2025/08/26 Tue *繭の鳥籠から一年後くらいのお話です。 *甲洋は左足が麻痺して杖をつかないと歩けなくなっています。 *オマケの番外編もあります。 羽化の花籠 9歳の夏だった。 ぶら下げられた風鈴が、気休めに涼を奏でている。グラスの中では、さっきまでしゅわしゅわと騒がしかったサイダーが凪いでいた。うだる熱気に、氷がずいぶん小さくなっている。 赤らんだ光がさす縁側で、甲洋はぼんやりと庭を眺めて座っていた。群れからはぐれたひぐらしが、どこからか金切り声をあげている。 夕暮れを告げるその寂しそうな叫びに耳を傾けていると、背後で障子が開く音がした。 「甲洋、おまたせ!」 振り向くと、そこには浴衣を着た操が立っている。甲洋は思わず目を丸くしてしまった。今日はこれから二人で夏祭りへ行くことになっている。操が浴衣を着せてもらうというので待っていたのだが、その姿は想像していたものとはだいぶ違っていた。 操は袖を広げるようにしながら、軽やかにくるりと一回転して見せた。水色と桃色の朝顔が散りばめられた淡黄色の生地に、赤い帯が背中でリボン結びされている。それはどう見ても女の子が着る浴衣で、髪には帯と同じ赤い朝顔の飾りまでつけていた。 「ねぇにあう?」 似合うなんてもんじゃない。似合いすぎている。まるで本当に女の子のようで、甲洋は瞬きひとつできずにポカンとしたまま、見惚れることしかできなかった。 「これね、おれのお母さんがちっちゃいころにきてたんだって! おれもきたいって言ったら、おばあちゃんがきせてくれたの!」 「そ、そうなんだ。その……かわいい。すごく」 「ほんとぉ?」 「うん、すごく、ほんとう」 甲洋はさっきからずっと顔が熱くて、胸がドキドキするのを止められないでいた。そのせいか言葉につまり、短い単語をどうにか繋げるだけで精一杯だった。 操はまんまるの赤い頬で、嬉しそうに「えへへ」と笑った。生えてきたばかりと分かる、小さな白い前歯がちらりと覗いている。甲洋は初めて会ったときから、この天使みたいに可愛い笑顔の虜になっていた。 「次は甲洋くん、お着替えするからこっちにおいで」 すると仏間から操の祖母が顔をだした。甲洋に向かって、笑顔で手招きをしている。 「え? でも俺、浴衣なんて」 戸惑う甲洋に、彼女は「いいからいいから」と言ってなおも手招きをした。 「こうよーはやくぅー! おまつりはじまっちゃうよー!」 腰掛けたままの甲洋の手をとり、操がブンブンと振り回すようにしながら引っ張ってくる。遠慮がちに頷いて立ち上がると、仏間に足を踏み入れた。 そこで甲洋は生まれてはじめて甚平を着せてもらった。墨色に線香花火柄の甚平は、操の祖父が昔着ていた浴衣を、わざわざ甲洋のためにリフォームしてくれたものだった。 そういえばこの家を訪れた初日に、寸法を測られたことを思いだす。不思議に思ってはいたが、「内緒」と言われて教えてはもらえなかった。こんな手間暇をかけてもらうのは初めてのことで、あまりの嬉しさと感動に甲洋は何度も繰り返しお礼を言った。 準備が終わると、操の祖父が二人分のお小遣いを入れた巾着袋を渡してくれた。たくさん遊んでおいでと言われ、甲洋と操は声を揃えて元気に返事をした。 夏祭りの会場は、家から歩いてすぐの場所にある小さな神社の境内だった。朱塗りの鳥居をくぐった先には多くの屋台が立ち並び、頭上には紅白の祭提灯が張り巡らされている。太鼓や笛のお囃子が響き渡る境内を、近所中から集まった人々が行き交っていた。 「わー! すごい! ひとがいっぱい!」 「あ、待って! はぐれるといけないから」 祭の熱気に気をとられた操が、今にも走り出そうとするのを慌てて止める。ずっと繋いだままだった手と手が汗ばみ、離れそうになるのをしっかりと握り直した。 「はやくはやく! ねぇ、あっちにわたあめがあるよ! あっ、りんごあめ! きんぎょもいる! こうよ! ねぇはやくぅ!」 操は立ち並ぶ屋台に目を輝かせ、甲洋の手をぐいぐいと引っ張ってくる。 すっかり興奮して真っ赤になっている頬と、祭の明かりを反射してキラキラと光る大きな瞳。甲洋の胸も熱く高ぶり、ふたりは次から次へと鉄砲玉のように走り回っては屋台を巡り、もらったお小遣いを使い果たすくらいたくさん遊んで、たくさん食べた。 かき氷を食べて、アニメのお面を頭の脇にかぶって、綿あめの袋を腕にぶら下げながら、りんご飴にかぶりついて。射的では小さなクマのぬいぐるみを当てて、水風船は三つも釣り上げ、一つは落として割ってしまったけれど、仲良く一つずつ指からぶら下げる。 もうすぐ打ち上げ花火がはじまるからと、少し慌ててすくった金魚は真っ赤な和金と、黒い出目金が一匹ずつだった。 「きんぎょ、くろい子が甲洋で、あかいのはおれ!」 操が目線の高さまでビニール袋を持ち上げ、嬉しそうにしている。二匹の金魚はくるりと交差し、花びらのように淡いヒレを踊らせていた。小さな小さな、二匹だけの透明な世界。 赤い和金は黒の出目金よりもサイズが小ぶりで、可憐に見えた。確かに似ている。本当に自分たちを見ているような気がして、嬉しさに胸がきゅんと締めつけられる。 「こうよー! はやく行こ! 花火がよく見えるとこ、つれてってあげる!」 操が甲洋の手を引いて走りだした。小さな手だ。しっかりと握っていなければ、風船のようにどこかへ飛んでいってしまいそうで。だけどあまりにも力を込めてしまえば、簡単に握り潰してしまいそうな気もして、少し怖い。 だけどその小ささが、儚さが、とても可愛くて大切だった。守りたいと、強く思う。 「待って来主、そんなに慌てなくても平気だよ!」 祭の喧騒。煌めきと人波と。早まる鼓動に重なる太鼓。小さな歩幅の、可愛い朝顔。 ずっと大切に胸に刻んでいようと、甲洋は誓った。この夏の夜を、キラキラとした花火のような一瞬を。むせ返るような熱気の中で、幼い恋をしていたことを。 それなのに。 どうしてだろう。今はもう、なにも思いだせない。 小さな小さな、ふたりの世界。眩しい笑顔と、切ないほどに震える心、それから──それから? ──ごめん来主……ごめん……本当に、ごめんな…… あの二匹の金魚たちは、そのあとどうしたんだっけ。 * チリリン──。 風鈴が鳴る微かな音と、髪を撫でる優しい感触にふと目を覚ました。ぼんやりと滲んだままの視界で、ただゆっくりと瞬きを繰り返す。 いつの間に眠ってしまったのだろう。微睡んだままの意識をそっと導くように、柔らかなぬくもりが頬をなぞる。 「起きた?」 頭上からした声に誘われ、甲洋は視線を上へと向けた。優しげに細められた琥珀が見下ろしていて、目が合った瞬間、息を呑みながら飛び起きる。 「ッ!?」 咄嗟に声が出なかった。ぼぅっとしていたのが嘘のように、心臓が早鐘を打つ。頬に血液が集まっていくのを感じながら、甲洋は「ごめんなさい」と蚊の鳴くような声を搾りだした。 藍色の浴衣に赤い帯を結んだ大きな瞳の持ち主は、そんな甲洋の反応にパチパチと睫毛を踊らせてから、肩をすくめて微笑んだ。 「別にいいのに。謝らなくても」 「で、でも……」 思わず目を泳がせた先では、オトギリソウが揺れていた。夕暮れの庭には時おり風鈴の音が鳴り響き、その合間にひぐらしが声をあげる。夏の庭。その縁側で、甲洋は目の前の人の膝を枕に寝こけていたのだ。髪に触れていた優しい感触も、頬を撫でたぬくもりも、すべてこの人のものだった。 自分のせいで、彼はずっと動けずにいたに違いない。寝顔を見られていたことも恥ずかしいし、申し訳なさに甲洋はただ項垂れた。 「ねぇ、なんかごにょごにょって言ってたよ。夢でも見てた?」 萎れる甲洋を茶化すみたいに、目の前の人が悪戯っぽい笑みを浮かべた。 夢──そういえば、見ていたような気がする。だけどなにも覚えていない。不思議な懐かしさだけが、胸の奥底で小さく震えているような。 思いだそうとすればするほど、その振動はゆるやかに痛みを訴えはじめる。チクチクとした感覚に下唇を噛みながら、胸に手を押し当てた。 (いつも、こうだ) あの日。真っ白な病室で目を覚ましてから、ずっと。 とても大切だった気がするのに、粉々に砕け散ったものは小さな欠片すら残っていない。どんな形をしていたのかさえ、甲洋には分からなかった。そこには空っぽの手の平と、かじかむように痛む心があるだけだ。 「そろそろ準備しよっか。浴衣を着せてあげるね」 「……え?」 キョトンとすると、「今日はお祭りに行く約束でしょ」と楽しげに言われた。歌うように言葉を紡ぐ人だと、甲洋は思う。来主操。目覚めてからずっと、甲洋の世界には彼しかいない。 だからこの人の言うことには頷いておけば間違いはないのだけれど、それでも甲洋は彼の顔色をうかがいながら、つい遠慮してしまう。 「あの……来主さん。俺、浴衣なんて」 持っていない。むしろ自分のものなんて、この家にはなにひとつないのだ。少なくとも、甲洋はそう思っている。 「来主」 「え?」 「さんはいらないって、いつも言ってるのに」 操は眉間にきゅっとシワを寄せ、小さな子供のように唇を尖らせる。 そんな顔をされても困ってしまうだけだ。甲洋にとっての操は、目上の存在という認識しかない。どれだけ指摘されようとも、気安く呼び捨てなんてできるわけがなかった。 『前』にいた自分がどうだったにせよ、『今』の甲洋には難しすぎる。 「まぁいいや」 そう言って立ち上がった操はどこか寂しそうに睫毛を伏せていたが、すぐに背を向けると障子を開いた。