2025/09/11 Thu 花京院がごっつい彼氏と結ばれる話🔞 『おまえのことが好きだ……大好きだ――ッ!!』 何年か前に、戦隊モノの特撮ドラマで見たような気がするイケメン俳優が、夕焼けの美しい海辺で高らかに叫んだ。 彼が真っ直ぐに見つめる先には、黒いロングヘアの超絶美少女がいて、彼女はその告白を受けて感極まり、うっすらと目尻に涙を浮かべる。 『あたしも、あたしもずっと好きだった!』 波の音に掻き消されないように、彼女も声を張り上げた。 ふたりは両腕を広げながら駆け寄り、彼女が彼の胸に飛び込むと、そのままの勢いでクルクルと回る。寄せては返す白い波しぶきが、そんな彼らを祝福しているようだった。 ふたりは互いに抱き合ったまま、潤んだ瞳で見つめ合う。そこでゆっくりとカメラが引いた。燃えるような夕焼けをバックに、ふたつのシルエットが唇を重ね合おうとしたところで。 ――手を、握られた。 「ッ!」 ソファに腰かけ、熱心に画面を見つめていた花京院は、とつぜん手の甲を包み込まれた感触に、制服の肩を大きく震わせる。 咄嗟に顔をあげて横を見やれば、隣に腰を下ろしている承太郎が、画面ではなくこちらを真剣な眼差しで見つめていた。その熱っぽい視線に、花京院は心臓が大きく跳ね上がるのを感じる。頬が熱くなり、じわりと視界が滲んでいった。 「花京院……」 承太郎の低く染み渡るような声で名前を呼ばれると、胸がきゅっと締め付けられるように震えた。 テレビ画面では紆余曲折の果てに気持ちを通じさせたふたりが、熱いキスシーンを繰り広げている。花京院はこのヒロインを演じるアイドルの大ファンだった。が、今はそっちのけで、承太郎ただ一人しか目に映っていない。 好きなアイドルを見つめている瞬間が、なによりも至福のひと時だった頃の自分からは、考えられないような大きな変化だ。 やたらとポップなエンディング曲が流れ始めるなか、承太郎が花京院へと僅かに身を屈め、顔を寄せてくる。ああ、キスをされるのだと、花京院は胸を高鳴らせながら目を閉じた。 距離が狭まっていくと、承太郎からふわりと甘い花の香りがした。使っているシャンプーか何かだろうか。彼にしては少し女性的な香りのような気がしたけれど、その甘さが今の気分とえらくマッチしていて、細かいことなどどうでもよくなる。 あと少し。もう少し。承太郎の微かな息遣いすらも、唇に感じるほどの距離。触れるか、触れないかのところで。 どこからか、アラームが鳴り響いた――。 「おっと、もうそんな時間か」 今にも唇同士が触れますよ、というところで承太郎が顔を背け、テーブルの上に置いてあった携帯を手にとる。アラームを解除し、白いボトムのポケットに捻じ込みながら、キス待ち顔で硬直する花京院に再び視線を戻すと、何事もなかったかのように言った。 「八時だぜ。駅まで送るから支度しな」 「は、へ?」 「帰らねえと、親御さんが心配する」 「え、ちょっと、まっ……」 き、キスは――? と、一瞬でブチ壊されてしまったいいムードと、その温度差に戸惑いながら目を瞬かせる。 リモコンを操作してDVDを取り出し、テレビ画面のスイッチを切っている承太郎を、唖然として見つめた。 待て待て、ここからじゃあないのか? 週末の夜、恋人の部屋で恋愛映画のDVDを見て、クライマックスシーンでふたりの気持ちも盛り上がり、さあいざゆかん愛の世界へ――というのが、リア充のお約束ではないのか……? 少なくとも、花京院の脳内辞書にある『リア充』の項目には、そう書いてある。 「ま、待ってくれ承太郎……その、今夜なんだが……両親には、その、あのですね」 ――帰らないって、言ってきましたッ! (……なんて言ったら、迷惑、か) 今夜は帰りたくないの、なんて、上目使いで言っていいのは、人気アイドルグループでセンターを張れるくらいには、華奢で可憐な美少女でなければ許されないことだ。 生憎、花京院は身長、体重、筋肉共に申し分ない、平川ボイスの男子高校生である。 「どうした花京院。なにかあるのか?」 取り出したDVDをケースにしまい、それを差し出してきながら、承太郎が不思議そうに問いかけてきた。花京院は思い切り首を振り、ケースを受け取る。 「い、いえ! そうですね、高校生はもう帰る時間です」 「おう。映画、面白かったぜ」 「ほんとですか? それはよかった。あはは」 引き攣った笑みを浮かべながら、花京院はただおとなしく帰り支度をする以外、他になかった。 *** 承太郎に駅まで送り届けてもらった花京院は、どこか温い風にさらされながら、夜のホームで電車を待っていた。 (また今日も駄目だった……) 持参したDVDが入った学生鞄が、やけに重たい。それに比例して、花京院が漏らした溜息もまた、重かった。 花京院が承太郎と恋仲になってから、四ヶ月近くが経過していた。 その間、ふたりは以前のようにメイド喫茶を巡ることもあれば、承太郎が好きだという水族館でデートをしたりと、順調に交際を続けていた。花京院がバイトの日は、終わる頃にあの裏路地で承太郎が待っていてくれて、そのあとファミレスで食事をしたり、夜の公園で語らったりもした。(主に花京院のメイド&アイドル語りを、承太郎がうんうんと頷きながら聞いているだけだったが) 承太郎は本来、花京院が嫌う不良という札をぶら下げた人間ではあったが、あの瓶底眼鏡をして会いに来てくれていた頃となにひとつ変わらず、寡黙で優しい男だった。 そんな承太郎も水族館へ足を運ぶと、そこにいる生物たちを熱心に見つめながら、饒舌に知識を披露してくれる。その意外な一面や、キラキラとした瞳が少年のようで、つい可愛いなんて思ってしまうのだ。 一九五センチの大男を捕まえて、そんなふうに感じてしまう自分は、もはや末期である。 だけど、会えば会うほど好きになっていく。会わない時間は好きなアイドルのことを考えるより、彼に想いを馳せることの方が多くなっていった。 しかし順調と見せかけて、最近の花京院は日に日に溜息の数が増えている。不満、といってもいいかもしれない。 それは承太郎との関係が、あまりにも『清すぎる』というのが原因であった。 この四ヶ月というもの、キスをしたのは数える程しかない。 酷いときはキスどころか、指先が触れることすらなく終わる日もあった。会うのは必ず外だったし、人前で公にできる関係ではないものの、だんだんこれはデートではなく、ただの友達付き合いというやつなのでは――まともに友達がいた試しもないので分からないが――と、疑問さえ抱くようになっていった。 そうこうしているうちに季節は過ぎ、春になると承太郎は高校を卒業して、大学生になった。花京院の方はというと、今年は受験生ということもあり、バイトを辞めざるをえなくなってしまった。つまり、以前のように頻繁に会うことはできなくなってしまった、というわけだ。 けれど嬉しいこともあった。承太郎は大学入学を機に、駅近くにマンションを借りて一人暮らしをはじめた。しかも真っ先に合鍵を作って、花京院に渡してくれたのだ。 これはますますリア充っぽいぞ、と胸をときめかせた花京院だったのだが……。 (まあこの有様ですよね) 現実は、駅のホームで一人きり、である。 承太郎は例えどんなにいいムードになったとしても、花京院に手を出してくることはなかった。それどころか、夜の八時になるときっちり駅まで送ってくれるという有様だ。 