2025/08/26 Tue 「顔色が悪いね。昨日、ずっと庭にいたんだろ」 朝食の席でなかなか食が進まない操を見て、甲洋が箸を置きながら言った。 「えっ?」 「あれだけ言ったのに。ほら」 伸びてきた手が亜麻色の前髪を掻き分けて額に触れる。 「やっぱり。少し熱がある。食事も進んでないみたいだし」 「ち、違うよ。熱なんかない。おれは元気だよ」 美羽たちが遊びに来たことを、操は甲洋に話していない。 誰にも言わないでと、エメリーは言っていた。そこにこの家の人間である彼も含まれているのかは分からなかったけれど、なんとなく、話してはいけないような気がしたのだ。 食が進まないのは、昨日の美羽の言葉が気になって上の空になっていたからだった。腹は普通に減っているし、発熱の際の気怠さだって感じない。昨日に引き続き、むしろ身体の具合は良好に思える。 けれど甲洋は難しい顔をして、咎めるように首を左右に振った。 「自分では分からない? 今は微熱だけど、夜にはもっと高くなると思うよ」 「ぜんぜんそんな感じはしないんだけどな……」 「リンゴくらいなら食べられそう?」 甲洋はふと腕時計に目をやってから立ち上がり、テーブルに並ぶ朝食を片付けはじめた。 「剥いて行くから。少しでも食べて。あと、今日は外には出ずに寝てること」 「えー! それじゃ退屈すぎて干からびちゃうよ!」 「来主」 無言で圧力をかけられ、操はぐっと喉を詰まらせて、それからしおしおと項垂れた。 甲洋はとても心配してくれている。彼の目には、操はよほど弱って見えているのだ。 (甲洋が言うなら、そうなのかなぁ。昨日ずっと庭にいたのもバレてるし……) 彼が言う通り、操は美羽とエメリーが帰ってからも、ずっと縁側にいたのだ。甲洋が帰ってくる頃を見計らって家の中に引っ込んだけれど、身体の変調までは誤魔化せなかったということだろうか。 「……わかった。今日は寝てる。リンゴも、ちゃんと食べるよ」 甲洋が息をつく。心から安心したという顔を見て、操も少しホッとした。 体調が思うように優れないことは、操にとって大きなコンプレックスだ。けれどそのぶん、甲洋が優しくしてくれる。彼は操以上に操の身体のことを知っているし、甲洋に委ねてさえいれば、決して間違いはないのだ。 甲洋は片付けを中断し、操の傍までやってくると膝をついた。長い両腕に抱き寄せられて、その胸におとなしく身体を預ける。 「そばについててやれなくて、ごめん」 染み入るような声がどこか切なくて、甲洋のほうがよほど弱っているような気がしてしまう。操はその背に両腕を回し、首を左右に振った。 「うぅん、平気。ごめんね、いっつも心配かけて」 「なるべく早く帰ってくるから」 「うん……」 大丈夫だと、操は思った。甲洋の言うことさえ聞いていれば、なにも間違いはない。 だけど、どうしてだろう。やっぱり消えない。昨日からずっと、美羽の、言葉が。 * 午前中は甲洋に言われたとおり、ずっと横になっていた。 いっそ眠ってしまえたら楽なのに、なかなか寝つくことができなくて、ただぼうっと天井を見上げているのも苦痛になってくる。甲洋はああ言ったけれど、身体の不調はやっぱり感じられない。操自身には、まるで自覚症状がないままだった。 結局おとなしくしていられない操は、のこのこと起きだすと縁側でサンダルを引っ掛け、杖をつきながら庭に出た。外の空気を吸わなければ、身体より先に気持ちが滅入ってしまいそうだった。 外気に触れると、ものの数秒で額に汗が滲むほどの熱気を感じる。家を囲むようにして高く聳える木々に、切り取られた蒼い空。太陽が煌々と照りつけて、少し、目眩がした。 「暑いなぁ」 ぼやきながら、操は庭の出入り口付近へと足を伸ばした。ちょうど昨日、あのふたりが顔を出した大きな紫陽花の茂み。その向こうに、玄関から伸びる石畳と、古い門扉が見える。甲洋が出入りする以外では、決して開かれることのない木製の扉。杖をつきながら、操はそこに一歩一歩、近づいた。 ──いい? 庭までだよ。門の外には出ないで。 耳にタコができるくらい言い聞かせられた言葉が、脳裏をよぎる。 けれど美羽が言っていたことが、頭からずっと離れないのだ。この家には近づくなと、彼女は母親からきつく言われているのだと話していた。 (なんで?) どうして今まで、まったく気にも留めなかったのだろう。二年間。操が家から出ずに暮らしていた間、この家を訪ねてくる者は誰ひとりとしていなかった。 