2025/09/06 Sat 私は私を壊すことばかりを考えていたように思います。 あなたという光を知らないままでいられたら。 私は真の願いなど知りもせず、世界はあなたを失わずにすんだのでしょうか。 あのとき、私の心は毀れてしまった。 闇に蝕まれ、その形を醜く歪められてゆくあなたの姿の、なんと美しいことでしょう。 私はあなたの肉ごと、この牙で噛み締めるのです。 幸福というものが、これほどまでに甘美でおぞましいものだということを。 * 蝋燭の火が揺らぐ中で、人形のように冷たいと思っていたファイの身体は少しずつその熱を高めていた。 彼が快楽に啼き、咽ぶ度に黒鋼の心は少しずつその穴を塞いでゆく。 不安が、苛立ちが、畏れが、ファイが反応を示し黒鋼を求める度に薄れてゆくような気がした。 白い歯が肩に食いつき、もたらされる痛みと快感が全身を駆け抜ければ、『今』この瞬間こそが真実なのだと、自分自身に言い聞かせることができる。 大丈夫。何も案ずることはない。 ファイはこの腕の中に確かにいて、呼吸をし、熱を上げ、黒鋼の名を呼んでいる。 その総てが愛しくて、欲しくて堪らない。 「愛してる」 聞こえるか聞こえないかの低い呟きを落とせば、ファイは閉じていた瞼を開けた。 白い手がゆっくりと伸びてきて、黒鋼の両頬を包み込む。 儚げな笑みが今にも泣きだしそうに見えて、なぜそんな風に笑うのかと思うほどに、胸が締め付けられる。 よく知っているはずのファイの香りを、なぜか酷く懐かしく感じて、黒鋼は一筋の涙を零した。 * 「ねぇ、梟夜湖の伝承って知ってる?」 幾度か情を交わした後、黒鋼の腕に抱かれたファイは天井を見つめながらそんなことを言い出した。 同じようにぼんやりと天井を眺めていた黒鋼は、ファイの方に顔を向けると僅かに眉を動かす。 「知らねぇな」 宝石の示す言葉に飽き足らず、そんなものまで調べていたのか。 興味の惹かれたものにばかりやたら熱心になる彼の性質を、呆れつつも微笑ましく感じる。 「あのね」 ファイは情交の余韻から抜け出せないままのうっとりとした様子で、その伝承とやらを語りはじめた。 水の中に住んでいた一匹の白蛇が、一人の男に恋をした。 男は釣りが大好きで、ほぼ毎日のように湖にやってきては魚を釣っていた。 そして最後には自分一人が食べきれるだけの魚を籠に入れ、多く獲った分は逃がしてやるのだ。 蛇はその様を見ながら、いつも思っていた。 この身が魚の姿をしていたなら、もっと男の近くに行けるのにと。 例え食われたとしても、愛する者の身体の一部になれるなら、それでも構わなかった。 あるとき、蛇は男への強い恋心から人間の女へと姿を変える。 けれど四肢のある身体は蛇であったときとは勝手が違い、女はまともに身動きすることも出来ずにただ蹲るばかりだった。 そこへ男がやってきて、女の美しさに惹かれ村へと連れ帰れった。 2人は互いに愛し合い、それからおよそ1年の月日が経った。 女は男の子供を身籠ることになる。 だが、女の身体には妊娠と共に変化が現れはじめた。 皮膚の一部にはてらてらと光る白い鱗が現れ始め、慎ましやかな食事だけでは満足できなくなった。 女は男が魚を釣りに行っている間、または夜中に眠っている間に、ネズミや産まれたばかりの仔猫などを捕まえては食べるようになった。 それから十月十日の月日が流れ、女は元気な女子を出産した。 しかし、徐々に人から蛇へと戻りつつあった女は、男に正体が知れることを恐れ、ある日産まれたばかりの赤子だけを残して湖へと姿を消した。 男は女を昼夜問わず探したが、結局二度と見つけることは出来なかった。 