2025/09/06 Sat あなたにならば、この皮膚を食いちぎられても構わなかったのです。 私はあなたの血となり肉となり、あなた自身に溶け込みたかった。 例えば私に美しく青々とした鱗があったとしても。 無防備にぶら下げられたご馳走に食いつくだけの、愚かさと傲慢さがあったとしても。 私の願いは、それでも叶わなかったのでしょうか。 * グリーンアベンチュリンという宝石には、優しさ、素直さ、心の安定といった意味があるという。 宝石や花などにそれぞれ意味があるなんてこと自体、どこか不思議で理解しがたいなどと思っていた黒鋼にしてみれば、その意味について自慢気に語るファイもまた不思議なものに感じられた。 「よく知ってるな」 素直にそう言うと、ファイは「えへへー」と嬉しそうにはにかんで頬を染めた。 「キレイな名前だなって思って調べたんだー。ね? だからこれ見て!」 ファイが黒鋼の目の前に突き出してきたのは旅行雑誌だった。 そこに写っている小奇麗な概観のホテルの名が、『グリーンアベンチュリンホテル』だったのだ。 「湖のほとりにあるなんて凄い素敵だよねー? しかもさ、ここってホテルとは別にコテージもあるんだよー! オレ、一発で気に入っちゃったー!」 ひょいと片方の眉を動かした黒鋼に、ファイがべったりと縋りついてくる。 「ねーねー、どっか旅行に行きたいってずっと言ってたでしょー? ここにしよーよー」 どこか必死に強請る彼は、まるでスーパーやデパートなどで駄々をこねる幼子のようだった。 黒鋼はわざと味気ない返事を返す。 「いいんじゃねぇか?」 案の定その返し方が気に入らなかったらしいファイは、ぶうっと唇を膨らませた。 「もー! ちゃんとお話してよー! なんでそんな投げやりなわけー?」 「んなこたねぇよ」 ファイが行きたいと言うのならば、それに異存はなかった。 決して素直に口や態度に出すことは出来なくとも、黒鋼は彼が可愛くて仕方がなかったのだから。 * 翌日は透き通るような青の広がる晴天だった。 暖かく降り注ぐ太陽の光が、5月の新緑を燦々と照らしている。 木々の隙間から降り注ぐその光を浴びて、黒鋼は澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。 前の晩は大事を取って早めに眠りについたのが良かったのか、貧血で倒れたなど嘘のように調子がいい。 黒鋼とファイは朝食後、少しのんびり寛いでから、連れ立ってホテル周辺をブラリと散策することにした。 大型連休が終わった直後だからか、擦れ違う人間もなくむしろ閑散としているようにも感じられたが、むしろこちらの方が気楽に観光できて都合がいい。 ぽつぽつと何気ない会話を交わしながら、ゆったりとホテルの広大な敷地内を散歩していると、やがて純白の壁と色鮮やかなステンドグラスに彩られたチャペルに行き着いた。 緑の木々に囲まれるようにして佇むその美しい外観に、女心など知りもしない黒鋼でも、ここに憧れる女性は多くいるのではないかと思った。 『いいなー! オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』 ファイのはしゃぐ声が聞こえて、黒鋼は思わず苦笑した。 「馬鹿。結婚式なんか出来るわけねぇだろ」 「え?」 ごく自然に返したはずのその言葉は、一歩後を歩いていたファイの驚いた声に掻き消される。 思わずはっとして振り返り、目を見開いた。 「今なにか言った?」 彼は不思議そうに目を瞬かせながら黒鋼を見つめている。 確かに聞こえたと思ったファイの浮かれた声が、空耳だったとでも言うのだろうか。 「やだな。黒様ったら独り言?」 ふふ、と笑い出すファイに、返す言葉がない。