祖母と仲がよかった近所のおばさんは、よく収穫した野菜で作りすぎた漬物を持って顔を出していた。しょっちゅう脱走する飼い犬を探しては勝手に庭まで入ってきて、ついでにお茶を飲んでいく人もいた。 食料品などを売りに、家々を回るトラックだって来ていたはずだ。気前のいいおじさんが、よくプリンやヨーグルトをおまけしてくれたのを覚えている。 以前は全てが当たり前の光景だった。それが今では、宅配便ですらこの家にはやって来ない。郵便配達のバイク音すら、聞こえることはなくなった。 甲洋が、そういった荷物や手紙の類を営業所で留めていることは知っていた。 けれどそれらは全て、職場から営業所が近いからという理由で、届くたびに彼が手ずから取りに行くからだ。操はなにひとつ、疑問に思うことがなかった。昨日、美羽から話を聞くまでは。 特別、意味はないのかもしれない。コミュニケーションの中心にいた祖父母が死んでしまったことで、それまでは密だった近所付き合いが途切れてしまっただけ。移動販売のトラックだって、今では車という足を持つ甲洋が一言、もう必要ないと言ってしまえばそれまでだったのだと思う。 けれど気味が悪いのだ。美羽は言っていた。オバケでもいるのかと思っていた、と。 「おれ、本当はオバケだったりして」 怪談の類によくある話だ。死んだ人間が、そうと気づかずごく当たり前に生活している。冗談のつもりで呟いたのに、どうしてか少しも笑えない。 操は勇気を振り絞り、門扉を開くと足を踏みだした。湿った熱気と一緒に、昔と比べて随分と弱々しくなったセミの声が、どこからともなく聞こえてくる。過保護に身を案じてくれる甲洋への後ろめたさに、緊張感が汗になって背中を伝った。 目の前には細い一本道が伸びていた。昔は両脇に畑が広がっていたが、祖父母が他界したのを機に手をかける人間がいなくなったため、伸びた雑草によって林と化している。 まっすぐに伸びる平坦な道を、見知らぬ景色を眺めるような気分でゆっくりと歩いていく。荒廃した世界にたった一人きり、取り残されているような気持ちになった。 長いこと家の中でばかり過ごしていた身体は、ものの十分もしないうちに疲れが滲む。徐々に息が乱れてきたころ、道の向こうにようやく民家が見えてきた。 褪せた景色が一瞬にして、瑞々しい緑に変わる。広大な田畑が広がるそこは、昔はあぜ道でしかなかった道が綺麗に舗装され、ところどころに見知らぬ家が建っていた。 「こんなに、変わるんだ……」 たった二年で。どこまでも広がる景色が、自分の記憶の中にあるものとは随分と印象が変わっている。家が増え、潰された畑の一角には小奇麗な駐車場までできていた。 こんな小さな、何もないはずの田舎町ですら、こうして姿を変えて移り変わっていく。たった一歩踏み出すだけで、世界には明確に時が流れているのだということを思い知らされる。 引き返した方がいいと、本能的にそう感じた。甲洋との暮らしを続けていきたいのなら、再び、繭のようなあの家に。こうして一人で外の世界にいると、迷子になってしまったような不安だけがひたひたと音を立てて押し寄せる。 なのに操は、一歩、また一歩と、足を踏み出していた。綺麗に舗装された道路に出て、改めて田畑を見つめる。少し湿った風が、ゆるやかに吹き抜けた。空は、こんなに広かったろうか。 「綺麗な空……」 甲洋とかけっこをしたあぜ道はコンクリートに潰されていたが、そこは確かにあの頃と同じ方角へまっすぐに伸びている。懐かしいと感じた。 「あんた、ひょっとして来主んとこの孫じゃないかい?」 そのときだった。ぼんやりと思い出に浸る操に、声をかける人間がいた。ハッとして振り返ると、そこには両手を背中にやった高齢の女性が、驚いた様子で立っている。その顔に、操は見覚えがあるような気がした。 「……あ! 西尾商店のおばあちゃんだ!」 この辺りに唯一ある小さな商店で、いつも店番をしていた姿を思いだす。 西尾行美はあの頃とまったく変わらない様子で、エプロンをしてそこに立っていた。 彼女は驚きと、そしてどこか憐れみを含んだ表情で傍までやってくると、立ち尽くす操をしみじみと眺めた。 「あんた、病気はもういいのかい? 心まで病んじまったとは聞いていたが……痩せちまったねぇ、ずいぶんと」 「病気? 心?」 顔を顰める操に、彼女はホッとしたように息をついた。 「外に出られるようになったのかい。