2025/09/11 Thu 05 「……あのさ」 閉じた本を脇に置いて、真下を向く。そこにはソファに深く腰掛けている甲洋の膝を、すっかり枕にして寝ている操のまんまるな瞳があった。 「にゃあに?」 「ずっと見られてると、気になって集中できないんだけど」 本を読んでいた甲洋のそばで、操はさっきまであーだこーだとおしゃべりをしていた。しかしそのうち眠くなったのか、もぞもぞと膝に頭を乗せると寝息をたてはじめた。 特に気にせず読書を続けていたのだが、そのうち下からじぃっと視線が注がれていることに気がついたのだ。話しかけてくる様子もないので放っておいたけれど、さすがに視線に耐えきれなくなってしまった。 「だって甲洋の顔があったから」 操はまだ少し眠たいのか、とろんとした瞳で笑った。尖った耳の内側が、薄紅色に染まっている。甲洋は『キュン』なんて恥ずかしい音を立てながら締めつけられた胸の感覚に、思わず喉を詰まらせた。 眠いなら寝てればいいのにと思うのだが、こういったことはこれが初めてではなかった。操はなにをしていても、気づくとこちらをじっと見ていることがある。 例えば食事中。夢中で食べていたと思ったら急に手を止め、甲洋に視線を向けるとそのまま熱心に見つめ続けるのだ。気になった甲洋が操を見て、目が合うとようやく満足したように食事を再開する。 「甲洋、ちゃんといるかなぁって確かめてたんだ」 「なんだよそれ。いるだろ、ちゃんと」 「うん。でも、確かめたくなるんだよ」 操はえへへと笑って、また目を閉じた。甲洋の膝を枕にしたまま、ころりと寝返りをうって丸くなる。そのまま何度か頬を腿に擦りつけると、安心しきった様子でまた寝息を立てはじめた。 ネコって不思議だなと、甲洋は思う。それとも操が変わっているのだろうか。今までネコと暮らしたことがないので分からない。 ただ、操との生活は思いのほか快適ではあった。 夜中にうろちょろと動き回ったり、なにかにじゃれついたりして散らかすということもないし、操はただそばにいて楽しそうにお喋りをしているか、こうして眠たくなると丸くなって寝ているだけだ。 ただ困るのは、少しばかり甘えん坊がすぎるという点だろうか。 操は朝になると先に起きだして、甲洋の鼻にキスをしながら擦り寄ってくる。抱きついて離れようとしないので、朝の支度をはじめるまでに時間がかかってしまうのだ。 出掛けは寂しそうに耳を寝かせ、しっぽをだらりと下げながら玄関まで見送りにくるので、後ろ髪を引かれてしょうがない。帰ってきたら来たで、また過剰なスキンシップの洗礼が待っている。 だが決して悪い気はしなかった。未だに慣れない距離感に戸惑いつつも、甘えられると可愛くて、つい受け入れてしまうのだ。 「どんな夢を見てるんだろうな」 ネコも夢を見るのだろうか。そんなことを考えながら、頬がつい緩んでしまう。 指先で柔らかな耳の付け根に触れると、くすぐったいのか耳がピクンピクンと小刻みに動いた。 ふふっと小さく笑いながら肩を揺らして、甲洋は操が目を覚ますまでその寝顔を飽きずに見つめ続けた。 * 飼い主探しは難航していた。 ペットが飼えない環境であったり、すでにペットと暮らしていたり、各々に事情があってなかなか話はいい方向に進んでくれない。 しかし、中には興味を示してくれたものも何人かはいたのだ。 全員が女子で、甲洋がネコの飼い主探しをしているという噂を聞きつけて、声をかけてくれた。 だが甲洋は、その申し出をすべて丁重にお断りした。ネコが好きだからではなく、あわよくばそのまま甲洋とどうにかなりたい、という下心が透けて見えてしまったためである。 甲洋には幼い頃から人の顔色を伺ってしまう癖があった。あまり褒められたことではないと思うが、たまには役に立つこともある。表情だったり仕草だったり、そういったものからなんとなく相手の考えを見抜く鋭さが培われていたからだ。 慎重に観察しながらネコと暮らせる環境であるかを確認してみると、全員が全員おもしろいほど似通った返答を寄こした。内緒で飼えばバレないだろうし、ネコってほっといても別に平気だよね? と。 その言葉には、苦笑するより他になかった。 