ただ不思議な感覚に囚われていた。 この場所で2人の結婚式を挙げられればいいのにと目を輝かせるファイに、そんなこと出来るわけないと返せば、ここで彼は思い切り不満そうに頬を膨らませて抗議してくるはずだった。 『酷いよ黒わんこー! ちょっと言ってみただけなのにーっ』 不満の声や、薄い唇を尖らせる様までもが鮮明に思い浮かべることが出来る。 しかしそこでまた違和感とぶつかる。 『それ』は、一体『いつ』のことだったろうかと。 黒鋼は純白のチャペルを呆然とした面持ちで眺めた。 なぜかは分からないけれど、初めて来たと思っていたこの場所に、懐かしさを覚えはじめていた。 「それにしてもキレイな教会だね。女の子は憧れるだろうな」 チャペルのステンドグラスを眺めるファイがしみじみと呟いて、黒鋼はそのあまりにも奇妙な即視感を振り払った。 ここへ来るのは真実初めてのことである。ファイが旅行雑誌を見てこの場所を指定しなければ、きっと生涯来る機会も、ましてや知る機会にすら恵まれなかったかもしれない場所だ。 チャペルを見上げる穏やかな横顔を眺めて、黒鋼は自然と口元を綻ばせた。 「好きか?」 見上げてくるファイが「うん」と頷いてニコリと笑った。 黒鋼は再び視線を戻し、青く澄んだ空にくっきりと浮かび上がる十字架を眺めた。鈍色をした鳩が数羽、視界を長閑に横切ってゆく。澄んだ青空へ目を細め、黒鋼は懐かしさにふと思う。 『オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』 あのとき、なぜ否定したのだろう。 今になって後悔するくらいなら、話を合わせてやるくらいすればよかった。 それでもきっと、ファイはまた『気持ちがこもってない』などと言って唇を尖らせたのだろうか。 「……っ」 そこでまた我に返った。 たった今、この記憶は押しやったばかりのはずなのに。 この曖昧なくせにはっきりと鮮やかに脳裏を過ぎる『記憶』とは、一体なんなのだろう。 ありもしない出来事に、なぜ『後悔』などする必要があるのか。 自分自身が酷く不気味なものに感じられて、思わずファイの手を握ると、純白のチャペルに背を向け足早に歩き出す。 唐突に手を引かれたファイはよろめきながら小さな悲鳴を上げた。 「ど、どうしたの?」 「なんでもねぇ」 「でも」 「どこへ行きたい?」 「え?」 「てめぇの行きてぇところに行く」 ここから離れられれば、どこでもいい気がしていた。 * だが、その後どこへ行こうとも、奇妙な懐かしさは拭えなかった。 美しい景色を眺めながら歩いても、小洒落た喫茶店で軽食を取っても、都会ではお目にかかれない珍しい野鳥を見ても、黒鋼の自身に対する薄気味悪さは一向に消え去らない。 どこへ行こうとも、何を見ようとも、大喜びではしゃぐファイとそれを窘める自分のビジョンが付き纏う。 まるで白昼夢でも見ているかのような感覚。 懐かしさが後を絶たない。 ふとした瞬間、記憶の穴に深く入り込みすぎて戻れなくなりそうだった。 そんなときは、ファイがそっと寄り添い黒鋼に声をかけた。 彼はただずっと静かに微笑むばかりだった。 しかし黒鋼はふと気づく。 そのファイの笑顔や振る舞いにこそ、最大の違和感を覚えていることに。 * 夕方になると、少し風が強くなってきた。 茜色の空の下、ブラブラとコテージへの道を帰りながら、黒鋼は数歩先を歩くファイの背中を眺めた。 付き纏う不可思議な感覚と共に、黒鋼の胸にはなぜかぽっかりと穴が開いている。 それは、喪失感にも似た寂しさだった。 「おい」 「なぁに?」 おもむろに声をかければ、ファイが立ち止まって振り向いた。 その表情は夕陽を背にしているせいでよくは見えない。 けれど、きっと笑っているのだと思う。 