甲洋から聞いて、ここいらの人間はみんな知ってるよ」 「知ってるって、なにを?」 「なんだいあんた、ボケちまったのかい?」 操はただ混乱していた。彼女の言う病気、というのは、自分の身体が丈夫ではないことを指しているのだろうか。しかし、操は確かに体調を崩しやすいけれど、なにか大きな病気を患っていたわけではない。 「ばあさんが逝っちまったのも急だったしね。よほどショックだったんだろうさ」 祖母が急死したのは操が高校を卒業し、家から出なくなったのとほぼ同じ時期だった。 葬儀には多くの人が集まったが、操は正直、そのときのことをほとんど覚えていない。全てのことは甲洋が先頭になって処理してしまったし、ただ慌ただしかったという記憶しかなかった。思えば、あれがまともに近所の人と関わった最後の日だったのかもしれない。 「甲洋がね、あんたはすっかり元気をなくして、口がきけなくなっちまったって言うんだよ。身体も壊したきりで、人と会える状態じゃないからってね」 「甲洋がそう言ったの?」 「そうさ。そっとしておきたいから、よくなるまで誰にも会わせたくないって……でもよかったよ。こんなに歩けるくらい元気になったんだからさ。それにしたってあんた、本当になにも覚えてないのかい?」 「……うん」 というより、知らない。 確かに操はすぐに体調を崩して、寝込んでしまうくらい身体が貧弱だった。長いあいだ外にはいられないし、激しい運動などもってのほかだ。けれど寝たきりだったわけじゃない。言葉も話せたし、幼い頃のあの事故以外で医者にかかったことだって、一度も──。 「あんたが病気なんてね。子供の頃はあんなに元気で、いっつも走り回ってたってのに」 はたと、気がつく。 「あんたは覚えちゃいないだろうけどね、赤ん坊の頃も、そりゃあ元気な子だったよ。大きな声でよく泣いてたもんさ。ここいらにまで声が届くくらいだからね」 張りつめていたなにかが、小さく音をたてて破れてしまうような感覚を覚えた。操を覆う薄い膜のようなものに、亀裂が入る音だ。それは矛盾という名の、透明な薄皮だった。 ──お前は生まれつき身体が弱いだろ? 足のこともそうだけど、すぐに風邪を引くし、調子を崩して寝込んでしまう。 どうして──。 どうしてずっと、そう思いこんでいたのだろう。 夏休みには甲洋と虫やカエルをとって遊んだ。あぜ道を駆け抜けた。燦々と降り注ぐ太陽の下、川遊びをしてびしょ濡れになったりもした。冬には一日中雪のなかにいたって平気だった。 操は滅多なことでは風邪すらひかない、丈夫な子供だった。野山を平然と駆け抜けるだけの、強い足腰を持っていた。いつだって、こんなにも鮮明にあの頃を思いだすことができるのに。 パラパラと、乾いた膜が剥がれていく。幾つもの矛盾が浮き彫りになっていくのを感じていた。 ──来主はそうやってすぐに油断する。明日寝込むことになっても知らないよ。 (そうだ、おれはよく具合が悪くなって、それで、寝込むことが多くって……ちょっと元気だからって気を抜くと、次の日には、必ず……) 必ず……? ──顔色が悪いね。昨日、長いこと庭にいたんだろ。 ──やっぱり。少し熱がある。食事も進んでないみたいだし。 ──自分では分からない? 今は微熱だけど、夜にはもっと高くなると思うよ。 甲洋が言うと、自分でもそうなのかもしれないと、なんの疑いもなく思いこまされた。けれどそれは必ずといっていいほど、操が『今日は調子がいい』と感じたその翌日ではなかったか。 そうだ。自分の意思で寝込んだことなど一度もない。甲洋が、無理やりにでも布団に押し込めてしまうから。操はただいい子でそれに従っていればよかった。信じていれば、間違いなかった。 まるで暗示だ。甲洋の言うことは、いつだって正しいはずだと。 ずっとずっと、そう思い込んでいた。 * その話を聞いたあとでも、操が甲洋に対して怒りを覚えることはなかった。いつかのときみたいに、嘘つきと言って酷くなじる気にもなれない。ただ疑問だけが膨らんでいた。 この家に誰も訪れなかったのは、甲洋が遠ざけていたから。彼は二年間ものあいだ周りの人間を欺き、操を孤立させるように仕向けていた。 だけどどうして。なぜ、そんなことをする必要があったのだろう。なぜ、自分はなんの違和感も抱かずにいたのだろう。 身体のことだってそうだ。いつだって縋るみたいに、過去のことばかりを思いだしていたはずなのに。 陽が沈みかける頃、甲洋が帰宅した。 操はただ茫然としながら、仏間の中央に座り込んでいた。