2025/09/06 Sat 早く来てね。 先に行って、待ってるから。 例えばこれは、まだこの世界に産声を上げる前の記憶と重なるのかもしれない。 母の腹の中にいた頃、温かな羊水の中で安らかに眠っていた頃の。 この闇はどこまでも深く穏やかで、優しかった。 許されるのならばこのまま、永遠に堕ちて行きたいとさえ思うほど。 『ねぇ』 懐かしい声がして、黒鋼は闇の中で目を開ける。 光はない。美しい闇の中。 『君はオレのためなら、死んでくれる?』 ああ、懐かしい。 これは遠い日の、何気ない会話の記憶の切れ端だ。 そのときの自分は、素直に頷いてはやれなかったけれど。 今ここで、黒鋼は迷いもしなければ、つまらない意地も張る気はない。 だから頷いた。 「もちろんだ」 水音がした。 闇がゆっくりと移り変わる。 光が近づく。夢から覚める。 『あの場所で、待ってる』 * 目覚めると、頬が濡れていることに気がついた。 乾きかけているそれを手の甲で拭うと、身を起こす。 木の温もりで満たされた室内はどんよりと暗い光が満ちている。 窓の外を見ると、遠くの景色が白い靄に包まれていた。 「霧か…」 何気なく呟いてから再び室内を見渡した。 ファイの姿がない。 人の気配がないところを見ると、どうやらコテージのどこにもいないらしい。 あまりにも静かすぎる空間に、漠然とした不安が過ぎる。 黒鋼は飛び起きると、慌てて衣服を身につけた。 『あの場所で、待ってる』 夢から覚める直前に聞いた声を思い出す。 あれは、本当に夢だったのだろうか。 時間の感覚も、記憶も、全てが曖昧に感じられた。 * コテージを飛び出して、向かう場所はひとつしかありえない。 彼が、きっと待っているに違いないと思った。 霧に包まれた木々の中をひた走った。 前方が不確かで、地面が僅かにぬかるんでいるせいで足を取られそうになる。 それでも黒鋼は何かに導かれるようにして、ただひたすら駆け抜けた。 早く早くと、ファイが呼んでいる声が聞こえるような気がした。 ほどなくして、湖には簡単に辿りつくことができた。 そのほとりを、目当ての人物を探して足早に進めば、濃密な靄の中に彼はいた。 けれど一人ではない。 ファイの側には一人の女と、それに身を隠すようにして白い花束を抱えた幼い子供がいた。 声をかけようとして、だがそれは女の号泣によって掻き消される。 思わず足を止めたが、ファイだけは黒鋼の存在に気がついたようだった。 こちらに向けられるその微笑に、背筋が凍るような感覚を覚えたのはなぜか。 息を呑み、黒鋼はそれ以上足を進めることが出来ずに立ち止まった。 「ごめんなさい……本当にごめんなさい……ゆるしてください……どうか……どうか…」 全身を黒いワンピースで包み込んでいる女は、まだ随分と若く見えた。 だが酷くやつれているせいで、はっきりとした年齢を推測することができない。 彼女は跪き、幾度もの謝罪と許しを請いながらファイに縋りついている。 ファイは黒鋼から視線を外すと女を見下ろし、その頼りない肩に両手を添えて、数回、首を振った。 「どうか顔を上げてください。もう済んでしまったことです」 「ごめんなさい……ッ、ごめんなさい……ッ」 黒鋼の目には、彼女はどこか正気を失っているように映った。 酷く気が動転して、髪でも振り乱したのだろうか。 本来は美しく纏められていたのであろう黒髪が解れ、髪留めが中途半端にぶら下がっている。 「ママ……」 なおもファイに縋りつく彼女を、すぐ背後に寄り添っていた少年が呼んだ。 ママ、と呼ばれた女は一瞬はっとして幼い息子を振り向くと、両腕を伸ばしてその身体を抱きしめた。 その拍子に、少年の腕の中の花束から白い花びらがヒラリと落ちる。 百合の花だった。 少年は母に抱かれたままきつくファイを見据え、ファイは微笑みながら彼の視線を受け止めている。 そして口を開いたのは少年だった。 「ママ、このひとは、ちがうよ」 母親が顔を上げた。 少年の顔を見て、それからファイを見上げた。 ファイはにっこりと笑うと、言った。 「そうだよ。ボクは違う」 * 親子が去った後の湖のほとりには、白い百合の花束が置き去りにされていた。 黒鋼は暫しの間、声もなくその花束を見下ろしていたが、やがて顔を上げるとファイの方に視線をやった。 「おまえは誰だ」 黒鋼の中に在り続けた歪な世界が、その姿を現そうとしている。 今の自分に分かっているのはただ、目の前の男が得体の知れない存在であるということだけ。 けれどそれは、あのコテージで目を覚ました最初の夜から、すでに漠然と付き纏っていたものだ。 ファイと寸分違わぬ姿をした男は、霧に包まれて先の見えない湖を静かに見つめていた 冷たくじっとりと濡れたような風が吹き、纏わりついていた靄が流れてゆく。 