2025/09/06 Sat 第十一話『捕物』 「ああ、そのことか……」 黒鋼は、ずずいと身を乗り出してくるファイに僅かに身を引くと、そっけない返事をした。 「お袋か?」 「そうだよ! お母さんから聞かなかったら、オレずっと知らないままだったじゃんか!」 彼は外見だけならしなやかな猫を彷彿とさせるが、こうしてキャンキャン騒ぐのを見ると、まるで子犬のようだと思う。犬は好きだ。もちろん、猫も。 年上(には見えないが)の男を捕まえてそんな表現はどうかと思うが、その仕草や言動の無邪気さに、どうしても保護欲をそそられて仕方がない。 淡い金色の髪が、肩を怒らせる彼に合わせてふわふわと跳ねたり波打ったりする。 一度だけ触れたことがあるが、なかなか上質な手触りだった。 「別にわざわざ言うほどのもんでも」 「あるよ!!」 一体何がそこまで不満なのか、戸惑う黒鋼にファイは頬を染めたまま、目元にじんわりと涙を浮かべた。 「お、おい馬鹿……泣くなよ……?」 この男に泣かれるとどうも弱い。 出会った最初の頃、癇癪めいたものを起こしたファイに思い切り泣かれたときも、どうすればいいのか実はかなり焦ったものだ。 しかしファイは黒鋼の制止も聞かずに宝石のように美しい瞳から涙を零した。 ああクソ、と内心で舌打ちをして、思わずボリボリと頭を掻く。 彼は一度ぎゅうと両目を閉じたかと思うと、跳ねるようにして黒鋼の胸に飛びついてきた。 「黒たん!!」 「どわっ!?」 あまりの勢いに引っくり返りそうになって、なんとか腕をついて堪える。 この細腕のどこにそんな力があるのかと思うほどの強い力で、胴をぎゅうぎゅうと締め付けられた。 「お、おい……なんなんだよてめぇは……!」 「だって……なんか感動しちゃって……まるでドラマみたいな展開だったんだもん……!」 黒鋼にしみれば、ファイとは出会いからして現実味が薄かったように思える。 彼そのものにしたってそうだ。男のくせにすぐ泣くし、時々何を言っているのか意味不明なときがあるし、お喋りで鬱陶しいくせになぜか一緒にいると胸の中がふわふわとしてくるし……。 この男といると、こちらまで感情の振り幅が大きくなってゆく気がした。 目を離せばすぐ迷子になって、どこかで一人泣いていそうで、放っておけない。 少なくとも、彼は今まで自分の周りには決していないタイプの人間だった。 だから扱いに困る。泣かれると、どうしたらいいか分からなくなる。 かといって無邪気な笑顔を見ていると、落ち着かない気持ちにもなる。 (どうかしてんのは俺の方かもな) 細い身体がぴったりと胸にしがみついてくるのを、黒鋼は抱き返すべきかどうか激しく迷っていた。子供のように体温が高くて、砂糖のような甘い香りがする。 甘いものは食べるのも嗅ぐのも苦手だが、なぜか今は不快ではなかった。 ファイの背中のすぐ側で両手を宙に浮かせたまま、指先をにぎにぎとさせる。 一体どうすりゃいいんだと困り果てていると、ファイがおもむろに顔を上げた。 間近で見下ろす濡れた瞳や赤い頬を見て、胸に妙なざわめきが起こった。 「黒たん、オレのために危ないことしてくれたの……?」 やけに頬が熱く感じた。黒鋼は慌てて否定する。 「馬鹿か! 偶然だ、偶然」 それは本当のことで、帰宅時の込み合った車内にて、たまたま見覚えのある顔と遭遇したからだった。 あのときは一瞬ではあったが、チラリと見ただけの顔を黒鋼はよく覚えていた。 男は懲りずにまた悪さを働いていた。被害者が男性であることに気がついて、呆れと同時に憤りを覚えた。 当然、被害者が女性であっても決して許せる行いではないが、どうしても思い出されるのはファイのことだった。 身動きが取れない状態で俯いている被害者男性と、あの時のファイが重なって見えた。 その瞬間、一気に頭に血が上った黒鋼は、電車の扉が開いたと同時に痴漢の手首を掴むと、思い切り投げ飛ばしていた。 