2025/08/07 Thu 幼馴染 風呂上りの深夜のこと。 茶の間に明りが点いているのに気がついた黒鋼は、冷蔵庫から冷えたビールを取り出しがてらそこへ顔を出した。 「あら、お父さんかと思った」 そこにいたのは以前より幾分か痩せた母だった。 「珍しいな。夜更かしか」 「もう、お風呂上りにビールなんて……なんだかすっかりお父さん臭いわよ」 「これぐらい普通だろ」 「お腹がポッコリしたって知らないんだから。そうなったら格好悪いわよ」 せっかくお父さんそっくりに産んであげたのに、となおも言い募る母に、黒鋼は腰を下ろしつつ苦笑する。ビールの缶はとりあえず足元に避けた。そして、母がテーブルの上に出して眺めていたものに目を留める。 それは古い、アルバムのようだった。 「懐かしいな」 そこには黒鋼や知世の幼い頃の写真がズラリと綺麗に並べられている。写り込んでいる両親も、今より驚くほど若かった。元気そうな鋼丸の姿もある。 「そうでしょう? 整理してたら、なんだか止まらなくなっちゃったの」 「それで夜更かしか」 もう若くねぇんだから、という冗談めいた余計な一言は腹の中に仕舞い込んで口にはしない。母は怒ると果てしなく厄介だ。思えば知世も、ますますこの母に似てきたような気がする。 「ほら見て。知世が産まれたときの写真。貴方、なんて顔してるのかしら」 そこには、産まれたばかりの赤ん坊を目の前に、どうすればいいか分からず顔を顰める幼い自分がいた。 あのときのことは、今でもよく覚えている。早朝に母が病院で産気づいたという知らせを受け、慌てて父と共に車で産婦人科へと向かったのだ。出産予定日よりも、数日早かった。父の動揺ぶりといったら、今ではちょっとした笑い話だ。 眠気が取れずにうつらうつらしていた黒鋼の周りを、父が忙しなく歩き回っていたのをよく覚えている。 「あっという間だったわね。貴方も知世もすっかり大人になって……お父さんもお母さんも歳を取って当たり前ね」 「何言ってんだ。まだ若いだろ」 先刻思ったこととは逆のことを口にする。いざ両親に儚げな姿を見せられれば、幾つになろうと若く元気であって欲しいとしみじみ思うものだ。 そのとき、アルバムの中に納まりきらない写真の束が数枚、母の手からポロリと零れ落ちた。 スルリと滑るようにして畳の上に落ちてしまったそれを、咄嗟に拾い上げる。黒鋼は、僅かに目を見開いてそれを凝視した。 「ああ、それも残っていたのね」 「お袋、この人は……?」 母は懐かしそうに瞳を細めた。その微笑は、なぜか切ない。 「よく似てるでしょう?」 「…………」 黒鋼は、写真の中に写り込む一人の女性から目が離せなかった。黒鋼の記憶の中にはない、いっそ幼ささえ残る若い両親の間で、その女性は優しく微笑んでいた。 セピア色の写真の中、色素の薄い柔らかな長い髪に、少し垂れている可愛らしい目元。薄い唇。母の言うとおり。彼女はよく似ているのだ。ファイに。 驚いて声も出ない黒鋼に、母は楽しそうに笑った。まるでイタズラが成功した子供のようだと思った。 「お母さんよ。彼のね。そして、私とお父さんの大切な幼馴染」 母は黒鋼の手から写真を取ると、そっと彼女を指先で撫でた。 「どこにいるか、わからないのよ」 「生きてんのかも……?」 「わからないの……彼も知らないみたいね」 ファイも知らない。彼はたった一人でこの町へやって来たのだ。彼の祖父が死んだときも、姿を見ていない。 「この子はね、女の子で初めて出来た友達だったの。知ってるでしょう? お母さんも、他所の町からここへ来たの」 「父さんに聞いた」 「お父さんと私と、この子と。いつも一緒だったわ。だから母さん、笑っていられたの」 当時のことを思い出して、懐かしそうに語る母の言葉を聞きながら、黒鋼は同時に思い出していた。父が言っていた『味方』とは、彼女のことだったのだ。 