2025/09/06 Sat 第八話『一号』 「おお、例の先生か! よく来てくれた!」 金曜日。 出迎えてくれたのは黒鋼でもその母親でもなく、紺の袴を身に纏う父親の方だった。 ファイは玄関先で彼と遭遇した瞬間、黒鋼が頭でもぶつけたのかと思った。 こんなにも明るく笑顔でいる黒鋼など、これまで一度たりとも見たことがなかったからだ。 「奥は昨日から友人と旅行に行っててな。むさ苦しい親父の出迎えで申し訳ない!」 「い、いいえ!」 彼は見れば見るほど黒鋼と瓜二つで、一瞬双子かと思うほどだった。 違いといえば、この精彩を放つ笑顔に話し方、そして長い後ろ髪を一つにまとめているくらいだろうか。 当然、迎えてくれるのは和服の美女のほうがありがたいが、袴姿の黒鋼一号(息子は二号)と遭遇するのはこれが初めてのことで、ファイは感激に胸を震わせた。 この絶世の男前から、あの超絶イケメンが生まれたのだと思うと納得の一言に尽きる。 黒鋼の家は代々剣道の道場を開いており、黒鋼も勿論その道を極めんと修行している……とは聞いていたが、基本的に訪れるのが夜なので、彼が剣道袴を身に着けている姿はまだ一度も拝んだことがない。 本人ではないにしろ、よく似た父親が袴を着こなす姿に黒鋼を重ねることは容易で、ちょっと得をした気分になる。 「茶はセルフだ。以前、なんとかいう高価な皿を一気に5枚割って以来、俺が台所に立つと奥が怒るんでな……。 まぁ、息子がやるだろう!」 「あ、いえいえ、お構いなくー」 黒鋼一号は豪快に笑いながら、ズカズカと大股で廊下の途中までついて来た。 こうして並ぶと、確かに二号もあの年齢にしては鍛え上げられているが、さらに完成された一号はもっと凄い。それに雰囲気は明るいが、やはり年齢を重ねているからか、なんともいえない大人の男の渋みを感じる。 あと何年かしたら、きっと二号もこんな風に……。 (ただでさえカッコイイのが、さらにカッコよくなっちゃうんだー) 一時はあの容貌の完璧さに妬みさえ覚えたことなど忘れて、ファイはどうしようもない胸のときめきを覚えていた。 寡黙な二号のことだから、きっと一号以上に渋くダンディな大人の男に成長するに違いない。 「どうだ先生、俺の息子は」 「…………ふえ?」 数年後の黒鋼に思いを馳せ、ついつい頬を緩めていたファイは一号の声に驚き、少しばかり反応を鈍らせた。 「ん? どうかしたか?」 「あ! い、いえ! なんでもないんですー!」 ファイが少し赤い頬でにっこりすると、きょとんとした表情の一号にも笑顔が戻った。 「息子のことだ。何か失礼があったら、遠慮なくゲンコツでもくれてやってくれ」 「えぇ!? だ、大丈夫ですよー。黒た……黒鋼君はすっごく優しくてカッコよくて、頭がいいですからー!」 そう言うと、一号は声を上げて笑った。 普段の二号があんな調子なので、その笑顔を見るとなんだかソワソワして妙な気分だった。 「それは父親として鼻が高いな。息子をよろしく頼む」 「こ、こちらこそ!」 律儀に頭を下げられて、ファイも慌ててペコリと頭を下げた。 *** 季節は秋から冬へと移り変わろうとしていた。 家庭教師を始めてまだ間もないにしては黒鋼のテスト結果もまぁまぁで、ファイはほっと一安心していた。 最近はどうもお喋りがメインになっていたような気がしていたので、これで逆に成績が下がってしまってはただの金銭泥棒になってしまう。 それでもまだ期末考査を目前に控えて気は抜けないが、本日も勉強前にファイは黒鋼が淹れた茶で温まりつつ無駄話に興じていた。 「いや~、黒たんってばお父さんのまるで生き写しだねー。すっごいカッコよくってドキドキしちゃったよー!」 一方的な無駄話は、もっぱらさきほど遭遇した黒鋼一号に関することだった。 「なんて言うんだろ? 大人ーって感じでさー、余裕があるのかな? 袴姿がセクシーだしー」 物珍しさと緊張におどおどしてしまった先刻とは打って変わり、ファイはじわじわと込み上げてくる興奮に頬を上気させていた。 「ねぇねぇ、お父さんって何歳? 剣道の先生なんだよね? 黒たんも小さい頃から教わってたんでしょ? 怒るとやっぱり怖いの? いつもはどんな会話するのー?」 