薄暗い仏間に足を踏み入れ、振り向いたときにはいつもの甘ったるい笑顔に戻っている。 「おいで、甲洋。浴衣、きっと似合うよ」 生ぬるい夏の風にくすぐられ、風鈴がまた微かな音を立てた。 * 一年前。あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。 初夏の日差しに染まった病室。乾いた唇に押し当てられた熱と、泣きながら笑った操が、歌うように囁いた愛の言葉。あのときの甲洋は混乱していた。たくさんの「どうして」で、頭の中がいっぱいだった。 どうして、どうして、どうして──? 見知らぬ病室。会ったこともない、知らない他人。だけどその人は、甲洋のことが好きだと言う。世界で一番、誰よりも愛しているのだと。潤んだ瞳を大切そうに細めながら、甲洋のことを「神様」と、そう言った。 悪い夢でも見ているような世界で、その言葉だけが甲洋の胸を深く刺し貫いた。戸惑いと混乱に染まる思考を、燃えただれるような幸福に絡め取られながら。 だけどその後の甲洋を待っていたのは、受け入れがたい多くの現実でしかなかったのだ。 甲洋には9歳までの記憶しかなかった。厳密には9歳の夏、一人で船に乗って故郷を旅立った、あの瞬間までの記憶しか。そこからぷっつりと途切れて、目覚めたときには24歳の大人の男になっていた。二年前に大怪我をして、ずっと眠っていたらしい。 15年もの空白を埋めるすべなどあるはずもなく、その事実を受け入れることすら難しかった。きっと全てが夢なのだ。退屈な船旅で、つい居眠りをしてしまった。これはそんな自分が見ている、ただの夢なのだと。 けれどいつまで経っても夢は醒めなかった。そうしているうちに、甲洋は病院からリハビリセンターに移ることになった。甲洋の身体は、怪我の後遺症で左半身の手足に麻痺が残っていた。 甲洋はそこで半年ほど治療を受け、ある程度の機能は回復させることができた。足の麻痺だけはまだ残っているが、杖をつけば一人での歩行も問題ない。今は操の家で暮らしながらリハビリを行い、定期的に通院しながら療養している。甲洋は、25歳になっていた。 * 「やっぱり! よく似合ってる!」 操の手を借りて着せられたのは、淡く黄色がかった生成りの生地に、かすり縞の入った浴衣だった。黒い帯を結んでくれた操が、甲洋の背をポンと叩いて満足そうにしている。 「かっこいいよ! すごく!」 「あ、ありがとう」 気恥ずかしさに頬を染めれば、「ふふ」と嬉しそうに笑った操が部屋の隅から姿見を引っ張り寄せる。そこに映し出された自分の姿を見て、甲洋はまるで赤の他人と向き合っているような感覚を覚えた。 長い手足と広い肩幅。幼さが削げ落ちた頬に、伸びた焦げ茶の癖毛が張りついている。25歳の大人の瞳が、幼いまま取り残された自分を見ていた。 (こんなの、俺じゃない) 自分の身体は、もっと小さかったはずだ。父が気まぐれでプレゼントしてくれたTシャツは、まだ9歳の甲洋には少し大きいくらいだった。だけどとても嬉しくて、大切で、いつまでも着ていたいと思っていたのに。 そういえばあのTシャツは、今どこにあるんだろう。リュックに詰めたはずの夏休みの宿題も、日記帳も、筆箱も。ここにあるのは自分じゃない誰かの私物ばかりだ。着替えだとか、腕時計だとか、食器でさえも。それらがすべて君のものだと言われても、ひとつも実感を得られない。 「甲洋」 やり場のない感情を、ただ鏡に映る男を睨みつけることで堪えていた甲洋は、その声にハッとして振り向いた。操は甲洋と向き合うと、浴衣の襟を軽く指先で整えてくれる。 「これでよしっと」 「あの、ごめんなさい」 「うぅん、いいの。ねぇ、ちょっと屈んでよ」 「?」 操が甲洋の両肩に手を置いて、軽く背伸びをする。甲洋は疑問符を浮かべながら軽く身を屈めた。すると白い両手に頬を包まれ、ちゅっという音を立てながら唇同士が触れ合った。 「ッ、わっ!?」 甲洋は顔を真っ赤にしながら身体を跳ねさせ、腰が引けた状態で硬直した。けれど脇の下から回ってきた操の腕に背中を抱かれて、さらに身動きがとれなくなってしまう。 「あ、あ、あのっ、来主、さん」 「いっつもしてるじゃん。そろそろ慣れてよ」 「な、慣れ……? そんなの、無理に決まって……」 「おれは君のものなのに」 絶句。火がついたみたいに顔が熱い。操は甲洋の胸に頬を押しつけていて、今にも爆発しそうになっている心臓の音を聞かれていると思うと、どうしたらいいか分からなくなる。グルグルと目が回り、今にも倒れてしまいそうだった。 昔ここにいた自分なら、もっと当たり前のように受け止めていたのだろうか。されるばかりじゃなく、自分から彼を引き寄せていたのだろうか。 「好きだよ」 「ッ!」 「大好き。おれの神様」 粟立つ皮膚に、呼吸がとまる。胸が痛くて苦しくて、ただ泣きたくなった。 こんなとき、甲洋の中にはやっぱり幾つもの「どうして」が渦を巻く。この人のことを、自分はなにも知らないのに。どうして、どうして、どうして。どうしてこんなに、嬉しいんだろう──? 所在なく宙を彷徨っていた両手で、恐る恐る操の肩に触れようとした。抱きしめてくれるこの人を、同じように抱きしめてみたいと思ったから。だいじょうぶ。だって、こんなに好きだと言ってくれる。優しく、大切にしてくれる。だからきっと、触れたって許される。 「お祭り、また君と一緒に行けて嬉しい」 「!」 「今日はいっぱい遊ぼうね」 しみじみと言いながら顔をあげた操は、懐かしそうに目を細めて笑っていた。その綺麗な瞳には、呆然とした表情を浮かべた見知らぬ男が写り込んでいる。 (これは、俺じゃない) この人が見ているのは。 (俺じゃないんだ) 一緒にお祭りに行きたいのも、キスをしたいのも、愛しているのも。 甲洋は今にも触れそうになっていた指先を、そっと両脇に下ろしてしまう。触れていいのはこの手じゃない。だって甲洋には、一度だって操とお祭りへ行った記憶がないのだ。思い出なんかひとつもなくて、この人のことを、やっぱりなにも知りはしない。 「はい」 今の甲洋にできるのは、ただ曖昧に笑って頷くことだけだった。 * 長い入院とリハビリ生活の中で、甲洋は待っていた。 思い通りにならない半身。自分の記憶の中にあるよりも長い手足。鏡に映る見知らぬ自分と、失ったという実感すらない空白の時間。そのすべてに怯えながら、両親のことを。 来ないことは分かっていた。来てくれるはずがない。だって自分は家族じゃないから。だから旅行にだって連れて行ってはもらえなかった。あの人達の中に自分という存在がどこにもいないことを、甲洋はちゃんと知っていた。 それでも会いたかった。迎えに来てほしかった。淡い期待を、どうしても捨て去ることができなかった。 そんな甲洋のそばに、いつも寄り添ってくれたのが来主操だった。遠い親戚の家の子。自分より年下の、まだ小学校に上がったばかりだと聞いていたはずの子供。 青年の姿をした彼は、毎日のように甲洋のもとを訪れた。いつまでたっても来てくれない両親の代わりに、甲洋を守るようにそっと優しく、抱きしめてくれた。髪を撫で、愛おしそうに目を細めて、顔中に小さなキスを降らせて。大好きだよと、ずっと一緒だよと、何度も何度も震える甲洋に言い聞かせた。 リハビリセンターから来主の家に移っても、それは変わらなかった。両親がなにひとつ与えてくれなかったもの。あるいはそれ以上のものを、操は惜しみなく与えてくれる。 爪の先まで痺れるような嬉しさに怯えながら、その愛情に溺れてしまえたらどんなによかっただろう。操がときどき聞かせてくれる、甲洋と過ごした日々の思い出。それを語るときの彼は、いつも懐かしそうにどこか遠くを見つめている。甲洋を通して、甲洋じゃない誰かのことを。 それがとても大切なものであったことだけは分かるのに。どんな話を聞かされても、甲洋にはどこかまったく別の国のお伽噺のようにしか思えなかった。記憶にないものは、最初から『無い』も同然だ。 だから操の中にも、自分の存在なんかどこにもいないのかもしれない。むしろ本当は、この世界のどこにも。あの日、一人ぼっちで船に乗り込んだ、あの夏の日。泣きそうな瞳で海を見つめていた9歳の春日井甲洋は、もうとっくに死んでいるのかもしれない。 * 来主の家から神社までの道のりを、甲洋は左手に杖をつきながら歩いていった。操は甲洋の右手をしっかりと握りしめ、注意を払いながら足並みを揃えてくれる。 少し小高い位置にある神社の石段をゆっくりと登っていくと、朱塗りの立派な鳥居が見えた。そこをくぐると蒸し暑さが一段と増し、煌々と提灯が輝く祭の風景が広がっている。 射的にくじ引き、かき氷だとか綿あめだとか、多くの屋台がひしめき合うなか、夏草の香りを掻き消すように焦げたソースの匂いが漂っていた。 「わぁ……」 甲洋は思わず声をあげていた。多くの人の喧騒と、日常から切り離されたような祭の空間。不思議な音色のお囃子に、色とりどりの屋台の品物。今にも走って飛び込んでいきたいような高ぶりに、ワクワクとした気持ちが止まらない。 「人がいっぱいだね。あ、そうだ」 「?」 操は空いている方の手にぶら下げていた小さな巾着袋を、甲洋の浴衣の袖にグイッと押し込んできた。 「お小遣いいっぱい持ってきちゃった。君が持ってて」 「え、でも」 「だっておれ、ぜったい落とすもん」 普通は大人がお金を持ち歩くものだと思うのだが。