「彼女が励ましてくれたから、お母さんとお父さんは一緒になれたの。彼女がいなかったら、今頃は貴方も知世も産まれていなかったかもしれないわね」 父と母が結ばれていなかったら。彼らは、どんな人生を歩んでいたのだろう。想像するのは難しかった。黒鋼にとって生まれたときから彼らこそが両親であり、それ以外は考えられないことだった。 黒鋼は、僅かに躊躇いながらも切り出した。 「この人は……いつからここにいないんだ……?」 いつ、どこでファイを産んだのか。ずっと彼は他所から来た子供だと思っていたが、もしかすれば生まれはこの町なのではないかと思った。 けれど、母は弱々しく首を振って目を閉じた。 「ちょうど、貴方がお腹に出来たのが分かった頃に。彼女はね、いなくなってしまった」 母はゆっくりと、静かに語り出した。 * それは母がこの家に嫁ぐことが出来た頃と、ほぼ同じ時期だったという。 当時はファイの家が営む茶屋が今のように盛況しており、諏倭荘で客に出すお茶請けも、今と同じくそこから仕入れていたらしい。 ファイの母はいつも自転車に乗って、それを運んで来てくれていたそうだ。 その頃はまだ父の両親も健在で、母はそれなりに緊張と肩身の狭い思いをしながら家事に家業にと勤しんでいた。 彼女が菓子を届けに来る時間は、母にとっての癒しだったという。ほんの短い間の立ち話は、大切なひとときだった。 「その頃ね、日本の文化や田舎の景色が大好きだって言って、この宿に背の高い、綺麗な外国の方がやって来られたの」 金髪に碧眼を持ったその男性を見たときの衝撃を、母は今でも忘れられないと言った。外国人など、テレビでしか見たことがなかったからだ。 「肌が白くて、澄んだ空みたいに綺麗な青い瞳をしていたわ」 彼は海外からの留学生だった。夏の長期休暇を利用して、その間ずっとこの宿にいたのだという。 「私もしばらくは気がつかなかったの。あの子が、彼と恋に落ちていたなんて」 二人のことを知ったのは、偶然耳にした噂話だったという。何処の国から来たとも知れない異国の青年と、団子屋敷の娘が親しげに手を繋いで歩いているという下世話な噂は、母が耳にしたときすでに町中に広がっていた。 母はもちろん祝福したいと心から思った。それは父も同じであったが、けれどその青年はいつか国へ帰る身だった。学生のうち、日本にいる間はいいかもしれない。だが本気で一緒になるのなら、駆け落ちは覚悟しなければならないだろうと。 祝福したい気持ちはあれども、先の見えない不安定な未来で彼女が本当に幸せになれるのか、両親や生まれ育った町を捨ててまで、本当にその覚悟があるのか。 なにより心配だったのは、その青年からはあまり誠実な空気を感じ取ることが出来なかったことだった。彼は事もあろうに、この母にさえ拙い日本語で口説き文句をお見舞いするのが挨拶代わりだったのだという。 「余計なお世話かとは思ったの。でも、言わずにはいられなかった。彼とは、あまり深くお付き合いしない方がいいんじゃないかって……でも、駄目なのよね。そう言われれば言われるほど、自棄になって引き下がれなくなるんですもの……」 黒鋼にも、なんとなく分かる。恋は盲目とは、よく言ったものだ。 「彼は夏休みが終わる直前には、帰っていったわ。彼女も……きっと居場所がなかったのね」 ファイの母は、忽然と姿を消した。それは異国の青年が帰っていった時期と、全く同じ頃だったという。 その頃母の腹の中に黒鋼が宿っていたように、彼女の中にも、そうと気づかぬほどに小さな命が、すでに宿っていたのだろう。 母は改めて黒鋼を見ると、寂しげな微笑を浮かべた。 「だから彼がこの町へ一人ぼっちでやって来たとき、本当に驚いたわ。まるで生き写しだったんだもの」 写真に写る女性を見る。母が驚いたのは無理もない。相手の男のことは知らないが、黒鋼とてこれを見て驚いたのだから。 