操は完全室内飼いのネコだったせいか外に出たがる様子はないものの、今の状態は彼が前に暮らしていた環境と変わらない。一日も早く自由に過ごさせてやりたいと思うほどに、焦りが増す。 剣司にも相談して協力を仰ぐことはできたが、今のところ連絡はなかった。 そもそも動物病院で募集の広告を見る人間は限られている上に、すでにペットと暮らしているのだ。総士のときのように、運良く親切な人が名乗り出てくれるという保証はない。 (そう簡単にホイホイ決まるもんじゃないよな……) バイト終わりに立ち寄ったコンビニで、甲洋はそっと小さなため息を漏らす。 コーヒーでもと思ってフラリと店に入ったが、今日はいつもより帰りが遅くなってしまったので、早く帰らなければ操のことが心配だ。 冷蔵庫の中にはなにかしら作り置きのおかずを常備しているので、帰りが遅いときは好きに食べるように言ってあるけれど、操は「甲洋も一緒がいい」と言って、食べずに必ず待っているのだ。 操は食べることが大好きで、痩せっぽちだが甲洋以上によく食べる。先日の一騎カレーもおかわりをして食べていた。 甲洋は、そんな彼の食べている姿を見るのが好きだった。 ほっぺたを一生懸命動かしながら嬉しそうに食べているのを見ていると、なんとも言えない満足感で胸がいっぱいになる。なんならそれだけで腹が満たされてしまうくらいだ。 それまでの甲洋にとって、食事は生きるために必要な最低限の作業にすぎなかった。実家ではいつも一人で味気ない食事をしていたこともあり、食に対する興味が培われてこなかったのだ。けれどおしゃべりな操との食事は賑やかで、そのひと時は今の甲洋にとって得難い時間になっていた。 ドリンクコーナーで缶コーヒーを手に取り、レジに向かう途中の食品コーナーで足を止める。 おにぎりやサンドイッチが並ぶ棚のすぐ横はスイーツコーナーになっていて、ケーキやプリンなどが並べられているのを見た甲洋は、ふと思う。 (ケーキも買って行こうかな……こないだすごく喜んでたし。そういえば食事のことしか頭になくて、おやつは買ってやったことないな) コーヒーだけを買うつもりでいた甲洋はカゴを持っていなかったが、すぐそばに重ねられているのを見つけてすかさず手に取る。コーヒーを入れ、さらにケーキのパックもカゴに突っ込んだあと、さっそうとお菓子コーナーに向かった。 今のところ操に好き嫌いはないようだが、かといって好みを完全に把握しているわけではない。きのこ派なのかたけのこ派なのか、ア●フォート派なのかブラ●チュール派なのか……とにかく、あれこれ選んではカゴを山にしていく。 流石に買いすぎかもしれないと思ったが、一騎も総士のために常にお菓子を大量にストックするようになったと話していた。だったら、うちの子だって── まるで張り合うかのようにそんなことを考えて、甲洋ははたと我に返る。 (う ち の 子 ?) 一瞬、手の中からポテチの袋を落としそうになってしまった。 まったく何を考えているのだろう。 (それじゃまるで飼い主の思考じゃないか……) はあぁと深く息を漏らした。 甲洋はあくまでも次の飼い主が見つかるまでの間、操を保護しているだけに過ぎない。 だからあの子は決して『うちの子』ではなく、『よその子』になる予定──は、まだ立っていないが、とにかく甲洋の飼いネコではないのだ。 (……まぁ、でも) これだけのお菓子を目にしたら、どんな反応をするだろうかと想像を巡らせる。 先日、下着を含めた衣類を何着か購入した際も、操は顔を真っ赤にして興奮しながら喜んでいた。操はすべての服を試着して、玄関に設置されている姿見の前でクルクルと回っていた。 あんなふうに、今度もきっと喜んでくれるだろう。その姿を思い浮かべると、頬がゆるりとほどけそうになる。 飼い主を名乗ることはできないが、今は飼い主の代わりなわけだし、不自由な暮らしをさせるわけにはいかない。特にあの子は酷い環境のもとで暮らしていたのだ。元の飼い主がしなかったことを、ほんの少しだけ、新しい飼い主が見つかるまでの間だけ、自分がしてやったってバチは当たらないだろう。 そう自身に言い訳をしながら、甲洋は見事に財布を空にしたのである。 * ウキウキとした気持ちが顔に出ないように意識しながら、普段通りに帰宅した。 けれど初めて操に「おかえり」と出迎えられた日の翌日から、実は甲洋の帰宅時の挙動は微妙に変化していた。 どう変化したかというと、階段をのぼり、部屋までのほんの短い距離を歩く足音を、あえて少し大きめに立てるようにしたのだ。 そんなことをしなくたって操の耳にはちゃんと届く。なんたってネコの聴覚は人間の3倍もあるのだから。だけどなんとなく。そう、なんとなくだ。別に深い意味なんかない。 「ただいま」 ちょっと間違えば唇同士が触れ合ってしまいそうな距離にはまだ慣れないが、今日もめちゃくちゃに匂いをかがれながら、鼻にキスをされてしまう気満々で扉を開ける。 が、玄関は真っ暗でしんと静まり返っていた。 「あれ……操?」 いつもなら足音を聞きつけて、明かりを灯してスタンバっているはずの操がいない。 パンパンに膨らんだコンビニの袋を手に立ち尽くし、甲洋は肩を落とした。 いつもよりだいぶ遅くなってしまったせいで、時刻は23時をとっくに過ぎている。ついついコンビニに長居をしてしまったことも原因のひとつだ。 この時間では、もう寝てしまったのかもしれない。腹も空かせていただろうに、申し訳ないことをしてしまった。 (ちょっと寂しい、かな……) ふとそんなことを思って、すぐに首を振って否定した。 情が移ってはいけないと気持ちを引き締めたのは、まだ記憶に新しい。いくら懐いてくれているとはいえ、いつまでもこうしていられるわけではないのだ。 いま一度しっかり胸に刻んでおく必要性を感じながらリビングに入り、明かりをつけると荷物を置いた。コートを脱いでソファに放ると、寝室のドアをそっと開けて覗き込む。 部屋には明かりが灯っており、ベッドの上で操が丸くなっている姿が見えた。まだ新品のルームウェアはモコモコとした素材で暖かそうだが、彼は上になにもかけずに眠っている。 しょうがないなと苦笑しながら部屋に足を踏み入れた甲洋は、改めて操の寝姿を見てぎょっとした。 ベッドの上にはクローゼットや引き出しにしまってあったはずの甲洋の衣類が、派手に散乱している。操はそれらをすっかり下敷きにした状態で丸くなっていたのだ。 彼は甲洋のワイシャツを抱き寄せ、鼻を埋めていた。すぅすぅと匂いをかぐようにしながら、安心しきった様子で深く眠り込んでいる。そして、小さな声で「こうよう」と、寝言を言ったのだ。 「……ッ!?」 喉を詰まらせながら、甲洋は思わず膝から崩れ落ちた。ベッドの縁に突っ伏して、込み上げてくるものに身を震わせる。 ズルい。こんなのはズルい。反則すぎやしないか。だってこんなの── (可愛すぎるだろっ!!) この瞬間、甲洋は心が折れる音を聞いた。ぽっきりと、それはものの見事に。そして痛いほど自覚させられた。 操の「おかえり」がないと寂しい。鼻キスがないと寂しい。笑顔が見られないのは寂しい。一緒に夕飯が食べられないのは寂しい。たくさんお菓子を買ってきたのに、今すぐその反応が見られないのは寂しい。 なにをしていてもこの子のことが気になるし、なにを買うにもこの子が喜ぶ姿ばかりを想像している。 甲洋は、とっくに操に情が移っていたのだ。 きっといつもより甲洋の帰りが遅いから、寂しくなってしまったのだろう。 もしかしたら、また置き去りにされたのかと不安にさせてしまったのかもしれない。甲洋の服を引っ張りだして、甲洋の匂いを吸い込んで、そんな気持ちを紛らわせていたのだろうか。 ネコも、夢を見るのだ。操は甲洋の帰りを待ちながら、甲洋の夢を、見ている。 「遅くなってごめん、操……」 静かにベッドの縁に腰を下ろすと、綿菓子のように柔らかいミルクティー色の髪に触れた。ぽかぽかと熱を放つ尖った耳ごと、優しく撫でる。 指先から愛おしさが溢れそうだった。こんな気持ちは初めてだ。求められているという実感を得て、胸が震えるほどに喜びを覚えていた。 今この瞬間、この子は自分という存在なくしては生きられない。この手で守り、世話をしてやらなければ、一人ではなにもできないのだ。依存されていることへの心地よさ。彼を生かしているのが自分であるということへの充足感に、目眩がした。 (このままずっと一緒にいられたらいいのに) こんな姿を見せられたら、気持ちが大きく傾いてしまう。 (だけど俺なんかじゃ……) ──この野良犬がぁっ! ふと、記憶の蓋をこじ開けて、父の言葉が蘇る。 ──うちには犬になんか食わせる飯は無いぞ! さっさと捨ててこい! それは幼い日の記憶だった。覚えているのが嫌で、だけど忘れることができなくて、ずっと奥底に閉じ込めていたあの雨の夜。腹を空かせた黒芝の子犬が、悲しそうに鳴いていた。 「ッ……!」 思いだすだけで胸が張り裂けそうになる。甲洋はその記憶を振り払うように首を左右に振った。 昔のことだ。今は両親と離れて暮らしている。ほとんど他人も同然だった。いつまでも囚われ続ける必要などないはずなのに──。 (やっぱり、ダメだ) ここがペット禁止の物件であることを差し引いても、甲洋には操と生きる自信がない。 自己分析くらいはできている。家庭環境へのコンプレックス。甲洋が育った環境は、いわゆる機能不全家族と呼ばれるものだった。愛された記憶のない自分が、本当に心から愛情を注ぐことなんかできるのだろうか? 自分と一緒にいて、この子は本当に幸せになれるのだろうか? 甲洋の胸は、そんな自分自身への自戒と不信感だけで埋め尽くされていた。 「操……」 幼い寝顔に切なさを募らせながら、甲洋は暫くのあいだそこから動くことができなかった。 ←戻る ・ 次へ→
「……あのさ」
閉じた本を脇に置いて、真下を向く。そこにはソファに深く腰掛けている甲洋の膝を、すっかり枕にして寝ている操のまんまるな瞳があった。
「にゃあに?」
「ずっと見られてると、気になって集中できないんだけど」
本を読んでいた甲洋のそばで、操はさっきまであーだこーだとおしゃべりをしていた。しかしそのうち眠くなったのか、もぞもぞと膝に頭を乗せると寝息をたてはじめた。
特に気にせず読書を続けていたのだが、そのうち下からじぃっと視線が注がれていることに気がついたのだ。話しかけてくる様子もないので放っておいたけれど、さすがに視線に耐えきれなくなってしまった。
「だって甲洋の顔があったから」
操はまだ少し眠たいのか、とろんとした瞳で笑った。尖った耳の内側が、薄紅色に染まっている。甲洋は『キュン』なんて恥ずかしい音を立てながら締めつけられた胸の感覚に、思わず喉を詰まらせた。
眠いなら寝てればいいのにと思うのだが、こういったことはこれが初めてではなかった。操はなにをしていても、気づくとこちらをじっと見ていることがある。
例えば食事中。夢中で食べていたと思ったら急に手を止め、甲洋に視線を向けるとそのまま熱心に見つめ続けるのだ。気になった甲洋が操を見て、目が合うとようやく満足したように食事を再開する。
「甲洋、ちゃんといるかなぁって確かめてたんだ」
「なんだよそれ。いるだろ、ちゃんと」
「うん。でも、確かめたくなるんだよ」
操はえへへと笑って、また目を閉じた。甲洋の膝を枕にしたまま、ころりと寝返りをうって丸くなる。そのまま何度か頬を腿に擦りつけると、安心しきった様子でまた寝息を立てはじめた。
ネコって不思議だなと、甲洋は思う。それとも操が変わっているのだろうか。今までネコと暮らしたことがないので分からない。
ただ、操との生活は思いのほか快適ではあった。
夜中にうろちょろと動き回ったり、なにかにじゃれついたりして散らかすということもないし、操はただそばにいて楽しそうにお喋りをしているか、こうして眠たくなると丸くなって寝ているだけだ。
ただ困るのは、少しばかり甘えん坊がすぎるという点だろうか。
操は朝になると先に起きだして、甲洋の鼻にキスをしながら擦り寄ってくる。抱きついて離れようとしないので、朝の支度をはじめるまでに時間がかかってしまうのだ。
出掛けは寂しそうに耳を寝かせ、しっぽをだらりと下げながら玄関まで見送りにくるので、後ろ髪を引かれてしょうがない。帰ってきたら来たで、また過剰なスキンシップの洗礼が待っている。
だが決して悪い気はしなかった。未だに慣れない距離感に戸惑いつつも、甘えられると可愛くて、つい受け入れてしまうのだ。
「どんな夢を見てるんだろうな」
ネコも夢を見るのだろうか。そんなことを考えながら、頬がつい緩んでしまう。