今日なんて、わざわざそういうムード作りをするために、手持ちのDVDコレクションの中から、恋愛モノを選んで持ってきたというのに。あそこまで漕ぎつけてお預けを食らうのは、流石にショックが大きい。 (なにもアラームまでセットしなくたって……) だんだん子供扱いされているような気になってくる。前はここまで時間に神経質ではなかったはずだ。 やはり大学生ともなると、高校生なんてただのガキにしか見えなくなるのだろうか。 承太郎は、ずっと黒で統一していた装いを、大学に入ってから真逆の白へガラリと変えた。その大きな変化が、より彼を大人の男性に昇華させたような気がする。きっと大学には綺麗で大人びた女性がごまんといて、相変わらず承太郎は大勢に群がられているに違いない。 なにせ彼は高校の頃から超がつくほどモテモテだったし、経験豊富なスーパー非童貞なのだ。そんな男がどうして自分なんかを? という今さらな疑問はさておき、花京院の憂心は増していくばかりだった。 「やっぱり童貞って、魅力ないんでしょうか……」 花京院がぽつりと呟くと、いつの間にやら隣で同じく電車を待っていた、よれよれスーツにバーコード頭のおじさんが「え!?」と肩を跳ねさせながら反応した。 「ど、童貞? 童貞なの? 君」 「はい。混じりっけなし、純度百パーセントの童貞です」 「へ、へえ、でも、若いし別にいいんじゃあないかな?」 「そうでしょうか……」 「そ、そうさ。ほら、元気をだして」 ただ近くに並んでいたというだけで、突如として男子高校生の性のお悩みを聞かされるおじさんは、きっとたまったものではないだろう。 「でも、やっぱりぼくなんか童貞だし、ドルオタだし、童貞だし、女性のような色気だってないし、童貞だし、メイドコスが好きな童貞だし――ん?」 (いや、待てよ?) ハゲ散らかった頭でオロオロするおじさんを他所に、花京院はふと、ひらめいた。 同時に、電車がホームに滑り込んでくる。 「そうか、その手があったかッ!」 花京院が天を仰ぎ、ガッツポーズをしながら声をあげると、目の前で電車の扉が開いた。軽やかなステップで乗り込み、すぐにおじさんを振り返る。 「ありがとうございますおじさん! なんだかイケそうな気がしてきました! ぼく、がんばってみますッ!!」 「え、あ、そうかい? それはよか」 ったね、とおじさんが言い終わらぬうちに、ブシューッと音を立てて、扉が閉まった。 去り際に笑顔で手を振る花京院を見守る形で、心優しいモブおじさんは電車に乗りそびれたのである。 *** 翌週。 学校帰りのその足で、承太郎が暮らすマンションまでやってきた花京院は、ガラス張りのエントランスを目前に、いったん歩みを止めた。 両腕に抱え込むようにして持っているのは、いつもの学生鞄の他にもうひとつ、紺色のトートバッグだ。中身はバイトを辞めて以来、めっきり着ることがなくなってしまった、あのメイド服である。 (ぼくとしたことが、盲点だったよ) 駅のホームで悲観的になっていた花京院は、あの瞬間ふと思いだしたのだ。典香としてではなく、素の自分として、初めて承太郎と会話をしたあの夜のことを。 彼は確かに言っていた。 『メイド姿のてめーは、誰よりもいい女に見えた。今まで出会った、どんな女よりもな』 と――。 未だに信じられない話だが、承太郎はメイドコスをした花京院を、本物の女性だと思い込んでいたのだ。 それはつまり、承太郎の目にはむさ苦しい学ランの高校生より、フリフリの衣装に身を包んだメイドの方が、魅力的に映るという何よりの証拠だ。なぜこんな当たり前のことに気がつかなかったのだろう。誰だってどっちに手を出すかと問われたら、断然メイドさんを選ぶに決まっている。 別に女性になりたくてメイド服を着ていたわけではない花京院にとっては、少しばかり不本意ではあるのだが。 (ぼくの中に本来あるはずのない乙女心が、少しでも承太郎の気を引きたくて燃え滾っている……) 死ぬほど恥ずかしいが、ここまできたら潔く認めざるをえないだろう。恋する気持ちが、花京院に羞恥を乗り越えさせようとしている。 花京院はふうっと大きく息をついてから、片手を制服のポケットの中にそっと忍ばせた。そこには承太郎から受け取って以来、まだ一度も使っていない合鍵が入っている。いつでも好きなときに来いと言われていたが、どうも遠慮してしまって使う機会がなかった鍵には、花京院が好きな赤いチェリーのキーホルダーがついている。 これを使って部屋に上がり込み、帰ってくる承太郎をメイド姿で出迎えるというのが今日の作戦だ。 「よし、行くぞ!」 花京院はマンションを見上げ、気合いを入れると作戦を実行に移すべく、エントランスへ突っ込んでいった。 当たり前だが、室内は薄暗く静まり返っていた。 合鍵を使い、承太郎の部屋に入った花京院は、しめしめとほくそ笑みながら、ひとまず鞄をソファの足元に立てかける。 (承太郎が戻るには、まだしばらく時間があるはず。まずは冷蔵庫のチェックをさせていだこう) ただメイド姿で出迎えるというのも芸がないので、今夜はオムライスを作ろうと決めているのだ。そのために必要な食材等が揃っているかどうか、なければ近くのスーパーへ買い出しに行く必要がある。 合鍵を使うという第一関門を突破した今、花京院に遠慮や戸惑いはなかった。キッチンへ足を踏み入れ、一人暮らしにしては大きな冷蔵庫の扉に手をかける。 ――だがそのとき。 ガチャリ、と背後で扉が開く音がした。 「――ッ!?」 ギクリと身を強張らせ、花京院は音のした方を振り返る。 ダイニングと、その向こうのリビングを見渡せるカウンターキッチン越しに、寝室へと続く扉がゴゴゴゴゴ……という、目に見える効果音つきで、ゆっくりと開かれるのが見えた。 (う、嘘だろ承太郎!? もう帰っていたのか!?) 全く気がつかなかった。そういえばこの部屋に入ったとき、玄関に靴があるかどうかのチェックを怠っていたのを思いだす。目先のことにとらわれすぎて、注意力に欠けていたことを後悔しても、もう遅い。 (なんてことだ……早くも作戦失敗か? い、いや、段取りが多少変わるだけで、作戦自体に支障はない……) とりあえず、ここは不自然にならない程度に、いつも通り振舞わなければ。花京院は顔を出すであろう承太郎を迎え撃つため、キッチンから出てリビングへと一歩一歩近づいた。そして。 「や、やあ承太郎。今日は早かっ――」 「あー、よく寝たわ。つーか寝すぎたわ」 (……え?) 寝室から姿を現したのは、承太郎ではなかった。花京院は目を見張り、予想外の展開に声を失う。 ――そこにいたのは……女だった。 金色のメッシュが入った黒髪を、ふたつのお団子頭にしたその女は、明らかにサイズの異なる大きなワイシャツに身体を泳がせながら、うん、と背伸びをしている。惜しげもなく晒される白い生足に、中途半端にボタンを留めているせいで、ざっくりと開いた合わせ目から、胸の谷間が覗いていた。 彼女は欠伸を噛み殺しながら、硬直する花京院に気づくと「あんた誰」と言った。 「……へッ!?」 状況が飲み込めないまま投じられた問いに、つい間抜けな声をあげてしまう。頭の中で、グルグルとジェットコースターが走り回っているような混乱が、花京院に襲いかかった。 (ど、どうなってるんだ!? ここは承太郎の部屋でいいんだよな!? 間違えてないよな!? っていうか彼女、これ、このあられもない格好は……彼シャツというやつじゃあないか!?) 