頭上で電気が灯される。 「来主?」 灯りもつけずに座り込んでいる操に、彼は眉をひそめながら首を傾げた。 「甲洋……おかえり」 のろのろと顔をあげ、心配そうに見下ろす瞳を見返す。覇気のなさがそのまま声に乗ってしまい、甲洋はよりいっそう顔を顰めると、しゃがみこんで操の頬や額に触れた。 「ちゃんと寝てるように言ったのに。どうしてそんな無理するの」 「無理なんか、してないよ」 「嘘。朝よりずっと顔色がひどくなってる」 たぶん、これは真実だ。自分でも全身から血の気が引いている自覚がある。甲洋は「早く横になって」と言って、操の手をとった。けれどそれを、反射的に振り払ってしまう。 「来主?」 「……いい。少し、ほっといて」 庭から鈴虫の声がしている。いつもより低い操の声は、その鳴き声よりも小さなものだった。 甲洋の戸惑いが皮膚から痛いほど伝わった。彼は本気で操の身を案じている。そこに嘘はないように感じられた。それが逆に、操を混乱へと導いていく。 (どうしておれを騙したの? 騙して、どうするつもりでいるの?) あの日、操が山の斜面を転がり落ちて、足を怪我した日。あのとき、操は甲洋に呪いをかけた。 真っ赤な血と、惨たらしい右足を見せつけながら、君のせいだと言って静かに責めた。甲洋が意地悪をするから。もう知らないなんて言うから。だからこんなことになってしまったのだと。 甲洋は、一生をかけて償うと言った。操は甲洋の神様になったはずだった。罪の意識で縛りつけ、背負わなくてもいいはずの十字架を背負わせ、支配したはずだった。 (怖い) そう思った。甲洋が怖い。なんだって知っていると思っていた。ずっと一緒にいたから。彼の優しさを、責任感を、全て利用しながら理解していると思いこんでいた。けれど違っていたのだろうか。 「来主、リンゴは食べた? 外にも出たね。どうして言うこと聞かなかったの?」 「……なんで分かるの?」 「縁側に杖がある。朝は廊下に立てかけてあったのに」 「なんでも分かっちゃうんだ、甲洋には」 だけど操には分からない。甲洋の気持ちも、考えていることも、なにも。 子供のころから、ずっと変わらない。分からないままだ。なにひとつ、甲洋のことを、知らない。 知らないから、平気で傷つけることができた。籠の中に閉じ込めた小さな命を殺めるみたいに。幼さを武器にして、無遠慮に、ズケズケと。触れてほしくないものに平気で触れて、そこにある痛みを、知ろうともせず。 けれど今は恐ろしい。知らないことが、恐ろしい。 「来主、部屋に戻ろう。すぐに夕飯の支度をするから。それまで横に」 「うるさいってば!」 「!」 「ほっといてって言ってるじゃん!!」 ああ、また。 目の前が真っ赤に染まった。傷つける。傷つけてしまう。傷つけるために、操は拳を振り上げる。 だけど振り下ろす寸前で、ピタリと、止まる。甲洋は、薄く微笑んでいた。 「──っ!」 (なんで……?) 目を閉じるでもなく、顔を背けようとするでもなく、ただ優しく、愛おしそうに、操を見つめている。 (なんで、そんな顔するの?) 焦がれるような瞳だった。まるで待ちわびているみたいだった。薄い唇に乗っていたささやかな笑みが、けれど操が動きを止めてしまったことに気づいて、不思議そうにほどけていった。 「来主?」 目を丸くしながら、甲洋はことりと首を傾げて見せる。その仕草が少し子供っぽくも見えて、そこに垣間見えた無邪気さに、操は足先からゾワゾワと冷たいなにかが這い上がってくるのを感じた。 (このひと、誰……?) ふと、そんな疑問が頭をもたげる。 このひとは誰だろう。ずっと一緒にいた。子供の頃から、ずっとずっと。そばにいたのに。 「来主。ねぇ来主」 振り上げたままの拳を、甲洋の手が包み込む。そのまま引き寄せ、自分の頬へとあてがうと縋るように頬ずりをする。 「お前は俺に、なにをしたって許されるんだよ」 「っ、や、やめて」 「来主、頼むから」 甲洋の手が震えているのか、操の拳が震えてるのか、どちらなのか分からなかった。だけど祈るように閉じた瞼で、彼が凍えたように睫毛を震わせていることだけは、分かった。 「いやだ甲洋……泣かないで」 空いているほうの手を甲洋の頬に這わせて、操は上ずる声でそう言っていた。 どうしてだろう。初めてだったのに。彼を殴らずに済んだのは初めてだった。なのに、どうして後悔なんかしてるんだろう。傷つけずに済んだのに、ちゃんと傷つけてあげればよかったなんて。そんな狂ったことを思ってしまうのは。 操には分からなかった。甲洋のことが分からなかった。だけど自分自身のことも、もうなにも、分からなくなってしまった。 ←戻る ・ 次へ→