被害に遭っていた男性はまだ少年で、ファイよりも幾分か身体の小さな他校の生徒だった。 ファイのときは、咄嗟に彼自身の心境も考慮して派手な立ち振る舞いは控えたのだが、騒ぎになってしまったせいであの少年は逆に赤っ恥をかいたかもしれない。 当の黒鋼自身は、面倒にならないうちに慌ててその場を去ったのだが、結局はこの目立つ風貌が仇となり、目撃者の証言から学校共々特定されてしまった。 新聞でも小さく取り上げられたが、高校生だという情報以外は公表されなかった。 にも関わらず、なぜか近所中に噂は広まっている。おそらく犯人は母だろう……。 要するに、である。 思い切り否定はしたものの、結局はファイが引き金になったことは事実だった。 黒鋼はどこか諦めにも似た心境で、天井を見ながら溜息を零した。そしてすぐに泣き濡れたファイの顔を見下ろす。 「別にたいしたことしたわけじゃねぇんだ。おまえの時は、足踏んづけてやるくらいしか出来なかったからな」 だいたい黒鋼にしたって、あのような輩は存在しているだけも気分が悪い。 相手が身動き取れない弱みに付け込んで好き勝手に自分の性癖を満たすなど、被害者の性別を問わず同じ人間として不愉快極まりない。 「だから、とりあえずはもう安心だろ。あんな変態野郎、そうはいるもんじゃねぇだろうからな」 ファイの頬にかかる金糸に指先で触れた。やはり、この手触りが好きだと思った。 黒鋼の手がくすぐったいのか、ファイは潤んだ瞳でふんわりと微笑んだ。 なんだか、胸の奥がきゅっと疼くのを感じる。 「うん……。ありがとう黒たん。お礼、言わせてね」 「おう……」 小さく笑うと、ファイの頬がさらに染まった。そのまま、まるでうっとりとしたように見上げてくる青い瞳があまりにも澄んだ色をしていて、思わずその身体を引き寄せていた。 吸い込まれる、と思った瞬間には、その濡れた目元に唇を落としていた。 ファイもそっと目を閉じた。長い睫毛が唇に触れて、少しくすぐったい。 そしてゆっくりと唇を離し、暫しぼんやりと見つめ合った。 口の中に、僅かに涙の塩辛さを感じながら。 二人は、どのくらいそうしていたのだろうか。 どちらかともなくハッとして、同時に耳まで真っ赤にしながら慌てて離れた。 「ご、ごめん!」 「悪い……」 先刻ほぼ同時に謝罪の言葉を述べ合ったときと同様に、二つの声が重なった。 なんともいえない微妙な空気の中で、黒鋼は俯いて両手で赤い頬を隠しているファイから目を逸らした。 一体なにが起こったのか。なにをしたのか。 まともに思考が働かない。けれど、まるで後悔していない自分が存在することには気が付いている。 それが何よりの問題点である気がした。 唇にはまだファイの柔らかな睫毛の感触が残っていて、この舌は涙の味を忘れられないでいる。 自分は一体どうなってしまったのだろう。この空気をどうすればいいのだろう。 黒鋼が冷静さを取り戻そうと思考を回転させることに必死になっていると、ファイが勢いよく顔を上げた。 「べ、勉強!!」 「!」 「勉強しなきゃね! ほらほら、時計見て! もうこんな時間だよー!」 白い指先が柱にかかっている時計を指差した。黒鋼も同調するように、大きく頷いた。 「そうだな。わかった」 「い、いやー、時間食っちゃったねー。ええっとこないだはどこまでやったっけかなー」 慌ててカバンを漁ってノートや筆入れなどを取り出すファイの傍らで、黒鋼も散らばっていた問題集や参考書を黙々と広げた。 そして、いつも以上に大きなリアクションで忙しないファイを視界の横に納めながら、黒鋼は思った。 何かおかしいと感じつつも、決して嫌というわけではない。 けれどすんなり受け入れてしまうには、性別の壁や培ってきたモラルがそれを良しとしない。 それなのに、黒鋼はどこかで諦めと、そして予感めいたものを感じていた。 おそらく自分はこの男と、恋をするのだろうと。 あるいは、もう。 ←戻る ・ 次へ→
「ああ、そのことか……」