困惑しつつ、けれど確かにこうしたほうが安心な気もする。こんなことを思うのはとても失礼な話だけれど、人混みの中で気づいたら財布を失くしている操の姿が、なぜか容易に想像できてしまった。 この人は大人だが、妙に子供っぽくてそそっかしいところがある。そういえば肉体的な年齢だけなら、自分の方が年上でもあるのだった。ちぐはぐだなと、甲洋は思う。 「……わかりました。俺が持ってます」 「えへへー、お願いね!」 重圧から開放されたとばかりに笑う操に、甲洋にも自然と笑みが浮かんだ。そうか、自分は頼られているのかと、そう思うと急に誇らしくなってくる。 「今日は特別な日だもん! いっぱい遊ぼ! 君も好きなもの、なんでも買っちゃっていいよ!」 「えっ、さすがにそれは……」 「いいの! ほら行くよ! お腹空いたから、なんか食べたい!」 操が甲洋の腕をぐっと引っ張る。麻痺した片足が少しグラついたが、それ以上の強引さはなかった。この人だって、きっと今にも駆けだして行きたいはずなのに。はやる気持ちを抑えながらも、甲洋に合わせようとしてくれる。 申し訳ないのに、喜びのほうが勝っていた。この人は、絶対に俺を置いていったりしないのだと。祭の熱気に高鳴る胸が、今だけは甲洋から卑屈な感情を奪い去っていた。 * それから二人はたこ焼きやらイカ焼きやら、目についたものを片っ端から食べてお腹を満たした。操はさらにクレープまで食べて口の横を汚し、そのことに全く気がつかないものだから、甲洋は肩を震わせて笑ってしまうのを止められなかった。 そのあとは射的をして、くじを引いて、ヨーヨーを釣って、ラムネを飲んで一息ついたあと、金魚すくいをやることになった。 「よぉーし! 一番おっきな金魚とるから! 見ててよ!」 プラスチック製の大きなタライの前にしゃがんだ操が、ポイを片手に腕まくりをしている。水が張り巡らされたタライの中では、金魚たちが所狭しとひしめき合って泳いでいた。 甲洋はその斜め後ろに立って、杖で身体を支えながら操の手元を覗き込む。彼は水に浸したポイで、狙った金魚を執拗に追い回していた。 「あっ、待って! あっ、あー! 破けたぁ!」 「あはははは! 下手だねぇ操ちゃん!」 「もー! あとちょっとだったのに! おじさん、もう一回!」 「はいよ!」 破れたポイを交換してもらった操が再び狙いを定めているとき、甲洋はふとなにかに誘われるように顔をあげて、とある露店の一角に目をやった。そこには手作りの雑貨品を並べている店がある。 どうして気になったのかは分からない。だけど甲洋は一瞬だけ操に目をやったあと、杖をつきながらそこに向かった。 テーブルの上にはぬいぐるみやブレスレットなど、子供や女性が喜びそうな雑貨品がずらりと並べられている。その中から、甲洋は一つだけある髪飾りに強く惹かれた。水色と桃色の朝顔を模した、つまみ細工の髪飾りだ。 矢も盾もたまらず、甲洋は店主に声をかけるとその髪飾りを購入した。 「甲洋ー! いたいた! 駄目じゃん一人で勝手にどっか行ったら!」 会計が済んで戻ろうとしたところで、先に操が駆け寄ってきた。彼は手に金魚が入ったビニール袋をぶら下げている。 「えへへー! じゃーん! 見て見て! 金魚!」 操が掲げた袋の中では、赤い和金と黒い出目金がゆったりと漂っていた。 「この黒い子、おっきいでしょ? この子が欲しかったんだ! ちょっと君に似てるから」 「俺に?」 「うん! 赤い子はね、おじさんがオマケで入れてくれた!」 甲洋は改めてビニールの中の金魚を見た。鮮やかな赤いヒレと、大きな黒いヒレが花びらのように揺れている。大勢の金魚たちの中から選ばれた二匹だけが、隔離された透明な世界で口をパクパクとさせながら身を寄せ合っていた。 甲洋は金魚から目が離せなくなった。さざ波のように押し寄せてくる、この懐かしさはなんだろう。小さな世界。寄り添う二匹。赤と黒。いつかどこかで、これと同じ光景を見たような──。 「ねぇ、甲洋はなにしてたの?」 「……あ」 魅入られていた甲洋は、首を傾げる操に小さく息を呑んだ。それから、手の中にあるつまみ細工に視線を落とす。 似ていると思った。この髪飾りを見たときの気持ちと。懐かしさと切なさに追い立てられて、迷う暇もなく買っていた。この朝顔は、きっと操に似合うはずだと。 「それ、朝顔?」 操が目を丸くしている。甲洋は少し緊張しながら、その髪飾りを操の左耳の脇に持っていくと、そっと髪に挿し込んだ。上手く固定されたのを確認して、ホッと息をつきながら笑みを浮かべる。 「やっぱり、よく似合う」 「甲洋……? これ、おれに?」 「あっ……すみません、勝手にこんな……」 すぐにハッとして顔をうつむけた。いくら好きなものを買えと言われたからって、考えなしにとってしまった行動を、操はどう思っただろう。おそるおそるその顔に目をやると、彼は頬を赤らめながらポカンと口を開けている。 判断しがたいその反応に、甲洋はさらに申し訳なくなって萎縮した。なにをしているんだろう。大体、この人は男の人だ。女の子がつけるものを貰って、喜ぶはずがないのに。 「ぁ、あの」 「嬉しい」 「え?」 「ありがとう」 見開いた視線の先で、操が笑顔を浮かべていた。溶けだしそうにとろんと瞳を潤ませて、赤い頬をして、胸が痛くなるくらい綺麗に、可愛く。 その笑顔に、甲洋も少しだけポカンとしながら頬を赤らめた。不思議な懐かしさに駆られて手にとった髪飾り。朝顔の花が、柔らかな亜麻色の髪に咲いている。 思った通り、よく似合う。祭の煌めきの中で、操は誰よりも輝いて甲洋の目に映った。 「……あ、そうだ。甲洋、もうすぐ花火がはじまるよ!」 互いに赤い顔をしたままの気恥ずかしい空気を、操の明るい声がうまく壊した。彼は甲洋の横に移動すると、来たときと同じように右手をぎゅっと握ってくる。 「ここは人が多いし。もっとゆっくり見られるところ、連れてってあげるね!」 甲洋が小さく笑って頷くのと同時に、操が少し焦ったように一歩踏みだす。そのとき下駄を履いた足先が引っかかるようにカラリと鳴って、操の身体が前のめりに傾いた。 「あっ!」 手からぶら下げているビニールの中で、金魚のヒレが大きくはためく。 「危ない!」 甲洋は握っていた手に力を込め、腕力だけで操の身体を引っ張り上げた。転倒を免れた操はすぐに金魚が入ったビニールを見て、二匹の無事を確かめると、ホッとしながら甲洋を見上げる。甲洋もまた深く安堵しながら口を開いた。 「今度は、失くさないで」 失くさないで──。 「え……?」 操が瞳を大きく見開く。甲洋も驚いて、しきりに瞬きを繰り返した。 それは無意識に口から出た言葉だった。だけどどうして? 今度、という言葉が今をさしているのなら、自分は一体いつの出来事と照らし合わせて、さっきの言葉を放ったのだろう? 訳が分からず呆然とする甲洋に、ゆっくりと目を細めた操が「うん」と頷いた。 * 神社から石段を下って、祭の会場から少し離れた位置まで移動するあいだ、ふたりは一言も声を発さなかった。 車一台が通れる程度の狭い道。濃い夏草の香りが少し湿った空気に立ち込め、遠ざかる祭囃子の代わりに、ケラやキリギリスといった虫たちが鳴いている。等間隔に立っている街灯が、うっすらと辺りを照らしていた。 「……子供の頃にね」 虫たちのささめきの中で、操がポツリと口を開いた。 「一緒に夏祭りに行ったときのこと、覚えてる?」 甲洋は驚いた。操はよく昔の話を聞かせてくれるが、こうして問いかけてくることは、今まで一度もなかったからだ。 「なにも……」 覚えていない。ゆるく首を振りながらそう答えるしかない甲洋に、操はふと足を止めると正面に回ってきて、追いすがるような目で「本当に?」とさらに問いを重ねてくる。 「……ごめんなさい」 薄闇の中で目を逸らす。喧騒が消え、祭囃子すらうっすらとしか聞こえない夜の道には、いっときだけ忘れることができていた現実が明確に広がっている。夢のような時間は、とっくに終わってしまっていた。 「そっか」 操は髪に咲く朝顔を指先でそっと撫でながら、淋しげに微笑んだ。 「昔ね、一緒に行ったお祭りでも、金魚をとったんだ。この子たちと同じ。赤と黒の」 その声に耳をすませながら、甲洋は左手に持つ杖を強く握りしめる。 「嬉しくてはしゃいでたら、おれ、転んじゃったんだ。そしたら金魚……すぐに弱ってダメになっちゃって。花火も見ないで、ずっと泣いてた」 甲洋の脳裏に、つい先ほどの光景がよぎっていく。操は真っ先に金魚の無事を確かめていた。甲洋もまた、意識せず深い安堵を覚えたのだ。無事でよかったと。もう失くしたくないから。この人に、泣いてほしくないから。 過去にそんなことがあったなんて、ひとつも覚えてないくせに。 「そのときね、なぜか甲洋は、おれに何度も何度も謝ってきたんだ。来主が転んだのは自分のせいだって。隣にいたのに、守れなかったって」 とつぜん、虫たちの声がピタリと止んだ。あれほど騒がしかったのに、なにかを予感したみたいに。 うつむきがちだった操が顔をあげた。ずっと遠くを見ているみたいに、寂しい瞳で。小さく笑って、懐かしそうに甲洋を見つめる。 「君っていつもそう。なにも悪くないのに、悪いのはおれなのに、いつもそうやって──」 ヒュウという音がして、頭上で大きな花火が上がった。色鮮やかな大輪の花が、真夏の夜空に咲き誇る。幾つも幾つも、祭の終わりを告げながら。甲洋と操はただ静かに、散っていく花びらを見つめ続けた。 