見た目は瓜二つだが全く違う雰囲気の二人が、揃って会話するとどうなるのだろう? 黒鋼が両親と話し込んでいるところを見たことがないので、特にあの父親とはどんな親子関係を築いているのかがとても気になった。 「ねぇねぇ黒様ってばー」 矢継ぎ早に質問を繰り返すファイだったが、黒鋼は普段通り……いや、いつも以上に無口で相槌すら打ってくれないことに気がついた。 それに、もはや挨拶代わりにもなっているおかしな渾名で呼ぶことへのお咎めもない。 「どうかしたのー? もしかして、今日はあんまり調子よくない、とか?」 文机に向かって胡坐をかき、黙って茶を啜っている黒鋼に膝立ちでにじり寄った。ひょいっと顔を覗き込もうとしても、黒鋼は顔を背けてしまう。 一瞬だけ見えた表情は、なんだかいつも以上に不機嫌そうでちょっと怖かった。 「ねーねー黒たーん……ねーってばー……どうしてお話してくれないのー?」 傍らにペタンと腰を落として、情けなく眉を八の字にして寄せる。 黒鋼はいつも適当に相槌を打ってくれていたし、質問にはそっけなくとも答えてくれていたのに。 だからファイはいつもついお喋りが過ぎてしまうという自覚はあったが、今日はそんな気分ではないのだろうか……。 俯くファイに、黒鋼は渋々といった様子で視線を寄越した。 そして湯飲み茶碗を文机に置くと、身体をこちらに向けて言った。 「……おまえ、ああいうのが好みか」 「へ?」 思わず顔を上げてポカンと口を開く。黒鋼が、むっとしたように睨みつけて来た。 「好みってー?」 「ずいぶん俺の親父が気に入ったみてぇじゃねぇか。違うか?」 ファイは瞬きを繰り返しながら黒鋼を見つめて、やがて遅れて顔を真っ赤にした。慌てて両手をぶんぶんと振る。 「ち、違うよー! なに言ってんの!? こ、好みってなに!? オレそっちの人じゃないからね!?」 思い切り否定するが、そんなファイを見て黒鋼は冷たく鼻で笑った。 態度にも言葉にも、随分と棘が含まれている気がする。不機嫌なオーラが目に見えるかのようだった。 もしかしたら、この年頃の少年(には見えないのだが)にとって、親のことを深く突っ込まれるのは苦痛だったのかもしれない。 ファイは幼い頃に両親が他界しているのでよく分からないが、黒鋼の大人びた容姿が相まって、つい彼が多感な年頃であるということを忘れていた。 また自分勝手なことをしてしまったと後悔して、慌てて頭を下げようとしたときだった。 次の黒鋼の言葉に、ファイは大きく目を見開いた。 「どうだかな。そっちの気がなけりゃ、男の痴漢相手にあんなことにはならねぇだろ」 「……え?」 一瞬、何を言われたのか理解できなくて、脳内で幾度か反芻してみる。 それでも意味が分からなかった。いや、分かりたくなかったという方が正しい。 ただ、胸の辺りにドキンという衝撃が走っていた。 「それ、どういう意味……?」 茫然と呟いた声が意図せず震えていた。 黒鋼が、苛立ちを隠しもせず舌打ちをしながら顔を背ける。そして追い討ちをかけた。 「……言った意味そのまんまだろ」 「……っ!!」 ファイが息を呑むのと、静まり返っていた室内に何かが弾けたような小気味よい音が響くのは同時だった。 見れば目を見開いたまま顔を背けている黒鋼がいて、そして自分の右手が宙に浮いていた。 何が起こったのか、己のしでかしたことなのに、まるで思考が追いつかない。 やがてじんわりと手の平が痺れきて、そこでファイはようやく、この手が彼の頬を打ったことに気がついた。 みるみるうちに赤くなる頬で、黒鋼がこちらを真っ直ぐに見据えると背筋が凍りつくのを感じた。 思わずカッとなって手を上げてしまったことに、自分でも信じられない。だがファイも引くに引けなかった。 おそらく、このままでは泣いてしまう。 「ごめん……。オレ、帰る……」 鞄とコートを手にして、そそくさと立ち上がった。黒鋼は何も言わない。ただ顔を背けて、そしてファイもまたあえて振り返ることはしなかった。 ただ今はひたすら、感情が爆発しないうちにここから消えてしまいたかった。 ファイは、逃げるようにしてその場を後にした。 ←戻る ・ 次へ→
「おお、例の先生か! よく来てくれた!」