「貴方が彼と仲良くなってくれたこと、お母さんもお父さんも本当に嬉しかったの。私達はあの子に何も出来ないけれど、貴方になら出来るから」 ファイといるだけで、町の人間達はいい顔をしなかった。そんな中で両親だけは温かく見守ってくれていた。きっと自分の知らないところで、強い風当たりに晒されることだってあっただろう。 本当は聞くべきではなかったのかもしれない。過去は関係ないとも思っていた。ファイがファイなりにどう過去と向き合い、それを腹に据えたのかは知らない。彼の口からそれを聞くことはないだろう。黒鋼も、無理に聞き出そうとは思わない。 ファイは自分のことを話したがらなかったのではない。自分のことを、どう話せばいいのか分からなかったのだと、黒鋼はそう思う。くだらないことばかりはペラペラとよく喋るくせに、自分の中の闇を曝け出すことには酷く不器用だったのだ。 「ごめんなさいね。お母さんちょっと喋りすぎちゃったみたい」 「いや、いい。聞けてよかった」 これは両親と、そしてその親友だった女性の話だ。結局その女性がその後どうなったのか、そしてファイがなぜ一人きりでここへやって来たのか、それは分からないままなのだから。 ただ、黒鋼にはどうしても言いたいことがあった。 「母さん」 「なぁに?」 「二人と知世には、感謝してる」 自分がいない間、父と母、そして知世が彼を少しずつ助け、支えてくれていたことは知っている。 今でこそ繁盛している猫の目だが、聞けば開店当初は悪質な嫌がらせもあったのだという。知世からそれを聞いたときは、暫くの間は腸が煮えたぎって仕方がなかったものだが。 畏まったように礼を述べる息子に、母は目を丸くした。黒鋼は遅れてやってきた照れ臭さから、すっかり温くなったビールの缶を掴むと勢いよく開ける。口の中に流し込んだそれは、ひたすら不味かった。ぐっと顔を顰めた黒鋼に、母は声を上げて笑っていた。 ←戻る ・ 次へ→
風呂上りの深夜のこと。
茶の間に明りが点いているのに気がついた黒鋼は、冷蔵庫から冷えたビールを取り出しがてらそこへ顔を出した。
「あら、お父さんかと思った」
そこにいたのは以前より幾分か痩せた母だった。
「珍しいな。夜更かしか」
「もう、お風呂上りにビールなんて……なんだかすっかりお父さん臭いわよ」
「これぐらい普通だろ」
「お腹がポッコリしたって知らないんだから。そうなったら格好悪いわよ」
せっかくお父さんそっくりに産んであげたのに、となおも言い募る母に、黒鋼は腰を下ろしつつ苦笑する。ビールの缶はとりあえず足元に避けた。そして、母がテーブルの上に出して眺めていたものに目を留める。
それは古い、アルバムのようだった。
「懐かしいな」
そこには黒鋼や知世の幼い頃の写真がズラリと綺麗に並べられている。写り込んでいる両親も、今より驚くほど若かった。元気そうな鋼丸の姿もある。
「そうでしょう? 整理してたら、なんだか止まらなくなっちゃったの」
「それで夜更かしか」
もう若くねぇんだから、という冗談めいた余計な一言は腹の中に仕舞い込んで口にはしない。母は怒ると果てしなく厄介だ。思えば知世も、ますますこの母に似てきたような気がする。
「ほら見て。知世が産まれたときの写真。貴方、なんて顔してるのかしら」
そこには、産まれたばかりの赤ん坊を目の前に、どうすればいいか分からず顔を顰める幼い自分がいた。
あのときのことは、今でもよく覚えている。早朝に母が病院で産気づいたという知らせを受け、慌てて父と共に車で産婦人科へと向かったのだ。出産予定日よりも、数日早かった。父の動揺ぶりといったら、今ではちょっとした笑い話だ。
眠気が取れずにうつらうつらしていた黒鋼の周りを、父が忙しなく歩き回っていたのをよく覚えている。
「あっという間だったわね。貴方も知世もすっかり大人になって……お父さんもお母さんも歳を取って当たり前ね」
「何言ってんだ。まだ若いだろ」