黒鋼は、ずずいと身を乗り出してくるファイに僅かに身を引くと、そっけない返事をした。
「お袋か?」
「そうだよ! お母さんから聞かなかったら、オレずっと知らないままだったじゃんか!」
彼は外見だけならしなやかな猫を彷彿とさせるが、こうしてキャンキャン騒ぐのを見ると、まるで子犬のようだと思う。犬は好きだ。もちろん、猫も。
年上(には見えないが)の男を捕まえてそんな表現はどうかと思うが、その仕草や言動の無邪気さに、どうしても保護欲をそそられて仕方がない。
淡い金色の髪が、肩を怒らせる彼に合わせてふわふわと跳ねたり波打ったりする。
一度だけ触れたことがあるが、なかなか上質な手触りだった。
「別にわざわざ言うほどのもんでも」
「あるよ!!」
一体何がそこまで不満なのか、戸惑う黒鋼にファイは頬を染めたまま、目元にじんわりと涙を浮かべた。
「お、おい馬鹿……泣くなよ……?」
この男に泣かれるとどうも弱い。
出会った最初の頃、癇癪めいたものを起こしたファイに思い切り泣かれたときも、どうすればいいのか実はかなり焦ったものだ。
しかしファイは黒鋼の制止も聞かずに宝石のように美しい瞳から涙を零した。
ああクソ、と内心で舌打ちをして、思わずボリボリと頭を掻く。
彼は一度ぎゅうと両目を閉じたかと思うと、跳ねるようにして黒鋼の胸に飛びついてきた。
「黒たん!!」
「どわっ!?」
あまりの勢いに引っくり返りそうになって、なんとか腕をついて堪える。
この細腕のどこにそんな力があるのかと思うほどの強い力で、胴をぎゅうぎゅうと締め付けられた。
「お、おい……なんなんだよてめぇは……!」
「だって……なんか感動しちゃって……まるでドラマみたいな展開だったんだもん……!」
黒鋼にしみれば、ファイとは出会いからして現実味が薄かったように思える。
彼そのものにしたってそうだ。男のくせにすぐ泣くし、時々何を言っているのか意味不明なときがあるし、お喋りで鬱陶しいくせになぜか一緒にいると胸の中がふわふわとしてくるし……。
この男といると、こちらまで感情の振り幅が大きくなってゆく気がした。
目を離せばすぐ迷子になって、どこかで一人泣いていそうで、放っておけない。
少なくとも、彼は今まで自分の周りには決していないタイプの人間だった。
だから扱いに困る。泣かれると、どうしたらいいか分からなくなる。
かといって無邪気な笑顔を見ていると、落ち着かない気持ちにもなる。
(どうかしてんのは俺の方かもな)
細い身体がぴったりと胸にしがみついてくるのを、黒鋼は抱き返すべきかどうか激しく迷っていた。子供のように体温が高くて、砂糖のような甘い香りがする。
甘いものは食べるのも嗅ぐのも苦手だが、なぜか今は不快ではなかった。
ファイの背中のすぐ側で両手を宙に浮かせたまま、指先をにぎにぎとさせる。
一体どうすりゃいいんだと困り果てていると、ファイがおもむろに顔を上げた。
間近で見下ろす濡れた瞳や赤い頬を見て、胸に妙なざわめきが起こった。
「黒たん、オレのために危ないことしてくれたの……?」
やけに頬が熱く感じた。黒鋼は慌てて否定する。
「馬鹿か! 偶然だ、偶然」
それは本当のことで、帰宅時の込み合った車内にて、たまたま見覚えのある顔と遭遇したからだった。
あのときは一瞬ではあったが、チラリと見ただけの顔を黒鋼はよく覚えていた。
男は懲りずにまた悪さを働いていた。被害者が男性であることに気がついて、呆れと同時に憤りを覚えた。
当然、被害者が女性であっても決して許せる行いではないが、どうしても思い出されるのはファイのことだった。
身動きが取れない状態で俯いている被害者男性と、あの時のファイが重なって見えた。
その瞬間、一気に頭に血が上った黒鋼は、電車の扉が開いたと同時に痴漢の手首を掴むと、思い切り投げ飛ばしていた。
被害に遭っていた男性はまだ少年で、ファイよりも幾分か身体の小さな他校の生徒だった。
