2025/09/06 Sat 第二話『再会』 駅を出ると、すでに辺りは陽が沈んで薄青に包まれていた。傷心の胸に秋風の冷たさが堪える。 小さく身を震わせながら腕時計を見やれば、指定された時刻に間に合うかどうかと言ったところだった。 道に迷うことを恐れて早めに家を出たはずが、思っていた以上にトイレに篭っていた時間が長くなってしまった。 手書きの地図をカバンから取り出し、街の明りを頼りに確認しながら重い足を踏み出してゆく。 大通りは帰宅途中の学生やサラリーマン等で賑わっていて、ただでさえダメージから立ち直りきれず足取りのおぼつかないファイは、幾度もそれらに肩をぶつけては弱々しく頭を下げた。 数名のケバケバしい女子高生の群にぶつかった時、ガラの悪い舌打ちをお見舞いされた。 (帰りたい…) なんだかまた泣きたくなって、ファイは胸のうちで切実に呟いた。 こんなことなら、気安くバイトなど引き受けるのではなかった……。 *** 今年の夏休みは、適当なバイトでもして彼女と楽しくやる予定だった。 海にも行きたいし、映画も見たい。花火もしたいし、美味しいものも食べに行って……。 そんな風にウキウキと立てていた予定だが、それらは虚しく崩壊してしまった。彼女と上手くいかなくなってしまったからだ。 だが悲しいことに、恋人との破局はファイにとってそう珍しいことではなくなっていた。 目移りは激しいし、落ち着きに欠けるし、気紛れな性格だという自覚はある。 けれど、特定の相手と付き合えばその相手だけを見てるし、浮気だって滅多なことではしない。自分に出来る限りの愛情表現もしているつもりだった。 だがそれの一体何がいけないのか、いつだって振られるのはファイの方だった。 必ずと言っていいほどお決まりの文句だってある。 『テンションについて行けない』 『好きって言葉が軽すぎる』 『どうせ同じようなこと他の子にも言ってるんでしょ?』 『男の人として見れなくなってきちゃった』 などなど。 どうもチャラチャラとした軽い男だというイメージを持たれてしまうらしい。 ニコニコしていれば何を考えているのか分からないと言われ、真っ直ぐ気持ちを伝えれば言葉の安売りと言われる。 挙句の果てには男としての魅力を感じないときたものだ。要は全否定である。 いつも明るく笑っていることの何がいけないのだろう。 どんよりと何事にも悲観して暗い顔をしているより、どんなことだって楽しく感じられて笑顔でいる方がずっといい。好きな相手には、自分の気持ちを惜しみなく伝えたい。 楽しいし嬉しいから笑って、大好きだからそれを口にしているだけなのに、それでは駄目なのだろうか。 女の子は本当に難しい。一方的に三行半を叩きつけてきたかと思えば、次の日にはもう違う男と楽しげに手を繋いで歩いていたりする。 その度に同じ大学に通う友人達からは、「お前は女を見る目がないんだ」と言われたりもした。 そうして夏休み直前、彼女からお決まりの台詞を吐かれて、ファイは途方に暮れた。 また駄目だったという思いに持ち前のポジティブさもどこへやら、激しく落ち込んだ。 けれど、なんだかんだでくよくよしてばかりいるのは嫌だった。もう恋なんかするものかという思いから、バイトに明け暮れた。 肉体労働はあまり好きではないが、余計なことを考える時間をなくすために青空の下、工事現場で汗を流した。 だが、結果は最悪だった…。 生まれつき肌が白いファイは、長時間強い日差しの下にいるだけで皮膚は赤くただれるし、筋肉モリモリの汗臭い連中の中にいて、幾度嫌気が差したか知れない。 夏休みが終わる頃には、心も身体もボロボロだった。ちょっとは身体が鍛えられたかと期待はしたが、体質がそれを許してくれず、相変わらず細くひょろひょろのままだった。 財布は膨れたが、せっかくの二十歳の夏休みを自分は一体何をしていたのだろうかと、後悔ばかりが押し寄せた。 ぼんやりと打ちひしがれることが多くなっていたファイだったが、ある日それを見かねて新たなバイトでも始めてみないかと、そう持ちかけてきたのはユゥイだった。 