指先で柔らかな耳の付け根に触れると、くすぐったいのか耳がピクンピクンと小刻みに動いた。
ふふっと小さく笑いながら肩を揺らして、甲洋は操が目を覚ますまでその寝顔を飽きずに見つめ続けた。
*
飼い主探しは難航していた。
ペットが飼えない環境であったり、すでにペットと暮らしていたり、各々に事情があってなかなか話はいい方向に進んでくれない。
しかし、中には興味を示してくれたものも何人かはいたのだ。
全員が女子で、甲洋がネコの飼い主探しをしているという噂を聞きつけて、声をかけてくれた。
だが甲洋は、その申し出をすべて丁重にお断りした。ネコが好きだからではなく、あわよくばそのまま甲洋とどうにかなりたい、という下心が透けて見えてしまったためである。
甲洋には幼い頃から人の顔色を伺ってしまう癖があった。あまり褒められたことではないと思うが、たまには役に立つこともある。表情だったり仕草だったり、そういったものからなんとなく相手の考えを見抜く鋭さが培われていたからだ。
慎重に観察しながらネコと暮らせる環境であるかを確認してみると、全員が全員おもしろいほど似通った返答を寄こした。内緒で飼えばバレないだろうし、ネコってほっといても別に平気だよね? と。
その言葉には、苦笑するより他になかった。
操は完全室内飼いのネコだったせいか外に出たがる様子はないものの、今の状態は彼が前に暮らしていた環境と変わらない。一日も早く自由に過ごさせてやりたいと思うほどに、焦りが増す。
剣司にも相談して協力を仰ぐことはできたが、今のところ連絡はなかった。
そもそも動物病院で募集の広告を見る人間は限られている上に、すでにペットと暮らしているのだ。総士のときのように、運良く親切な人が名乗り出てくれるという保証はない。
(そう簡単にホイホイ決まるもんじゃないよな……)
バイト終わりに立ち寄ったコンビニで、甲洋はそっと小さなため息を漏らす。
コーヒーでもと思ってフラリと店に入ったが、今日はいつもより帰りが遅くなってしまったので、早く帰らなければ操のことが心配だ。
冷蔵庫の中にはなにかしら作り置きのおかずを常備しているので、帰りが遅いときは好きに食べるように言ってあるけれど、操は「甲洋も一緒がいい」と言って、食べずに必ず待っているのだ。
操は食べることが大好きで、痩せっぽちだが甲洋以上によく食べる。先日の一騎カレーもおかわりをして食べていた。
甲洋は、そんな彼の食べている姿を見るのが好きだった。
ほっぺたを一生懸命動かしながら嬉しそうに食べているのを見ていると、なんとも言えない満足感で胸がいっぱいになる。なんならそれだけで腹が満たされてしまうくらいだ。
それまでの甲洋にとって、食事は生きるために必要な最低限の作業にすぎなかった。実家ではいつも一人で味気ない食事をしていたこともあり、食に対する興味が培われてこなかったのだ。けれどおしゃべりな操との食事は賑やかで、そのひと時は今の甲洋にとって得難い時間になっていた。
ドリンクコーナーで缶コーヒーを手に取り、レジに向かう途中の食品コーナーで足を止める。
おにぎりやサンドイッチが並ぶ棚のすぐ横はスイーツコーナーになっていて、ケーキやプリンなどが並べられているのを見た甲洋は、ふと思う。
(ケーキも買って行こうかな……こないだすごく喜んでたし。そういえば食事のことしか頭になくて、おやつは買ってやったことないな)
コーヒーだけを買うつもりでいた甲洋はカゴを持っていなかったが、すぐそばに重ねられているのを見つけてすかさず手に取る。コーヒーを入れ、さらにケーキのパックもカゴに突っ込んだあと、さっそうとお菓子コーナーに向かった。
今のところ操に好き嫌いはないようだが、かといって好みを完全に把握しているわけではない。きのこ派なのかたけのこ派なのか、ア●フォート派なのかブラ●チュール派なのか……とにかく、あれこれ選んではカゴを山にしていく。
流石に買いすぎかもしれないと思ったが、一騎も総士のために常にお菓子を大量にストックするようになったと話していた。だったら、うちの子だって──
まるで張り合うかのようにそんなことを考えて、甲洋ははたと我に返る。
(う ち の 子 ?)