「ちょっとあんた、聞いてんの? まあいいや。悪いんだけどさ、水持ってきてくんない? キンキンに冷えたやつ」 「は、はいッ」 ソファにどんと腰を下ろし、長い足を組んだ女の注文に、花京院はまるで条件反射のように姿勢を正し、大慌てでキッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、取り出したミネラルウォーターを伏せてあったグラスに注ぐ。それを素早くリビングへ運ぶと、ソファの足元に跪いて彼女に差し出した。 「お、お待たせいたしました」 「ん、ありがと」 女はよほど喉が渇いていたのか、グラスを一気に空にする。ぷは、とまるでビールでも飲みほしたような声をあげ、それからすぐに、こめかみを押さえてきつく目を閉じた。 「いでぇーッ! キンキンきたぁーッ!!」 彼女は絶叫しながら組んでいた足を男らしく開き、前屈みになって額を拳でガンガンと叩いている。シャツのサイズが大きすぎるため、大事な部分が今にも全てポロリしそうで、花京院は悲鳴を噛み殺しながら顔を背けた。 ハッキリ言って女性は母親以外、耐性がない。 メイド喫茶でもてなしてくれる女性は、花京院にとってテレビ画面越しに見る虚像と大差ないのだ。完璧にプロデュースされた、綺麗で可愛いお人形さんを眺めている感覚、だろうか。 けれど目の前にいるのは半裸の女性で、その生々しさは童貞にとって、ただの怪物でしかなかった。 怪物は痛みが治まると、すぐに花京院をロックオンしてきた。再び足を組み、ついでに両腕も組んで、ジロジロと上から下まで観察してくる。その威圧的ともとれる態度が、ふと誰かと重なったような気がしたが、蛇に睨まれた童貞……いや、カエル状態の花京院は嫌な汗が噴き出すばかりで、頭が真っ白になっていた。 「ねえあんた、ひょっとしてあいつの友達?」 あいつ、というのは、やはり承太郎のことだろうか。花京院は視線だけ外したまま、彼女に向かってどうにか頷いて見せる。 「ふぅん、なんか意外。パシらされてるとかじゃなく?」 「ち、違います」 「ま、別にどーでもいーけど。それより、あたし今夜は帰るわ」 「え、今夜は……って……?」 微かに首を傾げた花京院の傍を、立ちあがった女が横切っていく。背の高い女だと思った。花京院と、それほど大きな差は感じられない。 (――あれ?) そのときふと。寝室へ向かう背中を見つめながら、鼻先を掠めた甘い残り香に、花京院は眉を顰めた。 (この、匂い) 週末、この部屋でDVDを見た夜のことを思いだす。 あのとき、キスをする寸前の承太郎からも、確かにこれと同じ匂いがしていた。 まるで女の子が使うようなシャンプーの香り。当たり前のように寝室へ消えて行く女は、裸に承太郎のシャツを羽織っていて、同じ匂いを纏わりつかせながら、今夜『は』帰ると、そう言った――。 「あ、そうだ」 血の気が引いて行くのを感じながら立ちすくむ花京院に、寝室のドアから顔だけを覗かせた女が言った。 「次の休みはパパも戻ってくるし、ママがいい加減、顔見せろってさ。花束くらいは用意しとけって、あのバカに言っておいてくれる?」 ドアの閉じる音が、いやに冷たく花京院の胸に突き刺さった。 どのくらいそうしていただろうか。 花京院がぼんやりと部屋の中央に座り込んでいると、遠くで玄関の扉が開く音がした。 「花京院? いたのか」 リビングに入ってきた承太郎が、灯りのスイッチを入れた。 ぼんやりと座り込んでいる花京院を見て、彼は少し驚いた様子だった。 「……うん、いた」 「来るのは歓迎だが、電気ぐらいつけて待っときな」 「承太郎」 花京院はピクリとも動かず、床の一点を見つめたまま、承太郎の名を呼んだ。承太郎はソファに鞄を置きながら、小さく「ん」と返事をする。 けれど先に続けるべき言葉が出てこなかった。口を開きかけて、すぐに下唇を噛み締める。 様子のおかしい花京院に承太郎が首を傾げ、傍までやってくるとしゃがみ込んだ。顔を覗き込まれて、ゆるゆると視線を上げれば、緑がかったブルーの瞳と視線が合わさる。 聞きたいことは、沢山あった。だけど怖かった。この短時間で、幾つもの動かぬ証拠を見せつけられたとしても。 ――承太郎が、浮気をしているなんて。 (嫌だ) そんなのは嫌だ。信じたくないし、信じない。例え自分ですらまだ着たことがない、彼シャツを羽織った女が寝室から出て来ようが、同じシャンプーの香りをさせていようが、何かの間違いに決まっている。理由を聞けば、きっと「なんだ、そうだったのか」と、納得できる答えが返ってくるはずだ。 なのに、どうしてかそれを確かめるのが怖くて仕方ない。だから花京院は、考えるのをやめた。 「……なしだ」 「あ?」 「ぼくは何も見なかった。だから、さっきのはなしだ」 「……なんの話だ?」 何を言っているんだこいつは、という顔で、承太郎が首を傾げている。花京院は勢いよく立ちあがり、ズァッと例のポーズを決めると言った。 「と、いうわけで、前回のセーブポイントまで、記憶をリセットさせていただこうッ!!」 だいたいこの部屋で、冷蔵庫を開けようとしていたあたりだろうか。花京院は気分をそのポイントまで、強制的に巻き戻した。完全なる現実逃避である。 (そう、あんなバッドエンドまっしぐらなイベントはなかった。だから、計画に変更もないッ!) 花京院はソファの足元に置き去りにしていたトートバッグをむんずと掴むと、ぽかんとしている承太郎をメラメラと燃えた瞳で見据える。 「ちょっと準備があるので、洗面所をお借りします」 「お、おう?」 「では失礼」 トートバッグを脇に抱え、右手で挙手の敬礼をしつつ、花京院はリビングを出ると洗面所へ向かった。中に入り込み、バァンと凄い音で扉を閉めること数秒。再びバァンと扉を開けて姿を現した花京院は、魔法少女や某男性アイドル事務所もビックリな早着替えで、メイド服にフォームチェンジしていた。 「か、花京院、その姿は……ッ!」 胸元の大きなリボン。黒いロングワンピースに黒タイツ、そして純白のエプロンとヘッドドレス。あの日承太郎が一目惚れをしたという、ごっつい――いや、可憐なメイドがそこにいた。 しゃがみ込んだままだった承太郎が、勢いよくすっくと立ちあがり、心なしか赤い頬をしてこちらを指さす。 「典香……ッ、典香じゃあねえかーッ!!」 「その通り。承太郎、今宵ぼくは君だけのメイドさんだ!! 存分に堪能していただこうッ!!」 「うおぉぉッ!!」 ガッツポーズをしている承太郎。少し複雑だが、ここまで掴みがバッチリだと、逆に気分爽快である。それに、店では基本ネタ枠扱いだったため、男性から喜ばれる、というのはやっぱり悪い気がしない。ましてやそれが好きな相手ともなれば、尚更だった。 (イケる……ぼくは今、確かな手応えを感じているッ!) 「承太郎ッ!」 「花京院ッ!」 互いに名前を呼んで、大きく両手を広げる。フローリングの床を蹴り、思い切りその胸に飛び込んだ。気分はさながら、夕暮れ時の白い砂浜だ。心なしか、波の打ち寄せる音すら聞こえるような気がしてくる。 広い背中に腕を回せば、逞しい両腕が花京院を抱きすくめた。ふわりと、あのシャンプーの香りがしたような気がしたけれど、花京院は承太郎の肩に鼻先を埋め、懸命に彼そのものの匂いを探して吸いこんだ。 (承太郎……好きだ……) 内側から思いが溢れて、なんだか少し、泣きたくなった。 (こんなに好きになるなんて) 自分は男で、相手も男で、ずっと可愛いアイドルを追いかけていたはずだし、いつかはこんな自分でも綺麗な奥さんをもらうのだと、当たり前のように思っていたのに。 承太郎の大きな手が、花京院のひと房だけ長い前髪を梳くように、優しく触れた。痛いくらい胸が締め付けられるのを感じながら、肩に埋めていた顔をあげる。 花京院は知らず知らずのうちに、すみれ色の瞳を潤ませていた。ぼやけた視界に、承太郎の瞳がキラキラと輝いて映る。綺麗だ。本当に、綺麗な男だ。だけど――。 この瞳が、柔らかそうな唇が、力強い腕が、他の誰かを抱いているかもしれない。忘れたふりでここまで突っ走ってはみたけれど、人の記憶や心は、ゲームをリセットするみたいに簡単にはできていないことを知っている。それでも。 「承太郎……キス」 承太郎が、息を飲む。 「キスが、したい、です」 こんな風に自分から誘うのは、初めてだった。だけど今は、この男がどこまで応えてくれるかが、何よりも重要な気がしている。 キスをして、その先へ進んで、彼がこの身体を愛してくれたなら。膨らみ続ける不安や疑念が、消えてなくなるような気がしていた。 ごくりと音を立てて、承太郎がぎこちなく喉を鳴らしたのがわかる。 前髪に触れていた指先が、熱を持った頬に滑り落ちてきた。親指が顎に添えられると、花京院は静かに目を閉じる。 承太郎の唇が、そっと優しい口付けを落とした。 心が震えて、じんと痺れるのを感じる。嬉しい。だけど、今の花京院には足りなかった。触れただけですぐに離れてしまった唇に、やっぱり不安はこびりついたまま消えることはなかった。だから恥も外聞も捨てて、言った。 「キスよりもっと先のことも、してください」 承太郎がまた息を飲んだ。さっきより大きく、肩すら震わせて。花京院は頬に触れていたその手を掴んで、自分の胸元へと導いた。大きなリボン越しに掌を押し付けさせて、高鳴る鼓動が届くようにと。 「承太郎、ぼくは君が好きだ。君になら、何をされてもいい」 もう一生童貞だっていい。魔法使いにだってなってやる。 だからどうか、信じさせてほしい。 その想いを込めて、花京院は爪先を立てて背伸びをする。今度は自分から、承太郎にキスがしたかった。けれど。 「花京院ッ……!」 触れる寸前で、両肩を強く掴まれ、引き離されていた。 「じょうたろう?」 「やめろ、花京院」 開いてしまった距離と、真っ直ぐに向き合っているはずなのに、逸らされている視線。花京院は身体が足元からガラガラと崩れ去っていくような感覚を味わった。 「承太郎……ぼくとは、したくありませんか……?」 「…………」 「君が好きな典香になっても、それでも、やっぱり本当の女の人じゃなくちゃあ、ダメですか……?」 「違う。そうじゃあねえ」 承太郎はどこか追い詰められたような顔をしていた。苛立っているようにも見えて、ああ、失敗だったのだと、そう感じる。 承太郎は何かを逃がすように、大きく息を吐きだした。そして、逸らしていた視線を、ようやく真っ直ぐに向けてくる。 「おれはな、花京院」 「……はい」 「そういうことは、結婚してからって決めてるんだぜ」 「……はい?」 結婚? 結婚というのは、あの結婚のことか? 「だから、ここでする気はねえ」 きっぱりと告げられた拒絶の言葉を聞きながら、花京院はさっきの女が残した言葉を思いだしていた。 『次の休みはパパも戻ってくるし、ママがいい加減、顔見せろってさ。花束くらいは用意しとけって、あのバカに言っておいてくれる?』 もう現実逃避はできそうもなかった。 承太郎はあの女性と、ここで結婚を前提とした半同棲暮らしを送っている。近いうちに花束を持って、彼女の実家へ挨拶に行く予定すらあるということだ。 「だ、だからよ花京院。積極的なてめーも悪かあねえが、もうしばらくは――おい、聞いてんのか?」 「……か……やろう」 「なんだ?」 「承太郎の、大バカ野郎ッ!!」 「ぅおおッ!?」 気がつくと、花京院は承太郎の腹部に正拳突きをかましていた。ドォンと音がして、その巨体が背中から壁に打ち付けられる。(ちょっと壁にめり込んだ) 「君はやっぱり最低の不良だッ! なにが結婚してからだ!! 笑わせるんじゃあない! さんざん女性を取っかえ引っかえしていたくせに、何を今更ッ!!」 「お、おいてめー、そりゃあ一体どういう……カハッ」 少年漫画の戦闘シーン吐血をしながら、承太郎が震える手を伸ばす。が、怒りに支配された花京院は、彼の声に耳を傾けるだけの余裕がなかった。 「こんな最低野郎に騙されていたぼくがバカだった! 君なんか、彼シャツ女子と末永く爆発していればいいッ!!」 「ま、待て花京院ッ!」 走り去ろうとした背中に、非痛な声がかけられる。背を向けたまま足を止めた花京院に、承太郎が言った。 「帰る、のか」 「……ああ、止めないでくれ」 「そんな可愛い格好じゃあ、変態モブに襲われちまう、ぜ」 「ハッ! そうだ、このまま飛び出して行ったら、補導されて職質されるのはぼくの方じゃあないかッ!!」 花京院は慌てて洗面所へ駆け込むと、一瞬で早着替えをして再びリビングへ戻った。ついでに鞄を忘れるところだったのを思いだし、ソファの足元から手に取ると、先ほどと同じ立ち位置に戻る。気を取り直し、こほんと咳払いをすると、息を吸いこんだ。 ――テイク2―― 「こんな最低野郎に騙されていたぼくがバカだった! 君なんか、彼シャツ女子と末永く爆はちゅ……ッ、く、くそ、噛んだッ!!」 「か、花京院ッ!!」 「ええいもういいッ! さよならッ!!」 今度こそ立ち止まることなく、花京院は承太郎の部屋から飛び出した。 ←戻る ・ 次へ→
『おまえのことが好きだ……大好きだ――ッ!!』
何年か前に、戦隊モノの特撮ドラマで見たような気がするイケメン俳優が、夕焼けの美しい海辺で高らかに叫んだ。
彼が真っ直ぐに見つめる先には、黒いロングヘアの超絶美少女がいて、彼女はその告白を受けて感極まり、うっすらと目尻に涙を浮かべる。
『あたしも、あたしもずっと好きだった!』
波の音に掻き消されないように、彼女も声を張り上げた。
ふたりは両腕を広げながら駆け寄り、彼女が彼の胸に飛び込むと、そのままの勢いでクルクルと回る。寄せては返す白い波しぶきが、そんな彼らを祝福しているようだった。
ふたりは互いに抱き合ったまま、潤んだ瞳で見つめ合う。そこでゆっくりとカメラが引いた。燃えるような夕焼けをバックに、ふたつのシルエットが唇を重ね合おうとしたところで。
――手を、握られた。
「ッ!」
ソファに腰かけ、熱心に画面を見つめていた花京院は、とつぜん手の甲を包み込まれた感触に、制服の肩を大きく震わせる。
咄嗟に顔をあげて横を見やれば、隣に腰を下ろしている承太郎が、画面ではなくこちらを真剣な眼差しで見つめていた。その熱っぽい視線に、花京院は心臓が大きく跳ね上がるのを感じる。頬が熱くなり、じわりと視界が滲んでいった。
「花京院……」
承太郎の低く染み渡るような声で名前を呼ばれると、胸がきゅっと締め付けられるように震えた。
テレビ画面では紆余曲折の果てに気持ちを通じさせたふたりが、熱いキスシーンを繰り広げている。花京院はこのヒロインを演じるアイドルの大ファンだった。が、今はそっちのけで、承太郎ただ一人しか目に映っていない。
好きなアイドルを見つめている瞬間が、なによりも至福のひと時だった頃の自分からは、考えられないような大きな変化だ。