それから十数年。 赤子は姿を消してしまった女と瓜二つの美しい娘に成長した。 男は女と出会った場所を我が子に見せてやりたいという思いから、娘を連れて湖のほとりへと足を運んだ。 変わらず水の中で男を想い続けていた蛇は、美しい娘と男の仲睦まじい姿に嫉妬した。 その身を男の足へと絡ませて、男の身体を湖の底へ引きずりこんでしまった。 男がそこから戻ることはなく、娘は生涯幸せに暮らした。 ファイの話を聞き終えたとき、黒鋼は眉間に皺を寄せて僅かに唸った。 その蛇は、男の傍らにいた娘が自分が産んだ我が子だということには気がつかなかったのだろうか。人であった頃の自分と、瓜二つの娘のことに。 「関係なかったんじゃないかな……」 黒鋼が疑問を口に出す前に、まるで最初から知っていたかのようにファイがぼんやりと呟いた。 「自分と同じ姿をしているならば、尚更どうして私じゃないのって……思ったのかもしれない」 「……」 「それにね」 ファイは黒鋼の腕の中から起き上がると、ベッドの背凭れに寄りかかる。 「もしかしたら、最初から蛇は本心ではずっとそうしたかったんじゃないかな。その男の人を、ずっと待っていたのかもしれない」 「殺すことになってもか」 蝋燭の炎が一瞬、揺らいだ。まるで黒鋼の胸の内を写すかのように。 黒鋼の方に顔を向けたファイは、ただ微笑むばかりだった。 瞬きの度に頬に落とされる睫毛の影が、まるで蝶の羽ばたきのようにひらひらと踊って見えた。 やがてゆっくりと白い指先が伸びてきて、額にかかる黒髪を撫でる。冷たくて、黒鋼は微かに身を強張らせた。 この笑顔を、見慣れたものだとばかり思っていたけれど、それは違うのかもしれない。 同じだけれど、同じではないような気がする。 笑っているのに、笑っていない。屈託なく無邪気に笑うファイは、どこへ消えてしまったのだろう。埋まったとばかり思い込んでいた心の隙間が、不安が、息を吹き返す。 この目に映る全てのものが作り物のように感じられた。 「このお話はハッピーエンドだよ。残された娘だって、ちゃんと幸せに暮らしてる」 果たしてそうなのだろうか。 現に男は死んでいる。 この話の中で一番不気味なのは、人に化け、最後には嫉妬に駆られて男を引きずり込んだ蛇ではない。 娘の方だ。 まるで彼女が幸せに暮らすことが出来たのは、目の前で父を亡くしたからこそだとでも言っているかのようで。 嫌な後味が付き纏い、それはいつしか黒鋼自身が抱いている漠然とした不安や恐れと重なった。 「ねぇ黒たん、明日、湖に行ってみようか?」 黒鋼は思わずギクリとして、その瞬間、あのひび割れるような頭痛が再び襲いくる。 「っ……!!」 「黒たん?」 身体を丸めるようにして両手で頭を押さえる。 ズキリ、ズキリ、ズキリ。 一定の間隔で襲いくる痛みと一緒に、脳内に切り取られたような場面が幾度も浮かんでは消える。 それは、水の中で溺れる自らのビジョンだ。 水泡が天へと昇り、光に向かって伸ばされる手。堕ちてゆく感覚。 耳の中で、ゴボリゴボリというノイズの混じった重苦しい音がしている。ああ、これは水の音なのか。 冷たい両腕に抱き寄せられて、黒鋼は白い胸に頬を寄せた。優しく慈しむような手が幾度も頭を撫でる。 直に聞く心音が水音と重なり、やがて意識が波のようにさらわれてゆく。 「大丈夫」 ファイの声が遠い。 温かな水に包まれてゆくような感覚。 どこか懐かしい感覚。 「連れて行ってあげるから」 目蓋が落ちれば広がる闇。 どこまでも続く穏やかな闇。 「ずっと待ってるから」 意識が、途切れた。 ←戻る ・ 次へ→