先刻思ったこととは逆のことを口にする。いざ両親に儚げな姿を見せられれば、幾つになろうと若く元気であって欲しいとしみじみ思うものだ。
そのとき、アルバムの中に納まりきらない写真の束が数枚、母の手からポロリと零れ落ちた。
スルリと滑るようにして畳の上に落ちてしまったそれを、咄嗟に拾い上げる。黒鋼は、僅かに目を見開いてそれを凝視した。
「ああ、それも残っていたのね」
「お袋、この人は……?」
母は懐かしそうに瞳を細めた。その微笑は、なぜか切ない。
「よく似てるでしょう?」
「…………」
黒鋼は、写真の中に写り込む一人の女性から目が離せなかった。黒鋼の記憶の中にはない、いっそ幼ささえ残る若い両親の間で、その女性は優しく微笑んでいた。
セピア色の写真の中、色素の薄い柔らかな長い髪に、少し垂れている可愛らしい目元。薄い唇。母の言うとおり。彼女はよく似ているのだ。ファイに。
驚いて声も出ない黒鋼に、母は楽しそうに笑った。まるでイタズラが成功した子供のようだと思った。
「お母さんよ。彼のね。そして、私とお父さんの大切な幼馴染」
母は黒鋼の手から写真を取ると、そっと彼女を指先で撫でた。
「どこにいるか、わからないのよ」
「生きてんのかも……?」
「わからないの……彼も知らないみたいね」
ファイも知らない。彼はたった一人でこの町へやって来たのだ。彼の祖父が死んだときも、姿を見ていない。
「この子はね、女の子で初めて出来た友達だったの。知ってるでしょう? お母さんも、他所の町からここへ来たの」
「父さんに聞いた」
「お父さんと私と、この子と。いつも一緒だったわ。だから母さん、笑っていられたの」
当時のことを思い出して、懐かしそうに語る母の言葉を聞きながら、黒鋼は同時に思い出していた。父が言っていた『味方』とは、彼女のことだったのだ。
「彼女が励ましてくれたから、お母さんとお父さんは一緒になれたの。彼女がいなかったら、今頃は貴方も知世も産まれていなかったかもしれないわね」
父と母が結ばれていなかったら。彼らは、どんな人生を歩んでいたのだろう。想像するのは難しかった。黒鋼にとって生まれたときから彼らこそが両親であり、それ以外は考えられないことだった。
黒鋼は、僅かに躊躇いながらも切り出した。
「この人は……いつからここにいないんだ……?」
いつ、どこでファイを産んだのか。ずっと彼は他所から来た子供だと思っていたが、もしかすれば生まれはこの町なのではないかと思った。
けれど、母は弱々しく首を振って目を閉じた。
「ちょうど、貴方がお腹に出来たのが分かった頃に。彼女はね、いなくなってしまった」
母はゆっくりと、静かに語り出した。
*
それは母がこの家に嫁ぐことが出来た頃と、ほぼ同じ時期だったという。
当時はファイの家が営む茶屋が今のように盛況しており、諏倭荘で客に出すお茶請けも、今と同じくそこから仕入れていたらしい。
ファイの母はいつも自転車に乗って、それを運んで来てくれていたそうだ。
その頃はまだ父の両親も健在で、母はそれなりに緊張と肩身の狭い思いをしながら家事に家業にと勤しんでいた。
彼女が菓子を届けに来る時間は、母にとっての癒しだったという。ほんの短い間の立ち話は、大切なひとときだった。
「その頃ね、日本の文化や田舎の景色が大好きだって言って、この宿に背の高い、綺麗な外国の方がやって来られたの」
金髪に碧眼を持ったその男性を見たときの衝撃を、母は今でも忘れられないと言った。外国人など、テレビでしか見たことがなかったからだ。
「肌が白くて、澄んだ空みたいに綺麗な青い瞳をしていたわ」
彼は海外からの留学生だった。夏の長期休暇を利用して、その間ずっとこの宿にいたのだという。
「私もしばらくは気がつかなかったの。あの子が、彼と恋に落ちていたなんて」
