が問うと、彼女は言った。
「男子がケンカしてるの! ファイ先生でも止められないんです!!」
黒鋼と校長は、咄嗟に顔を見合わせた。
*
黒鋼を含め、職員数名が駆けつけると、確かに男子二人が取っ組み合いのケンカをしている最中だった。
家庭科室はめちゃくちゃな状態で、小麦粉が床一面に飛び散り、一年生や二年生の女子の中には泣き出すものまでいる始末だった。
緑色の猫がプリントされたクリーム色のエプロンをしたファイは、泣いている生徒を抱きしめながら、すっかり困り果てていた。エプロンは店のものなのだろう。『猫の目』とも書かれていた。よくよく見れば、子供達も同じデザインのものを着用している。
「こらー! やめなさーい!!」
校長の次に年配の女性職員がよく通る声を張り上げたが、彼らはあーだこーだと激しく罵り合いながら取っ組み合いを止めない。校長にいたってはやっぱりニコニコ顔で「元気がいいなぁ」と暢気に呟いて見物していた。
黒鋼は大仰に溜息を零すと、激しくやり合う二人の元へと近づいた。そして一気に双方の首根っこを、まるで猫の子でも持ち上げるかのように掴み上げて引き離す。
あまりの力技に、ファイの腕の中で泣いていた子供が「わぁ」と歓声を上げた。
「てめぇら、いい加減にしねぇか!」
黒鋼に吊るし上げられても、片方はまだジタバタともがいていた。校庭で最初に話しかけてきた、例のガキ大将である。
四年生である彼がやり合っていた生徒は、一つ下の三年生だった。
「下のやつとまともにやり合ってんじゃねぇ。おら、落ち着け」
二人の子供達は頬や額、首や腕にまで引っ掻き傷を負っていた。ゼェハァと荒々しい呼吸を繰り返しながら、まだ睨み合っている。
他の職員が片付けをするようにと他の生徒達を煽る中、泣いていた少女から離れたファイが駆け寄ってきた。黒鋼に首根っこを掴まれたままだったガキ大将は、咄嗟に悔しそうに唇を噛み締めると俯いた。
「ごめんなさい黒鋼先生。全部オレの責任なんです」
「いや、こいつらまとめんのはなかなか難しいだろ」
普段から関わっている黒鋼や、ベテランの教師でさえ手を焼いているのだから、ファイには一切の非はないはずだ。けれど彼は苦しげに眉を寄せた。
「違うんだ。この子はオレの……」
「ほらほら、君はこっち来て、校長先生が手当てしようなー」
ファイが何かを言いかけて黙り込んでしまったとき、和やかに見物していた校長が三年生の生徒の肩を抱いた。悔しいのか、泣き出してしまったその生徒を職員室へと連れて行こうとしている。黒鋼も腕の中の少年の手を引いた。
「とりあえず話はこっちから聞く。おまえは、ここなんとかしろ」
「……はい」
心配そうに双方の少年を見て、ファイは素直に返事を返した。唇が、小さく「ごめんね」という形に動く。それから、俯いたままさらに言った。
「オレは、また君に迷惑をかけてしまうんだね」
それについて問いかけようとした声は、聞き分けのない子供達へ向けてヒステリーを起こした女性教諭の声によって掻き消されてしまった。
*
ここには保健室はあるものの、現在では常駐の養護教諭というものはいない。
小学校から歩いてほんの数分程度の場所に小さな個人病院があり、何かの折にはそこから年老いた医師がやってくる。とは言ってもそれを待つより、いっそ子供を抱えて駆け込んだ方が早いだろうと思うのだが。
今回はそれをするほど大袈裟なものではないので、黒鋼はとりあえず引っ掻き傷だけの生徒を皮製の椅子に座らせると、棚から救急箱を取り出して向かい合うように膝をついた。
「ちっと染みるぞ」
ピンセットで白い綿を摘み、消毒液に濡らしたそれを赤くなって血の滲んだ頬に押し当てた。少年は「いてぇ!」と言って身体を震わせる。
「いてぇよ先生! こんなんツバつけときゃなおるってー」
「まぁそれはそうだろうがな」