金曜日。
出迎えてくれたのは黒鋼でもその母親でもなく、紺の袴を身に纏う父親の方だった。
ファイは玄関先で彼と遭遇した瞬間、黒鋼が頭でもぶつけたのかと思った。
こんなにも明るく笑顔でいる黒鋼など、これまで一度たりとも見たことがなかったからだ。
「奥は昨日から友人と旅行に行っててな。むさ苦しい親父の出迎えで申し訳ない!」
「い、いいえ!」
彼は見れば見るほど黒鋼と瓜二つで、一瞬双子かと思うほどだった。
違いといえば、この精彩を放つ笑顔に話し方、そして長い後ろ髪を一つにまとめているくらいだろうか。
当然、迎えてくれるのは和服の美女のほうがありがたいが、袴姿の黒鋼一号(息子は二号)と遭遇するのはこれが初めてのことで、ファイは感激に胸を震わせた。
この絶世の男前から、あの超絶イケメンが生まれたのだと思うと納得の一言に尽きる。
黒鋼の家は代々剣道の道場を開いており、黒鋼も勿論その道を極めんと修行している……とは聞いていたが、基本的に訪れるのが夜なので、彼が剣道袴を身に着けている姿はまだ一度も拝んだことがない。
本人ではないにしろ、よく似た父親が袴を着こなす姿に黒鋼を重ねることは容易で、ちょっと得をした気分になる。
「茶はセルフだ。以前、なんとかいう高価な皿を一気に5枚割って以来、俺が台所に立つと奥が怒るんでな……。 まぁ、息子がやるだろう!」
「あ、いえいえ、お構いなくー」
黒鋼一号は豪快に笑いながら、ズカズカと大股で廊下の途中までついて来た。
こうして並ぶと、確かに二号もあの年齢にしては鍛え上げられているが、さらに完成された一号はもっと凄い。それに雰囲気は明るいが、やはり年齢を重ねているからか、なんともいえない大人の男の渋みを感じる。
あと何年かしたら、きっと二号もこんな風に……。
(ただでさえカッコイイのが、さらにカッコよくなっちゃうんだー)
一時はあの容貌の完璧さに妬みさえ覚えたことなど忘れて、ファイはどうしようもない胸のときめきを覚えていた。
寡黙な二号のことだから、きっと一号以上に渋くダンディな大人の男に成長するに違いない。
「どうだ先生、俺の息子は」
「…………ふえ?」
数年後の黒鋼に思いを馳せ、ついつい頬を緩めていたファイは一号の声に驚き、少しばかり反応を鈍らせた。
「ん? どうかしたか?」
「あ! い、いえ! なんでもないんですー!」
ファイが少し赤い頬でにっこりすると、きょとんとした表情の一号にも笑顔が戻った。
「息子のことだ。何か失礼があったら、遠慮なくゲンコツでもくれてやってくれ」
「えぇ!? だ、大丈夫ですよー。黒た……黒鋼君はすっごく優しくてカッコよくて、頭がいいですからー!」
そう言うと、一号は声を上げて笑った。
普段の二号があんな調子なので、その笑顔を見るとなんだかソワソワして妙な気分だった。
「それは父親として鼻が高いな。息子をよろしく頼む」
「こ、こちらこそ!」
律儀に頭を下げられて、ファイも慌ててペコリと頭を下げた。
***
季節は秋から冬へと移り変わろうとしていた。
家庭教師を始めてまだ間もないにしては黒鋼のテスト結果もまぁまぁで、ファイはほっと一安心していた。
最近はどうもお喋りがメインになっていたような気がしていたので、これで逆に成績が下がってしまってはただの金銭泥棒になってしまう。
それでもまだ期末考査を目前に控えて気は抜けないが、本日も勉強前にファイは黒鋼が淹れた茶で温まりつつ無駄話に興じていた。
「いや~、黒たんってばお父さんのまるで生き写しだねー。すっごいカッコよくってドキドキしちゃったよー!」
一方的な無駄話は、もっぱらさきほど遭遇した黒鋼一号に関することだった。
「なんて言うんだろ? 大人ーって感じでさー、余裕があるのかな? 袴姿がセクシーだしー」
物珍しさと緊張におどおどしてしまった先刻とは打って変わり、ファイはじわじわと込み上げてくる興奮に頬を上気させていた。
「ねぇねぇ、お父さんって何歳? 剣道の先生なんだよね? 黒たんも小さい頃から教わってたんでしょ? 怒るとやっぱり怖いの? いつもはどんな会話するのー?」
見た目は瓜二つだが全く違う雰囲気の二人が、揃って会話するとどうなるのだろう?