ユゥイはファイの双子の弟で、現在は料理系の専門学校へ通う傍ら、とあるカフェでアルバイトをしていた。 「常連さんの息子さんなんだけど、家庭教師を探してるんだって」 よく主婦仲間とお茶をしに来るという女性の息子で、現在高校2年生だという。 条件は週に2回で火曜と金曜。午後8時から10時の二時間で、教科は現段階では数学と化学。 個人契約になるが、信頼に足るご家庭だと言って、ユゥイは太鼓判を押していた。 適当にバイトは続けようと思っていたファイだったので、あっさり了承した。 *** ある程度の回想が終わった頃、景色は人通りの多い街並みからひっそりとした住宅街へと移り変わっていた。 地図と、迷わないようにと書き添えられたメモを頼りに辺りを見回す。 確かユゥイは大きなお屋敷だからすぐに分かるだろうと言っていた。 「あ、やっぱりここだ」 瓦の葺かれた趣のある板塀を添うように歩いていたファイは、まさにその塀こそが目的の家のものであることになんとなく気がついていた。 すでに辺りは暗く、見上げてもぼんやりとしたシルエットでしか確認は出来ないものの、そこがとんでもなく大きな日本家屋であることが知れる。 こんなことでもない限り、ファイには一生縁がなさそうだ。 「お金持ちの家だぁー……」 思わず呟く。このような大きなお屋敷の息子ともなれば、一体どんな人物なのだろう。 きっと礼儀正しく、よく躾けのされた優等生に違いない。 なんとなく物怖じして気が引けてしまったファイだが、柄の悪いヤンキーよりはマシだと自らを奮い立たせる。 ひとまずは、案外あっさり辿り付けたことにホッと胸を撫で下ろし、同時にやはりもっとゆっくり家を出れば良かったとも思う。そうしていたら、先刻のような悲劇に見舞われずに済んだかもしれないのに。 けれどそこでブンブンと首を左右に振る。 「忘れよう……。オレはお仕事しにここに来たんだから……!」 ファイが見舞われた事故と、このお宅は一切関係がないのだから。 時計を見て、時間に間に合ったことを確認すると、ファイは木造の大きな門に備え付けられたインターホンのコールボタンを押した。 *** 「本当にそっくりで、ビックリしましたわ」 出迎えてくれたのは、上品で優しげな若い女性だった。 淡い藤色に季節の吹き寄せ模様が施された着物に身を包み、長い黒髪がゆるゆると可憐に波を描いている。 とてもではないが、高校生の息子がいるとは思えないほどの若さと美貌を兼ね備えたその女性に、ファイの緊張のボルテージは頂点に達していた。 「いつもお友達と行くんですよ。ユゥイさんのいらっしゃるお店に」 「は、はぁ……」 「ケーキもお茶も本当に美味しくて……あ、こちらの廊下の角を曲がれば息子の部屋です」 ファイの前を摺り足で歩いていた女性が振り返り、そっと手で「どうぞ」と示す。 「少し頑固で気難しいところはありますが、真面目な子ですから……しっかり鍛えてやってくださいましね」 「あ、あの、はい……」 すぐにお茶をお持ちしますから、と言って彼女は行ってしまった。 ひっそりとした廊下に一人残されたファイは、長い黒髪が消えてゆくのを見送ると思いっきり息を吐き出した。 「ふわー……緊張したぁー……」 メインのイベントはこれからだと言うのに、なんだかどっと疲れきっている。 だがもはや引き返すことは出来ず、なぜかファイまで摺り足で示された方へ進んだ。 言われた通り角を曲がると、すぐの廊下に面した部屋の障子が開け放たれている。 広い和室で、文机の前に正座する男の後ろ姿があった。ピンと真っ直ぐに伸びた背は広く、皺ひとつない白いシャツに覆われている。 おそらく彼が今日から教える生徒だろう。 母親と同じ黒髪が、ツンツンと無造作に立っている。どこかで見たような気が、しないでもない。 「あ、えっと、黒鋼君、だよねー?」 名前はユゥイや、先刻の女性から聞いていた。極力明るく声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。 すると…。 「…!?」 そこには、先刻ファイを痴漢から救ってくれた、男前高校生の顔があった。 ←戻る ・ 次へ→