あなたという光を知らないままでいられたら。
私は真の願いなど知りもせず、世界はあなたを失わずにすんだのでしょうか。
あのとき、私の心は毀れてしまった。
闇に蝕まれ、その形を醜く歪められてゆくあなたの姿の、なんと美しいことでしょう。
私はあなたの肉ごと、この牙で噛み締めるのです。
幸福というものが、これほどまでに甘美でおぞましいものだということを。
*
蝋燭の火が揺らぐ中で、人形のように冷たいと思っていたファイの身体は少しずつその熱を高めていた。
彼が快楽に啼き、咽ぶ度に黒鋼の心は少しずつその穴を塞いでゆく。
不安が、苛立ちが、畏れが、ファイが反応を示し黒鋼を求める度に薄れてゆくような気がした。
白い歯が肩に食いつき、もたらされる痛みと快感が全身を駆け抜ければ、『今』この瞬間こそが真実なのだと、自分自身に言い聞かせることができる。
大丈夫。何も案ずることはない。
ファイはこの腕の中に確かにいて、呼吸をし、熱を上げ、黒鋼の名を呼んでいる。
その総てが愛しくて、欲しくて堪らない。
「愛してる」
聞こえるか聞こえないかの低い呟きを落とせば、ファイは閉じていた瞼を開けた。
白い手がゆっくりと伸びてきて、黒鋼の両頬を包み込む。
儚げな笑みが今にも泣きだしそうに見えて、なぜそんな風に笑うのかと思うほどに、胸が締め付けられる。
よく知っているはずのファイの香りを、なぜか酷く懐かしく感じて、黒鋼は一筋の涙を零した。
*
「ねぇ、梟夜湖の伝承って知ってる?」
幾度か情を交わした後、黒鋼の腕に抱かれたファイは天井を見つめながらそんなことを言い出した。
同じようにぼんやりと天井を眺めていた黒鋼は、ファイの方に顔を向けると僅かに眉を動かす。
「知らねぇな」
宝石の示す言葉に飽き足らず、そんなものまで調べていたのか。
興味の惹かれたものにばかりやたら熱心になる彼の性質を、呆れつつも微笑ましく感じる。
「あのね」
ファイは情交の余韻から抜け出せないままのうっとりとした様子で、その伝承とやらを語りはじめた。
水の中に住んでいた一匹の白蛇が、一人の男に恋をした。
男は釣りが大好きで、ほぼ毎日のように湖にやってきては魚を釣っていた。
そして最後には自分一人が食べきれるだけの魚を籠に入れ、多く獲った分は逃がしてやるのだ。
蛇はその様を見ながら、いつも思っていた。
この身が魚の姿をしていたなら、もっと男の近くに行けるのにと。
例え食われたとしても、愛する者の身体の一部になれるなら、それでも構わなかった。
あるとき、蛇は男への強い恋心から人間の女へと姿を変える。
けれど四肢のある身体は蛇であったときとは勝手が違い、女はまともに身動きすることも出来ずにただ蹲るばかりだった。
そこへ男がやってきて、女の美しさに惹かれ村へと連れ帰れった。
2人は互いに愛し合い、それからおよそ1年の月日が経った。
女は男の子供を身籠ることになる。
だが、女の身体には妊娠と共に変化が現れはじめた。
皮膚の一部にはてらてらと光る白い鱗が現れ始め、慎ましやかな食事だけでは満足できなくなった。
女は男が魚を釣りに行っている間、または夜中に眠っている間に、ネズミや産まれたばかりの仔猫などを捕まえては食べるようになった。
それから十月十日の月日が流れ、女は元気な女子を出産した。
しかし、徐々に人から蛇へと戻りつつあった女は、男に正体が知れることを恐れ、ある日産まれたばかりの赤子だけを残して湖へと姿を消した。
男は女を昼夜問わず探したが、結局二度と見つけることは出来なかった。
それから十数年。
赤子は姿を消してしまった女と瓜二つの美しい娘に成長した。