どうしてだろう。同じ一瞬を生きているのに、同じ景色を見ているのに、どうしてこんなに遠いんだろう。確かに繋がれていたことだけは分かるのに、甲洋にはそのほつれた結び目を手繰り寄せるだけの力すらなかった。 (……大っ嫌いだ。俺は、俺のことが) 甲洋は、来主操と共に生きていたはずの春日井甲洋のことが憎かった。憎くて憎くて、そして羨ましかった。どんなに優しくされても、愛していると言われても、それは甲洋のものには決してならない。 だから悔しかった。虚しかった。悲しかった。勝手に生きて、勝手にいなくなってしまった見知らぬ自分。甲洋は甲洋に、嫉妬していた。 「帰ろっか」 花火が終わると、再び虫たちが鳴きはじめた。祭りのあとの寂しさを、火薬混じりのぬるい風がさらっていく。 操は甲洋にそっと手を差し出した。けれど甲洋は、その手を取ることができなかった。 「ごめんなさい」 操がことりと、首を傾げる。 「どうして謝るの?」 「……あなたの大事なものを、俺は返してあげられない。あなたが一緒に生きてきたのも、これからも一緒にいたいと思っているのも、俺じゃないのに」 操の顔が滲んでいく。切り裂かれるような胸の痛みと、悔しさと、罪悪感。甲洋は耐えるように一度だけ下唇を噛み締めたあと、吸い込んだ息を震わせながら吐きだした。 「それでも俺には、あなたしかいない。あなたに優しくされるのが嬉しい。大事にしてもらえるのが嬉しい。あなたに好きだって言ってもらえるのが嬉しい。俺は、あなたのことが……」 好きだとは、言えなかった。言えばなにもかもが壊れてしまいそうな気がした。あのときだってそうだ。甲洋は両親に「俺も一緒に行きたい」という、たった一言が言えなかった。自分だけ親戚の家になんか行きたくない。一人で船に乗るなんて嫌だ。父さんと母さんと、一緒にいたい──。 言えばどんな答えが返ってくるか、分かっていたから。お前なんか必要ないのだと、思い知らされるのが怖かった。だから甲洋は、自分の気持ちを伝えることができなかった。 「帰ります。一人で」 どうしようもなく逃げだしたい気持ちになって、甲洋は操に背を向けた。家の方向とはまったく違っていたけれど、それでもいいから今すぐ姿を消してしまいたかった。 「甲洋……!」 走れないことにもどかしさを覚えながら、杖をついて必死で足を引きずった。気持ちばかりが焦って、思い通りにならない身体にまた悔し涙が込み上げる。するとその焦燥が麻痺した足をもつれさせ、甲洋は転んで膝をついてしまった。杖が遠くに弾け飛ぶ。 「ッ……!」 「だいじょうぶ!?」 操がすぐに駆けつけて、甲洋のそばに膝をつく。正面から肩を支えられ、甲洋はその情けなさにいよいよ泣くのを我慢することができなかった。 「君が転んでどうするのさ」 操が少しだけ呆れたように笑った気がする。だけど甲洋はその顔を見ることができなかった。涙が溢れて、次から次へと頬を伝っていく。 「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん、なさ……っ」 恥ずかしい。情けない。悔しくて悲しくて、自分なんか、早く消えてしまえばいいと思う。身体だけは大きいくせに、中身は小さな子供のままで。一人では逃げだすことさえ、できやしなくて。好きな人に、好きだと告げる勇気もない。 (俺なんか、どうせどこにもいないんだから……!) 身を震わせて泣く甲洋の頬に、白い指先がそっと触れた。思わず肩をビクリと跳ねさせ、咄嗟に顔を上げた瞬間、唇同士が軽く触れ合う。 「んッ……!」 「ごめんはもう禁止」 呆然とする甲洋に、操が優しく笑いかける。驚いた拍子に涙はスッと引いてしまった。ただ顔が熱くて、なにも言うことができなくなる。 操は潤んだ瞳をまっすぐ見つめて、「好きだよ」と言った。胸が痛くて、甲洋はくしゃりと表情を歪ませる。こんなに苦しいのに。悔しくて悲しいのに。飢えた心はその言葉を待ちわびていた。 「言ったでしょ。世界でいちばん愛してるって」 小さな白い手が、甲洋の両頬を包み込む。柔らかくて、とても優しい。 「君は君だよ。一人しかいない。おれが大好きな甲洋は、ちゃんとここにいるよ」 歌うような操の言葉。胸が震えて、締めつけられる。ツルが巻きつくように甲洋の心に絡みつき、がんじがらめにしてしまう。 「君が失くしてしまったものは、全部おれが持ってるから。だから……もう離さないで。これからの記憶は、甲洋がずっと持っててよ」 ──今度は、失くさないで。 操が細い手首にかけている紐の先で、二匹の金魚が揺れていた。赤と黒の、花びらみたいに綺麗な命。少しでも傷をつければ、たちまち壊れて消えてしまう。二匹だけの、脆くて透明な、繭のように小さな世界。 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、幼い笑顔の朝顔が脳裏によぎった気がした。握りしめた小さな手の感触が。甲洋は頬に触れている操の手の甲に、自分の手の平をかぶせてみる。小さな手。そっと握りしめて、また少し、泣きたくなった。 「大好きだよ甲洋。おれの神様……お願い、もうどこにも行かないで」 切なく顔を歪めた操が、甲洋に身を寄せてくる。するりとほどけた手を首にまわして、懸命にしがみついてくる。その身体は迷子のように震えていた。大人なのだと思っていた彼が、急に儚い存在に感じられてしまったとき、甲洋は気がついた。 自分がいなくなったら、きっとこの人は死んでしまう。地面に叩きつけられた金魚のように、ゆっくりと、けれど確実に、呼吸を止めてしまうだろうと。だから。 (俺が、俺だけが──) この人を生かすことができるのだと。 指先まで痺れるような感覚に喉を鳴らしながら、甲洋は震える手で操の両肩に触れた。すっぽりと収まってしまうくらい細い肩。こんなに小さな人だったのかと、今さら気づいてまた胸が締めつけられる。甲洋はそのまま操の身体を抱きしめた。そして気づいた。 (この人が、俺を俺にしてくれるんだ) 腕に抱いたぬくもりに、自分という存在を確かに感じた。操が甲洋を、甲洋にしてくれる。まるでたったいま生まれたみたいに。一人ぼっちで船に乗り、泣きながら見つめていた海の青さが、遠い過去になっていく。 今はただ、この人に出会えたことが嬉しかった。ここにいることが。生きていることが。 (俺はちゃんと、ここにいる!) 操と生きていた春日井甲洋という男を、甲洋はこのとき初めて己の一部として許すことができたような気がした。自分自身の存在と共に。 「俺も」 だから強くなりたい。心の底からそう思う。 「俺も好きだ。あなたのことが……操のことが」 「ッ!」 操の肩がビクンと跳ねた。咄嗟に顔を上げた彼は、大きな目をさらに大きく見開いている。 「み、操って……? なんで、名前……?」 「ダメ、かな?」 「だ、ダメじゃない! ダメじゃないけど! だって、ずっと来主って! 今まで一度も、名前なんて……うわ、なにこれ? 変なのぉ……!」 操の頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。両手で自分の頬を包み込んで、涙ぐみながらあっちこっちに目を泳がせている。赤みは耳にまで広がって、やがて首筋まで染め上げた。甲洋は操が嫌がっているわけではないことにホッとした。 過去の自分に嫉妬している気持ちが、心の中から完全に消えてしまったわけではない。だから少しでも、別のなにかで張り合いたくて。 (呼べばよかったのに。そんな勇気、なかったんだろうな) 自分のことだから、分かる気がする。多分きっと、とても不器用にこの人のことを愛していたのだ。強く深く、恐れながら、もがくみたいに。 気がつけば、微かに聞こえていたはずの祭囃子が消えていた。生ぬるい夏の風が、少し強く吹き抜ける。虫たちは思うがままに声をあげ、広い世界で短い時を生きていた。 操はおずおずと顔をあげ、真っ赤な目元で甲洋を見た。懐かしそうに、恥ずかしそうに。朝顔が咲く髪を夏草の風に踊らせながら、「嬉しいな」と言って、笑った。 「だってまた、君と恋ができる」 最初から、今度こそもう一度。 甲洋は、彼を下の名前で呼ぶ以上の勇気を振り絞って、その肩を抱きながら身を屈めていった。操がゆっくりと目を閉じる。くちづけは、ほんの一瞬だけ触れ合わせるので精一杯だった。 「帰ろ、甲洋」 ビニール袋の中で、二匹の花が交差する。甲洋は頷いて、杖を引き寄せると立ち上がった。足を引きずる狭い歩幅に、操の小さな歩幅がぴたりと寄り添う。 熱をこもらせたコンクリートの道のりが、まっすぐまっすぐ、伸びていた。甲洋は操と手を繋ぎながら、ふたりだけの古色の家へと、帰っていった。 羽化の花籠 / 了 ※甲洋くんの記憶ちゃんと戻らないとヤダ~!という方はこちら→オマケの番外編 ←戻る ・ Wavebox👏
*甲洋は左足が麻痺して杖をつかないと歩けなくなっています。
*オマケの番外編もあります。
羽化の花籠
9歳の夏だった。
ぶら下げられた風鈴が、気休めに涼を奏でている。グラスの中では、さっきまでしゅわしゅわと騒がしかったサイダーが凪いでいた。うだる熱気に、氷がずいぶん小さくなっている。
赤らんだ光がさす縁側で、甲洋はぼんやりと庭を眺めて座っていた。群れからはぐれたひぐらしが、どこからか金切り声をあげている。
夕暮れを告げるその寂しそうな叫びに耳を傾けていると、背後で障子が開く音がした。