一瞬、手の中からポテチの袋を落としそうになってしまった。
まったく何を考えているのだろう。
(それじゃまるで飼い主の思考じゃないか……)
はあぁと深く息を漏らした。
甲洋はあくまでも次の飼い主が見つかるまでの間、操を保護しているだけに過ぎない。
だからあの子は決して『うちの子』ではなく、『よその子』になる予定──は、まだ立っていないが、とにかく甲洋の飼いネコではないのだ。
(……まぁ、でも)
これだけのお菓子を目にしたら、どんな反応をするだろうかと想像を巡らせる。
先日、下着を含めた衣類を何着か購入した際も、操は顔を真っ赤にして興奮しながら喜んでいた。操はすべての服を試着して、玄関に設置されている姿見の前でクルクルと回っていた。
あんなふうに、今度もきっと喜んでくれるだろう。その姿を思い浮かべると、頬がゆるりとほどけそうになる。
飼い主を名乗ることはできないが、今は飼い主の代わりなわけだし、不自由な暮らしをさせるわけにはいかない。特にあの子は酷い環境のもとで暮らしていたのだ。元の飼い主がしなかったことを、ほんの少しだけ、新しい飼い主が見つかるまでの間だけ、自分がしてやったってバチは当たらないだろう。
そう自身に言い訳をしながら、甲洋は見事に財布を空にしたのである。
*
ウキウキとした気持ちが顔に出ないように意識しながら、普段通りに帰宅した。
けれど初めて操に「おかえり」と出迎えられた日の翌日から、実は甲洋の帰宅時の挙動は微妙に変化していた。
どう変化したかというと、階段をのぼり、部屋までのほんの短い距離を歩く足音を、あえて少し大きめに立てるようにしたのだ。
そんなことをしなくたって操の耳にはちゃんと届く。なんたってネコの聴覚は人間の3倍もあるのだから。だけどなんとなく。そう、なんとなくだ。別に深い意味なんかない。
「ただいま」
ちょっと間違えば唇同士が触れ合ってしまいそうな距離にはまだ慣れないが、今日もめちゃくちゃに匂いをかがれながら、鼻にキスをされてしまう気満々で扉を開ける。
が、玄関は真っ暗でしんと静まり返っていた。
「あれ……操?」
いつもなら足音を聞きつけて、明かりを灯してスタンバっているはずの操がいない。
パンパンに膨らんだコンビニの袋を手に立ち尽くし、甲洋は肩を落とした。
いつもよりだいぶ遅くなってしまったせいで、時刻は23時をとっくに過ぎている。ついついコンビニに長居をしてしまったことも原因のひとつだ。
この時間では、もう寝てしまったのかもしれない。腹も空かせていただろうに、申し訳ないことをしてしまった。
(ちょっと寂しい、かな……)
ふとそんなことを思って、すぐに首を振って否定した。
情が移ってはいけないと気持ちを引き締めたのは、まだ記憶に新しい。いくら懐いてくれているとはいえ、いつまでもこうしていられるわけではないのだ。
いま一度しっかり胸に刻んでおく必要性を感じながらリビングに入り、明かりをつけると荷物を置いた。コートを脱いでソファに放ると、寝室のドアをそっと開けて覗き込む。
部屋には明かりが灯っており、ベッドの上で操が丸くなっている姿が見えた。まだ新品のルームウェアはモコモコとした素材で暖かそうだが、彼は上になにもかけずに眠っている。
しょうがないなと苦笑しながら部屋に足を踏み入れた甲洋は、改めて操の寝姿を見てぎょっとした。
ベッドの上にはクローゼットや引き出しにしまってあったはずの甲洋の衣類が、派手に散乱している。操はそれらをすっかり下敷きにした状態で丸くなっていたのだ。
彼は甲洋のワイシャツを抱き寄せ、鼻を埋めていた。すぅすぅと匂いをかぐようにしながら、安心しきった様子で深く眠り込んでいる。そして、小さな声で「こうよう」と、寝言を言ったのだ。
「……ッ!?」
喉を詰まらせながら、甲洋は思わず膝から崩れ落ちた。ベッドの縁に突っ伏して、込み上げてくるものに身を震わせる。
ズルい。こんなのはズルい。反則すぎやしないか。だってこんなの──
(可愛すぎるだろっ!!)