やたらとポップなエンディング曲が流れ始めるなか、承太郎が花京院へと僅かに身を屈め、顔を寄せてくる。ああ、キスをされるのだと、花京院は胸を高鳴らせながら目を閉じた。
距離が狭まっていくと、承太郎からふわりと甘い花の香りがした。使っているシャンプーか何かだろうか。彼にしては少し女性的な香りのような気がしたけれど、その甘さが今の気分とえらくマッチしていて、細かいことなどどうでもよくなる。
あと少し。もう少し。承太郎の微かな息遣いすらも、唇に感じるほどの距離。触れるか、触れないかのところで。
どこからか、アラームが鳴り響いた――。
「おっと、もうそんな時間か」
今にも唇同士が触れますよ、というところで承太郎が顔を背け、テーブルの上に置いてあった携帯を手にとる。アラームを解除し、白いボトムのポケットに捻じ込みながら、キス待ち顔で硬直する花京院に再び視線を戻すと、何事もなかったかのように言った。
「八時だぜ。駅まで送るから支度しな」
「は、へ?」
「帰らねえと、親御さんが心配する」
「え、ちょっと、まっ……」
き、キスは――? と、一瞬でブチ壊されてしまったいいムードと、その温度差に戸惑いながら目を瞬かせる。
リモコンを操作してDVDを取り出し、テレビ画面のスイッチを切っている承太郎を、唖然として見つめた。
待て待て、ここからじゃあないのか? 週末の夜、恋人の部屋で恋愛映画のDVDを見て、クライマックスシーンでふたりの気持ちも盛り上がり、さあいざゆかん愛の世界へ――というのが、リア充のお約束ではないのか……?
少なくとも、花京院の脳内辞書にある『リア充』の項目には、そう書いてある。
「ま、待ってくれ承太郎……その、今夜なんだが……両親には、その、あのですね」
――帰らないって、言ってきましたッ!
(……なんて言ったら、迷惑、か)
今夜は帰りたくないの、なんて、上目使いで言っていいのは、人気アイドルグループでセンターを張れるくらいには、華奢で可憐な美少女でなければ許されないことだ。
生憎、花京院は身長、体重、筋肉共に申し分ない、平川ボイスの男子高校生である。
「どうした花京院。なにかあるのか?」
取り出したDVDをケースにしまい、それを差し出してきながら、承太郎が不思議そうに問いかけてきた。花京院は思い切り首を振り、ケースを受け取る。
「い、いえ! そうですね、高校生はもう帰る時間です」
「おう。映画、面白かったぜ」
「ほんとですか? それはよかった。あはは」
引き攣った笑みを浮かべながら、花京院はただおとなしく帰り支度をする以外、他になかった。
***
承太郎に駅まで送り届けてもらった花京院は、どこか温い風にさらされながら、夜のホームで電車を待っていた。
(また今日も駄目だった……)
持参したDVDが入った学生鞄が、やけに重たい。それに比例して、花京院が漏らした溜息もまた、重かった。
花京院が承太郎と恋仲になってから、四ヶ月近くが経過していた。
その間、ふたりは以前のようにメイド喫茶を巡ることもあれば、承太郎が好きだという水族館でデートをしたりと、順調に交際を続けていた。花京院がバイトの日は、終わる頃にあの裏路地で承太郎が待っていてくれて、そのあとファミレスで食事をしたり、夜の公園で語らったりもした。(主に花京院のメイド&アイドル語りを、承太郎がうんうんと頷きながら聞いているだけだったが)
承太郎は本来、花京院が嫌う不良という札をぶら下げた人間ではあったが、あの瓶底眼鏡をして会いに来てくれていた頃となにひとつ変わらず、寡黙で優しい男だった。
そんな承太郎も水族館へ足を運ぶと、そこにいる生物たちを熱心に見つめながら、饒舌に知識を披露してくれる。その意外な一面や、キラキラとした瞳が少年のようで、つい可愛いなんて思ってしまうのだ。
一九五センチの大男を捕まえて、そんなふうに感じてしまう自分は、もはや末期である。
だけど、会えば会うほど好きになっていく。会わない時間は好きなアイドルのことを考えるより、彼に想いを馳せることの方が多くなっていった。
しかし順調と見せかけて、最近の花京院は日に日に溜息の数が増えている。不満、といってもいいかもしれない。
それは承太郎との関係が、あまりにも『清すぎる』というのが原因であった。
この四ヶ月というもの、キスをしたのは数える程しかない。
酷いときはキスどころか、指先が触れることすらなく終わる日もあった。会うのは必ず外だったし、人前で公にできる関係ではないものの、だんだんこれはデートではなく、ただの友達付き合いというやつなのでは――まともに友達がいた試しもないので分からないが――と、疑問さえ抱くようになっていった。
そうこうしているうちに季節は過ぎ、春になると承太郎は高校を卒業して、大学生になった。花京院の方はというと、今年は受験生ということもあり、バイトを辞めざるをえなくなってしまった。つまり、以前のように頻繁に会うことはできなくなってしまった、というわけだ。
けれど嬉しいこともあった。承太郎は大学入学を機に、駅近くにマンションを借りて一人暮らしをはじめた。しかも真っ先に合鍵を作って、花京院に渡してくれたのだ。
これはますますリア充っぽいぞ、と胸をときめかせた花京院だったのだが……。
(まあこの有様ですよね)
現実は、駅のホームで一人きり、である。
承太郎は例えどんなにいいムードになったとしても、花京院に手を出してくることはなかった。それどころか、夜の八時になるときっちり駅まで送ってくれるという有様だ。
今日なんて、わざわざそういうムード作りをするために、手持ちのDVDコレクションの中から、恋愛モノを選んで持ってきたというのに。あそこまで漕ぎつけてお預けを食らうのは、流石にショックが大きい。
(なにもアラームまでセットしなくたって……)
だんだん子供扱いされているような気になってくる。前はここまで時間に神経質ではなかったはずだ。
やはり大学生ともなると、高校生なんてただのガキにしか見えなくなるのだろうか。
承太郎は、ずっと黒で統一していた装いを、大学に入ってから真逆の白へガラリと変えた。その大きな変化が、より彼を大人の男性に昇華させたような気がする。きっと大学には綺麗で大人びた女性がごまんといて、相変わらず承太郎は大勢に群がられているに違いない。
なにせ彼は高校の頃から超がつくほどモテモテだったし、経験豊富なスーパー非童貞なのだ。そんな男がどうして自分なんかを? という今さらな疑問はさておき、花京院の憂心は増していくばかりだった。
「やっぱり童貞って、魅力ないんでしょうか……」
花京院がぽつりと呟くと、いつの間にやら隣で同じく電車を待っていた、よれよれスーツにバーコード頭のおじさんが「え!?」と肩を跳ねさせながら反応した。
「ど、童貞? 童貞なの? 君」
「はい。混じりっけなし、純度百パーセントの童貞です」
「へ、へえ、でも、若いし別にいいんじゃあないかな?」
「そうでしょうか……」
「そ、そうさ。ほら、元気をだして」
ただ近くに並んでいたというだけで、突如として男子高校生の性のお悩みを聞かされるおじさんは、きっとたまったものではないだろう。
「でも、やっぱりぼくなんか童貞だし、ドルオタだし、童貞だし、女性のような色気だってないし、童貞だし、メイドコスが好きな童貞だし――ん?」
(いや、待てよ?)