駅を出ると、すでに辺りは陽が沈んで薄青に包まれていた。傷心の胸に秋風の冷たさが堪える。
小さく身を震わせながら腕時計を見やれば、指定された時刻に間に合うかどうかと言ったところだった。
道に迷うことを恐れて早めに家を出たはずが、思っていた以上にトイレに篭っていた時間が長くなってしまった。
手書きの地図をカバンから取り出し、街の明りを頼りに確認しながら重い足を踏み出してゆく。
大通りは帰宅途中の学生やサラリーマン等で賑わっていて、ただでさえダメージから立ち直りきれず足取りのおぼつかないファイは、幾度もそれらに肩をぶつけては弱々しく頭を下げた。
数名のケバケバしい女子高生の群にぶつかった時、ガラの悪い舌打ちをお見舞いされた。
(帰りたい…)
なんだかまた泣きたくなって、ファイは胸のうちで切実に呟いた。
こんなことなら、気安くバイトなど引き受けるのではなかった……。
***
今年の夏休みは、適当なバイトでもして彼女と楽しくやる予定だった。
海にも行きたいし、映画も見たい。花火もしたいし、美味しいものも食べに行って……。
そんな風にウキウキと立てていた予定だが、それらは虚しく崩壊してしまった。彼女と上手くいかなくなってしまったからだ。
だが悲しいことに、恋人との破局はファイにとってそう珍しいことではなくなっていた。
目移りは激しいし、落ち着きに欠けるし、気紛れな性格だという自覚はある。
けれど、特定の相手と付き合えばその相手だけを見てるし、浮気だって滅多なことではしない。自分に出来る限りの愛情表現もしているつもりだった。
だがそれの一体何がいけないのか、いつだって振られるのはファイの方だった。
必ずと言っていいほどお決まりの文句だってある。
『テンションについて行けない』
『好きって言葉が軽すぎる』
『どうせ同じようなこと他の子にも言ってるんでしょ?』
『男の人として見れなくなってきちゃった』
などなど。
どうもチャラチャラとした軽い男だというイメージを持たれてしまうらしい。
ニコニコしていれば何を考えているのか分からないと言われ、真っ直ぐ気持ちを伝えれば言葉の安売りと言われる。
挙句の果てには男としての魅力を感じないときたものだ。要は全否定である。
いつも明るく笑っていることの何がいけないのだろう。
どんよりと何事にも悲観して暗い顔をしているより、どんなことだって楽しく感じられて笑顔でいる方がずっといい。好きな相手には、自分の気持ちを惜しみなく伝えたい。
楽しいし嬉しいから笑って、大好きだからそれを口にしているだけなのに、それでは駄目なのだろうか。
女の子は本当に難しい。一方的に三行半を叩きつけてきたかと思えば、次の日にはもう違う男と楽しげに手を繋いで歩いていたりする。
その度に同じ大学に通う友人達からは、「お前は女を見る目がないんだ」と言われたりもした。
そうして夏休み直前、彼女からお決まりの台詞を吐かれて、ファイは途方に暮れた。
また駄目だったという思いに持ち前のポジティブさもどこへやら、激しく落ち込んだ。
けれど、なんだかんだでくよくよしてばかりいるのは嫌だった。もう恋なんかするものかという思いから、バイトに明け暮れた。
肉体労働はあまり好きではないが、余計なことを考える時間をなくすために青空の下、工事現場で汗を流した。
だが、結果は最悪だった…。
生まれつき肌が白いファイは、長時間強い日差しの下にいるだけで皮膚は赤くただれるし、筋肉モリモリの汗臭い連中の中にいて、幾度嫌気が差したか知れない。
夏休みが終わる頃には、心も身体もボロボロだった。ちょっとは身体が鍛えられたかと期待はしたが、体質がそれを許してくれず、相変わらず細くひょろひょろのままだった。
財布は膨れたが、せっかくの二十歳の夏休みを自分は一体何をしていたのだろうかと、後悔ばかりが押し寄せた。
ぼんやりと打ちひしがれることが多くなっていたファイだったが、ある日それを見かねて新たなバイトでも始めてみないかと、そう持ちかけてきたのはユゥイだった。