なぜか酷く胸が苦しい。 「…………」 なにひとつ言葉など出てはこなかった。 ただひたすら、光を背にして翳りを纏う、ファイのシルエットを見つめた。 その金色の闇はゆっくりと黒鋼に近づき、やがて隣に並ぶ。 見上げてくる彼は思ったとおりの笑みを浮かべていた。 冷えた手が黒鋼の手に触れて、きゅっと緩く握られる。 「こう?」 小さく小首を傾げられても、やはり何も言えない。 そのまま手を引かれるようにして曲がりくねった道を歩いた。 湖の方向から流れてくる風は僅かに冷たい。ファイの手も冷たいままだ。 こんなにも体温の低い男だったろうか。黒鋼の記憶の中のファイは、いつだって幼い子供のような、高めの熱を持て余していたはずだった。 そっと手を繋ぐというよりは、勢いよく腕に飛びついてきた。黒鋼が人目を気にして難色を示すのにもお構いなしに、全身で甘えてきては笑ったり、怒ったり、すぐに泣いたり。いつだってその剥き出しの感情をぶつけてきた。 黒鋼の役目は、それを全て受け止めてやりながらも、咎めることのはずだった。 少しは落ち着け、ガキみてぇなことは言うな、はしゃぐんじゃねぇ。 そうやって窘めることが。 けれど、今ここにいるファイはまるで別人のようだ。 「ここでのおまえは、ずいぶんと大人しいんだな」 ようやく搾り出した声は、なぜか酷く擦れていた。 冷えた水があれば、この乾ききった喉を潤すことが出来るのに。 思えば、今日は肝心の湖へは行かなかった。 なぜか、行く気になれなかった。 風が止む。 ファイは空に向かって小さく声を上げて笑った。 その横顔は見慣れたもののはずなのに。 「それは君が望んだことだよ」 黒鋼は夕陽の橙に向かって瞳を眇める。 遥か遠くに夕陽を弾いてキラキラと光る湖を視界に捉えると、やはりあの嫌な頭痛が押し寄せた。 ←戻る ・ 次へ→
私はあなたの血となり肉となり、あなた自身に溶け込みたかった。
例えば私に美しく青々とした鱗があったとしても。
無防備にぶら下げられたご馳走に食いつくだけの、愚かさと傲慢さがあったとしても。
私の願いは、それでも叶わなかったのでしょうか。
*
グリーンアベンチュリンという宝石には、優しさ、素直さ、心の安定といった意味があるという。
宝石や花などにそれぞれ意味があるなんてこと自体、どこか不思議で理解しがたいなどと思っていた黒鋼にしてみれば、その意味について自慢気に語るファイもまた不思議なものに感じられた。
「よく知ってるな」
素直にそう言うと、ファイは「えへへー」と嬉しそうにはにかんで頬を染めた。
「キレイな名前だなって思って調べたんだー。ね? だからこれ見て!」
ファイが黒鋼の目の前に突き出してきたのは旅行雑誌だった。
そこに写っている小奇麗な概観のホテルの名が、『グリーンアベンチュリンホテル』だったのだ。
「湖のほとりにあるなんて凄い素敵だよねー? しかもさ、ここってホテルとは別にコテージもあるんだよー! オレ、一発で気に入っちゃったー!」
ひょいと片方の眉を動かした黒鋼に、ファイがべったりと縋りついてくる。
「ねーねー、どっか旅行に行きたいってずっと言ってたでしょー? ここにしよーよー」
どこか必死に強請る彼は、まるでスーパーやデパートなどで駄々をこねる幼子のようだった。
黒鋼はわざと味気ない返事を返す。
「いいんじゃねぇか?」
案の定その返し方が気に入らなかったらしいファイは、ぶうっと唇を膨らませた。
「もー! ちゃんとお話してよー! なんでそんな投げやりなわけー?」
「んなこたねぇよ」
ファイが行きたいと言うのならば、それに異存はなかった。
決して素直に口や態度に出すことは出来なくとも、黒鋼は彼が可愛くて仕方がなかったのだから。
*
翌日は透き通るような青の広がる晴天だった。