ハゲ散らかった頭でオロオロするおじさんを他所に、花京院はふと、ひらめいた。
同時に、電車がホームに滑り込んでくる。
「そうか、その手があったかッ!」
花京院が天を仰ぎ、ガッツポーズをしながら声をあげると、目の前で電車の扉が開いた。軽やかなステップで乗り込み、すぐにおじさんを振り返る。
「ありがとうございますおじさん! なんだかイケそうな気がしてきました! ぼく、がんばってみますッ!!」
「え、あ、そうかい? それはよか」
ったね、とおじさんが言い終わらぬうちに、ブシューッと音を立てて、扉が閉まった。
去り際に笑顔で手を振る花京院を見守る形で、心優しいモブおじさんは電車に乗りそびれたのである。
***
翌週。
学校帰りのその足で、承太郎が暮らすマンションまでやってきた花京院は、ガラス張りのエントランスを目前に、いったん歩みを止めた。
両腕に抱え込むようにして持っているのは、いつもの学生鞄の他にもうひとつ、紺色のトートバッグだ。中身はバイトを辞めて以来、めっきり着ることがなくなってしまった、あのメイド服である。
(ぼくとしたことが、盲点だったよ)
駅のホームで悲観的になっていた花京院は、あの瞬間ふと思いだしたのだ。典香としてではなく、素の自分として、初めて承太郎と会話をしたあの夜のことを。
彼は確かに言っていた。
『メイド姿のてめーは、誰よりもいい女に見えた。今まで出会った、どんな女よりもな』
と――。
未だに信じられない話だが、承太郎はメイドコスをした花京院を、本物の女性だと思い込んでいたのだ。
それはつまり、承太郎の目にはむさ苦しい学ランの高校生より、フリフリの衣装に身を包んだメイドの方が、魅力的に映るという何よりの証拠だ。なぜこんな当たり前のことに気がつかなかったのだろう。誰だってどっちに手を出すかと問われたら、断然メイドさんを選ぶに決まっている。
別に女性になりたくてメイド服を着ていたわけではない花京院にとっては、少しばかり不本意ではあるのだが。
(ぼくの中に本来あるはずのない乙女心が、少しでも承太郎の気を引きたくて燃え滾っている……)
死ぬほど恥ずかしいが、ここまできたら潔く認めざるをえないだろう。恋する気持ちが、花京院に羞恥を乗り越えさせようとしている。
花京院はふうっと大きく息をついてから、片手を制服のポケットの中にそっと忍ばせた。そこには承太郎から受け取って以来、まだ一度も使っていない合鍵が入っている。いつでも好きなときに来いと言われていたが、どうも遠慮してしまって使う機会がなかった鍵には、花京院が好きな赤いチェリーのキーホルダーがついている。
これを使って部屋に上がり込み、帰ってくる承太郎をメイド姿で出迎えるというのが今日の作戦だ。
「よし、行くぞ!」
花京院はマンションを見上げ、気合いを入れると作戦を実行に移すべく、エントランスへ突っ込んでいった。
当たり前だが、室内は薄暗く静まり返っていた。
合鍵を使い、承太郎の部屋に入った花京院は、しめしめとほくそ笑みながら、ひとまず鞄をソファの足元に立てかける。
(承太郎が戻るには、まだしばらく時間があるはず。まずは冷蔵庫のチェックをさせていだこう)
ただメイド姿で出迎えるというのも芸がないので、今夜はオムライスを作ろうと決めているのだ。そのために必要な食材等が揃っているかどうか、なければ近くのスーパーへ買い出しに行く必要がある。
合鍵を使うという第一関門を突破した今、花京院に遠慮や戸惑いはなかった。キッチンへ足を踏み入れ、一人暮らしにしては大きな冷蔵庫の扉に手をかける。
――だがそのとき。
ガチャリ、と背後で扉が開く音がした。
「――ッ!?」
ギクリと身を強張らせ、花京院は音のした方を振り返る。
ダイニングと、その向こうのリビングを見渡せるカウンターキッチン越しに、寝室へと続く扉がゴゴゴゴゴ……という、目に見える効果音つきで、ゆっくりと開かれるのが見えた。
(う、嘘だろ承太郎!? もう帰っていたのか!?)
全く気がつかなかった。そういえばこの部屋に入ったとき、玄関に靴があるかどうかのチェックを怠っていたのを思いだす。目先のことにとらわれすぎて、注意力に欠けていたことを後悔しても、もう遅い。
(なんてことだ……早くも作戦失敗か? い、いや、段取りが多少変わるだけで、作戦自体に支障はない……)
とりあえず、ここは不自然にならない程度に、いつも通り振舞わなければ。花京院は顔を出すであろう承太郎を迎え撃つため、キッチンから出てリビングへと一歩一歩近づいた。そして。
「や、やあ承太郎。今日は早かっ――」
「あー、よく寝たわ。つーか寝すぎたわ」
(……え?)