男は女と出会った場所を我が子に見せてやりたいという思いから、娘を連れて湖のほとりへと足を運んだ。
変わらず水の中で男を想い続けていた蛇は、美しい娘と男の仲睦まじい姿に嫉妬した。
その身を男の足へと絡ませて、男の身体を湖の底へ引きずりこんでしまった。
男がそこから戻ることはなく、娘は生涯幸せに暮らした。
ファイの話を聞き終えたとき、黒鋼は眉間に皺を寄せて僅かに唸った。
その蛇は、男の傍らにいた娘が自分が産んだ我が子だということには気がつかなかったのだろうか。人であった頃の自分と、瓜二つの娘のことに。
「関係なかったんじゃないかな……」
黒鋼が疑問を口に出す前に、まるで最初から知っていたかのようにファイがぼんやりと呟いた。
「自分と同じ姿をしているならば、尚更どうして私じゃないのって……思ったのかもしれない」
「……」
「それにね」
ファイは黒鋼の腕の中から起き上がると、ベッドの背凭れに寄りかかる。
「もしかしたら、最初から蛇は本心ではずっとそうしたかったんじゃないかな。その男の人を、ずっと待っていたのかもしれない」
「殺すことになってもか」
蝋燭の炎が一瞬、揺らいだ。まるで黒鋼の胸の内を写すかのように。
黒鋼の方に顔を向けたファイは、ただ微笑むばかりだった。
瞬きの度に頬に落とされる睫毛の影が、まるで蝶の羽ばたきのようにひらひらと踊って見えた。
やがてゆっくりと白い指先が伸びてきて、額にかかる黒髪を撫でる。冷たくて、黒鋼は微かに身を強張らせた。
この笑顔を、見慣れたものだとばかり思っていたけれど、それは違うのかもしれない。
同じだけれど、同じではないような気がする。
笑っているのに、笑っていない。屈託なく無邪気に笑うファイは、どこへ消えてしまったのだろう。埋まったとばかり思い込んでいた心の隙間が、不安が、息を吹き返す。
この目に映る全てのものが作り物のように感じられた。
「このお話はハッピーエンドだよ。残された娘だって、ちゃんと幸せに暮らしてる」
果たしてそうなのだろうか。
現に男は死んでいる。
この話の中で一番不気味なのは、人に化け、最後には嫉妬に駆られて男を引きずり込んだ蛇ではない。
娘の方だ。
まるで彼女が幸せに暮らすことが出来たのは、目の前で父を亡くしたからこそだとでも言っているかのようで。
嫌な後味が付き纏い、それはいつしか黒鋼自身が抱いている漠然とした不安や恐れと重なった。
「ねぇ黒たん、明日、湖に行ってみようか?」
黒鋼は思わずギクリとして、その瞬間、あのひび割れるような頭痛が再び襲いくる。
「っ……!!」
「黒たん?」
身体を丸めるようにして両手で頭を押さえる。
ズキリ、ズキリ、ズキリ。
一定の間隔で襲いくる痛みと一緒に、脳内に切り取られたような場面が幾度も浮かんでは消える。
それは、水の中で溺れる自らのビジョンだ。
水泡が天へと昇り、光に向かって伸ばされる手。堕ちてゆく感覚。
耳の中で、ゴボリゴボリというノイズの混じった重苦しい音がしている。ああ、これは水の音なのか。
冷たい両腕に抱き寄せられて、黒鋼は白い胸に頬を寄せた。優しく慈しむような手が幾度も頭を撫でる。
直に聞く心音が水音と重なり、やがて意識が波のようにさらわれてゆく。
「大丈夫」
ファイの声が遠い。
温かな水に包まれてゆくような感覚。
どこか懐かしい感覚。
「連れて行ってあげるから」
目蓋が落ちれば広がる闇。
どこまでも続く穏やかな闇。
「ずっと待ってるから」
意識が、途切れた。
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