朝食の席でなかなか食が進まない操を見て、甲洋が箸を置きながら言った。
「えっ?」
「あれだけ言ったのに。ほら」
伸びてきた手が亜麻色の前髪を掻き分けて額に触れる。
「やっぱり。少し熱がある。食事も進んでないみたいだし」
「ち、違うよ。熱なんかない。おれは元気だよ」
美羽たちが遊びに来たことを、操は甲洋に話していない。
誰にも言わないでと、エメリーは言っていた。そこにこの家の人間である彼も含まれているのかは分からなかったけれど、なんとなく、話してはいけないような気がしたのだ。
食が進まないのは、昨日の美羽の言葉が気になって上の空になっていたからだった。腹は普通に減っているし、発熱の際の気怠さだって感じない。昨日に引き続き、むしろ身体の具合は良好に思える。
けれど甲洋は難しい顔をして、咎めるように首を左右に振った。
「自分では分からない? 今は微熱だけど、夜にはもっと高くなると思うよ」
「ぜんぜんそんな感じはしないんだけどな……」
「リンゴくらいなら食べられそう?」
甲洋はふと腕時計に目をやってから立ち上がり、テーブルに並ぶ朝食を片付けはじめた。
「剥いて行くから。少しでも食べて。あと、今日は外には出ずに寝てること」
「えー! それじゃ退屈すぎて干からびちゃうよ!」
「来主」
無言で圧力をかけられ、操はぐっと喉を詰まらせて、それからしおしおと項垂れた。
甲洋はとても心配してくれている。彼の目には、操はよほど弱って見えているのだ。
(甲洋が言うなら、そうなのかなぁ。昨日ずっと庭にいたのもバレてるし……)
彼が言う通り、操は美羽とエメリーが帰ってからも、ずっと縁側にいたのだ。甲洋が帰ってくる頃を見計らって家の中に引っ込んだけれど、身体の変調までは誤魔化せなかったということだろうか。
「……わかった。今日は寝てる。リンゴも、ちゃんと食べるよ」
甲洋が息をつく。心から安心したという顔を見て、操も少しホッとした。
体調が思うように優れないことは、操にとって大きなコンプレックスだ。けれどそのぶん、甲洋が優しくしてくれる。彼は操以上に操の身体のことを知っているし、甲洋に委ねてさえいれば、決して間違いはないのだ。
甲洋は片付けを中断し、操の傍までやってくると膝をついた。長い両腕に抱き寄せられて、その胸におとなしく身体を預ける。
「そばについててやれなくて、ごめん」
染み入るような声がどこか切なくて、甲洋のほうがよほど弱っているような気がしてしまう。操はその背に両腕を回し、首を左右に振った。
「うぅん、平気。ごめんね、いっつも心配かけて」
「なるべく早く帰ってくるから」
「うん……」
大丈夫だと、操は思った。甲洋の言うことさえ聞いていれば、なにも間違いはない。
だけど、どうしてだろう。やっぱり消えない。昨日からずっと、美羽の、言葉が。
*
午前中は甲洋に言われたとおり、ずっと横になっていた。
いっそ眠ってしまえたら楽なのに、なかなか寝つくことができなくて、ただぼうっと天井を見上げているのも苦痛になってくる。甲洋はああ言ったけれど、身体の不調はやっぱり感じられない。操自身には、まるで自覚症状がないままだった。
結局おとなしくしていられない操は、のこのこと起きだすと縁側でサンダルを引っ掛け、杖をつきながら庭に出た。外の空気を吸わなければ、身体より先に気持ちが滅入ってしまいそうだった。
外気に触れると、ものの数秒で額に汗が滲むほどの熱気を感じる。家を囲むようにして高く聳える木々に、切り取られた蒼い空。太陽が煌々と照りつけて、少し、目眩がした。
「暑いなぁ」
ぼやきながら、操は庭の出入り口付近へと足を伸ばした。ちょうど昨日、あのふたりが顔を出した大きな紫陽花の茂み。その向こうに、玄関から伸びる石畳と、古い門扉が見える。甲洋が出入りする以外では、決して開かれることのない木製の扉。杖をつきながら、操はそこに一歩一歩、近づいた。
──いい? 庭までだよ。門の外には出ないで。
耳にタコができるくらい言い聞かせられた言葉が、脳裏をよぎる。
けれど美羽が言っていたことが、頭からずっと離れないのだ。この家には近づくなと、彼女は母親からきつく言われているのだと話していた。
(なんで?)