寝室から姿を現したのは、承太郎ではなかった。花京院は目を見張り、予想外の展開に声を失う。
――そこにいたのは……女だった。
金色のメッシュが入った黒髪を、ふたつのお団子頭にしたその女は、明らかにサイズの異なる大きなワイシャツに身体を泳がせながら、うん、と背伸びをしている。惜しげもなく晒される白い生足に、中途半端にボタンを留めているせいで、ざっくりと開いた合わせ目から、胸の谷間が覗いていた。
彼女は欠伸を噛み殺しながら、硬直する花京院に気づくと「あんた誰」と言った。
「……へッ!?」
状況が飲み込めないまま投じられた問いに、つい間抜けな声をあげてしまう。頭の中で、グルグルとジェットコースターが走り回っているような混乱が、花京院に襲いかかった。
(ど、どうなってるんだ!? ここは承太郎の部屋でいいんだよな!? 間違えてないよな!? っていうか彼女、これ、このあられもない格好は……彼シャツというやつじゃあないか!?)
「ちょっとあんた、聞いてんの? まあいいや。悪いんだけどさ、水持ってきてくんない? キンキンに冷えたやつ」
「は、はいッ」
ソファにどんと腰を下ろし、長い足を組んだ女の注文に、花京院はまるで条件反射のように姿勢を正し、大慌てでキッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、取り出したミネラルウォーターを伏せてあったグラスに注ぐ。それを素早くリビングへ運ぶと、ソファの足元に跪いて彼女に差し出した。
「お、お待たせいたしました」
「ん、ありがと」
女はよほど喉が渇いていたのか、グラスを一気に空にする。ぷは、とまるでビールでも飲みほしたような声をあげ、それからすぐに、こめかみを押さえてきつく目を閉じた。
「いでぇーッ! キンキンきたぁーッ!!」
彼女は絶叫しながら組んでいた足を男らしく開き、前屈みになって額を拳でガンガンと叩いている。シャツのサイズが大きすぎるため、大事な部分が今にも全てポロリしそうで、花京院は悲鳴を噛み殺しながら顔を背けた。
ハッキリ言って女性は母親以外、耐性がない。
メイド喫茶でもてなしてくれる女性は、花京院にとってテレビ画面越しに見る虚像と大差ないのだ。完璧にプロデュースされた、綺麗で可愛いお人形さんを眺めている感覚、だろうか。
けれど目の前にいるのは半裸の女性で、その生々しさは童貞にとって、ただの怪物でしかなかった。
怪物は痛みが治まると、すぐに花京院をロックオンしてきた。再び足を組み、ついでに両腕も組んで、ジロジロと上から下まで観察してくる。その威圧的ともとれる態度が、ふと誰かと重なったような気がしたが、蛇に睨まれた童貞……いや、カエル状態の花京院は嫌な汗が噴き出すばかりで、頭が真っ白になっていた。
「ねえあんた、ひょっとしてあいつの友達?」
あいつ、というのは、やはり承太郎のことだろうか。花京院は視線だけ外したまま、彼女に向かってどうにか頷いて見せる。
「ふぅん、なんか意外。パシらされてるとかじゃなく?」
「ち、違います」
「ま、別にどーでもいーけど。それより、あたし今夜は帰るわ」
「え、今夜は……って……?」
微かに首を傾げた花京院の傍を、立ちあがった女が横切っていく。背の高い女だと思った。花京院と、それほど大きな差は感じられない。
(――あれ?)
そのときふと。寝室へ向かう背中を見つめながら、鼻先を掠めた甘い残り香に、花京院は眉を顰めた。
(この、匂い)
週末、この部屋でDVDを見た夜のことを思いだす。
あのとき、キスをする寸前の承太郎からも、確かにこれと同じ匂いがしていた。
まるで女の子が使うようなシャンプーの香り。当たり前のように寝室へ消えて行く女は、裸に承太郎のシャツを羽織っていて、同じ匂いを纏わりつかせながら、今夜『は』帰ると、そう言った――。
「あ、そうだ」
血の気が引いて行くのを感じながら立ちすくむ花京院に、寝室のドアから顔だけを覗かせた女が言った。
「次の休みはパパも戻ってくるし、ママがいい加減、顔見せろってさ。花束くらいは用意しとけって、あのバカに言っておいてくれる?」
ドアの閉じる音が、いやに冷たく花京院の胸に突き刺さった。
どのくらいそうしていただろうか。
花京院がぼんやりと部屋の中央に座り込んでいると、遠くで玄関の扉が開く音がした。
「花京院? いたのか」
リビングに入ってきた承太郎が、灯りのスイッチを入れた。
ぼんやりと座り込んでいる花京院を見て、彼は少し驚いた様子だった。
「……うん、いた」
「来るのは歓迎だが、電気ぐらいつけて待っときな」
「承太郎」
花京院はピクリとも動かず、床の一点を見つめたまま、承太郎の名を呼んだ。承太郎はソファに鞄を置きながら、小さく「ん」と返事をする。
けれど先に続けるべき言葉が出てこなかった。口を開きかけて、すぐに下唇を噛み締める。
様子のおかしい花京院に承太郎が首を傾げ、傍までやってくるとしゃがみ込んだ。顔を覗き込まれて、ゆるゆると視線を上げれば、緑がかったブルーの瞳と視線が合わさる。
聞きたいことは、沢山あった。だけど怖かった。この短時間で、幾つもの動かぬ証拠を見せつけられたとしても。
――承太郎が、浮気をしているなんて。
(嫌だ)
そんなのは嫌だ。信じたくないし、信じない。例え自分ですらまだ着たことがない、彼シャツを羽織った女が寝室から出て来ようが、同じシャンプーの香りをさせていようが、何かの間違いに決まっている。理由を聞けば、きっと「なんだ、そうだったのか」と、納得できる答えが返ってくるはずだ。
なのに、どうしてかそれを確かめるのが怖くて仕方ない。だから花京院は、考えるのをやめた。
「……なしだ」
「あ?」
「ぼくは何も見なかった。だから、さっきのはなしだ」
「……なんの話だ?」
何を言っているんだこいつは、という顔で、承太郎が首を傾げている。花京院は勢いよく立ちあがり、ズァッと例のポーズを決めると言った。
「と、いうわけで、前回のセーブポイントまで、記憶をリセットさせていただこうッ!!」
だいたいこの部屋で、冷蔵庫を開けようとしていたあたりだろうか。花京院は気分をそのポイントまで、強制的に巻き戻した。完全なる現実逃避である。
(そう、あんなバッドエンドまっしぐらなイベントはなかった。だから、計画に変更もないッ!)
花京院はソファの足元に置き去りにしていたトートバッグをむんずと掴むと、ぽかんとしている承太郎をメラメラと燃えた瞳で見据える。
「ちょっと準備があるので、洗面所をお借りします」
「お、おう?」
「では失礼」
トートバッグを脇に抱え、右手で挙手の敬礼をしつつ、花京院はリビングを出ると洗面所へ向かった。中に入り込み、バァンと凄い音で扉を閉めること数秒。再びバァンと扉を開けて姿を現した花京院は、魔法少女や某男性アイドル事務所もビックリな早着替えで、メイド服にフォームチェンジしていた。
「か、花京院、その姿は……ッ!」
胸元の大きなリボン。黒いロングワンピースに黒タイツ、そして純白のエプロンとヘッドドレス。あの日承太郎が一目惚れをしたという、ごっつい――いや、可憐なメイドがそこにいた。
しゃがみ込んだままだった承太郎が、勢いよくすっくと立ちあがり、心なしか赤い頬をしてこちらを指さす。
「典香……ッ、典香じゃあねえかーッ!!」
「その通り。承太郎、今宵ぼくは君だけのメイドさんだ!! 存分に堪能していただこうッ!!」
「うおぉぉッ!!」
ガッツポーズをしている承太郎。少し複雑だが、ここまで掴みがバッチリだと、逆に気分爽快である。それに、店では基本ネタ枠扱いだったため、男性から喜ばれる、というのはやっぱり悪い気がしない。ましてやそれが好きな相手ともなれば、尚更だった。
(イケる……ぼくは今、確かな手応えを感じているッ!)