暖かく降り注ぐ太陽の光が、5月の新緑を燦々と照らしている。
木々の隙間から降り注ぐその光を浴びて、黒鋼は澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。
前の晩は大事を取って早めに眠りについたのが良かったのか、貧血で倒れたなど嘘のように調子がいい。
黒鋼とファイは朝食後、少しのんびり寛いでから、連れ立ってホテル周辺をブラリと散策することにした。
大型連休が終わった直後だからか、擦れ違う人間もなくむしろ閑散としているようにも感じられたが、むしろこちらの方が気楽に観光できて都合がいい。
ぽつぽつと何気ない会話を交わしながら、ゆったりとホテルの広大な敷地内を散歩していると、やがて純白の壁と色鮮やかなステンドグラスに彩られたチャペルに行き着いた。
緑の木々に囲まれるようにして佇むその美しい外観に、女心など知りもしない黒鋼でも、ここに憧れる女性は多くいるのではないかと思った。
『いいなー! オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
ファイのはしゃぐ声が聞こえて、黒鋼は思わず苦笑した。
「馬鹿。結婚式なんか出来るわけねぇだろ」
「え?」
ごく自然に返したはずのその言葉は、一歩後を歩いていたファイの驚いた声に掻き消される。
思わずはっとして振り返り、目を見開いた。
「今なにか言った?」
彼は不思議そうに目を瞬かせながら黒鋼を見つめている。
確かに聞こえたと思ったファイの浮かれた声が、空耳だったとでも言うのだろうか。
「やだな。黒様ったら独り言?」
ふふ、と笑い出すファイに、返す言葉がない。ただ不思議な感覚に囚われていた。
この場所で2人の結婚式を挙げられればいいのにと目を輝かせるファイに、そんなこと出来るわけないと返せば、ここで彼は思い切り不満そうに頬を膨らませて抗議してくるはずだった。
『酷いよ黒わんこー! ちょっと言ってみただけなのにーっ』
不満の声や、薄い唇を尖らせる様までもが鮮明に思い浮かべることが出来る。
しかしそこでまた違和感とぶつかる。
『それ』は、一体『いつ』のことだったろうかと。
黒鋼は純白のチャペルを呆然とした面持ちで眺めた。
なぜかは分からないけれど、初めて来たと思っていたこの場所に、懐かしさを覚えはじめていた。
「それにしてもキレイな教会だね。女の子は憧れるだろうな」
チャペルのステンドグラスを眺めるファイがしみじみと呟いて、黒鋼はそのあまりにも奇妙な即視感を振り払った。
ここへ来るのは真実初めてのことである。ファイが旅行雑誌を見てこの場所を指定しなければ、きっと生涯来る機会も、ましてや知る機会にすら恵まれなかったかもしれない場所だ。
チャペルを見上げる穏やかな横顔を眺めて、黒鋼は自然と口元を綻ばせた。
「好きか?」
見上げてくるファイが「うん」と頷いてニコリと笑った。
黒鋼は再び視線を戻し、青く澄んだ空にくっきりと浮かび上がる十字架を眺めた。鈍色をした鳩が数羽、視界を長閑に横切ってゆく。澄んだ青空へ目を細め、黒鋼は懐かしさにふと思う。
『オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
あのとき、なぜ否定したのだろう。
今になって後悔するくらいなら、話を合わせてやるくらいすればよかった。
それでもきっと、ファイはまた『気持ちがこもってない』などと言って唇を尖らせたのだろうか。
「……っ」
そこでまた我に返った。
たった今、この記憶は押しやったばかりのはずなのに。
この曖昧なくせにはっきりと鮮やかに脳裏を過ぎる『記憶』とは、一体なんなのだろう。
ありもしない出来事に、なぜ『後悔』などする必要があるのか。