この瞬間、甲洋は心が折れる音を聞いた。ぽっきりと、それはものの見事に。そして痛いほど自覚させられた。
操の「おかえり」がないと寂しい。鼻キスがないと寂しい。笑顔が見られないのは寂しい。一緒に夕飯が食べられないのは寂しい。たくさんお菓子を買ってきたのに、今すぐその反応が見られないのは寂しい。
なにをしていてもこの子のことが気になるし、なにを買うにもこの子が喜ぶ姿ばかりを想像している。
甲洋は、とっくに操に情が移っていたのだ。
きっといつもより甲洋の帰りが遅いから、寂しくなってしまったのだろう。
もしかしたら、また置き去りにされたのかと不安にさせてしまったのかもしれない。甲洋の服を引っ張りだして、甲洋の匂いを吸い込んで、そんな気持ちを紛らわせていたのだろうか。
ネコも、夢を見るのだ。操は甲洋の帰りを待ちながら、甲洋の夢を、見ている。
「遅くなってごめん、操……」
静かにベッドの縁に腰を下ろすと、綿菓子のように柔らかいミルクティー色の髪に触れた。ぽかぽかと熱を放つ尖った耳ごと、優しく撫でる。
指先から愛おしさが溢れそうだった。こんな気持ちは初めてだ。求められているという実感を得て、胸が震えるほどに喜びを覚えていた。
今この瞬間、この子は自分という存在なくしては生きられない。この手で守り、世話をしてやらなければ、一人ではなにもできないのだ。依存されていることへの心地よさ。彼を生かしているのが自分であるということへの充足感に、目眩がした。
(このままずっと一緒にいられたらいいのに)
こんな姿を見せられたら、気持ちが大きく傾いてしまう。
(だけど俺なんかじゃ……)
──この野良犬がぁっ!
ふと、記憶の蓋をこじ開けて、父の言葉が蘇る。
──うちには犬になんか食わせる飯は無いぞ! さっさと捨ててこい!
それは幼い日の記憶だった。覚えているのが嫌で、だけど忘れることができなくて、ずっと奥底に閉じ込めていたあの雨の夜。腹を空かせた黒芝の子犬が、悲しそうに鳴いていた。
「ッ……!」
思いだすだけで胸が張り裂けそうになる。甲洋はその記憶を振り払うように首を左右に振った。
昔のことだ。今は両親と離れて暮らしている。ほとんど他人も同然だった。いつまでも囚われ続ける必要などないはずなのに──。
(やっぱり、ダメだ)
ここがペット禁止の物件であることを差し引いても、甲洋には操と生きる自信がない。
自己分析くらいはできている。家庭環境へのコンプレックス。甲洋が育った環境は、いわゆる機能不全家族と呼ばれるものだった。愛された記憶のない自分が、本当に心から愛情を注ぐことなんかできるのだろうか? 自分と一緒にいて、この子は本当に幸せになれるのだろうか?
甲洋の胸は、そんな自分自身への自戒と不信感だけで埋め尽くされていた。
「操……」
幼い寝顔に切なさを募らせながら、甲洋は暫くのあいだそこから動くことができなかった。
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