どうして今まで、まったく気にも留めなかったのだろう。二年間。操が家から出ずに暮らしていた間、この家を訪ねてくる者は誰ひとりとしていなかった。
祖母と仲がよかった近所のおばさんは、よく収穫した野菜で作りすぎた漬物を持って顔を出していた。しょっちゅう脱走する飼い犬を探しては勝手に庭まで入ってきて、ついでにお茶を飲んでいく人もいた。
食料品などを売りに、家々を回るトラックだって来ていたはずだ。気前のいいおじさんが、よくプリンやヨーグルトをおまけしてくれたのを覚えている。
以前は全てが当たり前の光景だった。それが今では、宅配便ですらこの家にはやって来ない。郵便配達のバイク音すら、聞こえることはなくなった。
甲洋が、そういった荷物や手紙の類を営業所で留めていることは知っていた。
けれどそれらは全て、職場から営業所が近いからという理由で、届くたびに彼が手ずから取りに行くからだ。操はなにひとつ、疑問に思うことがなかった。昨日、美羽から話を聞くまでは。
特別、意味はないのかもしれない。コミュニケーションの中心にいた祖父母が死んでしまったことで、それまでは密だった近所付き合いが途切れてしまっただけ。移動販売のトラックだって、今では車という足を持つ甲洋が一言、もう必要ないと言ってしまえばそれまでだったのだと思う。
けれど気味が悪いのだ。美羽は言っていた。オバケでもいるのかと思っていた、と。
「おれ、本当はオバケだったりして」
怪談の類によくある話だ。死んだ人間が、そうと気づかずごく当たり前に生活している。冗談のつもりで呟いたのに、どうしてか少しも笑えない。
操は勇気を振り絞り、門扉を開くと足を踏みだした。湿った熱気と一緒に、昔と比べて随分と弱々しくなったセミの声が、どこからともなく聞こえてくる。過保護に身を案じてくれる甲洋への後ろめたさに、緊張感が汗になって背中を伝った。
目の前には細い一本道が伸びていた。昔は両脇に畑が広がっていたが、祖父母が他界したのを機に手をかける人間がいなくなったため、伸びた雑草によって林と化している。
まっすぐに伸びる平坦な道を、見知らぬ景色を眺めるような気分でゆっくりと歩いていく。荒廃した世界にたった一人きり、取り残されているような気持ちになった。
長いこと家の中でばかり過ごしていた身体は、ものの十分もしないうちに疲れが滲む。徐々に息が乱れてきたころ、道の向こうにようやく民家が見えてきた。
褪せた景色が一瞬にして、瑞々しい緑に変わる。広大な田畑が広がるそこは、昔はあぜ道でしかなかった道が綺麗に舗装され、ところどころに見知らぬ家が建っていた。
「こんなに、変わるんだ……」
たった二年で。どこまでも広がる景色が、自分の記憶の中にあるものとは随分と印象が変わっている。家が増え、潰された畑の一角には小奇麗な駐車場までできていた。
こんな小さな、何もないはずの田舎町ですら、こうして姿を変えて移り変わっていく。たった一歩踏み出すだけで、世界には明確に時が流れているのだということを思い知らされる。
引き返した方がいいと、本能的にそう感じた。甲洋との暮らしを続けていきたいのなら、再び、繭のようなあの家に。こうして一人で外の世界にいると、迷子になってしまったような不安だけがひたひたと音を立てて押し寄せる。
なのに操は、一歩、また一歩と、足を踏み出していた。綺麗に舗装された道路に出て、改めて田畑を見つめる。少し湿った風が、ゆるやかに吹き抜けた。空は、こんなに広かったろうか。
「綺麗な空……」
甲洋とかけっこをしたあぜ道はコンクリートに潰されていたが、そこは確かにあの頃と同じ方角へまっすぐに伸びている。懐かしいと感じた。
「あんた、ひょっとして来主んとこの孫じゃないかい?」
そのときだった。ぼんやりと思い出に浸る操に、声をかける人間がいた。ハッとして振り返ると、そこには両手を背中にやった高齢の女性が、驚いた様子で立っている。その顔に、操は見覚えがあるような気がした。
「……あ! 西尾商店のおばあちゃんだ!」
この辺りに唯一ある小さな商店で、いつも店番をしていた姿を思いだす。
西尾行美はあの頃とまったく変わらない様子で、エプロンをしてそこに立っていた。
彼女は驚きと、そしてどこか憐れみを含んだ表情で傍までやってくると、立ち尽くす操をしみじみと眺めた。
「あんた、病気はもういいのかい? 心まで病んじまったとは聞いていたが……痩せちまったねぇ、ずいぶんと」
「病気? 心?」
顔を顰める操に、彼女はホッとしたように息をついた。
「外に出られるようになったのかい。甲洋から聞いて、ここいらの人間はみんな知ってるよ」
「知ってるって、なにを?」
「なんだいあんた、ボケちまったのかい?」
操はただ混乱していた。彼女の言う病気、というのは、自分の身体が丈夫ではないことを指しているのだろうか。しかし、操は確かに体調を崩しやすいけれど、なにか大きな病気を患っていたわけではない。
「ばあさんが逝っちまったのも急だったしね。よほどショックだったんだろうさ」
祖母が急死したのは操が高校を卒業し、家から出なくなったのとほぼ同じ時期だった。