深い、宝石のような緑の水面が徐々に見通せるようになった。 「君が呼んだんだよ。ボクを見て、ファイって」 彼は、吹く風に靡く金色の髪を鬱陶しそうに白い手で押さえると、黒鋼と向き合う。 「あの日、君がね」 「っ……!?」 その瞬間。 黒鋼の脳内に、一気にある光景がフラッシュバックした。 小雨の降りしきる墓地。 黒いスーツ。 赤い傘。 百合の花。 それを両手いっぱいに抱えたファイ。 けれど墓石に刻まれた名前は。 黒鋼は額を押さえたまま数歩後ろによろける。 足元がぐんにゃりと歪んで、全身からあらゆる感覚が消えうせ、麻痺してゆくかのようだった。 自分がしっかり両足をついて立てているのかさえ曖昧だった。 世界が回る。 「ばか、な……っ」 頭の中でしきりに「嘘だ」と繰り返す自分の声がした。 墓石に真新しく刻まれた名前。 ファイの名前。 こんなものは全てが夢だ。 幻を見ているに違いない。 早く覚めなければならない。 そうすればいつも通りのファイに会うことが出来る。 この場所に来ることを心待ちにしているファイに。 「こいつは……ただの夢だ……ありえねぇだろこんなこと……っ!」 冷たい汗が背中を伝う。 目の前の男を睨みつければ、彼は哀れむような表情で黒鋼を見守っていた。 男は悲しそうに瞼を伏せた。 「そうだね」 そしてゆっくりと目が開かれる。 その瞳の青さえも、宝石のような輝きさえも、ファイと何もかもが同じだった。 「君は夢を見ていたよ。ずっと壊れたままだったから」 だからこれは夢ではない。 紛れもない現実。 残酷すぎるその宣告を聞いた瞬間、本当に足元から崩れ落ちた。 脳内を侵食する激痛に、黒鋼は膝をついて蹲った。 「でも、もう目を覚まさなきゃいけない」 「――ッ!!」 声にならない悲鳴を上げて、なす術もなくのたうつ。 目の前が赤く染まっている。 何かがじわじわと迫り来るのを感じていた。 それが何かは、まだ見えない。 「ボクはファイじゃいけど、ファイと同じだから。だから、わかる」 「ぐっ…うぅ…っ、ぅ…っ!!」 水音が聞こえる。 「君を呼んでる」 一際大きな痛みが、嫌な音を立てて黒鋼の中で弾けた。 男は無表情で黒鋼を見下ろすと、言った。 「だからここで、死んで」 黒鋼は、全てを思い出した。 ←戻る ・ 次へ→
先に行って、待ってるから。
例えばこれは、まだこの世界に産声を上げる前の記憶と重なるのかもしれない。 母の腹の中にいた頃、温かな羊水の中で安らかに眠っていた頃の。
この闇はどこまでも深く穏やかで、優しかった。
許されるのならばこのまま、永遠に堕ちて行きたいとさえ思うほど。
『ねぇ』
懐かしい声がして、黒鋼は闇の中で目を開ける。
光はない。美しい闇の中。
『君はオレのためなら、死んでくれる?』
ああ、懐かしい。
これは遠い日の、何気ない会話の記憶の切れ端だ。
そのときの自分は、素直に頷いてはやれなかったけれど。
今ここで、黒鋼は迷いもしなければ、つまらない意地も張る気はない。
だから頷いた。
「もちろんだ」
水音がした。
闇がゆっくりと移り変わる。
光が近づく。夢から覚める。
『あの場所で、待ってる』
*
目覚めると、頬が濡れていることに気がついた。
乾きかけているそれを手の甲で拭うと、身を起こす。
木の温もりで満たされた室内はどんよりと暗い光が満ちている。
窓の外を見ると、遠くの景色が白い靄に包まれていた。
「霧か…」
何気なく呟いてから再び室内を見渡した。
ファイの姿がない。
人の気配がないところを見ると、どうやらコテージのどこにもいないらしい。
あまりにも静かすぎる空間に、漠然とした不安が過ぎる。
黒鋼は飛び起きると、慌てて衣服を身につけた。
『あの場所で、待ってる』
夢から覚める直前に聞いた声を思い出す。
あれは、本当に夢だったのだろうか。
時間の感覚も、記憶も、全てが曖昧に感じられた。
*
コテージを飛び出して、向かう場所はひとつしかありえない。
彼が、きっと待っているに違いないと思った。
霧に包まれた木々の中をひた走った。
前方が不確かで、地面が僅かにぬかるんでいるせいで足を取られそうになる。
それでも黒鋼は何かに導かれるようにして、ただひたすら駆け抜けた。
早く早くと、ファイが呼んでいる声が聞こえるような気がした。
ほどなくして、湖には簡単に辿りつくことができた。
そのほとりを、目当ての人物を探して足早に進めば、濃密な靄の中に彼はいた。
けれど一人ではない。
ファイの側には一人の女と、それに身を隠すようにして白い花束を抱えた幼い子供がいた。
声をかけようとして、だがそれは女の号泣によって掻き消される。
思わず足を止めたが、ファイだけは黒鋼の存在に気がついたようだった。