黒鋼とて、彼らくらいの年齢のときはしょっちゅうこの程度の掠り傷を作っていた。だが、こういったときの消毒液の痛みというのは、灸をすえるという意味でいい効果がある。経験者は知っているのだ。
しばらくそういった作業を繰り返している間、最初はぶつくさと文句を垂れていた彼は何も言わなくなった。皮製の椅子の、穴が開いてスポンジが飛び出している部分を爪で引っ掻いている。
「なんだって下のやつ相手にあんなことしてた」
黙々と消毒を続けていた黒鋼だったが、頃合を見て問いかけた。彼は、唇を微かに尖らせて穴をいじくる指を止めた。
返答を待つ間も、手は休むことなく作業を続けた。大きめの絆創膏を取り出して、一番大きな頬の傷に貼り付ける。鼻の頭には小さなものを貼り付けた。腕にも膝にも傷はあって、どれだけ激しい取っ組み合いだったのかがよく分かる。
彼は暫く押し黙っていたが、やがて口を開いた。
「なぁ先生……」
「なんだよ」
「先生さ、ファイ先生と友達なんだろ?」
「……ああ」
「この小学校にいたんだろ?」
「そうだ」
手の甲の傷にも絆創膏を貼った。彼の問いかけは、あまり質問の内容に関係ないようにも思えるが、根気よく付き合ってやることにした。
「それがどうした」
「……アイツさ」
アイツ、というのはもちろんケンカ相手の子供のことだろう。
「アイツ、ファイ先生に言ったんだ。先生は、他所から来たから嫌われてるのかって」
黒鋼は、思わず手を止めた。少年を見上げる。彼は俯いて、悔しそうに表情を歪めていた。
「俺、知ってんだ。俺の母ちゃんも言ってたし、ばあちゃんもじいちゃんも、ファイ先生が嫌いなんだ。せっかく教えてもらって、上手に作れたお菓子を持って帰っても、誰も食ってくれないんだよ。他のヤツらの家の人も、そうなんだって。俺たちはみんなファイ先生が好きなのに、なんで大人はそんなつまんないことばっか言って、意地悪するんだよ」
「……それが原因か」
「……分かってたよ。アイツに悪気はないって。この学校に、ファイ先生が嫌いなヤツなんかいないもん。でも、なんか腹が立ったんだ。だってファイ先生、笑ってたけど、すごく悲しそうだったんだ……」
ファイが店を始めて、それで成功を収めたことを町興しの一環として捉え、以降それなりに受け入れてくれた人間もいると聞いていた。まるで手の平を返すようにと言えば聞こえは悪いが、それでもこの町に根付く、余所者へ対するあまりにも根深い意識を思えば、黒鋼はこの町も、人も、まだ完全に捨てたものではないのだと考えるようにしていた。
結局のところ、必要なのは時間なのだ。幼い頃はそういった連中からどうにかしてでもファイを守りたかった。けれど、ただ傍にいて、その間だけ目を光らせていただけに過ぎない。黒鋼のいないところで、彼はきっと辛い思いをしていたに違いなかった。
ふと、高三の夏の、父と語らった月の庭を思い出した。父も、同じことを言っていた。母は大道寺家の嫁としての責務を果たしながら家業も手伝い、父を愛し、家族を愛し、時間をかけてゆっくりと、自分の力でこの町に溶け込んでいったのだ。それは父の支えがあったからこそではあるが、母自身の努力の賜物だった。
守る、などと大層なことを胸に誓いながら、黒鋼が出来ることなど本当は何一つなかったのだと思う。逃げ出したなら、なおのこと。支えることだって出来やしなかった。
「なぁ黒鋼先生。先生は違ったんだろ? ちゃんと友達だったんだよな?」
黒鋼の胸中は複雑なものだった。けれど手を伸ばし、しっとりと汗に濡れた少年の頭に触れると、グシャグシャと撫でて乱した。
「な、なんだよ、子供扱いすんなよな」
「ガキだろうが。黙って撫でられてりゃいいんだ」
彼は照れ臭そうに「ちぇー」と言った。それから、再び手当てを始めた黒鋼に言った。
「先生、俺もがんばるからさ、先生もファイ先生を守ってやってくれよ。友達なんだろ?」
思わず手を止めかけて、結局はそのまま続ける。彼は、自分の幼い頃によく似ている。
「好きか? あいつのことが」