自分自身が酷く不気味なものに感じられて、思わずファイの手を握ると、純白のチャペルに背を向け足早に歩き出す。
唐突に手を引かれたファイはよろめきながら小さな悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの?」
「なんでもねぇ」
「でも」
「どこへ行きたい?」
「え?」
「てめぇの行きてぇところに行く」
ここから離れられれば、どこでもいい気がしていた。
*
だが、その後どこへ行こうとも、奇妙な懐かしさは拭えなかった。
美しい景色を眺めながら歩いても、小洒落た喫茶店で軽食を取っても、都会ではお目にかかれない珍しい野鳥を見ても、黒鋼の自身に対する薄気味悪さは一向に消え去らない。
どこへ行こうとも、何を見ようとも、大喜びではしゃぐファイとそれを窘める自分のビジョンが付き纏う。
まるで白昼夢でも見ているかのような感覚。
懐かしさが後を絶たない。
ふとした瞬間、記憶の穴に深く入り込みすぎて戻れなくなりそうだった。
そんなときは、ファイがそっと寄り添い黒鋼に声をかけた。
彼はただずっと静かに微笑むばかりだった。
しかし黒鋼はふと気づく。
そのファイの笑顔や振る舞いにこそ、最大の違和感を覚えていることに。
*
夕方になると、少し風が強くなってきた。
茜色の空の下、ブラブラとコテージへの道を帰りながら、黒鋼は数歩先を歩くファイの背中を眺めた。
付き纏う不可思議な感覚と共に、黒鋼の胸にはなぜかぽっかりと穴が開いている。
それは、喪失感にも似た寂しさだった。
「おい」
「なぁに?」
おもむろに声をかければ、ファイが立ち止まって振り向いた。
その表情は夕陽を背にしているせいでよくは見えない。
けれど、きっと笑っているのだと思う。
なぜか酷く胸が苦しい。
「…………」
なにひとつ言葉など出てはこなかった。
ただひたすら、光を背にして翳りを纏う、ファイのシルエットを見つめた。
その金色の闇はゆっくりと黒鋼に近づき、やがて隣に並ぶ。
見上げてくる彼は思ったとおりの笑みを浮かべていた。
冷えた手が黒鋼の手に触れて、きゅっと緩く握られる。
「こう?」
小さく小首を傾げられても、やはり何も言えない。
そのまま手を引かれるようにして曲がりくねった道を歩いた。
湖の方向から流れてくる風は僅かに冷たい。ファイの手も冷たいままだ。
こんなにも体温の低い男だったろうか。黒鋼の記憶の中のファイは、いつだって幼い子供のような、高めの熱を持て余していたはずだった。
そっと手を繋ぐというよりは、勢いよく腕に飛びついてきた。黒鋼が人目を気にして難色を示すのにもお構いなしに、全身で甘えてきては笑ったり、怒ったり、すぐに泣いたり。いつだってその剥き出しの感情をぶつけてきた。
黒鋼の役目は、それを全て受け止めてやりながらも、咎めることのはずだった。
少しは落ち着け、ガキみてぇなことは言うな、はしゃぐんじゃねぇ。
そうやって窘めることが。
けれど、今ここにいるファイはまるで別人のようだ。
「ここでのおまえは、ずいぶんと大人しいんだな」
ようやく搾り出した声は、なぜか酷く擦れていた。
冷えた水があれば、この乾ききった喉を潤すことが出来るのに。
思えば、今日は肝心の湖へは行かなかった。
なぜか、行く気になれなかった。
風が止む。
ファイは空に向かって小さく声を上げて笑った。
その横顔は見慣れたもののはずなのに。
「それは君が望んだことだよ」
黒鋼は夕陽の橙に向かって瞳を眇める。
遥か遠くに夕陽を弾いてキラキラと光る湖を視界に捉えると、やはりあの嫌な頭痛が押し寄せた。
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