ユゥイはファイの双子の弟で、現在は料理系の専門学校へ通う傍ら、とあるカフェでアルバイトをしていた。
「常連さんの息子さんなんだけど、家庭教師を探してるんだって」
よく主婦仲間とお茶をしに来るという女性の息子で、現在高校2年生だという。
条件は週に2回で火曜と金曜。午後8時から10時の二時間で、教科は現段階では数学と化学。
個人契約になるが、信頼に足るご家庭だと言って、ユゥイは太鼓判を押していた。
適当にバイトは続けようと思っていたファイだったので、あっさり了承した。
***
ある程度の回想が終わった頃、景色は人通りの多い街並みからひっそりとした住宅街へと移り変わっていた。
地図と、迷わないようにと書き添えられたメモを頼りに辺りを見回す。
確かユゥイは大きなお屋敷だからすぐに分かるだろうと言っていた。
「あ、やっぱりここだ」
瓦の葺かれた趣のある板塀を添うように歩いていたファイは、まさにその塀こそが目的の家のものであることになんとなく気がついていた。
すでに辺りは暗く、見上げてもぼんやりとしたシルエットでしか確認は出来ないものの、そこがとんでもなく大きな日本家屋であることが知れる。
こんなことでもない限り、ファイには一生縁がなさそうだ。
「お金持ちの家だぁー……」
思わず呟く。このような大きなお屋敷の息子ともなれば、一体どんな人物なのだろう。
きっと礼儀正しく、よく躾けのされた優等生に違いない。
なんとなく物怖じして気が引けてしまったファイだが、柄の悪いヤンキーよりはマシだと自らを奮い立たせる。
ひとまずは、案外あっさり辿り付けたことにホッと胸を撫で下ろし、同時にやはりもっとゆっくり家を出れば良かったとも思う。そうしていたら、先刻のような悲劇に見舞われずに済んだかもしれないのに。
けれどそこでブンブンと首を左右に振る。
「忘れよう……。オレはお仕事しにここに来たんだから……!」
ファイが見舞われた事故と、このお宅は一切関係がないのだから。
時計を見て、時間に間に合ったことを確認すると、ファイは木造の大きな門に備え付けられたインターホンのコールボタンを押した。
***
「本当にそっくりで、ビックリしましたわ」
出迎えてくれたのは、上品で優しげな若い女性だった。
淡い藤色に季節の吹き寄せ模様が施された着物に身を包み、長い黒髪がゆるゆると可憐に波を描いている。
とてもではないが、高校生の息子がいるとは思えないほどの若さと美貌を兼ね備えたその女性に、ファイの緊張のボルテージは頂点に達していた。
「いつもお友達と行くんですよ。ユゥイさんのいらっしゃるお店に」
「は、はぁ……」
「ケーキもお茶も本当に美味しくて……あ、こちらの廊下の角を曲がれば息子の部屋です」
ファイの前を摺り足で歩いていた女性が振り返り、そっと手で「どうぞ」と示す。
「少し頑固で気難しいところはありますが、真面目な子ですから……しっかり鍛えてやってくださいましね」
「あ、あの、はい……」
すぐにお茶をお持ちしますから、と言って彼女は行ってしまった。
ひっそりとした廊下に一人残されたファイは、長い黒髪が消えてゆくのを見送ると思いっきり息を吐き出した。
「ふわー……緊張したぁー……」
メインのイベントはこれからだと言うのに、なんだかどっと疲れきっている。
だがもはや引き返すことは出来ず、なぜかファイまで摺り足で示された方へ進んだ。
言われた通り角を曲がると、すぐの廊下に面した部屋の障子が開け放たれている。
広い和室で、文机の前に正座する男の後ろ姿があった。ピンと真っ直ぐに伸びた背は広く、皺ひとつない白いシャツに覆われている。
おそらく彼が今日から教える生徒だろう。
母親と同じ黒髪が、ツンツンと無造作に立っている。どこかで見たような気が、しないでもない。
「あ、えっと、黒鋼君、だよねー?」
名前はユゥイや、先刻の女性から聞いていた。極力明るく声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。
すると…。
「…!?」
そこには、先刻ファイを痴漢から救ってくれた、男前高校生の顔があった。
←戻る ・ 次へ→