そう問うと、彼はぽっと頬を赤く染めた。黒鋼は思わず「おや」と目を僅かに見開いた。
「う、うん。あ、でも、みんなファイ先生が大好きなんだ。ケンカしちゃったアイツだってそうだよ。ファイ先生、優しいもん……キレイだし」
どこか誤魔化すように慌てて言い募る姿が微笑ましい。ファイのことを、なんとも罪な男だと思った。
「そうか」
「先生だって好きだろ?」
聞かれて、黒鋼は静かに目を閉じた。それからゆっくりと目を開けて、言った。
「ああ……好きだ」
黒鋼は、むき出しの膝小僧の上で握られていた、小さな拳にそっと己の手を被せた。これが大きくなるのはもっとずっと先のことだ。けれど、この町はきっと、変われると思う。
「こいつはな、誰かを傷つけるためにあるんじゃねぇよ」
「先生……?」
「自分より小さくて、弱いもんは守ってやれ。だが、ただいきがることとそれは違う」
守るということは、傍で支え、そして見ていてやることだ。自分の力で乗り越えなければならない壁があるのなら、せめてその背を支えて少しでも傷が軽くなるように。それでも深く傷ついたなら、唾をつけてやればいい。傷つくことを、そして傷つけることを恐れていては駄目だ。
手を引いて歩くのは相手が転ばないようにするためではなくて、転んでもすぐに立ち上がれるようにしてやるため。自分が転んだときだってそうだ。一方的に引っ張ってやるためではない。共に歩いていくためだ。
それはただがむしゃらに、立ちはだかる壁から遠ざけてやることではなかった。乗り越えるために、地に足をつけて前へ進むために。人は一人では生きられないけれど、だから支えあうし、手を繋ぐ。心が繋がる。強くもなれる。それは互いに依存し合うこととはまるで違う。黒鋼は、それをずっと履き違えていた。
「むずかしいよ先生。俺、バカだからさ」
「それでいい。すぐに分かりゃ、誰も苦労はしねぇのさ」
黒鋼は今でも、ファイが片目を失った日のことを後悔している。暴力にさらされて、頬を腫らしていたあのときのことも。
だがそれはファイがただ小さくて、弱い人間だったからではなかった。ファイがファイだったからこそ、彼が自分にとっての特別だったからこそ、だからこその無念だった。
いつからか黒鋼は、彼に対して歪んだ欲望を抱くようになっていた。若すぎた自分は、それによって彼を傷つけることを恐れてしまった。だから離れた。
本当の意味で後悔したのはそれからずっと先のことで、ファイもまた自分を思ってくれていたことを知ったときだった。
ずっと一緒にいたのに。自分達には足りなかったものがあった。
踏み込む勇気。曝け出す勇気。そしてファイも黒鋼も、もっともっとたくさんの言葉を互いに交わさねばならなかったのかもしれない。
自分のことを話すのがあまり得意ではないファイは、けれどお喋りが大好きだった。くだらないことばかりを喋っては笑っていた。黒鋼は、ただそれを聞いてやることが彼の一番喜ぶことだと思っていた。
黒鋼は、ファイが望むとおりの自分でいることに、いつからか囚われてしまったのだと思う。
だからこそ、彼への本当の思いに気づき、欲望を抱いたとき、己を許すことが出来なかった。本当に恐ろしかったのは彼を傷つけることよりも、彼の中にある自分自身の姿を歪ませてしまうことだったのかもしれない。
彼の存在を脅かし、傷つけんとする者に自分自身が含まれるなど思いもしなかった。けれどあのとき、素直に思いを打ち明けていたら、何かが変わっていたのだろうか。まだ、間に合うのだろうか。
ファイのことを好きだと言う少年と会話をしながら。気がついてしまった。
彼は今も、黒鋼の中でたった一人のかけがえのない存在なのだということ。他の誰でもない。他の誰にも埋められない。満たされない。
黒鋼はファイを、今もなお愛しているのだ。
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