葬儀には多くの人が集まったが、操は正直、そのときのことをほとんど覚えていない。全てのことは甲洋が先頭になって処理してしまったし、ただ慌ただしかったという記憶しかなかった。思えば、あれがまともに近所の人と関わった最後の日だったのかもしれない。
「甲洋がね、あんたはすっかり元気をなくして、口がきけなくなっちまったって言うんだよ。身体も壊したきりで、人と会える状態じゃないからってね」
「甲洋がそう言ったの?」
「そうさ。そっとしておきたいから、よくなるまで誰にも会わせたくないって……でもよかったよ。こんなに歩けるくらい元気になったんだからさ。それにしたってあんた、本当になにも覚えてないのかい?」
「……うん」
というより、知らない。
確かに操はすぐに体調を崩して、寝込んでしまうくらい身体が貧弱だった。長いあいだ外にはいられないし、激しい運動などもってのほかだ。けれど寝たきりだったわけじゃない。言葉も話せたし、幼い頃のあの事故以外で医者にかかったことだって、一度も──。
「あんたが病気なんてね。子供の頃はあんなに元気で、いっつも走り回ってたってのに」
はたと、気がつく。
「あんたは覚えちゃいないだろうけどね、赤ん坊の頃も、そりゃあ元気な子だったよ。大きな声でよく泣いてたもんさ。ここいらにまで声が届くくらいだからね」
張りつめていたなにかが、小さく音をたてて破れてしまうような感覚を覚えた。操を覆う薄い膜のようなものに、亀裂が入る音だ。それは矛盾という名の、透明な薄皮だった。
──お前は生まれつき身体が弱いだろ? 足のこともそうだけど、すぐに風邪を引くし、調子を崩して寝込んでしまう。
どうして──。
どうしてずっと、そう思いこんでいたのだろう。
夏休みには甲洋と虫やカエルをとって遊んだ。あぜ道を駆け抜けた。燦々と降り注ぐ太陽の下、川遊びをしてびしょ濡れになったりもした。冬には一日中雪のなかにいたって平気だった。
操は滅多なことでは風邪すらひかない、丈夫な子供だった。野山を平然と駆け抜けるだけの、強い足腰を持っていた。いつだって、こんなにも鮮明にあの頃を思いだすことができるのに。
パラパラと、乾いた膜が剥がれていく。幾つもの矛盾が浮き彫りになっていくのを感じていた。
──来主はそうやってすぐに油断する。明日寝込むことになっても知らないよ。
(そうだ、おれはよく具合が悪くなって、それで、寝込むことが多くって……ちょっと元気だからって気を抜くと、次の日には、必ず……)
必ず……?
──顔色が悪いね。昨日、長いこと庭にいたんだろ。
──やっぱり。少し熱がある。食事も進んでないみたいだし。
──自分では分からない? 今は微熱だけど、夜にはもっと高くなると思うよ。
甲洋が言うと、自分でもそうなのかもしれないと、なんの疑いもなく思いこまされた。けれどそれは必ずといっていいほど、操が『今日は調子がいい』と感じたその翌日ではなかったか。
そうだ。自分の意思で寝込んだことなど一度もない。甲洋が、無理やりにでも布団に押し込めてしまうから。操はただいい子でそれに従っていればよかった。信じていれば、間違いなかった。
まるで暗示だ。甲洋の言うことは、いつだって正しいはずだと。
ずっとずっと、そう思い込んでいた。
*
その話を聞いたあとでも、操が甲洋に対して怒りを覚えることはなかった。いつかのときみたいに、嘘つきと言って酷くなじる気にもなれない。ただ疑問だけが膨らんでいた。
この家に誰も訪れなかったのは、甲洋が遠ざけていたから。彼は二年間ものあいだ周りの人間を欺き、操を孤立させるように仕向けていた。
だけどどうして。なぜ、そんなことをする必要があったのだろう。なぜ、自分はなんの違和感も抱かずにいたのだろう。
身体のことだってそうだ。いつだって縋るみたいに、過去のことばかりを思いだしていたはずなのに。
陽が沈みかける頃、甲洋が帰宅した。
操はただ茫然としながら、仏間の中央に座り込んでいた。頭上で電気が灯される。
「来主?」
灯りもつけずに座り込んでいる操に、彼は眉をひそめながら首を傾げた。
「甲洋……おかえり」
のろのろと顔をあげ、心配そうに見下ろす瞳を見返す。覇気のなさがそのまま声に乗ってしまい、甲洋はよりいっそう顔を顰めると、しゃがみこんで操の頬や額に触れた。
「ちゃんと寝てるように言ったのに。どうしてそんな無理するの」
「無理なんか、してないよ」
「嘘。朝よりずっと顔色がひどくなってる」
たぶん、これは真実だ。自分でも全身から血の気が引いている自覚がある。甲洋は「早く横になって」と言って、操の手をとった。けれどそれを、反射的に振り払ってしまう。
「来主?」
「……いい。少し、ほっといて」
庭から鈴虫の声がしている。いつもより低い操の声は、その鳴き声よりも小さなものだった。
甲洋の戸惑いが皮膚から痛いほど伝わった。彼は本気で操の身を案じている。そこに嘘はないように感じられた。それが逆に、操を混乱へと導いていく。
(どうしておれを騙したの? 騙して、どうするつもりでいるの?)