「甲洋、おまたせ!」
振り向くと、そこには浴衣を着た操が立っている。甲洋は思わず目を丸くしてしまった。今日はこれから二人で夏祭りへ行くことになっている。操が浴衣を着せてもらうというので待っていたのだが、その姿は想像していたものとはだいぶ違っていた。
操は袖を広げるようにしながら、軽やかにくるりと一回転して見せた。水色と桃色の朝顔が散りばめられた淡黄色の生地に、赤い帯が背中でリボン結びされている。それはどう見ても女の子が着る浴衣で、髪には帯と同じ赤い朝顔の飾りまでつけていた。
「ねぇにあう?」
似合うなんてもんじゃない。似合いすぎている。まるで本当に女の子のようで、甲洋は瞬きひとつできずにポカンとしたまま、見惚れることしかできなかった。
「これね、おれのお母さんがちっちゃいころにきてたんだって! おれもきたいって言ったら、おばあちゃんがきせてくれたの!」
「そ、そうなんだ。その……かわいい。すごく」
「ほんとぉ?」
「うん、すごく、ほんとう」
甲洋はさっきからずっと顔が熱くて、胸がドキドキするのを止められないでいた。そのせいか言葉につまり、短い単語をどうにか繋げるだけで精一杯だった。
操はまんまるの赤い頬で、嬉しそうに「えへへ」と笑った。生えてきたばかりと分かる、小さな白い前歯がちらりと覗いている。甲洋は初めて会ったときから、この天使みたいに可愛い笑顔の虜になっていた。
「次は甲洋くん、お着替えするからこっちにおいで」
すると仏間から操の祖母が顔をだした。甲洋に向かって、笑顔で手招きをしている。
「え? でも俺、浴衣なんて」
戸惑う甲洋に、彼女は「いいからいいから」と言ってなおも手招きをした。
「こうよーはやくぅー! おまつりはじまっちゃうよー!」
腰掛けたままの甲洋の手をとり、操がブンブンと振り回すようにしながら引っ張ってくる。遠慮がちに頷いて立ち上がると、仏間に足を踏み入れた。
そこで甲洋は生まれてはじめて甚平を着せてもらった。墨色に線香花火柄の甚平は、操の祖父が昔着ていた浴衣を、わざわざ甲洋のためにリフォームしてくれたものだった。
そういえばこの家を訪れた初日に、寸法を測られたことを思いだす。不思議に思ってはいたが、「内緒」と言われて教えてはもらえなかった。こんな手間暇をかけてもらうのは初めてのことで、あまりの嬉しさと感動に甲洋は何度も繰り返しお礼を言った。
準備が終わると、操の祖父が二人分のお小遣いを入れた巾着袋を渡してくれた。たくさん遊んでおいでと言われ、甲洋と操は声を揃えて元気に返事をした。
夏祭りの会場は、家から歩いてすぐの場所にある小さな神社の境内だった。朱塗りの鳥居をくぐった先には多くの屋台が立ち並び、頭上には紅白の祭提灯が張り巡らされている。太鼓や笛のお囃子が響き渡る境内を、近所中から集まった人々が行き交っていた。
「わー! すごい! ひとがいっぱい!」
「あ、待って! はぐれるといけないから」
祭の熱気に気をとられた操が、今にも走り出そうとするのを慌てて止める。ずっと繋いだままだった手と手が汗ばみ、離れそうになるのをしっかりと握り直した。
「はやくはやく! ねぇ、あっちにわたあめがあるよ! あっ、りんごあめ! きんぎょもいる! こうよ! ねぇはやくぅ!」
操は立ち並ぶ屋台に目を輝かせ、甲洋の手をぐいぐいと引っ張ってくる。
すっかり興奮して真っ赤になっている頬と、祭の明かりを反射してキラキラと光る大きな瞳。甲洋の胸も熱く高ぶり、ふたりは次から次へと鉄砲玉のように走り回っては屋台を巡り、もらったお小遣いを使い果たすくらいたくさん遊んで、たくさん食べた。
かき氷を食べて、アニメのお面を頭の脇にかぶって、綿あめの袋を腕にぶら下げながら、りんご飴にかぶりついて。射的では小さなクマのぬいぐるみを当てて、水風船は三つも釣り上げ、一つは落として割ってしまったけれど、仲良く一つずつ指からぶら下げる。
もうすぐ打ち上げ花火がはじまるからと、少し慌ててすくった金魚は真っ赤な和金と、黒い出目金が一匹ずつだった。
「きんぎょ、くろい子が甲洋で、あかいのはおれ!」
操が目線の高さまでビニール袋を持ち上げ、嬉しそうにしている。二匹の金魚はくるりと交差し、花びらのように淡いヒレを踊らせていた。小さな小さな、二匹だけの透明な世界。
赤い和金は黒の出目金よりもサイズが小ぶりで、可憐に見えた。確かに似ている。本当に自分たちを見ているような気がして、嬉しさに胸がきゅんと締めつけられる。
「こうよー! はやく行こ! 花火がよく見えるとこ、つれてってあげる!」
操が甲洋の手を引いて走りだした。小さな手だ。しっかりと握っていなければ、風船のようにどこかへ飛んでいってしまいそうで。だけどあまりにも力を込めてしまえば、簡単に握り潰してしまいそうな気もして、少し怖い。
だけどその小ささが、儚さが、とても可愛くて大切だった。守りたいと、強く思う。
「待って来主、そんなに慌てなくても平気だよ!」
祭の喧騒。煌めきと人波と。早まる鼓動に重なる太鼓。小さな歩幅の、可愛い朝顔。
ずっと大切に胸に刻んでいようと、甲洋は誓った。この夏の夜を、キラキラとした花火のような一瞬を。むせ返るような熱気の中で、幼い恋をしていたことを。
それなのに。
どうしてだろう。今はもう、なにも思いだせない。
小さな小さな、ふたりの世界。眩しい笑顔と、切ないほどに震える心、それから──それから?
──ごめん来主……ごめん……本当に、ごめんな……
あの二匹の金魚たちは、そのあとどうしたんだっけ。
*
チリリン──。
風鈴が鳴る微かな音と、髪を撫でる優しい感触にふと目を覚ました。ぼんやりと滲んだままの視界で、ただゆっくりと瞬きを繰り返す。
いつの間に眠ってしまったのだろう。微睡んだままの意識をそっと導くように、柔らかなぬくもりが頬をなぞる。
「起きた?」
頭上からした声に誘われ、甲洋は視線を上へと向けた。優しげに細められた琥珀が見下ろしていて、目が合った瞬間、息を呑みながら飛び起きる。
「ッ!?」
咄嗟に声が出なかった。ぼぅっとしていたのが嘘のように、心臓が早鐘を打つ。頬に血液が集まっていくのを感じながら、甲洋は「ごめんなさい」と蚊の鳴くような声を搾りだした。
藍色の浴衣に赤い帯を結んだ大きな瞳の持ち主は、そんな甲洋の反応にパチパチと睫毛を踊らせてから、肩をすくめて微笑んだ。
「別にいいのに。謝らなくても」
「で、でも……」
思わず目を泳がせた先では、オトギリソウが揺れていた。夕暮れの庭には時おり風鈴の音が鳴り響き、その合間にひぐらしが声をあげる。夏の庭。その縁側で、甲洋は目の前の人の膝を枕に寝こけていたのだ。髪に触れていた優しい感触も、頬を撫でたぬくもりも、すべてこの人のものだった。
自分のせいで、彼はずっと動けずにいたに違いない。寝顔を見られていたことも恥ずかしいし、申し訳なさに甲洋はただ項垂れた。
「ねぇ、なんかごにょごにょって言ってたよ。夢でも見てた?」
萎れる甲洋を茶化すみたいに、目の前の人が悪戯っぽい笑みを浮かべた。
夢──そういえば、見ていたような気がする。だけどなにも覚えていない。不思議な懐かしさだけが、胸の奥底で小さく震えているような。
思いだそうとすればするほど、その振動はゆるやかに痛みを訴えはじめる。チクチクとした感覚に下唇を噛みながら、胸に手を押し当てた。
(いつも、こうだ)
あの日。真っ白な病室で目を覚ましてから、ずっと。
とても大切だった気がするのに、粉々に砕け散ったものは小さな欠片すら残っていない。どんな形をしていたのかさえ、甲洋には分からなかった。そこには空っぽの手の平と、かじかむように痛む心があるだけだ。
「そろそろ準備しよっか。浴衣を着せてあげるね」
「……え?」
キョトンとすると、「今日はお祭りに行く約束でしょ」と楽しげに言われた。歌うように言葉を紡ぐ人だと、甲洋は思う。来主操。目覚めてからずっと、甲洋の世界には彼しかいない。
だからこの人の言うことには頷いておけば間違いはないのだけれど、それでも甲洋は彼の顔色をうかがいながら、つい遠慮してしまう。
「あの……来主さん。俺、浴衣なんて」
持っていない。むしろ自分のものなんて、この家にはなにひとつないのだ。少なくとも、甲洋はそう思っている。
「来主」
「え?」
「さんはいらないって、いつも言ってるのに」
操は眉間にきゅっとシワを寄せ、小さな子供のように唇を尖らせる。
そんな顔をされても困ってしまうだけだ。甲洋にとっての操は、目上の存在という認識しかない。どれだけ指摘されようとも、気安く呼び捨てなんてできるわけがなかった。
『前』にいた自分がどうだったにせよ、『今』の甲洋には難しすぎる。
「まぁいいや」
そう言って立ち上がった操はどこか寂しそうに睫毛を伏せていたが、すぐに背を向けると障子を開いた。薄暗い仏間に足を踏み入れ、振り向いたときにはいつもの甘ったるい笑顔に戻っている。
「おいで、甲洋。浴衣、きっと似合うよ」
生ぬるい夏の風にくすぐられ、風鈴がまた微かな音を立てた。
*
一年前。あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
初夏の日差しに染まった病室。乾いた唇に押し当てられた熱と、泣きながら笑った操が、歌うように囁いた愛の言葉。あのときの甲洋は混乱していた。たくさんの「どうして」で、頭の中がいっぱいだった。
どうして、どうして、どうして──?