黒鋼が両親と話し込んでいるところを見たことがないので、特にあの父親とはどんな親子関係を築いているのかがとても気になった。
「ねぇねぇ黒様ってばー」
矢継ぎ早に質問を繰り返すファイだったが、黒鋼は普段通り……いや、いつも以上に無口で相槌すら打ってくれないことに気がついた。
それに、もはや挨拶代わりにもなっているおかしな渾名で呼ぶことへのお咎めもない。
「どうかしたのー? もしかして、今日はあんまり調子よくない、とか?」
文机に向かって胡坐をかき、黙って茶を啜っている黒鋼に膝立ちでにじり寄った。ひょいっと顔を覗き込もうとしても、黒鋼は顔を背けてしまう。
一瞬だけ見えた表情は、なんだかいつも以上に不機嫌そうでちょっと怖かった。
「ねーねー黒たーん……ねーってばー……どうしてお話してくれないのー?」
傍らにペタンと腰を落として、情けなく眉を八の字にして寄せる。
黒鋼はいつも適当に相槌を打ってくれていたし、質問にはそっけなくとも答えてくれていたのに。
だからファイはいつもついお喋りが過ぎてしまうという自覚はあったが、今日はそんな気分ではないのだろうか……。
俯くファイに、黒鋼は渋々といった様子で視線を寄越した。
そして湯飲み茶碗を文机に置くと、身体をこちらに向けて言った。
「……おまえ、ああいうのが好みか」
「へ?」
思わず顔を上げてポカンと口を開く。黒鋼が、むっとしたように睨みつけて来た。
「好みってー?」
「ずいぶん俺の親父が気に入ったみてぇじゃねぇか。違うか?」
ファイは瞬きを繰り返しながら黒鋼を見つめて、やがて遅れて顔を真っ赤にした。慌てて両手をぶんぶんと振る。
「ち、違うよー! なに言ってんの!? こ、好みってなに!? オレそっちの人じゃないからね!?」
思い切り否定するが、そんなファイを見て黒鋼は冷たく鼻で笑った。
態度にも言葉にも、随分と棘が含まれている気がする。不機嫌なオーラが目に見えるかのようだった。
もしかしたら、この年頃の少年(には見えないのだが)にとって、親のことを深く突っ込まれるのは苦痛だったのかもしれない。
ファイは幼い頃に両親が他界しているのでよく分からないが、黒鋼の大人びた容姿が相まって、つい彼が多感な年頃であるということを忘れていた。
また自分勝手なことをしてしまったと後悔して、慌てて頭を下げようとしたときだった。
次の黒鋼の言葉に、ファイは大きく目を見開いた。
「どうだかな。そっちの気がなけりゃ、男の痴漢相手にあんなことにはならねぇだろ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなくて、脳内で幾度か反芻してみる。
それでも意味が分からなかった。いや、分かりたくなかったという方が正しい。
ただ、胸の辺りにドキンという衝撃が走っていた。
「それ、どういう意味……?」
茫然と呟いた声が意図せず震えていた。
黒鋼が、苛立ちを隠しもせず舌打ちをしながら顔を背ける。そして追い討ちをかけた。
「……言った意味そのまんまだろ」
「……っ!!」
ファイが息を呑むのと、静まり返っていた室内に何かが弾けたような小気味よい音が響くのは同時だった。
見れば目を見開いたまま顔を背けている黒鋼がいて、そして自分の右手が宙に浮いていた。
何が起こったのか、己のしでかしたことなのに、まるで思考が追いつかない。
やがてじんわりと手の平が痺れきて、そこでファイはようやく、この手が彼の頬を打ったことに気がついた。
みるみるうちに赤くなる頬で、黒鋼がこちらを真っ直ぐに見据えると背筋が凍りつくのを感じた。
思わずカッとなって手を上げてしまったことに、自分でも信じられない。だがファイも引くに引けなかった。
おそらく、このままでは泣いてしまう。
「ごめん……。オレ、帰る……」
鞄とコートを手にして、そそくさと立ち上がった。黒鋼は何も言わない。ただ顔を背けて、そしてファイもまたあえて振り返ることはしなかった。
ただ今はひたすら、感情が爆発しないうちにここから消えてしまいたかった。
ファイは、逃げるようにしてその場を後にした。
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