こちらに向けられるその微笑に、背筋が凍るような感覚を覚えたのはなぜか。
息を呑み、黒鋼はそれ以上足を進めることが出来ずに立ち止まった。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……ゆるしてください……どうか……どうか…」
全身を黒いワンピースで包み込んでいる女は、まだ随分と若く見えた。
だが酷くやつれているせいで、はっきりとした年齢を推測することができない。
彼女は跪き、幾度もの謝罪と許しを請いながらファイに縋りついている。
ファイは黒鋼から視線を外すと女を見下ろし、その頼りない肩に両手を添えて、数回、首を振った。
「どうか顔を上げてください。もう済んでしまったことです」
「ごめんなさい……ッ、ごめんなさい……ッ」
黒鋼の目には、彼女はどこか正気を失っているように映った。
酷く気が動転して、髪でも振り乱したのだろうか。
本来は美しく纏められていたのであろう黒髪が解れ、髪留めが中途半端にぶら下がっている。
「ママ……」
なおもファイに縋りつく彼女を、すぐ背後に寄り添っていた少年が呼んだ。
ママ、と呼ばれた女は一瞬はっとして幼い息子を振り向くと、両腕を伸ばしてその身体を抱きしめた。
その拍子に、少年の腕の中の花束から白い花びらがヒラリと落ちる。
百合の花だった。
少年は母に抱かれたままきつくファイを見据え、ファイは微笑みながら彼の視線を受け止めている。
そして口を開いたのは少年だった。
「ママ、このひとは、ちがうよ」
母親が顔を上げた。
少年の顔を見て、それからファイを見上げた。
ファイはにっこりと笑うと、言った。
「そうだよ。ボクは違う」
*
親子が去った後の湖のほとりには、白い百合の花束が置き去りにされていた。
黒鋼は暫しの間、声もなくその花束を見下ろしていたが、やがて顔を上げるとファイの方に視線をやった。
「おまえは誰だ」
黒鋼の中に在り続けた歪な世界が、その姿を現そうとしている。
今の自分に分かっているのはただ、目の前の男が得体の知れない存在であるということだけ。
けれどそれは、あのコテージで目を覚ました最初の夜から、すでに漠然と付き纏っていたものだ。
ファイと寸分違わぬ姿をした男は、霧に包まれて先の見えない湖を静かに見つめていた
冷たくじっとりと濡れたような風が吹き、纏わりついていた靄が流れてゆく。
深い、宝石のような緑の水面が徐々に見通せるようになった。
「君が呼んだんだよ。ボクを見て、ファイって」
彼は、吹く風に靡く金色の髪を鬱陶しそうに白い手で押さえると、黒鋼と向き合う。
「あの日、君がね」
「っ……!?」
その瞬間。
黒鋼の脳内に、一気にある光景がフラッシュバックした。
小雨の降りしきる墓地。
黒いスーツ。
赤い傘。
百合の花。
それを両手いっぱいに抱えたファイ。
けれど墓石に刻まれた名前は。
黒鋼は額を押さえたまま数歩後ろによろける。
足元がぐんにゃりと歪んで、全身からあらゆる感覚が消えうせ、麻痺してゆくかのようだった。
自分がしっかり両足をついて立てているのかさえ曖昧だった。
世界が回る。
「ばか、な……っ」
頭の中でしきりに「嘘だ」と繰り返す自分の声がした。
墓石に真新しく刻まれた名前。
ファイの名前。
こんなものは全てが夢だ。
幻を見ているに違いない。
早く覚めなければならない。
そうすればいつも通りのファイに会うことが出来る。
この場所に来ることを心待ちにしているファイに。
「こいつは……ただの夢だ……ありえねぇだろこんなこと……っ!」
冷たい汗が背中を伝う。
目の前の男を睨みつければ、彼は哀れむような表情で黒鋼を見守っていた。
男は悲しそうに瞼を伏せた。
「そうだね」
そしてゆっくりと目が開かれる。
その瞳の青さえも、宝石のような輝きさえも、ファイと何もかもが同じだった。
「君は夢を見ていたよ。ずっと壊れたままだったから」
だからこれは夢ではない。
紛れもない現実。
残酷すぎるその宣告を聞いた瞬間、本当に足元から崩れ落ちた。
脳内を侵食する激痛に、黒鋼は膝をついて蹲った。
「でも、もう目を覚まさなきゃいけない」
「――ッ!!」
声にならない悲鳴を上げて、なす術もなくのたうつ。
目の前が赤く染まっている。
何かがじわじわと迫り来るのを感じていた。
それが何かは、まだ見えない。
「ボクはファイじゃいけど、ファイと同じだから。だから、わかる」
「ぐっ…うぅ…っ、ぅ…っ!!」
水音が聞こえる。
「君を呼んでる」
一際大きな痛みが、嫌な音を立てて黒鋼の中で弾けた。
男は無表情で黒鋼を見下ろすと、言った。
「だからここで、死んで」
黒鋼は、全てを思い出した。
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