見知らぬ病室。会ったこともない、知らない他人。だけどその人は、甲洋のことが好きだと言う。世界で一番、誰よりも愛しているのだと。潤んだ瞳を大切そうに細めながら、甲洋のことを「神様」と、そう言った。
悪い夢でも見ているような世界で、その言葉だけが甲洋の胸を深く刺し貫いた。戸惑いと混乱に染まる思考を、燃えただれるような幸福に絡め取られながら。
だけどその後の甲洋を待っていたのは、受け入れがたい多くの現実でしかなかったのだ。
甲洋には9歳までの記憶しかなかった。厳密には9歳の夏、一人で船に乗って故郷を旅立った、あの瞬間までの記憶しか。そこからぷっつりと途切れて、目覚めたときには24歳の大人の男になっていた。二年前に大怪我をして、ずっと眠っていたらしい。
15年もの空白を埋めるすべなどあるはずもなく、その事実を受け入れることすら難しかった。きっと全てが夢なのだ。退屈な船旅で、つい居眠りをしてしまった。これはそんな自分が見ている、ただの夢なのだと。
けれどいつまで経っても夢は醒めなかった。そうしているうちに、甲洋は病院からリハビリセンターに移ることになった。甲洋の身体は、怪我の後遺症で左半身の手足に麻痺が残っていた。
甲洋はそこで半年ほど治療を受け、ある程度の機能は回復させることができた。足の麻痺だけはまだ残っているが、杖をつけば一人での歩行も問題ない。今は操の家で暮らしながらリハビリを行い、定期的に通院しながら療養している。甲洋は、25歳になっていた。
*
「やっぱり! よく似合ってる!」
操の手を借りて着せられたのは、淡く黄色がかった生成りの生地に、かすり縞の入った浴衣だった。黒い帯を結んでくれた操が、甲洋の背をポンと叩いて満足そうにしている。
「かっこいいよ! すごく!」
「あ、ありがとう」
気恥ずかしさに頬を染めれば、「ふふ」と嬉しそうに笑った操が部屋の隅から姿見を引っ張り寄せる。そこに映し出された自分の姿を見て、甲洋はまるで赤の他人と向き合っているような感覚を覚えた。
長い手足と広い肩幅。幼さが削げ落ちた頬に、伸びた焦げ茶の癖毛が張りついている。25歳の大人の瞳が、幼いまま取り残された自分を見ていた。
(こんなの、俺じゃない)
自分の身体は、もっと小さかったはずだ。父が気まぐれでプレゼントしてくれたTシャツは、まだ9歳の甲洋には少し大きいくらいだった。だけどとても嬉しくて、大切で、いつまでも着ていたいと思っていたのに。
そういえばあのTシャツは、今どこにあるんだろう。リュックに詰めたはずの夏休みの宿題も、日記帳も、筆箱も。ここにあるのは自分じゃない誰かの私物ばかりだ。着替えだとか、腕時計だとか、食器でさえも。それらがすべて君のものだと言われても、ひとつも実感を得られない。
「甲洋」
やり場のない感情を、ただ鏡に映る男を睨みつけることで堪えていた甲洋は、その声にハッとして振り向いた。操は甲洋と向き合うと、浴衣の襟を軽く指先で整えてくれる。
「これでよしっと」
「あの、ごめんなさい」
「うぅん、いいの。ねぇ、ちょっと屈んでよ」
「?」
操が甲洋の両肩に手を置いて、軽く背伸びをする。甲洋は疑問符を浮かべながら軽く身を屈めた。すると白い両手に頬を包まれ、ちゅっという音を立てながら唇同士が触れ合った。
「ッ、わっ!?」
甲洋は顔を真っ赤にしながら身体を跳ねさせ、腰が引けた状態で硬直した。けれど脇の下から回ってきた操の腕に背中を抱かれて、さらに身動きがとれなくなってしまう。
「あ、あ、あのっ、来主、さん」
「いっつもしてるじゃん。そろそろ慣れてよ」
「な、慣れ……? そんなの、無理に決まって……」
「おれは君のものなのに」
絶句。火がついたみたいに顔が熱い。操は甲洋の胸に頬を押しつけていて、今にも爆発しそうになっている心臓の音を聞かれていると思うと、どうしたらいいか分からなくなる。グルグルと目が回り、今にも倒れてしまいそうだった。
昔ここにいた自分なら、もっと当たり前のように受け止めていたのだろうか。されるばかりじゃなく、自分から彼を引き寄せていたのだろうか。
「好きだよ」
「ッ!」
「大好き。おれの神様」
粟立つ皮膚に、呼吸がとまる。胸が痛くて苦しくて、ただ泣きたくなった。
こんなとき、甲洋の中にはやっぱり幾つもの「どうして」が渦を巻く。この人のことを、自分はなにも知らないのに。どうして、どうして、どうして。どうしてこんなに、嬉しいんだろう──?
所在なく宙を彷徨っていた両手で、恐る恐る操の肩に触れようとした。抱きしめてくれるこの人を、同じように抱きしめてみたいと思ったから。だいじょうぶ。だって、こんなに好きだと言ってくれる。優しく、大切にしてくれる。だからきっと、触れたって許される。
「お祭り、また君と一緒に行けて嬉しい」
「!」
「今日はいっぱい遊ぼうね」
しみじみと言いながら顔をあげた操は、懐かしそうに目を細めて笑っていた。その綺麗な瞳には、呆然とした表情を浮かべた見知らぬ男が写り込んでいる。
(これは、俺じゃない)
この人が見ているのは。
(俺じゃないんだ)
一緒にお祭りに行きたいのも、キスをしたいのも、愛しているのも。
甲洋は今にも触れそうになっていた指先を、そっと両脇に下ろしてしまう。触れていいのはこの手じゃない。だって甲洋には、一度だって操とお祭りへ行った記憶がないのだ。思い出なんかひとつもなくて、この人のことを、やっぱりなにも知りはしない。
「はい」
今の甲洋にできるのは、ただ曖昧に笑って頷くことだけだった。
*
長い入院とリハビリ生活の中で、甲洋は待っていた。
思い通りにならない半身。自分の記憶の中にあるよりも長い手足。鏡に映る見知らぬ自分と、失ったという実感すらない空白の時間。そのすべてに怯えながら、両親のことを。
来ないことは分かっていた。来てくれるはずがない。だって自分は家族じゃないから。だから旅行にだって連れて行ってはもらえなかった。あの人達の中に自分という存在がどこにもいないことを、甲洋はちゃんと知っていた。
それでも会いたかった。迎えに来てほしかった。淡い期待を、どうしても捨て去ることができなかった。
そんな甲洋のそばに、いつも寄り添ってくれたのが来主操だった。遠い親戚の家の子。自分より年下の、まだ小学校に上がったばかりだと聞いていたはずの子供。
青年の姿をした彼は、毎日のように甲洋のもとを訪れた。いつまでたっても来てくれない両親の代わりに、甲洋を守るようにそっと優しく、抱きしめてくれた。髪を撫で、愛おしそうに目を細めて、顔中に小さなキスを降らせて。大好きだよと、ずっと一緒だよと、何度も何度も震える甲洋に言い聞かせた。
リハビリセンターから来主の家に移っても、それは変わらなかった。両親がなにひとつ与えてくれなかったもの。あるいはそれ以上のものを、操は惜しみなく与えてくれる。
爪の先まで痺れるような嬉しさに怯えながら、その愛情に溺れてしまえたらどんなによかっただろう。操がときどき聞かせてくれる、甲洋と過ごした日々の思い出。それを語るときの彼は、いつも懐かしそうにどこか遠くを見つめている。甲洋を通して、甲洋じゃない誰かのことを。
それがとても大切なものであったことだけは分かるのに。どんな話を聞かされても、甲洋にはどこかまったく別の国のお伽噺のようにしか思えなかった。記憶にないものは、最初から『無い』も同然だ。
だから操の中にも、自分の存在なんかどこにもいないのかもしれない。むしろ本当は、この世界のどこにも。あの日、一人ぼっちで船に乗り込んだ、あの夏の日。泣きそうな瞳で海を見つめていた9歳の春日井甲洋は、もうとっくに死んでいるのかもしれない。
*
来主の家から神社までの道のりを、甲洋は左手に杖をつきながら歩いていった。操は甲洋の右手をしっかりと握りしめ、注意を払いながら足並みを揃えてくれる。