ファイのときは、咄嗟に彼自身の心境も考慮して派手な立ち振る舞いは控えたのだが、騒ぎになってしまったせいであの少年は逆に赤っ恥をかいたかもしれない。
当の黒鋼自身は、面倒にならないうちに慌ててその場を去ったのだが、結局はこの目立つ風貌が仇となり、目撃者の証言から学校共々特定されてしまった。
新聞でも小さく取り上げられたが、高校生だという情報以外は公表されなかった。
にも関わらず、なぜか近所中に噂は広まっている。おそらく犯人は母だろう……。
要するに、である。
思い切り否定はしたものの、結局はファイが引き金になったことは事実だった。
黒鋼はどこか諦めにも似た心境で、天井を見ながら溜息を零した。そしてすぐに泣き濡れたファイの顔を見下ろす。
「別にたいしたことしたわけじゃねぇんだ。おまえの時は、足踏んづけてやるくらいしか出来なかったからな」
だいたい黒鋼にしたって、あのような輩は存在しているだけも気分が悪い。
相手が身動き取れない弱みに付け込んで好き勝手に自分の性癖を満たすなど、被害者の性別を問わず同じ人間として不愉快極まりない。
「だから、とりあえずはもう安心だろ。あんな変態野郎、そうはいるもんじゃねぇだろうからな」
ファイの頬にかかる金糸に指先で触れた。やはり、この手触りが好きだと思った。
黒鋼の手がくすぐったいのか、ファイは潤んだ瞳でふんわりと微笑んだ。
なんだか、胸の奥がきゅっと疼くのを感じる。
「うん……。ありがとう黒たん。お礼、言わせてね」
「おう……」
小さく笑うと、ファイの頬がさらに染まった。そのまま、まるでうっとりとしたように見上げてくる青い瞳があまりにも澄んだ色をしていて、思わずその身体を引き寄せていた。
吸い込まれる、と思った瞬間には、その濡れた目元に唇を落としていた。
ファイもそっと目を閉じた。長い睫毛が唇に触れて、少しくすぐったい。
そしてゆっくりと唇を離し、暫しぼんやりと見つめ合った。
口の中に、僅かに涙の塩辛さを感じながら。
二人は、どのくらいそうしていたのだろうか。
どちらかともなくハッとして、同時に耳まで真っ赤にしながら慌てて離れた。
「ご、ごめん!」
「悪い……」
先刻ほぼ同時に謝罪の言葉を述べ合ったときと同様に、二つの声が重なった。
なんともいえない微妙な空気の中で、黒鋼は俯いて両手で赤い頬を隠しているファイから目を逸らした。
一体なにが起こったのか。なにをしたのか。
まともに思考が働かない。けれど、まるで後悔していない自分が存在することには気が付いている。
それが何よりの問題点である気がした。
唇にはまだファイの柔らかな睫毛の感触が残っていて、この舌は涙の味を忘れられないでいる。
自分は一体どうなってしまったのだろう。この空気をどうすればいいのだろう。
黒鋼が冷静さを取り戻そうと思考を回転させることに必死になっていると、ファイが勢いよく顔を上げた。
「べ、勉強!!」
「!」
「勉強しなきゃね! ほらほら、時計見て! もうこんな時間だよー!」
白い指先が柱にかかっている時計を指差した。黒鋼も同調するように、大きく頷いた。
「そうだな。わかった」
「い、いやー、時間食っちゃったねー。ええっとこないだはどこまでやったっけかなー」
慌ててカバンを漁ってノートや筆入れなどを取り出すファイの傍らで、黒鋼も散らばっていた問題集や参考書を黙々と広げた。
そして、いつも以上に大きなリアクションで忙しないファイを視界の横に納めながら、黒鋼は思った。
何かおかしいと感じつつも、決して嫌というわけではない。
けれどすんなり受け入れてしまうには、性別の壁や培ってきたモラルがそれを良しとしない。
それなのに、黒鋼はどこかで諦めと、そして予感めいたものを感じていた。
おそらく自分はこの男と、恋をするのだろうと。
あるいは、もう。
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