「承太郎ッ!」
「花京院ッ!」
互いに名前を呼んで、大きく両手を広げる。フローリングの床を蹴り、思い切りその胸に飛び込んだ。気分はさながら、夕暮れ時の白い砂浜だ。心なしか、波の打ち寄せる音すら聞こえるような気がしてくる。
広い背中に腕を回せば、逞しい両腕が花京院を抱きすくめた。ふわりと、あのシャンプーの香りがしたような気がしたけれど、花京院は承太郎の肩に鼻先を埋め、懸命に彼そのものの匂いを探して吸いこんだ。
(承太郎……好きだ……)
内側から思いが溢れて、なんだか少し、泣きたくなった。
(こんなに好きになるなんて)
自分は男で、相手も男で、ずっと可愛いアイドルを追いかけていたはずだし、いつかはこんな自分でも綺麗な奥さんをもらうのだと、当たり前のように思っていたのに。
承太郎の大きな手が、花京院のひと房だけ長い前髪を梳くように、優しく触れた。痛いくらい胸が締め付けられるのを感じながら、肩に埋めていた顔をあげる。
花京院は知らず知らずのうちに、すみれ色の瞳を潤ませていた。ぼやけた視界に、承太郎の瞳がキラキラと輝いて映る。綺麗だ。本当に、綺麗な男だ。だけど――。
この瞳が、柔らかそうな唇が、力強い腕が、他の誰かを抱いているかもしれない。忘れたふりでここまで突っ走ってはみたけれど、人の記憶や心は、ゲームをリセットするみたいに簡単にはできていないことを知っている。それでも。
「承太郎……キス」
承太郎が、息を飲む。
「キスが、したい、です」
こんな風に自分から誘うのは、初めてだった。だけど今は、この男がどこまで応えてくれるかが、何よりも重要な気がしている。
キスをして、その先へ進んで、彼がこの身体を愛してくれたなら。膨らみ続ける不安や疑念が、消えてなくなるような気がしていた。
ごくりと音を立てて、承太郎がぎこちなく喉を鳴らしたのがわかる。
前髪に触れていた指先が、熱を持った頬に滑り落ちてきた。親指が顎に添えられると、花京院は静かに目を閉じる。
承太郎の唇が、そっと優しい口付けを落とした。
心が震えて、じんと痺れるのを感じる。嬉しい。だけど、今の花京院には足りなかった。触れただけですぐに離れてしまった唇に、やっぱり不安はこびりついたまま消えることはなかった。だから恥も外聞も捨てて、言った。
「キスよりもっと先のことも、してください」
承太郎がまた息を飲んだ。さっきより大きく、肩すら震わせて。花京院は頬に触れていたその手を掴んで、自分の胸元へと導いた。大きなリボン越しに掌を押し付けさせて、高鳴る鼓動が届くようにと。
「承太郎、ぼくは君が好きだ。君になら、何をされてもいい」
もう一生童貞だっていい。魔法使いにだってなってやる。
だからどうか、信じさせてほしい。
その想いを込めて、花京院は爪先を立てて背伸びをする。今度は自分から、承太郎にキスがしたかった。けれど。
「花京院ッ……!」
触れる寸前で、両肩を強く掴まれ、引き離されていた。
「じょうたろう?」
「やめろ、花京院」
開いてしまった距離と、真っ直ぐに向き合っているはずなのに、逸らされている視線。花京院は身体が足元からガラガラと崩れ去っていくような感覚を味わった。
「承太郎……ぼくとは、したくありませんか……?」
「…………」
「君が好きな典香になっても、それでも、やっぱり本当の女の人じゃなくちゃあ、ダメですか……?」
「違う。そうじゃあねえ」
承太郎はどこか追い詰められたような顔をしていた。苛立っているようにも見えて、ああ、失敗だったのだと、そう感じる。
承太郎は何かを逃がすように、大きく息を吐きだした。そして、逸らしていた視線を、ようやく真っ直ぐに向けてくる。
「おれはな、花京院」
「……はい」
「そういうことは、結婚してからって決めてるんだぜ」
「……はい?」
結婚? 結婚というのは、あの結婚のことか?
「だから、ここでする気はねえ」
きっぱりと告げられた拒絶の言葉を聞きながら、花京院はさっきの女が残した言葉を思いだしていた。
『次の休みはパパも戻ってくるし、ママがいい加減、顔見せろってさ。花束くらいは用意しとけって、あのバカに言っておいてくれる?』
もう現実逃避はできそうもなかった。
承太郎はあの女性と、ここで結婚を前提とした半同棲暮らしを送っている。近いうちに花束を持って、彼女の実家へ挨拶に行く予定すらあるということだ。
「だ、だからよ花京院。積極的なてめーも悪かあねえが、もうしばらくは――おい、聞いてんのか?」
「……か……やろう」
「なんだ?」
「承太郎の、大バカ野郎ッ!!」
「ぅおおッ!?」
気がつくと、花京院は承太郎の腹部に正拳突きをかましていた。ドォンと音がして、その巨体が背中から壁に打ち付けられる。(ちょっと壁にめり込んだ)
「君はやっぱり最低の不良だッ! なにが結婚してからだ!! 笑わせるんじゃあない! さんざん女性を取っかえ引っかえしていたくせに、何を今更ッ!!」
「お、おいてめー、そりゃあ一体どういう……カハッ」
少年漫画の戦闘シーン吐血をしながら、承太郎が震える手を伸ばす。が、怒りに支配された花京院は、彼の声に耳を傾けるだけの余裕がなかった。
「こんな最低野郎に騙されていたぼくがバカだった! 君なんか、彼シャツ女子と末永く爆発していればいいッ!!」
「ま、待て花京院ッ!」
走り去ろうとした背中に、非痛な声がかけられる。背を向けたまま足を止めた花京院に、承太郎が言った。
「帰る、のか」
「……ああ、止めないでくれ」
「そんな可愛い格好じゃあ、変態モブに襲われちまう、ぜ」
「ハッ! そうだ、このまま飛び出して行ったら、補導されて職質されるのはぼくの方じゃあないかッ!!」
花京院は慌てて洗面所へ駆け込むと、一瞬で早着替えをして再びリビングへ戻った。ついでに鞄を忘れるところだったのを思いだし、ソファの足元から手に取ると、先ほどと同じ立ち位置に戻る。気を取り直し、こほんと咳払いをすると、息を吸いこんだ。
――テイク2――
「こんな最低野郎に騙されていたぼくがバカだった! 君なんか、彼シャツ女子と末永く爆はちゅ……ッ、く、くそ、噛んだッ!!」
「か、花京院ッ!!」
「ええいもういいッ! さよならッ!!」
今度こそ立ち止まることなく、花京院は承太郎の部屋から飛び出した。
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