少し小高い位置にある神社の石段をゆっくりと登っていくと、朱塗りの立派な鳥居が見えた。そこをくぐると蒸し暑さが一段と増し、煌々と提灯が輝く祭の風景が広がっている。
射的にくじ引き、かき氷だとか綿あめだとか、多くの屋台がひしめき合うなか、夏草の香りを掻き消すように焦げたソースの匂いが漂っていた。
「わぁ……」
甲洋は思わず声をあげていた。多くの人の喧騒と、日常から切り離されたような祭の空間。不思議な音色のお囃子に、色とりどりの屋台の品物。今にも走って飛び込んでいきたいような高ぶりに、ワクワクとした気持ちが止まらない。
「人がいっぱいだね。あ、そうだ」
「?」
操は空いている方の手にぶら下げていた小さな巾着袋を、甲洋の浴衣の袖にグイッと押し込んできた。
「お小遣いいっぱい持ってきちゃった。君が持ってて」
「え、でも」
「だっておれ、ぜったい落とすもん」
普通は大人がお金を持ち歩くものだと思うのだが。困惑しつつ、けれど確かにこうしたほうが安心な気もする。こんなことを思うのはとても失礼な話だけれど、人混みの中で気づいたら財布を失くしている操の姿が、なぜか容易に想像できてしまった。
この人は大人だが、妙に子供っぽくてそそっかしいところがある。そういえば肉体的な年齢だけなら、自分の方が年上でもあるのだった。ちぐはぐだなと、甲洋は思う。
「……わかりました。俺が持ってます」
「えへへー、お願いね!」
重圧から開放されたとばかりに笑う操に、甲洋にも自然と笑みが浮かんだ。そうか、自分は頼られているのかと、そう思うと急に誇らしくなってくる。
「今日は特別な日だもん! いっぱい遊ぼ! 君も好きなもの、なんでも買っちゃっていいよ!」
「えっ、さすがにそれは……」
「いいの! ほら行くよ! お腹空いたから、なんか食べたい!」
操が甲洋の腕をぐっと引っ張る。麻痺した片足が少しグラついたが、それ以上の強引さはなかった。この人だって、きっと今にも駆けだして行きたいはずなのに。はやる気持ちを抑えながらも、甲洋に合わせようとしてくれる。
申し訳ないのに、喜びのほうが勝っていた。この人は、絶対に俺を置いていったりしないのだと。祭の熱気に高鳴る胸が、今だけは甲洋から卑屈な感情を奪い去っていた。
*
それから二人はたこ焼きやらイカ焼きやら、目についたものを片っ端から食べてお腹を満たした。操はさらにクレープまで食べて口の横を汚し、そのことに全く気がつかないものだから、甲洋は肩を震わせて笑ってしまうのを止められなかった。
そのあとは射的をして、くじを引いて、ヨーヨーを釣って、ラムネを飲んで一息ついたあと、金魚すくいをやることになった。
「よぉーし! 一番おっきな金魚とるから! 見ててよ!」
プラスチック製の大きなタライの前にしゃがんだ操が、ポイを片手に腕まくりをしている。水が張り巡らされたタライの中では、金魚たちが所狭しとひしめき合って泳いでいた。
甲洋はその斜め後ろに立って、杖で身体を支えながら操の手元を覗き込む。彼は水に浸したポイで、狙った金魚を執拗に追い回していた。
「あっ、待って! あっ、あー! 破けたぁ!」
「あはははは! 下手だねぇ操ちゃん!」
「もー! あとちょっとだったのに! おじさん、もう一回!」
「はいよ!」
破れたポイを交換してもらった操が再び狙いを定めているとき、甲洋はふとなにかに誘われるように顔をあげて、とある露店の一角に目をやった。そこには手作りの雑貨品を並べている店がある。
どうして気になったのかは分からない。だけど甲洋は一瞬だけ操に目をやったあと、杖をつきながらそこに向かった。
テーブルの上にはぬいぐるみやブレスレットなど、子供や女性が喜びそうな雑貨品がずらりと並べられている。その中から、甲洋は一つだけある髪飾りに強く惹かれた。水色と桃色の朝顔を模した、つまみ細工の髪飾りだ。
矢も盾もたまらず、甲洋は店主に声をかけるとその髪飾りを購入した。
「甲洋ー! いたいた! 駄目じゃん一人で勝手にどっか行ったら!」
会計が済んで戻ろうとしたところで、先に操が駆け寄ってきた。彼は手に金魚が入ったビニール袋をぶら下げている。
「えへへー! じゃーん! 見て見て! 金魚!」
操が掲げた袋の中では、赤い和金と黒い出目金がゆったりと漂っていた。
「この黒い子、おっきいでしょ? この子が欲しかったんだ! ちょっと君に似てるから」
「俺に?」
「うん! 赤い子はね、おじさんがオマケで入れてくれた!」
甲洋は改めてビニールの中の金魚を見た。鮮やかな赤いヒレと、大きな黒いヒレが花びらのように揺れている。大勢の金魚たちの中から選ばれた二匹だけが、隔離された透明な世界で口をパクパクとさせながら身を寄せ合っていた。
甲洋は金魚から目が離せなくなった。さざ波のように押し寄せてくる、この懐かしさはなんだろう。小さな世界。寄り添う二匹。赤と黒。いつかどこかで、これと同じ光景を見たような──。
「ねぇ、甲洋はなにしてたの?」
「……あ」
魅入られていた甲洋は、首を傾げる操に小さく息を呑んだ。それから、手の中にあるつまみ細工に視線を落とす。
似ていると思った。この髪飾りを見たときの気持ちと。懐かしさと切なさに追い立てられて、迷う暇もなく買っていた。この朝顔は、きっと操に似合うはずだと。
「それ、朝顔?」
操が目を丸くしている。甲洋は少し緊張しながら、その髪飾りを操の左耳の脇に持っていくと、そっと髪に挿し込んだ。上手く固定されたのを確認して、ホッと息をつきながら笑みを浮かべる。
「やっぱり、よく似合う」
「甲洋……? これ、おれに?」
「あっ……すみません、勝手にこんな……」
すぐにハッとして顔をうつむけた。いくら好きなものを買えと言われたからって、考えなしにとってしまった行動を、操はどう思っただろう。おそるおそるその顔に目をやると、彼は頬を赤らめながらポカンと口を開けている。
判断しがたいその反応に、甲洋はさらに申し訳なくなって萎縮した。なにをしているんだろう。大体、この人は男の人だ。女の子がつけるものを貰って、喜ぶはずがないのに。
「ぁ、あの」
「嬉しい」
「え?」
「ありがとう」
見開いた視線の先で、操が笑顔を浮かべていた。溶けだしそうにとろんと瞳を潤ませて、赤い頬をして、胸が痛くなるくらい綺麗に、可愛く。
その笑顔に、甲洋も少しだけポカンとしながら頬を赤らめた。不思議な懐かしさに駆られて手にとった髪飾り。朝顔の花が、柔らかな亜麻色の髪に咲いている。
思った通り、よく似合う。祭の煌めきの中で、操は誰よりも輝いて甲洋の目に映った。
「……あ、そうだ。甲洋、もうすぐ花火がはじまるよ!」
互いに赤い顔をしたままの気恥ずかしい空気を、操の明るい声がうまく壊した。彼は甲洋の横に移動すると、来たときと同じように右手をぎゅっと握ってくる。
「ここは人が多いし。もっとゆっくり見られるところ、連れてってあげるね!」
甲洋が小さく笑って頷くのと同時に、操が少し焦ったように一歩踏みだす。そのとき下駄を履いた足先が引っかかるようにカラリと鳴って、操の身体が前のめりに傾いた。
「あっ!」
手からぶら下げているビニールの中で、金魚のヒレが大きくはためく。
「危ない!」
甲洋は握っていた手に力を込め、腕力だけで操の身体を引っ張り上げた。転倒を免れた操はすぐに金魚が入ったビニールを見て、二匹の無事を確かめると、ホッとしながら甲洋を見上げる。甲洋もまた深く安堵しながら口を開いた。
「今度は、失くさないで」
失くさないで──。
「え……?」
操が瞳を大きく見開く。甲洋も驚いて、しきりに瞬きを繰り返した。
それは無意識に口から出た言葉だった。だけどどうして? 今度、という言葉が今をさしているのなら、自分は一体いつの出来事と照らし合わせて、さっきの言葉を放ったのだろう?