二人のことを知ったのは、偶然耳にした噂話だったという。何処の国から来たとも知れない異国の青年と、団子屋敷の娘が親しげに手を繋いで歩いているという下世話な噂は、母が耳にしたときすでに町中に広がっていた。
母はもちろん祝福したいと心から思った。それは父も同じであったが、けれどその青年はいつか国へ帰る身だった。学生のうち、日本にいる間はいいかもしれない。だが本気で一緒になるのなら、駆け落ちは覚悟しなければならないだろうと。
祝福したい気持ちはあれども、先の見えない不安定な未来で彼女が本当に幸せになれるのか、両親や生まれ育った町を捨ててまで、本当にその覚悟があるのか。
なにより心配だったのは、その青年からはあまり誠実な空気を感じ取ることが出来なかったことだった。彼は事もあろうに、この母にさえ拙い日本語で口説き文句をお見舞いするのが挨拶代わりだったのだという。
「余計なお世話かとは思ったの。でも、言わずにはいられなかった。彼とは、あまり深くお付き合いしない方がいいんじゃないかって……でも、駄目なのよね。そう言われれば言われるほど、自棄になって引き下がれなくなるんですもの……」
黒鋼にも、なんとなく分かる。恋は盲目とは、よく言ったものだ。
「彼は夏休みが終わる直前には、帰っていったわ。彼女も……きっと居場所がなかったのね」
ファイの母は、忽然と姿を消した。それは異国の青年が帰っていった時期と、全く同じ頃だったという。
その頃母の腹の中に黒鋼が宿っていたように、彼女の中にも、そうと気づかぬほどに小さな命が、すでに宿っていたのだろう。
母は改めて黒鋼を見ると、寂しげな微笑を浮かべた。
「だから彼がこの町へ一人ぼっちでやって来たとき、本当に驚いたわ。まるで生き写しだったんだもの」
写真に写る女性を見る。母が驚いたのは無理もない。相手の男のことは知らないが、黒鋼とてこれを見て驚いたのだから。
「貴方が彼と仲良くなってくれたこと、お母さんもお父さんも本当に嬉しかったの。私達はあの子に何も出来ないけれど、貴方になら出来るから」
ファイといるだけで、町の人間達はいい顔をしなかった。そんな中で両親だけは温かく見守ってくれていた。きっと自分の知らないところで、強い風当たりに晒されることだってあっただろう。
本当は聞くべきではなかったのかもしれない。過去は関係ないとも思っていた。ファイがファイなりにどう過去と向き合い、それを腹に据えたのかは知らない。彼の口からそれを聞くことはないだろう。黒鋼も、無理に聞き出そうとは思わない。
ファイは自分のことを話したがらなかったのではない。自分のことを、どう話せばいいのか分からなかったのだと、黒鋼はそう思う。くだらないことばかりはペラペラとよく喋るくせに、自分の中の闇を曝け出すことには酷く不器用だったのだ。
「ごめんなさいね。お母さんちょっと喋りすぎちゃったみたい」
「いや、いい。聞けてよかった」
これは両親と、そしてその親友だった女性の話だ。結局その女性がその後どうなったのか、そしてファイがなぜ一人きりでここへやって来たのか、それは分からないままなのだから。
ただ、黒鋼にはどうしても言いたいことがあった。
「母さん」
「なぁに?」
「二人と知世には、感謝してる」
自分がいない間、父と母、そして知世が彼を少しずつ助け、支えてくれていたことは知っている。
今でこそ繁盛している猫の目だが、聞けば開店当初は悪質な嫌がらせもあったのだという。知世からそれを聞いたときは、暫くの間は腸が煮えたぎって仕方がなかったものだが。
畏まったように礼を述べる息子に、母は目を丸くした。黒鋼は遅れてやってきた照れ臭さから、すっかり温くなったビールの缶を掴むと勢いよく開ける。口の中に流し込んだそれは、ひたすら不味かった。ぐっと顔を顰めた黒鋼に、母は声を上げて笑っていた。
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