あの日、操が山の斜面を転がり落ちて、足を怪我した日。あのとき、操は甲洋に呪いをかけた。
真っ赤な血と、惨たらしい右足を見せつけながら、君のせいだと言って静かに責めた。甲洋が意地悪をするから。もう知らないなんて言うから。だからこんなことになってしまったのだと。
甲洋は、一生をかけて償うと言った。操は甲洋の神様になったはずだった。罪の意識で縛りつけ、背負わなくてもいいはずの十字架を背負わせ、支配したはずだった。
(怖い)
そう思った。甲洋が怖い。なんだって知っていると思っていた。ずっと一緒にいたから。彼の優しさを、責任感を、全て利用しながら理解していると思いこんでいた。けれど違っていたのだろうか。
「来主、リンゴは食べた? 外にも出たね。どうして言うこと聞かなかったの?」
「……なんで分かるの?」
「縁側に杖がある。朝は廊下に立てかけてあったのに」
「なんでも分かっちゃうんだ、甲洋には」
だけど操には分からない。甲洋の気持ちも、考えていることも、なにも。
子供のころから、ずっと変わらない。分からないままだ。なにひとつ、甲洋のことを、知らない。
知らないから、平気で傷つけることができた。籠の中に閉じ込めた小さな命を殺めるみたいに。幼さを武器にして、無遠慮に、ズケズケと。触れてほしくないものに平気で触れて、そこにある痛みを、知ろうともせず。
けれど今は恐ろしい。知らないことが、恐ろしい。
「来主、部屋に戻ろう。すぐに夕飯の支度をするから。それまで横に」
「うるさいってば!」
「!」
「ほっといてって言ってるじゃん!!」
ああ、また。
目の前が真っ赤に染まった。傷つける。傷つけてしまう。傷つけるために、操は拳を振り上げる。
だけど振り下ろす寸前で、ピタリと、止まる。甲洋は、薄く微笑んでいた。
「──っ!」
(なんで……?)
目を閉じるでもなく、顔を背けようとするでもなく、ただ優しく、愛おしそうに、操を見つめている。
(なんで、そんな顔するの?)
焦がれるような瞳だった。まるで待ちわびているみたいだった。薄い唇に乗っていたささやかな笑みが、けれど操が動きを止めてしまったことに気づいて、不思議そうにほどけていった。
「来主?」
目を丸くしながら、甲洋はことりと首を傾げて見せる。その仕草が少し子供っぽくも見えて、そこに垣間見えた無邪気さに、操は足先からゾワゾワと冷たいなにかが這い上がってくるのを感じた。
(このひと、誰……?)
ふと、そんな疑問が頭をもたげる。
このひとは誰だろう。ずっと一緒にいた。子供の頃から、ずっとずっと。そばにいたのに。
「来主。ねぇ来主」
振り上げたままの拳を、甲洋の手が包み込む。そのまま引き寄せ、自分の頬へとあてがうと縋るように頬ずりをする。
「お前は俺に、なにをしたって許されるんだよ」
「っ、や、やめて」
「来主、頼むから」
甲洋の手が震えているのか、操の拳が震えてるのか、どちらなのか分からなかった。だけど祈るように閉じた瞼で、彼が凍えたように睫毛を震わせていることだけは、分かった。
「いやだ甲洋……泣かないで」
空いているほうの手を甲洋の頬に這わせて、操は上ずる声でそう言っていた。
どうしてだろう。初めてだったのに。彼を殴らずに済んだのは初めてだった。なのに、どうして後悔なんかしてるんだろう。傷つけずに済んだのに、ちゃんと傷つけてあげればよかったなんて。そんな狂ったことを思ってしまうのは。
操には分からなかった。甲洋のことが分からなかった。だけど自分自身のことも、もうなにも、分からなくなってしまった。
←戻る ・ 次へ→