訳が分からず呆然とする甲洋に、ゆっくりと目を細めた操が「うん」と頷いた。
*
神社から石段を下って、祭の会場から少し離れた位置まで移動するあいだ、ふたりは一言も声を発さなかった。
車一台が通れる程度の狭い道。濃い夏草の香りが少し湿った空気に立ち込め、遠ざかる祭囃子の代わりに、ケラやキリギリスといった虫たちが鳴いている。等間隔に立っている街灯が、うっすらと辺りを照らしていた。
「……子供の頃にね」
虫たちのささめきの中で、操がポツリと口を開いた。
「一緒に夏祭りに行ったときのこと、覚えてる?」
甲洋は驚いた。操はよく昔の話を聞かせてくれるが、こうして問いかけてくることは、今まで一度もなかったからだ。
「なにも……」
覚えていない。ゆるく首を振りながらそう答えるしかない甲洋に、操はふと足を止めると正面に回ってきて、追いすがるような目で「本当に?」とさらに問いを重ねてくる。
「……ごめんなさい」
薄闇の中で目を逸らす。喧騒が消え、祭囃子すらうっすらとしか聞こえない夜の道には、いっときだけ忘れることができていた現実が明確に広がっている。夢のような時間は、とっくに終わってしまっていた。
「そっか」
操は髪に咲く朝顔を指先でそっと撫でながら、淋しげに微笑んだ。
「昔ね、一緒に行ったお祭りでも、金魚をとったんだ。この子たちと同じ。赤と黒の」
その声に耳をすませながら、甲洋は左手に持つ杖を強く握りしめる。
「嬉しくてはしゃいでたら、おれ、転んじゃったんだ。そしたら金魚……すぐに弱ってダメになっちゃって。花火も見ないで、ずっと泣いてた」
甲洋の脳裏に、つい先ほどの光景がよぎっていく。操は真っ先に金魚の無事を確かめていた。甲洋もまた、意識せず深い安堵を覚えたのだ。無事でよかったと。もう失くしたくないから。この人に、泣いてほしくないから。
過去にそんなことがあったなんて、ひとつも覚えてないくせに。
「そのときね、なぜか甲洋は、おれに何度も何度も謝ってきたんだ。来主が転んだのは自分のせいだって。隣にいたのに、守れなかったって」
とつぜん、虫たちの声がピタリと止んだ。あれほど騒がしかったのに、なにかを予感したみたいに。
うつむきがちだった操が顔をあげた。ずっと遠くを見ているみたいに、寂しい瞳で。小さく笑って、懐かしそうに甲洋を見つめる。
「君っていつもそう。なにも悪くないのに、悪いのはおれなのに、いつもそうやって──」
ヒュウという音がして、頭上で大きな花火が上がった。色鮮やかな大輪の花が、真夏の夜空に咲き誇る。幾つも幾つも、祭の終わりを告げながら。甲洋と操はただ静かに、散っていく花びらを見つめ続けた。
どうしてだろう。同じ一瞬を生きているのに、同じ景色を見ているのに、どうしてこんなに遠いんだろう。確かに繋がれていたことだけは分かるのに、甲洋にはそのほつれた結び目を手繰り寄せるだけの力すらなかった。
(……大っ嫌いだ。俺は、俺のことが)
甲洋は、来主操と共に生きていたはずの春日井甲洋のことが憎かった。憎くて憎くて、そして羨ましかった。どんなに優しくされても、愛していると言われても、それは甲洋のものには決してならない。
だから悔しかった。虚しかった。悲しかった。勝手に生きて、勝手にいなくなってしまった見知らぬ自分。甲洋は甲洋に、嫉妬していた。
「帰ろっか」
花火が終わると、再び虫たちが鳴きはじめた。祭りのあとの寂しさを、火薬混じりのぬるい風がさらっていく。
操は甲洋にそっと手を差し出した。けれど甲洋は、その手を取ることができなかった。
「ごめんなさい」
操がことりと、首を傾げる。
「どうして謝るの?」
「……あなたの大事なものを、俺は返してあげられない。あなたが一緒に生きてきたのも、これからも一緒にいたいと思っているのも、俺じゃないのに」
操の顔が滲んでいく。切り裂かれるような胸の痛みと、悔しさと、罪悪感。甲洋は耐えるように一度だけ下唇を噛み締めたあと、吸い込んだ息を震わせながら吐きだした。
「それでも俺には、あなたしかいない。あなたに優しくされるのが嬉しい。大事にしてもらえるのが嬉しい。あなたに好きだって言ってもらえるのが嬉しい。俺は、あなたのことが……」
好きだとは、言えなかった。言えばなにもかもが壊れてしまいそうな気がした。あのときだってそうだ。甲洋は両親に「俺も一緒に行きたい」という、たった一言が言えなかった。自分だけ親戚の家になんか行きたくない。一人で船に乗るなんて嫌だ。父さんと母さんと、一緒にいたい──。
言えばどんな答えが返ってくるか、分かっていたから。お前なんか必要ないのだと、思い知らされるのが怖かった。だから甲洋は、自分の気持ちを伝えることができなかった。
「帰ります。一人で」
どうしようもなく逃げだしたい気持ちになって、甲洋は操に背を向けた。家の方向とはまったく違っていたけれど、それでもいいから今すぐ姿を消してしまいたかった。
「甲洋……!」
走れないことにもどかしさを覚えながら、杖をついて必死で足を引きずった。気持ちばかりが焦って、思い通りにならない身体にまた悔し涙が込み上げる。するとその焦燥が麻痺した足をもつれさせ、甲洋は転んで膝をついてしまった。杖が遠くに弾け飛ぶ。
「ッ……!」
「だいじょうぶ!?」
操がすぐに駆けつけて、甲洋のそばに膝をつく。正面から肩を支えられ、甲洋はその情けなさにいよいよ泣くのを我慢することができなかった。
「君が転んでどうするのさ」
操が少しだけ呆れたように笑った気がする。だけど甲洋はその顔を見ることができなかった。涙が溢れて、次から次へと頬を伝っていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん、なさ……っ」
恥ずかしい。情けない。悔しくて悲しくて、自分なんか、早く消えてしまえばいいと思う。身体だけは大きいくせに、中身は小さな子供のままで。一人では逃げだすことさえ、できやしなくて。好きな人に、好きだと告げる勇気もない。
(俺なんか、どうせどこにもいないんだから……!)
身を震わせて泣く甲洋の頬に、白い指先がそっと触れた。思わず肩をビクリと跳ねさせ、咄嗟に顔を上げた瞬間、唇同士が軽く触れ合う。
「んッ……!」
「ごめんはもう禁止」
呆然とする甲洋に、操が優しく笑いかける。驚いた拍子に涙はスッと引いてしまった。ただ顔が熱くて、なにも言うことができなくなる。
操は潤んだ瞳をまっすぐ見つめて、「好きだよ」と言った。胸が痛くて、甲洋はくしゃりと表情を歪ませる。こんなに苦しいのに。悔しくて悲しいのに。飢えた心はその言葉を待ちわびていた。
「言ったでしょ。世界でいちばん愛してるって」
小さな白い手が、甲洋の両頬を包み込む。柔らかくて、とても優しい。
「君は君だよ。一人しかいない。おれが大好きな甲洋は、ちゃんとここにいるよ」
歌うような操の言葉。胸が震えて、締めつけられる。ツルが巻きつくように甲洋の心に絡みつき、がんじがらめにしてしまう。
「君が失くしてしまったものは、全部おれが持ってるから。だから……もう離さないで。これからの記憶は、甲洋がずっと持っててよ」
──今度は、失くさないで。
操が細い手首にかけている紐の先で、二匹の金魚が揺れていた。赤と黒の、花びらみたいに綺麗な命。少しでも傷をつければ、たちまち壊れて消えてしまう。二匹だけの、脆くて透明な、繭のように小さな世界。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、幼い笑顔の朝顔が脳裏によぎった気がした。握りしめた小さな手の感触が。甲洋は頬に触れている操の手の甲に、自分の手の平をかぶせてみる。小さな手。そっと握りしめて、また少し、泣きたくなった。
「大好きだよ甲洋。おれの神様……お願い、もうどこにも行かないで」
切なく顔を歪めた操が、甲洋に身を寄せてくる。するりとほどけた手を首にまわして、懸命にしがみついてくる。その身体は迷子のように震えていた。大人なのだと思っていた彼が、急に儚い存在に感じられてしまったとき、甲洋は気がついた。
自分がいなくなったら、きっとこの人は死んでしまう。地面に叩きつけられた金魚のように、ゆっくりと、けれど確実に、呼吸を止めてしまうだろうと。だから。
(俺が、俺だけが──)
この人を生かすことができるのだと。
指先まで痺れるような感覚に喉を鳴らしながら、甲洋は震える手で操の両肩に触れた。すっぽりと収まってしまうくらい細い肩。こんなに小さな人だったのかと、今さら気づいてまた胸が締めつけられる。甲洋はそのまま操の身体を抱きしめた。そして気づいた。
(この人が、俺を俺にしてくれるんだ)
腕に抱いたぬくもりに、自分という存在を確かに感じた。操が甲洋を、甲洋にしてくれる。まるでたったいま生まれたみたいに。一人ぼっちで船に乗り、泣きながら見つめていた海の青さが、遠い過去になっていく。
今はただ、この人に出会えたことが嬉しかった。ここにいることが。生きていることが。
(俺はちゃんと、ここにいる!)
操と生きていた春日井甲洋という男を、甲洋はこのとき初めて己の一部として許すことができたような気がした。自分自身の存在と共に。
「俺も」
だから強くなりたい。心の底からそう思う。
「俺も好きだ。あなたのことが……操のことが」
「ッ!」
操の肩がビクンと跳ねた。咄嗟に顔を上げた彼は、大きな目をさらに大きく見開いている。
「み、操って……? なんで、名前……?」
「ダメ、かな?」
「だ、ダメじゃない! ダメじゃないけど! だって、ずっと来主って! 今まで一度も、名前なんて……うわ、なにこれ? 変なのぉ……!」
操の頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。両手で自分の頬を包み込んで、涙ぐみながらあっちこっちに目を泳がせている。赤みは耳にまで広がって、やがて首筋まで染め上げた。甲洋は操が嫌がっているわけではないことにホッとした。
過去の自分に嫉妬している気持ちが、心の中から完全に消えてしまったわけではない。だから少しでも、別のなにかで張り合いたくて。
(呼べばよかったのに。そんな勇気、なかったんだろうな)
自分のことだから、分かる気がする。多分きっと、とても不器用にこの人のことを愛していたのだ。強く深く、恐れながら、もがくみたいに。
気がつけば、微かに聞こえていたはずの祭囃子が消えていた。生ぬるい夏の風が、少し強く吹き抜ける。虫たちは思うがままに声をあげ、広い世界で短い時を生きていた。
操はおずおずと顔をあげ、真っ赤な目元で甲洋を見た。懐かしそうに、恥ずかしそうに。朝顔が咲く髪を夏草の風に踊らせながら、「嬉しいな」と言って、笑った。
「だってまた、君と恋ができる」
最初から、今度こそもう一度。
甲洋は、彼を下の名前で呼ぶ以上の勇気を振り絞って、その肩を抱きながら身を屈めていった。操がゆっくりと目を閉じる。くちづけは、ほんの一瞬だけ触れ合わせるので精一杯だった。
「帰ろ、甲洋」
ビニール袋の中で、二匹の花が交差する。甲洋は頷いて、杖を引き寄せると立ち上がった。足を引きずる狭い歩幅に、操の小さな歩幅がぴたりと寄り添う。
熱をこもらせたコンクリートの道のりが、まっすぐまっすぐ、伸びていた。甲洋は操と手を繋ぎながら、ふたりだけの古色の家へと、帰っていった。
羽化の花籠 / 了
※甲洋くんの記憶ちゃんと戻らないとヤダ~!という方はこちら→オマケの番外編
←戻る ・ Wavebox👏